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Japanese Medieval History and Literature

7323鈴木小太郎:2022/01/20(木) 22:02:35
「頼朝への接近を図る頼盛の意向が背景にあったと見るべきだろう」(呉座勇一氏)
「生年が判明するのは八女(頼綱室)と政範のみであり、その他の娘については牧の方が二十代で一男五女を儲け、二年毎に出産したものとした」、「牧の方腹では唯一生年の判明する八女(頼綱室)と政範が二歳差であることから、他の子女も機械的に二年ごとの出産と仮定した結果、婚姻時期は治承四年となった」という山本みなみ説を数式で表すと、

(時政・牧の方の結婚時期)=(八女頼綱室の生年)−3×(政範の生年-八女頼綱室の生年)-1

となりますね。
二年の間隔で四女(稲毛重成室)・五女(平賀朝雅室)・七女(三条実宣室)・八女(宇都宮頼綱室)の四人が生まれ、八女の生年は1187年ですから、四女が生まれたのは2×3年前の1181年、そして時政・牧の方の結婚はその一年前の1180年という計算です。
これはたまたま(政範の生年-八女頼綱室の生年)=2の場合の話ですが、もう少し一般的に、

Y:時政・牧の方の結婚時期
X:政範の生年-八女頼綱室の生年

とすると、

Y=1187-3X-1=1186-3X

ですね。
従って、

仮に政範と八女が1歳違いであったならば、Y=1183
仮に政範と八女が3歳違いであったならば、Y=1177
仮に政範と八女が4歳違いであったならば、Y=1174

となります。
こう書くと、まるで私が山本説を莫迦にしているように見えるかもしれませんが、「機械的」な「仮定」がある種の滑稽感を伴うことは否めないですね。
そして、山本氏は牧の方が「二十代で一男五女を儲け」たと「仮定」するので、「牧の方腹」の最初の娘が生まれたときに牧の方は二十歳とされますが、これも格別の根拠はないはずです。
身分違いの結婚で、しかも夫の年齢が相当に上となると、牧の方が再婚の可能性もあって、その場合、三十歳くらいまでだったら「一男五女を儲け」ることもさほど不自然ではないはずです。
ま、結局は良く分らず、時政・牧の方の結婚時期は不明といわざるを得ないですね。
しかし山本氏は、「治承四年以後よりはそれ以前の可能性が高いだろう。野口氏の指摘されるように、婚姻時期が頼朝の挙兵以前であることは間違いないと思われる。おそらく時政と牧の方は、頼朝と政子の婚姻直後の治承年間に結ばれたのではないだろうか」とされるので、その理由を探ったら、杉橋隆夫氏の見解に野口実氏が同意したというだけの話のようです。
まあ、私は杉橋論文をあまり高く評価できないので、山本氏の最終的な結論にも賛成しがたいですね。
ところが、呉座勇一氏は山本氏の見解を妥当とされているようで、『頼朝と義時』において、先に紹介した部分に続けて次のように書かれています。(p36以下)

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 前述の通り、池禅尼は死罪になるはずだった頼朝の助命を清盛に嘆願している(20頁)。その実子が、先に触れた平頼盛である。池禅尼は清盛生母(既に死没)よりはるかに身分が高く、朝廷内に広い人脈を持っていたため、清盛にとって頼盛の存在は脅威であった。池禅尼が亡くなると両者の関係は悪化し、清盛は頼盛を一時失脚させている。政界復帰後の頼盛は清盛に従順になったが、清盛と後白河法皇の関係が険悪になると、後白河と親しい頼盛の立場も微妙なものになった。
 頼朝と政子が結婚した治承元〜二年頃は、平家打倒の陰謀が露顕したとされる鹿ケ谷事件の直後である。そして平清盛によるクーデターである治承三年の政変で、頼盛は一時失脚している。
 以上の状況において、平頼盛に仕える牧宗親の娘と北条時政との身分不釣り合いな結婚が、頼盛と無関係に行われたとは考えにくい。頼朝への接近を図る頼盛の意向が背景にあったと見るべきだろう。むろん頼朝と連携して清盛に反逆するなどという大それた考えはなかっただろうが、何らかの政治的カードになり得るとの期待があったのではないか。
 頼朝と政子が結婚した当時、伊豆国の知行国主は源頼政であった。知行国主とは受領(国守)の任免権を持つ者のことである。この場合、頼政は伊豆守を任命でき、嫡男仲綱を伊豆守にしている。すなわち、頼政は伊豆国の最高権力者であった。
 源頼政は平治の乱で平清盛に味方し、武門源氏の中で最も羽振りが良かった。平清盛と良好な関係を保ち従三位まで昇叙したが(武門源氏初の公卿)、一方で源義賢(19頁)の遺児仲家を養子にするなど、源氏一門の生き残りを保護していた。また頼政は八条院に奉仕していた。
 八条院暲子内親王は鳥羽法皇と美福門院の娘で、亡き鳥羽法皇から膨大な荘園群を相続していた。平頼盛は八条院の乳母の娘を妻に迎えており、多数の八条院領荘園の管理を任されていた。清盛に敵対する意思は八条院本人にはなかったが、八条院の周囲には清盛に対して複雑な感情を抱く政権非主流派が集まっていたのである。
 平頼盛─源頼政─源頼朝の提携という政治的動きの中で、頼朝岳父である北条時政と、牧の方の婚姻は進められた。時政にしてみれば、頼朝への先行投資が早速実を結んだ、といったところだったろう。だが自体は、時政の思惑を超えて急転する。
-------

うーむ。
最初にこの文章を読んだときは、呉座氏の洞察は鋭いな、と思ってしまったのですが、山本論文の結論があまり信頼できないとなると、呉座氏の見解も些か微妙な感じがしてきますね。
薄氷の上に積み重ねた議論、砂上の楼閣ではなかろうか、という疑問を抱かざるをえません。

>筆綾丸さん
先崎彰容氏の斎藤幸平批判はネットでも読めますね。
私にも多少の感想がありますが、また後程。

「ベストセラー新書「人新世の『資本論』」に異議あり 「脱成長」思想の裏にある“弱さ”とは何か」
https://bunshun.jp/articles/-/51373




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