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Web誌友会 板/2
688
:
復興G
:2013/04/19(金) 22:58:56 ID:AB6RqYXc
<榎本恵吾先生の『研修のヒント』 つづき>
この話には、実にさまざまなものを教えてくれるものがあります。実に素直なこの人の心境が伝わってくるのを憶(おぼ)えるのであります。
ひとつの体験というものが生まれますと、それを聴く人によってさまざまなものが受けとられるのでありますが、この人がまむしにかまれているのを見たとたん、「自分はここまで練成を受けて来たのに、自分の心の中にはまだ他人(ひと)にかみつきたい心があるから、こんなことになったんだ。自分は駄目だ」という反省の方に心を持っていかず、「これでよくなる。ますますよくなる」と前へ前へとつき進んで行って、決して反省という後ろ向きになっていないところが実にすばらしいと思われるのであります。
心のあり方に捉われて反省していたのでは、助からなかったのではないかと思われるのであります。ここに、宗教のとりあつかう生命というものが、反省をとび超えて喜ばしいものを実現するものだということを、教えてくれているように思われるのであります。暗さを消すには電燈をつければよい、ということを生きておられる話だと思われます。
「現象は無い」ということ。生長の家のみ教えの根本の真理は「現象なし」ということにあります。現象をみれば、たしかに、この方は人にかみつきたい心があって、その心の現われとしてマムシにかまれるということが出て来ている、ということは間違いのないことなのであります。この心の法則というものは、絶対にくるわせることは出来ないのであります。
イエス・キリストも「汝もし右の頬をうたれなば、左の頬をもめぐらしてこれに打たせよ」といっているのでありますが、大体イエス・キリストともあろうものが、なぜ人に右の頬をなぐられることになるのかということが問題であります。これはやはりイエス・キリストが人をたたきたい心があるからであります。その結果なぐられることになったということは間違いのないことであります。
この心の法則というものは絶対に間違いのないことなのでありますが、ただしこれは現象の法則でありまして、現象は無いのでありますから、この法則そのものが「無い」法則なのであります。心の影が現象であるというのですが、心そのものも現象であって、實相、實在ではないのであります。だからこそ、どんなに現象が現われていても實相は傷つくことなく輝きっぱなしであります。
そして「現象は雲のようなもので、形に現われると心の業も消える」という法則によりまして、たちまち消えて、しみひとつついていない青空ばかりが残るのでありますから、形に現われましたことは放っておいて、實相の方を喜んで行けばよいのであります。
實相を喜ぶ心は實相の心であります。その心がここに生きており、その心が神でありまして、「これでよくなる。ますますよくなる」という宣言によって、ますます喜ばしいものをその人の周囲に実現して行くのであります。それで「これでよくなる。ますますよくなる」ということにより、このようなすばらしいことが現実化したのであります。
私たちにとっては、ただただ光りの前進があるばかりであります。
西洋の物語で、ある山の上にすばらしいものがあって、それをとりに行くのに山頂に近づくと、後ろから美しい声が聴こえてくるのです。そしてその声の方をみようとふりかえると、たちまちその人は石にされてしまう――という物語は、お読みになったことがあると思いますが、この後ろをふりむくというのが、われわれにとりましては過去をふり向いて反省するということにあたるのであります。すると現象の悪に心がひっかかりまして、その悪に自分でつかまって自縄自縛されてしまうのであります。つまり石のように動けなくなってしまうのであります。
ところが、勇敢にも、どんな美しい声が聴こえて来ても後ろをふり向かず、山頂に登った人があったのです。そして、その宝ものを手にしたとき、今まで石にされていた人々が全部生きかえったという物語であります。
このように、まっしぐらに光の前進のみをつづけていますと、過去のいまわしいと思われていたことも、「あれがあったればこそ現在がある」とか「あれは自分がつまらないからああなっていたと思っていたが、そうではなく、自分がすばらしかったからこそであったのか」というようなことになって、そのとき、周囲にいられた人々も自分を生かして下さる観世音菩薩様だった、神さまだったと、生き生きと輝く姿で心に甦ってくるのであります。もうこの時、私たちはその人への感謝が出来ているのであります。感謝が出来ているということは、もうそこに神さまが現われてい給うということであります。そしてますます感謝の思いがひろがって行く、ということになるのであります。
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