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Web誌友会 板/2
693
:
復興G
:2013/04/20(土) 07:22:12 ID:AB6RqYXc
>>690
:あさひ様。
ご投稿ありがとうございます。
>>656
に
>>>※ この本部会館は「落成式典」ではなく、生長の家の大神に対して、この会館を捧げるという「捧堂式典」として挙行されている。神様に捧げたものを勝手に壊すのはいかがなものか。<と書かれていますが、私もそう思います。 <<
私も、そう思っております。
当時の谷口雅春先生の御文章に
≪光明の塔部の最上層の室は、「栄光の間」と名付けられ、その下の塔部の室は「祈りの間」である。「栄光の間」は、維摩の居室が「空っぽ」であったと同じく「空」であって何の置き物もない。「空」にして無礙光であるのが神であるからである。栄光の間にて拍手して礼拝すれば、四壁にその拍手の響がこもって天地に感応するような感じがするのである。≫
とあること。また
≪建物はただの物質であるけれども、それは百萬信徒の「まごころ」の結集である。「まごころ」と云うものは肉眼に見えないから、肉眼で見ると、ただの実業のビルディングでもこう云う聖堂でもただの「形」である。けれども「まごころ」が結集してこれだけの建物が建つと云うことは「容易ならぬこと」である。≫
とあることに、深い感銘を受けました。
「まごころ」は、「神の心」であると思います。
聖経『続真理の吟唱』の中の「われら“誠”を生きるための祈り」には、次のようにあります。
○
われら“誠”を生きるための祈り (聖経『続真理の吟唱』161頁より)
“誠”とは「成る言(ことば)」と書くのである。自己に宿る神の至上命令たる“言(ことば)」”を生きることを“誠を尽くす”というのである。その“言(ことば)」”とは、『ヨハネ伝』福音書には「はじめに言(ことば)」あり、言は神とともにあり、コトバは神なりき。よろずのもの是に由りて成り、成りたるものにひとつとして是に由らで成りたるはなし。これに生命あり」と示されていて、更につづいて「この生命は人の光なりき。光は暗黒(くらき)に照る。而して暗黒は之を悟らざりき」と示されているのである。
ここに「暗黒(くらき)」とあるのは肉体を指していうのである。神の生命が肉体に宿って、肉体に生命を与え給い、見る力、聴く力、知る力、味わう力、創造する力等を与え給うて、肉体を生かして居たまうのである。それなのに、肉体はその内部にある聖なる生命の光に気がつかずして、肉体それみずからの力によって生きているかの如く錯覚していて、内なる光を見ることができないのである。それゆえに“誠”が生活にあらわれないのである。聖書はこれを「暗黒(くらき)」と名づけているのである。しかし肉体が生きているのは、内に輝いている神の生命の光に照らされ導かれ生理作用を営んでいるのである。そしてその光はイエス・キリストだけに宿っているのではない。だから「もろもろの人を照らす真の光ありて、世にきたれり」と聖書は録しているのである。
「世」とは「世界」のことであるが、「肉体」も一つの世界であるのである。ところが暗黒なる此の物質の世界は、もろもろの人を照らす真の光ありて「世」に来り、その光は「世」に在り、「世」はその光に由りて成りたるに、「世」はこれを知らなかった。それゆえに聖書はこれを歎いて「かれは己の国にきたりしに、己の民は之を受けざり」と書いているのである。
けれどもこの光を素直に受けて、自分を生かしているのは物質ではない、肉体ではない、自分を生かしている光は神の生命であると悟った者は――という意味で「されど之を受けし者、即ちその名を信ぜし者には“神の子”となる権を与え給えり」と『ヨハネ伝』は書いているのである。「名」というのは「はじめに言あり」のコトバであって、万物及び人間生命の由って来る本質又は実相である。自分の生命の本質は“神のいのち”である。其の実相を知ったとき、人は“神の子”たる権を与えられているのである。
<つづく>
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