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Japanese Medieval History and Literature

7321鈴木小太郎:2022/01/20(木) 13:33:29
野口実氏「伊豆北条氏の周辺─時政を評価するための覚書」
ひょんなことから野口実氏の「伊豆北条氏の周辺─時政を評価するための覚書」(『京都女子大学宗教・文化研究所研究紀要』20号、2007)を都合三回精読する羽目になりましたが、この論文は非常に面白いですね。

http://repo.kyoto-wu.ac.jp/dspace/handle/11173/1927

全体の構成は、

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はじめに
一、北条時政に対する諸家の評価
 (一)大森金五郎
 (二)佐藤進一
 (三)上横手雅敬
 (四)安田元久
 (五)河合正治
 (六)福田以久夫
二、中世成立の北条氏系図の比較と検討
三、北条時政の係累
 (一)北条時定と服部時定
 (二)牧氏(大岡氏)一族とその本拠
 (三)『吾妻鏡』における牧宗親と大岡時親
むすびに
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となっていますが、私は特に第三章の第二節と第三節に刺激を受けました。
まず、「(二)牧氏(大岡氏)一族とその本拠」には、

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 ところで、すでに『沼津市史 通史編 原始・古代・中世』(二〇〇四年)第二編第五章「荘園制の確立と武士社会の到来」(杉橋隆夫執筆)に紹介されたところだが、最近になって牧氏の文化レベルにおける貴族的性格を示す貴重な成果が国文学者浅見和彦によって示されている(「『閑谷集』の作者─西行の周縁・実朝以前として─」有吉保編『和歌文学の伝統』角川書店、一九九七年)。
 この論文によると、鎌倉初期になった歌集『閑谷集』の作者は『鎌倉年代記』に建久三年(一一九二)の「六波羅探題」として所見する牧四郎国親の子息に比定され、彼は養和元年(一一八一)二月ごろ加賀にあり、同年十月ごろ但馬に移って翌春のころまで滞留していたが、文治元年(一一八五)八月、牧氏の本領で平頼盛領であった駿河国大岡庄(牧)内の大畑(現在の静岡県裾野市大畑)に庵を構えるにいたる。そして、そこには都よりの知人も立ち寄り、また涅槃会・文殊講などの法会が執り行われ、あわせて歌会も開かれていたというのである。【後略】
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とありますが(p101以下)、ここでは国文学と歴史学・考古学の見事な連繋を見ることができますね。
また、「(三)『吾妻鏡』における牧宗親と大岡時親」には、

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 『吾妻鏡』に記されたこの痴話話のなかで納得できないのは、北条氏よりも高いステイタスにあり、牧の方の父である宗親がどうして政子に仕えるような境遇にあるのか。そして、たとえ頼朝の怒りを買ったとはいえ、当時の社会における成人男子にとって最も恥辱とされるような羽目に陥らざるを得なかったのかという点である。
 宗親が池禅尼の弟であるとするならば、かなりの年輩であることが予測できる。また、その官歴について『愚管抄』は大舎人允、『尊卑分豚』は諸陵助としている。ところが、亀の前の事件を記す『吾妻鏡』に、彼は「牧三郎」として登場し、文治元年(一一八五〉十月二十四日条からは「牧武者所」となり、最終所見の建久六年(一一九五)三月十日条まで変わらない。大舎人允や諸陵助の官歴を有するものが武者所に補されることは考えがたく、ここには何らかの錯誤を認めざるを得ないのである。
 私は『吾妻鏡』に「三郎」「武者所」として所見する「宗親」はすべて、本来その子息である時親にかかるものであると推測する。同書建仁三年(一二〇二)九月二日条に「判官」として初見する大岡時親を宗親と混同して伝えたものと考えるのである。この記事は『愚管抄』の「大岡判官時親とて五位尉になりて有き」という記事に符合する。ついで時親は『明月記』元久二年(一二〇五)三月十日条や『吾妻鏡』同年八月五日条に備前守として登場するが、武者所→判官→備前守という官歴は制度的にも年代的にも整合するところである。したがって、『吾妻鏡』に見える宗親の所見はすべて時親に置き換えられるべきで、宗親は頼朝挙兵以前に死没していた可能性が高いのではないだろうか。
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とあります。(p104以下)
「宗親が池禅尼の弟であるとするならば、かなりの年輩であることが予測できる」にもかかわらず、『吾妻鏡』には妙に軽い存在として描かれている謎は、「『吾妻鏡』に「三郎」「武者所」として所見する「宗親」はすべて、本来その子息である時親」であるならば、確かに綺麗に解けそうです。
まあ、『吾妻鏡』の原文を正面から否定することには若干の躊躇いは感じますが、『吾妻鏡』編纂時には、牧氏関係者は全体としてその程度の扱いを受けるほど軽い存在になっていた、ということなのかなと思います。
編纂当時に牧氏の子孫が幕府内でそれなりの存在感を維持していたら、「亀の前」事件が全面削除される可能性もあったでしょうね。

池禅尼(1104?-64?)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%A6%85%E5%B0%BC




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