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Web誌友会 板/2

3254復興G:2013/10/28(月) 10:25:46 ID:AB6RqYXc

<テキスト謹写 つづき>

(『生命の實相』 第5巻 p.126〜 )

       各宗門は家に入る通路

 救われるということは、人間がその本来の生命の自由を得るということでありますから、多くの高徳達識(こうとく たっしき)の開祖たちはその時代に応じ、人に応じて、人間本来の生命の自由を得る門をお開きになりましたのであります。

 その宗門を通って自分が救われたからといってその人が、他の人もその門にはいるように誘いたいというのは人情の当然のことでありますが、「救い」 に到達する 「門」 は、自分の宗門一つで他にそんな 「門」 はないと考えて、ほかの 「門」 から這入ってみたこともない癖に、ほかの 「門」 に難癖をつけたりけなしたりすることは慎しむべきことだと思うのであります。

 それで 「生長の家」 はそういう各派の宗教に対してどういう位置にあるかと申しますと、 「生長の家」 は 「家」 といってなになに教といわないのであります。なになに教といって各派の宗門に対立するような宗門ではないのであります。

 一つの門から他の門へ這入(はい)るのでしたら、一方の門を出てから他の門へ這入らねばなりませんけれども、これは相対的に立っている宗教の門としては必然のことでありますが、それでこそ他の宗門排撃ということも起こるのでありますが、「生長の家」 は宗門ではない。門でないから、他の宗門を出てこの門へお這入りなさいということは申さないのであります。

 「生長の家」 は 「家」 であるから、どの宗門からお這入りになりましても一向さしつかえはありません。どうぞ御遠慮なく御自分の宗門をそのままズッと奥まで、内陣までお這入りなさい。そこに広々とした奥座敷がある――

 その奥座敷が 「生長の家」 というのであって、この奥座敷には、どの宗教門をお這入りになった方でもかまわない。ずっと深くその教えの堂奥までお這入りになるならば必ずそこに到達する――それは広い解脱の境であって、本当の自由の境であるから、もう宗派争いなどということはない。

 あらゆる宗門からお這入りになった方も、皆互いに 「生長の家」 の家族として仲よく手をつないで生活できる境地になる――これが 「生長の家」 なのであります。

 だから 「生長の家」 は一面では人間を和解させるのでありますが、また一面宗教と宗教とを和解させる働きをももっているのであります。

       生長の家とは何か

 そんな自由な宗教があるものかと驚かれるかもしれませんが、「生長の家」 は宗教というべきか生活というべきか、思想というべきか、光明思想普及団体というべきか、教化団体というべきか、わたしは知らないのであります。

 まあ、どのようになりと名前をおつけになるがよい、ただ、在来の宗教というものは、教えというものと生活というものとが離れ離れになっている、教えは教え、生活は生活というふうに分れ分れになっていて宗教は信ずるが、家庭はなっていないとか、家族に不幸や病人の絶え間がないとかいうようになっていて、宗教とは心だけの救い、実生活にはなんの関係もないものだというふうになっていましたが、「生長の家」 では教えがそのまま、生活上の救いになっているのでありまして、教えを聴いて病気が治る、教えを読んで貧乏が治る、夫婦喧嘩が治る――というふうになっているのであります。

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