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Web誌友会 板/2

666復興G:2013/04/19(金) 14:00:42 ID:AB6RqYXc

さて、『生命の實相』第3巻巻頭に掲げられた最初の二つの神示について、谷口雅春先生の「神示講義」にはどのように書かれているか、今夜からのweb誌友会のために資料として、謹写掲示させて頂きます。

まず、最初の「声字即実相の神示」です。
これは、『到彼岸の神示』125頁〜から。

   ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

〔ご講義〕

   「吾が第一の神殿は既に成れり。名付けて『生命の實相』と云う。完成(ななつ)の年になりて吾が第一の神殿が完成するのも生命の顕現には周期的波動があるからである。七つが事物の顕現の周期律になっている。吾れに神殿は不要であると嘗て示したことがあろう。吾れは道(みち)であるから、吾が道(ことば)を語るところに吾が神殿は築かれる。吾が道(ことば)を載せた『生命の實相』こそ吾が神殿である。『生命の實相』は吾が本体であり、無形の『生命の実相』を形にあらわしたのが『生命の實相』の本である。『言葉』を載せた書物を『本』と云うのも、『言葉』こそ事物の本(もと)であり、本質であり、本体であり、本物であるからである。『言葉の宇宙』が先ず出来て、『形の宇宙』がその映像(かげ)としてあらわれるのである。……」

 新約聖書の『ヨハネ伝』第一章には「太初(はじめ)に言(ことば)あり、言は神と偕(とも)にあり、言(ことば)は神なりき」とありますし、旧約聖書の『創世記』には「元始(はじめ)に神天地を創造(つくり)たまえり。地は定形(かたち)なく曠空(むなし)くして黒暗(やみ)淵(わだ)の面(おもて)にあり。神の霊、水の面(おもて)を覆いたりき。神光あれと言いたまいければ光ありき」とあります。万物の最初の創造――光の創造は「言いたまいければ」即ち“言葉”によって行われているのであります。弘法大師も『声字即実相』と仰せられており、「声」即ちコトバ及び「字」即ちコトバが形象化したものは、事物の「実相」即ち「本質」であると説いていられるのであります。

 それでは「言(ことば)」とは何であるかと言いますと、「太初(はじめ)に言(ことば)あり」でありまして、事物の生れる「太初(はじめ)」に言(ことば)がある。「太初」というのは根本原因のことであります。「第一原因」と言っても宜しい。第一にあるものがコトバであって、それが創造力をもっていて、第二、第三と、次々に現象が生れて来るのであります。そのことが「『言葉』を載せた書物を『本(ほん)』と言うのも、『言葉』こそ事物の本(もと)であり、本質であり、本体であり、本物であるからである」と爰(ここ)には示されているのであります。

 生長の家はコトバの宗教でありまして、コトバの力によって人類の心を浄め、地上に起る事件を浄化し、この世から一切の不幸を除去し地上に天国浄土を建設しようという運動であります。

 宇宙創造の本体にまします神はコトバであり、『ヨハネ伝』に「万(よろず)の物これ(註・コトバ)に由りて成り、成りたる物に一つとして之(これ)によらで成りたるはなし」とありますように、万物は悉くコトバの創化力によって出現したのであります。

 だから事物の「成就」することを「成る」(鳴る)と言います。即ち「成る」と「鳴る」とは語源が一つでありまして、事物の第一原因はコトバであり、コトバは鳴り響くから「鳴る」即ち「成る」と言うのであります。すべての「事物」を「事」と言うのも、「事」の本質は「言」であり「事」と「言」とは同一語源であるからであります。

 私たちは事物を確認するときに、「これは何々と言うものである」と申しますが、「言うもの」とは「言」にほかならないのであります。「これは陶器と言うものである」と言えば、陶器は「陶器と言うコトバ」であると、その本質がコトバであることを顕わしているのであります。

 これを文語体で表現しますと、「これは陶器なり」と申しますが、「なり」(也)と言うのは「鳴り」であります。「これは陶器也(なり)」とは「これはコトバが鳴りひびいて陶器として顕れているのだ」という意味であります。そのようにコトバは事物の本質でありますから、コトバを載せた書物を「本」と言うのであり、コトバが世界を左右することにもなるのであります。
<つづく>


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