したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

Web誌友会 板/2

1トキ:2013/01/20(日) 11:50:32 ID:UVsStHb2
「今の教え」と「本流復活」を考える・「web誌友会」 板 です。

*web誌友会についての話題は、このスレッドでお願いします。

 このスレッドは、生長の家信徒の人達のweb誌友会のために作成したスレッドです。

 上記に関連する話題なら、狭く解釈しないで、広く受け付けます。また
どの立場の人の投稿も歓迎しますが、基本的に生長の家の教義と谷口雅春先生の説かれた教え
を支持、共鳴する人のためにサイトです。生長の家の信仰と谷口雅春先生へのご批判をされる内容
の投稿はご遠慮下さい。
 投稿の削除はしない方針ですが、アダルトサイトや出合い系サイトの勧誘を含む内容など
明らかに目的外の投稿は、削除の対象となります。明らかな他団体や特定の霊能力者の宣伝となる投稿も削除の対象になります。
 目的外の投稿の判断は、最終的には、管理人である「トキ」の判断になります。
ご理解下さい。


投稿に当たっての注意点

*このサイトは、「生長の家“本流宣言”掲示板」等と違い、自分の発言を自分で削除できません。
 削除御希望の場合は、管理人までご一報下さい。(削除要請は、削除希望の記事を投稿したのと同じ端末から投稿をして下さい。)
*必ず、スレッドのトップにある「掲示板の使い方」をご覧下さい。
*インターネットのサイトという性質上、不特定多数の人が閲覧します。プライバシーに触れる問題
 や名誉毀損の可能性のある表現などは、控えて下さい。
*サイトの運営方針としては、削除は原則としてしない方針です。他者の投稿が問題のある投稿だと感じた場合は、
「削除要請」ではなく、ご自分の意見を投稿するという方向での解決をお願いします。
*生長の家の共鳴者を対象にしたスレッドです。下品な表現や特定の人物を侮辱する言葉はご遠慮下さい。
 たとえ、自分と違う意見の人でも、敬称はつけましょう。相手に対する敬意と礼儀を忘れない様に
 お願い申し上げます。
*谷口雅春先生への批判は、目的外ですので、投稿をしないで下さい。
*「したらば」は長文の書き込みをした場合、一部が表現されない場合があります。その場合は、「下部左
 部分」にある「全部読む」を押して下さい。

このサイトについて

*宗教法人「生長の家」、「谷口雅春先生を学ぶ会」「ときみつる会」「生長の家社会事業団」「新教育者連盟」
 などの諸団体とは関係はありません。
*「ポスティング ジョイ」や「生長の家“本流宣言”掲示板」などのサイトとは一切関係がありません。

管理人からのお願い

*投稿者の身元の詮索は止めましょう。ただし、最初に簡単な自己紹介をして下さると、後のトラブル防止になります。
*「工作員」も歓迎します。同時に、特定の人を「工作員」などと議論をする事はしないで下さい。
*教団援護派、本流復活派、中間派、分裂肯定派など、どなたも歓迎します。また、相手の存在そのものを否定するような内容
 の反論はしないで下さい。
*議論が感情的になった場合は、管理人がストップをかけます。その時は、協力をお願いします。
*その他、ご不明の点は、管理人である「トキ」まだお尋ね下さい。

 原則として、身元がわかるような内容の自己紹介は避けたほうが無難です。

身元をかくすため、多少の作為(年齢を少しごまかす、住まいを変える)は、悪意がない限り、問題とはしません。

どの立場でも、(教団援護派、学ぶ会など)歓迎しますから、それは明らかにしても大丈夫です。

削除について

 投稿した文章を削除して欲しい場合は、削除希望の文章の番号を書いて、同じスレッドに、同じ端末
から「削除要請」と書いて、投稿して下さい。削除要請の文章も削除して欲しい場合は、其の旨も書いて
下さい。削除は、原則として、投稿者本人からの要請があるものに限ります。管理人が気がついたら、削除
しますが、深夜早朝や用事のある時は、気がつくのが遅れる場合があります。ご理解下さい。

 出会い系サイト等のリンク、明らかに目的外の投稿、他団体の宣伝、犯罪を予告する書き込み等以外は、削除はしません。
それ以外で、問題となりうる投稿は、原則として、相談の上で、削除します。

 その他、御不明の点は、お気軽にお尋ね下さい。

管理人「トキ」 敬白

668復興G:2013/04/19(金) 14:02:23 ID:AB6RqYXc

<『到彼岸の神示』より 「声字即実相の神示」ご講義のつづき>

 兎も角、実際、『生命の實相』を披いて読むだけで病念が去り、病気の治った人もあれば、煩悶が解決した人もあり、人間の生命の実相は“神の子”であるという真理を語って歓喜踊躍した人は幾千幾万あるか数え切れないのであります。

 これは何故かと言うと、すべて現象世界の善きものは、「実相世界」にあるものの展開でありますから、「実相」を心で観ずることによって展(ひら)いたら、現象界にも実相界の円満完全な有様が投影されて実現することになるのであります。その象徴として『生命の實相』の本を披くことによって、現象界にも家庭調和や病気の治癒や色々の功徳が実現するようになっているので、そのことを、神示には、

 「吾が道(ことば)を『生命の實相』と呼ばしめ、それを本の形にして、披いて読むものにさせたのも象徴的因縁あることである」

 とお示しになっているのであります。次に神示はこのように説いておられます。――

 「今は過渡時代であるから、仮相の自壊作用として色々の出来事が突発する。日支の戦いはその序幕である。

 神が戦いをさせているのではない。迷いと迷いと相搏って自壊するのだ。まだまだ烈しいことが今後起るであろうともそれは迷いのケミカライゼーションであるから生命の実相をしっかり握って神に委せているものは何も恐るる所はない。」

 これは日支事変中に啓示された神示でありまして、「日支の戦いを序幕」として、「まだまだ烈しいことが今後起る」と書かれているのであります。

 日支事変から大東亜戦争にかけて戦争中には“日本軍は皇軍であり、皇軍は神軍天兵である”とよく言われたものでありますが、この神示には、日支の戦いも、それを序幕として起る戦いも「神が戦いをさせているのではない。迷いと迷いと相搏って自壊するのだ」と書かれています。

 実相の世界には「戦争」そのものが無いのでありますから、戦って敵を傷つける神軍というものは存在しないのであります。すべて戦って互いに相傷つく者は「迷い」と「迷い」との衝突であります。
 過去の人類の迷いの念が具体化して戦争が起るのは、過去に蒸発した水蒸気が或る時期が来れば大雨となって降下し、一時大いに荒れるが、台風一過して空気が澄み切るように、一時戦争としてあらわれて人類の過去の「迷い」(憎みや民族的嫉妬、憎悪等)が消えるのをケミカライゼーションと言ったのであります。
 こうして日支事変に継続して起るであろうと予告された大東亜戦争も「迷い」と「迷い」とが衝突して消えるための自壊作用であったのは論(い)うまでもありません。

 併し私は、正直に言って、大東亜戦争中、日本軍が勝つように努力協力致しました。
 “言葉の力”を知る私が、当時軍の指導によって、“必死”(必ず死ぬ)“決死”(きまって死ぬ)を掛声とし、「海征(ゆ)かば水漬(みづ)く屍(かばね)、山征かば草生(む)す屍……」の歌をうたって、国に報いるには「一死報国」のほかはないと、言葉の力をきわめて「死」を讃美している日本国の有様を見ましては、黙っておれませんでした。
 そんな死を讃美し「草生す屍」を礼讃する言葉を使っていては日本海軍は「水漬く屍」になり、日本陸軍は「草生す屍」になり、結局は日本の敗載になるほかはないと思いまして、到る処の講習会場で、私は「必死、決死、水漬く屍」の掛声をやめよ。「皇軍必勝・必勝生還」の標語をつくり、その“言葉の力”を強力に日本全土にひろめなければならないと講演したのであります。
 そのため、私は各講習会場でその講話をし、且つ「皇軍・必勝」の四文字を講習会毎に五百枚ずつ短冊に揮毫して、講習会員に無代進呈し、その短冊を自宅の壁又は柱に掲げて家族全部がその文字を観ながら『皇軍必勝』の“言葉の力”を念ずるようにお願いしたのでありました。
 私はその短冊を書くために毎夜午前二時頃まで労することもありましたが、終戦までにやっと五万枚を書くことができましたが、「海征かば水漬く屍…」の歌を念ずる人は、満洲国だけでも三千万人、日本人の軍需工場や軍隊でその歌を唱っている人が数千万人……私の五万枚の「皇軍必勝」の短冊のコトバの力は、数千万人の「水漬く屍」のコトバの力に対してはまことに衆寡敵せずでありました。
 ついに日本海軍はレイテ沖の海戦で目ぼしい軍艦の殆ど全部があの「海征かば……」の歌の言葉の通りに海の藻屑と化してしまったのでありました。
<つづく>

669復興G:2013/04/19(金) 14:03:08 ID:AB6RqYXc

<『到彼岸の神示』より 「声字即実相の神示」ご講義のつづき>

 実に「言葉の力」は恐ろしいものであります。こうして、「迷い」と「迷い」とは相搏って自壊いたしましたが、「生命の実相をしつかり握って神に委せているもの」はその恐るべき自壊作用の中に於ても、何等傷つくことなく、原子爆弾の放射を近距離に於て受けても、少しも傷つくことがなかったのであります。

 その一例を申しますれば、終戦後、宮崎県北部の生長の家連合会長や青年会長をしておられた甲斐信佳(かい・のぶよし)君であります。
 この人は満鉄につとめておられましたが、結核にかかったため、内地へ還って養生するよう社命を受けて日本へ帰って来たのでありました。
 日本へ帰ると生長の家に触れ、『生命の實相』を読んで、「人間神の子、本来無病の真理」を知り、結核が癒やされて健康になりましたので、恰も大東亜戦争の末期に臨んで、召集令状を受けたのであります。

 甲斐君が考えるには、
 「僕は生長の家に触れて病気が治ったのであるから、応召して行く前に、一度でよいから、谷口先生の直接の講習会を実地に受けて、自信力をつけて戦場へ行きたい。」
 そこで何処に講習会があるかと調べてみると当時、久留米に私の講習会があったので、宮崎県から態々(わざわざ)久留米へ来て講習をお受けになったのであります。その時、私は例の通り、死を讃美するような歌や、「水漬く屍」になるような歌を唱ってはならない。言葉はカリソメに言った言葉でも実現するから――と言って講義していたのであります。
 すると甲斐信佳君が、戦場で腹巻にする布をもって来て「これに皇軍必勝、必勝生還と書いてくれ」と言って墨を摺ってもって来られたのであります。その通り書いてあげましたら、甲斐君は悦んで応召して行かれた。
 任地は先ず九州長崎であったのであります。甲斐君は長崎に原子爆弾を落されたときには高射砲隊に属していて、測高機によって敵機の高度を測って、高射砲の射手にそれを伝える役目をしていたのであります。
 昭和二十年八月九日は非常に暑い日だったので、隊員は上着もシャツも脱いで上半身は裸になっていました。甲斐君は裸の背を空に向けて前にかがみ込んで測高機の目盛を見詰めていました。彼の裸の背には何の遮蔽物もないのでした。そのとき可成り近い距離で原子爆弾が爆発した。
 裸の背には明かに放射能に触れて一時薄赤く陽にやけたようになっていましたが、甲斐君はその後、何らの肉体的故障を経験することなく、元気で今も光明思想普及に活躍していられるのであります。
 まことに、此の神示にありますように「生命の実相をしっかり握って神に委せているものは何も恐るる所はない」というのは事実でありまして、原子爆弾と雖も、甲斐君を傷つけることはできなかったのであります。

670復興G:2013/04/19(金) 14:21:24 ID:AB6RqYXc

>>665 :トキ様。

ありがとうございます。

「至上者の自覚の神示」に、次のようにありますね。

        ○

 (前略) 人間の偉大な仕事を皆憑霊(ひょうれい)の仕事のように説いて、人間をただ憑霊の傀儡(かいらい)のように教える者があるが邪教である。人間の本性に憑霊の示唆よりも偉大なものがあることを教えるものこそ正しき教である。人間は肉体でもなければ傀儡でもない。人間は霊であり神であり自主である。若し憑霊が『霊』であるが故に、偉大なる教を説き、偉大なる仕事が出来るならば、人間自身も『霊』であるが故に偉大なる教を説き、偉大なる仕事が出来ることも当然でなければならぬ。ただその教や仕事に高下があるのは霊界の霊にも、人間にも、自己内在の無限性の掘りさげ方に差があるからである。
 釈迦は決して憑霊の傀儡ではない、キリストも決して憑霊の傀儡ではない。いずれも自己内在の無限性を掘下げて、ついに仏性に達し、神性に達したから、霊界の諸霊来って此の二聖に事(つか)えたのである。釈耶の憑霊ばかりを観て釈迦が自覚したところの仏性、イエスが自覚したところの神性を見ない者は憐れである。憑霊が説くほどの教なら人間自身も霊であるから説き得べきであるのに、釈耶の教を釈耶自身の教ではなく憑霊の教であると説くスピリチュアリズムは自己撞着に陥っているのである。人間よ、人間自身の尊厳を自覚せよ、これを自覚することは人間自身の尊厳を奪還することである。『生長の家』は人間自身の尊厳を奪還せんがために出現した人生の燈台である。
(昭和八年三月十六日神示)

        ○

 ありがとうございます。

671トキ:2013/04/19(金) 18:35:47 ID:4obc7AKc
>>670

復興G様

 的確なご指導、ありがとうございました。確かにそうですね。

672トキ:2013/04/19(金) 19:45:42 ID:4obc7AKc
>>669

 素晴らしい記事をご紹介下さり、ありがとうございました。

 少し前まで、教区の先達には兵隊さんに行った経験のある人が多数おられました。
その中には、招集当時、既に生長の家に触れておられた人もおられましたが、そういう先達は
不思議に激戦地を避け、自分も負傷しないし、敵兵も殺さない、という体験をもった人ばかり
だったと記憶しております。

673a hope:2013/04/19(金) 20:58:26 ID:6kIbHHgs
第13回web誌友会開会の時刻 が近づいてまいりましたので、「準備祈願」としての祈りの言葉と掲載させていただきます。

    ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

(準備祈願) 住吉大神様 住吉大神様  谷口雅春先生 谷口雅春先生有難うございます、有難うございます。
  生きとし生けるものを生かし給える御祖神元津霊ゆ幸へ給へ 
  吾が生くるは吾力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命
  吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能
  天地の祖神の道を伝へんと顕れましし生長の家の大神まもりませ
  
  住吉大神様、本日の 生長の家 本流復活について考える WEB誌友会板 に於ける
  今夜の生命の実相 輪読誌友会で、生長の家の御教えを正しく把握し、広く伝道するための 必要な霊の選士を集え給うて、真理の研鑽を導き給う。
  住吉大神様 勉強会を正しく導き給う 住吉大神様 勉強会を正しく導きたもう。
  今夜の参加者お一人、お一人を浄化し給うて、使命を授け給う。
  有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます

世界平和の祈り
神の無限の愛、吾に流れ入り給いて、愛の霊光燦然と輝き給う。その光いよいよ輝きを増して全地上を覆い給い、すべての人々の心に愛と平和と秩序と中心帰一の真理を満たし給う。

光明思念の歌
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり

674a hope:2013/04/19(金) 21:01:54 ID:6kIbHHgs
続きまして、聖経「真理の吟唱」より『人類全体を祝福する祈り』を謹写させていただきます。


『人類全体を祝福する祈り』

神はすべての創造主(つくりぬし)であり給う。
神は全能であり給う。
神はコトバにて万物を造りたまうたのである。
その全能なる神のコトバわれにやどり給うてわが生命と成り給えり。
されば我がコトバにて宣言することは必ずそれが具体化して現象界に現われてくるのである。

われは大いなるコトバの力にて、豊かなる富が人類に実現することを宣言するのである。
それゆえに、時間空間面に於ける秩序を通して必ず豊かなる富は世界の人類に実現するほかはないのである。

われは今、神の大いなる〝言葉の力〝にて人類全体の幸福を宣言するのである。
それゆえに、人類全体は必ず幸福になるほかはないのである。

われは今、神の大いなる〝言葉の力〝にて人類全体の平和を宣言するのである。
それゆえに人類全体は必ず平和になるほかはないのである。

われは今、神の大いなる〝言葉の力〝にて人類全体の正しき方向への進歩を宣言するのである。
それゆえに人類は必ず正しき方向へ進歩するに相違ないのである。

われは今、神の大いなる〝言葉の力〝にて人類全体の健康を宣言するのである。
それゆえに人類全体は毎日層一層健康を実現して行くことに間違いはないのである。

かくてわれは神の大いなる〝言葉の力〝にて人類全体の富裕と、幸福と、平和と、健康との念を宇宙に放送するがゆえに、
それらは必ず実現するとともに、その反響として人類の富も幸福も平和も健康もことごとく自分に撥ね返ってきて、
私は全人類から祝福される人となるのである。

まことに私は神が人類を祝福せんがために遣わされたる天の使いとして全人類を祝福するがゆえに、
われに還り来る祝福もまた無限であって限りを知らないのである。

無限の進歩向上が自分には約束されているのである。
今日もまた自分は進歩するのである。
明日もまた自分は進歩するのである。
進歩し向上することはまことに悦ばしきかな。

神は無限の内容をもちたまうがゆえに、神の自己実現である自分は、
時間空間のスクリーンを通してその無限を展開して行くのである。
内容が無限であるから、どれだけ進歩向上しても、尚なお向上発展の余裕が残されているのである。

私は今日も生長し前進する。
私は明日も進歩する。
私はさらに明後日も向上するのである。
生長、進歩、向上は、〝神の子〝たる者、神の自己顕現である自分の使命であるのである。
自分は何物にもこの進歩向上を阻まれるということはないのである。
自分の前進を妨げる者は何処にも存在しないのである。
進歩は神の御心であり、生長は神の意志である。
私は常に善き方向に新しく進むのである。
私は神と偕(とも)に前進し、神と共に新しいアイディアを生み出(いだ)し、神と偕に常に新しき生活に進み行く。
われは幸いなる者なるかな。
神に深き感謝を捧げます。

合掌。

675トキ:2013/04/19(金) 21:02:27 ID:4obc7AKc
>>673

 ありがとうございます。

676復興G:2013/04/19(金) 21:24:24 ID:AB6RqYXc

>>673>>674
a hopeさま。

すばらしい開会「準備祈願」のお祈り・聖経「真理の吟唱」より『人類全体を祝福する祈りを、ありがとうございました。

力強いパワーが湧き出てきました。

感謝 合掌。

677トキ:2013/04/19(金) 21:33:44 ID:4obc7AKc
>>674

 すばらしい一節です。今回の誌友会にふさわしい祈りだと思います。

678復興G:2013/04/19(金) 21:43:48 ID:AB6RqYXc

web誌友会開会の時刻になりました。

上記、a hope様が謹写して下さいました聖経「真理の吟唱」のお祈りの言葉は、まことに「声字即実相の神示」を生活に生かすお祈りであったと思います。

>>666に謹写させて頂きましたように、「声字即実相の神示」のご講義に、次のように記されていました。

       ○

「言(ことば)」とは何であるかと言いますと、「太初(はじめ)に言(ことば)あり」でありまして、事物の生れる「太初(はじめ)」に言(ことば)がある。「太初」というのは根本原因のことであります。「第一原因」と言っても宜しい。第一にあるものがコトバであって、それが創造力をもっていて、第二、第三と、次々に現象が生れて来るのであります。そのことが「『言葉』を載せた書物を『本(ほん)』と言うのも、『言葉』こそ事物の本(もと)であり、本質であり、本体であり、本物であるからである」と爰(ここ)には示されているのであります。

 生長の家はコトバの宗教でありまして、コトバの力によって人類の心を浄め、地上に起る事件を浄化し、この世から一切の不幸を除去し地上に天国浄土を建設しようという運動であります。

 宇宙創造の本体にまします神はコトバであり、『ヨハネ伝』に「万(よろず)の物これ(註・コトバ)に由りて成り、成りたる物に一つとして之(これ)によらで成りたるはなし」とありますように、万物は悉くコトバの創化力によって出現したのであります。

 だから事物の「成就」することを「成る」(鳴る)と言います。即ち「成る」と「鳴る」とは語源が一つでありまして、事物の第一原因はコトバであり、コトバは鳴り響くから「鳴る」即ち「成る」と言うのであります。すべての「事物」を「事」と言うのも、「事」の本質は「言」であり「事」と「言」とは同一語源であるからであります。

       ○

 ですから、私たちは、現象にいかなる混乱や困難な情況が現れていようとも、

「今は過渡時代であるから、仮相の自壊作用として色々の出来事が突発する。日支の戦いはその序幕である。神が戦いをさせているのではない。迷いと迷いと相搏(う)って自壊するのだ。まだまだ烈しいことが今後起こるであろうともそれは迷いのケミカライゼーションであるから生命の実相をしっかり握って神に委せているものは何も恐るる所はない。」

と神示にあるとおり、安心して、使命感のままに前進させて頂きましょう。

皆さま、どんどん思うところをお書き込みください。

679a hope:2013/04/19(金) 21:45:12 ID:6kIbHHgs
復興Gさま トキさま みなさま 

ありがとうございます。

今回の『人類全体を祝福する祈り』は今朝の神想観のあとに選び謹写しました。
わたしは、毎朝の神想観の後に「真理の吟唱」を唱えるのですが、毎日どの祈りを唱えても心から感動して、
神への感謝の気持ちでいっぱいになります。

みなさま、今回も、どうぞよろしくお願いいたします。

680トキ:2013/04/19(金) 21:48:33 ID:4obc7AKc
 今回もよろしくお願いいたします。皆様のご参加を心からお待ちしております。

合掌 ありがとうございます

681復興G:2013/04/19(金) 21:55:30 ID:AB6RqYXc

>>667

       ○

 「今迄の宇宙は、『言葉』が実相を語らず、不調和で濁っていたから、宇宙の万物の運行が乱れて生活苦や、病気や、天災や戦争など色いろ不調和なことばかり起ったのである。『生命の實相』の本が出た以上は、言葉が実相を語り、善き円満な調和した言葉の『本(もと)』が調うたのであるから今後何事も急転直下する。

 『生命の實相』を披(ひら)くだけで病念は去り、煩悶は解決し、人々ただ自己生命の実相を知り、歓喜踊躍して手の舞い足の踏む所を知らないに至る位はその三番叟(さんばそう)に過ぎない。その歓びの相(すがた)こそ人間の生命の実相である。吾が道(ことば)を『生命の實相』と呼ばしめ、それを本の形にして、披いて読むものにさせたのも象徴的因縁あることである。『生命の實相』を展開(ひら)けば形の理想世界が成就するのである。……」

 「『言葉』が実相を語らず、不調和で濁っている」というのは、人間の想念及び言語が実相の円満さをそのまま讃美し感嘆するような言葉を内容とせず、対立感情で悪口を互いに言い合っているような言葉で濁っていることなのです。

 実相の世界は、神の創造そのままでありますから、実相の世界には、生活苦や、病気や、天災や、戦争など色々の不調和なことはないのであります。それなのに現象世界にそのような不調和ばかり頻繁に起っているのは、「実相世界」の風光が現象世界に展開する過程に於て、人間の「心のレンズ」が曇っていて、実相と同調しない濁った想念(コトバ)を発しているからなのであります。

 しかし、『生命の實相』の本が出た以上は、それに書かれている言葉は、言々これ実相の言葉でありますから、「言葉の本が正されることになったのだから何事も急転直下してよくなる」と示されているのであります。

       ○

 上記ご講義(『到彼岸の神示』)を拝読して、皆さま、何をお感じになるでしょうか。

682トキ:2013/04/19(金) 22:22:44 ID:4obc7AKc
>>681

 今、テレビを見ますと、米国で爆弾事件があり、また、それに関連していろいろな事件が起こっているみたいです。
報道によれば、犯人はチェチェン人とのことです。このチェチェン人は、旧ソ連の少数民族です。共産党時代に、
弾圧を受け、住んでいる土地を取り上げられたなどの迫害を受けました。当然、彼らは、こういう不当な迫害には
抵抗し、そのために、また、弾圧を受けるという繰り返しになりました。ソ連崩壊後は、今までの民族主義の高まり
から、とうとうソ連と戦争になりました。この戦争になった経過も不透明なものがありますが、今も争いは続いて
おります。

 もちろん、チェチェン人から見たら、ソ連に酷い弾圧を受けたので、その動機は必ずしも間違いではないのですが、
その争いが長年続いたために、ついにはマラソンの会場で無関係の市民を標的とした爆弾事件を起こすまでになった
のです。憎しみの言葉が悪い結果を生んだ事例だと思いました。

 つぎに逆の事例です。

 中国から弾圧を受けたダライラマは、アメリカで講演をしたときに、出席者のアメリカ人の学生から

「あなたは不幸ではないか? だって、王様として生まれたのに、中国に国を奪われ、王座も失い、外国で生活を
しているではないか?」と質問を受けました。その時に、ダライラマは

 「確かに、中国の武力弾圧は激しく非難されるべきだった。が、そうなったのは、チベットにも問題があったから
だ。私達は過去、あまりにも閉鎖的だった。が、今、私達は世界に向かって開かれた態度をとり、理解を得ている。
そして、大切なのは、よい言葉を使い、みんなをハッピーにする努力をしている。みんなをハッピーにしているから、その結果は、
必ず未来にはよい実を結ぶと信じている。そういう努力を今、しているから、私達は幸せなんだ。」

と答えたそうです。

 ダライラマは、ノーベル平和賞を受賞し、世界から尊敬を集めていますが、「良い言葉をつかう」という事は
谷口雅春先生がご指導をされた事であります。その意味では、谷口雅春先生も、ノーベル平和賞に相当する
と、勝手に想っています。

683復興G:2013/04/19(金) 22:27:43 ID:AB6RqYXc

現生長の家教団は、

≪『生命の實相』の本が出た以上は、それに書かれている言葉は、言々これ実相の言葉でありますから、「言葉の本が正されることになったのだから何事も急転直下してよくなる」と示されているのであります。≫

と谷口雅春先生が「神示講義」でおっしゃっている『生命の實相』を失っているのです。

それは、何を意味しているのでしょう。

「『言葉』が実相を語らず、不調和で濁っている」というのは、人間の想念及び言語が実相の円満さをそのまま讃美し感嘆するような言葉を内容とせず、対立感情で悪口を互いに言い合っているような言葉で濁っていることなのです。」

と、同「神示講義」には書かれています。

684a hope:2013/04/19(金) 22:34:56 ID:6kIbHHgs

今回のweb誌友会用に、わたしは『到彼岸の神示』を購入しました。
ですから、「声字(しょうじ)即実相の神示」の講義のところは、すでにすべて拝読してあります。
>>681で復興Gさまが、紹介してくださった箇所は、わたしも赤線を引いたところでした。

≪ 『生命の實相』を披(ひら)くだけで病念は去り、煩悶は解決し、人々ただ自己生命の実相を知り、歓喜踊躍して手の舞い足の踏む所を知らないに至る位はその三番叟(さんばそう)に過ぎない。その歓びの相(すがた)こそ人間の生命の実相である。吾が道(ことば)を『生命の實相』と呼ばしめ、それを本の形にして、披いて読むものにさせたのも象徴的因縁あることである。『生命の實相』を展開(ひら)けば形の理想世界が成就するのである。……≫

昔は、(谷口雅春先生ご存命のころ)はただ、『生命の實相』を読むだけでも、このような奇蹟といわれるようなことが当たり前のように次々に起きていたのですよね。
それが、今は、昔のような奇蹟が起きなくなってしまった。

そのことを

≪ 実相の世界は、神の創造そのままでありますから、実相の世界には、生活苦や、病気や、天災や、戦争など色々の不調和なことはないのであります。それなのに現象世界にそのような不調和ばかり頻繁に起っているのは、「実相世界」の風光が現象世界に展開する過程に於て、人間の「心のレンズ」が曇っていて、実相と同調しない濁った想念(コトバ)を発しているからなのであります。≫

この文章から考えると、今現在、「生長の家」に不調和ばかり起こっているのは、わたしたち信徒の「心のレンズ」が曇っていて、
實相と同調しない濁った想念(コトバ)を発しているからということになるのでしょうか?

685復興G:2013/04/19(金) 22:45:22 ID:AB6RqYXc

>>664には

       ○

神示講義『神ひとに語り給ふ』より

 七つは完成の数でありまして一切を包容する意味であります。燈台というのは世を照らす光であって、世の光となる宗教の象徴であります。ところで、現在はまだあらゆる世を照らす光である筈の宗教が眠っていて其の法燈が消えているのであります。もう大分眼が覚めたらしい宗教もあるのですけれども、生長の家が二十七年前に出現した時分は、大抵の宗教は眠っておって燈がついていなかったのであります。

 だからどの宗教でもみな教祖の時代には、いろいろの奇蹟が現れたり、魂を本当に目覚めさせて如実に人間を救う事ができたのでありますけれども、それが段々弟子から弟子へ伝わり、それが「又弟子」に伝わりしてゆく中(うち)に、教えが段々水増しをするように迷いで薄まって、到頭、レッテルだけが「キリスト教」と書いてあって中身は別物が入っていたり、或いはレッテルは「仏教」と書いてあって、中身は釈尊のお説きになった真理がない水だけが入っているというような宗派ができて来ました。

 そして、そういう様な中身の異るものを「キリスト教」とか「仏教」とか言って売っているという様な事でありますから教祖が出現せられた時代にあらわれていた奇蹟があらわれなくなった。そしてその奇蹟があらわれないことを弁解する為に、奇蹟のあらわれる宗教を治病宗教とか新興宗教とか言って攻撃しておれば、自分の宗教が偉いように見えるだろうと思うような間違を犯して、テンとして恥じないようになって来たのであります。

 イエスでも釈尊でもはじめて出現したときには、既成宗教にあきたらないで出発した新興宗教であって、奇蹟が続々あらわれていたのであります――ところがその法燈が途中で消えて居たのですから、人生という航路を行く舟が難破するというのは無理がないという訳であります。

 其処で神様がそれに燈を点(つ)けなければいかん、という訳で、世を照らす光の燈台である各宗の教えに、生きた火を点ずる役目として出現せしめられたのが、生長の家であります。燈をつけるのであって、決して各宗の燈台を壊すのではないんですから安心せられたいのであります。だから私たちは決して生長の家へ改宗してやって来いとは言わないのであります。皆さんの信じていられる今迄の宗教のそのままでそれに本当に世を照す事のできる燈がついたらそれでいいんでありますから、生長の家にあらわれた神さまは『七つの燈台の点燈者』と呼んでも好いという風に「新天新地の神示」に示されているのであります。

   (神示講義『神ひとに語り給ふ』より。原文は正漢字・歴史的仮名遣ひ)

       ○

とありました。

その「七つの燈台に燈をつける」べき、世を照らす光の燈台であるはずの生長の家が、みずからが燈がついていない状態になっているのでは、お話にならないのであります。

686トキ:2013/04/19(金) 22:45:49 ID:4obc7AKc
>>683

 これは、私ではなくて、私の縁者の「一白鳩会員」が話していた事で、本題とは少しずれるのですが、

 「確かに総裁の指導は全くおかしいし、また生長の家社会事業団が裁判をした点も賛成できないと思います。
 この生命の実相は、普通の本ではなくて、神様の本なのだから、双方が”ワシのものだ”と頑張っているのは
見苦しい話です。

 が、信徒も今まで、聖典を軽く見ていたと感じる。生長の家宇治別格本山の先祖供養の行事でも、お焼香の
ときに、聖経を畳の上にじかに平気で置く人がおおいし、白鳩会の行事でも、生命の実相を粗末に扱う人はよく
見る。今回、こういう事が起こって、はじめて聖典や聖経のありがたみが分かったのではないか。

 その意味では、よい勉強になったと思います。」

という意見を述べていました。

 とはいえ、争いは悲しいとは思います。

 みなさまも、どんどん、ご投稿をお願いいたします。

合掌 ありがとうございます

687復興G:2013/04/19(金) 22:58:01 ID:AB6RqYXc

>>684 :a hopeさま。

そうですね。

>>今現在、「生長の家」に不調和ばかり起こっているのは、わたしたち信徒の「心のレンズ」が曇っていて、實相と同調しない濁った想念(コトバ)を発しているからということになるのでしょうか? <<

そういうことになりますね。

しかし、です。

榎本恵吾先生の『研修のヒント』に、こうありました。

       ○

    三 今そのままで完全な實相を、讃え喜ぶことが「大懺悔」である

 懺悔には大懺悔と小懺悔のあることを、研修生の諸君はお聴きになったか、あるいは『生命の實相』等の聖典をお読みになってご存じのことと思います。

 小懺悔というのは要するに、心のあり方、行いのあり方、つまり過去のそれらについて、一つ一つ思い出して反省をすることに当ります。これはいわば煙草の煙を、火のついた煙草を持った手で消そうとするようなもので、ますます煙がつのるばかりであります。いくら努力しても混乱が深まるばかりなのであります。また小懺悔は、暗い部屋を明るくするのに、暗さをみがいて消して行って、光りが来てもいいように明るくしてから電燈をつけようとしているようなものでありまして、これでは永遠に部屋は明るくならないのであります。

 これに反して、大懺悔というのは、暗さを放っておいて電燈をつけるようなものであります。電燈をつけさえすればいいのであります。電燈をつけるのに当るのが、「實相を讃え喜ぶ」ことであります。「すばらしい、有難い」と喜ぶことであります。それ一つだけですべての不完全は消えるのであります。なぜならば、神は不完全をつくり給うていないからであります。

 神の創造し給うた世界には、不完全はない――實相の自分を素直に喜ぶことであります。暗ければ暗いほど、その暗さを忘れてしまって、明るさを持ってくることだけをやればよいのであります。たまには實相をみて自分をほめ、たまには現象をみてそれを無くそうと厳しく反省をする、というように、前を向いたり後ろを向いたり、していてはエネルギーの無駄使いとなります。それどころか心が前後に分裂してしまって、ノイローゼになってしまうのであります。ただただ神の子はまっしぐらに、光を喜んで前進するだけでよいのであります。

 あるとき練成を受けに来られた男のご老人がありました。「神の子である私は、すべてよくなる、ますますよくなる」ということを毎日毎日となえて、喜びの生活がはじまったのであります。

 ある日、田んぼに出られて畔(あぜ)の草かりをしていたのであります。「ますますよくなる。ますますよくなる。ありがたい。ありがたい」と喜びながらやっていると、チカッと何かが手にかみついたので、手をあげてみるとマムシがかみついていたというのであります。その人はそのままで、「これでよくなる。ますますよくなる」と言ったというのであります。マムシはバタッと落ちると逃げて行きました。

 それからその人は、マムシの毒のために意識不明になり、高い熱が出て、身体はゴム風船のようにはれ上り、一週間そのままの状態がつづいたのであります。それでもうわごとで「これでよくなる。ますますよくなる」と言っていたそうであります。だいたい、マムシにかまれてここまで生きておられるのがもう奇跡的なことなのでありますが、一週間たちますとハレがいっぺんに引くと同時に、実はその人は全身の関節リュウマチで、冬になると関節に布団針をさしこまれるような激痛に悩まされていたのでありましたが、そのハレが引くと同時にそれっ切り、その関節リュウマチが消えてしまったというのであります。
<つづく>

688復興G:2013/04/19(金) 22:58:56 ID:AB6RqYXc

<榎本恵吾先生の『研修のヒント』 つづき>

 この話には、実にさまざまなものを教えてくれるものがあります。実に素直なこの人の心境が伝わってくるのを憶(おぼ)えるのであります。

 ひとつの体験というものが生まれますと、それを聴く人によってさまざまなものが受けとられるのでありますが、この人がまむしにかまれているのを見たとたん、「自分はここまで練成を受けて来たのに、自分の心の中にはまだ他人(ひと)にかみつきたい心があるから、こんなことになったんだ。自分は駄目だ」という反省の方に心を持っていかず、「これでよくなる。ますますよくなる」と前へ前へとつき進んで行って、決して反省という後ろ向きになっていないところが実にすばらしいと思われるのであります。

 心のあり方に捉われて反省していたのでは、助からなかったのではないかと思われるのであります。ここに、宗教のとりあつかう生命というものが、反省をとび超えて喜ばしいものを実現するものだということを、教えてくれているように思われるのであります。暗さを消すには電燈をつければよい、ということを生きておられる話だと思われます。

「現象は無い」ということ。生長の家のみ教えの根本の真理は「現象なし」ということにあります。現象をみれば、たしかに、この方は人にかみつきたい心があって、その心の現われとしてマムシにかまれるということが出て来ている、ということは間違いのないことなのであります。この心の法則というものは、絶対にくるわせることは出来ないのであります。

 イエス・キリストも「汝もし右の頬をうたれなば、左の頬をもめぐらしてこれに打たせよ」といっているのでありますが、大体イエス・キリストともあろうものが、なぜ人に右の頬をなぐられることになるのかということが問題であります。これはやはりイエス・キリストが人をたたきたい心があるからであります。その結果なぐられることになったということは間違いのないことであります。

 この心の法則というものは絶対に間違いのないことなのでありますが、ただしこれは現象の法則でありまして、現象は無いのでありますから、この法則そのものが「無い」法則なのであります。心の影が現象であるというのですが、心そのものも現象であって、實相、實在ではないのであります。だからこそ、どんなに現象が現われていても實相は傷つくことなく輝きっぱなしであります。

 そして「現象は雲のようなもので、形に現われると心の業も消える」という法則によりまして、たちまち消えて、しみひとつついていない青空ばかりが残るのでありますから、形に現われましたことは放っておいて、實相の方を喜んで行けばよいのであります。

 實相を喜ぶ心は實相の心であります。その心がここに生きており、その心が神でありまして、「これでよくなる。ますますよくなる」という宣言によって、ますます喜ばしいものをその人の周囲に実現して行くのであります。それで「これでよくなる。ますますよくなる」ということにより、このようなすばらしいことが現実化したのであります。

 私たちにとっては、ただただ光りの前進があるばかりであります。

 西洋の物語で、ある山の上にすばらしいものがあって、それをとりに行くのに山頂に近づくと、後ろから美しい声が聴こえてくるのです。そしてその声の方をみようとふりかえると、たちまちその人は石にされてしまう――という物語は、お読みになったことがあると思いますが、この後ろをふりむくというのが、われわれにとりましては過去をふり向いて反省するということにあたるのであります。すると現象の悪に心がひっかかりまして、その悪に自分でつかまって自縄自縛されてしまうのであります。つまり石のように動けなくなってしまうのであります。

 ところが、勇敢にも、どんな美しい声が聴こえて来ても後ろをふり向かず、山頂に登った人があったのです。そして、その宝ものを手にしたとき、今まで石にされていた人々が全部生きかえったという物語であります。

 このように、まっしぐらに光の前進のみをつづけていますと、過去のいまわしいと思われていたことも、「あれがあったればこそ現在がある」とか「あれは自分がつまらないからああなっていたと思っていたが、そうではなく、自分がすばらしかったからこそであったのか」というようなことになって、そのとき、周囲にいられた人々も自分を生かして下さる観世音菩薩様だった、神さまだったと、生き生きと輝く姿で心に甦ってくるのであります。もうこの時、私たちはその人への感謝が出来ているのであります。感謝が出来ているということは、もうそこに神さまが現われてい給うということであります。そしてますます感謝の思いがひろがって行く、ということになるのであります。

689復興G:2013/04/19(金) 23:31:00 ID:AB6RqYXc

ということで、今夜はもうおやすみにさせて頂きましょう。

また明日、明るく楽しい誌友会を続けさせて頂きましょう。

皆さま、安らかにおやすみください。

690あさひ:2013/04/19(金) 23:44:38 ID:/3nxKE2Q
656に
>※ この本部会館は「落成式典」ではなく、生長の家の大神に対して、この会館を捧げるという「捧堂式典」として挙行されている。
神様に捧げたものを勝手に壊すのはいかがなものか。<と書かれていますが、私もそう思います。

691a hope:2013/04/20(土) 00:42:30 ID:6kIbHHgs
あさひさま、こんばんは!

ご参加、うれしいです。
今回もよろしくお願いいたします。


復興Gさま

>>687
わたしは、今までこの掲示板でずいぶん勉強させていただいてきたので、
小懺悔と大懺悔については、自分なりに理解しているつもりなのですが…、
少し、わからないことがあるので教えてください。

復興Gさまが紹介してくださった、榎本恵吾先生の御文章を拝読すると、
恵吾先生が徹底的に実相独在を貫き通されていたのがわかります。

恵吾先生は、心の法則すら現象の法則なのだから「無い」法則だと、言い切ってくださっているので、
わたしはそのような恵吾先生の御文章を拝読すると、どんどん心が軽くなっていき喜びで満たされます。

ところで、この榎本恵吾先生の実相を喜んで、何か悪い(と思われること)が起きても
「これでよくなる。ますますよくなる」と心に念じて生活していくことと、
現教団のいわゆる「日時計主義」とは違いますよね?

「現象の暗い面を見ずに、明るい面ばかりを見て日記を書きましょう」という、
「日時計日記」を以前はつけていましたが、わたしの心は満たされませんでした。
そして、東日本大震災を境につけるのをやめました。

わたしは最近になって、『現象に起きている問題はすべて自分の心の影であるから、相手を責めずまずは自分の心を反省してみよう!』
と考えるようになってからのほうが、家庭生活も、仕事も、友人関係もすべてうまくいくようになりましたが…。

でも、これはまだ小懺悔の段階ということなのでしょうか?

わたしも、今夜はこれでおやすみさせていただきます。
また、明日参加させていただきます。
それでは「生長の家」のみなさま、おやすみなさい。

692復興G:2013/04/20(土) 06:37:20 ID:AB6RqYXc

神の子の皆さま、おはようございます。

今日も、すばらしい神の子の皆さまと、神様との対話、うれしいすばらしい誌友会ができますことを、心より感謝申し上げます。ありがとうございます。

昨夜は少し早くにやすませて頂き、たいへん失礼いたしました。

トキ様、あさひ様、a hope様のご投稿にしっかり向き合って考え、お答えしてまいります。

>>686 :トキ様。

>> これは、私ではなくて、私の縁者の「一白鳩会員」が話していた事で、本題とは少しずれるのですが、
 「確かに総裁の指導は全くおかしいし、また生長の家社会事業団が裁判をした点も賛成できないと思います。
 この生命の実相は、普通の本ではなくて、神様の本なのだから、双方が”ワシのものだ”と頑張っているのは見苦しい話です。
 が、信徒も今まで、聖典を軽く見ていたと感じる。生長の家宇治別格本山の先祖供養の行事でも、お焼香のときに、聖経を畳の上にじかに平気で置く人がおおいし、白鳩会の行事でも、生命の実相を粗末に扱う人はよく見る。今回、こういう事が起こって、はじめて聖典や聖経のありがたみが分かったのではないか。
 その意味では、よい勉強になったと思います。」
という意見を述べていました。
 とはいえ、争いは悲しいとは思います。<<

 おこたえが遅くなって申し訳ありませんでした。
 全く、「一白鳩会員」様のおっしゃるとおりだと思います。すべて、同感しております。

 今、このように『生命の實相』を大切に学ぶweb誌友会ができるのも、今まで聖典を軽く見て真剣に学んでいなかったために、著作権をめぐる裁判などの混乱がが起きてきたことにより、はじめて聖典や聖経のありがたみが分かってきたからだと言えるでしょう。

 その意味で、現在の状況は、私たち生長の家の神縁に触れたすべての神の子たちに、真剣な勉強、学びを促されている絶好の機会なのだと思われます。
 そう考えると、総裁をはじめ教団の方々、また社会事業団や「学ぶ会」など、“本流”(教団側から言えば“別派”)の方々、共に理由があって現在の状況をつくりだしておられるのだと思えてきました。

 「今」に感謝いたしましょう。そして、「今」としっかり向き合い、「今」の意味をかみしめながら、生命の実相哲学、神様の真理を、しっかり学び、実践させて頂きましょう。ありがとうございます。

693復興G:2013/04/20(土) 07:22:12 ID:AB6RqYXc

>>690 :あさひ様。

ご投稿ありがとうございます。

>>656
>>>※ この本部会館は「落成式典」ではなく、生長の家の大神に対して、この会館を捧げるという「捧堂式典」として挙行されている。神様に捧げたものを勝手に壊すのはいかがなものか。<と書かれていますが、私もそう思います。 <<

 私も、そう思っております。
 当時の谷口雅春先生の御文章に

 ≪光明の塔部の最上層の室は、「栄光の間」と名付けられ、その下の塔部の室は「祈りの間」である。「栄光の間」は、維摩の居室が「空っぽ」であったと同じく「空」であって何の置き物もない。「空」にして無礙光であるのが神であるからである。栄光の間にて拍手して礼拝すれば、四壁にその拍手の響がこもって天地に感応するような感じがするのである。≫

 とあること。また

 ≪建物はただの物質であるけれども、それは百萬信徒の「まごころ」の結集である。「まごころ」と云うものは肉眼に見えないから、肉眼で見ると、ただの実業のビルディングでもこう云う聖堂でもただの「形」である。けれども「まごころ」が結集してこれだけの建物が建つと云うことは「容易ならぬこと」である。≫

 とあることに、深い感銘を受けました。

 「まごころ」は、「神の心」であると思います。
 聖経『続真理の吟唱』の中の「われら“誠”を生きるための祈り」には、次のようにあります。

       ○

    われら“誠”を生きるための祈り (聖経『続真理の吟唱』161頁より)

 “誠”とは「成る言(ことば)」と書くのである。自己に宿る神の至上命令たる“言(ことば)」”を生きることを“誠を尽くす”というのである。その“言(ことば)」”とは、『ヨハネ伝』福音書には「はじめに言(ことば)」あり、言は神とともにあり、コトバは神なりき。よろずのもの是に由りて成り、成りたるものにひとつとして是に由らで成りたるはなし。これに生命あり」と示されていて、更につづいて「この生命は人の光なりき。光は暗黒(くらき)に照る。而して暗黒は之を悟らざりき」と示されているのである。

 ここに「暗黒(くらき)」とあるのは肉体を指していうのである。神の生命が肉体に宿って、肉体に生命を与え給い、見る力、聴く力、知る力、味わう力、創造する力等を与え給うて、肉体を生かして居たまうのである。それなのに、肉体はその内部にある聖なる生命の光に気がつかずして、肉体それみずからの力によって生きているかの如く錯覚していて、内なる光を見ることができないのである。それゆえに“誠”が生活にあらわれないのである。聖書はこれを「暗黒(くらき)」と名づけているのである。しかし肉体が生きているのは、内に輝いている神の生命の光に照らされ導かれ生理作用を営んでいるのである。そしてその光はイエス・キリストだけに宿っているのではない。だから「もろもろの人を照らす真の光ありて、世にきたれり」と聖書は録しているのである。

 「世」とは「世界」のことであるが、「肉体」も一つの世界であるのである。ところが暗黒なる此の物質の世界は、もろもろの人を照らす真の光ありて「世」に来り、その光は「世」に在り、「世」はその光に由りて成りたるに、「世」はこれを知らなかった。それゆえに聖書はこれを歎いて「かれは己の国にきたりしに、己の民は之を受けざり」と書いているのである。

 けれどもこの光を素直に受けて、自分を生かしているのは物質ではない、肉体ではない、自分を生かしている光は神の生命であると悟った者は――という意味で「されど之を受けし者、即ちその名を信ぜし者には“神の子”となる権を与え給えり」と『ヨハネ伝』は書いているのである。「名」というのは「はじめに言あり」のコトバであって、万物及び人間生命の由って来る本質又は実相である。自分の生命の本質は“神のいのち”である。其の実相を知ったとき、人は“神の子”たる権を与えられているのである。
<つづく>

696復興G:2013/04/20(土) 07:41:46 ID:AB6RqYXc

>>691 :a hope様。

>>わたしは最近になって、『現象に起きている問題はすべて自分の心の影であるから、相手を責めずまずは自分の心を反省してみよう!』と考えるようになってからのほうが、家庭生活も、仕事も、友人関係もすべてうまくいくようになりましたが…。
でも、これはまだ小懺悔の段階ということなのでしょうか?<<

a hope様は、すばらしい「一切者の自覚」に立たれて、『現象に起きている問題はすべて自分の心の影であるから、相手を責めずまずは自分の心を反省してみよう!』と考えられたから、すべてうまくいくようになられたのでしょうね。
そして、いつまでも自分を責めているのではなく、「感謝」の気持になっておられるので、必ずしも「小懺悔」にとどまっておられない。「感謝」して「喜ぶこと」こそ「大懺悔」だと、私は思います。

「一切者の自覚」、そして「感謝」はすばらしいですね。
私も、そうありたいと思います。

ありがとうございました。

697復興G:2013/04/20(土) 08:41:19 ID:AB6RqYXc

>>696のつづきです。
『幸福を招く365章』の117頁以下に、次のような御文章がありました。

         ○

    既に天国の饗宴に招かれている

 吾々が宗教的立場に立つ限りにおいて、現象界のことは別に思い煩う必要はないのである。それぞれの役目の人がそれぞれの立場に配置してあってそれぞれの役目を果していてくれているのである。地上に天国浄土が実現するには色々の役者が要るのであって、シテもワキも、二枚目も三枚目も馬の脚も要る訳である。吾々は此等の舞台上の役者と議論を戦わす必要はないのである。唯、各々がその役目を最も完全に実現してくれるように祈っていれば好いのである。尤(もっと)も自分自身も局外者と云う役ではなく何らかの役目を割当てられているのだけれども。吾々は神様が主催される天国の婚筵(こんえん)に招かれる客のようなものである。すでに御料理は出来ているのである。ただ、ハイとその招待をお受けすれば好いのである。

         ○

上記
≪それぞれの役目の人がそれぞれの立場に配置してあってそれぞれの役目を果していてくれているのである。≫

――「お役目ご苦労様です」と、それぞれの立場の方たちに感謝しながら、「自分自身も局外者と云う役ではなく何らかの役目を割当てられているのだ」と自覚して、内なる神のみ声を聴き、使命感のままに行動して行く。

そうありたいと思います。

698復興G:2013/04/20(土) 08:54:59 ID:AB6RqYXc

>>694の続きで、思うことすが・・・

>>御神像が山梨県の「森のオフィス」に移されることに決まったそうですから、御神像のない本部の「光明の塔」を遺してもあまり意味はなくなるので、取り壊されることになるのではないかと思われます。<<

 と書きましたが、御神像は、制作当時の状態に復元した新しいレプリカを造ることも可能でしょう。
 レプリカを造ったとしたら、原宿と山梨と、どちらをレプリカにするか。
 原宿の「光明の塔」から現在の像を外して山梨へ移送するのは、破損のおそれもあり大変なことですから、私は現在のものを原宿に遺し、山梨の方に、新しく復元したレプリカを置くのが適当だと考えます。
 皆さまはどう思われますか。

699復興G:2013/04/20(土) 09:13:16 ID:AB6RqYXc

web誌友会の本題からはずれてしまって、申し訳ありませんが、はずれついでに、>>694の続きでもう少し思ったこと――。

昔の日本女性は、各自で裁縫をして、使命を終え使えなくなった縫い針は、「針供養」をして感謝の祈りを捧げてからお返ししたものです。

仮にもし原宿の本部会館を取り壊さざるをえなくなった場合は――「針供養」どころではない、総裁をはじめとして本部職員、信徒一同、「まごころ」からの感謝を捧げ、盛大な感謝供養祭を行うべきだと思いました。

しかし、そうではなく、「本部会館を(耐震補強をして)創建当時に復原、保存を!」ということが、最もよいことであろうと、私は思います。

700トキ:2013/04/20(土) 09:57:37 ID:DWumjrqI
 おはようございます。

 教区の人間から見ますと、本部というのは滅多に行かない場所です。教区五者の場合は、それでも1年に数回は用事で行きますが、
それ以外の信徒さんから見ると、ほとんど行く機会がありません。中には、一生に一度という人もいると思います。そういう人にとって
直接の影響はすぐにはないのは事実です。

 ただ、遠方の教区の人間でも、生長の家以外の用事で東京に行く事はあります。昔は、そういう場合に気軽に寄って、知り合いの本部員
と食事をしたり、本部の早朝行事に出席したり、という事が可能でした。その意味で、地方の信徒にとっては、ある意味では心のよりどこ
ろ、という場面があった感じます。

 ところが、山梨県北杜市というのは、これは山梨県北杜市の皆様には御詫びしますが、あまり他府県の人は行かない場所です。私個人と
しては何か、地理的にも、精神的にも、本部が信徒さんから離れた場所になったような気がします。

 私も、今回の本部移転の話が出てから調べたのですが、今の本部に設立には多くの方の善意の寄付が集まったようです。今と違って、当時
の日本は貧しく、みんな苦労してお金を拠出したと思います。そういう事情を考えると、今回の本部移転は勿論、決定に至る経過も残念に
思う点はあります。あと、山梨県北杜市の市議会で、出席者が生長の家を激しく批判されていた点も、素直に受け取る必要はあると感じます。

 既に山梨県北杜市に本部の建物が着工され、今年の7月7日に移転するので、今更中止にはできないとは思います。が、何らかの形で、
建物の一部やご神像は残せないのか、と考えてしまいます。例えば、東京第一教区は本部の建物の裏にありました。東京第一教区は東京に
残るのですから、地方から出て来た信徒さんの受け皿になるような建物や体制になって欲しいとは思います。その意味では、ご神像も、
復興G様の言われるように、東京にあって欲しいと願います。

701復興G:2013/04/20(土) 10:11:56 ID:AB6RqYXc

トキ様、ありがとうございました。

>>693のつづき、694を修正して再投稿します。
順序が前後しますが、皆さま、693につづくものとしてご覧ください。
(友人の個人情報を削除したものです)

<われら“誠”を生きるための祈り(聖経『続真理の吟唱』より)のつづき>
 「言は肉体となりて我らの中に宿り給えり」われら即ちすべての人間に言は宿っていて、それが仮に肉体の姿をあらわしているのである。この実相を知っても知らないでも本来人間は“神の子”であるけれども、それを知らない間は“神の子”たる権を行使することはできない、一種の放浪者であり、迷い児であるのである。彼は虚仮不実(こけふじつ)の仮存在であって「誠あることなし」である。
 人が誠実に生きるとは“単に真剣に生きる”ということではなく、人間の本質であるところの実相すなわち“神の子”の自覚に基づいて生きることなのである。われらこの真理を悟り得たるは神の導きにほかならず、神に感謝し奉る。ありがとうございます。
       ○
 原宿の本部会館が建設された頃の日本は、敗戦占領下から独立回復後まもなくで、唯物主義の左翼革命運動に国家が転覆しそうな危機的状況にありました。そのとき、ここで青年大会が開催され、ここから「日の丸行進」が行われたりして、世界平和の礎となるべき日本の国を護る運動の拠点ともなりました。
 前記「本部会館を創建当時に復原、保存を!」という友人のアピールの結びに、
 ≪この本部会館は「落成式典」ではなく、生長の家の大神に対して、この会館を捧げるという「捧堂式典」として挙行されている。神様に捧げたものを勝手に壊すのはいかがなものか。≫
 とある言葉に、私も魂が震えました。
 上記のアピールが届いてまもなく、4月8日の日本経済新聞夕刊に載った次の記事が目にとまりました。
       ○
  SL「デゴイチ」引き取り先求む
    静岡市、解体中止し公募
 35年にわたって静岡市内で展示された蒸気機関車(SL)D51形の引き取り先を市が探している。老朽化を理由にいったん解体を決めたが、鉄道ファンから反対の声が相次いだため方針を転換し、保存の道を探ることになった。
 このD51形は1938年に製造され、75年まで北海道で運行。引退にあわせて市がJRから借り受け、葵区の駿府城公園にあった児童会館や、城北公園で展示してきた。
 ここ数年はさびや腐食が目立つように。「無人の公園で展示を続けるのは危険」と判断した市とJRが、いったんは解体撤去を決定した。その後、「壊さないで」という電話やメールが30件以上、寄せられた。市は直前に解体工事を中止。4月中にも引き取り先の公募を始める。
   (2013.4.8 日本経済新聞夕刊)
       ○
 ――SL「デゴイチ」だって、上記のように、いったん解体を決めたものでも、「壊さないで」という電話やメールが30件ばかり届いたら、解体工事を中止したのです。
 原宿の本部会館は、生長の家人類光明化運動の記念建築物として遺されるとも聞いていましたが、御神像が山梨県の「森のオフィス」に移されることに決まったそうですから、御神像のない本部の「光明の塔」を遺してもあまり意味はなくなるので、取り壊されることになるのではないかと思われます。それは、取り返しのつかない、残念なことになるのではないでしょうか。
 「天地は過ぎゆかん。されどわが言(ことば)は過ぎゆくことなし」
 とイエスが言われた、「わが言(ことば)」すなわち神の言(ことば)である「まごころ」のあらわれとして歴史的建物を保存することであり、そのために費用がかかるならば、信徒の「まごころ」による献資を募っても、保存活動をしたら――と思いますが、皆さまはどう思われますか。

702復興G:2013/04/20(土) 10:36:24 ID:AB6RqYXc

>>700 :トキ様。

>>山梨県北杜市の市議会で、出席者が生長の家を激しく批判されていた点も、素直に受け取る必要はあると感じます。<<

――そんなことがあったのですか。存じませんでした。
具体的に、ご存じでしたら教えて頂けませんか?

703トキ:2013/04/20(土) 11:01:02 ID:DWumjrqI
>>702

 失礼をしました。北杜市土地利用審議会の間違いでした。御詫びして、訂正させていただきます。
申し訳ありませんでした。

北杜市土地利用審議会では布教活動をしない施設と宣言 (6980)

http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&amp;mode=res&amp;log=1310

http://www.city.hokuto.yamanashi.jp/biz/machi/machi/pdf/20120614.pdf

-----------------------------------------------------------------------------

自分達のことしか考えていない (7016)
日時:2013年03月10日 (日) 09時20分
名前:童子

 議事録の末尾に、生長の家関係者が退出した後の委員の発言があります




 ・・・私も我慢をしていましたが、一言言わせていただきます。

 今の宗教法人の方々のお話には決定的な欠陥があります。

 あの人たちは宗教家ですが、分っていません。

 よく話し合いをしろ、ということの意味がわかっていません。

 この人たちは自分達のことしか考えていません。

 自分達のことのみで、物事を進めています・・・・。

704トキ:2013/04/20(土) 11:28:39 ID:DWumjrqI
>>703

 追伸すると、総本山の建立のときには、地元の議会が生長の家招致委員会を作った、という話を聞いています。

 審議会の委員の話を拝見すると、生長の家というよりも、宗教法人への警戒心があるみたいです。しかし、それを
考慮に入れても、地元の方々から歓迎されない姿勢は残念だと思います。

・・・・すみません、話がずれてしましました。

705復興G:2013/04/20(土) 13:38:30 ID:AB6RqYXc

>>703>>704 :トキ様。

上記、北杜市土地利用審議会の会議録は、前に私もプリントアウトしてよく読みました。(それはもう捨ててしまったようで、今手許にはありませんが)光明掲示板の「童子」様の投稿文には、少し誤伝達があると思いました。

議事録の末尾に、生長の家関係者が退出した後の委員の発言として、

>>今の宗教法人の方々のお話には決定的な欠陥があります。あの人たちは宗教家ですが、分っていません。よく話し合いをしろ、ということの意味がわかっていません。この人たちは自分達のことしか考えていません。<<

という
「あの人たちは宗教家です[が]、分っていません。」
のところは、会議録原文では
「あの人たちは宗教家です[から]、分っていません。」
となっていました。

で、「宗教家です[から]」というのは何を意味するのだろうかと考えて、その前後を見ますと、他の営利会社などがこの地に進出してきたときにはこういう(経済的?)利益、便宜を地元に与えた。生長の家もそういうことを考慮してほしいが、「宗教家だから」そういうことは分からないだろう、という意味にとれました。

自分たちの物欲的利益がほしいということなので、生長の家関係者がいる前ではあからさまに言えなかったのだろうと、私は思いました。

で、議長は「分かった。そういうことにも努力するから」という意味のことを言って、結局満場一致で承認された、というのが会議録であったと記憶しています。

物事は偏見や誤解をなくして正確に事情を把握することが必要だと思います。

706トキ:2013/04/20(土) 14:16:10 ID:DWumjrqI
>>705

復興G様

 貴重なご指摘、ありがとうございました。この点について、少し個人的な感想を申しあげます。

 例えば、長崎の総本山の団体参拝練成会では、最後に地元の土産物屋さんを集めて
参加者にお土産を買う時間をもうけています。生長の家宇治別格本山では、盂蘭盆供養大祭
のときに、地元の商工会の協力で盆踊りを開催しています。宗教法人はあくまでも地元から
見たら余所者ですから、地元の溶け込もうとしたら、その点の配慮は必要かと思います。

 聞く所では、今回の「森のオフィス」の建設にあたっては、清水建設だけが担当し、
地元の業者は関与していないみたいです。これは、技術的な理由によるものでしょうが、
地元の人達にしたら、東京の宗教法人が、東京のゼネコンだけで大きな建築をするのは、
理屈はともかく感情的に考えて、面白くないだろう、というのは想像できます。

 大きな工事になると、地元に有形無形の迷惑はかけるでしょうから、どこかで地元の
人にも還元する手法をとれば、と思いました。

 ただ、私の書き方は誤解をうむ表現でしたので、その点は反省し、お詫びしたいと思います。
今後ともご指導の程、お願いを申しあげます。

合掌 ありがとうございます

707復興G:2013/04/20(土) 15:17:58 ID:AB6RqYXc

トキ様

ありがとうございます。

「一切の人に、物に、事に行き届くべし」ですね。

ご意見、ありがとうございました。

708トキ:2013/04/20(土) 15:39:15 ID:DWumjrqI
>>707

 はい、その通りですね。今後きをつけます。

709a hope:2013/04/20(土) 15:48:29 ID:6kIbHHgs

みなさま こんにちは

誌友会での話題が原宿本部や森のオフィスのお話のようです。
それは、すでに教団を退会したわたしが積極的に発言するような内容ではないので発言を控えさせていただいています。

ですが、以前goroさまが『山梨に移転後の原宿本部を取り壊さずに、記念館のような形で信徒の交流の場として提供してくださる』、
というような情報をこの掲示板にお知らせくださったことを思い出したのですが、わたしの記憶違いでしょうか?

goroさまは最近書き込みされていないようですが、ご覧になっているようでしたらその件に関する情報をもう一度いただけるとありがたいです。

原宿本部や御神像の行方はたくさんの信徒の方々にとって、関心度はとても高いのではないでしょうか?
それなのに、この時期になっても、本部から信徒の方々に正確な情報が入らないというのは、
世間一般的に考えるととても不思議なことのような気がしますが…。

みなさんのご意見、ご感想をお待ちしています。

710復興G:2013/04/20(土) 17:03:42 ID:AB6RqYXc

>>709 :a hopeさま。

今日はお仕事でお出かけかと思っていました。

>>誌友会での話題が原宿本部や森のオフィスのお話のようです。<<

これは、web誌友会の本題ではありませんね。

本題は、『生命の實相』をテキストとして学び、「一人ひとりの法燈継承」を考えることでしたね。

本題に戻しましょう。

どうぞ、ご意見、ご質問など、何でもどしどし投稿をお願いいたします。

711a hope:2013/04/20(土) 17:28:50 ID:6kIbHHgs
>>710 復興Gさま

今日は、久しぶりにお仕事がお休みの土曜日なのです。
にお天気も悪いので家で子供たちとゆっくり過ごしていました。

原宿本部会館や森のオフィスのお話も、これからの「生長の家」にとってとても大切なお話だと感じています。
本題からはずれているかもしれませんが、お話する価値のある内容だと思います。

復興Gさま、みなさま、どうぞお話を続けてください。
わたしも、思う事があれば発言させていただきます。

712トキ:2013/04/20(土) 19:13:21 ID:DWumjrqI
 先日、たまたま借りた本に、医学博士の堀田忠弘先生の「身体はなんでも知っている」という
のがありました。内容は、従来の西洋医学だけの限界を説明すると同時に、「病気の原因は心
の不調和である」というもので、生長の家の信徒には珍しくない内容でした。ただ、この方の
場合、長年、西洋医学で患者さんの健康を維持しようとしていて、その限界を知ったという話
でした。

 こういう具合に、過去、谷口雅春先生が説かれて来た事が、一般の人の間でも受け入れられる
ようになってきています。逆に言えば、心の法則などは、生長の家以外でも勉強できる時代にな
ってきています。更には、戦後の時代には、愛国心が軽視されてきましたが、その中を谷口雅春先生
は断固、愛国運動を展開されました。現代では、憲法改正が現実の議題にあるまでに世論は変化して
います。

 しかし、谷口雅春先生の唯神実相論は、生長の家でしか勉強できない事であります。
皮肉にも、それが現代の教団で軽視されているのは、寂しい事だと思います。

 とはいえ、嘆いてばかりでは何もすすみません。戦争中、英語の授業が廃止されると、向学心の
ある人は、英語の教師の家へ通って勉強をしたとききます。一人一人の信徒が、生長の家の真理を
勉強するのは、誰も邪魔は出来ませんから、一人一人が真理を勉強する時期だとは思います。

713トキ:2013/04/20(土) 19:47:02 ID:DWumjrqI
 実は、生命の実相の第3巻を読んでいたのですが、p152にこういう事が書いてありました。

 「病気などはなんでもありませんが、病気の治ることなどよりも大切な家庭のなかの和解が
そこに成立した。神の教えいうものは愛の教えの和合の教えであるべきですから、家族の一人が
何教を信じたがために、父子互いに相争うようなことになる教えは、その教えそのものが本来
いかによくても、その教えを信じる人おのおのの理解に片寄りがあるからである、この片寄りが
とれて、本当の神がわかり、自分の生命の本当の相というものが解ってくると、人間はその生命
の実相において一体であるから、ひとりでに和合せねばならなくなる。」

と谷口雅春先生はご指導をされています。これを拝読すると、谷口雅春先生は、宗教を奉じた
ために争いになるのは、間違っている、と言われていると私は解釈をしております。

 それで感じるのですが、私は教団に会員ですが、教団内の雰囲気がたいへん不調和になったと
感じています。しかし、個人としては、そういう不調和な世界とは波長を会わさない事には
どうしたら良いか、思案中であります。


 さらに、読み進めますと、p154には、

A- ある宗教では、宗教を信じたがために家族仲たがいをさせたりすることがありますが、
  生長の家の教えは家族を互いに和合さす働きをするのが尊いことだと拝ませていただいて
  おります。「生命の実相」という合本聖典の書名も実に内容にふさわしい名前でございま
  すねえ。

谷口ー合本の書名は誌友から公募し、応募されたなかから神示に従って定めたものですが、
   あれは北海道の青木応倫氏の命名です。

とあります。聖典の書名でも、信徒の意見を聞かれたぐらいですから、よく信徒の意見を
聞かれたと私は考えています。その聖典をめぐって争いが起こった事は、谷口雅春先生
に本当に申し訳ないと感じます。また、命名者が自分ではない、と正直に言われる
谷口雅春先生の雅量の大きさにも感嘆します。

 どうも、とりとめもない事を書きまして、すみません。

714復興G:2013/04/20(土) 20:57:30 ID:AB6RqYXc

さて、テキストに帰りましょう。

テキスト『生命の實相』第3巻で、2番目に掲載されているのは、「万教帰一の神示」と称されている神示です。
この神示の冒頭に、次のように記されています。

≪ われに姿かたちがあるように云うものあれどわれは姿なきものである。われは道(ことば)である。われは霊性である、知恵である、愛である、生命である、われは如来である、われは一つにして多である。

 信仰深き諸方の霊覚者にわが神姿を示したることあれども、そはわが真の姿に非ず、見えたる神姿は霊覚者の心識の所現にも非ず。そは、われ神通力によって、疑う者の蒙を啓(ひら)かんがために、異る場所と異る人とに同じき一定の神姿を示して、神の客観的存在を実証したに過ぎない。

 されど、本来われに一定の神姿はない。如何なる姿も欲(おも)いのままに現ずることが自由である。されば、嘗てわれ汝に告げたのである「われに神殿は不要である」と。われは神殿がないとて身の入れ場所に困るような神ではない。供え物も要らぬ。わが姿を見んと欲(ねが)うものは『生長の家』を読め。われは言葉である。わが言葉を盛る雑誌こそわが神殿である。この雑誌がひろがるのこそわが神殿の大きくなることである。≫

 と書かれており、『神ひとに語り給ふ』の中のご講義では、

≪「われに姿かたちあるように言うものあれどわれは姿なきものである」と、神示にありますが、これは神様とは如何なるものであるかということを示しているのであります。「われ」というのは神様御自身を指されたのであります。時々神の姿を見たと言う方がありますが、本源の神様には姿がないのであります。それを無相と謂(い)います。無相だからどんな相(すがた)もないのかと思うと、無相であるからどんな相でも現ずることが自由であるのであります。だから、神は無相にして無限相であるというのであります。

 現象界の相(すがた)のあるものはそういうように自由に姿を変ずるわけにはゆかんのであります。姿がないからこそ何にもさわりになるものはない、姿が限定されません。姿が限定されませんからどんな姿にも現れられるのであります。≫

と書かれていますから、今原宿の本部会館に鎮座されていて、まもなく山梨の方へ移転することになっている御神像は、「これこそが生長の家大神のお姿」というわけではない。「その一つの現れ」であるということですね。

 ですから、御神像が生長の家の本尊というわけではない。もしそうだったら、偶像崇拝になってしまいます。生長の家の本尊は人間の内に宿る、目には見えない宇宙大生命であるわけです。

 ならば、「御神像」にあまりこだわる必要はないわけですが――やはり一つの象徴として、造られたものはその心を大切に保存したい、ということでしょうね。

715復興G:2013/04/20(土) 21:06:36 ID:AB6RqYXc

「万教帰一の神示」には、つづいて

≪ われにすがた形はない。われは霊の海である。大海原である。すべての宗教(おしえ)流れ来りて吾れに入らん。吾れは完成する者である。われは「七つの燈台」に燈(ひかり)を点ずる者である。古道も、仏教も、キリスト教も、天理教も、金光教も、黒住教も、大本教も、すべての教え我に流れ入りて生命を得ん。

 われは大(おおい)なるものなるかな。すべての教えを呑吐(どんと)してこれに生命を与え、すべての相争う教えをその神髄に於いて握手せしめる。吾れはすべてを包容し、すべてに光を与え、すべてに栄養を与え、すべてを生かす地下水である。他の如何なる宗教をも誹(そし)らず批(う)たず常に讃頌(たたえごと)と、善き言葉とを雨ふらして、それを浄めその神髄に燈(ともしび)を点ずる。

 あらゆる宗教がその神髄を礼拝して手をつなぐようにならねば此の現実世界の改造は完成せぬ。精神界が先きで現実界はその影である。元乱れて影完(まっ)たからず、宗教家よ、宗派争いをしている時ではない。
   (昭和六年四月五日神示) ≫

 とあります。そしてそのご講義(『神ひとに語り給ふ』)には

     ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

〔万教帰一の神示 ご講義〕

・・・・・・現象界のものは時間空間に限定されて形が各々異って独特の姿をしている。ところが、神様は姿かたちがないから無限の姿を持っておられるのである。また姿がないから一定の形の宮や神殿の中におらねばならぬことはないのです。それで「吾れに神殿は不要である」と書かれていて、神様のお宮や神殿みたいなものは宇宙の本体神たる生長の家の神様には要らぬことを示されたのであります。

 既に古くからの誌友の人は御存じの方が多いと思いますが、生長の家の「生」というのは縦に生(の)びるという意味の文字であります。「長」というのは横に「長く」延びる、即ち延長するということで横広がりの世界――「空間」を象徴しているのであります。

 縦につづいているのが「時間」である。時間は縦に心の世界で象徴されるのであります。吾々のいのちを、お父さん、お祖父(じい)さん、曾祖父(ひいじい)さんと縦に遡(さかのぼ)って行く。この遡って行くのは時間的にさかのぼってゆくのですね。吾々の現象的にあらわれている生命の本質は「時間」の持続で出来ています。その時間を象徴するのに、何の某(なにがし)家の系図とか何とかいう場合には、上から下へと縦に線を引いて、「時間」又は「いのち」の持続または継続をあらわすのであります。子孫から先祖に遡るという場合には下から上へと縦の線を引いて示します。こういうように、「時間」という観念は、吾々の心の世界で縦の連想を有(も)っているので、それで縦の線を以って仮りに時間を象徴的に表すのであります。

 さて十字を描きますと、此の縦に生(の)びる線が「時間」にあたるので、これが生長の家の「生」であります。「生」という字は、樹木が無限に生びるという意味が表されているのであります。楠でも杉の木でも老衰することなく無限にのびます。それで時間の無限持続を象徴して十字の縦の線があります。これは時間の無限持続――即ちつづきであります。

 それから「長」の方は空間的ひろがりであります。こうして十字は持続と広袤(こうぼう)――「つづき」と「ひろがり」――「時間」の続きと「空間」的広がりをあらわします。

 この「時間」と「空間」とが十字にまとまって、天球(あま)となり「家」を成します。その「家」即ち宇宙を形成しているのが生長の家であります。ですから、大宇宙全体のことを生長の家と言うのであります。そして「生長の家の神」というのは大宇宙の神という意味であります。別に「生長の家」という一宗一派の本尊の神というような他宗と対立するような神ではないのであります。

 宇宙の中に神様が生れたのではなく、神様の生命そのものの広がりが宇宙であります。

 「吾れは智慧である、生命である、宇宙である」と「新天新地の神示」 中に書かれてありますが、宇宙そのものが神様であるわけです。

     ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 とあります。
 ここは、とても大切なところであると思います。

716復興G:2013/04/20(土) 21:34:11 ID:AB6RqYXc

 現象界のすべてのものは、時間と空間というスクリーン上に映し出された映像(かげ)であって、本来無である。

 地上のすべての宗教というのも、現れたすがたは映像(かげ)であって、無でありますね。

 しかしながら、

「宇宙の中に神様が生れたのではなく、神様の生命そのものの広がりが宇宙であります。」(神示ご講義)

という、時間・空間をも生み出された本源の神は、映像(かげ)ではない。影を映し出している第一原因者であって、現象界の一切の対立を超えている。それを「絶対者」という。

すべての宗教は、この「絶対者」なる神(仏)において本来「一」であるから、「万教帰一」となる。

映像(かげ)にすぎない現象のコトバを比較して共通点を見出し「万教帰一」を見出そうとしても、それは不可能であって、「時間・空間がまだ現れない、その元のところ」すなわち「久遠の今」に立ち、「久遠の今」にこそ「アブラハムの生まれぬ前(さき)より吾はあるなり」と言い、黙示録では「我は最先(いやさき)なり、最後(いやはて)なり、活ける者なり、我れ曾(かつ)て死にたりしが、視よ、世々限りなく生く」と言った「永遠のキリスト」の命があり、「天上天下唯我独尊」と言った釈尊の命があり、「自分もまた、明治二十六年十一月二十二日に母の肉体より誕生したのではなかった。そして、現在の今はじめて悟ったのでもなかったのである。ここのままで、久遠の昔、そして久遠の今、はじめなき始めから仏であった自分であったのだ」(自伝篇)とおっしゃっている谷口雅春先生の御命があり、自分もまたその永遠の生命がわが本体であると知るとき、はじめて「万教帰一」が成り立つのだと思います。

717復興G:2013/04/20(土) 22:59:36 ID:AB6RqYXc

では、皆さま、また明日がありますから、今夜は少し早いですが、私は寝ませて頂くことにします。

おやすみなさい。

718トキ:2013/04/20(土) 23:29:22 ID:DWumjrqI
>.717

復興G様、ご指導、ありがとうございます。皆様、ご投稿をお願いいたします。

719トキ:2013/04/20(土) 23:33:40 ID:DWumjrqI
>>714

復興G様


>.ですから、御神像が生長の家の本尊というわけではない。もしそうだったら、偶像崇拝になってしまいます。生長の家の本尊は人間の内に宿る、目には見えない宇宙大生命であるわけです。
>>ならば、「御神像」にあまりこだわる必要はないわけですが――やはり一つの象徴として、造られたものはその心を大切に保存したい、ということでしょうね。


 どのテープだったか失念をしたのですが、谷口雅春先生が、ご講話のテープで、「実相直視は大切だが、人間の世界で生きる以上、ある程度の人間味というのも大事だ」と
言及され、
 「母親が死んだときに、笑い乍ら、”あれは死んだんじゃないのだ、御月さんが欠けたのと同じだ”(場内、爆笑)と言ったら、おかしいでしょう。」

と言われた事があったと記憶しています。(最近、記憶力が落ちて、もし、間違いだったら、ごめんなさいです。)

 もちろん、ご神像は本尊ではないのですが、人間の気持ちとして、ご神像にこめられた誠意を大事にするのは人間として、当然だと思います。

720復興G:2013/04/21(日) 08:57:16 ID:AB6RqYXc

おはようございます。

>>719 :トキ様
ありがとうございます。

皆さま、ありがとうございます。

私は、只今『[類纂]神の真義とその理解 住吉大神顕斎の意義』(谷口雅春先生著・生長の家本部編)などの資料を丁寧に読み返し、

「生長の家とは」
「生長の家の本尊・主斎神とは」
「七つの燈台の点燈者」とは
「生長の家大神」・「住吉大神」とは
「人間とは」・「自分とは」

といったことについて、簡潔に的確に叙述してみたいと思い、勉強中であります。しばらくお待ち願いたいと思います。よろしくお願い申し上げます。
合掌

721a hope:2013/04/21(日) 10:26:56 ID:6kIbHHgs
復興Gさま トキさま みなさま

おはようございます。
昨晩、復興Gさまが「万教帰一の神示」とそのご講義(『神ひとに語り給ふ』より)をUPしてくださったので、
それに関して何か投稿しようと思ったのですが、この「万教帰一」は「生長の家」の教えの神髄であって、
とても高度な内容だと感じているので、なかなか、どのようにコメントしていいのか考えあぐねていました。

ところで、『神ひとに語り給ふ』は確か絶版になっている聖典で、購入することはできませんでしたが、
ありがたいことに、光明掲示板でコスモスさまが内容をすべて謹写してくださっています。
それを、伝統さまが『神示』集というスレッドに紹介され、さらにポイントをまとめてくださっています。
お二人のご愛念に心から感謝して、こちらでも紹介させていただきます。

http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&amp;mode=res&amp;log=1177  『神示』集

http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&amp;mode=res&amp;log=416 『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻 「万教帰一の神示」

わたしは昨晩、こちらを拝読させていただいたり、また、以前のweb誌友会で「七つの燈台の点燈者」と「生長の家大神」「住吉大神」との関係を、
ユタカ(なせば成る我ハ神の子)さまや復興Gさまや他の投稿者のみなさまが話合われていたのを思い出し、それを探して拝読しなおしたりしていました。
そちらの方は、トーキングステックボードの>>1376あたりから、みなさんのお話が始まっています。
>>1393 >>1398〜 で復興Gさまが、お答えくださっていました。

ちょうど1年前になりますが、その当時、わたしにはそのお話はほとんど理解できませんでしたので、
まったくコメントしていませんが、今拝読しなおすと以前よりずっとよく理解できますし、とてもお勉強になる内容だと感じています。

「生命の實相」には、たくさんの神さまが登場されているので、きちんと「教え」を理解していないと混乱してしまいます。
>>720で、復興Gさまが『簡潔に的確に叙述』してくださるとおっしゃっています。

本当にありがたいです。
復興Gさま、どうぞよろしくお願いいたします。

722トキ:2013/04/21(日) 13:17:16 ID:aGc6KgHM
>>720

 早速のお返事、恐縮しております。暖かいご愛念に深く感謝申し上げます。

合掌 ありがとうございます

723復興G:2013/04/21(日) 14:27:51 ID:AB6RqYXc

>>721 :a hope様。

反応が遅くなって、すみません。

>>『神ひとに語り給ふ』は確か絶版になっている聖典で、購入することはできませんでしたが、ありがたいことに、光明掲示板でコスモスさまが内容をすべて謹写してくださっています。<<

それは、ありがたいことですね。
私も全文アップできるように用意はしていましたが、その一部ずつしか掲示はしていませんでした。

>>以前のweb誌友会で「七つの燈台の点燈者」と「生長の家大神」「住吉大神」との関係を、ユタカ(なせば成る我ハ神の子)さまや復興Gさまや他の投稿者のみなさまが話合われていたのを思い出し、・・・<<

ありがとうございます。

私も、その「トーキングスティック板」と、第1回WEB誌友会が開催された当時の「部室板」を読み返してみて、よく書かれているなと、感心しています(笑)。
ユタカ様が、『生命の實相』第1巻巻頭になぜキリスト教の「黙示録」が出てくるのか? またその「七つの燈台の点燈者」は住吉大神であると言われるわけは? といった質問を出され、それにお答えしたものでした。

私は、「光明掲示板」に書かれている中村晃生氏の「マサノブ教批判」シリーズに、「ご神像」のことも出てきましたので、最初から全文をダウンロード、プリントアウトして読み、それに対し同意できるところと反論すべきところを書いてみようとしていました。

そのことにも関連しますので、まずは、前記の<七つの燈台の点燈者 即 住吉大神>ということについての投稿文を、再録させて頂きましょう。

 まず、ユタカ様のご質問です。

          ○

[質問]:『生命の實相』第1巻巻頭に

<我振り反(かえ)りて我に語る声を見んとし、振り反り見れば七つの金の燈台あり。また燈台の間に人の子のごときものありて足まで垂るる衣を着、胸に金の帯を束ね、その頭(かしら)と頭髪(かみのけ)とは白き毛のごとく雪のごとく白く、その目は炎の如く、その足は炉にて焼きたる輝ける真鍮のごとく、その声は衆(おお)くの水のごとし。その右の手に七つの星を持ちその口より両刃(もろは)の利(と)き剣(つるぎ)いで、その顔は烈(はげ)しく照る日のごとし。我これを見しとき其の足下に倒れて死にたる者の如くなれり。

彼その右の手を我におきて言い給う。「懼(おそ)るな、我は最先(いやさき)なり最後(いやはて)なり活けるものなり。われかつて死にたりしが、視よ世々限りなく生く。また死と陰府(よみ)との鍵をもてり。されば汝が見しことと今あること、後に成らんとする事を録(しる)せ。すなわち汝が見しところの我が右の手のある七つの星と七つの金の燈台との奥義なり。七つの星は七つの教会の使いにして、七つの燈台は七つの教会なり。(黙示録第1章、12節―20節)>

とありますが、生長の家は神道なのに、なぜ聖書が一番先に書かれているのでしょうか? これを質問したいです。

          ○

というご質問でした。

724復興G:2013/04/21(日) 14:46:02 ID:AB6RqYXc

>>723のつづきです。

[回答]
 『生命の實相』第1巻の冒頭に『黙示録』が引用されているのは、生長の家の大神は「七つの燈台の点燈者」すなわち『(ヨハネの)黙示録』に記されいる、永遠のキリストであるからであります。それは、次のページに「『七つの燈台の点燈者』の神示」として「大調和の神示」が掲げられておりますが、その「七つの燈台の点燈者」とは何者であるかを明らかにするため、その前に掲載されているのであります。

 「大調和の神示」に、

 「われ嘗て神の祭壇の前に供物を献ぐるとき、先ず汝の兄弟と和せよと教えたのはこの意味である」

 という言葉がありますが、これは新約聖書「マタイ伝」第5章23節〜26節にある、イエス・キリストの言葉を指しています。すなわち――

●「汝もし供物を祭壇にささぐる時、そこにて兄弟に怨まるる事あるを思い出さば、供物を祭壇の前に遺しおき、先ず往きて、その兄弟と和睦し、然るのち来りて、供物をささげよ。汝を訴うる者とともに途(みち)に在るうちに、早く和解せよ。恐らくは、訴うる者なんじを審判人(さばきびと)にわたし、遂になんじは獄に入れられん。誠に、なんじに告ぐ、一厘も残りなく償わずば、其処をいづること能わじ」

 と、イエスは言っているのであります。

 ですから、「大調和の神示」の「われ」とは、嘗てイエス・キリストとしてあらわれ教えを説いた者であるわけです。その「久遠のキリスト」が、生長の家大神であるということであります。

 このことは、『神ひとに語り給う』(神示講義「教」の巻)の中の「新天新地の神示」ご講義(p.39〜98)および「完成(ななつ)の燈台の神示」ご講義(p.232〜242)に書かれております。
(それは、この板の >>662>>663>>664に謹写掲示されています)

黙示録の「われ」というのはヨハネ伝及び黙示録の筆者であり、イエスキリストの弟子の使徒ヨハネのことであります。ところで、ヨハネに現れて黙示(啓示)を授けた永遠のキリストなる七つの燈台の点燈者が、なぜ住吉大神であるのか、ということであります。それは――

現象界のすべてのものは、四次元時空間の中に、相対的に展開されたものであります。四次元時空間と申しますのは、タテ・ヨコ・厚みの三方向のひろがりをもつ場が三次元空間であり、それにもう一つ時間という別次元のひろがりを加えた、生命表現の舞台が四次元時空間であります。ここに表現展開されたものはすべて相対的に現れており、そして、始めがあり終わりがあります。誕生した時・場所があって、死滅する時・場所があります。個別人間には皆誕生日があって、死ぬ時が来ます。

しかし、実は、この現象界は、四次元時空間というスクリーンに映し出された映画のようなものであります。その中に肉体をもってこの世に誕生したわれわれは、その四次元時空間というスクリーンに映し出された映画なる現象という世界で、その映画を見るための、五官という感覚器官を備えておりまして、その映画は仮のすがた、映像(かげ)であるにもかかわらず、影とは思わず、本物だと信じております。したがって生命は時空間の中に誕生しやがて死滅するものだと思っております。

しかし、あにはからんや、実は、映画を映しているスクリーンなる四次元時空間そのものをも創り出したのが、生命なのであります。すなわち生命は時空間の中に誕生したのではなく、時空間というスクリーンを作り肉体という表現身をもその中に現しだした主人公なのであります。それが、現象以前の、現象を超えた真理なのであります。

そのことを「永遠の真理」と申すことにいたしましょう。

この「永遠の真理」を自覚し、自由自在な生命(たましい)の解放を得たのが、釈迦でありキリストであり、天才的な哲人、宗教家、高僧などであったのであります。

また、わが日本人の祖先は、直感的にこの真理を自覚し、それを神話物語の形で伝承してきたのであります。それを、奈良時代天武天皇の命で、語り部の稗田阿礼という天才的な記憶力の持ち主が口述し太安萬侶が書き記して、712年(和銅5年)推古天皇に献上したとされているのが、日本古典の「古事記」であります。
<つづく>

725あさひ:2013/04/21(日) 14:57:16 ID:/3nxKE2Q
復興G様のお考えに賛成いたします。

>「本部会館を(耐震補強をして)創建当時に復原、保存を!」
ということが、最もよいことであろうと、私は思います<。

是非そうなって欲しいです。地方では当時の本部は竜宮城のような存在でした。

    合掌

726復興G:2013/04/21(日) 15:04:10 ID:AB6RqYXc

<つづき>

さて、「黙示録」でヨハネに現れた「人の子の如き者」すなわち永遠のキリストは、「我は最先(いやさき)なり、最後(いやはて)なり、活ける者なり、我れ曾(かつ)て死にたりしが、視よ、世々限りなく生く。」と言っております。

これは、肉体イエスは33歳で磔にかかって死んだと見えるけれども、生命の本体は時空間を超えて時空間をも創り出したもの、すなわち父なる神と一体なるものでありますから、死んでいないのであります。だから自由自在に復活してヨハネにあらわれ黙示(啓示)を与えることが出来たのであります。それで「死と陰府(よみ)との鍵を有(も)てり」――生死の鍵を握っている者だと言っているのであります。

では、住吉大神とは何者であるかと言いますと、古事記神話の中で、天照大御神様がお生まれになるに先立ち、宇宙浄めの神として、水と塩(霊)とを以て浄め給う龍宮海の神様として現れられた、上筒之男神(うわつつのおのかみ)、中筒之男神(なかつつのおのかみ)、底筒之男神(そこつつのおのかみ)と言われる三柱の神様を一体として総称し、住吉大神(すみのえのおおかみ、俗称すみよしの大神)と申しており、これが生長の家大神であると言われているのであります。

住吉大神は其の後同書に塩椎神(しほつちのかみ)又は塩椎翁(しほつちのおじ、日本書紀・神武天皇の巻)として現れ、天孫(てんそん、天照大神の御孫)ニニギノミコトの御子で皇統を継承される火遠理命(ホオリノミコト)――またの名を彦彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト、山幸彦)と申し上げる――が兄君から借りた釣り針を魚に取られて海辺で泣いておられたときに、ミコトを龍宮海にお導きして、失われた釣り針を取りもどし、美しい豊玉姫と結婚なされるようお導きをされております。

神話は、真理の象徴物語であります。

龍宮は海の底にあると言われておりますが、それは創造(ウミ)の根底(ソコ)すなわち、現象世界の一切のものを表現展開して映し出しているスクリーンであるところの時空間をも創造した、創造の根底の本源世界を象徴しています。そこにはあらゆる一切のものが備わっており、喪失ということのない世界でありますから、失われた釣り針も出てきたのは当然なのであります。

この龍宮海にお導きするとき、塩椎(シホツチ)翁、塩椎神すなわち住吉大神は目無堅間(めなしかつま)の小舟に乗せ奉ったとあります。目無堅間とは、時空間の目盛がない、すなわち時空間を超えている、時空間をも創造した根底の本源世界へお導きする船ということを意味しているのであります。

それで、「終戦後の神示」には

「われは七つの燈台に火を点ずる者である。われは白髪の老翁である。白髪とは久遠永劫よりつづく無量寿の象徴である。われは彦火火出見尊が魚(な)釣らす鈎(つりばり)を失い給ひて憂ひ泣きたまふ海辺に来りて、尊(みこと)を龍宮海に導きたる塩椎神(しほつちのかみ)である。塩椎神とは水(し)火(ほ)土(つち)之神の謂(いひ)である。霊は水火土と顕れ、一切のものは水火土から生れたのである。

 われは霊の海、創造の神である。水即ち『おしめり』と、火即ち『ぬくもり』と『土』の働きとがあって万物は生ずるのである。黙示録には『われはアルファなり、オメガなり、生と死との鑰(かぎ)を持てり』と録(しる)されてゐるのがそれである。

 われを単に海の神だと思ふな。龍宮海の神の如くあらはれてゐるのはウミ(生み)の象徴であり、龍宮無限供給の神のシンボルである。われは一切の創造(うみ)の神であるから無にして無尽蔵である。」

とあるのであります。
<つづく>

727復興G:2013/04/21(日) 15:11:18 ID:AB6RqYXc

<つづき>
神話は真理の象徴物語であり、この古事記神話は、黙示録に書かれた白髪の老翁のなる永遠のキリストが、「我は最先(いやさき)なり、最後(いやはて)なり、活ける者なり、我れ曾(かつ)て死にたりしが、視よ、世々限りなく生く。」と言っている真理と同じ真理を、別の形で表現されているものと言えるのでありまして、それ故に谷口雅春先生は、この「『ヨハネ黙示録』にあらわれた老翁のキリストが、住吉大神と一体である」とおっしゃっているのであります。と、私は理解させていただいております。

イエス・キリストが「真理は汝を自由ならしめん。汝は真理を知らざるべからず」と言った「真理」というのも、この真理であります。時空間を超えた永遠生命を自覚し、創造の根底世界即ち生命の実相に立てば、本当の自由自在を得て、限りない歓びをもって使命に邁進する事ができるということであります。

それで谷口雅春先生は「永遠(とわ)に国護り給わん」で

<まことに住吉本宮の「顕斎」とは、眠っていた実相の魂が、その眠りから目醒めて、自己が“神の子”であるということを開顕する、そしてその開顕された実相の誠実さが現実生活にあらわれる「新生」でなければならないのであります。
わたしは日本国民のすべてが住吉本宮の建立を契機としてその誠実を結集して、自己を「神の子」として礼拝し、住吉大神の分身として宇宙浄化の、そしてその浄化の中核体たる日本国浄化のために起ち上がり、単に「主よ、主よ、神よ、神よ」と呼ぶ者たるに留らず、神の御心を行ずる者となって下さることを希(こいねが)わずにはいられないのであります。>

とおっしゃっているのであります。この「眠っていた実相の魂が、その眠りから目醒めて、自己が“神の子”であるということを開顕する」というのは、永遠のキリストと一体なる、龍宮無量寿・無限供給の本源なる住吉大神とわれは一体である――という限りない歓びをもって、宇宙浄化の使命実現に邁進せよということだと思います。先生は、「住吉大神の分身」どころか「住吉大神の全心全霊」として起て、ともおっしゃったのであります。

その使命というのは、「国土安泰、万民泰平を謳歌し、天照大御神の御稜威(みいつ)六合(りくごう=くにのうち)に照り徹りて、神武天皇建国の御理想は実現せられ八紘(八方の荒れた国々)は一宇(いちう=ひとつの家の家族)となり、永久平和の世界連邦の理想達成を期するということであります。
<つづく>

728復興G:2013/04/21(日) 16:15:57 ID:AB6RqYXc

<つづき>

さて、『生命の實相』第1巻巻頭の「黙示録」について、次のような谷口雅春先生のご教示も掲示されていました――

          ○

≪ 『生命の實相』第一巻の開巻冒頭に、“はしがき”よりも、目次よりも、尚、その前の頁に、新約聖書の『黙示録』の第一章にある白髪の翁の姿をもってあらわれた「久遠のキリスト」の姿が描写されているのである。

 「何故、生長の家はキリスト教ではないのに、キリスト教聖書の一節を、『生命の實相』第一巻の“はしがき”よりも目次よりも尚前に引用して提出してあるか」といいますと、白髪は久遠の表象であり、キリスト教に於いては“生長の家の大神”は白髪の久遠神(ユダヤ人のイエスではない)としてあらわれていられるからであります。その白髪のキリストの御姿の描写の中に「その口より両刃の利き剣出で」と示されている。

 これは真と偽とを別ち美と醜とを分別し、善悪を審く、最後の審判の神剣なのである。善悪・美醜を審判する“秩序の智慧”が神であり、その神剣によって悪は切り棄てられ、偽は葬られ、本来無いのに姿をあらわしている病その他一切の醜きものは切り棄てられて地獄の火の坑に投げ入れられ焼きほろぼされて、真なるもの、美なるもの、善なるもののみがそこに住吉の世界が地上天国として姿をあらわすのであります。

 もし、この真と偽とを分ち、真なるもの、善なるもの、美なるもののみを顕わし、これに反するものを切り棄てるハタラキが発動しなければ天地は完成しないのであります。

 この真偽を分ち、美醜を区別し、善悪を審判するはたらきによって、天地は一新するのである。『黙示録』第二十一章にはこの事が明らかにされている。

 『我また新しき天と新しき地を見たり、これ前の天と地とは過ぎ去り、海も亦なきなり。我また聖なる都、新しきエルサレムの夫のために飾りたる新婦のごとく準備して、神の許をいで、天より降るを見たり・・・見よ、神の幕屋、人と偕(とも)にあり、神、人と偕に住み、人、神の民となり、神みづから人と偕に在(いま)して、かれらの目の涙をことごとく拭い去り給はん。今よりのち死もなく、悲嘆も、号叫も、苦痛もなかるべし。前のもの既に過ぎ去りたればなり・・・斯くて御座に坐し給ふもの言ひたまふ「視よ、われ一切のものを新たにするなり」....』

 これが、“両刃の剣(もろはのつるぎ)”のはたらきであります。“剣(つるぎ)”は“片無”(かたな=刀)ではないのであって、敵を切るために、敵に向う一方にのみ刃がついていないで、自分に向う側にも刃がついていて、真ならざるもの、美ならざるもの、善ならざるものがあれば自分を切るのが、剣のハタラキであります。これが地上に平和をもち来らし、最後の審判によって、新しき天と地とをもち来たす住吉の世界を創造する神剣のはたらきである。

(生長の家誌 昭和53年11月号 谷口雅春先生)≫

          ○

 それで、次のようなご質問もありました。

[質問]
>いっぽうで、眞と偽を分ける(キリスト教)と 悪はない と浄化する住吉大神様と 違うような気がします。<

[回答]
「眞と偽を分ける」というのは「“最後の審判”に就いての神示」に出てくるお言葉でしょうか。

≪『虚妄(にせもの)の汝』は神より出ずるにあらず、神より出でざる汝は実在にあらず、実在に非ざる汝はその真相を暴露して消滅せん。わが臨(きた)れるは『真』と『偽』と、『実在』と『虚妄(こもう)』とを選(よ)り別けて、『偽』と『虚妄』とを永久に非実在(じごく)の中に葬りて封印を施さんがためである。≫
<つづく>

729復興G:2013/04/21(日) 16:17:10 ID:AB6RqYXc

<[回答]のつづき>

ここは、やはりそのご解説(『神ひとに語り給ふ』)で

≪…すなわち超越内在的意味に於ける“キリストの再臨”による“最後の審判”は、本来無いところの「虚妄(まよい)」の無を「無」として判決宣告して、永遠に出て来られない世界に堕獄し、本来人間の実相たる「完全人間」を実在なりと判決宣言して、それを如実にあらわすところの審判でありますから、「吾が宗教(おしえ)は恐怖の宗教にあらず、虚妄を焼かるる者は却って生き、暗黒を焼かるる者は却って光をあらわさん。病は癒され、悩みは消えん」とあるのであります。
「焼かるる者は『汝』にあらずして『虚妄の汝』であるからである。『虚妄の汝』は神より出ずるに非ず、神より出でざる汝は実在にあらず」と示されております通り、「病んだり、悩んだりしている汝」は、真に実在するのではなく、夢の中の人物のようなもので、「本来無い」のであります。
本来無い「悩みの人間」「病める人間」が、「私はこの通り存在します」と、感覚面に訴えて控訴しているのであります。「真理の光」に照らして、「汝らは、神より出でざるが故に、如何に実在の仮面を被るとも実在にあらず」と、最後の最高裁判所的裁決を下すのが、真理の再臨による「最後の審判」なのであります。≫

とありますから、やはり「眞と偽を分ける(キリスト教)と 悪はない と浄化する神様と」は、一つの同じ神様である、ということになりましょう。

          ○

 次のような質問(問題提起)もありました。

 「住吉大神」は第一義の神(創造神)ではなく、第二義の神(応現神)である。ということは「現象に悪を見た神」になるのではないか。
 新羅が攻めてきて、日本が滅びるか、潰れるかというような国家の一大危機に当たっていた当時、神功皇后様は住吉大神に戦勝の祈願をなさった。

 だから、榎本恵吾先生は『弟子像』79頁に

 「住吉大神の前には浄化しなければならない宇宙がすでにあり、観世音菩薩の前には色々な姿にあらわされるべき救いの対象が既にあり、久遠のキリストの前にもやはり、救わるべき死と黄泉(よみ)との間をさまよっている人間があるのである。すでにあるものに対している神はすでに最始源の神であるということは出来ないのである。

 これら応現神として現れられる神はすべて、最始源の神を指し示さんとして、われわれの前に現れ給うのである。そして、最始源の神へと上昇することこそが、その愛(応現神)にお応えする道なのである。それは全宗教の全説法をわがものとする道なのである。」

 と書かれている――と。

 それに対する回答です。

          ○

 『弟子像』79頁前後のご文章ですが、そこで言われていることの中心は、以下の所であると思います。

(谷口雅春先生が)
『神真理を告げ給う』の補章において「あなたが信ずる神は“絶対者”でなければならぬ」として、

<神が宇宙を創造するのに、何らかの材料をもって、例えば素粒子とか、水素原子とか、中性子とかいうものを材料としてそれを組立てて宇宙を創造したというのであれば、宇宙の最初に、神が創造しないところの、神以外の材料又は材質が存在したということになるのである。そして、それは神なる絶対者以外に、何ものか“材料”となるべきものが存在したということになるのであるから、そんな“神”は既に“絶対者”という資格がない――即ち、“創造る者”とその“素材となる物”とが相対する別個のものとなるから、そんな“神”は絶対者でなくて“相対者”だということになるのである。相対者は、“相対するもの”との関係に於いて、それ自身の働きが制約されることになるから全能者ということは出来なくなるのである。>(谷口雅春著『神真理を告げ給う』159〜160頁)

 と語られていること。ここが一番大切なところであると思います。
<つづく>

730復興G:2013/04/21(日) 16:33:50 ID:AB6RqYXc

<[回答]のつづき>

 「住吉大神は第二義の神で、創造神ではない」というのも、ちょっと語弊があります。

 『実相研鑽』第一集p.246以下にも、谷口雅春先生は次のようにおっしゃっています。

   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

≪“絶対”の中に一切のものがあるわけですから、……宇宙の大神、創造の大神、そのまま、塩椎大神、住吉大神と、いうことになっているわけです。……

 住吉大神は、その現われの面から言えば、応化神ということになって、「第二義の神様」と分類できるのですけれども、第二義というものは、第一義とはなれて、第二義があるんじゃなくって、第一義の中に第二義が包まれていて具体的な救済をのべるためにあらわれて来られるのであって、第一義の神だけで、じっとそれが無相にして、法身で、宇宙に充ち満ちていて、動かないだけでは、何の役にも立たんのでありますから、そこに具体的に救済の手をのべる働きとして人格神としてあらわれられたのが「観世音菩薩であり、キリストであり住吉大神であります。

 ――こういう意味で生長の家の神様の出現ということは、この絶体絶命の瞬刻限に於いて、この時、この日本という場所に於いて、またこの日本人という民族に於いて、現われなければならないという、そういう時と場所と人との三相応に於いて、出現して来たというのが、生長の家の人類光明化運動である。そして住吉大神となり、あるいは塩椎大神として出現せられる場合に、それは「全てを生み出す」「生みの底」(海の底)の大神という働きになっている。

 これを神話は住吉大神を龍宮の大神としているのです。「海の底」とは創造の根底世界のことであります。

 天地創造というのも結局「生み出す」こと、創造である。すなわち塩椎というのは水と火と土という陰陽ムスビの御働きによって一切を生みだすところの御働きを指すわけで、いよいよ第二の天之岩戸開きで天照大御神を現実世界に生み出して、地上に永久平和の世界を打ち建てるために、その産み出しの出口を浄化する働きをなきるのが「住吉大神」で、これは天照大御神御誕生の直前に出現し給うよう『古事記』に書かれているわけです。……

 皆さんはある意味では、すべて住吉大神であるのです。これは聖書の「ヨハネ伝」にあるところの、キリストが言われた言葉の「我ゆきて汝らに来るなり」というのに当るわけであって、すべての人間にはキリスト教的に言えば、内在のキリストが宿っているのである。また内在の「住吉大神」が宿っているのであるといえるわけであります。……

 我れ出でてこの世の中を救わずんば、救う人はないんだ」という、そういう強烈な自覚をもって各自の聖使命を遂行せられんことを希望し、皆さんに、非常に嘱望するわけであります。ありがとうございます。≫

 と。、「第二義の神」は「第一義の神」とは別である、と見るのは あらわれの面を見るからであって、実は、「別のもの」ではない。そのことを、谷口雅春先生はわかりやすく、次のようにご教示くださっています。

<一個の人間にたとえてみれば、谷口が口でしゃべっているとき、口だけがしゃべっているように見えても、口だけの働きではないわけである。第三者から相対的に見て口という部分だけを見たら、口だけがしゃべっているということにも見えるけれども、それは、そういうような面から見るから、そう見えるだけのことであります。

 ……法身即応化神ということになるわけです。そうですけれども、人間はどうも、区別して線を引いて分割したがる。(笑声)そうして、その“絶対”と“現象”とでも、それを区別するために、すじをひいて、別のようにしたがるけれども、“絶対”の中に一切のものがあるわけですから、線は、われわれが現象的に理解するために、仮にひくだけのものであって、(根本は)すじも何もなしに、宇宙の大神、創造の大神、そのまま、塩椎大神、住吉大神と、いうことになっているわけです。>
(『実相研鑽』より)

<つづく>

731トキ:2013/04/21(日) 16:45:30 ID:h3tvbvmA
復興G様

 素晴らしい内容だと思いました。感激しました。少しお返事が遅れますが、また、投稿を
させていただきます。ありがとうございます。

732復興G:2013/04/21(日) 17:19:46 ID:AB6RqYXc

<つづき>

なお、>>729

≪ 「住吉大神」は第一義の神(創造神)ではなく、第二義の神(応現神)である。ということは「現象に悪を見た神」になるのではないか。
 新羅が攻めてきて、日本が滅びるか、潰れるかというような国家の一大危機に当たっていた当時、神功皇后様は住吉大神に戦勝の祈願をなさった。≫

 ――ということに関して補足です――

 神功皇后が三韓征伐のとき住吉大神にお祈りなさった際、塩椎神(しほつちのかみ)から賜った潮干珠(しおひるのたま)と潮満珠(しおみつのたま)を出して祈られる。

 そのとき、海に潮干珠を投じられたら潮が引いて、新羅の軍艦はみな横倒しになってしまった。そこへ潮満珠を投じられたら潮が満ちて、新羅の軍艦はみな水没してしまった、ということになっています。

 この物語の意味を霊感的に解釈された谷口雅春先生のご教示が、

「三韓征伐とは、老病死の三奸(かん)の克服の象徴物語である。住吉大神(すみよしのおおかみ)が龍宮の大神であり、無量寿仏のあらわれである以上、老病死の三奸(かん)を克服せられたことは当然のことでなければならない。」

と、『生命の實相』第37巻 幸福篇上(P.48~P.50)に書かれているのであります。

三韓征伐の三韓とは老病死の三奸で、潮干珠とは、そういう悪はない、敵はないと現象を否定する言葉(魂)であり、潮満珠とは、「善のみ実在」と実相を肯定する言葉(魂)である。

ですから、質問者の

>(住吉大神は)「現象に悪を見た神」になるのではないか<

 というのは、現象に「悪はない」と否定して浄める神、というのが正しいのではないでしょうか。

733a hope:2013/04/21(日) 18:34:39 ID:6kIbHHgs
復興Gさま

<七つの燈台の点燈者 即 住吉大神>ということについての過去の投稿文を
再掲載してくださりありがとうございます。

とても読みやすいです。

ユタカさまや、金木犀さま、志恩さまなんかもご覧になっているでしょうか?
また、掲示板で昔のように真理のお話ができたら、とてもうれしいです。

それに今、本流対策板/5でもみなさんが生長の家の神さまについてのお話をされているみたいですね。

どうぞ、みなさま、こちらのweb誌友会にもご参加くださいね!

734a hope:2013/04/21(日) 18:44:35 ID:6kIbHHgs
>>725あさひさま

復興Gさまの投稿に埋もれてしまいましたが、投稿ありがとうございます

再掲載させていただきますね。


725 :あさひ:2013/04/21(日) 14:57:16 ID:/3nxKE2Q復興G様のお考えに賛成いたします。

>「本部会館を(耐震補強をして)創建当時に復原、保存を!」
ということが、最もよいことであろうと、私は思います<。

是非そうなって欲しいです。地方では当時の本部は竜宮城のような存在でした。

    合掌


原宿本部会館が、今後、復原・保存されて、地方の信徒の方の交流の場となったら、
わたしもとても素晴らしいと思います。
図書室(もちろん生長の家関係の本を中心に集めた)なんかもあったら、どんどん利用させていただきたいです。

みなさま、こちらの話題にもコメントをお待ちしています。

735a hope:2013/04/21(日) 19:01:01 ID:6kIbHHgs

当時のトーキングスティックボードには、訊け管理人さまやうのはなさま、さくらさまはもちろんですが、
ほかにも如月さま、春らんまんさま、山本富士子さま、ももんがさまなんかの名前もあって、本当に懐かしいです。

わたしは、みなさまに本当にいろんなことを教えていただきました。
この掲示板は、他の板にもたくさんの素晴らしい書き込みがあります。

トキさま、みなさま、本当にありがとうございます。

合掌。



感謝の気持ちで

736a hope:2013/04/21(日) 19:03:14 ID:6kIbHHgs
>>735 下の2行は、打ち間違いです。
失礼しました。

737復興G:2013/04/21(日) 21:31:23 ID:AB6RqYXc

あさひ様、トキ様、a hope様。

レス、ありがとうございます。

皆々さま。

今回はテーマが少し難しいと感じられたのでしょうか、ほとんど私の独演会みたいになっていますが、どうぞご遠慮なく何でもお書き込みください。

さて、>>720で私は、

>>只今『[類纂]神の真義とその理解 住吉大神顕斎の意義』(谷口雅春先生著・生長の家本部編)などの資料を丁寧に読み返し、
「生長の家とは」
「生長の家の本尊・主斎神とは」
「七つの燈台の点燈者」とは
「生長の家大神」・「住吉大神」とは
「人間とは」・「自分とは」
といったことについて、簡潔に的確に叙述してみたいと思い、勉強中であります。しばらくお待ち願いたいと思います。よろしくお願い申し上げます。<<

と書いておりました。が、まだできておりませんでした。

それについて、「簡潔に的確に」 書いてみようと思います。

   * * * * * * * * * * * * * * * * *

1. 「生長の家」とは何か。
  それは、自分の「いのち」のことである。
  (榎本恵吾先生にならいました)

2. 「生長の家の本尊・主斎神」とは何か。
  それも、自分の「いのち」である。

  ≪(『叡智の断片』49頁〜より)
    自性円満の自覚
 汝若し能(よ)く念々の馳求(ちぐ)の心を歇得(かつとく)せば便(すなわ)ち祖仏と別(こと)ならず。汝祖仏を識ることを得んと欲するや。汝、面前、聴法底(ちょうほうてい)是なり。(臨済録)

 悟りというものは、一切を外的原因だとして、責任を外に負わしていた者が、一転一切の責任は自己にありと、脚下照顧、自己に反照して、一切万事吾より出でて吾に還ると知ることである。

 外に神を求め、社殿に廟宮に寺院に教会に跪(ひざまず)いて、此処に神仏があり自分を不幸にも幸福にもする力ありと思っていた迷信から一転して、汝の祖師、釈迦仏もキリストも汝の内にあり、功徳の本源は自己の内にありと自覚する事が真の宗教であるのである。

 引用せる臨済録の「馳求(ちぐ)の心」とは外に求める心であって、「外に求めていた心を歇(や)めてしまったら、汝は即ち、今直ぐ仏と同体だ。汝、仏が何処にあるか知りたいと思うか。では教えてやろう。此の眼の前で仏法を聴いている其奴が仏其の者じゃ」と一喝したのである。

 生長の家の根本哲学『生命の實相』の冒頭の「生命の実相の自性円満なることを自覚すれば神の癒す力がはたらいてメタフィジカル・ヒーリングとなります」と書いてある。
 「吾人生命の自性円満」とは即ち仏性なり、神性なり。仏そのものであり、神そのものである。それを自覚せずんばすなわちやむ。
 自覚せば本来の円満性あらわれて神の癒す力が実現するのである。神は外にあらず。内にまします。今・此処、面前に法を聴く者、本書を読む者そのままに仏也。

 他に求むる事をやめよ。他に求むる心は争いの因也。真の人格主義は他に求めず他を奪わず、自己内在の力を礼拝して、一切万事我れより出でて我れに還ると知るのである。かく自分を仏と知りて、初めて他の人々をも仏と知る。仏と仏と相対せる世界此の世界なり。≫

3. 「七つの燈台の点燈者」とは
  それも、自分のことである。

4. 「生長の家大神」・「住吉大神」とは
  それも、自分の「いのち」の中に在すのである。

5. 「人間とは」・「自分とは」
  無である。 無即神である。愛である。光である。一切者である。

738a hope:2013/04/21(日) 21:58:48 ID:6kIbHHgs
>>737復興Gさま

ありがとうございます。
胸がいっぱいになりました。

そうでした、「人間は神の子」、つまり、人間=神 なのでした。

どうして、こんな簡単なことをわたしたちはなかなか自覚できないで、
外にばかり神を求めてしまうのでしょうか・・・?

昔の講師の先生方は、講話の時この「人間神の子」を連呼されていますよね。
だからこそ、信徒にその自覚が生まれて、奇蹟が起きたのではないでしょうか?

「生長の家」だったら、この「人間神の子」を一日何度も言わなければいけませんね。

Gさま、今回も素晴らしいご指導をありがとうございました。

感謝 合掌。

739復興G:2013/04/21(日) 22:11:40 ID:AB6RqYXc

ありがとうございます。

   至上者の自覚の神示

 人即ち神であると言う真理を知らぬ者が多いのは気の毒である。『生長の家』が此世に出現したのはすべての人々に此の至上の真理を知らさんが為である。自己が神だと悟ったら人間が傲慢になるように誤解したり、自己の本性が神だと悟った者を謙遜が足りぬと思う者は大変な思い違いである。斯くの如き想像をする者は自己が神だと言う真理をまだ一度も悟って見たことがないからである。自己が神だと悟れたら人間は本当に謙遜になれるのである。キリストが弟子の足を洗うことが出来たのも、自己が神だと悟っていたからである。

 本当の謙遜は『神の自覚』から来る。神を自己の本性に自覚しないものは、いくら謙遜らしく見えても、それは卑屈にすぎない。卑屈と謙遜とを思い誤るな。本当の謙遜とは『自己は神より出でた神の子である、従って神そのもののほか何者でもない』と言う真理を何らの抗(さか)らいもなしに承認することである。此の真理を承認するものを謙遜と言い柔和と言う。此の真理に逆う者を傲慢と言うのである。すべての傲慢と意地張りとは『吾れ神なり』の真理を承認しないところの根本傲慢より分化し来るのである。

 観点の違う者には解りようがない。人間の偉大な仕事を皆憑霊(ひょうれい)の仕事のように説いて、人間をただ憑霊の傀儡(かいらい)のように教える者があるが邪教である。人間の本性に憑霊の示唆よりも偉大なものがあることを教えるものこそ正しき教である。人間は肉体でもなければ傀儡でもない。人間は霊であり神であり自主である。若し憑霊が『霊』であるが故に、偉大なる教を説き、偉大なる仕事が出来るならば、人間自身も『霊』であるが故に偉大なる教を説き、偉大なる仕事が出来ることも当然でなければならぬ。ただその教や仕事に高下があるのは霊界の霊にも、人間にも、自己内在の無限性の掘りさげ方に差があるからである。

 釈迦は決して 憑霊の傀儡ではない、基督(キリスト)も決して憑霊の傀儡ではない。いずれも自己内在の無限性を掘下げて、終(つい)に仏性に達し、神性に達したから、霊界の諸霊 来って此の二聖に事(つか)えたのである。釈耶の憑霊ばかりを観て釈迦が自覚したところの仏性、イエスが自覚したところの神性を見ない者は憐れである。憑霊が説くほどの教なら人間自身も霊であるから説き得べきであるのに、釈耶の教を釈耶自身の教ではなく憑霊の教であると説くスピリチュアリズムは自己撞着に陥っているのである。

 人間よ、人間自身の尊厳を自覚せよ、これを自覚することは人間自身の尊厳を奪還することである。『生長の家』は人間自身の尊厳を奪還せんがために出現した人生の燈台である。
     (昭和八年三月十六日神示)

740復興G:2013/04/21(日) 22:23:49 ID:AB6RqYXc

ありがとうございます。

>>697の聖典引用文をもう一度貼らせて戴きます。

<『幸福を招く365章』の117頁〜より>

         ○

    既に天国の饗宴に招かれている

 吾々が宗教的立場に立つ限りにおいて、現象界のことは別に思い煩う必要はないのである。それぞれの役目の人がそれぞれの立場に配置してあってそれぞれの役目を果していてくれているのである。

 地上に天国浄土が実現するには色々の役者が要るのであって、シテもワキも、二枚目も三枚目も馬の脚も要る訳である。吾々は此等の舞台上の役者と議論を戦わす必要はないのである。唯、各々がその役目を最も完全に実現してくれるように祈っていれば好いのである。

 尤(もっと)も自分自身も局外者と云う役ではなく何らかの役目を割当てられているのだけれども。

 吾々は神様が主催される天国の婚筵(こんえん)に招かれる客のようなものである。すでに御料理は出来ているのである。ただ、ハイとその招待をお受けすれば好いのである。

         ○

上記
≪それぞれの役目の人がそれぞれの立場に配置してあってそれぞれの役目を果していてくれているのである。≫

 ――「お役目ご苦労様です」と、それぞれの立場の方たちに感謝しながら、「自分自身も局外者と云う役ではなく何らかの役目を割当てられているのだ」と自覚して、内なる神のみ声を聴き、使命感のままに行動して行く。

 そうありたいと思います。

 ありがとうございます。
 合掌

741復興G:2013/04/21(日) 22:32:14 ID:AB6RqYXc

トキ様、a hope様

ありがとうございます。
ご協力、ありがとうございました。

今回は、閲覧して下さっている方はたくさんいらっしゃるかと思いますが、参加者(投稿者)が少ないようなので、そろそろお開きにしませんか。
締めくくりを、お願いできないでしょうか。

合掌 ありがとうございます。

742a hope:2013/04/21(日) 23:34:00 ID:6kIbHHgs
みなさま、終了予定時刻の23:30になりましたので、世界平和の祈りをさせて頂きます。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

◇◇◇世界平和の祈り◇◇◇

神の無限の愛、吾に流れ入り給いて、愛の霊光燦然と輝き給う。

その光いよいよ輝きを増して全地上を覆い給い
すべての人々の心に、愛と平和と秩序と中心帰一の真理を満たし給う。

◇◇◇光明思念の歌◇◇◇

天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり

天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

今回もたくさんの学びをありがとうございました。


感謝 合掌。

743SAKURA:2013/04/21(日) 23:38:23 ID:M9DbeNuI
「復興G様」 へ   「トキ 様」へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

大変、遅くなり、此処に於きましては〜〜〜場違いの人間かもしれません。…が?
どうしてかと申しますと…【現総裁雅宣先生…擁護派】ですし…それに ><
投稿されている「a hope様」の文章中からも、お声がかかっておりません様で…… 落ち込み??
前回も…ロ−マ字【SAKURA】 参加させて頂いておりましたが〜〜これも【大調和…】なのでしょうかと。

さて!
私事で…2〜3日前より…「書籍本…の整頓」です。私にとっては?それなりの書籍本の数々です…。
❤「復興G 様」に於かれましては、相当の数の書籍本をお持ちだとの想いです…。凄い書籍の数かと??
振り返りますと…古い本の整頓をしておりますと、その頃の時代背景…特に≪初版本≫に関しては、私なり
の両親の“思い出”も含めて、過去の情景が、走馬灯のように浮かんでは〜〜消え〜〜浮かび〜〜まして、
この様な感じで、「一冊一冊…の本」を手にしながら、中には煤汚れています“書籍本…”を手にしますと、
何とも知れない想いがこみ上げて来ます。

まだ?少し整頓すべきモノがありますが…「復興G様」からのテキスト…を拝読させて頂きながら、
いつものようにマイペ−スにての投稿を…させて頂きます…。宜しくお願い申しあげます…。
それにしても…… 今回は…「整理整頓」が〜〜〜
                                    再合掌

744a hope:2013/04/21(日) 23:47:30 ID:6kIbHHgs

SAKURAさま、お声かけせず、申し訳ありませんでした。
第1回web誌友会の時のトーキングステックボードにあった名前だけを羅列させていただきました。

今回も、ご参加ありがとうございます。
SAKURAさまのご投稿楽しみに拝見させていただきます。

どうぞよろしくお願いいたします。

745a hope:2013/04/21(日) 23:59:18 ID:6kIbHHgs
SAKUTAさま、度々、すみません。

>>744ですが、正確には、第2回web誌友会の前夜際に参加されている方々のお名前の羅列でした。

SAKURAさまのお名前が見当たらなかったので、お声かけしませんでした。
投稿者すべての方への呼びかけは不可能ですので、どうかお許しください。

746SAKURA:2013/04/22(月) 01:08:35 ID:M9DbeNuI
「復興G様」へ 「観覧者様」へ  「管理人トキ様」へ  「a hope様」へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

■>「a hope様」から 早速の返事にありがとうございました。( >>744>>745 の投稿…)
“お声…”をかけて頂きました事に、改めまして【感謝!】申し上げます…。ところで、
只今…休憩タイム…なのです。…が?随分〜〜前の事をよくご存知で??スゴ〜〜〜イ!かと?
思いました次第です…。逆に?他の懐かしい「役行様…」とか??「訊け管理人様」の司会とか??
今は昔〜〜〜というものでしょうか? 時の経過を〜〜〜つくづく感じます。

余談ですが…【現総裁雅宣先生…擁護派】として、「毎回…」こちらに参加させて頂いておりました。
…が?
■□きっと〜〜【雲に隠れているのでしょうか……】???
第一回の時も“ズ〜〜〜ッ!”と参加しています。…が???そうです〜〜〜ネ!
「a hope様」の視界には??「ひらがなのさくら様」しか?目に留まらない様ですかと…。
以前も「a hope様」自身から私に対して“スル−!殆ど拝読していない”そのような主旨の…投稿
をなされていらっしゃいましたから〜〜〜? 

余談ですが…上記のような理由からも❤「SAKURA…メ−ル便」を、誤解の内容に投稿しております
次第です…。【 「ひらがなのさくら様」とは、別人ですとの…一言メ−ルを〜〜〜投稿!!なのです。 】

■別に気になさらなくても… 随分昔の事を回想しますと?あの頃“イジメ…”られていましたかと。
あくまでも…【擁護派としての…参加】を、時間が許す限りは、投稿形式と、させて頂きます。
今後とも、何卒、宜しくお願い申し上げます…。

                                 再合掌

747誌友会閲覧者:2013/04/22(月) 07:50:26 ID:vgg7df6.
確かに今回だけはSAKURA様が可愛そうに思っていました。
名前を書かれるなら全ての人を書かれるか、それができないなら
せめて前回参加された人を書かれるべきではないかなあと思っていました。
「準備祈願」の長文をいとも簡単に書かれるa hope様がすべての人を書けないわけがないと思うのですが?

748a hope:2013/04/22(月) 09:09:04 ID:6kIbHHgs
>>746SAKURAさま
>>747誌友会閲覧者さま

ご指摘ありがとうございます。
本当ですね、名前の羅列は見落としがあるとよくないと思って、やめようと思っていたのに、
1年前の書き込みを拝見していて、あまりにも懐かしくなってしまって、特定の方のお名前を呼びかけてしまいました。
今後、気を付けたいと思います。

SAKURAさまは、この掲示板に書き込みが少ない時でも、毎日たくさんの書き込みをしてくださり、
この掲示板を盛り上げてくださっています。
わたしは。家庭と仕事に追われていますので、SAKURAさまだけではなくて、
他の投稿者さまの投稿も最近はほとんどゆっくり閲覧する時間はないのですが、
SAKURAさまがいつも元気に書き込みを続けてくださっていることには心から感謝しています。

どうぞこれからもよろしくお願いいたします。

749復興G:2013/04/22(月) 09:38:58 ID:AB6RqYXc

皆さま、おはようございます。

第13回web誌友会も、ご参加くださった人数は少なかったけれども、やはり意義ある誌友会だったのではないかと感謝申し上げます。

これができたのは、管理人トキ様のおかげであります。ありがとうございました。

そしてまた、a hope様の献身的なお世話がなければできませんでした。
a hope様、本当にありがとうございました。

それから、時間内に書き込んで下さいましたのに、お返事できなかった >>725あさひ様。
ありがとうございます。>>734でa hope様がレスしてくださっていましたが、私も同感です。
きっと、よい結果になると信じています。


SAKURA様。
web誌友会閉会後に書き込みをしてくださったのですね。ありがとうございます。

web誌友会は50時間にわたってオープンになっており、投稿される方が少ないので、たびたび、皆さまに投稿をお呼びかけしていたと思います。
何も、個別に名指しで声がかからないからとて、遠慮することなく積極的に投稿してくださったらよかったと思いますが……どうぞ、あなたも司会者の気持ちになってご投稿ください。できれば、司会者をしていただきたいくらいです。よろしくお願い申し上げます。


まずは、あらためて皆さまに感謝申し上げます。
ありがとうございます。

終わってから思うことを、また後ほど投稿させていただきたいと思います。
合掌

750トキ:2013/04/22(月) 09:41:17 ID:HtiBzlX2
 おはようございます。復興G様、今回も素晴らしいご指導を賜り深く感謝申し上げます。
 また、a hopem様、司会ありがとうございました。

参加者の皆様にも御礼を申しあげます。

 感想などありましたら、閲覧者様も御寄せ下さい。
お願いいたします。

合掌 ありがとうございます

751a hope:2013/04/22(月) 09:58:33 ID:6kIbHHgs

トキさま、復興Gさま、みなさま 
あらためまして、おはようございます。

今回のweb誌友会の内容は、どうだったでしょうか?
前半は、原宿本部会館や森のオフィスに関するものでした。
そして、後半は万教帰一に関する内容でした。

わたしの個人的感想ですが、
谷口雅春先生はたくさんの書物をお書きになって、わたしたち信徒に残してくださっています。
それは、その書物をめぐって信徒同士裁判をしたり、
その「教え」を盾にして言い争いをさせるために残してくださっているのでしょうか?

わたしは、今回、このweb誌友会でお勉強させていただいていて、気づいたことがあります。
谷口雅春先生は、様々な角度から真理を説いてくださっています。
そして、万教帰一にしても、様々な神さまを例にあげられて説明してくださっています。
とても、高度で難し内容で誰もすぐに理解できるものではないと感じています。

ですが、わたしたち信徒が、その谷口雅春先生の〝お悟り〝に少しでも近づいて、
本当の「神の子の自覚」を得て、実相世界の大調和の喜びを感じてほしいというご愛念から、
数えきれないほどのご著書を残してくださっているのではないでしょうか?

わたしは「生命の實相」40巻すべてそろえて、少しづつですがお勉強させていただいています。
それだけで、もう、大安心の気持ちでいます。

だって、『わたしが、「生命の実相」の真理を悟ればいい』のですからね。
それが、谷口雅春先生の一番望んでおられることなのではないかと、感じています。

あくまでも、a hopeが個人的に感じていることですが・・・。


それでは、今日も元気に仕事に行ってきます。
みなさまも、素晴らしい一日をお過ごしくださいね!

752復興G:2013/04/22(月) 11:07:59 ID:AB6RqYXc

 さて、第13回web誌友会をちょっと振り返ってみます。

 心に引っかかっている言葉の一つに、>>724

≪ 「大調和の神示」に、
 「われ嘗て神の祭壇の前に供物を献ぐるとき、先ず汝の兄弟と和せよと教えたのはこの意味である」
 という言葉がありますが、これは新約聖書「マタイ伝」第5章23節〜26節にある、イエス・キリストの言葉を指しています。すなわち――

●「汝もし供物を祭壇にささぐる時、そこにて兄弟に怨まるる事あるを思い出さば、供物を祭壇の前に遺しおき、先ず往きて、その兄弟と和睦し、然るのち来りて、供物をささげよ。汝を訴うる者とともに途(みち)に在るうちに、早く和解せよ。恐らくは、訴うる者なんじを審判人(さばきびと)にわたし、遂になんじは獄に入れられん。誠に、なんじに告ぐ、一厘も残りなく償わずば、其処をいづること能わじ」
 と、イエスは言っているのであります。≫

 というところの、イエスの言葉です。

 それから、>>729

≪ …すなわち超越内在的意味に於ける“キリストの再臨”による“最後の審判”は、本来無いところの「虚妄(まよい)」の無を「無」として判決宣告して、永遠に出て来られない世界に堕獄し、本来人間の実相たる「完全人間」を実在なりと判決宣言して、それを如実にあらわすところの審判でありますから、「吾が宗教(おしえ)は恐怖の宗教にあらず、虚妄(まよい)を焼かるる者は却って生き、暗黒(やみ)を焼かるる者は却って光をあらわさん。病は癒され、悩みは消えん」とあるのであります。

「焼かるる者は『汝』にあらずして『虚妄(にせもの)の汝』であるからである。『虚妄の汝』は神より出ずるに非ず、神より出でざる汝は実在にあらず」と示されております通り、「病んだり、悩んだりしている汝」は、真に実在するのではなく、夢の中の人物のようなもので、「本来無い」のであります。

本来無い「悩みの人間」「病める人間」が、「私はこの通り存在します」と、感覚面に訴えて控訴しているのであります。「真理の光」に照らして、「汝らは、神より出でざるが故に、如何に実在の仮面を被るとも実在にあらず」と、最後の最高裁判所的裁決を下すのが、真理の再臨による「最後の審判」なのであります。≫

という「“最後の審判”に就いての神示」ご講義のお言葉(『神ひとに語り給ふ』)です。

 いずれも、「訴うる者」「審判人(さばきびと)」「控訴」「最高裁判所的裁決」というような、「裁判」に関わりある言葉が出てくるので、現在の『生命の實相』出版権をめぐる教団と社会事業団の争い、裁判対決を連想させます。

 「争い」とか「対決」というようなことが出てくるのは、「神の国」にはないことで、どちらか一方が正義(善)、一方が不正義(悪)であるということはなく、いずれも

 「迷いと迷いと相搏(う)って自壊するのだ。」(声字即実相の神示)

 という過程なのではないかと思われます。そして、

 「まだまだ烈しいことが今後起こるであろうともそれは迷いのケミカライゼーションであるから生命の実相をしっかり握って神に委せているものは何も恐るる所はない。」

 と神示にありますから、結局は自壊作用の後に、一層すばらしいことが出てくるしかない、と思われるのであります。

 ですから、>>740の通り、私たちは

 「吾々は神様が主催される天国の婚筵(こんえん)に招かれる客のようなものである。すでに御料理は出来ているのである」(『幸福を招く365章』)

 「安らなれすべて善ければ
  とこしえに此処極楽に
  なれは今まもられてあり。」(「堅信歌」)

 ということを信じて、今、われ「七つの燈台の点燈者」なり、「住吉大神の全心全霊」なりとの自覚と信と使命感をもって、明るく愛を行じて行きたいと思います。

753復興G:2013/04/22(月) 11:15:09 ID:AB6RqYXc

上記>>752は、>>750>>751のトキ様・a hope様の投稿を見ないで書き込みました。

トキ様、a hope様、コメントありがとうございます。

合掌

754トキ:2013/04/22(月) 11:34:37 ID:HtiBzlX2
>>751

 それはその通りだと思います。谷口雅春先生は、講演などで遠方に行かれても、休み時間に
せっせと原稿を書かれていたと聞いています。地方の教化部に、意外にも谷口雅春先生の原稿
が残っていますが、それは、そういう経過があるからです。

 しかるに、本部や本流復活派が、聖典をめぐって争うのは、谷口雅春先生を悲しませる事に
なると思います。

 釈迦、キリストの時代と違い、今は、文字という形で、場合によっては音声や映像という形
で、教えは残っています。知識のある人は、知識で、本や雑誌や音声や映像を持っている人は、
法律に触れない範囲でそれらを紹介し、また、学ぶ事が、谷口雅春先生が望まれた事だと思い
ます。

 今回、復興G様が、ご指導をして下さりましたが、こういう形でのご指導を通じて、信徒の
魂の向上の機会があるのを、一人の信徒として、喜んでおります。

 復興G様、心から感謝申し上げます。

合掌 ありがとうございます

755復興G:2013/04/22(月) 12:10:41 ID:AB6RqYXc

>>754 :トキ様
ありがとうございます。

>>谷口雅春先生は、講演などで遠方に行かれても、休み時間にせっせと原稿を書かれていた<<

そのお原稿は、そのまま地方の教化部などに置いて行かれたわけではなく、いったんは日本教文社編集部に届けられ、活字となって神誌などに掲載されてから、本部会館建設や地方の教化部会館建設のために献資した人たちに、お礼として賜ったものであると思います。

いずれにしても、先生はすべての時間も労力も書かれたお原稿も、神からの賜物として、私することなくすべてを捧げ尽くされた、と言えると思います。

私も、己を無にして、献げる生き方をしたいと願い思います。

賀川豊彦さんの、「神の祭り」という文章を思い出しました。

          ○

「聖パウロは言った。 “その身を活ける供物として神に献げよ” と。
五尺の鯉を神に祀ることは最も愉快なことである。
   (注。「五尺の鯉」は、人間を意味する)
 吾々の生活の凡てが神への供物であり、祭であるのだ。
 祭だ、祭だ! 花火が上り、楽隊が聞えるではないか。我々の生涯のあらゆる瞬間が神への祭だ。表に五色の旗が翻らなくとも、魂の奥には、永遠の燻香が立ち昇る。神への燔祭は、我々の赤き血そのものである。

 若き小羊を捕えて神に献げよ。全き小牛と全き小羊を神に献げよ。日本の若者の魂を捕えて神に献げよ。神への奉加は、吾々の生命そのものであらねばならない。吾々の玉串は、生霊そのものであらねばならぬ。完全に我々の全生命を神に祀ろうではないか。我々の肉体、我々の生活、我々の精神、我々の学問、我々の芸術、そして我々の道徳を神への献げ物として八足台に献げようではないか。

 永久の祭だ、永久の歓楽だ! 不滅の花火、無限の祝典、生命の神饌は永劫に尽くべくもない。両国の花火はなくとも、我々の心臓のうちには、不滅の血が花火以上に赤く爆発する。」

          ○

 ありがとうございます。

756SAKURA:2013/04/22(月) 12:18:36 ID:bdiHbvK.

「復興G様」へ 「観覧者様」へ  「管理人トキ様」へ  
こんにちは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>743>>746>> 投稿の続きです…。

>>747「誌友会閲覧者」様 >>752 「復興G様」>>751 「a hope 様」皆様方へ

色々な観点での私事…ロ−マ字(大文字)【SAKURA】 の“コトバ”を頂きました事…に対して
感謝申し上げます…。尚…私自身此処では「現総裁雅宣先生…擁護派」として、私なりの捉え方で…
楽しんで投稿させて頂いております。特に>>747からの“コトバ…”対して、感謝申し上げます。
従いまして、中には私の捉え方に反対の意見・思考があっても当然だと…それは個性かと…。
(今回は…私事にて、“過去の引きずった書籍・品物”の整頓にて??−−>ごみ箱??気ばかりが、
焦りとなり投稿させて頂く余裕が、ありませんでしたので…私自身のふたらなさかとも?)

そして「復興G様」からのテキスト指定箇所を頂きます事は、以前気がつかなかった事を、私なりに
解釈する機会を頂き…感謝申し上げます…。

今回の『生命の実相』の冒頭に……
−−−「抜粋投稿」−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−―
「平和」それは人間が常に求めているものであり、この実現のためには人間は絶大な努力を払って
来ました。
しかし、“人間とは何か”を深く考えずに行動しようとすると、互いに衝突したり、奪いあったり、
傷つけあったりするだけで、そこからはなんの平和も生まれてきません。
…云々…                      『生命の実相』…第3巻
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−―−―
この言葉が…最初にインパクトを感じましたかと…個人的に思います。
≪平和≫…言い換えますと…「雅春先生のコトバ」の中に、
>>【心のやすらぎ・生き抜く力】とを与えずにはおかないでしょう。<<
本当に、この【WEB誌友会…】を閲覧して頂いております「観覧者の皆様方々」に…そのような感情を
少しでも抱いて頂けますならば【生長の家−――>成長の家――>魂いの向上】この事が、私どもに、
課せられた≪使命…≫ではないかと…改めて“この言葉”に一つ一つを、胸中に刻み込みました…。
改めて…素晴らしい「生命の実相」…【生命を活かす…活かしきる】この事を痛感させて頂きました。

                                         感謝拝

PS: 時間の合間に…皆様の投稿の内容を閲覧させて頂きながら…第3巻の指摘して頂きました処の感想
を、【SAKURA流?】にて投稿させて頂きます…。(投稿の内容に??反論も個人的にはありますが?)

❤最後に…「生長の家…」の創立者…「谷口雅春先生」は、一番【云いワケ…論】を嫌われましたかと。

757復興G:2013/04/22(月) 13:14:26 ID:AB6RqYXc

>>756 :SAKURA様。

>>   −−−「抜粋投稿」−−−−−−−
「平和」それは人間が常に求めているものであり、この実現のためには人間は絶大な努力を払って来ました。
しかし、“人間とは何か”を深く考えずに行動しようとすると、互いに衝突したり、奪いあったり、傷つけあったりするだけで、そこからはなんの平和も生まれてきません。
…云々…  『生命の実相』…第3巻
   −−−−−−−−−−−−−−―−― <<

上記は、第3巻の「はしがき」の冒頭の御文章を、わかりやすく書き直されたものでしょうか?

上記の通りの御文章は、テキストに見当たらないのですが……

758SAKURA:2013/04/22(月) 14:36:25 ID:gD0Nk1Y6
「復興G様」へ 「管理人 トキ様」へ 「観覧者様」へ   
こんにちは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>743>>746>>756 投稿の続きです…。

>>757 「復興G様」へ
■□【ブックカバ−の裏…】にありますモノで…【冒頭…】という言葉は?撤回させて頂きます…。
ご指摘の…文章は〜〜〜❤そそっかしい【SAKURA…】でした。申し訳ございませんでした…。
この場を借りまして…お詫び申し上げます…。
【 生命の実相の頭注版(昭和37年初版)3巻 】以降には、記載されていますようですが…。
(但し?【 愛蔵版 】には…ありませんし、第三巻の内容も異なりますので、やはり時代の流れも
含めて、多くの人々への【真理…導く】事を、率先された「雅春先生…御心」が伺えますかと思う次第です。)

「雅春先生…のコトバ」は〜〜〜書籍本の隅々にまで“コトバ…=言霊=こころ”私どもの“心…”に
響くものがありますかと…今回「復興G様」が選択して頂きました“テキスト箇所”を拝読しながら
つくづく感じました。 ありがとうございます…。
                                再合掌

759トキ:2013/04/22(月) 16:39:32 ID:HtiBzlX2
>>755

 ご教示、ありがとうございました。確かに、ファックスのない時代に不思議な話だったと
思いましたが、そういう経過があったのですね。親切なご教示に深く感謝申し上げます。

 ありがとうございました。

合掌 ありがとうございます

760復興G:2013/04/22(月) 17:17:16 ID:AB6RqYXc

>>758 :SAKURA様。

わかりました。
編集者仲間では「カバー袖(そで)」と言っているところですね。そこに書かれているキャッチコピーの文章にありました。

それ(カバー袖のキャッチコピー)は普通、著者が書くものではなく、編集者がつくる文章です。ですから、『生命の實相』のカバー袖の文章も、谷口雅春先生がお書きになったのではなく、編集者が、この場合は先生の「はしがき」の御文章をもとに、やさしく書き直して作った文書だと思います。まあ、よくできた文章ですね。

その後ろの部分には、

≪「人間は生まれながらにして、その一人一人の中に限りない生命力があるのだ」と説く本書こそ、読者に「心の安らぎ」と「生き抜く力」を与えずにはおかないでしょう。≫

と書かれていますね。

それでわかりました。ありがとうございました。

761SAKURA:2013/04/23(火) 00:28:57 ID:5Z7ZB6rE
「復興G様」へ 「管理人 トキ様」へ 「観覧者様」へ   
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>743>>746>>756>>758 投稿の続きです…。

>>760 「復興G様」からのお返事…に関しまして
早々のお返事を頂きまして…恐縮です。私の今回“抜粋投稿”しました事に関しましての、ご意見…
教鞭ありがとうございます…。(ブックカバ−の件)

余談ですが…先生の「コトバ…」−−>「生命の実相」に記載されています「コトバ=文字…」は、私に
取りましては、全てが…心の安らぎと…受け止めさせて頂いております。
ですから…今回の【 第三巻テキスト…「7つの燈台の点燈者の神示」 】に関しましては、殊のほか、
「復興G様」からの投稿箇所…を参照させて頂きながら、私なりにもう一度“見つめ直す…”この機会を
頂きました事に、深く〜深く〜感謝申し上げる次第です。ありがとうございます…。

                                   再合掌

762SAKURA:2013/04/23(火) 00:39:24 ID:5Z7ZB6rE
「復興G様」へ 「管理人 トキ様」へ 「観覧者様」へ   
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>743>>746>>756>>758>>761 投稿の続きです…。

■今回は…私事にて【第13回WEB誌友会…テキスト資料】を閲覧する機会が…遅くなりましたので…
今!!ようやく『生命の実相…3巻』を拝読、そして、多々なる資料を閲覧しながらの投稿と……

❤〜個人的には【 「生命の実相…3巻」のはしりがき…その① 】からの感想とさせていただきます…。
==========【 生命の実相 3巻 はしがき より 】==================

>>人間はなぜ、平和をもとめながら戦争をするのであろうか。その本当の理由を知る人は少ないので
ある。人類は生命に到る道をもとめながら死への道を選んでいるがごとく見える。それは、人間が自
己の本来清浄の霊的実在なる本質を知らないのと、キリスト教的原罪観または仏教的罪業間で自己処
罰、自己破壊をとげつつあるからである。自己の「霊」なる本質を知らないで、自己を「物」として
観、「肉」であると自覚する人間は、「物」としての自分を持続し、拡大しようと望まずにはいられな
い。しかも「物」は有限であるから、自己を無限に拡大しようとする希望は互いに衝突したり、奪い
合ったりするほかはなくなる。だから、唯物論的人生観にたつ以上は、人間は平和を欲しながら戦争
へと突入し、生命の完全なる伸展を欲しながら、自己破壊をつづけてゆかなければならないのである。<<
                                    (谷口雅春著)
===============================================

■なぜ戦争になるのでしょうか〜〜〜???平和を求めながら〜〜〜???この様になるのですかと。
この頃思うのです。…が? 【人間関係の争い事…】は、二通りあるように見受けます。…が?
それは「お金の執着=経済的利益追求からの正当論…」??もう一つは「本人のプライド…からの正当論」
でしょうか??

                             つづく

763SAKURA:2013/04/23(火) 00:41:23 ID:5Z7ZB6rE
「復興G様」へ 「管理人 トキ様」へ 「観覧者様」へ   
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>743>>746>>756>>758>>761>>762 投稿の続きです…。

■【 「生命の実相…3巻」のはしりがき…その2 】  
どちらも、結局は【我の強さ…】からなのです〜〜〜ョネ???
「戦争…」は、やはりこのような二通り理由からの中身で…互いに衝突、奪いあう、傷つけあう…etc
のようにも見えます。…が!!

私が、今!振り返りますと、やはり「若い時の執着心…」からも生じる事がありますかと。当時の「聴力
喪失」となる前の頃ですが、当時の「亡き父」は、ある事から【タタキ男の腰の高さ…】には、辟易して
いましたのです。ところが、当時の私は【人類はみな兄弟と…】云った感じでいますから、どんな人間でも
必ずや、いいところがあるので、まずは“信じる事…から全てが始まる!!”このような考え方でした。
「亡き父」は、娘がそのような考えでいますので、ある時の事です。その「タタキ男…」が【免許停止…】
になり、私の処にどうにかならないのか??この様な事を言いだしたので……実は「亡き父」は、当時の
「警察署長さん」と親しい間柄ですから“何とかはからい!!”をと当時、私は【免許停止…】になる前に、
「何か対処できないかしら〜〜〜ン??」と「亡き父」に相談しますと、当時の「亡き父」は気持ちよく、
警察にはからいに行ってくれました。そして、当時の親しい署長さんも、気持ち良く動いてくれました。
(まだ若いし、前途があるし、将来性を考えて〜〜〜との事から、気持ちが動いたのでしょうかと。)
…が?その後の【連絡…】では、【NG…発生】でした。実は〜〜〜【本人の記録】は、余りにも〜〜〜
スピ−ド違反の内容が〜〜〜??他にも〜〜〜??という事で、“はからい事…”が出来なかったのです。

それでも、その頃の私は【決め付ける…大人のやり方に反抗心…】が募りだしましたので〜〜〜それからは、
〜〜〜【我の戦い…】になり、気がつきますと■【頭部を瞬時に叩かれ…聴力喪失】今では、このような
姿・形なのです。…が?【ネガティブな感情の激突…破壊行為…へと…!!】

【戦争…】も同じ事で、これが正しい行動でしょう!−――>この【正当論…】が???ある人にとり、
“ねじ曲がった現象展開…”になっていくのでしょう〜〜〜ネ!!
❤【 初めにコトバがあり 】と云いますように、私の「過去のおさらい…」も始めに「亡き父」の言葉を
素直に聞き入れなかった事からでしょうか???【我…の張り合い?での代賞と云いますか??】
こうして考えていきますと【個人の思考の問題】ですから、やはり思いますには【戦争…】という前に
【生命とは〜〜〜?の論理観…】が、一番大事だと思えます。…が??

❤では〜〜〜次の「文章投稿…」の感想に入っていきま〜〜〜す。         

つづく

764SAKURA:2013/04/23(火) 00:51:00 ID:5Z7ZB6rE
「復興G様」へ 「管理人 トキ様」へ 「観覧者様」へ   
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>743>>746>>756>>758>>761>>762>>763 投稿の続きです…。

■□ 此処で初めて閲覧されます…「観覧者」の皆様に対しまして…“一言”お断りをと。

【 >>763 投稿文章中…ですが? 】
〜〜〜【我の戦い…】になり、気がつきますと■【頭部を瞬時に叩かれ…聴力喪失】今では、このような
姿・形なのです。…が?【ネガティブな感情の激突…破壊行為…へと…!!】
此処で【頭部を叩いたのは】当然の事ですが『タタキ男…』ですので…御了承下さいませ…。

                                     再合掌

765復興G:2013/04/23(火) 09:25:12 ID:AB6RqYXc

SAKURA様。

今回(第13回)web誌友会テキストは、『生命の實相』第3巻の「はしがき」から本文3頁まで としてありましたので、私も「はしがき」のご文章は謹写しておりました。
しかし、「神示」の方がインパクトが強いと思って、それを優先させていました。
しかしながら、「はしがき」にも基本的な大切なことが書かれていますから、それをSAKURAさまが取り上げて下さったことは、よかったと思います。

まだつづきがありそうですので、拝読させて頂きます。

ありがとうございます。

766復興G:2013/04/23(火) 09:55:16 ID:AB6RqYXc

SAKURA様。
[部室 板/4 ]の648で、「訊け」管理人様が、安東巌先生のご講話というのを紹介されています。
それを文章化されているところに、次のようにありました。

    〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

[安東巌先生ご講話 「生きる喜びとは」]

九年も教化部長をやっておりますと、「救われる人」がスグに判ります。生長の家を長がーくやってるのに、救われない人がいる。これはいったい、どういう事か?

さて、どんな人が救われるのか? 先ずは「赦すことの出来る人」です。そして、「感謝する人」も、救われます。「徳を積む人」も救われます。

 ・・・・谷口雅春先生のお話しで、こんなのがあるでしょ? 農夫が「ずっと祈ってたけど、収穫がなかった」と。アタリマエですよ。だってタネを蒔いていないのですから・・・・愛のタネを蒔いていないと、現実には収穫はないのです。練成会何回来ても、救われん人は救われん。だって「徳積み」をしていないんだもん。・・・

    〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 ――ちょっと、ご参考になるところがあるかと思いましたので、紹介させていただきました。。
 ありがとうございます。

767トキ:2013/04/23(火) 10:07:39 ID:CGS7Lc8c
 昨晩、寝る前に祈っていて、ふと思いついた事がありました。

 谷口雅春先生が生長の家を始められるに当たっては、ご自宅がドロボウの被害に遭われて、それが契機
で生長の家を始められた、という事を書かれていました。ドロボウにあうのは災難ですが、それを転じて、
全世界に光明の灯がかかげられたのです。

 ところで。

 今、私は、この掲示板の管理人をして、多くの方からご指導を賜っていますが、もし、谷口雅宣先生が
忠実に谷口雅春先生の教えをそのままに説かれ、聖典の裁判が起こらなかったら、こういう管理人をする
事もなければ、そもそもインターネットで生長の家関係の掲示板を見る事もなかったと思います。

 さらには、復興G様から貴重なご指導を賜る事もなければ、多くの投稿者様と知り合う事もなかったと
思います。もっと言えば、谷口雅春先生の教えを根本から学び直す、という発想もわかなかったと感じま
す。

 もし、教団と本流復活派の争いがなければ、私は、教区のヒラ会員として、おとなしく生活をしてい
たと思います。これは、他の方にも該当するかもしれません。

 すると、一連の騒動とうのは、確かに「災難」ではありますが、しかし、多くの信徒さんにとっては、
何かの啓示であるような気がします。

 これは、以前、復興G様がご指導をされていた事ですが、谷口雅春先生がご立教前のドロボウのエピソード
と結びついたので、書かせていただきます。

合掌 ありがとうございます


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板