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それは砕けし無貌の太陽のようです
1
:
◆HQdQA3Ajro
:2021/10/16(土) 00:00:21 ID:jePDeZ3M0
昏
光。
燦然と降り注ぐその輝きに、例えこの目を焼かれようと構いはすまい。
身も心も焦がすこの灼熱は、予て待ち望みし恩寵に相違ないのだから。
それを見上げ、それに焼かれ、それに溶けてそれと成る。それこそが幸福。
穴蔵に潜み隠れたる者の、羽化を兆す福音の歓喜。然るべきは再誕の曙光、新生の暁なり。
ああ。
太陽だったのだ。
確かにそれは、太陽だったのだ。
誰がそれを疑おうとも、信仰は我が胸の裡にて完成していたのだから。
何がそれを疑おうとも、疑うことすら忘れようとも。
我が胸の裡にてそれは、然と完成していたのだから。
完成していたのだから。
砕けたもの。果たしてそれは、世界か己か。
太陽の失墜。
天は夜を主と定め、光輝を失して世は久しく。
現はもはや見知らぬ外地。氾濫せしめる疑似似非誤謬。
今や既に、我らが故里は彼方の過去へ。永久への夢は、潰えたり。
最下の無間に仄見えたるは、かつて拝んだ光の残滓。
蛆に塗れた腐敗の結に、天地を逆してただ拝む。
盲の孤狼は無貌の天へ、刻理に背いて遠吠える。
沈まぬ光を、祈願して。沈まぬ光を、夢想して。
沈んだ光を、放捨して。沈んだ光を、放捨して――。
太陽よ、我が太陽よ、ああ――――――――
.
2
:
◆HQdQA3Ajro
:2021/10/16(土) 00:00:58 ID:jePDeZ3M0
一
「照出麗奈、二五歳です! デレって呼んでください!」
デレ? ……ああ、『てるい“でれ”いな』か。
……絶対呼ばねぇ。編集長の高良が連れてきた新しい担当の、
そのきんきんと甲高い声を耳障りに感じながら俺はそう、固く誓った。
絶対呼ばねぇ。
「……ニュッ先生?」
「高良」
「はいはい先生、なんでございましょう?」
軽薄で無遠慮な、気色の悪い猫なで声。したら出版の高良。
こいつの声を聞くと、いつでも吐き気が止まらなくなる。
「いらないと、言った」
「えぇえぇ、それはもちろん存じ上げておりますとも。
しかし余計な雑事を取り払い、先生のために執筆環境を整えるのも私共の仕事でございまして。
ましてや最近先生は、些か筆の進みが鈍っているとお聞きしましたから。
……いえいえもちろん、先生の原稿を頂けるなら私共、いつまででもお待ちする心積もりでございますが」
「判ってる」
判っているさ。
お前らが俺のことを、金を生む鶏程度にしか思っちゃいないことくらい。
「えぇえぇもちろん、先生のことは信じておりますとも。
ですのでこの照出は私共のほんの気持ち、家政婦にでも出前代わりにでも好きなようにお使い頂ければ。
なに、こう見えて照出は優秀な編集ですよ。なにより若くてエネルギッシュですしね」
手を揉みながら、高良が側へと寄ってくる。思わず身体が引く。
しかしそれを追跡するように、高良は自らの頭を俺の耳元へ接近させてきた。
「それにほら、先生だって女の子の方がやる気でますでしょ」
ささやくように耳の奥へと流し込まれた卑俗な文言。視界が隅に捉えしにやけた口の端。
……下劣。余りにも。本当に気持ち悪い。所作の全てが耐え難い。
勢い身体をよじり切って、背中で拒絶を明示する。乾いた笑いが、背中を打った。
ああそうさ、面倒だとでもなんとでも思っていればいい。それで丁度、お互い様だ。
3
:
◆HQdQA3Ajro
:2021/10/16(土) 00:01:36 ID:jePDeZ3M0
「ほら照出くん、ぼうっとしてないで君ももっとアピールしなさい」
偉そうな声での命令。はんっ、今度は部下への転嫁か。
「はい! ……編集長、アピールって何をすればいいんでしょう?」
「そんなこと、予め考えておきなさいよ!」
オカマ野郎がきいきいと、傲岸不遜に喚き出す。どこまでも醜い。
初めて出会ったあの時から、まるで変わっちゃいない。俺が作家となったばかりの、あの頃から。
高良に連れてこられた女は入室時の威勢はどこへやら、
はいはいはいと社会人らしいその場しのぎの返事を繰り返すことしかできなくされている。
不憫と言えば不憫だ。こんな保身と出世欲が人皮を被って這い回っているような
男の部下になってしまったのだから。これ以上の不幸もそうありはしない。
けれどこれも、結局の所はポーズだろう。哀れを誘って居たたまれなくさせるためのポーズ。
知っているんだ、お前の手口は。同情など、するものか。
……同情は、しないが。
「……『煙火の断頭』」
「え?」
どうせ断っても、埒が明かない。折れるのはいつも通り、俺の方だ。
だったら――。
「『煙火の断頭』は、読んだか」
少しでも知っておいた方が、懸命だ。
「あ……は、はい! 『煙火の断頭』! 読みました!」
「どう感じた」
これから側をうろつくネズミが、どの程度のものなのか。
「私には、そのぅ……」
どの程度の、害獣なのか。
「ちょぉっと、むつかしくって。えへへ……」
笑い声。誤魔化すような、情けのない。見なくても目に浮かぶ。不誠実に歪んだ、その顔。
唾棄すべき小人の処世術。だが、構いやしない。初めから、期待などしていなかったのだから。
判った、勝手にしろ。背中を向けたまま、俺はそう、言おうとした。
言おうとしたのだ。しかし言葉は、直前に掻き消された。
4
:
◆HQdQA3Ajro
:2021/10/16(土) 00:02:07 ID:jePDeZ3M0
「――でも!」
鋭い、“でも”。
「『太陽を見上げた狼』は、大好きです!」
“でも”に続いた、言葉。
「何度も……何十回も読み返して、今でも読み返してしまうくらい、大好きなんです」
「……へぇ」
理解を示す返答をしておきながら、俺の心象は先程よりも強く波立つ。
あ……、と、声が漏れた。気配を、感じた。見上げる。目の前にあるもの。
『俺の木』。『俺の木』から、垂れ下がっているもの。吊るされているもの――
“その人”と、視線を、交わす。
『おまえはわるくないよ』
「せ、先生! どうされました!」
慌てふためいた高良の声。立ち上がっていた。立ち上がって、見上げていた。
そこにはなにもない。何も見えない上空。視線を下ろす。腰の高さ程度しかない、『俺の木』。
自重によってやや左へ曲がっているそれ。吊るされているものなど当然ない。
そこにはもう、誰もいない。誰も。誰も。
先生。
背後で高良が、部下を叱りつけていた。
部下の言葉が俺のへそを曲げさせたとでも思ったのか、
他者を責めることでノミの心臓を鎮めようとしているのか、はたまたその両方か。
どうでもよかった。高良のことなど、どうでもいい。考慮すべきは、唯一つ。
裁定は下された。照出麗奈――この女は、信用に値しない。
こいつもやはり、“編集”だ。
.
5
:
◆HQdQA3Ajro
:2021/10/16(土) 00:02:49 ID:jePDeZ3M0
※
書けない、書けない、書きたくない。
当然だろう。何故ならこれは、俺の書くべきモノでないのだから。
こんな愚かしくくだらない、芸術未満の紛い物。書けば書くほど恥の上塗りだ。
こんなもの、書きたくはない。そうだ、違うのだ。俺が書くべきは、俺が本当に書きたいのは――。
『そうだね、お前の書くものは――』
「私、先生のお役に立ちたくてこの仕事を選んだんです!」
所作振る舞いに同様、頭の軽さを感じさせる新担当の言葉は
やはり調子の良い媚びへつらいに塗れており、その一挙手一投足が癇に障り、
早くも苛立ちはピークを迎えつつあった。
しかも聞くところによればこの女、今年入社したばかりのド新人だというではないか。
当然他の作家を担当した経験もなく、常識もなければ能力も足りていない。
高良の野郎、何が優秀だ。厄介払いでもするつもりか。だったら他でやれ。押し付けるな、俺に。
「先生、なにか手伝えることはありませんか?」
聞くな、触れるな、自分で考えて自分でどうにかしろ。
お前なんかに構っていられるほど俺は暇じゃないんだ。
そうだ、俺は書かなければならない。書きたくもないものを書かなければならない。
書きたくもないものをどうやって書くか考えなければならない。
暇などないのだ。無限に時間を使用したとて、進捗など毫に等しく皆無なのだから。
ただの一文字とて、思い浮かびはしないのだから。故に俺に、暇などない。無駄な時間はない。
ただしそれは、無為といって相違はあるまい。愚人の無為に。
それでも、書かなければならない。俺は、書かねばならない。
『悲しむことじゃないさ。それはお前の――』
.
6
:
◆HQdQA3Ajro
:2021/10/16(土) 00:03:22 ID:jePDeZ3M0
「それに触るな!」
突き飛ばす。女を。引き剥がして、取り返す。
『俺の木』。勢い余って、鉢が傾く。内側の土が転がる。
塵と埃の堆積したバルコニーの上に、少量散らばる。塵と埃と土が重なる。
心の中で舌打ちしつつ、『俺の木』を抱えて部屋へと入る。
「雨が」
女がつぶやいた。
「雨が降り始めたから、取り込もうと思って」
言われて、空を見る。女の言う通り空には重く黒い雲がぐろぐろと蠢き、
大きめの雨粒をばちばちと眼下の地上へと打ち付け始めていた。
予報では、もう一、二時間後のはずだったが。
確かめる。軽く湿気を帯びてはいるものの、『俺の木』に濡れた様子はない。
葉だけではなく幹も、根にも異常はなさそうだった。とはいえこいつは繊細だ。
明日はバルコニーに出さないほうがいいかもしれない。
バルコニーから、笑い声が聞こえた。
「あ、ごめんなさい」
言いながらしかし、その声には喜色が混じっており。
「『これはぼくの木。ぼくの木なんだ』」
強く雨に打たれながらも、露と介さずうれしそうに。
「『太陽を見上げた狼』の、風謡いのフラギみたいだなぁなんて思っちゃって……えへへ」
俺の書いたものを例と挙げて、如何にも楽しそうに。笑う。笑う、顔。
見えてはいない。見なくとも判る。しかし……しかし、僅かに視線を上げればそこに、
想像ではない確かな表情が実在している。認識できる。僅かに視線を上げれば。上げてさえしまえば。
俺は――。
7
:
◆HQdQA3Ajro
:2021/10/16(土) 00:04:06 ID:jePDeZ3M0
『だからね――』
「先生?」
『お前はお前を――』
――ダメだ。
「先生、どうしたんですか? 先生?」
どこにある。どこにしまった。家の中をひっくり返す。
棚の中を、机の後ろを、時計の裏を、床の下を。ない、ない、どこにもない。
使い切ってしまったのだろうか。使い切ってしまったのだ。
前回の時に、前の本の時に全部使い切ったのだ。
次は頼らぬと、もう必要ないと、補充しておかなかったのだ。
でも――ダメだ。“アレ”がないと。“アレ”を手に入れないと、このままでは俺は、俺は――。
「先生!」
肩に、熱。人の手。動悸が止まる。瞬間、冷静になる。
「先生」。女の声。不安を帯びた。懐の携帯。既に我が手の先に触れたそれ。
いまここで使うのは、得策でない。顔を合わせぬまま、告げる。
「帰れ」
「先生、でも――」
「帰れ」
痛みを伴う乾いた呼吸。やがて、肩に触れていた熱が離れていった。女が、離れていった。
ぎぃぎぃと、フローリングの硬い床が軋む音。こすれる音。右往左往する人の気配。
不必要な所作を感じさせるそれは、しかして遂に、宅の入り口にして出口でもある場所へと到達する。
かたこんと、下ろした鍵が上げられる。
8
:
◆HQdQA3Ajro
:2021/10/16(土) 00:04:48 ID:jePDeZ3M0
「何かあったら、いつでも連絡ください。何時でも私、出ますから。絶対に、出ますから」
扉は、中々開けられなかった。俺は返事をしない。壁を越えて突き刺さる視線。それが、切れた。
遠慮がちに“きぃ”と音立て開いた扉から、外気と風雨の喧騒が入り込む。
それも、一瞬。訪れるは、再び静寂。
腰を上げた。上げられた鍵を、元の姿へ下ろす。下ろす。
のぞき窓から、外を見る。誰も居ない。隣人も、女も。見える限りは。
そして俺は、のぞき穴に顔を接触させた格好のままずりずりと身を崩し、扉を背にして座り込んだ。
座り込んで、取り出した。懐の、携帯。かける先は、履歴の上から三番目。
相手を呼び出す無機質なコール。
そのけたたましくかつ刺々しい音に頭の中を撹拌されながら俺は、天井を見上げる。
天井から吊り下げられたそれを。首をくくったその人を。俺を見下ろすその人を。
砕けた頭部を。無間の洞を。その奥にて仄見える、青白く腐敗した太陽の――その、残滓を。
先生、先生、ぼくは、先生――。
『――人々が、お前の小説を待っているんだから』
……そうだ、書くんだ。ぼくは、書くんだ。
.
9
:
◆HQdQA3Ajro
:2021/10/16(土) 00:05:20 ID:jePDeZ3M0
※
「例えるならそう……阿片。阿片でしょうな」
指の間に挟んだ煙草を突きつけるようにしてキツネは、自論を展開する。
「大衆の頭を蕩けさせ、蕩けて判断力を失った頭に強烈な快楽という餌を次々ぶら下げ依存に導く、
実に功名で犯罪的なやり口。昨今では、どこもかしこもこのような方法に溢れかえって……
くっくっ、いまや私らの方こそ見習わねばならん時代ですわ」
笑う度に紫煙がくゆり、火の粉がぱちぱち爆ぜ飛び燃ゆる。
その前時代的な情景は、この小汚い中華飯店の裡において驚異的な統制感を生み出していた。
外の今を、疑いたくなる程に。
「ところで先生、新作、拝読させて頂きましたよ」
溜まった灰が、とんっと皿へと落とされる。
「そうですな、率直に言って――どうやら先生は、今の作家さんになってしまわれたようだ」
燻った焔を抱えた灰が、生命の終わりかの如くにその輝きを失っていく。
……ああそうかい。ズケズケと、いう。ふんっ、言われなくても判っている。お前なんかに言われなくても。
壁の方へと、顔を向けた。視界の端で、紫煙が揺れる。キツネが笑い出した。
押し潰したのどから空気だけを漏らすような、独特な笑い方。
「なぁに、責めやしませんとも。顧客第一、結構なことじゃありませんか。私らも同じです。
売れねば食っていけません。食えねば生き残れません。生き残らねば、どうにも次へはつながらず。
とくれば明るい未来もそっくりパァ!……なぁんてものでね」
大仰に両手を広げたキツネは、何が楽しいのかやはり再び笑い出す。
腹の底の読めないキツネ。高良とはまた異なる意味で、信用できない。
……だが。
おまちどぅ……と、気力の感じられない声と共に従業員が、叩きつけるように膳を配した。
美意識など感じられない、無造作な盛り付け。見た目はともかく量だけは揃えたといった風情のもの。
はっきりいって、食欲をそそられる代物ではない。
……が、だからこそ、気取らぬそれらからは理性に反した安堵を抱く。
「ま、食いましょうや。売れなくても死にますが食わなくとも死ぬ。それが世の理ってもんです」
指の間の煙草をもみ消しいただきますと、キツネが一番に手を付けだした。
背広の上からでも瞭然な針金のように細く長く不健康な肉体に、
でらでらと油に光る料理の群れが吸い込まれていく。
見ているだけで胸焼けを起こしそうな情景。
しかし当の本人はまるで意に介する様子なく、皿の上の塊を平らげていく。
10
:
◆HQdQA3Ajro
:2021/10/16(土) 00:05:41 ID:jePDeZ3M0
「ほらトラ、お前も食え。先生が気を使っちまうだろ」
「はい、キツネの兄貴。頂きます」
キツネの隣で彫像のように押し黙っていた男が、静かに合掌する。
キツネとは対象的に、明らかにサイズの合っていない背広をぱつぱつに張らせた
レスラーかラガーマンかとでもいった体躯のこの男は、その見た目からは想像のつかないほどに行儀良く、
皿の中の飯に手を出し始めた。そして、しばし、黙々と、食う。黙々と食うキツネとトラ。
その様子を、首から下を、俺は見つめる。キツネが箸を止めた。
「……餃子、味、変わったな」
それとはっきり判るほど、大きく吐かれるため息。
「“昔ながら”が失われるのは、いつだってさみしいもんだ……」
止めた箸を、キツネが置いた。
「なあトラよ。お前さんもそう思うだろう?」
合わせてトラが、箸を置いた。
「はい、キツネの兄貴。俺もそう思います」
「そうかいそうかい、素直なやつだなお前さんは」
「恐縮です」
キツネが笑う。押し潰したのどから空気だけを漏らすような、独特な笑い方。
笑いながら、キツネが新たな煙草を指に挟んだ。隣のトラが火を灯す。
皿の上の餃子はそのままに、紫煙がくゆる。時間が停滞していた。この場、この時に置いてだけ。
だが俺は、止まるためにここへ来たのではない。
手を伸ばした。キツネの残した餃子の乗った、その皿へ。
つかみ、引き寄せ、流し込むようにそれらを胃の腑へ落としていく。
油にぬめった包の皮が、のどをずるりと滑っていった。
空。空いた皿を、叩きつける。店主の視線が、こちらへ向いた。
「寄越せ。金ならある」
「くっくっ……相変わらず繊細なお人だ」
指で強くテーブルを打つ。くつくつと、呆れるように紫煙が揺れた。キツネが合図を送る。
「はい」と、生真面目さを感じさせる硬い声で応じたトラは脇に備えたブリーフケースから、
全国展開されている新古書店の安っぽいビニール袋を取り出した。
見慣れたその、多くの作家が目の敵にしているデフォルメにデザインされたスマイルマークの刻印。
11
:
◆HQdQA3Ajro
:2021/10/16(土) 00:06:11 ID:jePDeZ3M0
「私からのおすすめでね」
トラが取っ手を両に開き、中身を顕す。
中に入っているのは色あせた文庫本が二冊と、古ぼけたCDケースが、三つ。
「検めますかね?」
紫煙の向こうでキツネが揺れる。俺は答えない。ただ無言で、手を伸ばす。
「くっくっ、ご信用の程、感謝致しますよ」
キツネが笑う。向こう側から。辿り着く先を、見据えるように。判っている。
こんなこと、いつまでも続けられるものではないと。この行いが公になれば破滅はまず免れ得ず、
よしんば隠しおおせたとしても肉体的な破滅が待ち受ける。“こんなやつら“に頼ってはいけない。
そんなことは、常識として理解している。だが――だが、書くためだ。
書くためであれば、なんでもする。書くためであれば、何もかもを捧げる。
俺は、書かなければならないんだ。そうだ、だから。
だから――。
「ダメです!!」
……は?
「おやおや、こいつはかわいらしいお嬢さんだ」
なんだ、どういうことだ?
「お客さんちょっと困るよ、この人たちはね――」
「ああいいんだ、いいんだ親父。どうやらこのくりくりなお嬢さん、私らの“身内”だ」
慌てた様子の店主を、キツネが追い返す。
突然の闖入者は当たり前のようにして、そこに立っている。
聞き覚えのある声。それもつい最近。それこそ、そう、つい数時間前まで耳にしていた。
照出麗奈、なぜここに?
「それでお嬢さん、何がダメだというんだい。
私らはほれこの通り、先生に頼まれて本やらなにやらを調達してきただけでさ」
「いますぐ」
らしくない、有無を言わせぬ語調。
「いますぐこのお店から、出ていってください。でなければ私、通報します」
12
:
◆HQdQA3Ajro
:2021/10/16(土) 00:06:32 ID:jePDeZ3M0
がたりりと、吹き飛ぶように椅子が倒れた。キツネの隣で、影に徹する巨躯が立つ。
「とぉーら、やめぇ」
「しかしキツネの兄貴」
兄貴分に諌められてなお、トラは敵意を剥き出しにしていた。
先程までの紳士な様子は影もなく、はちきれそうな背広の裡から
その生業に相応しい暴力の気配が放射されている。
トラという異名の通り、その姿からは肉食獣の攻撃性が余さず発揮されていた。
しかしキツネはまるで変わらず、自分のペースを崩さない。
「言ったろう、何でも力で解決するもんじゃねえって。それにほら、よく見てみ。
気丈に振る舞おうとしてその実、おっかなくてしょうがないってこの姿。震えがな、止まってくれねえのさ。
目尻には涙なんか溜めちまって、いじらしいと思わねえか?」
「はあ……」
トラはそれでも納得いかなかったのか、威圧した空気を抑えることなく女にぶつけている。
女は女で逃げることなく、握りしめた携帯へ銃口を突きつけるかのように伸ばした人差し指を構えている。
その手、その指先は確かにキツネの言う通り緊張に微震していたものの、
その屹立とした佇まいからはか弱さなど微塵も感じられはしない。
そこには、確たる意志が存在していた。
俺はといえば……俺はといえば未だこの状況に追いつけず、
ただ傍観者の如く成り行きを漠と見続けることしかできずにいた。
「なあお嬢さん、ひとつ構わんかね」
照出は答えない。
「くっくっ、嫌われちまったもんだ。まあいいさ、それじゃこいつは小汚いおっさんの寂しい独り言だがね」
あくまでも平生通りに、キツネは煙草を吹かす。
「どうもあんたは、私のことを稼業も含めてご存知のようだ。
とくれば、下手な誤魔化しは無意味でしょうな」
安閑と、急くことなく、己のリズムで話を続ける。
「ま、お察しの通りですわ。
私らはイケナイ薬の売人で、今日は先生に呼ばれてお品物を届けに来たってわけです。
ですんで、通報されたらそりゃ、ちっとばかし具合が悪い。だがね――」
キツネが俺と照出へ、ゆるりと交互に首を振った。
「見たとこあんた、先生の新しい担当でしょう。判りますともそれくらい。
あんたのことは知らずとも、先生とは“長い”ですからな。
可能性をひとつひとつ潰していけば、それくらいは容易に察せるもんです。
で、それでですがねお嬢さん――」
13
:
◆HQdQA3Ajro
:2021/10/16(土) 00:06:59 ID:jePDeZ3M0
長い、吐息。むわりと湿度の高い店内に、灰の煙が細く伸びる。
それは吹き出された場所から離れれば離れるほど急速に拡散し、
勢いを失って形状も失い、やがては色も失い店内の湿度の一部と消えていった。
それは、実際以上に、長い“溜め”に感じられた。そしてキツネが、言葉をつなぐ。
「あんたは公共の正義と企業人としての責務、どちらを選ぶおつもりで?」
「私は……」
張り詰めた、声。
「私はあなたたちを、許しません……!」
「……ああそうか、思い出しましたわ」
キツネが、笑う。
くっくっくっと独特な、押し潰したのどから空気だけを漏らすような笑い方で。
口の端を釣り上げキツネが、屹立する照出を見上げた。
「以前にお会いした時は、喪服姿でしたな」
照出の指が、携帯に触れた。「事件ですか、事故ですか、なにがありましたか」。
携帯から、応答者の声が響く。本当に、通報した。トラが飛びかかりかけた。
キツネがそれを留めた。電話の向こうから、呼びかけが続く。
「どうしました、もしもし、どうしました」。照出の胸が、上下していた。
呼吸が乱れているのだ。照出は立ち尽くして、固まっていた。
その様子を俺は、僅かに、僅かに視線を上げて、見る。
のどもとを、首を、顎を越えて、口元。 照出が、唇を震わせた。真一文字に結ばれていた口が、開いた。
「……すみません、間違えました」
静寂。キツネが煙草を吸う。じじじじと、先端で火の粉が爆ぜる。
その火が未だ消滅し切る前に、キツネは煙草を灰皿に押し付けた。
「ま、このまま商売という空気でもありませんし、今日の所は退散しますよ。
信用第一が私らのモットーですからな」
さてトラよ、ずらかるかね。そう言ってキツネは、のそりと椅子から立ち上がる。
……待て、おい。お前、本当に帰るつもりか。俺はまだ、ブツを受け取っていないんだぞ。
アレがないと、俺は――おい、キツネ、おい。
「それでは先生、機会があればまた。小説、次は楽しみにしてますよ」
念ずる声は力にならず、夜闇の商売人であるキツネとトラは、
売品である薬を携え消えていった。彼らの領分である、乾いた夜へと。
14
:
◆HQdQA3Ajro
:2021/10/16(土) 00:07:23 ID:jePDeZ3M0
「この餃子、おいしいですね。ね、先生」
異物だ。
「毎日だとカロリー気にしちゃいますけど、たまにはこういうのもいいですよね」
こいつは、異物だ。
「先生、いらないんですか? 私、全部食べちゃいますよ?」
この店には余りにもそぐわない、異物だ。
「本当に、いらないんですか? 餃子、おいしいですよ?」
俺の、生息域においても。
「先生やせっぽちだし、ちょっとはお肉、つけた方がいいと思いますよ?」
「尾けたのか」
「ほら、先生お顔は悪くないんだし、もっと健康的になれば、その……
そう、そうですそうです! モテモテですよ、モテモテ!」
「尾けたのか」
「モテモテ、ですよ、えへへ……」
「尾けたのか」
「……ええ、はい。尾行、しました」
「なんで」
「……」
「なんで」
15
:
◆HQdQA3Ajro
:2021/10/16(土) 00:07:44 ID:jePDeZ3M0
「……先生が」
「……」
「その、変な気を起こしたんじゃないかと、思って……」
「首でもくくると思ったか」
「……」
「そう、思ったのか」
「先生。もう、あの人達とは会わないでください」
「……」
「先生」
「お前らが……」
「先生?」
「お前らが、求めるからだろ」
「私、たちが?」
「下劣な駄文だ」
「下劣な……え?」
「下劣な駄文だ」
「先生、その、何をおっしゃっているのか……」
「俺が書いてお前らが売りさばく、下劣な駄文だ」
「……その、もしかして、先生の小説のこと、言ってるんですか」
「あんなくだらないもの、素面で書けるかよ」
「くだらないって……そんな、先生の小説は素晴らしいです!」
「そうだろうな、そうだろう。お前らにとっては、そうなんだろう。
品性の欠片もない小説未満でも、売れさえすればそれでいい。それが、お前らなのだから」
16
:
◆HQdQA3Ajro
:2021/10/16(土) 00:08:15 ID:jePDeZ3M0
「そんなこと――」
「だから通報しなかったんだろ」
「違います! 私は――」
「金づるを失ったら困るからな。知っている、それくらい。知っているんだ、俺は。よく知っている。
だからもう、邪魔をするな。書いてやる、書いてやるから。だから、そうだ、俺には――」
「先生、聞いてください、先生――」
「俺には――」
そうだ、俺には――。
「クスリが――」
「先生!!」
心臓に、衝撃を受けた。
「――私、決めました」
両肩をつかまれていた。
「私が、してみせます」
強く、痛むほどに、つかまれていた。
「クスリなんかに頼らなくても書けるように、私がしてみせます!」
顔を、上げそうになった。いま、目の前にいる女の、その顔を見るために。確かめるために。
すんでのところで、踏みとどまった。背けた顔の、その先で、店の親父が、こちらを見ていた。
俺の視線に気づいて親父は、厨房の奥へと逃げるようにひっこんだ。
.
17
:
◆HQdQA3Ajro
:2021/10/16(土) 00:08:42 ID:jePDeZ3M0
二
人混みは、嫌いだ。
いつの頃からか……などと恍ける隙もないほど明確に、ある時期を境として俺はひとつの病を患った。
頭部。人間の。首から上に乗っかったその卵型の球体が、俺には欠けて視えるのだ。
より正確にいうなら、左側頭から頭頂部にかけて、それこそ卵が落ちて割れた時のように砕けて視える。
砕けたその隙間から、本来見えざるその内側も、視える。
そこにあるのは、洞。太陽の強い光ですらその底を見通せない、無間に広がる洞。光を呑み込む黒穴。
それを覗くと俺は、意識ごと己すべてを吸い込まれるような錯覚に陥ってしまう。
錯覚と理解しながらも意識の上では確かにそれは、現実に起こる白昼の悪夢に相違ない。
疲弊するのだ、精神以上に、肉体が。立っていることすら、困難となる程に。
故に俺は、人混みが嫌いなのだ。
人混みに塗れてしまうと、如何に気をつけていようとふとした間に視線を上げてしまう恐れが存在するから。
それは即ち、あの砕穴の洞を目にしてしまう危険を意味していたから。
故に俺は、人混みが嫌いなのだ。外へ出るのが、嫌なのだ。
「せーんせー!」
この二週間は、苦痛の連続だった。何故か。決まっている。照出麗奈のせいだ。
キツネを呼び出したあの夜、あの小汚い中華飯店で宣言した照出の言葉。
『クスリなんかに頼らなくても書けるように、私がしてみせます!』。
どうやらあれは一過性の気紛れではなく、本気の声明であるようだった。
少なくとも、本人の中では。照出は、自らの方法で俺をどうにか変容させるつもりでいるらしかった。
「せんせ、次はここ行ってみましょ! ここ!」
その方法というのが、苦痛でしかなかった。
ひとつ、自然公園に行ってトランポリンで跳ね回る。
ひとつ、ラケットを持ってシャトルと煌めく汗を飛ばす。
ひとつ、霊験あらたかな山嶺瀑布を観光し心身を洗い清める。
それから、他にも、エトセトラ、エトセトラ、エトセトラ――。
「あはは、先生あれ見てくださいあれ! すっごいがおがお言ってる! がおがお!」
その発想の無節操なことには驚きを禁じ得なかったものの、分析すれば根は同じ、
つまるところ健康的で清いものに、どうにか俺を感化させる腹積もりなのだろう。
疑問は山のように上った。そもそもこれは、職務怠慢でないのか。
旅費に遊興費にと湯水のように金を出して、これを高良は了承しているのか。
これがどうやら了承しているらしい。
俺の環境を整えるためなら、多少の支出は目をつむるのだと。
正気とは思えなかった。何もかも。高良も、照出も、外の世界に溢れる頭部の欠けた者共も。
18
:
◆HQdQA3Ajro
:2021/10/16(土) 00:09:47 ID:jePDeZ3M0
「先生ほら、見てないで一緒に来てください! すっごい迫力ですよ!」
それでも俺は拒絶せずに、照出麗奈に付き合った。何故か。決まっている。
それは偏に、判らせてやりたかったからだ。お前の行為は、無意味なただの自己満足に過ぎないと。
俺は変わらない。このようなママゴトで、俺という個人が変じることは一切ない。
畢竟それは、無為に過ぎず。書けない俺は、書けないままに、ただ時間のみを浪費する。
となればそれは、社への損失と意味を変ずる。いつまでも待つなどと嘯いた高良であるが、
その心根が口ほどに気長でないことを俺は知っている。やつは、何が何でも書かせようとするだろう。
例えそれが、法に抵触する方法であろうとも。何故ならやつは――“編集”なのだから。
「先生どうですか? 楽しめてますか? 私? 私は――」
照出麗奈も、同じだ。大言壮語に啖呵を切ったこの女も、所詮は同じ穴の狢の編集だ。
逼迫すれば、仮面を外す。能天気の仮面を取り去り、秘めた本性を顕とする。
気づいていないなら、自覚させる。己が如何に醜悪で、利己的な生き物であるかを。
お前が如何に――“編集”であるかを。
「……えへへ、とっても!」
化けの皮を、剥いでやる。
それが俺の、この馬鹿げた享楽に付き合う、ただ一つの理由だ。
「くるしい時は、デパートです!」
というわけで今日は、市内の総合デパートへと連れてこられていた。
平素に比して身体を酷使せぬぶん気の楽な苦行かと思ったが、
その予想は余りに短絡であったと反省せざるを得ない。
なぜ人は、人間は、この世にこれほど存在するのか。
間引いても構わないだろう、半分程度。その方が息もしやすく、空もまた晴れ渡るだろうに。
「先生、上から見ていきましょう!」
俺の気疲れを知ってから知らずか、照出は常に同じく生を振りまき、陰に沈む俺の心魂を辟易させた。
この二週間、俺なりに観察して判明したことが、幾つかある。
ひとつ、照出麗奈の行動力は、どうやら底なしらしい。
俺と同じように各地を飛び回り、俺とは比べるべくもなく物事に熱狂興奮してきたはずのこの女はしかし、
疲れの気配のその片鱗すら表しはしなかった。
その小柄な体躯のどこからこの無尽蔵なエネルギーが生み出されているのか、不思議でならない。
「あ、なつかしいこのおもちゃ。ちょっと前に、すっごい流行ってましたよね。くるくるくるーって。
……え、知らない? 先生、知らないんですか? あはは、おかしー!」
ひとつ、おもしろくもないことにもやたらと笑う。
本当に、脳の一部がどうにかなっているんじゃないかと思うほどに、笑う。
エネルギーの豊富さと併せて、俺にはまったくついていけない。
しかし、俺がついていけているか否かなど、照出にとって問題とはならなかった。何故ならば――。
19
:
◆HQdQA3Ajro
:2021/10/16(土) 00:10:18 ID:jePDeZ3M0
「先生、こっち! こっちです!」
ひとつ、パーソナルスペースが異様に狭い。
服と服が接触するのではというエリアに、微塵の躊躇もなく入り込んでくる。
だけでなく、その手はいかなる障害も突き破って、俺の下まで伸ばされた。
肩を叩かれ背中を叩かれ、服の端をつかまれてはあちこち縦横に引っ張り回された。
正に今も、そのようにして引っ張られている。そして――。
「これ、これ、かわいくないですか? えー、かわいい。すっごいかわいい!」
ひとつ、何に対してもかわいいと評してはしゃぐ。
生き物やぬいぐるみだけでなく小物やバッグ、時には食べ物に至るまで。
往々にして、俺にはそのかわいいという刺激が何を鍵として生じた感覚なのか、理解できなかった。
本日照出の目に止まったのは、凝った形状のサンダルらしかった。
伸びた紐がふくらはぎや脛にまで結びつくそのサンダルを見て俺は、
一目でローマ人が履くやつみたいだなと感じた。
当然かわいいとは思わなかったが、
余りにせがみ尋ねてくるのが鬱陶しかった為に一言「あーそうですネ」とだけ返してやった。
照出は両手をぱんと打ち合わせて「ですよね!」と、それはそれはうれしそうに声を上げた。
どこどこまでも軽薄な女だと、俺は思った。
20
:
◆HQdQA3Ajro
:2021/10/16(土) 00:10:57 ID:jePDeZ3M0
「先生! デパートの王様は地下なのですよ!」
鼻息荒く力説する照出は、上階ではあれだけかわいいおもしろいと叫びまわっていながら
何も購入せずにいたくせに、地下に降りた途端人が変わったように目につく菓子を片端から買い漁り始めた。
ひとつひとつ小綺麗に包装された菓子共が並び重なり積み積まれ、
照出の手の裡でそれらはけばけばしい色調のパターンを形成している。
「もちろん食べるんですよ、先生と私で。お菓子パーティです!」
胸焼けがした。
「あ、先生。あっちなんでしょう。すっごい行列」
山のような菓子を抱えながら器用に俺の袖をつかみ、行列の側へと小走りに照出は近寄る。
そこで売られているのはどうやら話題のシュークリームだそうで、
最後尾には三〇分待ちの札が掲示されている。
列に並んだ女どもの、ぺちゃくちゃと品なく囀り合う様が姦しい。
たかがシュークリーム如きに、なにをこんな馬鹿げた真似を。
「『シュークリームなんてどこで買っても同じだろ』……なーんて思ってますね、先生?」
懐へ飛び込むように、照出が身を詰めてきた。
顔は見ない。が、見上げてきているのは、判る。
「ふっふっふ……判りますよそれくらい。もう二週間も一緒ですからね! ふふん!」
なんで得意げなんだこいつ。腹が立つ。
二週間かそこらで理解できるくらい俺のことを、底の浅い人間だとでもいうつもりか。
21
:
◆HQdQA3Ajro
:2021/10/16(土) 00:11:20 ID:jePDeZ3M0
「でもね先生、その認識は甘い、甘すぎます!
お菓子はね、名前が同じでも職人ごとに全く別の食べ物へと化けるのです!
シュークリームは全部同じだなんて、小説はみんな同じだぁっていうのと同じくらい的外れなことなんですよ!」
わかりますか! 念を押すように照出が、強い声で付け加える。
そうかいそうかい、そうですか。一人勝手に熱を増して、ずいぶんと得意げに語ってくれるじゃないか。
同じだなんだとそもそも俺は、一言だって口走っちゃいないんだがな。
「それにね先生、待ってる時間って、そんなに悪いものじゃないんですよ。
待ってる時間は、わくわくでいっぱいにする時間なんですから」
……わくわく?
「これからに、わくわくしちゃう時間です」
だから、ね、並びましょう!
そういって俺の裾をつかんだ照出の、その懐から無機質な電子の音階が鳴り響いた。
携帯だ。照出は俺から手を離すとやはり器用に指先をすぼめ、
いつか警察につないだのと同じあの携帯をするりとてのひらへと抜き出した。
が、スムーズなのはそこまでだった。携帯の表に表示されている画面を見て、照出は固まる。
その停止は、凡そ生命力の塊である照出らしからぬ動作と感じられた。
どうした、でないのか。言葉にはせず、心の中で問いかける。
その間もてのひらの裡の携帯は無機質な呼び出しを続け、それは四回、五回、六回と、
寸分違わぬ機械的な律動を繰り返す。そしてその反復がついに八回目に達しようとした頃、
照出がようやく、動いた。
22
:
◆HQdQA3Ajro
:2021/10/16(土) 00:11:52 ID:jePDeZ3M0
「……お久しぶりです! はい、麗奈です! どうしました今日は、何かありましたか?」
電話に出る直前の躊躇いからは想像もつかないほどの明朗快活な声。
即ちそれは、普段の照出とミリも違わず。相手の声は聞き取れないがずいぶんと愉快な話に興じているようで、
話して笑ってうんうん相槌を打っている。
そうして俺は、この甘ったるい匂いが充満する空間で一人、ただ待つだけの時間へと陥れられた。
……それで、なんだったか。待つ時間は、わくわくでいっぱいにする時間? はっ、どこが。冗談ではない。
待つ時間は待つ時間。ただただ退屈で、無為な時間に過ぎないことがこれで証明された。
これだから適当な人間の適当な言葉は、信用に足らないのだ。
「あ、私これ知ってる!」
列に並んだ女の一人が、ひとつ方向を指差し叫んだ。つられて俺も、そちらを見る。
女が指差したその先には、天井から吊り下げられたディスプレイが設置されていた。
ディスプレイには昼のニュース番組が映し出され、聞き覚えのある名の俳優が
明日上映される出演作の宣伝を行っている。そいつはべらべらと作品の見所を語り、謳い、
それがまるで決め台詞であるかのように作品のタイトルを連呼した。
俺の書いた、小説の。
『おまえはわるくないよ』
ここにはもう、いたくなかった。
真下の地面へ視線を落とし、出口に向かって歩きだす。
「あ! あのごめんなさい、いま仕事中だから! また折り返します!」
後方から、照出の慌てた声が聞こえてきた。俺を呼ぶ声。
しかし俺は歩みを止めず、そのままここから出ていった。
外では子午上の太陽が、真新しいアスファルトを焦がしていた。
.
23
:
名無しさん
:2021/10/16(土) 00:12:08 ID:0rPiPE5c0
冒頭からガツンと鬱々した空気よいですな
24
:
◆HQdQA3Ajro
:2021/10/16(土) 00:12:17 ID:jePDeZ3M0
※
「ごめんなさい先生。今日だけはその、どうしても外せない用事があって」
「ですので私は小説を書く時に必ず――」
俺は、何を話しているのか。
「本日この賞を頂けたことは、偏にそれらの努力が結実したものと――」
こいつらは、何を聞いているのか。
「大変ありがたく光栄なことで――」
中身のない、無味乾燥な言葉の羅列。
「支えてくださっているみなさま、何よりも読者の方々に――」
それでよいと、顔なき者の仮面の羅列。
「感謝を――――」
壊れてしまえ、何もかも。
授賞式。書いた本が、何かの賞に引っかかった。
それを祝うとの名目で、作家は壇上のパンダにされる。
カメラを向けられ、称賛を浴びせられ、儀式の一部に貶められる。
そこに歓びなど欠片もない。あるのは諦観と、憎悪と、強烈な侮蔑。
愚鈍な大衆。価値の判らぬ畜生どもへの。
こいつらの基準は真贋にない。流行りを作す詐欺師の手口に、脳を溶かして呑まれる畜群。
どいつもこいつも畜生だ。人以下の、人間未満の、人が人足る尊厳を放棄したケモノどもだ。
例えばいま、俺がこいつらを罵ったとして。それでもおそらくこいつらは、喝采上げて称えるだろう。
左右の隣に呼応して、違和の不信に目をつむる。乱れず、溢れず、統に制ずる。
示し合わせた訳でもないのに均一に、場へと従う家畜の群れ。唾棄すべき、顔のない人間ども。
嫌いだ。俺は、お前らが、大嫌いだ。
……苛立ちが収まらなかった。会場へ着く前から、家を出る以前から今日は、神経が昂ぶっていた。
要因は、多岐に渡る。この世はとかく無遠慮で品なく、癇に障るもので溢れているから。
世界は複雑系なのだ。故にただ一つの要因を特定することなどできはせず、
それをさも悟り覚したかのように断定し喧伝するのは、それは自らの足りなさを言いふらす愚行と変わりない。
愚か者の所業だ。俺はそんな愚は犯さない。だが、だが――だが、それでもこれだけは、いえる。
25
:
◆HQdQA3Ajro
:2021/10/16(土) 00:12:41 ID:jePDeZ3M0
照出麗奈は、関係ない。
照出麗奈が会場へ付いてこなかったことと、この苛立ちとの間には微塵の相関関係も、ない。
「ごめんなさい先生。今日だけはその、どうしても外せない用事があって」
外せない用事、三日の連休。理由を探れば、どうやら叔父がなんだという話。
事故や不幸の類でもないそうだ。急な要素など、どこにもない。つまるところ、口実なのだ。
逃げるための口実。俺から。かつて理想の存在であり、而して実像に触れたことでその認識を改めてしまった、
ニュッという作家から。驚くことではない。そんな経験は、これまでにも何度も出くわしてきた。
結局奴らは、口だけなのだ。多少冷ややかに対応されたくらいで嫌気が差し、容易く言葉を撤回する。
当然だ。何故なら奴らは、“編集“なのだから。始めから期待などしていない。期待など、始めから。
故に、相関性など絶無なのである。この苛立ちと、照出麗奈の二項において。
あいつがどこで何をしていようと、俺の知ったことではない。断じて。
スピーチを終える。畜群が一斉に、ばちばちと蹄をかき鳴らす。
轟々と圧を伴い壇上へとぶつけられるその波、熱。仮面の群れ、畜生の群れ。
ああ、うるさい。
「ようようニュッちゃん、ずいぶんご活躍みたいじゃんか、なあ」
思慮浅きマスコミの中身無き質問攻めに辟易し逃げ込んだ先の厠で俺は、面倒な男に絡まれた。
男は引き寄せるようにして肩を組み、旧来の親友かのように馴れ馴れしく顔を寄せてくる。
「俺も鼻が高いってもんよ、目にかけた後輩がこんなに有名になってよ」
「……どうも」
男の名は、ジョルジュ。本名ではない、ペンネームだ。
俺よりも数年前にこの世界へと入り、確かに男の言う通り、一時は世話にもなっていた。
……いや、正確に言うなら面倒見の良い先輩というジョルジュの自己アピールのポーズに、
無理やり付き合わされていた。
「ところでよ、ニュッちゃん聞いたぜ」
ぐいっと、強引に肩を引き寄せられる。酒くさい息が鼻腔を突く。
「キツネのやつ、袖にしたんだってな」
26
:
◆HQdQA3Ajro
:2021/10/16(土) 00:13:04 ID:jePDeZ3M0
まるで潜める様子のない、平然とした声。
キツネの、“向こう側”の人間の名を口にしているというのに。
人気のない厠とはいえ、不用心に過ぎる。
「俺もよ、紹介人として顔が立たない訳よ、あんま勝手されると。な、判る?」
「買うも買わないも自由って約束です」
「建前だよんなもん」
ごつごつとした筋肉質の腕は俺の肩から首を圧迫し、それはもはや苦痛の域に達していた。
しかし逃げ出そうにも、その拘束はきつく固い。適当な理由をつけてどうにかこの場から退散しなければ――
そう思った矢先、ジョルジュが懐から何かを取り出し、それを――それを、俺の眼前へと、晒した。
「ほらよ、後払いで構わねぇから」
耳元でジョルジュがささやく。それは、間違いなかった。
間違いなく、二週間前に俺が手に入れそびれた、物を書くための特効薬。のどの奥が、鳴った。
照出と出会ってから――いや、そのもうずっと以前から俺は、書けていない。
書くことだけが自己の存在を許容する、その唯一の方法であるというのに。
書かなければ、ならないというのに。
そうだ。実に単純明快な論理だ。使えば、書ける。これを、使えば。
「遠慮すんなよ。俺とお前の仲だろ?」
ジョルジュが目の前でそれを、左右に振った。
透明のビニールに閉じ込められた内容の粉末が、誘うように波を打つ。躊躇う理由などなかった。
ここには誰も居ない。法の犬である警察も、都合で掌を返す大衆も、それに……
自分勝手な理屈で商談をご破産にしてしまう女も。受け取らぬ道理はなかった。書くためならば。
そうだ、これが自然だ。当たり前であり、この二週間が異常だったのだ。
平常へと、もどるだけだ。だから、受け取れ。そうだ、そのまま、わずかにてのひらを開き、
指の先に触れたそれを、そう、つかめば、つかんでしまえば――。
『先生!』
「……へぇ」
気づけば、突き飛ばしていた。ジョルジュを。訳も、判らぬまま。
「さすがは売れっ子様だ。こんな落ち目と関わりたくはねぇってか」
突き飛ばされたジョルジュは壁を背にして座り込んだ姿勢のまま、俺を見上げていた。
下方から向けられる視線。目を背ける。
27
:
◆HQdQA3Ajro
:2021/10/16(土) 00:13:30 ID:jePDeZ3M0
「……酔っ払いは、嫌いです」
「酔ってちゃわりぃかよ、こんなクソみてぇな世界で」
壁を背にしたジョルジュがずりずりと、更に身体をすべらせる。
厠の床の上で、しかしそうした場所の忌避感をまるで気にしない様子で、
ジョルジュは自らを横たわらせていく。
「ああそうさ、俺はお前らが嫌いだよ。
公明正大を装ってその実、痛みに鈍感なだけの無自覚で無責任な消費者共が」
「……書かないくせに」
「てめぇだって“てめぇの小説”捨てたじゃねぇか」
俺は、返事をしなかった。ジョルジュが笑い出した。高らかに、勝ち誇るように。
笑われたまま、俺は踵を返す。一言も、返すことなく。
「せいぜい大衆に媚び売って、必死に時代に追いすがってな。
でなけりゃすぐに、“昔はすごかった人”にされちまうんだからな!」
ジョルジュの言葉を背中に受けて、そうして俺は外へ出た。
一枚の扉板で隔てられた厠の外は虚栄に彩られた異世界で、
そこもまた俺にとって呼吸のしづらい、俺以外の誰かの居場所なのだと感じられた。
「ああ先生、そんな所におられたんですか!」
行く宛がなく壁に持たれて呼吸を整えていた俺の下に、オカマ野郎の高良が小走りで駆け寄ってきた。
反射的に舌打ちが出る。しかしそれが聞こえていないのか、それともその程度気にもとめていないのか、
高良は例の猫なで声で許しもしていないのに話しかけてくる。
「よかった先生、見つかって。紹介したい方がおりましてね。付き合って頂けますね?」
すでに付き合うことが決定している物言いだった。
こうした一方的な都合の良さが、この男への悪感情を増幅する。
わざとらしくひとつ、ため息を吐いた。やはり気にする様子などなかった。もたれた壁から、背を離す。
「ニュッ先生、もしかしてジョルジュと一緒にいたのですか」
紹介相手とやらの下へ向かう途中、出し抜けに高良が問いかけてきた。俺は肯定も、否定もしない。
「先生、付き合う相手は選びなさい。彼はいけません。
一時はもてはやされもしましたが、今はもうどこの出版社でも門前払いされるばかりで。それに――」
高良は一人で話を続ける。そしてその話がなにやら佳境に入ったのか、
俺の耳元に口を近づけ、こそっと辺りを伺いながら小さな声で話を続けた。
「噂ではよからぬ連中と付き合いがあるとかって。
なんにせよおしまいですね、ああなってしまっては。惨めなもんです」
28
:
◆HQdQA3Ajro
:2021/10/16(土) 00:14:33 ID:jePDeZ3M0
何が楽しいのか、話を結ぶと同時に高良は、いやらしい笑い声を立てる。
何が楽しいというのか、こいつは。それに、惨めだと?
ジョルジュがもはや、どこからも相手にされていないことは知っている。
ジョルジュの書くものが、商品未満の烙印を押されてしまっていることも。
それは確かに惨めなのかもしれない。こいつら、編集者にとっては。
だがしかし、少なくともジョルジュは自分の小説を書いていた。
何を言われようと最後まで、自分の書くものを貫いたのだ。
……本当に惨めなのは、どちらだというのか。
「先生、こちらVIPテレビで役員をなさっている――」
紹介された男が何事か話しだし、高良がそれに受け答え、二人でなにやら談笑して。
興味などなかった。その会話にも、テレビ局の役員うんだらというじじいにも。とにかく嫌気が差していた。
何に対してと断定するのも億劫な程に。そのためこの質問も、取り立てて深い意味を付与したものではなかった。
ただ男の、仕立ての良い背広の片側が濡れているのに気づいたから、
話を振られたついでに尋ねてみただけだったのだ。
「ええ、急に降られてしまいましてね。大変な大雨ですよ」
雨――という言葉に脳髄が刺激され、瞬間的に意識が覚醒した。
先生と叫ぶ高良の声を無視して走り出し、会場の外へと出る。
役員の男が言っていた通り外は酷い大雨で、おまけに横殴りの強い風まで吹いていた。
最悪な光景だった。
『俺の木』。しまった記憶が、ない。
道路まで駆け出す。水しぶき跳ねる路上を滑走するタクシーを、折良く発見。
目の前へ飛び出す。夜闇を照らす強烈なライトに目がくらむ。
重量物を無理やり止めるけたたましいブレーキ音が路上に響く雨音をかき消し、
後輪を僅かに浮かせた車両が接触自己を起こすその直前で停止した。
「ちょっと、他所でやってくださいよそういうのは!」
窓を開けて、運転手が苦情を叫ぶ。その声に応えず俺は扉を開き、後部座席へ潜り込む。
そうして口早に住所を告げると後はただ、無言の圧力で発進を急かす。
車内では運転手がぶつぶつと不満をつぶやいていたが、車は程なくして雨中の路面を滑り出した。
いまから急いだところで、到底間に合いはしないだろう。『俺の木』は、繊細な木だ。
水をやりすぎても、やらなすぎても、陽に当てすぎても、当てなすぎても、根腐れを起こして枯れてしまう。
それは種の持つ繊細さではなく、『俺の木』が持つ個別の虚弱性だ。
そしてその虚弱性こそが、『俺の木』が『俺の木』である所以なのだ。代わりは他に、ありえないのだ。
29
:
◆HQdQA3Ajro
:2021/10/16(土) 00:15:11 ID:jePDeZ3M0
苛立っていた。酷く苛立っていた。
『俺の木』をしまい忘れた理由を探して、そのひとつひとつに怒りをぶつけていた。
なぜ、今日に限って雨が降るのか。なぜ、授賞式の日取りを今日に決めたのか。
そもそもなぜ賞を与えようなどと考えたのか。選者はいったい誰なのか。
なぜあんなものが売れたのか。大衆はなぜ愚かなのか。それから、それから――。
あいつはなぜ、休みを取ったのか。そして――。
俺は、なぜ――。
『それが、お前の木なんだね――』
声が、聞こえた。すぐ側から。懐かしく、やさしいその声。
『そうかい、それなら――』
その人は、俺の隣に座っていた。隣に座って、語りかけていた。
『お前はその子を、愛してあげなくっちゃいけないよ――』
俺とその人との間に挟まって座る、その少年に。そいつは、幼き時代のそれは――。
『うん! ぼく、絶対に大事にする!』
太陽を、見上げ――――。
「ちょっとお客さん、勘弁してくださいよ!」
運転手の声で、正気にもどる。どうやら俺は、えずいていた、らしい。
隣を見る。そこには誰もいなかった。残ってなど、いはしなかった。何の、痕跡も。
30
:
◆HQdQA3Ajro
:2021/10/16(土) 00:15:45 ID:jePDeZ3M0
異変にはすぐに気がついた。車を降り、雨降る空を見上げ、四階に位置する自宅のバルコニーを見上げる。
見慣れぬ光景が、そこには存在した。エレベーターを待つことも煩わしく、階段を駆け上がる。
取り落としそうになる鍵をなんとか玄関口へと突き刺し、部屋へと入る。明かりをつける。
部屋の明かりに照らされ、バルコニーの状況が顕となる。
照出が、そこにいた。
……なんで?
鍵を解き、窓を開く。
雨粒と共にばたばたと、風に煽られる分厚いビニールの翻る音が部屋の中へと侵入した。
両手を上げて照出が、ビニールの覆いをそこに形成していた。
「おかえりなさい、先生!」
ビニールの覆いの内側、風雨から守られたその空間には『俺の木』が、
今朝見た時と同じようにやや左曲がりの姿勢でそこに鎮座していた。
目に見える水滴もなく、風に枝を折られた形跡もない。
「先生、よじ登っただなんて思ってますか? まさか、そんなことしませんよ!
お隣さんに頼んで、隣のバルコニーからこっちに入らせてもらったんです」
いつも通りの脳天気な声で、ずいぶんとおかしなことを照出は言い放った。
隣家のバルコニーを見る。このマンションのバルコニーは地続き型ではなく、
ひとつひとつが各部屋から出っ張った形で築かれている。つまり、隙間が存在する。
広い隙間ではないとはいえ、成人女性が滑り落ちる程度の幅は確かにある。ここは、四階だ。
落ちればひとたまりもない。だというのに照出は、それを実行した。
いつか取り返しのつかない目に遭うぞ。喉元まで迫り上がった言葉を、声に乗せる直前で嚥下する。
それは余計なお世話というものだろう。一他人に優ない俺が不用意に干渉するようなことでは、ない。
だから俺はその代わり、俺の都合を、口にした。
31
:
◆HQdQA3Ajro
:2021/10/16(土) 00:16:13 ID:jePDeZ3M0
「そっち」
『俺の木』の鉢の、片一方をつかみながら。
「そっち、持て」
「え、でも――」
「いいから」
顔を背けて、再び言う。
「いいから」
「……はい!」
生気に輝くその返事。その声に合わせ、手に力を込める。
さしたる重量もない『俺の木』を、二人で俺達は運び入れる。
部屋の中の定位置へとそっと下ろし、今一度確かめる。『俺の木』。問題は、どこにも見当たらなかった。
「休みじゃ、なかったのか」
服も髪もぐしゃぐしゃに濡らした照出にタオルを渡し、問い質す。
そうだ、休みのはずじゃなかったのか。外せない用事とやらで叔父の下へ向かったと、
そう聞いていたから、俺は――。
「えーと……はい、そのつもりだったんですけど」
ありがとうございますと言ってタオルを受け取った照出はしかし、
それを使うのもそこそこに、言葉を探り出す方に意識を割いている様子で。
「向こうに行く途中に、雲行きの怪しいのに気づいたんです。
そしたら先生が大事にしてる木のこと思い出して」
口を挟まず、照出の言葉に耳を傾ける。
「先生のことだから大丈夫だとは思ったんですけど、
でも、どうしても気にかかっちゃって……」
その言葉から、照出という女の本性を探る。
「えへへ、ユーターンして正解でした!」
言って、照出は笑った。濡れた全身はそのままに、そんな些事など気にもせずに。
とても、とても、喜ばしげに。
32
:
◆HQdQA3Ajro
:2021/10/16(土) 00:16:44 ID:jePDeZ3M0
ああ、そうか。
俺は理解した。照出麗奈。
こいつはただの――バカなのだ。
「あのぅ……もしかして、怒ってますか? 勝手なことして……」
「……ひとつだけ」
「はい?」
それならば――。
「ひとつだけ、言うことを聞いてやる」
「ほんとですか!?」
それならば、もう少しだけ――。
「ただし五秒だ。五秒で決めろ。はい五、四、三――」
「え、えぇ!? どうしよどうしよ……ていうかカウント早い! 早いです!」
「二、一――」
「えぇっと、えと、えと……あ!」
こいつのわがままに――。
「映画! 先生の実写映画、一緒に観に行きましょう!」
付き合ってやっても、いいかもしれない。
いつかこいつが諦める、もうしばらくの間だけ。
.
33
:
◆HQdQA3Ajro
:2021/10/16(土) 00:17:10 ID:jePDeZ3M0
※
「楽しみですね、先生!」
受付でスタンプを押印された半券を上下に振り回して照出は、興奮気味に繰り返した。
楽しみですね、先生。新作映画のポスターが所狭しと広告されている長く薄暗い廊下を、並んで歩く。
その暗闇の片隅で俺は、人影を見つけた。まだまだあどけなさが表に残った、笑顔の少年。
その少年が、隣に立つ青年を見上げ、両手を上下に振り回す。
『楽しみだね、先生!』
『お前にはむつかしいかもしれないよ』
『へいちゃらさ!』
充満する生命力を抑えられないといった様子で少年は、暗がりの廊下を走り出す。
歳にも身にも中身に置いて不相応に生意気で、自分を大人と勘違いした未熟なクソガキ。
しかし青年は無責任な自由に酔いしれる少年を前にしても、微笑んでその動向を見守る。
そう、青年は判っていたのだ。少年の気取った応えが、自身の小説に書かれた一節を真似たものであると。
故に青年は微笑んでいた。その無軌道をまるで、愛らしさとでも捉えているかのように。
「先生、この列ですよ!」
平日の館内に、観客は殆どいなかった。
広く空席が目立つその場所で、俺と照出は隣り合って座る。
スクリーンには洋の東西を問わぬ映画の宣伝が次々と流れ行き、そのひとつひとつに照出は反応を示していた。
このシリーズ新しいの出すんですね。あ、私これ知ってます。これ気になります、私観に来たいな。
ね、先生はどう思いますか。先生、先生、先生――。
『先生! もう始まるよ!』
天井の照明が落ちる。
暗闇の中でその一点に集中できるよう、ワイドサイズのスクリーンが強く光を放つ。
壁内に埋め込まれるように設置された幾多のスピーカーから、
日常ではまず耳にしない大ボリュームの音楽が流し出される。
これは非日常である、特別な時間であると、この場自体が主張する。
幕が開ける。
34
:
◆HQdQA3Ajro
:2021/10/16(土) 00:17:45 ID:jePDeZ3M0
古い、ロシアの映画だった。ジャンルはサイエンス・フィクション。
当時としては画期的な映像表現を駆使した注目作であるらしかったが、
まだ幼い俺にとって哲学的な内容を含むその映画は先生の危惧した通りに難解で、同時に退屈でもあった。
眠気にも、何度も襲われかけた。それでも俺が眠らずに最後まで見通せたのは、隣に先生がいたから。
判らないこと、むつかしいこと。秘められた意味、感情、科学に哲学に、そして信仰。
暗がりの館内で先生は、逐次耳打って解説してくれた。
平易な言葉でつむがれるその唄うような言葉たちは魔法のように不明を明へと解き明かし、
閉じたまぶたを開き、塞がれた耳からやさしく栓を抜き取ってくれた。
見えなかったものが見えていく快感。先生はそれを、俺にもたらしてくれた。
先生はいつだって、それを俺にもたらしてくれた。
危惧していた通り、スクリーン上の役者たちの顔が、俺には認識できなかった。
砕けた頭蓋に開いた黒穴。見続けていれば気分を害し、引いては昏倒するかもしれない。
目を逸らさざるを得なかった。幸いなことに、こいつは俺の小説が原作。話の筋は理解している。
音だけでいい。音だけでも、理解はむつかしくない。
この話の筋は、実に単純かつありきたりな構成で組まれているのだから。
青空と痛みが伴う未成年の青春群像劇を書いて欲しい。
そのような依頼を受けて執筆したのが、この作品だ。
当たり前に男女が出会い、当たり前に苦しみ、当たり前に別れの痛みを経て、当たり前に成長する。
そんな余りにありふれた、かつて何千何億と産み捨てられてきたくだらない物語の類型が、この作品の主軸だ。
「なんで」、「どうして」。無理解と攻撃性に満ちた若者たちが私は傷ついたと訴え叫ぶ。
ああだが傷ついたのは俺だけじゃない。お前だって俺を傷つけたじゃないか。刃物となった言葉の応酬。
そこに理性はない。理性なき所に解決はなく、自己に依って越えられぬ壁にぶつかった若者は
遍く真理を悟った賢者を頼り、その手解きを受けるものと決まっている。……そう、そうだ。
過ちに消沈した未熟な主人公に、その死を定められし導き手である青年が、言うのだ――。
『おまえはわるくないよ』
『役に立ちたかったんだ』
知っている。
『ぼくは、役に立ちたかったんだよ』
知っている。
『本当に、それだけだったんだよ』
知っている。言わなくても、知っている。
35
:
◆HQdQA3Ajro
:2021/10/16(土) 00:18:29 ID:jePDeZ3M0
資料が足りないと言っていたのだ。
新作を書くのに必要な資料が足りないと。物語の中身は知っていた。
まだ不確定な構想段階の話を聞くのはお前の人生において比類なき歓びであり、
優越を伴う特権であったのだから。
お前は知っていた。だからお前は向かったのだ。
立ち入りを禁止された子どもたちの遊び場、稼働を停止して久しいその廃工場へ。
もらったばかりのカメラを携えて。
初めて足を踏み入れた廃工場は、お前の好奇心を刺激するに充分な場所だった。
お前ははしゃいだ。はしゃいで興奮して、どんどんと工場の奥へと入り込んでいった。
打ち捨てられたこの工場にはかつてここで使用されていた資材がそのままに残されており、
そのくすんだ鉄の塊のどれもこれもがお前には宝物のように見えていた。
次々とカメラに収め、時間を忘れてお前は、この非日常の異世界に没頭した。
そしてふと、お前は思ったんだ。写真に収めるだけでなく、持っていってしまえばいいのではないかと。
これらの資材の、どれか持ち運べるものを持って帰れば先生は、きっと喜んでくれるに違いない。
役に立てるに違いない。お前は、愚かにもそう考えたんだ。
お前には友達がいなかった。
そのためお前は、ここのどこなら安全で、何をすると危険なのかも知らなかった。
腐食した鉄が思った以上に容易く折れてしまうことなど、お前は知らなかった。
夜になっても帰らぬお前を心配した母が、先生にその捜索を手伝ってもらっていたことをお前は知らなかった。
お前は、何も、知らなかった。
今が容易く崩れ去ってしまうだなんて、そんなことがあるなんて、知らなかった。
『役に立ちたかったんだ』
ああ。
『ぼくは、役に立ちたかったんだよ』
ああ。
『本当に、それだけだったんだよ』
ああ――。
『わかっているよ』
違う――。
36
:
◆HQdQA3Ajro
:2021/10/16(土) 00:19:01 ID:jePDeZ3M0
『おまえはわるくないよ』
スクリーンが切り変わる。
(やめろ……)
青年がいる。青年が、彼の木の前に立っている。
(やめてくれ……)
無数の紙片が、その一枚一枚が、
その一行一行が至宝そのものであったそれらが、風に呑まれて散っていく。
(こんなもの、見せないでくれ……)
凝固した眼球は、それから視線を外すことを赦さなかった。
これより起こることから目を離すなと、肉体が精神を戒めた。
(やめろ、やめてくれ……)
青年が、スクリーンの向こうから俺を見ていた。
俺を捉え、認識し、微笑んだ。
(お願いだ……)
頭蓋の砕けたその青年が。無間の洞が。そして、洞の底にて仄見える――。
(頼む、助けて――)
青白く腐敗した、太陽の残滓が――――。
(だれかぼくを――――)
首を――――――――。
(だれか――――――――)
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