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「本流対策室/4」

1173復興G:2012/11/27(火) 17:28:32 ID:vWpLkCzM

>>1172のつづき

 私は、「鎮護国家」=「世界平和実現」であると思っています。

 「鎮護国家」なしに真の、究極の「世界平和」はあり得ないのではないか、と思っているのです。

 その「鎮護国家」を抜きにしたら、「生長の家」はなくなってしまうのではないか。

 そのくらいに思います。

 総裁の「谷口雅春大聖師御生誕日記念式典」でのスピーチでは、次のようにもおっしゃっています。

≪自分たちは神国の民だから、他国や多民族を征服して支配する権利があり、さらには蛮族を支配する義務があるなどと考える人が出てこないわけではない。戦前のドイツや日本、イタリアなどには残念ながら、そういう思想が人気をもって拡大した。≫

 ――これは、本当に「神国の民」だと思ったら、神は全てを包容し愛し給うものですから、「他国や多民族を征服して支配する権利がある」などと考えるわけがない。正しい神の愛を伝えればよいわけで、そこにこそ宗教の役目があるのではないでしょうか。

 ≪排外的日本人は外人を見て、『あれは外人だ、外人は排斥すべきものだ』と見るが、包容的日本精神は、イギリス人を見れば、『あれも日本人だ、日本人がイギリスと云う土地に生まれたのだ』と見、インド人を見れば、『あれも日本人だ、インドに生まれている日本人をインド人だと云う』と考える。斯くの如くして普天卒土(ふてんそつど)、天上天下、日本の国土ならざるはなく、日本の国民ならざるはなく、仏教も基督教も、日本の教えならざるはないのである。≫
   (『明窓浄机』草創篇269頁、「訊け」管理人様謹写文より孫引き)

 というのが、「大和の神示」にある「大日本世界国(ひかりあまねきせかいのくに)」なのではないでしょうか。

 つづいて総裁がお話しになった、

≪「天孫降臨と云うことは天の父のみこころが天降って、天が下ことごとくが一つの光の世界になり、大和、平和の世界があらわれると云う意味の象徴的表現である。日本民族が世界を治めるのではなく、『天孫』すなわち『天の父のみこころ』が全世界を治める時期が到ることである」。
 ……これ(天孫降臨のこと)がイエスの『主の祈り』にある御心が既に成る世界の意味である。それが真の大日本世界国(ひかりあまねきせかいのくに)である。大日本世界国(ひかりあまねきせかいのくに)と云うことを狭い意味に解釈して、日本民族の国だなどと考えるから誤解(まちがい)を生ずるのである。そんなものは小日本であり、本当の大日本国(ひかりのくに)ではない。天の下ことごとくが『天のみこころ』で満ちひろがる世界が来ることを、「全世界五大州の国土を『天孫(てんのみこころ)』に御奉還申すべき時期が来る」と教えたのである。≫

 というのは、前記『明窓浄机』草創篇に書かれていることであろうと私は思います。つまり、「天上天下、日本の国土ならざるはない」というのは、日本の心は無我の心、即「すべては我なり、宇宙全体がわが家なり」と見ることだと思います。決して、侵略して支配する必要はない。そのままわが国土である、みんなわが同胞であると見て仲よくするのが真の大和魂、日本の心である。それが「八紘一宇」の精神であり、これを伝えて世界平和を実現するのが私たちの使命であると思います。
<つづく>

1174復興G:2012/11/27(火) 18:59:32 ID:vWpLkCzM

>>1169 :「靖国見真会」参加者様

>>1170 :山ちゃん1952様

丁重なコメント、ありがとうございます。


>>1171 :さくら様

ご愛念に、感謝します。ありがとうございます。

1175神の子さん:2012/11/27(火) 19:06:28 ID:???
>>1171
いいこと書くじゃん。いつもこうであってね。

1176復興G:2012/11/27(火) 20:54:43 ID:vWpLkCzM

>>1173のつづき

≪生長の家総本山の祭祀の重点を「鎮護国家」から「世界平和」へ移す≫というのは、重点を移すだけで、「鎮護国家」をはずしてしまうわけではない、ということでしょうか。

 私は、>>1172>>1173で書きましたように、
 「鎮護国家」=「世界平和実現」である
 「鎮護国家」なしに真の、究極の「世界平和」はあり得ない
 「鎮護国家」を抜きにしたら、「生長の家」はなくなってしまう
 と思います。

 ある教区の幹部(五者の一員)から電話がかかってきました。

 「ご存じですか、総本山が『鎮護国家』をやめて『世界平和』に変えるという話を。わたしはもう、今かかっている仕事が一段落ついたら、役員をやめるつもりです。一度お会いしてお話ししたいと思っています」

 と。

 私は今、自分がいかに行動すべきか、真剣に祈って考えるつもりです。内なる神の声に、真剣に耳を傾けたいと思います。

 合掌

1177閲覧者のひとり:2012/11/28(水) 07:20:28 ID:/O0vzWNA
「靖国見真会」参加者様へ

>「復興G」様については、「訊け」さんの言うとおり、「谷口雅春先生を学ぶ会」への悪口をここで書いたりはされていません。
>
>しかし、こういうところではないところで、「谷口雅春先生を学ぶ会」の悪口を言っているという情報が入ってきています。
>
>それを教えていただいた方を私は信用しておりますので、そう書かせていただきました。
>
>それが「事実」と違うというのであれば、「復興G」様からその旨、忠告していただければと存じます。

これはちょっといかがなものかと思いました。
情報で人を決めつけては危険です。
実際にご自分の目や耳で確かめてください。
なぜなら私も復興G様を知っているからです。
学ぶ会に対して「感じたこと」を言ってはおられましたが、
悪口は言っておられません。
私にはそう感じましたので、よろしくお願いいたします。

1178「靖国見真会」参加者:2012/11/28(水) 09:15:38 ID:iV4zMp.2

「閲覧者のひとり」様へ

ご忠告、誠にありがとうございます。

かつて、「復興G」様が、「谷口雅春先生を学ぶ会」はそのうちにつぶれるよ、みたいな投稿があったように記憶しておりまして、それが私の先入観となってしまった部分もあるかと思います。

そこに人生を賭けているものにとっては、その投稿には、カチンときましたからね。

ご趣旨はわかります。

「復興G」様は、悪口をいわれていないということで了解します。

「復興G」様には、行き過ぎた表現をしてしまいましたこと、心よりお詫びいたします。

1179goro:2012/11/28(水) 09:42:37 ID:3Dk63Vjg

復興G様
>>生長の家教団 戦後60年の運動 その光と影<<
長文の説明・解説はわかりやすく、また示唆に富むものが多くありました。が、
青年会の運動等についてはあくまでも復興G様の見解として承りたいと思います。

一つだけ申し上げたいことがあります。
生長の家の現在の状態について復興G様は「業」であると言われています。
ハッキリ申し上げて目に見えない世界の事については反論のしようがありません。
宇治における疑経読誦の際の自然現象の問題も同じように反論のしようがありません。
反論できないと同じく「そうである」との証明も出来ません。
因果律・心の法則を振り回すことの危うさを感じます。

もし80年の業の結果であるとするならば、その時点で「思考停止」に陥ります。
青年会の百万運動の暴走も現在の状態に至る「業」であるとするならば
暴走に至る原因もまた何らかの「業」でなければなりません。
過去・現在の生長の家信徒の「業」の連鎖という認識でいいのでしょうか?

正道に戻す為の生長の家信徒の信仰の有るべき姿(道)をわかりやすく御説明下さるようにお願い致します。

1180閲覧者のひとり:2012/11/28(水) 09:51:00 ID:9IyyIVlU
>>1178
「靖国見真会」参加者様へ

早速謝罪していただきありがとうございます。
さすが学ぶ会様は素直でいらっしゃいますね。
今後のご活躍を応援しております。

1181復興G:2012/11/28(水) 10:31:25 ID:vWpLkCzM

>>1177 :閲覧者のひとり様。

 どなたかわかりませんが、ご愛念ありがとうございます。

1182復興G:2012/11/28(水) 10:32:47 ID:vWpLkCzM

>>1178 :「靖国見真会」参加者様。

>>かつて、「復興G」様が、「谷口雅春先生を学ぶ会」はそのうちにつぶれるよ、みたいな投稿があったように記憶しておりまして、それが私の先入観となってしまった部分もあるかと思います。
そこに人生を賭けているものにとっては、その投稿には、カチンときましたからね。
ご趣旨はわかります。「復興G」様は、悪口をいわれていないということで了解します。
「復興G」様には、行き過ぎた表現をしてしまいましたこと、心よりお詫びいたします。<<

 誠意あるお言葉、ありがとうございます。

 「靖国見真会」参加者様が、

>>かつて、「復興G」様が、「谷口雅春先生を学ぶ会」はそのうちにつぶれるよ、みたいな投稿があったように記憶しておりまして……<<

とおっしゃるのは、下記のことであろうかと思います。

   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

<web誌友会板>の303 :復興G:2012/06/01(金)
>>297 :如月様。

 「開放」――それは、どういうことか、考えてみようと思っていました。コメント、ありがとうございます。

>会員になって以来、つきまとう不安があります。
このまま信仰を続けて行けば、何かの役が回って来るに違いない(現在も出きるお仕事はさせて頂いています)。
家族の賛同を得られていない私が、教区のお役に立てるとはとても思えない。そうなれば、会員をやめるしかない。等々、考えない日はありません。
講習会ともなれば、ン十万円の資金を用意しなくてはいけない。年金がもらえないと言われている世代の我々が、頑張れるのは現役のうちだけ。いずれにしても、資金が尽きれば教団をやめるしかありません。<

 ――私の好きな「老子」の言葉に、
 「跂(つまだ)つ者は立たず」
 というのがあります。

 爪先立ちをしている者は長く立っていられない。そのように、無理は長くは続かない、ということです。

 現在、生長の家教団も、またそれを批判攻撃している人たちも、双方ともちょっと無理している感があります。
無理は、つづきません。「無理して死んだ者は多い」です。このままでは、無理してつま先立ちしている教団は衰退の一途をたどるしかないでしょうし、また無理して教団を批判攻撃している人たちも自滅……かと思われます。
 如月様、無理をされることはありませんよ。無理せずにできる愛行を、喜んで、真心を尽くしてやってまいりましょう。

>生長の家の開放とは、キリスト教や仏教のように、講習会や会費にしばられることなく、誰もが真理に触れ続けて行けるという事です。<

 ――それが老子の言う「無為自然」の道でしょう。

>ずっと疑問でした。嘗て釈迦牟尼如来もキリストもこの為に来たのであれば、生長の家も同じような形になって行くはずなのに。何故、生長の家には二代目三代目が存在するのか。生き通しの命ならば、雅春先生を過去の人扱いにするのでは無く、現在も、生長の家の中心と考えればいいのではないかと思うのです。<

 ――私も、その通りだと思います。素晴らしいコメントを、ありがとうございます。

   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 以上は、<web誌友会板>の303(2012/06/01)のコピペでした。
<つづく>

1183「訊け」管理人:2012/11/28(水) 10:47:31 ID:???

(横断の件ご海容くださいませ)

>>1166熊本鎮台殿

 私へのご寄稿を、誠にありがとうございます。さて、話はやや飛びますが我々は「皇軍」に、なろうではありませんか。なお、ここで申すところの「皇軍」とは何か。以下に雅春先生の御文章を謹写・投稿致します。

・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥

 日本の戦は血ぬらずして相手を和らげる、即ち「ことむけやわす」であって、「コト」即ち、「神のミコトバを差し向けて和らげる」のが皇軍である。(「生長の家」誌昭和二十一年二月号より)

<全文>
○『神武不殺』――皇軍にあらざるもの
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65703710.html
・ ‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・

追伸

 なお本日のブログ記事ですが、実に興味深いものです。終戦直前に雅春先生が(人ばらいの上)で吉田國太郎先生をお呼びになられます。「ここは立ち聞きする者もない。忌憚のない意見を」と言われたおふたりの間で、いったいどのような会話がなされたのでありましょうか――ぜひ、ご拝読くださいませ。

 「一視同仁の神のみ心から御覧になったら、アメリカ兵と雖も神の子である。その神の子であるアメリカ兵を出来るだけ沢山殺す方が好いと云うようなそう云う戦争は神の御心ではない。随って無論、陛下の大御心ではない。随ってそう云う戦争をする日本軍は皇軍ではない。」(ブログ記事より一部引用)

1184復興G:2012/11/28(水) 11:03:26 ID:vWpLkCzM

>>1182 のつづき

 上記において、私は
<無理して教団を批判攻撃している人たちも自滅……かと思われます。>

と書いておりますが、<「谷口雅春先生を学ぶ会」はそのうちにつぶれるよ>とは書いておりませんでした。

<無理して> というは、もちろん時には無理するぐらいでなければ事は成就しない、ということもあるでしょう。

 しかし、太陽は決して無理をしないで永く照っています。太陽がもし無理をして光とエネルギーを放射しているんだったら、気の毒で、いつ消滅してしまうかと不安になってしまいます。

 やはり老子の言葉に、

「天は長く地は久し。天地の長くかつ久しきゆえんのものは、その自ら生ぜざるを以てなり」

 というのもあり、それは、「俺ががんばらなくては」という自我の力みがないから、長く続いているのだ、という意味であって、「わが生くるはわが力ならず、天地を貫きて生くる祖神のいのち。わがわざはわが為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能」という招神歌の意味するところと同じではないかと、私は思っています。

 私も無理して暴走することが多くありますから、自壊、いや自戒しております。
 合掌

1185志恩:2012/11/28(水) 11:14:27 ID:.QY5jUA6
横スレ失礼します。

靖国見真会参加者様にお伺いします。

「谷口雅春先生を学ぶ会」は、

復興G様が危惧されておられるように、

無理して教団を批判攻撃している人たちの集まりなんでしょうか?

私は,自然発生的に やむにやまれぬ 気持ちから起きた会だと思っています。

私自身も、まったく無理していませんけれど、、、。

1186閲覧者のひとり:2012/11/28(水) 12:11:48 ID:9IyyIVlU
私はこのビデオを見て学ぶ会が好きになりました。
http://www.youtube.com/watch?v=8nlddq3X1_k
決して原宿教団を攻撃されているようには思えません。

原宿教団の公式サイトを見ると、教団が学ぶ会を攻撃しているように思えます。
とらえ方は人それぞれですね。

こちらでも、光明掲示板でも自分なりに勉強させていただいています。

ありがとうございます。

1187復興G:2012/11/28(水) 12:57:36 ID:vWpLkCzM

>>1179 :goro様。

コメント、誠にありがとうございます。

>>一つだけ申し上げたいことがあります。
生長の家の現在の状態について復興G様は「業」であると言われています。
ハッキリ申し上げて目に見えない世界の事については反論のしようがありません。
宇治における疑経読誦の際の自然現象の問題も同じように反論のしようがありません。
反論できないと同じく「そうである」との証明も出来ません。因果律・心の法則を振り回すことの危うさを感じます。もし80年の業の結果であるとするならば、その時点で「思考停止」に陥ります。
青年会の百万運動の暴走も現在の状態に至る「業」であるとするならば、暴走に至る原因もまた何らかの「業」でなければなりません。過去・現在の生長の家信徒の「業」の連鎖という認識でいいのでしょうか?
正道に戻す為の生長の家信徒の信仰の有るべき姿(道)をわかりやすく御説明下さるようにお願い致します。<<

 上記ご投稿は、誠に時宜を得た提題であると、感謝します。

 さて、「業(ごう)」というのは波動の蓄積であり、生命が活動した跡でありますね。一般に「業」といえば、悪業のイメージが強いようです(「業が深い」という時がそれですね)が、生命は波動であり、生きることは業を積むことであって、決して悪いことではありません。万物は宇宙の業によって生じたとも言えます。(『生命の實相』の中に、そのように書かれていたところがあったと思います)

 業は、大別して善業と悪業とに分けられます。
 善業は、「善徳」と同義であると考えてよろしいのではないでしょうか。

 『如意自在の生活365章』の58〜61頁には、次のように記されています。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

    その人の経済状態と運命

 その人の経済状態もその人の“心の影”である。ゆたかなる心をもてば、そして、ゆたかに種を蒔く心をもてば、収穫する量も多いのである。人に恵み、公けに寄進し、与えること多き人にも、ときとして損をすることもある。それは個人の業の結果ではなく、彼が属する「国の業」を国家の一員として国民が一緒に、国家の背負っている業果を倶(とも)にするのである。それはたとえば戦争による有形無形の損害のごときものがこれに属する。

 しかし、潜在せる業が形にあらわれたときは、業が排泄されて消えつつあるのであるから、過去の業が消えたあとには、その人が他に恵み、公けに寄進し、善き事に蒔いた種が、一層ハッキリ形.にあらわれて経済的にも報いられることになるのである。すべて現象界の出来事は、一進一退の中に伸展してゆくのであって、善き業をつんでいる人にもときとして“退”はあるけれども、総合的結果としては、善業あるものは栄え、悪業あるものは衰頽するのである。

    根本的なる善業とは?

 善き業にもいろいろある。他に金銭を恵むのも善き業であり、真理を伝えるのも善き業である。もっと根本的な善業は、神の善意を信ずることである。神を、神罰の本源や、災禍の本源であるかのごとく信ずるならば、それは根本的な悪業を積むことになるのである。神は健康の本源であり、力の本源であり、美の本源であり、富の本源であり、繁栄の本源であるのである。その本源を正しく認めて、その本源と融合して、神の“み心”とともに生活するように心懸けるのが、本当の根本的な善業である。単に金銭を人に与えることは必ずしも善業にはならないことがある。誰に、何を、何の目的で与えるかが問題である。
<つづく>

1188復興G:2012/11/28(水) 13:02:22 ID:vWpLkCzM

>>1187のつづき

 谷口雅春先生『如意自在の生活365章』の引用文のつづきです。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

    あなたの運命はあなたの心次第

 人は“神の子”であり、神から完全な自由を与えられているのである。そして人間自身の運命を支配する力は“想念”と“感情”とである。わたしたちは想念感情を道具として自分の運命をつくりあげる。むろん、行動を伴う必要があるが、本当に自分の想念感情が強く動けばおのずからそれは言葉となり、動作となり、行動となってあらわれてくるのである。自分の想念感情が行動を起こして、それが言葉となり、行動となって周囲に影響を与え、千波万波を起こして自分の運命を決定するのであるから、わたしたちは自分の不幸について何人をも非難することはできないのである。自己の運命が面白くないならば、自分がいかに感じ、いかに想い、いかなる言葉を発したかを反省してみて、すべてを動かす行動の本源であるものを変化するようにつとめれば、その変化の程度に応じて、その人の運命は改善されてくるのである。すべて現象にあらわれてくることは結果であって、結果を支配するものは心の中にあるのである。

    あなたの判断を正しくするには

 あなたが毎日神想観を実修して、神との一体観を深めていられるならば、神の智慧があなたの判断力となってあらわれるのであるから、誤解や、やりそこないや、判断の間違いや、災禍に出くわすことなどはなくなるのである。すべての人に対し、物に対し、処に応じて、最も適切な判断を下し、最も適切な行動をとることができるようになるのである。またあなたは、自分の判断を他に対して押しつけようとは思わないのである。他の人が自分の判断と異なる判断をしている場合に、その判断が間違っていると思う場合には“論争”することなく、「彼は神の子であり、神の智慧に充たされていて正しい判断をすることができるのである」と祈ってあげるがよいのである。論争は反感を生むのみであるが、祈りは相手を平静に導き、自然に正しき判断を彼もできるようになるのである。むろん、彼の判断が正しくて、自分が誤解していた場合は素直に自分の見解を改めるがよい。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

<つづく>

1189みすはなまる:2012/11/28(水) 13:13:41 ID:M8Og9jzQ

私も、閲覧者のひとり様と同じで、閲覧者のひとり様が添付くださっている、you tube に感動したひとりです。

この掲示板は、教団信徒の方も、学ぶ会の方もはじめ色々な方が見ておられることと思います。

私も志恩様と同様に、学ぶ会に入会し聖使命菩薩会に入らせていただいていることは、全く無理ではなく、嬉しいです。
雅春先生の説かれた教えを後世に遺していくために、聖使命菩薩会に献資させていただけるなんて、この上ない幸せです。

私は学ぶ会が、「教団のことをあれこれ文句や悪口を言う会」であれば、絶対に入会しませんし、人にも勧めません。

人はみな、それぞれが霊魂の修行でありますから、見方や受け止め方もそれぞれであると思います。

これだけは言えます。学ぶ会は、雅春先生の説かれた永遠不滅の真理を後世に遺すべく、歩んでいる会です。

ですから、「谷口雅春先生に学ぶ会」ではありません。

「谷口雅春先生を(通して説かれた真理に)学ぶ会」なのです。私はそう受け止めています。

1190復興G:2012/11/28(水) 13:15:53 ID:vWpLkCzM

>>1188のつづきです。

 上記2回の引用文の中で、特に>>1187の「根本的なる善業とは?」というところは、注目すべき大切なお教えであると私は思っております。

 「根本的な善業とは、神の善意を信ずることである」

 ここですね。
<つづく>

1191復興G:2012/11/28(水) 13:47:07 ID:vWpLkCzM

>>1186 :閲覧者のひとり様
>>1189 :みすはなまる様

 ご紹介下さったYouTube、拝見しました。
 前原講師、熱がこもって、笑わせて楽しませながらの雄弁、なかなか素晴らしいですね。
 一層のご活躍を祈ります。
 ありがとうございました。

1192復興G:2012/11/28(水) 14:19:17 ID:vWpLkCzM

>>1190のつづきです。

 「根本的な善業とは、神の善意を信ずることである」

 ――
 「善因善果、悪因悪果」
 「善業を積めば善果が現れ、悪業を積めば悪果が生ずる」

 というのは、現象の、影の世界のことであり、実相=神の世界には善果も悪果もなく、ただ善のみの世界なのでありますね。それを信ずることが、根本的な善業になる。

 その根源世界を、日本民族は「一」 「中(みなか)」 として捉えた。

 それは>>1153でハマナス様が謹写掲載してくださった、谷口雅春先生著 『限りなく日本を愛す』P.89より 「君民一体の生命把握の自覚」 という御文章にもあるとおりであります。

 それは、時空未発(時間も空間もまだ現れない、そこから時空が展開した根元)の世界であって、その中に全てが包みこまれてある世界。それは「未発の中(ちゅう)」とも言われるところです。

 そこは、業を超えた世界。そこに立たなければ、現象の業に流されて、「神の子」としての主体性を失ってしまいます。その「中(みなか)」に還るのが、神想観です。そう、谷口雅春先生はお教え下さっています。
<つづく>

1193閲覧者のひとり:2012/11/28(水) 14:30:46 ID:9IyyIVlU
>>1191 復興G様
まさか見ていただけるとは思ってもいませんでした。
ありがとうございます。
面白おかしく簡単に教えていただけるところが気に入っています。

あと、女性では勅使河原淑子先生のご講話が好きでしたが、残念なことにYouTubeで検索してももう出てきませんね。

復興G様のご講話もこのようにして拝聴できないかと以前から思っております。
あ、でも身バレしますからだめですね(笑)
今後機会があればということで、宜しくお願い致します。

今後の復興G様のご活躍も応援致しております。

1194復興G:2012/11/28(水) 15:57:10 ID:vWpLkCzM

>>1192のつづきです。 

 かつて昭和40年5月号の『理想世界』誌に、「『中(みなか)』への還元」と題して谷口雅春先生が書かれた御文章が出てきました。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 幕末の歌人、八田知紀(はった・とものり)は、この日本国が「中(みなか)」の本源に還元するとき、どんなに一時濁っているかのように見えていても、本来の姿に澄みかえることを次の如く歌っている。

  いくそたびかき濁すとも澄みかえる 水や皇国(すめくに)の姿なるらん

 現象を追いまわす知識や、従来の現象から蒐集(しゅうしゅう)した先入観念で、事件を処置していると必ず行きすぎや、やりぞこないが起こってきて混乱状態に陥るときがくるのである。それは常に「現在」には「過去」になかった要素を含んでいるからである。

 その混乱がきたとき、イザナギの神が「天津神(あまつかみ)」のところへ詣昇(まいのぼ)りて、「天津神」のみ心を聴きたもうたようにすれば、そこから実相本来の知恵がでてきて、混乱が収拾され、混乱と見えたものが、新たなる発展の契機となって、混乱以前の状態よりも、尚一層よい状態に移行することになるのである。(中略)

 「天津神」とは宇宙本源の太極であり、絶対無であり、一切現象の未だ出現せざる以前の「中(ちゅう)」であり、そこに還元することによって現象界の乱れや歪みが去るのである。

 その絶対無なる「中(みなか)」への還元の修業が、茶道といい、華道といい書道といい、剣道といい、武道といい、歌道といい、神想観というのである。

 すべての日本的芸術または作法が「道」になったのも、左右分化的な分裂病的籠手先(こてさき)の巧者を越えて絶対無の「中」への還元が日本的精神の姿であるからである。(中略)

 日本国は一時的にどんなに混乱することがあり、歪められることがあっても、「中」に還元することによって本来の美しい実相があらわれるのである。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

  (以上、昭和40年5月号の『理想世界』誌所載「『中(みなか)』への還元」と題する谷口雅春先生の御文章より)

 生長の家の運動も、絶対無なる「中(みなか)」に還元することによって、対立は消え、本来の大調和の美しい実相があらわれると信じます。

 しかしながら、現象界は影の世界、映像の世界でありますが、実相の完全なすがたがまだ完全には現れていない。その不完全なすがたが肉眼には「あり」と見えますから、それを攻撃して破壊しようとする。

 私も今、反省しています。
>>1172で、
>>そのくらいの道理が、総裁はおわかりにならないのかと思うと、まことに残念で、情けなく思います。<<

 などと、偉そうな物言いをしていました。これは、暴走でした。これは、

≪あなたは、自分の判断を他に対して押しつけようとは思わないのである。他の人が自分の判断と異なる判断をしている場合に、その判断が間違っていると思う場合には“論争”することなく、「彼は神の子であり、神の智慧に充たされていて正しい判断をすることができるのである」と祈ってあげるがよいのである。論争は反感を生むのみであるが、祈りは相手を平静に導き、自然に正しき判断を彼もできるようになるのである。≫

 という谷口雅春先生のお教え(>>1188)に反していました。お詫びを申し上げます。

<つづく>

1195復興G:2012/11/28(水) 16:05:49 ID:vWpLkCzM

>>1193 :閲覧者のひとり様

 応援、ありがとうございます。

1196「靖国見真会」参加者:2012/11/28(水) 16:12:43 ID:iV4zMp.2
「志恩」様へ。

いつも、共感しながら拝読させていただいております。

私への質問がありましたので、お答えいたします。

〉「谷口雅春先生を学ぶ会」は、復興G様が危惧されておられるように、無理して教団を批判攻撃している人たちの集まりなんでしょうか?
私は,自然発生的に やむにやまれぬ 気持ちから起きた会だと思っています。
私自身も、まったく無理していませんけれど、、、。〈

「復興G」様がどうして、「谷口雅春先生を学ぶ会」が「無理して教団を批判攻撃している」と思われたのか、不思議に思っています。

それほど、「谷口雅春先生を学ぶ会」へのマイナスイメージが強いということなのかもしれません。

それはそれとして、私としては、「批判」ということについては、私なりに気を遣っているつもりです。

生長の家の信徒は、そういう点について、一種の生理的嫌悪感をもっていると思うからです。

いくらいいことを言っても、耳を貸してもらえなければ話しになりません。

私が、一貫して、「谷口雅宣先生」という言い方をしているのもその理由からです。

よく、だったら「批判」をしなければいいではないかと私どもを「批判」される方があります。

しかし、何度も言っていますが、「おかしい」と思うことをそのまま「おかしい」というのがどうして「批判」なのかと思うのです。

「批判」ではない、ただそれを座視し得ないからこそ言うのです。

たとえ、それが「批判」だと受け取られようとも、です。

それもこれも、谷口雅春先生の「教え」がおかしくされていると思うが故です。

已むに已まれぬ思い、そんな思いで、私は投稿しているつもりです。

「谷口雅春先生を学ぶ会」に対して、今、続々と賛同者が増えているのも、その思いが次第に広がっているからこそと思っております。

今後とも、ご支援のほど、よろしくお願いいたします。

1197復興G:2012/11/28(水) 16:32:48 ID:vWpLkCzM

>>1194 のつづきです。

 私も結構よく暴走します。

 生長の家において“暴走”とは、前記 「中(みなか)」 からはずれて、現象ありと捉われて突っ走ること、と言ってもよいのではないでしょうか。

 まあ、私も“暴走老人”かも知れません。老いらくの恋をして、心中をするような暴走をする可能性は、もはや0に近いでしょう。それでも皆無とは言えません。
 いや、下記のような本当の 「心中」 なら、したいと思っています。

 谷口雅春先生は、『幸福の原理』(新選谷口雅春法話集③)に、「『心中』に於ける倫理」として、次のようにお教え下さっています。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

   <恋愛と心中の倫理>

 人間は本来一つのいのちから生れているのでありますから、本来一つであるという実相を認めるとき初めて生活を本当の根拠に打ち立てたということになります。

 「本来一つ」の自覚が愛、即ち自他一体の再認識であります。「自分」と「他」とが本来一つのものであるという自覚を完全に得たとき、その時、その人は初めて悟りを得たのであります。此の自覚は人間が青春期に近づいたとき、先ず恋愛を通して体験するのであります。……

 恋愛の極致は「心中」になるのであります。心中と情死とは異なります。個体の情慾を死を貫いてまで充たそうとするのが情死でありますが、個体を無にして、心を元の「中(ちゅう)」に貫いてしまうのが「心中」であります。個人は死んで本元の中即ち「本来の一」の生命の中に自己を没却するのが「心中」であります。本当の「心中」は滅多にない。宇宙本源の「中」に於いて一体となれば生きていても心中である。

 太宰治などのは情死である。「心中」では恐らくない。世の多くの恋愛に於いては男女は唯快楽の対象だと思って肉体を満足するために、肉慾の楽しみの為に、男女は互いに遊ぶのだと思っている。自他一体の自覚も肉の自他一体に過ぎない。ところが心中的恋愛の自他一体の自覚は「肉」を否定しての「霊」の自他一体である。少しも肉の交わりなしに「心中」してゆく男女もある。私は別に死ぬ意昧での「心中」を勧める訳ではないが、この自他一体の本元の「一」の自覚からして、更に進んで人類「本来一体」の自覚が出て来、人類すべて仲よく平和に生きられる道こそ宗教の道だと信ずるのであります。

 そういうように人間が青春時代に「愛」の目覚めを経験し、「体」は分れておっても「一」にならしめようとして惹きつけられる不思議なる力を感じ、しかもその力たるや、個体を殺してしまってさえも「宇宙の一」に帰らしめずに置かないというような、そういう不思議な力があるということを体験して、そして「個体」は本来ないのだ、「心中」即ち「中」に帰一する心だけがあるのだということが自覚されて来るのです。

 体験というものほど有難いものはない。体験を通して個体は無いが、自他一体の生命はあるということが判って来るのであります。小鳥の啼くのを聴いても、小鳥の心が分るような気がするのは何故か。花の咲いているのを見ても花の心が分るような気がするのは何故か。他が悪いことをするのを見ると、自分が憤慨せずにおれないのは何故か。他が善いことをするのを見ると自分が賞めずにいられないのは何故か。それは自他一体だからであります。

 (註)『中庸』に「喜怒哀楽未だ発せざるを中(ちゅう)と謂う」とあり、中とは宇宙の本体のことである。

(新選谷口雅春法話集③『幸福の原理』より)

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

≪宇宙本源の「中」に於いて一体となれば生きていても心中である。≫

 ――死なないで、生きていながら、このような≪心中≫をして行きたいと思います。

1198復興G:2012/11/28(水) 17:00:46 ID:vWpLkCzM

上記、「このような≪心中≫をして行きたい」というのは、特定の誰かとだけではなくて、

この掲示板の皆さま、お一人お一人、全部≪心中≫をして行きたい、と思います。

1199復興G:2012/11/28(水) 17:03:25 ID:vWpLkCzM

全部≪心中≫をして行きたい → 全部と≪心中≫をして行きたい

に訂正します。

1200閲覧者のひとり:2012/11/28(水) 17:50:09 ID:9IyyIVlU
復興G様へ

「恋愛と心中の倫理」、興味深く拝読させていただきました。
最後とても慌てておられる復興G様に笑ってしまいました(笑)

>ところが心中的恋愛の自他一体の自覚は「肉」を否定しての「霊」の自他一体である。
>少しも肉の交わりなしに「心中」してゆく男女もある。

というところで、雅春先生は「男女」と書かれていますが、
肉の交わりがなければ、「男同士」「女同士」で心中ということも間違いではないのでしょうか?
美輪明宏さんのような方は、「肉的には男」でも「霊的には女」ということなのか、
ちょっと不思議に思いました。

1201復興G:2012/11/28(水) 19:11:29 ID:vWpLkCzM

>>1200 :閲覧者のひとり様

 ありがとうございます。

>>最後とても慌てておられる復興G様に笑ってしまいました(笑)<<

 慌てた心がばれてしまいましたか・・・・(笑)

 まあ、「心中」は、宇宙本源の「中(ちゅう)」、「中(みなか)」と一体となって生きること、というのですから、男女にかかわらず、また人間とだけでなく、たとえば日本の国と心中、とか命をかけて育てている会社と心中、というような気持もあり得るのではないでしょうか。私はかつて自分の編集している雑誌と心中するんだ、なんて思ったこともありました。

 この第1章は全20頁にわたって書かれており、続く第2章のタイトルは「『一』の哲学」、第3章のタイトルは「真空妙有の宗教」となっています。

 以上、ご理解下さい。
 ありがとうございます。

1202復興G:2012/11/28(水) 19:35:13 ID:vWpLkCzM

 ご参考までに、>>1197でいんようさせていただいた<恋愛と心中の倫理>という御文章の前に書かれている御文章を、謹写掲載させて頂きます。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

『幸福の原理』(新選谷口雅春法話集③)より

  第一章 恋愛と本来一つのもの

   希臘(ギリシャ)神話に於ける「本来の一」

 人間は本来一つのいのちから生まれているのでありますから、本来一つであるという實相を認めるとき初めて生活を本当の根拠に打ち立てたということになります。
 「本来一つ」の自覚が愛、即ち自他一体の再認識であります。「自分」と「他」とが本来一つのものであるという自覚を完全に得たとき、その時、その人は初めて悟りを得たのであります。この自覚は人間が青春期に近づいたとき、先ず恋愛を通して髄験するのであります。皆さんが或る異性を恋して、私は彼を愛する、というのは「彼」という半分と、それから「自分」という半分とが本来一つであるということを自覚して、元の一つに還ろうという衝動であり、それが愛であります。古代ギリシャの神話では本来人間は男女が「一つ」であった。男女が「一つ」に密着したままで四本の手と四本の足とを備えていた。そしてそれは一つの「生命」であったけれども、ジュピターの神様がそれに嫉妬心を起してそれを両人(ふたつ)に切り離してしまった。本来一つであった生命が、形の上では二つに分れて二本の手、二本の足の現在のような姿になったというのであります。これは現象界は差別の相であり、實相界では「本来一体」ということを象徴的に言いあらわしたものであります。差別にいて實相の「一」を忘れず實相の「一」を悟って差別を真面目に誠を以て行じなければならないのであります。肉体を見ますと吾々は個々別々だと思われますけれども、本来は一つなのであります。「本来一つ」だから互いに「半分」を見出そうとして、そして人生の航路をさまよい歩いて、やがて相手を見つけて一つになろうとする、それが愛であります。人間はこの差別で同時に「一体」を生きるその自覚を青春期に恋愛によって体験し、それから恋愛以外にも、他のものとの一体感を味うようにまで自覚が進歩してまいります。創世記の神話もやはり同じことで、アダムが眠っている間に肋(あばら)の骨を取って、そしてその半身を拵(こしら)えた。それは「男から出たものだから女と謂(い)う」というように書かれているのは、男女は「本来一つ」であったということを象徴的に説いているのであります。

    日本神話における「本来の一」

 日本神話にこんなのがあります。「本来一つ」の生命――本来「一」なるもののそのいのちが二つに岐(わか)れて、神漏岐(かむろぎ)・神漏美(かむろみ)となった――それが伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)の両神にあらわれられた。「那美(なみ)」というのは「波(ナミ)」であります。一定のところに固定していないで漂うている姿であります。伊邪那岐命(いざなぎのみこと)の「那岐(なぎ)」というのは「凪(ナギ)」であります。漂いさすろうて一定の帰趨(きすう)なき現象の姿を一定の理念の相(すがた)に常立(とこたち)させる働き、一定の相象(すがたかたち)に修理固成(しゅうりこせい)する働きであります。
 理念の形に修めるのを「修理」といい、常立(とこた)たせることを固成するというのであります。

 そこで天津神(あまつかみ)即ち宇宙本元の神様が伊邪那岐・伊邪那美の二神に「この漂える国を修理固(つくりかため)成せ」と仰せられた。これは天津神即ち宇宙の大神の勅(みことのり)でありますから、宇宙に満ちているので、宇宙的なことにも、社会的なことにも、家庭的なことにも、陰陽のムスビにも当て嵌まるのであります。「イザ」という言葉は呼びかけの言葉で、互いに陰陽が相呼応する、「漂えるもの」と「理念の一定の姿に修理固成する力」とが互いに相呼応する。それが相呼応することによって「本来の一」にかえる。「本来一」のものが相呼応して「一」に還るときそこに新たなる「生み出し」が生ずる。電気が火花を散らして電燈となり、動力となり、電気化学工業品となるように、「本来一」なるものが互いに仮りにわかれていたのが、一つに仲よく相合すれば萬物が生成化育され、よきものが生まれ出るのであります。
<つづく>

1203復興G:2012/11/28(水) 19:35:58 ID:vWpLkCzM

<つづき>
『幸福の原理』(新選谷口雅春法話集③)より

 青春期の恋愛に於いて吾等は「本来の一」を自覚し始めると言いましたが、既に吾々は子供の時には親子の愛というものによって肉体は差別界に別個の姿を有(も)っておりながらも本来一体だということを自覚しておりましたけれども、だんだん我儘になり、愛に狎(な)れて来まして、可愛がって貰うのは当り前のように狎れ切って、世話になる事では自他一体だけれども、親孝行という自他一体の行事は忘れてしまっている偏頗(へんぱ)な無自覚な自他一体状態だったのであります。ところが青春期になりますと、男女の愛というものが出て参りまして、深刻に愛ということを考えるようになる。そして肉体は本来分れていて、他人のように観えるのに、何故こんなに惹きつける不思議なる力があるのだろうかと考えずにはおられなくなって来るのであります。

 それは自他一体感の目覚めであります。親子の愛は未だ目覚めざる自他一体感であると致しますと、恋愛は目覚め初めんとする自他一体感であります。どうしてこう相手に惹き着けられるのかハッキリはわからない。そこに恋愛の神秘性があるとも謂えます。親子の愛では現實的に、子は親の肉体細胞から出たという事實があるが、恋愛にはそういう物質的根拠はない。しかもその牽引力は親を捨てても走らすほどの力がある。もしそれを邪魔するものがあったら、その邪魔ものをどんなにしてでもかなぐり捨ててそれを成就しないでは置かぬ。否、それが成就しなかったら自殺したり、心中したりして個体のいのちを殺してまでもそれを成就しようとする。個体のいのちを殺してでも「二つ」が「一つ」になろうといういのちの衝動、これこそは肉を超えた眼に見えぬいのちの存在の最初の目覚めというべきであります。
<以上>

1204goro:2012/11/28(水) 20:59:34 ID:3Dk63Vjg

復興G様

>>1179
生長の家の現在の状態について復興G様は「業」であると言われています。
ハッキリ申し上げて目に見えない世界の事については反論のしようがありません。
宇治における疑経読誦の際の自然現象の問題も同じように反論のしようがありません。
反論できないと同じく「そうである」との証明も出来ません。
因果律・心の法則を振り回すことの危うさを感じます。
もし80年の業の結果であるとするならば、その時点で「思考停止」に陥ります。
青年会の百万運動の暴走も現在の状態に至る「業」であるとするならば
暴走に至る原因もまた何らかの「業」でなければなりません。
過去・現在の生長の家信徒の「業」の連鎖という認識でいいのでしょうか?
正道に戻す為の生長の家信徒の信仰の有るべき姿(道)をわかりやすく御説明下さるようにお願い致します。

>>1187以降の投稿内容は、上記の質問についてお答え頂いたということでよろしいでしょうか?

お答えの結論から言いますと「この掲示板の皆さま、お一人お一人、全部≪心中≫をして行きたいと思います」
と云うことになりますでしょうか?

お答えであるならば、過去・現在・未来の全信徒が打ち揃って雅宣総裁及び教団幹部・今の教えに帰依する全信徒様に対して
我々がひたすらに「心中」するということなのでしょうか?

1205復興G:2012/11/28(水) 21:06:10 ID:vWpLkCzM

>>1179 : goro様

私はgoro様の
>>正道に戻す為の生長の家信徒の信仰の有るべき姿(道)をわかりやすく御説明下さるようにお願い致します。<<

というご質問にお答えしようとして、長々と書いてきましたが、「わかりやすく」というのは、とても難しいですね。

私は、>>1154および>>1159で引用させていただきました榎本恵吾先生の御文章が、ずばり、業に翻転されてきた運動から「正道に戻す為の生長の家信徒の信仰の有るべき姿」を指し示す指針であると思っているのですが、なかなかこれがわかって頂ける方は少ないのかも知れません。

 goro様は、上記>>1154および>>1159の榎本先生の御文章、どう感じられますか?

1206「訊け」管理人:2012/11/28(水) 21:06:56 ID:???

>>復興Gさま


 ところで、「諸君は住吉大神の全身全霊である」――これは、強烈なラヴレターですね。・・・・いや、何のお話しかと申しますと「恋愛」のお話です。さてこの「恋愛」のお話なのですが以下は、謹写御文章を拝読しふと思いましたことです。

 神は毎日、我々に「ラヴレターを贈り給うておられる」とは、言えないでありましょうか。少なくともそう、個人的には感じます。そして、それに感謝することが「『中(みなか)』と一体となって生きること」と、言えるのかもしれません。今回は「ふと」感じた内容とは、そういうものであります。神は毎日、我々にラヴレターを贈り給うておられる。あとは我々が、その文面をそのまま「受ける」だけでありますね。

 なお「そのまま受ける」のは少々困難です。ですが、そのまま受けるのは難しくとも毎日、ラヴレターが贈られてくるのは事実です。先ず、その事実に感謝するのが肝要なのかもしれません。そして、「中(みなか)と一体となって生きること」とは先ず、その事実(毎日のラヴレター)への感謝が重要かもしれません。生意気ながらそう、感じた次第です。自然に湧き起こる、自力作善でないところの「感謝」、これが重要なのかもしれません。

 なお冒頭文の「諸君は住吉大神の全身全霊である」――これは、強烈なラヴレターですね。このようなラヴレターが届けば我々、自然に湧き起こる、自力作善でないところの「感謝」が持てると思います。

 今回はこのような、気づきを得ることが出来ました。ご謹写文投稿の労に対し、厚く御礼申し上げます。ありがとうございました。
 



追伸

 以下は、昔の歌です。国民が「国家へ恋愛していた」時代の歌ですが、歌詞が素晴らしいですね。

 ところで雅春先生の「愛国書」ですが、精読後にこの歌を聴くと感動が増すと思います。少なくとも個人的には、そうでした。特に二番の「往け八紘を宇(いえ)と成し」のあたりは感動を催して参りました。これは、国民から国家へ宛てた、ラヴレターだったのではないでしょうか――

「愛国行進曲」
http://www.youtube.com/watch?v=bsN2kQ-0pNE&amp;feature=fvwrel

作詞:森川幸雄
作曲:瀬戸口藤吉

見よ東海の空明けて
旭日(きょくじつ)高く輝けば
天地の正気潑溂(せいきはつらつ)と
希望は踊る大八洲(おおやしま)
おお晴朗の朝雲に
聳(そび)ゆる富士の姿こそ
金甌(きんおう)無欠揺るぎなき
わが日本の誇りなれ

起て一系の大君(おおきみ)を
光と永久に頂きて
臣民我等皆共に
御稜威(みいつ)に副(そ)はむ大使命
往け八紘(はっこう)を宇(いえ)となし
四海の人を導きて
正しき平和打ち立てむ
理想は花と咲き薫(かお)る

今幾度か我が上に
試練の嵐哮(あらしたけ)るとも
斷乎(だんこ)と守れその正義
進まむ道は一つのみ
嗚呼悠遠(ああゆうえん)の神代より
轟く歩調受け継ぎて
大行進の行く彼方
皇國(こうこく)常に榮えあれ

1207さくら:2012/11/28(水) 21:27:09 ID:e8ieIrPA


復興Gさまが一連のご文章を読ませて頂いて、
信徒の信仰の立つべき位置が、改めて示されているとおもいました。
ご教示いただいたことに、感謝いたします。

 >その混乱がきたとき、イザナギの神が「天津神(あまつかみ)」のところへ詣昇(まいのぼ)りて、「天津神」のみ心を聴きたもうたようにすれば、そこから実相本来の知恵がでてきて、混乱が収拾され、混乱と見えたものが、新たなる発展の契機となって、混乱以前の状態よりも、尚一層よい状態に移行することになるのである。(中略)

 「天津神」とは宇宙本源の太極であり、絶対無であり、一切現象の未だ出現せざる以前の「中(ちゅう)」であり、そこに還元することによって現象界の乱れや歪みが去るのである。

 その絶対無なる「中(みなか)」への還元の修業が、茶道といい、華道といい書道といい、剣道といい、武道といい、歌道といい、神想観というのである。

 すべての日本的芸術または作法が「道」になったのも、左右分化的な分裂病的籠手先(こてさき)の巧者を越えて絶対無の「中」への還元が日本的精神の姿であるからである。(中略)

 日本国は一時的にどんなに混乱することがあり、歪められることがあっても、「中」に還元することによって本来の美しい実相があらわれるのである。


「和解」とは、復興Gさまが説かれるような、
心中の自覚に信徒一人一人が立つことという、
み教えの観点からこそ、あり得るのだとおもいます。

靖国見真会さまが、

>「本流派」であれ、「和解派」であれ、生長の家の「教え」を愛する点では「和解」しあえると私は思っています。

と、すばらしい、愛深いお言葉を下さり、有り難いと思います。

わたしも、同感です。

この「中(みなか)への還元」が、信仰の原点に立ち戻ることだと、改めて気づかせて頂きました。

感謝


1208復興G:2012/11/28(水) 21:57:20 ID:vWpLkCzM

>>1204 :goro様。

 私が「心中」の御文章を持ち出したのは、何とかして実相世界、宇宙の、いのちの本源世界――「すべてが一体」の「絶対善」の世界を、「わかりやすく」お話ししたかったからです。

 「業」というのは本来ない。絶対善(対立するものがないのを「絶対」と言います。つまり、悪は無い、善のみ)の世界、神のつくり給うた世界には、業はありません。

 しかし、時空間に影を写した現象世界は、生命が業を積み、業力によって翻転します。「現象あり」という迷妄から「迷いと迷いと相撃って」争い戦う業を積めば、やがてそれは自壊作用が起こって浄化され、本来のすがた、調和した実相が顕現します。だから、すべて善しの世界なのですが、その自壊作用は、迷妄が深く大きければ、激しいものになります。

 生長の家80年の運動においても、生命が波動をおこしたのですから、当然「業」を積んでいます。その業は当然、善業が大きく、多くの人々に幸福を与え、日本を革命の混乱から守って来た。

 しかし、この教えに触れたすべての信徒が、最高の悟りを得て一切の争い戦いもなく、澄み切った浄い心のみでこの運動を進めてきたかと言えば、そうは行かなかった。私自身、今でもなかなか自我を捨てきる、死にきることが出来ず、悪い暴走をしてしまうことしきりです。

 正直いって教団も、“本流”も、暴走していると思います。
 ですから、生長の家教団にも、「自壊作用」は起きつつあり、まだまだこれからも起きると思います。そうして浄まるのです。

 谷口雅春先生も晩年に、生長の家という教団がかかえている「業」から今後、大混乱が起こると予言されていた、と伺ったことがあります。(出所は秘されていますが)

 しかし、「絶対善」なる神の善意を信じることが、今、善業を積むことになるとお教えいただいています。

 それを信じて、私たちは今こそ、谷口雅春先生の御教えの根本をしっかりと学び、神の光であるという自覚を深め、愛を行じてゆくことが大切なのではないでしょうか。

1209復興G:2012/11/28(水) 22:07:30 ID:vWpLkCzM

「訊け」管理人様
さくら様

コメント、感謝します。ありがとうございました!

1210志恩:2012/11/28(水) 23:27:42 ID:.QY5jUA6
みすはなまる様

いらして下さって、うれしかったです。
復興G様のご文章を読み直しましたら【無理してやったら、破滅する】と書かれてありました。

しかし、靖国見真会参加者様が、私の質問に、お答え下さいました。「無理して、やってるわけじゃないのですから」と。
ですから、無理してやってるわけではないので、学ぶ会は、破滅は、しないのです。

それに、復興G様は、

>>私は、「鎮護国家」=「世界平和実現」であると思っています。

 「鎮護国家」なしに真の、究極の「世界平和」はあり得ないのではないか、と思っているのです。

 その「鎮護国家」を抜きにしたら、「生長の家」はなくなってしまうのではないか。

 そのくらいに思います。<<と、今回のことについて、

生長の家の大先輩としての見識ある判断されておられます。
その上で、
「今後は、調和した実相が顕現します」というご見解を述べておられるので、

私達も安心して、これからも、みこころのままに邁進してまいりましょう。

1211goro:2012/11/28(水) 23:42:16 ID:3Dk63Vjg

 復興G様

至尊尊師の聖語・敬愛する榎本恵吾先生の「天地(あめつち)の初発(はじめ)に立ちて」
―人類光明化運動の楽的展開論―を拝読させていただいて思い浮かんだ言葉がありました。

 ただ光 光のなかに我住めり 全て御光 我も御光

この聖なる御詩が私の思いの全てであります。絶対善の世界こそが真実唯一の世界であることも
生長の家の信徒であるならば極々自然に受け入れられる真理であると思います。

雅宣総裁・教団幹部・指導的立場にあられる方々も、その実相においてはただ光のなかに在られるのです。
その事を疑ったことは寸毫もありません。只々深く切ない思いに満ち満たされています。
それが私の祈りの全てであるといっても過言ではありません。

最後にもうひとつだけ質問いたします。「虚説に和解するな」をどのように理解されていますか?

1212「靖国見真会」参加者:2012/11/29(木) 08:33:38 ID:iV4zMp.2

「復興G」様へ。

「暴走」という語彙の使い方が、いまいち判然といたしませんが、どうも「谷口雅春先生を学ぶ会」に対する悪しきイメージが抜きがたくあるようですので、今回は、ある方の手紙をご紹介して、先入観なしで、自分の目で、耳で確かめていただきたく、この場をお借りさせていただくことにいたします。

去る9月、「谷口雅春先生を学ぶ会」は10周年を迎えました。

10周年を迎えたとは言え、本部を起ち上げ、本格的に組織だって具体的な対外活動を展開し始めたのはここ2年ぐらいのことであります。

いわば草創期のようなものですから、講演会でも何でも、何かやろうとしたら、自分たちだけで、いわば手作りで行わないといけません。

しかし、というか、だからこそというべきか、やっている方は、その手作りの運動の楽しさを感じていられるようです。

この方もその一人です。

こんな手紙でした。

…神様からの「使命因縁」を果たすためにはどうしてもどこかで出合わないと私の「使命因縁」は花開くことはできなかったと確信しています。今の生長の家教団をやめてから、真の生長の家が始まり、私の使命のときが花開きました。信仰の喜び、神様に使っていただく悦び、人のお役に立たせていただく慶び、そして日本に生まれたよろこび、生かされている有り難さ、今、フツフツと感じられるようになりました。私が幼い頃より、心の底でいつも願っていた思いが今やっと実を結ぼうとしています。「谷口雅春先生を学ぶ会」との出会いがなかったらどうなっていたでしょう?「谷口雅春先生を学ぶ会」を起ち上げていただいたことに心から心から感謝しております。

「八ヶ岳教団」がこんなになって、行き場を失っている方がたくさんいます。

これからもっともっと増えるでしょう。

そんなときに、こうして「谷口雅春先生を学ぶ会」と出会って、新たな生き甲斐の場を見出した方がいるのです。

そういう方が今、どんどん増えています。

このよろこびの輪をこれからも更に更に大きく広げていきたいと思っております。

「谷口雅春先生を学ぶ会」が更に注目されるようになります。

乞う、ご期待ということでよろしくお願いいたします。

1213復興G:2012/11/29(木) 11:36:33 ID:vWpLkCzM

>>1211 :goro様。

 ご返信、ありがとうございました。

>>……只々深く切ない思いに満ち満たされています。<<

 ――私も同じ思いがあります。

>>最後にもうひとつだけ質問いたします。「虚説に和解するな」をどのように理解されていますか? <<

 ――このご質問をいただいて、私はもう一度『生命の實相』第13巻・第14巻の「倫理篇 上・下」を全部読み返させて頂きました。あらためて、谷口雅春先生のお教えの素晴らしさに、深い感銘を受け、ただただ感動、歓喜しております。

 「虚説に和解するな」というのは、その中の下巻第4章「和解の倫理」の中に出てくるお教えですね。
 ≪新に和解するとは、「ものそのもの」の完全なる実相を認め、その実相と和解することであります。……「誤れる見解」に対して和解してはならない≫
 というお教えであります。

 これは、とても重要なことであると思います。
 しかし、ここだけを部分的に読んで、強調することは慎まねばならないと思います。「倫理篇」全体の流れ、響きの中でのご教示であります。

 「物質はある」というのが、誤れる見解、虚説であるとお教え頂いているのです。それを、「物質はある」と思いながら、他を攻撃するためにこの御文章を拠り所として持ってくるようなことがないように、まず全体をしっかりと拝読し、先生のお悟りの境地に立って、この深いお言葉を実践すべきであると、思います。

 その上で申しますが、私は谷口雅宣総裁の書かれた 「大自然讃歌」・「観世音菩薩讃歌」などは、「物質はある」という「誤まれる見解」に立っておられるところがあるのではないかと感じられるので、これには和解しません。

 また、総本山で今回、「鎮護国家」から「世界平和」へ……と言われたことについても、前述したとおりです。

 今日はこれから約束があって出かけなければなりませんので、中途半端ですが、とりあえずこれにて失礼します。合掌

1214復興G:2012/11/29(木) 11:38:51 ID:vWpLkCzM

>>1212 :「靖国見真会」参加者様

ありがとうございます。わかりました。ご活躍を期待します。

合掌

1215goro:2012/11/29(木) 16:07:33 ID:3Dk63Vjg

 復興G様

  「虚説に和解するな」というのは、その中の下巻第4章「和解の倫理」の中に出てくるお教えですね。
  ≪新に和解するとは、「ものそのもの」の完全なる実相を認め、その実相と和解することであります。
   ……「誤れる見解」に対して和解してはならない≫というお教えであります。

   これは、とても重要なことであると思います。
  しかし、ここだけを部分的に読んで、強調することは慎まねばならないと思います。
  「倫理篇」全体の流れ、響きの中でのご教示であります。

  「物質はある」というのが、誤れる見解、虚説であるとお教え頂いているのです。
   それを、「物質はある」と思いながら、他を攻撃するためにこの御文章を拠り所として
   持ってくるようなことがないように、まず全体をしっかりと拝読し、
   先生のお悟りの境地に立って、この深いお言葉を実践すべきであると、思います。

仰せのように「物質はない」というのが御教えの根幹でもありますので、
その上で今の教えの中の「虚説」を明らかにするというのが
志恩さまを始めとする本流復帰派の主張の根幹であります。

特に確認しておきたいことは「虚説」を明らかにするという事が、
人格を批判したり非難し悪として攻撃している訳ではないということです。
(不思議な事ですが、擁護派・和解派と言われる方々にはこの事が理解できないようです。)

雅宣総裁の御指導内容について、その事が生長の家の80年に渡る様々な要因による「業」で有るとのお考えについて
完全に否定する勇気はありませんが、復興Gさまは何故に「業」であるとのお考えでありましょうか?
「業」の顕れが、何故に雅宣総裁の思想信条が雅春尊師の真逆を行かれるような事になるのでしょうか?
それをどのように「証明」することが出来るのか御教示下さいますようお願い致します。

 志恩さまは以下のようにお考えです。
  今の雅宣さんの暴走は、百万運動という激しい運動の反動によるものだとか、
  80年の業だとかも、思っておりませず、、これは
  雅宣さん独特のご性格と雅宣さん独特の思考回路によるものだと思っております。

心情的には志恩さまのお考えに抵抗なく同意できます。

これで最後にいたしますので宜しくお願いいたします。

1216志恩:2012/11/29(木) 18:14:15 ID:.QY5jUA6

別板に投稿させて頂いた文ですが、奥へ行ってしまいましたので、
少し、訂正して、ここへ貼らせていただきます。

以下は、榎本恵吾先生の論文の一部なのですが、それに少しだけ感想を述べさせて頂いたものです。


榎本恵吾先生(榎本恵吾記念館より拝借)ー

 >>住吉本宮ご造営の特志奉納の記念品として贈られた高等技術印刷による尊師のご揮毫は 〝春雨来華自開〟 である。

これは読んで字の如くであるが、

もう一つ、 〝谷口雅春先生がこの世に『甘露の法雨』を持ち来すと金波羅華実相が自ら開く〟 と読んだ人も居る。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
この中で 〝自ら開く〟 というところが顕斎と関係をもつのである。 〝最早や人間の力では及ばない。神に直接出て来ていただく〟 ということ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
神(実相)が自ら人間の力をかりずに自分で顕われて来るということなのである。

しかし、 〝自ら顕われる〟 というのは実相(神)が現象化するということではないのである。

〝火を点ずる〟 という 〝火〟 は実相、実在のことである。何故 〝火を点ずる〟 という運動が可能であるかの問題は別に論ずるとして、

何度も問題にして来た「神の子の自覚に点睛(てんせい)す」の最後の部分……<<


【つまり、住吉本宮ご造営の特志奉納の記念品として贈られた尊師のご揮毫は 〝春雨来華自開〟 であった。

その意味の1つは、〝谷口雅春先生がこの世に『甘露の法雨』を持ち来すと金波羅華実相が自ら開く〟 ということである。】ということですが、


この「甘露の法雨」を持ちきたすと””金波羅華実相が自ら開く〟 というお墨付きの、

生長の家の教えの最重要である 聖経「甘露の法雨」を

雅宣総裁が指揮されている生長の家教団は、その「甘露の法雨」を、信徒に売る事も無くなり,その代わりに雅宣総裁が考えて作った偽経2冊を経本として出版し、

全組織を利用して売りさばいているのが、いまの生長の家の現状なのです。 つづく

1217志恩:2012/11/29(木) 18:24:56 ID:.QY5jUA6
榎本恵吾先生の論文の続きです。


前の論文は、「甘露の法雨」の重要部分の解釈。
次の論文は、「生命に實相」の重要部分の解釈をされておられます。


>>神光あれと言いたまいければ光ありき〟 の神として立っておられるのが尊師のお姿なのである。
しかして、〝光あれ〟と言いたもうた部分にあたるのが、発進の宣言であり、それをいよいよ詳密に説き明かされたのが、たとえば「光明縁起説」であるのである。

 しかして、また、すベてを越え自分のいのちさえも超えるが故に、〝吾れ立つ〟とは却って自分がなくなることを意味するのである。

 点燈者の前には死と罪と病との三暗黒はないのである。死を越えるとは死は無いということを知ることである。それは死との戦いではないのである。

それ故、死を越えるということは楽行なのである。それ故火を点ずることも楽行なのである。

『生命の實相』第一巻のはじめの〝七つの光明宣言〟の解説の中で「次第次第に」とか「徐々に」とかいう言葉がつかわれているのは、これは光明のゆたかなる、
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ゆとりある動きを現わしているのである。これは楽なるゆるやかなる光明の拡がり、しかも神の絶対のいのちの創造的展開の消息なのである。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『ああ、人生は何という喜ばしさだ! 私は諸君と共に手をたずさえて、この善き事業が大きくひろがる日のために尽したいとの念願で一杯です。』(『生命の實相』第一巻39頁)

 という言葉で『生命の實相』の中での「七つの光明宣言」の解説は結ばれている。>>

******************************************************************************

つまり、雅春先生の説かれておられた「世界平和」とは、「生命の實相」で説かれている光明縁起説が、徐々に、世界に広がって行き、人類のこころに平和をもたらすという意味での
「世界平和」運動であるのです。

雅宣総裁が、ご自分の都合のいいように解釈された
「人類は大自然を破壊した罪深き存在である。ゆえに、今後はそれを悔い改めて、罪滅ぼしに、大自然を大切にしてゆく運動をしなければいけない」
というような
「暗黒縁起説」は、本来の生長の家の教えを、真逆の教えにすり替えてしまってあるのです。つまり、暗黒縁起説的に考えた空想的「世界平和」です。

その真逆の教えの運動を雅宣総裁は、押し進めており、それに洗脳された信徒が、まるで夢遊病者のように、よろんで雅宣総裁に、従順に従っているのが、
今の生長の家教団の有様になっているのであります。

>>【『生命の實相』第一巻のはじめの〝七つの光明宣言〟の解説の中で「次第次第に」とか「徐々に」とかいう言葉がつかわれているのは、これは光明のゆたかなる、
 ゆとりある動きを現わしているのである。これは楽なるゆるやかなる光明の拡がり、しかも神の絶対のいのちの創造的展開の消息なのである。
『ああ、人生は何という喜ばしさだ! 私は諸君と共に手をたずさえて、この善き事業が大きくひろがる日のために尽したいとの念願で一杯です。』(『生命の實相』第一巻39頁)】>>

「光明縁起説」が説かれている最重要な聖典である「生命の實相」も、
雅宣総裁は、全組織を通じて、テキストに使用するな、と厳命されています。

まるで,カルトも真っ青な、カルト化した集団に、今の生長の家教団は、陥っているのです。

それで、神のみこころままに、本来の生長の家の教えの回帰を願う志を同じくする信徒達が立ち上り、
本流派として、言動を続けております。そして、その流れは次第に大きいうねりとなっているところです。

ここをご覧の皆様方も、賛同される方々は、是非とも、ご発言、行動にご参加下さいます様にお願い致します。

1218復興G:2012/11/29(木) 21:27:57 ID:vWpLkCzM

>>1215 :goro様

 お返事、遅くなりました。

>>雅宣総裁の御指導内容について、その事が生長の家の80年に渡る様々な要因による「業」で有るとのお考えについて、完全に否定する勇気はありませんが、復興Gさまは何故に「業」であるとのお考えでありましょうか?
「業」の顕れが、何故に雅宣総裁の思想信条が雅春尊師の真逆を行かれるような事になるのでしょうか?
それをどのように「証明」することが出来るのか御教示下さいますようお願い致します。
 志恩さまは以下のようにお考えです。
 今の雅宣さんの暴走は、百万運動という激しい運動の反動によるものだとか、80年の業だとかも、思っておりませず、、これは雅宣さん独特のご性格と雅宣さん独特の思考回路によるものだと思っております。<<

 現象界に現れているすべてのことは、宇宙の過去の業の結果でありますね。
 なにも、雅宣総裁の御指導内容だけが業の結果であるわけではありません。
 goro様は、「業」とは何であるとお考えなのでしょうか。

>>1187で書きましたように、
>>「業(ごう)」というのは波動の蓄積であり、生命が活動した跡でありますね。一般に「業」といえば、悪業のイメージが強いようです(「業が深い」という時がそれですね)が、生命は波動であり、生きることは業を積むことであって、決して悪いことではありません。万物は宇宙の業によって生じたとも言えます。(『生命の實相』の中に、そのように書かれていたところがあったと思います)
 業は、大別して善業と悪業とに分けられます。
 善業は、「善徳」と同義であると考えてよろしいのではないでしょうか。……<<

 ということであります。goro様は、業と言えば悪業というイメージでおっしゃっているのかなあと感じられますが、すべての現象は結果であり、結果には原因がある。原因は目に見えない心の世界にある、ということですね。

 もちろん業は中間因であって、本来ない。根本因は神の心であって、悪業も悪果も影に過ぎず、実在ではないのであります。私たちは中間因である業に引っかかることなく、根本因である神一元の世界を観て行かなければなりません。過去の業に引っかかっていいてはいけません。

 志恩様がおっしゃるように、(雅宣さんの行動は)雅宣さん独特のご性格と雅宣さん独特の思考回路によるもの、ということも当然言えるでしょう。しかし、そのような雅宣総裁が出て来られたことも、偶然ではなく、意味があるのだと思われます。

 「神は、神の愛は近視眼的愛ではなくて遙かに前途を見越して、有終の美を飾る如き結果をわれらに与えたまうのであるから、現在の状態がたとい如何なる状態であっても私たちは神に対する信頼を失うということは絶対にないのである。」

と、『真理の吟唱』の「人生の苦難を克服する祈り」にあるとおりだと思われます。

 私はそのように思っているのでして、過去が悪かったからだとか、そんなことを思って言っているわけではありません。

 よろしいでしょうか。

1219アクエリアン:2012/11/29(木) 21:48:16 ID:YCxxxfbM
いわゆる、本流派と云われる人と、教団に属する人の違いは、直接、谷口雅春先生の教えを学ぼうという考えと、法統継承者と云われている人の今の教えを学びながら、生長の家の教えを学んでいこうという考えの違いではないかという気がします。

私は、現総裁には、何ら関心、興味を覚えない人間で、一連の総裁の発言を読ませてもらっての感想は、法統継承者などとは、冗談も休み休み言ってほしいということですね。

とても、開祖雅春先生と同じレベルの悟りの境地には到達していない、ということと、それは無理にしても、せめて法統継承者という地位を得たならば、それにふさわしい責任を果たさなければならないのに、それを果たしていない、ということが、その理由です。

「今の教え」などというものは、雅春先生の教えを学んだ者が、それぞれの立場、環境で、生長の家の教えを応用していけばいいのです。

現在の生長の家の混迷は、ひとえに今の教えという名の元で、生長の家の教えの全相を伝えようとしていない姿勢にあると思っています。

現総裁の思想が、今の教えに反映されているので、今の教えを通しては、なかなか、雅春先生の教えに到達できなくなる恐れがあるのです。

生長の家の開祖雅春先生の教えを学ぼうと考えて入信したのだが、今の教えしか学べなかったということがないように願いたいものです。

とは言うものの、現教団には、あまり期待はしていません。
生長の家の教えの全相を伝える努力をしていないからです。
本来、法統継承者は、開祖の教えを取捨選択してはいけないのです。
ここが分かっていないですね。

ですから、やはり、法統継承は、本流派でしかできないと思っています。

1220復興G:2012/11/29(木) 22:44:00 ID:vWpLkCzM

 >>1218に、少し補足させて頂きます。

 「いのちの環」No.32(2012.11発行)の6ページに、『「偶然はない」と知る祈り』というのが掲載されています。

   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

   「偶然はない」と知る祈り
                  谷口雅宣

 現象世界とは、原因と結果の法則を通じて実相が表現されつつある世界である。植物の種を蒔けば、やがて芽が出て成長し、条件が整えば花を咲かせ、そして実をつける。種まきをしてもすぐに実はできないように、原因と結果の間には時間的経過が必要である。また、種から実は直接生じないように、原因と結果の間には「過程」が必要である。その過程では、数多くの補助的原因(助因)が働くのである。それらは、発芽や成長のための温度であり、土中の適度の湿り気であり、成長を助ける栄養素であり、太陽光であり、水分である。これらの助因(縁)が植物の環境に整うことで、因果の法則が働いて植物は成長する。種の中には、植物の成長と結実に必要な情報がすべてそろっていても、それらが現象として現われるためには、環境の諸条件――「縁」が整う必要がある。

 原因と結果の法則を「因果の法則」ともいう。因果の法則は目に見えなくとも、物質世界の全面を支配しているのである。だから、原因がないのに、何かの結果が生じることはない。言い換えれば、理由もなく偶然、何かが起こることはないのである。現象界の物事には、必ずその背後に原因があり、また結果を生むための縁(助因)が必要である。だから何の原因も理由もなく、物事が突然起こったように感じられても、それを「偶然だ」と考えて理性の働きを止めてはならない。
 
 理性は、神の子たる人間が神からいただいた貴重な宝である。理性を働かせて物事の原因をつきとめるのは、人間の本性である。それを晦ますことなかれ。「偶然に」起こったと見える物事の背後には、その物事を理解する“鍵”が隠されている。その“鍵”を探し当て、現象の扉を開いて物事の原因を見つける者は幸いである。科学はそれによって大いに発達した。それは、神の子たる人間の理性が作り上げた偉大な作品である。
 
 物事の原因を知る努力を放棄して「神」の責任に帰すことなかれ。例えば、突然の不幸を神の「試練だ」と考えてはならない。完全円満の実相世界を創られた神は、「病気」や「事故」や「事件」のような悪現象を創り給わず。「失敗」や「不幸」や「愚かさ」に悩む人間も創り給わず。したがって、存在しない“愚かな人間”を導くための「試練」も実在しないのである。また、不幸の原因を「悪魔」や「悪運」や「悪業」に帰すことなかれ。神は実相において、悪魔も悪運も悪業も創り給わず。だから、悪魔も悪運も悪業も実在しないのである。それらは「悪実在」でなく「悪現象」である。過去の悪因が、現象として悪果を生じたように見えてはいるが、「悪果」が実在するのではなく、本来の「善果」の全相が現われていない状態を、仮に「悪果」と称するのである。

 理性の力で悪果の原因が分からないときは、現象から目を上げて実相に振り向くがよい。悪現象に過度に捉われてはならない。悪現象の背後に悪因が実在すると考え、それを排除しなければ永遠に悪果が繰り返すと考えてはならない。悪因の力は、悪果が現象することで消えるのである。だから、たとい悪果の原因が分からなくても、善の種を蒔く努力をせよ。闇の原因が分からなくても、光を拡げれば闇は自然に消えるように、過去の悪を思い出せなくても、善を念じ、善を語り、善を行なうことで、本来実在している善が現象するのである。

 神さま、ありがとうございます。神さまの創られた世界には悪因縁も悪業も存在しないことを私は宣言します。私は今、善一元の世界のただ中にいて、神さまの御徳である知恵と愛と生命に満たされてあります。私の人生に「偶然」はありません。私の内部の神性が晦まされているとき、何かが「偶然」に私を襲うと感じるのです。私は今、神の子なる自己の真性に目覚めたのですから、私の周囲に現われるものは、すべて自己の心の反映であることを知りました。私はこれから偶然を必然と化し、自由自在の人生を送ることを神さまの御前に誓います。ありがとうございます。

   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

<つづく>

1221復興G:2012/11/29(木) 23:26:26 ID:vWpLkCzM

>>1220 のつづき

 上記の冒頭

「現象世界とは、原因と結果の法則を通じて実相が表現されつつある世界である」

というところを読んだだけで、「それは、違うんじゃないか」という反応をした人もいました。

 「現象ありと認めているから、それは生長の家と違う」というんです。

 たしかに、そう言えばそうも言えます。
 しかし、「表現されつつある」というのは、時空間というスクリーンに、段階を追って展開されるという意味だとすれば、「霊魂進化の神示」に示されていることと矛盾はしないのではないかと、私は感じました。同神示には

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

    霊魂進化の神示

 『神の子』なる人間の実相を現象世界に実現するのが人生の目的である。現象世界とは現界、幽界、霊界を通じて呼ぶ言葉である。人間の運命とは『神の子』なる人間の実相が現象界に投影する時、時間的空間的に展開するのに、おのずから一定の順序を追うて展開して行くように 大体定められているのを言う。

 それは譬えば朝顔の種子の中には既に『花』の因子が包蔵されているが、それが現象界に『花』となって完成するまでには、日光に逢い、湿気に遭い、芽を出し、蔓を出し、蕾を生じ、ついに花を開くと言うように、大体一定の時間を要し、植物が日光に逢い、雨露に遭うが如く、或は幸福に恵まれ、或は虐運と戦うことによって、ついに実相人間の現象界への投影を完成するのである。

 併し、その投影が完成するには、その投影は『念波の集積』で成立っているのであるし、人間は心の自由を有ち、自由に実相の悟りによって念波を浄め得もすれば、迷によって念波を一層汚すことも出来るのである。現象世界に実相人間を顕現する過程(進化の過程)を心次第で縮めることも長くすることも出来るのである。

 霊魂進化の過程を短縮するのは、念の浄化による。念の浄化には、実相を悟ることが第一であり、物質欲に捉れざることが第二である。物質欲に捉れざるためには、『物質本来無し』の真理を悟るが第一である。(後略)

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 とあります。

 そして、『「偶然はない」と知る祈り』が最初に発表されたのは、2007年頃に総裁のブログに「日々の祈り」として掲載されたのでした。

 それがこの時期(10月に届けられた)の普及誌に掲載されたのは、8月の宇治での出来事――「大自然讃歌」一斉読誦の行事の直前から急に豪雨と落雷があって予定地でそれが出来なくなったということがあり、それは「天の怒り、先祖の怒りではないか」というような騒ぎがありました。そのことを念頭に置いて、総裁はこれを掲載されたのではないかと、私は思いました。

 「偶然はない」と、総裁は自覚しておられるのだ。「理由もなく偶然、何かが起こることはないのである」と、考えておられるのだ。――。

<つづく>

1222復興G:2012/11/30(金) 00:04:54 ID:vWpLkCzM

 >>1221のつづき

 で、『理想世界』百万運動が、暴走気味に突っ走ったことにも、やはりそれが必要とされる「原因」「理由」があったというのは、当然そうだと思います。

 当時の社会状況もそうですし、谷口雅春先生が危機感をもって叫ばれることに、本気で、命を賭けてお応えし起ち上がろうとはしない教団の生まぬるい状況に対して、青年として黙っていられない、ほとばしるものがあったから、と言えるでしょう。

 谷口雅宣総裁には、そのことに思いを致して頂きたいと思います。


 それから、「信仰/体験板」の>>851>>869にa hopeさまが投稿された、河口湖道場での楠本加美野先生のご体験――道場で赤痢が発生して練成会ができなくなったときのお話――楠本先生は責任をとって辞表を出そうと考えられたが――

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

大調和の神示に「……汝が何物かに傷つけられたり、黴菌(ばいきん)や悪霊に冒されたりするのは、汝が天地一切のものと和解していない証拠であるから省みて和解せよ……」という神のコトバ(『七つの燈台の点燈者の神示』)が聴こえてきたのである。

朝夕唱えて、耳にタコができるほど馴れ親しんだコトバも、うろたえて右往左往している時には、全く思い浮かばず、全ては己が責任と心をきめた時に初めて聴こえてきたのである。

なすべきことは辞職願を書くことではなく、省みて和解することであった。

「赤痢菌に感謝し、和解しようじゃないか。感謝できるまで神想観しよう」

道場に集まった十数名が徹夜を覚悟の神想観を始めたのが、午後の十時。

「赤痢さん、有難うございます。赤痢さん、有難うございます……」

いくら言葉で唱えてみても、恨みこそあれ、感謝の実感は湧いてこない。真剣だった。懸命に祈りつづけた……ようやく有難くなってきた。心からの感謝が湧いてきて「大調和の歌」で終って時計を見たら、午後二時であった。

〝黴菌といえども、神の使いである。その働きはガードレールのようなもの″と訓(おし)えられていたことが、四時間に及んだ祈りの中で実感として解らせて頂いた。そして、伝道の一つの在り方というものを、訓えられたのである。
すなわち、〝誰彼の差別なく触れる人ことごとくに菌を伝えられる赤痢のようでなければならない。伝道の前に、あれこれとみずからを限定し逡巡(しゅんじゅん)することをやめて、触れる限りの人に道を伝えよ″というのが、神の御旨(みこころ)と悟らせて頂いたのである。

翌日から、全員大いに張り切った。日赤の隔離病棟に入った十八人も、生長の家日赤道場と称して、意気揚々と、〝笑いの練習″まで行って、練成会をしているつもりでいる。あまり元気で賑やかなのに、病院側では驚いていたが、もっと驚いたことには、入院した者にも道場に残った者にも、赤痢菌は全く出なかったことである。奇蹟であった。お陰で、道場は本当に素晴らしくなった。

一年後には〝赤痢発生一周年記念″の祝いを行った。その後も毎年つづけて、記念日を祝っている。
<つづく>

1223復興G:2012/11/30(金) 00:14:28 ID:vWpLkCzM

>>1222のつづき

 以上のお話や、「前科七犯」と称する男がやってきて

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 練成八日目、私(楠本先生)が図書室にいたらどなりこんできた。彼の手には、鋭いナイフが光っていた。彼は興奮してどなりながらナイフをふりかざしているので、何を言っているのか言葉はわからないが、私には彼の気持がわかった。

 「お前は講師面(づら)をして講話では愛の重要性を説きながら、八日間も苦しんでいるおれの気持ちを考えた事があるか!」と、その憤懣が爆発したのである。
 最近、私は講話をしながら何か自分自身にむなしいものを感じていたので、すぐそれを汲み取ることが出来た。

 私は彼に、「わかった」と言った。彼は私に「何がわかったのだ!」と言う。私の頬に彼の鉄拳がとんだ。しかし、それは実に弱々しくふれた。そのうちに松山講師がとめに入った。彼は、どなりながら図書室を出ていった。

 その後、彼と会って合掌すると「わかったか!」とどなるのであった。……(後略)

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 ――というお話などは、とても考えさせられるものがあります。

 総裁や教団にとって、“本流”は赤痢菌みたいなものかも知れないし、逆に“本流”の方たちから見れば、総裁こそが“赤痢菌”以上の悪者、ということかも知れません。

 が――。
 どうなのでしょう。

1224志恩:2012/11/30(金) 05:59:31 ID:.QY5jUA6
奥へ行ってしまいましたので、貼らせていただきます。
>>1130:志恩:2012/11/26(月) 08:34:24

〜和解のこと〜

 生長の家の横の真理では「環境は心の影、自分の心の顕われとして現象にあらわれてくる」とあります。

ですから、何か問題が起きたらそれも信徒である私たちの心の影であるとして、雅宣総裁の実相をわれらがまだ見つ
めきれていないからではないのかと言う信徒がいます。

そういう人は、愛ふかく 心やさしく、謙虚な人にありがちと感じます。
 
 しかし公人として、また、宗教団体としての問題は、これとは、別次元の問題だと思います。
   その考え方は、公私混同の考え方だと思うのです。

特に創始者谷口雅春先生が烈々と説かれ続けてきた天皇の実相、日本国の実相を説かず、それを周辺の真理と評し、

雅宣総裁は、それらについては時代的な特殊のことであるとして、主流からはずしてしまい、代わりに主流を環境問題、ノーミートにしてしまった
「今の教え」の状態は、別次元の問題として考えるべきだと存じます。。
 

 雅宣総裁は、[国際平和信仰運動」の名のもとで、熱心な生長の家の信徒さん方の多くの信徒の心から、谷口雅春先生にご指導頂いた正しい国家観と愛国心を、こそぎ落としてきました。。
今度は、名を変えて「世界平和運動」ですね。

そして、「今の教え」と称して、生長の家大神・住吉大神が谷口雅春先生を通して人類に示された生命の實相の教えを変質させ、
新しい信徒さん方が、もともとの教えに触れる機会を乏しくさせています。

更に谷口雅春先生のご存在を、より薄くし、抹殺する行為も激化しており、

生長の家の人類光明化運動・目本国実相顕現の運動が次第に楼小化され無化されていく中で、
目本の国家の崩壊現象が猛烈に進み、様々な問題が噴出し、国家の将来を危ぶませるような情況となってきています。。

 このような現状認識の中で、雅宣総裁は自分自身の心の影である、自分の祈りが足りないのであると感じることは、
教義上は一面の真理であるように見受けられます。しかし、その祈りが「人生を神生となし、必勝を信じて邁進」する、どのような行動となっているのかが
大問題なのでは、ないでしょうか。

和解派の皆様の言葉の数々は、雅宣総裁に妥協する誘惑の言葉となっていることが多いように感じています。 つづく

1225志恩:2012/11/30(金) 06:02:27 ID:.QY5jUA6
〜和解について〜②

『生命の実相』第十四巻倫理篇に

「和解の倫理」と題 して、われわれ信徒がとるべき、基本的な考え方が厳しく書かれてあります。

【即ち、・・・「生長の家」倫理学の中心思想は、「人と神と一体であり、万(よろ)ずのもの皆神より出でたるものであるから、なんじを害するものは一つもないのであるから、

 天地一切のものと和解せよ」ということであります。

そこで天地一切のものと和解するには、天地一切のもの、すなわち異端邪説とでも和解したらよいかどうかが問題になるのであります。と書かれ、

家ダニ、結核菌、放蕩息子を例として、具体的に説かれた後、谷口雅春先生は、・・・・仮相に和解していたのでは、仮相はますますのさばって大きくあらわれて来るのであります。

(中略)仮相に和解してしまったら仮相があらわれる。それではいけない。

それで「生長の家」の聖経『甘露の法雨』には、「仮相に対しては実相をもって、相対せよ」「非実在に対しては実在をもって相対せよ」と書いてあるのであります。】


顕現を祈るべき実相とは

 それは、あくまでも、生長の家大神・住吉大神が人類の中から谷口雅春先生を選ばれ、神示を通して示された、

谷口雅春先生が説かれる生命の実相の教えの宣布(人類光明化運動)を、そのまま曲げずに展開している実相以外にはありえないのではないでしょうか。

1226志恩:2012/11/30(金) 06:04:19 ID:.QY5jUA6
〜和解について ③〜

(虚説とは、雅春先生の教えをご自分の「都合のいい教え」に歪曲して解釈を加え、別の説にしてしまった説のことです。)


「生長の家」に救いを求め、教えを求めてきた人に、
「神の子人間」の真理に立った絶対的なる光明思想を正しく教えられず、光明生活を確立せしめられず、

「今の教え」という違うものを押しつけられるのであれば、それは信徒を誑かすものとなるのではないでしょうか。

人を救う力は生命の實相の真理にあるのであって、雅宣さんが語るくどくどしい説明や理屈にあるのではないことは、わかる人にはわかるのです。

 更に、谷口雅春先生の説かれた「生命の実相の真理」を人類に伝え、人類を光明生活に導くということを真っ直ぐに説かないということは、
人類光明化運動に人生を捧げてきた、又現に捧げている数百万の聖使命会員の真心を裏切ることであり、

又「生長の家」が人類に果たすべき役割を、放棄することとなっているのではないでしょうか。

では、どうしたらいいかについて、雅春先生が、お説きになっておられます。

 谷口雅春先生は

「虚説に和解してはならぬ」という見出しを敢えて掲げられて、次のように厳しく示しておられます。

  対人関係、対物関係の和解は、そういうように物そのもの、人そのものの実相を見て、それと実相において和解してしまいますと、

相手の調和した実相があらわれて相手が自分に逆らいまたは害しなくなるのでありますが、

「迷い」に対したり「誤れる見解」に対しては、われわれはいかなる態度をとるべきでありましょうか。

「迷い」に対して和解したら、真理が消えてしまうのであります。「誤れる見解」に対して和解したら実相がくらまされてしまうのであります。

だからわれわれは、決して「誤れる見解」に和解してはならないのであります。(中略)

 ・・・光は闇と和解することはできない。光が近づけば闇は消えるほかはない。

それと同じく真説は虚説に近づけば虚説を消す働きになる。

(中略)虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのもまちがいであります。

虚説を排撃することいよいよ明瞭であればあるほど、真説は明らかに照り、それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

 ここに、「虚説を排撃することいよいよ明瞭であればあるほど、真説は明らかに照り、
      それに照らされて救われる人間も又多いのであります。」

       と、このように、雅春先生は、明示されておられるのです。

1227志恩:2012/11/30(金) 07:42:01 ID:.QY5jUA6
光明掲示板より

【悩んでおるあなたに・・・ 】(2919)
日時:2012年10月28日 (日) 04時34分
名前:伝統

「悩んでおるあなたに・・・」  藤原敏之先生 (1032)
日時:2012年09月18日 (火) 14時53分
名前: 森永考星


生長の家の信徒になったら、救われるのでなくて、
逆に「悩み」が増えるのか・・・・と、笑った、他宗の方がおられたという。

生長の家人であるという事は、
「神の子」を生き、「悟り(神人一体)(自他一体)」を生きることでもある。
(「生命の實相」第一隠蔽・第二隠蔽を参照。)

下記の素晴らしい御文章を読まれて、信仰の原点に還っていただきたい。



     「悩んでおるあなたに・・・」

行詰まりや不幸は神が現われていない証拠です。

神様は遠いところにあるのではなく、
私の中にあって、常に私を守り導いておって下さることに気づかなければなりません。

神様を離れた私はなく、私を離れた神様もありません。
だから、私達は悪くなりようがないのが本当です。

悪くなるのではあるまいかと案ずるのは、
神様を抜きにして、私が一人で生きていると思い違いしておる時です。

神様に対抗する程の悪も力もありません。

私達はただ、神の前に平伏して、ありがとうございますと無条件降服する外はありません。
生きることも神様の御心なら、死ぬることも神の御心です。

私の力や甲斐性で出来ることは何一つないのです。
ただ感謝して、今を全力を出し切って生きる他はありません。

人生の目的は何ぞや。
富を得ることでもなく、名誉や地位を得ることでもなく、
本当のことを覚って迷わず、安心と喜びをもって生きることです。

池田首相も佐藤さんも、巨億の富も地位も名誉もみんな置いて、
魂だけが旅立って行かれたのです。
安心して行かれたか、喜んで行かれたか、それだけが問題です。

この世のものは、多かれ少なかれみんな預かりものです。
預かっている間だけの楽しみです。

しかし預かりものと知ることは、実生活において消極的になることではありません。
必要なものは必ず与えられることを信じて行動することです。

他人に迷惑をかけるのは神の子の生き方ではありません。
神の子は無限の可能性があり、神の導きと守りがあり、無限の知恵と力があるのですから、
思い付くままに積極的に行動すれば、必ず無限に道は開けるのです。

行きづまるのは神の子ではなく、心配するのも神の子ではなく、
必要なものは、必要に応じて与えられる生活でなければなりません。
必ずその通りになるのです。

神と常に直結し、神の知恵と力とを、
お腹の赤ちゃんが常にお母様と直結して栄養を受けて成長する如く、
常に受ける心境になることです。

それには神の無限性を信じて、ありがとうございますとの感謝を忘れないことです。
天地一切のもの、誰とでも調和することです。

神想観を怠らないことです。
これが先日の実相研鑽会の議題であります。

     『魂のめぐり逢い』藤原敏之先生著 152pより

1228「訊け」管理人:2012/11/30(金) 08:14:35 ID:???


>>1220復興Gさま


 「ザウロは既に、〝聖パウロ〟となりしや。」

 ・・・・いや今まで散々、総裁に関する悪口を聞いて参りました。曰く「雅春先生の教えを抹殺しようとしている」等々、それら言動がそれです。しかしこの、「日々の祈り」を拝読する限り現総裁ですが、「評価されるべき御人」なのではないでしょうか。
 いや無論、感化力の面では劣るのかもしれません。かの、「谷口雅春」先生とは比較にならぬのは、言うまでもないです。ですが、この御文章は、良いものではございませんか。雅春先生のご提唱された光明思想となんらの齟齬も認められませんが・・・

 ・・・・ところで、思い出した話があります。かつてキリスト教を迫害したザウロのことなのですが、総裁はザウロなのでしょうか。そしてそこには、「聖パウロ」となる芽が、あるのではないでしょうか・・・真偽不明ながら雅春先生を「抹殺しようとしている」と言われる、現総裁です。でも、今回のこの>>1220御文章を拝読する限りは、「改心しているのか?」との推論をする事くらいは、許されるのではないでしょうか。
 かつてキリスト教を迫害したザウロはその後、「聖パウロ」となりました。「雅春先生を抹殺しようと」している雅宣総裁ですが、パウロになっては、おられませんか。やや誇張気味の表現ですが、そう感じられます。同時にこうも感じます。現総裁ですがさすがに、「雅春先生を抹殺しようとしている」なる言は、「やや、言い過ぎなのではなかろうか」と。


 生意気な発言でご気分を害される方もおられるでしょう。ですが、>>1220の総裁御文章を拝読する限り、いったいどこに問題があるのか――この点は率直な疑問であります。



追伸

 a hopeさんの『伝道物語』も、非常に良いですね。改めて拝読し現在、感動しております。ありがとうございます。「バイ菌すらも神の使い」とはもう、圧巻です。

1229如月:2012/11/30(金) 09:28:34 ID:ki/haAjk
>>1227 志恩さま

素晴らしい記事の紹介ありがとうございます。
じっくり読みたくて光明掲示板さんの方で探しましたが見当たりません。
フォルダマークの横の大きいタイトルは【悩んでるあなたに…】ですか?
ページで言うとどこでしょうか。 1(1〜50)2(51〜100)3(101〜150)4(151〜200)…
教えていただけませんでしょうか。 よろしくお願い致します。

1230志恩:2012/11/30(金) 11:30:46 ID:.QY5jUA6
如月様

「愛国掲示板」、よりどころ様が、トップのところです。
 何番目かに掲載されてました。

http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&amp;mode=res&amp;log=484

1231如月:2012/11/30(金) 11:39:17 ID:ki/haAjk
>>1230 志恩さま

わざわざ、貼ってくださってありがとうございます。
ありました! ありがとうございます。 

最近、神様って本当にいるんだろうか。自分も神の子なんだろうかと疑問に思い始めました。
大津でイジメられて死んだ子も虐待されて死んだ子も、きっと神様を呼んだはずなのに
何故、助けてもらえなかったのだろうと。
世の中には、神の子もいれば、大津の子や自分のように神の子じゃないのもいるのかもしれない。
善のみの世界、その世界の中に含まれていない人間もいるのではないかと。

ここで論争している人たちは神様のいる善のみの素晴らしい世界に住んでいて
世の中の大半はその世界に住んでいて、自分はそんな世界に初めから組み込まれていないのだと
考えながら見ると、だんだん馬鹿らしくなって来ました。

でも、志恩さまの貼ってくださった記事を探すうちに、伝統さまの [胎内記憶Ⅱ] という記事が目に留まり
読んでいると、少し希望の光が差してきたような気もします。 もう少し読んでみます。 ありがとうございました。

1232goro:2012/11/30(金) 11:42:41 ID:3Dk63Vjg

如月さま

志恩さま御紹介の下記文章は、光明掲示板の検索欄に(2919)(1032)のいずれかを入力するといいですよ。

光明掲示板より

【悩んでおるあなたに・・・ 】(2919)←この数字です
日時:2012年10月28日 (日) 04時34分
名前:伝統

「悩んでおるあなたに・・・」  藤原敏之先生 (1032) ←この数字です
日時:2012年09月18日 (火) 14時53分
名前: 森永考星

1233goro:2012/11/30(金) 12:23:17 ID:3Dk63Vjg

 復興G様

雅春尊師の唯神実相哲学である驚天動地の御教えは、

物質はない、現象は無い、有るのは只「実相」のみである。

「人の偉大なるはその実相にあり。汝ら生命の実相を自覚せよ」

心に染み入る尊師のみ教えです。

今世においてこの聖語を知り得ただけでも生まれてきた甲斐があったと思っています。

「業」については復興Gさまの詳しい御説明の通りであります。異論も反論もありません。
またどこまでも原因結果を追求しようと考えているわけではありません。

はっきりしていることは原因がなんであれ、雅宣総裁の思想哲学は
雅春尊師の御教えとはかけ離れた内容になっているということです。

お伺いしたかったことは三代目総裁は雅春先生の教えと違う方向で指導されていて
教団が大混乱になっている事についての因縁を教えて頂きたかったということですが、
最早意味有ることとは思えなくなりました。
切りがありませんのでこの件についてはこれで終わりにしたいと思います。
今までと変わらず、雅宣総裁の実相をのみ観じ続けて参ります。

「偶然はない」と知る祈りの内容が素晴らしいものであっても、
御教えの根幹が元に戻らない限り虚しいだけです。>>1228などの考え方は論外です。話にならない!

志恩さまの投稿して下さった内容が、一番しっくりと受け入れることができます。

復興G様には心を尽くし、言葉を尽くして御指導下さいましたことを心より感謝いたします。
誠に有り難く感謝申し上げます。

1234如月:2012/11/30(金) 12:36:05 ID:ki/haAjk
>>1233 goroさま

検索欄の存在を教えていただいてありがとうございます。
今まで光明さんは記事が探しにくいと思っていましたが、解決です。
                               感謝 合掌

1235志恩:2012/11/30(金) 15:48:14 ID:.QY5jUA6
goro様、

私も如月様と同じく,光明掲示板の番号での検索方法を、気がつきませんでした。
番号入れて、検索すれば、ぴったり、見たいスレッドに行けるのでした。
教えて頂いて、よかったです。
ありがとうございます。

1236志恩:2012/11/30(金) 16:57:16 ID:.QY5jUA6
>>1231:如月様

如月様には、ここで様々な貼付の仕方を、私は教えていただきましたので
本当に、どれだけそれが役立っているかしれません。

私は如月様は、PCのエキスパートでいらして、PCのことは、なんでもわかるだと思っていました。

そうしましたら、goro様に上記のこと、教えられたというので、えっ!という感じ。
なんか、親しみを覚えました。如月様でもPC、わからないこと、あるのですね。

それから、如月様の次の投稿文にも、えええっ!!!!!と思いました。

>>最近、神様って本当にいるんだろうか。自分も神の子なんだろうかと疑問に思い始めました。
大津でイジメられて死んだ子も虐待されて死んだ子も、きっと神様を呼んだはずなのに
何故、助けてもらえなかったのだろうと。
世の中には、神の子もいれば、大津の子や自分のように神の子じゃないのもいるのかもしれない。
善のみの世界、その世界の中に含まれていない人間もいるのではないかと。

ここで論争している人たちは神様のいる善のみの素晴らしい世界に住んでいて
世の中の大半はその世界に住んでいて、自分はそんな世界に初めから組み込まれていないのだと
考えながら見ると、だんだん馬鹿らしくなって来ました。<<

これについては、
大先輩でいらして地方講師(教務)でいらっしゃいます復興G様に、
ご返信頂く方が、ベストだと存じます。私は、一信徒ですから…。

あとから、復興G様が、ご指導下さると存じますけれど、
一応、
私の拙い考えを申し上げれば、実相は完全でありますが、人間は修行をするために
何度も、現世に、生まれ変わって来ていると学んでいます。

>>大津でイジメられて死んだ子も虐待されて死んだ子も、きっと神様を呼んだはずなのに
何故、助けてもらえなかった<<

という深刻な問題でありますが、これは、生長の家の本来の教えを知らない人にとっては、
いじめた方も虐待されて死んだ子も、両方の親御さんも、一生相手を憎み苦しみ続けることに
なりますね。

引用文なしで、コメントさせて頂きますが、

こういう問題は、真理に照らし合わせますと,
現世の問題の場合もありますが、前世からの問題の場合もあると教えて頂いております。

ころされたり、不慮の事故死に遭う人は、そのこと自体を五官の世界から見ましたら。
一大不幸に見えますが、

唯神實相論、光明縁起説を学び、心の窓が開かれますと,そういう人達も悟りに導かれ、
つぎに生まれ変わって来るときは、
よりよき人生を送れるのだと教えて頂いた事がございます。

それこそ,悪はなく、過去の業が浄化されて消えたのである。また、苦しみの中に聖地があるのだと
いう深い境地に魂が進化するための機会を与えられた人間なのかもしれません。

人間知や理屈を超えた神秘(實相)世界が存在することも、教えて頂くと,心が救われると思います。

雅宣さん事件も、どのように捉えるかといえば、これも、われわれ、お互いに詳密な真理を
学び合い、体得している段階なのかもしれません。

それでは、大先輩の復興G様、ご指導のほど、よろしくお願い致します。

1237志恩:2012/11/30(金) 17:19:53 ID:.QY5jUA6
知恵袋に興味深いQ&Aがありました。

有名な女性詩人・金子みすずの詩に、
「大漁」という詩があります。

これは、こちら側から見た場合と,人間には見えない世界、海中の、イワシという相手側から見た場合の詩ですが、

質問者がこう言っています。

Q:「「弱い立場の鰯」を思いやれと言いたいのだろうが、それならば「鰯に食われたプランクトン」はどうなるのですか??」

        「大漁」     金子みすず

       朝焼け小焼けだ大漁だ
       オオバいわしの大漁だ

       浜は祭りのようだけど
       海の中では何万の
       いわしの弔いするだろう



A:mypet_gonta0202さん

「詩のセンスも文学的素養もありませんが、
この詩を読んで、「弱い立場を思いやれ」なんて思いません。

金子みすずが、どんな気持ちで書いたのか知りませんが、「今日はいっぱい獲れてよかったねー」と言っている横で、
自分が余り恵まれている状態でなければ、

あるいは皮肉屋なら、「こちらでは喜んでいるけどさ、あっちじゃ、お弔いだね」くらいのことが掠めても不思議じゃないと思いますが。

同じものを見ても、見過ごしてしまう凡人のわれわれと違って、何か感じて言葉にするのが詩人じゃないかと思っています。

理屈から入ったら、言葉の感性でできている詩も共感できなくなって、面白みも何も感じることがなくなってしまうと思うのですが、、、

プランクトンも食物連鎖もいらないと思うのですがね〜。」

このような、金子みすずが、見えない世界を見ている感性の高い詩も、
理屈だけで考える人にとっては、
「それならば、イワシに食われたプランクトンはどうなるのですか??」というような無味乾燥的な捉え方をするのだなあと、
ちょっと考えさせられるQ&Aでした。

1238うのはな:2012/11/30(金) 17:34:07 ID:SXwG/Idc

   根拠について

 盗作呼び捨てブログ管理人が、あなたと和解の話はしたくないといわれると
人格否定だとかゴタゴタ言ってましたが、本流ふくめて全掲示板投稿人を毎晩祝福してる
といいながらあっちこっちで書き込み禁止になって多くの人の顰蹙を買い、
いまだにここの掲示板でも誌友会で失敗し、他の人の迷惑になり、
トキさんのためだと言い訳しながら作ったブログでもゴタゴタの連続。
神相観中、「行け」とささやきが聞えたから奇襲決行、成功だなんていってる人は
それだけで充分「あなたには和解を説く資格がない」と多くの信徒から拒否される根拠になると思います。

 もともと「神示」なんて使うところが邪道だと思うし。

1239うのはな:2012/11/30(金) 17:35:03 ID:SXwG/Idc

 神想観 に訂正します。

1240神の子さん:2012/11/30(金) 20:50:05 ID:???

>もともと「神示」なんて使うところが邪道だと思うし。

じゃ、いったいナニが正道?毎日毎日、人の悪口を書きまくるのが正道?

生長の家の掲示板だから聖典や神示を使うのは当たり前でしょ?

1241トンチンカン:2012/11/30(金) 21:09:00 ID:9yITXFI2
純子奥様は“カカア殿下”?


11・27ブログ「恵味な日々」の“暴虎憑河”について考える・・・(4128)
日時:2012年11月30日 (金) 10時13分
名前:信徒連合


         11・27ブログ「恵味な日々」の

             “暴虎憑河”について考える・・・


合掌、ありがとうございます。
11月27日の総裁夫人・純子さん(白鳩会総裁)のブログ「恵味な日々」には面白い事が書いてありました。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


2012年11月27日 (火) =結婚記念日=

<<・・・ 私自身の33年を振り返ると、長いようで短く、短いようでやはり様々な出来事があり、感慨深いものを感じます。 夫は私のことを、「暴虎憑河」(ぼうこひょうか)ということがあります。
 広辞苑で引くと、「血気の勇にはやること。命知らずのことをすること」と書いてあります。自分ではそんな風に思わないのですが、夫にはそのように映るときもあるのだと思います。何事もよく考え、冷静に判断する夫とは、対極にあるような言葉です。性格的には違うところも多いですが、考え方や理想が同じ方向を向いているので、仲良くやってこられたのではないかと思います。・・・>>



<後略>

詳細は、、、http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&amp;mode=res&amp;log=794

1242うのはな:2012/11/30(金) 23:07:49 ID:e2uGAy0E

別版は、わたしが書きたいように書いていいように出来たんです。
それと、訊けのこれまでの言動に対する反論のつもりで、特に悪口をいってると
いう意識はありません。別に悪口でも、訊けyさそれ以外の人達から訊けのブログで
よく書いていましたよ。

なにが正道?って話が飛んでるようですが、私は大調和の神示なんてもち出して
批判行為をするのが邪道だと思うからそう書いただけです。
なにが正道とかそういう話なら勉強会でもしたらいいのではないでしょうか。

 訊け氏は元本部講師のような方からも真理を使って人を裁いてはいけない
と注意されていました。訊け氏が相談したとかいう宮澤先生も講演会でそのような
話をされていましたよ。

1243うのはな:2012/11/30(金) 23:11:24 ID:mF3gojxg
>もともと「神示」なんて使うところが邪道だと思うし。

じゃ、いったいナニが正道?毎日毎日、人の悪口を書きまくるのが正道?

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 これとは直接関係ないけど、ここのウェブ誌友会でも他の掲示板でも
大調和の神示をテーマにした誌友会の司会をやった訊け氏は、他から苦情を
受けています。

 生長の家の掲示板なんだから神示や聖典を使うのは当り前というのはもちろんそうだと
思いますが、わたしはそんなことをいってるのではありません。
 あなたのような人の悪口なんて絶対いわないだろう高尚な人とは話があわないと思うので
今後のレスは御遠慮ください。

1244うのはな:2012/11/30(金) 23:13:02 ID:fZPFPaaU
別に悪口でも、訊けyさそれ以外の人達から訊けのブログで

 訊けさんのブログや訊け以外の人達からも悪口デマなどは書かれていた
 に訂正します。

1246トキ:2012/12/01(土) 09:28:32 ID:ko5D6kNI
うのはな様、「訊け」管理人様

 元気な投稿をありがとうございます。
ただ、話題の内容は、別板のほうが適当なようです。

 以上、御共鳴下されば、幸いです。

合掌 ありがとうございます

1247志恩:2012/12/01(土) 09:38:37 ID:.QY5jUA6
トンチンカン様が、光明掲示板の記事を貼付して下さいましたが、

雅宣総裁は、奥様の純子様のことを、時折、

「暴虎憑河(ぼうこひょうが)」と

お呼びになるそうです。


そこで、四字熟語で調べてみました。

 
 >>   【暴虎憑河(ぼうこひょうが)】とは

(意味:)  血気にはやる無鉄砲な行動、
       虎を素手で打ったり、
       黄河を徒歩(かち)渡りする。

       無鉄砲な行動をいう。


 『論語』に見える孔子の言葉から出た語。
 それに対して孔子は「暴虎馮河、死して悔無き者は、我与(とも)にせざるなり」
 (虎を素手で打ったり黄河を歩いて渡ったり、死んでも悔いないような者とは一緒にしないよ)と答えた。

 「暴虎」は、虎を素手で打つ。
 「馮河」は、黄河を歩いて渡る。ともに『詩経』に出る語。

    【 無謀な勇は、身を亡ぼす禍(わざわい)のもと。】

        という意味。


                        全国漢文教育学会長
                            石川 忠久 >>

1248如月:2012/12/01(土) 09:48:27 ID:ki/haAjk
>>1236 志恩さま

ありがとうございます。 
私は、こちらの掲示板のような形式に慣れているだけで、光明さんのように
少しでも違う形式の掲示板になるとオロオロするのです。
PCに詳しいなんて、とんでもない。 
こちらも、あちらも行き来できる志恩さまの方こそ、すごいなと思います

ネガティブな発言をしてしまいましたが、『胎内記憶』や中村晃生先生の
『体験的信仰論、神様と親しくなるには①』を読んでいると
自分も神様の世界に組み込まれているのかもという気がしてきました。

>人間知や理屈を超えた神秘(實相)世界が存在することも<

私は霊感的なものが一切無いため、こういう世界の存在がなかなか信じられ
ないでいるのですが、あると認めたらあらわれるのかもなどゴチャゴチャ考えています。
しばらく、あると信じる方向でやってみます。
ご心配をお掛けしました。 ありがとうございます。

1249うのはな:2012/12/01(土) 11:46:25 ID:POFpa6Ro

1246 名前:トキ 投稿日: 2012/12/01(土) 09:28:32 ID:ko5D6kNI うのはな様、「訊け」管理人様

 元気な投稿をありがとうございます。
ただ、話題の内容は、別板のほうが適当なようです。

 以上、御共鳴下されば、幸いです。

合掌 ありがとうございます
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
これも通称は私の文言から出来た「島流し版」で書くのが適当かと思いましたが、
訊けがこいこいとしつこく勧誘したブログでも、トキ管理人がうのはなさん新しい掲示板
をつくりましょうかといって出来た別版でも、こいとか来るなとかそんなことの繰り返しです。

 別版掲示板方針版などでは各所からアク禁や誌友会トラブルメーカーが、
さっそく、僕のブログの意見をこっちに持ってきていいわけですね、と占領しています。
キャバクラカブトムシは書き放題でも、わたしがなにか書くと生長の家の恥になるという様子
です。トキ管理人も放任しているようです。
ですから今後、トキさんの指示には従いません。

1250「訊け」管理人:2012/12/01(土) 11:50:35 ID:???

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
1223 :復興G:2012/11/30(金) 00:14:28 ID:vWpLkCzM
 総裁や教団にとって、“本流”は赤痢菌みたいなものかも知れないし、逆に“本流”の方たちから見れ
ば、総裁こそが“赤痢菌”以上の悪者、ということかも知れません。

 が――。
 どうなのでしょう。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 公論に値するところの「良質の論点」が、過去文送りになっております。以下に再度掲載致します。


>>1220

>>1221

>>1223

>>1224



1251うのはな:2012/12/01(土) 11:53:33 ID:XuKa5ZNI
 論点が先送りだとかはトキさんにもあてはまるようです。

1252うのはな:2012/12/01(土) 11:59:45 ID:DYtKCfk2
濡れ衣着せて相手を貶めていいんですか。
訊けはスケベですがやってもないことでいつも怒られてませんか。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 トキ管理人へ

 復興Gさまや各所からクレームされている訊け氏への注意は、わたしが読むと
もっともだと思いますが、訊けは形だけは謝りながらもそうは思っていないようです。
管理人としてはこんなところから解決しないといけないのではないでしょうか。
今日はこんな話題は、これでやめますが、漠然と優柔不断におなじ話ばかり繰り返して
いるようなので、訊けの友人であり、管理人ならもっとしっかりしてもらいたいと思います。

1253「訊け」管理人:2012/12/01(土) 12:14:36 ID:???

○「赤痢菌に感謝し、和解しようじゃないか。感謝できるまで神想観しよう」
○「〝黴菌といえども、神の使いである。その働きはガードレールのようなもの″と訓(おし)えられていたことが、四時間に及んだ祈りの中で実感として解らせて頂いた。」

全文:http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65704064.html

 >>1250の復興Gさまご提題は「よほど重要なもの」との認識を持ちます。皆さんは、いかがでしょうか。







追伸

 また、『伝道物語』からご謹写くださったa hopeさまにもこの場をお借りしまして謝意を表します。

1254志恩:2012/12/01(土) 13:23:45 ID:.QY5jUA6
如月様

こういう問いに対する解答は、
復興G様の得意分野でいらっしゃいますけれどね。
復興G様の方が、適切なお答えを頂けると存じますが、

復興G様がお留守のようなので、
一応、はずかしながら末端の一信徒である私の思うところを述べさせて頂きますけれど。。。


>>自分も神様の世界に組み込まれているのかもという気がしてきました。<<
  ということですが、

如月様も私も 現世に 生を受け、同じ空の下で息しているのは、

本来の生長の家で、教えて頂いて参りましたように、

自分の力で、現世に生まれて来たわけではなく、自分の力で 生きているのでもなく、
神様の いのち を戴きながら、生かされている 神の子でありますから、

ご自分が 生かされてる神の子であることが、
「神の世界に組み込まれている」という動かぬ証拠では、ないでしょうか。


認めなくても、認めても、それらに関係なく
すでに,神の世界に、組み込まれてしまっている吾々なのです。

それから、
吾々が、どういう両親や環境のもとへ生まれて来るか、どういう人生を歩むかの
プログラムは、生まれて来るまえに、自分の指導霊、守護霊と相談して、自分自身で
プログラムを決めて納得してから、この世に生まれて来るのだということも勉強しました。

しかし、決まっている人生のキャリキュラム(運命)は、一部だけなのだそうですよね。

残りは、この世に生まれて来てからの自分の信念、想念による生き方によって
ご自分の責任で、想いが具象化して人生は変えられるのだそうです。

ですから、そういう意味でも、
どのような信仰を持つかが、人生を有意義に楽しく生きられるかどうかの、
非常に、大事なポイントであり、境目であり、要素になるそうです。

ですが、どんなに、いい信仰に触れたからといって、
自分にとって、快いことばかりが、現世に具象化してくるとは限りません。

なぜかといえば、吾々が、この世に生を受けた理由は、
魂の霊的進化を目的とする修行にきているからだ、、ということを学びました。

おおまかにお話すれば、こんな感じです。

私が,今迄生きて来て感じた事は、例え悪いことが起きても、
きっと、これから良くなるぞ!!

私の実母の口ぐせで言えば、何事が起ころうとも
「だからよかった」というふうに物事を前向きに捉えて
生きて行く事が,運命をよくするポイントだと思います。

それを実践可能にするには、やはり、光明思想の著書を親友にすることが必要だと思います。
そして、神想観、聖経読誦も続けているうちに
徐々に、神のいのちの中に己が存在している、「無私」という実感が湧き続けます。

実生活では、自分本位な生き方ではなく、自分のことより先に
まず、周りの人達に喜ばれる生き方、周りに居る人達に深切にする生き方を心がけ、
祈りと共に誠意ある行動して行きますと、

なにも幸運を望まなくても、結果的に、自ら幸運が訪れてくると確信しています。

私の人生も,生長の家のお陰で、そのようにして、いつも、いいように、いいように
導かれてまいりました。

なんだか、すごく初歩的な話になりまして、すみません。
だって、如月様は、組織におられるのですもの。
如月様にとりましては、耳たこの初歩的なお話だと存じます…(笑)

これプラス、日本国実相顕現と天皇陛下のお話を加えてまいりますと
国家の救済、個人救済運動の本来の生長の家の教えにつながりますが、

ただ今は、生長の家は、
個人ほっちらけで環境問題とノーミートが主流の教えに変質してしまったわけです。
それで、本流派は、本来の教えの回帰のため日々発言し行動しているところなんです。



(注:アナコンダ君は呼んでいません。
赤ペン片手に沼から飛び出して、走って来ないように!!!)

1255如月:2012/12/01(土) 15:08:40 ID:ki/haAjk
>>1254 志恩さま

何度もありがとうございます。
目からウロコのような感覚です。
初歩的と言われます事が、全然わかっていませんでした。

神想観も聖経読誦も続けていて、少し好転の兆しが見えると
奇蹟だ神様のお陰だと喜んで参りましたが、最終的に以前より悪くなってしまい
もしかしたら、神様が思っている [すべてのすべて] というのはテーブルの上の世界であり
裏についているホコリは初めから無いと思われてしまっているのではと考えたのです。

講師の先生にお尋ねしても「そんな事ないわよ。みんな神の子よ」と言われるだけで
「みんなの中に火星人とか金星人とかも含まれるんですか?…」などしつこく尋ねたら
突き放されてしまったのです。(私は地球人のつもりです)
まぁ完全に突き放すのでは無く「日時計日記を書きなさい」とアドバイスは頂いたのですが。
日時計日記って何?賛嘆日記じゃいけないの?という気持ちがあり受け入れられませんでした。

でも志恩さまは『自分の力で、現世に生まれて来たわけではなく、自分の力で 生きているのでもなく、
神様の いのち を戴きながら、生かされている 神の子でありますから、ご自分が生かされてる神の子であることが、』 

このように証拠を示して下さったので、ようやく安心できました。
魂の進化の為に選んで生まれて来たというのは納得できたのですが、それ以前に、神様の世界に
組み込まれていなければ、何をしても無意味ではないかと不安でたまりませんでした。

光明思想の著書を親友にすること
きっとこれから良くなるぞ!だから良かったを口癖にする
無私になるまで、神想観、聖経読誦を続ける

安心して、これらを目指して生きて行けます。 あー良かった。 ありがとうございます。
                        
                                         合掌 拝

1256復興G:2012/12/01(土) 21:39:38 ID:vWpLkCzM

合掌 ありがとうございます。

昨晩は、40年来の心友のお通夜。そして翌日(今日)の準備。
今日は朝からずっと大事な行事があり、PCに向かういとまはありませんでした。

今やっと、ここを開いて見ています。

志恩様、如月様の交信があって、私へのお呼びかけもあったようですが、志恩様のご指導のお話で、すでに如月様は納得されているようですから、私から何も申し上げる必要はないものと思われますが、せっかく志恩様からお呼びかけがあったのですから、蛇足かも知れませんが、資料を追加させて頂きましょう。

すでにお読みいただいていると思いますが、>>1221の「霊魂進化の神示」、web誌友会板1665の「人生の苦難を克服する祈り」をもう一度お読みいただきたいと思います。
そして、谷口雅春先生は「根本的な善業は、神の善意を信ずることである」とお教え下さっています(>>1187をご参照ください)から、志恩様がおっしゃってますように、何があっても「これでよくなる」と思うことですね。

榎本恵吾先生は、次のように言っておられます。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

   「あなたは魂のエリート」と祝福すること

 たとえばあなたが家に帰った時など、家庭の複雑な悩みを持っておられる人が、たまたまあなたに話しかけたとしよう。その人は

「私がいたらないものでこんなことになってしまって……」

 と暗い顔をして言われるかも知れない。そのときあなたはすかさず、

「あなたは他の家庭とくらべてご自分の家庭は遅れていると思っていられるでしょう。自分自身がいたらぬからだと言われますが、そうではないのですよ。そんな、なんの悩みもない家庭はとっくに卒業されたんですよ。

 幼稚園に行ってごらんなさい。リンゴを二つもってきて、“一つと一つとたして二つですね”などという問題をやっているでしょう。全然複雑でもなんでもない問題です。しかし、魂が生長して来ましたら、こんなやさしい何でもない問題に、いつまでもかかわっているのに満足しなくなるんですね。そして、ややむずかしい問題、またややむずかしい問題へと挑戦して行くのです。そして、小学、中学、大学へと挑戦して行くのです。上に行けば行くほど問題は複雑になって行くのです。

 生命はわざと自分で挑戦して行くのです。ですから家庭問題でも、何でもない家庭はとっくに卒業されたのです。ですから問題が複雑であればあるほど、あなたの魂は高級な問題にとり組んでおられるわけですから、あなたは魂のエリートなんですよ。遅れているんではなくて進んでいるんですよ。どうぞ胸を張って生活して下さい」

 と言ってあげてほしいのであります。これが光明思想であります。

    <榎本恵吾記念館サイトより>

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

ありがとうございます。合掌

1257さくら:2012/12/02(日) 00:30:38 ID:e8ieIrPA
「あなたは魂のエリート」…
そうですね…
素晴らしいことばを、ありがとうございます。


…如月さま、またわたしの話を書いて申し訳ないのですが、
わたしも、生長の家に触れて救われたと思って活動始めたのですが、
しばらくするとどうしても悩みがでてきてしまって、宇治に練成に行ったんです。

個人指導を受けて、だれがああ言ったとかこうしたとか…おそらく、たくさん不満を言ったんですが、それを黙って聞いていた講師が最後に、
「あなたには何がたりないと思う?」と聞かれました。
「わたしは、神や両親や周りの人に全然感謝ができてないんじゃないでしょうか。祈りもできてないし、愛も足りないし…」と色々自笑気味に答えたんです。

そうしたら全て、違うと言われて、
「あなたは、なにより自分に感謝していない。自分に感謝してないとは、自分の内にいる神を大切にし、礼拝してないということですよ」
と言われて、そのあと、ボロボロ涙がでてきたのを思い出しました。
はじめて、自分の内にいる神様に、申し訳ないことをしていたと感じて、泣けて仕方がなくなってました。

わたしは、まだまだ、自分の内なる神様を大切にするのは、いまだに、難しいことがたくさんあります。
大切に恥じないように…その神様にいまだに胸をはれないことがたくさんあります。

でも、自分の内に神がいると知っただけでも、全く人生が変わりました。

学びをありがとうございます。

祈。

1258志恩:2012/12/02(日) 07:16:23 ID:.QY5jUA6
復興G様

的確なご指導を感謝申し上げます。

>>恵吾先生のお言葉、
〜「あなたは魂のエリート」と祝福すること〜

 (略)ですから問題が複雑であればあるほど、あなたの魂は高級な問題にとり組んでおられるわけですから、あなたは魂のエリートなんですよ。
 遅れているんではなくて進んでいるんですよ。どうぞ胸を張って生活して下さい」

 と言ってあげてほしいのであります。これが光明思想であります。<<

 全く、その通り,如月様の質問の回答にぴったりの真理のお言葉だと存じました。
 復興G様、ご指導、ありがとうございました。

 そうでした、そうでした。魂がエリート化するに従って、より複雑な人生課題を与えられるのでした。

 私も,過去を振り返りますと、「私は、いったい何をして来たというの?私は何も悪い事してないじゃん」と、いうような理不尽な課題に
 ぶちあたったことが、幾度もございます。そのときは、信仰が足りないってか?と自分自身を責めている自分が居ました」

 でも、それを救ってくれたのが、「絶対に良くなる過程だから」という「だからよかったと思いなさい」とアドバイスしてくれた
 生長の家に熱心な実母の言葉でした。母に言われた瞬間は、ムッときて、心の中で「だからよかったなんて、思えるわけないじゃん!!!」と反発しました。

 しかし、思うだけは、タダですから、自分自身に言い聞かせるように「だからよかった、だからよかった」と、つぶやいていました。
 そして、その問題から心を放っていましたら、問題君が、自分で解決して行ってくれました。

 具象化している問題が、解決するのには、即決ということもありますが、大抵は時間が掛かるのが世の常です。
 神と直結し、楽天的に考えられる人が、最後に勝ち行くのも、世の常ですものね。合掌

さくらさん、

貴重な体験をお話下さって、ありがとうございます。
人生の学びは、一生ものですから、日々が学びだと思っております。

1259志恩:2012/12/02(日) 07:25:03 ID:.QY5jUA6
今の教え」と「本流復活」を考える・挨拶板に書かせて頂いたものですが、
本流関係のことを述べておりますので、ここへも貼付させて頂きます。

1339 :志恩:2012/12/02(日) 06:27:57 I
リエ様

リエ様、はじめまして。ようこそお越し下さいました。
早朝神想観を終え、PCを開きましたら、リエ様の書き込みがありました。
ここの管理人は、トキ様なのですが、僭越ながら私が先に拝見しましたので、
先にご挨拶させて頂きます。

いよいよ組織からの脱退を決意されたそうで、よく決意されましたね。
私も、大部前に、教団の方の組織を、考えがあって、しばらくやめています。

【今の教え】は、変質してしまって、生長の家ではない別の宗教に
なっておりますので、それも、1つの選択だと思っております。

他県在住の、私の昔からの生長の家の友人も、支部長を大部前にやめたと、しばらく前に、電話をもらっています。

組織を、やめたといいましても、生長の家をやめたわけじゃないですから、新しいすばらしい出会いも
いろいろとございます。ご心配には及びません。

私は、「白鳩」はまだとっていますが、
「谷口雅春先生を学ぶ」誌と、ときみつる会の「心のかけはし」誌もとっています。

断然「学ぶ」誌と「心のかけはし」誌の方が、心に響き、心の糧になります。

「白鳩」は、環境とノーミートの話で埋まっており、読みたいところが全くありませんので、
 年ぎめの期限切れが来ましたら、次の継続はありません。

本流系の本は、内容が充実してて、非常に読み応えがあり、得るところが、たくさんございますから、お勧めです。

「学ぶ」誌は毎月1冊、「心のかけはし」誌は2か月に1冊、出版されてます。

「心のかけはし」9〜10月号には、
”真理の流れ”というものは、「神ー開祖ー御教え」となるのが、当然であり、それ以外には、ありません。
と、書かれてあります。

そして、「真理の吟唱」のポイントを、端的にどなたにでも理解出来る言葉で解説下さってます。

また日々の言葉もあり
「祈りがきかれないのは何故」
「現実に幸福になるには」というような題で、即、実践出来、人生の生き方で真理を生かす方法も書かれています。

「今の教え」では、消滅させられた個人救済も、国家の救済も、本流系の本は、満載です。

「心のかけはし」9〜10月号の編集後記に、こう記されております。
◎谷口雅春先生は「自分の心持ちは、必ず周囲に影響を与える」とおっしゃった。

 社員を十分に働かせるのも、怠けさせるのも、上役や社長の態度1つにかかっている。
 《私に議論を吹きかけようとして演壇に立ってただ「皆様ありがとうございます」とお辞儀を
 しただけで理屈がなくなり、生長の家が好きになった人もある》と「光明法語」(昭和24年発行)にはある。

 当然、御講話のおよぼす功徳もすばらしかった。(編集子)

平成25年用、
日訓(日めくり)1つ比べても、違いがわかります。

★「今の教え」… 自然は善であり、調和していて、美しい。

☆「光明思想社」…神と一体となる時、一切のものが新生する。

 ※「学ぶ」誌、「心のかけはし」誌…ネットで検索すると、申し込み方法が載ってます。

  宇治の楠本先生も、「心のかけはし」誌を、宇治の職員に読んで聞かせているという書き込みが、
  以前、この掲示板に書き込まれていました。

            合掌 ありがとうございます。

1260さくら:2012/12/02(日) 08:34:48 ID:e8ieIrPA
復興G様

合掌ありがとうございます。
いつも的確なご指導と、学びの機会を提供してくださり、感謝いたします。
40年来のご心友を見送られたということで、心静かにおもわれたいこともあることとおもいます・・お時間あるときでかまいません。
私も、ご教示願いたいことがあり、どうようにおもったらよいか、まだ心が迷うことがあります。

復興G様のご文章を拝読し、日本国についての深い真理を授かっている宗教においての分裂は、日本の国に転写するような因になることもあるのか、すこし不安にもなります。
業をこえるみ教えが生長の家の教えですが・すべてこの現象界に現れることは、業の法則によるもので、例外がないとおもわれます。
もちろん、ひとつのことに起因して言い当てることは危険ですが、業の悪循環を断ち切ることが大切であるとおもっています。

・・すこし予断ですが、このたびの選挙でもたくさんのそれぞれの口当たりのいい政策を掲げて乱立しましたが、
国として護るべき中心の把握がなく、「平和」「安全」「自然」といっても、やはり実現性のないもので、そういう政党には日本を任せたくない気持ちになります。
鎮護国家なくして世界平和はありえない、と復興Gさまも言われていました通りだと感じました。

生長の家のみ教えの把握について、生長の家の組織の行く末について、
「人それぞれであるからいいはないか」「わかる人にはわかる」「棲み分けでいいではないか」
またあえて「真の生長の家」とか「昔の教えいまの教え」など・・
いわれる方もおられますが、
わたしは、生長の家は、「人それぞれ」「わかる人」「真の生長の家」だけ救われる教えではないのではないかとおもっていました。
例外なく、みな神の子として救われ済みのみ教えであり、「結びの働きを果たす」宗教であるはずです。
ですから「分派」「本流」「ひとそれぞれ」なのは、周辺の運動の部分だったり、個性であったりするかもしれませんが、やはり、教えの部分でひとつになっているのが、生長の家のみ教えに現れたみこころであり、本来ひとつのものだとおもうのですが・
本流こそ、雅春先生のみ教えを護るところならば、ひとつに集約するはずなのだとおもうのですが、「ひとそれぞれ」などいうのが、どういうことなのか、わたしにはまだわからないでいます。

1261さくら:2012/12/02(日) 08:35:48 ID:e8ieIrPA
ハマナス様が謹写してくださった
「君民一体の生命把握の自覚」において、

「≪「天に仰ぎ、地を見下ろせば、天と地とは感覚的には別個のものであるのである。しかし
その根元を「一」として捉え、その「一」に中心を見出して、それに万法の帰一することを捉えたのが日本民族であるのである。

≪「成り」は「鳴り」であり、コトバであり「生命の流動」である。「高天原」に遍在してして「鳴」りわたるコトバはそのまま「生命の流動」であり、それがそのまま「天之御中主神」(あめのみなかぬしのかみ)であるのである。高天原と云う容器(いれもの)の中に天之御中主神が発生したと云うのではなくして、高天原そのままが「中」(みなか)の顕現であるのである。「中心」と「周辺」とを分割するような思想は、日本的なものでない。

 天皇と臣民とを分割するような思想は、日本的なものでない。日本人は天皇に於いて自分の生命の本源の象徴を見出し、天皇はみづからの手身(たみ)であるところの国民を見出したのである。頭首は手身なくして生きないし手身は投手なくして生きない。君臣一体の生命把握が、日本民族の最初の中枢的自覚であったのである。≫」

と説かれていて、

「よく卵の黄身だ、白身だとか、中心部分と周辺(周縁)部分だとか、分けて言われますが、本当は、「中」(みなか)においてすべては「一つ」なのだ! 常に、そこに立って行ずるのが、生長の家の生き方であり、日本の心を生きることである。そして、その生き方こそが世界平和の根本になるのである。これをはずして真の世界平和はあり得ない! と、私は思いました。」

と復興Gさまがまとめてくださり、その通りであるとおもいました。
その自覚に帰ることが、「中」(みなか)においてすべては「一つ」ということが現れてくるのではないかと感じさせていただきました。

1262さくら:2012/12/02(日) 08:36:29 ID:e8ieIrPA
「天地(あめつち)の初発(はじめ)に立ちて   (榎本恵吾)
     ――人類光明化運動の楽的展開論――

「御教えの本(もと)に還れ」とよく言われるのであるが、実に、生長の家の御教えの本に還り、尊師のいのちに帰るとはこの「久遠の今」に還ることにほかならない。この「久遠の今」の中に日本があり、天照大御神がいまし、天皇がおわしまし、生長の家があり、尊師がおわしますのである。

 尊師がこの世に、『生長の家』誌を出される決心をされたときに聴かれた声は、「今、起て!」という大いなる天徠の声であった。尊師は万物発生の枢機を握る一点において「吾れ」と「今」と「此処」とは一つであるとお説きになられる。即ち、「今」とは「尊師」のことなのである。「今、起て!」のことばは万物発生の枢機を握る一点において「吾れ」と「今」と「此処」とが実相全機の現成として響いたのである。そして、実相の世界に於いては永遠に常に「今、起て!」というコトバが全機の働きとして鳴り響いているのである。常に、実相の大地に降り立ち、尊師のいのちに参ずるものはこの声を聴くことが出来るであろう。そこにこそ運動の中において一人一人の一挙手一投足に本当の尊師のいのちへの回帰があり、帰命がある。此処においてはじめて本当の意味における尊師のいのち――生長の家人類光明化運動への情熱が吾々各個の中に生まれるのである。」

>個人は死んで本元の中即ち「本来の一」の生命の中に自己を没却するのが「心中」であります。本当の「心中」は滅多にない。宇宙本源の「中」に於いて一体となれば生きていても心中である。

>そこで天津神(あまつかみ)即ち宇宙本元の神様が伊邪那岐・伊邪那美の二神に「この漂える国を修理固(つくりかため)成せ」と仰せられた。これは天津神即ち宇宙の大神の勅(みことのり)でありますから、宇宙に満ちているので、宇宙的なことにも、社会的なことにも、家庭的なことにも、陰陽のムスビにも当て嵌まるのであります。「イザ」という言葉は呼びかけの言葉で、互いに陰陽が相呼応する、「漂えるもの」と「理念の一定の姿に修理固成する力」とが互いに相呼応する。それが相呼応することによって「本来の一」にかえる。「本来一」のものが相呼応して「一」に還るときそこに新たなる「生み出し」が生ずる。電気が火花を散らして電燈となり、動力となり、電気化学工業品となるように、「本来一」なるものが互いに仮りにわかれていたのが、一つに仲よく相合すれば萬物が生成化育され、よきものが生まれ出るのであります。」

1263さくら:2012/12/02(日) 08:37:17 ID:e8ieIrPA
み教えの中心を説いていない、雅宣総裁の現教団の方針の限界や、矛盾点、
組織の閉塞感やいままでのあり方を、冷静に見直し改善する方向での指摘や批判は、当然あるべきだと思います。

個人的には、なによりもこの本来一の信仰に立ち返るのが、いま信徒にはもっとも必要であると感じたことでした。

>またあなたは、自分の判断を他に対して押しつけようとは思わないのである。他の人が自分の判断と異なる判断をしている場合に、その判断が間違っていると思う場合には“論争”することなく、「彼は神の子であり、神の智慧に充たされていて正しい判断をすることができるのである」と祈ってあげるがよいのである。論争は反感を生むのみであるが、祈りは相手を平静に導き、自然に正しき判断を彼もできるようになるのである。

復興Gさまの姿勢は、一貫してご自分を振り返りながら、この姿勢であられようとしておられます。本部や現教団でご活躍の講師の方も、立派な信仰を持つ方も多いと信じておりますので、こうした姿勢で、雅宣総裁を導かれることと祈っています。

一方、わたし自身、精神修養がなってなくて、未熟なことを自覚しています。
だから現象にとらわれることが多く、往々に自分の我に負けてしまうので、日々反省なのです。

正直申しまして、

>その真逆の教えの運動を雅宣総裁は、押し進めており、それに洗脳された信徒が、まるで夢遊病者のように、よろんで雅宣総裁に、従順に従っているのが、
今の生長の家教団の有様になっているのであります。
>まるで,カルトも真っ青な、カルト化した集団に、今の生長の家教団は、陥っているのです。

たとえば、こうした物言いは、ただの個人の推測による独断であり、改善のための冷静な指摘ではないと感じてしまいます。こういう指摘が本流派側様の支持するものだとしたら、どうしても信頼ができない気持ちになってしまいます。
現教団にいるまじめに生長の家の真理を愛して、同じ生長の家のご縁をいただいている信徒のみなさまがいらっしゃるとおもいますので、「カルト集団」は、酷くいいすぎなのではないかとおもってしまうのです。

たとえそれがどんな「善意」であっても、良心を感じない言い方は他を傷つけることがありますので、
こうした類の指摘によって、よい方向には導くことができずに、やはり「業」を重ねる類のとこにつながるとおもってしまうのです・。

そんな風に感じてしまうわたしは、まだまだ「他人に自分の考えを押し付けるような
未熟な我」が残っているのだとおもいます。
まだまだ、祈っているつもりで、ほんとうの祈りには達していないのですが、
・・どのように祈りを深めていけばよろしいでしょうか。



1264さくら:2012/12/02(日) 08:47:46 ID:e8ieIrPA
この投稿に関する、人格に関する言及やあら探しの部類、匿名のコメントは、
別版の方にどうぞ、よろしくお願い申し上げます。



1265志恩:2012/12/02(日) 09:37:53 ID:.QY5jUA6
光明掲示板より、貼付させて頂きます。


11・27ブログ「恵味な日々」の“暴虎憑河”について考える・・・ (4128)
名前:信徒連合


 http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&amp;mode=res&amp;log=794

1266志恩:2012/12/02(日) 10:06:54 ID:.QY5jUA6
和解派軍団の
女番長・さくらさんの、相変わらずの
鼻っぱしの強い 指示に従う気は、毛頭も ございません。

1267解説者:2012/12/02(日) 10:21:58 ID:???

>>1266

宗教的にも、社会的にも常識のある志恩様のコメント、涙が出ます。

1268志恩:2012/12/02(日) 11:02:42 ID:.QY5jUA6
さくらさん、解説者様、訊け管理人様は、
私でも,本流の人でも、なにか発言する度に、
和解派軍団の三羽がらすは、1つ1つ、なにかにつけて、言ってこられますが、

私ではなく、雅宣総裁に向かって、なにか、おっしゃったらいかがでしょうか。

鎮護国家の主旨を総本山から抜き取ったことを、即刻,考え直してほしいとか、
「生命の實相」をテキストにするな、と全組織に厳命したことを、撤回してほしいとか、

つぎつぎに追放したご兄弟や、罪なき部下達と和解して、処分を撤回してほしいとか、
まだまだ、ありますが…

あなた方は、
なにもおっしゃらずに、本流派が言う度に、言葉のはしはしを捉えては,揚げ足取りばかりしている。

>>その真逆の教えの運動を雅宣総裁は、押し進めており、それに洗脳された信徒が、まるで夢遊病者のように、
よろんで雅宣総裁に、従順に従っている>>

この通りでしょう。
裏では,批判されてる事が、あるかもしれませんが、表の顔では、夢遊病者のように従順に従っているのが、
今の教団の皆様であり、「今の教え」に洗脳されている信徒の皆様の姿では、ありませんか。

私だって、言いたくて言ってるんじゃないのよ。
皆様、ぬるま湯に浸かってる昼行灯みたいに、雅宣総裁にやられ放題でぼ〜〜っと、してるから、
外部にいる吾々が、厳しく言わなきゃ、誰が本当の事を言うんですか。

雅宣総裁は、素晴らしい素晴らしいと,いつも周りの人達に持ち上げられて、ちやほやばかりされてるから、
この教団のおしせまっている情況に、気がつかないのよ。

いい加減に、目を覚ませ!!!

1269志恩:2012/12/02(日) 11:09:39 ID:.QY5jUA6
和解派軍団の
女番長・さくらさんがが、口火を切って

次に
解説者様が、お出ましになり、

で、次の3番目は、誰がお出ましになるか、
予想はつきますけれど…

私は,これから庭仕事があり、庭に出ます。

昼は、実生活を優先しておりますので、
あしからず。

1270みすはなまる:2012/12/02(日) 16:23:37 ID:5CdE5VUI

>>1210 志恩さま

大変お返事が遅くなりました。

>私達も安心して、これからも、みこころのままに邁進してまいりましょう。>

はい。ありがとうございます。

御心のままに生かされて学びを深めていきたいと思います。有難うございます。

1271「訊け」管理人:2012/12/02(日) 16:31:51 ID:???


 ・・・・・・・。






1272神の子さん:2012/12/02(日) 17:38:34 ID:???
>>1266
同感です 笑


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