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Japanese Medieval History and Literature
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佐々木和歌子氏の基本認識(その1)
光文社古典新訳文庫で『とはずがたり』を担当されている佐々木和歌子氏は、
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1972年、青森県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科修士課程修了。専門分野は日本語日本文学。(株)ジェイアール東海エージェンシーで歴史文化講座の企画運営に携わりながら、古典文学の世界をやさしく解き明かす著作を重ねる。著書に『やさしい古典案内』(角川学芸出版)『やさしい信仰史──神と仏の古典文学』(山川出版社)『日本史10人の女たち』(ウェッジ)など。『古典名作 本の雑誌』(本の雑誌社)では中古文学・中世文学を担当。
https://www.kotensinyaku.jp/books/book310/
という経歴の方だそうで、きちんとした学問的基礎の上に工夫された新鮮な現代語訳は私も絶賛したいのですが、ただ、佐々木氏の『とはずがたり』に対する基本認識はかなり古めかしい感じを受けます。
「訳者まえがき」を見ると、
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約七百五十年前、一人の少女がとっておきのおしゃれをして正月を迎えていた。彼女は自分が格別に美しいことを知っていたし、後深草院に仕える女房たちのなかで、自分だけは特別だと信じていた。というのも、彼女はこの二条富小路の院御所に君臨する後深草院に四歳のころから仕え、その膝の上に抱かれて大切に育てられてきた。だから、自分は御所さまの女房ではあるけれど、御所さまの姫君のようなもの。そんな気位をひそかに育てていた。けれど、二条─彼女がちょっと不服を抱く小路名の女房名─はこの正月で十四歳になった。それは大人の仲間入りを意味する。だから後深草院は自ら育てた娘を、この年の初めにさっそく自分の愛人の一人にした。ここから彼女の数奇な人生がスタートする。
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ということで、佐々木氏は『とはずがたり』が事実の記録であることを疑わない立場です。
そして、
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彼女は後深草院の愛人でありながら女房でもあるため、時には院を別の女性に手引きすることのあったし、その房事を一部始終聞かされることもあった。また後深草院より「賞品」として別の男にあてがわれることもあった。それは懐妊中でも、どんなんときでも。そして彼女は何度も妊娠、出産するが、一人として自分の手で育てあげることはなく、顔もろくに見せてもらえずによそに引き取られていくことのあった。
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とありますが、「時には院を別の女性に手引きすることのあったし、その房事を一部始終聞かされることもあった」の一例が前斎宮の場面ですね。
ただ、この時点(文永十一年、1274)で僅か十七歳の二条は、別に後深草院から強制されていやいや手引きをしていた訳ではなく、むしろ喜んで後深草院の(現代であれば)犯罪行為を手助けし、「もっと抵抗すれば面白かったのに」などと感想を述べており、後深草院の横暴の「被害者」ではなく、むしろ「加害者」「共犯者」の立場ですね。
さて、佐々木氏は続けて、
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読者はきっと、彼女の人生の特異性に驚くだろう。時代や立場で価値観は大きく異なるものであるし、まして天皇だった人の愛人であれば、気ままな性愛に付き合わされてもいたしかたなし、と納得しようとするかもしれない。でも、二条はいつも「死ぬばかり悲しき」と感じていたし、もし「こんなことは当然」と思っていたとしたら、この『とはずがたり』を書こうなんて思わなかったかもしれない。全五巻という長編を、老いた彼女は古い手紙などを取り出しながら、薄れかけた記憶を掘り起こして書き続けた。書かなければ、書き残しておかなければ私は死ねない、それほどの気迫だったように思う。
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と書かれていますが、『とはずがたり』の最終記事は後深草院の三回忌(徳治元年、1306)の少し後なので、二条は数えで四十九歳です。
昔の人の平均寿命が現代人より短いのは確かですが、それは幼児・若年で病気で死んだりする人が多いからで、元気な人は本当に元気であり、二条など全国各地を周遊する大旅行家、驚くべき健脚女性ですから、五十前だったら元気いっぱいだったはずですね。
従って、「全五巻という長編を、老いた彼女は古い手紙などを取り出しながら、薄れかけた記憶を掘り起こして書き続けた。書かなければ、書き残しておかなければ私は死ねない、それほどの気迫だった」かは相当疑問で、むしろ物語作家として円熟期を迎え、溢れんばかりの創作意欲の赴くまま、自由闊達に書きまくっていたのではないかと私は想像します。
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