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Web誌友会 板/2

752復興G:2013/04/22(月) 11:07:59 ID:AB6RqYXc

 さて、第13回web誌友会をちょっと振り返ってみます。

 心に引っかかっている言葉の一つに、>>724

≪ 「大調和の神示」に、
 「われ嘗て神の祭壇の前に供物を献ぐるとき、先ず汝の兄弟と和せよと教えたのはこの意味である」
 という言葉がありますが、これは新約聖書「マタイ伝」第5章23節〜26節にある、イエス・キリストの言葉を指しています。すなわち――

●「汝もし供物を祭壇にささぐる時、そこにて兄弟に怨まるる事あるを思い出さば、供物を祭壇の前に遺しおき、先ず往きて、その兄弟と和睦し、然るのち来りて、供物をささげよ。汝を訴うる者とともに途(みち)に在るうちに、早く和解せよ。恐らくは、訴うる者なんじを審判人(さばきびと)にわたし、遂になんじは獄に入れられん。誠に、なんじに告ぐ、一厘も残りなく償わずば、其処をいづること能わじ」
 と、イエスは言っているのであります。≫

 というところの、イエスの言葉です。

 それから、>>729

≪ …すなわち超越内在的意味に於ける“キリストの再臨”による“最後の審判”は、本来無いところの「虚妄(まよい)」の無を「無」として判決宣告して、永遠に出て来られない世界に堕獄し、本来人間の実相たる「完全人間」を実在なりと判決宣言して、それを如実にあらわすところの審判でありますから、「吾が宗教(おしえ)は恐怖の宗教にあらず、虚妄(まよい)を焼かるる者は却って生き、暗黒(やみ)を焼かるる者は却って光をあらわさん。病は癒され、悩みは消えん」とあるのであります。

「焼かるる者は『汝』にあらずして『虚妄(にせもの)の汝』であるからである。『虚妄の汝』は神より出ずるに非ず、神より出でざる汝は実在にあらず」と示されております通り、「病んだり、悩んだりしている汝」は、真に実在するのではなく、夢の中の人物のようなもので、「本来無い」のであります。

本来無い「悩みの人間」「病める人間」が、「私はこの通り存在します」と、感覚面に訴えて控訴しているのであります。「真理の光」に照らして、「汝らは、神より出でざるが故に、如何に実在の仮面を被るとも実在にあらず」と、最後の最高裁判所的裁決を下すのが、真理の再臨による「最後の審判」なのであります。≫

という「“最後の審判”に就いての神示」ご講義のお言葉(『神ひとに語り給ふ』)です。

 いずれも、「訴うる者」「審判人(さばきびと)」「控訴」「最高裁判所的裁決」というような、「裁判」に関わりある言葉が出てくるので、現在の『生命の實相』出版権をめぐる教団と社会事業団の争い、裁判対決を連想させます。

 「争い」とか「対決」というようなことが出てくるのは、「神の国」にはないことで、どちらか一方が正義(善)、一方が不正義(悪)であるということはなく、いずれも

 「迷いと迷いと相搏(う)って自壊するのだ。」(声字即実相の神示)

 という過程なのではないかと思われます。そして、

 「まだまだ烈しいことが今後起こるであろうともそれは迷いのケミカライゼーションであるから生命の実相をしっかり握って神に委せているものは何も恐るる所はない。」

 と神示にありますから、結局は自壊作用の後に、一層すばらしいことが出てくるしかない、と思われるのであります。

 ですから、>>740の通り、私たちは

 「吾々は神様が主催される天国の婚筵(こんえん)に招かれる客のようなものである。すでに御料理は出来ているのである」(『幸福を招く365章』)

 「安らなれすべて善ければ
  とこしえに此処極楽に
  なれは今まもられてあり。」(「堅信歌」)

 ということを信じて、今、われ「七つの燈台の点燈者」なり、「住吉大神の全心全霊」なりとの自覚と信と使命感をもって、明るく愛を行じて行きたいと思います。


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