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Japanese Medieval History and Literature

1釈由美子が好き:2007/06/03(日) 21:01:22
快挙♪ 3
 本日の歴史学研究会総会・大会2日目、日本史史料研究会さんのお店、中島善久氏編・著『官史補任稿 室町期編』(日本史史料研究会研究叢書1)が、なんと! なんと!!

  41冊!!!

 売れたと云々!!
 すげェ!! としか言いようがない。

 2日で、71冊。
 快進撃である。

7316:2022/01/17(月) 13:30:19
かに くり あをな うり かうし
小太郎さん
http://www.transview.co.jp/smp/book/b442696.html
まだ読んでませんが、西村玲氏が存命なら、宗教的空白あるいはゾンビ・ブディズムに関して、どんな見解を有したか、訊いてみたいところですね。

昨日の『鎌倉殿の13人』で、頼朝の好物として、かに、くり、あをな、うり、かうし、と和紙に達筆で記してあるシーンを見て吹き出してしまいました。
かには平家蟹、くりは勝栗、うり(瓜)は挙兵間近で今が売り、というパロディーだと思いますが、あをなはわかりません。かうし(柑子)は、現在の伊豆に多い蜜柑畑を踏まえ、都育ちの頼朝が伊豆に流されて蜜柑好きになった、ということなんでしょうね。歴史に残る名場面だと思いました。話の展開は、まあ、どうでもいいようなことです。
付記
頼朝は政子が出したアジを食べてましたが、東伊豆の湯河原、熱海、伊東と言えば、蜜柑の他ではアジの干物が有名ですね(小田原は蒲鉾と塩辛です)。ただ、伊豆の北条という地からすると、海の幸よりも、狩野川のアユ(塩焼き)のほうが相応しかったのではないか、という気がしました。
徒然草第40段に、栗をのみ食らう異様な女の話がありますが、佐殿は好き嫌いがあるとはいえ、バランスよく食べていたようです。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E8%8F%9C_(%E8%90%BD%E8%AA%9E)
あをなは、落語の「青菜」を踏まえ義経を暗示しているのだ、ということかな。

7317鈴木小太郎:2022/01/18(火) 22:30:17
山本みなみ氏「北条時政とその娘たち─牧の方の再評価」(その1)
ツイッターで野口実氏が紹介されていた山本みなみ氏の「北条時政とその娘たち─牧の方の再評価─」(『鎌倉』115号、鎌倉文化研究会、2014)という論文を入手したので、その感想を少し書きます。
野口氏らが提起された「北条氏は都市的な武士か」という問題に関連して、「北条時政とその後妻・牧の方の結婚時期はいつか」という問題が近時議論されています。
論点を明確にするため、呉座勇一氏の『頼朝と義時』(講談社現代新書、2021)から少し引用させてもらうと、

-------
 北条時政が都市的な武士であるという新説は、時政の結婚をも根拠にしている。時政の後妻は牧の方だが、その出自は長らく不明だった。ところが杉橋隆夫氏が、牧の方は平忠盛(清盛の父)の正室である宗子(池禅尼)の姪であることを明らかにした。牧の方の父である牧宗親は、池禅尼の息子である平頼盛(清盛の異母弟)の所領である駿河国大岡牧(静岡県沼津市・裾野市)の代官を務めていた。
 杉橋氏は、保元三年(一一五八)に時政二十一歳、牧の方十五歳の時に結婚したと推定した。五位の位階を持つ貴族の家である牧氏出身の牧の方と結婚できたとすると、時政も相応の身分の武士ということになる。
 しかし杉橋氏のシミュレーションに従うと、牧の方は四十六歳の時に政範(義時の異母弟)を出産したことになり、非現実的であるとの批判を受けた。本郷和人氏は、二人の結婚は、治承四年(一一八〇)以降、すなわち頼朝挙兵後と想定した。
 最近、山本みなみ氏は、二人の結婚時期を引き上げ、頼朝挙兵以前とした。けれども、山本氏の場合も、頼朝と政子が結婚した治承元年以後を想定している。だとすると、時政が牧の方と結婚できたのは、もともとの身分が高かったからとは必ずしも言えない。むしろ、時政が頼朝の舅になったことが大きく作用したのではないだろうか。
-------

といった具合です。(p35)
まあ、杉橋説はいくら何でも無理だろうと思いますが、山本氏が「二人の結婚時期を引き上げ、頼朝挙兵以前」、「頼朝と政子が結婚した治承元年以後を想定」した理由が気になります。
そこで山本論文を見ると、まずその構成は、

-------
 はじめに
一、牧の方腹の娘たち
(一)婚姻関係の検討
   ?五女(平賀朝雅に嫁したのち、藤原国通に再嫁)
   ?七女(三条実宣と婚姻)
   ?八女(宇都宮頼綱に嫁したのち離縁し、松殿師家に再嫁)
   ?九女(坊門忠清に嫁す)
二、牧の方の評価
(一)時政・牧の方年譜の再検討
(2)晩年の牧の方
 おわりに
-------

となっています。
「はじめに」では、杉橋隆夫・野口実氏の業績に触れた後、

-------
興味深いことに、牧の方腹の娘は鎌倉幕府に仕える有力御家人だけでなく、京都の貴族にも嫁いでおり、私見では北条氏の政治的地位や姻戚関係を考察する上でも貴重な手がかりになると考える。そこで、本稿では北条氏を評価するための基礎的研究として時政の子女、殊に牧の方が産んだ娘たちに注目し、その生年や婚姻関係を論じたい。さらに、娘たちの検討を踏まえて、牧の方と時政との婚姻時期や、晩年の牧の方と幕府の関係についても考察したい。
-------

とされています。(p1)
そして「一、牧の方腹の娘たち」に入ると、

-------
 本章では、時政と牧の方との間に生まれた娘について検討する。系図や記録から時政の子女と見なされる者は十五名にのぼり、うち男子は宗時・義時・時房(以上先妻腹)・政範(牧の方腹)の四名、女子は十一名である〔表?参照〕。
 女子十一名のうち、牧の方腹で貴族に嫁したのは以下の四名である(再嫁も含む)。
 ?平賀朝雅に嫁したのち、藤原国通に再嫁した五女
 ?三条実宣に嫁した七女
 ?宇都宮頼綱に嫁したのち離縁して、松殿師家に再嫁した八女
 ?坊門忠清に嫁した九女
 以下、それぞれの娘を検討したい。なお、娘の生年順は、野津本「北条系図・大友系図」(田中稔「史料紹介野津本『北条系図、大友系図』」『国立歴史民俗博物館研究報告』第五集、一九八五年。『福富家文書─野津本「北条系図・大友系図」ほか皇学館大学史料編纂』皇学館大学出版部、二〇〇七年)に拠るものである。
-------

とあります。(p2)

>筆綾丸さん
>昨日の『鎌倉殿の13人』

時政・牧の方の描かれ方は「北条時政が都市的な武士であるという新説」にずいぶん寄っている感じでしたね。
まあ、野口実氏はおそらく満足されていないでしょうが。

7318鈴木小太郎:2022/01/19(水) 12:21:16
山本みなみ氏「北条時政とその娘たち─牧の方の再評価」(その2)
牧の方と「牧の方腹で貴族に嫁した」四人の女性については『サライ』サイトの山本氏の記事を参照して頂きたいと思います。

京都政界に人脈を誇った北条時政の若き後妻 牧の方―北条義時を取り巻く女性たち3【鎌倉殿の13人 予習リポート】
https://serai.jp/hobby/1033821
続々と京都の貴族に嫁いだ、北条時政の後妻 牧の方所生の娘たち―北条義時を取り巻く女性たち4【鎌倉殿の13人 予習リポート】
https://serai.jp/hobby/1036729

念のため「表? 時政の娘たち一覧」から、「牧の方腹で貴族に嫁した」四人以外の娘たちの母親と婚姻相手を挙げると、

 長女(政子) 先妻(伊藤祐親娘か) 源頼朝
 二女     先妻(不明)     足利義兼
 三女(阿波局)先妻(不明)     阿野全成
 四女     後妻牧の方か     稲毛重成
 六女     先妻(不明)     畠山重忠→足利義純
 不明     不明         河野通信
 不明     不明         大岡時親

とのことで、牧の方が産んだ娘は貴族との婚姻率が極めて高いですね。
さて、「牧の方腹で貴族に嫁した」四人のうち、生年がはっきりしているのは「宇都宮頼綱に嫁したのち離縁して、松殿師家に再嫁した八女」だけで、この人は『明月記』に再嫁の時の年齢が四十七歳と明記されているので、文治三年(1187)生まれとなります。(p6)
また、男子は政範が八女の二歳下で、文治五年(1189)生まれですね。
ここまでは山本氏の論証は丁寧で説得的ですが、肝心の時政・牧の方の婚姻時期の推定は些か荒っぽいように思われます。
即ち、「二、牧の方の評価」の「(一)時政・牧の方年譜の再検討」に入ると、最初に杉橋説が成り立ちがたいことを検討された後で、

-------
【前略】前章で検討した娘たちの生年も含め、牧の方の年齢を再検討したのが上記の年譜である。生年が判明するのは八女(頼綱室)と政範のみであり、その他の娘については牧の方が二十代で一男五女を儲け、二年毎に出産したものとした。
 杉橋氏は「時政・牧の方年譜」において、藤原為家と宇都宮頼綱の娘(牧の方の孫娘)との間に生まれた為氏が貞応元年(一二二二)の誕生であることなどから、頼綱室の生年を承安二年(一一七二)と仮定されているが、彼女は天福元年(一二三三)に再嫁したとき四十七歳であり、生年は文治三年(一一八七)に確定する。また、細川氏・本郷氏は五女(朝雅室)・八女(頼綱室)・政範の生年を仮定されているが、うち後者二名について生年が判明することはすでに指摘したところである。
 稲毛重成室の母は不明であるが、杉橋氏・野口氏が指摘されているように、稲毛重成の行動形態からみて牧の方腹の可能性が高いと考え、年譜に加えた。下線部分は史料による裏付けを得るものである。
 時政と牧の方の年齢差は二十四、牧の方は政子の五つ年下となる。重要なのは杉橋氏の指摘??に関わる、時政と牧の方の婚姻時期はいつなのかという問題である。牧の方腹では唯一生年の判明する八女(頼綱室)と政範が二歳差であることから、他の子女も機械的に二年ごとの出産と仮定した結果、婚姻時期は治承四年となったが、治承四年以後よりはそれ以前の可能性が高いだろう。野口氏の指摘されるように、婚姻時期が頼朝の挙兵以前であることは間違いないと思われる。おそらく時政と牧の方は、頼朝と政子の婚姻直後の治承年間に結ばれたのではないだろうか。したがって、婚姻を平時の乱以前まで遡らせ、頼朝配流の背景に牧の方を介した池禅尼と時政の関係を推定する杉橋氏の見解に従うことはできず、平治五年(一一五九)には牧の方はまだ生まれてさえいなかったのではないかと思われる。
-------

とされるのですが(p9以下)、「生年が判明するのは八女(頼綱室)と政範のみであり、その他の娘については牧の方が二十代で一男五女を儲け、二年毎に出産したものとした」、「牧の方腹では唯一生年の判明する八女(頼綱室)と政範が二歳差であることから、他の子女も機械的に二年ごとの出産と仮定した結果、婚姻時期は治承四年となった」との山本氏の発想にはちょっと驚きました。
このような、私にはどうみても強引と思われる仮定の結果、山本氏は「○時政・牧の方年譜(含シミュレーション)」において、

治承四年(1180)この頃、時政(43歳)・牧の方(19歳)婚姻か/八月頼朝挙兵
養和元年(1181)四女(重成室)誕生 <牧の方20歳)>(細川・本郷氏は時政・牧の方の婚姻を推定)
寿永二年(1183)五女(朝雅室)誕生 <牧の方22歳)>
文治元年(1185)七女(実宣室)誕生 <牧の方24歳)>
文治三年(1187)八女(頼綱室)誕生 <牧の方26歳)>
文治五年(1189)政範誕生(時政52歳)<牧の方28歳)>(細川・本郷氏は牧の方21歳と推定)
建久二年(1191)九女(忠清室)誕生 <牧の方30歳)>

とされるのですが、まあ、単なる数字合わせ以上のものではないですね。
「他の子女も機械的に二年ごとの出産」というのは、あるいはそのくらい間隔を置いた方が子育てがしやすいだろうという事情も考慮されたのかもしれませんが、それは現代人の発想であって、当時の有力武士クラスの女性は自分で子供を育てる訳ではなく、乳母にまかせるのが普通のはずです。
結局、山本氏の「牧の方腹で貴族に嫁した」女性たちの検討結果にもかかわらず、時政と牧の方の婚姻時期は分からないとしか言いようがありません。
そして山本氏自身も「○時政・牧の方年譜(含シミュレーション)」では「治承四年(1180)この頃、時政(43歳)・牧の方(19歳)婚姻か」としながら、結局は「治承四年以後よりはそれ以前の可能性が高いだろう」とされる訳ですが、これは野口実氏の研究を加味した推論です。
そこで、山本説の当否を判断するには野口実氏の「伊豆北条氏の周辺─時政を評価するための覚書」(『京都女子大学宗教・文化研究所研究紀要』20号、2007)という論文を検討する必要が生じてきます。
なお、「機械的」云々は、2007年に政治問題化した柳澤伯夫氏(当時厚生労働大臣)の「女性は生む機械」発言を連想させ、ちょっとドキッとしますね。

柳澤伯夫(1935生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E6%BE%A4%E4%BC%AF%E5%A4%AB

7319:2022/01/19(水) 12:46:02
婚姻のかたち
小太郎さん
牧の方の娘のうち、貴族に嫁した者は、
?五女(朝雅の正室、のち、国通の側室)
?七女(実宣の側室)
?八女(頼綱の正室、のち、師家の側室)
?九女(忠清の側室)
というような理解でいいのでしょうね。

前回のドラマで、ふと気になったのは、牧の方の場合は嫁入婚、政子の場合は妻通婚(招婿婚)のようなもの、つまり、北条の館においては、形態の違う婚姻がほぼ同じ時期に同居していたのか、ということでした。まあ、別段、不思議に思うことでもないのでしょうが。

ご引用の論考を読むと、当たるも八卦当たらぬも八卦、という感じですね。

7320鈴木小太郎:2022/01/20(木) 11:35:21
山本みなみ氏「北条時政とその娘たち─牧の方の再評価」(その3)
山本氏は「牧の方腹では唯一生年の判明する八女(頼綱室)と政範が二歳差であることから、他の子女も機械的に二年ごとの出産と仮定した結果、婚姻時期は治承四年となった」とされます。
この「仮定」は何とも強引なものですが、この強引な「仮定」に基づいて遡っても、北条時政と牧の方の婚姻時期は治承四年(1180)止まりですね。
しかし、山本氏は更に「治承四年以後よりはそれ以前の可能性が高いだろう。野口氏の指摘されるように、婚姻時期が頼朝の挙兵以前であることは間違いないと思われる。おそらく時政と牧の方は、頼朝と政子の婚姻直後の治承年間に結ばれたのではないだろうか」とされています。
そこで、その理由を知ろうと思って、「婚姻時期が頼朝の挙兵以前であることは間違いないと思われる」に付された注53に従って野口実氏の「伊豆北条氏の周辺─時政を評価するための覚書」(『京都女子大学宗教・文化研究所研究紀要』20号、2007)を読んでみたところ、不思議なことに野口氏はそのようなことを書かれていません。
この野口論文は京都女子大学サイトで読めるので、私は昨日二回、今朝も一回読んでみましたが、やっぱりありません。

「伊豆北条氏の周辺 : 時政を評価するための覚書」
http://repo.kyoto-wu.ac.jp/dspace/handle/11173/1927

そもそも山本氏の注記には些か不審なところがあって、

(53)野口B前掲注(4)論文。

に従って、注(4)を見ると、

(4)野口実A「「京武者」の東国進出とその本拠地について─大井・品川氏と北条氏を中心に─」(『研究紀要』一九号、京都女子大学宗教・文化研究所、一九九九年)、同B「伊豆北条氏の周辺─時政を評価するための覚書─」(『研究紀要』二〇号、京都女子大学宗教・文化研究所、二〇〇〇年)【後略】

となっているのですが、A論文が発表されたのは2006年、B論文は2007年ですね。
そこで私は、もしかしたら山本氏はA論文とB論文を取り違えているのではなかろうかと思ってA論文も読んでみました。

「「京武者」の東国進出とその本拠地について : 大井・品川氏と北条氏を中心に」
http://repo.kyoto-wu.ac.jp/dspace/handle/11173/1922

この論文は、

-------
はじめに
一  大井・ 品川氏と品川湊
二  伊豆北条氏の系譜とその本拠
 1 北条氏の出自
 2 伊豆国衙周辺の人的環境
 3 円成寺遺跡の語るもの
むすびに
-------

と構成されていますが、「1 北条氏の出自」の「時政が池禅尼の姪にあたる中流貴族出身の女性( 牧の方)を妻に迎え」(p57)に付された注(10)(p66)に、

(10)杉橋隆夫「牧の方の出身と政治的位置─池禅尼と頼朝と─」(上横手雅敬監修『古代・中世の政治と文化』思文閣出版、一九九四年) 。この論文における牧の方の年譜のシュミレーションには、政範の出産を四十六歳の時とすることなどに無理を感じざるを得ないが、時政と牧の方との婚姻の時期が頼朝挙兵以前であることについては間違いないと思う。

とあって、私が探し求めていたのはどうやらこの記述のようですね。
ただ、ここには別に野口実氏の独自の見識は披露されておらず、杉橋論文に対する単なる感想ですね。
うーむ。
私の努力はいったい何だったのでしょうか。

>筆綾丸さん
>?五女(朝雅の正室、のち、国通の側室)

当時、貴族社会では鎌倉の有力者の娘を妻に迎えることが出世と財産獲得の極めて有力な手段になっていたので、正妻と離縁して武家の娘を妻に迎えるような例もありました。
従って、時政娘の場合、「側室」ではなく「正室」と考えるべきだと思います。
ただ、系図類の作者は、ここは身分違いだから「妾」だろう、みたいな解釈を加えていることがありそうです。

7321鈴木小太郎:2022/01/20(木) 13:33:29
野口実氏「伊豆北条氏の周辺─時政を評価するための覚書」
ひょんなことから野口実氏の「伊豆北条氏の周辺─時政を評価するための覚書」(『京都女子大学宗教・文化研究所研究紀要』20号、2007)を都合三回精読する羽目になりましたが、この論文は非常に面白いですね。

http://repo.kyoto-wu.ac.jp/dspace/handle/11173/1927

全体の構成は、

-------
はじめに
一、北条時政に対する諸家の評価
 (一)大森金五郎
 (二)佐藤進一
 (三)上横手雅敬
 (四)安田元久
 (五)河合正治
 (六)福田以久夫
二、中世成立の北条氏系図の比較と検討
三、北条時政の係累
 (一)北条時定と服部時定
 (二)牧氏(大岡氏)一族とその本拠
 (三)『吾妻鏡』における牧宗親と大岡時親
むすびに
-------

となっていますが、私は特に第三章の第二節と第三節に刺激を受けました。
まず、「(二)牧氏(大岡氏)一族とその本拠」には、

-------
 ところで、すでに『沼津市史 通史編 原始・古代・中世』(二〇〇四年)第二編第五章「荘園制の確立と武士社会の到来」(杉橋隆夫執筆)に紹介されたところだが、最近になって牧氏の文化レベルにおける貴族的性格を示す貴重な成果が国文学者浅見和彦によって示されている(「『閑谷集』の作者─西行の周縁・実朝以前として─」有吉保編『和歌文学の伝統』角川書店、一九九七年)。
 この論文によると、鎌倉初期になった歌集『閑谷集』の作者は『鎌倉年代記』に建久三年(一一九二)の「六波羅探題」として所見する牧四郎国親の子息に比定され、彼は養和元年(一一八一)二月ごろ加賀にあり、同年十月ごろ但馬に移って翌春のころまで滞留していたが、文治元年(一一八五)八月、牧氏の本領で平頼盛領であった駿河国大岡庄(牧)内の大畑(現在の静岡県裾野市大畑)に庵を構えるにいたる。そして、そこには都よりの知人も立ち寄り、また涅槃会・文殊講などの法会が執り行われ、あわせて歌会も開かれていたというのである。【後略】
-------

とありますが(p101以下)、ここでは国文学と歴史学・考古学の見事な連繋を見ることができますね。
また、「(三)『吾妻鏡』における牧宗親と大岡時親」には、

-------
 『吾妻鏡』に記されたこの痴話話のなかで納得できないのは、北条氏よりも高いステイタスにあり、牧の方の父である宗親がどうして政子に仕えるような境遇にあるのか。そして、たとえ頼朝の怒りを買ったとはいえ、当時の社会における成人男子にとって最も恥辱とされるような羽目に陥らざるを得なかったのかという点である。
 宗親が池禅尼の弟であるとするならば、かなりの年輩であることが予測できる。また、その官歴について『愚管抄』は大舎人允、『尊卑分豚』は諸陵助としている。ところが、亀の前の事件を記す『吾妻鏡』に、彼は「牧三郎」として登場し、文治元年(一一八五〉十月二十四日条からは「牧武者所」となり、最終所見の建久六年(一一九五)三月十日条まで変わらない。大舎人允や諸陵助の官歴を有するものが武者所に補されることは考えがたく、ここには何らかの錯誤を認めざるを得ないのである。
 私は『吾妻鏡』に「三郎」「武者所」として所見する「宗親」はすべて、本来その子息である時親にかかるものであると推測する。同書建仁三年(一二〇二)九月二日条に「判官」として初見する大岡時親を宗親と混同して伝えたものと考えるのである。この記事は『愚管抄』の「大岡判官時親とて五位尉になりて有き」という記事に符合する。ついで時親は『明月記』元久二年(一二〇五)三月十日条や『吾妻鏡』同年八月五日条に備前守として登場するが、武者所→判官→備前守という官歴は制度的にも年代的にも整合するところである。したがって、『吾妻鏡』に見える宗親の所見はすべて時親に置き換えられるべきで、宗親は頼朝挙兵以前に死没していた可能性が高いのではないだろうか。
-------

とあります。(p104以下)
「宗親が池禅尼の弟であるとするならば、かなりの年輩であることが予測できる」にもかかわらず、『吾妻鏡』には妙に軽い存在として描かれている謎は、「『吾妻鏡』に「三郎」「武者所」として所見する「宗親」はすべて、本来その子息である時親」であるならば、確かに綺麗に解けそうです。
まあ、『吾妻鏡』の原文を正面から否定することには若干の躊躇いは感じますが、『吾妻鏡』編纂時には、牧氏関係者は全体としてその程度の扱いを受けるほど軽い存在になっていた、ということなのかなと思います。
編纂当時に牧氏の子孫が幕府内でそれなりの存在感を維持していたら、「亀の前」事件が全面削除される可能性もあったでしょうね。

池禅尼(1104?-64?)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%A6%85%E5%B0%BC

7322:2022/01/20(木) 14:47:00
閑話
大森金五郎の「マンマと」とか「ムチャな」とかの語彙をみると、歴史学の泰斗というより、落語好きの下町のオヤジのような趣があります。夏目金之助と同い年なんですね。

文藝春秋二月号に、『「鎌倉殿の13人」を夫婦で楽しむ』と題して、本郷恵子・本郷和人両氏の対談があります。
----------
本郷和人??こうやって夫婦で対談するのは、初めてだね。
本郷恵子??そうね。
(中略)
恵子??(藤原)邦通は頼朝のために目代の館で行われる酒宴に参加し、現地を調査して館とその周辺の地図を作成している。映画『幕末太陽傳』でフランキー堺さん演じる佐平次のような人物を想像してください。お酒も飲めて場を盛り上げるし、手紙の代筆もできて、いろいろな知識もある・・・・・・。
和人??それじゃ、僕みたいだ(笑)。
恵子??いや、そんなことはない。フランキー堺はもっと垢抜けてる(笑)。(354頁〜)
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狸夫婦の漫談ですね。

同月号に、先崎彰容氏が、「人新世」の『資本論』に異議あり、と斎藤氏を批判しています。宗教じみた主張をするな、正義に飛びつくな、と。
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結局、私たちの歴史がマルクス主義から得た苦い経験とは、「行動」と「連帯」が人々の自由を奪ってきたこと、大量の粛清を許し、管理社会を生みだしてしまう「逆説」にあった。正義が、義侠心が、大量の死者を生みだすことは逆説以外の何ものでもないではないか。(295頁)
----------

7323鈴木小太郎:2022/01/20(木) 22:02:35
「頼朝への接近を図る頼盛の意向が背景にあったと見るべきだろう」(呉座勇一氏)
「生年が判明するのは八女(頼綱室)と政範のみであり、その他の娘については牧の方が二十代で一男五女を儲け、二年毎に出産したものとした」、「牧の方腹では唯一生年の判明する八女(頼綱室)と政範が二歳差であることから、他の子女も機械的に二年ごとの出産と仮定した結果、婚姻時期は治承四年となった」という山本みなみ説を数式で表すと、

(時政・牧の方の結婚時期)=(八女頼綱室の生年)−3×(政範の生年-八女頼綱室の生年)-1

となりますね。
二年の間隔で四女(稲毛重成室)・五女(平賀朝雅室)・七女(三条実宣室)・八女(宇都宮頼綱室)の四人が生まれ、八女の生年は1187年ですから、四女が生まれたのは2×3年前の1181年、そして時政・牧の方の結婚はその一年前の1180年という計算です。
これはたまたま(政範の生年-八女頼綱室の生年)=2の場合の話ですが、もう少し一般的に、

Y:時政・牧の方の結婚時期
X:政範の生年-八女頼綱室の生年

とすると、

Y=1187-3X-1=1186-3X

ですね。
従って、

仮に政範と八女が1歳違いであったならば、Y=1183
仮に政範と八女が3歳違いであったならば、Y=1177
仮に政範と八女が4歳違いであったならば、Y=1174

となります。
こう書くと、まるで私が山本説を莫迦にしているように見えるかもしれませんが、「機械的」な「仮定」がある種の滑稽感を伴うことは否めないですね。
そして、山本氏は牧の方が「二十代で一男五女を儲け」たと「仮定」するので、「牧の方腹」の最初の娘が生まれたときに牧の方は二十歳とされますが、これも格別の根拠はないはずです。
身分違いの結婚で、しかも夫の年齢が相当に上となると、牧の方が再婚の可能性もあって、その場合、三十歳くらいまでだったら「一男五女を儲け」ることもさほど不自然ではないはずです。
ま、結局は良く分らず、時政・牧の方の結婚時期は不明といわざるを得ないですね。
しかし山本氏は、「治承四年以後よりはそれ以前の可能性が高いだろう。野口氏の指摘されるように、婚姻時期が頼朝の挙兵以前であることは間違いないと思われる。おそらく時政と牧の方は、頼朝と政子の婚姻直後の治承年間に結ばれたのではないだろうか」とされるので、その理由を探ったら、杉橋隆夫氏の見解に野口実氏が同意したというだけの話のようです。
まあ、私は杉橋論文をあまり高く評価できないので、山本氏の最終的な結論にも賛成しがたいですね。
ところが、呉座勇一氏は山本氏の見解を妥当とされているようで、『頼朝と義時』において、先に紹介した部分に続けて次のように書かれています。(p36以下)

-------
 前述の通り、池禅尼は死罪になるはずだった頼朝の助命を清盛に嘆願している(20頁)。その実子が、先に触れた平頼盛である。池禅尼は清盛生母(既に死没)よりはるかに身分が高く、朝廷内に広い人脈を持っていたため、清盛にとって頼盛の存在は脅威であった。池禅尼が亡くなると両者の関係は悪化し、清盛は頼盛を一時失脚させている。政界復帰後の頼盛は清盛に従順になったが、清盛と後白河法皇の関係が険悪になると、後白河と親しい頼盛の立場も微妙なものになった。
 頼朝と政子が結婚した治承元〜二年頃は、平家打倒の陰謀が露顕したとされる鹿ケ谷事件の直後である。そして平清盛によるクーデターである治承三年の政変で、頼盛は一時失脚している。
 以上の状況において、平頼盛に仕える牧宗親の娘と北条時政との身分不釣り合いな結婚が、頼盛と無関係に行われたとは考えにくい。頼朝への接近を図る頼盛の意向が背景にあったと見るべきだろう。むろん頼朝と連携して清盛に反逆するなどという大それた考えはなかっただろうが、何らかの政治的カードになり得るとの期待があったのではないか。
 頼朝と政子が結婚した当時、伊豆国の知行国主は源頼政であった。知行国主とは受領(国守)の任免権を持つ者のことである。この場合、頼政は伊豆守を任命でき、嫡男仲綱を伊豆守にしている。すなわち、頼政は伊豆国の最高権力者であった。
 源頼政は平治の乱で平清盛に味方し、武門源氏の中で最も羽振りが良かった。平清盛と良好な関係を保ち従三位まで昇叙したが(武門源氏初の公卿)、一方で源義賢(19頁)の遺児仲家を養子にするなど、源氏一門の生き残りを保護していた。また頼政は八条院に奉仕していた。
 八条院暲子内親王は鳥羽法皇と美福門院の娘で、亡き鳥羽法皇から膨大な荘園群を相続していた。平頼盛は八条院の乳母の娘を妻に迎えており、多数の八条院領荘園の管理を任されていた。清盛に敵対する意思は八条院本人にはなかったが、八条院の周囲には清盛に対して複雑な感情を抱く政権非主流派が集まっていたのである。
 平頼盛─源頼政─源頼朝の提携という政治的動きの中で、頼朝岳父である北条時政と、牧の方の婚姻は進められた。時政にしてみれば、頼朝への先行投資が早速実を結んだ、といったところだったろう。だが自体は、時政の思惑を超えて急転する。
-------

うーむ。
最初にこの文章を読んだときは、呉座氏の洞察は鋭いな、と思ってしまったのですが、山本論文の結論があまり信頼できないとなると、呉座氏の見解も些か微妙な感じがしてきますね。
薄氷の上に積み重ねた議論、砂上の楼閣ではなかろうか、という疑問を抱かざるをえません。

>筆綾丸さん
先崎彰容氏の斎藤幸平批判はネットでも読めますね。
私にも多少の感想がありますが、また後程。

「ベストセラー新書「人新世の『資本論』」に異議あり 「脱成長」思想の裏にある“弱さ”とは何か」
https://bunshun.jp/articles/-/51373

7324:2022/01/21(金) 10:48:30
三頼説?
小太郎さん
「頼盛ー頼政ー頼朝の提携」と時政の再婚を絡めた話は、挙兵の結果を知っている後世の人間が時間を遡及させて組み立てたもので、まるで、頼朝は成功すべくして成功したのだ、と言っているように素人には思われます。伊豆の流人の存在感が眩しすぎてクラクラします。

7325鈴木小太郎:2022/01/21(金) 13:50:40
「何らかの政治的カードになり得るとの期待があったのではないか」(by 呉座勇一氏)
>筆綾丸さん
>「頼盛ー頼政ー頼朝の提携」と時政の再婚を絡めた話は、挙兵の結果を知っている後世の人間が時間を遡及させて組み立てたもので、

全くその通りですね。
18日の投稿で引用したように、呉座氏は、

-------
 杉橋氏は、保元三年(一一五八)に時政二十一歳、牧の方十五歳の時に結婚したと推定した。五位の位階を持つ貴族の家である牧氏出身の牧の方と結婚できたとすると、時政も相応の身分の武士ということになる。
 しかし杉橋氏のシミュレーションに従うと、牧の方は四十六歳の時に政範(義時の異母弟)を出産したことになり、非現実的であるとの批判を受けた。本郷和人氏は、二人の結婚は、治承四年(一一八〇)以降、すなわち頼朝挙兵後と想定した。
 最近、山本みなみ氏は、二人の結婚時期を引き上げ、頼朝挙兵以前とした。けれども、山本氏の場合も、頼朝と政子が結婚した治承元年以後を想定している。だとすると、時政が牧の方と結婚できたのは、もともとの身分が高かったからとは必ずしも言えない。むしろ、時政が頼朝の舅になったことが大きく作用したのではないだろうか。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11111

と書かれていたので、私は山本みなみ氏の推定が相当確実なのだろうと判断し、そうであれば「頼盛ー頼政ー頼朝の提携」も考慮すべきなのかな、と思ってしまいました。
しかし、「杉橋氏のシミュレーション」を修正した山本氏の「一次方程式」と杉橋説では、いくら野口実氏の太鼓判がついていようと、少なくとも時政・牧の方の結婚時期については全く説得力がありません。
牧の方の結婚時の年齢についても、私は「平頼盛に仕える牧宗親の娘と北条時政との身分不釣り合いな結婚」で、かつ親子ほどに年齢が離れた究極の年の差婚であることを考えると、牧の方も再婚のような感じがするのですが、研究者が誰もその可能性に言及しないのは不思議です。
いずれにせよ、結婚というのは好き嫌いという感情を含め、偶然の事情が大きく左右するので、例えば牧の方が、最初は身分と年齢の釣り合いがとれた貴族社会の男性と結婚したものの、相手が死ぬか「性格の不一致」で離婚して、実家に戻っていたところ、それを心配した父親が、まあ、身分不釣り合いの年の差婚でも仕方ないか、ということで、政治情勢とは全く関係なく、結婚を認めた、という可能性もありそうです。
また、牧の方は時政失脚後も離婚などせず、伊豆北条で落魄の時政の世話を続けていたようですから、時政への愛情は深かったように思われますが、そうであれば、時政・牧の方の間に頼朝と政子のようなラブロマンスが絶対になかったとも言い切れません。
「牧の方」という名前もなかなかワイルドなので、あるいは彼女は乗馬が大好きの活動的な女性であり、遠乗りに出かけたところ道に迷い、たまたま出会った時政が親切に道案内してくれたので、もともと貴族社会の軟弱男など好きでなかった牧の方は時政のワイルドな魅力に惹かれ、父親が身分違いだの年の差がありすぎるなどと反対したにもかかわらず、駆け落ち同然に時政邸に赴いた可能性だって絶対にないとは言い切れないはずです。
とか書きながら、まあ、それは多分なかったと思いますが、とにかく結婚というのは様々な偶然が関るので、特定の政治状況から、直ちにその時期を確定するなどというのはおよそ無理ですね。
そして当時の政治状況にしても、山木邸襲撃はともかく、石橋山合戦は、よくまあここまで無謀な戦いに生き残れたものだ、と感心するような悲惨な戦闘です。
頼朝の挙兵は乾坤一擲の大博奕で、普通だったらあっさり敗北して時政も野垂れ死だったはずが、奇跡的に何とか生き残った訳ですからね。
その後、東京湾を一周廻っている間に頼朝の勢力は急速に膨張しますが、その結果を遡らせて、まるで頼朝が勝つのが当然だった、頼盛も頼政も、牧の方の父親も、みんなそれを予知していた、みたいな書き方は、「むろん頼朝と連携して清盛に反逆するなどという大それた考えはなかっただろうが、何らかの政治的カードになり得るとの期待があったのではないか」とトーンダウンさせても、やはり無理が多く、呉座氏が嫌う「結果論的解釈」そのものではなかろうかと思います。

呉座勇一氏「源頼朝は朝廷からの独立を目指したか?」
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/78141?page=4

7326:2022/01/21(金) 19:24:11
炯眼
小太郎さん
牧の方に宮沢りえを配したところからすると、炯眼の三谷幸喜氏は、牧の方は初婚ではなく再婚だろう、と見抜いているような気がしますね。野暮なのは研究者だ、と。

https://www.nhk.or.jp/bunken/accent/faq/1.html
NHKは、北条を頭高型(ホウ\ジョウ)で発音するのですが、平板型の発音に慣れている私には、別の氏族のような違和感があります。

7327ザゲィムプレィア:2022/01/21(金) 21:16:29
牧宗親は池禅尼の弟か?
小太郎さんが紹介された野口実氏の『伊豆北条氏の周辺』を読み、改めて池禅尼の周辺を調べてみました。

宝賀寿男氏の『杉橋隆夫氏の論考「牧の方の出身と政治的位置」を読む』を見つけました。
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/makinokata.htm
結論は弟であることを否定しています。系譜研究者の文章は慣れていないのですが、なかなか興味深いものでした。
なお、(2002.8.9記)という文章です。

以前に紹介した『資料の声を聴く』を運営している原慶三氏が宝賀氏を取り上げているのですが、そこで『諸陵助宗親について』を見つけたので引用します。
http://www.megaegg.ne.jp/~koewokiku/burogu1/1180.html
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 池禅尼ならびに待賢門院判官代宗長の弟とされる宗親について、『中右記』保延二年一二月二一日条に関連記事があることに気づいた。杉橋氏の論考に否定的な宝賀氏を含め、これまでの研究で言及されたことはないようである。 統子内親王御給で任官、叙任した人物を確認する中で偶然遭遇した。統子内親王が母待賢門院からその所領の一部を譲られた時期を考えるためであった。
 まさに同日の小除目で藤宗親が諸陵助(正六位上相当)に補任されている。その前には二一才の源師仲と一二才の藤伊実が侍従(従五位下相当)に、年齢不詳の藤為益が縫殿頭(従五位下相当)に補任されたことが記されている。師仲は四年前、伊実は六年前に叙爵しており、為益もすでに叙爵していたと思われるが、宗親は叙爵前であった。宗親には系図にも関連する記載がなく、叙爵することなく死亡したと考えられる。
 兄宗長は大治五年正月には「五位判官代宗長」とみえ、叙爵した上で待賢門院判官代であったことが確認できる(『中右記』)。和泉守に補任された時期を示すデータはないが、前任者である父宗兼は長承三年末に重任している。宗親が諸陵助に補任された前後に、和泉守が宗兼から子宗長に交替したと思われる。兄宗長の叙爵が確認できる六年後にも宗親は叙爵しておらず、両者の間にはそれ以上の年齢差があったのであろう。
 源師仲は師時の子、藤原伊実は伊通の子であり、叙爵年齢の違いは親の差(その時点ではともに権中納言であるが、年齢は伊通が一七才若い)によるのだろう。宗長と宗親の父宗兼は院の近臣ではあったが、その位階は従四位上であり、諸陵助に補任された時点の宗親は二〇才前後で、その生年は永久五年(一一一六)前後ではないか。池禅尼はその時点で三三才で二男頼盛はすでに生まれている。宗長は二〇才代後半であろうか。
『尊卑分脈』でも宗長には「従五位上下野守」、宗賢「下野守従五位下」(ただし宗賢を歴代下野守に挿入可能な時期はない)との注記がある。宗長は仁平三年の死亡時で四〇才前半であったと思われる。宗親も三〇才過ぎには叙爵可能であったはずであり、極官が「諸陵助」であるならば、それ以前に死亡したことになる。当然、大岡宗親とは別人であり、牧の方(以前述べたように政子=一一五七年生と同世代か)が生まれる前に死亡した人物となる。杉橋氏とその関係者は一刻も早くその説を撤回すべきである。
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可能性としては死亡以外に長患い或いは出家もありますが、いずれにしてもこのようなキャラクターが地方に下り荘官になることは無いでしょう。
この結論が正しいとすれば、時政と牧の方の結婚は近在の地方武士同士の結婚ということになります。

7328:2022/01/22(土) 13:13:55
幽霊
ザゲィムプレィアさん
幽霊の正体見たり枯尾花
といったところでしょうか。
余談ですが、藤沢周平の名作『蝉しぐれ』の主人公は牧文四郎といいますね。

7329鈴木小太郎:2022/01/22(土) 23:30:04
「いまどき連名の論文は珍奇なようであるが」(by 細川重男・本郷和人氏)
念のため書いておくと、前回投稿の「「牧の方」という名前もなかなかワイルドなので、あるいは彼女は乗馬が大好きの活動的な女性であり、遠乗りに出かけたところ道に迷い、たまたま出会った時政が親切に道案内してくれたので」云々はもちろん冗談です。
ま、近時のある出来事をヒントにはしていますが。
さて、従前の常識に従って時政と牧の方の結婚が牧の方の父の承認を得た政略結婚であり、かつ身分違いの年の差婚であったとするならば、時期的にはやはり頼朝が石橋山合戦の敗北から奇跡的に立ち直って、東京湾を一周廻って鎌倉に入った治承四年(1180)十月六日以降じゃないですかね。
牧の方の父としては、それまでは北条など身分違いと思っていたとしても、時政の地位が劇的に向上したのを見て、世の中、やっぱり金と実力だよね、という方向にあっさり転換し、娘を嫁がせたのではなかろうかと私は想像します。
そして、山本みなみ氏によれば、牧の方は文治三年(1187)に宇都宮頼綱室、文治五年(1189)に政範を生んだ後、もう一人娘(坊門忠清室)を生んでいて、都合「一男五女」という多産の女性ですが、婚姻のときに三十歳くらいまでであれば「一男五女」を生んでもそれほど不自然ではないはずです。
山本みなみ氏が「一男五女」について細かく検討される前に発表された細川重男・本郷和人氏の連名論文「北条得宗家成立試論」(『東京大学史料編纂所研究紀要』11号、2001)によれば、

-------
 時政が牧の方を妻に迎えたのは、やはり頼朝の政権が誕生した後のことだったのではないだろうか。四十代の彼は「ワカキ」牧の方を後妻に迎える。そして、先の三人の子が生まれる。彼らの生年を仮に朝雅室一一八四年、頼綱室八六年、政範八九年と推定すれば、これ以降の史実との間に全く齟齬が生じない。婚姻が八三年に行われ、牧の方が十五才であったとすると、政範を産んだとき二十一歳、後年、一族を引き連れて諸寺参詣し、藤原定家の批判を受けたとき五十九歳。まことに具合いがよい。

https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/kiyo/11/kiyo0011-hosokawa.pdf

とのことですが(p2)、「やはり頼朝の政権が誕生した後のことだったのではないだろうか」は穏当な理解だと思います。
ただ、仮に婚姻が1183年だとすると、北条時政は四十六歳ですから、牧の方が十五歳であれば、年の差は三十一です。
うーむ。
あれこれ考えると、牧の方も再婚で、婚姻時に二十五歳くらいであれば、すべての辻褄が合って「まことに具合いがよい」ように感じます。
なお、細川・本郷論文の「はじめに」には、

-------
 いまどき連名の論文は珍奇なようであるが、本稿は両名共同の研究作業の成果であり、やむを得ずかかる形をとることにした。1は本郷、2と3は細川が主に叙述したが、私たちは本稿全体への責任を共有するものである。
-------

とありますが、二十年前の両者の関係とその後の推移を知っている私としても感懐の深いものがあります。

>筆綾丸さん
>牧の方に宮沢りえを配したところからすると、炯眼の三谷幸喜氏は、牧の方は初婚ではなく再婚だろう、と見抜いているような気がしますね。

そうですね。
女優ですから本気で化粧すれば十代にも化けるのでしょうが、自然な年代設定でしたね。

>ザゲィムプレィアさん
牧の方の出自と池禅尼との関係については、ツイッターでも「千葉一族」というホームページを運営されている方からご意見を伺っています。
正直、つい最近、この問題に関わるようになった私には対応する能力がありませんが、大河ドラマの進展に合わせて、もう少し深めて行きたいと思います。

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武者所宗親と大岡時親は同一人物ではないかと思っています。あくまでも推測ですが。
『愚管抄』によれば、「大舎人允宗親」は「牧の方」と「大岡時親」の父。『吾妻鏡』では「牧の方」の兄弟が「武者所宗親」。(続く)
https://twitter.com/chibashi4/status/1484041110251274240

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牧の方の父「大舎人允宗親」や「牧武者所宗親」と同一人物とされる、池禅尼の兄弟「諸陵助宗親」は、保延2(1136)年12月21日に諸陵助に任じられています(『中右記』保延二年十二月廿一日条)。
https://twitter.com/chibashi4/status/1484389131627413510

7330ザゲィムプレィア:2022/01/23(日) 09:41:28
宗親と時親に関する宝賀寿男氏の意見
1/21の投稿「牧宗親は池禅尼の弟か? 」で紹介した宝賀氏の『杉橋隆夫氏の論考「牧の方の出身と政治的位置」を読む』から引用します。
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大岡時親は、宗親が『東鑑』の記事から消えた建久六年(1195)の後に、ごく短期間だけ登場する。すなわち、同書の建仁三年(1203)9月3日条に初出で大岳判官時親と見え、比企合戦(
比企能員の乱)の鎮圧に際し、時政の命により派遣され比企一族の死骸等を実検したと記される。次いで、その二年後の元久二年(1205)6月21日条に畠山父子誅殺に際し、備前守時親は、牧御方の使者として北条義時の館に行き、重忠謀反を鎮めるように説得したことが記される。その二か月後の8月5日条には、時政の出家に応じ、大岡備前守時親も出家したと記され、これが『東鑑』最後の登場となった。終始、時政の進退に殉じたわけである。以降、牧氏が歴史に再浮上することはなかった。
 『愚管抄』の記事により牧の方の兄とされる時親であるが、突然に判官(五位尉)として現れ、その二年後(1205)には備前守に任じている。備前は上国で守は従五位下相当とされるが、北条時政ですら従五位下遠江守に任じたのが正治二年(1200)、義時が従五位下相模守に任じたのが元久元年(1204)、
その弟・時房がその翌年の元久二年(1205)に時親に少し遅れる8月に従五位下遠江守に任じた(当時31歳)ことからみて、なぜか異例の昇進を時親が遂げたといえよう。
 これらの動向を見てみると、建仁三年(1203)には判官になっていたのは、建久六年(1195)の武者所を承けて官位昇進したものとみられ、「宗親=時親」と考えるのが自然となろう。すなわち、時親は宗親の改名であり、牧宗親が判官補任を契機に「大岡判官」と名乗り、名前も北条氏に名前に多い「時」を用いて時親に改名したのではないかと推するのである。そう考えないと、父が六位で卒去したのに、その八年ほどしか経たないうちに息子が最初から五位で登場するという不可解なことになるからである。
----------

なお愚管抄について「時正(註:北条時政)ワカキ妻ヲ設ケテ、ソレガ腹ニ子共設ケ、ムスメ多クモチタリケリ。コノ妻ハ大舎人允宗親ト云ケル者ノムスメ也。セウト(註:同腹の兄)ゝテ大岡判官時親トテ五位尉ニナリテ有キ」
を引用していて、同時代史料と認めた上で以下のように述べています。
----------
『東鑑』のほうから『愚管抄』の記事を見ていくと、後者にはいくつかの混乱・誤記があると考えざるをえない。それらは、著述者の居住地・環境による情報源や問題意識の差異により生じるものでもあり、当時としてはやむをえないものでもあろうが。
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7331:2022/01/24(月) 21:41:37
大河寸評
『鎌倉殿の13人』第3回は、文覚(市川猿之助)が頼朝の前に伝義朝髑髏を放り投げて辞すときの、
「(そんなものは)ほかにもまだあるから」
という捨て台詞が素晴らしかった。猿之助は三谷映画の端役として絶妙な味を出していますが(『ザ ・マジックアワー』では、まだ亀治郎だったので、往年の時代劇スター・カメという端役でした)、これも大河ドラマの名場面になるかもしれません。

慈円は、
おほけなくうき世の民におほふかな
わが立つ杣に墨染の袖??(小倉百人一首95番)
などと殊勝な歌を詠んでますが、愚管抄の「時正ワカキ妻ヲ設ケテ、ソレガ腹二子共設ケ、ムスメ多クモチタリケリ」というような一文を読むと、天台座主とは名ばかりで、俗っぽい坊主だな、とあらためて思います。

7332鈴木小太郎:2022/01/24(月) 21:58:56
星倭文子氏「鎌倉時代の婚姻と離婚 『明月記』嘉禄年間の記述を中心に」
山本みなみ氏の「北条時政とその娘たち」に先行研究として紹介されていた星倭文子(ほし・しずこ)氏の「鎌倉時代の婚姻と離婚 『明月記』嘉禄年間の記述を中心に」」(服藤早苗編『女と子どもの王朝史』、森話社、2007)を読んでみましたが、これは面白い論文ですね。

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成人男性中心の歴史からは見落とされがちだった「女・子ども」の存在。
その姿を平安王朝の儀式や儀礼、あるいは家や親族関係のなかに見出し、「女・子ども」が貴族社会に残した足跡を歴史のなかに位置づける。

http://www.shinwasha.com/73-7.html

星論文の構成は、

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1 はじめに
2 婚姻の成立と家長の力
 1 武家の場合
 2 貴族の場合
3 婚姻の政治的背景……関東との縁
 1 藤原実宣の場合
 2 藤原国通の場合
 3 藤原実雅と源通時の場合
4 離婚
 1 藤原公棟の婚姻と離婚
 2 宇都宮頼綱室・為家室の母の離婚
 3 離婚不当の訴え
5 おわりに
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となっていて、面白い事例がふんだんに紹介されているのですが、藤原公棟の例は特に面白いですね。(p284以下)

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 1 藤原公棟の婚姻と離婚

(18)嘉禄二年五月二十七日条
   中将入道<公棟>に嫁ぎたる新妻独歩すと云々。時房朝臣の子次郎入道の旧妾なり。<彼等の妻妾皆参商
   といえども、所領を分け与える之間、猶その力あり>本妻の常海の女、又離別せず、なお相兼ねる。

 ここでは、離婚についていくつかの史料を提示したい。まず、北条時房の息の次郎入道・北条時村のもとの妾が、藤原公棟に嫁いでいる。しかし公棟は、本妻とは別れていない様子が記されている。北条時村は、前年の十二月八日条に「十二月二日に死去」とある。妾は、半年足らずで再婚していることになる。「所領を分け与える之間、猶その力あり」とあり、女性に資産があったことから結婚したともとれる。ところが、

(19)嘉禄二年六月十日条
   世間の事等を談ず。中将入道<公棟>新妻<本より大飲して、ここ衆中に列座して、盃酌す。其比にセトノ法橋、
   定円闍梨、公棟朝臣、その妻列座すと云々。>程なく離別す。

とあり、一か月も経たないうちに離縁している。当時は離婚の理由が明確にならないことが多いのに、「新妻大飲して」と明記されているのは興味深い。新妻は大酒飲みだったのである。このことが離婚の理由であったと考えられる。
-------

結婚の理由が金目当て、離婚の理由が妻が大酒飲みであるという非常に分かりやすい事例ですが、宴会に女性が参加すること自体は公棟も認めていて、ただ、そこまで飲むとは思わなかった、ということのようですね。
「新妻」はまことに豪快な女性ですが、ただ、こうした自由奔放な行動を取れるのは、結局はその女性に財産があることが裏づけになっていますね。
北条時村の「妾」だったというこの女性の出自を知りたいところですが、この婚姻は純粋に公家社会の例とはいえなさそうです。
なお、北条時村は時房息という出自に恵まれながら若くして出家したようで、この人もちょっと変わった人のようですね。
政村息の時村(1242-1305)とはもちろん別人です。

北条時村 (時房流)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E6%9D%91_(%E6%99%82%E6%88%BF%E6%B5%81)

>ザゲィムプレィアさん
牧の方の娘に貴族に嫁した女性が多いのは間違いないので、仮に「時政と牧の方の結婚は近在の地方武士同士の結婚」に過ぎないとしても、牧家が京都との特別な関係を持つ家であることは争えないと思います。
また、平頼盛の所領は後に久我家の経済的苦難を救うことになるのですが、その伝領に、もしかしたら牧の方の周辺も絡んでくるのかな、といった予感があるので、もう少し丁寧に見て行きたいですね。

>筆綾丸さん
>天台座主とは名ばかりで、俗っぽい坊主だな、

これは本当にその通りですね。
歌好きも殆どビョーキっぽいところがありますね。

7333鈴木小太郎:2022/01/25(火) 11:21:46
星倭文子氏「鎌倉時代の婚姻と離婚」(その2)
星倭文子氏には『会津が生んだ聖母 井深八重―ハンセン病患者に生涯を捧げた』(歴史春秋出版、2013)という著書があって、その著者紹介によれば「1939年水戸市生まれ。福島大学大学院地域政策科学研究科修了。総合女性史研究会会員」だそうですね。

-------
会津藩家老西郷頼母の一族に生まれた井深八重は、同志社女子学校を卒業し、長崎県立高等女学校の英語教師として長崎に赴任しました。その後身体に異変が生じ、ハンセン病と疑われて神山復生病院に入院しましたが、それは誤診だったのです。しかし八重は病院を去る事はありませんでした。看護婦としてハンセン病患者の看護に一生を捧げた生涯でした。

https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784897578118

「鎌倉時代の婚姻と離婚 『明月記』嘉禄年間の記述を中心に」は冒頭の学説史整理がありがたいですね。

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1 はじめに

 婚姻形態についての本格的な研究は、高群逸枝氏が一九五三年に発表した『招婿婚の研究』に始まるといっても過言ではない。高群氏は古代から現代までの婚姻体系を提示し、歴史的変遷を明らかにした。古代は群婚から妻問婚をへて婿取婚へ、平安中期は純婿取婚、平安末期は経営所婿取婚とし、鎌倉時代になると、婿取儀式形式を残しつつ、次第に夫方居住に移行をはじめ、それに伴い、家父長権が絶対的なものとなった、と指摘している。その結果、室町時代から嫁取婚が行われるようになり、婚姻も男女よりも家と家の結びつきが濃厚になった、とする研究である。
 その後、関口裕子氏は、高群氏の主張と実証が乖離しているとしながらも批判的に継承している。一方、高群説には多くの問題があると批判している研究者は、主として江守五夫氏、鷲見等曜氏、栗原弘氏の三人である。さらに、服藤早苗氏は、高群氏が婿取婚とした平安時代の婚姻形態に関し、最新の研究成果から、?「婿が妻族に包摂されないので、婿取婚の用語は不適切」、?「居住形態からは妻方居住を経た独立居住と当初からの独立居住」、?「十世紀以降の婚姻決定は妻の父であり、夫による離婚が始まるので、家父長制下の婚姻形態」との特徴を持つ、と述べている。
 小稿で検討する鎌倉期の婚姻形態については、次のような研究がある。辻垣晃一氏は平安時代末期から鎌倉時代初期の公家の結婚形態についての検討で、石井良助、高群逸枝、関口裕子各氏の嫁取婚成立時期に関する研究は十分な史料的裏付けに基づいて展開されていないと指摘し、独自の史料検討を行った結果、一般的な婚姻形態は婿取婚だった、と結論づけている。また、辻垣氏は、武家の場合についても、婿取婚から嫁取婚へと発展図式で捉える高群氏、田端泰子氏の説や、西日本に婿取婚の存在を推察し地域性を主張する高橋秀樹氏の説に対し、史料検討の結果、嫁取婚であったと述べている。一方、五味文彦氏は「『明月記』の社会史」「縁に見る朝幕関係」「女たちから見た中世」などで、杉橋隆夫氏は「鎌倉初期の公武関係」で、政治的背景や社会史の面から具体例を検証しているが、婚姻形態の専論ではない。
 婚姻決定権については、奈良時代までの婚姻形態は、男女ともに婚姻決定権・離婚権があり、両者の合意により婚姻関係が発生し、どちらかの一方が婚姻を解消したい場合は、自然解消している。平安時代には、妻方の両親が婚姻決定に介入し、次第に妻方の父親が婚姻の決定権を持つようになる。鎌倉時代になると夫方の父が婚姻決定に介入し、夫方・妻方ともに父が決定権を持つ、とするのが通説的見解のようである。
-------

いったん、ここで切ります。
私の関心からは、鎌倉時代は公家の場合「一般的な婚姻形態は婿取婚」で、「武家の場合についても、婿取婚から嫁取婚へと発展図式で捉える高群氏、田端泰子氏の説や、西日本に婿取婚の存在を推察し地域性を主張する高橋秀樹氏の説に対し、史料検討の結果、嫁取婚であったと述べている」辻垣晃一氏の見解が気になります。

https://researchmap.jp/tsujigaki

また、婚姻決定権については、「姫の前」の場合は「夫方・妻方ともに父が決定権を持」っておらず、頼朝が事実上の決定権を持っていたという非常に特殊な例ですね。
義時としては、おそらく「姫の前」の父親ないし比企一族の最有力者に手を廻して「姫の前」を説得してもらおうとしたのでしょうが、「姫の前」の強烈な個性に拒まれ、最後は頼朝に泣き寝入りという感じだったのでしょうか。
さて、星論文の続きです。(p263以下)

-------
 離婚については、栗原弘氏の『平安時代の離婚の研究』、田端氏の「中世社会の離婚」「鎌倉期の離婚と再婚にみる女性の人権」、脇田晴子氏の「町における女の一生」などの研究がある。栗原氏は、平安時代の離婚は夫婦二人の問題であり、当事者主義が原則的で、夫は妻の過失の有無にかかわらず、妻を離別することが認められていた、と主張する。その背景には、夫は結婚・再婚に経済的負担がないため、安易に結婚・離婚・再婚を行うことが可能であったこと、両性の権利の不均衡の淵源は古代社会が一夫多妻制であり、離婚の権利を男性が所持していたこと、などを述べている。さらに、離婚された女性は、離婚をドライに受け止め、新しい結婚生活へ立ち向かおうとする積極的な姿勢が乏しい、あるいは、離婚後の女性の明るい話がほとんど見られないことなども述べている。だが、果たしてそういいきれるだろうか。
 田端氏は、鎌倉期の離婚について次のように説明している。まず、鎌倉期には婚姻が家と家との結びつきを意味するようになり、長期的・安定的な婚姻が望まれたので、武家社会で公然化された。そのため離婚は、家と家との結合の破綻を意味することになり、これも公然化する必要が出てきて、宣告離婚が発生した、と述べている。首肯しうる見解であるが、貴族社会については具体的・実証的検討はされていない。
-------

田端氏の見解について、星氏は武家社会については「首肯しうる」とされていますが、田端説が正しいのであれば、「姫の前」についての私見、すなわち「姫の前」は比企氏の乱(1203)の結果、義時と離婚させられたのではなく、その前に「姫の前」の側から離婚を「宣告」した、という考え方(超絶単独説)は、政治史の面にも波及しますね。
鎌倉期の武家社会が、当事者、というか夫の意思で自由に離婚できる社会から「婚姻が家と家との結びつきを意味するようになり、長期的・安定的な婚姻が望まれた」社会になっていたとすると、義時と「姫の前」の離婚は北条家と比企家の「結合の破綻を意味することになり」ます。
とすると、二人の離婚が比企氏の乱の原因の一つではなく、主因であった可能性すら出てきますね。
ま、私見では、「姫の前」はそんな面倒くさい家と家の関係など知ったことか、とさっさと義時に三行半を突き付け、のんびり京都まで大名旅行をして、義時のような野暮ったいマッチョとは異なる教養溢れる歌人の源具親と再婚して楽しく暮らしていたのだろうと思いますが。

山本みなみ氏『史伝 北条義時』(その1)〜(その3)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11080
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11081
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11082
野口実門下の京武者、山本みなみ氏が描く「なかなかパワフルな女性」たち
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11087
野口実門下の京武者、山本みなみ氏が描く「なかなかパワフルな女性」たち(補遺)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11088

7334:2022/01/25(火) 18:00:27
能員というカモネギ
小太郎さん
離婚が家と家との結合の破綻であるとすれば、姫の前と義時が離婚したあとなのに、能員は義政の招きに応じて、まるでカモネギのように(六代将軍義教が鴨の子に誘われて赤松邸で殺されたように)、なぜ平服でのこのこ名越邸に赴いたのか、という疑問が残りますね。
姫の前と義時の離婚は、朝宗と義時の関係が破綻しただけで、能員と義政の関係が破綻したのではない、と能員は考えたのか。あるいは、義政の仏事供養という招きは、比企家と北条家の関係修復の絶好の機縁と考えたのか。あるいは、たんに能員は烏滸だったのか。
比企氏滅亡の話を遠く京都で聞いて、聡明な姫の前は何を思ったか、興味は尽きないですね。

7335ザゲィムプレィア:2022/01/25(火) 22:02:53
比企能員について
筆綾丸さん
比企能員は頼朝の流人生活を経済的に支え続ける才覚を持った比企尼の一族で、頼朝に認められ頼家の乳母父になりました。さらに、奥州合戦では北陸道大将軍を務めました。
北条との武力衝突を避けたいという思いはあったかもしれませんが、吾妻鏡に記述されるような単純な計略にかかることはなかったでしょう。
巧妙な罠が仕掛けられたかもしれませんが、もはやそれが明らかになることはないでしょう。

ゴッドファーザーパート1でマイケルは父と兄の仇を次のような罠で仕留めました。
?偽って手打ちに応じるポーズを見せる
?それを纏めるため中立な場所での会談を設定する
?安全の為会談は本人だけでボディガードは同席せず、互いに入室前に身体検査して丸腰を確認する
?会談場のトイレに予め隠したピストルで仇を射殺、そこから脱出して高飛びする

7336鈴木小太郎:2022/01/26(水) 10:33:07
星倭文子氏「鎌倉時代の婚姻と離婚」(その3)
前回投稿で引用した部分の続きです。(p264以下)
先行研究を踏まえた星氏自身の課題設定ですね。

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 鎌倉期の婚姻形態や婚姻決定権などについては、実態に即した実証的研究が少ないのが実情であるので、小稿では、藤原定家の『明月記』を素材として、中級貴族である藤原定家の見た婚姻について検証してみる。『明月記』は治承四年(一一八〇)から嘉禎元年(一二三五)、定家十九歳から七十四歳までの日記であり、そこには女性たちについての様々な記述がある。特に嘉禄年間(一二二五〜二六)には、婚姻や男女間のことをめぐって興味深い記述が多い。ゆえに、短い期間ではあるが、小稿では先行研究を踏まえながら嘉禄年間の記述を主に、婚姻の決定権について武家と公家の違いや、婚姻・再婚の実態から見えてくるものを、そして離婚における女性の意思についても検証することとしたい。当時の離婚は家の形成にとって重要な役割を果たしていた。したがって、家族史研究にもささやかな寄与ができうるものと考えている。なお、『明月記』に関しては年月日のみをしるすこととする。
-------

嘉禄年間に着目された理由を星氏は明確に述べておられますが、この時期が承久の乱後の、まだまだ政治的・経済的、そして精神的混乱が続いている時期であることは留意すべきでしょうね。
承久の乱の戦後処理については多くの研究者が「前代未聞」「未曾有」「驚天動地」といった最大級の修飾語を工夫していますが、とにかく全ての価値の基準である天皇が廃位され、「治天の君」を含む三上皇が流罪となったのですから、従来の倫理秩序も動揺しないはずがありません。
朝廷は直属の軍事組織を失ってしまい、そうかといって幕府が責任をもって京都の治安維持を約束してくれた訳でもないので、強盗の横行など、社会秩序も乱れに乱れます。
こうした中で、結婚や夫婦間の関係についても当然に価値観の変動があったはずですね。
従って、『明月記』の嘉禄期の事例をどこまで一般化してよいのかという疑問はつきまといますが、全体的に記録が乏しい中で、やはり『明月記』の存在は貴重です。
さて、(その1)では「時房朝臣の子次郎入道の旧妾」であり、藤原公棟と再婚したものの、大酒飲みのために一か月で離縁となった「新妻」の例を紹介しましたが、優れた政治家とされている時房の周辺は、家族や夫婦の関係ではけっこうな騒動が多いですね。
まず「次郎入道」時村は承久二年(1220)正月十四日、弟の資時とともに突如として出家してしまいます。
兄弟二人一緒に出家というのは何とも異様な感じがしますが、これは『吾妻鏡』にも、

-------
相州息次郎時村。三郎資時等俄以出家。時村行念。資時眞照云云。楚忽之儀。人怪之。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma24b-01.htm

と記されていますね。
その後、時村(行念)は親鸞との関係があったようですが、出典は宗教関係の史料なので、どこまで信頼できるのか若干の問題がありそうです。
ただ、出家しても女性関係は変わらないという点では、いかにも浄土真宗っぽい感じはしますね。

北条時村(時房流)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E6%9D%91_(%E6%99%82%E6%88%BF%E6%B5%81)

そして星論文では、「2 婚姻の成立と家長の力」に入ると再び時房の四男・朝直の事例が出てきます。

-------
  1 武家の場合

 『明月記』の嘉禄年間に記された婚姻の記述には、武家と公家では家長の関わり方に違いが見える。辻垣晃一氏は、平安時代末期から鎌倉時代初期の婚姻形態について、重要なのはどこで婚姻儀式を行ったかではなく、婚姻の開始はどういう形式であり、誰が婚姻儀式を差配したかという点である、と指摘している。
 ここでは婚姻の決定過程に武家と公家の違いがあるのか、またある場合は何が違うのかを検証していきたい。第一に取り上げるのは、定家が関東の婿取りのこととして注目している、北条泰時の婿取りである。

(1)嘉禄二年(一二二六)二月二十二日条
  関東執婿の事と云々、武州の女、相州嫡男<四郎>・朝直に嫁す。愛妻<光宗女>があるにより、
  頗る固辞すと。父母懇切に之を勧めるによると云々。
(2)嘉禄二年三月九日条
  武州婚姻のこと、四郎<相州嫡男>猶固辞する。事已に嗷々と云々。相州子息惣じて其の器に
  非ず歟。出家の支度を成すと云々。本妻の離別を悲しむに依るなり。公賢朝臣の如きか。
-------

この後の説明がちょっと長いので、いったんここで切ります。
時村・資時の出家により朝直が嫡男とされていたようですが、その朝時まで出家してしまったら時房の権威は丸つぶれ、目も当てられない事態ですね。

>筆綾丸さん
本郷和人氏も重視する比企能員のカモネギ的行動ですが、『吾妻鏡』の記述をどこまで信頼できるかという問題がありますね。
ま、疑い出したら本当にキリがありませんが。

7337:2022/01/26(水) 12:26:52
シンプルな事件
ザゲィムプレィアさん
『吾妻鏡』の記述が事実ならば、という前提で話をしているだけなんですよ。『吾妻鏡』が韜晦なら、話は変わります。

映画『ゴッドファーザー』の関連で言えば、比企の乱は、ホテルのペントハウスでのマフィアの幹部会をヘリコプターから機銃掃射して殲滅する場面(PART ?)のほうが近いと思います。
つまり、北条側は謀叛か何かを理由に比企邸を奇襲して皆殺しにした、というシンプルな事件と解すればよく、巧妙な陰謀をめぐらしたなどと考える必要はないのです。

7338鈴木小太郎:2022/01/26(水) 13:14:15
星倭文子氏「鎌倉時代の婚姻と離婚」(その4)
続きです。(p266以下)

-------
 当時執権となった武州・北条泰時の娘が、相州・北条時房嫡男四郎朝直に嫁す記事である。朝直は当時二十歳、すでに妻がいた。愛妻とは、伊賀朝光の息子光宗の娘である。朝直は泰時の娘との婚姻を断るが、父母は婚姻を熱心に勧めている。この婚姻は、武家家長である父親同士により決定されるものである。父は北条時房であり、母は安達遠元の娘という説もあるが定かではない。時房は初代の連署に就任しており、泰時の叔父にあたる。「承久の乱」では共に上洛し六波羅探題になるほど泰時を補佐し良好な関係にあった。一方、伊賀朝光の息子光宗は、妹が北条義時の妻となっており、妹の義時の間に政村がいた。光宗は、元仁元年(一二二四)に妹の義時妻と共に将軍藤原頼経を廃して義時の女婿である藤原能保の息子・実雅を将軍にたて、北条政村を執権に就かせようとした「伊賀氏の乱」が失敗し、信濃国に配流されていた。その光宗の娘が正妻であり、愛妻であったことから、朝直は泰時の娘との婚姻を渋る。
 この婚姻を熱心に勧めた朝直の父である時房にとっては、すでに執権となった泰時の娘との縁組みは望むところであったろう。北条本家の娘が庶家に嫁すということは、泰時にも時房への懐柔・同盟強化の意図があったものと考えられる。朝直は光宗の娘との別れを悲しみ、出家も考えるが結局はそれも叶わず、光宗の娘とは離別し、泰時の娘を妻に迎える。父親への抵抗は出家をすることであるが、それはできず、そこには確かに家長の強大な権限が見て取れる。
 朝直は、光宗の娘との間には子供がいなかったが、泰時の娘との間には時遠・時直をもうけている。しかし、時期は不明であるが泰時女は朝直とは別れ、後に北条光時と再婚した。
 朝直の婚姻について、高群氏は、一族の家長の威迫と述べているが、双方の思惑が一致したためと考えたい。【後略】
-------

「光宗は、元仁元年(一二二四)に妹の義時妻と共に将軍藤原頼経を廃して……」とありますが、僅か三歳で鎌倉に下った頼経は直ぐに征夷大将軍となった訳ではなく、宣下は嘉禄二年(1226)正月二十七日ですね。
『吾妻鏡』では同年二月十三日条に、

-------
佐々木四郎左衛門尉信綱自京都歸參。正月廿七日有將軍 宣下。又任右近衛少將。令敍正五位下給。是下名除目之次也云云。其除書等持參之。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma26.5-b02.htm

とあります。
その他、この時期の泰時と時房の関係が「北条本家」と「庶家」と固定化していたのかを含め、星氏の武家社会理解には多少の疑問を感じるところがありますが、とりあえずそれは置いておきます。
さて、伊賀氏の乱で実家の後ろ盾を失い、離縁を余儀なくされた光宗の娘は気の毒ですが、そうかといって新しく朝時の正室となった泰時娘が幸せだったかというと、そうでもなさそうですね。
朝時との間に「時遠・時直をもうけ」たものの、「時期は不明であるが泰時女は朝直とは別れ、後に北条光時と再婚した」訳ですから、結局は元妻に未練たっぷりの朝時とは上手く行かなかった訳で、朝時の再婚は誰一人として幸せにしない残酷なものだったということになります。
そして、朝時と泰時娘の間に二人の子供がいたとはいえ、それが決して夫婦間が円満であったことの証拠ではないという事実は、山本みなみ氏によれば「およそ十年連れ添い、朝時・重時・竹殿という三人の子宝にも恵まれていた」義時と「姫の前」の関係を考える上でも参考になりますね。

山本みなみ氏『史伝 北条義時』(その2)(その3)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11081
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11082

7339ザゲィムプレィア:2022/01/26(水) 22:03:48
Re: シンプルな事件
筆綾丸さん
吾妻鏡に対する態度は了解しました。

ゴッドファーザーの件は、「巧妙な罠」という表現を使った後でそれに相応しい日本史の出来事を思い出せず、代わりに映画のエピソードを書いてしまいました。
日本史とは関係ないことですので、気にしないでください。

7340:2022/01/27(木) 14:35:30
禁色
ザゲィムプレィアさん
ヒッグス粒子の発見(2013年)であれ、重力波の発見(2016年)であれ、観測誤差がどれくらい低くなれば実在すると言えるのか、という相対的な問題があるわけで、100%絶対存在するとは、たぶん、永遠に言えません。
『吾妻鏡』の記述も、僅か800年前のことながら、何が史実で何が曲筆か、明確に区別する基準などありませんから、まあ、だいたい、こんなもんだろう、ということがわかればいいと考えています。皮肉な言い方をすれば、歴史学とは最初から証明(実証)を禁じられている学問で、だから、人を不必要に惑わすのだ、ということになります。

7341鈴木小太郎:2022/01/27(木) 14:49:21
星倭文子氏「鎌倉時代の婚姻と離婚」(その5)
私は北条泰時(1183-1242)と時房(1175-1240)の関係が「北条本家」と「庶家」に固定化されていたとは考えませんが、時房の子息のうち、時村(?-1225)と資時(1199-1251)が若くして出家、朝直(1206-64)も愛妻との離縁を強要する父に反発して出家しかけたことを見ると、時房流が結果的に「庶家」となったのもやむを得ない感じがしますね。
前妻に未練を残していた朝直に嫁し、二人の子を産んだ後、名越光時に再嫁した泰時娘は、光時が宮騒動(1246)で流罪になってしまった後はどのような人生を送ったのか。

北条朝直
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%9C%9D%E7%9B%B4
名越光時
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E5%85%89%E6%99%82

さて、朝直・泰時娘の離婚は泰時娘側の申し出による協議離婚ではないかと思われますが、妻の側の申し出による離婚の例をもう一つ引用させてもらうことにします。
山本みなみ論文で重視されている「牧の方腹」の宇都宮頼綱室の話ですね。(p286)

-------
  2 宇都宮頼綱室・為家室の母の離婚

 藤原定家の息・為家の妻の母は、北条時政と牧の方との娘で、宇都宮頼綱の妻となった女性である。

(21)天福元年(一二三三)五月十八日条
  金吾(定家息・為家)の縁者妻の母天王寺に於いて入道前摂政の妻と為る之由、わざわざ女子並びに
  もとの夫の許に告げ送ると云々。自ら称す之条言語道断の事か。<禅門六十二歳、女四十七歳>

 定家は、為家妻の母が、わざわざ娘の為家妻と元夫頼綱に前摂政藤原師家の妻になることを自ら告げることはいかがなものか、と非難している。しかしこの場合は男性側からの離婚宣言ではなく、女性側が離婚宣言し六十二歳の師家と再婚したと書いている。離婚の原因は不明であるが、鎌倉期の武家女性は婚姻関係の明白な状態を潔としており、田端氏は、実態として妻からの離婚は武家層にあったと考えられると述べているが、これも同様な事例である。
-------

この『明月記』の記載で、山本みなみ氏の言われる「牧の方腹」の「八女」が天福元年(1233)に四十七歳、従ってその生年が文治三年(一一八七)であることが分かる訳ですね。
星氏は「離婚の原因は不明であるが」と書かれていますが、シンプルに新しい男ができたから、と考えればよいと思います。
松殿師家(1172-1238)は「前摂政」とはいえ、これは遥か昔の寿永二年(1183)、源義仲と結んだ父・基房が僅か十二歳の師家を摂政にしたという強引な人事ですね。
義仲失脚とともに基房・師家父子も失脚、松殿家は摂政・関白を出せる家柄ではなくなり、師家は半世紀以上、一度も官職に就けない人生を送った訳ですから、政治的には敗者です。
しかし、そういう人物に再嫁したということは、前・宇都宮頼綱室の選択は決して権勢や金目当てではなく、「愛情」に基づくことを示していて、こうした事情が分かる事例は本当に珍しいですね。
そして、藤原定家の目を白黒させた四十七歳の前・宇都宮頼綱室のあっけらかんとした自由気儘な行動も、おそらく彼女が相当の財産家であったことが裏づけとなっているはずですね。

松殿師家(1172-1238)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%AE%BF%E5%B8%AB%E5%AE%B6

山本みなみ氏「北条時政とその娘たち─牧の方の再評価」(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11112

なお、「田端氏は、実態として妻からの離婚は武家層にあったと考えられると述べているが」に付された注を見ると、これは「日本中世社会の離婚」(『日本女性史論』、塙書房、1994)で、私は未読です。
ただ、「実態として妻からの離婚は武家層にあったと考えられる」こと自体は、古文書・古記録や系図類を扱っている研究者には常識的な話かと思います。
星論文にはまだまだ興味深い事例が載っていますが、いったんこれで紹介と検討を終えることにします。

7342:2022/01/28(金) 15:18:42
愚問ですが
小太郎さん
「鎌倉期の武家女性は婚姻関係の明白な状態を潔としており」という文章が、いまひとつ、よくわからないのですが、定家が属した公家社会の女性は、武家の女性とは反対に、婚姻関係なんて曖昧でもいいんじゃないの、と考えていたということですか。

7343鈴木小太郎:2022/01/30(日) 13:12:05
取り急ぎ
>筆綾丸さん
>「鎌倉期の武家女性は婚姻関係の明白な状態を潔としており」

その箇所、私も気になりました。
星論文には多数の参考文献が挙げられており、それらを網羅的に読めば参考になる事例があるのかもしれませんが、私も今はちょっと余裕がありません。

7344鈴木小太郎:2022/01/31(月) 10:58:19
2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その1)
今月15日に実施された「大学入学共通テスト」の国語第3問は『とはずがたり』と『増鏡』を素材にしたものでした。

【速報】大学入学共通テスト2022 国語の問題・解答・分析一覧(『高校生新聞』サイト内)
https://www.koukouseishinbun.jp/articles/-/8457?page=3

『とはずがたり』は、例えば佐々木和歌子訳『とはずがたり』(光文社古典新訳文庫、2019)の宣伝広告で、

-------
宮廷のアイドルの 「死ぬばかりに悲しき」物語

後深草院の寵愛を受け十四歳で後宮に入った二条は、その若さと美貌ゆえに多くの男たちに求められるのだった。そして御所放逐。尼僧として旅に明け暮れる日々……。書き残しておかなければ死ねない、との思いで数奇な運命を綴った、日本中世の貴族社会を映し出す「疾走する」文学!

https://www.kotensinyaku.jp/books/book310/

などと紹介されている一種のキワモノ的な古典文学なので、『とはずがたり』が共通テストに登場したこと、そして出題された前斎宮の場面が、よりによって『とはずがたり』の中でも好色度が特に高い場面であったことは驚きです。
この場面が研究者にどのように見られているかは、例えば榎村寛之氏の『伊勢斎宮と斎王』(塙書房、2004)の記述などが参考になります。

「何しろ当時の朝廷はデカダンな雰囲気にあふれ……」(by 榎村寛之氏)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9450

私もかねてから『とはずがたり』と『増鏡』の関係に興味を持っていて、前斎宮の場面については両者を詳しく比較検討したこともあるので、受験レベルを超えた観点から、この問題を少し整理しておきたいと思います。
なお、受験レベルの解説としては、例えばリンク先サイトなどを参照していただきたいと思います。

共通テスト古文2022年増鏡・とはずがたり全訳・解答・解説(吉田裕子氏)
https://ameblo.jp/infinity0105/entry-12721435008.html

さて、出題者は異母妹の前斎宮に執着する「院」が後深草院であることを前提としていますが、戦前の『増鏡』注釈書では「院」は亀山院に比定されていました。
例えば、和田英松・佐藤珠『修訂 増鏡詳解』(明治書院、1913)では、

-------
まことや、文永のはじめつ方下り給ひし斎宮〔愷子〕は、後嵯峨院の更衣ばらの宮ぞかし。院〔後嵯峨〕かくれさせ給ひて後、御服にており給へれど、猶御暇ゆりざりければ、三年まで、伊勢におはしまししが、この〔建治元〕秋の末つかた、御のぼりにて、仁和寺に、衣笠といふ所にすみ給ふ。月華門院の御次には、いとらふたく思ひ聞え給へりし、昔の御心おきてを、あはれにおぼしいでて、大宮院いとねむごろにとぶらひ奉り給ふ。亀山殿におはします。十月ばかり、斎宮をもわたし奉り給はんとて、本院〔後深草院〕にも入らせ給ふべきよし、御消息あれば、めづらしくて御幸あり。その夜は、女院の御前にて、むかし今の御物語など、のどやかに聞え給ふ。
-------

という具合いに(p354以下)、大宮院が滞在する亀山殿に後深草院が訪問していることが明記されているにもかかわらず、以後、「院」には全て亀山院との傍注があります。(p356〜362)
これは何故かというと、亀山院は『増鏡』の他の場面でも好色であることが露骨に描かれているので、異母妹に執着する変態の「院」は亀山院に違いないと思われていた訳ですね。
しかし、昭和十三年(1938)に山岸徳平が『とはずがたり』を「発見」し、『増鏡』には『とはずがたり』が大幅に「引用」されていることが判明すると、前斎宮の場面の「院」は後深草院であることが明確になった訳です。
ただ、山岸徳平 「とはずがたり覚書」(国語と国文学』17巻9号、昭和15年)を見ると、山岸は、

-------
 増鏡、草枕の巻に「なにがし大納言の女、御身近く召しつかふ人、かの斎宮にもさるべきゆかりありて、むつまじく参り馴るゝを召しよせて……」として、亀山院が、「なにがし大納言の女」に用件を御命じになつた事がある。この斎宮は、その頃、御上京中の、愷子内親王であつた。大宮院姞子が、この斎宮を、嵯峨の亀山殿へ御招きになり、亀山院も御列席遊ばされた。亀山院は、なほ打解けて斎宮に逢ひたいとの、御意がおありになつた。これはその際の記載である。

http://web.archive.org/web/20061006211020/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/yamagishi-tokuhei-towa-oboegaki.htm

としているので、『とはずがたり』発見後も山岸は前斎宮の場面の「院」を亀山院と思っていたことが伺えます。
それくらい『増鏡』での亀山院の好色は印象的だったのですが、戦後『とはずがたり』が周知されるようになると、後深草院が陰湿な変態とされる一方、亀山院は単なる明るい好色家、という具合いにイメージが好転した感じがします。

7345鈴木小太郎:2022/02/01(火) 12:52:54
2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その2)
マンガ化されたり、瀬戸内晴美によって小説化(『中世炎上』)されたりしている『とはずがたり』に比べると、鎌倉時代を朝廷側から概観した歴史物語『増鏡』は地味な存在ですが、後鳥羽院と後醍醐天皇の時代を中心に非常に格調の高い場面も多いので、戦前はなかなか人気がありました。
注釈書も多数出されましたが、中でも前回投稿で紹介した和田英松・佐藤珠『修訂 増鏡詳解』(明治書院、1913)は本当にレベルが高くて参考になりますね。
ただ、『増鏡』に膨大な分量が「引用」されている『とはずがたり』が出現する前の著作なので、前斎宮の場面の「院」を亀山院と解するなど、今から見ればちょっと頓珍漢な記述も若干ありますね。
さて、あまり先走らず、まずは問題文をしっかり確認しておきたいと思います。

-------
第3問 次の【文章?】は、鎌倉時代の歴史を描いた『増鏡』の一節、【文章?】は、後深草院に親しく仕える二条という女性が書いた『とはずがたり』の一節である。どちらの文章も、後深草院(本文では「院」)が異母妹である前斎宮(本文では「斎宮」)に恋慕する場面を描いたものであり、【文章?】の内容は、【文章?】の6行目以降を踏まえて書かれている。【文章?】と【文章?】を読んで、後の問い(問1〜4)に答えよ。なお、設問の都合で【文章?】の本文の上に行数を付してある。(配点 50)

【文章?】
 院も我が御方にかへりて、うちやすませ給へれど、まどろまれ給はず。ありつる御面影、心にかかりておぼえ給ふぞいとわりなき。「さしはへて聞こえむも、人聞きよろしかるまじ。いかがはせん」と思し乱る。御はらからといへど、年月よそにて生ひたち給へれば、うとうとしくならひ給へるままに、つつましき御思ひも薄くやありけむ、なほひたぶるにいぶせくてやみなむは、あかず口惜しと思す。けしからぬ御本性なりや。
 なにがしの大納言の女、御身近く召し使ふ人、かの斎宮にも、さるべきゆかりありて睦ましく参りなるるを召し寄せて、
「なれなれしきまでは思ひ寄らず。ただ少しけ近き程にて、思ふ心の片端を聞こえむ。かく折よき事もいと難かるべし」
とせちにまめだちてのたまへば、いかがたばかりけむ、夢うつつともなく近づき聞こえ給へれば、いと心憂しと思せど、あえかに消えまどひなどはし給はず。
-------

いったん、ここで切ります。
【文章?】については私も拙い訳を試みています。

-------
【私訳】後深草院も御自分の部屋に帰って横になられたが、まどろまれることもできない。先程の斎宮の御面影が心の中にちらついて、忘れられないのは何としても、いたし方ないことだ。「わざわざ自分の思いを述べた手紙をさし上げるのも人聞きがよくなかろう。どうしようか」と思い乱れておられる。斎宮とは御兄妹とは申しても、長い年月、互いに離れてお育ちになったので、すっかり疎遠になってしまわれておられるので、(妹に恋するのはよくないことだ、という)慎まれるお気持も薄かったのであろうか、ただひたすらに思いもかなわず終ってしまうのは残念に思われる。けしからぬ御性格であることよ。
 某大納言の娘で御身近に召し使う女房が、斎宮にも然るべき縁があって親しく参り慣れていたが、その者を召し寄せて、「斎宮に対して慣れ慣れしく、深い仲になろうとまでは思ってもいない。ただ少し近い所で、私の心の一端を申し上げようと思う。こういう良い機会も容易に得がたいであろう」と熱心に、真面目におっしゃるので、その女房はどのようにうまく取りはからったのであろうか、院は闇の中を夢ともうつつともなく(斎宮に)のおそばに近づかれたところが、斎宮はまことにつらいことと思われたが、弱々しく今にも死にそうに、あわてまどうということはなさらない。

http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9442

設問に戻って、続きです。

-------
【文章?】
 斎宮は二十に余り給ふ。ねびととのひたる御さま、神もなごりを慕ひ給ひけるもことわりに、花といはば、桜にたとへても、よそ目はいかがとあやまたれ、霞の袖を重ぬるひまもいかにせましと思ひぬべき御ありさまなれば、ましてくまなき御心の内は、いつしかいかなる御物思ひの種にかと、よそも御心苦しくぞおぼえさせ給ひし。
 御物語ありて、神路の山の御物語など、絶え絶え聞こえ給ひて、
「今宵はいたう更け侍りぬ。のどかに、明日は嵐の山の禿なる梢どもも御覽じて、御帰りあれ」
など申させ給ひて、我が御方へ入らせ給ひて、いつしか、
「いかがすべき、いかがすべき」
と仰せあり。思ひつることよと、をかしくてあれば、
「幼くより参りししるしに、このこと申しかなへたらむ、まめやかに心ざしありと思はむ」
など仰せありて、やがて御使に参る。ただおほかたなるやうに、「御対面うれしく、御旅寝すさまじくや」などにて、忍びつつ文あり。氷襲の薄様にや、
「知られじな今しも見つる面影のやがて心にかかりけりとは」
 更けぬれば、御前なる人もみな寄り臥したる。御主も小几帳引き寄せて、御殿籠りたるなりけり。近く参りて、事のやう奏すれば、御顔うち赤めて、いと物ものたまはず、文も見るとしもなくて、うち置き給ひぬ。
「何とか申すべき」
と申せば、
「思ひ寄らぬ御言の葉は、何と申すべき方もなくて」
とばかりにて、また寝給ひぬるも心やましければ、帰り参りて、この由を申す。
「ただ、寝たまふらん所へ導け、導け」
と責めさせ給ふもむつかしければ、御供に参らむことはやすくこそ、しるべして参る。甘の御衣などはことごとしければ、御大口ばかりにて、忍びつつ入らせ給ふ。
 まづ先に参りて、御障子をやをら開けたれば、ありつるままにて御殿籠りたる。御前なる人も寝入りぬるにや、音する人もなく、小さらかに這ひ入らせ給ひぬる後、いかなる御事どもかありけむ。
-------

こちらも私訳を参照願います。

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【私訳】斎宮は二十歳を過ぎておられる。十分に成熟なされた御様子は、伊勢の神が名残を惜しまれてお引きとどめになったのももっともと思われ、花でいえば、桜に喩えても、はた目にはさほど見当違いではあるまいと見誤れるほどで、袖を覆ってお顔が隠れる間も見続けていたいと思われるような御様子なので、まして飽くまで色好みの院の御心の中は、早くもどんな御物思いの種になっていることだろうかと、傍からも斎宮がお気の毒に思われた。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9426

【私訳】斎宮は院とお話をして、伊勢の神通山のことなどを、とぎれとぎれに申し上げられると、院は「今宵はたいそう更けてしまいました。明日はゆっくりされて、嵐山の木の葉の落ちた梢などを御覧になってお帰りください」などとおっしゃって、自身のお部屋に戻られると、さっそく私に、「どうしたらよいだろう、どうしたらよいだろう」と仰せになる。
 予想通りだとおかしく思っていると、「お前が幼いときから私に仕えてきた証拠に、あの人との間をうまく取り持ってくれたら、本当に私に対して誠意があるものと思うぞ」などとおっしゃるので、さっそくお使いに参った。ただ一通りの挨拶のようにして、「お会いできてうれしく思いました。御旅寝も寂しくはありませんか」などといった口上で、別に密かにお手紙がある。氷襲の薄様であったか、
  知られじな……(今逢ったばかりのあなたの面影が、すぐに私の心に
  とどまってしまったとは、あなたは御存知ないでしょうね)
 夜が更けていたので、斎宮の御前に伺候している女房たちも皆寄り臥しており、御本人も小几帳を引き寄せておやすみになっておられた。近く参って、院の仰せの旨を申し上げると、お顔を赤らめて、特に何もおっしゃらない。お手紙も見るともなく、そのままお置きになった。「何と御返事申しましょうか」と申し上げると、斎宮は「思いがけないお言葉は、何とご返事のしようもなくて」とばかりで、また寝てしまわれたのも余り感心しないので、院のもとに帰って事情を申し上げる。すると院は、「何でもよいから、寝ておいでの所へ私を案内しろ、案内しろ」としつこくお責めになるのも煩わしいので、お供に参るだけなら何でもないことだから、ご案内した。甘の御衣などは大袈裟であるので、院は大口袴だけで、こっそりとお入りになる。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9427

【私訳】私がまず先に入って、御襖をそっと開けると、先ほどのままでお寝みになっておられる。御前の女房も寝入っているのであろうか、声を立てる人もおらず、院がお体を低くなさって這うようにしてお入りになった後、どのようなことがおありだったのであろうか。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9428

【文章?】は「いかなる御事どもかありけむ」で終わっていますが、何があったかは決まっていますね。
要するにここは、後深草院が二条の案内で、異母妹の前斎宮の寝所に忍び入って、合意を得ないままレイプしたという際どいお話です。
こんなものを入試問題にしてよいのか、という道徳的立場からの、いわば古臭い批判の他に、セクハラ・パワハラに対する世間の目が厳しい現在では、別の立場からの批判もありそうですね。
即ち、大学に入学を希望する者には必須の入試問題ですから、受験生はこうした破廉恥・不愉快な話を読むことを公権力によって強要されている訳で、そうした強要自体がセクハラ・パワハラではなかろうか、といった批判ですね。

7346:2022/02/01(火) 17:02:11
好色一代女
小太郎さん
https://www.moj.go.jp/MINJI/minji07_00238.html
問題作成者(大学教員?)には変態と変人が多いとはいえ、改正民法(成年年齢)の施行は2022年4月1日で、現行民法下では、実施日(2022年1月15日)現在の高校3年生は殆ど18歳の未成年ですから、そんなエッチな問題を出してもいいの、各都道府県の青少年健全育成条例に違反するのではないか、というような気がしないでもなく、誰かが文科省を相手に訴訟を提起したら、案外、面白くなるかもしれないですね。
とはいえ、来年の受験生は晴れて成年者になるので、西鶴『好色一代女』等からも堂々と出題できる、ということになりますか。

蛇足
「甘の御衣などはことごとしければ、御大口ばかりにて」は、現代風に意訳すれば、「ズボンを脱ぎ捨て、あらわなパンツ姿で」といった感じで、院の姿が目に浮かぶようです。

7347鈴木小太郎:2022/02/01(火) 21:01:45
2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その3)
問1〜3は省略して、問4を見ると、教師と生徒A・B・Cの会話になっています。

【速報】大学入学共通テスト2022 国語の問題・解答・分析一覧(『高校生新聞』サイト内)
https://www.koukouseishinbun.jp/articles/-/8457?page=3

問題文にはX・Y・Zの三か所の空欄があり、当該空欄に入る最も適切な文章を選択する形式になっていますが、そのままでは読みづらいので、予め正解で空欄を埋めた形で引用します。

-------
問4 次に示すのは、授業で【文章?】【文章?】を読んだ後の、話し合いの様子である。これを読み、後の(?)〜(?)の問いに答えよ。

教師 いま二つの文章を読みましたが、【文章?】の内容は、【文章?】の6行目以降に該当していました。
   【文章?】は【文章?】を資料にして書かれていますが、かなり違う点もあって、それぞれに特徴が
   ありますね。どのような違いがあるか、みんなで考えてみましょう。
生徒A 【文章?】のほうが、【文章?】より臨場感がある印象かなあ。
生徒B 確かに、院の様子なんかそうかも。【文章?】では〔X いてもたってもいられない院の様子が、
   発言中で同じ言葉を繰り返しているあたりからじかに伝わってくる〕。
生徒C ほかに、二条のコメントが多いところも特徴的だよね。【文章?】の〔Y 3行目「いつしかいかなる
   御物思ひの種にか」では、院の性格を知り尽くしている二条が、斎宮の容姿を見た院に、早くも好色の
   虫が起こり始めたであろうことを感づいている〕。普段から院の側に仕えている人の目で見たことが書
   かれているっていう感じがあるよ。
生徒B そう言われると、【文章?】では【文章?】の面白いところが全部消されてしまっている気がする。
   すっきりしてまとまっているけど物足りない。
教師 確かにそう見えるかもしれませんが、【文章?】がどのようにして書かれたものなのかも考える必要が
   ありますね。【文章?】は過去の人物や出来事などを後の時代の人が書いたものです。文学史では
   『歴史物語』と分類されていますね。【文章?】のように当事者の視点から書かれたものではないという
   ことに注意しましょう。
生徒B そうか、書き手の意識の違いによってそれぞれの文章に違いが生じているわけだ。
生徒A そうすると、【文章?】で〔Z 院の発言を簡略化したり、二条の心情を省略したりする一方で、斎宮の
   心情に触れているのは、当事者全員を俯瞰する立場から出来事の経緯を叙述しようとしているからだろう〕、
   とまとめられるかな。
生徒C なるほど、あえてそういうふうに書き換えたのか。
教師 こうして丁寧に読み比べると、面白い発見につながりますね。
-------

生徒A・B・Cは、『とはずがたり』の方が『増鏡』より「臨場感」があり、「二条のコメントが多」く、『増鏡』では『とはずがたり』の「面白いところが全部消されてしまって」「物足りない」と感じる訳ですが、それは何故か。
この点、教師は『増鏡』は「過去の人物や出来事などを後の時代の人が書いた」「文学史では『歴史物語』と分類されてい」る作品であって、『とはずがたり』のように「当事者の視点から描いたものではない」ことを指摘します。
これを受けて、生徒は「書き手の意識の違いによってそれぞれの文章に違いが生」じていることに気付き、「院の発言を簡略化したり、二条の心情を省略したりする一方で、斎宮の心情に触れているのは、当事者全員を俯瞰する立場から出来事の経緯を叙述しようとしているからだろう」と纏めた、という訳ですね。
受験レベルでは、以上の内容はもちろん正しいものです。
しかし、若干の疑問がない訳ではありません。
実は、『増鏡』の前斎宮エピソードには、後日談として『とはずがたり』には全く登場しない奇妙な追加エピソードが描かれています。
教師の指摘は、要するに『増鏡』は『とはずがたり』などを資料として、『とはずがたり』の作者より後の時代の人が書いた『歴史物語』だ、ということですが、『とはずがたり』に存在しない前斎宮エピソードが『増鏡』に存在していたら、この二つの作品の関係は些か奇妙なものになります。
もちろん、史実である前斎宮エピソードの一部は『とはずがたり』に記録され、別の一部は別の資料に記録されており、『増鏡』作者は二つの資料を見た上で、「当事者全員を俯瞰する立場から出来事の経緯を叙述しようと」したと考えることも可能ではあります。
しかし、関係者が極めて僅かな宮中秘話である前斎宮エピソードが、果たしてそんなに多くの資料に記録されるものなのか。

>筆綾丸さん
>そんなエッチな問題を

私個人は、こんなエロ問題はセクハラだ、パワハラだ、などと騒ぐタイプではないので全然気にしませんが、しかしまあ、『増鏡』はもちろん、『とはずがたり』にだってもっと格調高い場面はいくらでもあるので、何でわざわざ前斎宮のエピソードを選んだのだろう、という疑問は残りますね。

7348鈴木小太郎:2022/02/02(水) 12:28:52
2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その4)
『とはずがたり』・『増鏡』ともに前斎宮エピソードは相当長く、『増鏡』から【文章?】を、『とはずがたり』から【文章?】を切り取れば問4の教師と生徒A・B・Cの会話の内容はもっともなのですが、それぞれの全体を比較すると若干の違和感が生じます。
そこで、最初に『とはずがたり』の前斎宮エピソードを全部紹介し、次に『増鏡』の前斎宮エピソードも全部紹介したいと思います。
まず、『とはずがたり』における前斎宮エピソードの位置づけですが、巻一の最後の方に出てきます。
文永九年(1272)の後嵯峨院崩御後、後深草院と亀山天皇のいずれの系統が皇位を継ぐかで争いがあり、後深草院の敗北が確定しそうになった情勢を受けて、後深草院が抗議のために出家を決意すると、幕府が調停に入り、建治元年(1275)、後深草皇子の熈仁親王(伏見天皇、1265生)が亀山皇子の後宇多天皇(1267生)の皇太子となります。
この間、後深草・亀山の母・大宮院は亀山を支持する立場だったので、後深草院との関係が悪化しましたが、その関係修復のために大宮院が滞在する嵯峨の亀山殿に後深草院が招かれた、というのが前斎宮エピソードの前提となる政治的状況です。
『とはずがたり』でも、こうした状況の説明は簡単になされていますが、その後に二条が東二条院(大宮院妹、後深草天皇中宮)に嫌われ、出入り禁止になったという話を挟んで前斎宮エピソードとなります。

『とはずがたり』における前斎宮と後深草院(その1) (その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9423
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9424

実際には前斎宮・愷子内親王は父・後嵯峨院崩御後、間もなく京都に戻っているのですが、『とはずがたり』では、「御服にており給ひながら、なほ御いとまを許され奉り給はで、伊勢に三年まで御わたりありし」と、三年間伊勢に留まっていたことになっています。

愷子内親王(1249-84)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%B7%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B

前斎宮は二条の父・中院雅忠と何らかの関係があり、斎宮として伊勢に向かったときにも父親が世話をしたのだそうで、その縁から二条も前斎宮と面識があって、ときどき訪問していたのだそうです。
ま、帰京の時点すら史実に反するので、『とはずがたり』の説明がどこまで本当なのかは分かりませんが、とにかく帰京した前斎宮が大宮院に挨拶するため嵯峨の亀山殿を訪問するという話となり、その場に大宮院が後深草院を招く、という展開となります。
そして、後深草院は二条に「おまえはあの御方(斎宮)へも御出入り申し上げている者だから」と二条を連れて行くことになり、二条一人が後深草院と同車で嵯峨に向かいます。
亀山殿に入った後深草院は大宮院と対面しますが、その際に二条も赤色の唐衣をまとっています。
二条が妹の東二条院と不仲なことを心配した大宮院は二条に温かい言葉をかけてくれるのですが、二条は「いつまで草の」(いつまで続くことだろうか)と冷ややかな感想を述べたりします。
同車と赤色の唐衣の件が東二条院の怒りを更に呼ぶことになりますが、それは少し後の話です。
なお、嵯峨への御幸には西園寺大納言(実兼)、善勝寺大納言(隆顕)、持明院長相・中御門為方・楊梅兼行・山科資行等の僅かな近臣が同行しています。

(その3)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9425

そして翌日、前斎宮が亀山殿に来て大宮院と対面し、その場に後深草院が呼ばれ、二条も同行します。

-------
 大宮院、顕紋紗の薄墨の御ころも、鈍色の御衣ひきかけさせ給ひて、同じ色の小几帳立てられたり。斎宮、紅梅の三つ御衣に青き御単ぞ、なかなかむつかしかりし。御傍親とてさぶらひ給ふ女房、紫のにほひ五つにて、物の具などもなし。斎宮は二十にあまり給ふ。ねびととのひたる御さま、神も名残をしたひ給ひけるもことわりに、花といはば桜にたとへてもよそめはいかがとあやまたれ、霞の袖を重ぬるひまも、いかにせましと思ひぬべき御有様なれば、ましてくまなき御心のうちは、いつしか、いかなる御物思ひの種にかと、よそも御心苦しくぞ覚えさせ給ひし。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9426

ということで、「斎宮は二十にあまり給ふ」以下が共通テストの【文章?】となります。
斎宮とその御付の女房の衣装に対する二条の評価は極めて辛辣ですね。
衣装はともかく、年齢相応に成熟し、桜という最上の美しさに喩えられるほどの美人である異母妹に対し、好色な後深草院が内心で色々と思っているであろうことを二条がじっと観察している、という構図が次の展開を予想させます。

7349鈴木小太郎:2022/02/03(木) 12:24:32
2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その5)
共通テストの【文章?】に該当する部分に入って、続きです。

-------
 御物語ありて、神路山の御物語などたえだえ聞え給ひて、「今宵はいたう更け侍りぬ。のどかに明日は、嵐の山のかぶろなる梢どもも御覽じて御帰りあれ」など申させ給ひて、わが御方へ入らせ給ひて、いつしか「いかがすべき、いかがすべき」と仰せあり。
 思ひつることよとをかしくてあれば、「幼くより参りししるしに、このこと申しかなへたらん、まめやかに志ありと思はん」など仰せありて、やがて御使に参る。ただ大方なるやうに、「御対面うれしく、御旅寝すさまじくや」などにて、忍びつつ文あり。氷襲〔がさね〕の薄様にや、
  知られじな今しも見つる面影のやがて心にかかりけりとは

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9427

異母妹の美しさに好色の虫が騒いだ後深草院は、自分の部屋に戻ると二条に相談を持ち掛けます。
佐々木和歌子氏の斬新な現代語訳によれば、

-------
「ねえ、あの人をどうしたらいい? どうしたらいい?」
と私に聞く。やはり惚れちゃったわね、と内心くすくす笑ってしまう。
「幼いころから私に仕えている忠誠のあかしとして、あなたがあの人に手引きしてくれたら、私に対する愛情が本物だと思うことにしようかな」
なんてことまで言うので、すぐに私は使いとして前斎宮のもとに参ることにした。
「ご対面できたことはうれしいことでした。どうですか、旅先で寂しくありませんか」
とありきたりの伝言とは別に、ひそかに御所さまからの手紙を携えていた。氷襲の薄く漉いた紙には、
  知られじな今しも見つる面影のやがて心にかかりけりとは
──御存知ないでしょうね、たった今お会いしたあなたのおもかげが、ずっと私の心にかかって離れないのです……。
-------

という展開となります。(光文社古典新訳文庫版『とはずがたり』、p113以下)
佐々木氏の新訳は、文法的・語彙的な正確さを若干犠牲にしつつも、原文の雰囲気をうまく再現しており、本当に優れた訳業ですね。
従来の研究者の現代語訳はいささか上品に過ぎます。
さて、続きです。

-------
 更けぬれば、御前なる人も皆寄り臥したる、御ぬしも小几帳ひき寄せて、御とのごもりたるなりけり。近く参りて、事のやう奏すれば、御顔うちあかめて、いと物ものたまはず。文も、見るとしもなくて、うち置き給ひぬ。「何とか申すべき」と申せば、「思ひよらぬ御言の葉は、何と申すべき方もなくて」とばかりにて、また寝給ひぬるも心やましければ、帰り参りてこの由を申す。「ただ寝給ふらんところへ、みちびけ、みちびけ」とせめさせ給ふもむつかしければ、御供に参らんことはやすくこそ、しるべして参る。甘の御衣などはことごとしければ、御大口ばかりにて、忍びつつ入らせ給ふ。
-------

ということで、前斎宮は手紙をしっかり読めず、返事もできないので、後深草院の部屋に戻った二条がその旨を報告すると、後深草院は、もういいから「ただ寝給ふらんところへ、みちびけ、みちびけ」と二条を責め立てます。
面倒くさいなと思った二条は、一緒に行くのは簡単なのよ、ということで後深草院を案内し、後深草院は前斎宮の寝所に忍び込む訳ですね。
「いかがすべき、いかがすべき」に続いて「みちびけ、みちびけ」という反復があって、生徒Aの言う「臨場感」が強調されます。
そして、

-------
 まづ先に参りて、御障子をやをら開けたれば、ありつるままにて御とのごもりたる。御前なる人も寝入りぬるにや、音する人もなく、小さらかに這ひ入らせ給ひぬる後、いかなる御ことどもかありけん。うちすて参らすべきならねば、御上臥したる人のそばに寝れば、いまぞおどろきて、「こは誰そ」と言ふ。「御人少ななるも御いたはしくて、御宿直し侍る」といらへば、まことと思ひて物語するも、用意なきことやとわびしければ、「ねぶたしや、更け侍りぬ」といひて、そらねぶりしてゐたれば、御几帳のうちも遠からぬに、いたく御心も尽さず、はやうちとけ給ひにけりと覚ゆるぞ、あまりに念なかりし。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9428

となります。
共通テストの【文章?】は「いかなる御ことどもかありけん」で終わってしまっていますが、その続きが一番面白いですね。
ここも佐々木訳を引用すると、

-------
 まずは私が先に参って、障子をしずかに開けると、前斎宮はさっきと同じように眠っている。女房たちも寝入っているのだろう、音もない。御所さまは体を小さくして前斎宮のもとに這い入った。そのあとはまあ、どんな展開になったことやら。
 私は二人をうち捨てて帰るわけにもいかないので、前斎宮に仕える女房たちのそばに横たわると、女房の一人が今さら目を覚まして、
「あなた誰なの」
と言う。
「おそばの人が少ないのはいかがと思って、宿直〔とのい〕してさしあげているんですよ」
としらじらしく答えてみた。納得したのか、そのままいろいろ話しかけてくるのはなんとも不用心なこと。
「ああ眠いわ。夜も更けましたねえ」
と言って、眠ったふりをしていた。ここから御所さまたちのいる几帳の内も遠くないので、その気配が伝わってくる。たいして苦労もせず事に至ったようだ。もっと心を強く持って朝まで粘ったら面白かったのに。
-------

という展開です。(p115以下)
前斎宮は異母兄にあまり抵抗しなかったとはいえ、積極的な合意はなかったのですから、これは現代であれば立派な犯罪行為ですが、それをすぐ近くで見ていた二条は、もっと抵抗すれば面白かったのに、と感想を述べます。
さすがに入試問題でここまで出せば、若干のトラブルになった可能性は高そうです。

7350:2022/02/03(木) 22:06:33
proxénète
小太郎さん
フランス語にproxénèteという語があって、ふつう、売春斡旋業者(仲介者)と訳されますが、
「いたく御心も尽さず、はやうちとけ給ひにけりと覚ゆるぞ、あまりに念なかりし。心強くてあかし給はば、いかにおもしろからんと覚えしに」
には、娼家の遣り手のようなプロクセネート二条の薄情な心理がよく現れていて、他方、後深草院の、
「桜は、にほひは美しけれども、枝もろく折りやすき花にてある」
は、要するに、なんだ、思ったほどの女(体)じゃなかったな、ということだから、プレイボーイらしく、なかなかスゴい捨て台詞です。
現代の若者が、都内の高級ホテルを舞台にして起こした美人局事件を週刊文春で読むときのような味わいがありますね。

7351鈴木小太郎:2022/02/04(金) 12:47:32
2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その6)
>筆綾丸さん
>娼家の遣り手のようなプロクセネート二条の薄情な心理

前斎宮の場面での二条の役割は、本当にこうした事実があったとすれば、もっと下級の女官が行なったはずのものですね。
そこで、私が共通テストの出題に関与する権限を持っていたとしたら、次のような問題を提案したいところです。

-------
問5 最上級の女房であるはずの二条が、何故にこんな女衒のような真似をしているのか。その理由として最も適切なものを、次の?〜?のうちから一つ選べ。

?『とはずがたり』の前斎宮エピソードは全て事実。後深草院が亀山殿に伴ったのは最小限の近臣だけだったので、気の利いた女官は存在せず、二条が下級女官のような真似をせざるをえなかった。
?二条は実は下級女官として後深草院に仕えており、前斎宮エピソードはすべて二条が現実に経験した事実。しかし、自伝『とはずがたり』では自らが最上級の女房のように極端に美化した。
?二条は最上級の女房であり、前斎宮エピソードは実際には二条が下級女官から事情聴取した結果を記述したもの。しかし、それでは「臨場感」が出ないため、自分が「当時者」であるかのように工夫した。
?『とはずがたり』の前斎宮エピソードは全て創作。従って二条の役割をあれこれ詮索しても意味がない。
-------

受験レベルでの正解は?ですし、おそらく大半の国文学者の認識も同じだと思います。
しかし、このエピソードが文永十一年(1274)の出来事とすれば、正嘉二年(1258)生まれの二条はまだ数えで十七歳ですね。
十四歳から出仕したとはいえ、まだまだ若手女房の範疇ですが、それなのに何故、二条は色事に対して殆ど遣り手婆のような老練さを見せているのか。
私自身は二条の出自までは疑わないので?は不正解。
また、私は『とはずがたり』は自伝風小説だと思っているので、個人的には?が正解となります。
ただ、『とはずがたり』の前斎宮エピソードが「臨場感」に溢れていることは確かで、これほど「臨場感」がある以上、ある程度の事実を反映しているはず、と考えれば?の可能性も皆無とは言えないかもしれません。
教師と生徒A・B・Cの会話のように、二条が「当事者」だから『とはずがたり』に「臨場感」が溢れていると考えるのではなく、「臨場感」を出すために二条を「当事者」にした可能性ですね。
ま、あまり先走らず、『とはずがたり』の続きをもう少し見て行きます。
前回投稿では、佐々木訳を「もっと心を強く持って朝まで粘ったら面白かったのに」まで紹介しましたが、分かりやすい区切り方ではあっても、原文では次のような文章になっています。

-------
 心強くてあかし給はば、いかにおもしろからんと覚えしに、明けすぎぬさきに帰り入らせ給ひて、「桜は、にほひは美しけれども、枝もろく折りやすき花にてある」など仰せありしぞ、 さればよと覚え侍りし。
 日高くなるまで御殿ごもりて、昼といふばかりになりて、おどろかせおはしまして、「けしからず。今朝しもいぎたなかりける」などとて、今ぞ文ある。御返事にはただ、「夢の面影はさむる方なく」などばかりにてありけるとかや。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9428

ここも上品すぎる拙訳はリンク先を参照していただくとして、雰囲気をうまく再現している佐々木訳を紹介すると、

-------
もっと心を強く持って朝まで粘ったら面白かったのに。御所さまはあまり明けきらないうちに部屋に帰ってきた。
「桜は色つやがいいけれど、枝はもろくて、折りやすい花だな」
なんて言うのを聞いても、ほらね、と思う私。
 日が高くなるまで御所さまは眠り、お昼近くにようやく起きて「ひどく寝坊をしてしまった」と今ごろ後朝〔きぬぎぬ〕の文を送る。前斎宮の返事はただ「お会いした夢からまだ覚めることができません」とだけあったそうだ。やっぱり手応えがない女。
-------

といった具合です。(p116)
この後、前斎宮は登場しませんが、亀山殿での遊興の場面はまだまだ続きます。
そして、二条と東二条院のトラブルが詳しく語られた後、かなり時間を隔てて、後深草院が前斎宮を訪問する場面となります。

『とはずがたり』における前斎宮と後深草院(その7)〜(その11)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9429
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9430
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https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9436

7352:2022/02/04(金) 15:37:24
伊勢物語第69段とチコちゃん
小太郎さん
https://ise-monogatari.hix05.com/4/ise-069.kari.html
二条は、悪く言えば、ちょっと食えない女なので、虚実皮膜というか、どこが事実で、どこが虚構なのか、よくわからず、これは事実だろう、などと油断していると、バカじゃないの、と言われそうな気がします。

後深草院の後朝の返事に関して、
「夢の面影はさむる方なくなどばかりにてありけるとかや」
とあるのは、おそらく伊勢物語第69段を踏まえたもので、つまり、伊勢の斎宮の、
君や来しわれやゆきけむおもほえず 夢かうつつか寝てかさめてか
と、業平の、
かきくらす心の闇にまどひにき 夢うつつとはこよひ定めよ
という相聞を踏まえたパロディーであって、「とかや」という尻切れトンボのような語は意地悪なユーモアで、前斎宮は伊勢物語の斎宮のようにパセチックな女でもなく、後深草院は業平のようにダンディな色好みでもないのよ、いやあねえ、とチコちゃんのように二条は呟いているような気がします。

7353鈴木小太郎:2022/02/05(土) 13:50:14
2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その7)
>筆綾丸さん
>おそらく伊勢物語第69段を踏まえたもので、

登場人物を比較すると、『伊勢物語』では冒頭に女(斎宮)の母親、『とはずがたり』では男(後深草院)の母親、即ち大宮院が登場しますね。
そして『伊勢物語』では女が男を訪問するのに対し、『とはずがたり』では男が女を訪問。
その際の使いは『伊勢物語』では女童、『とはずがたり』では二条。
筆綾丸さんがおっしゃるように、宴会場面も含め、確かに『とはずがたり』の前斎宮エピソードは『伊勢物語』を反転させたパロディの世界であることは明らかですね。
しかし、私が原文を引用している次田香澄『とはずがたり(上)全訳注』(講談社学術文庫、1987)では、解説を見ても『伊勢物語』への言及は一切ありません。
一体どうなっているのだ、という感じがしますが、後で他の注釈書もいくつか確認してみることにします。

さて、『とはずがたり』では、前斎宮の場面の直前に二条が東二条院から出入り禁止を通告されたことが記されています。
そして、後深草院が大宮院を訪問した初日には、後深草院が二条と東二条院の不仲に触れて、二条を庇い、大宮院も二条に同情的な発言をします。
ま、二条はそれを聞いて、「いつまで草の」などと思う訳ですが。

『とはずがたり』における前斎宮と後深草院(その2)(その3)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9424
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9425

そして後深草院が二条の手引きで前斎宮の寝所に侵入して関係を持ち、その様子を近くで観察していた二条が、もっと抵抗すれば面白かったのに、などと感想を述べた後、宴会の場面になります。

-------
 「今日は珍らしき御方の御慰めに、何事か」など、女院の御方へ申されたれば、「ことさらなる事も侍らず」と返事あり。隆顕の卿に、九献の式あるべき御気色ある。夕がたになりて、したためたる由申す。女院の御方へ事のよし申して、入れ参らせらる。いづ方にも御入立ちなりとて、御酌に参る。三献までは御から盃、その後、「あまりに念なく侍るに」とて、女院御盃を斎宮へ申されて、御所に参る。御几帳をへだてて長押〔なげし〕のしもへ実兼・隆顕召さる。御所の御盃を賜はりて、実兼に差す。雜掌なるとて、隆顕に譲る。思ひざしは力なしとて、実兼、そののち隆顕。
 女院の御方、「故院の御事ののちは、珍らしき御遊びなどもなかりつるに、今宵なん御心おちて御遊びあれ」と申さる。女院の女房召して琴弾かせられ、御所へ御琵琶召さる。西園寺も賜はる。兼行、篳篥吹きなどして、ふけゆくままにいとおもしろし。公卿二人して神楽歌ひなどす。また善勝寺、例の芹生の里数へなどす。
 いかに申せども、斎宮、九献を参らぬよし申すに、御所御酌に参るべしとて、御銚子をとらせおはします折、女院の御方、「御酌を御つとめ候はば、こゆるぎの磯ならぬ御肴の候へかし」と申されしかば、
  売炭の翁はあはれなり、おのれが衣は薄けれど、
  薪をとりて冬を待つこそ悲しけれ
といふ今様を歌はせおはします。いとおもしろく聞ゆるに、「この御盃をわれに賜はるべし」と、女院の御方申させ給ふ。三度参りて、斎宮へ申さる。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9429

そして、その宴会では、大宮院が後深草院に恩着せがましい嫌味を言ったり、後深草院が「実兼は傾城の思ひざししつる。うらやましくや」などと二条絡みで遠回しな嫌味を言ったりするネチッこい場面となります。

-------
 また御所持ちて入らせ給ひたるに、「天子には父母なしとは申せども、十善の床をふみ給ひしも、いやしき身の恩にましまさずや」など御述懐ありて、御肴を申させ給へば、「生を受けてよりこの方、天子の位を踏み、太上天皇の尊号をかうぶるに至るまで、君の御恩ならずといふことなし。いかでか御命〔めい〕をかろくせん」 とて、
  御前の池なる亀岡に、鶴こそ群れゐて遊ぶなれ、
  齢は君がためなれば、天の下こそのどかなれ
といふ今様を、三返ばかり歌はせ給ひて、三度申させ給ひて、「この御盃は賜はるべし」とて御所に参りて、「実兼は傾城の思ひざししつる。うらやましくや」とて、隆顕に賜ふ。そののち、殿上人の方へおろされて、事ども果てぬ。
 今宵はさだめて入らせおはしまさんずらん、と思ふほどに、「九献過ぎていとわびし。御腰打て」とて、御殿ごもりて明けぬ。斎宮も、今日は御帰りあり。この御所の還御、今日は今林殿へなる。准后御かぜの気おはしますとて、今宵はまたこれに御とどまりあり。次の日ぞ京の御所へ入らせおはしましぬる。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9430

ま、細かい内容はリンク先を参照してもらうこととして、この夜も後深草院が前斎宮を訪問するかと思いきや、後深草院は「酒を過ごして、ひどく気分が悪い。腰を打ってくれ」などと二条に言って、二条からマッサージしてもらうとそのまま寝入ってしまいます。
つまり『とはずがたり』では、亀山殿と後深草院と前斎宮との関係は一夜限りですが、後で紹介するように、『増鏡』では何故か連夜の交情となっています。
「歴史物語」の『増鏡』は、単純に資料としての『とはずがたり』を要約引用している訳ではなく、新たに創作を加えている訳ですね。
それが一夜の交情を二夜の交情にする程度の改変ならば、『増鏡』作者のちょっとした遊び心かな、で済むはずですが、実際には増補の分量は半端ではありません。

7354:2022/02/05(土) 16:32:07
フィクション
小太郎さん
かりに伊勢物語第69段を踏まえているとすると、proxenetism の話はフィクションではあるまいか、という気もしますが、どうでしょうか。
この話が、
「御物語ありて、神路の山の御物語などたえだえ聞え給ひて」
から始まって、
「・・・などばかりにてありけるとかや」
で終わっているのも相当怪しくて、伊勢物語に絡めた mystification あるいは superimposition のような気もします。
もしそうならば、なぜ二条はそんな創作をしたのか、ということになりますが、後深草院を揶揄したかった、もっと露骨に言えば、後深草院をちょっとバカにしてみたかった、というようなことになりますか。
そして、「・・・とかや」の後は酒宴の話になりますが、これは、重層的な架空の物語に酔えない読者は、酒で酔ってね(悪酔いしてね)、という機知に富んだトリックのようにも思われてきます。

7355鈴木小太郎:2022/02/05(土) 21:22:53
創作の理由
※ 訂正
ここ暫くの投稿で前斎宮エピソードを建治元年(1275)の出来事としていましたが、『とはずがたり』の時間の流れでは文永十一年(1274)と考えるのが自然で、次田著の年表でもそうなっています。
後嵯峨院崩御は文永九年(1272)二月で、同年を含めて三年間、前斎宮は伊勢に留まっていた、という設定ですね。
もちろん、文永十一年は元寇(文永の役)の年で、十月に元軍が九州を襲い、京都でも異国調伏の祈祷を行うなど大騒動になっていますから、史実としては十一月十日頃にこんな閑な行事を行っているとは考えにくい時期です。
このあたり、『とはずがたり』の年立ては混乱していて、史実との整合性は取りにくいですね。

>筆綾丸さん
>なぜ二条はそんな創作をしたのか

私は前斎宮エピソードは全面的にフィクションという立場です。
なぜそんな創作をしたのかは『とはずがたり』全体に関る問題ですが、私は、あまりに生き生きとして「臨場感」に溢れている『とはずがたり』は、もともと複数のエピソードの集合体であって、個々のエピソードは本来、二条によって語られていたものであろうと思っています。
旧サイトの頃は二条はいったい誰を聞き手、読者として想定しているのか決めかねていたのですが、今は最初の主たる聞き手は公家社会ではなく武家社会の人びと、具体的には金沢貞顕のような京都と何らかの接点を持つ人々だったろうと考えています。
宮廷を出た後の二条の後半生は一種の外交官的な生活であり、公家社会と武家社会のはざまで、良く言えば円滑な文化交流を担当する役割、悪く言えば一種の情報ブローカーのような存在だったのではないか、というのが私の仮説です。
そして、二条の最大の強みは宮廷社会を熟知していたことであり、「ここだけの話ですけど」という前置きで語った各種の宮中秘話が二条の最も得意とするところで、『とはずがたり』はそうした個別エピソードを更に膨らませて、あまり矛盾が目立たない程度にまとめた自伝風小説、というのが私の認識です。
ま、筆綾丸さんはともかく、最近になって共通テストをきっかけに私の掲示板、ブログに来られるようになった方には何を言っているのか全然分からないと思いますが、「実証的」とまでに論証するのは無理であっても、ある程度の蓋然性を感じてもらえる議論をして行きたいと思っています。
なお、二条は後深草院の庇護を得られずに宮廷を追放された立場ですから、後深草院に対する屈折した感情はあって、揶揄や復讐といった個人的感情がなかった訳ではないでしょうが、そのあたりは後深草院の葬送を裸足で追った場面に見られるように、『とはずがたり』では既に文学的に昇華されているように感じます。

7356鈴木小太郎:2022/02/06(日) 11:36:44
佐々木和歌子氏の基本認識(その1)
光文社古典新訳文庫で『とはずがたり』を担当されている佐々木和歌子氏は、

-------
1972年、青森県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科修士課程修了。専門分野は日本語日本文学。(株)ジェイアール東海エージェンシーで歴史文化講座の企画運営に携わりながら、古典文学の世界をやさしく解き明かす著作を重ねる。著書に『やさしい古典案内』(角川学芸出版)『やさしい信仰史──神と仏の古典文学』(山川出版社)『日本史10人の女たち』(ウェッジ)など。『古典名作 本の雑誌』(本の雑誌社)では中古文学・中世文学を担当。

https://www.kotensinyaku.jp/books/book310/

という経歴の方だそうで、きちんとした学問的基礎の上に工夫された新鮮な現代語訳は私も絶賛したいのですが、ただ、佐々木氏の『とはずがたり』に対する基本認識はかなり古めかしい感じを受けます。
「訳者まえがき」を見ると、

-------
 約七百五十年前、一人の少女がとっておきのおしゃれをして正月を迎えていた。彼女は自分が格別に美しいことを知っていたし、後深草院に仕える女房たちのなかで、自分だけは特別だと信じていた。というのも、彼女はこの二条富小路の院御所に君臨する後深草院に四歳のころから仕え、その膝の上に抱かれて大切に育てられてきた。だから、自分は御所さまの女房ではあるけれど、御所さまの姫君のようなもの。そんな気位をひそかに育てていた。けれど、二条─彼女がちょっと不服を抱く小路名の女房名─はこの正月で十四歳になった。それは大人の仲間入りを意味する。だから後深草院は自ら育てた娘を、この年の初めにさっそく自分の愛人の一人にした。ここから彼女の数奇な人生がスタートする。
-------

ということで、佐々木氏は『とはずがたり』が事実の記録であることを疑わない立場です。
そして、

-------
 彼女は後深草院の愛人でありながら女房でもあるため、時には院を別の女性に手引きすることのあったし、その房事を一部始終聞かされることもあった。また後深草院より「賞品」として別の男にあてがわれることもあった。それは懐妊中でも、どんなんときでも。そして彼女は何度も妊娠、出産するが、一人として自分の手で育てあげることはなく、顔もろくに見せてもらえずによそに引き取られていくことのあった。
-------

とありますが、「時には院を別の女性に手引きすることのあったし、その房事を一部始終聞かされることもあった」の一例が前斎宮の場面ですね。
ただ、この時点(文永十一年、1274)で僅か十七歳の二条は、別に後深草院から強制されていやいや手引きをしていた訳ではなく、むしろ喜んで後深草院の(現代であれば)犯罪行為を手助けし、「もっと抵抗すれば面白かったのに」などと感想を述べており、後深草院の横暴の「被害者」ではなく、むしろ「加害者」「共犯者」の立場ですね。
さて、佐々木氏は続けて、

-------
 読者はきっと、彼女の人生の特異性に驚くだろう。時代や立場で価値観は大きく異なるものであるし、まして天皇だった人の愛人であれば、気ままな性愛に付き合わされてもいたしかたなし、と納得しようとするかもしれない。でも、二条はいつも「死ぬばかり悲しき」と感じていたし、もし「こんなことは当然」と思っていたとしたら、この『とはずがたり』を書こうなんて思わなかったかもしれない。全五巻という長編を、老いた彼女は古い手紙などを取り出しながら、薄れかけた記憶を掘り起こして書き続けた。書かなければ、書き残しておかなければ私は死ねない、それほどの気迫だったように思う。
-------

と書かれていますが、『とはずがたり』の最終記事は後深草院の三回忌(徳治元年、1306)の少し後なので、二条は数えで四十九歳です。
昔の人の平均寿命が現代人より短いのは確かですが、それは幼児・若年で病気で死んだりする人が多いからで、元気な人は本当に元気であり、二条など全国各地を周遊する大旅行家、驚くべき健脚女性ですから、五十前だったら元気いっぱいだったはずですね。
従って、「全五巻という長編を、老いた彼女は古い手紙などを取り出しながら、薄れかけた記憶を掘り起こして書き続けた。書かなければ、書き残しておかなければ私は死ねない、それほどの気迫だった」かは相当疑問で、むしろ物語作家として円熟期を迎え、溢れんばかりの創作意欲の赴くまま、自由闊達に書きまくっていたのではないかと私は想像します。

7357:2022/02/06(日) 13:53:08
言葉というもの
小太郎さん
二条の「聞く力」ならぬ「騙す力」は、マルガリータ白聴の影響がまだあるのかもしれませんが、大したものだと感心します。物語作者としては至上の快楽で、本懐と言うべきですね。
ではあるけれども、金沢貞顕くらい知的であれば、あの方の話はどこまでホントなのか、よくわからなくてねえ、と苦笑していたような気もしますが、言葉は魔物だな、とあらためて感じます。
もし二条が『吾妻鏡』を読んでいたら、野暮ねえ、ダラダラ無骨な話ばかりで、sophistication というものがまるでないのね、なんで司馬遷の『史記』のようにキビキビ書けないのかしら、とかなんとか、言ったかもしれないですね。

7358鈴木小太郎:2022/02/06(日) 13:57:22
佐々木和歌子氏の基本認識(その2)
共通テストをきっかけに私の掲示板・ブログに来られた『とはずがたり』初心者の方には、佐々木氏の「訳者まえがき」は丁度良い道案内なので、もう少し引用させてもらいます。(p7以下)

-------
 巻一から三までは、若さと美貌ゆえに多くの男たちに求められ、時には自ら求め、妊娠と出産をくりかえし、最後に御所から放逐されるまでを描く。時代は鎌倉末期、政権はすでに鎌倉にあり、儀式や文芸だけをよりどころに生きていた宮廷の退廃を、二条は叙情に流されず、宮廷文学としては異例のリアリズムで淡々と描写する。華やかなはずの宮仕えは、女たちの嫉妬と男たちの漁色にさらされるところ。作品前半は宮廷に仕える「女房」の実態に迫るルポルタージュであり、読者に鮮烈なイメージを残すだろう。
-------

「儀式や文芸だけをよりどころに生きていた宮廷の退廃」は、かつては歴史研究者の認識でもあったのですが、歴史学では中世公家社会の研究が相当に進展しており、こうした認識は今ではかなり古臭い感じが否めないですね。
ま、国文学の方では、未だにこのように考えている人が多いのでしょうが。
また、「異例のリアリズム」はその通りだとしても、描写の生々しさは決して事実を反映していることと直結する訳ではありません。
そのあたり、佐々木氏を含め、多くの国文学者は未だに頑固な思い込みにとらわれているように感じます。

-------
 巻四、五では、尼となった二条が深い喪失感を満たすように旅を続ける。彼女の美しさと宮廷で培われた知性は行く先々で人々を魅了し、その温かな交流に筆が費やされる。歌枕などをたどる数奇の旅に出ることは、幼い頃からの二条の夢だった。それが叶ったとなれば、旅の記を記すことは彼女の精神的浄化であったように思う。けれど旅そのものは決して彼女を癒やしたりしなかった。むしろ旅の孤独が彼女に心の闇を自覚させる。彼女が本当に欲したものは何であるか、旅の果てに彼女は気づき始めるのだ。読者は前半の宮廷スキャンダルに目を奪われるかもしれないが、後半の旅の記こそ二条の語り手としての手腕が光るため、ぜひ最後まで読んでいただきたい。クライマックスは、巻五の後深草院崩御の場面。葬送の車を裸足で追いかける二条は、もうやめようもうやめようと思っても、その足を止めることができない。このくだりはあたかも映画を見るような鮮やかな展開を見せ、中世文学がこの記事で確実にひとつ先に進んだことを読者は知るだろう。
-------

葬送の場面は私の旧サイト(『後深草院二条−中世の最も知的で魅力的な悪女について−』)で紹介しておきましたが、今は「インターネットアーカイブ」で読めます。

「葬列を跣で追う、火葬の煙を望み空しく帰る」
http://web.archive.org/web/20150909222836/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa5-10-hadashideou.htm

さて、続きです。(p9)

-------
 この走る場面がすべてを物語るように、『とはずがたり』は疾走している。王朝文学に見られるような、うねうねと綴られる内省の文章はほとんどなく、語るを急ぐ。頬にかかる尼そぎの髪を耳ばさみして、紙に食らいつくようにして書き続けた─この記憶がなくならないうちに、私のことを、みんなが忘れ去らないうちに。そのスピード感を損なわないように、地の部分の敬語表現は省略し、文意を損なわない程度に一文を適宜切りながら歯切れよく訳したつもりである。また、意味が通りやすいように言葉を足している部分もある。そこに私の読み方が反映されているのはお許しいただきたい。
 生き難い人生を生き抜いた一人の女性の問わず語りに、ぜひお付き合いいただければと思う。
-------

ということで、これで「訳者まえがき」の全文を紹介しました。
「王朝文学に見られるような、うねうねと綴られる内省の文章はほとんどなく」には私も賛成ですが、「頬にかかる尼そぎの髪を耳ばさみして、紙に食らいつくようにして書き続けた」は「老いた彼女」云々の箇所と同様、私は疑問を感じます。
文体が通常の王朝文学と異なる理由については、私はもともと『とはずがたり』が語りの文学であったこと、そして当初の聞き手が東国社会の人びとであったことに求められるのではないかと考えています。
異文化コミュニケーションの手段であり、結果でもある『とはずがたり』は、文化を共通にする人に対してであれば説明不要な背景事情も丁寧に解説しているので分かりやすい反面、普通の王朝文学に比べて洗練度が低い、ちょっと下品な印象を与える作品でもありますね。
『とはずがたり』の文体の「スピード感」も、やはり異文化コミュニケーションの必要から生み出された面があるように思います。

7359鈴木小太郎:2022/02/07(月) 12:56:15
『とはずがたり』の政治的意味(その1)
>筆綾丸さん
>金沢貞顕くらい知的であれば、あの方の話はどこまでホントなのか、よくわからなくてねえ、と苦笑していたような気もしますが、

昨日は四分前の御投稿だったので暫く気づかず、失礼しました。
金沢貞顕は弘安元年(1278)生まれなので二条より二十歳下ですね。
永井晋氏の『人物叢書 金沢貞顕』(吉川弘文館、2003)によれば、

-------
 貞顕の名は、得宗北条貞時の「貞」と父顕時の「顕」を組み合わせたものであろう。「顕」の字は、北条顕時が仕えた宗尊親王の後見大納言土御門顕方からきたものと思われる。
-------

とのことなので(p3)、もともと通親流の村上源氏と縁のある人です。
そして、母が摂津国御家人遠藤為俊の娘(入殿)で(p4)、

-------
母方の遠藤氏は、摂津国と河内国にまたがる大江御厨を本領とした一族である。大江御厨には良港として知られた渡辺津(大阪府大阪市東区)があった。渡辺氏は、この港を管理する渡辺惣官を務めていた。また、摂関家とのつながりも深く、為俊は摂家将軍九条頼経の時代に鎌倉に下り、幕府の奉行人を勤めた。
-------

とのことで(同)、貞顕は、いわば生まれた時から東西の政治と文化の接点に立つことを求められていた存在ですね。
ただ、父・顕時の正室が安達泰盛の娘であったため、顕時は弘安八年(1285)の霜月騒動に連座し、出家して下総国埴生荘に隠棲し、貞顕も出世の出鼻を挫かれた形になりますが、八年後の永仁元年(1293)四月、顕時は平禅門の乱の僅か五日後に鎌倉に復帰し、十月、北条貞時が引付を廃して新設した執奏の一人に選任されます。(p12)
そして、

-------
 翌永仁二年十月、顕時は引付四番頭人に移った。顕時が赤橋邸を使い始めたのは、この頃からと思われる。赤橋邸は鶴岡八幡宮赤橋の右斜前、得宗家の赤橋邸とは若宮小路を挟んで正対した位置にあり、鎌倉の一等地である。顕時がこの館を与えられたことは、得宗北条貞時の厚い信頼を得ていたことを示している。
 十二月二十六日、貞顕が左衛門尉に補任され、同日付で東二条院蔵人に補任された。貞顕十七歳である。貞顕が初任とした左衛門尉は、微妙な立場の官職である。
-------

ということで(p13)、この後、武家の官職に関する永井氏の怒涛の蘊蓄が披露されますが、あまりに詳しすぎるので全て省略して、貞顕に関する結論だけ引用すると、

-------
 貞顕の場合、初出仕が遅いのは霜月騒動の影響であろう。また、左衛門尉という初任の官職は父顕時の左近将監よりも低い。これは、庶子の扱いである。低い官職からスタートしたため、右近衛将監転任によってようやく他家の嫡子並の地位に就いている。また、貞顕は東二条院(後深草天皇の中宮西園寺公子)の蔵人を兼務した。女院蔵人は六位蔵人に転任する慣例を持つ役職であるが、この兼務は形式的なものと考えてよい。
-------

とのことです。(p15)
「形式的」とはいえ、貞顕にとって東二条院との関係は名誉であり、嬉しいものではあったでしょうね。
ところで、『とはずがたり』によれば、前斎宮エピソードの直前くらいから東二条院と壮絶なバトルを繰り広げていた二条は、結局、東二条院に完全敗北して弘安六年(1283)頃、宮中を追放されてしまいます。
『とはずがたり』では、巻三の最後、弘安八年(1285)の北山准后九十賀に参加した後の二条の動静は暫らく不明となりますが、『増鏡』「巻十一 さしぐし」には、正応元年(1288)六月二日、三月に践祚したばかりの伏見天皇の許に西園寺実兼の娘(後の永福門院)が入内した際に、

-------
 出車十両、一の左に母北の方の御妹一条殿、右に二条殿、実顕の宰相中将の女、大納言の子にし給ふとぞ聞えし。二の車、左に久我大納言雅忠の女、三条とつき給ふを、いとからいことに嘆き給へど、みな人先立ちてつき給へれば、あきたるままとぞ慰められ給ひける。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9864

という具合いに、「久我大納言雅忠の女」が「二条」ではなく「三条」という名前で登場します。
そして、『とはずがたり』巻四では、正応二年(1289)、既に出家して尼になっている二条が東海道を旅して三月に鎌倉に入り、八月、将軍惟康親王が廃されて京都に送還される場面に「たまたま」立ち合います。

http://web.archive.org/web/20150512020204/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa4-6-shogunkoreyasu.htm

ついで十月、後深草院皇子の久明親王が新将軍として迎えられるに際し、東二条院から贈られた「五つ衣」の裁断の仕方について悩んでいた平頼綱の「御方とかや」の依頼により、二条は嫌々ながら平頼綱邸に出向いて、平頼綱室に適切な指導を行います。
また、将軍御所の内装についても監修を依頼されたので、これも嫌々ながら指導します。
更に二条は久明親王到着後の儀式にも招かれたようで、「御所には、当国司・足利より、みなさるべき人々は布衣なり」(次田香澄『とはずがたり(下)全訳注』、p238)などと、幕府要人を眺めていますね。

http://web.archive.org/web/20150513074937/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa4-4-hisaakirasinno.htm

ここで「当国司」は北条貞時、「足利」は尊氏・直義兄弟の父、貞氏(1273-1331)と思われますが、この時期の貞氏は十七歳という若年であり、幕府の要職に就いていた訳でもないので、北条貞時との並置は些か奇妙な感じがします。
ただ、二条の母方の叔父・四条隆顕(1243-?)の母親は、鎌倉時代に足利家の全盛期を築いた義氏(1189-1255)の娘なので、足利貞氏は四条家を介して二条の縁者でもあり、そのためにここで特別扱いされているようです。
なお、足利貞氏の正室・釈迦堂殿は金沢顕時と安達泰盛娘の間に生まれた女性なので、貞顕の異母姉(or妹)であり、足利家と金沢北条氏は緊密に結びついていますね。

高義母・釈迦堂殿の立場(その1)〜(その3)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10592
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10593
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10594

7360:2022/02/08(火) 17:39:54
嫌々ながら雑巾掛けする女
小太郎さん
佐々木和歌子氏の「『とはずがたり』は疾走している」の「疾走」は、おそらく、小林秀雄『モーツァルト』の「モーツァルトのかなしみは疾走する。涙は追いつけない」という有名な表現を意識したものだと思います。つまり、後深草院の葬列を裸足で追いかける二条、という場面のBGMには、モーツァルトのシンフォニー第40番がよく似合う、と佐々木氏は考えているような気がします。違う、と私は思いますが。

前回の『鎌倉殿の13人』に、牧の方(宮沢りえ)が伊豆山権現社の欄干で嫌々ながら雑巾掛けするユーモラスなシーンがありましたが、二条って、たぶん、あんな感じの女性だったんじゃないかな、と思いました。

7361鈴木小太郎:2022/02/08(火) 21:42:44
後深草院二条の「非実在説」は実在するのか?
佐々木和歌子氏は「解説」で、

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 ここまで書くと、私たちはずいぶん彼女のことを理解したような気になる。けれども実は、後深草院二条の非実在説なるものが存在する。というのも、作中に多くの歌を残しているのに、勅撰集にその名もなく、家集も存在しない。さらに雅忠の娘であることは確かなのに、系譜や官位を明らかにする『尊卑分脈』の雅忠の項に「女」の記載がない。もし後深草院との間に生まれた皇子が成人していれば母として彼女の名前がどこかに刻まれたかもしれないが、皇子が早逝したせいか、どこにもその記録がない。つまり彼女の存在を示すものは、『とはずがたり』だけなのである。
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と書かれていますが(p465)、「非実在説」が具体的に誰の学説かが分かりません。
ウィキペディアにも「作者の実在性や、その内容にどこまで真偽を認めるかについては諸説ある」などとありますが、「虚構説」の代表として引用されている田中貴子氏の見解も二条の実在まで疑っているようには見えません。
国会図書館サイトで検索しても、「非実在説」らしい論文は見あたらず、「非実在説」が本当に実在するのかが目下の私の疑問なのですが、何か御存知の方は御教示願いたく。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%81%9A%E3%81%8C%E3%81%9F%E3%82%8A

『日本古典への招待』(ちくま新書)
https://web.archive.org/web/20061006214714/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/tanaka.htm
https://web.archive.org/web/20061006214710/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/bulgaria.htm

それと、前回投稿では金沢貞顕に深入りしてしまいましたが、共通テストをきっかけに当掲示板・ブログに来られる人が増えた機会に、改めて基礎から『とはずがたり』と『増鏡』の関係を検討しようとしていたにもかかわらず、ちょっと先走ってしまいました。
次の投稿からは前斎宮の場面に戻って、『とはずがたり』と『増鏡』の原文を丁寧に見て行くことにしたいと思います。
なお、二条と金沢貞顕の関係について興味を持たれた方は、以下の記事などを参照してください。

「白拍子ではないが、同じ三条であることは不思議な符合である」(by 外村久江氏)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9371
「白拍子三条」作詞作曲の「源氏恋」と「源氏」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9375
「越州左親衛」(金沢貞顕)作詞の「袖余波」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9376
『とはずがたり』と『増鏡』に登場する金沢貞顕
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9378
第三回中間整理(その6)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9456
『とはずがたり』の妄想誘発力
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9869

>筆綾丸さん
>佐々木和歌子氏の「『とはずがたり』は疾走している」

佐々木氏の「葬送の車を裸足で追いかける二条は、もうやめようもうやめようと思っても、その足を止めることができない。このくだりはあたかも映画を見るような鮮やかな展開を見せ、中世文学がこの記事で確実にひとつ先に進んだことを読者は知るだろう」という文章は妙に面白いですね。
私自身は別に「中世文学がこの記事で確実にひとつ先に進んだ」とは思いませんが、「あたかも映画を見るような鮮やかな展開」であることは確かで、だったらこの場面は「映画」なんじゃないの、と考えるのが素直なはずです。
舗装道路ではないデコボコ道を裸足で走るのは大変だから、美しい場面だけど、まあ、フィクションだよね、という方向に進みそうなものなのに、佐々木氏は何故にこれが事実の記録だと考えるのか。
「訳者あとがき」を見ると、佐々木氏は自身の出産後の経験と『とはずがたり』の出産記事の比較から、

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 作品のすべてに共鳴するのは難しい。だけど、一つだけでも自分とシンクロする部分があれば、作中の人物は立体感を持って目の前に立ちあがってくる。異なる時代の人と一瞬目を交わし合ったような、この感覚。だから私は古典文学が好きだ。
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という具合いに「自分とシンクロする部分」を発見され(p487)、『とはずがたり』の「リアリズム」に魂を撃ち抜かれてしまったようですね。

7362キラーカーン:2022/02/08(火) 22:51:39
駄レス
>>雅忠の娘

花山院忠雅と勘違いしてました。

7363鈴木小太郎:2022/02/09(水) 13:05:08
2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その8)
早稲田大学教授・田渕句美子氏が『歴史評論』850号(2021年2月)で「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」という論文を書かれていて、最近の『とはずがたり』研究の状況を概観するには便利ですが、田渕氏も後深草院二条の「非実在説」については言及されていません。
まあ、「非実在説」は最近の有力説という訳でもなさそうですね。
それにしても、歴史学界で一貫して「科学運動」の中核を担ってきた歴史科学協議会の機関誌『歴史評論』にしては、「特集/女房イメージをひろげる “Reimagining the Nyōbō (female attendant)”」はなかなか新鮮な感じがしますね。

http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/magazine/contents/kakonomokuji/850.html

さて、『とはずがたり』の時間の流れの中では、文永十一年(1274)正月以降、後深草院が如法経書写のため精進し、女性を近づけないでいた期間に「雪の曙」(西園寺実兼)の子を宿した二条は、その処置に悩み、九月、重病と称して「雪の曙」の女子を出産するも、月日が合わないので後深草院には流産と偽ります。
その子は「雪の曙」がどこかに連れて行ってしまうのですが、翌十月には昨年出生の皇子も死んでしまい、「前後相違の別れ、愛別離苦の悲しみ、ただ身一つにとどまる」などと悲観した二条は出家したいと思ったりします。
そして、(史実としては翌建治元年の出来事であるものの、『とはずがたり』の時間の流れでは)、ちょうど同じ頃に後深草院が皇位継承の不満から出家を決意するも、幕府の斡旋で熈仁親王(伏見天皇)の立太子が決まり、出家を中止します。
そして十一月十日頃、前斎宮の場面となり、母の大宮院と異母妹である前斎宮の対面の場に呼ばれた後深草院は、二条の案内で異母妹と関係を持ちますが、一夜限りであっさり終わってしまいます。
ちなみに『増鏡』では二夜です。
その後、二条の助言により、年末に再び後深草院と前斎宮が逢うことになりますが、その場面に至る前に、二条の行動に激怒した東二条院が出家騒動を起こします。
なかなか忙しい展開ですが、後深草院が出家を中止し、二条もどさくさに紛れて何となく出家を止めやめたとたん、今度は東二条院が出家するという出家騒動の三段重ね的な状況になります。

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 還御の夕方、女院の御方より御使に中納言殿参らる。何事ぞと聞けば、「二条殿が振舞のやう、心得ぬ事のみ侯ふときに、この御方の御伺侯をとどめて侯へば、殊更もてなされて、三つ衣を着て御車に参り候へば、人のみな女院の御同車と申し候ふなり。これせんなく覚え候。よろづ面目なき事のみ候へば、いとまを賜はりて、伏見などにひきこもりて、出家して候はんと思ひ候」といふ御使なり。
 御返事には、
「承り候ひぬ。二条がこと、いまさら承るべきやうも候はず。故大納言典侍、あかこのほど夜昼奉公し候へば、人よりすぐれてふびんに覚え候ひしかば、いかほどもと思ひしに、あへなくうせ候ひし形見には、いかにもと申しおき候ひしに、領掌申しき。故大納言、また最後に申す子細候ひき。君の君たるは臣下の志により、臣下の臣たることは、君の恩によることに候ふ。最後終焉に申しおき候ひしを、快く領掌し候ひき。したがひて、後の世のさはりなく思ひおくよしを申して、まかり候ひぬ。再びかへらざるは言の葉に候。さだめて草のかげにても見候ふらん。何ごとの身の咎も候はで、いかが御所をも出だし、行方も知らずも候ふべき。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9431

そして、後深草院の二条弁護は止まるところを知りません。

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 また三つ衣を着候ふこと、いま始めたることならず候。四歳の年、初参のをり、『わが身位あさく候。祖父、久我の太政大臣が子にて参らせ候はん』と申して、五つ緒の車数、衵〔あこめ〕・二重織物許〔ゆ〕り候ひぬ。そのほかまた、大納言の典侍は、北山の入道太政大臣の猶子とて候ひしかば、ついでこれも、准后御猶子の儀にて、袴を着そめ候ひしをり、腰を結はせられ候ひしとき、いづ方につけても、薄衣白き袴などは許すべしといふこと、ふり候ひぬ。車寄などまで許り候ひて、年月になり候ふが、今更かやうに承り侯ふ、心得ず候。
 いふかひなき北面の下臈ふぜいの者などに、ひとつなる振舞などばし候ふ、などいふ事の候ふやらん。さやうにも候はば、こまかに承り候ひて、はからひ沙汰し候ふべく候ふ。さりといふとも、御所を出だし、行方知らずなどは候ふまじければ、女官ふぜいにても、召し使ひ候はんずるに候。
 大納言、二条といふ名をつきて候ひしを、返し参らせ候ひしことは、世隠れなく候ふ。されば、呼ぶ人々さは呼ばせ候はず。『われ位あさく候ふゆゑに、祖父が子にて参り候ひぬるうへは、小路名を付くべきにあらず候ふ』『詮じ候ふところ、ただしばしは、あかこにて候へかし。何さまにも大臣は定まれる位に候へば、そのをり一度に付侯はん』と申し侯ひき。
 太政大臣の女〔むすめ〕にて、薄衣は定まれることに候ふうへ、家々めんめんに、我も我もと申し候へども、花山・閑院ともに淡海公の末より、次々また申すに及ばず候。久我は村上の前帝の御子、冷泉・円融の御弟、第七皇子具平親王より以来、 家久しからず。されば今までも、かの家女子〔をんなご〕は宮仕ひなどは望まぬ事にて候ふを、母奉公のものなりとて、その形見になどねんごろに申して、幼少の昔より召しおきて侍るなり。さだめてそのやうは御心得候ふらんとこそ覚え候ふに、今更なる仰せ言、存の外に候。御出家の事は、宿善内にもよほし、時至ることに候へば、何とよそよりはからひ申すによるまじきことに候」
とばかり、御返事に申さる。そののちは、いとどこと悪しきやうなるもむつかしながら、ただ御一ところの御志、なほざりならずさに慰めてぞ侍る。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9433

ここまで一方的に二条に加担し、東二条院への配慮を欠いた手紙を出したら、東二条院は売り言葉に買い言葉で出家し、後深草院と西園寺家の関係が悪化して、非常に難しい事態になったでしょうね。
果たしてこれが事実の記録なのか。

7364:2022/02/09(水) 14:30:10
Scherzando, ma ・・・
モーツァルトの交響曲第40番の最終楽章には、Allegro assai(極めて速く)という演奏記号が付いていて、これが「疾走」に相当しますが、『とはずがたり』執筆の基本方針は、Scherzando ma non troppo(スケルツァンド・マ・ノン・トロッポ/戯れるように、しかし、戯れすぎずに)、というのがいちばんいいような気がします。
付記
scherzando は、諧謔的に、戯画的に、とも訳せます。

https://kotobank.jp/word/%E3%83%80%E3%83%B3%E3%83%86-95305
イタリア語に関連して言えば、『La Divina Commedia』(神曲=神聖喜劇)を書いたダンテ・アリギエーリ(1265-1321)は、二条と同時代の人なんですね。二条はベアトリーチェとは似ても似つかぬ女ですが。

7365鈴木小太郎:2022/02/10(木) 11:55:44
2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その9)
二条が他人の口を借りて自分の家柄と人柄、そして美貌を誉めまくるのは『とはずがたり』における常套手段で、既に大宮院がかなり誉めていますが、ここで後深草院が絶賛し、更に巻二で「近衛大殿」(鷹司兼平?)が、赤の他人なのにいくら何でもそこまで誉めないだろう、というくらい二条を褒めちぎります。
私は素直に、この種の誉め言葉は二条の創作だろうと思いますが、例えば久保田淳氏は、

-------
 東二条院の抗議に対する院の返事は、このころの院の作者への愛情が並々ならぬものがあったことを物語る。記憶による叙述とは考えにくいが、草稿などを見せられて、写しておいたものを、ここで院の愛情の証として引くか。
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などと言われています。(小学館新編日本古典文学全集、p277)
また、次田香澄氏は、

-------
 院の返事は、作者が読まされたのを控えておいたものか、委曲を尽くしている。これを通して、久我家の出自・家柄、母と院との関係、宮廷における作者の地位や境遇、二条と命名された事情、亡父と院との約束など、女房としての作者に関することがすべて出てくる。
 作者は院の言葉を利用して、自分からは直接書けない自賛にかかわる事柄を、ここにまとめて書いたことになる。
 女院の短い詞には含まれていない作者の行跡について、院がそれを忖度して述べているのが興味あることである。最後に女院の出家云々に対し、冷たく突っぱねたのを見て、作者も自信を持ったであろう。【後略】
-------

と言われていますが(p243以下)、「作者は院の言葉を利用して、自分からは直接書けない自賛にかかわる事柄を、ここにまとめて書いたことになる」と核心を突く指摘をされていながら、なぜそれが「院の返事は、作者が読まされたのを控えておいたものか」と結びつくのか、非常に不思議です。
さて、十一月十日頃に亀山殿で後深草院と一夜限りの関係を持った前斎宮は、十七歳でありながら殆ど遣り手婆のように老練な二条の仲介で、十二月にもう一度後深草院と関係を持ちます。

-------
 まことや、前斎宮は、嵯峨野の夢ののちは御訪れもなければ、御心のうちも御心ぐるしく、わが道芝もかれがれならずなど思ふにと、わびしくて、「さても年をさへ隔て給ふべきか」と申したれば、げにとて文あり。
 「いかなるひまにても思し召し立て」など申されたりしを、御養母と聞えし尼御前、やがて聞かれたりけるとて、参りたれば、いつしか、かこちがほなる袖のしがらみせきあへず、「神よりほかの御よすがなくてと思ひしに、よしなき夢の迷ひより、御物思ひの」いしいしと、くどきかけらるるもわづらはしけれども、「ひましあらばの御使にて参りたる」と答ふれば、「これの御ひまは、いつも何の葦分けかあらん」など聞ゆるよしを伝へ申せば、「端山繁山の中を分けんなどならば、さもあやにくなる心いられもあるべきに、越え過ぎたる心地して」と仰せありて、公卿の車を召されて、十二月の月の頃にや、忍びつつ参らせらる。
 道も程遠ければ、ふけ過ぐるほどに御わたり、京極表の御忍び所も、このころは春宮の御方になりぬれば、大柳殿の渡殿へ、御車を寄せて、昼の御座のそばの四間へ入れ参らせ、例の御屏風へだてて御とぎに侍れば、見し世の夢ののち、かき絶えたる御日数の御うらみなども、ことわりに聞えしほどに、明けゆく鐘にねを添へて、まかり出で給ひし後朝の御袖は、よそも露けくぞ見え給ひし。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9436

これで後深草院と前斎宮に関するエピソードは終わりで、以後、前斎宮は『とはずがたり』に登場しません。
改めてこの長大なエピソードを振り返ると、直前に二条が東二条院に嫌われて東二条院の御殿への出入りを差し止められ、更に二条が後深草院と同車して亀山殿に向かったことで東二条院の怒りが爆発して出家騒動になっているので、巻三で東二条院と決定的に対立した二条が後深草院にも見放されて御所を追放される、いわば『とはずがたり』宮中篇のクライマックス場面への伏線的な位置づけになっていますね。
とにかく史実では前斎宮・愷子内親王は父・後嵯峨院崩御のその年に帰京しているので、『とはずがたり』の前斎宮の場面は全部創作というのが私の考え方ですが、それでも『とはずがたり』では二条追放の伏線という、それなりに重要な意味があります。
しかし、この特に政治的重要性を持たないエピソードは、鎌倉時代を公家の立場から通観した歴史物語の『増鏡』にも大幅な増補・改変を経て膨大な分量で引用され、巻九「草枕」の後半を埋め尽くしており、その巻名の「草枕」も、後深草院が前斎宮に贈ったという「夢とだにさだかにもなきかりぶしの草の枕に露ぞこぼるる」という歌にちなんでいます。
そして、この歌は『とはずがたり』には存在せず、『増鏡』のみに記された歌です。
このように『とはずがたり』は単純に『増鏡』の「資料」だったとは言い難いのですが、では『とはずがたり』と『増鏡』はどのような関係にあったのか。

>筆綾丸さん
>モーツァルトの交響曲第40番の最終楽章には、Allegro assai(極めて速く)という演奏記号が付いていて

『とはずがたり』の巻一は文永八年(1271)正月、二条が十四歳で後深草院の愛妾の一人となり、文永九年二月の後嵯峨院崩御に続いて八月に父・雅忠が死去、十月に「雪の曙」と契り、文永十年二月、後深草院の皇子を産むという具合いに、ここまではそれなりに現実的な時間の流れです。
しかし、文永十一年(1274)に入ると、二月、後深草院が如法経書写のために女性関係を断っている間に「雪の曙」の子を懐妊し、九月に出産するも流産だと偽装、十月八日に昨年生まれた皇子が死去し、出家したいと願います。
ところが十一月十日頃には嬉々として後深草院と前斎宮の関係を斡旋し、十二月にも再度斡旋、という具合いに、本当に目まぐるしい展開になりますね。
更に、この忙しさは更に翌建治元年(1275)正月に持ち越され、『とはずがたり』屈指のコメディ「粥杖事件」となります。
このあたり、Allegro assai(極めて速く)そのものですね。

7366鈴木小太郎:2022/02/11(金) 12:32:33
2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その10)
共通テストでは、前斎宮に関連する場面の中でも、入試問題用に特別に限られた区分で『増鏡』(【文章?】)と『とはずがたり』(【文章?】)を比較していました。

2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その2)(その3)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11139
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11141

しかし、もう少し範囲を広げて『とはずがたり』と『増鏡』を読み比べてみると、『増鏡』が『とはずがたり』を一資料として活用しただけとは考えにくい記述があります。
『とはずがたり』では二条と東二条院の対立という大きな流れの中で前斎宮の場面を位置づけていましたが、『増鏡』も巻九「草枕」全体の中での前斎宮の場面の位置づけを見て行きたいと思います。
ところで、『増鏡』は戦前はなかなか人気のある作品でしたが、戦後は『増鏡』の注釈書は僅少、全部を通しての現代語訳も講談社学術文庫の井上宗雄氏によるものくらいで、『とはずがたり』研究の隆盛に比べると寂しい限りです。
それでも私は、既に消滅してしまった旧サイトで、2005年くらいまでの『増鏡』の研究状況を網羅的に概観できるようにしており、それらは現在では「インターネットアーカイブ」で読むことができますので、『増鏡』の基礎知識と(少し前までの)研究状況はそちらで確認していただければと思います。

『後深草院二条 中世の最も知的で魅力的な悪女について』
http://web.archive.org/web/20150830085744/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/
『増鏡』−従来の学説とその批判−
http://web.archive.org/web/20150831083929/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/jurai2.htm

さて、巻九「草枕」は、井上宗雄氏の『増鏡(中)全訳注』(講談社学術文庫、1983)に従って全体の構成を見ると、

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後宇多天皇践祚
亀山院御幸始、後嵯峨院三回忌
後深草院出家の内意
最明寺時頼のこと
煕仁親王立太子
前斎宮と後深草院(一)
前斎宮と後深草院(二)
前斎宮と後深草院(三)
前斎宮と西園寺実兼
亀山院の若宮誕生

http://web.archive.org/web/20150831071841/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu-index.htm

となっています。
扱っている時代は文永十一年(1274)から建治二年(1276)までですね。
私は四年前に私訳を試みているので、詳しくはそちらを参照してもらうとして、まずは冒頭から原文を眺めることにします。

-------
 文永十一年正月廿六日春宮に位ゆずり申させ給ふ。廿五日夜まづ内侍所・剣璽ひき具して押小路殿へ行幸なりて、又の日ことさらに二条内裏へ渡されけり。九条の摂政<忠家>殿参り給ひて、蔵人召して禁色〔きんじき〕仰せらる。
 上は八つにならせ給へば、いとちひさくうつくしげにて、びづらゆひて御引直衣〔ひきなほし〕・打御衣〔うちおんぞ〕・はり袴奉れる御気色〔けしき〕、おとなおとなしうめでたくおはするを、花山院の内大臣扶持し申さるるを、故皇后の御せうと公守の君などは、あはれに見給ひつつ、故大臣・宮などのおはせましかばと思し出づ。殿上に人々多く参り集まり給ひて、御膳参る。そののち上達部の拝あり。女房は朝餉より末まで、内大臣公親の女をはじめにて、三十余人並みゐたり。いづれとなくとりどりにきよげなり。廿八日よりぞ内侍所の御拝はじめられける。
 かくて新院、二月七日御幸はじめせさせ給ふ。大宮院のおはします中御門京極実俊の中将の家へなる。御直衣、唐庇の御車、上達部・殿上人残りなく、上の衣にて仕うまつる。同じ十日やがて菊の網代庇の御車奉り始む。この度は、御烏帽子・直衣同じ、院へ参り給ふ。同廿日布衣〔ほうい〕の御幸はじめ、北白河殿へいらせ給ふ。八葉の御車、萌黄の御狩衣、山吹の二つ御衣、紅の御単、薄色の織物の御指貫奉り給ふ。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9409

文永九年(1272)の後嵯峨院崩御後、皇統を後深草院側が継ぐか亀山天皇側が継ぐかで争いがありましたが、二年後、亀山皇子の世仁親王(後宇多天皇)が八歳で践祚し、亀山側の勝利が確定したような状況となります。
巻九「草枕」の後半はエロ小説的な趣がありますが、前半は複雑な政治情勢を要領良く説明しており、文章の格調も高いですね。

7367鈴木小太郎:2022/02/12(土) 12:59:42
2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その11)
『増鏡』巻九「草枕」の続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p192以下)

-------
 本院は、故院の御第三年のこと思し入りて、睦月の末つ方より六条殿の長講堂にて、あはれに尊く行はせ給ふ。御指の血を出して御手づから法花経など書かせ給ふ。僧衆も十余人が程召し置きて懺法など読ませらる。御掟の思はずなりしつらさをも思し知らぬにはあらねど、それもさるべきにこそはあらめ、といよいよ御心を致してねんごろに孝じ申させ給ふさま、いと哀れなり。新院もいかめしう御仏事嵯峨殿にて行はる。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9410

後深草院が「御指の血を出して御手づから法花経など書かせ給ふ」などと、現代人には些か不気味な感じもする血写経の話が出てきますが、これは『とはずがたり』に基づいています。
『とはずがたり』では参加した僧侶の人数が「経衆十二人」、期間が「正月より二月十七日まで」、「御手の裏をひるがへして」(故院の御手蹟の裏に)と『増鏡』より具体的ですが、反面、血写経の目的は記されていません。
この点、『増鏡』は故院の三回忌としていて、二月十七日は後嵯峨院の命日ですから、『増鏡』の記述から『とはずがたり』の記述が合理的に説明できるという関係になっています。
ところで、六条殿・長講堂は『増鏡』に後深草院が血写経を行なったと記されている文永十一年(1274)正月の三ヵ月前、文永十年(1273)十月十二日に火事で焼失しており、再建されたのが文永十二年(建治元年、1275)四月なので、文永十一年正月には物理的に存在していません。
これをどのように考えたらよいのか。
実は、後深草院の血写経は『とはずがたり』の中ではけっこう重要な出来事です。
というのは、この重要な仏事に際して、後深草院は女性関係を一切断っており、従って、この間に「雪の曙」の子を妊娠した二条の相手が後深草院のはずはなく、二条は九月に女児を出産したものの、後深草院には早産だと偽った、という展開になります。
後深草院の血写経を起点とする『とはずがたり』の妊娠・出産騒動はハラハラ・ドキドキの連続で、些かコミカルなところもあり、ドラマとしては非常に面白いものです。
しかし、「雪の曙」こと西園寺実兼が、元寇(文永の役)の直前の時期、関東申次の重職にあるにもかかわらず、春日大社に籠もると称して一切の職務を放擲し、愛人の出産にかかりきりになっていたなどという場面もあって、これら全てを史実と考えるのは無理が多い話です。
私としては、この話は全体として虚構であり、存在しない六条殿・長講堂で行われた後深草院の血写経も、この話をリアルに見せるための「小道具」のひとつだろうと考えます。

『とはずがたり』に描かれた後深草院の血写経とその後日談(その1)〜(その5)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9411
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9412
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9413
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9414
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9415

さて、『増鏡』に戻って続きです。

-------
 三月廿六日は御即位、めでたくて過ぎもて行く。十月廿二日御禊〔ごけい〕なり。十九日より官庁へ行幸あり。女御代、花山より出ださる。糸毛の車、寝殿の階〔はし〕の間に、左大臣殿、大納言長雅寄せらる。みな紅の十五の衣、同じ単、車の尻より出さる。十一月十九日又官庁へ行幸、廿日より五節始まるべく聞こえしを、蒙古〔むくり〕起るとてとまりぬ。廿二日大嘗会、廻立殿〔くわいりふでん〕の行幸、節会ばかり行はれて、清暑堂〔せいしよだう〕の御神楽もなし。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9417

ということで、文永十一年(1274)の記述はずいぶんあっさりしています。
この年の最大の出来事は言うまでもなく元寇ですが、『増鏡』における元寇の記述は即位関係の諸行事が「蒙古起るとてとまりぬ」だけです。
六年前の文永五年(1268)、蒙古襲来の可能性が生じた時ですら、

-------
 かやうに聞こゆる程に、蒙古の軍といふこと起こりて御賀とどまりぬ。人々口惜しく本意なしと思すこと限りなし。何事もうちさましたるやうにて、御修法や何やと公家・武家ただこの騒ぎなり。されども程なくしづまりていとめでたし。

http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9310

という程度の分量を割いていたのに、実際の襲来時の記事は更に短くなっています。
『増鏡』の超然たる態度は清々しいほどですね。

7368:2022/02/12(土) 15:09:49
省筆
小太郎さん
二条が定家の『明月記』を読んだはずはありませんが、まるで「紅旗征戎非吾事」のパロディのように見えますね。
冗談めかして言えば、承久の乱以後、「紅旗征戎非吾事」が朝廷の基本方針で、二条の省筆は、そんな政治状況への諷刺をも暗示しているのだ、と。

7369鈴木小太郎:2022/02/12(土) 21:35:44
2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その12)
元寇にほんの少し触れた後、話題は後深草院の出家騒動に移ります。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p197以下)

-------
 新院は世をしろしめす事変らねば、よろづ御心のままに、日ごろゆかしく思し召されし所々、いつしか御幸しげう、花やかにて過ぐさせ給ふ。いとあらまほしげなり。
 本院はなほいとあやしかりける御身の宿世〔すくせ〕を、人の思ふらんこともすさまじう思しむすぼほれて、世を背かんのまうけにて、尊号をも返し奉らせ給へば、兵仗をもとどめんとて、御随身ども召して、禄かづけ、いとまたまはする程、いと心細しと思ひあへり。
 大方の有様、うち思ひめぐらすもいと忍びがたきこと多くて、内外〔うちと〕、人々袖どもうるひわたる。院もいとあはれなる御気色にて、心強からず。今年三十三にぞおはします。故院の四十九にて御髪おろし給ひしをだに、さこそは誰々も惜しみ聞えしか。東の御方も、後れ聞えじと御心づかひし給ふ。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9417

「今年三十三にぞおはします」とありますが、後深草院は寛元元年(1243)生まれなので、数えで三十三歳ということは建治元年(1275)ですね。
ここで注意する必要があるのは、『とはずがたり』では後深草院の出家騒動とそれに続く前斎宮エピソードは前年、文永十一年(1274)の出来事とされている点です。
『とはずがたり』では巻一の最後に前斎宮エピソードが出てきて、巻二に入ると、その冒頭に、

-------
 ひまゆく駒のはやせ川、越えてかへらぬ年なみの、わが身につもるをかぞふれば、今年は十八になり侍るにこそ。百千鳥〔ももちどり〕さへづる春の日影、のどかなるを見るにも、何となき心のなかの物思はしさ、忘るるときもなければ、花やかなるもうれしからぬ心地ぞし侍る。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9405

とあり、二条は正嘉二年(1258)生まれですから、数えで十八歳だと建治元年(1275)です。
従って、後深草院の出家騒動と前斎宮エピソードは前年の文永十一年の出来事となり、『とはずがたり』と『増鏡』で一年のずれがあります。
ま、それはともかく、『増鏡』の続きです。

-------
 さならぬ女房・上達部の中にも、とりわきむつましう仕まつる人、三、四人ばかり御供仕まつるべき用意すめれば、ほどほどにつけて、私〔わたくし〕も物心細う思ひ嘆く家々あるべし。かかることども東〔あづま〕にも驚き聞えて、例の陣の定めなどやうに、これかれ東武士ども、寄り合ひ寄り合ひ評定しけり。
-------

先に「東の御方も、後れ聞えじと御心づかひし給ふ」とありましたが、「東の御方」は洞院実雄女・愔子(1246-1329)で、熈仁親王(伏見天皇)の母ですね。
『増鏡』では「東の御方」に加えて、「さならぬ女房・上達部の中にも、とりわきむつましう仕まつる人、三、四人ばかり」出家予定だとありますが、『とはずがたり』では、出家する女房は「東の御方」と二条となっています。
即ち、

-------
 この秋ごろにや、御所さまにも世の中すさまじく、後院の別当などおかるるも御面目なしとて、太政天皇の宣旨を天下へ返し参らせて、御随身ども召しあつめて、みな禄ども賜はせていとま賜びて、久則一人、後に侍るべしとありしかば、めんめんに袂をしぼりてまかり出で、御出家あるべしとて人数定められしにも、女房には東の御方・二条とあそばれしかば、憂きはうれしきたよりにもやと思ひしに、鎌倉よりなだめ申して、

http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9406

とあって、「女房には東の御方・二条」ですから「東の御方」と二条は「女房」として同格扱いですが、『増鏡』では「東の御方」だけが明示され、二条の名前は消えていますね。

>筆綾丸さん
>冗談めかして言えば、承久の乱以後、「紅旗征戎非吾事」が朝廷の基本方針で、

史実としては朝廷も元寇対策に相当尽力していますね。
文永十一年十月五日に蒙古・高麗の大軍が対馬を攻めたとの情報は十月十八日に京都に届き、九州が占領されたらしいなどという誤報もあって、大騒動になったようです。
もちろん、朝廷には武力がないので、対応といっても山陵使や伊勢以下十六社への奉幣使の発遣程度ですが、これを無意味と考えるのは現代人の感覚で、当時としては朝廷もそれなりに頑張った、というべきでしょうね。

龍粛「八 文永の役における公武の対策」
http://web.archive.org/web/20100128014139/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/ryo-susumu-mokoshurai-08.htm
『北条時宗』 参考文献
http://web.archive.org/web/20150901025021/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/tokimune-sankobunken.htm

7370鈴木小太郎:2022/02/13(日) 11:37:39
2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その13)
『増鏡』では後深草院が太上天皇の尊号と身辺警護の随身を辞退しようとした時期は明記されていませんが、史実では、これは文永十二年(1275)四月九日(二十五日に建治と改元)です。
『続史愚抄』の同日条によれば、

-------
本院被献尊号兵仗等御報書。<被辞申由也。>御報書前菅宰相<長成。>草。<清書右衛門権佐為方。>中使徳大寺中納言。<公孝。>公卿兵部卿<隆親。>已下四人参仕。奉行院司吉田中納言。<経俊。>及為方。抑依皇統御鬱懐可有御落飾故云。異日有不被聞食之勅答。御落飾事。自関東奉停之云。<○増鏡、次第記、皇年私記、歴代最要>
-------

とのことで、尊号・兵仗は天皇(後宇多)が上皇(後深草)に与えたという建前ですから、辞退の旨を正式の文書に記し、徳大寺公孝を使者として、四条隆親(二条の母方の祖父)以下の四人の公卿が随行するという厳格な形式で天皇に通知した訳ですね。
これに対し、後宇多天皇は辞退を認めない旨を返答し、幕府のとりなしもあって、落飾の一件は中止となったという流れです。
では、幕府の対応は『増鏡』にどのように描かれているかというと、次の通りです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p200以下)

-------
 この頃はありし時頼の朝臣の子時宗といふぞ相模守、世の中はからふぬしなりける。故時頼朝臣は康元元年に頭おろして後、忍びて諸国を修行しありきけり。それも国々の有様、人のうれへなど、くはしくあなぐり見聞かんのはかりごとにてありける。
 あやしの宿に立ち寄りては、その家主が有様を問ひ聞き、ことわりあるうれへなどの埋もれたるを聞きひらきては、「我はあやしき身なれど、昔よろしき主を持ち奉りし、未だ世にやおはする、と消息奉らん。もてまうでて聞え給へ」などいへば、「なでう事なき修行者の、なにばかりかは」とは思ひながら、いひ合はせて、その文を持ちて東へ行きて、しかじか、と教へしままにいひて見れば、入道殿の御消息なり。「あなかま、あなかま」とて長くうれへなきやうにはからひつ。仏神のあらはれ給へるか、とて、みな額〔ぬか〕をつきて悦びけり。かやうのこと、すべて数しらずありし程に、国々にも心づかひをのみしけり。最明寺の入道とぞいひける。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9418

ということで、いささか唐突に北条時頼廻国譚が出てきます。
時頼廻国については、旧サイト(『後深草院二条─中世の最も知的で魅力的な悪女について』)において、かなり詳しく検討したことがあります。
現代の歴史研究者の中にも、佐々木馨氏のように時頼の廻国が基本的には事実であったと考える人もいますが、私は賛同できません。

佐々木馨『執権時頼と廻国伝説』(吉川弘文館、1997)
http://web.archive.org/web/20061006194255/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/sasaki-kaoru-tokiyori-01.htm

さて、続きです。

-------
 それが子なればにや、今の時宗の朝臣も、いとめでたき者にて、「本院の、かく世を思し捨てんずる、いとかたじけなく、あはれなる御ことなり。故院の御おきては、やうこそあらめなれど、そこらの御このかみにて、させる御あやまりもおはしまさざらんに、いかでか忽ちに名残なくはものし給ふべき。いと怠々しき業なり」とて、新院へも奏し、かなたこなたなごめ申して、東の御方の若宮を坊に奉りぬ。
 十月五日節会〔せちゑ〕行はれて、いとめでたし。かかれば少し御心慰めて、この際は強ひて背かせ給ふべき御道心にもあらねば、思しとどまりぬ。これぞあるべきこと、と、あいなく世人も思ひいふべし。帝よりは今二つばかりの御このかみなり。
 まうけの君、御年まされるためし、遠き昔はさておきぬ。近頃は三条院・小一条院・高倉の院などやおはしましけん。高倉の院の御末ぞ今もかく栄えさせおはしませば、かしこきためしなめり。いにしへ天智天皇と天武天皇とは同じ御腹の御はらからなり。その御末、しばしはうちかはりうちかはり世をしろしめししためしなどをも、思ひや出でけん、御二流れにて、位にもおはしまさなんと思ひ申しけり。
 新院は御心ゆくとしもなくやありけめど、大方の人目には御中いとよくなりて、御消息も常に通ひ、上達部なども、かなたこなた参り仕まつれば、大宮院も目安く思さるべし。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9420

「故院の御おきては、やうこそあらめなれど」(故・後嵯峨院のお決めになったことには、それなりの深い理由があるのだろうが)とさりげなく書かれていますが、ここはかなり重要です。
『増鏡』は一貫して、後嵯峨院の遺詔に亀山院とその子孫が皇統を継ぐべきだと明記されていた、という立場であり、ここでも、それを前提とした上で、幕府の斡旋により、幕府主導の妥協案として煕仁親王(伏見天皇)の立太子がなされた、という書き方ですね。

7371:2022/02/13(日) 15:31:15
朝廷のドルチェ・ヴィータ(甘い生活)
小太郎さん
https://roma.repubblica.it/cronaca/2022/02/12/news/san_valentino_il_maritozzo_vero_dolce_romano_degli_innnamorati-337482817
マリトッツォ鈴木氏へ、イタリアからバレンタインデー
の様々なマリトッツォが届きました。
写真(上)は、ローマの有名なレストラン・ロショーリ
のものだそうで、
Panna(poco dolce e non troppo ariosa)
生クリームは少し甘く、しかし、アリオーソすぎず
とのことです。dolce も arioso も音楽用語でもあり
ますが、後者は所謂アリアになる前の唱法で、
non troppo ariosa は歌いすぎず抑制して(甘さ控え目)、
くらいの感じでしょうか。
そして、タイトルにある、
il vero dolce degli innamorati
は、恋人たちの真のケーキ、というような意味なので、
まさに、バレンタインデーのプレゼントとして、
二条が後深草院に贈るのにふさわしいドルチェと
いう感じがしますね(ちょうどいい塩梅の毒も染み
込ませてある)。

7372鈴木小太郎:2022/02/14(月) 12:16:58
2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その14)
以上で巻九「草枕」の前半を終えて、いよいよ前斎宮の場面に入ります。
「草枕」というタイトルそのものが、後深草院が詠んだという(『とはずがたり』には存在しない)「夢とだにさだかにもなきかりぶしの草の枕に露ぞこぼるる」という歌に由来する上に、分量的にも、ここまでが四割、前斎宮の場面が六割ですから、『増鏡』作者が前斎宮の場面に注いだ熱意はすごいですね。
しかし、前半が皇統の行方を左右する重大な政治的局面を描いていたのに対し、後半は要するに単なるエロ話です。
この落差はいったい何なのか。
『増鏡』作者は何のために、後深草院の出家騒動の後、前斎宮の場面をここまでの分量を割いて描いたのか。
この問題を考える上で、私は『増鏡』は一貫して、後嵯峨院の遺詔に亀山院とその子孫が皇統を継ぐべきだと明記されていた、という立場であったことが重要だと思っていますが、その点は後でまとめるとして、とりあえず原文を見て行くことにします。

「巻八 あすか川」(その13)─後嵯峨法皇崩御(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9327
「巻八 あすか川」(その16)─後嵯峨院の遺詔
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9404
第三回中間整理(その8)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9458
新年のご挨拶(その4)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10515

といっても、当掲示板で私が『増鏡』の前斎宮の場面を検討するのは、これが実に三回目になります。
最初は2017年に、小川剛生氏の『増鏡』作者が丹波忠守、監修者が二条良基だという説(『二条良基研究』、笠間書院、2005)を批判するために若干の検討を行いました。

「そこで考察しておきたいのは、やはり増鏡のことである。」(by 小川剛生氏)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9167
「二条良基が遅くとも二十五歳より以前に、このような大作を書いたことへの疑問」(by 小川剛生氏)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9168
「そもそも<作者>とは何であろうか」(by 小川剛生氏)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9169
「後醍醐という天子の暗黒面も知り尽くしてきた重臣たち」(by 小川剛生氏)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9172
「増鏡を良基の<著作>とみなすことも、当然成立し得る考え方」(by 小川剛生氏)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9177

『増鏡』に描かれた二条良基の曾祖父・師忠(その1)〜(その8)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9180
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9181
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9183
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9184
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9187
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9188
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9189
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9190


ただ、この第一回目の検討の際には小川説批判が主目的になってしまって、前斎宮の場面自体の細かい検討はしておらず、現代語訳も井上宗雄氏の訳を借用していました。
そこで、2018年に改めて細かい検討を行い、拙いながら私訳も試みました。

「巻九 草枕」の後半について
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9422

今回は、細かい部分は第二回の検討に譲ることとして、『増鏡』の前斎宮の場面の大きな流れを眺めた上で、それが『増鏡』作者の作品全体の構想の上で、どのように位置付けられるのかを見て行くことにしたいと思います。

>筆綾丸さん
「マリトッツォ鈴木」、自分でも何のために名乗ったのか忘れていました。
覚えていて下さって、ありがとうございます。
なお、最近私はツイッター上の洗礼名を「ズッキーニ」にしました。

「水林彪氏に捧げる歌」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10907

7373鈴木小太郎:2022/02/14(月) 13:23:26
2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その15)
それでは『増鏡』が描く前斎宮の場面を紹介して行きます。(井上宗雄、『増鏡(中)全訳注』、p207以下)

-------
 まことや、文永のはじめつ方、下り給ひし斎宮は後嵯峨の院の更衣腹の宮ぞかし。院隠れさせ給ひて後、御服にており給へれど、なほ御いとまゆりざりければ、三年まで伊勢におはしまししが、この秋の末つ方、御上りにて、仁和寺に衣笠といふ所に住み給ふ。月花門院の御次には、いとたふたく思ひ聞え給へりし、昔の御心おきてをあはれに思し出でて、大宮院いとねんごろにとぶらひ奉り給ふ。亀山殿におはします。
 十月ばかり斎宮をも渡し奉り給はんとて、本院をもいらせ給ふべきよし、御消息あれば、めづらしくて、御幸あり。その夜は女院の御前にて、昔今の御物語りなど、のどやかに聞え給ふ。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9439

『とはずがたり』と比較すると、『とはずがたり』では二条と東二条院の対立という背景が描かれていましたが、『増鏡』ではきれいさっぱり消えています。
また、『とはずがたり』では、この場面は文永十一年(1274)の「十一月の十日あまりにや」の出来事ですが、『増鏡』では翌建治元年の「十月ばかり」とされていて、『とはずがたり』と『増鏡』では年が一年、月も一ヵ月ずれていますね。
さて、第二日目です。

-------
又の日夕つけて衣笠殿へ御迎へに、忍びたる様にて、殿上人一、二人、御車二つばかり奉らせ給ふ。寝殿の南おもてに御しとねどもひきつくろひて御対面あり。とばかりして院の御方へ御消息聞え給へれば、やがて渡り給ふ。女房に御はかし持たせて、御簾の内に入り給ふ。
 女院は香の薄にびの御衣、香染めなど奉れば、斎宮、紅梅の匂ひに葡萄染めの御小袿なり。御髪いとめでたく、盛りにて、廿に一、二や余り給ふらんとみゆ。花といはば、霞の間のかば桜、なほ匂ひ劣りぬべく、いひ知らずあてにうつくしう、あたりも薫る御さまして、珍らかに見えさせ給ふ。
 院はわれもかう乱れ織りたる枯野の御狩衣、薄色の御衣、紫苑色の御指貫、なつかしき程なるを、いたくたきしめて、えならず薫り満ちて渡り給へり。
 上臈だつ女房、紫の匂五つに、裳ばかりひきかけて、宮の御車に参り給へり。神世の御物語などよき程にて、故院の今はの比の御事など、あはれになつかしく聞え給へば、御いらへも慎ましげなる物から、いとらうたげなり。をかしき様なる酒、御菓物、強飯などにて、今宵は果てぬ。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9441

『とはずがたり』では二条が「御太刀もて例の御供に参る」とありますが、『増鏡』では二条の名前はなく、単に「女房」とあるだけです。
その他、細かい比較はリンク先を見ていただくとして、『増鏡』は全面的に『とはずがたり』に依拠しているのではなく、若干の追加情報も含んでいますね。
果たしてそれは『増鏡』作者が別の史料に拠ったのか、それとも勝手に創作したのか。
さて、この次から、共通テストの【文章?】に相当する部分となります。

------
 院も我が御方にかへりて、うちやすませ給へれど、まどろまれ給はず。有りつる御面影、心にかかりて覚え給ふぞいとわりなき。「さしはへて聞こえんも、人聞きよろしかるまじ。いかがはせん」と思し乱る。御はらからと言へど、年月よそにて生ひ立ち給へれば、うとうとしくならひ給へるままに、慎ましき御思ひも薄くやありけん、猶ひたぶるにいぶせくてやみなんは、あかず口惜しと思す。けしからぬ御本性なりや。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9442

『とはずがたり』の「いかがすべき、いかがすべき」が「いかがはせん」になるなど、『とはずがたり』の露骨な描写が『増鏡』では若干優雅な表現に変わっています。
「御はらからと言へど、年月よそにて生ひ立ち給へれば、うとうとしくならひ給へるままに、慎ましき御思ひも薄くやありけん」は『とはずがたり』にはない『増鏡』の独自情報ですね。
また、「けしからぬ御本性なりや」は『増鏡』の語り手である老尼の感想です。

-------
 なにがしの大納言の女、御身近く召し使ふ人、彼の斎宮にも、さるべきゆかりありて睦しく参りなるるを、召し寄せて、「馴れ馴れしきまでは思ひよらず。ただ少しけ近き程にて、思ふ心の片端を聞こえん。かく折良き事もいと難かるべし」とせちにまめだちてのたまへば、いかがたばかりけん、夢うつつともなく近づき聞こえさせ給へれば、いと心うしと思せど、あえかに消えまどひなどはし給はず。らうたくなよなよとして、あはれなる御けはひなり。鳥もしばしば驚かすに、心あわたたしう、さすがに人の御名のいとほしければ、夜深くまぎれ出で給ひぬ。
-------

共通テストの【文章?】では、「らうたくなよなよとして」以下は省略されていました。
「なにがしの大納言の女、御身近く召し使ふ人、彼の斎宮にも、さるべきゆかりありて睦しく参りなるる」はもちろん二条のことですね。
後深草院が前斎宮に贈った「知られじな今しも見つる面影のやがて心にかかりけりとは」という歌は『増鏡』では存在していません。

7374:2022/02/14(月) 17:33:05
凱歌
小太郎さん
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%9E%93%E4%B8%8B%E3%81%AE%E6%AD%8C
「いかがすべき、いかがすべき」から「いかがはせん」
への改変が、かりに項羽の「虞兮虞兮奈若何」を踏ま
えたものだとすれば、『とはずがたり』よりも『増鏡』
のほうが、はるかに強烈なイロニーだ、ということに
なりますね。沈痛な垓下の歌ならぬ、能天気な漁色家の
凱歌だ、と。
もっとも、あの時代、「奈若何」をどのように訓み
下していたのか、わからないのですが。

7375ザゲィムプレィア:2022/02/14(月) 20:08:05
五輪塔を叩く音
昨日『鎌倉殿の13人』の第6回が放送されましたが、それについて細川重男氏が「んで、今週の感想。」の題で面白い文章をブログに上げています。
https://ameblo.jp/hirugakojima11800817/
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 伊豆山神社(走湯権現)にあるらしい千鶴くんのお墓ということになっている五輪塔(ごりんとう)は、その形状について、石造物(せきぞうぶつ)研究者の人々には、いろいろ意見があることだと思うが、確実に言えることは、八重さんが叩いた時の「ポコ」という音からして、石ではないというコトである。

 おそらくは、発泡スチロールと推定される。
 よって、そもそも石造物ではない。

 したがって、平安時代末期のモノとしては、火輪(かりん)の反りが強過ぎるとか、水輪(すいりん)の形状が球形過ぎるとか言うのは、すべてムダである。
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私は放送をそれほど集中して見て(聞いて)いなかったので、音には気付きませんでした。改めて録画をチェックすると確かに音がしています。
これは八重役のガッキーを追ったマイクが発泡スチロール(?)を叩いた音を拾ったのか、それとも効果音を後から加えたのか。人の手のような柔らかい物で石を叩いても、あまり音は出ないのですが。
画像なら蛇足という言葉がありますが、音声についてこれを表現する言葉はないと思います。これをきっかけに「墓音」という言葉が日本語に加わるでしょうか。

7376:2022/02/14(月) 23:38:05
豆腐と墓石の角
録画で見ると、八重(新垣結衣)が左手を伸ばして墓石に触れた瞬間、確かにポンと鳴っているので、もしかすると、いちばんタマゲたのはガッキーだったかもしれません。え、これ、発泡スチロールなの、イヤねえ、予算が余ってるくせに、NHKって、案外、ケチなのね、と。ビールのCMではないけれど、日本の皆さん、お疲れ生です、フフフ。
八重は伊豆山権現に避難している政子たちに面会したあと、裏山の一角らしいところにポツンと建っている五輪塔を訪うていますが、千鶴くんは伊東か北条の川で善児によって殺されているので(第1話)、熱海の伊豆山権現まで遺体をわざわざ運ぶのは、かりに荼毘の後の遺骨だとしても、地理的に非常に不自然です。川辺に穴を掘って埋めるか、あるいは、近在の寺の墓地に埋めれば済む話です。伊東氏が伊豆山権現と深い深い関係にあれば、話は別ですが。
余談ながら、善児は端役として三谷の映画に欠かせない梶原善の名を踏まえていますが、善なる児が「必殺仕事人」(飾り職人の秀のように、敵の延髄を刺して殺す)だというのも、三谷らしいアソビで、和歌でいうところの本歌取りですね。
墓石の音は、豆腐の角に頭をぶつて死ぬではないけれど、墓も叩けば時にはポンと音がする(恋しい母への返事かもしれない)、というような、実は、入念に仕組んだシャレかもしれません。あの音がミスなら、カット、カット、とかなんとか言って、撮り直せば済むことですからね。

付記
ドラマの五輪塔は発泡スチロール製で石造物ではないから形状を云々するのはすべてムダだ、という細川重男氏の話は、言語論として、論点がまったくずれています。映像なのだから、発泡スチロール製であろうが、石製であろうが、豆腐製であろうが、そんなことは問題ではない。石らしく見えればいいだけのことで、それが映画というものです。

7377鈴木小太郎:2022/02/15(火) 10:51:41
2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その16)
続きです。(井上宗雄、『増鏡(中)全訳注』、p209以下)

-------
 日たくる程に、大殿籠り起きて、御文奉り給ふ。うはべはただ大方なるやうにて、「ならはぬ御旅寝もいかに」などやうに、すくよかに見せて、中に小さく、
  夢とだにさだかにもなきかりぶしの草の枕に露ぞこぼるる
「いとつれなき御けしきの聞こえん方なさに」ぞなどあめる。悩ましとて御覧じも入れず。強ひて聞こえんもうたてあれば、「なだらかにもてかくしてを、わたらせ給へ」など聞えしらすべし。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9442

『とはずがたり』では寝坊した後深草院が手紙を贈ったとはありますが、その具体的内容についての説明はなく、「夢とだにさだかにもなきかりぶしの草の枕に露ぞこぼるる」という歌も存在しません。
ここは『増鏡』の独自情報ですね。
また、『とはずがたり』では、「御返事にはただ、『夢の面影はさむる方なく』などばかりにてありけるとかや」ということで、前斎宮が一応は返事を出したことになっていますが、『増鏡』ではそうした記述はありません。

------
 さて御方々、御台など参りて、昼つかた、又御対面どもあり。宮はいと恥しうわりなく思されて、「いかで見え奉らんとすらん」と思しやすらへど、女院などの御気色のいとなつかしきに、聞えかへさひ給ふべきやうもなければ、ただおほどかにておはす。けふは院の御けいめいにて、善勝寺の大納言隆顕、檜破子やうの物、色々にいときよらに調じて参らせたり。三めぐりばかりは各別に参る。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9443

『とはずがたり』では後深草院は「日高くなるまで御殿ごもりて、昼といふばかりになりて、おどろかせおはしまして」という具合いに完全に寝過してしまい、四条隆顕に準備させた宴会は「夕がたになりて」やっと始まるのですが、『増鏡』では「昼つかた」から始まります。
その他、細かな相違がありますね。

-------
 そののち「あまりあいなう侍れば、かたじけなけれど、昔ざまに思しなずらへ、許させ給ひてんや」と、御けしきとり給へば、女院の御かはらけを斎宮参る。その後、院聞こしめす。御几帳ばかりを隔てて長押の下へ、西園寺の大納言実兼、善勝寺の大納言隆顕召さる。簀子に、長輔・為方・兼行などさぶらふ。あまたたび流れ下りて、人々そぼれがちなり。
 「故院の御ことの後は、かやうの事もかきたえて侍りつるに、今宵は珍しくなん。心とけてあそばせ給へ」など、うち乱れ聞こえ給へば、女房召して御箏どもかき合はせらる。院の御前に御琵琶、西園寺もひき給ふ。兼行篳篥、神楽うたひなどして、ことごとしからぬしもおもしろし。
-------

ここも『とはずがたり』では大宮院が「あまりに念なく侍るに」と酒を勧めるのに対し、『増鏡』では後深草院が「あまりあいなう侍れば」と酒を要望する形になっているなど、細かな相違があります。

-------
 こたみはまづ斎宮の御前に、院身ずから御銚子を取りて聞こえ給ふに、宮いと苦しう思されて、とみにもえ動き給はねば、女院、「この御かはらけの、いと心もとなくみえ侍るめるに、こゆるぎの磯ならぬ御さかなやあるべからん」とのたまへば、「売炭翁はあはれなり。おのが衣は薄けれど」といふ今様をうたはせ給ふ。御声いとおもしろし。
 宮聞こしめして後、女院御さかづきを取り給ふとて、「天子には父母なしと申すなれど、十善の床をふみ給ふも、いやしき身の宮仕ひなりき。一言報ひ給ふべうや」とのたまへば、「さうなる御事なりや」と人々目をくはせつつ忍びてつきしろふ。「御前の池なる亀岡に、鶴こそ群れゐて遊ぶなれ」とうたひ給ふ。其の後、院聞こし召す。善勝寺、「せれうの里」を出す。人々声加へなどしてらうがはしき程になりぬ。
 かくていたう更けぬれば、女院も我が御方に入らせ給ひぬ。そのままのおましながら、かりそめなるやうにてより臥し給へば、人々も少し退きて、苦しかりつる名残に程なく寝入りぬ。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9444

『とはずがたり』では大宮院の嫌味っぽい発言に、後深草院が「生を受けてよりこの方、天子の位を踏み、太上天皇の尊号をかうぶるに至るまで、君の御恩ならずといふことなし。いかでか御命をかろくせん」と答えてから長寿の祝意を込めた今様を歌っていますが、『増鏡』では同席の人々が「人々目をくはせつつ忍びてつきしろふ」という反応を示したことになっていて、これは『増鏡』が追加した独自情報です。
なお、和田英松・佐藤珠『修訂 増鏡詳解』(明治書院、1913)などの戦前の『増鏡』注釈書では「院」は全て亀山院と解釈されていましたが、そう考えると、亀山院を支援していたはずの大宮院が「院」に嫌味を言う理由が分からず、宴席の参加者の反応も不可解なものとなります。
この点、『とはずがたり』の出現で「院」が後深草院であることが明確になったため、この場面も非常にすっきりと理解できるようになった訳ですね。
なお、井上宗雄氏は「語釈」で、

-------
○一言報い給ふべうや もう一つお歌いなさい。戦前の注釈は、下の歌謡を斎宮が歌ったものとして、この言葉を大宮院の斎宮への注文としてみていたが、『とはずがたり』の出現により、下の歌は院が歌ったことがわかったので、これも院への注文と解されるようになった。
-------

と書かれていますが(p222)、「院」が亀山院という基本構図の影響で、戦前はずいぶん不自然な解釈が強いられていた訳ですね。

>ザゲィムプレィアさん
>筆綾丸さん
私は細川氏の研究者としての業績は参考にさせてもらっていますが、それ以外の活動には興味がないので、レスは控えます。

7378鈴木小太郎:2022/02/15(火) 11:46:18
2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その17)
続きです。(井上宗雄、『増鏡(中)全訳注』、p223以下)

-------
 明日は宮も御帰りと聞ゆれば、今宵ばかりの草枕、なほ結ばまほしき御心のしづめがたくて、いとささやかにおはする人の、御衣など、さる心して、なよらかなるを、まぎらはし過ぐしつつ、忍びやかにふるまひ給へば、驚く人も無し。
 何や彼やとなつかしう語らひ聞こえ給ふに、なびくとはなけれど、ただいみじうおほどかなるに、やはらかなる御様して、思しほれたる御けしきを、よそなりつる程の御心まどひまではなけれど、らうたくいとほしと思ひ聞え給ひけり。長き夜なれど、更けにしかばにや、程なう明けぬる夢の名残は、いとあかぬ心地しながら、後朝になり給ふ程、女宮も心苦しげにぞ見え給ひける。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9444

『とはずがたり』では後深草院は前斎宮と一度関係を持った後で、簡単に靡くつまらない女だったと感想を述べ、三日目の夜、二条の予想に反し、「酒を過して気分が悪い。腰をたたいてくれ」などと言って寝てしまいます。
しかし、『増鏡』では後深草院は「今宵ばかりの草枕、なほ結ばまほしき御心のしづめがたくて」、再び行動を起こします。
そして、『とはずがたり』では(文永十一年)十一月十日頃の亀山殿の場面の後、年末にもう一度、二条の仲介で後深草院が前斎宮と関係を持ちますが、こちらは『増鏡』では省略されています。
その代わり、『増鏡』では西園寺実兼と二条師忠が前斎宮と関係を持つという全く独自の展開となります。

-------
 その後も、折々は聞え動かし給へど、さしはへてあるべき御ことならねば、いと間遠にのみなん。「負くるならひ」まではあらずやおはしましけん。
 あさましとのみ尽きせず思しわたるに、西園寺の大納言、忍びて参り給ひけるを、人がらもきはめてまめしく、いとねんごろに思ひ聞こえ給へれば、御母代の人なども、いかがはせんにて、やうやう頼みかはし給ふに、ある夕つ方、「内よりまかでんついでに、又かならず参り来ん」と頼め聞こえ給へりければ、その心して、誰も待ち給ふ程に、二条の師忠の大臣、いと忍びてありき給ふ道に、彼の大納言、御前などあまたして、いときらきらしげにて行きあひ給ひければ、むつかしと思して、この斎宮の御門あきたりけるに、女宮の御もとなれば、ことごとしかるべき事もなしと思して、しばしかの大将の車やり過してんに出でんよ、と思して、門の下にやり寄せて、大臣、烏帽子直衣のなよよかなるにており給ひぬ。
 内には大納言の参り給へると思して、例は忍びたる事なれば、門の内へ車を引き入れて、対のつまよりおりて参り給ふに、門よりおり給ふに、あやしうとは思ひながら、たそがれ時のたどたどしき程、なにのあやめも見えわかで、妻戸はづして人のけしき見ゆれば、なにとなくいぶかしき心地し給ひて、中門の廊にのぼり給へれば、例なれたる事にて、をかしき程の童・女房みいでて、けしきばかりを聞こゆるを、大臣覚えなき物から、をかしと思して、尻につきて入り給ふ程に、宮もなに心なくうち向ひ聞こえ給へるに、大臣もこはいかにとは思せどなにくれとつきづきしう、日頃の心ざしありつるよし聞えなし給ひて、いとあさましう、一方ならぬ御思ひ加はり給ひにけり。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9445

「負くるならひ」は『伊勢物語』(六十五段)の歌、「思ふには忍ぶることぞ負けにける逢ふにしかへばさもあらばあれ」を踏まえた表現ですね。
さて、前斎宮の新しい愛人として登場した「西園寺大納言」実兼は、「けしからぬ御本性」の後深草院と異なり、「人がらもきはめてまめしく」、前斎宮を大切に世話してくれたので、前斎宮の母代わりの立場の人も信頼していたそうですが、ここに更に「二条の師忠の大臣」が登場します。
西園寺実兼は建長元年(1249)生まれで、建治元年(1275)には二十七歳、権大納言で、幕府の斡旋により皇太子となった熈仁親王(伏見天皇)の春宮大夫です。
他方、二条師忠は建長六年(1254)生まれで西園寺実兼より五歳下ですが、摂関家の人なので昇進は極めて順調で、文永六年(1269)に十六歳で内大臣、文永八年(1271)に右大臣、建治元年(1275)には左大臣ですから、官職では西園寺実兼を圧倒しています。
しかし、『増鏡』が独自に追加した前斎宮の場面では、二条師忠の役回りはいささか滑稽なものですね。

西園寺実兼(1249-1322)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%AE%9F%E5%85%BC
二条師忠(1254-1341)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%B8%AB%E5%BF%A0

7379鈴木小太郎:2022/02/16(水) 12:26:05
2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その18)
前回紹介した部分に「負くるならひ」という表現がありましたが、これは『伊勢物語』第六十五段「在原なりける男」の「思ふには忍ぶることぞ負けにける逢ふにしかへばさもあらばあれ」という歌を踏まえた表現です。

https://ise-monogatari.hix05.com/4/ise-065.arihara.html

前斎宮の場面の設定自体、『伊勢物語』第六十九段「狩の使」を踏まえていることも明らかで、『増鏡』作者は『伊勢物語』を素材とする二次創作を楽しんでいるとも言えますね。

https://ise-monogatari.hix05.com/4/ise-069.kari.html

ま、それはともかく、続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p227以下)

-------
 大納言はこの宮をさしてかく参り給ひけるに、例ならず男の車よりおるるけしき見えければ、あるやうあらんと思して、「御随身一人そのわたりにさりげなくてをあれ」とて留めて帰り給ひにけり。男君はいと思ひの外に心おこらぬ御旅寝なれど、人の御気色を見給ふも、ありつる大将の車など思しあはせて、「いかにもこの宮にやうあるなめり」と心え給ふに、「いと好き好きしきわざなり。よしなし」と思せば、更かさで出で給ひにけり。
 残し置き給へりし随身、このやうよく見てければ、しかじかと聞えけるに、いと心憂しと思して、「日頃もかかるにこそはありけめ。いとをこがましう、かの大臣の心の中もいかにぞや」とかずかず思し乱れて、かき絶え久しくおとづれ給はぬをも、この宮には、かう残りなく見あらはされけんともしろしめさねば、あやしながら過ぎもて行く程に、ただならぬ御気色にさへ悩み給ふをも、大納言殿は一筋にしも思されねば、いと心やましう思ひ聞え給ひけるぞわりなき。
 さすれどもさすが思しわく事やありけむ、その御程のことども、いとねんごろにとぶらひ聞えさせ給ひけり。こと御腹の姫宮をさへ御子になどし給ふ。御処分もありけるとぞ。幾程無くて弘安七年二月十五日宮かくれさせ給ひにしをも、大納言殿いみじう歎き給ふめるとかや。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9446

以上で前斎宮エピソードは終了し、この後、亀山院に若宮が誕生したという短い記事があって、巻九「草枕」も終わりとなります。
さて、『とはずがたり』には存在しない、この前斎宮・西園寺実兼・二条師忠の奇妙な三角関係のエピソードはいったい何なのか。
前斎宮は帰京後、仁和寺の近くの衣笠殿というところに住んでいたのだそうですが、冷酷な後深草院にあっさり捨てられた前斎宮の新しい愛人となった西園寺実兼が、前駆などを大勢整えた華やかな様子で前斎宮邸に向かっていたところ、たまたま左大臣・二条師忠がお忍びで近くを通りかかっていて、師忠は実兼への対応を面倒に感じ、暫く隠れて実兼をやり過ごそうと思って、前斎宮邸の門から入ったのだそうです。
すると、前斎宮に仕える者たちは、実兼が来たのだと誤解して師忠を迎え入れたので、師忠も面白いと思ってずんずん入って行ったところ、前斎宮と対面することになり、師忠はこれはどうしたことだと思ったものの、「日ごろからお慕い申しておりました」みたいなことを適当に言ってみたのだそうで、これでやっと前斎宮も人違いに気づきます。
他方、実兼は不審な男が前斎宮邸に入るのを見て、随身一人に様子を探らせることにし、自身は引き返してしまいます。
師忠は「いと思ひの外に心おこらぬ御旅寝」だなあ、などと言い訳をしつつ、それなりのことをした後で、「いと好き好きしきわざなり。よしなし」などと言ってあっさり帰ってしまいます。
その様子を窺っていた随身が実兼に報告すると、実兼は情けなく思って、「日頃もこうであったのだろう。何とも馬鹿な目にあったものだ。師忠は私のことをどう思っていたのだろう」と心は千々に思い乱れ、その後は長い間訪問しなかったのだそうです。
しかし、前斎宮の方では、一部始終を全て見られてしまったとも気づかず、不思議に思っているうちに妊娠が判明します。
実兼としては、相手が自分一人とも思われないので、極めて不快に思いつつも、やはり自分の子と思い当たることがあったのか、お産のときは誠実に世話をし、更に「こと御腹の姫宮をさへ御子になどし給ふ」(別の御腹に出来た姫君をまでもこの宮の御子になどなされた)ばかりか、財産の分配もしたのだそうです。
そして、前斎宮はそれから幾らも経たないうちに、弘安七年(1284)二月十五日に亡くなってしまい、実兼は大変嘆きましたとさ、ということで終わりです。
まあ、何というか、話の展開がシュール過ぎて奇妙な味わいが残りますが、これはいったい何なのか。
それと、「こと御腹の姫宮をさへ御子になどし給ふ」については、『とはずがたり』で、後深草院が女性を遠ざけていた間に「雪の曙」の子を妊娠した二条が、女児が生まれたにもかかわらず後深草院には早産と偽って報告し、女児は「雪の曙」がどこかへ連れていってしまった、というエピソードを思い出させます。
『とはずがたり』も『増鏡』も真実を描いているのだとしたら、「雪の曙」西園寺実兼は二条が産んだ「こと御腹の姫宮」を前斎宮の子として、財産分与もしてあげた、という可能性もありますね。
ま、それはあくまで『とはずがたり』と『増鏡』が事実の記録だ、という前提の下での可能性ですが。

7380:2022/02/16(水) 16:52:48
斎宮のあとさき
https://hiroshinakamura.jp/nohnonomiya/
前斎宮のエピソードは、『源氏物語』「賢木巻」の野宮の段を踏まえたのだろう、と私は考えています。
六条御息所が、一人娘の斎宮とともに、伊勢下向前、嵯峨の野宮で精進潔斎しているところへ、光君が訪ねきて、一夜を明かします。二人の間にかつてのような実事はなく(たぶん)、光君と斎宮の間にも何もありません。
なお、この斎宮は六条御息所と前坊(廃太子)の娘で、伊勢から帰った後、冷泉帝(光君と藤壺中宮の不義の子)の女御になり、後世、秋好中宮と呼ばれます。
二条は、おそらく、この野宮の段を踏まえて、後深草院と前斎宮の話を創作したのだ思います。
『とはずがたり』の舞台は大宮院の嵯峨の御所、『源氏物語』の舞台は嵯峨の野宮、ともに嵯峨であり、さらに面白いのは、前者は伊勢から帰任した後の前斎宮、後者は伊勢へ下向する前の斎宮、もっと露骨に言えば、前者は神と通じた後のいわば経験者、後者は神に使える前の未通女、というあざやかなパロディになっていることです。
まるでキアロスクーロ(Chiaroscuro)の絵を見るような趣があります。内容的には、『源氏物語』の話は短調で悲劇的な暗、『とはずがたり』の話は長調で喜劇的な明、というコントラストになります。

7381鈴木小太郎:2022/02/17(木) 12:28:43
2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その19)
『増鏡』では後深草院と前斎宮の二夜にわたる情事は建治元年(1275)の「十月ばかり」の出来事なので、それに続く前斎宮・西園寺実兼・二条師忠の三角関係のエピソードは建治二年(1276)以降の話となりそうです。
ただ、そうすると「幾程なくて」前斎宮が没したという弘安七年(1284)二月十五日まではけっこうな時間が流れていますが、これは西園寺実兼が「こと御腹の姫宮をさへ御子になどし給」い、財産分与なども行なってあげてから「幾程もなく」ということでしょうか。
また、二月十五日という日付も若干気になります。
これは釈迦の命日であって、『増鏡』の序文の冒頭は「二月の中の五日は、鶴の林に薪尽きにし日なれば、かの如来二伝の御かたみのむつましさに、嵯峨の清凉寺にまうでて」云々で始まっています。
だから何なのだ、と言われればそれまでですが、わざわざ死去の日が記されている人物も『増鏡』全体の中では僅少で、特に歴史的に重要な人物でもない前斎宮についてここまで詳しく書くのは何故か、という疑問は残ります。
ま、それはともかく、巻九「草枕」は、ほんの少しだけ残っているので、一応紹介しておきます。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p233以下)

-------
 新院には一年〔ひととせ〕近衛大殿<基平>の姫君、女御に参り給ひにしぞかし。女御と聞えつるを、この程、院号あり。新陽明門院とぞ聞ゆめる。建治二年の冬頃、近衛殿にて若宮生まれさせ給ひにしかば、めでたくきらきらしうて、三夜五夜七夜九夜など、いまめしく聞えて、御子もやがて親王の宣下などありき。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9447

以上で『増鏡』巻九「草枕」の全文を紹介しましたが、巻九は鎌倉時代を公家の立場から概観した歴史物語である『増鏡』の中でも、かなり変な巻ですね。
そもそも全体の六割を占める前斎宮エピソードは分量的に相当にバランスが悪く、これ以上に長大なエピソードは巻十「老の波」の北山准后九十賀だけです。
西園寺実氏室で大宮院・東二条院の母である北山准后(1196-1302、百七歳)の九十歳を祝う行事は、分量的には前斎宮エピソードの倍近くあって、現代の読者にとってはうんざりするほど長い話ですが、まあ、こちらは公家社会の華やかな盛儀なので、それなりに歴史的重要性があるとの説明も可能です。
しかし、前斎宮エピソードには、どう見ても歴史的重要性は皆無です。
また、巻九「草枕」の前半は皇位継承をめぐる複雑な政治過程を描いているのに、後半の前斎宮エピソードは政治とは直接関係ない宮中秘話、要するにエロ話ですが、何故にこの二つが一つの巻にまとめられているのか。
しかも分量とタイトルから見て、後者の方に重点が置かれていますが、これは何故なのか。
私としては、この巻は後深草院がいかなる人物であるかを明らかにする目的があると考えることで、前半と後半を統一的に理解できるのではないかと思っています。
まず、前提として、『増鏡』は決して政治的に中立な書物ではなく、その立場は一貫して大覚寺統寄りです。

「巻八 あすか川」(その13)─後嵯峨法皇崩御(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9327
「巻八 あすか川」(その16)─後嵯峨院の遺詔
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9404
第三回中間整理(その8)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9458
新年のご挨拶(その4)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10515

『増鏡』は文永九年(1272)に崩御した後嵯峨院の遺詔は亀山院の子孫を皇統と定めるものと明記していた、という立場ですが、これは史実ではありません。
史実としては、後嵯峨院の遺詔は財産分与を定めていただけです。
ただ、後嵯峨院の意向は、既に文永五年(1268)、亀山皇子の世仁親王(後宇多天皇)が生後僅か八カ月で皇太子として定められていたことで明らかだったともいえ、幕府は大宮院に後嵯峨院の遺志を確認した上で、皇統を亀山子孫とすることに同意したようです。
しかし、これに反発した後深草院は文永十二年(1275)四月に出家騒動を起こして幕府の仲介を要請し、結果的に熈仁親王(伏見天皇)の立坊という成果を得ます。
これは大覚寺統の立場から見れば許し難い幕府の専横であり、それを招いた後深草院の行動も、朝廷の基礎を揺るがし、後の皇統迭立の大混乱をもたらした身勝手な振る舞いです。
このような後深草院を『増鏡』巻九「草枕」はどのように描いているか。
まず、後深草院は(火災で焼失していたために現実には存在していない)六条院長講堂で「血写経」という陰気な仏事を行います。
この時、「御掟の思はずなりしつらさをも思し知らぬにはあらねど、それもさるべきにこそはあらねど」(井上著、p193)ということで、後深草院は自分の行動が父・後嵯峨院の意向に背いていることを熟知していた、という前提です。
そして、出家騒動で幕府に仲介を求めた結果、北条時宗が「新院へも奏し、かなたこなたなごめ申して、東の御方の若宮を坊に奉りぬ」(同、p203)という事態となりますが、時宗の判断も「故院の御おきては、やうこそあらめなれど」(後嵯峨院の御遺詔は深いわけがあるだろうが)」ということで、ここでも熈仁親王の立坊は後嵯峨院の遺志に反していることが再確認されています。
そこで、大覚寺統寄りの『増鏡』としては、皇統の分裂という歴史的誤りを惹き起こした後深草院がいかに人間的に問題のある人物であるかを明らかにするために、まず、前斎宮との二夜の「草枕」の場面で、後深草院の「けしからぬ御本性」(同、p209)、即ち好色さと冷酷さを強調します。
そして、後深草院に冷たく捨てられた前斎宮を西園寺実兼が保護し、そこに二条師忠が滑稽な役回りで登場する、『とはずがたり』には存在しない三角関係のエピソードを追加することにより、立派な人格者である西園寺実兼との比較の上で、後深草院の冷酷さを改めて印象付けています。
要するに、持明院統の祖である後深草院は本当に駄目な我儘男なんですよ、という印象を読者に与えるのが『増鏡』作者の目的だ、というのが私の見方です。

>筆綾丸さん
>前斎宮のエピソードは、『源氏物語』「賢木巻」の野宮の段を踏まえたのだろう、

御指摘のように『源氏物語』の方は喜劇の要素がないので、私としては『増鏡』の作者にとって直接の参考にはならなかったのではないかと考えます。
この点、もう少し考えてから改めて論じるつもりです。

7382:2022/02/17(木) 15:56:06
J'accuse
小太郎さん
仰るように、「後深草院は本当に駄目な我儘男なんですよ」という印象を与えたかったのだ、とすると、なぜあんなエロ話をしたのか、すとんと腹落ちしますね。
ドレフュス事件で、ゾラのJ'accuse (私は弾劾する)は歴史的な言葉になりましたが、私は後深草院を弾劾する、scherzando(戯れるように)、といったような感じです。

小松茂美『天皇の書』で、後深草院の書をあらためて見ると、後嵯峨院ほどではないが、亀山院よりずっと能筆だ、と思います。
これは嘉元二年(1304)正月朔日のもので、後深草院はこの年の七月十六日に崩御しているので、最後の年賀状ということになりますね。追善供養として紙背に写経したもので、古筆学では消息経と呼んでいるとか。
小松氏は、
「現存する後深草法皇の宸翰は、淡墨を一気呵成に走らせた、能筆である。書道史の展望においても、比類なき風情を湛える書風である。枯淡の中に凛たる品格の漂う書・・・」
と絶賛していて、確かに名君を思わせるような雄勁な字ですが、とすると、書は為人(人品骨柄)を表さない、騙されちゃダメよ、ということになりそうですね。
なお、何の関係もなく、また、他意もないのですが、後深草院の諱(久仁)は、このたび、名門筑波大附属高への入学が決まった親王の諱(悠仁)と同じ訓みですね。

7383鈴木小太郎:2022/02/18(金) 13:34:09
2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その20)
改めて共通テストの設問を振り返ると、出題者の頭の中には、「過去の人物や出来事などを後の時代の人が書いた」「文学史では『歴史物語』と分類されて」いる『増鏡』が『とはずがたり』を一資料として利用している、という確固たる前提が存在していることが分かります。
もちろん、これは国文学界の常識です。
そして、この常識を前提とする限り、「文章?」「文章?」と区画された範囲で『増鏡』と『とはずがたり』を比較した場合、「当事者の視点から書かれた」『とはずがたり』の「臨場感」が失われている反面、『増鏡』は「当事者全員を俯瞰する立場から出来事の経緯を叙述」しており、「書き手の意識の違いによってそれぞれの文章に違いが生じている」という結論になります。
しかし、もう少し範囲を広げて『とはずがたり』と『増鏡』を比較してみると、『とはずがたり』と『増鏡』との関係は相当に複雑に入り組んでいて、『増鏡』が『とはずがたり』を一方的に利用したと考えるには些か不自然な個所が多いことは理解していただけたと思います。
さて、私のように『増鏡』巻九「草枕」が後深草院批判のプロパガンダだと考えると、当然に『増鏡』の作者と成立時期の問題に結びつきます。
通説のように二条良基(1320-88)が作者で、成立は十四世紀後半であれば、北朝(持明院統)に仕える二条良基が何故に持明院統の祖である後深草院を批判するのか、訳の分からない話になります。
ただ、『増鏡』の作者と成立年代という根本問題は共通テストとはあまりに離れてしまいますので、二十回続いたこのシリーズは一応終えて、改めてタイトルを変えて論じたいと思います。
ところで、今回、『増鏡』の前斎宮エピソードを読み直してみて、戦前の『増鏡』の通釈書において、「院」が亀山院だと解釈されていたことが本当に不思議に思えてきました。
巻九「草枕」では、冒頭に後宇多天皇践祚に触れた後、「かくて新院、二月七日御幸はじめせさせ給ふ」とあり、その後、「本院は故院の御第三年のこと思し入りて、睦月の末つ方より六条殿の長講堂にて、あはれに尊く行はせ給ふ。御指の血を出して御手づから法花経など書かせ給ふ。【中略】新院もいかめしう御仏事嵯峨殿にて行はる。」とあって、「新院」(亀山院)と「本院」(後深草院)を明確に書き分けています。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9409
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9410

話題が後深草院の出家騒動に移っても、「新院は世をしろしめす事変らねば、よろづ御心のままに【中略】本院はなほいとあやしかりける御身の宿世を」という具合いに、「新院」「本院」の使い分けは明確です。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9417

次いで熈仁親王立太子の話題になっても同様です。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9420

そして、前斎宮エピソードに入ると、「十月ばかり斎宮をも渡し奉り給はんとて、本院をもいらせ給ふべきよし、御消息あれば、めづらしくて、御幸あり」とあるので、「女院」(大宮院)が「本院」(後深草院)を招待したことは明確です。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9439

この後、

-------
 院はわれもかう乱れ織りたる枯野の御狩衣、薄色の御衣、紫苑色の御指貫、なつかしき程なるを、いたくたきしめて、えならず薫り満ちて渡り給へり。
 上臈だつ女房、紫の匂五つに、裳ばかりひきかけて、宮の御車に参り給へり。神世の御物語などよき程にて、故院の今はの比の御事など、あはれになつかしく聞え給へば、御いらへも慎ましげなる物から、いとらうたげなり。をかしき様なる酒、御菓物、強飯などにて、今宵は果てぬ。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9441

という具合いに、「本院」ではなく「院」という表現に変化しますが、それは既に「本院」であることを明示しているので、「院」で十分読者に分るからですね。
以後、前斎宮エピソードの全体を通して「院」の表記が続きますが、巻九の最後には亀山院に若宮が誕生したとの短い記事があって、そこには、

-------
 新院には一年近衛大殿<基平>の姫君、女御に参り給ひにしぞかし。女御と聞えつるを、この程、院号あり。新陽明門院とぞ聞ゆめる。建治二年の冬頃、近衛殿にて若宮生まれさせ給ひにしかば、めでたくきらきらしうて、三夜五夜七夜九夜など、いまめしく聞えて、御子もやがて親王の宣下などありき。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9447

とありますから、前斎宮エピソードの「院」と区別されていることは明確です。
そして、前斎宮エピソードの中には、「女院」(大宮院)の「天子には父母なしと申すなれど、十善の床をふみ給ふも、いやしき身の宮仕ひなりき。一言報ひ給ふべうや」という発言に、同席した「人々」が、「「さうなる御事なりや」と人々目をくはせつつ忍びてつきしろふ」という反応をしたという微妙な話がありますが、これも「院」が大宮院と極めて良好な関係にある亀山院では理解しにくいところです。
更に、「院」が再び前斎宮の寝所に忍び入った際には「いとささやかにおはする人」とあるので、「院」がとても小柄であることが分かります。
しかし、『増鏡』巻八「あすか川」には、内裏の火事に際して、「故院の御処分の入リたる御小唐櫃、なにくれの御宝」が保管されていた「御塗籠」の鍵が見つからずに騒ぎになっていたところ、亀山天皇が「さばかり強き戸」を蹴り倒した、という豪快なエピソードがあって、亀山院が「いとささやかにおはする人」とは思えません。

http://web.archive.org/web/20150918073236/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu8-dairi-enjo.htm

念のため和田英松・佐藤珠『修訂 増鏡詳解』(明治書院、1913)を確認したところ、こちらは増補本系なので「草まくら」は巻十一となっていますが、以上のようなポイントについては十七巻本の表現と同じなので、何故に「院」が亀山院と解釈されていたのか、不思議です。
まあ、『とはずがたり』の発見までは後深草院は非常に地味な存在であり、他方、亀山院は大変な子沢山である上、その好色エピソードは『増鏡』に多数載せられていて、特に「五条院」との関係は前斎宮エピソードに似ているため、前斎宮エピソードの「院」も亀山院に違いない、という先入観が生まれたのでしょうね。

http://web.archive.org/web/20150918045226/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu10-kameyamainno-kokyu.htm

>筆綾丸さん
>後嵯峨院ほどではないが、亀山院よりずっと能筆だ

『天皇の書』に掲載されている亀山院の「競馬臨時召合乗尻交名」は、気軽に書いたメモ程度のものなのでしょうが、それにしても妙に縦長で、一風変わった字ですね。

7384鈴木小太郎:2022/02/18(金) 20:55:36
田渕句美子氏「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」(その1)
それでは少し視点を変え、共通テストから離れて、国文学界における『とはずがたり』研究の最新状況を確認しておきたいと思います。
検討の素材としては、昨年二月、『歴史評論』850号に掲載された早稲田大学教授・田渕句美子氏の「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」を用いることにします。
『歴史評論』は歴史学界において一貫して「科学運動」の中枢を担ってきた歴史科学協議会の機関誌で、同会は「現代における帝国主義的歴史観に対決する人民の立場に立つ」(定款第2条1号)硬派の団体ですから、『歴史評論』にもあまり中世文学、特に女房文学などに関する論文は載りません。
その点、850号の田渕論文を含む「特集/女房イメージ」は、『歴史評論』らしくない、といったら少し失礼かもしれない斬新な企画ですね。

『歴史評論』2021年2月号(第850)
特集/女房イメージをひろげる “Reimagining the Nyōbō (female attendant)”
http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/magazine/contents/kakonomokuji/850.html

さて、田渕論文は、

-------
一 女房、女房文学、女房日記
二 宮廷和歌・歌壇と女房
三 物語の制作と享受
四 記録する女房
五 君寵と女房
-------

と構成されていますが、『増鏡』との関係を中心に検討したいので、第一節・第二節は省略します。
「三 物語の制作と享受」に入ると、

-------
 『とはずがたり』が『源氏物語』の圧倒的な影響下にあることは、多くの指摘がある。表現は勿論、人物造型においても、『源氏物語』中の人物たちが二重写しにされて描かれる。『とはずがたり』は女房日記だがむしろ物語に近接し、多くの虚構や意図的操作、物語化を含み、その表現や手法は中世王朝物語(擬古物語)に多くを負っており、同じ文化的な渦の中にある。この具体相についても諸氏の論がある。オリジナリティを重んずる近代以降の小説からみると不思議でもあるが、『源氏物語』『狭衣物語』『夜の寝覚』等の王朝物語と、中世王朝物語は、表現、構造、手法等を夥しく共有しており、『とはずがたり』もその環の中にある。なかでも『源氏物語』は際だった磁力をもち、中世王朝物語や仮名日記に流入し、さまざまに語り変えられて増殖した。そして、女房日記の中でも物語に近い『うたたね』と『とはずがたり』は、日記の特質である一人称の語りを生かして、自身に『源氏物語』の紫上、女三宮、浮舟などを重ね合わせ、彼女たちの内面に入り込んだ視点を用いて、『源氏物語』を語り直す意図もあるとみられる。
-------

との指摘があります。(p44以下)
田渕氏は「『とはずがたり』は女房日記だがむしろ物語に近接し、多くの虚構や意図的操作、物語化を含」むとされますが、そんなに虚構が多ければ、『とはずがたり』は「女房日記」風の「物語」、「自伝風の小説」の可能性もありそうです。
いったい、「女房日記」と「物語」はどのように区別することができるのか。
この点、田渕氏は「日記の特質である一人称の語り」とも書かれていますが、一人称で書かれた作品の多くは「日記」であって「物語」ではないとしても、仮にある作品の作者が、一人称で書けば読者は「日記」だと思うだろうと予想して、そうした読者の錯覚を利用しようと画策したらどうなるのか。
田渕氏はそんなけしからぬことを考える女房は中世朝廷には存在しないという「性善説」に立たれているのでしょうが、私は疑り深い人間なので、そのような可能性を排除はしません。
ただ、私のような立場では、「自伝風の小説」を書く動機の説明が必要になるでしょうね。
ま、それはともかく、続きです。(p45)

-------
 物語との近接では、たとえば『小夜衣』は『とはずがたり』と共通する表現を多数有しており、『小夜衣』の作者は雅忠女かという説もある。尊経閣文庫蔵の白描絵巻『豊明絵草子』の詞書の文章も、『とはずがたり』と表現の共通が多いことから、『豊明絵草子』作者が雅忠女という説、『とはずがたり』が『豊明絵草子』から摂取した説、その逆を想定する説など、種々の推測がある。この当否は見極め難く、むしろこれらの類似性は、『とはずがたり』と『小夜衣』『豊明絵草子』ほか多くの中世王朝物語が、あえて共通する構造・表現を形象する文学であることを物語るであろう。物語の制作・享受は同じ集団・文化圏の人々によって担われ、集団性・共有性が強い。物語の作者は、平安・鎌倉期では宮廷女性が中心であり、第一に女子教育のため、また愉楽のために、物語を日常的に制作・享受する女房たちであった。これら物語の作者は、勅撰集とは異なって作者名は記名されない。『源氏物語』など著名な平安期物語以外は、物語の作者は不明であり、プライオリティの意識はなく、改作はその時代にあわせて積極的に行われる。そして殆どは散逸し、ごく一部しか残らない。女房日記も同様であり、実用的な記録を含め、一般に、その殆どは散逸したとみられる。
-------

うーむ。
「女房日記も同様であり」とありますが、散逸した作品が多いであろうことは「同様」だとしても、日記の「作者は不明」ではないですね。
『蜻蛉日記』『和泉式部日記』『紫式部日記』『更級日記』『讃岐典侍日記』『弁内侍日記』『十六夜日記』『中務内侍日記』『竹向きが記』等、全て誰が書いたかはっきりしており、他人が勝手に自分の名前を使って日記を書くことを許さないという意味では「プライオリティの意識」は認められ、「改作はその時代にあわせて積極的に行われる」などということもありません。
また、「物語の制作・享受は同じ集団・文化圏の人々によって担われ、集団性・共有性が強い」のは一応認められるとしても、この点をあまり強調すると、一定の集団に属する女性なら誰が書いても同じ、という話にもなりそうです。
しかし、例えば『とはずがたり』の前斎宮エピソードなど相当個性的で、誰でも書けるレベルの作品とは思えません。
田渕氏の見解には私は基本的に賛成できず、特に『とはずがたり』には当て嵌まらないように感じます。

7385:2022/02/18(金) 23:06:04
閑話
小太郎さん
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%99%AB%E3%82%81%E3%81%A5%E3%82%8B%E5%A7%AB%E5%90%9B
亀山院の書は、虫めづる姫君ではないけれど、
昆虫(たとえば、カミキリムシ)の触覚みたいな字で、
散らし書きには見られぬ、昆虫標本のような整然とした
味わいがありますね。

7386鈴木小太郎:2022/02/19(土) 11:43:35
田渕句美子氏「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」(その2)
田渕句美子氏の学位は「お茶の水女子大学 博士(人文科学)」だそうですから、略称は「お茶の水博士」なのでしょうか。
国文学研究資料館を経て2008年から早稲田大学教授で、2020年には『女房文学史論 ―王朝から中世へ』(岩波書店)で第42回角川源義賞を受賞されており、女房文学については現在の国文学界の研究水準を体現されている方と言ってよいでしょうね。

早稲田大学研究者データベース
https://w-rdb.waseda.jp/html/100000647_ja.html
第42回角川源義賞【文学研究部門】受賞
https://www.kadokawa-zaidan.or.jp/kensyou/kadokawa/42th_kadokawa/winner01.html

さて、第四節には『とはずがたり』と『増鏡』の関係についての言及もあるので、冒頭から丁寧に見て行くことにします。(p44以下)

-------
  四 記録する女房

 女房日記は、宮廷の行事等を記録するという役割と機能をもつ。しかし『とはずがたり』は、中世女房日記としては稀なことに、宮廷の公的な諸行事についての記録が少なく、私的な出来事の記述が大半を占める。巻一から巻三の女房生活で儀式等を淡々と記録しているのは、東二条院の姫宮(後の遊義門院)御産の記事だけで、分量的にも多くはない。しかし作者は東二条院の女房でもあり、御産の記事を記すのは女房日記の重要な役割であり、一面では当然あるべき記述とも言える。
-------

いったん、ここで切ります。
東二条院が姫宮(遊義門院)を生んだのは文永七年(1270)九月十八日ですが、『とはずがたり』は文永八年八月の出来事としており、一年と一ヵ月ずれています。

『とはずがたり』に描かれた遊義門院誕生の場面
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9325

そして、『増鏡』にも『とはずがたり』の記述を若干簡略化した記事が載っています。
なお、『増鏡』でその誕生が詳細に描かれるのは、大宮院(1225-94)が生んだ後深草院(1243-1304)と、大宮院の妹、東二条院(1232-1304)が生んだ遊義門院(1270-1307)の二人だけですね。

「巻八 あすか川」(その11)─遊義門院誕生
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9324

続きです。

-------
 巻三で、後深草院御所から追放された後に、大宮院から懇請されて北山准后九十賀に女房として加わる。『とはずがたり』はここで突然、九十賀を記録する長大な叙述(巻三の四分の一を占める)に変わる。これは鎌倉中期を代表する盛儀であるが、作者二条は祝賀を記録する女房に転身したかのようである。この記述の中で、「よろづあぢきなきほどにぞはべりし」「いつまで草のあぢきなく見渡さる」「かきくらす心の中は」「憂き身はいつもとおぼえて」など、華やかな祝宴への違和感をも記すが、それは『紫式部日記』などにもみられる筆致であり、基本的には記録的態度で叙述される。なお、『とはずがたり』は『実冬卿記』の別記『北山准后九十賀』を参照したとされてきたが、小川剛生により、これは「次第」(有識の公卿が作成してあらかじめ参列者に配るもの)に基づいて記しているからであり、「室礼や儀式の記述が、『とはずがたり』『実冬卿記』『実躬卿記』『宗冬卿記』の四者でしばしば近似するのは、同一の次第に取材していることにかかり、互いに依拠関係があったのではない」ことが論証されている。このような北山准后九十賀の記は、『とはずがたり』の中でやや異質に見えるが、これを包含していることこそが、女房の文化的役割の多様性、女房日記の複層性を示すものであろう。
-------

北山准后・四条貞子(1196-1302)は後深草院二条の母方の祖父・四条隆親の同母姉で、西園寺実氏室となり、大宮院・東二条院を産んだ女性です。
彼女は百七歳という驚異的な長寿の人ですが、九十歳の祝賀行事をしてもらったのは弘安八年(1285)のことですね。

「序章 北山の准后 貞子の回想」(その1)(その2)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9159
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9161

『とはずがたり』には、北山准后九十賀の様子がうんざりするほど詳細に描かれています。
また、『増鏡』にも長大な記事がありますが、こちらは『増鏡』の中でも単一エピソードとしては最長の記事ですね。
私は以前、『とはずがたり』と『増鏡』の北山准后九十賀の記事を比較してあれこれ検討したことがあるのですが、『とはずがたり』の記事そのものを確認するためには旧サイトの「原文を見る−『とはずがたり』」が便利かと思います。
ま、これも途中までですが。

http://web.archive.org/web/20150516032839/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa-index.htm

>筆綾丸さん
是澤恭三は亀山院の書風について、

-------
 つぎに大覚寺統の亀山天皇は、はじめは弘誓院教家の風を学ばれ、ついで世尊寺流を学ばれた。教家は後京極流の祖である良経の子で、良経の弟左大臣良輔に養われて子となり、大納言、皇后宮大夫などになつている。実父良経と並んで能書の聞えが高かつた。入木抄にもそのことが見えているが、書風は法性寺流の余風であると評されている。天皇は御兄の後深草天皇とは異つて御性格も俊敏溌剌としておられ、文藻に長じ材芸に富まれて、修業も進んでその書風も法性寺、弘誓院、あるいは世尊寺の風体から脱せられ、よほど闊達な一流を出されているのである。南禅寺蔵の禅林禅寺起願文案(挿43)は永仁七年(1299)の染筆で、正本は焼失して案文の方のみ残つたのである。しかもこれも下辺が焼損じて漸く火難を免れたものである。禅林禅寺というのは、のちの南禅寺のことで天皇落飾後これを離宮とせられ、ついで禅院とされたのである。この起願文案には右に述べた御性格が明かに察せられる。

http://web.archive.org/web/20090715111559/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/koresawa-kyozo-ryotonoshofu.htm

などと言われていますね。
良く言えば自由闊達、悪く言えば我儘な書風ということでしょうか。

7387:2022/02/19(土) 14:14:07
鼠と麒麟の足跡
小太郎さん
道草ばかりで恐縮ですが。
ご引用の是澤恭三氏の文に、伏見天皇の仮名書きは自らの書流で、
「道風や行成のものは、ちくちくしたり、鼠の足跡の様であるが、それを続き具合も美しく如何にも豊潤で気品高雅である。」
とあります。
(注:「それを続き具合も」は、「その継ぎ具合も」か、「それを継ぎ、具合も」か、「仮名の続き具合」か、意味不明)

ちくちくして鼠の足跡のような字体を継承して発展させると、なぜ、美しく豊潤で気品高雅な字体、たとえば、麒麟の足跡のように凛とした字体になれるのか、ギャップがありすぎて、ほとんど理解不能です。
小松茂美『天皇の書』を見ると、伏見院の仮名書きは後鳥羽院の仮名書きに似ているように思われる。後鳥羽院のほうが格段に能筆ですが。

蛇足
姫の前は堀田真由。
https://news.yahoo.co.jp/articles/1730f65565fb22ffe3963d8d879e167ce109430d

7388鈴木小太郎:2022/02/19(土) 19:26:43
田渕句美子氏「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」(その3)
北山准后九十賀は『とはずがたり』『増鏡』その他の史料を詳しく比較検討して行くと面白いことが多くて、私も以前、それなりに熱心に取り組んでみたのですが、今から振り返ると、些か袋小路に踏み込んでしまっていたようなところもなきにしもあらずです。
関連する投稿を紹介すると、それだけで大変な分量となってしまうので、興味を持たれた方は次の記事のリンク先などを見てください。

再々考:遊義門院と後宇多院の関係について(その4)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10164

ということで、続きです。(p46)

-------
 また阿部泰郎は、『とはずがたり』が、作者の父系・母系それぞれの栄光ある先祖、すなわち源通親の『高倉院厳島御幸記』『高倉院昇霞記』で描かれた王の死の記を象り、また四条隆房の『艶詞』の小督の物語を、また九十賀記は『安元御賀記』を意識していることを指摘する。『とはずがたり』全体に、前述の自家の歌業への誇りに留まらず、家門意識が網の目の如く張り巡らされているのであろう。
-------

私は独特の玄妙な言い回しを多用される阿部泰郎氏(名古屋大学名誉教授、龍谷大学教授)とは相性が悪くて、阿部氏の言われることにはあまり賛成できないのですが、ここは一般論としては別に間違いというほどのこともないでしょうね。
さて、この後、『増鏡』との関係が論じられます。

-------
 『とはずがたり』は上皇の間近にいた女房による女房メディアの宮廷史であり、ゆえに『増鏡』に流れ込む。たとえば、平安期の『栄花物語』(巻八・初花)には、『紫式部日記』冒頭から敦成親王誕生記事がそのままの順序で長大に取り入れられていること等から、『栄花物語』は多数の女房日記・記録を吸収して編集されたと考えられている。つまりは女房メディアそのものである。これと同様に、『増鏡』が資料として吸収する日記の一つが『とはずがたり』である。ゆえに『増鏡』には、『とはずがたり』作者の姿が相対化されて描きこまれることにもなる。『増鏡』では、雅忠女は「なにがしの大納言の女、御身近く召し使ふ人」(第九・草枕)、「上臈だつ久我の太政大臣の孫とかや」(第一〇・老の波)と記されるだけで、上皇に仕える女という位置以外の私的な面は一切捨象されている。
 また、『増鏡』(第一一・さしぐし)には、正応元(一二八八)年、東御方所生の伏見天皇に入内する西園寺実兼女の※子(後の永福門院)に、女房として奉仕する雅忠女が見える。「出車十両、(中略)二の車、左に久我大納言雅忠の女、三条とつき給ふを、いとからいことに嘆き給へど、みな人先立ちてつき給へれば、あきたるままとぞ慰められ給ひける」とあり、三条という女房名に屈辱を感じて嘆く姿が描かれる。この記事は現存の『とはずがたり』にはないが、こうした無名の一女房の感懐を記すものは女房日記以外には考え難く、『とはずがたり』の散逸した部分である可能性が高いであろう。さらには、憶測であるが、この『増鏡』の入内記事の一部は、現存しない『とはずがたり』に拠ったものかもしれない。
※「金」偏に「章」
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『増鏡』巻九「草枕」で二条が「なにがしの大納言の女、御身近く召し使ふ人」として登場する場面は共通テストに出題された箇所ですね。

2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その15)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11167

巻十「老の波」で「上臈だつ久我の太政大臣の孫とかや」が登場する箇所は、

-------
 弥生の末つ方、持明院殿の花盛りに、新院わたり給ふ。鞠のかかり御覧ぜんとなりければ、御前の花は梢も庭も盛りなるに、ほかの桜さへ召して、散らし添へられたり。いと深う積りたる花の白雪、跡つけがたう見ゆ。上達部・殿上人いと多く参り集まる。御随身・北面の下臈など、いみじうきらめきてさぶらひあへり。わざとならぬ袖口ども押し出だされて、心ことにひきつくろはる。
 寝殿の母屋〔もや〕に御座〔おまし〕対座にまうけられたるを、新院いらせ給ひて、「故院の御時、定めおかれし上は、今更にやは」とて、長押〔なげし〕の下へひきさげさせ給ふ程に、本院出で給ひて、「朱雀院の行幸には、あるじの座をこそなほされ侍りけるに、今日のみゆきには、御座〔おまし〕をおろさるる、いと異様に侍り」など、聞え給ふ程、いと面白し。むべむべしき御物語は少しにて、花の興に移りぬ。
 御かはらけなど良き程の後、春宮おはしまして、かかりの下にみな立ち出で給ふ。両院・春宮立たせ給ふ。半ば過ぐる程に、まらうどの院のぼり給ひて、御したうづなど直さるる程に、女房別当の君、また上臈だつ久我の太政大臣の孫とかや、樺桜の七つ、紅のうち衣、山吹のうはぎ、赤色の唐衣、すずしの袴にて、銀〔しろがね〕の御杯〔つき〕、柳箱にすゑて、同じひさげにて、柿ひたし参らすれば、はかなき御たはぶれなどのたまふ。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9469

というもので、なかなか華麗な場面ですね。
ここも『とはずがたり』が大幅に「引用」されていますが、文章は『増鏡』の方が上品な雰囲気になっています。
想定されている時期の設定なども違っていますね。

『とはずがたり』に描かれた「持明院殿」蹴鞠(その1)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9470
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9471
「持明院殿」考
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9473

巻十一「さしぐし」で二条が「三条という女房名に屈辱を感じて嘆く姿」が描かれた箇所は『とはずがたり』と『増鏡』の関係を考える上で非常に重要なので、別途詳しく検討します。

「御賀次第」の作者・花山院家教
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9864

7389鈴木小太郎:2022/02/19(土) 21:11:52
是澤恭三氏(1894-1991)
>筆綾丸さん
>「それを続き具合も」

これは私の写し間違いかもしれないですね。
是澤氏のお名前で検索しても良い記事はなく、「インターネットアーカイブ」の私の記事の略歴が一番詳しいような感じもします。
ま、これは一般の検索ではヒットしませんが。

http://web.archive.org/web/20090524114017/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/koresawa-kyozo-shotojinbutu01.htm

もう少し詳しいものがないかなと思って、『日本史研究者辞典』(吉川弘文館、1999)を見たところ、これには載っていました。

-------
是沢恭三(これさわ きょうぞう) 一八九四-一九九一。
文化庁文化財保護委員会美術工芸課書跡調査担当。
一八九四年(明治二七)一二月二六日、愛媛県西宇和郡神山村(現、八幡浜市)に生まれる。一九二〇年(大正九)、国学院大学文学部国史科卒業。二一年、宮内省図書寮に入り、編修官補、掌典補(兼任)、編修官を歴任。四七年(昭和二二)、国立博物館(現、東京国立博物館)に移る。五〇年、文部省文化財保護委員会美術工芸課書跡調査担当。六〇年、同定年退官。六六年、淑徳大学社会福祉学部教授。七〇年、同退職。一九九一年(平成三)二月九日没、九六歳。社寺の文化財調査や天皇宸翰調査を進めた。
《主要業績》『重要文化財会津塔寺八幡宮長帳』(心清水八幡神社、一九五八)、『見ぬ世の友』(出光美術館、一九七三)
《追悼文》山本信吉「是沢恭三氏の訃」(『日本歴史』五一五、一九九一)
------

終戦の前年、「紀元二千六百年奉祝会」が出版した超豪華本、『宸翰英華』の「宸翰英華編纂出版事業経過概要」には、大勢の「委員」の一人として「宮内省図書寮御用掛 是沢恭三」の名がありますが、この経歴からすると、是沢氏は同事業にも相当深く関わっているような感じがしますね。

「宸翰英華編纂出版事業経過概要」
http://web.archive.org/web/20090514085027/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/shinkaneika-jigyokeika-gaiyo.htm

>姫の前は堀田真由。
私の長澤まさみ、ナレーターと二役説は穿ち過ぎでした。

『鎌倉殿の13人』における「姫の前」の不在
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11090

7390鈴木小太郎:2022/02/20(日) 12:22:07
田渕句美子氏「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」(その4)
『増鏡』で「久我大納言雅忠の女」が「三条という女房名に屈辱を感じて嘆く」場面、「こうした無名の一女房の感懐を記すものは女房日記以外には考え難」いのは確かですが、そもそも女房名が気にくわないみたいな、当人以外にはどうでも良いような話が何故に『増鏡』に登場するのか。
「『増鏡』が資料として吸収する日記の一つが『とはずがたり』」ですから、「三条」云々の記述が「『とはずがたり』の散逸した部分」に存在していた「可能性」は否定できません。
しかし、資料に書いてあるからといって、それらを何でもかんでも採用したら収拾がつかなくなりますから、『増鏡』作者は当然に個々の情報の重要性を勘案して、不要なものはバッサバッサと切り捨てたはずです。
それなのに、『増鏡』にはこんな当人以外にはどうでも良い、つまらない話が何故に採用されたのか。
ま、これは田渕氏に質問しても、納得できる回答は得られそうもない感じですね。
その他、田渕氏の見解には種々疑問が生じますが、まずは田渕説を一通り見ておくことにします。
ということで、続きです。(p47)

-------
 『とはずがたり』には巻一から巻五までのあちこちに、現存の『とはずがたり』以外の部分の存在を示唆する記述が、断片的に見出される。例えば「むばたまの面影は別に記しはべれば、これには漏らしぬ」(巻一)は、別に記したと明記している。また「一昨年の春三月十三日に、初めて「折らでは過ぎじ」とかやうけたまはり初めしに……」(巻二)は「有明の月」(性助法親王)から求愛された時のことを回顧するが、こうした記述は当該箇所にみられない。またこの少しあとに「雪の曙」が文中に現れるが、「雪の曙」西園寺実兼は、巻一冒頭から主要人物として登場しているのに、ここに唐突にこの名が出現している。また准后九十賀の歌会(巻三)で、後宇多天皇、亀山院、東宮らの歌を書き記したあと、「このほかのをば、別に記し置く」とあり、別に和歌をまとめて書き置いたことが記される。また自身の出家時のことを回想し、「一年今はと思ひ捨てし折、京極殿の局より参りたりしをこそ、この世の限りとは思ひしに……」(巻四)とあるが、出家時の記述は現存の『とはずがたり』にはなく、不自然である。さらに、八幡参籠と春日社写経奉納の場面(巻五)では、それぞれ文中に脱落があり、「本のまま、ここより紙を切られて候」というような書き入れがある。
-------

いったん、ここで切ります。
「むばたまの面影は別に記しはべれば、これには漏らしぬ」は、文永十年(1273)正月、十六歳になったばかりの二条の年頭所感として出てきます。
『とはずがたり』の出来事を年表にすると、前年の文永九年は本当に忙しい年で、まず正月に後嵯峨院が重態となり嵯峨に移ると、翌二月十五日、二月騒動で北条時宗の異母兄・六波羅南方の北条時輔が討たれ、二条は嵯峨から六波羅付近に立ち上る煙を見ます。
そして二日後の十七日に後嵯峨院崩御となり、葬送儀礼が続きます。
父・雅忠は出家を願うも許されず、五月に病気になって、六月には二条の第一子懐妊が分かり、七月、後深草院が雅忠を見舞うも、翌八月三日に雅忠死去。
十月、妊娠中の二条は乳母の家で「雪の曙」実兼と契り、同月、「母方のうば」が死去。
十一月末、二条は御所を退出、醍醐の勝倶胝院に籠もりますが、十二月二十日過ぎ、後深草院御幸があり、続いて「年の残りも、いま三日ばかり」の厳寒の時期、しかも吹雪の最中に「雪の曙」の来訪となり、「今日はぐらし九献にて暮れぬ」となります。
次いで乳母が迎えに来たので京に帰ると、年が明けます。
そして、十六歳になった二条は、

-------
よろづ世の中もはえなき年なれば、元旦・元三の雲の上もあいなく、私の袖の涙もあらたまり、やる方もなき年なり。春の初めにはいつしか参りつる神の社も、今年はかなはぬことなれば、門の外まで参りて、祈誓申しつる志より、むば王の面影は、別に記し侍ればこれにはもらしぬ。

【次田香澄訳】すべて世の中も(諒聞で)晴々しくない年であるので、元日や三ガ日の宮中も味気なく、私自身の父の喪の悲しみも、新年とともに新たに思い出され、心の晴らしようもない年である。新春の初めにはいつもさっそくお参りしていた石清水八幡宮も、今年はそれがかなわないことであるから、門の外まで参って祈請申しあげた心の内をはじめ、夢想に見た面影については、別に記したのでここには書かない。

http://web.archive.org/web/20061006205728/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa1-25-yukinoakebonoraiho.htm

という感想を述べます。
「むば王の面影は、別に記し侍ればこれにはもらしぬ」は、まるで多作の流行作家が、その話は『とはずがたり』とは別の作品に書いたからそちらを見てね、とでも言っているような感じがして、田渕氏の言われるように「現存の『とはずがたり』以外の部分の存在を示唆する記述」かどうか、私は疑問を感じます。
それにしても、正月にこの感想を述べた二条は、翌二月十日頃、後深草院の皇子を出産するので、前年末、醍醐に籠もって後深草院、次いで「雪の曙」を迎え、後者とは終日酒盛りをしていた、というのは妊娠八か月の出来事です。
十五歳の初産の女性が厳寒期に醍醐のような「山深き住まひ」に行くこと自体が相当に異常な話だと思いますが、そこに夫と愛人が相次いで訪問、後者とは終日酒盛りというのはなかなかシュールな展開です。
まあ、私は『とはずがたり』は自伝風の小説と考えているので、どんなに忙しいスケジュールだろうと、どんなにシュールな展開だろうと別に困らないのですが、田渕氏は、『とはずがたり』には多少の虚構が含まれるにしても、あくまで「女房日記」という立場ですから、これらも基本的には事実の記録とされるのでしょうね。

7391鈴木小太郎:2022/02/20(日) 22:21:37
田渕句美子氏「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」(その5)
田渕氏は「また、「一昨年の春三月十三日に、初めて「折らでは過ぎじ」とかやうけたまはり初めしに……」(巻二)は「有明の月」(性助法親王)から求愛された時のことを回顧するが、こうした記述は当該箇所にみられない」と言われますが、これはちょっと不可解な記述で、田渕氏の誤解ではないかと思われます。
まず、「一昨年の春三月十三日に」云々とある部分は「女楽事件」で御所を出奔した二条が、再び醍醐の真願房のもとに行く場面に出てきます。
「女楽事件」から始めると話が長くなってしまいますが、それを話さないと訳が分からないので簡単に説明すると、建治三年(1277)三月、後深草院が『源氏物語』の六条院の女楽の真似をする行事を企画し、二条は「明石の上」という冴えない役を演ずることになります。
それだけでも不満なのに、この頃、晩年の娘「今参り」を贔屓するようになっていた二条の祖父・四条隆親が、行事の最中、二条が「今参り」の下座になるように位置の変更を要求し、屈辱を感じた二条は御所を飛び出し、行方不明になってしまいます。
ちなみに、この時、二条は後深草院の子を妊娠していて、三・四ヵ月くらいなのだそうで、子供を産んだら出家しよう、などとも考えます。

『とはずがたり』に描かれた中御門経任(その3)─「隆親の女の今参り」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9345
『とはずがたり』に描かれた中御門経任(その4)─「こは何ごとぞ」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9346
『とはずがたり』に描かれた中御門経任(その5)─「宣陽門院の伊予殿」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9347

そして二条は、何でこんなことになってしまったのだろう、と思案し、その原因を「有明の月」に求めます。

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 つくづくと案ずれば、一昨年の春、三月十三日に、はじめて「折らでは過ぎじ」とかや承り初めしに、去年の十二月にや、おびたたしき誓ひの文を賜はりて、幾ほども過ぎぬに、今年の三月十三日に、年月候ひなれぬる御所のうちをも住みうかれ、琵琶をも長く思ひ捨て、大納言かくれて後は親ざまに思ひつる兵部卿も、快からず思ひて、「わが申したることをとがめて出づるほどのものは、わが一期にはよも参り侍らじ」など申さるると聞けば、道とぢめぬる心地して、いかなりけることぞといと恐ろしくぞ覚えし。

【私訳】つくづくと思えば、一昨年の春、三月十三日に、有明から初めて「折らでは過ぎじ」という言葉があったが、去年の十二月には恐ろしい起請文のお手紙をいただいて、いくらも過ぎないうちに、今年の三月十三日、長い年月仕え慣れた御所からも出てしまい、琵琶をも一生思い切り、父大納言が亡くなってからは親のように思っていた兵部卿(隆親)も私を快からず思って、「私が申したことを咎めて出て行った者ですから、私の生きている間は、よもや御所には参りますまい」などと申されていると聞けば、どこも道が途絶えたような心地がして、いったいどうしたことだったろうと、まことに恐ろしく思われた。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9348

つまり、「一昨年の春、三月十三日」に仁和寺御室の「有明の月」(九条道家男の開田准后法助説と後深草院の異母弟の性助法親王説あり。田渕氏を含む国文学者の多くは後者)から唐突に恋の告白を受け、ちょうど二年後の「今年の三月十三日」に御所出奔という事態になったのだから、全ては「有明の月」が悪いのだ、ということですね。
ここで「有明の月」との関係を中心に少し整理すると、二条は正嘉二年(1258)生まれなので建治三年(1277)には二十歳です。
ただ、文永十年(1273)二月、十六歳のときに後深草院皇子を生み、同年末に愛人の「雪の曙」の子を妊娠して、翌文永十一年九月にその女児を産んでいるので、既に妊娠も三回目ですね。
また、「雪の曙」との間に女児が生まれた翌月には前年生んだ後深草院皇子が死去し、二条は出家行脚を思ったとありますので、出家を思い立つのもこれが二度目です。
そして建治元年(1275)三月十三日、「有明の月」が二条に言い寄ってくるのですが、このときは拒否します。
次いで同年九月、後深草院が病気となり、延命供の祈禱のために御所に来た「有明の月」と二条は関係を持ち、その後も文通を重ねるのですが、建治二年九月、「有明の月」のしつこさが嫌になって絶交を通告すると、三ヵ月後に「有明の月」から不気味な起請文が贈られてきます。
これが「おびたたしき誓ひの文」のことですね。
ということで、後深草院二条は建治三年(1277)には二十歳に過ぎませんが、既に妊娠は三回目、子供は二人(皇子は既に死去)、夫が一人で愛人二人、出家希望も二度目となかなか人生経験は豊富です。
さて、「一昨年の春、三月十三日」の様子は次の通りです。

------
 かくて三月の頃にもなりぬるに、例の後白河院御八講にてあるに、六条殿長講堂はなければ、正親町の長講堂にて行はる。結願十三日に御幸なりぬる間に、御参りある人あり。「還御待ち参らすべし」とて候はせ給ふ。二棟の廊に御わたりあり。
 参りて見参に入りて、「還御は早くなり侍らん」など申して、帰らんとすれば、「しばしそれへ候へ」と仰せらるれば、何の御用ともおぼえねども、そぞろき逃ぐべき御人柄ならねば、候ふに、何となき御昔語り、「故大納言が常に申し侍りしことも、忘れず思し召さるる」など仰せらるるも、なつかしきやうにて、のどのどとうち向ひ参らせたるに、何とやらん思ひの外なることを仰せられ出だして、「仏も心きたなき勤めとや思し召すらんと思ふ」とかや承るも、思はずに不思議なれば、何となくまぎらかして立ち退かんとする袖をさへ控へて、「いかなるひまとだに、せめてはたのめよ」とて、まことにいつはりならず見ゆる御袖の涙もむつかしきに、還御とてひしめけば、引き放ちまゐらせぬ。
 思はずながら、不思議なりつる夢とやいはんなど覚えてゐたるに、御対面ありて、「久しかりけるに」などとて九献すすめ申さるる、御配膳をつとむるにも、心の中を人や知らんといとをかし。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9483

少し長くなったので説明は次の投稿で行いますが、「何とやらん思ひの外なることを仰せられ出だして」とあるので、初対面の高僧「有明の月」がいきなり二条に恋心を告白したことは明らかです。
そして、これを受けて二条は二年後に、「一昨年の春三月十三日に、初めて「折らでは過ぎじ」とかやうけたまはり初めしに……」と言っている訳で、「思ひの外なること」と曖昧だった「有明の月」の発言が、具体的には「折らでは過ぎじ」だったと判明する訳ですね。
ただ、発言のおおよその内容は既に明らかなので、田渕氏のように「こうした記述は当該箇所にみられない」と言うのは変です。

7392鈴木小太郎:2022/02/21(月) 13:26:34
田渕句美子氏「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」(その6)
初登場の「有明の月」がいきなり二条に恋の告白をする場面、私訳も紹介しておきます。

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【私訳】このようにして三月のころともなると、例の後白河院の法華八講の法会である。六条殿の長講堂は、今は焼けてないので、正親町の長講堂で行われた。結願の十三日に後深草院が長講堂へ行かれた留守に、御所へおいでになった方(有明の月)があった。
「御帰りをお待ちいたしましょう」
と、そのままお待ちなさるということで、二棟の廊の間においでになる。
 私が参ってお目にかかり、
「間もなくお帰りになりましょう」
などと申して帰ろうとすると、
「暫くここにいなさい」
とおっしゃるので、何の御用とも分からないけれども、いいかげんなことを言って逃げてよいようなお人柄ではないので、控えていると、とりとめのない昔話の中で、
「(お父上の)故大納言が常々言っておられたことも、忘れずに思っています」
などおっしゃられるのも懐かしい気持ちがして、のどかに向かい合っていると、何であろうか、思いのほかのことを仰せ出されて、
「御仏も心汚いお勤めと思召すだろうと思う」
などと言われるのを聞くにつけても、心外で不思議であるので、何となく誤魔化して立ち去ろうとする袖をさえ押さえて、
「どんな暇にでも逢おうと、せめて約束してくれ」
とおっしゃって、本当に偽りではなさそうに見えるお袖の涙も面倒に思われたところ、院の還御とのことで騒がしくなったので、無理に引き放し申し上げた。
 思いがけないことながら、不思議な夢だったとでもいおうか、などと思いながら控えていると、院とその方が御対面となって、
「久しぶりのお出でですので」
などといってお酒をお勧めになる、その御給仕を勤めるにつけても、私の心の中を誰が知ろうかと、まことに面白かった。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9483

ちょっと細かくなりますが、『とはずがたり』の時間の流れは史実に照らすと変なことが多いものの、この場面の後、四月に長講堂の移徙の場面があって、ここは文永十二年(建治元年、1275)の出来事と考えて不自然ではありません。
六条殿の持仏堂である長講堂は、文永十年(1273)十月十二日の大火で、六条殿・六条院・佐女牛若宮八幡宮等とともに焼失します。
ただ、持明院統の経済的基盤である荘園群が長講堂領と呼ばれたように、長講堂は極めて重要な寺院なので、六条殿・長講堂は直ぐに再建が図られ、文永十二年四月十三日、後深草院が六条殿に移徙を行い、二十三日には長講堂供養が行なわれます。
その直前、四月九日に後深草院は尊号・兵仗辞退のデモンストレーションをしているので、たまたま時期が重なったとはいえ、長講堂の再建は持明院統の存在を幕府に強くアピールする効果はあったでしょうね。

2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その13)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11164

ま、私は「有明の月」が実在の人物であったかすら疑っていますが、この種の背景へのこだわりは『とはずがたり』のリアリティを支える一要素になっていますね。

「有明の月」は実在の人物なのか。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9380
三角洋一氏「『とはずがたり』解説」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9381

さて、田渕論文に戻ると、北山准后九十賀の場面で「このほかのをば、別に記し置く」とあるのは次の場面です。
ここも詳しく論じ始めるとキリがないので、紹介のみに止めます。

『とはずがたり』に描かれた北山准后(その6)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9852

また、田渕氏は「自身の出家時のことを回想し、「一年今はと思ひ捨てし折、京極殿の局より参りたりしをこそ、この世の限りとは思ひしに……」(巻四)とあるが、出家時の記述は現存の『とはずがたり』にはなく、不自然である」と言われますが、『とはずがたり』の巻三は弘安八年(1285)の北山准后九十賀で終わっていて、巻四は正応二年(1289)に始まるので、この間、丸々三年間の記事が欠落しています。
出家時の記述だけが何かの理由で「不自然」に欠落している訳ではないので、「不自然」と主張されるなら、むしろ三年分の欠落をそう呼ぶべきではないかと私は考えます。
なお、この回想は石清水八幡で後深草院と再開する場面に出て来て、これは前後の記事との関係から正応四年(1291)二月頃の話とされています。

http://web.archive.org/web/20150909225511/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa4-15-iwashimizu.htm

ところで、田渕氏は「八幡参籠と春日社写経奉納の場面(巻五)では、それぞれ文中に脱落があり、「本のまま、ここより紙を切られて候」というような書き入れがある」とされますが、この種の「書き入れ」は二箇所ではなく、巻四の一箇所を含め、合計四か所ですね。
最初は巻四で、正応二年(1289)、鎌倉で新将軍・久明親王を迎える準備をしていた平頼綱とその奥方に、適切なアドバイスをしたあげた後、

-------
 やうやう年の暮にもなりゆけば、今年は善光寺のあらましも、かなはでやみぬと口惜しきに、小町殿の、これより残りをば、刀にて破られてし。おぼつかなう、いかなる事にてかとゆかしくて。のほるにのみおぼえて過ぎ行に、飯沼の新左衛門は歌をも詠み、数奇者といふ名ありしゆへにや、若林の二郎左衛門といふ者を使ひにて、度々呼びて、継歌などすべきよし、ねんごろに申しかば【後略】

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9532

とあって、「これより残りをば、刀にて破られてし。おぼつかなう、いかなる事にてかとゆかしくて」が「書き入れ」部分です。
次に巻五で、嘉元二年(1304)、後深草院の発病を知った二条が西園寺実兼に頼んで院を見舞う場面に、「本のまま。ここより紙を切られて候。おぼつかなし。紙の切れたる所より写す」という「書き入れ」があります。

http://web.archive.org/web/20150909222841/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa5-8-gofukakusain-hatubyo.htm

三番目は後深草院崩御の後、九月十五日から東山双林寺で懺法を始めた場面に、

-------
 かり聖やといひて、料紙・水迎へさせに横川へ遣はすに、東坂本へ行きて、われは日吉へ参りしかば、むばにて侍りし者は、この御社にて神恩をかうぶりけるとて、常に参りしに具せられては、 ここよりまた刀にて切りてとられ候。かへすがへすおぼつかなし。【後略】
-------

とあって(次田香澄『とはずがたり(下)全訳注』、p404以下)、「ここよりまた刀にて切りてとられ候。かへすがへすおぼつかなし」が「書き入れ」です。
そして四番目は、全五巻の最後、「跋文」に、「本云 ここよりまた刀して切られて候。おぼつかなう、いかなることにかとおぼえて候」という「書き入れ」があります。

http://web.archive.org/web/20081224002017/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa5-19-batubun.htm

田渕氏は「八幡参籠と春日社写経奉納の場面(巻五)では、それぞれ文中に脱落があり」と言われますが、ちょっと理解しにくい書き方ですね。

7393鈴木小太郎:2022/02/21(月) 20:49:34
田渕句美子氏「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」(その7)
『とはずがたり』の巻四・巻五に計四か所、奇妙な「書き入れ」があることは、『とはずがたり』の基本的性格が「女房日記」か、それとも自伝風小説かを考える上で、私にはけっこう大事なことのように思われますが、巻五に二箇所だけと誤解されている田渕氏は、さほど重視はされていないようですね。
さて、続きです。(p47以下)

-------
 『とはずがたり』には円環的で周到な表現構造があり、最終的には作者の構想によって全体が整除されまとめられたと思うが、その母胎となった草稿は、長年にわたる、多様で断片的な記の集成であったのではないか。そうしたものがなければ、かくも長年にわたる出来事・生涯を回想した女房日記が書けるはずはない。平安・鎌倉期にもそれ以後も、女房の手元には、宮廷女房生活で必要な、日々の記録や覚書、公事・雅宴等の記録や別記など、そして公私の和歌の詠草や消息などが、常に保存・蓄積されていたに違いないのである。これは回想的な女房日記全般について言えることであるが、こうした草稿群から選ばれて推敲と編集を重ねた結果が、現『とはずがたり』に近いものではないか。脱落や流動も考えられる。一方ではすべてが事実ではなく、物語を象った表現、意図的な虚構やずらし、韜晦もある。旅の記も記録的な紀行文ではなく、虚構や説話が織り交ぜられている。
-------

田渕氏の基本的姿勢として、田渕氏は『とはずがたり』が他の「女房日記」と類似する部分を強調する傾向が強いですね。
ただ、日々の記録を淡々と記すのではなく、「円環的で周到な表現構造があり、最終的には作者の構想によって全体が整除されまとめられ」ていて、「すべてが事実ではなく、物語を象った表現、意図的な虚構やずらし、韜晦も」あり、「虚構や説話が織り交ぜられている」のであれば、仮に「女房日記」だとしても、他の「女房日記」とは相当に異質な要素を持っていそうです。
以上で第四節は終わり、第五節に入ります。(p48)

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  五 君寵と女房

 二条が後深草院御所から追われて約九年後、伏見の御所で後深草院に再会する(巻四)。そこで二条は、出家後においても、以下のように思ったことを告白している。

  思はざるほかに別れたてまつりて、いたづらに多くの年月を送り迎ふる
  にも、御幸・臨幸に参り会ふ折々は、いにしへを思ふ涙も袂をうるほし、
  叙位・除目を聞く、他の家の繁昌、傍輩の昇進を聞く度に、心を痛まし
  めずといふことなければ、……

 今は出家して諸国を旅する身だが、叙位・除目などの情報は常に入手し、宮廷社会の動向を見、栄達した人と我が身を比べては嘆いていたことが窺われる。そして院と別れた後、次の如く反芻する。巻四最後に近い部分である。

  昔より何事もうち絶えて、人目にも、「こはいかに」などおぼゆる御も
  てなしもなく、「これこそ」など言ふべき思ひ出でははべらざりしかど
  も、御心一つには、何とやらむ、あはれはかかる御気のせさせおはしま
  したりしぞかしなど、過ぎにし方も今さらにて、何となく忘れがたくぞ
  はべる。

 巻一・二では、自分が院の寵愛のもとで光輝ある女房であったことをさまざまに語る。しかしそれは一時的なもので、恐らくは生んだ皇子の夭折が決定的に影響して、結局は格別な恩顧は得られなかったことを、自ら総括している。長く続く寵幸と庇護、つまり宮廷で確固たる地位を与えられなかったことは、雅忠女を深く傷つけていたのではないか。
 『とはずがたり』巻一で、東三条院【ママ】が二条のふるまいを非難する書状を送ってきた時、後深草院は二条を擁護する長文の返事を送ったと、作者は語っている。その中で後深草院は、雅忠の遺言等にも触れて二条を自分が庇護すべきことを強調し、たとえ二条に何か問題があったとしても、「御所を出だし、行く方知らずなどは候ふまじければ、女官風情にても召し使ひ候はむずるに候ふ」と述べたと言う。下級の「女官風情」という語がここにあることは興味深い。名門の誇り高い上臈女房二条でも、庇護する家や後援者がいなければ、転落は常に起こり得たのである。しかし院は、雅忠への約束もこの言葉も守らなかった。
-------

「東三条院」は「東二条院」の誤植ですね。
「女官風情」云々は共通テストに出題された前斎宮の場面のすぐ後に登場するので、既に検討済みです。

2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その8)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11157

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 いふかひなき北面の下臈ふぜいの者などに、ひとつなる振舞などばし候ふ、などいふ事の候ふやらん。さやうにも候はば、こまかに承り候ひて、はからひ沙汰し候ふべく候ふ。さりといふとも、御所を出だし、行方知らずなどは候ふまじければ、女官ふぜいにても、召し使ひ候はんずるに候。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9433

後深草院がここまで一方的に二条に加担し、東二条院への配慮を欠いた手紙を出せば大変なトラブルに発展するはずなので、『とはずがたり』のような個性的な作品以外の堅実な史料から窺える、万事に慎重な後深草院の性格からすれば、私にはこれが史実とは思えません。
しかし、田渕氏は「しかし院は、雅忠への約束もこの言葉も守らなかった」と書かれているので、「雅忠への約束」と二条への約束はいずれも事実だと考えておられるようですね。

7394鈴木小太郎:2022/02/22(火) 12:41:47
田渕句美子氏「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」(その8)
前回投稿で「東三条院」は「東二条院」の誤植、と書いてしまいましたが、活版印刷で植字工が誤った活字を組んでしまうようなことは遥か昔の話ですから、「誤植」も死語になりつつあるのでしょうか。
『歴史評論』も、論文の著者がパソコンで作成したデータを編集者に送付する形になっていると思いますので、途中での誤変換は考えにくく、田渕氏自身が「東三条院」と書いたということですかね。
ま、それはともかく、続きです。
再び「東三条院」が登場しますね。(p48)

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 後深草院の正后東三条院【ママ】と並んで『とはずがたり』に多く登場する東御方(愔子)は、左大臣洞院実雄女、のちの玄輝門院である。後深草院後宮では妃に準ずる地位を与えられ、その寵愛は長く続き、熈仁親王のほか、性仁法親王(二品・御室)、久子内親王(永陽門院)を生む。熈仁は建治元(一二七五)年に親王宣下を受け、後宇多天皇の東宮となり、弘安一〇(一二八七)年、践祚して伏見天皇となった。
 東御方(愔子・玄輝門院)が国母・女院という最高の地位に至ったのに対して、雅忠女は、正応元(一二八八)年には前述の如く、愔子所生の伏見天皇に入内する※子に供奉する一女房であった。家柄・出自としては、東御方と雅忠女にさほどの隔たりはなく、後深草院の寵愛も一時は並ぶような二人であったのに、それは遠い昔のこととなった。こうしたことは宮廷ではしばしばあることとはいえ、玄輝門院の栄華や昔の記憶は、二条を深く苦しめたに違いない。それがまさしく「他の家の繁昌、傍輩の昇進を聞く度に、心を痛ましめずといふことなければ」にあたるとみられる。
※金偏に「章」
-------

いったん、ここで切ります。
「家柄・出自としては、東御方と雅忠女にさほどの隔たりはなく」とありますが、『とはずがたり』において、二条は東二条院とは犬猿の仲であったのに対し、東の御方とはとても仲が良かったように描かれています。
例えば巻二の「粥杖事件」では、

-------
 女房の方にはいと堪へがたかりしことは、あまりにわが御身ひとつならず、近習の男たちを召しあつめて、女房たちを打たせさせおはしましたるを、ねたきことなりとて、東の御方と申しあはせて、十八日には御所を打ち参らせんといふことを談議して、十八日に、つとめての供御はつるほどに、台盤所に女房たち寄り合ひて、御湯殿の上のくちには新大納言殿・権中納言、あらはに別当殿、つねの御所のなかには中納言どの、馬道に真清水さぶらふなどを立ておきて、東の御方と二人、すゑの一間にて何となき物語して、「一定、御所はここへ出でさせおはしましなん」といひて待ち参らするに、案にもたがはず、思し召しよらぬ御ことなれば、御大口ばかりにて、「など、これほど常の御所には人影もせぬぞ。ここには誰か候ふぞ」とて入らせおはしましたるを、東の御方かきいだき参らす。
 「あなかなしや、人やある、人やある」と仰せらるれども、きと参る人もなし。からうじて、廂に師親の大納言が参らんとするをば、馬道に候ふ真清水、「子細候ふ。通し参らずまじ」とて杖を持ちたるを見て、逃げなどするほどに、思ふさまに打ち参らせぬ。「これよりのち、ながく人して打たせじ」と、よくよく御怠状せさせ給ひぬ。

http://web.archive.org/web/20150517011437/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa2-2-kayuduenohoufuku.htm

という具合いに、東の御方が後深草院を羽交い絞めにして動けないようにした隙に、二条が後深草院の尻を粥杖で思い切りひっぱたいた、というような情景が描かれていて、二条と東の御方は、いわば女子プロレス仲間のような円満な関係ですね。
ところで、「後深草院の寵愛も一時は並ぶような二人であったのに」に付された注(10)を見ると、

-------
(10) 文永一一(一二七四)年、皇位継承への不満から、後深草院が太上天皇の尊号を返上し出家の意志を示す場面(巻一)で、お供して出家する人として「「女房には東の御方、二条」とあそばれしかば」とは記されている。
-------

とありますが、史実としては、後深草院が出家の意志表示をしたのは翌文永一二年(建治元年、1275)ですね。
ま、『とはずがたり』を信頼する田渕氏にとって、そんな「虚構」はどうでも良いことなのでしょうが。

2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その12)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11163
『とはずがたり』に描かれた後院別当の花山院通雅
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9406

さて、続きです。

-------
 二条は、後深草院から性助法親王、鷹司兼平、亀山院に何らかの契機や目的で贈与される女房であり、その自分を『とはずがたり』にあえて描く。しかし持明院統と大覚寺統の厳しい緊張関係に身をおき、日々その対立を知る二条にとって、王命に従う以外、ほかにどんな道があったろうか。その不可抗力への嘆きがあるからこそ、性助法親王を、『源氏物語』で熱愛の末に身を破滅させた柏木に象って、物語的に描くのであろう。宮廷における自分の位置を顧みた時、それは前掲のように、「人目にも、「こはいかに」などおぼゆる御もてなしもなく、「これこそ」など言ふべき思ひ出でははべらざりしかども」という、苦い真実の追認となる。
 『とはずがたり』がどれほど物語的に、時には虚構を綯い交ぜにして描かれようとも、その中心を貫くのは、雅忠女のこうした無念さ、それにつきるように思う。そしてそれは、院などの権力者に一時は寵幸されても、やがては寵愛を失った後を生きねばならない、当時の無数の宮廷女房たちの悲哀を象徴する言でもあると思われる。
-------

「二条は、後深草院から性助法親王、鷹司兼平、亀山院に何らかの契機や目的で贈与される女房」とありますが、『とはずがたり』には「有明の月」「近衛の大殿」が登場しているだけで、それが本当に性助法親王・鷹司兼平なのかは不明です。
しかし、田渕氏は、『とはずがたり』以外に裏づけとなる史料が存在しないにもかかわらず、「有明の月」「近衛の大殿」が歴史的に実在する人物と一致するものと断定されている訳ですね。
また、田渕氏は「しかし持明院統と大覚寺統の厳しい緊張関係に身をおき、日々その対立を知る二条にとって、王命に従う以外、ほかにどんな道があったろうか」と問われますが、例えば、「王命」に逆らって御所を出奔し、行方不明になって醍醐あたりに籠もる「道」もあったでしょうね。
そして、「院などの権力者に一時は寵幸されても、やがては寵愛を失った後を生きねばならない、当時の無数の宮廷女房たち」も確かに存在したでしょうが、出家後の二条は京都を離れて全国各地を旅行し、例えば霜月騒動後の恐怖政治の下にあった鎌倉でも、最高権力者である平頼綱やその奥方、息子の飯沼助宗らと楽しく交流していたようなので、二条を「当時の無数の宮廷女房たち」と一緒にしてよいのか、私は疑問を感じます。
とにかく、『とはずがたり』には「物語的に、時には虚構を綯い交ぜにして描かれ」ている部分が多すぎるので、何故に田渕氏が、『とはずがたり』を他の「女房日記」と同じ範疇に入れるのか、私には本当に不思議に思われます。

7395鈴木小太郎:2022/02/22(火) 21:28:20
田渕句美子氏「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」(その9)
いよいよ最後の部分です。(p49以下)
田渕氏も二条が美貌(自称)と教養を武器に、東国の最高権力者相手であっても堂々と振る舞い、全国各地を漫遊した活動力溢れる女性であることを認めてはいますが、どうにもその評価はしみったれていますね。

-------
 そうした無念さを通奏低音としつつも、『とはずがたり』の最大の魅力は、自ら出家して宮廷外の世界にはばたいた作者雅忠女の自由な精神とひたむきな活力にあることも、また確かである。『とはずがたり』巻四・五には断片的に書かれるのみだが、恐らく宮廷での知己や元女房たちのネットワークを縦横に駆使し、自身の知識や教養を地方の人々に伝えつつ、自ら自在に、時には誰かの命を帯びて(鎌倉下向はそうであっただろう)、はるかな国々を巡った。その果てに後深草院と邂逅して絆を繋ぎ直し、やがては院の死を悲痛に描き、再び院の分身的存在となって院の後生をひたすら祈り、『とはずがたり』は後深草院と自身の鎮魂の物語へとまとめ上げられていくのである。

 『とはずがたり』は、実に鮮やかに、女房の生涯、存在形態、意識、女房メディア、文化的役割などを語っている。女房は、宮廷社会の中で、その一員でありつつ、宮廷やその時代などを照らし出す存在となる。王権に密着し、王の分身ともなるが、時に疎外される枠外的存在である。強い家門意識をもつが、時に家からも疎外される。光があたる存在ともなり、光に寄り沿う黒子的存在ともなり、無名の影ともなる。主君に従う者でもあり、時に主君を導く者でもある。女房は、当事者であり、観察者・表現者であり、宮廷文化を共有・継承・運搬・伝達し、歴史と宮廷を語り伝え、やがては女房自身が語られる存在ともなる。
 宮廷女房文学としての『とはずがたり』には、こうした女房のすべてが流れ込み、混淆して奏でられる交響楽のような作品であると言えよう。
-------

「光に寄り沿う黒子的存在」というのは、おそらく『増鏡』巻十一「さしぐし」に描かれた、

-------
出車十両、一の左に母北の方の御妹一条殿、右に二条殿、実顕の宰相中将の女、大納言の子にし給ふとぞ聞えし。二の車、左に久我大納言雅忠の女、三条とつき給ふを、いとからいことに嘆き給へど、みな人先立ちてつき給へれば、あきたるままとぞ慰められ給ひける。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9864

という場面のことかと思いますが、この場面の理解は『とはずがたり』と『増鏡』の関係を考える上で決定的な重要性を持ちますね。
さて、以上で田渕論文の紹介を終えましたが、田渕氏は『とはずがたり』に虚構が極めて多いことを認めつつも、『とはずがたり』が「女房日記」であるという立場は頑なに死守されておられます。
他方、私自身は、『とはずがたり』のストーリーを年表に落とすと史実との間に矛盾がやたらと生じること、また、二条は弘安二年(1279)に死去した祖父・隆親の死亡時期を、『とはずがたり』では後ろに四年もずらして弘安六年(1283)の出来事のように記すこと、そしてその際、実際には死んでもいない叔父・四条隆顕も既に死んでいるように書いていることなど、肉親の死ですら平然と捏造するタフな神経の持ち主であること等から、『とはずがたり』は話を面白くするためには叔父でも殺す、徹底した自伝風小説だと考えています。

善勝寺大納言・四条隆顕は何時死んだのか?(その1)(その2)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9155
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9156
四条隆顕の女子は吉田定房室
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9164
「四条隆顕室は吉田経長の従姉妹」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9166
『とはずがたり』の年立
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9383
『中務内侍日記』の「二位入道」は四条隆顕か?(その1)(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9527
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9528

従って、私のチベットスナギツネのような目は、ある種の滑稽感とともに田渕氏の頑固さをじっと眺めているのですが、しかし、自伝風小説というのが、古代・中世の女房文学の中で、他に類例のない特異なジャンルであることも確かです。
そこで、旧サイト(『後深草院二条─中世の最も知的で魅力的な悪女について)時代の私のように『とはずがたり』を語る国文学者たちを一方的に冷笑するだけでなく、私の立場を積極的に支持してもらえるように工夫する必要があると感じています。
そのためには何をすべきか。
やはり私としては、作者が『とはずがたり』のような奇妙な自伝風小説を書いた動機をきちんと論証すべきではないか、と考えます。
この点、旧サイト時代の私には答えられない謎だったのですが、今の私は二条を西国の公家社会と東国の武家社会を自由に往還した政治的人間として捉えていて、その立場から一応の解答を提示できるのではないかと思っています。

7396鈴木小太郎:2022/02/25(金) 10:03:25
宮城往復弾丸紀行
二日投稿を休んでしまいましたが、宮城県に直接出向かなければならない用事があって、23・24日と弾丸往復して来ました。
日本海側は大雪とのニュースがあったので、往路は念のため北関東自動車道・常磐自動車道を利用したところ、沿岸部は本当に雪が全くなくて、関東の平野部と同じような感覚でした。
距離的には北関東自動車道の東側、栃木都賀JCTから友部JCTまでの70キロメートル弱ほど長くなりますが、とにかく雪の影響がないので快適ですね。
日立中央PAから眺めた海は全くの春の雰囲気で、ひねもすのたりのたり感が漂っていました。
ただ、常磐道は日立近辺のトンネル連続区間がなんだか陰気な上、福島県に入ると若干天気が怪しくなり、四倉PAあたりから少し雪が舞い始め、意外と大変かもと思ったのですが、その後は晴れたり曇ったりという感じでした。
東日本大震災後、突貫工事で全通させた常磐道のいわき・亘理間には対面通行区間がけっこうあって、一応70キロ制限ですが、実際には100キロくらい出している車が多く、ちょっと恐いですね。
ほんの少し接触するだけでも大事故間違いなしです。
途中、山元ICで降りて、阿武隈川河口の内海状になった汽水湖・鳥の海の周りを、南側の吉田排水機場から北側の「わたり温泉鳥の海」まで、ぐるっと一周してみましたが、冬枯れの寂しい光景が続いていました。
鳥の海は何だかずいぶん浅くなってしまったような感じがしましたが、単に私が干潮時の鳥の海を知らなかっただけかもしれません。
日程に余裕がなかったので、結局、沿岸部で寄ったのは鳥之海だけでした。
復路は東北自動車道を使いましたが、蔵王付近は雪雲に覆われていたものの、高速道は綺麗に除雪されていて拍子抜けなほどでした。
それでも国見SAあたりは雪捨て場の雪が山のようになってしましたが、吾妻PAより南は雪がほんの僅か残っているだけで、少し高度がある那須高原SAも雪は殆ど皆無であり、これだったら往路も東北道にすればよかったなと思ったりしました。
今回は本当に忙しい日程でしたが、夏までにもう何回か訪問するかもしれないので、その時は久しぶりに三陸方面にも行こうかなと思っています。

鳥の海
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E3%81%AE%E6%B5%B7
わたり温泉鳥の海
http://www.torinoumi.com/

7397:2022/02/25(金) 16:34:48
雑感
小太郎さん
https://www.gex-fp.co.jp/fish/blog/labo/product-development/gex-lab-20200502/
鳥の海のような汽水湖に棲息する魚は、海水と淡水の浸透圧の差をどのように調節しているのか、昔から興味があるものの、依然としてわからないままです(現在では、既に科学的に解明されているのかもしれませんが)。

『とはずがたり』より百年以上前に、『とりかへばや物語』という、すこぶる変態的な作品が書かれていて、この物語に関する著書もある河合隼雄氏は、自己言及の矛盾を突いて、真面目な話になると、きまって、私はウソしか申しません、と言っていたそうですが、『鎌倉殿の13人』を見ていて、三谷幸喜氏のモットーは、ボクはウソしか言いません、という自己言及的なシャレではないかな、と思うようになりました。

蛇足1
元俳優のゼレンスキー大統領の悲愴な姿を見ていて、信玄の死後、信玄の影武者が信玄以上に信玄的になる『影武者』(黒澤明)を思い出しました。
蛇足2
https://www.nhk.jp/p/ts/3J3Z1P6NY5/
本日の『雲霧仁左衛門5』の第7回「大奥の抜け道」では、火付盗賊改(悪党)が三つ鱗の紋服を着ていて、なるほど、これは『鎌倉殿の13人』の北条氏への嫌がらせなんだね、と思いました。時代考証は近世史が専門の故・山本博文氏ですが。

7398鈴木小太郎:2022/02/26(土) 11:56:23
「被害者としての女性史」の限界
1997年に開設し、2015年まで存続していた私の旧サイト「後深草院二条─中世の最も知的で魅力的な悪女について」は、今は「インターネット・アーカイブ」で読むことができます。

http://web.archive.org/web/20150830085744/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/

『とはずがたり』関係の参考文献は2001年までに収集したものなので、約二十年前の研究状況が凍結保存されている形ですが、今回、早稲田大学教授・田渕句美子氏の「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」(『歴史評論』850号、2021)で最近の研究状況を確認したところ、率直に言ってあまり進展はないですね。

参考文献:『とはずがたり』
http://web.archive.org/web/20150905121827/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/sankobunken-towa.htm

私にとって全くの新知識は、「物語との近接では、たとえば『小夜衣』は『とはずがたり』と共通する表現を多数有しており、『小夜衣』の作者は雅忠女かという説もある」(p45)との指摘くらいで、注を見ると、これは梅野きみ子氏「『小夜衣』の成立とその作者像─『とはずがたり』に注目して」(『小夜衣全釈 研究・資料編』風間書房、2001)という論文だそうです。
『小夜衣』は名前すら知らなかったので、少し調べてみようと思います。

『小夜衣全釈 研究・資料篇』
https://www.kazamashobo.co.jp/products/detail.php?product_id=193

ところで、田渕氏は「五 君寵と女房」において、

-------
 『とはずがたり』がどれほど物語的に、時には虚構を綯い交ぜにして描かれようとも、その中心を貫くのは、雅忠女のこうした無念さ、それにつきるように思う。そしてそれは、院などの権力者に一時は寵幸されても、やがては寵愛を失った後を生きねばならない、当時の無数の宮廷女房たちの悲哀を象徴する言でもあると思われる。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11188

と書かれていますが(p49)、結局は二条は「被害者」なのだ、『とはずがたり』は「当時の無数の宮廷女房たちの悲哀を象徴する」悲劇なのだ、という思い込みが田渕氏の限界であり、そして『とはずがたり』を扱う国文学研究者の共通の限界なのかなと私は感じます。
更にそれはフェミニズム的な「被害者としての女性史」の限界でもありますが、『とはずがたり』は本当に悲劇なのかを正面から問うことによって「被害者としての女性史」の限界を突破し、「加害者としての女性史」を開拓することができるのではないか、というのが私の展望です。

>筆綾丸さん
>『とはずがたり』より百年以上前に、『とりかへばや物語』という、すこぶる変態的な作品が書かれていて、この物語に関する著書もある河合隼雄氏

旧サイトでも河合隼雄・富岡多恵子氏の対談「キャリアウーマンの自己主張」(『物語をものがたる−河合隼雄対談集』、小学館、1994)を載せておきました。

http://web.archive.org/web/20100829220906/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/just-kawaihayao-monogatariwo-monogataru.htm

『とはずがたり』の基本的性格について、河合氏は「この物語は虚構も入っているけれども、そうとう事実を書いて」いるという立場で、富岡氏も「事実をベースにしていると思います、ほとんど」と同意していますね。
河合氏がそのように考える根拠は明確ではありませんが、「嵯峨の離宮で、後深草院と弟の亀山院と二条の三人で二夜を過ごす話」や「伏見の離宮で、五十男の近衛大殿と関係させられ」る話などに興奮している様子を見ると、結局はエロ話の「リアル」さに魂を奪われてしまった、ということだろうと思います。
河合氏も「赤裸々莫迦」タイプ、即ち作中の出来事が変態的であればあるほど、登場人物が変質者であればあるほど、作者の描写が赤裸々であればあるほど「リアル」に感じる人の一人ですね。

『とはずがたり』の「証言内容はすこぶる信頼性が高い」(by 森茂暁)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8095
「赤裸々に告白した異色の日記」を信じる歴史学者
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8097
『とはずがたり』の何が歴史学者を狂わせるのか。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9154
「有明の月」考(その5)─「赤裸々莫迦」タイプではない次田香澄氏
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9488
『とはずがたり』の妄想誘発力
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9869

7399鈴木小太郎:2022/02/27(日) 13:09:39
田渕句美子氏の方法論的限界
前回投稿で「加害者としての女性史」を開拓したいと書きましたが、これは別に女殺人鬼や女武将の研究とかではなくて、「知的で魅力的な悪女」の発掘ですね。
私は旧サイトで「中世の最も知的で魅力的な悪女について」をサブタイトルとしたように、後深草院二条が「知的で魅力的な悪女」の代表格だと思っていますが、最近の検討で、北条義時の正妻「姫の前」やその娘の「竹殿」なども決して「被害者」ではなかっただろうと、一応の根拠に基づいて主張してみました。

山本みなみ氏『史伝 北条義時』(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11081

また、赤橋登子は夫である足利尊氏の意図を熟知しながら、それを実家や北条一族に黙っていたことにより討幕に決定的に重要な貢献したと思われるので、後深草院二条と同格の「知的で魅力的な悪女」ですね。

「足利高氏は妻子を失い滅亡する可能性もあった」(by 谷口雄太氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10798

更に「悪女」とは呼びにくいものの、大宮院や遊義門院も、独自の政治的見識に基づき、持明院統と大覚寺統の対立を緩和しようと努力した女性のように思われます。

「新しい仮説:後宇多院はロミオだったが遊義門院はジュリエットではなかった。」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9893

とまあ、そんな具合にあちこち手を伸ばしていたので、出発点である後深草院二条について、自分の認識の進化はその都度、一応文章にしていたものの、必ずしも分かりやすい形で整理してはいませんでした。
そこで、たまたま共通テストで『とはずがたり』と『増鏡』が出題されたことを契機に、後深草院二条とは何者か、『とはずがたり』と『増鏡』が如何なる関係にあるか、との自説の基礎部分を改めて堅固なものにしておこう、というのが現在の私の取り組みです。
さて、田渕句美子氏の「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」(『歴史評論』850号、2021)は、『とはずがたり』研究の方法論的限界も示しているように思われます。
田渕氏は『増鏡』に「久我大納言雅忠の女」が「三条」として登場する場面に関連して、

-------
この記事は現存の『とはずがたり』にはないが、こうした無名の一女房の感懐を記すものは女房日記以外には考え難く、『とはずがたり』の散逸した部分である可能性が高いであろう。さらには、憶測であるが、この『増鏡』の入内記事の一部は、現存しない『とはずがたり』に拠ったものかもしれない。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11182

と言われていますが、「『とはずがたり』の散逸した部分である可能性」や「現存しない『とはずがたり』」まで想定した議論は検証可能性が皆無なので、学問とすら呼びにくいものです。
『とはずがたり』だけを扱っていたのでは虚構の限界の見極めは原理的に不可能で、「『とはずがたり』の散逸した部分である可能性」どころか、『とはずがたり』全体が後深草院二条が構築した仮想現実である「可能性」も排除できません。
『とはずがたり』では後深草院二条がお釈迦様であって、『とはずがたり』の研究者は絶対的支配者である後深草院二条の掌の中で右往左往しているだけ、という「可能性」もあり得る訳です。
とすると、『とはずがたり』研究が検証可能な、客観性のある学問であるためには、『とはずがたり』という作品の内部ではなく、二条が『とはずがたり』の外部の現実世界に残した痕跡を調査する必要があります。
仮に『とはずがたり』の外部で後深草院二条が何者かという客観的な手がかりが得られたなら、その手がかりから、『とはずがたり』とは何であったかを照射することが可能となるはずです。
果たしてそんな外部の痕跡は存在するのか。
私はそれが鎌倉で流行した「早歌」という歌謡に残された「白拍子三条」だと考えています。
この点、共通テスト問題の検討を始めたばかりのときに少し言及したのですが、あまりにせっかちなやり方だったので、訳が分からないと思った人が多いと思います。

『とはずがたり』の政治的意味(その1)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11153
後深草院二条の「非実在説」は実在するのか?
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11155

7400:2022/02/28(月) 21:56:17
余談
小太郎さん
鎌倉幕府の滅亡に関して、不勉強のため、赤橋登子の役割に言及した研究者を一人も知りません。

昨日の『鎌倉殿の13人』では、義経はそのへんの頭の悪そうなヤンキーのあんちゃんのようで、なんだかなあ、という感じでした。また、鎌倉における頼朝の御邸を決めるとき、義朝の亀ヶ谷旧邸を避ける理由として、頼朝が、
「亀ヶ谷は亀と同じ名だから、妾宅みたいで、ダメだろ」
とかなんとか言えば笑えたと思います。

『鎌倉殿の13人』の13という数は、いわゆる建久10年(1199)4月の「十三人の合議制」に由来するとされていますが、この時期の鎌倉殿は頼朝ではなく頼家で、しかも、同年10月、十三人の一人である梶原景時は鎌倉を追放され、翌年1月、殺害されているので、「十三人の合議制」など徒花で、政治的にほとんど機能しなかったのではないか。
ではなぜ、三谷幸喜は13という数をタイトルに入れたのか、と考えると、「十三人の合議制」を踏まえたというよりは、人数が一人足りないが、主イエスと十二人の使徒のパロディなのではないか。つまり、十二人の使徒の中にひとり裏切者がいる、イスカリオテのユダという裏切者が、と同じように、十三人の中に裏切者がいる、北条の義時(時政)という裏切者が、と言いたいのではないか。そんな気がします。

7401鈴木小太郎:2022/03/01(火) 22:09:59
国文学と歴史学の境界領域
「2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説」シリーズ全20回、田渕句美子氏「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」シリーズ全9回プラス補遺2回を踏まえ、次のステップの位置づけについて少しだけ書きます。
私は以前、田渕句美子氏の『人物叢書 阿仏尼』(吉川弘文館、2009)を読んで、

-------
参考文献に井原今朝男氏の「中世善光寺平の災害と開発」(『国立歴史民族博物館研究報告』96号、2002年)が載っていますが、「中世」がついていなければ土木工事の報告書のような、この武骨なタイトルの論文は、意外なことに阿仏尼研究のみならず後深草院二条研究にとっても必読文献です。
このあたりもきちんと押さえているのはさすがです。

http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5237

などと書いたことがあります。
ただ、「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」(『歴史評論』850号、2021)を見る限り、田渕氏が国文学と歴史学の境界領域に特に独自の見識を持たれているようにも思えないですね。
国文学者で歴史学の文献にも詳しいのは何といっても小川剛生氏で、田渕氏が井原論文を知ったのも、あるいは小川氏からかもしれません。

「小川綱志氏の教示を得た」(by 井原今朝男氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8717

しかし、小川氏には『とはずがたり』関係の専論はなく、名著『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』(中公新書、2017)においても、『とはずがたり』への言及の仕方には些か奇妙な点があります。

『兼好法師』の衝撃から三ヵ月
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9363
「有明の月」は実在の人物なのか。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9380

また、小川氏は『とはずがたり』と密接な関係がある『増鏡』の作者について、「北朝廷臣としての『増鏡』の作者─成立年代・作者像の再検討─」(『三田国文』32号、2000)から『二条良基研究』(笠間書院、2005)を経て、『人物叢書 二条良基』(吉川弘文館、2020)へと変遷を重ね、結局、旧来の通説(二条良基説)に戻ってしまったので、『とはずがたり』についても独創的な見解は期待できません。

小川剛生「『増鏡』の問題」(その1)(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10137
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10138
小川剛生「北朝廷臣としての『増鏡』の作者」(その1)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10139
「北朝廷臣としての『増鏡』の作者」の検討は中止します。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10146

私としては国文学と歴史学の境界領域の研究の進展は、国文学よりむしろ歴史学側から起こるものと予想していたのですが、率直に言ってあまり芳しい進展はなく、例えば佐藤雄基氏(立教大学教授)の「鎌倉時代における天皇像と将軍・得宗」(『史学雑誌』129編10号、2020)という論文について、

-------
「物語やイメージに対して歴史的事実を重視する傾向が伝統的な歴史学にはあったが、たとえ虚構であったとしても、いったん生まれた天皇像が、どのように変容しながら、どのように人びとにリアリティをもたせたのかが重要」として「虚構」の世界に踏み込んで行く佐藤氏の勇気を認めるにはやぶさかではないとしても、佐藤氏が何度か言及されている『増鏡』や『五代帝王物語』などの文学的な世界の複雑さを知っている私にとっては、佐藤氏があまりに無邪気で無防備であるような印象も受けました。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10516

などという感想を抱いたりしました。
結局、私としては佐藤雄基氏などよりも更に若い世代の歴史研究者(の卵)に期待したいので、そうした世代の研究者(の卵)を念頭に、『とはずがたり』と『増鏡』についてもう少し論じ、国文学と歴史学の境界領域に踏み込むケーススタディを提供することとし、併せて、そうした研究における注意点を具体的に指摘して行きたいと思います。
文学的な資料には、実証的な歴史学研究のオーソドックスな手法に馴染まないものがあり、それは特に「笑い」が含まれる文学作品に顕著です。
従来の研究者はあまりに生真面目に『とはずがたり』と『増鏡』を取り扱ってきましたが、

-------
《かりに真理を女と仮定してみよう─。どうであろう? すべての哲学者は、かれらがドグマの徒であつたかぎり、この女をば理解しなかつたと疑われてもしかたがなかつたのではないか? かれらは真理を手に入れようとするときには、つねに恐るべく厳粛にまた不器用な厚かましさを以てしたが、これこそは女を獲んがためのまさに拙劣不当な方法であつた。》

http://web.archive.org/web/20150830085744/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/

というニーチェの警句を想起する必要があります。
そして、国文学と歴史学の境界領域には、あの『太平記』が未だに深い謎を秘めて蟠踞しています。
当掲示板でも折に触れて『太平記』を検討してきましたが、これもきちんと整理して行くつもりです。

>筆綾丸さん
>赤橋登子の役割に言及した研究者を一人も知りません。

赤橋登子は南北朝史研究の盲点になっていますね。
専論としては、一応、谷口研語氏に「足利尊氏の正室、赤橋登子」(芥川龍男編『日本中世の史的展開』所収、文献出版、1997)というものがありますが、これは『太平記』の読書感想文に過ぎず、論文ではないですね。

四月初めの中間整理(その13)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10658

7402:2022/03/01(火) 22:27:04
オマケです
前回の『鎌倉殿の13人』を録画でみると、頼朝が政子に宛てた書状の末尾が、
・・・かしく
九月二十四??花押
北條乃御方?? ●
となっています。妻への手紙に、あんな厳めしい花押を記すのかなとか、北條乃御方という宛名も変だなとか、いろいろ思いながらよく見ると、●のところには、押し花(コスモス?)が、ひとつ、貼り付けてある。まるでラブレターのようで。頼朝って、マメな武将だったんだなあ、と笑えました。
付記
治承4年(1180)9月24日がどんな日だったのか、『吾妻鏡』で確認すると、來宿于石禾御厨之處、とあるので、北條時政と武田信義は、石和温泉で仲良く湯船に浸かっていたことがわかりますね。
なお、石和温泉郷はJR中央本線石和温泉駅の南にあって、開湯は1956年とのことです。

7403鈴木小太郎:2022/03/03(木) 11:14:02
若い世代向けの『とはずがたり』参考文献(その1)
今年の共通テストを受験したような世代を含め、若手の歴史研究者を一応の読者として想定した上で、『とはずがたり』の参考文献のうち、それなりに特徴のあるものを少し紹介しておこうと思います。

参考文献:『とはずがたり』
http://web.archive.org/web/20150905121827/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/sankobunken-towa.htm

まず、『とはずがたり』の位置づけ、特に『増鏡』との関係については、1938年(昭和13)に宮内省図書寮で『とはずがたり』を「発見」した山岸徳平博士の「とはずがたり覚書」(『国語と国文学』17巻9号、1940)は必読です。
八十年以上前の論文ですが、実に的確にポイントを押さえていますね。

-------
 最後に、増鏡と「とはずがたり」との関係を掲げておく。増鏡は、多く既製作品を利用したらしく、新島守の巻には遠島御百首などを襲用して居る事は、既に知られた所である。然るに「とはずがたり」との比較によると、余りにもその襲用の仕方が露骨であるのに驚く。けれども亦、前述の如く、それが却つて増鏡作者に就いて、何等かの暗示を与へる様な気もするのである。

http://web.archive.org/web/20150909232006/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/yamagishi-tokuhei-towa-oboegaki.htm

といった感想も含蓄があります。
また、エッセイですが、同じく山岸徳平の「『とはずがたり』の思出」(日本古典全書『とはずがたり』月報、1966)も、桂宮本刊行時の事情などが伺えて興味深いですね。

http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/yamagishi-tokuhei-towa-omoide.htm

国文学界で『とはずがたり』研究が一大ブームとなった後、その牽引役の一人であった松本寧至氏が一般向けに纏めた『中世宮廷女性の日記』(中公新書、1986)は、全体の内容を概観するには便利ですね。

http://web.archive.org/web/20061006211407/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/matumoto-mokuji.htm

松村雄二氏の『『とはずがたり』のなかの中世 ある尼僧の自叙伝』(臨川書店、1999)もよく纏まっています。
リンク先では引用しませんでしたが、伝本の由来などの書誌的事項が詳しいですね。

http://web.archive.org/web/20061006211155/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/matumura-yuji-binran.htm

注釈書としては、三角洋一氏の『新日本古典文学大系50 とはずがたり・たまきはる』(岩波書店、1994)は注記が詳細ではあるものの、いささか読みづらく、初心者には福田秀一氏の『新潮日本古典集成 とはずがたり』(新潮社、1978)の方がよさそうです。
もっとも、その「解説」は冒頭に、

-------
一般に、男性は同時に複数の女性に愛情を抱くことができるが、女性はただ一人の男性との変らぬ愛情を求める傾向にあり、複数の男性を同時に愛することはできないと言われる。

http://web.archive.org/web/20061006205341/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/just-fukudahideichi-kotenshusei.htm

とあるなど、ちょっと変なところもありますが。
現代語訳は冨倉徳次郎氏の『とはずがたり』(筑摩叢書、1969)が最初ですが、訳文が若干古風な上に、細かい活字が詰まっていて読みづらいですね。
旧サイトでは、私は次田香澄氏の講談社学術文庫版『とはずがたり.全訳注(上)(下)』(1987)を大いに活用させてもらいましたが、久保田淳氏の『新編日本古典文学全集47 建礼門院右京大夫集 とはずがたり』(小学館、1999)も良いですね。

http://web.archive.org/web/20150516032839/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa-index.htm

以上、国文学者の業績を紹介してきましたが、歴史学者も本当に多くの人が『とはずがたり』に言及していて、その内容は玉石混淆です。
比較的早い段階で『とはずがたり』に注目したのは網野善彦氏で、『日本の歴史10 蒙古襲来』(小学館、1974)には二箇所、『とはずがたり』の相当長い紹介があります。
また、『中世の非人と遊女』(明石書店、1994)などでも網野氏は後深草院二条を論じておられますが、正直、私は網野氏の見解にはあまり賛成できないですね。

網野善彦「得宗御内人の専権」
http://web.archive.org/web/20061006211202/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/amino-yoshihiko-tokusou-miuchibito.htm
網野善彦「中世における女性の旅」
http://web.archive.org/web/20150506024940/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/just-amino-chuseiniokeru-joseino-tabi.htm

>筆綾丸さん
>來宿于石禾御厨之處

頼朝と武田信義の関係については、私は呉座勇一氏の『頼朝と義時』の説明にけっこう納得したのですが、大河ドラマの進展に応じて、呉座氏が講談社のサイトで追加的な解説をしてくれそうですね。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/92571

7404:2022/03/03(木) 21:47:29
鎌倉殿のシロビキ
小太郎さん
https://www.sankei.com/article/20220303-GSAFKUZIMBKRRCY5N4JN2PDHN4/
呉座氏は広常の軍を大軍としていますが、本郷氏は日本書紀のパクリだと言ってますね。

プーチンのシロビキに倣って言えば、『鎌倉殿の13人』は『鎌倉殿のシロビキ』といった感じですね。

追記
----------
東京大学での現役時代、各学部の代表が集まった会議の席上で、医学部出身の森亘総長から、当時の松尾浩也法学部長に御下問があった。東京大学の総則の中と、各学部の規則の中に、ほぼ同じ文面がある。ただし語尾が少し違う。森さんは「こういう語尾の違いは法学部的には解釈が違うんでしょうね」と尋ねたのである。これに対して、松尾法学部長は開口一番、「解釈せよと言われれば、いかようにも解釈はいたしますが」と答えた。(養老孟司『ヒトの壁』74頁)
----------
松尾法学部長風に言えば、呉座説も本郷説も、要するに、解釈せよと言われれば、歴史はいかようにも解釈できますが、というようなことになりますね。

7405鈴木小太郎:2022/03/04(金) 11:39:08
若い世代向けの『とはずがたり』参考文献(その2)
前回投稿で「歴史学者も本当に多くの人が『とはずがたり』に言及していて、その内容は玉石混淆です」と書きましたが、実際には大半が「石」ですね。
例えば昨年、実証主義的歴史学の総本山ともいうべき東京大学史料編纂所の所長に就任された本郷恵子氏は、小学館の「全集日本の歴史」シリーズ第六巻『京・鎌倉 ふたつの王権』(2008)で『とはずがたり』に触れておられますが、率直に言って高校生の読書感想文レベルですね。

本郷恵子教授の退屈な『とはずがたり』論
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9361
「コラム4 『とはずがたり』の世界」(by 本郷恵子氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9362

『とはずがたり』のエロ話のように、内容がキワモノ的で他に裏付けとなる史料が存在しない話については、実証主義云々の理屈以前に、常識として極めて慎重に取り扱うべきだと私には思われますが、「院や天皇、女院、上級貴族らの私的生活の側面を語る、稀有な内容をもつ」『とはずがたり』を丸々信じ込んでいる本郷恵子氏とは、そうした常識を共有できないようです。
ま、歴史研究者に期待されるのは『とはずがたり』そのものの検討ではなく、『とはずがたり』の背景となる鎌倉後期の政治的・社会的・文化的状況の分析ですので、そうした観点から役に立つ文献を紹介することにします。
まず、二条の出自である村上源氏についての必読書は橋本義彦氏の『人物叢書 源通親』(吉川弘文館、1992)です。

「はしがき」
http://web.archive.org/web/20150830053507/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/hashimoto.htm
「村上の源氏」
http://web.archive.org/web/20150830053503/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/hashimoto-yoshihiko-murakaminogenji.htm

旧サイトを開設した1997年の時点では、鎌倉時代の通史は武家社会に偏っていて、特に鎌倉後期公家社会を理解するための基本となるべき一般書が少なく、非常に苦労したのですが、今は近藤成一氏の『鎌倉幕府と朝廷』(岩波新書、2016)など、バランスの良い本がたくさん出ていますね。

西園寺家と洞院家
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9205
「三十四年間もかけてたった三年足らずの分しか編纂できなかった」(by 近藤成一氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9209

ただ、『とはずがたり』の主要登場人物である後深草院や亀山院、西園寺実兼などを史実に即してきちんと理解するための文献となると、やはり筆頭は本郷和人氏の『中世朝廷訴訟の研究』(東京大学出版会、1995)ですね。

http://web.archive.org/web/20061006194849/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/hongo.htm

そして、森茂暁氏の『鎌倉時代の朝幕関係』(思文閣出版、1991)も重要です。

森茂暁「西園寺公衡」
http://web.archive.org/web/20150512051815/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/mori-shigeaki-saionji-kinhira.htm
森茂暁「皇統の対立と幕府の対応−『恒明親王立坊事書案 徳治二年』をめぐって−」
http://web.archive.org/web/20150515165002/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/mori-shigeaki-kotonotairitu.htm

森茂暁氏は私にとってはちょっと謎の存在で、非常に緻密な史料分析に基づく実証的研究をされている一方で、『とはずがたり』や『増鏡』の奇妙な話を全然疑わない「赤裸々莫迦」の代表格でもありますね。

『とはずがたり』の「証言内容はすこぶる信頼性が高い」(by 森茂暁)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8095
「赤裸々に告白した異色の日記」を信じる歴史学者
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8097
『とはずがたり』の何が歴史学者を狂わせるのか。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9154

>筆綾丸さん
>呉座氏は広常の軍を大軍としていますが、本郷氏は日本書紀のパクリだと言ってますね。

ご紹介の「本郷和人の日本史ナナメ読み」、日本書紀云々はあまりに唐突で、ちょっと賛同し難い内容ですね。
呉座勇一氏は『頼朝と義時』(講談社現代新書、2021)において、「野口氏の研究を参照しつつ、私見を交えて広常の実際の行動を復元してみよう」(p61)とし、結論として「二万とも言われる大軍(延慶本『平家物語』は一万とする)も最初から広常が率いていた軍勢ではなく、目代を討ち上総の武士たちを広範に糾合した結果と思われる」(p63)と言われていますが、正確な人数はともかく、広常が大軍を集めたこと自体を疑う必要はないと思います。
ただ、その大軍が広常直属の配下であれば、寿永二年(1183)十二月に広常が暗殺された際、特に混乱が生じなかった理由を説明しづらくなりますが、あくまで一時的に広常が「広範に糾合した結果」の「大軍」だとすれば、広常暗殺後の状況も理解可能ですね。

7406鈴木小太郎:2022/03/04(金) 20:35:12
teacup掲示板の終了について(2022年8月1日付)
本日、運営会社から「【重要】teacup. byGMOのサービス終了について」との告知がありました。

-------
長年にわたりご愛顧いただきましたteacup.ですが、2022年8月1日(月)13:00をもちまして、
サービスを終了させていただくこととなりました。
-------

とのことです。
ネットでの交流の手段として掲示板が賑わった時代も遠くなり、廃止はやむをえないものとして受けとめたいと思います。
今後の対応と過去の投稿の取り扱いについては、まだ終了まで時間があるので、ゆっくり検討するつもりです。
なお、私自身の投稿は従来からgooブログの「学問空間」で保管しています。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin

7407:2022/03/04(金) 23:22:24
八朔
小太郎さん
8月1日といえば、『吾妻鏡』に、
----------
寳治元年(1247)八月大一日辛巳。恒例贈物事可停止之由。被觸諸人。令進將軍家之條。猶兩御後見之外者。禁制云々。
----------
とあり、武家社会における八朔の儀式に関して、たぶん、いちばん古い記述ではないかと思われますが、前々月、時頼が三浦氏を滅ぼしたことを考えると、質素な母・松下禅尼譲りの倹約令という以上の政治的な意味があったのでしょうね。

7408鈴木小太郎:2022/03/06(日) 10:44:53
若い世代向けの『とはずがたり』参考文献(その3)
田渕句美子氏の「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」(『歴史評論』850号、2021)には、何が何でも『とはずがたり』を「女房日記」の範疇に閉じ込めておきたい、という強い意志が感じられます。
しかし、そのような田渕氏ですら、

-------
 そうした無念さを通奏低音としつつも、『とはずがたり』の最大の魅力は、自ら出家して宮廷外の世界にはばたいた作者雅忠女の自由な精神とひたむきな活力にあることも、また確かである。『とはずがたり』巻四・五には断片的に書かれるのみだが、恐らく宮廷での知己や元女房たちのネットワークを縦横に駆使し、自身の知識や教養を地方の人々に伝えつつ、自ら自在に、時には誰かの命を帯びて(鎌倉下向はそうであっただろう)、はるかな国々を巡った。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11189

と書かれているように、『とはずがたり』と普通の「女房日記」の決定的な相違は、作者の二条が京都を離れ、「宮廷外の世界にはばたい」た点ですね。
普通の「女房日記」の作者は人生の大半を京都で過ごし、遠出といってもせいぜい京都近郊の寺社巡り程度ですが、二条の行動範囲は畿内を遥かに超え、東国は鎌倉・武蔵・信濃、西国は讃岐・(若干疑わしいものの)土佐・備後にまで及んでいます。
そして田渕氏ですら「時には誰かの命を帯びて(鎌倉下向はそうであっただろう)」と書かざるをえないように、二条の旅の少なくとも一部は政治的性格を持っていますね。
歴史研究者に期待したいのは、二条が唯一の証人であるエロ話にハーハー興奮して愚にもつかない読書感想文を書くことではなく、『とはずがたり』を素材の一つとして、朝廷と幕府、公家社会と武家社会、東国と西国の関係を解明することですね。
その手がかりとして最初に押さえておくべき文献は土谷恵氏「東下りの尼と僧 」(『新日本古典文学大系月報』52、岩波書店、1994)です。
土谷氏は、

-------
 二条の父は久我通光の子雅忠。この父方の一族には鎌倉に下った人物ががなりいた。その一人が醍醐寺の僧親玄である。親玄は久我通忠の子で、二条の従兄弟にあたる。親玄は鎌倉滞在中の正応五年二月から永仁二年(一二九四)十二月に至る日記を残しており、この『親玄僧正日記』が『とはずがたり』に近い世界を描いているのが注目される。

http://web.archive.org/web/20150115015021/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/tsuchiya-megumi-azumakudari.htm

といった具合に二条の父方に着目されていますが、二条の母方・四条家も鎌倉との関係が深い一族です。
二条の祖父・隆親は後妻として足利義氏の娘(近子?)を迎え、二人の間に生まれた隆顕が嫡子となりますが、後に隆顕は父と不和となり出家してしまいます。
『とはずがたり』では隆顕は隆親に先だって死んだことになっていますが、出家後の隆顕(法名・顕空)は実際にはかなり長生きして、鎌倉との間を頻繁に往復していたようですね。
この点を最初に指摘されたのは黒田智氏の「「鎌倉」と鎌足」(『鎌倉遺文研究? 鎌倉期社会と史料論』、東京堂出版、2002)という論文です。

田渕句美子氏「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」(その9)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11189
善勝寺大納言・四条隆顕は何時死んだのか?(その1)(その2)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9155
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9156
二人の「近子」(その1)〜(その4)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10212
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10213
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10214
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10215

四条家については角田文衛氏の『平家後抄.上・下』(朝日選書、1981)が基本的な文献となります。

http://web.archive.org/web/20150909222856/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/just-tunoda-heike.htm
角田文衛「女院の動静」・「金仙院−建礼門院の末年−」
http://web.archive.org/web/20150618013545/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/tunoda-bunei-nyoinnodosei.htm

また、「乳父」という観点から四條家に詳細な検討を加えたものとして、秋山喜代子氏「乳父について」(『史学雑誌』99編7号、1990)という論文があります。

http://web.archive.org/web/20150618013530/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/akiyama-kiyoko-menoto.htm

後醍醐天皇の側近で『増鏡』の最終場面に登場する四条隆資は隆顕の孫ですが、隆資については平田俊春氏に「四條隆資父子と南朝」(『南朝史論考』、錦正社、1994)という論文があります。

http://web.archive.org/web/20130216013805/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/just-hirata-toshiharu-godaigotennouto-kameyamatennou.htm

>筆綾丸さん
八朔以降も何らかの形で意見交換の場を持ちたいと思っていますが、何かご希望があればお聞かせください。
ま、急ぐ話ではありませんが。

7409鈴木小太郎:2022/03/07(月) 16:01:02
若い世代向けの『とはずがたり』参考文献(その4)
二条の父方、村上源氏の話に戻ると、二条は村上源氏の中でも久我家出身であることを頻りに強調・自慢します。
例えば鷹司兼平に比定されている「近衛大殿」は、

-------
村上天皇より家久しくしてすたれぬは、ただ久我ばかりにて候。あの傅仲綱は、久我重代の家人にて候ふを、岡屋の殿下、ふびんに思はるる子細候ひて、『兼参せよ』と候ひけるに『久我の家人なり、いかがあるべき』と申して候ひけるには、『久我大臣家は、諸家には准ずべからざれば、兼参子細あるまじ』と、みづからの文にて仰せられ候ひけるなど、申し伝へ候。

http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9351

などと言う訳ですが、実際には久我家の内情はかなり大変でした。
というのは、二条の祖父・通光が遺言で家産を全て後妻(三条尼・西蓮)に譲ってしまった結果、遺族の間で大変な相続争いが生じていたからです。
その様相は岡野友彦氏の『中世久我家と久我家領荘園』(続群書類従完成会、2002)に詳しいのですが、私の旧サイトでは久我家文書を所蔵する國學院大學で行われた展示会の図録『特別展観 中世の貴族〜重要文化財久我家文書修復完成記念〜』(1996)から若干の引用を行いました。

http://web.archive.org/web/20150906221551/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/kogakeryou.htm
「久我家根本家領相傅文書案」
http://web.archive.org/web/20090608141042/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/kogake-konponkaryo.htm

また、二条は祖父・通光が太政大臣だったことも頻りに強調しますが、源通親の嫡子であった通光は若年から極めて順調に出世したものの、承久の乱に加担した結果、承久三年(1221)七月、三十五歳で内大臣を辞し、その後は実に四半世紀もの間、散位のままです。
そして寛元四年(1246)十二月、突如として太政大臣に任ぜられ、従一位に叙せられますが、これは同母弟の土御門定通が後嵯峨天皇践祚に貢献した論功行賞の一端であって、通光の政治的力量とは全く無関係であったことは明らかです。

土御門定通が処罰を免れた理由(再論)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11086
「我又武士也」(by 土御門定通)の背景事情
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10241

結局、鎌倉期においては「村上天皇より家久しくしてすたれぬは、ただ久我ばかり」、「久我大臣家は、諸家には准ずべからざれば」などという実態は全くなく、通親子孫の村上源氏の中でも久我家は傑出した存在ではないですね。
『とはずがたり』を見ると二条の父・雅忠は通光の後妻との関係が悪くもなかったようで、経済的にもさほどダメージはなかったのかもしれませんが、『公卿補任』では雅忠の家名は「久我」ではなく、一貫して「中院」と記されています。
ということで、『とはずがたり』で語られる久我家像は相当に潤色されたものですね。
とはいっても、通親子孫の村上源氏は、全体としてみれば公家社会の中で相当高い家格を維持していたことは確かであり、しかも、この一族には鎌倉初期から朝廷と幕府の間をつなぐ、一種の外交官的役割を担った人物が多いですね。
その代表格は土谷恵氏が挙げる宗尊親王側近の土御門顕方ですが、通親子孫には武家社会との通婚関係も目立ちます。
この点、分析に若干の粗さがあるものの、鈴木芳道氏の「鎌倉時代における村上源氏の公武婚」(『鷹陵史学』31号、2005)という論文が参考になります。

https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/OS/0031/OS00310R137.pdf

また、最近、北条義時の正室「姫の前」を調べていて気付いたのですが、義時と離縁後に京都で歌人・源具親と再婚した「姫の前」は源輔通という人物を産んでいて、この人の女子は雅忠の後室となり、『とはずがたり』にも「大納言の北の方」「まことならぬ母」として登場しています。
そして輔通の異母弟には小野宮禅念という僧侶がいて、禅念は親鸞の娘覚信尼の後夫であり、その息子が浄土真宗の歴史の上では極めて重要な人物である唯善なのですが、驚いたことに唯善は「大納言雅忠の猶子」です。

「姫の前」、後鳥羽院宮内卿、後深草院二条の点と線(その1)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10174
源具親の孫・唯善(大納言弘雅阿闍梨)について
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10193
今井雅晴氏「若き日の覚如」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10195
本郷和人氏『北条氏の時代』について
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10981

『とはずがたり』だけ読んでいると、二条が出家後に関東に向かうのはずいぶん唐突な展開のように見えますが、通親子孫の村上源氏の動向、そして二条自身の周辺の人間関係を見ると、二条と関東の間には様々な結びつきがあったようですね。
さて、『とはずがたり』に虚構が含まれること自体は多くの国文学者の共通認識ですが、しかし、どの部分は真実で、どこからどこまでが虚構なのか、という区分についての認識は千差万別です。
そもそも『とはずがたり』だけを扱っていたのでは虚構の限界の見極めは原理的に不可能で、『とはずがたり』研究が検証可能な、客観性のある学問であるためには、『とはずがたり』という作品の内部ではなく、二条が『とはずがたり』の外部の現実世界に残した痕跡を調査する必要があります。

田渕句美子氏の方法論的限界
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11193

この観点から見て、最も重要な文献は外村久江氏の『鎌倉文化の研究−早歌創造をめぐって』(三弥井書店、1996)です。
外村氏は同書の「第四章 早歌の撰集について−撰要目録巻の伝本を中心に」において、早歌に「源氏」「源氏恋」という曲があること、そしてその作者は「白拍子号三条」であることを指摘された上で次のように書かれています。

-------
早歌の撰集とほぼ同時代の『とはずがたり』に作者二条は後深草・亀山両院の小弓の負け態として、この六条院の女楽の場をまねて、二条は琵琶をよくしていたから、明石の君になって琵琶をひくという記事がある。これは、建治三年(一二七七)の事になっているが、『とはずがたり』は嘉元四年(一三〇六)著者四十九才までの記載が見られ、この頃の作品といわれている。六条院の女楽のまねごとが、事実談であるか、或いはフィクションかは不明にしても、とにかく、当時源氏物語を代表する場面として、人気があって、歌謡化などにも格好のものであったことが知られる。増鏡にはこの二条が後に三条と改名させられていることがあって(山岸徳平氏『とはずがたり』解題)、白拍子ではないが、同じ三条であることは不思議な符合である。

http://web.archive.org/web/20150918011404/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/just-tonomura-hisae-shirabyoshisanjo.htm

7410鈴木小太郎:2022/03/08(火) 14:45:55
若い世代向けの『とはずがたり』参考文献(番外)
※teacup掲示板が8月1日に終了予定であることを受けて、今後、私自身の掲示板投稿にリンクを張る場合には、当掲示板ではなくgooブログ「学問空間」の記事の方に行うこととします。


早歌研究は外村久江氏(東京学芸大学名誉教授、1911生)を中心にして一時は相当な活況を呈したのですが、外村氏の業績をまとめた『鎌倉文化の研究−早歌創造をめぐって』(三弥井書店、1996)の出版以降、残念なことに研究の進展はあまりないようです。
中世芸能・歌謡史については、例えば辻浩和氏の『中世の〈遊女〉─生業と身分』(京都大学学術出版会、2017)のように相当の深化が窺えますが、辻著でも早歌への言及は僅少ですね。

https://www.kyoto-up.or.jp/books/9784814000746.html

早歌は作品の数が少ないので、国文学や芸能史研究者からは既に研究し尽くされた分野と見做されているのかもしれませんが、作者とその周辺については歴史学の観点からの更なる解明が必要ではないか、と私は考えます。

辻浩和氏『中世の〈遊女〉─生業と身分』へのプチ疑問
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/aeef36b4177bef0d976fa1233363983b
『中務内侍日記』の「二位入道」は四条隆顕か?(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c5850662f4868da45f2944b72d381680
「女工所の内侍、馬には乗るべしとて」(by 中務内侍・高倉経子)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5b8c78ee2ad80ffe5eaf7137aaa9dee3
「夏のバカンスの北欧旅行から帰国して」(by 服藤早苗氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1421478cb6ceddbfc75dcba9cb949a12

さて、あまり注目されていませんが、『とはずがたり』と『徒然草』の登場人物はけっこう重なっています。
例えば「粥杖事件」で後深草院を羽交い絞めにし、二条に後深草院の尻を思う存分打たせた「東の御方」(玄輝門院)は、老いても記憶力抜群の知的な女性として(33段)、二条が父・雅忠の弔問に来なかったとして筆誅を加えている「堀川相国」基具は「美男の楽しき人」として(99段)、二条の祖父・「久我相国」通光は水を飲むにも一家言のある面倒くさい人として(100段)、二条の母方の祖父「四条大納言隆親卿」は「乾鮭といふものを、供御に」提供して非難される人として(182段)、二条の宿敵・東二条院は「竹谷乗願坊」へ仏教に関する真摯な質問をする思慮深い女性として(222段)、「北山太政入道殿」西園寺実兼は「さうなき包丁者」である「園の別当入道」のもったいぶった態度を批判する謹厳な人として(231段)、それぞれ『徒然草』に登場します。

http://web.archive.org/web/20150502075515/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-ture-33-imanodairi.htm
http://web.archive.org/web/20150502062113/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-ture-99-horikawano-shokoku.htm
http://web.archive.org/web/20150502055446/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-ture-100-koganoshokoku.htm
http://web.archive.org/web/20150502065633/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-ture-182-sijotakachika.htm
http://web.archive.org/web/20150502065658/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-ture-222-takedaninojoganbo.htm
http://web.archive.org/web/20150502065708/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-ture-231-sononobettonyudo.htm

こうした『とはずがたり』でお馴染みの人物の中でも、特に興味深いのは『とはずがたり』の最終場面、跋文の直前で二条と和歌の贈答を行う久我通基です。
久我通基(1240-1309)は「久我相国」通光の孫、二条にとっては十八歳上の従兄ですが、二条との歌の贈答は徳治元年(1306)の出来事と考えられているので、通基は六十七歳ですね。
しかし、『徒然草』では「久我の前の大臣」通基は精神を病んだ人として第195段に登場します。

-------
 ある人、久我縄手を通りけるに、小袖に大口着たる人、木造りの地蔵を田の中の水におしひたして、ねんごろに洗ひけり。心得がたく見るほどに、狩衣の男二三人出で来て、「ここにおはしましけり」とて、この人を具して去にけり。久我内大臣殿にてぞおはしける。
 尋常におはしましける時は、神妙にやんごとなき人にておはしけり。

http://web.archive.org/web/20150502062113/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-ture-99-horikawano-shokoku.htm

旧サイトでは、私は兼好法師が『とはずがたり』を読んでいて、その虚偽に憤りを覚え、二条さん、気の狂った従兄弟と歌の贈答をするなんて、随分器用なことをなさいますね、と冷笑しているのではないか、と考えてみました。
そこで、兼好法師の周辺をいろいろ探ってみたのですが、金沢北条家との関係で二条の「社会圏」と兼好の「社会圏」は重なるな、ということが確認できただけで、結局、あまりすっきりしないまま検討を中断してしまいました。
ま、中途半端で終わってしまった原因は、私が当時の通説であった風巻景次郎説(「家司兼好の社会圏」)を一歩も超えることができなかったからなのですが、この風巻説を根本から覆した小川剛生氏の『兼好法師 徒然草に記されなかった真実』(中公新書、2017)は、私にとって本当に衝撃的な本でした。
小川氏が解明された兼好の実像は武家社会と公家社会のはざまに生きる情報ブローカーみたいなものですが、ある意味では二条も同じタイプの人ではないか、というのが私の考え方です。
もちろん、二条が活動していたのは兼好などより遥かに上層の世界ではありますが。
以上、私の特別な関心から小川著に言及しましたが、小川著は国文学と歴史学の境界領域に踏み込んだ画期的業績ですので、是非読んでいただきたいと思います。

『とはずがたり』と『徒然草』に登場する久我通基
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bbca183556381323530d10235e6a82a0
『とはずがたり』・『増鏡』・『徒然草』の関係について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/62535f75170a4e3aae07abc9d453aee1
『兼好法師』の衝撃から三ヵ月
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9f8a40b01d861705b1c8291f30001971

7411キラーカーン:2022/03/09(水) 00:35:55
re: teacup掲示板の終了について(2022年8月1日付)
一度ネット上に情報がアップされると半永久的に残るとの恐れから、法律学では

「忘れられる権利」

というものも取りざたされているのですが、日本でも、ネット上の主流ツールが
ホームページ・掲示板→ブログ→SNS
と推移する際に、データが引き継がれず、「逸文」としてウェブアーカイブなどに
かろうじて保存されているという事も珍しくないので、

ネット上のデータが半永久的に残るというのも、意外とあてにならない

というのかもしれません。
(恐らく、この掲示板以外では、「キラーカーン」名義での私の投稿も、
 現時点ではネット上には殆ど残っていないでしょう。)

7412:2022/03/09(水) 12:00:18
レテの川底の消しゴム
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%98%E3%82%8C%E3%82%89%E3%82%8C%E3%82%8B%E6%A8%A9%E5%88%A9
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%BC_(%E6%98%A0%E7%94%BB)
アーノルド・シュワルツェネッガー主演『イレイザー(Eraser)』(1996)という映画がありましたが、欧州司法裁判所は吊橋の上でもピョンピョン渡るウサギのようで、我が国の最高裁判所は石橋の前でもビクビク後退るカメのようで、彼我の権利意識の差をいつも感ずるものですが、歴史上の人物には「忘れられる権利」は認められないものでしょうか。
たとえば、大河ドラマの北条義時なんかも、もういい加減で忘れてくれよ、歴史家たちのメシのタネにされるのはウンザリだぜ、と草葉の陰で嘆いているかもしれません。

7413鈴木小太郎:2022/03/10(木) 13:58:55
『とはずがたり』の政治的意味(その2)
「2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その7)」の後、筆綾丸さんの投稿に金沢貞顕が出て来たことをきっかけとして、2月7日に私は突如として、

『とはずがたり』の政治的意味(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8bb6604fe41c778bbff02b322540603e

という投稿をしてしまったのですが、共通テスト以降に当掲示板に来られた人にとっては訳が分からない展開だったはずです。
しかし、「2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説」シリーズ全20回、田渕句美子氏「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」シリーズ全9回プラス補遺2回、更に「若い世代向けの『とはずがたり』参考文献」シリーズ全4回プラス補遺1回を読まれた方には、上記投稿で金沢貞顕の周辺を探った私の意図も理解していただけるのではないかと思います。
とにかく『とはずがたり』だけを扱っていたのでは、一体どこまでが事実に基づいていて、どこからが虚構の世界のなのかの見極めは原理的に不可能です。
『とはずがたり』研究が検証可能な、客観性のある学問であるためには、『とはずがたり』という作品の内部ではなく、二条が『とはずがたり』の外部の現実世界に残した痕跡を調査する必要がありますが、私はそれが鎌倉で流行した早歌という芸能であり、「源氏」「源氏恋」の作者である「白拍子三条」は二条の隠名であろうと考えています。

田渕句美子氏の方法論的限界
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e561cd5f2b6ad2e0750379f3cfb62e71

先に外村久江氏の「増鏡にはこの二条が後に三条と改名させられていることがあって(山岸徳平氏『とはずがたり』解題)、白拍子ではないが、同じ三条であることは不思議な符合である」(『鎌倉文化の研究』、p292)という文章を紹介しましたが、外村氏はこれに続けて、

-------
この作者は女西行を理想として、各地を旅行したが、鎌倉にも来て、平頼綱入道の奥方の為に五衣の調製の指導をしたり、新将軍久明親王の為の御所のしつらいの助言等をしている。その際は身分や名を秘し、ただ京の人といって出かけている。鎌倉入りは既に尼となった正応二年(一二八九)の事で、早歌の最初の撰集時期と重なっている。早歌には生みの親とも考えられる明空は極楽寺の僧侶ではなかったかとみられるが、彼女の鎌倉入りはこの寺に真っ先に入って、僧の振る舞いが都に違わず、懐かしいという感想を述べている。以上のことや音楽・文学の才能の点から、或女房としてはふさわしい人のようであるが、口伝の白拍子号三条の朱書きとどう結びつけるかが難しい。白拍子にも高貴にはべって才能の豊かな人もいた時代だから、今は朱書きを信ずることにしておきたい。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/668f1f4baea5d6089af399e18d5e38c5

と書かれています。
「白拍子三条」が作詞作曲した「源氏恋」は次のような作品ですが(『日本古典文学大系44 中世近世歌謡集』、岩波書店、1959、p73以下)、早大本にだけ「或女房」の横に「白拍子号三条」の朱書があります。

-------
源氏恋(げんじのこひ)

好しとても善き名も立たず 苅萱のやいざ乱れなん しどろもどろに藤壺の 何(いか)なる迷ひ成りけん 浮き名も消えなで薄雲の 浮き立つ思ひの果(はて)よさは 立ち舞ふべくもあらぬ身の 紅葉の賀の夕ばへに 頭の中将の匂ひも 人より異(こと)に見ゆれども 花の傍(かたはら)の深山木(みやまぎ)と押されしも さすがにいかが思(おぼ)しけん 袖うち振りし御返し 起居(たちゐ)につけて憐と 詠ませ給ひけんもわりなし 此(この)朧月夜の内侍の督(かみ)や さりや何(いづれ)に落ちけん 涙の色ぞおぼつかなと 疑はせ給ひたりけん 朱雀院(しゆざくゐん)の問ひし御(おん)心 恥ぢてもいかが恥ぢざらむ 女三(によさん)の宮の柏木も 薫の行末(ゆくへ)と思へば 更に疎(うと)みも終(は)てられざりけり 浮舟の匂兵部卿(にほふひやうぶきやう)の宮 橘の小島が崎に 船指し留めて契りけん 河より遠(をち)の御(おん)住まひ いと浅からずとや覚ゆる

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a90346dc2c7ee0c0f135698d3b3a58fd

また、「源氏」は六条院の女楽をテーマとする作品であり(日本古典文学大系44 中世近世歌謡集』、p79以下)、『とはずがたり』の「女楽事件」を連想させます。
こちらも早大本にだけ「或女房」の横に「白拍子号三条」の朱書があります。

-------
源氏

藻塩草書き集めたる其の中に 紫式部が筆の跡 疎(おろそ)かなるは無しやな 六条の院の女楽(をんながく) 伝へて聞くも面白や 比(ころ)は正月(むつき)の廿日(はつか)の空 咲(をか)しき程に成り行くに 御前(おんまへ)の梅も盛りに 大方の花の木どもも 皆(みな)気色ばみ霞み渡れるに 伏待(ふしまち)の月差し出でて 先づ女(によ)三の宮を見奉れば 人より殊に小くて 桜の細長(ほそなが)に 柳の糸の様(さま)したる 御髪(みぐし)は溢(こぼ)れ懸りて 琴(きん)弾き給ふ御(おん)姿 鶯の木(こ)伝ふ羽風にも 乱れぬべくぞ覚ゆる 女御の君は今少し 匂ひ加はれる様して 箏(しやうのこと)をぞ弄(まさぐ)り給ひし 咲(さ)き溢(こぼ)れたる藤の側(かたはら) 双(ならび)無き朝ぼらけを見る心地す 紫の上は葡萄染(えびぞめ)にや 色濃き小袿(こうちぎ)に 蘇芳(すはう)の細長をぞ着給ふ いと声花(はなやか)に和琴(わごん)を 気高くこそは掻き立つれ 花と言へば桜に喩(たと)へても 猶物より異(こと)に見ゆるに 並(な)べてにはあらぬ御(おん)辺(あた)りに 明石は気押(けおさ)るべけれども いとさしも非ず玩(もてな)して 高麗(こま)の青地の錦の 端(はし)刺したる茵(しとね)に 琵琶を打ち置きて唯(ただ)けしきばかり引き懸けて たをやかにつかひなしたる撥(ばち)のもてなし 五月(さつき)待つ花橘の花も実も 共に押し折りたる喩へは 何(いづ)れにもいかが下されむ
-------

>キラーカーンさん
>筆綾丸さん
過去投稿は保管場所を一応確保しているので、若干の手間はかかるものの、そちらに移せばよいだけなのですが、問題は今後ですね。
長年使い慣れた掲示板という形式には愛着があり、他の掲示板運営業者に引っ越すというのが一番良い選択肢かと思うのですが、全体的に先細りの傾向は否めないので、引っ越した先でまたまた終了という懸念もありますからねー。

7414:2022/03/12(土) 12:21:21
シニカルな女
小太郎さん
「とはずがたり』だけを扱っていたのでは、一体どこまでが事実に基づいていて、どこからが虚構の世界のなのかの見極めは原理的に不可能です。」
要するに、ゲーデルの不完全性定理ということですね。

白拍子三条の「源氏の恋」は、江戸期の大田蜀山人の狂歌にも似て、かなり辛辣なイロニーを含んでいますね。
たとえば、
苅萱のやいざ乱れなん しどろもどろに藤壺の
は、光る君を拒もうと思えば拒めたのに、藤壺は、いやぁねえ、自分から乱れたんじゃないの、とからかっていて、
また、
恥ぢてもいかが恥ぢざらむ 女三の宮の柏木も
は、父・朱雀院の遺戒も守れない女三宮を、ちょっと頭が軽いんじゃないの、と小馬鹿にしていますね。
このシニカルな精神、まさに後深草院二条のものだなあ、と思います。

7415鈴木小太郎:2022/03/12(土) 15:29:29
『とはずがたり』の政治的意味(その3)
昨日は久しぶりに外村久江氏の『鎌倉文化の研究─早歌創造をめぐって─』(三弥井書店、1996)を読み直してみたのですが、国文学と歴史学の境界領域に国文学の側から踏み込んだ画期的業績という点では、同書は小川剛生氏の『兼好法師 徒然草に記されなかった真実』(中公新書、2017)に先行する名著ですね。
外村久江氏は1911年生まれで、リンク先ブログには、

-------
国文学者。(1911年ー1994年8月6日)
函館市生まれ。1934年東京高等女子師範学校文科卒、1941年東京文理科大学国史学科卒。東京学芸大学助教授、教授、75年定年退官、名誉教授。1993年度志田延義賞を養女・外村南都子との共著『早歌全詞集』で受賞。

https://d.hatena.ne.jp/keyword/%E5%A4%96%E6%9D%91%E4%B9%85%E6%B1%9F

とあります。
『鎌倉文化の研究』の奥付には何故か没年が記されていませんが、外村南都子氏の「あとがき」によれば、

-------
 本書は、故外村久江(養母、叔母)の鎌倉文化に関する論文のうち、前著『早歌の研究』(至文堂 昭和四十年)の前後に発表された主な論文を集めたものである。
 論文の選択と構成・配列、書名・篇名の決定、序説・結語などの執筆と追加、内容の訂正・加筆(大体、字句の訂正や不明だった点の後の解明による訂正にとどまる)は、生前、本人によって行われた。長年にわたる発表のため、論文によって表記・文体に変化があり、少しでも読みやすくしたいという意向にしたがって、表記や表現の一部を、最近発表のものになるべく統一するように改めた。また、引用の早歌の詞章や秘伝書の本文、加注、原論文の明らかな誤植の訂正なども、主として私が行なった。
-------

とのことで(p505)、1994年没で間違いないのでしょうね。
同書で「白拍子号三条」について考察された「第四章 早歌の撰集について−撰要目録巻の伝本を中心に」などは1967年の論文ですから、実に半世紀以上前の業績です。

http://web.archive.org/web/20150918011404/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/just-tonomura-hisae-shirabyoshisanjo.htm

しかし、歴史学界と切り離された独自の小宇宙に住む国文学村の普通の住民と違って、外村氏は本当に幅広く歴史学の文献を読み込まれている方で、今読んでもさほど古さを感じさせません。
そして歴史学研究者で早歌の分析に取り組んでいる人は皆無(?)なので、結局、今でも早歌に関しては外村氏の研究が最高水準を維持していることになりますね。
さて、早歌は鎌倉で生まれた武家社会の芸能で、明空(月江)という人物が創始者であり、かつ大成者です。
明空の出自は不明ですが、生年はおよそ寛元三年(1245)前後と推定されています。
そして、明空が正安三年(1301)に執筆した『撰要目録』という早歌の曲名、作詞・作曲者リストの序文には、

-------
  序

 夫れ当堂の郢曲は、幼童の口にすさみ、万人の耳にさへぎるたぐひ、様々多しと雖も、愚老が撰び集むる曲、すべて其軸十巻を定め、其歌百の数を究む。この内二十余首は愚作の外なり。即ち其作者の名字をたどるたどる記す。これ或は貴命により、或はうたた聞き及ぶ所、耳に留り、故ある品を先として都鄙の玩び、巷の説をも嫌はざれば、定めて誤りもあり、本説もおぼつかなく、浮ける事多くして、後のそしりのがれ難かるべし。況や自ら求め、外を伺はざれば、はかなき筆の迷ひ愚かにして、猶拙き余りあるべき物なり。ただ老耄鳩杖のたづき無く、幼稚竹馬のいとけなきを知らせんためなれば、むねむねしく言ひたつるに及ぶべからず。然かあれば、わきて句をととのへ、詞を飾らず、戯のすさみ、寝覚の独り言などを、誰漏らしけむと、かつはかくまめだち取りなす所をさへ、皆うけひかずやと、憚り無きにしもあらねども、ひたすら我好ける道に、誹りを忘るるは、愚かなる身にも限らざるかと、思許すも、やがて老の僻みにやあらむ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ff69e365c35e0732e224f451e70fbc8f

と記されています。

>筆綾丸さん
レスはのちほど。




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