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Web誌友会 板/2
663
:
復興G
:2013/04/19(金) 11:56:29 ID:AB6RqYXc
<つづき>
神示講義『神ひとに語り給ふ』より
単に土下座したというくらいのものではないのであって、地面に平伏(ひれふ)してしまって、もう再び起き上る事は出来ないという様な状態になった。そのとき“吾はアルファなりオメガなり、最先なり最後なり、生と死との鍵をもてり”とこう言われた。この神様が、生長の家の神様であって「七つの燈台に燈を点ずる者」でありたまうのであります。キリスト教的に言えば「久遠のキリスト」であります。
肉体のキリストは三十三歳で死んだけれども、「本当のキリスト」は、久遠不滅であらせられるのです。『生命の實相』の中には真理と書いて、「キリスト」とフリ仮名をつけてある箇処が所々にあるのであります。「キリスト」というと、三十三歳でハリツケになったユダヤ人の男の事だと、こう思っている人もありますけれども、あれはキリストの応現身であって、肉体的に或る時代に適するように応じて現れた姿であって、「本当のキリスト」は「真理」そのものであり、始めなく終りなく宇宙に充ちている所の真理そのものである訳なのです。その真理そのものは久遠不滅であるから、初めであり終りであり、永遠に不滅である、というので白髪の老翁の長寿の姿をもって人格化して出て来られている――こういう事になっている訳であります。
内にやどるキリスト
さて、新たに生れる問題でありますが、キリストの弟子のパウロという人が言っておりますが、「も早われ生くるにあらず、キリスト我れにあって生くるなり」この自覚が「新たに生れる」生れ更りであります。肉体の自覚からキリストの自覚に新たに生れるのです。自分という肉体的な存在が生きているのではなくて、「キリストわれにあって生くるなり」という所の自覚を得ることが、新たに生れることであります。
「谷口先生はキリストの再来である」なんておっしゃる人もありますけれども、キリストは真理であり、普遍的な存在でありますから、私だけがキリストの再来じゃない、皆さんすべてにキリスト――即ち真理が宿っているから、パウロと同じように「キリストわれにあって生くるなり」という自覚を得るならば皆さんは「われキリスト」の自覚を得られたのであって、キリストの再来であるわけなんです。
諸君、「汝自らを知れ」というソクラテスの言葉を、深い意味に於て如実に知ってですね、「自分というものは神の生命なんだ。最早われ生くるに非ず、キリスト我にあって生くるなり」と自覚するんですね。これを忘れるから不可(いか)んのですよ。これが根本問題であって、戦争が起るのも、人類の一人一人がキリストだという事を忘れているからですよ。自分が「愛」そのものであるところのキリストだという事を忘れているところに、色々の争いが起り、奪い合いが起り、色々面白からざる事が起ってくるのであります。自分がキリストであるという事を忘れて、自分は「煩悩の猿(ましら)」であると、ダーウィンの進化論などから、人間は獣類の子孫だなどと思って、人間が神の子であり、キリストであるという事を忘れている――其処に一切の混乱の源があるんですよ。
仏教では「キリスト」と言わないで「仏性」と言うんです。つまり自分に宿っている処の仏性――仏なる本性がキリスト教では「内在のキリスト」であります。日本的に言えば「ミコト」なるものであります。何宗教にも偏らない用語を使えば「真理」と言うべきであります。神道でもキリスト教でも仏教でも同じ事です。生長の家は万教帰一であります。
だから此の講習会に集って居られる方々には、いろいろの宗教の方々がいられる。仏教各宗の人も居られるし、キリスト教の各派の人も居られる。或いは教派神道の方々も居られる。こうして色々の宗教の人が生長の家に来て教えに触れられる。すると、“自分の信じておった宗教の神髄は本当はこういう意味であったのであるか”という事が判って其の宗教が本当に有りがたくなるのが生長の家であります。それで、自分が燈台だと言わないで「七つの燈台に火を点ずる者」というのであります。
<つづく>
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