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Japanese Medieval History and Literature
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星倭文子氏「鎌倉時代の婚姻と離婚 『明月記』嘉禄年間の記述を中心に」
山本みなみ氏の「北条時政とその娘たち」に先行研究として紹介されていた星倭文子(ほし・しずこ)氏の「鎌倉時代の婚姻と離婚 『明月記』嘉禄年間の記述を中心に」」(服藤早苗編『女と子どもの王朝史』、森話社、2007)を読んでみましたが、これは面白い論文ですね。
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成人男性中心の歴史からは見落とされがちだった「女・子ども」の存在。
その姿を平安王朝の儀式や儀礼、あるいは家や親族関係のなかに見出し、「女・子ども」が貴族社会に残した足跡を歴史のなかに位置づける。
http://www.shinwasha.com/73-7.html
星論文の構成は、
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1 はじめに
2 婚姻の成立と家長の力
1 武家の場合
2 貴族の場合
3 婚姻の政治的背景……関東との縁
1 藤原実宣の場合
2 藤原国通の場合
3 藤原実雅と源通時の場合
4 離婚
1 藤原公棟の婚姻と離婚
2 宇都宮頼綱室・為家室の母の離婚
3 離婚不当の訴え
5 おわりに
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となっていて、面白い事例がふんだんに紹介されているのですが、藤原公棟の例は特に面白いですね。(p284以下)
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1 藤原公棟の婚姻と離婚
(18)嘉禄二年五月二十七日条
中将入道<公棟>に嫁ぎたる新妻独歩すと云々。時房朝臣の子次郎入道の旧妾なり。<彼等の妻妾皆参商
といえども、所領を分け与える之間、猶その力あり>本妻の常海の女、又離別せず、なお相兼ねる。
ここでは、離婚についていくつかの史料を提示したい。まず、北条時房の息の次郎入道・北条時村のもとの妾が、藤原公棟に嫁いでいる。しかし公棟は、本妻とは別れていない様子が記されている。北条時村は、前年の十二月八日条に「十二月二日に死去」とある。妾は、半年足らずで再婚していることになる。「所領を分け与える之間、猶その力あり」とあり、女性に資産があったことから結婚したともとれる。ところが、
(19)嘉禄二年六月十日条
世間の事等を談ず。中将入道<公棟>新妻<本より大飲して、ここ衆中に列座して、盃酌す。其比にセトノ法橋、
定円闍梨、公棟朝臣、その妻列座すと云々。>程なく離別す。
とあり、一か月も経たないうちに離縁している。当時は離婚の理由が明確にならないことが多いのに、「新妻大飲して」と明記されているのは興味深い。新妻は大酒飲みだったのである。このことが離婚の理由であったと考えられる。
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結婚の理由が金目当て、離婚の理由が妻が大酒飲みであるという非常に分かりやすい事例ですが、宴会に女性が参加すること自体は公棟も認めていて、ただ、そこまで飲むとは思わなかった、ということのようですね。
「新妻」はまことに豪快な女性ですが、ただ、こうした自由奔放な行動を取れるのは、結局はその女性に財産があることが裏づけになっていますね。
北条時村の「妾」だったというこの女性の出自を知りたいところですが、この婚姻は純粋に公家社会の例とはいえなさそうです。
なお、北条時村は時房息という出自に恵まれながら若くして出家したようで、この人もちょっと変わった人のようですね。
政村息の時村(1242-1305)とはもちろん別人です。
北条時村 (時房流)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E6%9D%91_(%E6%99%82%E6%88%BF%E6%B5%81)
>ザゲィムプレィアさん
牧の方の娘に貴族に嫁した女性が多いのは間違いないので、仮に「時政と牧の方の結婚は近在の地方武士同士の結婚」に過ぎないとしても、牧家が京都との特別な関係を持つ家であることは争えないと思います。
また、平頼盛の所領は後に久我家の経済的苦難を救うことになるのですが、その伝領に、もしかしたら牧の方の周辺も絡んでくるのかな、といった予感があるので、もう少し丁寧に見て行きたいですね。
>筆綾丸さん
>天台座主とは名ばかりで、俗っぽい坊主だな、
これは本当にその通りですね。
歌好きも殆どビョーキっぽいところがありますね。
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