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鬼和尚の仏教購読会 別館

1避難民のマジレスさん:2018/10/16(火) 22:40:04 ID:HDZhjLgoC
明日より、黄金の華 の 購読会を始めるのである。
どうやらOSHO35才の時の講演らしい。
OSHOは、すごい人なのである。
セゴドンやゲバラに匹敵する革命家だったのでありましょう。
それでは、明日からお楽しみに!
(´・(ェ)・`)つ

170鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2018/12/28(金) 22:59:20 ID:1d4drIFg0
全ての者は女性から生まれる故にそれは基底の意識と呼ばれるのじゃ。
全てを生み出す玄牝の門なのじゃ。
全てはそこから生じ、そこへ帰っていくのじゃ。
それもまたアートマンの性質と同じなのじゃ。

171避難民のマジレスさん:2018/12/29(土) 01:38:00 ID:LC3de7YgO
>>169
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第三話 アニムスとアニマ(つづき)
 より抜粋

女性原理は物質に根をおろしている。
肉体に根をおろしている。
だが、男は夢を見る。
男は夢想家だ。
男性原理というのは夢見の原理だ。
男がどうしてあれほど月へ行くことに興味をもつのか女性にはわからない。
それはあまりに馬鹿げて見える。
何のために?そこで何が手に入るというのだろう?
買物でもするつもりだろうか?
月へ行くぐらいならMGロード(和尚コミューンの近くの繁華街)に行ったほう
がましだ。
あんなところで何をするつもりだろう。
何のために?生命をかけてまで?
あまりにも馬鹿げて見える。
女たちはみな心の奥底では、男なんて子供みたいなものだということを知って
いる。
「遊ばせておけばいいのよ。行かせて、好きなことをやらせておけば」
男たちは愚かなことにかまけているのだということを女性はよく承知している。
フットボール、クリケットの試合---すべてナンセンスだ。何の意味もない。
あなたがボールを向こうに投げると、相手はボールをあなたの方に投げてくる。
そしてそれが延々と続けられる。
何の意味があるというのだろう?
女性は現実的で、地に足をつけている。
女性は現世的だ。
男性原理は大空のようであり、女性原理は大地のようだ。
男は未知なるものを夢見、計画を練り、望み、それにあこがれる。
男は冒険家であり、自分をとらえている夢にいつでも生命を賭ける用意ができ
ている。
男は目のなかに住み、女は耳のなかに住んでいる。
女たちがうわさ話をしたがるのはそのためだ。
うわさ話が楽しくてしかたがない・・・二人の女がうわさ話をしているのを見
れば・・・彼女たちはたいへんな歓びに包まれているかのようだ。
こんな話を聞いたことがある。
あるとき中国で競技大会があった。中国一の嘘つきを決める大会だ。
たくさんの人々がやってきて、たくさんの嘘をついたが、優勝したのは「公園の
ベンチに二人の女が三十分も黙って座っているのを見た」と言った男だった。
彼が優勝した。まさにありえないことだったからだ!
女性ゆえに、堕落が、原罪が生まれた。
蛇はまずアダムを試したにちがいない。
だがアダムは耳ではなく目だ。彼は狡猾な蛇を見抜き、こう言ったにちがいな
い。
「あっちへ行け。俺の邪魔をしないでくれ。俺には俺の夢があるんだ」
だが蛇はイヴをそそのかした。蛇は彼女に耳打ちをしたにちがいない。
「何をしてるんだい?ここに知識の樹があるんだ。神は君たちをだましている
んだよ。この樹の果実を食べたら、君たちは神と同じように不死になるんだ。
この樹の果実を食べたら、神が知るすべてがわかるようになるんだ。君は全知
全能であまねく存在するようになるんだよ」
女性は当然好奇心に駆られた---「すごく耳よりの話じゃないの」と。
蛇は彼女を説き伏せた。蛇は最初のセールスマンだった。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

172避難民のマジレスさん:2018/12/29(土) 11:29:28 ID:LC3de7YgO
>>171
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第三話 アニムスとアニマ(つづき)
 より抜粋

セールスマンは男のところへは行かない。
セールスマンは、男が会社に出かけてゆくのを見計らってドアをノックする。
女性を説得しなければならない。
聞く耳をもっているのは女性だけだ。
耳はあなたの存在の受動的な部分、受容的な部分だ。
耳からは何かが入ってくることができる。
目は攻撃的な部分だ。
いいかね、耳を使って攻撃的になることはできない。だが、目を使えば攻撃的
になることができる。
刺すような目で相手を睨みつけることができる。
目で相手を傷つけることもできれば、目で相手を慈しむこともできる。
目で相手のこころをつかむこともできれば、よせつけないようにすることもで
きる。
誰かが取りつく島もないほどうつろなまなざしであなたの目を見つめることも
ある。
あるいは、誰かが深い欲望、情欲、熱望、関心をもって、あなたの身体をなで
まわすかのように見はじめることもある。
目は攻撃的な部分だ。
目は投影し、相手に影響を与えることができる。
インドでは、淫らな目で女性を見つめる者は「ルチチャ」と呼ばれる。
驚いたことに、「ルチチャ」という言葉は「ロチャン」から来ている。
「ロチャン」はまさに目を意味する。
彼は目で女性を犯している。
彼の目はほとんど性器のようになることができる。
目は危険だ。
耳はとても純真無垢だ。
耳はひたすら取り入れる。
耳は女性的だ。
魂アニムスは両目のなかにあり、ものを見、夢を見る。
だが、いつであれ気分が沈み込み、動作が鈍いときには、人は肉体に縛り付け
られ、アニマに拘束されている。
あなたが男であっても女であっても関係ない。
女性が目を使い、聴こうとするのではなく見ようとしているなら、彼女はアニ
ムスになる。
男性が聴こうとしているなら、彼はアニマになる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

173鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2018/12/29(土) 21:43:47 ID:1d4drIFg0
男でも女でも時に能動的になり、時には受動的になることができるのじゃ。
それらは誰にでも在る性質であるからのう。
どちらかしかないということはありえないのじゃ。
その受動性を極めることが道家の行く道なのじゃ。

174避難民のマジレスさん:2018/12/29(土) 23:36:12 ID:LC3de7YgO
>>172
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第三話 アニムスとアニマ(つづき)
 より抜粋

弟子はアニマになる、ならざるをえない。
というのも、弟子はその全身が耳にならなくてはいけないからだ。
師マスターとは目以外の何ものでもなく、弟子とは耳以外の何ものでもない。
師は見なければならない。
あなたの最も深いところを見なければならない。
師はあなたのまさに中核を貫かなければならない。
そして弟子は耳をそばだて、意識を配り、いつでも応じられる姿勢でいて、み
ずからの内奥の中核に師が触れるのを許さなければならない。
弟子は女性的になる。
女性がこの世で一番の弟子になるのはそのためだ。
男は弟子になることが少々むずかしい。
弟子になるとしても、ためらいながらなる。
彼は抵抗し、闘い、疑う。
男はなんとか逃れようとして様々な手練手管を弄する。
逃れられないとなると、仕方なく力を緩める---が、仕方なくだ。
女性は喜びに満ちてジャンプする。
最もすぐれた弟子というのはいつも女性だった。
その比率はいつも同じで変わらない。
弟子が五人いれば、ひとりは男で、四人は女だ。
比率はいつもそうだった。
マハーヴィーラの場合もそうだったし、仏陀の場合もそうだったし、私の場合
もそうだ。
その比率はいつも同じだ。
男は、女性というのは目をうるませて、すぐに催眠術にかかり、暗示に落ちや
すいものだと思っている。
それは男たちの側からの非難だ。
男は、自分は催眠術になどかかるはずがないと思っている。
女というのは喜んで催眠術にかかるものだと思っている。
それはある意味では正しいが、ある意味では間違っている。
女は蛇に出会うと、蛇にそそのかされてしまう。
女は仏陀のような人に出会うと、改心させられてしまう。
確かに女性は暗示に弱い。
すべては彼女が誰と出会うかにかかっている。
男は蛇の言葉に耳を傾けても、それで心変わりをしたりはしない。
蛇の手に落ちることはない。
だが、一方で男は仏陀を聴きに来ても、やはり心を入れ替えることはない。
そうして男は救いを逃してしまう。

それゆえに、光を巡らせることで魂アニムスの集中が起こり、そのようにして
精神が保持され、魄アニマは克服される。(´・(ェ)・`)
(つづく)

175避難民のマジレスさん:2018/12/30(日) 10:26:43 ID:LC3de7YgO
>>174
うむ、ついに第三話のクライマックス「光を巡らす」技法に突入であります。
OSHOは焦らして話を盛り上げる天才でありますね。
>>138
>暗く沈み込み、みずからの肉体の形に幽閉されている者はみな、魄アニマに束縛されている。
それゆえに、光を巡らせることで魂アニムスの集中が起こり、 そのようにして
精神が保持され、魄アニマは克服される。
この世を超脱するために古人が用いた技法は、純粋に創造的なものに還るため
に暗黒の滓カスをすべて溶かし尽くす。
これは魄アニマの力を削ぎ落とし、魂アニムスの力を完全にすることに他なら
ない。
光を巡らせることは、暗黒を縮小させ、魄アニマを制する力を獲得する秘術で
ある。
この技法に従うなら、種子の水はおのずから豊かになり、精神の火は燃えあが
り、思考の土は固まり結晶化するだろう。
このようにして聖なる果実は熟す。

(´・(∀)・`)つ
ワクワクドキドキくまである。

176避難民のマジレスさん:2018/12/30(日) 10:39:04 ID:LC3de7YgO
>>174
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第三話 アニムスとアニマ(つづき)
 より抜粋

光が目のなかで循環しなければならない。
目はあなたの存在のなかで最も光に
満ちた部分だ。
道家の人々は、人の目は太陽に似ていると言う。
目がなければ光を見ることはできない。
そして、似たものだけが似たものを見ることができる。
人の目は凝縮された光だ。
目を通して光を見ることができるのはそのためだ。
人の耳は凝縮された音だ。
耳を通して聞くことができるのはそのためだ。
男であれ女であれ、すべての人のなかにあるアニマを克服しなければならない。
なぜか?それはアニマが形であり、肉体であり、物質だからだ。
精神が主人にならなければいけない。
精神が肉体の上に君臨しなければいけない。
精神が肉体を従わさせなければいけないのであって、その逆ではだめだ。
だから、男であろうと女であろうと関係ない。
内なるアニマをアニムスに従属させなければならない。
なぜなら、アニムスのみが探求し、探索することができるからだ。
そして女性が後からついてくるなら、アニムスは実在の奥底まで分け入ってゆ
くことができる。
詩人が、背後に女性がついていて、自分を支えてくれていることを知っている
なら、彼の詩は高く高く舞い上がることができる。
女性がいつもそばにいてくれることがわかると、男はじつに逞しくなる。
彼はどんな冒険にもおもむくことができる。
女性がそばにいてくれないと感じるやいなや、彼は気力を失ってしまう。
今や彼には夢しかない。
が、その夢は無力だ。
その夢にはもはやエネルギーがなく、実現されえない。
ものを実現させる力は女性にある。
夢見る力は男にある。
神、あるいは真理の探究においては、男が先頭に立ち、女が従わなければなら
ない。
あなたの内側では、アニムスが師になり、アニマが弟子にならなければいけな
い。
そして、もう一度くり返すが、あなたが男であるか女であるかは関係ない。
この世を超越するために古人が用いた技法は、純粋に創造的なものに還るために
暗黒の滓カスをすべて溶かし尽くす。
女性はおとなしく、男性は活発だ。
女性がしっかりと落ち着いているように見え、男性がひじょうに落ち着きなく
見えるのはそのためだ。
子供であっても、ほんの小さな子供、赤ん坊であっても、その違いがある。
男の赤ちゃんはひじょうに落ち着きがない。これをつかもうあれをつかもう、
手を伸ばして何かに触れようとしている、手のかかるやんちゃ坊主だ。
女の赤ん坊はけっして手がかからない。
彼女は黙って座り、人形を抱いている 。
彼女もまた人形だ。このうえもなく落ち着
いている・・・ 落ち着きという原理
は女性的であり、落ち着きのなさという原理は男性的だ。
女性がまろやかで美しく、男性が絶えず熱を帯びているのはそのためだ。
だが、成長するためには落ち着きのなさという原理が必要になる。
なぜなら、成長とは変化を意味するからだ。
(´・(ェ)・`;)
(つづく)

177避難民のマジレスさん:2018/12/30(日) 13:28:13 ID:LC3de7YgO
>>176
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第三話 アニムスとアニマ(つづき)
 より抜粋

女性は基本的に古い型を守ろうとし、男性は基本的に古い型を破ろうとする 。
女性はつねに現状を支持するが、男性はたとえ愚かな革命であっても はじめよ
うと待ち構えている。
変化してゆくものなら、何でも男は支持 する。
状況が良くなろうが、悪くなろうが、それは大したことではない。
変 わ る こ と が 善 なのだ。
女性はいつも古いもの、確立されたもの を支持する。
それが良いか悪いかは問題ではない。
「いつもそうだったのだから、そうあるべきよ」というわけだ。
成長するためには、あなたの内にあるよどみの原理が溶け去る必要がある。
あなたの内なる女性は凍りついている。
あなたが川になれるよう、その女性を溶かさなければならない。
だが、川はまた両岸の力も借りなければならない--- 岸辺は動かないことを覚
えておきなさい。
もし両岸がなかったら、川はけっして大海にたどり着けない。
そして水が凍っていたら、川はけっして大海にたどり着けない。
だから川は溶けて水にならなければならないが、 それでも動かない岸辺の力を
借りなければならない。
完全な人間というのは、みずからの活動的な側面を川として 使い、みずからの
静的な側面を岸辺として使う者をいう。
それが完全なバランスだ。
そうなったら、あなたは成長するために アニムスを使い、その成長をつかのま
の現象ではなく、 確たるものにするためにアニマを使ったことになる。
これは魄アニマの力を削ぎ落とし、魂アニムスの力を完全にすることに他なら
ない。
だがふつうは、男であれ女であれ、誰もが動きを止めている。
男たちですらきわめて保守的だ。
キリスト教徒、ヒンドゥー教徒、イスラム教徒、ジャイナ教徒---男たちですら
きわめて保守的になる。
彼らはみずからのアニマの犠牲になっている。
彼らのアニムスは征服されてしまっている。
それは解き放たれねばならない。
私のここでの努力はそれに尽きる---あなたのアニムスをアニマの支配から解き
放つこと。
ひとたびアニムスがアニマの支配から解き放たれたなら、私たちはアニマをも
使うことができる。
だが、まずは解き放たれることが先だ。
私がしきりに動的な瞑想の技法を勧めるのはそのためだ。
ごくまれに坐禅やヴィパッサナをするよう勧めることがあるが、それはその人
のアニムスが流れているのがわかるときだけだ。
今や彼らはアニマを使うことができる。
ヴィパッサナや坐禅はアニマの技法、女性的な技法だ。
スーフィ・ダンス、ダイナミック瞑想、ナタラジはアニムスの技法だ。
まず最初は川にならなければいけない。
そうしてはじめて岸辺を支えとして使うことができる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

178避難民のマジレスさん:2018/12/30(日) 13:39:23 ID:LC3de7YgO
>>177
> 成長するためには、あなたの内にあるよどみの原理が溶け去る必要がある。
> だが、川はまた両岸の力も借りなければならない
> もし両岸がなかったら、川はけっして大海にたどり着けない。
>水が凍っていたら、川はけっして大海にたどり着けない。
> だから川は溶けて水にならなければならないが、 それでも動かない岸辺の力を
借りなければならない。
>あなたのアニムスをアニマの支配から解き放つこと。
ひとたびアニムスがアニマの支配から解き放たれたなら、私たちはアニマをも
使うことができる。

↑これは、「巡らす」の部分の前ふり説明でありますね。
はてさて、肝心要の「光」の話に突入であります。
(´・(∀)・`)つ

179避難民のマジレスさん:2018/12/30(日) 14:06:52 ID:LC3de7YgO
>>177
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第三話 アニムスとアニマ(つづき)
 より抜粋

光を巡らせることは、暗黒を収縮させ、魄アニマを制する力を獲得する秘術で
ある。
この技法に従うなら、種子の水はおのずから豊かになり、精神の火は燃えあが
り、思考の土は固まり結晶化するだろう。
このようにして聖なる果実は熟す。

聖なる果実は男性でもなく女性でもない。
聖なる果実は<全体なるもの>とし
てのみ熟す。
アニマとアニムスが鳥の二つの翼のように互いを支え合うとき、エロスが解き
放たれ、ロゴスが解き放たれ、直観が解き放たれる。
そうなったら、あなたは大空へと飛翔するようになり、同時に大地に根を下ろ
してもいる。
樹は空高くそびえるために、大地に深く根を張らなければならない。
大地はアニマで、空はアニムスだ。
空に向かって高く伸びれば伸びるほど、それと同じだけ深く大地に根を張って
ゆかなければならない。

魂アニムスは天上のこころハート---第三の目のなか---に住む。
それは光の性質を有している。
それは軽く、清らかなものの力である。
それは我々が大いなる虚空---大いなる空ソラ---から得てきたものであり、原初
の始まりと同じ形をしている。

魄アニマは暗黒の本性を有している。
女性が神秘的なのはそのためだ。

その神秘のベールを剥はぐことができた男性はいない。
その両方の性を超えたとき、ひとりの覚者ブッダになったとき、はじめて人は
男女両性の神秘を知ることができる。
そうならずして女性の深みを推し量りえた男はいない。
女性は神秘的で、暗く、闇夜のままであり続けている。
はっきりとは見えない、せいぜい手探りすることしかできない。
女性を明晰な論理でとらえることはけっしてできない。
彼女はけっして論理には従わない。
彼女の道は曲がりくねっている。
彼女はプロセスをまったく経ずに、ただちに結論へと飛び移る。
男性は一歩一歩プロセスを踏みしめてゆく。
彼は着実に手順を踏んでゆく。
女性は直観的だという意味では詩人だ。
彼女は詩などつくらないかもしれない---彼女は一編の詩もつくらない詩人だ。
彼女にとっては生そのものが詩だ。
そしてその生は詩と同じように暗い。
神秘的で、漠然としていて、曖昧だ。
何ひとつ明晰ではない。
何ひとつ明晰ではありえない。
女性の神秘を剥ぎとることはできない。
彼女はいつも疑問符のままだ。
男は光のように明晰だ。
男が浅薄に見え、女が深遠に見えるのはそのためだ。
男がまったく表面的に見えるのはそのためだ。
男のことなら何でも知ることができる。
どんな男かわかれば、彼の未来を予測す
ることができる。
だが、女性の未来はけっして予測できない。
彼女はどこまでいっても 予測しえず、それゆえに暗闇のように見える。
これらはみな隠喩だ。
それは重く、濁ったものの力である。
そして女、女性的な原理は、あなたを大地につなぎとめておく。
それは重力だ。
それは物質的な肉体の心臓ハートに縛りつけられている。
魂アニムスは生を愛し、 魄アニマは死を探し求める。
女性は生よりも死に似ている。
気分を害さないように。
これはただの形容にすぎない。
もし「アニマ」や「アニムス」、「男」や「女」という言葉に引っかかるなら
、それを「X」と「Y」に置き換えればいい。
だが、『黄金の華の秘密』がやっているのはまさにそれだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

180避難民のマジレスさん:2018/12/30(日) 14:16:34 ID:LC3de7YgO
>>179
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第三話 アニムスとアニマ(つづき)
 より抜粋


これらは譬たとえにすぎない。それらを人間の姿になぞらえることで理解を助
けているにちがいない。
男は生に関心を寄せ、女は安定に関心を寄せる。
男は愛に関心を寄せ、女は身の安全に関心を寄せる。
男は冒険に関心を寄せ、女は快適さ、便利さに関心を寄せる。
女性は死だ。
「死」という言葉には何の非難もこめられていない。
死の特質は安定していることにあるというだけの話だ。
人は死んでようやく安定する。
消えてようやく人は安定する。
そうなったら、あなたの身には二度と何も起こらなくなる。
だが男は探し求め、探求し、危険を冒したい。
だからこそ夫は別の女性を探し続け、妻は夫を見張り続けることになる。
どうして夫がいまだに別の女性に興味をもち続けるのか妻にはわからない---
「私がここにいるのよ!」。
だが、男性原理はいつも新しいもの、刺激を与えてくれるもの、胸をときめか
す新しい快感に興味をそそられてゆく。
ときには美人の妻をもちながら、さえない女性と遊びはじめる男もいる。
誰が見ても腑に落ちない---どうなっているのだろう?
「あんなにすてきな女性がいるのに、君は何をしているんだい?」
だが、あなたは男性原理というものを理解していない。
男性原理は基本的に一夫多妻制であり、女性原理は一夫一婦制だ。
彼女は愛よりも結婚に興味がある。
彼女はただ結婚するために恋に興味をもつ。
そして男はただ恋に興味をもつがゆえに結婚する。
「男がみんな結婚せず、女がみんな結婚していたら、世界はこのうえもなく喜
びに満ちていただろう」という古い諺ことわざがある。
だが、それをどうやって実現するのだろう?そんなことは不可能だ。

魂アニムスは生を愛し、魄アニマは死を探し求める。
すべての感覚的欲望と怒りの衝動は魄アニマの作用である。
だが、学人が暗い魄アニマを完全に蒸留してしまえば、それは純粋な光に変容
する。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

181避難民のマジレスさん:2018/12/30(日) 14:21:06 ID:LC3de7YgO
>>180
うむ。
流石のくまも気付いたのである。
OSHOは、この第三話で「光」の話はしないつもりなのである。
うむ。
OSHOはお話の天才である。
後、ちょぴっとで第三話は終わるので、載せてしまうのである。
(´・(ェ)・`)つ

182避難民のマジレスさん:2018/12/30(日) 14:31:51 ID:LC3de7YgO
>>180
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第三話 アニムスとアニマ(つづき)
 より抜粋

煉丹術は、男女それぞれの内にあるこの二つの原理を理解し、内側の暗い側面
であるアニマを明るいものへと変容させることにある。
暗い部分が動くのを助け、それが明るい部分に手を貸し、それと闘わないよう
にさせることにある。
アニマがアニムスに手を貸すことができるなら、それが真の結婚、内なる結婚
だ。
そうなったら、あなたはまとまりはじめる。
あなたの光はもはや浅薄ではなく、暗闇の深さをそなえるようになる。
あなたの暗闇はもはや暗くなく、軽やかな光をおびるようになる。
アニマとアニムスは互いに溶け合う。
そしてそれらが完全に溶けると、世界は消え失せ、あなたは再びひとつになっ
ている。
ひとつになることが神を知ることだ。
二つのままでいることは世間にとどまることだ。
そして、その秘法、その実験はあなたの内側で起こらなければならない。
それは外の世界とはいっさい関係がない。
あなたの内側では、この二つの原理が絶えず争っている。
それらを「生/死」「明/暗」「男/女」「X/Y」―何と呼んでもいいが、この二つ
の原理がそこにあって、絶えず争っている。
それがあなたの苦悶であり、あなたの惨めさであり、あなたの地獄だ。
この二つの原理を和解させなさい。
あなたのエネルギーをそれらのなかで巡らせて、互いに反発させるのではなく
、互いに近付けさせなさい。
男と女のあいだに内なるオルガスムを、内なる交合を起こさせなさい。
それこそがタントラで「ユガナッダ」―内なる男と女の出会い―と呼ばれてい
るものだ。
それが真のタントラだ。
外側での男と女の出会いは序曲にすぎない。
スッダがタントラ・グループをリードしている。
それは序曲にすぎない。
真のタントラはまだはじまっていない。
彼女はまさにあなたがたの下地を整えている。
私が今やあなたがたは内側に入って、そこで内なる男女と出会う用意が整って
いると見なしたら、まもなく真のタントラ・グループが始まる。
外界への関心がもはやあなたを外につなぎとめておくほど強くなく、もはやあ
なたをそれほど縛りつけていず、鎖が切れていると見なしたら、そのときには
真のタントラ・グループがはじまる。
私は新しいコミューンが誕生するのを待っている。
なぜなら、新しいタントラ・グループにはまったく異なる風土、まったく異な
る環境が必要になるからだ。
これは人間が体験しうる最大の実験だ。そしてこの実験は、あなたの内に宇宙
的なエクスタシー、完全なオルガズムを解き放つだろう。
(´・(ェ)・`)
(おわり)

183鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2018/12/31(月) 00:21:51 ID:1d4drIFg0
アニマとかアニムスとは陰陽の気なのじゃ。
光を巡らして行けば陽気が集まり強化されるのじゃ。
それによって陰気もコントロールできるようになるのじゃ。
陰陽両方が合致して大極になるのじゃ。
その象徴が大極のマークなのじゃ。

184避難民のマジレスさん:2018/12/31(月) 14:35:02 ID:LC3de7YgO
>>182
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第四話 光を輪のように巡らせる
 より抜粋

 呂祖師は言った。
 光を輪のように巡らせると、天と地、光と闇のエネルギーはことごとく結晶
化する 。
この秘術を行ないはじめると、まるで生ける存在の只なかに無があるように 感
じられる。
やがて修行の成果が現れてくると、肉体の外に肉体があり、あたかも 無の只な
かに生ける存在があるかのように感じられる。
百日のあいだ懸命に努力を続けると、ようやく火が発するようになる。
そうしてはじめてそれは精神の火となる。
さらに百日行ずれば、光の中に真の光の極がおのずと現れてきて、 突然、真珠
の種が生まれる。
それはあたかも男女が交わって受胎が行なわれるようなものである。
このときには静かな状態で待たなければならない。
 根源的な変容の只なかにあっては、光の放射が決定的な働きをする。
それは物質界においては太陽であり、人間においては目である。
このエネルギーは外界に向けられる(下に流れる)。
それゆえに黄金の華の道はひとえに逆流の技法にかかっている。

 光が巡るのはたんなる空想ではない。
 思考を集中させることで、人は飛翔することができる。
欲望を集中させることで、人は堕ちる。
学人がみずからの思考に少しも注意を払わず、欲望にかまけるならば、 下方へ
向かう道に沈み込む。
黙想と静けさによってのみ、真の直観が湧き起こってくる。
このために逆流の技法が必要となる。
ある偉大な師マスターが「仏ブッダとはどのようなものですか?」と尋ねられ
た。
「心が仏だ」と師は答えた。
何年かが過ぎて、再び同じ弟子が同じ質問をした。
師は「仏もなく、心もない」と答えた。
「ではなぜ前には『心が仏だ』とおっしゃったのですか?」
「赤ん坊を泣き止ませるためだ!赤ん坊が泣き止んでしまえば、『心もなく、
仏もない』と言う」
哲学は玩具おもちゃ、赤ん坊を泣き止ませるための玩具だ。
神学もまたそうだ。
宗教というのは、本当は体験、実地の体験から成り立っている。
それは憶測とはいっさい関係がない。
宗教は本質的に内界の科学であり、他のすべての科学と同じくらい科学的だ。

宗教と科学の違いは方法の違いではなく、たんなる対象の違いにすぎない。
科学は、私たちのエネルギーが流れ、私たちの光が流れている客観的な世界を
見つめる。
宗教は、光を流すことができるが、今はまだ流れていない私たちの主観的な世
界を探求する。
科学のほうが宗教よりやさしいのはそのためだ。
宗教のほうが科学よりも単純であるとけっして考えてはならない。
それはより高度な科学だ。
どうして科学よりも単純でありえよう。
それはより優れた科学だ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

185避難民のマジレスさん:2018/12/31(月) 18:47:22 ID:LC3de7YgO
>>184
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第四話 光を輪のように巡らせる(つづき)
 より抜粋

まず光が内側に向かって流れなければならない。
そうすれば光があなたの実存を照らし、あなたの実存が開示されて、あなたは
みずからの実存のなかへ入ってゆける。
そしてみずからの実存に入ってゆくことは、神の王国に入ってゆくことだ。
そこにはあなたは存在せず、神が存在している。
あなたは影としてしか存在しない。
光が外に向かって流れると、あなたが存在するが、影としてでしかない。
あなたが存在するのは、真の自己に気付かないままでいるからだ。
真の自己とは至高の自己だ。
真の自己とは宇宙的な自己だ。
それはあなたとはいっさい関係がない。
それはあらゆるものの自己だ。
だが、それを得るためには、大いなる変容が起こらなければならない。
自然は人間が外に向かって流れるように準備した。
自然の役割はそれで終わった。
人間において、自然はその頂点に達した。
もはや人間が自然を超えてゆこうと決断しないかぎり、そのままでは何ひとつ
起こらない。
自然は人間がみずからの足で立てる地点まで人を運んできた。
人間はもはや子供ではない。人間は大人になった。
もはや自然は親の役割を終えた。
もうその必要はない。
自然な進化は人間で止まった。
これは事実だ。
科学者たちでさえこの事実にますます気付きつつある。
何千年ものあいだ、人間には何も起こらなかった。
人間は変わらなかった。
まるで自然の仕事が終わってしまったかのようだ。
今や人間は、さらなる成長の道をみずからの手に引き受けなければならない。
宗教とはまさにそれだ。
宗教とは、人がみずからの足で立ち、みずからの存在に責任をもつようになり
、事態がどうなっているか、自分が誰であるかを見つめ、探求し、探索しはじ
めることをいう。
そして、それはたんなる好奇心であってはならない。
哲学は好奇心から生まれる。
宗教はきわめて誠実で、真正な探求だ。
それは問いかけだ。
そして好奇心と問いかけには大きな違いがある。
好奇心は幼稚なものであり、頭のささいな か ゆ み にすぎない。
かいてしまえば、満足して終わりになる。
哲学とはかゆいところをかくことだ。
宗教は生死しょうじの問題だ。
哲学では、人はけっして巻き込まれることがなく、超然としている。
おもちゃで遊んでいるだけで、生死の問題ではない。
知識をかき集めるが、けっしてそれを実行には移さない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

186鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/01(火) 00:06:24 ID:1d4drIFg0
気を巡らしていればいずれ光が見えるようになるというのじゃ。
百日では無理かもしれんがのう。
人によって進歩の速さは違うからなのじゃ。
光の結晶を丹というのじゃ。
体の内側に見える光を内丹というのじゃ。

187避難民のマジレスさん:2019/01/01(火) 00:44:43 ID:LC3de7YgO
>>186
くま、光や熱が見えたり、感じたりしてた時も、瞑想修行のおまけのような感じでそうなり、又、それによって修行が捗った感もなかったのであります。
ここで、光を巡らす技法読みすすめるに従い、なんかもったいないことをしたように思えてきたであります。

鬼和尚にも当時、その熱感を頭頂部から抜くようにイメージすれば、サマディ-に至れるとアドバイスをもらい、何度かチャレンジしたのでありますが、できなくて、やめてしまったのでありました。
残念なくまであります。
(´・(ェ)・`)つ

188避難民のマジレスさん:2019/01/01(火) 01:15:29 ID:LC3de7YgO
>>185
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第四話 光を輪のように巡らせる(つづき)
 より抜粋

聞いた話だが―昔あるところに優れた儒学者が住んでいた。
彼は八十歳に近い紳士であり、 その博学な知識と理解において、彼の右に出る
者はないと言われていた。
ところが彼の有する知識よりももっと深い、新しい教義が遠くで生まれた とい
う噂が広まった。
老齢の紳士はそれを黙認できなくなり 、この問題に黒か白か決着をつけなけれ
ばならないと思った。
老齢にもかかわらず、彼は長旅に出かけた。
数ヶ月もの厳しい 旅路を終えて目的地に着くと、彼は自己紹介をして来意を告げ
た。
主人は新しい禅の流派に属する師だったが、ただ次のような句 を引用した。
「悪しき行いを避け、あたうるかぎりの善を行なう。
これがあらゆる覚者ブッダたちの教えだ」
これを聞いた儒学者の老紳士はかっとなった。
「老齢の身に鞭を打ち、 生命の危険を冒してまで長く険しい旅をしてきたのに
、三歳の子供でも そらんじるようなささいな句を引用するだけとは!私を馬鹿
にしているのか?」
だが禅師は応えた。
「貴方を馬鹿にしているわけではありません。 確かに三歳の子供ですらこの句
を知っていますが、八十歳の老人でさ
え それを実行できないことに思いを
致してください!」
宗教が問題にするのは知ることではなく、それを生きることだ。
宗教とは生であり、それを生きないかぎり、 それが何であるのか何ひとつ知る
ことはできない。
そして宗教を生きるためには、哲学をすべて落とし、 実際に試してみることを
はじめなければならない。
人は実験室にならなければいけない。
科学者の実験室は外界にあるが、宗教的な人の実験室は その人自身の存在―そ
の人自身の肉体、その人の魂、その人の心だ。
科学者は実験の対象となる事物に精神を集中しなければならない。
科学者は目を開けて仕事をしなければならない。
宗教の仕事は目を閉じて行なわなければならない。
自分自身に精神を集中しなければならない。
(p121)
そしてそれは一筋縄ではゆかない。
というのも、宗教の世界では 実験する者と実験の対象が同じだからだ。
それゆえにそれは入り組んでいて、風変わりで、解釈しがたく、非論理的なも
のになる。
宗教の世界では知る者と知られるものは同じだ。
科学の世界では知る者は分離している。 知られるものは分離している。
ものごとは明確に分けられており、境界が定められている。
だが、宗教ではあらゆるものが融合し、互いに溶け合っている ―知る者ですら
分離したままではいられない。
宗教は知る者から 遊離した知識など与えない、知る者から遊離した体験など与
えない。
それが与えるのは知る者の本質エッセンスそのものだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

189避難民のマジレスさん:2019/01/01(火) 09:01:21 ID:LC3de7YgO
>>188
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第四話 光を輪のように巡らせる(つづき)
 より抜粋

宗教的な探求者であるためには、いっさいの哲学 を落とさなければならない。
先験的アプリオリな 知識をすべて落とさなければならない。
なぜなら、先験的な知識はすべて障害になるからだ。
それは問うことを妨げる。
問いかけは不誠実なものになる― その最初の一歩から問いかけは曇らされて
しまう。
すでに結論を出していながら、 どうして問いかけることができるだろう?
キリスト教徒でありながら宗教的であることはできない。 あるいはヒンドゥー
教徒でありながら宗教的であることはできない。
ヒンドゥー教徒でありながら、どうして 宗教的でいることができるだろう?
ヒンドゥー教徒である ということは、すでに結論を出していて、何が真理か 決
めてしまっているということだ。
そうだとすれば問いかけてみても仕方がない。
何を問いかけるというのだろう?
あなたがやるのは、すでに結論付けていることがらの裏付け、論証を探し出す
ことでしかない。
だが、その結論は間違っているかもしれない ―わかりはしない。
その結論はあなたのものではなく 、社会から渡されたものだからだ。
社会はしきりにあなたに結論を与えようとする。
あなたが自分で結論に到れるよう意識を与えようとはしない 。
あなたが意識的になる前に、少しでも問いかけがはじまる 前に、社会はありと
あらゆる結論を詰め込んで、 何がなんでもその問いかけを阻もうとする。
なぜなら、その問いかけは社会にとって危険だからだ。
問いかけない人間は扱いやすい。
問いかけない人間 は従順だ。
すなおに命令や指令を受け取り、それに従う。
彼は法を尊重し、因習を守る。
ひとたび誰かの心にわずかでも信仰を吹き込めば、薬物を 飲ませたことになる。
信仰は麻薬だ。彼はいったん信じ込む と、どこまでもしゃにむに信じてゆく。
やがて徐々に、彼は その信仰が自分自身の体験であると思い込むようになってゆ
く。
信仰というのは催眠のシステムだ。
あなたは子供に 「おまえはヒンドゥー教徒だ。おまえはヒンドゥー教徒だ」 と
どんどん暗示をかけてゆく。
子供を寺に連れてゆき、宗教的な、 いわゆる宗教的な儀礼、儀式を体験させる。
やがて子供は条件付けられ、自分はヒンドゥー教徒であり、ヒンドゥー教はす
べて正しく、 それ以外の宗教はすべて間違っていると思い込むようになる。
そして、同じことがあらゆる社会で行なわれている。
あなたがたは子供たちに麻薬を与えてきた。
子供の意識のまさに源が毒されてきた。
そしてもし何かを信じたら、それは真実のように見えてくる。
もし何かを信じはじめたら、その裏付けとなるもの、それを 助ける証拠となる
ものが続々と見つかるようになる。
あなたの自我エゴがからんでくる。
真実かどうかだけでなく、奥深くで問題になっているのは 「どちらが正しいの
だろう?私だろうか君だろうか? 私が間違っているはずがない―私が正しいに
ちがいない」 ということだ。
だからあなたは自分を支えてくれるものばかりを選び取る。
そして生はひじょうに複雑であり、そこではありとあらゆる ものを見つけるこ
とができる―あなたが選び取り、決定した ものは何でも見つかる。
あなたが悲観主義者であれば、その悲観主義 を裏付けるありとあらゆる論拠が
生のなかに見つかる。
あなたが楽観主義者であれば、ありとあらゆる論拠 を手にすることができる。
生は二元的であり、生は逆説に満ちており、生は多次元的だ。
この世にこれほど多くの哲学、主義、神学が存在するのはそのためだ。
そしてどの神学も独自の結論の殻に閉じこもり、自分が一番正しいと信じている。
(p123)
(´・(ェ)・`)
(つづく)

190鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/01(火) 23:03:05 ID:1d4drIFg0
>>187 おしいことじゃ。
 百日は続けたらよいのじゃ。
 頭の真ん中よりも後頭部に近いほうに集中すると善いのじゃ。
 実践が大事なのじゃ。

191避難民のマジレスさん:2019/01/01(火) 23:52:18 ID:LC3de7YgO
>>190
うむ。
残念なくまであります。
寒いときの方が、熱は感じやすいので、正月休み中ちょぴっとやってみてるのであります。以前ほどケッカフザも深く組めなくなってるでありますが、やってみるであります。
(´・(ェ)・`)つ

192避難民のマジレスさん:2019/01/02(水) 00:00:12 ID:LC3de7YgO
>>189
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第四話 光を輪のように巡らせる(つづき)
 より抜粋

ようやく現代において信奉者たちは少しとまどうようになった。
これは大いなる祝福だ。
なぜなら、彼らは他の信奉者たちの存在にも 気付きはじめたからだ。
今やヒンドゥー教徒はそれほど得意になり、 自己満足してはいられない。
キリスト教徒の存在を知っているからだ。
そしてキリスト教徒も、自分たちだけが真理の版権を手にしていると 信じ続け
ることはできない。
イスラム教徒もいるし、道教徒もいるし、仏教徒もいるということを知ってい
るからだ。
そして誰も当てにならない。
現代はひじょうに混乱している―かつてなかったほど混乱している。
だが、覚えておきなさい。 この混乱は大いなる祝福だ。何かが途上にある。
何かとほうもなく重要なことが起ころうとしている。
この精神の混沌カオスは新しい夜明けのはじまりだ。
将来には、人々はイスラム教徒にも、ヒンドゥー教徒にも、 仏教徒にもならな
いだろう。
人々は問いかける者たちとなる。
信仰はなくなり、信仰の闇は姿を消しつつある。
これからは誰も信仰をもたなくなってゆく。
人々は問いかけ、見いだしたときに信頼するだろう。
信仰は借り物であり、信頼はその人自身の体験だ。
私がここであなたがたに教えているのは、この先、ますます興隆 してくる宗教
だ。
私は現在のあなたがたに未来をもち込んでいる。
私はあなたがたが純一な探求者になるようにしむけている― いかなる信仰体系
ももたず、何の結論も抱かずに、 みずから進んで実験を行なってゆき、それが
何であろうと 真実に心を開いて、それを受け容れてゆく用意のある探索者、 ひ
たすら真実を受け容れてゆく用意のある者たちに。
信仰をもつ者は閉じている。
彼の窓や扉は閉じている。
彼は一種の 牢獄に住んでいる。
彼は一種の牢獄のなかで暮らさなければならない。
窓や扉を開けたら、太陽が差し込み、雨風が吹き込んできて、 信仰体系がかき
乱されてしまう恐れがあるからだ。
あらゆる方角 から真実が入ってきたら、自分の信仰を守ることなどできなくなる

彼は真実から身を隠さなければならない。
何にもかき乱されないように 、かき乱されはしないのだと信じ込めるように、
窓のない閉ざされた 世界で生きなければならない。
これは社会にとっては好都合だが、 個人の健やかさのためにはきわめて危険だ。
社会はあなたに遊び道具を与え続けている。
子供に玩具おもちゃを与えれば、子供は遊びに夢中になって、邪魔にならなくな
る。
親はほっとする。父親は新聞を読むことができるし、母親は台所 で仕事をする
ことができる。
子供は玩具に夢中になっている。
インドの村では、これがよく行なわれている。
野良仕事に行く 貧しい女性は、一緒に小さな子供を連れてゆかなければならない。
充分大きくなっていれば、子供は独りで遊べるが、まだごく幼いうち は独りで
は遊べない。そういう子供に母親は始終気を取られてしまう。
子供は泣きだす―腹を減らしたり、おもらしをしたり、風邪を引いたりして い
るのかもしれない。
母親は絶えず世話をしに来なければならなくなる。
それでは仕事の邪魔になるし、親方も許してくれない。
そこで子供 に少量の阿片を与えることがよく行なわれてきた。そうすれば、子
供は阿片がもたらす心地よいまどろみのなかで美しい夢を 見ながらぐっすり眠
り、母親は気を取られずに仕事を続けられる。
これは仕事にとっても、母親にとっても、地主にとっても好都合だ。
が、子供の健康にとっては有害かつ危険このうえない。
子供の将来 まで損なわれてしまう。
だが、そういうことがずっと行なわれてきた。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

193避難民のマジレスさん:2019/01/02(水) 10:03:16 ID:LC3de7YgO
>>192
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第四話 光を輪のように巡らせる(つづき)
 より抜粋

実験をしなくてもすむように、問いかけに気をそらされなくても すむように、
社会は信仰を与える。
なぜなら、探索には多大な エネルギーが費やされるため、有能な事務員、有能
な駅長、 有能な車掌、有能な警察官になることはできないからだ。
人は探索に心を奪われ、内なるものへの関心が高まり、 外側の世界への興味は
消え失せてゆく。
社会はあなたが外交的な生き方をすることを望んでいる―生産 されたものが善
いものであるか悪いものであるかは問われない。
爆弾をつくっている会社で働いていても、有能であり、生産性を あげなければ
ならない。
軍隊で働いていても、有能であり、 つねに従順でなければならない。
どこで働いていても、その仕事の善悪は取りざたされない。
社会が 決定したことにはすべて従い、きちんと列に並ばなければならない。
問いかける人になれば、危険が生じてくる。
その人はどんどん内向的になってゆくからだ。
優先すべきものが変わり、価値観が違ってくる。
金のことはあまり気にしなくなるかもしれない。
権力のことはあまり気にしなくなるかもしれない。
野心がなくなるかもしれない。
もはや所有欲がなくなるかもしれない。
財産への関心が消えてしまうかもしれない。
内なる豊かさ、内なる神の王国を探し求めるようになるだろう。
だが、そうなるとますます社会にとっては効率が悪くなってゆく。
そして社会には、こつ゛きまわされながら他人の仕事をするより も、自分の仕
事をしている内向的な人々の数がまさる世界― そのほうがよりよい社会になる
だろうが―を認めるだけの余裕がない。
それは人々がもっと瞑想的なよりよい世界であるはずだ。
そうなれば政治家たちも過去にもたらしたほどの害悪を引き起こせなくなるだ
ろう。
人々がもっと内向的になれば、戦争はひとりでに消え失せるだろう。
そうなったら戦うことに誰が関心を払うだろう?
人を殺したり、人の生命を奪ったりすることに誰が関心を払うだろう?
だが、暴力は美しく見えるように粉飾されている―国家の名のもとに殺せ、 イ
スラム教の名のもとに殺せ、キリスト教の名のもとに殺せというわけだ。
そうなると殺人は美化される。キリスト教のためであろうが、教会 のためであ
ろうが、国家のためであろうが、民族のためであろうが、 殺人に変わりはない

それらは人を殺すための口実、破壊行為を行なうための口実、 狂気に走るため
の口実にすぎない。
十年ごとに世界規模の大戦が勃発している。
それは十年ごとに人々の存在 のなかに大量の膿うみがたまり、それが噴き出さ
ざるをえなくなるからだ。
人々はみずからの存在に大量の毒をため込んでいるため、もう抑えておけなく
なる。
狂気が、地球規模の狂気が炸裂する。
人々がもっと内向的になれば、 戦争はなくなり、政治の争いは姿を消すだろう

もっと内向的になれば、言うまでもなく、 人々はあまり効率よく働けなくなる
だろう。
その必要はない。人々はもっと幸せになるだろう。
おそらく四六時中ものごとに忙殺され、狂ったように振りまわされたりせずに、
もっと幸せで、もっと喜びに満ち、 もっと祝うようになることだろう。
必要なものは充分に生み出すが、 不要なものには関心をもたなくなるだろう。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

194鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/02(水) 22:59:53 ID:1d4drIFg0
>>191 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 特にけっかふざでなくてもよいのじゃ。
 胡坐でも姿勢が正しければよいのじゃ。
 自分がやり易いように座ると善いのじゃ。

195避難民のマジレスさん:2019/01/02(水) 23:57:49 ID:LC3de7YgO
>>193
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第四話 光を輪のように巡らせる(つづき)
 より抜粋

だが、私たちは不要なもの、まったく必要ではないものに過剰な関心を寄せてい
る。
そんなものはなくてもやってゆける のに、なしで済ますことができない。
私たちは突進し、走り続けるように訓練されてしまっているからだ。
私たちは他のありようを知らない。
(p127)
社会はあなたに信仰という毒を盛って、最初の第一歩からあなたの探求の息の
根を止めてしまう。
宗教とはあなたの探求をもう一度よみがえらせることだ。
宗教とはあなたを本来の源泉へと連れもどすことをいう。
そして、それは好奇心ではなく、とても誠実な探求であることを覚えておきなさ
い。
自分を知らずに生きてゆくなど死んでいるのも同然だ。
自分が誰であるかを知らずして、どうして本当に生きてゆけるだろう?
自分自身を知らずして、生にどんな意味があるというのだろう?
自分が誰であるかを知らずして、自分をどう扱うというのだろう?
自分の天命が何であるかをどのようにして見極めるのか?
そう、騒音ばかりで、音楽というものがない。
計算ばかりで、祝祭というものがない。
あちこちへあわただしく駆けまわっているが、どこにも行き着きはしない。
生まれてから死ぬまで一種絶えざる緊張のなかを生きてゆくが、 生と<存在>
の美、祝福を知ることはない。
もっとも身近にあって知るべきもの、最初に知るべきものである、 みずからの
内なる実存の美と祝福にすら気付いていないのだから。
生に向かう最初の一歩は自己を知ることだ。
それはたんなる好奇心ではありえない。
好奇心から探求する人はたくさんいる。
だが、 好奇心が生を変容させることはけっしてありえない。
それはやはり か ゆ み に過ぎず、 たやすく満足させることができるものだ。

昔あるところに宿屋の主人がいたが、おかしなことに、どうしても帳尻を 合わ
せることができなかった。
どんなに努力してもうまくゆかなかった。
経営方針をすっかり改めようとしたが、それもうまくゆかなかった。
そこで気落ちした彼は、ある賢明な女性に相談した。
「とても簡単なことよ」と、謝礼を受け取りながら彼女は言った。
「宿の名前を変えるといいわ」
「でもずっと『黄金のライオン』でやってきたのですよ」と彼は応えた。
「名前を変えてごらんなさい」と彼女は言った。
「『八つの鈴』がいいわね。そして看板には鈴を七個並べておくの」
「それじゃ辻褄が合いませんよ。そんなことをして何になるんです?」
「家に帰って、やってごらんなさい」と賢い女性は言った。
そこで彼は家にもどり、言われた通りにやってみた。
すると、ただちに通りがかりの旅人たちがみな足を止め、鈴の数を数えると 、
続々と宿屋に飛び込んできて、その誤りを指摘した。
誰もがその誤りに 気付いたのは自分だけだぞといった顔つきで、そのことを肴
さかなにして 一杯ひっかけたがっていた。
宿屋はどんどん繁盛してゆき、主人は財を築いた。
これが人々のありようだ。 宿屋の名前は『八つの鈴』だが、看板には七つし
かない。
人々に好奇心を起こさせ、彼らの心をつかんでしまうには充分だ。
だが、この種の好奇心はどこにも行き着かない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

196避難民のマジレスさん:2019/01/03(木) 13:35:43 ID:LC3de7YgO
>>195
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第四話 光を輪のように巡らせる(つづき)
 より抜粋

人々は神について尋ね、真理について尋ねるが、 彼らの目を見れば、その尋ね
方を見れば、本気でないことがわかる。
天気の話でもするように、人々は神についても話す。
それはうわべを取り繕うための会話だ。
誰も本気で取り組んでいないようだし、誰も情熱的に探求してはいないようだ

だが、探求に大いなる情熱をかけ、 全身全霊をあげて、完全にその身を投入
しないかぎり、 みずからの実存の秘密を知ることはできない。
なぜなら、多くの仕事をしなければならないからだ。
好奇心にかられた人間は、それだけの仕事をこなすことができない。
好奇心にはあなたを遠くに連れてゆくだけの力がない。
そのエネルギーはひじょうに小さく、ちっぽけなものだ。
知りたいという心からの情熱があってはじめて、 必要とされる困難すべてを乗
り越えてゆくことができる。
それは骨の折れる仕事だ。
(p129)
だから、『黄金の華の秘密』に関してまず第一に 理解すべきことはこれだ―哲
学的にならないこと、 社会に毒を盛られないようにすること、 信じることもせ
ず、不信感も抱かないこと。
いいかね、「信じるな」と言うとき、そのつど 私は不信感を抱けと言っている
のではない。
不信感というのは別種の、否定的な形の信念だ。
「信じるな」というとき、私は信も不信も一緒に落とさなければならないと言
っている。
あなたは何の結論も抱かず、ただ 開いていなければならない。
あなたは知識で無知を隠さずに、ただ 自分が無知であることに 気付いていな
ければならない。
あなたは無垢に、純真な無知 にならなければいけない。
あなたは「私は知らない」 と言わなければならない。
正しい取り組み方は、すべて この「私は知らない」からはじまる。
知りもしないのにすでに何かを知っている気でいるなら 、知識で一杯になって
いるなら、その信念そのものが妨げ となり、その信念そのものが真実ではない
体験を引き起こす。
信念に毒を盛られると― 信念はLSDやマリファナやハッシッシに似ている。
信念に毒を飲まされると、それを投影した世界が つくられてゆき、あなたの空
想力は歯止めが利かなくなる。
空想力が翼を広げはじめると、あなたは現実との接触を失い、遊離した私的な
世界をつくりあげてしまう。
あなたは愚か者になる。
これが「愚か者」という言葉の意味だ。
私的な世界に住み、自分だけの現実をもち、 本当に実在するものから完全にか
け離れ、 自分の空想がリアルになるあまり、その視野から現実がすっかり消え
失せてしまった者。
LSDやマリファナや他の薬物ドラッグを飲むときに起こることはそれだ。
薬物はあなたのなかに色彩豊かな小さな空想の世界をつくりだす― 少なくとも
薬物に溺れているときには色彩にあふれている。
そして薬物の影響下にあるときには、体験するものすべてが究極の真理に見える

毎日、誰かが私のところに来て言う。
「世界がこんなにも美しいことに気付いたのは薬物ドラッグのおかげです」
あなたが気付いたのは夢の世界にすぎない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

197鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/03(木) 22:42:27 ID:1d4drIFg0
全ての探求は自分自身が何の先入観もない状態で始めなければならないのじゃ。
先入観があればそれに引きずられて結果も正しくないものになってしまうのじゃ。
未知の大陸を行く探険家のように何も知らないところから始めるべきなのじゃ。
そうすれば心の中にも新しい変容となる気付きを得ることが出来るのじゃ。

198避難民のマジレスさん:2019/01/04(金) 01:02:23 ID:LC3de7YgO
>>196
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第四話 光を輪のように巡らせる(つづき)
 より抜粋

薬物はあなたの批判力を取り去るだけだ。
薬物はあなたの理性を麻痺させるだけだ。
そうなると夢の世界がそのすべての窓を開き、止めどなく あらゆる方角に流れ
出してゆく。
批判力が働かなくなると ・・・理性が働きを停止し、空想力が全開になり、歯
止めがまったく きかなくなると、あたかもそれが究極の真理であるかのような
感じがしてくる。
が、そうではない。
それは真理とは何の関係もない。
真理は化学的な薬物だけではなく、宗教的な薬物の影響すらまったく 受けてい
ない者、微塵みじんも影響を受けていない者に対して のみ開かれる。
そういう者たちだけが真理を知る力を秘めている。
聞いた話だが・・・ 笑気ガスを吸った偉大な心理学者ウイリアム・ジェーム
ズは、究極の ”真理”に到達した。
彼は薬物ドラッグの実験を最初に行なった人々 のひとりだった。
当時は、薬物を常用している人々はいなかった。
彼は笑気ガスの影響を受けて、究極の真理に出くわしたと感じた。
彼は優れた心理学者であるとともに哲学者でもあったが、人がほとんど やらな
いようなことをやった。
ただちにその体験をノートに書き記したのだ。
彼には何かとほうもない価値のあることが自分の意識に起こったので、 ただち
にそれを書き記さなければならないと気付くだけの分別がまだ残されていた。
薬物による体験が終わってしまえば、それを忘れてしまう かもしれない。
そこで彼はその体験を書き記し、出くわした究極の真理が何であるのかを読む
ことができるように、薬物の影響が消える瞬間を待った。
彼は自分が仏陀やキリストのような人物になり神を見たとか、 あるいはウパニ
シャッドの賢者、老子、ツァラツストラ、マホメット たちが見たものを、それ
ほど重要なものを見たと考えた。
だが、正気に もどり、ノートを見て、彼はひじょうに戸惑い、驚いた。
ノートにはこのようなことが書かれていた。
ホガマス、ヒガマス、男は一夫多妻バリガマスである。
ヒガマス、ホガマス、女は一夫一婦モノガマスである。
これが彼の出くわした”究極の真理”とやらだった。
どんなに 馬鹿げたことでも、正気を失い、理性が働かず、批判力 が完全に眠り
こけているときには究極的なものに見える ―どんなに馬鹿げたことでもだ。
だが、その瞬間には、それは馬鹿げたものではない。
その瞬間には、それは究極の真理のように見える。
オルダス・ハックスレーは言っている。
はじめてLSDを飲んだとき、 彼はごくふつうの部屋に座っていた。
彼の前には何の変哲もない ふつうの椅子があった。
いったんLSDが体内で効きはじめ、化学組成に 影響を与えはじめると、椅子が目
を疑うほど美しく見えはじめてきた。
彼の生涯でものがそれほど美しく見えたのははじめてだった。
椅子 は輝いていた。
椅子から極彩色で、サイケデリックな光があらゆる方角に流れ出していた。
椅子は同じままであり、そのゲーム全体を つくりだしているのは空想力にすぎ
ない。
たんにLSDが狂気に駆り立てているだけだ。LSDが批判力の芽をすべて摘み取って
しまっている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

199避難民のマジレスさん:2019/01/04(金) 10:47:08 ID:LC3de7YgO
>>198
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第四話 光を輪のように巡らせる(つづき)
 より抜粋

(p132)
信仰にとって疑いは敵となるが、信頼にとって疑いは敵ではない 、と私が言う
のはそのためだ。
信頼は疑いを通して成長する。
信仰は疑いを抑圧することによって成長する。
信仰が一種の薬物ドラッグであるのはそのためだ。
薬物はまさにそのように働く。
それは、あなたが愚か者にならないように ひたすらあなたの意識を醒めさせ、
あなたが 空想の餌食とならないようにしている 疑う力を抑圧する。
宗教は昔からずっとそれをやり続けてきた。
それらは 「疑うな。疑えば、地獄に落ちるぞ。信じろ。疑いが起こったら、抑
え込め、そんなものは投げ捨ててしまえ。ひたすら信じ続けるんだ」 と言う。
「信じていれば、やがてわかる」と。
信頼というのは、まったく異なる現象だ。
それは 薬物に冒されていない意識、開かれた意識から生まれてくる。
信じることもせず、不信感も抱かず、信と不信にとらわれた結論を抱かない、
完全に自由で純真無垢な意識から。
疑いは役に立つ。
真理に到達するまで、疑いは役に立つ。 疑いは信頼の友だ。
疑うというまさにそのプロセスが空想の餌食にならないように 助けてくれる。
さもなければ、空想が好き放題に羽をのばす。
例えば、ヒンドゥー教徒に生まれ、クンダリーニについて読んだことがあれば
、あなたの空想がその体験をそっくりそのままつくりだしかねない 。
いつでも蛇はとぐろを解いて背骨の底から昇りだし、シューと 大きな音を立て
、第七のチャクラに向かって突進してゆくだろう。
そしてその体験があまりにリアルに見えるので、いったん それを信じてしまっ
たら疑うことなどできなくなる。
だがイエスはクンダリーニには遭遇しなかった。
マホメットは クンダリーニのことなど何も知らなかった。
仏陀でさえ、彼は ヒンドゥー教徒に生まれたが・・・仏陀は誠実な探求者であ
り、 あらゆる種類の信仰を落としたので、クンダリーニには一度も 遭遇しなか
った。
マハーヴィーラはクンダリーニのことなど何も 知らなかった。
ツァラツストラはそれについて語らなかった。
どういうことだろう?
彼らは取り逃がしたのだろうか?
クンダリーニは信仰だ。
七つのチャクラを信じていれば、 生涯のうちにその七つのチャクラが働きはじ
めるだろう。
何かを信じていれば、人はそれを見はじめる。
現代にクンダリーニ・エネルギーを紹介したゴーピ・クリシュナ は十三年間働
きかけ、座ってクンダリーニが昇るのを待ち続けた と言っている。
十三年は長い時間だ。
十三年間もクンダリーニを 信じて待ち、背骨の奥底深くをのぞき込み続けるこ
とができるなら、クンダリーニが昇ったとしても不思議ではない。
やがてある日、それは起こった。
蛇はとぐろを解き、猛烈なエネルギー と音―滝が落ちるような轟音をともなっ
て突進し、脳を貫いた。
それ以来 、ゴーピ・クリシュナは、天与の才能が解き放たれたと思い込んだ。
クンダリーニが昇ると人は天才になるのだと彼は考えている。
だが、彼の天与の才能が何をなし遂げたのか私にはわからない。
確かに彼は馬鹿げた、何の変哲もない、四流の詩をいくつか書いた。
それが天与の才能だとしたら、クンダリーニなど奥深くに押し込めて おく方が
ましだ。
誰もが四流の詩人になるというのは良いことだとは 思えない。
いったいどういう天分が解き放たれるというのだろう?
こういうやり方はよくない。
こんなものは空想にすぎない。
あるものを信じれば、あなたはそれを見るようになる。
危ないのはそこだ。
信じることからはじめてはいけない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

200鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/05(土) 00:48:49 ID:1d4drIFg0
クンダリニーも光を巡らすのも自分の本心の探求に使わなければ何の意味もないのじゃ。
気が頭に導かれれば多くの映像が見られるようになるのじゃ。
神仏を信じる者にはその姿も見えてしまうのじゃ。
それに囚われれば妄想を真実と思う行者病に陥るのじゃ。
気をコントロールすると共に心も整えなければならないのじゃ。
それが性命双修という道教の教えなのじゃ。

201避難民のマジレスさん:2019/01/05(土) 21:08:51 ID:LC3de7YgO
>>199

黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第四話 光を輪のように巡らせる(つづく)
 より抜粋

これがタオの視点だ―探求し、試みて、結論がひとりでに生まれてくるのを待
つのが。
(p134)
呂祖師は言った。
光を巡らせると、天と地、光と闇のエネルギーはことごとく結晶化する。
あなたの意識は外に向かって流れている―これは事実であり、信じる必要のな
いことだ。
対象となるものを見るとき、あなたの意識はその対象に向かって流れてゆく。
例えば、あなたは私を見ている。
あなたは自分を忘れ、私に焦点を合わせている。
あなたのエネルギーは私に向かって流れ、あなたの目は真っ直ぐに私に向けら
れている。
これは外向的なエネルギーの流れだ。
花を眺めて、それに魅せられるときには、花に焦点を合わせている。
あなたは自分をすっかり忘れ、花の美しさにひたすら注意を注いでいる。
私たちはこれを知っている―刻一刻とこれが起こっている。
美しい女性が通りかかると、突然あなたのエネルギーは彼女の後を追いはじめ
る。
私たちはこの外へと向かう光の流れを知っている。
これは物語の半分にすぎない。
だが、刻一刻と光は外へ流れ出し、あなたは背景に退いてゆき、二度ともどっ
てこない。
あなたの内側はどんどん空っぽになってゆき、うつろになってゆく。
あなたはブラック・ホールになってしまう。
これとまったく同じことが宇宙ではより大きな規模で起こって いる。
物理学者たちは今やブラック・ホールを発見した。
道家の人々はずっと昔にブラック・ホールを発見していたが、遥か彼方の宇宙
空間にあるブラック・ホールに関心が あったのではなかった。
彼らが関心を寄せたのは人間の内側 にあるブラック・ホールだった。
ブラック・ホールとは、あなたのエネルギーがすべて使い尽くされ、消耗して
いる状態・・・自分が空っぽになりながら、このエネルギーの源泉に滋養を与
えてゆく方法をまったく忘れている状態をいう。
科学者たちは、遅かれ早かれ、太陽はブラック・ホールになると言っている。
なぜなら、エネルギーが絶えず放射されているのに何も太陽にはもどってこな
いからだ。
それはこのうえもないエネルギーの源泉だ。
何百万年ものあいだ、太陽は太陽系に光を与え続けてきた。
何百万年ものあいだ、太陽エネルギーのおかげで樹々が育ち、 花が咲き、人間
が暮らし、動物が動きまわり、鳥たちが飛んで きた。
だが、太陽もだんだんと消耗してゆく。
それがゆっくりと進み、ある日、太陽は崩壊する。
エネルギーが涸れ果ててしまう。
突然、すべての光が消え失せ、その最後の光線がかき消えてゆく。
そうなったら、太陽はブラック・ホールになる。
人々の多くはそのようにして生きている。
この絶え間ない外向性ゆえに、彼らはブラック・ホールに なってしまう。
あなたの目はきょろきょろと動きまわる。
見 る 者 に一度もエネルギーを返すことなく、ものを見続けている。
昼間は世間を見て、夜には夢を見る。
とにかく、あなたは対象となるものに絶えず執着 し続けている。
これがエネルギーを消耗させる。
三十歳になる頃には、人はほとんどこと切れてしまい、 ブラック・ホールにな
っている。
人々は三十歳前後で死んで しまう。
埋葬されるのは七十歳前後になるだろうが―それは また別の話だ。
とにかく人は三十歳前後で死んでしまう。
思う に、「三十歳を超えた人間を信じるな」というヒッピーの考えには何らか
の真実がそなわっている。
そこには真理の種子がある。
三十歳を過ぎてもいきいきとしている人はなかなか見つからないからだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

202鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/06(日) 00:00:58 ID:1d4drIFg0
光を巡らせていると気はだんだんと固まってくるというのじゃ。
最初は気体のようであったのがだんだん液体のようになる。
次には固まって個体のようになるというのじゃ。
球が体の中を巡るようになるというのじゃ。
それが丹なのじゃ。

203避難民のマジレスさん:2019/01/06(日) 03:41:10 ID:LC3de7YgO
>>202
くまが小周天の練習をしていた時は、もやもやとした光のたまが、大きくなったり小さくなったりを繰り返しながら、通常はソフトボールくらいの大きさにまとまり、と言うか、意念でまとめて、巡らせていたであります。
下腹部で生じた熱感を伴う光の玉を、尾てい骨から背中、肩、首、後頭部へとまわしてゆき、
それぞれの部位を、少しづつ越えていったであります。
でも、光や熱は肩胛骨辺りで弱まり、首から頭頂部を抜けて行くことはなかったであります。
仕方ないので、気感のみを、意念で後頭部から額に飛ばして、下腹部におろし、なんちゃってくまなり小周天完成としたのでありました。
仙道、気功の練習は、肉体的修練そのものであると言うのがくまの実感でありましたが、巡らしてるときは、その部位、熱、光、への集中力が高まるので、集中力を高める訓練に使えるかなと思ったであります。
(´・(ェ)・`)つ

204避難民のマジレスさん:2019/01/06(日) 03:55:19 ID:LC3de7YgO
>>201
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第四話 光を輪のように巡らせる(つづき)
 より抜粋

人々はブラックホールになり、疲れ果て、消耗し尽くしてしまう。
彼らはだらだらと身を引きずり続けてゆく。
まるで過去からの惰性の力で行きながらえているかのように、生気をなくした
ままで生きている。
それはこういうことだ―自転車に乗りたければ、ペダルをこがなければ ならな
い。
だが、しばらくペダルをこぐのを止めても、それまで 走らせてきた惰性がつい
ているので、自転車はしばらくのあいだは 進む。
もしそれが下り坂であれば、遠くまでゆくことができる。
三十歳か三十五歳を過ぎると、人生の道は下り坂になる。
三十五歳がピークだ。平均年齢が七十歳だとすれば、三十五歳がピーク だ。
三十五歳を過ぎると、下り坂がはじまる。
あなたはエネルギ ーを使わずにどこまでも転げ落ちてゆくことができる。

道家の人々の体験では、あなたが外へ外へと使ってきた このエネルギーは、そ
れを逆転させる秘術を学ぶことで、 消耗させずにもっともっと結晶化させるこ
とができる。
それは可能だ。あらゆる集中の技法の科学はそれにつきる。
いつか鏡の前に立って、小さな実験をしてみるといい。
あなたは鏡を見ている。
自分の顔が映っている。
そこには自分の目が映っている。
これが外向性だ。
あなたは鏡に映った顔を見つめている―もちろん 自分の顔だが、それは外にあ
る対象物だ。
次にしばらくのあいだプロセスをそっくり逆にしてみるといい。
鏡に映る自分の姿から見られているという感じになってゆく― あなたが鏡像を
見ているのではなく、鏡像があなたを見ている―すると、とても奇妙な空間に
入るだろう。
数分間それをやってみれば、あなたはひじょうに活気 に満ちてきて、何かとほ
うもない力が自分のなかに 入ってくるように感じる。
一度も体験したことがない ことだから、あなたは怖くなってしまうかもしれない

あなたは完全に輪になったエネルギーを一度も見たことがない。
道家の経典には述べられていないが、これは誰にもたやすくできる最も簡単な
実験だろう。
浴室の鏡の前に立って、まず 鏡像をのぞき込む。
見ているのはあなたであり、鏡に映った姿は対象だ。
次に状況をそっくり変え、プロセスを逆にする。
自分は鏡像であり、向こうにいる人物に見られていると感じはじめる。
するとただちに変化が起こり、 大きなエネルギーがあなたに向かってくるのが
わかる。
そんなことをするのははじめてであり、体験したことがない ので、最初は怖く
なるかもしれない。
それは気違いじみて 見える。
あなたは動揺して、震えだすかもしれない。
あるいは 自分がどこにいるのかわからなくなってしまうかもしれない。
なぜなら、これまでの方向感覚は完全に外向的なものだったからだ。
内向性は徐々に身につけてゆかなければならない。
だが、輪は完結している。
そして、数日間それをやれば、一日中活気がみなぎっているように感じてあな
たは驚くだろう 。
数分間鏡の前に立って、輪が完結するようにエネルギーをもどってこさせれば
・・・。
そして輪が完結したときには、必ず深い静けさが感じられる。
輪が完結していないと落ち着きがなくなってくる。
輪が完結すると落ち着きが生まれ、あなたは中心に据わる。
そして中心に据わると力がみなぎる―その力はあなたのものだ。
そして、これは実験のひとつにすぎない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

205避難民のマジレスさん:2019/01/07(月) 00:03:03 ID:LC3de7YgO
>>204
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第四話 光を輪のように巡らせる(つづき)
 より抜粋

色々なやり方でそれを試してみればいい。
薔薇の花を見るなら、最初は薔薇の花をしばらく、 数分間見つめ、それから逆
のプロセスに入る。
薔薇の花があなたを見つめている。
薔薇の花からどれだけ多くのエネルギー がもらえるか、あなたは驚くだろう。
同じことを樹々や星々や人々を相手にやってみればいい。
一番いいのは愛しているパートナーとそれをやることだ。
互いの目をのぞき込んでみるといい。
まず相手を見ることからはじめ、次は相手が エネルギーを返してくれるように
感じるようにする。
贈り物が返ってきている。
エネルギーが補給された感じがする。
シャワーを浴び、風呂に入り、新しい種類のエネルギーを浴びた感じがする。
あなたは若返り、活力に満ちてそこから出てくる。
(p138)

呂祖師は言った。
光を輪のように巡らせると・・・光を巡らせるというのはまさにそのようなこ
とだ。
あなたの光は弧を描いて動いている。
出てゆくばかりでもどってこない。
あなたはやがてブラックホールになる。
輪が完結すれば、あなたはホワイトホールになる。

今やブラックホールに次いで、物理学者たちはホワイトホールも発見しつつあ
る。
ホワイトホールはエネルギーに満ちあふれている―ブラックホールとはちょう
ど反対だ。

光を輪のように巡らせると、天と地のエネルギーはことごとく・・・「天と地」
は、内と外、上と下、神と世界、目に見えないものと見えるもの、知りえない
ものと知りうるものを意味する。
「天」は神を指し、「地」は顕れた世界を指している。
輪が完結すると、それらはひとつになる。
人はただの塵チリではなく、天空の何かがあなたを貫いている。
あなたはもはや地上のものであるばかりではない、もはや人間であるばかりで
はない。
人は聖なるものになっている。
「ヒューマン」という言葉の語源を心にとめておきなさい―それは土を意味す
る「ヒュマス」からきている。
人間は土でつくられている。
人間が「ヒューマン」と呼ばれるのはそのためだ。
人間は塵であるがゆえに「ヒューマン」と呼ばれる。
塵が聖なるもので光を放ちはじめると、生命の荘厳さが知られる。
エネルギーがもどってくれば、それは可能だ。
それは至るところから取りもどすことができる。
それはまったく問題ない。
ただその秘法を実践すればいいだけだ。
ひとたびその こ つ をつかんだら、あなたは至るところにそれを見いだすこと
だろう。
緑の樹を見つめているだけで、活気がみなぎってくる―まるですべての樹液が
あなたに向かって流れてきたように。
樹の精髄ジュースがあなたの実存に入ってきたかのように。
月を見つめていると、あなたは驚くだろう―酒やその他の麻薬ドラッグで酔っ
ぱらう必要はない。
月で酔うことができるのだ。
その方法を知っていれば、月は大量のエネルギーを返すことができる。
古代インドの『リグ・ヴェーダ』には、ソーマのことが書かれている。
科学者たちは、ソーマはLSDに似たものだと考えている。
科学者たちは、ソーマというのは気候の変化か何かでヒマラヤから姿を消した
、ある種のキノコに違いないと考えている。
あるいは絶滅したのではなく、人々に忘れ
去られてしまっているだけなのかも
しれない。
今もヒマラヤの深い谷のどこかに生えているのだが、私たちはその正体をすっ
かり忘れ去っているだけなのかもしれない。
ひょっとすると古代の賢者たちは、それが危険すぎることがわかったために、
意図的に人々の記憶からそれを消し去ろうとしたのかもしれない。
オルダス・ハックスレーは、ソーマは究極の麻薬ドラッグであり、将来、究極の
LSDが発見されれば、再びそれは「ソーマ」と呼ばれるようになるだろうと言っ
ている。
だが、あなたはソーマというサンスクリット語が月の別名であることを知って
驚くだろう。
だからヒンドゥ語では、月曜日は「ソムワラ」―月の日―と呼ばれる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

206鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/07(月) 00:20:14 ID:1d4drIFg0
>>203 惜しいことじゃ。
 首の辺りにこりがあったり曲がっていたりすると気が通りにくいのじゃ。
 それを直すためにハタ・ヨーガや気功法の動功があるのじゃ。
 集中にも役立つのじゃ。
 実践してみるとよいのじゃ。

207避難民のマジレスさん:2019/01/07(月) 19:55:53 ID:LC3de7YgO
>>205
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第四話 光を輪のように巡らせる(つづき)
 より抜粋

ソーマは月の別名だ。
それはキノコでも、LSDのようなものでも、麻薬でもない。
それは月と霊的交流に入るための秘術だ。
ちょうど海が月の影響を受けるように、月からエネルギーを得ることができた
なら、あなたは驚くだろう―大いなる精髄ジュース、大いなる甘露が降り注い
でくる。
あなたはいかなる麻薬で酔っぱらうこともなく酔いしれることができる。
月はあなたの実存のまさに中核にまで影響を与えることができる。
それはあなたをひそやかで、穏やかにする。
それは月が女性的なエネルギーだからだ。
愛する女性を抱擁すると、たちまちあなたは深い静けさと穏やかさが湧き起こ
るのを感じる。
月からエネルギーが返ってくるときには、それとまったく同じことがより大き
な規模で起こる。
太陽が男性原理であるように、月は女性原理だ。
月は<陰>であり、太陽は<陽>だ。
月は母のようにあなたを慈しむ。
ヒマラヤの谷間にキノコを探しに出かけなくてもよい。
そのキノコはいつも天空にかかっている。それは月だ。
ただあなたはどうやって月からエネルギーをもどってこさせるか、その秘法を
習わなければならない。
月から、そして太陽からもエネルギーを得る秘密の技法が伝えられてきた。
太陽崇拝は、ある技法から生まれたものであり、巨大な太陽の神殿が建てられ
た。
コナラックの太陽の神殿は、まさに太陽への感謝を表すものだった。
それはたんなる礼拝ではなく、いかに<陽>のエネルギーを取り入れるかとい
う科学だった。
特に女性は太陽のエネルギーを取り入れるとよい。
隠され、眠っている<陽>のエネルギーが活性化するからだ。
男性は月のエネルギーを取り入れるとよい。
眠っている女性原理が活性化し、再び動きはじめるからだ。
女性は太陽を礼拝するといいし、男性は月を礼拝するといい。
だが、その礼拝はただの儀式であってはならない。
それはこのような技法でなければならない。
光を輪のように巡らせると、天と地、光と闇のエネルギーはことごとく結晶化
する。
「光と闇」は、男と女、軽さと重さ、恩寵と重力、生と死、運動と休息を象徴
している。
これらすべてが「光と闇」で表されている。
ひと言で言えば、エネルギーが輪のように巡れば、あなたはだんだんと自分が
男なのか女なのかわからないようになる。
外向性は<陽>の原理であり、内向性は<陰>の原理だ。
男には自然に外へ向かう傾向があり、女には自然に内に向かう傾向がある。
愛を交わしているときでさえ、男は目を開けたままでいる。
彼は見たい。男は覗のぞくのが好きだ。ポルノが現れるのはそのためだ。
ポルノに興味をもつ女性はいない。
女性はそれに意味があるとは思えない。
恋人と愛を交わしているときでさえ、女性は目を閉じている。
女は内向的であり、彼女のエネルギーは内側へ向かう。
だが、そのエネルギーは輪にならなければいけない。
輪にならないかぎり、人は男か女であり続ける。
だが、どちらも半分であり、同じ全体なるものの半身だ。
互いに相手に惹かれ、相手を必要とするのはそのためだ。
いつかエネルギーを輪のように巡らせることができるようになれば、あなたは
相手の男性や女性を必要としなくなる。
なぜなら、みずからの内なる男性とみずからの内なる女性が出会い、互いに溶
け合っているからだ。
あなたは全体になる。
そして全体ホールであることが神聖ホーリーであることだ。
全体であることが神聖であること―これがタオであり、そしてこれはタントラ
でもある。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

208避難民のマジレスさん:2019/01/07(月) 19:55:54 ID:LC3de7YgO
>>205
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第四話 光を輪のように巡らせる(つづき)
 より抜粋

ソーマは月の別名だ。
それはキノコでも、LSDのようなものでも、麻薬でもない。
それは月と霊的交流に入るための秘術だ。
ちょうど海が月の影響を受けるように、月からエネルギーを得ることができた
なら、あなたは驚くだろう―大いなる精髄ジュース、大いなる甘露が降り注い
でくる。
あなたはいかなる麻薬で酔っぱらうこともなく酔いしれることができる。
月はあなたの実存のまさに中核にまで影響を与えることができる。
それはあなたをひそやかで、穏やかにする。
それは月が女性的なエネルギーだからだ。
愛する女性を抱擁すると、たちまちあなたは深い静けさと穏やかさが湧き起こ
るのを感じる。
月からエネルギーが返ってくるときには、それとまったく同じことがより大き
な規模で起こる。
太陽が男性原理であるように、月は女性原理だ。
月は<陰>であり、太陽は<陽>だ。
月は母のようにあなたを慈しむ。
ヒマラヤの谷間にキノコを探しに出かけなくてもよい。
そのキノコはいつも天空にかかっている。それは月だ。
ただあなたはどうやって月からエネルギーをもどってこさせるか、その秘法を
習わなければならない。
月から、そして太陽からもエネルギーを得る秘密の技法が伝えられてきた。
太陽崇拝は、ある技法から生まれたものであり、巨大な太陽の神殿が建てられ
た。
コナラックの太陽の神殿は、まさに太陽への感謝を表すものだった。
それはたんなる礼拝ではなく、いかに<陽>のエネルギーを取り入れるかとい
う科学だった。
特に女性は太陽のエネルギーを取り入れるとよい。
隠され、眠っている<陽>のエネルギーが活性化するからだ。
男性は月のエネルギーを取り入れるとよい。
眠っている女性原理が活性化し、再び動きはじめるからだ。
女性は太陽を礼拝するといいし、男性は月を礼拝するといい。
だが、その礼拝はただの儀式であってはならない。
それはこのような技法でなければならない。
光を輪のように巡らせると、天と地、光と闇のエネルギーはことごとく結晶化
する。
「光と闇」は、男と女、軽さと重さ、恩寵と重力、生と死、運動と休息を象徴
している。
これらすべてが「光と闇」で表されている。
ひと言で言えば、エネルギーが輪のように巡れば、あなたはだんだんと自分が
男なのか女なのかわからないようになる。
外向性は<陽>の原理であり、内向性は<陰>の原理だ。
男には自然に外へ向かう傾向があり、女には自然に内に向かう傾向がある。
愛を交わしているときでさえ、男は目を開けたままでいる。
彼は見たい。男は覗のぞくのが好きだ。ポルノが現れるのはそのためだ。
ポルノに興味をもつ女性はいない。
女性はそれに意味があるとは思えない。
恋人と愛を交わしているときでさえ、女性は目を閉じている。
女は内向的であり、彼女のエネルギーは内側へ向かう。
だが、そのエネルギーは輪にならなければいけない。
輪にならないかぎり、人は男か女であり続ける。
だが、どちらも半分であり、同じ全体なるものの半身だ。
互いに相手に惹かれ、相手を必要とするのはそのためだ。
いつかエネルギーを輪のように巡らせることができるようになれば、あなたは
相手の男性や女性を必要としなくなる。
なぜなら、みずからの内なる男性とみずからの内なる女性が出会い、互いに溶
け合っているからだ。
あなたは全体になる。
そして全体ホールであることが神聖ホーリーであることだ。
全体であることが神聖であること―これがタオであり、そしてこれはタントラ
でもある。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

209鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/07(月) 22:02:29 ID:1d4drIFg0
丹田に発生した気は陽の気であり、日の属性というのじゃ。
それが頭の天辺に達すると涼しい陰の気に変るというのじゃ。
インドのヨーガでも頭の天辺のブラフマランドラには月があるとイメージするのじゃ。
月の冷たい雫が垂れてきて冷たい気に変るというのじゃ。
その気を丹田にまで下げて収めることで小周天は完成するのじゃ。

210避難民のマジレスさん:2019/01/08(火) 02:05:22 ID:LC3de7YgO
>>209
>頭の天辺に達すると涼しい陰の気に変る>インドのヨーガでも頭の天辺のブラフマランドラには月があるとイメージする
>月の冷たい雫が垂れてきて冷たい気に変る
>その気を丹田にまで下げて収める
←そう言えば、身体を流れる気を観察していると、皮膚の表面や身体の内部で、温度の違いを感じたであります。
気自体の熱感が際立って感じられるのでありますが、冷たい部分も確かにあったであります。
当時その事を、2ちゃんの仙道スレに書いたら、名無しさんに、「陰の気」と教えてもらったのでありますが、
別の書き手に、全否定され、くまの書くことは全部嘘だと決めつけられ、粘着されてしまったのでありました。
気功修行の記録をそこに残していたのでありますが、
粘着くんへの対応が面倒になり、記録とともに、その修行自体も中断したのでありました。
(´・(ェ)・`)つ

211避難民のマジレスさん:2019/01/08(火) 02:20:20 ID:LC3de7YgO
>>208
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第四話 光を輪のように巡らせる(つづき)
 より抜粋

光を輪のように巡らせると、天と地、光と闇のエネルギーはことごとく結晶化す
る。
カール・グスタフ・ユングが「個性化」「結晶化」と言っていたのはこのこと
だ。
ゲオルギー・グルジェフが「自己の誕生」あるいは「魂」と言っていたのはこ
のことだ。
あなたは通常は断片にすぎない。
あなたはたくさんの自己を持っている。
単一の"私"はなく、たくさんの"私"、小さな"私"をもっている。
しかもそれらがみな支配権を握ろうと、互いに闘い、競争し合っている。
人間は複数だということ―それが人間の惨めさだ。
自分がたくさんいたら、どうして安らぐことができるだろう?
ある部分が「これをやれ」と言い、別の部分が「いやだ」と言い、また別の部
分が「もっと他のことをやれ」と言う。
どれに従っても後悔することになる。
なぜなら、それに従いたくない他の部分が問題をつくりだすからだ。
「おまえは道を間違えている。別の選択をしていた方がはるかにましだった」
と他の部分がしきりに言い続ける。
「俺についてきたら、もうたどり着いていたのに。
見ろ、おまえが耳を貸さなかったせいだ」
だが、その部分に耳を傾けていたなら、また別の部分が反撃に出ていただろう。
人間はけっして満足しない。満足することなどありえない。それは人間が複数
だからだ。
ひとつになれば、満足はおのずと湧いてくる。
あなたが複数いるなら、不満足はやむをえない。
あなたが複数いるなら、葛藤の絶えない人生になる。
ひとつであれば、葛藤は消え失せる。
あなたは我が家に帰り着いている。
道家の人々が「結晶化」と呼んでいるのはこのことだ。
それを達成する技法は、あなたの<陰>と<陽>がもはや分離していないよう
に光を輪のように巡らせることだ。
光はまさに呼吸のごとく動かなければならない。
息は出ては入り、入っては出てゆく。
あなたは息を吐き、息を吸う。
息を吐いてばかりいる人を思い浮かべてみるがいい。
彼は生きてゆけなくなる。
彼の肉体は死んでしまう。
あるいは息を吸ってばかりいる人を思い浮かべてみるがいい。
彼もまた死んでしまう。
だが、これこそまさにあなたの魂に起こっていることだ。
あなたの魂は死んでいる。
光を吐き出すか、光を吸い込むか、あなたはその片方しかしていないからだ。
まだあなたは吐くことと吸うことが輪に、ひとつのプロセスにならねばならな
いことを学んでいない。
深く吐き出し、深く吸い込みなさい。
肉体の生命にとって呼吸が必要なように、魂には意識が必要だ。
だから意識を半分のままで放置してはならない。
輪を完結させなければならない。
女性はいかにして男でもあるかを学ばなければならない。
男性はいかにして女でもあるかを学ばなければならない。
そして男性と女性が等しいバランスを得ると男女のバランスが完全に取れると
き、それが結晶化、個性化であり、魂が生まれるときだ。
(p142)

この秘術を行ないはじめると…そして、確かにそれは秘術だ。
本当に信じられないほどの効果があるからだ。

この秘術を行ないはじめると、まるで生ける存在の 只なかに無があるように感
じられる。
私が「ブラック・ホール」という言葉で言おうとしたのはこのことだ。

(´・(ェ)・`)
(つづく)

212避難民のマジレスさん:2019/01/08(火) 02:32:53 ID:LC3de7YgO
>>211
仙道・気功、あるいはクンダリニヨガ等の解説として、このように解説されているところは他にもきっとあり、くまも目にしたことはあるかもしれないでありますが、
はじめて心に響いたであります。
くまの実感としては、気を巡らす訓練は、数息観等の瞑想修行とは全く異質の身体修行の様に感じられ、ますます自我を強化するものの様に感じられたのであります。
それで、その訓練法を放棄するのにためらいはなかったのだと思うのであります。

鬼和尚の言われるように、惜しかったと、今は思うのでありますが、
これから、当時を思い起こして、再度取り組み完成させようとしても、この手のことは意識的に追い求めると起こらず、
身体に自然と火がつくのを待つしかないと思うのでありますが、ちょぴっとづつやってみるであります。
(´・(ェ)・`)つ

213鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/08(火) 23:31:43 ID:1d4drIFg0
>>210>>212 陰の気まで感じられていたのに惜しいことじゃ。
 自分の修行について話したり、書いたりしないほうがよいのじゃ。
 常に批判する者は居るからのう。
 それをドリームバスターと言ったりするのじゃ。
 夢を壊すものなのじゃ。
 修行法をも秘密にするのはそのような者に修行者が毒されないようになのじゃ。
 今度は秘密にやるのがよいのじゃ。

214避難民のマジレスさん:2019/01/09(水) 01:21:16 ID:LC3de7YgO
>>213
鬼和尚、ありがとうであります。
うむ。
今度は、こっそりやるであります。
けど、臍下丹田〜会陰の辺りで陽気が滞っていることを仙道スレに書いたら、名無しさんに、逆腹式呼吸で押し出す方法を教えてもらい、助かったりもしたのであります。
うむ。でも今度は、極秘でやるであります。
(´・(∀)・`)つ

215避難民のマジレスさん:2019/01/09(水) 02:11:17 ID:LC3de7YgO
>>211
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第四話 光を輪のように巡らせる(つづき)
 より抜粋

この秘術を行ないはじめると、まるで生ける存在の 只なかに無があるように感
じられる。
…生ける存在に囲まれているかのように感じられるが、 あなたは非存在、無の
孤島―ブラック・ホールにすぎない。
樹々は生きている。
星々は生きている。
鳥たちは生きている。
大地は生きている。
太陽や月は生きている。
あらゆるものが生きている。
ところがあなたは……死せるブラック・ホールにすぎない。
生ける存在のこの広大な海原のなかで、あなただけが非存在だ。
これは修行をはじめたばかりのときに起こってくる状況だ。
やがて修行の成果が現れてくると、肉体の外に肉体があり、 あたかも無の只な
かに生ける存在があるかのように感じられる。
あらゆるものが一変してしまう。
あなたは生ける存在、ホワイト・ホールになる。
あなたはすっかり統合され、結晶化しているので、それと比べれば、太陽や月
や樹や鳥や動物はすべて非存在のように見える。
仏陀のような人を思い浮かべてみるといい。
彼には存在感がある。
彼と比べれば、全存在も青ざめているように感じられる。
彼には生命、永遠の生命、ありあまるほどの生命がある。
全存在は貧しく、彼は豊かだ。
彼は帝王であり、全存在は乞食のようにみすぼらしい。

やがて修行の成果が現れてくると、肉体の外に肉体があり……この光の輪があ
なたのなかで定まり、結晶化すると、あなたは肉体の中にある別の身体を感じ
るようになる。
この肉体は塵ちりでできているが、その身体は神で、聖なるものでできている。
この肉体には形があるが、その身体には形がない。
この肉体は粗雑だが、その身体は微細だ。
この肉体は死なねばならないが、その身体は死を知らない。
この肉体は時間の一部だが、その身体は永遠の一部だ。
この第二の身体が生まれると―それを生み出すためには、まず光を吸ったり吐
いたりする方法を身につけなければならない……ちょうど息を吸ったり吐いた
りするように、第二の身体、光の身体において光を吸ったり吐いたりする方法
を身につけたなら……。
この肉体は闇の肉体であり、この肉体は大地の一部、重力の一部だ。
それは重く、下方へと引っ張られる。
もうひとつの身体は上方へと引っ張られる。
それは恩寵の一部であり、軽いライト……文字通り光ライトのように軽い。
それは光を放ち、重さをもっていない。
あなたは飛ぶことができる。
禅の人々が「翼なくして飛翔する」と言うのはそのことだ。
そうなったら大空とその限りのなさがそっくり手に入るようになる。
(p144)

あたかも無の只なかに生ける存在があるかのように感じられる。
百日 のあいだ懸命に努力を続けると、ようやく火が発するようになる。
最初、光はほとんど空想されたもののように見えるだろう……最初は空想から
出発するしかない。
時が経ち、百日が過ぎると、百日のあいだ
懸命に努力を続けると……それはど
れだけ集中して働きかけるかにかかっている。
百日と決められているわけではない。
全身全霊をあげて取り組めば百日だが、気を抜けば百年、あるいは百回生まれ
変わらなければならないかもしれない。
それはいかに熱心に取り組むかにかかっている。
心血を注ぎ、全身を投げ入れ、打ち込み、すべてを賭ける用意ができているな
ら、百日間で「火」が生じてくるだろう。
最初のうちは空想であっていい。
空想は悪いものではない。
空想によって現実から目をそらしたり、空想が障壁とならないかぎり、それは
悪いものではない。
現実と協調しているかぎり、空想は悪いものではない。
それは大きな祝福となるだろう。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

216鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/09(水) 22:44:20 ID:1d4drIFg0
丹は集中して気を集めているとだんだん大きくなってくるのじゃ。
体の中で別の体を形成するのじゃ。
陽神というのじゃ。
それはやがて頭の天辺から体を抜け出すようになるのじゃ。
そのような現象はヨーガや仏典にもあるのじゃ。
脱身とか意生身というのじゃ。
実際は意識が拡大しているのじゃ。

217避難民のマジレスさん:2019/01/09(水) 23:51:57 ID:LC3de7YgO
>>215
15黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第四話 光を輪のように巡らせる3
 より抜粋

最初はそれは空想の産物のように感じられるだろう。
鏡を見ながら、あなたは「鏡に映った自分がこちらを見ているなんて、これは
すべて空想だ」と感じるだろう。
最初は紛れもない空想だが、間もなくそれは空想でなかったことに気付くだろ
う。
あなたは現実の扉の錠を開けようとしていただけだ。
それは現実に起こりはじめる。
最初のうちは大いなる愛を込めて樹に触れても―あなたは樹が応えてくれるは
ずがないと思っている―樹が少しでも応えてくれるのを感じても、あなたは空
想だと思うだろう。
そうではない。樹は応えている。
だが、本当にそうだと気付くには少々時間がかかるだろう。
あなたが愛にあふれていれば、樹は愛をもって応えてくれる―愛にはいつも愛
が返ってくる。
愛に愛が返ってこなければ、その愛は愛ではなかったのだと知りなさい。
それが真相だ。
別の何かが愛の仮面をかぶっていたということだ。
(p146)

そうしてはじめてそれは精神の火となる。
百日間にわたる懸命な努力ののちに、それは精神の火となる。

さらに百日行ずれば、光の中に真の光の極がおのずと現れてきて……はじめは
光は散漫だ。
わずかにそこにあるのが感じられるだけだ。
そこにあるかと思えば、またなくなってしまう。
それはひじょうに微かで、とても壊れやすい。
だが、徐々に光の中心がしっかり定まってくる。
それは「光の極」になる。

突如、真珠の種が生まれる。
そうなったら、「光の極」のそのまさに中心に、「真珠の種」が生まれる。

それはあたかも男女が交わって受胎が行なわれるようなものである。
まさにその通りのことが起こる。
内なる男と内なる女が抱擁し合っている。
それは一種の内なる性交だ。
それが真のタントラだ。
あなたの女性的な部分と男性的な部分が互いに愛を交わし、ひとつに結ばれて
いる。
そうなったら、彼らは別れる必要がない。
外側の女性と結ばれたままではいられない。
さもなければひどく醜いことになる。
外側の女性と結ばれたままではいられない。
さもなければ嫌悪をもよおすことになる。
外側の男性と結ばれたままではいられない。
それは つかのまのものでしかありえない―ほんの一瞬だけ、 あなたがたは合一
状態をかいま見ることができる。
だが、内なる結合は解く必要がない。
仏陀のような人は絶えることのない オルガズムの状態を生きている。
内なる女性と内なる男性が愛を交わし続けている。
ヒンドゥー教の寺院でシバリンガを見たことがあるに違いない。
あれは象徴シンボルだ。あのリンガの下には ヨーニ、女性の性器がある。
それは内なる男と女の出会いの 象徴だ。
フロイト派の学者が解釈するような、たんなる男根では ない。
それは象徴的なものであり、人の内なる極性を表している。
ひとたびこの出会いが起これば、あなたは新しく生まれ変わる 。

イエスがニコデモに「もう一度生まれ変わらないかぎり……」 と言うとき、彼
が伝えようとしているのはこのことだ。
私はキリスト教徒がなんと言うか知らないし、そんなことは 気にもかけないが
、彼が言おうとしているのはこのことだ。
「もう一度生まれ変わらないかぎり……」 これが彼の言おうとしている誕生だ。
そしてこれが ヒンドゥー教徒が「ドウィジャ」―二度生まれ― と呼んでいるも
のだ。
あなたは自分自身を誕生させた。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

218鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/10(木) 23:02:27 ID:1d4drIFg0
丹が陽神になるまでに長い年月がかかるのじゃ。
毎日座って気を集中していかねばならないのじゃ。
その期間を養胎というのじゃ。
妊娠した時と同じであると例えられるのじゃ。
体の中に新しい体が作られるのであるからのう。

219避難民のマジレスさん:2019/01/11(金) 00:09:06 ID:LC3de7YgO
>>217
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第四話 光を輪のように巡らせる(つづき)
 より抜粋

外側の男が外側の女と出会えば子供が生まれ、赤ん坊 が産み落とされる。
内なる男が内なる女と出会うときにも 子供が生まれるが、あなたは親であると
同時に子供にもなる 。
あなたの内側に新しい生命いのち、覚者ブッダの生命、 <光明エンライトンメ
ント>の生命、不死の生命が芽生える。
このときには静かな状態で待たなければならない。
内側でこの受胎が感じられたら、内なる男性が内なる女性を貫き、女性が受胎
したのを感じたら、あとはもうただ待てばよいだけだ―女性が九ヶ月間、大い
なる喜び、大いなる祈り、大いなる希望を抱いて待つように。
しなければならないことは何もない。
まったく何もする必要はない。
為すべきことは終わっている。
男性の役割は行為にある。
光を巡らせることが男性の役割だ。
ひとたび受胎が起こり、内なる女性が妊娠したら、男性的な部分は働く必要が
ない。
それは休まなければならない。
あとはものごとが自然に成長してゆく。
瞑想が最初の部分であり、
あとは祈りだけが残されている。
「瞑想なくして祈りが何であるかを知ることはけっしてできない」と私が言う
のはそのためだ。
祈りは瞑想がとるもっとも高次な形態だ。
祈りはかぐわしい香りのようであり、瞑想は花のようだ。
人は瞑想を通ってゆかなければならない。
人々は私になぜかと尋ねる。
もしもその人の道が祈りの道だとすれば、このアシュラムでは、彼らにどうし
てこんなにたくさんの瞑想を勧めるのかと。
祈りはやって来る、あなたは祈りがやって来るための道を準備しなければなら
ない。
あなたはあらゆる種類の瞑想を体験しなければならない―それは浄化のプロセ
スだ。
満足させる必要があるのはあなたの男性的な部分であり、そうすれば女性的な
部分が後を引き継ぎ、あなたは妊娠するだろう。
そして妊娠するというのは祈りに満ちることだ。
なぜなら、もう何もすることがないからだ。
努力は終わり、今やあなたは無努力になっている。
道家の人が「無為の為」と呼んでいるのはこのことだ。
あなたは光を輪のように巡らせる実験を重ねてきた。
長いあいだ懸命に努力して成果をあげた。
あなたの内側で何かが結晶化している。
男と女はもう分離していない。
それらはひとつになっている―子供がそこにいる。
今や待つこと以外、何ひとつ必要とされない。
希望に満ちて待ち、信頼に満ちて待てばいい。
そしてこれこそが祈りだ。

根源的な変容の只なかにあっては、光の放射が決定的な働きをする。
受胎が起こったことをあなたはどうして気付くのか?
あなたは内なる輝きを見るようになる。
目を閉じるたびに、闇ではなく光の放射が見えてくる。
それを見るのはあなただけでなく、あなたを愛している人々―彼らもまたあな
たのまわりに霊光オーラを見るようになる。

根源的な変容の只なかにあっては、光の放射が決定的な働きをする。
女性が妊娠しているとどうしてわかるのだろう?
子供を宿している女性のまわりにある種の霊光オーラを見たことがないだろう
か?
彼女の目、彼女の顔、彼女の実存そのものから、ある光が放たれているのを見
たことがないだろうか?
あなたが内側に神を孕はらんでいるとき、それとまったく同じことが、もっと
高い次元で起こる。
あなたは光の放射を見る。
目を閉じるたびに、内側にはただ光が満ちあふれている。
光源のない光がどこからともなくやってくる。
それはひじょうに涼しい光、月光のようなものだが、このうえもない魔法のよ
うな魅力をおびている。
そしてあなたを愛している他の人たち、あなたとひじょうに親しい者たちもそ
れを感じはじめる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

220鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/11(金) 22:47:32 ID:1d4drIFg0
陽神が完成すると光が三度発生するというのじゃ。
養胎が終わったしるしなのじゃ。
それは陽神を体の外に出してもよいという合図なのじゃ。
陽神を体外に出すことを出神というのじゃ。

221避難民のマジレスさん:2019/01/12(土) 10:49:49 ID:LC3de7YgO
>>219
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第四話 光を輪のように巡らせる(つづき)
 より抜粋

聖人の肖像のまわりに霊光が描かれるのはそのためだ。
それは誰の目にも見えるものではない。
あなたがキリストを見たとしても、彼の霊光オーラは見えなかっただろう。
だが、弟子たちには見えた。
彼を十字架にかけた者たちの目にその霊光が見えなかったことは確かだ。
彼らは見ることができなかった。
彼らは盲目であり 、閉じていた。
弟子たちには、仏陀のまわりに霊光が見えた。
この秘密は愛する者たちだけに明かされる。
これは ひじょうに近しい者たちだけに明かされる秘密であり 、相手かまわずど
この誰にも明かされるわけではない。
この秘密はごく親しい者たち、近くへ近くへ近くへと 近つ゛いてくる者たち、
心を開いた、 感じやすい者たちだけに明かされる。
(p150)
●空想でなく事実●1/1

根源的な変容の只なかにあっては、光の放射が決定的な働きをする。
それは物質界においては太陽であり、人間においては目である。
あなたのなかで内なる放射が輝きを増しはじめると、目は輝きを帯び、酔っぱ
らったようにみえる。
その目は踊っている―霊妙な光、まったく異なる質が現れる。
もはやその目はただものを見るだけでなく、分かち合ってもいる。
タオを分割することはできないが、それを分かち合うことはできる。
そしてタオの分かち合いは目を通してなされる。

サニヤスを授けるとき、私は、私の目を見るように求める。
私は奥深くで触れるために、あなたの目をのぞき込み、この目であなたの目を
深く掘り下げようとする。
なぜなら、あなたの両目の後ろには第三の目が隠されているからだ。
第三の目に触れられれば―あなたが開いていれば、それはまたたく間に起こり
、時間はかからない。
第三の目に触れられれば、弟子がやって来たのがわかるからだ。
感触がなければ、その人はいつの日にか弟子になるだろうと望みをかけるだけ
だ。
望みをかけて、私はサニヤスを与える。
だが、それはあくまでも望みだ。
かなえられるかもしれないし、かなえられないかもしれない―それは千とひと
つのことに左右される。
だが、弟子となるべき者に出会ったとき、その第三の目がただちに私に感応し
はじめたら、あなたはずっと探しに探し求めてきた場所にたどり着いていると
いうことだ。
そうなったら、もうどこにも行く必要はない。
もう師マスターも、教えもいっさいいらない。
あなたはわが家に帰り着いている。

このエネルギーは外界に向けられる(下に流れる)。
通常、目から放たれるエネルギーは外に向かって流れている。
〝外向〝と〝下降〝は同じ意味だ。

それゆえに黄金の華の道はひとえに逆流の技法にかかっている。
通常、エネルギーは外に向かい、下降している。
あなたはそれを逆転させ、内に向けなければならない―そして"内向"と"上昇"
は同じ意味だ。
ひとたびエネルギーがあなたにもどりはじめ、あなたがエネルギーの輪になれ
ば、驚くようなことが起こる―新しい次元が扉を開き、あなたは上昇しはじめ
る。
あなたの生はもはや水平なものではなくなる。
それは新しい道筋を取り、垂直になる。
神は垂直の道筋の上にある。
この世界で神に出会うことはない―神がこの世界にいないわけではないが、垂
直に動いていないかぎり、神にであうことはない。
盲人に光が見えないように、水平に動いている者には神が見えない。
たくさんの人が私のもとに来て、「神を見せてくだされば、私は信じます」と
言う。
だが、どうして神を見せることができるだろう?
私はあなたがたを水平な生き方から垂直な生き方へと転換させなければならな
い。
サニヤスとはまさにそのこと―垂直な在り方を指している。
ひとたび光が上昇しはじめたら、黄金の華が開く。
これらはシンボルだ。あなたの内側に花があるわけではない。
「華」とはたんに花開くこと、「黄金」とはたんにそのまばゆい光、その輝か
しい放射を表しているだけだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

222避難民のマジレスさん:2019/01/12(土) 12:50:19 ID:LC3de7YgO
>>221
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第四話 光を輪のように巡らせる(つづき)
 より抜粋

光が巡るのはたんなる空想ではない。
覚えておきなさい。光が巡るのはたんなる空想ではない。
最初のうちは空想のように見えるが―あなたはたゆまず努力しなければならな
い―すぐにそれは実際に起こる。
それは事実だ。それはそもそものはじめから事実だった。
ただあなたがそれに一度も触れたことがなかったために、最初は空想のように
見えるだけだ。
(p153)
思考を集中させることで、人は飛翔することができる。
欲望を集中させることで、人は落ちる。
道家タオイストは下方へ、外へと向かうエネルギーを「欲望」と名つ゛けてい
る。
道家は内側に向かうエネルギーの象徴として「思考」という言葉を使っている

だから誤解しないように。
道家の言う「思考」は、いわゆる思考のことではない。
「思考」という言葉で彼らが言おうとしているのは、欲望を浄化した思考エネ
ルギーのことだ。
思考から欲望を浄化し、いっさいの欲望が消えてしまえば、外に向かう必要は
なくなる。
なぜなら、あなたが外に向かうのは、ひとえに何かを欲しがっているからだ。
家が欲しい、金が欲しい、力が欲しい、男が、女が、あれやこれやが欲しい。
そうなると、あなたは外に向かう。
欲望がなければ、思考は外に向かう必要がない。
それは内側に向きを変えはじめる―百八十度の転換が起こる。
欲望のない思考は内側に向かって動く。
欲望に満ちた思考は外側に向かって動く。
覚者ブッダたちが口をそろえて無欲さを強調するのはそのためだ。

学人がみずからの思考に少しも注意を払わず、欲望に かまけるならば、下方
へ向かう道に沈み込む。
弟子がみずからの思考に少しも注意を払わず、欲望にかまけるならば、彼は世
間に呑み込まれてしまう。

黙想と静けさによってのみ、真の直観が湧き起こってくる。
このために逆流の技法が必要となる。
思考から欲望の流れを落とさなければならない。
欲望の汚れを落とした思考は無思考になる。
欲望をもたない心は無心になる。
パタンジャリが「サマーディ」と呼び、禅の人々が「悟り」と呼び、道家の人
々が「結晶化」―外向と内向のバランス―と呼んでいるのはそれだ。
そうすればエネルギーが失われることはない。
鳥が朝になると空に飛んでゆき、日が暮れると巣にもどってくるように、それ
は世間に出てゆきもどってくる。
みずからのエネルギーをくり返しくり返し巣にもどってこさせなさい。
エネルギーを自分に帰らせずに、出てゆくままにしておいてはいけない。
そうすればあなたは貯水池になり、内側でとほうもなく力強くなる。
その力のなかではじめて直観が働きはじめる。

その力のなかで精神の火が生まれる。
その力のなかで真の光の極が現れる。
その力のなかでみるみる真珠の種子が育ってゆく。

それはあたかも男女が交わって受胎が行なわれるようなもの である。
このときには静かな状態で待たなければならない。
瞑想が完成すると、祈りがはじまる。
瞑想を祈りへと成長させること―タオの仕事はそれにつきる。
(p154)

(´・(ェ)・`)
(おわり)

223鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/12(土) 21:42:11 ID:1d4drIFg0
丹が完成して発生する光は金色であるというのじゃ。
それが華のように放射されるのじゃ。
そうであるから黄金の華という題名があるのじゃ。
それはサマーディに達した合図でも在るのじゃ。

224避難民のマジレスさん:2019/01/12(土) 22:42:19 ID:LC3de7YgO
>>222
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第五話 解放の機縁1
 より抜粋

呂祖師は言った。

解放の機縁は目のなかにある……人間の身体の華の種子は 上方のからっぽの空
間に集中されねばならない。
不死はこのなかにあり、また世間の超克もこのなかにある。

光は肉体のなかだけにあるのではなく、 肉体の外だけにあるのでもない。
山河大地は太陽と月に照らされるが、それはすべてこの光である。
それゆえに光はたんに肉体のなかにだけあるのではない。
理解と明晰さ、知覚と光明、そして(精神の)すべての働きは この光に他なら
ない。
それゆえに光はたんに肉体の外にだけ あるのではない。
天地の光の華は数限りない空間を満たしている。
だが、個々の身体の光の華も天にみなぎり、地を覆っている。
それゆえに、光が巡ると、たちまちにして天地山河いっさいのものがそれと同
時に循環する。

人間の身体の華の種子を上方の両目のあいだに集中させること、 それが人間の
身体の大いなる鍵である。
弟子たちよ注意せよ!
瞑想を一日怠れば、この光は流出してゆき、どこへ消えてゆく のか誰にもわか
らない。
もし一刻でも瞑想するなら、一万の劫こうも一千の生涯も取り除くことができ
る。
あらゆる技法は 静けさのなかに帰す。
この不可思議な力は計り知れない。

だが、実修をはじめるにあたり、人は浅いものから深いものへ、 粗雑なものか
ら微細なものへと進んでゆかなければならない。
すべては間断なく持続するかどうかにかかっている。
実修は始めから終わりまで一貫していなければならない。
この間に、冷暖をおのずから知るのである。
だが、目指すべきは空の広大さと海の深遠さに到ることであり、 そうすればあ
らゆる技法をいともたやすく身につけることができる。
そこではじめてそれを体得したと言える。

いにしえの寓話によると、世界を創造していた神のもとに四人の天使が近つ゛
いてきて、こう質問した。
「どのようなやり方で創造なさっているのですか?」
と最初の天使が尋ねた。
二番目の天使は
「なぜそんなことをなさっているのですか?」
と尋ねた。三番目の天使は
「仕事が終わったら、私にいただけますでしょうか?」
と尋ねた。
四番目の天使は「お手伝いいたしましょうか?」
と言った。
最初の問いは科学者のものだ。
二番目の問いは哲学者のものであり、
三番目の問いは政治家のもの、
四番目の問いは宗教的な人物のものだ。
科学的な探求は、万物を偏りのない目で観察する。
科学者は客観的でなければならない。
客観的であるために科学者は身を引いたままでいる。
科学者は参加することができない。
身を乗り出すと、ただちに巻き込まれてしまうからだ。
それゆえに科学者は生命や<存在>の表層を知ることしかできない。
内奥の中核は科学には明かされずに残る。
科学的な手法そのものが妨げになる。
哲学者は憶測するだけであり、けっして実験をしない。
哲学者は「なぜか?」と際限なく問い続ける。
しかもその問いにどんな答えが与えられても、再び「なぜか?」と問うことが
できる。
哲学を通してはいかなる結論に到る見込みもない。
哲学は結論を下せないままでいる。
それは不毛な行為であり、どこにも行き着くことがない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

225避難民のマジレスさん:2019/01/13(日) 09:42:48 ID:LC3de7YgO
>>224
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第五話 解放の機縁
 より抜粋

政治家はひたすら世界を手に入れ、それをわがものにしたがる。
政治家ほど危険なものはない。
なぜなら、彼は最も暴力的だからだ。
政治家が生に示す関心は、生そのものに向けられているのではなく、みずから
が握る権力に向けられている。
彼は権力に飢え、権力に狂っている。
彼は狂人であり、破壊的だ。
生きているものを所有したとたん、あなたはそれを殺してしまう。
なぜなら、何かが財産になったとたん、それは生命を失ってしまうからだ。
樹を所有すれば、その樹はもはや生きてはいない。
女や男を所有すれば、あなたは相手を殺してしまっている。
何かを所有すれば、その結果は死でしかない。
というのも、所有できるのは死だけだからだ。
生は自由だ。
生は基本的に自由であり続ける。
生を所有することはできない。
生を銀行に預けることはできない。
生を線で囲い込むことはできない。
「これは私のものだ」などとは言えない。
そんなことを言うのは敬意を欠いている。
そんなことを言うのは自己中心的だ。
そんなことを言うのは狂っている。
生こそが私たちを所有している。
どうして私たちが生を所有しえるだろう?
私たちはもっともっと生の手中に落ちていかなければならない。
構図ゲシュタルトがそっくり変わらなければならない。
所有欲を抱くことから、人は全体に身をゆだねられるようにならなければいけ
ない。
(p158)
政治家が生の真実を知るということはけっしてない。
宗教的な人は参加する。
彼は生とともに踊る。
彼は<存在>とともに歌う。
彼は生に手を貸す。
彼は<存在>に明け渡しており、身を引いていないし、超然としてはいない。
彼は実際にはどんな質問もしない。
彼は知識を追い求めていない。
彼の努力はすべて、<存在>といかにひとつになりきるかに向けられている。
それゆえに東洋には究極の体験を表すのに 「サマーディsamadhi」という言葉が
ある。
それは二つの言葉からきている。まず sam ― sam は一緒になることを意味す
る。
同じ sam という語根 が英語にも入って、sympathy(共感)symphony(交響曲)
という言葉のなかに見られる。少し変化して synthesis(統合)synchronicity
(共時性) という言葉のなかにもある。
sam は一緒になることを意味する。
adhi は主、神を意味する。
「サマーディ」とは 神との合一、神とひとつになることを意味する。
そして宗教を表す英語の religion という言葉の 意味はまさにそれだ。
それは<存在>とひとつに なること、分断されることなく、分離したままでい
ずに ひとつになることを意味している。この合一状態のなか ではじめて、人は
知り、気つ゛き、体験し、在るようになる。
宗教は大いなる実験でもある―実のところ、最大 の実験だ―が、違いがある。
科学は客観的な事物を 対象に実験するが、宗教は主体そのものに働きかける。
宗教の関心は「私は誰か?」ということにつきる。
人は最初からはじめなければならない。
自分自身を知らないかぎり、私は他の ことを何ひとつ知ることができない。
奥深くで無知のままであったなら、 私の知識はすべてがらくたにすぎない。
それは無知に基つ゛いている。
それは無知に根ざしている。
まず私の内側に光が生まれなければならない。
そうなれば、その光は広がってゆくことができる。
そうすれば、その光は<存在>のまさに果てまで到達することができる―<存在>
に果てがあるとしたらの話だが。
だが、まずそれは私の内側で生まれなければならない。
最初の炎は私の主体から発しなければならない。
私の中心が光で満たされて、そこではじめて空疎な知識にすぎなかったことが
すべて真に体験される。
自分自身を知らず、知 る 者 がそこにいないのに、どうして他のものを知るこ
とができるだろう?
あなた自身が深い闇のなかにいるなら、あなたが外につくりだした光はすべて
まやかしであり、幻想だ。
(p159)
(´・(ェ)・`)
(つづく)

226避難民のマジレスさん:2019/01/13(日) 09:46:07 ID:LC3de7YgO
>>225
>生こそが私たちを所有している。
どうして私たちが生を所有しえるだろう?
私たちはもっともっと生の手中に落ちていかなければならない。
構図ゲシュタルトがそっくり変わらなければならない。

(´・(ェ)・`)つ
うむ。
なるへそ。生、生命も意識と同じでありますね。 てか、生命と意識を分別しなくてよいのでありますね。

227鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/13(日) 21:22:46 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、全て一つなのじゃ。
空間にも意識が息づいているのがわかるじゃろう。

黄金の光とは感覚や心で感じるものではないというのじゃ。
無意識によって感じるものというのじゃ。
全てがその光であり、自分の中の光とも同じものと感じるのじゃ。
ここで肉体に気を巡らせる行は精神の行ともなるのじゃ。
肉体の命と精神の性を同時に行じる性命双修となるのじゃ。

228避難民のマジレスさん:2019/01/13(日) 22:18:33 ID:LC3de7YgO
>>225
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第五話 解放の機縁(つづき)
 より抜粋

宗教的な探索クエストは、ありうるなかで 最も深遠な探索だ。
この探索に関して理解 しておかなければならないことが二、三ある。
まず第一に、宗教は地を這うものであっては ならない―それは踊るものでなけ
ればならない 、踊りを忘れたら宗教は死んでしまう。
世間に欠けているのはまさにそれだ― 踊りを忘れたがゆえに、宗教は死んでい
る。
宗教は身を伏せて地を這いまわっており、 飛び方を忘れてしまっている。
宗教は教義ドグマと化してしまった。
教義は死であり、屍しかばねだ。
流れ、躍動し、飛び続けるためには、宗教は体験 として―理論としてではなく
、神学としてではなく― 瞑想として存在しなければならない。
神についての哲学ではなく、 個的な神の体験として存在しなければならない

そして、よくわきまえておきなさい― 神 に つ い て 知ることは 神 を 知る
ことではない。
神にまつわる知識をいくら蓄え続けても、けっして 神を知ることはない。
間接的に知ることは、 その中核そのものを貫かずに堂々巡りを続けることだ。
宗教は地を這うものであってはならないのに、そうなってしまっている。
キリスト教、ヒンドゥー教、イスラム教― それらはみな地を這いまわっている。
それらはみな護教的な立場をとっている。
それらはみな世界に科学が発達することを恐れている。
彼らは科学と闘ってきた。
彼らは科学の発達を妨げるためにできることはすべて試みてきたが、失敗した。
今や彼らは科学の裏付けを得ようと必死になり、やれることなら何でもやろう
としている。
だが、彼ら は自分たちが二義的なものになってしまったことを熟知している。
彼らは科学の裏付けなくしては存在しえない。
彼らは科学的な論証を支えとせずには存在しえない。
これは卑屈な振る舞いだ。
宗教はもはやみずからの基盤の上にみずからの足で立ってはいない。
それは科学 の裏付けを必要としている。
それは借り物の存在、借り物の生命として生き長らえている。
その時代は終わった。
なぜこのような事態が起こったのだろう?
宗教がひとたび教義ドグマと化し、もはや体験で なくなってしまうと、それは
ひとりでに死に絶える。
そして死体は自分の足で立てず、支えを必要とする。
教会や寺院はすべて支えを借り、みずからの足で立っていない。
仏陀のような人がいるとき、 彼はみずからの足で立っている。
キリストのような人がいるとき、 彼はみずからの足で立っている。
そのときには宗教は踊り、歌を歌っている。
そのときには宗教は息つ゛き、花を咲かせ、 千とひとつの花が開き、かぐわし
い香りが解き放たれる。
私はここで宗教を再び踊らせようとしている。
いかなる裏付けをも求める必要はない。
なぜなら、 宗教そのものがこのうえもなく真正な体験だからだ。
裏付けを求めて科学に目をやるのは宗教ではない!
宗教が踊りだし、息吹に満ちるようになれば、 科学がその裏付けを必要とする
ようになるだろう。
なぜなら、科学そのものが基盤を失いつつあるからだ。
科学は日毎にますます醜悪なものになりつつある。
科学は日毎にますます生を否定するものになりつつある。
科学は日毎にますます政治的なものになりつつある。
科学が発見したものはすべて政治家たちの手に落ちている。
科学が発見したものはすべて死に奉仕し、もはや生に 奉仕するものではない。
科学者の努力の九十パーセントは戦争に捧げられている。
科学は面子メンツを失いつつある。
宗教が踊りはじめないかぎり、 もはや科学にすら未来は残されていない。
科学はみずからを支えるために宗教から放たれるエネルギーを必要としている。
宗教が息吹を取りもどすことができれば、科学は宗教の一部、 影になり、そこ
ではじめて政治家とその狂気から自由になる ことができる。
さもなければ、それは不可能だろう。
人間は地球上の生命を絶滅させてしまう地点に どんどん近つ゛きつつある。
人間を救い、人類を救う ことができるのは、宗教的なエネルギーの解放だけだ。
(p161)
(´・(ェ)・`)
(つづく)

229鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/14(月) 22:28:15 ID:1d4drIFg0
ここで丹の完成から心の修行に入っていくのじゃ。
そもそも全ての気を巡らせる行から丹の完成まで全ては心を修めることのためにあったのじゃ。
丹を作り精神が深く集中したサマーディに入り、心から性を見る修行になるのじゃ。
本性を見る見性が可能になるのじゃ。
それが性命双修の道なのじゃ。

230避難民のマジレスさん:2019/01/15(火) 03:50:14 ID:LC3de7YgO
>>228
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第五話 解放の機縁(つづき)
 より抜粋

私たちがここでやっているのはごく小さな実験に 見えるかもしれない。
だが、そこに潜む力は無限だ。
人類の未来はひとえにこの一事にかかっている。
宗教が再び人間を導くことができるかどうか、 宗教が再び人間に根源的な影響
を与えることができるかどうか、 宗教が再び人類の夢となることができるかど
うかに。
そして、それはひじょうにむずかしい夢であることを―不可能に近い夢である
ことを覚えておきなさい。
神とともにあるという夢、神のなかにあるという夢 は、実現しえない夢のよう
なものであって当然だ。
人間は勇気を失ってしまった。
今や人間の夢はちっぽけなものに、 ごく世俗的なものになってしまっている。
もはや人間が超越的なものを夢見ることはない。
そして、いいかね、超越的なものを夢見ることを止めてしまったら、人は無意
味な生を生きることになる。
意味というものは超越的なものに触れてはじめて生まれてくるものだ。
意味というのは人が大いなる全体の一部、 自分よりも高次なものの一部、自分
よりも 大きなものの一部となってはじめて生まれるものだ。
人が自分自身を超えようとするとき、そこに宗教が生まれる 。
そして私が「宗教のダンス」と呼んでいるものはそれだ ―自分自身を超越しよ
うとすること。
それができる動物は 他にいない。
他の動物にはそれはできない。
人間だけが 自分自身を超越する潜在能力と、その可能性を有している。
そして自分自身を超越した者が何人かいる。
彼岸に到達した者が何人かいる。
あなたがたに語っているとき、 私は彼岸から語りかけている。
それゆえ、私は それを借り物の知識から語っているのではない。
私は自分自身の体験から語っている。
私は不可能なことが可能になりうることを知っている。
私のなかで実現したのだから、それはあなたのなかでも 実現しうる。
ひとたびあなたの内なる実存が光で満たされれば 、ひとたびあなたの内側に闇
がないことを知れば、 あなたは宗教的になる。
不可能な夢を見なさい。
最初はほとんど馬鹿げているように見える かも知れない。
確かにそう見える。
だが、その夢が充分に強ければ、 あなたの現実リアリティは変容を遂げる。

聞いた話だが…… 丘の中腹に三本の樹が生えていた。
樹々はそよ風に 揺られ、自分たちがなりたいものを夢に見ていた。
「いつか切り倒されて、ゆりかごになりたいなあ」と最初の樹 が言った。
「いつか切り倒されて、海を渡る大きな船になり、 宝物や宝石を運びたいなあ
」と二番目の樹が言った。
すると三番目 の樹が言った。
「丘の上に立って、人々に天国を指し示したいなあ」
ある日のこと、樵きこりたちがやって来て、最初の樹を切り倒し 、
「これで馬小屋をつくろう」と言った。
樹は 「僕は馬小屋なんかになりたくない。ゆりかごになりたいんだ」 と言って
泣き叫んだが、樵たちは馬小屋にしてしまった。
やがてイエスが生まれ、他に場所がなかったので、彼らは 赤ん坊をその馬小屋
にそっと寝かせた。
すると樹は言った。
「おやおや、僕が夢に見ていたものよりずっとすばらしいじゃないか」
樵たちは二番目の樹を見て「この樹で漁船をつくろう」と言った。
樹は「いやだ!漁船なんかになりたくない。僕は宝物や宝石を運ぶ 大きな船に
なりたいんだ」と言ったが、樵たちは漁船をつくり、それを島の湖に浮かべた。
するとシモン・ペテロという名の漁師がその船 を買い、イエスがその船に乗っ
て人々に説教した。
すると樹は言った。
「おやおや、僕が夢に見ていたものよりずっとすばらしいじゃないか」
樵たちは三番目の樹を見て、
「これで十字架をつくろう」と言った。
樹は「十字架なんかになりたくない。人がその上で死ぬなんて耐え られない。
僕は丘の上に立って人々に天国を指し示したいんだ」と 言った。
だが樵たちはその樹で十字架をつくり、やがてイエスが 磔はりつけにされた。
そして、いつの時代にも人々は 十字架に目を向けてきたが、それは神を指し示
している。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

231鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/15(火) 22:43:19 ID:1d4drIFg0
中国では儒教、道教、仏教の三教を同一の父子を目指すものとみるのじゃ。
この書にも仏教の教えが多く入っているのじゃ。
光を見るのも、丹を作るのもサマーディに入るためのものとするのじゃ。
道教によくある不老不死の仙人をめざすものではなく、悟りを目指すための書なのじゃ。

232避難民のマジレスさん:2019/01/15(火) 23:38:22 ID:LC3de7YgO
>>230
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第五話 解放の機縁(つづき)
 より抜粋

樹でさえ、夢を見、それを実現できるとしたら、人間は言うに及ばない。
人間はこの世で最もすばらしい潜在能力 をもっている。
欠けているものがあるとしたら、それは自分自身を超えたいという大きな夢が
欠けているということだ。
あなたは世俗的なもので満足してしまっている。
あなたは身を伏せて、大地を這いずりまわり はじめている。
あなたは上を見あげていない。
遥か彼方から呼びかけてくるものがある!
遥か彼方から挑みかけてくるものがある。
彼方からの挑戦を受け入れる者のみが人間だ。
そうでない者たちは「人間」と呼ばれていても 、人間の姿はしていても、真の
人間ではない。
人間でありなさい!
未知なるもの、彼方なるものの挑戦を受け入れなさい 。
それをあなたの実存の大いなる夢にするがいい。
(p164)
今見えているあなたは種子にすぎない。
種子は土中に落ち、死ななければならない。
そして樹となり、花を咲かせなければならない。
種子を割っても、そこには花は見つからない。
科学が大切 なことをそっくり見逃しているのはそこだ―科学は種子を 割り続け
てゆく。
科学は言う。
「この種子からみごとな花 が咲くだって?だったら種子を割って、分析して見
てみよう」
そして、彼らは種子を割って分析する。彼らは種子を分析する方法を手にして
いるが、花は見つからない。
そこで彼ら は花などないと言う。
彼らはそのようにして神は存在しない 、彼方なるものは存在しない、生命は偶
然の産物にすぎず、 天命などというものはない、という結論に到った。
一休禅師の有名な道歌がある。
桜木をくだきて見れば花もなし
花をば春の空ぞ持ち来る
春が来るのを待ちなさい。見たければ、春が来るのを待ちなさい。
あなたはそこで人ではなく、 ひとりの仏陀を見いだすだろう。
人ではなくひとりのイエスを見いだすだろう。
人ではなくひとりのクリシュナを見いだすだろう。
そのときあなたが見いだすのは 花であり、種子はもうどこにもない。
種子は消え失せた。
種子の役割は終わった。
それはこのうえもなく価値のあるものを守っていた。
それは青写真を運んでいた。
もうそれは必要ではない。
土が見つかり、春がやって来て、 そして種子には死ぬ勇気があった。
人間の自我エゴは種子に他ならない。
それは あくまでも自分を守ろうとする。
人々は私に尋ねる。
「自我エゴが神に対してこれほどの障壁となる なら、そもそも自我はどうして
存在するのですか?」
それはあなたを守るために存在している。
ちょうど 固い殻が種子の潜在力を守るために存在しているように。
その潜在力はひじょうに柔らかい。
まわりに固い殻が なければ壊されてしまうかもしれない。
固い殻は敵ではない。
固い殻が敵になるのは、春が来て、土壌が用意されて いるのに、種子が死ぬこ
とを拒むときだけだ。
固い殻が 「さあ、春を敵にまわしても、おまえを守り続けるぞ。 この土から君
を守ってやるぞ」と言えば、問題が生じてくる。
問題が生じるのはそこだ。
自我エゴそのものが問題 なのではない。
子供には自我がいる。
さもなければ 子供はまったく無防備のままにさらされる。
子供はこの 闘争の世界をどう生き延びてゆけばいいのかわからない。
子供はたび重なる危険から身を守る術を知らない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

233鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/16(水) 22:23:24 ID:1d4drIFg0
種子とは仏性とかアートマンともいえるじゃろう。
それらも観念に過ぎないものじゃ。
自我の持つ観念であるがそれがあるために目覚めることもできるものじゃ。
自我があることでそれらの観念を保持して実践し、目覚めることもできるのじゃ。
肉体の種子と精神の種子を合致させて華も開くのじゃ。

234避難民のマジレスさん:2019/01/17(木) 05:58:35 ID:LC3de7YgO
>>232
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第五話 解放の機縁(つづき)
 より抜粋

子供はひじょうに柔らかく、もろい。
覚者ブッダになる前に死んでしまうだろう。
自我が彼を助ける。
自我は一種の鎧よろいであり 、心マインドもそうだ―それは子供を守っている。
それはあなたの敵ではない。
それが敵になる のは次のような時だけだ。
その瞬間がやってきて 、あなたには瞑想に入ってゆく用意ができているのに、
師マスターを見つけだし、技法を見つけだし 、用意ができているのに、心マイ
ンドは言う。
「いやだ、俺は死ねない。俺がおまえに注いできた祝福のすべてを思い起こせ
。俺がおまえに与えてきた 恩恵をすべて思い起こせ。俺がおまえにしてやった
ことをすべて思い起こすんだ!感謝してしかるべきだ 。俺を滅ぼそうとするん
じゃない」
そうなったら問題が生じる。
そうなったら、守りであったものが破壊的になる。
そうなったら、あなたは自分自身の心と闘わなければ ならない。
自分自身の自我と闘わなければならない。
自分自身の鎧と闘わなければならない。
もはや鎧は必要ではないからだ。
あなたは 内なる潜在力を解き放たなければならない ―春がやって来ている。
だから、春がやって来て、はじめてそれが問題になる。
さもなければ、それは問題にはならず、助けになる 。
が、助けとなるものも障害になりかねない。
時が到れば、それは去らなければならない。
不可能な夢、自分自身を超えてゆく夢、 にゃはんニルヴァーナの夢、解脱モ
クシャ の夢、神の王国の夢を見るがいい― 夢見ることで、はじめてあなたはそ
れに向かって働きかけ、進みはじめる。
その夢を抱くことで、はじめてあなたの足に踊りの気配リズムが感じられるよ
うになる。
夢がなければ、あなたは鈍感になってしまう。
人々がだらだらと生きているのはそのためだ。
どうして踊ることができるだろう?何のために?
毎日ただ会社に行って仕事をし、家に帰って妻と口論したり、子供の不平に耳
を傾けるためにかね?
次の日に はまた同じことがはじまり、それが年がら年中続いてゆく。
踊りたい気分にさせるものがあるだろうか?
実のところ 、人が生き続けているのは、自殺してしまわないのは奇蹟だ。
彼は何のために生きているのだろう?
彼を待ちうけているものは何もない。
彼が見あげることのできるものは何もない。
夜空に星はなく、漆黒の闇が広がっている。
人が生き続けているのは、なんとか生き ながらえているのは奇蹟だ。
自殺する人々のほうが、道理にかなっているように見える。
生き続けている人々は、まるで道理をわきまえていないように見える。
惨めで、うんざりし、足 を引きずりながら、それでも生き続けている。
だが、そこには何かがある。
そこにはひとつのことが示されている。
それは、あなたの内奥の実存はどこかに 可能性があることを知っているとい
うことだ。
いつその潜在力、可能性に目を開くかもしれない。
いつその夢があなたをわしつ゛かみにするかもしれない。
そうなったら意味が生まれ、踊りが起こる。
「宗教は芸術アートだ」とウイリアム・ブレイクは言った―「宗教は芸術であ
って、金ではない」と。
この言明にはひじょうに深遠な意味が含まれている。
そしてこんなことを言えるのは、ウイリアム・ブレイクのような人だけだ。
彼は神秘家の詩人だ。
芸術アートとは何か?
「芸術とは、何かを為す道だ」 と彼は言う。
絵画、詩、踊り、彫刻、音楽、陶芸、織物。
「芸術とは、何かを為す道だ」 彼は自分自身を創造することについては何も言っ
ていない。
だが、宗教とはまさにそれだ。
それは絵画ではない。
それは詩ではない。
それは彫刻ではない。
それは音楽ではない。
だが、同一線上にある何か、彼方の何か ― 自分自身を創造することだ。
宗教もまた何かを為す道だ― 生きること、愛すること、見ること、在ること

芸術アートとは"創作すること"に他ならない。
それは神の創造を助けることだ。
私が「お手伝いいたしましょうか?」と尋ねた天使を「宗教的な人物」と呼ぶ
のはそのためだ。
創造主を知りたければ、あなたもいくらかは自分の力で創造しなければならな
い。
(´・(ェ)・`)つ

235鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/17(木) 22:33:25 ID:1d4drIFg0
物理的な面から見れば人はただ生まれては死んでいくだけのものにすぎないのじゃ。
そこには何も残らないじゃろう。
しかし、気や光があるものならばそれを操る者に不死と真善美の世界が開かれるのじゃ。
自らの身体に光を巡らし、黄金の華を咲かせて身体の可能性を広げることができるのじゃ。
それこそ真の芸術といえるのじゃ。

236避難民のマジレスさん:2019/01/17(木) 23:27:24 ID:LC3de7YgO
>>235
芸術は真理の表現だと、くまは思うであります。
(´・(ェ)・`)つ

237避難民のマジレスさん:2019/01/18(金) 05:50:29 ID:LC3de7YgO
>>234
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第五話 解放の機縁(つづき)
 より抜粋

詩は宗教そのものではないかもしれないが、 正しい方向を指し示している。
真に創造的な境地にあるなら、 詩人にも宗教のことが少しはわかる― 遥か彼
方から音楽が聴こえてくる。
というのも、創造的な境地にあるとき、 人は自分自身でなくなるからだ。
彼は参加している―ごくわずかではあるが、 彼は神のもとに参じている。
神聖の一滴が彼のなかに入ってくる。
優れた詩人たちが
「詩を書くとき、創造しているのは私たちではない。私たちは 乗っ取られる。
ある未知のエネルギーが入ってきて、それが私たちのなかで歌い、踊る。私た
ちはそれが何であるのか知らない」
と言うのはそのためだ。
我を忘れて絵を描くとき、画家は絵を描くことに完全に没頭していて、彼の自
我エゴは消えてしまう。
ほんの一瞬にすぎないかもしれないが、この無我の瞬間に、神が彼を通して描
いている。
あなたが神のもとに参じれば、神もあなたのもとに参じてくる。
芸術は無意識な姿をした宗教だ。
宗教は意識された芸術だ。
芸術は夢のなかで宗教的であるようなものだが、それは正しい方向を指し示し
ている。
芸術家は宗教的な人にもっとも近い。
だが、そのようには理解されていない。
あなたがたは詩人を宗教的だと見なしたり、画家を宗教的だと見なしたりしな
い。
むしろ逆に、誰かが断食して、肉体を痛めつけ、その実存を 醜いものにしたら
、そういう人こそ宗教的だと見なすようになる。
彼はただ自分自身に暴力を振るっているだけだ。
彼はただ 自滅的で、神経症を病んでいるだけなのに、宗教的だと見なされる。
神経症を病んでいる者が大聖マハトマになる。
彼らは聖者として敬われ、崇められる。
彼らは少しも 宗教的ではない。
いわゆる聖者と人殺しのあいだに大差はない。
人殺しは他人を殺し、いわゆる聖者は自分を殺す。
だが、どちらも同じことをやっている。
どちらも暴力的であり、どちらも破壊的だ。
そして破壊的になるときは必ず、人は神からもっとも遠く離れている。
なぜなら、神は創造性だからだ。
私にとっては、倫理を説く者ではなく、美を愛する者こそが宗教性のもっとも
近くに立っている。
レーニンは「倫理学が未来の美学になる」と言ったと 伝えられている。
だが私は言う―それは違う、まったく 逆であり、美学こそが未来の倫理学にな
るだろう。
美が未来の真理になる。
なぜなら、美は創造することができるからだ。
美を愛し、美を生き、美を創造する美しい人は、努力せずとも道徳的だ。
彼の道徳は培われたものではない。
彼を道徳的にさせているのは美的感覚に他ならない。
彼が殺せないのは、生命を奪うこと が美しいことだとは思えないからだ。
彼は美を基準にして判断する。
そして私は「宗教は芸術アートだ」 というウィリアム・ブレイクに同意する

芸術アートとはものをつくることに他ならない。
創作には必ずある種の信頼が必要となる。
人がそこにないものを見て、見ることも 触ることも、聞くこともできなかっ
たものに時間と空間のなかでの形を与える。
絵であれ、詩であれ、庭園であれ、つくりだされた作品は五感ではっきりとら
えることができる。
だが、芸術と生み出された作品を混同してはならない。
これは心にとめておくべきすばらしい区別だ。
それはあなたが宗教を理解する上でこのうえもない助けになるだろう。
芸術は一枚の絵でもなければ、一体の彫刻でもない。
画商が売り買いするものは芸術作品ではあっても、 芸術そのものではない。
芸術作品は一種の財産だ。
芸術と芸術作品が同じものではないように、宗教が 生み出す教義ドグマ、教説
、『聖書』『コーラン』 『ギータ』、教会、寺院、大聖堂などといった事物 や
作品と宗教そのものを混同してはならない。
それらはあくまで芸術作品だ。
それを「宗教的な芸術作品」と呼んでもいいが、宗教とそれらを混同してはな
らない。
教会はあくまで教会だ。それは美しいかも しれないが、それそのものが宗教で
はない。
それは副産物であり、紡ぎだされたものだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

238鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/18(金) 22:52:52 ID:1d4drIFg0
>>236 人は美しいものと合一することを望むのじゃ。
醜い神仏と一つになりたいと思う者は珍しいじゃろう。
美の中にのみ自我を明け渡し、死ぬことが出来るのじゃ。
それが教会や神仏が麗々しく飾られる理由なのじゃ。

239避難民のマジレスさん:2019/01/19(土) 00:20:54 ID:LC3de7YgO
>>238
うむ。
くまも、そう思うであります。
くま、もうそれしかないと思うであります。
くま、最近、悟ったつもりで生きる作戦を実践中である。
なかなかたいへんなのであるが、普通に過去未来に生きるより、よっぽど楽なのである。
(´・(ェ)・`)つ

240避難民のマジレスさん:2019/01/19(土) 08:07:06 ID:LC3de7YgO
>>237
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第五話 解放の機縁(つづき)
 より抜粋

『コーラン』は紡ぎだされた芸術品としては美しい詩だ。
モハメッドのこころハートに何かが起こった―それは宗教だったが、目に見え
ぬものとしてあり続ける。
何かが彼の魂のなかでかき立てられたので、 彼は歌い出し、狂ったように表現
をはじめた。
彼がはじめて山の上で独りっきりになり、神の臨在を感じはじめたとき、確か
に彼が思った通りのことが起こっていた。
彼は驚愕し、恐怖に 駆られるあまり、自分は気が狂ってしまったか、 詩人にな
ってしまったか、そのどちらかだと考えた。
彼は家に駆けもどった。
彼は熱に浮かされ、がたがた 震えていた。
突然、高熱に襲われたのだと考えた妻は 「どうなさったのですか?」と尋ねた

すると彼は言った。
「気が狂ったか、詩人になってしまったか、そのどちら かだ。
何かとてつもないことが起こっている。
それが何 なのか、それがどこからやって来るのか、私にはわからない。
私の身にはあり余るものが……私は自分の目が 信じられない。
自分のこころが、自分が感じていることが信じられない。
それがあまりに美しく、すばらしく、 広大だから、しかととらえることができな
い」
それは宗教だった。
数日続いた熱も下がり、モハメッドはその 新しい状態に、法悦に、サマーディ
に落ち着いた。
そして何かが流れ出るようにして、美しい『コーラン』 が生まれた。
だが『コーラン』は副産物だ。
『ギータ』もそうだし、『法華経ダンマパダ』もそうだ。
つねに覚えておきなさい。
聖典のなかに宗教はないし、ありえない。
聖典はどれも宗教の副産物―時の浜辺に 残された影、足跡だ。
だが、足跡は足跡にすぎない。
仏陀が浜辺を歩けば、言うまでもなく足跡 が残る。
だが、この足跡は仏陀自身ではない 。
この足跡は仏陀のものであるがゆえに美しい。
足跡に頭を垂れるがいい!
だが、それが副産物にすぎないことを忘れては ならない。
そして、足跡を崇めてばかりいないで、 あなたがひとりの覚者ブッダにならな
ければいけない。
芸術作品は一種の財産だ。
それを売り買いできるのは そのためだ。
が、芸術そのものを売り買いすることは できない。
パブロ・ピカソに芸術を売ってくれと頼んでも、それは不可能だ。
あなたにはどんな大金でも払う用意があるかもしれないが、彼は売ることがで
きない。
絵なら売れるが、彼の芸術を売ることはできない。
ものではないから売りようがない。
それはつねに不可視のままにとどまる。
目に見えるのはその結果だけだ。
神は目に見えないものであり、神は世界のなかにあってはじめて目に見えるよ
うになる。
あ な た は目に見えず、ただ肉体だけを目にすることができる。
ブレイクが「宗教は金ではない」と言うのはそのためだ。
彼は正しい。
彼は宗教は財産ではないと言っている。
宗教は財産のような ものではなく、宗教は愛に似ている―それは 買うことも売
ることもできないし、銀行に預けることもできない。
それを所有することはできない。
むしろ逆に、あなたのほうがその手のなかに落ちてゆく。
芸術作品は所有することができる。
それは財産だ。
それは死んでいる。
『コーラン』や『ギータ』や『聖書』 を学ぶことはできるが、宗教を学ぶこと
はできない。
あなたはそれを生きなければならない― それを学ぶすべはない。
あなたは 神の手のなかに落ちてゆかねばならない。
あなたは神に身をゆだねなければならない。
あなたはみずからの実存を開かなければならない。
あなたは退かなければならない。
神が入ってきて、あなたのすみずみまで占めることが できるよう、あなたはか
らっぽにならなければならない 。
まさにそうして身をまかせることで、あなたは 人類を超越する。
あなたはもはや人ではなく、ひとり の神、ひとりのキリスト、ひとりの仏陀だ。
(p171)
(´・(ェ)・`)
(つづく)

241鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/19(土) 22:54:58 ID:1d4drIFg0
>>239 どんどんやるとよいのじゃ。
 美の中に全てを明け渡すのじゃ。

時々人は光を巡らせなくとも、クンダリニーをあげようとしなくとも自然にサマーディにはいることがあるのじゃ。
長く座り続けていたとか、背骨か尾てい骨に衝撃を受けたとかの原因によるものじゃ。
その時人は脳が活性化してさまざまな芸術を自らつくりだすというのじゃ。
光を巡らすのもクンダリニーをあげるのもその模倣といえるのじゃ。

242避難民のマジレスさん:2019/01/20(日) 13:28:50 ID:LC3de7YgO
>>240
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第五話 解放の機縁(つづき)
 より抜粋

これらの経文は人が青写真としてたずさえ、 種子の形で宿しているこの覚者ブ
ッダの本質を、 あなたが解き放つよう助ける秘法を教えている ―その本質が開
花し、大樹となって葉を繁らせ 、たくさんの花をつけるよう助ける秘法を。

さあ、経文だ―
呂祖師は言った。
解放の機縁は目のなかにある……

私があなたがたに語ってきたこの潜在能力、このブッダの本質、このキリスト
意識、クリシュナ意識、あるいはなんと呼んでもいいが、それは第三の目のな
かにある。
二つの肉眼のちょうど真ん中に、からっぽの空間がある。
そして、そのからっぽの空間は、神としてのあなたが潜んでいる種子だ。
その第三の目が働きはじめないかぎり、あなたの潜在能力は解き放たれない。
それゆえに―呂祖師は言った。
解放の機縁は目のなかにある……解放とはにゃはんニルヴァーナ、解脱モクシ
ャ、救済、自由を意味する。
解放とは光明を得ることだ。
第三の目が働きはじめることができたら……それは眠っていて、機能していな
い。
あなたのエネルギーはそこまで到達していない。
その仕組みは完璧だが、そこまでエネルギーが届いていない。
あなたのエネルギーは下降して性欲、欲望、怒りに、世俗的なことがらに流れ
込んでいる―あなたのエネルギーは下方へ、外側へと流れている。
あなたには第三の目の中枢にまで届くだけのエネルギーがない。
あり余るほどのエネルギーをもたないかぎり、それは第三の目には到達しない。
あなたはエネルギーの貯水池にならなければならない。
貯水池になり、エネルギーが浪費されなければ、日毎にその水量は増してゆく。
やがてそれは第三の目に到達する。
そしてエネルギーが第三の目に触れたとたん、間髪をいれず、ただちにそれは
機能しはじめる。
そうなったら、あなたは生のヴィジョンを、そのあるがままの姿を見る。
第三の目を通してはじめて、あなたは神、実在、あるがままのものを知ること
ができる。
肉目を通して、あなたはこの世界を知る。
そして目が二つあるために、世界は分割され、二元的なものになっている。
あなたの両目が世界を分割させている。
世界そのものはひとつ だが、あなたの見方が世界を二つに分けてしまう。
それはプリズムを通過する光線に似ている。
光線 はひとつだが、プリズムを通過するやいなや七つ に分かれてしまう。
それは分光して七色になる。
虹はそのようにしてつくられる。
太陽光線が雲のなかの水滴を通り抜けてゆく。
この浮かぶ水滴が プリズムの役割を果たす。
その水滴を通った 太陽光線は、ただちに七色に分かれる。
あなたのエネルギーが両目を通して動くと、 世界全体が二分されてしまう。
そうなると、 あなたは昼と夜を対立物として、生と死を 対立物として、愛と憎
しみを対立物として、 物質と意識を対立物として見てしまう。
両目はあらゆるものを二元的にし、極性をもたせる。
そして、この両目のせいで、あなたは <存在>がひとつであることを見ることが
できない。
二つの目がひとつにならないかぎり、あなたが 不可視のもの、宇宙的なものを
知ることはけっしてない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

243避難民のマジレスさん:2019/01/20(日) 15:48:19 ID:LC3de7YgO
>>242
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第五話 解放の機縁
 より抜粋

この書物、『黄金の華の秘密』は言う。
外に向かう エネルギーは二元的になるが、その流れを逆転させると、再びひと
つになる―二元性を失い、不二になる。
エネルギーが両目からもどってくると、それは 本来の源へと落ちてゆきはじめ
る。
虹の七色を混ぜ合わせてひとつにすると、それは白色になり、ひとつの色にな
る。
その技法は同じだ。
外に流れるエネルギーが両目を通り 抜けると、全存在は二つに分かれる。
逆転したエネルギーが両目を通過してひとつ の目、眉間みけんの中央にある第
三の目に流れ 込むと、突然すべてがひとつになる。
これが サマーディだ。
あなたは神とひとつになっている。
解放の機縁は目のなかにある……人間の身体の華の種子は 上方のからっぽの空
間に集中されねばならない。
今現在、その空間はからっぽだ。
だが、ひとたびエネルギーが内側に向かいはじめたら、それは光で満たされる

不死はこのなかにあり、また世間の超克もこのなかにある。
あなたがみずからの実存のある一点に到達したとき……イエスは「両目がひと
つになるとき、あなたは神の王国に入っている」と言っている。
あなたは不死なるものを知る。
今やあなたは生と死は対立し合うものではなく、鳥の二つの翼であることを知
っているからだ。
死は生を破壊するのではなく、生が新たによみがえるのを助けている。
死は敵ではなく友人だ。
死はたんに生が古くなった衣装を変えるのを手伝う。
その衣装は使い古され、ぼろぼろになり、もう着ることができなくなってしま
っている。
死はあなたが家を替えるのを手伝うだけであり、あなたを終わらせるわけではな
い。
死はたんに新たな始まり、新鮮なエネルギーをあなたに貸し与えるだけだ。
そうなったら光と闇は二つではない。
そうなったら対立物は消え失せ、互いに補い合うものになる。
そうなったら全存在が男性エネルギーと女性エネルギーのあいだで交わされる
踊りになる。
それは深い歓びオルガズムに満ちた踊りになる。
両者はひとつになり、出会い、互いのなかに溶け合っている。
葛藤は消え失せる。そして、いかなる葛藤もなく全存在を見るとき、そこには
必ず大いなる歓びが生まれてくる。
そこに死というものはない。
人は死を外側からしか見ない。あなたは他の誰かが死んでゆく姿は目にしても
、自分自身が死んでゆくのを見たことはない。
誰も自分自身が死ぬのを見た者はいない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

244鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/20(日) 22:48:29 ID:1d4drIFg0
仙道の技法はエネルギーの方法ともいえるのじゃ。
光とか気と呼ばれるエネルギーを体に巡回させることで深い集中を可能にするのじゃ。
初めから気を感じることを学ぶから確実に作用するのじゃ。 
身体と精神の両方からの修練がより近道であるというのじゃ。

245避難民のマジレスさん:2019/01/20(日) 23:08:54 ID:LC3de7YgO
>>243
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第五話 解放の機縁(つづき)
 より抜粋

ソクラテスは毒を盛られたとき、胸をときめかせていた。
弟子たちが涙を流して悲しんでいると、彼は言った。
「悲しんではいけない。まもなく私は逝ってしまう。そうしたら心ゆくまで悲
しむがいい。今は、私に起こっているこの大いなる実験を見るがいい。私は死
というものにひじょうに興味をそそられている―私はほんとうに死ぬのかどう
か。この機会を逃してはならない。私のまわりに坐って見守りなさい」
師マスターはみずからの生を通して教えるだけでなく、みずからの死を通して
も教える。
師はあらゆる機会を使う―
弟子に教えるためにはみずからの死さえも使う。
彼が大きな声を出し、ひどく腹を立てながら
「涙を流したり、悲しむのはやめて、近くに来るのだ!この機会を逃してはな
らない!」
と言ったので、弟子たちは目を向けた。
するとソクラテスは言った。
「待ちなさい、毒がまわってきつつある。さあ、私の内側で何が起こっている
か話してあげよう。そうすれば、おまえたちも目に見えないものに気つ゛くこ
とができるだろう」
さらに彼は続けた。
「膝から下は死んでしまった。だが、私自身は少しも変わらず、前と同じよう
に何も損なわれていない」
さらに彼は続けた。
「脚全体が死んでしまった。腰から下は何も感じない」
彼は弟子に足に触って、つねってみるように言ったが、何も感じることができ
なかった。彼は言った。
「感覚がないのは、私の身体の半分が死んでしまったということだ。だが、私
は今まで通りまったく損なわれていない。内なる感覚は、半死半生といった感
じではない。私は今まで通り生きている!身体の半分が死んでしまったが、私
の実存は影響を受けていない」
やがてゆっくりと手が死にはじめ、呼吸が止まりはじめると、彼は最後の言葉
を語った。彼は言った。
「だんだん舌がまわらなくなってきたので、もうしゃべれない。だが、最後に
言っておきたいことがある。身体のほとんど九割が死んでしまったが、私は十
全に生きている。これから察するに、おそらく身体が死んでしまっても、 私は
生きているだろう。 身体の九割が死んでしまっても、私は 今まで通り何も損な
われていないからだ。 だから最後の1割が死んでしまっても……。 おまえたち
は私の内側で何が起こっているのか見ることができないが、私は見ることができ
る」
ソクラテスは、ギリシャの他の哲学者のような 凡庸な哲学者ではない。
彼の弟子のプラトンや アリストテレスでさえ……アリストテレスは、 実のとこ
ろ、弟子ではなく敵だ。
彼はソクラテス をまったく理解していない。
彼が提唱したものは 完全にソクラテスに反している。
ソクラテスは神秘家だ。
彼の哲学は探求の方法にすぎない―それは実に鋭い探求だ。
彼は死でさえもはずさない。
彼は死のなかを探ってゆく。
最後の瞬間まで、彼はみずからの探求の方法に忠実だった。
(p176)
死は外側からしか見ることができない。
あなたは他の人々が死んでゆくのを目にする。
だが、生きているというのは別のことだ。
生は内側から見ることができる。
生きて いれば苦痛や快楽を覚え、愛したり、 恐怖を抱いたりすることがある。
生きていれば創造することができる―ないものを考え出し、それに形を与える
ことができる。
創造的な人がもっぱら生の高次の姿を知ってゆくのはそのためだ。
なぜなら、創造するとき、人はみずからのエネルギーを最大限に発揮するから
だ。
創造するとき、人は神の一部になっている。
どうして人がそれを為しうるのかは神秘だ。
どうして人が存在しうるのかは神秘だ。
結果にはすべて原因があるにちがいない。
私たちが「因果の法則」と呼んでいるのは まさにそれだ―私たちはそう教えら
れてきた。
だが、私を今ここにあらしめている原因を私は見つけることができない。
私は奇蹟に運ばれているのを自覚している。
私の理性は私によくつくしてくれるが、私という存在ビーイングの神秘の前で
は色を失う。
理性そのものがこの神秘の道具なのだ。
理性が神秘を知りえないのはそのためだ。
あなたは内側を見なければならない。
生が何であるかを見るには、まず内側からそれを感じ取らなければならない。
そして生を感じ取るための最良の方法は創造的になることだ。
そうすれば最大限の力が発揮されるからだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

246鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/21(月) 23:00:58 ID:1d4drIFg0
死の最後の瞬間まで自己を追求するチャンスはあるものじゃ。
死なない意識に到達できれば不死なのじゃ。
マハリシもそれができたのじゃ。
死の最後の瞬間まで諦めてはいかんのじゃ。

247避難民のマジレスさん:2019/01/22(火) 00:23:48 ID:LC3de7YgO
>>245
19黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第五話 解放の機縁3
 より抜粋
通常、人々は最小限の生き方をしている。
人々がやり続けていることはみな最小限の力で行なうことができる。
それはただの習慣、身についた日々の決まりきった仕事にすぎないからだ。
それらの仕事は意識から、身体の自動的に機能し続けるロボットの部分に伝達
されている。
言うなれば、車の運転の仕方を覚えてしまったようなものだ。
習いはじめは危ないので、あなたはひじょうに敏感で、すき がない。
何が起こるかわからないから、目が離せない。
色々 なものに気を配り続けなければならない。
ハンドル、道路、 クラッチ、ギア、アクセル、ブレーキなど、気を配らねば な
らないもの、目を離せないものがたくさんある。
そして 行き交う車の流れ、傍らを通り過ぎてゆく人々、傍らを通り過ぎてゆく
車、だが、運転を覚えてしまうと、その知識は身体のロボットの部分に伝達さ
れてしまう。
そうなったら気を配る必要はない。
友達と話したり、歌を 歌ったり、タバコを吸ったり、ラジオを聴いたりしてもい
い。
身体が運転を続けてゆく。
まれな時を除けば、目を見張っている必要はない。
事故が起こりそうになると、あなたは一瞬のあいだ目覚める。
あまりに大きな危険が身に迫り、頭が真っ白になってしまうので、ロボットの
部分が対処できないからだ。
そんな ことは一度も起こったことがない、まったく新しいことだ。
普通の生活は機械的で型にはまったものになり、人は最小限の力で生きるよう
になる。
最大限に燃えあがることはけっしてない。
創造性を発揮することで人は燃えあがる。
これが私のサニヤシンに対するメッセージのひとつだ ―創造的でありなさい。
創造的であることが礼拝になるからだ。
創造的であることが祈りであり、創造的であることが瞑想だ。
創造的であることは神の近くにあることだ。
カーバ(メッカにあるイスラム教の聖殿)へ行く必要はない。
神はカーバと同じようにここにもいるからだ。
ヒマラヤに行く必要はない。
神はどこでも等しく手を差し延べているからだ。
だが、その手を取ることができるのは最大限に 生きている者たち、生命の炎が
くすんでいない者たち 、すべてのエネルギーをそれに注いでいる者たちだけだ。
そしてそれは創造性を通してはじめて起こる。
だから私のサニヤシンの定義は、感受性を失い、死んだように坐っている古い
タイプの聖者の定義とは異なっている。
サニヤシンの定義は創造的であることだ。
踊ったり、歌ったり、音楽や絵や彫刻を創作したり、あるいは何でもやりたい
ことをやりなさい。
最も深い喜びとなるものを見つけだし、それをやりなさい!
そして行為とは目に見えないものを見えるものにするということだ。
行為とは夢をこの世にもたらすということだ。
夢を実現させなさい。
潜在能力を発揮させなさい。
それにまさる喜びはない。
未知なるものを知りうる世界へともたらすことができたとき、創作し、創造し
、夢を現実にすることができたとき、神に手を貸したとき、そのときはじめて
真の至福が得られる。
何らかのやり方で、自分なりのやり方で世界をもう少し美しくしたとき、 世界
の喜びを増したとき、そのときあなたはサニヤシンだ。
この道に、あなたの内なる生に気つ゛くことは、自分が不死であることを知る
助けになる。
ひとたび潜在能力を完全に発揮している自分の姿を知ったなら、 内なる松明た
いまつが両側からめらめらと燃えているときの自分の姿を知ったなら、 死など
存在しないことがわかるだろう。
力が最大限に発揮されると、 第三の目が働きはじめる― 最大限に発揮された
ときはじめて。
だから、だらだらとした生き方をしてはいけない。
生が重荷でもあるかのような、果たさねばならない義務であるかのような生き
方をしてはいけない。
生を踊りにしなさい。生を祝祭にしなさい。
(p179)
不死はこのなかにあり、また世間の超克もこのなかにある。
生の炎が第三の目に到達するのをそのままにしておけたら、死など存在しない
ことがわかる。
そしてふと気つ゛くと、もはやあなたは世間に執着していない。

(´・(ェ)・`)
(つづく)

248鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/22(火) 22:05:16 ID:1d4drIFg0
止観の法を伝える仏教でさえ観察の法は廃れてしまっているのじゃ。
四諦も因縁も知識や理論だと思われているのじゃ。
それらは感性を磨いて観察するための方法なのじゃ。
記憶だけして居ればよいというものではないのじゃ。
常に感性を磨いて観察力を増進して観察しなければいかんのじゃ。
それには芸術を産む創造性が必要なのじゃ。
芸術は自然を観察して模倣するのが王道であるからのう。

249避難民のマジレスさん:2019/01/22(火) 22:49:09 ID:LC3de7YgO
>>247
19黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第五話 解放の機縁3
 より抜粋

さあ、この違いを覚えておかなければならない。
古いサニヤス、昔のいわゆる宗教的な生き方は、人々に世間との関係を絶つよ
うにと教えてきた。
私は関係を絶つことは教えない。
私はあなたの生命エネルギーを最大限に発揮するよう教えている。
ひとたびみずからの実存のなかにある真実のものを見れば、世間はもはや意味
を失ってしまう。
高次のものが生まれれば、低次のものは意義を失う。
それを棄て去る必要はない。
それはすでに落ちている。
どこにも逃げ出す必要はない。
あなたは世間で生きることができる。
だが、あなたは世間を超越している。
そして、覚えておきなさい。
逃避するのと、超越するのはまったく違うことだ。
真のサニヤシンは、世間との関係を絶つのではなく、それを超越しなければな
らない。

光は肉体のなかだけにあるのではなく、 肉体の外だけにあるのでもない。
ひとたび内なる光を見たら、あなたは光は内側だけにあるのではなく、外側に
もあることに気つ゛くようになる。
光は、あ な た のなかだけに封じられているものではない。
いいかね、暗闇は個的なものだが、光はあまねく存在している。
死は個的なものだが、生はあまねく存在している。
惨めさは個的なものだが、至福はあまねく存在している。
惨めさがあるためには、あ な た が存在していなければならない―孤立したあ
なたが存在していなければならない。
そして至福が訪れるためには、あなたは全体の一部になり、全体と調和しなけ
ればならない。

光は肉体のなかだけにあるのではなく、肉体の外 だけにあるのでもない。
山河大地は太陽と月に照らされるが、それはすべてこの光である。
ひとたび内側に光を見たら、光が至るところに―月のなかに、太陽のなかに―
あることに気つ゛くだろう……。
光はすべて同じだ―内なる光であろうが、外側の光であろうが変わりはない。

それゆえに光はたんに肉体のなかにだけあるのではない。
理解と明晰さ、知覚と光明、そして(精神の)すべての働きは この光に他なら
ない。
あなたが月に見る光と、内側にある第三の目に見る光は同じものだ。
それが同じ光であることに気つ゛けば、内界と外界の違いはもはやなくなって
しまう。
内は外であり、外は内だ。
それゆえに、禅師は
「輪廻サンサーラこそがにゃはんニルヴァーナ」―世間が、この世間そのもの
が悟りだ、と言う。
この身体がそのまま覚者ブッダであり、この世がそのまま楽園である、と。
仏陀が光明を得たとき、「不思議な、信じがたいようなことだが、私が光明を
得たとたんに、全世界がともに光明を得た」と言ったのはそのためだ。
何世紀にもわたり、仏教の瞑想者たちはそれに瞑想してきた。
「仏陀は何を言おうとしているのだろう?
仏陀は何が言いたかったのだろう?
『私が光明を得たとたん、全世界が光明を得た』
とは?どうしてそんなことがありえるだろう?
まだ光明を得ていない人は無数にいるのだから。
仏陀は何を伝えようとしたのだろう?」
瞑想者自身、
「少なくともこの私は光明を得てはいないのだから、全存在が光明を得ている
はずがないではないか」
と考える。
仏陀にとっては全存在が光明を得ている。
彼は、内と外を分けているのが自我エゴ―自我という薄いカーテン―にすぎな
いことに気つ゛いたからだ。
そのカーテンが落ちてしまえば、内なるものもなく、外なるものもない。
それゆえに、仏陀は「私は光明を得た」と言うことができない。
彼は「生きとし生けるすべてのものが光明を得た」と言う。
あらゆる樹々、あらゆる川、あらゆる山々、あらゆる人々、あらゆる動物たち
、あらゆる星々―いっさいのものが光明を得た。
もはや彼には分離した自己認識アイデンティティーがないからだ。
彼は、あなたは光明を得ていると言おうとしているのではない。
彼はたんにこう言っているだけだ。
「『この私が光明を得た』とは言えない。
ただ『私は束縛されていた』と言うことしかできない。
ただ『私は無知だった』と言うことしかできない。
ただ『私は苦しんでいた』と言うことしかできない。
だが、今やその私がいないのだ」
(´・(ェ)・`)
(つづく)

250避難民のマジレスさん:2019/01/22(火) 22:51:44 ID:LC3de7YgO
マハラジは天才物理学者の様に語り、OSHOは天才詩人のように語ってるように思えるでありす。
(´・(ェ)・`)つ

251避難民のマジレスさん:2019/01/23(水) 18:35:51 ID:LC3de7YgO
>>249
19黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第五話 解放の機縁3
 より抜粋

<存在>は至福に満ちている。
<存在>は光に満ちている。
そして内なる光と外なる光は同じものだ―内なるものもなければ、外なるもの
もない。
光が第三の目―ひとつの目、唯一の目に入り込めば、あらゆる区別が消える。
区別という区別がみな消え失せる。
虹は再び白一色の光線になる。

つい先日、こういう質問があった。
「和尚、あなた自身は白を着ておられるのに、どうして 私たちにはオレンジ色
の衣服を着ろとおっしゃるのですか?」
それはただの象徴であり、あなたがたは複数の色が消えて、何の区別もない白
い光線だけが残る地点に到達しなければならないということを示しているにす
ぎない。
(p182)
理解と明晰さ、知覚と光明、そして(精神の)すべての働きは この光に他なら
ない。
それゆえに光はたんに肉体の外にだけ あるのではない。
光は外界にだけあるのではないし、内界にだけあるのでもない。
光は至るところにある―内側にもあれば、外側にもある。
それは同じ光―草木や花の上で輝き、蓮の花の上で踊っているのと同じ光だ。
そして、いいかね、師は「知識」ではなく「理解」だと言っている。
師は「答え」ではなく「明晰さ」だと言っている。
人がひじょうに明晰になると、問いは消えてしまう。
何かの答えを得るというのではない。
あまりに明晰なので、もはやそこに混乱がなくなるというだけのことだ。
答えがあるのではなく、問いそのものがなくなるということだ。
それが「知識」ではなく「理解」と呼ばれるのはそのためだ。
つい先日、アニルッダも尋ねていた。
「私たちの知識とあなたの知識の違いはどこにあるのですか?違いがあるよう
に思えるのですが」と。
違いは知識にあるのではない。
彼は私のほうがよりたくさんのことを知っていると考えていたにちがいない。
実情はまったくその逆だ。
私はあなたがたほどものを知らない。
実のところ、あなたがたは知っているが、私には知識がない。
私はたんに明晰なだけだ―それは明晰さ、理解力であって、知識ではない。
私より、ものをよく知っている者はここにも大勢いる。
そしてそれが彼らのつまつ゛きになっている。
彼らはその知識を落とさなければならない。
私は何も知らない。
明晰さがあるだけだ。
あなたが私に質問をしても、私はそれに対する答えをもっているわけではない

明晰さの焦点をその問いに合わせ、理解しようとするだけだ。
そしてその明晰さから生まれてくる感応が何であれ、私はそれをあなたに与え
る。
それは知識ではなく、見抜く力にすぎない。
知識は人々を盲目にする。
彼らの目は知識で一杯になりすぎて、観ることができない。
あなたが質問をする前から、彼らは既成の答えをもっている。
彼らはいつでも答える用意がある。
彼らはあなたの質問など聞いていない。
彼らは質問者に耳を傾けていない。
彼らは質問者の実存になど耳を傾けない。
彼らは質問者のなかをのぞき込み、相手が何を言おうとしているのかを見よう
とはしない。
彼らは既成の答えをもっている。
彼らは鸚鵡オウム返しに答えを返し、そして論拠となるものや経典を用いてそ
の答えの正しさを証明しなければならない。
そしてあらゆる種類の裏付けを差し出さなければならない。
私はただ一種の理解力、洞察力、見抜く力をもっているにすぎない。

それゆえに、呂祖師は言う―
理解と明晰さ、知覚と光明……と。
それは知識でない。
それは雲ひとつない内なる大空だ。
(p183)
(´・(ェ)・`)
(つづく)

252鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/23(水) 23:44:26 ID:1d4drIFg0
>>250 そうじゃ、オショーは詩人のように人の感情に働きかけるのじゃ。
 そうであるから人を熱狂させるブッダなのじゃ。
 そのようにして人を悟りの道に誘導するのじゃ。
 偉大な如来なのじゃ。

253避難民のマジレスさん:2019/01/24(木) 19:23:46 ID:LC3de7YgO
>>251
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第五話 解放の機縁(つづき)
 より抜粋

天地の光の華は数限りない空間を満たしている。
だが、個々の身体の光の華も天にみなぎり、地を覆っている。
それは光の華、この森羅万象のすべてだ。
これは神秘家の体験だ。
森羅万象をつくりあげているのは光以外の何ものでもない。
それはすべて光だ。
光は森羅万象を構成する基本的な要素だ。
そして現代物理学はそれに同意する。
かれらはそれを「電気」と呼んでいる。
光は彼らにとってはあまりに詩的すぎる。
彼らはそれを大地に引き降ろさなければならない。
それは電気になる。
だが、彼らが語っているのはまったく同じものだ。
物質は現代物理学から姿を消した。
物質はもはや存在しない。
物質のもっとも深い中核にあるのは、電気、電子、電気を帯びて舞っている粒
子、質量をもたない踊るエネルギーの粒子に他ならない。
これは何世紀にもわたり、神秘家たちが例外なく体験してきたことだ。
その神秘家の生まれた国がインドであろうが、中国であろうが、チベットであ
ろうが違いはない。
これはすべての神秘家が共有するもっとも基本的な体験だった。
森羅万象をつくりあげているのは光以外の何ものでもない。

『黄金の華の秘密』は言う―この光、この光の華、この光の花弁が内と外のあ
らゆる空間を満たしている、と。

それゆえに、光が巡ると、たちまちにして天地山河 いっさいのものがそれと同
時に循環する。
仏陀が言っていたのと同じことが違う言葉で語られている。
自分の内側で光が巡っているのを見るやいなや、あたり一面に光が輝きだすの
を見ることができるようになる。
まわる星々、山や川―すべては光の流れ、光のエネルギーのとほうもない踊り
に他ならない。
(p184)
人間の身体の華の種子を上方の両目のあいだに集中させること、 それが人間の
身体の大いなる鍵である。
弟子たちよ注意せよ!
瞑想を一日怠れば、この光は流出してゆき、どこへ消えてゆくのか誰にもわか
らない。
もし一刻でも瞑想するなら、一万の劫こうも一千の生涯も取り除くことができ
る。
あらゆる技法は 静けさのなかに帰す。
この不可思議な力は計り知れない。
呂祖師は言う―二十四時間の内、たった十五分でいい、と。
十五分間静かに坐り、第三の目に集中することができたら、あなたの未来全体
を変えるにはそれで足りる。
再び肉体に生まれ変わってくる必要はなくなる。
再びこの世に投げ返される必要はなくなる。
あなたは学ぶべきものを学び終えた。
肉体や肉体の限界をもたずに活動するにふさわしい存在になった。
あなたの魂は、いっさいの束縛やしがらみを離れて自由になる。
そうなったら、死も誕生も存在しなくなる。
あなたはこの限りなき<存在>における永遠の華になる。
たった十五分で?そう、たった 十五分で奇蹟を起こすことができる。
だが、人々にはたった十五分ですら 沈黙し、静かにしている用意がない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

254鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/24(木) 22:14:46 ID:1d4drIFg0
光とは気とかプラーナとかエーテルと呼ばれるものと同じなのじゃ。
それは人の中にもあり、全ての宇宙も満たしているのじゃ。
全ては同じ本質を持ち、同じ意識の現われなのじゃ。
光を眉間に集中してサマーディに入ればそれが如実に感じられるじゃろう。
そのために今までの技法はあったのじゃ。

255避難民のマジレスさん:2019/01/25(金) 02:37:06 ID:LC3de7YgO
>>253
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第五話 解放の機縁(つづき)
 より抜粋

聞いた話だが…… イグナチウス・ロヨラは、彼に敵意を抱いている男が法王
に選ばれたという知らせを受けた。
ロヨラが生涯をささげてきたイエズス会の解散を、この新しい教会の首長に命
じられたらどうするかと尋ねられたとき、彼は答えた。
「十五分の祈りさえあれば、何も変わりはしない」
この答えにはこのうえもなく深い意義がある。
彼に敵意を抱いている法王が権力の座につけば、 ロヨラの仕事全体がつぶされ
てしまう恐れが高かった。
彼は小さな神秘家の共同体をつくっていた。
その働きは秘教的なものだった。
キリスト教は、つねに秘教的な働きに反対し続け、つねに神秘家を恐れてきた

なぜなら、神秘家たちは危険だからだ。 彼らはこの世に真理をもたらす。
そしてひとたび彼らがこの世に真理をもたらしたら、人々はもはや儀式、無力
な儀式には興味をもたなくなる。
そうなったら、誰が教会のことを気にかけるだろう?
それゆえにキリスト教は、教会から誰も離れられないように、神に通じる別の
扉が誰の手にも入らないように、誰もが聖職者 のもとへ行かざるをえないよう
に、あらゆる神秘家たちの集団 を執拗に破壊し続けてきた。
たとえ神を探求したいという願望が生まれても、どこにも選択の余地は残され
ていない。
この馬鹿げた観念のせいで、キリスト教は世界中の宗教を破壊してきた。
というのも、世の中にはさまざまな人々がいて、それぞれ自分に合ったタイプ
の集団を必要とし、自分に合ったタイプの手法を必要としているからだ。
そして、本当に誠実な探求者たちは秘教グループを見つけださざるをえない。
彼らは形式的な宗教の一部になることができない―物足りないからだ。
それは なまぬるく、きわめて表面的だ。
西洋では、教会のせいで真の宗教は地下にもぐらなければならなかった。
人々は真実の姿を隠すために様々な偽装をこらさねばならない。
錬金術というのはその偽装のひとつだった。
本当にやろうとしていたのは別のことだった。
錬金術師は、卑金属を黄金に変える仕事をしているのだという印象をまわりに
かもしだそうと努めた。
それなら許されるからだ。教会は大いに満足していた。
卑金属を黄金に変えようとしているのなら、まったく問題 はない。
やりたければそれをやればいい。
成功すれば、教会の黄金が増えるだけのことだ。
恐れることは何もない。
だが、それは偽装にすぎなかった。
それは真の錬金術ではなかった。
それは見せかけにすぎなかった。
カーテンの裏で行なわれる真の作業ワークはまったく別のものだった。
それは低次の実存を高次の実存に変容させることだった。
それこそまさに性欲、すなわち卑金属をいかにして霊性、すなわち黄金へと変
容させるかという "黄金の華"の秘法に他ならなかった。
だが、不必要な手間をかけねばならなかった。
彼らは黄金 を扱う仕事をしているのだと世間が納得するように見せかける工夫
をしなければならなかった。
そして、誰もが黄金に興味を もっている。
教会は、神ではなく黄金に強い興味を寄せている。
ロヨラは言った。
「十五分の祈りさえあれば 、何も心配することはない。 十五分もあれば私は
瞑想に深く 入ってゆける。
それだけでいい。
そこにいるかぎり、何も問題はない、 まったく何の問題もないからだ」

呂祖師は言う十五分間だけで……一万の劫こうも一千の生涯も取り除くことが
できる。
あらゆる技法は静けさのなかに帰す。
それを覚えておきなさい。どんな技法を選んでも、ゴールは同じだ―静けさ、
内なる完全な沈黙、無思考、いかなる中身もない純粋な意識。

この不可思議な力は計り知れない。
その深さは計り知れない。
思考が消え、あなたが完全に沈黙すると、その静寂は底知れぬ深淵となり、測
ることができない。
太平洋の深さは測ることができる―八千メートルの深さがある。
だが、あなたの内なる太平洋の深さは測ることができない―それは底知れない

どこまでも掘り進み、どこまで深く潜っていっても、その深さを測ることはで
きない。
その底にはけっして達しない。
測ることができるのは思考だけであり、無念無想の状態を測ることはできない

それゆえに、無念無想の状態は神の別名だ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

256鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/25(金) 22:43:31 ID:1d4drIFg0
通常の道教の経典では陽神をつくり出神する方向に進むのであるがこの書は違うのじゃ。
丹を作った後に眉間に集中して定に入るのじゃ。
そして光が自らの中にも全てにもあることを見出すのじゃ。
悟りに向かう書なのじゃ。

257避難民のマジレスさん:2019/01/25(金) 23:53:05 ID:LC3de7YgO
>>256
鬼和尚、いつもありがとうであります。
超勉強になるであります。
(´・(ェ)・`)つ

258避難民のマジレスさん:2019/01/26(土) 00:05:53 ID:LC3de7YgO
>>255
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第五話 解放の機縁
 より抜粋

だが、いいかね。思考のない状態は一種の眠りであってはならない。
なぜなら、それはごくありふれたものだからだ。
それは毎日起こっている。
深い眠りのなかで、夢が消えたとき、あなたはその深淵のなかへと落ちてゆく

ぐっすり眠ると若返ったように、さわやかになるのはそのためだ。
朝になると再び活力がみなぎり、あなたは新しく生まれ変わっている。
だが、それは無意識に起こることだ。
パタンジャリは、深い眠りとサマーディはひじょうによく似ているが、ひとつ
だけ違いがあると言っている。
眠っている時には人は無意識だが、サマーディの状態では意識している。
だが、あなたは同じ空間―内側にある、同じ測ることのできない不可思議な空
間におもむいている。
そこには思考もなく、欲望 もなく、想念の波動もなく、まったく静かだ。
あらゆる技法はそこに到る。
ヨーガ、タントラ、タオ、ハシディズム、スーフィズム ―あらゆる技法は異な
る角度からそこにたどり着く。
それら はさまざまなタイプの人々のために編み出されたものだ。
(p188)
だが、実修をはじめるにあたり、人は浅いものから深いものへ、粗雑なものか
ら微細なものへと進んでゆかなければならない。
最初は大いなる努力が必要とされる。
人は浅いものから深いものへと進んでゆくしかない。
浅いものとは何だろう?
浅いものとは絶え間のない思考のプロセスだ。
深いものとは何だろう?
思考のない状態のことだ。
粗雑なものとは何だろう?
心の中身はみな粗雑だ。
微細なものとは何だろう?
中身のない状態は微細だ。
人は進みつつ゛けなければならない。
最初のうちは大いなる努力が必要とされる。
最初のうちは行法ワークに完全に身を投じ
なければならない。
そうしてはじめて瞑想は無努力になり、至福の瞬間が生まれてくる。
まず瞑想は男性的エネルギーでなければならない。
それが尽きてはじめて女性的エネルギーになることができる。
私がまず最初に激しい動きをともなう技法を強調するのはそのためだ。
全力をふりしぼり、最大限の努力をするがいい。
しりごみせずに、もてるすべてを賭けるのだ。
そうすれば、やがていつか努力せずにくつろぐことができるようになる。
目を閉じるだけで第三の目に到達することができるようになる。
だが、実修をはじめるにあたり、人は浅いものから深いものへ、 粗雑なものか
ら微細なものへと進んでゆかなければならない。
すべては間断なく持続するかどうかにかかっている。
それを規則正しく行ないなさい。

実修は始めから終わりまで一貫していなければならない。
この間に、冷暖をおのずから知るのである。
だが、目指すべきは 空の広大さと海の深遠さに到ることであり、そうすればあ
らゆる技法をいともたやすく身につけることができる。
そこではじめてそれを体得したと言える。
努力が不要になり、いっさいの努力が落ちたとき、あなたはそれを真に体得し
ている。
技法が不要になり、いっさいの技法が落ちたとき、あなたはそれを真に体得し
ている。
瞑想がもはやすることではなくなり、みずからの境地になったとき、あなたは
それを真に体得している。
あなたはそのなかに生き、歩くときも、坐るときも、そのなかにある―「坐る
ことも禅であり、歩くことも禅だ」
食べるときも、眠るときも、あなたは瞑想の内にあり、それになりきっている

いずれはそのときが来る。
だが最初は全身全霊で取り組まなければならない。
いいかね、水が百度の熱で蒸発するように―九九度や九九・九度ではなく百度
で蒸発するように、あなたがもてるすべての力を振り絞って百度に達したとき
には、ただちに卑金属が黄金に変わる。
性エネルギーは、ただちに霊的世界にまで到達する。
流出していたエネルギーはただちに百八十度の転換を遂げ、二つの目はひとつ
になる。
そうなったら内界と外界はくまなく光明で満たされる。
イエスは言った。
「木を切りなさい、そうすれば私がみつかるだろう。石を打ちなさい、そうす
ればそこに私がいる」
これは究極の境地だ。
木を切ると神を見いだし、石を打つと神を見いだす。
あなたは神として、神のなか、神の上を歩いている。
あなたは神を呼吸し、神を食べ、神を飲んでいる。
なぜなら、すべてが神だからだ。
この究極の体験こそ、呂祖師の言う開放だ。
そしてそれは第三の目のなかにある。
(p190)
(´・(ェ)・`)

259鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/26(土) 22:44:04 ID:1d4drIFg0
>>257 そうじゃ、どんどん学ぶと善いのじゃ。

オショーがこの書を解説するのも悟りにまで通じる実践の書であったからなのじゃ。
通常のただ単に集中だけをする修行であるとサマーディにまでたどり着くのに才能と時間が必要なのじゃ。
このように気とか光を身体に巡らせて使えばより短期間で才能の無い者にもサマーディに辿りつけるのじゃ。
それが性命双修の貴重なところなのじゃ。

260避難民のマジレスさん:2019/01/27(日) 10:22:03 ID:LC3de7YgO
>>258
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える
 より抜粋

呂祖師は言った。
観想なくしては何事も成しとげられない。
覚知することにより人は目標に到る。
内観によって反転させなければならないのは自意識をもったこころである。
万物を形つ゛くる精神が顕現してくる前の状態へとそれを導かなければならない

昨今の人々はたった一時間か二時間坐って瞑目し、ひたすら己の自我を見つめ
、それを内観と呼んでいる。
そのようなやり方でどうして何かを得ることができるだろう?
人は鼻の頭を見るべきである。
だがこれは、みずからの思念を 鼻の頭に固定させるという意味ではない。
またこれは、目で鼻の頭を見つめながら思念を「中心の黄色」に集中させると
いう意味でもない。
視線が向かうところに、こころも向かうものである。
どうしてそれを同時に上方と下方に向けることができるだろう?
こういったことはみな、月を指す指を月そのものと取り違えるようなものであ
る。
では、これは実際には何を意味するのか?
「鼻の頭」という表現はよく考えて選ばれたものだ。
鼻は視線の目安とならなければならない。
鼻に視線を向けていない場合 には、目を大きく開けて遠くを見ているため鼻が
見えないか、 あるいは目を閉じ過ぎていて鼻が見えない。
目を大きく開け過ぎると、視線を外に向けるという誤りを犯し、気が散りやす
くなる。
目を閉じすぎると、視線を内に向けるという誤りを犯し、夢を見るような空想
の状態に沈みこんでしまう。
ただ瞼まぶたを適度に半分ほど閉じると、ちょうどよい具合に 鼻の頭が見え
るようになる。
そのために鼻を目安にするのである。
大切なのは、瞼を適度に閉じて、意識を集中させて光を流れ込ませようとする
のではなく、光が自然に流れ込むようにすることである。
鼻の頭を見ることは、ひとえに内なる集中をはじめる際に役立つのであり、そ
うすることで視線が正しい方向に向かい目安が定まれば、後はそのまま放置す
ればよい。
これは大工が下げ振りをつるすにあたり、いったんそれをつるし終えると、絶
えずその糸を見ることにこだわらないようなものである。
両目で鼻の頭を見ながら、背筋を伸ばして楽な姿勢で坐り、こころを諸条件の
只なかにある中心にたもつ。
それは必ずしも頭の中心を指しているわけではない。
大切なのは、ただみずからの思念を両目の中間に定めることである。
そうすればすべては整う。
光ははなはだ動きやすい。
両目の中間に思念を定めると、光は自然に流れ込んでくる。
注意をことさら中心の宮殿に向ける必要はない。
大切なことはこの数語に要約されている。
「諸条件の只なかにある中心」というのは、ひじょうに 微妙な表現である。
中心は至るところにあり、いっさいのものが そのなかに含まれている。
それはあらゆる創造のプロセスが 解き放たれる点と結びついている。
一点を見つめ観想することが不可欠である。
この技法はすみやかに光明を得ることを保障する。
世俗の想念が浮かびあがってきたなら、そのままじっと坐りつつ゛けてはいけ
ない。
その想念はどこにあるのか、どこではじまり、どこへ消えてゆくのかを調べな
ければならない。
内省をどこまで押し進めても何も得られない。
この想念がどこから生まれてきたかを見ることでよしとし、その先を究めよう
としてはならない。
こころを探し求めても、とらえることはできない(意識によって意識の背後に
達することはできない)からだ。
人はみなこころを落ち着かせようとする。
これが正しい観想である。
これと矛盾するのは誤った観想であり、何も得るところがない。
雑念が果てしなくつつ゛いてゆくときには、立ち止まり、観想をはじめなけれ
ばならない。
観想したら、再び見つめる。
これがすみやかに光明を得るための二重の技法、つまり光を巡らせることであ
る。
巡らせるとは見つめることであり、光とは観想のことである。
観想せずに見つめるのは光のない循環であり、見つめずに観想するのは循環の
ない光である。
これに注意しなければならない!
(´・(ェ)・`)
(つづく)

261避難民のマジレスさん:2019/01/27(日) 10:31:01 ID:LC3de7YgO
>>260
「中心の黄色」とは、何でありますか?
(´・(ェ)・`)つ

262鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/28(月) 00:28:43 ID:1d4drIFg0
>>261 眉間のことなのじゃ。
 黄庭とか中宮とかいろいろにいうのじゃ。
 要するに鼻の頭に視線を向ければ自然に気が眉間に集まるというのじゃ。
 無理に集中する必要は無いというのじゃ。

263避難民のマジレスさん:2019/01/28(月) 07:34:25 ID:LC3de7YgO
>>262
鬼和尚、ありがとうであります。
(´・(ェ)・`)つ

264避難民のマジレスさん:2019/01/28(月) 07:51:21 ID:LC3de7YgO
>>260
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える(つづき)
 より抜粋

盲人が友達の家を訪ねた。
彼が帰宅する頃には暗くなっていたので、友人たちは提灯ちょうちんを手渡し
た。
「ありがとう。でも、いらないよ。明るくても暗くても、私にとっては変わり
ないからね」
「まあ、とにかくもっていけよ。そうすれば人がぶつかってこないだろう」
彼が家を出ると、すぐに誰かがぶつかってきて、怒鳴った。
「どうして前をちゃんと見ていないんだ」
「君こそ、この提灯が見えないのか?」
「あいにくだがね」
と相手は言った。
「蝋燭ろうそくが消えてしまってるぜ」
瞑想というものを知らない人々が手にする聖典は、盲人が手にする提灯のよう
なものであり、まったく役に立たない。
そして盲人には提灯の明かりがついているか消えているかどうかもわからない

彼はたんにいらぬ重荷を持ち歩いているだけだ。
実のところ、何の役にも立たないどころか、むしろ邪魔になりかねない。
提灯をもたずに歩いていたら、盲人はもっと注意深く用心していただろう。
提灯をもった ばかりに、目があるつもりになって歩き、注意力がすっかり散漫
になっていたにちがいない。
人類全体に起こっていることはまさにそれだ。
人々は『聖書』『コーラン』『ギータ』をもち歩いている。
それらの聖典はこのうえもなく美しい光を放つランプだ。
が、あなたの目は見えない。
『ギータ』は五千年も前のものであり、光はとうの昔に消え ている。
クリシュナの死とともに、光は消えた。
『聖書』や 『コーラン』、その他の世界中のあらゆる聖典の場合も同じだ。
師マスターが死ぬと、光も消える。
だが人々は聖典を手放そうとはしない ― 聖典を信じ込み、偉大な師のメッセ
ージを伝えているのだから、自分たちの生はいつまでも光に満たされてゆくと
期待している。
そのメッセージ はただの言葉にすぎない。それは不用な重荷だ。
世にある聖典がすべて消えてしまったら、人間はもっと用心深くなり、もっと
気を引き締めて、自力で光の源を 探しはじめるかもしれない。
頼れるものが何もないので、 自分の足で立つことを学ばなければならない。
あるとき龍潭りゅうたんのもとを徳山がとくざんが訪ね、夜ふけまで教えを請
いつつ゛けた。
とうとう龍潭は言った。
「夜もふけてきた。そろそろもどりなさい」
徳山はいとまを 告げると、襖ふすまを開けて出ていった。
外があまりに暗かった ので、徳山は引き返してきて言った。
「外は真っ暗です」
そこで龍潭は提灯ちょうちんに火をともし、それを徳山に差し出した。
徳山がそれを受け取ろうとしたまさにそのとき、龍潭は不意にそれを吹き消し
た。
この瞬間、徳山は忽然と目覚め、礼拝した。
龍潭は言った。
「どのような真理を得たのか?」
徳山は言った。
「今日より後、祖師たちの言葉をけっして疑うことはありません」
翌日、龍潭は弟子たちの前に姿を現して言った。
「この会衆のなかに、剣でできた樹のような牙をもち、口を 血だらけにして、
棒で殴られても振り向こうとしない男がいる。
やがてこの男は人里離れた山の上に、私の道を打ち立てるだろう」
徳山は、僧堂の前で経典の注釈書を取り出し、火をかざしながら言った。
「際限なくものごとを分析しつつ゛けてゆくことは、虚空に一本の髪の毛を置
くようなものであり、俗世の力は広大な谷間に一滴の水を投げ入れるようなも
のだ」
目がなければ、光ですら役に立たない。
あなたが手にしている提灯は無用の長物 であり、まったく何の役にも立たな
い。
だが、目があれば、蝋燭ろうそくを吹き消すことですら悟りの体験になりうる。
問題なのは目だ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

265鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/28(月) 22:28:35 ID:1d4drIFg0
>>263 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。

視線を鼻の頭に向けていれば光が入ってくるというのじゃ。
雑念がわいたらそれがどこから起こるのか探すのじゃ。
それがわかって雑念が止んだらまた鼻の頭を見つめるのじゃ。
そのようにして日々続けていくというのじゃ。

266避難民のマジレスさん:2019/01/28(月) 22:51:03 ID:LC3de7YgO
>>265
くまは、目を閉じてやるのが好みであります。
なれたやり方で良いでありますよね。
(´・(ェ)・`)つ

267避難民のマジレスさん:2019/01/28(月) 23:02:53 ID:LC3de7YgO
>>264
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える(つづき)
 より抜粋

龍潭のもとを徳山が訪ねた。
龍潭は師であり、徳山は弟子だ。
外が真っ暗なのを見て、弟子は師に言った「真っ暗です」 師は蝋燭に火をとも
すと、それを弟子に差し出した。
弟子が受け取ろうとしたそのとき、師は火を吹き消した。
突然、闇がもどってきた。
闇は一段と深さを増した。
不意に蝋燭を吹き消されたことが、予期せぬ一撃になったにちがいない。
しばらくのあいだ、弟子は二つの思考のはざまに落ちていったにちがいない。
しばらくのあいだ、思考が消え失せ、観想が起こった。
しばらくのあいだ、完全な沈黙があった。
その沈黙のなかで彼は大切なことをつかむことができた。
翌日、彼はもっていた経典をすべて燃やしてしまった。
もはやそれらは必要ではなかった。
彼はみずからの体験を通して真理を知ったからだ。
ごくわずかの体験でも、山のような知識よりも価値がある。
太陽や月やすべての星々よりも、たった二つの小さな目のほうが価値がある。
大切なのは、宗教とは体験であるということだ。
それは推測ではない。
絶え間ない分析ではない。
それは洞察だ。
(p196)
さて、経文だ。
これらの経文にはここのうえもない価値がある。
なぜなら、それは最も簡潔な表現で手法を授けて いるからだ。
あなたが複雑なものにしようとしないかぎり、この手法は実に単純だ。
こころマインドはいつも単純なものごとを複雑なものに変えてしまう。
それに気をつきなさい。
なぜなら、心は単純なものとは共存できないからだ。
それは必要とされない。
もしものごとがごく単純で あれば、心の出る幕はない。
ものごとが複雑であってはじめて心が必要になってくる。
そうなったら、あなたは心に頼らざるをえなくなる。
心が謎を解く道を見いだしてくれるからだ。
だが、謎がなければ、心はまったく無用だ。
あなたは心を捨てることができる。
だから、心はものごとを複雑にしてしまう。
これらの経文は実に単純であることを覚えておきなさい。
真理はつねに単純だ、まったく単純だ。

呂祖師は言った。
観想なくしては何事も成しとげられない。
観想とは何か?無思考の瞬間だ。
「観想contemplation」という言葉には、ディヤーナの正しい意味が含まれていない。
英語には「ディヤーナ」という言葉に当たる適切な訳語がない。
使えそうな言葉が三つある。
ひとつは「集中concentration」
だが、この言葉はひどくかけ離れている。
集中とは努力、緊張を意味している。
それは強いられた状態であって、無碍むげ自在に流れている状態ではない。
ところが、ディヤーナとは無碍自在に流れている状態だ。
そこには緊張がない。
だから「集中」という言葉は訳語としてはふさわしくない。
次は「観想contemplation」という言葉だが、観想には思考の含みがある。
誰かが観想していると言えば、何かについて考えているということになる。
三番目の言葉は「瞑想meditation」だが、これもやはり 考えること、何かにつ
いて瞑想することを意味する。
この三つの言葉にはどれもディヤーナの意味が含まれていない。
ディヤーナとは無思考の状態、沈黙の状態、意識的でありながら中身がない状
態を意味する。
鏡がそこにあるが、何も映し出していない、まったく 何も映し出していない。
ちょうどその鏡のように、意識がそこにあるが、何もそれをふさいでいない。
その何も占められていない醒めた意識がディヤーナだ。
道家の人々は「ディヤーナ」の訳語として「観想」を使っている。
いずれにせよ何らかの言葉を使わざるをえないからだ。
だから、その意味を覚えておきなさい ― それは辞書に記された意味ではない。
辞書を調べると、まったく違った観想の概念 ― 『黄金の華の秘密』が「誤っ
た観想」と呼んでいるものが載っている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

268鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/29(火) 21:44:12 ID:1d4drIFg0
>>266 そうじゃ、自分のやり易い方法で善いのじゃ。
 経典は参考にする程度で善いのじゃ。

ディヤーナとは意志によって集中しないでも続く心の鎮まった状態なのじゃ。
初心者のうちは集中しなくては心は鎮まらないのじゃ。
慣れてくればいつもの座り方をするだけで心は鎮まるのじゃ。
それがディヤーナなのじゃ。
禅の語源なのじゃ。

269避難民のマジレスさん:2019/01/29(火) 22:10:26 ID:LC3de7YgO
>>267
21黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える(つづき)
 より抜粋

「誤った観想」とは、何かについて考えることだ。
それは神 かもしれない ― キリスト教徒が「観想(黙想)」という言葉 で言お
うとしているのはそれだ ― 神について考えること、聖なるもの、超越的なも
のについて考えること。
だが も の は も の であり、神聖なものであろうが、世俗的なものであろう
が違いはない。
思考は思考であり、セックスについて考えようと 、サマーディについて考えよ
うと違いはない。
無思考の状態、間合い…… それはいつも起こっているのだが、あなたは注意
深く醒めていない。
醒めていたら何も問題はない。
ひとつの思考がやって来る。
続いて別の思考がやって来る。
この二つの思考のはざまにはいつも小さなギャップすきまがある。
そのすきまが聖なるものへの扉だ。
そのすきまが観想だ。
そのすきまを深くのぞき込めば、それはどんどん大きくなってゆく。
心マインドは交通の激しい道路のようだ。
車が次から次へと通り過ぎてゆく。
車に目 を奪われるあまり、二台の車のあいだに必ずあるすきまが見えない。
すきまがなければ車は衝突してしまう。
衝突しないのは、車と車のあいだにすきまがあるからだ。
あなたの思考は衝突しない。
互いにぶつかったり、相手を轢きつぶしたりはしない。
互いに重なり合うことすらない。
どの思考にも境目がある。
どの思考 も区切ることができる。
だが、思考の進行があまりに すばやく速いので、本当にそれを待ち受け、見つ
けようとしないかぎり、あなたはすきまを見ることができない。
観想とは見ている風景の焦点をそっくり変えることだ。
ふだん私たちは思考を見ている。
思考が次から次へと現れる。
風景の焦点を変えると、すきまが次から次へと現れる。
あなたはもはや思考ではなく すきまを重視している。
例えば、あなたがたはここに坐っている。
私があなたがたを見る方法は二つある。
ひとりひとりを順番に見てゆくやり方と―人に目をやれば、私は人数を数える
ことができる ―人のことは忘れ、人と人のあいだにあるすきまを勘定し、すき
まがいくつあるかを数えるやり方だ。
そうすればものの見え方がひっくり返る。
すきまを数えたら驚くようなことが起こる。
すきまを見つめ、すきまを数えているために、人の輪郭がぼやけ、はっきり見
えなくなってゆく。
いつか道端に立って、通り過ぎてゆく すきまを数えてみるといい。
あなたは驚くだろう― 車の色は目に入らない、車の型は目に入らない、車の運
転手や乗客は目に入らない。
目に飛び込んでくるのはすきまだ ― ひとつのすきまが過ぎ去ると、次のすき
まがやって来る。
あなたはすきまを数えつつ゛ける。
風景の焦点は変化している。
観想とは見ている風景の焦点を変えることだ。
ひとつの思考から別の思考へと飛び移るのではなく、ひとつのすきまから次の
すきまへと飛び移ってゆく。
徐々に徐々に、すきまへの気つ゛きが増してゆく。
それは生の最大の秘密のひとつだ。
なぜなら、そのすきまを通して、あなたはみずからの実存へ、みずからの中心
へ と落ちてゆくからだ。

観想なくしては何事も成しとげられない。
覚知することにより人は目標に到る。
覚知すること、ただ覚知すること……それはインドでは「ダルシャン」と呼ば
れている。
見ることにより、人はどこにも出かけることなく目標に到る。
どこにも出かける必要はない。
ただ見ればいい。
ひとたび間隙かんげきを、すきまをのぞきはじめたら、あなたは自分が誰であ
るのかを見ることができるようになる。
そしてあなたは目的地だ。
あなたは出発点であり目的地、始まりであり終わり、アルファでありオメガだ。
渇望していたすべてのものがすでにあなたのなかにある。
欲しがっていたすべてのものがすでにあなたのなかにある。
欲しがっていたすべてのものをあなたはもっている。
乞食でいる必要はない。
すきまを見ることを選べば帝王になり、思考を見つつ゛けていたら乞食のまま
でいるしかない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)


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