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「本流対策室/4」
1197
:
復興G
:2012/11/28(水) 16:32:48 ID:vWpLkCzM
>>1194
のつづきです。
私も結構よく暴走します。
生長の家において“暴走”とは、前記 「中(みなか)」 からはずれて、現象ありと捉われて突っ走ること、と言ってもよいのではないでしょうか。
まあ、私も“暴走老人”かも知れません。老いらくの恋をして、心中をするような暴走をする可能性は、もはや0に近いでしょう。それでも皆無とは言えません。
いや、下記のような本当の 「心中」 なら、したいと思っています。
谷口雅春先生は、『幸福の原理』(新選谷口雅春法話集③)に、「『心中』に於ける倫理」として、次のようにお教え下さっています。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
<恋愛と心中の倫理>
人間は本来一つのいのちから生れているのでありますから、本来一つであるという実相を認めるとき初めて生活を本当の根拠に打ち立てたということになります。
「本来一つ」の自覚が愛、即ち自他一体の再認識であります。「自分」と「他」とが本来一つのものであるという自覚を完全に得たとき、その時、その人は初めて悟りを得たのであります。此の自覚は人間が青春期に近づいたとき、先ず恋愛を通して体験するのであります。……
恋愛の極致は「心中」になるのであります。心中と情死とは異なります。個体の情慾を死を貫いてまで充たそうとするのが情死でありますが、個体を無にして、心を元の「中(ちゅう)」に貫いてしまうのが「心中」であります。個人は死んで本元の中即ち「本来の一」の生命の中に自己を没却するのが「心中」であります。本当の「心中」は滅多にない。宇宙本源の「中」に於いて一体となれば生きていても心中である。
太宰治などのは情死である。「心中」では恐らくない。世の多くの恋愛に於いては男女は唯快楽の対象だと思って肉体を満足するために、肉慾の楽しみの為に、男女は互いに遊ぶのだと思っている。自他一体の自覚も肉の自他一体に過ぎない。ところが心中的恋愛の自他一体の自覚は「肉」を否定しての「霊」の自他一体である。少しも肉の交わりなしに「心中」してゆく男女もある。私は別に死ぬ意昧での「心中」を勧める訳ではないが、この自他一体の本元の「一」の自覚からして、更に進んで人類「本来一体」の自覚が出て来、人類すべて仲よく平和に生きられる道こそ宗教の道だと信ずるのであります。
そういうように人間が青春時代に「愛」の目覚めを経験し、「体」は分れておっても「一」にならしめようとして惹きつけられる不思議なる力を感じ、しかもその力たるや、個体を殺してしまってさえも「宇宙の一」に帰らしめずに置かないというような、そういう不思議な力があるということを体験して、そして「個体」は本来ないのだ、「心中」即ち「中」に帰一する心だけがあるのだということが自覚されて来るのです。
体験というものほど有難いものはない。体験を通して個体は無いが、自他一体の生命はあるということが判って来るのであります。小鳥の啼くのを聴いても、小鳥の心が分るような気がするのは何故か。花の咲いているのを見ても花の心が分るような気がするのは何故か。他が悪いことをするのを見ると、自分が憤慨せずにおれないのは何故か。他が善いことをするのを見ると自分が賞めずにいられないのは何故か。それは自他一体だからであります。
(註)『中庸』に「喜怒哀楽未だ発せざるを中(ちゅう)と謂う」とあり、中とは宇宙の本体のことである。
(新選谷口雅春法話集③『幸福の原理』より)
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
≪宇宙本源の「中」に於いて一体となれば生きていても心中である。≫
――死なないで、生きていながら、このような≪心中≫をして行きたいと思います。
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