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Web誌友会 板/2

669復興G:2013/04/19(金) 14:03:08 ID:AB6RqYXc

<『到彼岸の神示』より 「声字即実相の神示」ご講義のつづき>

 実に「言葉の力」は恐ろしいものであります。こうして、「迷い」と「迷い」とは相搏って自壊いたしましたが、「生命の実相をしつかり握って神に委せているもの」はその恐るべき自壊作用の中に於ても、何等傷つくことなく、原子爆弾の放射を近距離に於て受けても、少しも傷つくことがなかったのであります。

 その一例を申しますれば、終戦後、宮崎県北部の生長の家連合会長や青年会長をしておられた甲斐信佳(かい・のぶよし)君であります。
 この人は満鉄につとめておられましたが、結核にかかったため、内地へ還って養生するよう社命を受けて日本へ帰って来たのでありました。
 日本へ帰ると生長の家に触れ、『生命の實相』を読んで、「人間神の子、本来無病の真理」を知り、結核が癒やされて健康になりましたので、恰も大東亜戦争の末期に臨んで、召集令状を受けたのであります。

 甲斐君が考えるには、
 「僕は生長の家に触れて病気が治ったのであるから、応召して行く前に、一度でよいから、谷口先生の直接の講習会を実地に受けて、自信力をつけて戦場へ行きたい。」
 そこで何処に講習会があるかと調べてみると当時、久留米に私の講習会があったので、宮崎県から態々(わざわざ)久留米へ来て講習をお受けになったのであります。その時、私は例の通り、死を讃美するような歌や、「水漬く屍」になるような歌を唱ってはならない。言葉はカリソメに言った言葉でも実現するから――と言って講義していたのであります。
 すると甲斐信佳君が、戦場で腹巻にする布をもって来て「これに皇軍必勝、必勝生還と書いてくれ」と言って墨を摺ってもって来られたのであります。その通り書いてあげましたら、甲斐君は悦んで応召して行かれた。
 任地は先ず九州長崎であったのであります。甲斐君は長崎に原子爆弾を落されたときには高射砲隊に属していて、測高機によって敵機の高度を測って、高射砲の射手にそれを伝える役目をしていたのであります。
 昭和二十年八月九日は非常に暑い日だったので、隊員は上着もシャツも脱いで上半身は裸になっていました。甲斐君は裸の背を空に向けて前にかがみ込んで測高機の目盛を見詰めていました。彼の裸の背には何の遮蔽物もないのでした。そのとき可成り近い距離で原子爆弾が爆発した。
 裸の背には明かに放射能に触れて一時薄赤く陽にやけたようになっていましたが、甲斐君はその後、何らの肉体的故障を経験することなく、元気で今も光明思想普及に活躍していられるのであります。
 まことに、此の神示にありますように「生命の実相をしっかり握って神に委せているものは何も恐るる所はない」というのは事実でありまして、原子爆弾と雖も、甲斐君を傷つけることはできなかったのであります。


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