大西先生が、もし、「ハートで感じる英文法」のP48で、『to』の例として、「I went to London.」でなく「I'm going to go to London.」を使われていたら、「toはロンドンに到着していますね」とは書けませんよね。
110さんなら、その場合、「toは、イメージの上では、ロンドンに到着していますね」と書かれるのでしょうか。
そうすると、それを読んだ人は、「「イメージの上での到着地」=「目的地」。「I left for London.」の「London」って「目的地」。それなら、どうして『for』じゃだめなの?」ってなことになると思いませんか?
要は『for』も「到達」のイメージと無縁ではないということです。
『ハートで感じる英文法』の書籍版はもっていないのでP48を参照できないのですが、『英単語イメージハンドブック』(P168)の「TO」の項目にも、He left for London.(彼はロンドンに向けて出発した)/He went to London.(彼はロンドンに行った)という例文があり、次のような説明が載っています。
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「向かう」だけのforに比べ、toは「到達」までを含んでいます。……
to は到達点を指し示すだけの単語。その単純さがこの前置詞の広範な使用を支えています。……
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大西先生も、toとforのイメージの違いを「到達している/到達していない」という区別で語っているわけではありませんね。両方とも「向かう」だけど、toは「到達」を含んでいるんですよ(あるいは、到達点を指し示しているんですよ)、と言っているだけだと思います。
『ハートで感じる英文法』に下のような「絵」があるとすると、その「絵」の意味する所は…
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He went to London. なら「ロンドンに到達した」と言ってるわけだけど、
He left for London. なら「ロンドンに向かった」と言っているだけで、
「到達したかどうかは分からない(「到達」については話題にしていない)」。
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ということなのではないでしょうか。
このスレッドの流れを見ていると、「toは、到達点までを含む」というのは、何となく混乱を生みやすい表現のような感じがしますね。私は、toはあくまで「→」としてイメージするようにしているので、「到達点を指し示している」という説明が一番しっくりきます。
I went to London. と言えば、「(過去における)到達点を指し示している」わけだから、当然、「Londonに到達している」。I'm going to go to London.と言えば「(未来における)到達点を指し示している」わけで、「現実(現時点)」にはまだ到達していなくても何の問題(?)もない。まぁ、そんなふうな感じに理解しています。
I'm going to go to London.の going の後の『to』の話なんですか?
今、みんなで論じてるのは London の前の『to』です。
>His house looks to the East.
>簡単ですね。比喩的な表現ですが、彼の家は東を向いてきちんとその方向の風景などを見てるんです。
>だからtoですね。放たれた矢印は確実にthe Eastを指し示し到達しています。
まず「到達」ありきで、それに合わせてイメージを作るのは、確かに簡単ですね。
私が算数Kさんに聞きたかったのは、「His house looks to the East.」の場合、一般的に(特にネイティヴは)はたして「矢印が仮想の到達点(東)に到達する」という「到達」を含んだイメージをするんでしょうか、ということです。
繰り返しますが、少なくとも私(日本人ですが)のイメージは、家の正面から仮想の線が東に伸びるというものです。
その線がどこに到達しているか、なんてことはイメージしていません。
>大西先生が、もし、「ハートで感じる英文法」のP48で、『to』の例として、「I went to London.」でなく「I'm going to go to London.」を使われていたら、「toはロンドンに到着していますね」とは書けませんよね。
>110さんなら、その場合、「toは、イメージの上では、ロンドンに到着していますね」と書かれるはずですよね。
>そうすると、それを読んだ人は、「「イメージの上での到着地」=「目的地」。「I left for London.」の「London」って「目的地」。それなら、どうして『for』じゃだめなの?」ってなことになると思いませんか?
そもそもtoの説明に"I'm going to go to London."を持ってくれば私が書いているような
もっとその他の文法事項イメージを考慮したイメージの足し算を行わなければならないので
大西先生もそんな英文をいきなりtoの理解を深めるための例文として持ってくるようなことはしないでしょう。
going toのtoもto Londonのtoも同じtoです。
そしてtoだけではなく文法のイメージをきちんと理解していないと英文の正しい
理解はできないのではないですか?全ての足し算となるからです。
go to Londonは原形であり、一般的な事柄という意味を持ちます。
漠然とした一般的な事柄であるから現実に到達、非到達なんて話を論じること自体変です。
ただの、"ロンドンに行く、とゆーーこと"ですよ。この文、ロンドンに実際に行ったんですか?
イメージは>>30に書いてあるとおり、ただのtoです。
私の中ではその2つは全く同じイメージです。なんで分ける必用があるのでしょうか。
イメージから意味が生成される。それだけのことかと思います。
生成された文の意味から到達、非到達があやふやだからイメージの到達と言う表現を避けるべき、
到達しているかは微妙。なんだか話が変であると感じています。
到達したイメージがなければその意味は生じないかもしれませんね。
イメージ上のtoは確実に対象にタッチし、到達し指し示していると感じています。
to Fridayに関しても難しいことはないでしょう。
指し示している対象がFriday(0:00〜23:59)という幅のある期間であるからそこから生成される
意味に前日中?金曜日中?という疑問が生じているだけかと思います。
といいますかそうなるのは当然である曖昧表現のイメージであると考えています。
日本語でも同じですね。
His house looks to the East.
これも同じで、彼の家は目を向けています、東の方角、風景情景に到達し指し示し、見ています。
到達しているからこそその目に浮かんでいる風景を見ています。
東を向けばその風景が目に飛び込んできます。それが到達のイメージであると感じています。
lookはただの目を向ける動作ですからね。
Robin is good to Dale.
これはRobin is goodの向かう対象としてDaleをきちんとタッチして
指し示している、結構普通の文章でしょうか。
単にタッチして指し示しているんですね。
Robin is good for Dale.
これはDaleに対して向かってますから、 >>40に書いてあるようなイメージだと思います。
もちろん向かうのは気持ちだけではなくて、実際の行為だとか、
イロイロ示唆されますね。読んでみてなるほどと納得しました。
(1) He left to London.
(2) He left for London.
(3) Is this the train to London?
(4) Is this the train for London?
> 大西先生が、もし、「ハートで感じる英文法」のP48で、『to』の例として、
>「I went to London.」でなく「I'm going to go to London.」を使われていたら、
>「toはロンドンに到着していますね」とは書けませんよね。
> 110さんなら、その場合、「toは、イメージの上では、ロンドンに到着していますね」と書かれるはずですよね。
> そうすると、それを読んだ人は、「「イメージの上での到着地」=「目的地」。「I left for London.」の「London」って「目的地」。それなら、どうして『for』じゃだめなの?」ってなことになると思いませんか?
> 書かれるはずも何も、そんな内容の文章は書いていないですし・・というか書きません。
それでは、仮に110さんが、『to』を『for』は同じものとみなしている人から
「「I'm going to go to London.」の(Londonの前の)『to』を『for』に替えても意味は同じなのではないですか?」
と聞かれたらどう説明されますか?
お手数ですが、教えていただけないでしょうか?よろしくお願いします。
> His house looks to the East.
> これも同じで、彼の家は目を向けています、東の方角、風景情景に到達し指し示し、見ています。
> 到達しているからこそその目に浮かんでいる風景を見ています。
> 東を向けばその風景が目に飛び込んできます。それが到達のイメージであると感じています。
またまたまた繰り返しますが、私が聞きたかったのは110さんの「到達のイメージ」ではなく、一般的に(特にネイティヴは)「His house looks to the East.」はたして「矢印が仮想の到達点(東)に到達する」という「到達」を含んだイメージをするんでしょうか、ということだったのですが。
では、110さんは
Look to the right, now to the left, look down, left, O.K. . . . look at me . . . Good.
(おいすさんからの例です)
と聞けば、「視線が右の風景にブスリ。視線が左の風景にブスリ。…」というような「到達」までを含んだイメージをされてるわけですね。
◎「目的地に到着するか否かはこのforの守備範囲の外であることもわかろうというものです。」
というのは、『for』のイメージ=「到達していない」ということではありません。
あくまで「到着するか否か」は意識していないということです。
これも、私の先に発言、
「「for」:目的は決まっているものの、そこに至る道が未知数、あるいは(I left for London.の場合のように)その道にあまり関心が向けられていない。」
と同じです。
I'm going to go for London.
変文ですね・・。何が変って、ロンドンに行くつもりなんでしょ?向けて出発するつもりなの?
しかも日本語訳以上に変なのはforのイメージが問題なんですが・・。
なんでエンドポイントが含まれていない、矢印の到達していない向かうforを使う必用があるんでしょうか。
イメージ上の矢印が到達していませんから向かうことは理解できてもその地に着くかどうかなんて全く不明です。
I'm going to go to London.ならきちんと到着地としてロンドンがタッチして指し示されていますから、
ロンドンに出発して行くつもりですね。
混乱するんですか?
私の中ではtoとforは全く別のイメージであり、綴りも違う別の単語です。
図示すれば2つとも矢印のような物で表現することができ、イメージ上の矢印のような物の到達、非到達は事実の内の1つです。
解説の際にその部分が説明のためにわかりやすい場合はピックアップする事がありますが、
何もイメージが到達非到達のみで完全に二分されているような書き方はしていないはずですが。
Look to the right.
私はネイティブスピーカーではないので学んで自分なりに体得しているイメージ、体感しか解りません。
これも同じ事書くことになるんですが、lookは目を向けるという単なる動作です。
to the rightだからこそ右側をきちんと目を向けて、見ているんですよ。目に映像が入ってきてます。
実際やってみてください。その感覚がこの場合のlook toであり図示すれば到達し、タッチし指し示しているあの矢印です。
イメージの足し算についてもうちょっと書いてみます。
わかりやすいのは、句動詞のような物でしょうか?
look at, look for, get up, get out, etc...
lookは目を向けるという動作、そのイメージにat、点というイメージが加わって
点としてイメージされる対象に目を向けるという意味が生まれますね。
forという対象にタッチしてない、到達していない、自分の中の気持ちのような物がそのタッチしてない
対象に向かって行く、つまり求めてというイメージと足し合わされば探すという意味が生まれます。
>『to』のイメージの本質は、あくまで「AからBへという線上の移動」であって、
>「到着」はそれに必然的に付随するものに過ぎないということです。
とありますが、本当に移動のほうですか?本質は?
I left to London.
leftは現在いる場所から出ていく、立ち去るそう言ったイメージですね。
そしてtoでLondonがタッチして指し示されています。
矢印がエンドポイントに到達しタッチして指し示しています。
ですから出発してロンドンに着いたという意味になるでしょう。
この場合は移動と言っても問題なさそうですが、
I danced to the music.
I prefer London to New York.
さらにはto不定詞
My boss is hard to please.
これは移動でしょうか?全て指し示しているだけではないですか?
矢印が到達し、エンドポイントを指し示している感覚です。
その方向や範囲を限定したりします。ですのでエンドポイントも含まれてないし、タッチもしないし、到達もしません。
I left for London.
forのイメージにはエンドポイントが含まれていませんしタッチもしていません、到達もしていませんね。
Londonへ向かったと言う意味ですが現実に着いたかどうか?
forのイメージでは向かった方は解ってもその先が到達してタッチしていないので
着いたかどうかなんて不明という意味になりますね。
ニャンコビッチさんは到達のイメージ=意味として現実に到着、
到達していないイメージ=現実に到着していないという考えにこだわっていませんか?
「目的に繋がっている。あるいは、そこに至る道がある程度見えている」>>43では「to」のイメージとしては弱いのではないかと思います。 COBUILD English Usage に次のような説明があります: you do not use `to' to indicate the general direction in which someone or something is moving. You do not say, for example, `The boat was drifting to the shore'. You say `The boat was drifting towards the shore'. この例の場合、「そのまま流されていくと岸『に至る道がある程度見えてい』」たけれども、「to」は使えないということですね。単に「目的に繋がっている」だけでよいのではないでしょうか?
ヨシカワさんご紹介のページの「toの方はどうかと言えば、単にAとBとの結びつきを示すにとどまる」>>39も、「A と B との結びつきを、B に重心をおいて、示す」と解釈したいですね。この B に重心をおいた「結びつき」を A から B への「矢印→」と見なせば「矢印→の終点を示す」となりますし、「矢印→」を「動き」と解釈すれば「到達点を指し示す」となります。文法用語に(物理用語の『力』のように)こだわらなければ、>>26でも書いたように、 to の直後の B は『目的』でも『終点』でも『到達点』でもOK、と考えます。したがって、「矢印/動き」+「終点/到達点」を(実際にそうしたかどうかは問わない)文法説明として『到達』としても問題ないと私は思うわけです。もちろん、ニャンコヴィッチさんの『到達』という説明に対する違和感は私なりに理解しているつもりですよ。
「His house looks to the East.」の場合>>36も、私は『到達』でよいと考えます。 to the East なら、「家の正面から仮想の線が東に伸びる」という感じではなく、方位磁針が北を指すように「家の向きが(方位として)東を指す」ような感じに思えるからです。ただ、ネイティブに聞けば、文法学者でもない限り、「この to は toward(s) と同じ」と答えるでしょう。そのくらい「指し示す」感じが弱く toward(s) との違いがない例文ではないでしょうか。 http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/8450/1254827423/7 にも書いたように、 to と toward(s) のイメージの違いも、他の語句とのコンビネーションによってニュアンス程度の差しかないこともあるということでしょう。
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「目的に繋がっている。あるいは、そこに至る道がある程度見えている」>>43では「to」のイメージとしては弱いのではないかと思います。 COBUILD English Usage に次のような説明があります: you do not use `to' to indicate the general direction in which someone or something is moving. You do not say, for example, `The boat was drifting to the shore'. You say `The boat was drifting towards the shore'. この例の場合、「そのまま流されていくと岸『に至る道がある程度見えてい』」たけれども、「to」は使えないということですね。単に「目的に繋がっている」だけでよいのではないでしょうか?
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`The boat was drifting (to/towards?) the shore'.
この状況は、それこそ「general direction」な状況であって、
岸のどこにthe boatが着くかまでをある程度計算している状況、つまり「岸に至る道がある程度見えてい」る状況だとは思えません。
算数Kさんがこのボートに乗っていらしたら、the boat から the shore まで、「general」では"ない"線(道)が引けるでしょうか?
それ故に you do not use `to'なんだと思います。
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「His house looks to the East.」の場合>>36も、私は『到達』でよいと考えます。 to the East なら、「家の正面から仮想の線が東に伸びる」という感じではなく、方位磁針が北を指すように「家の向きが(方位として)東を指す」ような感じに思えるからです。ただ、ネイティブに聞けば、文法学者でもない限り、「この to は toward(s) と同じ」と答えるでしょう。そのくらい「指し示す」感じが弱く toward(s) との違いがない例文ではないでしょうか。
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「His house looks to the East.」
私もこの場合、「この to は toward(s) と同じ」と思っています。
だからこそ、私は110さんに、この場合の「to」に『到達』のイメージがあるか?と繰り返し問うていたわけです。(110さんは、眼科で Look to the right. と言われたら、視線が左の風景に『到達』する、つまり、いちいち左の風景を意識したイメージのようですが。)
それで、算数Kにもお尋ねしますが、「家の向きが(方位として)東を指す」に、実際のところ、『到達』のイメージをハートに感じますか?
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ヨシカワさんご紹介のページの「toの方はどうかと言えば、単にAとBとの結びつきを示すにとどまる」>>39も、「A と B との結びつきを、B に重心をおいて、示す」と解釈したいですね。この B に重心をおいた「結びつき」を A から B への「矢印→」と見なせば「矢印→の終点を示す」となりますし、「矢印→」を「動き」と解釈すれば「到達点を指し示す」となります。文法用語に(物理用語の『力』のように)こだわらなければ、>>26でも書いたように、 to の直後の B は『目的』でも『終点』でも『到達点』でもOK、と考えます。したがって、「矢印/動き」+「終点/到達点」を(実際にそうしたかどうかは問わない)文法説明として『到達』としても問題ないと私は思うわけです。もちろん、ニャンコヴィッチさんの『到達』という説明に対する違和感は私なりに理解しているつもりですよ。
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私は…
A.先の「His house looks to the East.」の場合のように『到達』に「重心」が置かれない場合があるし、
B.ヨシカワさんの紹介してくださったページに「forの目的語とされるものは、…あるいは何かがたどり着く先というニュアンスを見てとれる」とあるように、「for」"にも"「何かがたどり着く先(=到達先、ですよね)」という「ニュアンス」がある
…ので、
「to」と「for」の"違い"を、(私が先に引用した、大西先生が「ハートで感じる英文法」でされている説明のように)『到達』のイメージを使って説明するのは、適切ではない、
と言っているのです。
The boat was drifting.
ボートは漂流している最中であった、ですね。
過去進行形ですから始まりから終わりに動的に向かっている最中です。
その説明に"to the shore"は無理ですね。
過去の動作、動きの説明にto+名詞が使われるとその目的地に
到達しているような感じがします。
ですが、この文は過去進行形・・、なんとも相性が悪いです。。
ニャンコビッチさんの持論である"そこに至る道がある程度見えている"は僕としてはtowardsのイメージが強いです。
The boat was drifting towards the shore.
そのボートは岸に向かって(の方向に)漂流している最中であった。
The boat was drifting for the shore.
そのボートは岸を求めて漂流している最中であった。
とも表現できますね。
後半部分の内容です。
Look to the right.
右を見なさい。
Look towards the right.
右の方向に目を向けなさい。
日本語に訳してもこれだけの違いがありますね。
まずlookは単なる目を向ける動作であるという事です・・。
"Look to the right."ならはっきりしっかり右を見ろって事ですね。
"Look towards the right."なら右の方向に目を向けろと言う事で
実際に見るか見ないか?そんなことまでの意味は含んでいませんね。
まぁ目を向けた結果として実際に見ることは多いかもしれませんが、
それは文法的なお話とは違いますよね。
>A.先の「His house looks to the East.」の場合のように『到達』に「重心」が置かれない場合がある >>55に示したとおり文法的にはtoとtowardsは違うでしょう。
もちろん結果としてこの場合、家と言う動かない物ですから
His house looks towards the East.
目を向けている結果としてそっちの方向を見ていることにもなるでしょうが、
文内容自体にはそんな内容まで含んでいるわけではないでしょう。
それに見晴らしが良さそうな感覚もこの文からはしてきません。
この例文の場合もtoのイメージは対象にタッチして到達して指し示していると思いますけどね。
といいますかtoの持つ基本イメージがいちいち文脈によって変わっていては文法的に成り立ちません。
私は「「文法」用語としては『到達』もOK」、実例には日常語の「到達」とは微妙に異なる場合もあることを考慮し臨機応変に対応すればよい、と考えます。ニャンコヴィッチさんも、物理学用語の『仕事』を日常語の「仕事」と切り離して理解するように、「文法」用語としての『到達』を日常語の「到達」と切り離して理解されれば、私の考えにも「ある程度」同意してくださるのではないかと思っています。(両者の抽象的/具体的という違いが「学習者の「混乱を招く」かもしれないことについては同意し」ています、最初>>26から私は。)そして、もし『到達』に代わる用語をご提案されるなら、「文法」としての一貫性、整合性、簡潔性を考慮していただけませんか。「ハートで感じる英文法会話編スペシャル」で Chris 先生が大西先生との会話で「前置詞の to も不定詞の to も『指す』で同じ」と説明されていたように。