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Web誌友会 板/2

3253復興G:2013/10/28(月) 10:24:59 ID:AB6RqYXc

 テキスト 『生命の實相』 第5巻 <第5章 「ねばならぬ」 を解放する宗教> p.124〜 に、次のようにあります。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

       宗教本来の使命

 宗教本来の使命からいいますならば、宗教というものは人間を互いに和解せしめる働きをしなければならないものだと思いますが、この、人間を互いに和解せしめる働きをしなければならぬ宗教が、かえって人間を争わせる結果となるというのは、どうしてそんなことになるかと申しますと、それは一つのものに凝(こ)りかたまって、ほかのものの善さを見ることができないからであります。自分のものばかりが善いと思ってそれにばかり凝りかたまるから、他のものの善さを見ることができず互いに争わねばならぬようになるのであります。

 宗教は人を救うものだと申しますが、その 「救う」 ということはどんなことかと申しますと、「天国」 という物質的設備の至れり尽くせりの一区劃(くかく)に救い上げてもらうことでもなければ、極楽という装飾満ち備わった一環境へ連れて行かれるということでもない。人間が人間本来の 「無限の自由」 を回復することであります。

 「自由」 という言葉は近代的な言葉でありますが、古くからの仏教語で申しますと 「解脱(げだつ)」 ということであります。「解脱」 の反対は 「障(さわ)り」 とか 「凝り」 とか 「執着」 とかいいまして、何かに凝りかたまり引っかかってとらわれることをいうのであります。何かに凝りかたまり引っかかると、もうその人は自由ではない。方々へ衝突してスラスラとゆかないのであります。

 この 「解脱」 といって、凝りかたまりを無くすると本当にその人の 「生命」 が自由になる、この人間自身の 「生命」 が本当に自由になることを救われるというのでありまして、天国浄土と称する金殿玉楼(きんでんぎょくろう)の中におかれていましても、その人の 「生命」 にとらわれがあり、引っかかりがあると環境はいくら結構そうに見えましてもその人はあせったり、いらいらしたりして苦しむ、結局救われていないということになるのであります。

 それでいずれの宗教の開祖でも、この人間の 「生命」 を自由にするために教えを編み出されたものでありますから、どの宗教へ這入(はい)りましても、その神髄のところまで入り込んでゆきますと 「生命の自由」 を得る――すなわち本当に救われるということになるのであります。

 ところでその宗教で本当に救われた人が一人でも二人でも数人でもできてまいりますと、多くはその宗教の門に這入らなければ救われない、他の宗教の門から這入っては救われないというような偏見が湧いてきやすいのであります。

 だからキリスト教信者の大道演説などを見ていますと、 「キリスト教でなければ救われない」 と大声疾呼(たいせい しっこ)していますと、その隣に仏教僧侶が袈裟衣(けさぎぬ)を着け、 「仏教でないと人間は救われない」 とやり返しているような場合がおうおうあるのであります。そういう場合、仏教の悪口をいっているキリスト教の牧師に 「君はどれだけ仏教を研究してみたか」 と尋ねると、ギャフンとまいって返答に困るのであります。

<つづく>


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