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Web誌友会 板/2

3209復興G:2013/10/20(日) 16:36:44 ID:AB6RqYXc

 さて、しばらくお休みしましたが、もう一度テキストを最初から読み返してみましょう。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

『生命の實相』 第5巻

     は し が き

 聖書にあらわれた奇跡の記述において、もっともいちじるしき部分は 『使徒行伝』 であると言わねばならない。しかもそれはキリスト自身の奇跡ではなく、キリストが 「われを信ずる者はわれより大なる業(わざ)を成さん」 と予告したごとく、イエスの弟子たちに起こったところの、常識では判断しがたいような、多くの驚歎すべき奇跡の連続が記載されているのである。しかも、それが二千年前の過去においてではなく、今現実にこの奇跡を諸君自身において起こしうるとしたならば、過去の奇跡を聖書において求むるよりも、まず現代において、現実にそれを手近に求めて、その奇跡の力をわがものとなすべきではないでしょうか。

 本書は民間のいろいろの治療法に言及し、いっさいの医療はもちろん、民間療法の門をくぐってなお癒えなかった人々が、ひとたび心をあらためて 「空手(くうしゅ)の生活」 にはいり忽然(こつねん)として長期間の難症より快癒した実例を本人の体験を通じて述べつつ、その快癒する心境の叙述により、その過程を自己の心的体験となし、自然に読む人の信念が高まり、「なるほど、ここだ!」 と、悟りの「コツ」とも言うべきものに悟入するように書かれているのである。

 この頭注版 『生命の實相』 全集の第一巻より第四巻に至るまでにおいて、あるいは哲学的、あるいは心理学的に、あるいは宗教的に述べ来(きた)った 「人間本来完全円満」 の真理が、この第五巻においては体験的な真理の体得となって果を結ぶように編纂されているのである。

特に第七章においては、キリスト教および仏教――特に曹洞宗、真言宗、浄土宗、日蓮宗、天理教、金光教等が、その説かれている神髄がいずれも 「同一真理」 であり、教義の外観にとらわれないで、その同じき 「一つの真理」 を把握するとき、万教はただ一つの真理に帰一すること、しかも、それがただの総合や、各宗派の寄せ集めて最大公約数にしたというようなものではなく、「生ける救済の真理」 の把握であることが、この真理を生活に実践して、奇跡的な生活改善の効果をあげえた人々の事実によって証明されているのである。

 治病の奇跡的な出来事は、その生活改善的効果のわずかに一部分にすぎないのである。わたしはすべての人類がこの宗派を超越して、すべての宗教に内在する唯一の共通的真理に触れられ、世界の万教が仲よく手をつなぐ時期の来るであろうことを待ちのぞむとともに、本書に掲げられたような無数の奇跡とも見えるごとき生活改善の実をあげられるよう希望するものである。

 天国はこの普遍の唯一真理をわがものとする人の掌中にあるのである。

    昭和三十七年八月二十日

            著 者 し る す

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

<つづく>

3210復興G:2013/10/20(日) 16:39:41 ID:AB6RqYXc

<つづき>

 以上の 「はしがき」 の後半の方に、「生ける救済の真理」 というお言葉が出てまいります。

 「生ける救済の真理」 とは、何でしょうか。

 そもそも、宗教の目的とは、人間の救済、「救い」 にあるということができると思います。では、その宗教的な 「救い」 とは、いったい何でしょうか。

 病気が治ることでしょうか。金が儲かることでしょうか。自己や災害から守られることでしょうか。

 それらも、一時的な救いにはなるでしょう。

 しかし、そんなことは一時的な、影としてのあぶくのような救済であって、やがてみんな死んで行くのだとすれば、根本的な救いにならないことは明白だと思います。

 宗教的な意味に於ける根本的な救いとは、

 ≪人間は環境の奴隷となっている、「死すべきもの」 である肉体人間の自覚から、環境の主人公である 「真の人間」 に生まれ変わって、自由自在を得ること。「神の子」 「至上者」 の自覚を得て、真生命が解放されること。≫

 と言えるのではないでしょうか。

 つまり、「神の国はわが内にあり」

 「人間は神より出でたる光なり」

 と知ること。

 「自分の内にすべてがある。私は太陽である。世を照らす光として生まれた者である」 と自覚することであると思います。

 今夜は、これからリアルの誌友会に出かけます。

 また明日以後に書かせて頂きましょう。

3211a hope:2013/10/21(月) 00:14:10 ID:Zlo2YeaM

復興Gさま みなさま こんばんは。

わたしは今、聖典「生命の實相」40巻読破に向けて、時間さえあれば「生命の實相」を拝読しています。
ちなみに、現在、第26巻の教育実践編を拝読中です。

>>3210で復興Gさまがおっしゃるている

<<  宗教的な意味に於ける根本的な救いとは、
≪人間は環境の奴隷となっている、「死すべきもの」 である肉体人間の自覚から、環境の主人公である 「真の人間」 に生まれ変わって、自由自在を得ること。「神の子」 「至上者」 の自覚を得て、真生命が解放されること。≫
 と言えるのではないでしょうか。つまり、「神の国はわが内にあり」「人間は神より出でたる光なり」と知ること。
「自分の内にすべてがある。私は太陽である。世を照らす光として生まれた者である」 と自覚することであると思います。>>

この内容は「生命の實相」全巻を通して、色々な角度から、様々な体験談を通して、言葉を変えながら何度も説かれている「生長の家」の中心真理なのだと思います。

そして、このすばらしい自覚(悟り)は、聖典「生命の實相」を繰り返し拝読するだけでおのずと得られると書かれているのです。

実際に、今のような教団組織も練成会も総裁の講習会もなかった昔は、「生命の實相」の真理の言葉の一部を読むだけで、
病気が治ったり、運命が好転するような奇蹟が頻繁に起きていて、それにより真理に目覚め救われる人が続出していたのですものね。

そんなことから考えると、今の「生長の家」で昔のような奇蹟が起きなくなって、人々が救われなくなっているのは、
余計なことを学びすぎたり、現象の運動にこだわりすぎているからなのではないのでしょうか・・・?

「生命の實相」こそまことの聖典で「生長の家」の神殿なのですから、本当に真理を悟り救われたかったら、
余計なことはしないで、聖典「生命の實相」だけ拝読していればいいのではないかと感じています。

3212ユタカ:2013/10/21(月) 09:11:33 ID:R1D4Jmeg
おはようございます。ユタカは今日は3週間ぶりに自分の時間が持て、>3209〜3211をゆっくり読むことができて幸せな気持ちになりました。

復興G様が一人ひとりが現象を超えて太陽のように輝く人生を創造、発展していけることの喜びを毎回ご解説下さり、a hopeさまが、講習会等の体制の整備がなされていない時代などは、直接谷口雅春先生のご文章から学んでいけていたとのことに勇気を頂きました。

『生長の家』の御教えは「完成されている」と思いますので、a hopeさまの仰る事よく理解できます、私達は、仕事、家庭、地域などを通して「生長の家」を生きるという事が大切なことなのではないかと、みなさんとお勉強をするうちに分かってきました。

ですから、今は大衆に溶け込むこともとても大切で、また七つの燈台の神示も非常に重要で人生の根本と思います。

で、今日は久しぶりにうなぎやさんで両親孝行してまいります。。。^^

先の素晴らしい投稿に圧倒されてユタカの投稿は気がひけてしまいますが・・・

P、118 L3
「聖典『生命の実相』を注文して聖典が到達すると同時に、不思議に病気が軽快した例は沢山あります。これは本人の潜在意識が本の内容を読んで真理を知ったというよりも、

聖典『生命の実相』を護持している霊界の諸神諸霊がある。

その霊界の諸神諸霊たちが、危険の瞬間、霊界から守護の手をくだして聖典の所持者をその危害から救ったのだと思われます。



以上の箇所に『生命の実相』の聖典が本当に『神殿』である事の一部をご紹介下さっています。
ますますWEB誌友会の素晴らしさがよく分かります。トキさま、復興Gさま、ご参加のみなさまにさらに感謝いたします。

3213復興G:2013/10/21(月) 11:14:34 ID:AB6RqYXc

a hope さま、ユタカさま、ご投稿ありがとうございます。

>>3211 :a hopeさま

>>実際に、今のような教団組織も練成会も総裁の講習会もなかった昔は、「生命の實相」の真理の言葉の一部を読むだけで、病気が治ったり、運命が好転するような奇蹟が頻繁に起きていて、それにより真理に目覚め救われる人が続出していたのですものね。

そんなことから考えると、今の「生長の家」で昔のような奇蹟が起きなくなって、人々が救われなくなっているのは、余計なことを学びすぎたり、現象の運動にこだわりすぎているからなのではないのでしょうか・・・? <<

――その通りだと思います。それは

>>3212 :ユタカさま

>>「聖典『生命の実相』を注文して聖典が到達すると同時に、不思議に病気が軽快した例は沢山あります。これは本人の潜在意識が本の内容を読んで真理を知ったというよりも、聖典『生命の実相』を護持している霊界の諸神諸霊がある。その霊界の諸神諸霊たちが、危険の瞬間、霊界から守護の手をくだして聖典の所持者をその危害から救ったのだと思われます。(p.118)<<

によっても明らかで、人々が救われるのは、必ずしも現象界の教団によってではない。「真理」 により、また霊界の諸神諸霊の守護の手によって救われるのですね。

それで病気が治ったり、運命が好転するような奇蹟が頻繁に起きて、そこから 「神の子・人間」 の根本真理に目覚めて救われる人も続出したのですね。


昨夜 私はリアルの誌友会に出講で、会場リーダーからの注文が、「日時計主義の生活」 というテーマで話してほしいということでした。幸いにして、使用するテキストは一任ということでしたから、私はためらわず 『生命の實相』 第7巻の 「生活篇」 を使いました。

第7巻 「生活篇」 は、読むにつれ、命が燃えてきます。やる気に火がつきます。「生きていてよかった!」 と、ますます勇気と希望がわいてきます。

谷口雅宣総裁の 『日時計主義とは何か?』 という本もあります。しかし、これを読み始めると、屁理屈ばかりなのにうんざりし、やる気を失ってしまうことの方が多いです。これをテキストに使うと、誰も乗ってきません。なぜでしょうね。


これから出かける用がありますので、また夕方以後に投稿をしたいと思います。ありがとうございます。

3214トキ:2013/10/21(月) 19:07:40 ID:3mgcm06U
 偶然ですが、ある教区の信徒さんから、近所の人が神経系統の病気で悩んでいるので、
何とか救ってあげたいが、どうしたらいいでしょうか? という相談がありました。
状況が深刻なので、早く返事が欲しい、また、いい本があったら送って欲しい、という
内容でした。

 その教区にも、教化部があるのですが、どうも環境保護のお話ばかりで、個人救済は
してくれないみたいです。思案していると、生長の家宇治別格本山の体験談集『宝蔵」
が目についたので、バックナンバーをまとめて宅急便で送りました。すると、数日後、
体験談集と『生命の実相」を何冊か一緒に進呈すると、その近所の人の病気が快癒した
というので、本日、その信徒さんが地元の名産を一山送って下さりました。

 生命の実相は、今も救済に大いなる力を発揮すると痛感した次第でありました。

3216復興G:2013/10/21(月) 20:33:20 ID:AB6RqYXc

>>3213のつづきです。

 私は、考えます。

 宗教の目的は、人間の救済、「救い」 にある。

 では、人間の救済、「救い」 とは何か。

 それは、「幸福」 を与えることである。

 では、「幸福」 とは何か。

 幸福論と言えば、西洋の古典ではカール・ヒルティの 『幸福論』、アランの 『幸福論』 などが有名で、私も学生時代(約60年前)に読んで今も持っています。

 谷口雅春先生も 『幸福の哲学』 『幸福の原理』 『幸福生活論』 といった本も書かれていますし、『生命の實相』 第7巻生活篇の冒頭にも

<<われわれは人間として生まれて来た以上、幸福に暮したい。これは人間として、本能的にもっている欲望である。しかし人生はそんなに幸福な人ばかりで充たされていない。それはどうしたわけであろうか。その一つは彼らが「心の法則」を知らないこと、その二つは幸福とはなんぞやということを知らないからである。
……(中略)人間は金があっても必ずしも幸福にはなれないが、心をこの生き方にしたがわすとき、ひとりでに幸福になれるのだ。>>

 と書かれています。

 比較的最近に面白いと思ったのは、2005年2月28日付けの “TIME” 誌が “THE SCIENCE OF HAPPINESS” (幸福の科学<心理学>)というのを特集している記事です。それは雅宣先生の 『日時計主義とは何か?』 の101頁にちょっと紹介されており、私はその “TIME” 誌を買って持っていました。

 そこでは、世界の著名な心理学者たちがメキシコに集まって 「人間は何をもって幸福を感じるか」 についての調査結果などを発表し合った結果が17頁にわたってレポートされているのですが、集約すると、幸福の条件は金でもなければ健康でもない。持続的な幸福感は、明るい感謝の心や宗教心から得られる、という結論になっています。

 要するに、幸福は外的条件によって得られるのではなく、人の心にある、ということだと思います。

 幸福は、外にはない。内にある。感謝の心にある。

 このことに気が付かせ、大安心の心に導くのが宗教的救済であり、その救済をもたらすのが宗教の第一の根本的役割であろうと思うのです。


 さて、生長の家は今、その第一の根本的役割である宗教的救済を人々に与えているか。

 人間を、本来の 「神の子」 と見ず、自然環境を破壊する悪者の肉体的人間を見て、「人間至上主義はいけない」 「CO2排出を削減しなければ人間は救われない」 として環境問題にばかり力をそそぎ、宗教としての第一の根本的役割である 「人間救済」 をおろそかにしてきたのではないか。

 だから、信徒がどんどん離れて行って、教勢がどんどん落ちているのではないか――。

3217復興G:2013/10/21(月) 20:36:05 ID:AB6RqYXc

>>3214 :トキ様

ありがとうございます。本当に、そうですね。

3218復興G:2013/10/21(月) 20:58:17 ID:AB6RqYXc

 ところで皆さま、このweb誌友会のテキストですが、今月は 『生命の實相』 の第5巻前半ということでやってきました。しかし、a hope様は全40巻読破に向けて、時間さえあれば「生命の實相」を拝読し現在、第26巻の教育実践編を拝読中ということですし、ユタカさまが引用されたp.118も第4章で第5巻の後半に入っています。それで、もう 「前半」 という枠をはずし、今月は第5巻全部ということにして、今後毎月1巻ずつ勉強することにしたらどうかと思います。いかがでしょうか。

3219トキ:2013/10/21(月) 21:01:45 ID:3mgcm06U
>>3218

 私は賛成いたします。今後ともご指導のほど、お願いいたいます。

3220ユタカ:2013/10/21(月) 21:11:13 ID:R1D4Jmeg
 さて、生長の家は今、その第一の根本的役割である宗教的救済を人々に与えているか。

 人間を、本来の 「神の子」 と見ず、自然環境を破壊する悪者の肉体的人間を見て、「人間至上主義はいけない」 「CO2排出を削減しなければ人間は救われない」 として環境問題にばかり力をそそぎ、宗教としての第一の根本的役割である 「人間救済」 をおろそかにしてきたのではないか。

 だから、信徒がどんどん離れて行って、教勢がどんどん落ちているのではないか――。


全くそのとおりーーー!!!だと思います。

しかしだからこそ、真剣に勉強できるし、本当は100年後にこういうことが起きて収集がつかなくなると言うことが起こるかも知れないところをいち早く分裂沙汰が起きたのも何かの救いかも知れません。まだ、開祖先生をご存知の方が沢山いる時代だから素晴らしいです。 やる気の出ない駄本も使命を果たしているのではないでしょうか??

雅宣総裁が亡くなったら、さらに素晴らしい生長の家が出てくるような気がします。総裁先生の没後の話で申し訳ありませんが・・・

3221ユタカ:2013/10/21(月) 21:13:35 ID:R1D4Jmeg
復興Gさま

>>3219 賛成でーーーす。。。

いつも素晴らしいアイデアをありがとうございます!

3222トキ:2013/10/21(月) 21:18:24 ID:3mgcm06U
>>3216

 少し前にある教区の講習会に参加したところ、青年会時代の友人に久しぶりに会いました。講習会が終わってから、
近くに喫茶店に入って、少し話しをしました。

 彼女は、青年会時代、光明実践委員の資格をとり活躍していたのですが、結婚、出産、子育てと他府県への転居が
重なり、しばらく活動を休んでいたそうです。最近、子供が手がかからなくなったので、ご主人の許可を得て、活動
を再開、地方講師の資格も得て活動をしているそうです。(光明実践委員の資格は、ある一定の年齢で消滅します。)

 その彼女が、地方講師の受験前に注意されたのが、光明実践委員の受験の時と同じ内容の答案を書くと、今は不合格
になるから気をつけるように、との事でした。具体的に言えば、環境問題は外せない、教えの内容も谷口雅春先生の本
ではなくて、谷口雅宣先生の説き方で、理屈で説くようにと言われたそうです。講師補は、まだ、その程度で合格した
が、昇格試験は、総裁の本を舐めるように読まないと合格しないと言われているみたいです。

 『講師補の試験でも、昔の知識で書くと、記述式はもちろん、選択式の部分でも間違えるわよ。」

とも言っていました。ちょっと驚きましたし、寂しい気持ちになりました。

 おまけに、お互いの教区の様子を話すと、『信徒さんがどんどん減少している」という事では共通で、これも
思案してしまいました。

 どうも、話がずれてすみませんでした。

3223ユタカ:2013/10/21(月) 22:11:26 ID:R1D4Jmeg
信徒が減るのは高齢者が亡くなるからでは?

自分の支部に人が沢山来るように自分をみがきましょう。

総裁のせいではなく自分のカリスマが足りないと思ってさらに「神の子」を輝かせていきましょう、それしかない。。。気がする。。。

そういうと安東巌先生の言葉を思い出します。「雅宣先生は素晴らしい!講習会はすばらしいから人を沢山動員してください。動員できない人は自分に魅力がないのですから愛行をして下さい、そうすると講習会終了後に願いがかないます」と雅宣先生講習会を大絶賛していました、講習会推進の支部長宅訪問時のお話でしたね。

3224復興G:2013/10/21(月) 22:47:10 ID:AB6RqYXc

>>3220 :ユタカさま

>>しかしだからこそ、真剣に勉強できるし、本当は100年後にこういうことが起きて収集がつかなくなると言うことが起こるかも知れないところをいち早く分裂沙汰が起きたのも何かの救いかも知れません。まだ、開祖先生をご存知の方が沢山いる時代だから素晴らしいです。 やる気の出ない駄本も使命を果たしているのではないでしょうか??<<

>>3223

>>自分の支部に人が沢山来るように自分をみがきましょう。
総裁のせいではなく自分のカリスマが足りないと思ってさらに「神の子」を輝かせていきましょう、それしかない。。。気がする。。。<<

――えらい!

素晴らしい光明思想。一切者の自覚。

3225復興G:2013/10/21(月) 23:21:33 ID:AENtSm/U

 私は、昨夜の誌友会で、『生命の實相』 第7巻の

 (p.29) 「四、ひとの生命の実相を礼拝せよ」

 に関して、次のように話していました。

 実相礼拝の生活のヒントは――

 ◎ 「○○の実相」 (「夫の実相(または妻の実相)」) を拝むのではなく、

  「実相の○○」 (「実相の夫(または実相の妻)」 を拝む ことです。

 ――まず現象の夫(妻)を見てから、その奥にある実相を観るなんて考えるから、だめなんだ。

 まず先に神につくられたままの完全な夫(妻)を心に思い描き、それのみが実在で、現象に見える姿は夢まぼろし、絵空事だと否定するんです。

 なぜなら、「神こそ渾ての渾て、神は渾てにましまして絶対なるが故に、神の外にあるものなし。神は実在のすべてを蔽う。存在するものにして神によって造られざるものなし。」

 であり、

 「すべて真実の実在は、神と神より出でたる物のみなり。神は完全にして、神の作りたまいしすべての物も完全なり。」(聖経『甘露の法雨』)

 ――ですから。

 そしてまた、

 「総裁の実相を拝む」 なんて考えたら、だめ。

 「実相の総裁」 を思うのです。

 「実相の総裁」 というのは、神界にある生長の家本部にいます生長の家大神、住吉大神そのものでいらっしゃいます。

 その生長の家大神は、外に在(いま)すのではなくて、わが内にいます。

 その、わが内にいます生長の家大神なる総裁を、拝むのですね。

 ありがとうございます!

3226復興G:2013/10/21(月) 23:29:20 ID:AB6RqYXc

「悪」 という積極的存在が 「ある」 のではない。

悪と見えるものは、「善」 が顕れ出ようとする過程なんですね。そう見るのが光明思想であり、生長の家の御教えなんですね。

3227復興G:2013/10/21(月) 23:36:58 ID:AB6RqYXc

ありがとうございます!

3228ユタカ:2013/10/22(火) 04:28:19 ID:R1D4Jmeg
ああ、そうでした!!

ありがとうございます!!

素晴らしい! 今此処実相か! 「善」の現れる過程ですか!

よく分かります!全部! ありがとうございます!

3229ユタカ:2013/10/22(火) 04:37:35 ID:R1D4Jmeg
我が内にいる総裁が分かりません・・・

3230ユタカ:2013/10/22(火) 04:38:51 ID:R1D4Jmeg
すべて自分の内にある?

3231ユタカ:2013/10/22(火) 07:27:21 ID:R1D4Jmeg
神様と自分だけではダメなのですか?

総裁も我が内にある ということはどういうことでしょうか?

3232神の子さん:2013/10/22(火) 08:27:22 ID:Z0r.fvXk
>>3223
安東先生って、そんなつまらないことおっしゃったなんて信じられないです。

まさのぶさんが、素晴らしいのではなく、教えが素晴らしいんでしょ?
結局は、まさのぶさんに魅力がないから信徒も魅力がなくなるんですよ。

3233a hope:2013/10/22(火) 09:24:42 ID:Zlo2YeaM

ユタカさま、神の子さん、よこぎりまして申し訳ありません。

>>3218 復興Gさま

<<今月は第5巻全部ということにして、今後毎月1巻ずつ勉強することにしたらどうかと思います。いかがでしょうか。>>

賛成させていただきます。

「生命の實相」は全巻を通して、何度も同じ真理が、言葉や表現を変えて説かれていると思いますので、
できれば範囲は全40巻からということにしていただきたいくらいですが、それでは広範囲すぎますので、
毎月1巻ということに範囲を決めておいても、実際はそれほどこだわらなくてもいいのではないかと思いました。

たとえば、今月の範囲の第5巻第5章の『「ねばならぬ」を解放する宗教』では、小見出しに、
「生長の家とは何であるか」「宗教本来の使命」「各宗門は家に入る通路」「生長の家とは何か」・・・
とあるように、宗教や生長の家の使命に関した内容が論理的に述べられています。

そして、現在、わたしが拝読中の第26巻第4章『宗教教育をいかに施すか』の中の内容は、
谷口雅春先生が、校長先生や社会評論家などを交えて座談会形式で「宗教とはいったいどういうものか」を話し合われています。

わたしは今まで自分の読書に関してはこだわりがありまして、「生命の實相」のような続き物(?)は、
第1巻から順番に自分が納得できるまで読み込む形で読破していかないと気持ちが落ち着かなかったのです。

ですが、「生命の實相」に関しては、結局、同じ「真理」が形を変えて何度も説かれているということがわかってきました。
だから、拝読していて少しくらい意味の通じないところがあっても、どんどん読み進んでいってかまわないということにやっと気が付きました。

ですから、わたし自身は全巻読破に向けて、これからはどんどん拝読を進めていかせていただきますが、
その中で、このweb誌友会の話題に外れない内容に関しましては質問・問題提起などさせていただきたいと思っています。

復興Gさま、トキさま、ユタカさま、みなさま、どうぞよろしくお願いいたします。

3234復興G:2013/10/22(火) 11:50:09 ID:AB6RqYXc

>>3229>>3231 ユタカさま

>>我が内にいる総裁が分かりません・・・
すべて自分の内にある?
神様と自分だけではダメなのですか?
総裁も我が内にある ということはどういうことでしょうか?<<

――お返事が遅くなって、すみません。

 「総裁も我が内にある」

 と言った時、私は

 「生長の家大神なる(実相の)総裁が、わが内にある」

 ということしか考えていませんでした。

 現象の、不完全と見える総裁は、夢まぼろしのごとく、本来無い。時間も空間も本来無いのですから、時空間の中に現れて見える姿は、みんな影であって本来無い。

 時空超脱の 「久遠の今」、「時空間はわが内にあり」 というところに立てば、「すべてはわが内にあり」 となる。

 ――それは、観念的にそうなるのですが、もう少し具体的に考えると――

 現象の、不完全と見える総裁は、私たちの現在の心境に於いて、必要な姿として使命を果たして下さっている、と私は考えます。

 それは、>>3220でユタカさまが

>>だからこそ、真剣に勉強できるし、本当は100年後にこういうことが起きて収集がつかなくなると言うことが起こるかも知れないところをいち早く分裂沙汰が起きたのも何かの救いかも知れません。まだ、開祖先生をご存知の方が沢山いる時代だから素晴らしいです。やる気の出ない駄本も使命を果たしているのではないでしょうか??<<

 と書いて下さったような使命を果たして下さっていると思います。

 本当に、雅宣総裁と教団が今のような状態で、分裂沙汰が起きてきたからこそ、私たちはこうして真剣に 『生命の實相』 を学ぶようになれたのですからね。

 本当にありがたいことだと思いますが、いかがでしょうか。

3235復興G:2013/10/22(火) 12:00:50 ID:AB6RqYXc

 雅宣総裁は、今の現象から見ると、「ワンダー・フル」 (不可解なことがいっぱい) な総裁です。

 しかし、もっと長ーーーい目で見たら、本当に 「ワンダフルな」 (素晴らしい) 総裁なのかも知れませんよ。

 信徒一人一人が本当に 「神の子」 の自覚に目覚めるために。

3236復興G:2013/10/22(火) 12:10:14 ID:AB6RqYXc

 トキ様、a hope様、テキストの件についてご賛同ありがとうございました。

 では、今後とも どうぞよろしくお願いいたします。

 合掌 ありがとうございます。

3238ユタカ:2013/10/22(火) 23:16:48 ID:/B6zFSOc
復興Gさま 

分かりました、私「総裁」と言う文字に拒絶アレルギーがあるのかも知れませんね、どうもすみません。。。

神の子さま

安東先生は講習会の動員の手段は数・数・数を追っていました。 「とにかく誘え! 雅宣先生は素晴らしい!!」って大絶賛していました。

有名でしょ、こんな話。 それで講習会に人数は上がるけど、午後から会場はガ〜ラ〜〜ンとしらけ切ったムード満載です。。。

講習会の無い年は一般の有名人を呼んでいたので、会場は午後の最後の時間まで満杯!!

総裁、ミジメ〜〜〜! 総裁はしらないでしょ、こんな現実。。。 金魚の糞のようにくっついているオッサンの誰かが教えてあげれば親切だと思うよ。

3239ユタカ:2013/10/23(水) 06:24:29 ID:R1D4Jmeg
自分が「生長の家 総裁」なんだ!

と思って日々の伝道を行うというのではどうでしょう??

うん! これ、いいかも!! 

復興Gさま、これって神の子自覚になりますか??
おかしい??

3240復興G:2013/10/23(水) 10:07:49 ID:AB6RqYXc

ユタカさん、またお返事遅くなりました。

>> 私 「総裁」 と言う文字に拒絶アレルギーがあるのかも知れませんね <<

 いや、私も実は、それ、ありますね。

 「総裁」 といえば 「雅宣総裁」 が浮かんでしまう。そうすると 「私の中に生長の家総裁がある」 とは素直にすぐ思えないものがあります。

 それで、

 「生長の家大神なる(実相の)総裁が、わが内にある」

 と、現象の世界を去って実相(久遠の今)の方から思い直したんです。

 そうして、「実相独在」 「実相・現象 渾然一体」 と祈る。

 そんなことをやっています。

>>自分が 「生長の家 総裁」 なんだ!
と思って日々の伝道を行うというのではどうでしょう??
うん! これ、いいかも!! 
復興Gさま、これって神の子自覚になりますか?? <<

 ――そういう気持で日々の伝道を行うというのは、素晴らしいことだと、私は思いますね。信徒がみんなそういう気持で伝道すれば、すごい、素晴らしいことになると思われます。

 私は、まだそういう気持にまでなっていませんでした。

 神の子の自覚が、足りませんでした。

 あらためて、思い直します。

3241復興G:2013/10/23(水) 11:27:58 ID:AB6RqYXc

 谷口清超先生のご著書 『愛と祈りを実現するには』 に、次のような素晴らしいご文章があります。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

   愛は生きている (p.256〜 )

 断乎として立ち上り、良心の命ずるままに従え。神示に従え──如何に困難であろうともそれに従え。立ち上った時、かならず道は開けてくるのである。

 壁に向かって突き進む時、壁は汝のために扉を開き、その彼方に楽園があるのだ。花咲き、鳥歌い、甘露の泉がわく所がある。吾々はそれに到ることが出来る。ただ愛を実行する勇気を示すことによってのみそれが出来る。

 「宗教時報」 の何月号かに二人の闇の女(注・売春婦)が更生をちかった投書がのせてあった。彼女らは電車の中で一人の美しい婦人が、ボロボロの服をまとった老婦人をいたわりはげましている会話をきいたのである。美しい婦人は、醜い婦人の生活苦の話をきいて、それをなぐさめ、はげまし明るい希望を与え、そうして最後に、千円札を彼女の荷物の中にそっと落してやったのである。貧しい婦人は、乗り換えの駅で、美しい婦人に両手を合せ、土下座して、泪(なみだ)を流して、伏し拝んで礼を言ったのである。闇の女は、この光景をみて、それ以来郷里にかえって正業にかえる決心をしたという投書である。

 諸君はこれを何でもない事だというであろうか。行きずりの 「愛」 の行為が少なくとも三人の女を救うということは、神に於いて偉大なる行為ではあるまいか。百千の議論を討わし、如何に立派な頭脳をもち金をもち合せていても、それを批判と不決断と下劣な欲望とに浪費する者は、よく反省しなければならない。諸君よ、「愛」 は生きている。生きているが故に愛は人間に生命を吹き込むのである。

   人間が幸福となる喜び (p.341〜 )

 吾々は他の喜びを吾が歓びとするのである。ひとが幸福であることが此の上なく喜ばしく感ぜられる。吾が喜びのために、ひとの喜びを犠牲にするのではなく、彼女が幸福であることが吾が歓びであり、彼の成功が吾がことのごとく喜ばしいのである。

 「生長の家」 の御教えが全国に伝えられるのは限りもなく喜ばしい事であるが、それは人々がこの御教えによって幸福になることがわかり切っているから喜ばしいのであって、教団が拡張するのが喜ばしいのでもなければ、同士がふえるのが楽しいのでもないのである。人間が真に幸福であること以外に吾々の喜びはない。

 「生長の家」 という名前が地上から消滅しても、生長の家の説く 「人間神の子、不幸なし」 の御教えは不滅であるから人類は幸福であり、その人類の幸福が、又同時に吾々の幸福なのである。若しかりに、教団の組織が、麻の如くみだれたとしても、吾々はそれによって人間神の子の真理がくもらされるとは思わないし、吾々が完全円満である神の子であることに狂いが来るとも信じない。何事もないのである。畢竟 「吾が国は此の世の国にあらず」 である。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 以上は谷口清超先生著 『愛と祈りを実現するには』 (昭和27年2月、日本がまだ戦後、占領下にあった時に初版が発行されたもの)からでした。

 今日の私たちのために書かれたご文章のようです。

 ありがとうございます。

3242ユタカ:2013/10/23(水) 22:29:08 ID:R1D4Jmeg
以上は谷口清超先生著 『愛と祈りを実現するには』 (昭和27年2月、日本がまだ戦後、占領下にあった時に初版が発行されたもの)からでした。

 今日の私たちのために書かれたご文章のようです。

 ありがとうございます。



本当に!! 自分のために書かれた文章だと思いました。
このようなご文章を見つけて長文を謹写くださり、復興Gさま、本当にありがとうございます。

それにしても、次から次へと総裁は課題をくれますね。。。

3243ユタカ:2013/10/23(水) 22:31:16 ID:R1D4Jmeg
> 雅宣総裁は、今の現象から見ると、「ワンダー・フル」 (不可解なことがいっぱい) な総裁です。

 しかし、もっと長ーーーい目で見たら、本当に 「ワンダフルな」 (素晴らしい) 総裁なのかも知れませんよ。

 信徒一人一人が本当に 「神の子」 の自覚に目覚めるために。



これが、真実なのだと思います。 それにしても、明るくて楽しい表現ですね! 復興Gさま! 面白くて楽しくなってしまいます!!

3244復興G:2013/10/23(水) 22:59:29 ID:AB6RqYXc

>>3242>>3243

ユタカさん

メッセージを受けとってくれて、ありがとう!!

3245ユタカ:2013/10/23(水) 23:26:59 ID:R1D4Jmeg
復興Gさま

復興Gさまのいつもの素晴らしいメッセージは、ここに書いている人もいない人もみんな(万人)が受け取っていると思います。

ユタカは返事を書いていない時も、(読むたびに)感謝しています。 どんどん進んでいく速度に間に合わずに、返事の抜けが多くて、申し訳ありません。

3247トキ:2013/10/28(月) 00:17:57 ID:Ra1M0mRc
>>3241
 
 復興G様が極めて貴重なご文章を投稿されたので、再度、注目してもらうために
書きます。

 谷口清超先生は、個人的にはかなり組織の充実に力を入れた方だという印象を
持っていました。これは、職員さんの待遇も悪く、苦労された人も多かったとも聞いて
います。私が新米の頃に徳久克巳先生に聞いたところでは、理事(その頃は参議はなか
ったと思います)でも給料が安かったと聞いています。そのため、運動を発展させる
ために、組織の充実に力を入れられたと思います。

 ただ、谷口清超先生御自身は、そんな無茶な運動の展開はご希望ではなかったと
思っています。それは、講習会の前の特別幹部会で、当時の百万運動について、青年会
の執行委員長に『結婚資金までつぎ込んでいる人がいると聞いていますが、そんな無理
はしないように」とご指導をされ、数字を減らすようにと言われているからです。

 しかし、そういう先生のお心を知らずに、無理を言う幹部はいました。組織が拡大した
のは嬉しい事ですが、やはり無理がなされ、それが積もり積もって、今回のような事の
遠因になったと感じます。

 一連の騒動で、信徒さんの中には、かなり恥ずかしく感じ、組織は勿論、信仰にまで
動揺を感じている人がいると思いますが、このご文章を読んで下されば、信仰の大切さ
を感じる事ができると思います。

3248トキ:2013/10/28(月) 00:22:03 ID:Ra1M0mRc
 数日、誌友会に書き込みがありませんが、気軽に書き込んで下さい。
むしろ、新人さんや、あまり投稿をされなかった方々のご投稿をお待ちしています。

 よろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

3250神の子さん:2013/10/28(月) 07:36:23 ID:AB6RqYXc

>>3247>>3248 トキ様

ありがとうございます。


皆さま、ありがとうございます。

ここ数日私は公私いろいろ日程が詰まって多用だったためご無沙汰しました。

今月もあと残り少なくなりましたので、私もまた書き込みをさせていただこうと思っていますが、どうぞ皆さまも遠慮なくご投稿ください。

ありがとうございます。

3251トキ:2013/10/28(月) 09:37:48 ID:gh6g3OwI
>>3520

 復興G様、ご返信ありがとうございました。
失礼をしました。また、ご指導のほど、お願い申し上げます。

合掌 ありがとうございます

3252復興G:2013/10/28(月) 10:12:14 ID:AB6RqYXc

トキ様、ありがとうございます。

>>3250 :神の子さん は、復興G でした。

3253復興G:2013/10/28(月) 10:24:59 ID:AB6RqYXc

 テキスト 『生命の實相』 第5巻 <第5章 「ねばならぬ」 を解放する宗教> p.124〜 に、次のようにあります。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

       宗教本来の使命

 宗教本来の使命からいいますならば、宗教というものは人間を互いに和解せしめる働きをしなければならないものだと思いますが、この、人間を互いに和解せしめる働きをしなければならぬ宗教が、かえって人間を争わせる結果となるというのは、どうしてそんなことになるかと申しますと、それは一つのものに凝(こ)りかたまって、ほかのものの善さを見ることができないからであります。自分のものばかりが善いと思ってそれにばかり凝りかたまるから、他のものの善さを見ることができず互いに争わねばならぬようになるのであります。

 宗教は人を救うものだと申しますが、その 「救う」 ということはどんなことかと申しますと、「天国」 という物質的設備の至れり尽くせりの一区劃(くかく)に救い上げてもらうことでもなければ、極楽という装飾満ち備わった一環境へ連れて行かれるということでもない。人間が人間本来の 「無限の自由」 を回復することであります。

 「自由」 という言葉は近代的な言葉でありますが、古くからの仏教語で申しますと 「解脱(げだつ)」 ということであります。「解脱」 の反対は 「障(さわ)り」 とか 「凝り」 とか 「執着」 とかいいまして、何かに凝りかたまり引っかかってとらわれることをいうのであります。何かに凝りかたまり引っかかると、もうその人は自由ではない。方々へ衝突してスラスラとゆかないのであります。

 この 「解脱」 といって、凝りかたまりを無くすると本当にその人の 「生命」 が自由になる、この人間自身の 「生命」 が本当に自由になることを救われるというのでありまして、天国浄土と称する金殿玉楼(きんでんぎょくろう)の中におかれていましても、その人の 「生命」 にとらわれがあり、引っかかりがあると環境はいくら結構そうに見えましてもその人はあせったり、いらいらしたりして苦しむ、結局救われていないということになるのであります。

 それでいずれの宗教の開祖でも、この人間の 「生命」 を自由にするために教えを編み出されたものでありますから、どの宗教へ這入(はい)りましても、その神髄のところまで入り込んでゆきますと 「生命の自由」 を得る――すなわち本当に救われるということになるのであります。

 ところでその宗教で本当に救われた人が一人でも二人でも数人でもできてまいりますと、多くはその宗教の門に這入らなければ救われない、他の宗教の門から這入っては救われないというような偏見が湧いてきやすいのであります。

 だからキリスト教信者の大道演説などを見ていますと、 「キリスト教でなければ救われない」 と大声疾呼(たいせい しっこ)していますと、その隣に仏教僧侶が袈裟衣(けさぎぬ)を着け、 「仏教でないと人間は救われない」 とやり返しているような場合がおうおうあるのであります。そういう場合、仏教の悪口をいっているキリスト教の牧師に 「君はどれだけ仏教を研究してみたか」 と尋ねると、ギャフンとまいって返答に困るのであります。

<つづく>

3254復興G:2013/10/28(月) 10:25:46 ID:AB6RqYXc

<テキスト謹写 つづき>

(『生命の實相』 第5巻 p.126〜 )

       各宗門は家に入る通路

 救われるということは、人間がその本来の生命の自由を得るということでありますから、多くの高徳達識(こうとく たっしき)の開祖たちはその時代に応じ、人に応じて、人間本来の生命の自由を得る門をお開きになりましたのであります。

 その宗門を通って自分が救われたからといってその人が、他の人もその門にはいるように誘いたいというのは人情の当然のことでありますが、「救い」 に到達する 「門」 は、自分の宗門一つで他にそんな 「門」 はないと考えて、ほかの 「門」 から這入ってみたこともない癖に、ほかの 「門」 に難癖をつけたりけなしたりすることは慎しむべきことだと思うのであります。

 それで 「生長の家」 はそういう各派の宗教に対してどういう位置にあるかと申しますと、 「生長の家」 は 「家」 といってなになに教といわないのであります。なになに教といって各派の宗門に対立するような宗門ではないのであります。

 一つの門から他の門へ這入(はい)るのでしたら、一方の門を出てから他の門へ這入らねばなりませんけれども、これは相対的に立っている宗教の門としては必然のことでありますが、それでこそ他の宗門排撃ということも起こるのでありますが、「生長の家」 は宗門ではない。門でないから、他の宗門を出てこの門へお這入りなさいということは申さないのであります。

 「生長の家」 は 「家」 であるから、どの宗門からお這入りになりましても一向さしつかえはありません。どうぞ御遠慮なく御自分の宗門をそのままズッと奥まで、内陣までお這入りなさい。そこに広々とした奥座敷がある――

 その奥座敷が 「生長の家」 というのであって、この奥座敷には、どの宗教門をお這入りになった方でもかまわない。ずっと深くその教えの堂奥までお這入りになるならば必ずそこに到達する――それは広い解脱の境であって、本当の自由の境であるから、もう宗派争いなどということはない。

 あらゆる宗門からお這入りになった方も、皆互いに 「生長の家」 の家族として仲よく手をつないで生活できる境地になる――これが 「生長の家」 なのであります。

 だから 「生長の家」 は一面では人間を和解させるのでありますが、また一面宗教と宗教とを和解させる働きをももっているのであります。

       生長の家とは何か

 そんな自由な宗教があるものかと驚かれるかもしれませんが、「生長の家」 は宗教というべきか生活というべきか、思想というべきか、光明思想普及団体というべきか、教化団体というべきか、わたしは知らないのであります。

 まあ、どのようになりと名前をおつけになるがよい、ただ、在来の宗教というものは、教えというものと生活というものとが離れ離れになっている、教えは教え、生活は生活というふうに分れ分れになっていて宗教は信ずるが、家庭はなっていないとか、家族に不幸や病人の絶え間がないとかいうようになっていて、宗教とは心だけの救い、実生活にはなんの関係もないものだというふうになっていましたが、「生長の家」 では教えがそのまま、生活上の救いになっているのでありまして、教えを聴いて病気が治る、教えを読んで貧乏が治る、夫婦喧嘩が治る――というふうになっているのであります。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

3255復興G:2013/10/28(月) 11:27:15 ID:AB6RqYXc

<< 救われるということは、人間がその本来の生命の自由を得るということであります >>

 と、上記 >>3254 にありました。

 これを拝読して、思ったこと――


 「救われる」 ということは、「解放される」 ということである(解脱)。

 人間はみんな 「自由」 を求めている。

 イエス・キリストは、新約聖書ヨハネ伝第8章31〜32節で、

 「汝等もし常に我が言(ことば)に居らば、真(まこと)にわが弟子なり。また真理を知らん、而して真理は汝らに自由を得さすべし」

 と言っています。このイエスの言葉

 「我が言(ことば)に居らば」

 とは、どういう意味でありましょうか。

 それは、同じくヨハネ伝の第1章1〜4節に

 「太初(はじめ)に言(ことば)あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。この言は太初に神とともに在り、萬(よろず)の物これに由(よ)りて成り、成りたる物に一つとして之(これ)によらで成りたるはなし。之に生命(いのち)あり、この生命は人の光なりき」

 とあります。その 「太初(はじめ)」 とは、時間も空間もまだ現れない前の、「未発の中(みはつのちゅう)」 すなわち 「久遠の今」 である。その 「太初(はじめ)」 にある 「言(ことば)」 に 「居る」 とは、神の生命そのもの、光そのものを生きる、「吾が生くるは吾が力ならず 天地(あめつち)を貫きて生くる祖神(みおや)の権能(ちから)」 と、己をむなしくして天地に満ちる生命をただ喜んで感謝いっぱいに生きる、ということでしょう。

 それは、釈尊が 「天上天下唯我独尊」 と言われたように、「我れの外にあるものなし、自分は一切者である」 というところに立つこと。

 そこが 「生長の家」 である。

 それが、すべての教え(万教)の 「奥座敷」 である。

 そこに到ると、自ずから万教は一つに帰して、即、和解できてしまう――ということになる。

 「外にはない、すべては我が内にある」

 これがキーワードだと思いました。

3256トキ:2013/10/28(月) 13:34:28 ID:gh6g3OwI
 古典的な宗教は、外の神様におすがりする、という発想のところが多かったみたいです。
しかし21世紀になり、多くの既成宗教を含めて、内在の神様を見るという信仰こそ本当の宗教で
あるという事に気がつかれたと感じます。

 宗教が原因で、戦争や争いが起こるのは、この外の神様にすがるという発想が原因だと思います。

 釣りをする人は、『釣りはフナから始まり、フナに終わる」というらしいですが、生長の家の信仰
も、ここから始まるような気がします。簡単なようで、奥が深いと感じます。

3257トキ:2013/10/28(月) 21:02:31 ID:gh6g3OwI
web誌友会参考文献板
>>159

 榎本恵吾先生が書かれたご文章ですが、運動を経験しているので考えさせられました。
地道な運動よりも、目先の数字をおいかける傾向はありました。ただ、今からでも間に合い
ますから、信徒の一人一人が、運動や信仰を原点から考え直すべきだと思います。

 いつもすばらしいご文書をアップして下さる、復興G様に心から感謝申し上げます。

合掌 ありがとうございます

3258復興G:2013/10/28(月) 22:18:22 ID:AB6RqYXc

 環境問題について考えてみたいと思います。

 三界唯心、環境はわが心の影である。

 その 「環境」 には、もちろん 「自然環境」 も含まれる。

 人間は神の子として、自然環境をも霊的に支配する権能を神から与えられている。

 それは、『生命の實相』 第11巻 「万教帰一篇」 (p.31) で、旧約聖書 「創世記」 に

○神、彼等を祝し、神、彼等に言い給いけるは生めよ殖えよ、地に満てよ、之を従がわせよ。又海の魚と空の鳥と地に動く所の諸(すべ)ての生き物を治めよ、神いい給いけるは視よ、我全地の面にある実蓏(たね)のなる諸ての草蔬(くさ)と、核(たね)ある果実(このみ)の生(な)るすべての樹とを汝等に与う、これは汝らの糧となるべし。又、地の諸(すべ)ての獣と天空(おおぞら)の諸(すべて)の鳥および地に匍(は)う諸の物など、凡そ生命ある者には、我れ食物として諸の青き草を与うと。即ち斯くなりぬ。神その造りたる諸の物を視たまいけるに甚だ善かりき、夕(ゆうべ)あり朝(あした)ありき是れ六日なり。(『創世記』第一章―二八〜三十一)

 とあり、そのご解説として

 (p.33)
 << なおこの一節で注意すべきことは、神の像(かたち)のごとく完全につくられたる 「人間」 こそ万物の霊長であって、他のいっさいのものを支配する権能を与えられている真理がいとも明らかに現わされていることであります。神は人間を祝福してすべての生き物を治めよと宣(い)いました。これ神の命令(みことば)であります。神の命令は絶対的なものであって、いかなる権威者もこれに逆うことができないのであります。>>

 とある通りであります。

 なお、自然環境について、谷口雅春先生は 『神 『新版 真理』を告げ給う』 に、神のみことばとしてどのように書かれているでしょうか。抜粋謹写させて頂きます。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

(p.20〜)
 “わたし” は一切の現象の中に “わたし” の智慧と愛と生命とを顕現している。 “わたし” を見たければ森羅万象を見ればよいのである。しかし肉眼でそれを見るならば、必ずしも “わたし” の創造した万象の “真実の姿” を見ることはできない。何故なら、肉眼で見る人は、自分の先入観念や迷いの念で “雲” をつくって “真実の姿” を覆い隠しているからだ。だから神想観の時には肉眼を瞑じて、心の眼をひらいて実相を直視せよというのである。

          ○

(p.30)
 “わたし” は天地一切のものを創造った。そして人聞を最後に “わたし” の最高の自己顕現として造った。 “わたし” は最高の智慧であり、完璧の善であるから、 “わたし” の創造した一切のものはことごとく完璧の善であって “悪しきもの” は何ひとつ無いのである。(後略)

          ○

(p.39〜40)
 “わたし” の心は、限りなく、一切のもの――有情(うじょう)・非情(ひじょう)の悉く――を包容して余すところがないのである。包容しているというのも本当は適切ではないのである。有情・非情の悉くは “わたし” 自身のアイディアの展開であるのであって、その展開せる生物・無生物を存在せしめ、ところを得せしめているのは “わたし” のいのちそのものの力によるのである。

 “わたし” は到るところの空間に、そして凡(あら)ゆる時間に充ち満ちているのであって、限りがないのである。空間も時間も、 “わたし” のアイディアの展開である。 “わたし” が “空間” というアイディアを引っ込めれば “空間” がなくなり、 “わたし” が “時間” というアイディアを引っ込めれば “時間” がなくなる。 “時間” も “空間” も、 “わたし” が現象界に “わたし” のアイディアを演出するための舞台とその持続をあらわすために “わたし” がつくった認識の形式に過ぎないのである。

          ○

(p.40〜41)
 “存在する” ということは “わたし” のアイディアがそこにあるということであり、そこに “わたし” のアイディアが展開してあるということである。 “わたし” のアイディアは常に善であるから、凡そ真に “存在する” ものは “善なるもの” のみであって、 “悪” なるものは存在しないのである。病気というようなものは “悪” であるから、 “わたし” のアイディアの展開ではない。従って、それは如何に存在するように見えても、本当は存在しないのである。

 不幸・災難の如きは、 “わたし” のアイディアの展開ではないから、それは如何に存在するように見えても、本当は存在しないのである。 「存在しないのだ」 と心に強く否定して、それからその否定が現実になるように現象的手続を着々と行うがよい。

<つづく>

3259復興G:2013/10/28(月) 22:19:13 ID:AB6RqYXc

< 『神 『新版 真理』を告げ給う』 より謹写 つづき>

          ○

 (p.79〜80)
 更に、人間は万物の霊長であるから、単に人間同士が相愛して、互いに傷つけるような事を慎まなければならないのは無論であるが、あなたは天地の万物に対しても “愛” をもたなければならないのである。

 今まで多くの人間は、自然界の動植物を、自分の利益と快楽とのために利用し得る間は、好き候に利用しつくして、あとは棄ててしまって顧るということをしなかったのである。所謂(いわゆ)る “使い棄て” 精神で、万物の生命をおろそかにし、それに感謝することを忘れ、折角の美しきものを醜くして、悪臭芬々(あくしゅうふんぷん)たる状態にして流し棄てていたのである。

 現今、 “公害・公害” といって騒がれているのは、結局、人間自身が自然界の万物に対して “愛” をわすれて使い棄てにしていた報いである。

 人間でも、美しく元気で役に立ったり、楽しむことが出来る間は、利用し娯(なぐさ)みものにしながら、年老いて醜くなり弱ってしまって来たならば、 “使い糟(かす)” として棄ててしまうというようなことは、人間の心に “愛” が目覚めている限りは出来ないことであり、また、してはならない事なのである。

 人間に対してだけではなく、自然界の一切の事物も、ことごとく 「神の生命」 の自己顕現であるから、人間と兄弟姉妹の関係にあるのであるから、美味(おい)しいところだけを利用して、あとは醜い姿にして棄ててしまうようなことをしてはならないのである。

 自然界の万物も、みな “わたし” の生命の顕現であるから、もっと尊敬し、愛し、醜く廃(すた)れたものでも何でも生かして使ってやろうという行きとどいた愛念をもって万物を扱うならば、あなたは廃物と見えた煤(すす)の中にも輝くダイヤモンドと同質のものが秘められていることを発見し、そこから金剛(こんごう)の光を発することが見られるであろう。

 善きものの発明や発見はそのような心構えから出て来るのである。万物はすべて愛念をもってその実相を見るならば、そこには廃物というものはひとつもないのである。愛念をもって廃物に接すれば、その廃物の内に潜む宝庫を見出し、その宝庫の扉をひらくにはどうすればよいかの智慧もおのずから湧き出て来るのである。使い棄てにして万物のいのちを大切にせぬものは、その報いをみずからの生活で収穫しなければならないのだ。

          ○

<ここからが大事なところだと思います>
 (p.81〜82)
 だいたい一旦、罪を犯した者が、再び罪を犯すようになるのは、再び罪を犯す事そのことが自己処罰の一形式であるからなのである。

 みずから再び罪を犯す事が自己処罰であるというのは、いつまでも彼自身罪を繰返し繰返しして 「罪の世界」 の檻(おり)の中にみずからを監禁していて、彼自身を 「罪の世界」 から出られないように閉じ込めているからである。

 彼を 「罪の世界」 という檻の中から解放して自由の身にしてやるためには、自己処罰をする必要のないように彼をしてやらなければならないのである。換言すれば自己を “罪人(つみびと)” だとか “罪の子” だとか “罪悪深重(じんじゅう)の凡夫(ぼんぶ)” だとか思う必要のないようにしてやらなければならないのである。
 すなわち “罪悪意識” から彼を解放してやらなければならないのである。

 本当に正しい宗教は人間を此の “罪悪意識” から解放してやるために、 “わたし” が教祖となる人々を選んで、 “人間本来罪なし” の真理を説かせるように仕組んだのである。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 ――正しい宗教として、本当に人間を救い、自然を救うためには、根本――神に立脚しなければならない。それには、この最後のところが一番基本となる大切なところではないでしょうか。

 「人間至上主義ではいけない」 と言われるときの 「人間」 とは、「罪の子」 なる 「肉体人間」 を指していると思います。そこから一転して、「神の子・人間」 至上主義に立ち還らなければ、宗教としての最も大切な使命を果たすことにならないのではないでしょうか。

3260復興G:2013/10/28(月) 22:23:01 ID:AB6RqYXc

ごめんなさい。

『神 『新版 真理』を告げ給う』

は、 『神 真理を告げ給う』 の誤りでした。お詫びします。

3261復興G:2013/10/28(月) 22:38:09 ID:AB6RqYXc

『神 真理を告げ給う』 の中で、“わたし” とあるのは 神御自身であり、神の御言葉であります。

3265復興G:2013/10/31(木) 14:58:37 ID:AB6RqYXc

 今月のテキスト 『生命の實相』 第5巻 第5章より

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

      「なければならぬ」 を捨てよ (p.138)

 こうでなければならぬ、ああでなければならぬというのは人間の小智才覚の凝(こ)りであります。この心の凝り――こうでなければならぬ、ならぬならぬという凝りが心の中にありますために、その 「なければならぬ」 という自分で作った法則に自縛(じばく)せられて、ちょっとでもその法則を破ると身体が衰弱したり病気になったりするのであります。

 ところが 「こうでなければならぬ」 と心で掴(つか)んでいる凝りをパッと放してしまうと、人間は本来の自由を得る――どうしなくとも生きられる本来の自由な自分自身を見いだすのであります。工藤てつさんが、「人間は食べ物を食べなくとも生きられる」 と悟られたら、かえって今まで食道を通らなかった食物が通るようになった。ここに人間生命を生かす奥義――すべての病を癒やす秘訣があるのであります。すべての 「ねばならぬ」 が破れた時に、すべての自分の作った 「ねばならぬ」 に束縛せられていた自分の生命の自由が解放されるのであります。


     宗教同志争うな (p.172〜 )

 人類が各自に異なる宗教を信じているがために、夫婦でさえもこのように互いに争わなければならないというのでは、宗教は人間を悩ますためにあるのか人間を悩みから救うためにあるのかわからないということになるのであります。その悩みのために肉体に病気まであらわしている人がどんなに世界には多いか知れないのであります。

 こんなことでは宗教は人間を救うことができない。宗教そのものが争っているのですから、その宗教を信ずる人同士が争うのは無理もありません。だからその争っている宗教を包容して、一つに和解さすところのズッと広い大きな真宗教が出てまいらなければならないはずでありますが、それが 「生長の家」 なのであります。

 ふつう一つの宗教が出現しますと、その宗教を信ぜしめるため、今までの宗教を捨てさせて今度の宗教に改宗せしめようと思って、その宣伝に当たる人が苦心するものでありますが、 「生長の家」 ではそういうことはいたさないのであります。どの宗教の信者が来られましても、 「その宗教を止めて生長の家へ入れ」 とは申さないのであります。そして 「あなたはあなたの宗教の神髄に帰れ」 というのであります。

 「そちらの宗教を止めて、こちらの宗教に入れ」 ということになると、暗にそちらの宗教は悪いといっていることになりますから、そちらの宗教を信じている人は、 「ナニ、僕の信ずる宗教が悪いというが、貴様の行ないは現になっておらんじゃないか。貴様の信ずる宗教が悪いからそんな行ないをするのだ」 というふうに互いに審判(さば)き合いをしなければならなくなるのであります。

 そうなると夫婦でさえも常に争って、揚句(あげく)の果(はて)には病気にならなければならないのでありますから人生全体が光明化されるはずがない。ところが 「生長の家」 のように 「あなたはあなたの宗教の神髄に帰れ。そこに真実の道があり、それが生長の家である」 といわれると、もう争いようがない。

 キリスト教はキリスト教のままで救われている。仏教は仏教のままで救われている。神道は神道のままで救われているということになりますから、宗教争いをしようにも宗教争いのしようがなくなるのであります。こうして、この天理教信者の御主人は天理教そのままでいて、先の信仰よりも深く這入(はい)って行きお救われになったのであります。

 <つづく>

3266復興G:2013/10/31(木) 15:04:08 ID:AB6RqYXc

 <今月のテキスト 『生命の實相』 第5巻より謹写 つづき>

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

(p.173〜 )
 ――この 「あなたはあなたの宗教の神髄に帰れ。そこに真実の道があり、それが生長の家である」 というのは、

 「時空間は認識の形式に過ぎず、時間・空間本来なし」

 「時空間をも生み出した本源世界に、既に大調和・無限生命、無限供給、無限歓喜の実相があり、時空間の中に展開されて見えるところの現象はすべてその影に過ぎず、本来なし」

 という 「久遠の今」 に立ち還ること。

 そこにすべての宗教の神髄があり、そこに真実の道がある。それが生長の家である。

 そこに立ち還った時、

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

(p.212 最終頁)

 生長の家では「無」は「そのまま」であって、我(が)の 「はからい」 がなくなることです。「はからい」 がなくなれば、天地無限の供給の実相と波長が合うことになって、おのずから無限の供給が現象界にあらわれてくるのであります。

 天地間の生物界の実相を奪い合いとみることそのことが我(が)の見解でありまして、奪い合いを心に描いている限りは、現象界にもそれは消えません。天地間をただ、神一元の無限の供給の世界であると、そのまま信じて我見(がけん)を無にするとき現象界にも無尽蔵があらわれてくるのであります。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 ということになる。

 それを生活に生きるのが生長の家の生き方であると思うのであります。

3267復興G:2013/10/31(木) 15:43:48 ID:AB6RqYXc

 上記は、web誌友会参考文献板 >167 に

<< イエス・キリストの言葉と大聖師谷口雅春先生とは神においてひとついのちなのである。万教帰一とはこの意味でもあるのである。釈尊のいのち、日蓮、親鸞、道元、等々、すべての人々と一体のいのちである實相に帰り給うて、人々だけ、教えだけではなく、天地一切万物と一体であるその實相より鳴り出でたのが 「万教帰一」 ということそのことなのである。

 大聖師谷口雅春先生の説かれる如く、自分をとりまくすべてのすべては、観世音菩薩の吾れに告げ給うみことばなのであれば、天地一切万物がひとつであるということが万教帰一ということであるのであった。ここにおいて、万教帰一ということと、中心帰一ということは、ひとつのこととして拝受されて来るのである。>>

 とあるのを拝読しますと、より明らかにおわかり戴けるかと思います。

 つまり、時空未発の 「久遠の今」 において、イエス・キリストと大聖師谷口雅春先生とは神においてひとついのちなのであり、釈尊のいのち、日蓮、親鸞、道元・・・・等々すべてと一体のいのちである實相に帰一する。そこにおのずから 「万教帰一」 がある、ということなのであります。

 バンザーイ!

 ありがとうございます。

3268トキ:2013/10/31(木) 17:47:31 ID:n3VvP5Gk
>>3267

 言い換えると、この「いのち」ということが分かれば、あとの問題、例えば、政治の問題も
環境の問題も自ずとわかる、という事なのかな、と個人的には感じています。

3269復興G:2013/11/01(金) 14:39:17 ID:AB6RqYXc

ありがとうございます。 

このweb誌友会は、毎月 『生命の實相』 を1巻ずつテキストにして勉強して行くことにしました。

 それで11月になりましたから、第6巻に入ることになります。

 『生命の實相』 第6巻の 「はしがき」 に、次のように書かれています。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

     はしがき

 人類の不幸の根元を知らない人が多い。不幸の根元のうち最大なるものは、自己を罪人(つみびと)とする人類の罪悪意識であり、その罪悪意識が潜在意識にあるがために、人類は自己処罰として一切の不幸(戦争・病気・不慮の災禍等をも含めて)をつくりつつあるのである。

 罪の問題は宗教上の一大問題であり、人間に罪があるので宗教というものは存在するのであると説く宗教家さえあるのである。しかしこれは重大なる誤りであることをわたしは知ったのである。

 釈尊生まれて二千六百年、キリスト降誕して二千年、無数の高徳の弟子がその道を説いて来たけれども、結局人類を救うことができないで、原爆水爆の惨禍の予想の恐怖の前に驚いていなければならないというのは、今までの宗教の説き方のどこかに、まちがいがあったからである。

 そのまちがいは、罪を 「実在」 するがごとく説くことによって、かえって人類に罪を犯すように駆り立てていることである。それはあたかも、社会から前科者呼ばわりされた人間が、その言葉の実現力に駆り立てられて、再び罪を犯すようになるのと同じことである。

 人類を 「罪人」 だと宗教家が呼号すれば呼号するほど、人類は自己処罰として更に再び罪を犯すようになるのである。病気も戦争も一切の惨禍(さんか)は、潜在意識の自己処罰から起こる。これは最近発表された精神科学上の原理である。

 人生を、戦争や病気やいろいろの不幸な惨禍から救うためには、人類の罪悪意識を拭(ぬぐ)い去るための、精密なる理論体系を必要とするのである。その理論体系が私の「生命の実相」哲学である。

 実際、人類から罪悪意識が拭い去られたならば、いかに人間が解放されるか実証として、それぞれ、この 「生命の実相」 哲学にふれた人々が誌友会に集まって、その体験談をとおして、人間が本来清浄(しょうじょう)にして罪なきことを明らかにするために語り合った実際の対話を編集したものが本書である。

 罪は意識の中にのみ存在するのであって、「実在」 として固定するものでないから、イエス・キリストも 「汝の罪ゆるされたり」 の一言で、その患者の罪悪意識が消え、罪悪意識から来る自己処罰によって生じていた病気が、長期間の歩行困難の跛者(あしなえ)までが癒されているのである。

 イエスにできた奇跡も、実はイエスにのみできる神秘的な奇跡ではなく、精神科学的な事実であるから、その精神科学的原理を知って、その原理を実際に応用すれば、何人(なんぴと)にもイエスと同じような奇跡的事実を実演することができるのである。

 その体験談を集めたのが本書である。他(ひと)の体験といえば、なんだか他の人の経験みたいで、自分になんの関係もないことのように思う人があるかもしれないけれども、これは物理学者が物理実験室やビキニ環礁で行なう実験と同じことである。

 彼らは原爆水爆の実験をして原子力の実在と用途をためしてみるのであるが、わたしたちは、人生という実験場で、「精神」というものを材料として実験し、そこから「罪」の観念(罪悪意識)を引き出してみたらどんな結果が生ずるかを実験してみたのであり、また実験しつつあるのである。

 その点ではわたしたちは宗教家であるというよりも科学者である。やがて全人類は想念・感情の力が原子力よりもなお偉大なる力であり、人間の幸不幸はそれによって左右されることをことごとく知る時が来ることを信じて疑わないのである。

 本書はある意味においては人類への無罪宣言である。この宣言を素直に受けて信ずるものは、今まで自己を縛っていたあらゆる不幸から解放されるはずである。

 人間の解放には外からの物質的解放と、内からの霊的解放とがあるが、本書は、罪の本来無を説き、その実証を示すことによって後者の役割を果さんとするものである。幸いに、本書によって読者諸賢が自己解放を遂げられ、以前に優(ま)した幸福な生涯を送ることをえられれば喜びこれに過ぐるものはない。

      昭和三十七年九月二十日

                     著 者 し る す

3270復興G:2013/11/01(金) 15:04:34 ID:AB6RqYXc

 上記 『生命の實相』 第6巻 「はしがき」 に書かれていますように、

<< 人類の不幸の根元を知らない人が多い。不幸の根元のうち最大なるものは、自己を罪人(つみびと)とする人類の罪悪意識であり、その罪悪意識が潜在意識にあるがために、人類は自己処罰として一切の不幸(戦争・病気・不慮の災禍等をも含めて)をつくりつつあるのである。>>

 というその 「一切の不幸(戦争・病気・不慮の災禍等をも含めて)」 には、自然環境破壊ということも含まれると思います。

 そのことは、>>3258>>3259でも触れていたとおりです。

 生長の家が宗教団体としてなすべき最も大切なことは、環境破壊のもとになっている 「人間は罪の子である」 という罪悪意識から人類が解放されて、

 ◎ 「人間は神の子である」 という 「中心自覚」 「根本自覚」――「この中心から外的な一切の善きものが流れ出でる円の中心のような自覚」 を呼び覚ますことにあるのではないでしょうか。

3271a hope:2013/11/01(金) 21:32:05 ID:/9IAdiFk
復興Gさま みなさま こんばんは

今月から、web誌友会の範囲が「生命の實相」第6巻になったのですね。
わたしは、現在、第30巻を拝読中ですが、第6巻も合わせてお勉強させていただきたいと思っています。

わたしは今までweb誌友会で、雅宣先生の教えのおかしいと思うころをたくさん批判させていただいてきました。

ですが、最近は、雅宣先生や純子先生のキノコ採りや、マウンテンバイク等のブログ内容なんかを拝見しているうちに、
今まで一生懸命そんなことをしてきた自分をとても馬鹿らしく感じています。

そしてそんなことに自分のエネルギーと時間を使うよりも、聖典「生命の實相」を拝読して一日も早く「真理」を悟りたいと思うようになりました。

これは正直な気持ちですが、わたしにそういう決意をさせてくださった雅宣先生と純子先生には、今、心から感謝しています。

ですからわたしは、これからはこのweb誌友会板では現象の生長の家教団に関することに関しては発言を控え、
純粋に「生命の實相」の真理を学ばせていただきたいと思っています。

みなさま、どうぞ、素晴らしい聖典「生命の實相」を拝読されて、このweb誌友会板で感動したところなどを教えて下さいね!

復興Gさまいつもご指導ありがとうございます。
発言は少ないですが、いつもお勉強させていただいています。

今月もどうぞ、よろしくお願いいたします。

3273トキ:2013/11/01(金) 22:16:15 ID:I.hjCShY
実は、今日は、朝から夕方まで、営利目的の投稿の削除で何も投稿できませんでした。
が、営利目的も投稿が多いのは、実は、閲覧者様の数が多い掲示版であるという証拠でもあります。
 閲覧者様がいて下さってこその掲示版ですから、心から感謝しています。

それも、投稿者様の皆様、特に復興G様のご指導のおかげと感謝申し上げます。


 11月ですが、みなさま、web誌友会をよろしくお願いいたします。

合掌 ありがとうございます

3274復興G:2013/11/01(金) 22:32:51 ID:AB6RqYXc

a hope さま 皆さま

 ありがとうございます。

 私は、明日はある所で谷口雅春先生の 『光明法語』 をテキストにした勉強会をすることになっているので、その 「11月の法語」 を予めよく読んでおこうと、拝読しました。その中で、特に次の箇所で深く感ずるところがあり、考えさせられました。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

   十一月三日の法語 神の子の美を讃美せよ

 無いものは否定する必要もない。病気の姿を思念をこらして一所懸命否定するのは、病気をありと認めて、それに対して戦っていることになる。病気は益々あるかの如くその姿をあらわすのは 「ありと認めて」 いる念の力に支えられて姿を現すのである。

 病気の念を捨てなければならない。吾らは病気に対して戦う事も否定する事も要らない.、吾らはただ人間が神の子であること、美しいこと、健康であること、老いない、死なない事を讃美して歌をうたえば好(よ)いだけである。

   十一月十四日の法語 自然の彫刻にまかせよ

 常に自然であれ。そのままであれ。神にまかせよ。力んではならない。自分で無限に人生を彫刻しようと思ってはならない。自然の彫刻は人間の我(が)のこころの彫刻よりも美しいのである。この根本真理に従って、事件が起った時、その事件の処理を行うべし。我を出したら頭を打つのである。急いだり、焦ったりしては躓(つまず)くのである。

 雪の一片一片の結晶が決して同一デザインのものがない様に吾等の生活の設計も同一なものはない。然も自然の彫刻はそれ自身で完全である。

   十一月十五日の法語 「声」と「コトバ」

 祈りには自力の祈りと、他力の祈りとがある。自力の祈りは、洗礼のヨハネの如く 「曠野(あらの)に叫べる声」 である。曠野とは、そこに神の生命が満ちていないと云う意味である。人と人とは個々に孤立していて、神の生命によって互いにつながっている自覚がないのである。互いに呼び交わす声は、声にとどまり、互いに意味が疎通する 「コトバ」 にはなっていない。互いに意味が疎通するには一人の生命の動きが神と云う共通の媒介によって他の人々の生命の動きと共感しなければならぬ。

   十一月十六日の法語 傲(たか)ぶる心を捨てよ

 神のコトバは宇宙に充ち満ちているのに、そのコトバをきく事が出来ないのは、自分の内に宿る 「神のコトバ」 を覆い、それを宇宙に満つる 「神のコトバ」 と波長を合わせる事をしないからである。自己内在の神性を覆えるものは 「傲(たか)ぶる心」 であり、「わしが」 「わしが」 の心である。「わし」 と云う力みは、海面上に浮き出ている氷山の部分みたいなものである。表面を力んで見詰めていると、氷山の底の部分が一層大きなものであり、普通の海水で互いに繋(つなが)っている事を忘れる。

   十一月十七日の法語 吾らは神の生命の枝

 「われは葡萄(ぶどう)の樹(き)、汝らは枝なり」 とイエスは言った。そして又 「われと父とは一体なり」 とも言ったのである。かくて吾らは 「天の父」 の枝なのである。われらの生命は天の父より来(きた)るのである。更に 「枝」 と 「枝」 とは互いに孤立することなしに、葡萄の樹の生命によって互いに一体なのである。

 「何人(なんぴと)もわれによらで父に来る者なし」 とイエスが言ったのは、「何人もイエスと同じき神の子の自覚によらずして天の父と一体になることなし」 と言い給うたのである。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 ありがとうございます。

3275ユタカ:2013/11/02(土) 06:55:06 ID:R1D4Jmeg
ありがとうございます。

もう月が替わって11月!! カレンダーもあと2枚! 一年って早いですね。

そして第6巻に突入! この間では 不幸の根源である人類の罪の意識を拭い去ることです。人間が本来罪なきことをを理論的に、体験実話を集めて述べた本書は、世を照らす太陽です。(本のカバーから)

上級な復興Gさまやみなさまと違ってユタカの心は、怒りの心で真っ黒です、なのでこの第6巻を熟読していきたいと楽しみです。
まとまった時間はないので、常に携帯してチョコチョコ読んで喜びたいです。


ユタカの 生命の実相の第6巻 の表紙裏の6巻の言葉は  『 感 謝 』 とあるので、今月ユタカは生活のなかで感謝唱行していきます!

6巻は初めから読んでいて嬉しい気持ちになります。 復興Gさま、トキさま、ahopeさま、みなさま、今月もよろしくお願いします。


トキさま、毎日のメンテナンス大変ですね、いつも私達の安全を守って下さってありがとうございます。

3276ユタカ:2013/11/02(土) 06:57:54 ID:R1D4Jmeg
訂正
>3275の 3行目 この間 という言葉は削除して読んでください。 単なる削除忘れ。

3277ユタカ:2013/11/02(土) 07:29:11 ID:R1D4Jmeg
いつ感謝するの?  ちょっと古いけど・・「今でしょ!」

私の怒りの心こそ 病念の素ですよね? ちょっと教化部に行っただけで、私の人相が悪くなってしまいました。 
素を絶たつと言う事は感謝の心というように思いましたので感謝の心で満たされるよう訓練していきます。

ちょ

3278復興G:2013/11/02(土) 09:27:30 ID:AB6RqYXc

 おはようございます。

 11月の 『光明法語』 後半の方で、魂にひびいたお言葉――

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

   十一月十九日の法語 心柔和なる者

 氷山が(個人の喩<たとえ>)顧みて自分の脚下(きゃっか)を見るとき、自分の存立が自分によって成立っているのではなく、海水によって成立っているのだと知るとき、自己の高慢が摧(くだ)けるのである。これをパウロは 「自己に死にたる者」 と言い、洗礼のヨハネは 「悔(くい)改め」 と言い、イエスは 「柔和なるもの」 「へりくだれる者」 「貧しき者」 「悩めるもの」 「振返りて幼な児の如くなれる者」 などが神の国に人る事が出来ると言ったのである。「わしが……わしが……」 と云う自己が摧(くだ)ける事が必要である。


   十一月二十九日の法語 無条件降伏

 神への無条件降伏こそ、無条件[幸福]の源泉である。無条件降伏はただの観念の問題ではなく、それは一つの実行である。それは、上衣(うわぎ)をとらんとする者には下衣(したぎ)をも与え、十里の公役(こうえき)を強(し)いられなば二十里を行き、右の頬を打つものあらば左の頬をも打たしめる実行である。これを実行したときに奪われた上衣は戻り、敵は味方となり、二十里を行って益々疲れず愈々元気旺盛となるのである。与えることのうちにこそ、すべての自由と、無限供給の源泉があるのである。

   十一月三十日の法語 与えよさらば与えられん

 「求めよ、さらば与えられん」 と教えられている。併(しか)し 「与えよさらば与えられん」 と云う事は更に真実である。子供が重病に罹って医者が手を放した様な場合に、「神よ、この子を是非いやし給え」 と祈るよりも、「神よ、御心のままになし給え」 と完全に神に対して、自分の子を与えてしまった方が、癒えるる事が早い。何故なら、 「是非いやし給え」 と祈っている時は、その子の親の執着が子供の生命を縛っているけれども、神に与えた時には執着で子供の生命を縛る事がない。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

ありがとうございます。

3279再掲:2013/11/02(土) 15:36:52 ID:???

名前:曳馬野 投稿日: 2013/11/02(土) 15:21:47 ID:vpari8YQ


雅春先生を否定するものは投稿しないでくださいがトキさんですよね。

前にも書きましたがこの掲示板の設立目的が分からないのです。

3281あさひ:2013/11/03(日) 01:46:46 ID:u9w/1zYY
>雅宣総裁は、今の現象から見ると、「ワンダー・フル」 (不可解なことがいっぱい) な総裁です。

 しかし、もっと長ーーーい目で見たら、本当に 「ワンダフルな」 (素晴らしい) 総裁なのかも知れません
よ<

うまい表現に感心しています。

3282ロレックス サブマリーナ ブルー:2013/11/04(月) 15:48:45 ID:???
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3283a hope:2013/11/04(月) 19:07:37 ID:/9IAdiFk

みなさま こんばんは

今回のweb誌友会の範囲である『生命の實相』第6巻のはしがきを>>3269で復興Gさま謹写してくださっています。
その最後の方に、

<<本書はある意味においては人類への無罪宣言である。この宣言を素直に受けて信ずるものは、今まで自己を縛っていたあらゆる不幸から解放されるはずである。>>


という文章があって、その中に<人類への無罪宣言>という表現がありますが、それを拝見しましたら、
楠本加美野先生が類纂された『人類無罪宣言』を思い出しました。
それは、加美野先生が「生命の實相」の各章から「罪本来なし」に関する文章を抜き出して、系統的にまとめられた聖典なのですが、
その中には今回のテキスト中の『第一章「宗教上の「罪の赦し」について』は第5章として編纂されています。

今回、あらためまして楠本加美野先生のお書きになった「編者のことば」を拝読させていただきましたが、とても感動しましたので、一部抜粋紹介させていただきますね。

(つづく)

3284a hope:2013/11/04(月) 19:09:32 ID:/9IAdiFk
(つづき)

<<・・・私は昭和三十一年、宇治修練道場に於いて練成の手伝いに励んでいた頃、
後に述べるが如き家系に係る業因について悩んでいたのであるが、練成局長である徳久克己理事から、
『生命の實相』の各章から「罪本来なし」に関する文章を系統的にまとめて抜粋筆写して
潜在意識の中にある ″罪″の観念を徹底的に消去するよう勧められました。

その頃宇治では山を崩し、谷を埋める献労を中心とした練成をしていました。
私は昼間は山崩しに全精力を捧げ、夜は『生命の實相』をひたすら読み「罪本来なし」の問題にとりくんでいました。

私は新しい気持ちで『生命の實相』を読みはじめました。
入信まもなくの頃『生命の實相』十回通読を念願にたて、四回までは毎日毎日少しずつ読みましたが、
それからはわかりきった事を読むような気がして、思い出しては読む程度で八回通読しました。
今度はテーマを与えられた事によって、今までと全然違った感激をもって、読むことができました。
すると、今までわかったような気がしていたのが、実は漠然としていてさっぱりわかっていなかったことがはっきりしてきました。
先ず罪の問題を全て『生命の實相』から抜き書きしました。
次に谷口雅春先生のあらゆる御本から抜き書きしました。
しかしそれを系統的にまとめる事が難事でした。
何回もあきらめようとしましたが、その度に徳久先生から励まされ、終りに「祈りなさい」と言われました。

私は四時に起きて神想観をすることにしました。
二か月位つづけた時、目次がひらめきました。
それは、″苦行不要″ ″犠牲不要″ ″神罰なし″ ″罪なし″ ″懺悔″ ″因果を超越する″でした。
私は希望に燃えてまとめ出しました。

その頃、それまで三回も流産してその後、子供が宿らなかったわが家に、神の子が宿りました。
そしてこれまでの研究を「人類無罪宣言」としてまとめ上げた時、長男が生まれました。
谷口先生から行孝(ゆきたか)と御命名いただきました。・・・>>

(つづく)

3285a hope:2013/11/04(月) 19:13:11 ID:/9IAdiFk
(つづき)

わたしが何に感動したかといえば、加美野先生が「本来罪無し」の真理を悟られるためにものすごい努力をされていたということにです。
現在、宇治別格本山の長老としてたくさんの奇蹟を起こされて、たくさんの魂を救われている加美野先生ですが、
当時は真理を悟るために、聖典『生命の實相』を8回も通読されて、さらに「人類無罪宣言」を編纂するのにも大変な努力をされていたのですね。

過去には、そのような努力をされた講師の先生方が沢山おられたのではないかと思います。

復興Gさまも、過去の一時期「生命の實相」ばかり拝読していた時期があるとうかがった気がします。

わたしは、大熊先生の「いのちを守る親の会」の会員なのですが、以前、大熊先生とお電話でお話させていただいたときに、
大熊先生ご自身も何度も「生命の實相」は拝読されたとおっしゃっていました。
そして、わたし自身にも完全読破をすることを強くお勧め下さいました。

大熊先生の個人指導の内容等をブログなどで拝見すると、『生命の實相』中に紹介されている個人指導の内容にとソックリだと感じています。

わたしは「生長の家の教え」を法燈継承するためには、聖典「生命の實相」の繰返しの拝読、それは絶対に外せない事だと確信しています。

3286a hope:2013/11/05(火) 09:45:58 ID:/9IAdiFk

またまた大熊先生のブログのご紹介をさせていただきます。
素晴らしい「生長の家」のご指導ですよ!

無意識に子を虐待してしまう<相談事例>

http://blogs.yahoo.co.jp/panda41415151

3287うのはな:2013/11/05(火) 10:15:00 ID:3Wm0z1bo
 a hope さん、お久しぶりです。
以前a hope さんのことをあほだといって、なんておっせかいに非難してくる人がいたので、
今日は讃嘆させていただきましょう。

 『生命の實相』の一巻から六巻までは特に重要だ、なんていう話を、昔、講師から伺いました。
a hopeさんは、いつも人の五倍くらい聖典を勉強されてるようで、その求道心の濃さみたいなものに
感銘を受けています。

 追従しながらすこしずつ勉強させてもらっています。
 これからもがんばってください。

 合掌 ありがとうございます。
  拝。

3288chanel 財布 2013:2013/11/05(火) 10:33:33 ID:???
シャネル 財布 カンボンライン
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3289流氷:2013/11/05(火) 11:00:52 ID:601yv0.U

 シャネル先生を呼び捨てにしているな!貧民街へでも行け!

3290流氷:2013/11/05(火) 11:06:28 ID:601yv0.U
 部外者に使われている教区幹部さまへ

 上の3288、3289、と今のこの投稿を削除してください。
 誌友会版で失礼いたしました。

3291復興G:2013/11/05(火) 15:00:09 ID:AB6RqYXc

あさひ様、a hope様、うのはな様、皆々さま。

ありがとうございます。

三連休の期間、私はネットを見る暇がないほど、他のことでいそがしく働いていました。元気で働けることがありがたいです。


>>3281 あさひ様

 「ワンダフル」 についての上記 私のコメントは、曾野綾子さんの 『人間にとって成熟とは何か』 という本からヒントをもらいました。

<< (p.20〜 )
 英語の 「ワンダフル」 は 「フル・オブ・ワンダー」 ということで、実は驚きがいっぱい、ということだ。すばらしい、という表現の基本には 「想定外」 が含まれるらしい。もし想定通りに事が進んだら、必ずしもワンダフルではないのかもしれない。

 驚きがいっぱいであることが、すなわちすばらしいことなのだ、という発想は実は宗教的な解釈なのだろう。神などいるものか、と言う人の考えに私は反対したことがない。神がいるかいないか、誰一人として証明できる人はいないのだから。

 ただ私は、神はいるという保証もないが、同じように神などいない、という保証もできないものだと思っているだけだ。(中略)

 善しか人道として許されるものはなく、したがって自分は善を追う人道の道を歩く、と簡単に信じ、信じているだけでなく、それを強烈にアピールする人と私は付き合えない。なぜなら少なくとも私は、そんなにいいことだけして生きようとしていないし、そう思う人は自己満足であって、何が社会や相手にとって正しくいいことかはそんなに簡単にはわからないことが多いからだ。

 いつも言うことだが人は皆ほどほどの生き方をしている。身勝手なような人も意外と他者のことも心に留めている。社会正義は誰でも好きなのだが、それも時と場合と程度によって簡単には決められないと密かに考えて悩んでいる。アラブの人たちはこの正義という点に関してもっと大人で正直だから、彼らは格言の中で次のように言っている。

 「正義はいいものだ。しかし誰も家庭ではそれを望まない」

 家の中で正義を貫いているというのは嘘だし、端的に住みにくくなるということだからだろう。>>

3292うのはな:2013/11/05(火) 19:29:08 ID:LuPv6mG2

合掌 ありがとうございます。

 いつも横から閲覧だけしているようで参加者の皆様には恐縮いたします。
 私は初めて練成会に参加する前に、近所の誌友さんから『神想観』の本や
 テープを借りたことを、昔のことをよく思い出します。
 そこで、みなさまにお聞きしたいのですが、神想観するとき、その環境や
 周囲のことで、何か気を遣っているところ、こだわっているようなことがあるでしょうか?

 私は夜でも昼でも、薄暗いところでは絶対やらない。灯りを煌々とつけるということや、
 暗くなったら窓は必ず閉めて行うように気をつけています。
 なにか意見があればお聞かせください。

 拝

3293復興G:2013/11/05(火) 20:07:34 ID:AB6RqYXc

>>3283 〜3286 :a hope さま

 『生命の實相』 第6巻はしがきの 「人類無罪宣言」 に関して。

 私も、「罪の子」 の観念から自己処罰の意識が強くて、死にたいと思ったり、死ぬような病気をしたりしたことがあります。

 前にも書いたことがある、高校2年のとき(今から60余年前)のことですが――

 ある日腹痛を起こし、もう七転八倒の苦しみで、高熱がつづき、日赤病院に入院しました。盲腸炎がこじれて腹膜炎で、炎症が進み腸に癒着が起きている。そんな状態で最近死んだ人がいると言われました。私も死ぬのだと思いました。「罪の価は死なり」 とイエスは言っている。自分は罪深いものだから、こうして死ぬのだ、という思いでした。

 その 「罪」 とは、特に性欲の問題です。性欲は汚らわしいもので、「罪」 だという思いが深かったのです。その性欲の虜になってしまう自分は、汚らわしい罪の子で、その罪の価は死なのだ――という思いが潜在意識に深く存在していたように思います。

 それは、今から考えると、やはり先祖からの業(ごう)――家系に係る業因を受け継いで来た結果のように思われます。

 そのひとつは、祖父母が必ずしも仲良くなかったこと。

 祖父は医者をしていましたが、その助手・看護師の役をしていた女性にも、一人の子を産ませているのです。

 それは以前、父の戸籍謄本にそのことが記されているのを見ました。父には一人の異母弟がいる。その生母の名も記されているが、父の異母弟(私からいえば叔父)は祖父母の戸籍に入れられていて、生母はその後どうされたかわからない、という状態なのです。

 それで、祖母は悩み、浄らかなものを求め、キリストの教えに救いを求めて教会に飛び込んだと思われます。

 亡くなった時、キリスト教の教会で葬式をし、教会に納骨堂を作ってもらってそこに遺骨が納められています。

 ところで私の死にかけた病気のあとですが――

 私は死を覚悟しました。しかし、死にませんでした。父が、枕元に 『甘露の法雨』 を置いていてくれ、祈ってくれているようでした。日に日に痛みがとれてきて、ついに退院ということになりました。手術はしませんでした。

 そうして家で少し静養していたある日のことです。
 「天地がひっくり返るような、人生観の大転換が、突然何ものかの力によって、なされてしまったような感じ」 という体験をしたのは・・・・。

 そのことは、web誌友会板(1)の>1589
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1336818752/1589

 に書いていました。

 「肉体の自分は、本来なかったんだ! 自分は、生命だった! 出せば出すほど限りなく出てくる生命だったんだ!」 と目覚めた思いがしました。

 それは、祖母が霊界から導いてくれたという思いがしました。

 それから約60年たちました。いろいろありましたが、最近のことでは、>>2501に書いたようなことも起こったのです。

 今、言われている 「日時計主義」 で、「吾れは太陽の輝く時刻のみを記録す」 ということですが――

 わが内にすべてがある! 自分の中に太陽がある! 自分が太陽である、光である! と思えるようになりました。

 「自分が太陽である! “吾れは吾が輝く時刻のみを記録す” だ!」

 それが 「日時計主義だ!」 と思えるようになりました。

 時間は、本来ない。したがって、時間のなかに表現された一切のものは、本来ない。闇は、本来ない。罪は、本来ない! と思えるようになりました。バンザーイ! です。

 ありがとうございます!

3294復興G:2013/11/05(火) 20:23:39 ID:AB6RqYXc

>>3292 :うのはな様

 ご投稿、ありがとうございます!

 いつも、神想観をされているんですね。すばらしい!

 神想観をするときは、暗いところで行うと低級霊がかかってくることがあるから、なるべく明るいところでするのがよいと、谷口雅春先生のお教えにあったと思います。

 私も、夜でも電気をつけて、明るいところでしますね。

 ただ、ちゃんと正坐しての神想観ではなく、随時 電車の中ででも眼をつぶって祈るような場合もあります。そんな場合でも、暗いところで祈った記憶はありませんね。

 特に気を遣っているとか、こだわっているわけではありませんが、自然にそうなっている感じです。

3295復興G:2013/11/05(火) 20:47:20 ID:AB6RqYXc

 テキスト 『生命の實相』 第6巻 第1章 冒頭のご文章を謹写、掲示させていただきます。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

   第一章 宗教上の 「罪の赦し」 について

       昭和九年三月本部道場において修行者たちに話した悟り

     わが実相の中にすでにすべては在る

 「生長の家」 が人類に告げんとするところは、人間の実相のなかにすでにすべてのものが備わっている、外に求むるよりも内に求めよということであります。

 ――わが実相は 「神の子」 であり、神は無限者であり、人は神の子として神の世嗣(よつぎ)であるから、欲(ほっ)するすべての事物はすでにわが持ち物であるのであります。

 すべてのものは今現象界のわが手になくとも、神の御手にあるものはすべて世嗣たるわれらの自由使用にゆだねられているのですから、すでにすべての物をわれらの手に与えられているわけであります。

 富を欲する者は無限の富をわが実相から引き出すことができまするし、生命を欲する者は無限の生命をわが実相から引き出すことができまするし、能力を欲する者は無限の能力をわが実相から引き出すことができるのであります。親の富は同時に世嗣の者の富なのであります。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 ――>>3128でユタカさまが言われた 『光のある内に』 の

<< 人間は本来神の子であって、神の世継として、神の全財産をゆずられている。 神の全財産とは全宇宙のことです。

 全宇宙のすべての宝が自分の中にあるんですから、これ以上、何も外に求めることはない。 みんな自分のうちのある。

 ですから人間はただ喜ぶことしかないんです。

 ただ与えることしかないんです。

 だから私たちは本来喜びの歌をうたうしかないんですね。

 そして喜びの歌を歌えば、どんどん喜ぶべき世界が展開してくるんです。>>

 ということの典拠も、ここにあったんですね。

3296うのはな:2013/11/05(火) 20:52:18 ID:bcSF0IXc
>>3294 復興G様

 早速にコメントいただきまして、ありがとうございます。
 雅春先生の教えにも、明るいところで行なうことなどはよく知られていますね。
 それとは別に、私は最近、夜は魔が入りやすいから窓は閉める、ということも
 注意しています。私も以前は空いた電車の中で、世界平和の祈りなど黙念していました。
 たしか、電車の中の乗客の皆様の幸せを祈りましょう、というような白鳩会での指導があったころです。

 しかし、観行篇は六巻ではなかったですね。
 すこし脱線した質問で失礼しました。
 今後もよろしくお願いします。
 感謝 拝。

3297復興G:2013/11/05(火) 20:55:32 ID:AB6RqYXc

 昔の神誌 『生長する青年』(『理想世界』の前身) で、自動車王ヘンリー・フォードと光明思想家 R.W. トラインとの対話を連載で紹介してくださったことがあります。

 私は青年時代に、「これだ!」 と深い感銘を受けたのでした。

 その中で、印象的な言葉として今でも覚えているのは、つぎの言葉です。

<<フォード――天才とは、忍耐です。忍耐とは、徹底的実行です。

      内なる価値を磨き出せ

 トライン――一体成功の秘訣とか方法とかいうものがありましょうか? この言葉をあなたはお喜びにならないでありましょうが、とにかく我々がこの世に出て成功を得る方法ですね。青年男女が、この社会に漕ぎ出でて、順風に帆を上げて目的地にまで航海する方法ですね。

 フォード――それにはまず、まず何を成さんと欲するかを決定して、その決定したところのものに敢然として着手するのですね。その目的に終始一貫して、決して気を変えないことですね。そして常にその方向に向かって全力を注いで、自分を磨き出すのです。根本的法則としては、自分の手のとどくかぎりにある仕事を十分深切にやり遂げるのです。これが肝心です。

 自分の手のとどくかぎりにある仕事を十分深切にやり遂げるように努力すれば、それがどんなにつまらないように見えても、自分自身の内にある価値を磨き出してくれるものです。誰でも気がつかないが内にある自分の価値を磨き出すということが何よりも大切なんです。

 成功は外にあると思っていては間違いです。成功は必ず内にある。何でも皆、はじめは内にあるのです。内にあるものが鏡に映るように外界に映って形をもった現実となるのです。

 『外』 『外』 とばかり成功を心がけていては、たとい一時成功したように見えていても、砂の上の楼閣で、すぐ崩れてしまいます。内にある自分の価値を磨き出すだけでも一つの大いなる成功じゃありませんか。外の成功は、内の成功の影にすぎません。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 成功も、外にあるのではなく、内にある。内なる価値の展開が、外なる成功なのでした!

3298復興G:2013/11/05(火) 21:19:41 ID:AB6RqYXc

>>3296 :うのはな様

 「観行篇は六巻ではなかった」 けれども、第6巻でも神想観について書かれていますよ。謹写させて頂きます。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

     すでに成る天国

 「祈り」 はこの信念を強くする役目をするのであります。

 「御心の天に成るがごとく地にも成らせ給え」 というイェスの祈りによりましても、イエスも神の御旨(みこころ)はすでに 「天」 すなわち 「実相の世界」 においては成就していることを知っていたのであります。

 すでに成れる 「実相の世界」 を祈りで変化するなどということはないのであります。

 「実相の世界」 はすでに改造するも改造しないもない、すでに神の御心のままに完全にでき上がっているのであります。それは既成の世界であります。

 神を知る者は、神の完全さを知る者は、神の無限能力を知る者は、

 「神が造った実在の世界はすでに完全であるぞ。」

 「ハイハイ、ありがとうございます。」

 「神が造った実在の人間はすでに完全であるぞ。」

 「ハイハイ、ありがとうございます。」

 ただそれだけでよいのであります。文句も理屈もいらないのであります。ただハイハイと受ければよいのであります。

 「お前は神の創造った神の子である。神の子が病気になったりするものでないぞ」

 といわれたら、

 「ハイハイ、ありがとうございます。神の子であるわたしは病気でないことがハッキリわかりました」

 と素直に答えるのが 「本当の祈り」 であります。

 神が何か自分に与えるのを忘れているかもしれぬから、声を出して時々神様に注意を与えるつもりで神を呼ぶなどは神の全知を無視したもので、不信心もはなはだしいのであります。

     神想観の極意

 「生長の家」 では神想観といって、坐禅観法によって自己の実相を観ずるような修行をいたしますから、大変むずかしい修行のように思う方がありますが、神想観の修行というのは、この 「ハイハイ、ありがとうございます」 の修行なので少しもむずかしいことはないのであります。

 「お前は神の子だ」 と自分の心に呼んで

 「ハイハイ、わたしは神の子でございます、ありがとうございます」

 と受ける行事が神想観なのであります。神想観において

「神の生命がさきはえられて、自分に流れ入って神の生命が自分の生命となる」

 と観じながら静かに息を吸うのは、

 「お前は神の子だ」 と自分自身に対して呼びかけ、その事実に対して注意を促しているのと同様なのであります。(後略)

3299トキ:2013/11/05(火) 22:18:45 ID:Lxq0GaG.
>>3298

 素敵なご指導、ありがとうございます。

 神想観は、入信して時間のない人は、悩む事が多いみたいです。
形式的な指導がメインになりがちですが、実際にはこういう指導が大切なの
でしょう。貴重な内容だと感じます。

合掌 ありがとうございます

3300復興G:2013/11/05(火) 22:36:55 ID:AB6RqYXc

トキ様、ありがとうございます。

3301a hope:2013/11/05(火) 23:01:55 ID:/9IAdiFk

みなさま こんばんは

>>3287うのはなさま

わたしを讃嘆してくださり、嬉しいコメントをありがとうございます(涙)


<<『生命の實相』の一巻から六巻までは特に重要だ、なんていう話を、昔、講師から伺いました。>>

わたしも本当にそうなのだと感じています。
なぜなら、今までこのweb誌友会で第5巻まで(現在は第6巻ですが)みなさまとじっくりお勉強させていただいたおかげで、
わたしはかなり、生長の家の教えを体得できてきているような気がしているからです。

今まではとても難しく感じていて、読み飛ばしていた『万教帰一篇』も、
今ではとても良く理解できるようになっていて、自分でも驚いています。

本当に復興Gさまやトキさまはじめ、このweb誌友会に参加くださたすべての方々のおかげで、
アホのa hopeは、どんどん生長させていただいているのだと思います。
みなさまには、心から感謝しています。

また、うのさまがいつも見守ってくださっているのも、とても心強く感じていました。
今回は、参加までしてくださっていて本当にうれしくてうれしくて、涙がでそうです。


>>3293復興Gさま

御祖父母さまに関する貴重なお話をありがとうございます。合掌。
復興Gさまの御祖母さまが、なぜ当時は珍しかったであろうクリスチャンだったのかすこし不思議に感じていましたが、
今回のお話で納得できました。

復興Gさまの御家系にも、やはり<<先祖からの業(ごう)――家系に係る業因を受け継いで来た結果>>が存在していたのですね。


ちょうど、1年前のweb誌友会での復興Gさまの素晴らしい体験談が含まれた当時の内容を再拝読してきました。


web誌友会板(1)の>1589
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1336818752/1589


復興Gさまのお話の内容に再び感動するとともに、あらためましてこのweb誌友会のレベルの高さに驚いています。

もっとじっくり他の内容も拝見していたいのですが、実は、明朝、職場の健康診断がありまして、
わたしは今夜は10時以降は飲食禁止なのです。
これ以上起きていると、何か食べたり飲んだりしてしまいそうなので、今夜はもうおやすみしますが、
また時間のある時に、ゆっくりと内容を拝見させていただきます。

それではみなさまおやすみなさい。

3302トキ:2013/11/06(水) 09:43:02 ID:L78yryKo
>>3300

 こちらこそ、深く感謝申し上げます。

 思うのですが、ベテランと言われる人には常識とか考えた事がない疑問を、入信まもない人は結構、
感じるみたいです。

 個人的には、招神歌が疑問でした。ある講師は、「招神歌は大切です。テープがありますから、あの
通り、節から外れないように、徹底して練習しなさい」と言い、別の講師は、「招神歌は大切です。
神様とつながる機会ですから、心を神様にだけ振り向けなさい。最初は少々節から外れてもいいです
よ。」と言われたので、どちらが大事かわからないまま、結局、テープに合わせて練習はしたので、
普通に唱えられるようになったので、疑問も忘れてしまった事がありました。(高校生の頃です。)

 実は、こういう些細な疑問と、それに対する回答こそが大事ではないか、と感じた次第です。

合掌 ありがとうございます

3303トキ:2013/11/06(水) 10:10:08 ID:dkHqmOAw
 復興G様のご回答は、行き届いており、さすがと思いました。
ありがとうございます。

3304復興G:2013/11/06(水) 11:03:02 ID:AB6RqYXc

>>3302 :トキ様

ありがとうございます。 おっしゃるとおりですね。

招神歌については、私は
「招神歌は大切です。神様とつながる機会ですから、心を神様にだけ振り向けなさい。最初は少々節から外れてもいいですよ。」

の方が、第一義だと思います。

というのは、服部仁郎先生は重症の肺炎で呼吸困難になり、医者から見放された時に、一冊のパンフレットと招神歌をメモした紙を同業の片岡環(たまき)さんからもらい、その招神歌を、節回しなど全然知らないまま読んだ時に、「自分が生きているのではない。神が生かしてくださっているんだ」 と思っただけで、呼吸がすーっと通って楽になり、起ち上がられた。そして、多くの人を悟りに導き、病いを癒す力も得られたのです。

その服部先生の招神歌は、すごいオンチだったということで有名です。


また、『真理は死刑の鎖も断つ』 の著者遠藤義雄先生は、大東亜戦争後、海南島に戦犯容疑で死刑囚として判決を受け抑留されていた時に、『生命の實相』 第6巻(全20巻ものの第6巻で「万教帰一篇」)と聖経 『甘露の法雨』 を差し入れられ、読むと人間は霊的実在で不生不滅だと悟り、死刑の執行が恐ろしくなくなった。

そして 『甘露の法雨』 の前に書かれている招神歌を念じ 『生命の實相』 に書かれている神想観を、おおよそこうするのであろうと実行したら、群がる蚊が黒ごまを振りまいたようにたかっていたが一匹も氏の血を吸うものがなくなるなどの奇跡的な状態が現出し、中国人の看守が免刑の嘆願書を中央政府に出してくれて、無罪となり生還された、というようなことも起こったのですからね。

招神歌を上手に唱えたから救われるというものではないのですね。

形から入るのも一つの方法ではありますが、大切なのは形よりも心だと思います。

3305復興G:2013/11/06(水) 11:24:59 ID:AB6RqYXc

>>3301 :a hope さま

うれしいコメント、ありがとうございます。

私は、この『生命の實相』 第6巻は、特に素晴らしい大切な真理が書かれていると感じています。

今回こうしてweb誌友会で学ばせて頂いて、また一層深く魂にひびき、ありがたい極みです。

第1章 18頁からの 「罪を消す道」 なども、再読心読して、深い感銘を新たにしています。

私も、a hope さまに負けないよう、勉強して行きます。

ありがとうございます。

3306復興G:2013/11/06(水) 11:58:25 ID:AB6RqYXc

トキ様 皆さま

私が>>3304で申しましたは、テキスト『生命の實相』第6巻23頁からの 「本来罪なし」 のところに書かれていますね。24頁には

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 ……声の節廻しのじょうずへたと、霊魂の進歩すなわち 「実相の開顕」 との間にはなんの関係もないことであります。

 神は祈りの節廻しの上手さに感動してその者の祈りをかなえてくださるものでも、祈りの節廻しが下手だから応えてくださらないのでもありません。神は音楽のじょうずへたによって霊験を左右し給うものではないのです。

 神は「実相」の中にのみいますのですから、「迷い」 を去り、「虚飾」 を去りさえすれば、自然に神が顕われ、すべてが備われる 「実相」 の常楽の状態があらわれて来るのです。これこそ神の霊験というべきものです。

 実相絶対の神を知らず、「祈りの言葉」 でいい加減に言いくるめてやりさえしたら、神から霊験を詐取(さしゅ)することができるというような、不敬な考えを神に対して抱くべきではありません。

 祈りの価値は卑劣な心で、霊顕を乞食のように請願(せが)みとることにあるのではないのです。金光教祖も 「霊験はわが心にあり」 といわれましたが、霊験は心の目がひらいて、神を本当に知り、神と自己との本当の関係を知ったとき、すでにすべてが備われる 「実相」 のなかから、自然にポッカリと現象界に浮び上がって来るものなのです。

 だから、心の目を開いて実相を顕わすことを求めず、現象そのものに霊験御利益をもとめる祈りはすべて、卑怯な、乞食的な、哀願的な、一の功徳をもって百の報いを得ようという虫のよい利己的な、内の下劣を隠して外に言葉を飾り、報いを得んとする偽善的行為となるのであります。だからわれわれが祈るにはまず 「心の目を開いて実相を顕わす祈り」 を第一にしなければならないのです。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 ――以上はテキスト 『生命の實相』 第6巻の24頁〜25頁からでした。かなり強い言葉でのおさとしですね。

 ありがとうございます。

3307トキ:2013/11/06(水) 20:49:49 ID:o8tDy51c
復興G様、御丁寧なご指導、ありがとうございました。

 確かに、その通りで、招神歌が下手だけど、たくさんの人を救済している講師はたくさんいます。

 思い出したのが、昔、舞鶴の長村婦美子先生の練成を受けた時に、長村先生が、ある講師に

 「あんたの招神歌はうまいなあ。けど、信徒さんは騙せても、私は騙せない。あんたの招神歌
には心がこもっていない!」

と言われたのを偶然、耳にした事がありました。私も信徒として、自戒すべき事だと考えています。

3308トキ:2013/11/07(木) 19:16:13 ID:2msfJH7c
>>3306

復興G様

 招神歌の問題について、最適な場所を教えて下さりありがとうございました。
深く感謝申し上げます。美しいという事は大切ですが、それに心がなければい
けないのですね。改めて感じました。心の持ち方は今でも宿題であります。


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