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「本流対策室/4」

1トキ:2012/10/03(水) 21:28:32 ID:4FimSElg

このスレッドは、生長の家の「今の教え」と「本流復活」の問題に関連して、以下のテーマを扱うものとします。

 「本流掲示板」等他の掲示板に掲載された投稿へ何らかのコメントをする。

 いわゆる「本流復活派」の方々の言動について、コメントをする。

 上記に関連するテーマなら、広く受け付けます。また、この2つのテーマについて賛否どの立場の人の投稿も歓迎しますが、たとえ違う立場の意見でも、お互いに尊重する寛大さをお願いします。

 この掲示板は、基本的に生長の家の教義と谷口雅春先生の説かれた教えを支持、共鳴する人のためにサイトです。生長の家と谷口雅春先生へのご批判をされる内容の投稿はご遠慮下さい。

 投稿の削除はしない方針ですが、アダルトサイトや出合い系サイトの勧誘を含む内容など明らかに目的外の投稿は、削除の対象となります。目的外の投稿の判断は、最終的には、管理人である「トキ」の判断になります。
ご理解下さい。

 スレッドのルールと方針は、生長の家の「今の教え」と「本流復活」を考えると、と同じに考えております。

投稿に当たっての注意点

*このサイトは、「生長の家“本流宣言”掲示板」等と違い、自分の発言を自分で削除できません。削除御希望の場合は、管理人までご一報下さい。
*必ず、スレッドのトップにある「掲示板の使い方」をご覧下さい。
*インターネットのサイトという性質上、不特定多数の人が閲覧します。プライバシーに触れる問題や名誉毀損の可能性のある表現などは、控えて下さい。
*サイトの運営方針としては、削除は原則としてしない方針です。他者の投稿が問題のある投稿だと感じた場合は、「削除要請」ではなく、ご自分の意見を投稿するという方向での解決をお願いします。
*生長の家の共鳴者を対象にしたスレッドです。下品な表現や特定の人物を侮辱する言葉はご遠慮下さい。たとえ、自分と違う意見の人でも、敬称はつけましょう。相手に対する敬意と礼儀を忘れない様にお願い申し上げます。
*谷口雅春先生への批判は、目的外ですので、投稿をしないで下さい。
*「したらば」は長文の書き込みをした場合、一部が表現されない場合があります。その場合は、「下部左部分」にある「全部読む」を押して下さい。

このサイトについて

*宗教法人「生長の家」、「谷口雅春先生を学ぶ会」「ときみつる会」「生長の家社会事業団」「新教育者連盟」などの諸団体とは関係はありません。
*「ポスティング ジョイ」や「生長の家“本流宣言”掲示板」などのサイトとは一切関係がありません。

1113志恩:2012/11/25(日) 14:07:33 ID:.QY5jUA6
>>1111:トンチンカン様と同じ気持ちです。

私も.現在、下層の信徒です。

下層にばかり、やりなさい、やりなさい、と命令される、

あんたは、どうなんじゃい!!!

雅宣さんは、どうなんじゃい!!!

雅宣さんは、

 どんどん どんどん 生長の家の根幹を抜き取る ”ばい菌マン””。



>>ここなのです!! 問題の基本となるところは、、、、、

(下層の)信徒達一人一人、特に“谷口雅春先生の謦咳”に接してこられた信徒達にとっては、

生長の家の唯神実相の信仰に「生きること」に精進しようとしているのであります。

超下層のトンチンカンもその一人?


ところが、マサノブ総裁ご自身は、“唯神實相哲学”ならぬ “唯物的環境論” を超全面に出し <今の教え> の舵を切ったのであります。

これが下層の信徒に対する <大ウソ> であります。 <<

1114志恩:2012/11/25(日) 14:28:10 ID:.QY5jUA6
皆様へ

おじいさん、おばあさん、ころされても、
おとうさん、おかあさん、ころされても、
おこさん、ころされても、

悪を見るな、ただ有り難いと実相を祈っておれ!
咎めるなよ、

 和解派軍団に

「真理」を悪用されて、

これと同様な説教を、われわれは、されています。

みなさま、
洗脳されては、いけません。

おじいさん、おばあさん、ころされても
おとうさん、おかあさん、ころされても、
おこさん、ころされても、

皆様は、ただ黙って、笑っておられるのですか。

雅宣さんは、生長の家の根幹の教えをころしました。
ごかぞくを、ころされたのと、おなじことを

雅宣さんに、されたのです。

黙ってにこにこしていては、なりません。
実相は完全ですが、

迷いの行動が起こっている場合は、強くノーと拒否して、

迷いの暗雲を吹き飛ばそうでは、ありませんか。

われら日本のために、どうか皆様も、発言をされて下さい。

本来の生長の家の根幹を取り戻す運動にご参加ください。

1115さくら:2012/11/25(日) 14:28:34 ID:EPwWC/eU
>>1111トンチンカンさま

…トンチンカンさまのさくら宛ての、一連のご文章からは、どこからがご冗談で(笑ってツッコミをいれた方がよいのかしら、とか)
どこからが本気なのか、にわかにはご判断つきかねますですが、

…つまり、トンチンカンさまは、誰の、どの教えを信じ、実践されたいのでしょうか。

わたしは、トンチンカンさまからお言葉を頂いたので、ここへ書いてしまい奥へ入ってしまい申し訳ないですが、

今、復興Gさまが、書いて下さっている、一連の生長の家の歴史の軌跡を読ませて頂き、
この生長の家のみ教えにご縁があり、この貴い日本に生かされているのは、
雅春先生や先人達が命がけで伝えて下さった、この生長の家のお陰だと改めて、感じさせて頂きました。

改めて、自分自身が生長の家のみ教えを生きて行くことが、生長の家を存続させることだと、個人的には感じた次第です。



1116さくら:2012/11/25(日) 14:29:06 ID:EPwWC/eU
叡智の断片より謹写

「運命を支配するには

人間の運命を支配するのは、真理を知りさえすれば容易なことであるのである。真理を知らないために人間は悲惨なる運命の虜になる。
悲惨なる運命を心に描くがゆえに、愈々恐怖心の虜になりて、尚一層悲惨なる運命に巻き込まれるのである。
我らの心が正しい方向に向かわないで、「悲惨」の方向を向いている限り、「悲惨」の陥穴に墜落するほかないのである。我々が幸福になるためには「幸福」の方向へ心が正しくむくことが必要である。「不幸」の方向へ心を向けながら「幸福」の都へ到達することは不可能である。「幸福」の都へ到達するためには、暗室におかれたる植物が、僅かの光線の方でも、その新芽を振り向けて伸びて来るように、一寸の「明るさ」でも「楽しさ」でも探して、その方向へシッカリと心を向けて突進することである。
凡そ、神の造りたまう世界には、不幸などというものはないのである。それは日光の輝く世界に暗黒が存在しないのと同じである。
しかし日光輝く世界にも影はあるという見方もある。
しかしそれは日光の方を向かず、日光に背を向けているからである。影はあるが如くであるが、それは、自分が日光の方向に向かぬからである。
不幸も、それと同じく本来ないのであって、ただその人が幸福の方向に向かぬだけである。心の方向をかえよ。
今迄事物の暗い方面ばかりに向いていた心を、事物の明るい方面ばかりに向きかわれよ。
其処から、人間の運命の転回が始まるのである。真理を知るとは、神のつくりたまうた人間には不幸はないという実相を知ることである。この実相を知ることによってのみ、人間は不幸なる運命から解放されるのである。
人間は神の子でるから、運命は、自分の自由にそれを支配することが出来るのである。」

1117トンチンカン:2012/11/25(日) 14:35:45 ID:9yITXFI2
“さくらさん”が引用している文章は?


“さくらさん”が引用している文章は、“『叡智の断片』谷口 雅春 先生著”であります。 マサノブ氏の著書ではありません?


#1103の 『智恵のことば』 にしても、#1112の 『奇跡を生ずる原動力』にしても、、、、、


“さくらさん”は、谷口雅春先生のご文章をフル活用して <説得> にかかり、マサノブ氏の実際の問題行動、問題発言、等々の ゴマカシ に荷担しようとしているのです!!


下層の信徒といえど、もうダマされませんよ!!  ノー、ノー、ノー、、、、、


今問題になっている、『鎮護国家』の抹殺なんかは、、、もう、マサノブ氏の “最後のアガキ” としか考えられません。


“志恩さん”と同じ思いであること、嬉しい限りです!!

1118さくら:2012/11/25(日) 14:37:29 ID:EPwWC/eU



…おーい、だれか〜、ここどこ?


生長の家の掲示板だと思ってたら、

迷ったか?

さくら拝

1119「訊け」管理人:2012/11/25(日) 14:39:13 ID:???


 アーメン。






1120さくら:2012/11/25(日) 14:39:33 ID:EPwWC/eU
>本流派がまた「歪曲・曲解で暴走」するんで、面倒なだけなのです。

(時間が勿体ないですものね。)


ということで、


ごきげんよう…。

1121「訊け」管理人:2012/11/25(日) 14:57:33 ID:???

>>和解派軍団に

「真理」を悪用されて、

これと同様な説教を、われわれは、されています。

みなさま、
洗脳されては、いけません。<<



<コメント>

 該当発言を至急、こちらへ掲載されたし。そのようなケースあらば当方、速やかな
謝罪を以て応える用意あり。

以上




1122うのはな:2012/11/25(日) 15:10:16 ID:GJR3i5nM
生長の家の掲示板だと思ってたら、

迷ったか?

さくら拝

1119 名前:「訊け」管理人 投稿日: 2012/11/25(日) 14:39:13 ID:???

 アーメン。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ほんとに迷ってますね。アーメンだってさ。

1123うのはな:2012/11/25(日) 15:15:43 ID:zzNh6pl2

 「靖国」見真会さんは、トキ掲示板などでどうしてコメントしないのかと
 尋ねているのだと思いますが、訊けは「書き込み禁止処分になるのが恐いからだと
 思います」とか。曲解してるみたいです。

 アーメンなんて面白がってるやつが出て来ると、読む方も迷います。

1124志恩:2012/11/25(日) 15:37:13 ID:.QY5jUA6
光明掲示板より

《谷口雅宣先生、“天皇”を抜きにした“神意”があり得るのですか…?》NEW (3969)
日時:2012年11月25日 (日) 13時38分
名前:「靖国見真会」参加者


2012年11月22日のブログ記事、「“天孫降臨”とは神意の現成なり」は、あからさまなる“雅宣教”の宣言でありますね。

ここまで書いてもらうと、谷口雅宣先生がどういう考えの持ち主か、はっきりとわかって却って、良かったのではありませんか…?

生長の家総本山から、「鎮護国家」を外し、その上でこうも言い切るのですからね。

〉「日本に天皇制国家を樹立する」などと解釈することは、全くの誤りであります。だから、私たちは世界各地に“神意”が拡大していくことを目指さねばなりません。〈

谷口雅宣先生は、何を言っているのだろうと思いますね。

結局、谷口雅宣先生が谷口雅春先生の聖典を読み込んではいないということを図らずも露呈してしまった、その証左と私は見ます。

例えば、「八ヶ岳教団」が絶版にしていない愛国書の『限りなく日本を愛す』を繙いたらよろしいですよ。

この中で、谷口雅春先生は、こう仰っています。(115頁)

…「併し、時期が来ます。キリスト再臨の時が!天皇の實相が天降りたまひて、人の王であるところの天皇が、王の王であるところの實相をあらはし給ふ時が!!

谷口雅宣先生、“神意”というのであれば、「天皇の實相が天降りたま」うことを指すのではありませんか…。

私は、そう受け止めてまいりました。

そして、それが生長の家の「天皇信仰」の神髄なのだとも…。

ところが、谷口雅宣先生は、“神意”をどうも、今回の記事で読む限り、このように受け止めているようですね。

〉「神の御心が十分に反映した平和な世界」「神−自然−人間が大調和した世界」

つまり、谷口雅宣先生のいう“神意”には、「天皇」のご存在が完全に抜け落ちている、そのように思うのです。

いや、そうではない、勿論、“神意”に「天皇」のご存在が意識されていると抗弁するのであれば、谷口雅宣先生の口から、もっともっと「天皇の實相」について言及されてしかるべきであろうと思うのです。

それがない以上、私は、今回の記事を見て、これは「天皇」を抜きにした“雅宣教”の宣言なりと判断せざるをえないわけであります。

前々から言っているように、これは谷口雅春先生の教えとは異なる、新たな宗派、“雅宣教”以外のなにものでもありません。

それでいいという人は仕方ありません。

その代わり、私どもを「別派」というのは辞めていただきたい。

だって、谷口雅宣先生自らが“雅宣教”という「別派」を打ち立てたわけなのですから…。

1125志恩:2012/11/25(日) 15:38:26 ID:.QY5jUA6
光明掲示板より

《こうしてみんな“雅宣教”に“洗脳”されていくのです…》NEW (3971)
日時:2012年11月25日 (日) 14時05分
名前:「靖国見真会」参加者


2012年11月22日のブログ記事について寄せられた読者のコメントが興味深いです。

例えば、この方。

〉合掌ありがとうございます。
私は、この御文章を読ませていただきまして、正直少し引っかかるところがありました。それは完成の燈台の第一番目「天孫降臨皇御国成就燈」の解釈の部分でした。
これはその当時、雅春先生の願いであった天皇国日本をつくりたいとの思いから付けられた名前であると理解していたからであります。
また、文字どおりそのまま理解してもいいのだと信じてきました。そんなモヤモヤした思いで早朝神想観をいたしまして、家内にそのことを話しました。
家内は「お父さんは、日本国民としての立場だけで総裁先生の御文章を解釈しようとするから迷うんですよ。私には何の抵抗もありません」と言われてしまいました。
私もそうだったかと思い、再びこの御文章を読ませていただきますとすべて納得し理解することが出来ました。
総裁先生の、広大無辺の神意の現成を目的とした運動への想いが心に沁みました。〈

もし、私の妻がこんなことを言ったら、私はガツンといいますね。

谷口雅宣先生は間違っている。こんな解釈があるか。これで、谷口雅宣先生が谷口雅春先生の“法燈”を継承していないことが明らかになった。一緒に、教団を退会するぞ!

それに妻が従わなければ、何のための「夫にハイ」か?

そのぐらいのことを言いますよ。

ところが、どうですか、この方は。

逆に奥さんに言いくるめられてしまっているではありませんか。

何と情けない。

これでは相愛会が下火になるのも無理はない。

こうして、白鳩会ペースで、どんどん“雅宣教”に“洗脳”されていくということなのでしょうね。

1126志恩:2012/11/25(日) 15:40:10 ID:.QY5jUA6
光明掲示板より

《谷口雅宣先生、谷口雅春先生の“神意”はこれではないですか…?》NEW (3974)
日時:2012年11月25日 (日) 14時45分
名前:「靖国見真会」参加者


谷口雅宣先生が“神意”をどう捉えているか、その一端がこう記されています。

〉最後の7番目の「君民一体地上天国成就」については、第1番目の名前と一見似ているようでありますが、「君民一体」という言葉を重視すれば、それは必ずしも「天皇と国民」だけを指しているのではなく、天皇が存在しない国もあるのですから、一般に「支配者と国民」の関係を述べていると思われます。その場合、支配者と国民の間に「意思の齟齬がない」こと、さらには「感情的な対立もない」ということが「一体」の意味ですから、それが“神意”であるということです。〈


いやはや、何だか、この文意だと「天皇と国民」との関係が「支配者と国民」のような構図でとらえられているような気がして嫌な気分でしたね。

それはそれとして、前述の『限りなく日本を愛す』から、また引かせていただきます。(151〜152頁)

…日本の国体が尊いと云ふのは、それの歴史を通して実相世界そのままの立派な特徴の顕現が続けられてゐるからでありまして、中にも「中心帰一」の實相は皇位の永遠性において表現し、天津日嗣天皇と申上げる名に於いて、天の御心を正しく受け嗣ぎ給ふ理想表現として崇め奉り、全ての国民が「神の子」として、天の御心の御表現なる理想に中心帰一する姿

これが谷口雅春先生の仰る“神意”だと私は拝させていただいております。

1127志恩:2012/11/25(日) 15:41:52 ID:.QY5jUA6
光明掲示板より

《谷口雅宣先生の常套手段は“ダブルスタンダード”にあり…?》NEW (3976)

日時:2012年11月25日 (日) 15時32分
名前:「靖国見真会」参加者

生長の家総本山の祭祀の重点を「鎮護国家」から「世界平和」へ移す、その理由の根拠が「鎮座降神詞」にあることは先に紹介いたしました。

で、実は、この出典について、《教化部長懇談会資料》は『生長の家五十年史』556〜557頁と、明確に示しています。

言うまでもなく、この本は今や絶版本です。

自分で絶版にしておいて、平然とその絶版したものから、このように利用する、その姿勢にはほとほと呆れ返ってしまいます。

そして、許せないのは、今回のブログ記事のこの箇所です。

〉この「天孫降臨」は他の宗教の目指すものと違うと考えるのも間違いです。その証拠に、「大和の国の神示」には、次のように明示されています


谷口雅宣先生は、「神示」を解釈するに当たっては、それが生まれた時代背景を見逃してはならないと、常に口をすっぱくして指導してきました。

そうであれば、当然「大和の国の神示」ついても、それが生まれた時代背景を抜きにしてはいけない筈です。

ところが、谷口雅宣先生はこの観点を見事にスポイルしてしまっているのです。

この「大和の国の神示」をどう解釈するか、それについては、次の観点が要注意だと谷口雅春先生は次のように仰っています。

『大和の国日本』より引用させていただきます。(33頁)

…さてこの「大和の国の神示」は、昭和二十一年一月一日に「天皇の人間宣言」と世にいわれる詔勅が渙発された五日後の一月六日の朝に掲示されたものであります。そして当時のことを回想すると、神武天皇の「八紘為宇」の建国の理想は世界を征服して一つに統一するという侵略主義であって、その軍閥の中枢を成しているのが天皇であるといった判断を連合国がもっていて、日本を裁くところの極東軍事裁判(東京裁判)において、天皇を戦争犯罪人として出廷せしめようとする強い動きがあるなかで、私はこの啓示を受けたのであります。従って占領軍の天皇への風当たりを避けしめるためその表現には配慮がなされているわけであります。私は、天皇さまを、實相を直視して全知全能の神の御現われであるというように今も考えているのであります。そしてアインシュタインがいみじくも言った如く世界連邦が成立し、誰をその連邦の神聖な中心にすべきであるかというと、自然に日本天皇がその首座に推されるほかはないと信ずるものであります。


如何でありましょうか。

これが、谷口雅春先生の御心なのです。

最後の「信ずるものであります」

この谷口雅春先生のお言葉が、如実に示されたのが、先に私が引用した『限りなく日本を愛す』のこの箇所なのだと私は理解しています。

…「併し、時期が来ます。キリスト再臨の時が!天皇の實相が天降りたまひて、人の王であるところの天皇が、王の王であるところの實相をあらはし給ふ時が!!

谷口雅春先生のこの“真意”からすれば、谷口雅宣先生の今回の解釈は、極めて“恣意”に過ぎると言わざるを得ません。

谷口雅春先生の御心に反して、意図的に自分の主義主張に合うように、都合のいいように「神示」解釈を施している、そんな気がしてならないのです。

谷口雅春先生の“真意”に添うべく尽力するのが、少なくとも、法燈を継承したものの責務ではないでしょうか。

自分の都合のいいように、平然とダブルスタンダー使い分ける、弟子としてこれは絶対にしてはならないことだと私は考えます。

1128「訊け」管理人:2012/11/25(日) 15:49:19 ID:???


 (以下は熊本鎮台殿ご発言・・・)
――――――――――――――――――――――――――――

〉「日本に天皇制国家を樹立する」などと解釈することは、全くの誤りであります。だから、私たちは世界各地に“神意”が拡大していくことを目指さねばなりません。〈

谷口雅宣先生は、何を言っているのだろうと思いますね。

結局、谷口雅宣先生が谷口雅春先生の聖典を読み込んではいないということを図らずも露呈してしまった、その証左と私は見ます。

――――――――――――――――――――――――――――

 しかし熊本鎮台殿は、何を言っているのだろうと思いますね。

 結局、熊本鎮台殿が谷口雅春先生の聖典を読み込んではいないということを図らずも露呈してしまった、その証左と私は見ます。





追伸
 
しかも雅宣総裁のご発言を、一部しか読んでいないことも露呈しましたね。まあ、その文言〝だけ〟を引用してくれば、周囲は暴走してくれましょうから。まあ、運動家としては、素晴らしいです。素晴らしい「戦術だ」の、そんな程度の意味ですが。

 さて熊本鎮台殿に問題です。

 その、雅宣総裁の御発言ですが、(=「日本に天皇制国家を樹立する」などと解釈することは、全くの誤りであります。以下)総裁の論拠はなにになりましょう?ぜひ、お答えくださいませ。答えは総裁ブログ内に、明示されてありますがね。

1129「訊け」管理人:2012/11/25(日) 15:52:55 ID:???

<補足>

 どうしても総裁を「撃ちたい」・・・・・・そうなればもっと、他に文言がある
でしょう。ええ、一見するとあたかも、雅春先生の御教えを「歪曲しているかの」
ような、そんな箇所が・・・・・

 どうしても撃ちたいならば、そこを引用してくれば良いのに。そう思いますがね。





追伸

 なお、その箇所がどこかは、「現段階では内緒」にしましょう。

1130志恩:2012/11/26(月) 08:34:24 ID:.QY5jUA6
〜和解のこと〜

 生長の家の横の真理では「環境は心の影、自分の心の顕われとして現象にあらわれてくる」とあります。

ですから、何か問題が起きたらそれも信徒である私たちの心の影であるとして、雅宣総裁の実相をわれらがまだ見つ
めきれていないからではないのかと言う信徒がいます。

そういう人は、愛ふかく 心やさしく、謙虚な人にありがちと感じます。
 
 しかし公人として、また、宗教団体としての問題は、これとは、別次元の問題だと思います。
   その考え方は、公私混同の考え方だと思うのです。

特に創始者谷口雅春先生が烈々と説かれ続けてきた天皇の実相、日本国の実相を説かず、それを周辺の真理と評し、

雅宣総裁は、それらについては時代的な特殊のことであるとして、主流からはずしてしまい、代わりに主流を環境問題、ノーミートにしてしまった
「今の教え」の状態は、別次元の問題として考えるべきだと存じます。。
 

 雅宣総裁は、[国際平和信仰運動」の名のもとで、熱心な生長の家の信徒さん方の多くの信徒の心から、谷口雅春先生にご指導頂いた正しい国家観と愛国心を、こそぎ落としてきました。。
今度は、名を変えて「世界平和運動」ですね。

そして、「今の教え」と称して、生長の家大神・住吉大神が谷口雅春先生を通して人類に示された生命の實相の教えを変質させ、
新しい信徒さん方が、もともとの教えに触れる機会を乏しくさせています。

更に谷口雅春先生のご存在を、より薄くし、抹殺する行為も激化しており、

生長の家の人類光明化運動・目本国実相顕現の運動が次第に楼小化され無化されていく中で、
目本の国家の崩壊現象が猛烈に進み、様々な問題が噴出し、国家の将来を危ぶませるような情況となってきています。。

 このような現状認識の中で、雅宣総裁は自分自身の心の影である、自分の祈りが足りないのであると感じることは、
教義上は一面の真理であるように見受けられます。しかし、その祈りが「人生を神生となし、必勝を信じて邁進」する、どのような行動となっているのかが
大問題なのでは、ないでしょうか。

和解派の皆様の言葉の数々は、雅宣総裁に妥協する誘惑の言葉となっていることが多いように感じています。 つづく

1131志恩:2012/11/26(月) 08:48:40 ID:.QY5jUA6
〜和解について〜②

『生命の実相』第十四巻倫理篇に

「和解の倫理」と題 して、われわれ信徒がとるべき、基本的な考え方が厳しく書かれてあります。

【即ち、・・・「生長の家」倫理学の中心思想は、「人と神と一体であり、万(よろ)ずのもの皆神より出でたるものであるから、なんじを害するものは一つもないのであるから、

 天地一切のものと和解せよ」ということであります。

そこで天地一切のものと和解するには、天地一切のもの、すなわち異端邪説とでも和解したらよいかどうかが問題になるのであります。と書かれ、

家ダニ、結核菌、放蕩息子を例として、具体的に説かれた後、谷口雅春先生は、・・・・仮相に和解していたのでは、仮相はますますのさばって大きくあらわれて来るのであります。

(中略)仮相に和解してしまったら仮相があらわれる。それではいけない。

それで「生長の家」の聖経『甘露の法雨』には、「仮相に対しては実相をもって、相対せよ」「非実在に対しては実在をもって相対せよ」と書いてあるのであります。】


顕現を祈るべき実相とは

 それは、あくまでも、生長の家大神・住吉大神が人類の中から谷口雅春先生を選ばれ、神示を通して示された、

谷口雅春先生が説かれる生命の実相の教えの宣布(人類光明化運動)を、そのまま曲げずに展開している実相以外にはありえないのではないでしょうか。

1132志恩:2012/11/26(月) 09:16:13 ID:.QY5jUA6
〜和解について ③〜

(虚説とは、雅春先生の教えをご自分の「都合のいい教え」に歪曲して解釈を加え、別の説にしてしまった説のことです。)


「生長の家」に救いを求め、教えを求めてきた人に、
「神の子人間」の真理に立った絶対的なる光明思想を正しく教えられず、光明生活を確立せしめられず、

「今の教え」という違うものを押しつけられるのであれば、それは信徒を誑かすものとなるのではないでしょうか。

人を救う力は生命の實相の真理にあるのであって、雅宣さんが語るくどくどしい説明や理屈にあるのではないことは、わかる人にはわかるのです。

 更に、谷口雅春先生の説かれた「生命の実相の真理」を人類に伝え、人類を光明生活に導くということを真っ直ぐに説かないということは、
人類光明化運動に人生を捧げてきた、又現に捧げている数百万の聖使命会員の真心を裏切ることであり、

又「生長の家」が人類に果たすべき役割を、放棄することとなっているのではないでしょうか。

では、どうしたらいいかについて、雅春先生が、お説きになっておられます。

 谷口雅春先生は

「虚説に和解してはならぬ」という見出しを敢えて掲げられて、次のように厳しく示しておられます。

  対人関係、対物関係の和解は、そういうように物そのもの、人そのものの実相を見て、それと実相において和解してしまいますと、

相手の調和した実相があらわれて相手が自分に逆らいまたは害しなくなるのでありますが、

「迷い」に対したり「誤れる見解」に対しては、われわれはいかなる態度をとるべきでありましょうか。

「迷い」に対して和解したら、真理が消えてしまうのであります。「誤れる見解」に対して和解したら実相がくらまされてしまうのであります。

だからわれわれは、決して「誤れる見解」に和解してはならないのであります。(中略)

 ・・・光は闇と和解することはできない。光が近づけば闇は消えるほかはない。

それと同じく真説は虚説に近づけば虚説を消す働きになる。

(中略)虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのもまちがいであります。

虚説を排撃することいよいよ明瞭であればあるほど、真説は明らかに照り、それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

 ここに、「虚説を排撃することいよいよ明瞭であればあるほど、真説は明らかに照り、
      それに照らされて救われる人間も又多いのであります。」

       と、このように、雅春先生は、明示されておられるのです。

1133復興G:2012/11/26(月) 11:28:54 ID:vWpLkCzM

>>1100 のつづき

≪生長の家教団 戦後60年の運動 その光と影(21)

今朝、私のところに下記のようなメールが届いていました。
   ===========

<タイトル>甘露の法雨の「智慧」の文字について質問です
(Mon, 26 Nov 2012 06:03:22 )

 (前略)先日、昔に購入した手帳型の甘露の法雨が出てきました。家では折本型の四部経、外では手帳型の甘露の法雨を持ち歩いています。
 ところが、折本型は「知恵」、手帳型は「智慧」になっているのです。本当はどちらなのでしょうか?

 意味を調べてみますと、「智慧」を使う場合は神様の智慧、実相界の智慧を指し、「知恵」を使う場合は人間知、脳髄知を指しているとのことです。当然、前者の方が良いような気がしますがどうなのでしょうか?

   ===========

 それに対して、私は次のようにお答えしました。

   ===========

<お答え>
 ――谷口雅春先生がお書きになった元の『甘露の法雨』では、「智慧」です。

 『生命の實相』の頭注版が出された時、谷口雅春先生がお書きになったままの、正漢字(略字を採用している当用漢字ではない元の旧字体)・歴史的仮名遣い使用から、当時の文部省が決めた当用漢字・新仮名づかい使用に書き換えられました(それは新しい教育を受けた若い人たちにも抵抗なく読めるようにとの配慮からでした)。

 それは、頭注版の目次の前に掲載されている「凡例」の(一)に

 「本文は文部省調査局国語課長白石大二編『当用漢字・現代かなづかい・送りがなのつけ方』(昭和35年版)に準拠したが、固有名詞はそのまま保存し、納得の行きかねる所は独自の考え方で改めたところもある。」

 と記されている通りです。

 その頭注版が発行されたのは昭和37年からでしたが、そのとき、大幅に漢字をかなに書き換えたり、当用漢字にない難しい漢字は当用漢字に書き換えたりすることを、編集部で勝手にやってしまったのです。

 その『生命の實相』の中で聖経『甘露の法雨』が最初に出てくるのは、第20巻の最後の方の「聖詩篇」の最初のところですが、ここで「智慧」が「知恵」に書き換えられています。

 以後、折本型の聖経四部経が練成会で使用するために発行されたとき、この『生命の實相』頭注版「聖詩篇」を参照したので、以後の新かな聖経『甘露の法雨』ではすべて「知恵」になっていると思います。

 あなたが昔購入された手帳型の聖経『甘露の法雨』というのは、もとの旧仮名遣いのものなのでしょうね。

 谷口雅春先生は、頭注版の『生命の實相』が出来上がってご覧になったとき、これは自分の書いたものではない気がすると嘆かれた、と伺ったことがあります。
 「智慧」を「知恵」に書き換えたのは、谷口雅春先生の著作人格権を犯す、編集部の“暴走”ではなかったかと、私は思います。

 ありがとうございました。合掌

1134トンチンカン:2012/11/26(月) 11:38:28 ID:9yITXFI2
マサノブ総裁は本当に<和解>する気があるのか?


この掲示板でも、トキ管理人は <和解の旗振り役> をさせられております。

今までにも、和解派の人達の見解もありました。


しかしですね、当のご本人である マサノブ総裁 は “素知らぬ顔” を決め込んでいるではありませんか?


和解派の人達は、本流派の人達に物申すのではなく、その矛先は マサノブ総裁 に向けられるべきであります。

マサノブ総裁がその気になれば、今すぐにも解決出来ることなのです。


問題は、マサノブ総裁が “和解のテーブル” に乗りたくないだけのことなのです、、、、、

1135復興G:2012/11/26(月) 12:36:09 ID:vWpLkCzM

>>1133 のつづき
≪生長の家教団 戦後60年の運動 その光と影(22)

 さて、“暴走”とは、何か。

 私はこの続き物の投稿の最初に(>>1062)次のように書いていました。

     〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 現在の教団の状況は、教団80年の業(ごう)の結果である、と思っています。……の現在の雅宣総裁・教団の“暴走”はなぜ起きているのかと言えば、その前に、反対方向への“暴走”があったので、その反動としての暴走ではないか、というのが私の大局観というか、思うことです。
     〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 “暴走”という言葉は、石原慎太郎さんも「僕は暴走老人だ」と自分でおっしゃってますから、必ずしも悪い意味ばかりではないと思いますが、私はこの言葉の定義をはっきりさせてから、上記のように思う所以を、資料をもとにして、冷静に考え、述べてみたいと思います。

   ===========

 “暴走”と言えば、「暴走車」というのは猛スピードで走るスピード違反とか、歩道走行、信号無視、高速道路逆走とか、ルール違反の走行をしてひどい人身事故や物損事故を起こすようなのは当然、「暴走車」と言われますよね。

 戦後の全学連から全共闘、新左翼・・・・といった極左の学生運動が、やがて四分五裂し、内ゲバ、リンチ殺人事件などで世間から見放され自滅の道をたどったのは、“暴走”の結果だったと言えるでしょう。

 オウム真理教の無差別殺人事件だって、「ポア」と称して熱湯で人を殺すことが人を救うことだなんて、どう考えても、とんでもない“暴走”ですよね。

 生長の家はすべての人を「神の子」として礼拝し、生かす教えですから、そのような“暴走”を起こすことがなかったのは当然で、ありがたいことです。
<つづく>

1136うのはな:2012/11/26(月) 15:16:39 ID:O14KGmdU

 トキさんが「和解の旗振り」をしていても
 トキ掲示板=争いの家

 別版にも書きましたが、訊けに注意もできないようだし、
 ここをいったん、閉鎖することを提案します。

1137復興G:2012/11/26(月) 15:35:52 ID:vWpLkCzM

>>1135 のつづき

≪生長の家教団 戦後60年の運動 その光と影(23)

 生命は常に新しく前進します。一瞬たりとも停滞することなく、古いものをこわしては新しい創造をして行きます。

 細胞も古いものをこわして新しい細胞を創る新陳代謝を続けて、生命体は生長を続けています。それは、神は無限のものを包蔵したまい、次々に新しいものを現象界に映し出して行かれる、人間はその神の創造の出口、噴出口だから――と言えるでしょう。

 若いときには特にエネルギーに満ちていますから、善きにつけ悪しきにつけ、火山の噴火のように、内からマグマが噴き出るように行動して、それは古いものを破壊するようなこともある。それは、新たな創造のためであれば、必要なことと言えるでしょう。

 だから石原慎太郎さんが「私は暴走老人」と自分で言われるのは、まだ若さがあると肯定的に“暴走”という言葉を使っておられるのだと感じられます。

 それにしても、生長の家で“暴走”というのは、何を意味するか、どう定義すればよいかを考えてみたいと思います。

 己れが「善」と考え「使命感」と思うことに、自我の欲望、名誉欲とか、権力欲とかが混入していることは、ままあることだと思います。また、宗教においては、「悟り」というもの、生長の家では「神の子の自覚」ということが大切な要諦になりますが、これは白隠禅師も「大悟18回、小悟は数知れず」と言われたとかで、限りなく奥深いものです。それが「小悟」の段階で、すでに最高の悟りを得たと思い上がり、増上慢に陥って独善的に行動することは、最も自戒すべきことだと思います。

 谷口雅春先生も、「わたしは『生長の家』の教祖ではない。わたしは諸君と共に『生長の家』の教えを聴聞して、ひたすら、その教えのごとく生き行こうと努力する一人の求道者に過ぎない」と言われているのです(『生命の實相』第1巻p.14)。私たち信徒は、谷口雅春先生に学び、そのみ跡に続こうとするならば、先生のこの謙虚なご姿勢に学び、教えの前に謙虚さを失ってはならないと思います。

 また、集団で行動するときには、「集団心理」というものが働く。集団心理とは、合理的に是非を判断しないまま、特定の時流に流されることを指します。集団心理で行動すると、時には“暴走”してしまうことになりがちです。

 60年安保のときには20万、あるいは30万人ともいわれる大衆が国会前に乱入し、「安保反対」「岸(首相)を殺せ」などと叫んでデモを繰り返しました。私は谷口雅春先生の「諸君は日の丸に組するか、赤旗に組するか」という雄叫びに、「日の丸に組します」と奮い立ち、国会周辺に向かっておりました。途中で、産経新聞の記者をしている、少し遠い親戚の者に出会いました。そして夜通し彼人と無我夢中で安保について論議し語り明かしたことがありました。そのとき、この安保反対の大衆行動はまさに集団心理によるところが大きく、一人一人の参加者は、合理的理性的な判断をしないままに、“進歩的文化人”と言われた時代迎合の知識人やマスコミの煽動にあおられ乗せられて、野次馬的に行動していたのであることが、はっきりとわかりました。

 このような「空気」によって、「日本」なるものが破壊されてはならないと、谷口雅春先生は「世界平和の鍵を握る天皇国日本」を守り抜くために、(>>1078参照)「渾身の力をふるって懸命に」叫び続けられたのでした。

 前にも述べましたように、その先生の愛国、憂国の雄叫びに応えて起ち上がったのが、かつての青年会の『理想世界』百万運動であった、と言ってよいと思います。
<つづく>

1138復興G:2012/11/26(月) 21:28:02 ID:vWpLkCzM

>>1137 のつづき

≪生長の家教団 戦後60年の運動 その光と影(24)≫

 かつての青年会の『理想世界』百万運動は、>>1089>>1100に書きましたように、谷口雅春先生の愛国、憂国の雄叫びに応えて起ち上がった青年たちの、燃える青春を賭けた運動でありました。

 では、そこにはいささかの曇りもなく、>>1137で書いたような“暴走”というようなものが皆無であったかと言えば、現象の運動では、そうはいかない。左翼が暴走して日本を破壊しようとしているのに対して、それと戦って阻止するには、こちらも“暴走”するくらいのエネルギーを要したからであります。

 それは、日本が大東亜戦争を戦ったのは西欧諸国に植民地化されていたアジア民族の解放、大東亜共栄圏の建設という理想がありましたが、現実の日本軍には「皇軍」らしからぬこともあった。だから「戦争は迷いと迷いと相搏(う)って自壊する」と神示にあるように、敗戦というすがたになった。しかし、聖なる戦争目的は達成されて、アジア・アフリカの民族は解放され次々に独立をかちとったのでした。

 で、『理想世界』百万運動にも“暴走”はあったと、私は振り返って思います。当時の青年会は生長の家の紅衛兵(こうえいへい)みたいだ、などという評を聞いたこともあります。今、「谷口雅春先生を学ぶ会」の代表をしておられるN氏も、当時はそれに同調して百万運動を批判しておられたと思います。

 紅衛兵というのは、もう40年以上も前の中国のことですから、ご存じない方のために説明すると――
 中国共産党指導者だった毛沢東が、「大躍進政策」の大失敗により2000万〜4000万人の餓死者を出して失脚した後、権力回復の為に起こした「文化大革命」闘争(1965年から約10年間続く)で使われた過激な若者軍団です。毛沢東語録を手に、旧思想の打破を叫んで街頭へ繰り出し、「理想の実現のためなら何しても構わない」「古い物は全て悪」として、劉少奇や訒小平に代表される実権派、反革命分子を攻撃したほか、「造反有理(反逆することに理がある)」という毛沢東のスローガンの下、既成の秩序を徹底的に破壊しようとした。
 学校においては、教師がつるし上げの対象となり、生徒が校長を追放し、授業の内容はもっぱら毛沢東の著作の研究以外は行われず、出身階級が悪い生徒をつるし上げ、殴打し、悪罵を投げつけるという凄惨な場であったという。
 仏教寺院やキリスト教の教会は破壊され、凄まじい数の仏像と経典、文化的価値のある建築物が灰燼に帰した。僧侶やシスターたちは侮辱をうけ、暴行され、時には殺された。儒教と孔子も徹底的に攻撃された。
 ある女性が集団でリンチを加えられているので、殴打されている理由を尋ねると、「この女は地主の娘だからだ」という答えが帰ってきた、とか……
 そうして文化大革命期間中に出た死亡者、行方不明者(数百万人とも数千万人ともいわれる)の一部の虐殺に加担したとも言われています。
 笑い話みたいですが、交差点の信号を紅(赤)を進行、緑(青)信号を停止にしようとしたとか、藍い目をした外国人旅行客の寝てる隙に、目にケチャップをそそいだとか、キンタマが右に寄っている人を反革命分子と勝手に決め付けて右のタマをつぶしたりしたとか、「左折禁止」の場所でも構わず左折(中国は右側通行)。逆に「右折禁止」の標識を勝手に作りまくったとかいうエピソードも伝わっています。

 以上は中国の紅衛兵のことであって、生長の家青年会がそのようなことをするわけはありません。しかしそれまでのおとなしい伝道活動からみれば、まるで紅衛兵のような恐ろしいほどの雰囲気が感じられるくらい、猛烈な運動を展開していたということかも知れません。が、それによって、『理想世界』誌百万部はついに達成した――。
<つづく>

1139復興G:2012/11/26(月) 22:37:53 ID:vWpLkCzM

>>1138 のつづき

≪生長の家教団 戦後60年の運動 その光と影(25)≫

 私は『理想世界』百万運動の渦中にいましたから、その雰囲気は身をもって感じ、知っています。その「光」の面も、「影」の面も。具体的に見聞し体験したこともありますし、文書資料もあります。が、その「影」の面を今ここに公開しようとは思いません。

 しかし谷口雅宣さんは(「雅宣さん」と呼ばせて頂きます。なぜなら、その当時は総裁でも副総裁でもなく、生長の家の組織役員でありませんでしたから)、その“影”の面を見て、この運動を“悪”として激しく批判し、副総裁になられてからは、百万運動のリーダーであったM氏・A氏およびその同調者を徹底的に排除しようとして来られたようです。私は本部の外にいましたから、あまり具体的には知りませんでしたが、信頼できる本部員からの情報で、それがあったと思います。

 私は今、『理想世界』百万運動のリーダーであったM氏・A氏には、心から敬意と感謝の思いを持っております。なぜなら――その後両氏は、谷口雅宣副総裁―総裁のもとで教化部長になられてからも、誠心誠意全力を尽くして伝道教化、信徒の救済指導と運動推進に献身され、講習会推進にも聖使命会員拡大にも抜群の成果を挙げられました。現在、教団が衰退気味ながらも持ちこたえているのは、両氏の貢献によるところも大きいと思われます。

 「東京事件」と言われる騒ぎの中で除名処分を受けた悲劇の主人公N氏とも完全和解され、今ではN氏も、M・A両氏を熱心に支持し、むしろ雅宣総裁批判の側に立っておられていることも、知っています。

 両氏は本部を退職されてからも、「(ご恩を受けた)谷口家に弓を引くようなことはできない。教団をつぶしてはならない」と言って、“本流”の方たちの心情は理解しながらも行動を共にすることはせず、ひたすら谷口雅春先生の御教えを深く学び伝えることをされていると伺っておりますから、両氏には心から敬意と感謝の思いを持っています。
<つづく>

1140ハマナス:2012/11/27(火) 00:18:25 ID:x2zmnlqw

谷口雅春先生著『限りなく日本を愛す』P.89より 謹写させて頂きます。 

 君民一体の生命把握の自覚

 天に仰ぎ、地を見下ろせば、天と地とは感覚的には別個のものであるのである。しかし
その根元を「一」として捉え、その「一」に中心を見出して、それに万法の帰一することを
捉えたのが日本民族であるのである。その生命の流動は、全体として「高天原」(たかあま
はら)なる生命顕現の「場」を形成するのである。「場」は単なる場所でなくして、生命の
流動そのものの展開又は表現としてのそれであるがゆえに、それは直に「成りませぬ」生命
そのものである。「成り」は「鳴り」であり、コトバであり「生命の流動」である。「高天原」
に偏在して「鳴」りわたるコトバはそのまま「生命の流動」であり、それがそのまま「天之御
中主神」(あめのみなかぬしのかみ)であるのである。高天原と云う容器(いれもの)の中に
天之御中主神が発生したと云うのではなくして、高天原そのままが「中」(みなか)の顕現で
あるのである。「中心」と「周辺」とを分割するような思想は、日本的なものでない。

 天皇と臣民とを分割するような思想は、日本的なものでない。日本人は天皇に於いて自分の
生命の本源の象徴を見出し、天皇はみづからの手身(たみ)であるところの国民を見出したの
である。頭首は手身なくして生きないし手身は投手なくして生きない。君臣一体の生命把握が、
日本民族の最初の中枢的自覚であったのである。

(旧かな使いを新かな使いに変換致しました。)

感謝合掌

1141トンチンカン:2012/11/27(火) 00:26:11 ID:9yITXFI2
トキ管理人は“訊けさん”に注意できない?


>>1136 名前:うのはな 投稿日: 2012/11/26(月) 15:16:39 ID:O14KGmdU
 トキさんが「和解の旗振り」をしていても    トキ掲示板=争いの家
 別版にも書きましたが、訊けに注意もできないようだし、ここをいったん、閉鎖することを提案します。<<



『訊けに注意もできないようだし』とのこと、、、、、?!  しかしね、トキ管理人にはそれができないのです。


何故って? “初心者さん”や“さくらさん”が “訊けさん” と実はラブラブなのですから、、、、、

“初心者さん”や“さくらさん”の 困った時 の <訊け頼み> なのです。



先日も、“さくらさん”が『1118 :さくら:2012/11/25(日) 14:37:29 ID:EPwWC/eU …おーい、だれか〜、ここどこ?  生長の家の掲示板だと思ってたら、  迷ったか?   さくら拝』なんて言ったら、、、


“訊けさん”が『1119 :「訊け」管理人:2012/11/25(日) 14:39:13 ID:???   アーメン。 拝』、、、と応えていたではありませんか??  それも、即座にですよ!!



<参考>

1638 :さくら:2012/11/26(月) 07:36:24 訊けさま 商人さま
<略>
わたしは、「訊けブログ」が好きです。
<略>
訊けブログは、表題がついてて探しやすく、映像も、ことばが心に入りやすい演出があります。
これからもお世話になります。
生長の家でのご縁に、感謝しています〜、

1142志恩:2012/11/27(火) 06:28:46 ID:.QY5jUA6
トンチンカン様

ここは、【和解派の要塞】なんです。
なのに、トンチンカン様は、よくめげずに発言されていらっしゃいます。

そうなんです。
初心者様、さくらさん、訊け君たちは、トンチンカンさまのいわれるように
ラブラブのお仲間です。

ここの和解派の要塞の皆様の戦略は、本流派を虚無感に陥らせるか、
だんだんと、ここでの発言を、ばかばかしく思えさせて、

本流派を、ここから、つぎからつぎへと、追放することにあります。

別板では、訊け君やさくらさんなどの和解派が、熊本鎮台殿(靖国見真会様のこと)と志恩の
悪口を言い合っています。

訊け君は、「雅宣総裁の方が、知的で誠実さがある」と、総裁と、われわれとを比較したりしています。

まさしく「雅宣総裁擁護派」なんですね。

彼らの考えによると、生長の家が潰れてもいいのです。雅宣さんさえ、助かれば。

1143志恩:2012/11/27(火) 06:39:42 ID:.QY5jUA6
掲示板・運営/方針 板より、
別板で、和解派の皆さんが語り合ってますが、訊け君の発言を1つ貼付します。

(彼の言う、熊本鎮台殿とは、靖国見真会参加者様のことです
もう、あきれて話になりません。「愛国書なんて、「絶版でよいのでは?」」とも
言ってますから…まさしく、雅宣総裁擁護派の感覚って、こうなんですね)


>>531 :「訊け」管理人:2012/11/26(月) 20:14:07

 なんか「ありき」なのは思想ではなく「結論」の様な気がしますね(笑)。

 あれは雅宣総裁の方が知的誠実さがあります。しかも雅宣総裁の論拠は雅春先生
だったって言うんだから、話になりません。熊本鎮台殿、普段は「愛国思想を抹殺
した総裁!」と連呼してましたが・・・・実際に抹殺してんのは、どっちよ?

 結論先にありき、なんでしょう。もう、雅宣総裁が言う事には「何でも反対!」な、
運動なんでしょう。ですんで思想ではなく、先にあるのは「結論」なんでしょうね・・・


追伸

 無論、本島でも書いたように雅宣総裁御文章にも、やや疑問点はあります。
 ですが、早くその話もしたいんですが・・・・・なんか、話しにならない感じ
ですね。もう、愛国書なんて「絶版でよいのでは?」なぜと申して愛国書、読まれ
たら運動が、成り立たなくなったりして・・・・・笑えない冗談ですね(笑)<<

1144志恩:2012/11/27(火) 06:45:16 ID:.QY5jUA6
訊け君を相手に論議しようとしているわけではありません。
あまりに呆れたので、訊け君の投稿文を1つ貼っただけです。

1145うのはな:2012/11/27(火) 09:24:35 ID:SXwG/Idc

 別版では「それで邁進しましょう」だとか、さっそくひとり調子にのって
 仕切りマンになっていますね。

 今迄訊けによく利用されてきた志恩さんは、今は被害者モードになってるそうです(笑)
 この男にはみんなの呆れた念や、恨みなどマイナスの気が相当集まってるだろうなと想像します。

 天罰は下るから、志恩さんはまともに相手になろうと思わないほうがいいですよ。

1146復興G:2012/11/27(火) 09:33:38 ID:vWpLkCzM

>>1140 :ハマナス様!

ありがとうございます!

≪谷口雅春先生著『限りなく日本を愛す』P.89より

   君民一体の生命把握の自覚

 天に仰ぎ、地を見下ろせば、天と地とは感覚的には別個のものであるのである。しかしその根元を「一」として捉え、その「一」に中心を見出して、それに万法の帰一することを捉えたのが日本民族であるのである。≫

 そうです! これです!

≪その生命の流動は、全体として「高天原」(たかあまはら)なる生命顕現の「場」を形成するのである。「場」は単なる場所でなくして、生命の流動そのものの展開又は表現としてのそれであるがゆえに、それは直に「成りませぬ」生命そのものである。≫

 ――この「成りませぬ」は「成りませる」の誤植ですね。

≪「成り」は「鳴り」であり、コトバであり「生命の流動」である。「高天原」に偏在して「鳴」りわたるコトバはそのまま「生命の流動」であり、それがそのまま「天之御中主神」(あめのみなかぬしのかみ)であるのである。高天原と云う容器(いれもの)の中に天之御中主神が発生したと云うのではなくして、高天原そのままが「中」(みなか)の顕現であるのである。「中心」と「周辺」とを分割するような思想は、日本的なものでない。

 天皇と臣民とを分割するような思想は、日本的なものでない。日本人は天皇に於いて自分の生命の本源の象徴を見出し、天皇はみづからの手身(たみ)であるところの国民を見出したのである。頭首は手身なくして生きないし手身は投手なくして生きない。君臣一体の生命把握が、日本民族の最初の中枢的自覚であったのである。≫

 そうです! これを外して突っ走ることは、生長の家における“暴走”になると、私は思っています。

1147復興G:2012/11/27(火) 09:39:20 ID:vWpLkCzM

上記のうち、
<「高天原」に偏在して>は、
<「高天原」に遍在して>
が正しいと思います。
合掌

1148復興G:2012/11/27(火) 09:43:09 ID:vWpLkCzM

あ、もう一つ。

<手身は投手なくして生きない>は、
<手身は頭首なくして生きない>
ですね。
合掌

1149復興G:2012/11/27(火) 10:09:37 ID:vWpLkCzM

 上記のお教えのうち、特に私は

≪高天原そのままが「中」(みなか)の顕現であるのである。「中心」と「周辺」とを分割するような思想は、日本的なものでない。≫

というところに、ハッと、「そうなのだ!」と気がつかせていただきました。

よく卵の黄身だ、白身だとか、中心部分と周辺(周縁)部分だとか、分けて言われますが、本当は、「中」(みなか)においてすべては「一つ」なのだ! 常に、そこに立って行ずるのが、生長の家の生き方であり、日本の心を生きることである。そして、その生き方こそが世界平和の根本になるのである。これをはずして真の世界平和はあり得ない! と、私は思いました。

1150「訊け」管理人:2012/11/27(火) 10:20:16 ID:???

○ Climb every mountain
http://www.youtube.com/watch?v=0aUXUr5rogM

>>1140ハマナスさま

『限りなく日本を愛す』よりのご投稿を、ありがとうございます。貴女さまが今回謹写くださった箇所のうち、私は以下に赤線を引いております。

>>高天原そのままが「中」(みなか)の顕現であるのである。「中心」と「周辺」とを分割するような思想は、日本的なものでない。<<

 これは六年前、拝読した際に感動した箇所です。谷口雅春先生とは本当に「包容力のあるお方だな」と思ったものです。そして「これぞ、八紘一宇なのではないか」とも、考えたところの箇所です。

 「偏狭な考えが日本精神なのではない」――雅春先生が随所で述べられておられる、光明思想です。「八紘(世界)ひとつの家と成す」とは世界を「日ノ本だと観る」ことと、同義であろうかと思う次第です。素晴らしい箇所をご謹写くださり、ありがとうございました。

<註>

※ BGMに関し。

これは昔付き合いのあった女性が、推薦してくれた歌です。彼女はフェリスの子でして大学時代、私がフラれたんですが最近、また連絡を出来るようになりました。ところで、“Climb”とは「努力して困難に打ち克つ」てなイメージの、そんな英単語ですよね。額に汗しながら険しい山岳を、征服していくイメージでしょうか。つまり、生長の家で申すところの「自力作善」に近いものになりましょう。でもなにか、曲調は違いますね。

 この歌、“Climb every mountain”ですけどもなにか、「神と偕に」という感じがします。自力作善でありながらも、神のご加護があるかのような・・・・・

1151「訊け」管理人:2012/11/27(火) 10:21:28 ID:???

 >>1150は、>>1149復興Gさまご投稿文、確認前でございました。内容重複ですみません。




1152ハマナス:2012/11/27(火) 10:25:10 ID:x2zmnlqw

復興G様
 
ありがとうございます。
ご指摘して頂きありがとうございました。度々の誤植を申し訳ございません。

復興G様に同意いたします。
「君臣一体の生命把握」がなければ、日本が真理国家であると言えなくなると、思います。

谷口雅春先生の大切なご文章、訂正して再度謹写させて頂きます。

感謝合掌

1153ハマナス:2012/11/27(火) 10:43:08 ID:x2zmnlqw

訂正版です。申し訳ございません。


谷口雅春先生著 『限りなく日本を愛す』P.89より 

 君民一体の生命把握の自覚

 天に仰ぎ、地を見下ろせば、天と地とは感覚的には別個のものであるのである。しかし

その根元を「一」として捉え、その「一」に中心を見出して、それに万法の帰一すること

を捉えたのが日本民族であるのである。その生命の流動は、全体として「高天原」(たか

あまはら)なる生命顕現の「場」を形成するのである。「場」は単なる場所でなくして、生命

の流動そのものの展開又は表現としてのそれであるがゆえに、それは直に「成りませる」

生命そのものである。「成り」は「鳴り」であり、コトバであり「生命の流動」である。

「高天原」に遍在して「鳴」りわたるコトバはそのまま「生命の流動」であり、それがその

まま「天之御中主神」(あめのみなかぬしのかみ)であるのである。高天原と云う容器(いれ

もの)の中に天之御中主神が発生したと云うのではなくして、高天原そのままが「中」(みなか)

の顕現であるのである。「中心」と「周辺」とを分割するような思想は、日本的なものでない。

 
 天皇と臣民とを分割するような思想は、日本的なものでない。日本人は天皇に於いて自分の

生命の本源の象徴を見出し、天皇はみづからの手身(たみ)であるところの国民を見出した

のである。頭首は手身なくして生きないし手身は頭首なくして生きない。君臣一体の生命把握が、

日本民族の最初の中枢的自覚であったのである。

(旧かな使いを新かな使いに変換致しました。)

感謝合掌

1154復興G:2012/11/27(火) 10:52:04 ID:vWpLkCzM

ありがとうございます。 

谷口雅春先生の愛国の情は、実に、この「中(みなか)」の御自覚がら出たものなのでした。

 日本と他国とを分けて日本だけを愛するというようなちっぽけな愛国心ではなかった。日本の心こそ世界を生かし、「み心の天に成る神の国」なる世界平和を地上にもたらすものだ、という確信からほとばしる愛国の情だったのだ、と私は信じます。

 この先生の御心を体して生きる、行ずる、伝道するのが生長の家の愛行であり、常にここをはずしてはならないと思います。この「中(みなか)」を生きることが、「今」を生きる――「久遠の今」を生きることである。

 榎本恵吾講師(故人)は、『光のある内に』という著書に、次のように書かれていました。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

天地(あめつち)の初発(はじめ)に立ちて   (榎本恵吾)
     ――人類光明化運動の楽的展開論――

(前略)

     終  曲

 この広大無辺なる宇宙の一点に立って、真の一足を投じてあやまたざる、真の自信ある生活をおくることの出来る者は誰か。それは神の子である。神の子とは「個即全」「今即久遠」をいのちとして生きているものに他ならない。
 創造とは何か。創造とは「久遠の今」の一点が進むことである。これが、尊師の教え給う「生命の純粋持続」ということである。この生命を「光」という。このほかに「光」はなく、創造はない。創造とはそこに価値を産むことである。価値があるとは実在があるということである。実在があるということは神があるということである。神は絶対であり、絶対には分裂がない。分裂がないのが「久遠の今」なのである。今と久遠が分裂せず、自己と世界が分裂せず、目的と手段とが分裂せず、今此処に自己と世界が一点に生きて完全であり、しかも無限に創造がなされてゆく。ここに真の「光」の創造的進軍がある。

 「生長の家人類光明化運動にいのちをかける」とは如何なることか。この「今」にいのちを懸けることである。「今」の一点には全宇宙即「生長の家」があるのである。ここにいのちを懸ける道が開かれているのである。それは全宇宙にいのちを懸けることである。

 「御教えの本(もと)に還れ」とよく言われるのであるが、実に、生長の家の御教えの本に還り、尊師のいのちに帰るとはこの「久遠の今」に還ることにほかならない。この「久遠の今」の中に日本があり、天照大御神がいまし、天皇がおわしまし、生長の家があり、尊師がおわしますのである。

 尊師がこの世に、『生長の家』誌を出される決心をされたときに聴かれた声は、「今、起て!」という大いなる天徠の声であった。尊師は万物発生の枢機を握る一点において「吾れ」と「今」と「此処」とは一つであるとお説きになられる。即ち、「今」とは「尊師」のことなのである。「今、起て!」のことばは万物発生の枢機を握る一点において「吾れ」と「今」と「此処」とが実相全機の現成として響いたのである。そして、実相の世界に於いては永遠に常に「今、起て!」というコトバが全機の働きとして鳴り響いているのである。常に、実相の大地に降り立ち、尊師のいのちに参ずるものはこの声を聴くことが出来るであろう。そこにこそ運動の中において一人一人の一挙手一投足に本当の尊師のいのちへの回帰があり、帰命がある。此処においてはじめて本当の意味における尊師のいのち――生長の家人類光明化運動への情熱が吾々各個の中に生まれるのである。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 と。

1155ハマナス:2012/11/27(火) 11:15:39 ID:x2zmnlqw

復興G様

榎本恵吾先生の素晴らしいご文章をありがとうございました。
  
 <この広大無辺なる宇宙の一点に立って、真の一足を投じてあやまたざる、
真の自信ある生活をおくることの出来る者は誰か。それは神の子である。
神の子とは「個即全」「今即久遠」をいのちとして生きているものに他ならない。
 創造とは何か。創造とは「久遠の今」の一点が進むことである。>

<神は絶対であり、絶対には分裂がない。分裂がないのが「久遠の今」なのである。
今と久遠が分裂せず、自己と世界が分裂せず、目的と手段とが分裂せず、今此処に
自己と世界が一点に生きて完全であり、しかも無限に創造がなされてゆく。ここに
真の「光」の創造的進軍がある。>

 <「生長の家人類光明化運動にいのちをかける」とは如何なることか。この「今」
にいのちを懸けることである。「今」の一点には全宇宙即「生長の家」があるので
ある。ここにいのちを懸ける道が開かれているのである。それは全宇宙にいのちを
懸けることである。>

今、運動が活発になっています。今度の白鳩活動に勇気を頂きました。

感謝合掌

1156トンチンカン:2012/11/27(火) 11:19:47 ID:9yITXFI2
和解派の要塞?


>>142 :志恩:2012/11/27(火) 06:28:46 ID:.QY5jUA6 トンチンカン様
ここは、【和解派の要塞】なんです。 なのに、トンチンカン様は、よくめげずに発言されていらっしゃいます。
そうなんです。 初心者様、さくらさん、訊け君たちは、トンチンカンさまのいわれるようにラブラブのお仲間です。
ここの和解派の要塞の皆様の戦略は、本流派を虚無感に陥らせるか、だんだんと、ここでの発言を、ばかばかしく思えさせて、
本流派を、ここから、つぎからつぎへと、追放することにあります。
別板では、訊け君やさくらさんなどの和解派が、熊本鎮台殿(靖国見真会様のこと)と志恩の悪口を言い合っています。<<



志恩さん、有難うございます!!

トンチンカンは、雨にもめげず、風にもめげず、その【和解派の要塞】とやらに“浮き脂(あぶら)の如くして、くらげなすただよへる”ように 浮遊 しております。


本来がトンチンカンだからこそ、メゲルこともなく、逆にそれらを 栄養素 として元気を得ているのかもしれません。

いやまた、トンチンカンだからこそ、“掴(つかみ)み所” がないのかもしれません。


でも、“志恩さん”や”うのはなさん”ご両人は、猛烈な 口撃 に曝されながらも、果敢に 反撃 されているのには感心して見ております。

頑張って下さい、、、



“和解派”に言いたい!!

“和解の絶対条件”は、、、 マサノブ総裁が、谷口家ご兄弟と<和解、大調和>を実践し、下層の信徒にお示しいただくことなのです。

1157さくら:2012/11/27(火) 11:29:56 ID:tmTtwX3A
復興G様
ハマナス様
訊け様

>君臣一体の生命把握が、日本民族の最初の中枢的自覚であったのである。

>谷口雅春先生の愛国の情は、実に、この「中(みなか)」の御自覚がら出たものなのでした。

 日本と他国とを分けて日本だけを愛するというようなちっぽけな愛国心ではなかった。日本の心こそ世界を生かし、「み心の天に成る神の国」なる世界平和を地上にもたらすものだ、という確信からほとばしる愛国の情だったのだ、と私は信じます。


生長の家の愛国心に打たれたのは、ほんとうにこのことでした。

ありがとうございます。


>「御教えの本(もと)に還れ」とよく言われるのであるが、実に、生長の家の御教えの本に還り、尊師のいのちに帰るとはこの「久遠の今」に還ることにほかならない。この「久遠の今」の中に日本があり、天照大御神がいまし、天皇がおわしまし、生長の家があり、尊師がおわしますのである。

そうでした…
生長の家の運動の中心の、また信仰の自覚の、立つべき位置が、理解できました。


いま、ほんとうに初心に帰ったように、胸を打たれています。



ありがとうございます。

1158復興G:2012/11/27(火) 11:49:43 ID:vWpLkCzM

ありがとうございます。

>>1154のつづきです。

1159復興G:2012/11/27(火) 11:53:07 ID:vWpLkCzM

>>1154のつづきです。 

また、同書に榎本先生は次のようにも書かれています。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 生長の家とは何か。それは、自分のいのちのことである。いのちとはこれ実在。(中略)

 立教五十年を迎えて、尊師の御恩徳を思うとき、ただ涙あふれて、尊師のみ前にひれ伏し土下座して感謝の思いを表わしたい。ただ合掌礼拝 至尊尊師である。

 しかし、われわれはこの御教えにふれてはじめて神の子になったのであろうか。そうではない。はじめのはじめから何ものも不足しない完全円満具足の神の子なのである。

 尊師は、あの神から大啓示をお受けになってはじめて神の子となり給うたのであろうか。そうではない。久遠の昔から尊師は尽十方光明遍照の如来にましますのである。「生長の家は久遠の昔からある」と知り、「我らもまた久遠の昔から尊師の弟子であった」ということを知って、この久遠の尊師のみむねに飛び込んだとき、万物に尊師のいのちの輝きを観ることができる。(中略)

 尊師がこれこれのことを人類のためにして下さったから有り難い、と思うことも、たしかに尊い心ではあろう。しかし、「何々をしていただいたから有難い」というようなことだけでは、久遠の尊師にまみゆることは出来ないと思われる。ただただ「合掌礼拝 至尊尊師」なのである。

 「尊師のみあとに続こう」とも言われる。しかし、吾々は、尊師のみ光りを背に受けて尊師の光りの先となって、尊師のみ前をすすむものである。神武天皇が太陽を背にして天照大御神の光りの先となって進まれたごとくに!!

 住吉大神は天照大御神の前を進み浄化のおはたらきをされる。天照大御神のみあとをしたって後から行くのでは意味をなさないのである。吾々もまた尊師の光りの先となって、尊師のみ前を進もう。私たちは今、此処、此の身、このままで光りであり、尊師の光りの先として立っており、光りは進みつづけているのである。

 世を照らす光りとなるために、これまでの宗教等では、無限の年月と修行が必要であるとされていたのであったが、生長の家は“現象無し”と、その年月と修行を切って落してしまったのである。そして、此の身このまま、人間は神の子完全円満なる光りそのものの座につかせられたのである。無条件で吾等は光りに生れかわったのである。照らされる自分から照らす自分への生れかわりである。

 この光りは、無条件に内より生れたものであるが故に、外の形の如何なるものによっても手をつけることも出来なければ崩すことも出来ないのである。そして、無限創造の神とともなる金剛不壊のこの光りはただ進み、拡大するのみなのである。後退はあり得ないのである。この不断に拡大する光りを観じつづけ、拝みつづけてゆくことこそが光明化の基礎であり、そして誰でも今すぐに一人ではじめられる光明化ではないか。

 今、自分は光りである。畳の上に坐っておれば、その光りで畳を光りと化しつつあり、柱を、障子を、窓を、光りと化しつつあることを観じよう。道をあるけば、道路を、周囲の人々を、木々を輝かせながら歩いていることを観じよう。そして、光明の金剛不壊の第一歩を踏み出そうではないか。それは誰にでも今すぐに出来ることなのだ。今までに私たちが発したどんな小さな愛念でも、たとい形として実らないように見えたことでも、ひとたび発せられた愛念の輝きは、永遠に消えないのだということを銘記しよう。

 たとえば、み教えのご本を持って人の家をたずねたが、引越してしまって誰もいなかったとしよう。それでは、道のために発した想いは形にみのらず、はいて捨てられたようなものであろうか。そうではない。ひとたび発せられた愛念の輝きは、光明化という神のノートに永遠に輝きつづけるのだ。尊師の光りの先として、輝くあなたを迎えたその家は、如何ばかり神の栄光に輝き満たされたことであろう。

 この光りを観じつづけよう。無条件にわが内に神より与えられている光り、永遠に形を超えて拡大することしか出来ない光りを!!

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 これこそ、真の「日時計主義」ではないでしょうか。

1160復興G:2012/11/27(火) 12:02:49 ID:vWpLkCzM

 そして、これこそ、真の「法燈継承」ではないでしょうか。

1161復興G:2012/11/27(火) 12:17:23 ID:vWpLkCzM

ハマナスさま、「訊け」管理人様、さくら様

レス、ありがとうございます。うれしいです。

1162ハマナス:2012/11/27(火) 12:30:14 ID:x2zmnlqw

訊け様

ありがとうございます。
『限りなく日本を愛す』のご本は、本当に貴重なご本だと思います。

 >「偏狭な考えが日本精神なのではない」――雅春先生が随所で述べられておられる、
光明思想です。「八紘(世界)ひとつの家と成す」とは世界を「日ノ本だと観る」ことと、
同義であろうかと思う次第です。<

「八紘一宇」のご文章を見つけました。

「大和の理念」が日本建国の理想  『吾ら日本人として』谷口雅春先生著

 「本当の日本国」とは、現象の奥にあるところの「大和(やまと)の国」なる滅びない

「理念国家」がそれであり、その不滅国家が現象界に現われたのが即ち神武天皇のあの大和の

橿原(かしわら)で国を建て都を造り給うて、そして「八紘を掩(おお)いて宇(いえ)と

為さん」という大理想を宣言された。あそこに「理念国家たる日本」の最初の現象界への顕現が

あるのであります。「八紘一宇」というのは一時誤解されて、侵略して世界を併呑(へいどん)

する理想の如く考えられましたが、「八紘」というのは、八方の荒れた地球のすみずみまでも、

「一宇」即ち一つの家の兄弟である実をあげようという理想であります。

この理想によって建国されたのが神武建国の日本国家であります。世界の人類が、すべて一つの

家庭の家族になる。即ち、すべての人間はみんな「一つの神」より生れた神の子の生命が現われて

いるのであるから、みんな兄弟である、という大理念が「大和の理念」で日本国家の理想であります。

その「大和の理念」が、国として形を現わした最初のところが、神武天皇が橿原において建国された

あの「大和の国」であります。



ノルウエーの歌手Sisselさんの“Climb every mountain”を、ありがとうございました。
同級生にフェリスの英文科に行った友達がいました。
有名な“The sound of music”の曲ですね。この映画は何度も観て感動しました。
今でも、曲を聴きますと、涙が出てしまいます。

確か、家庭教師のマリアがトラップ大佐を愛するようになり、悩み、修道院に帰って、
シスターに相談するシーンだったと思います。

シスターがマリアに、"These wall were not built to shut out problems, you have
to face them." と言い、この歌が始まります。
“Climb”とは“ overcome difficulties”ですね。生長の家の聖典にも、
「どんな困難にも立ち向かいなさい。神様はその人に解決できない問題は与えられない
のです。」とあります。

感謝合掌

1163「靖国見真会」参加者:2012/11/27(火) 12:35:44 ID:iV4zMp.2
「復興G」様へ


こういう“デマ”の煽りはやめてほしいと思います。

〉≪生長の家教団 戦後60年の運動 その光と影(25)≫

(中略)私は今、『理想世界』百万運動のリーダーであったM氏・A氏には、心から敬意と感謝の思いを持っております。なぜなら――その後両氏は、谷口雅宣副総裁―総裁のもとで教化部長になられてからも、誠心誠意全力を尽くして伝道教化、信徒の救済指導と運動推進に献身され、講習会推進にも聖使命会員拡大にも抜群の成果を挙げられました。現在、教団が衰退気味ながらも持ちこたえているのは、両氏の貢献によるところも大きいと思われます。(略)
 両氏は本部を退職されてからも、「(ご恩を受けた)谷口家に弓を引くようなことはできない。教団をつぶしてはならない」と言って、“本流”の方たちの心情は理解しながらも行動を共にすることはせず、ひたすら谷口雅春先生の御教えを深く学び伝えることをされていると伺っておりますから、両氏には心から敬意と感謝の思いを持っています。〈

「復興G」様、M氏・A氏ともに、今は「真理を生きる」というタイトルで毎月、原稿を書いておられます。

「生長の家光明掲示板」では、A氏のそれだけは読むこともできます。

それを読んでいただければ、とてもこういう間違った情報に踊らされる筈がないと思いますが…。

そんなに「心から敬意と感謝の思いを持ってい」られるのでしたら、ぜひ、それをお読みいただきたいと思います。

そうすれば、とてもではありませんが、「(ご恩を受けた)谷口家に弓を引くようなことはできない。教団をつぶしてはならない」などと言われる筈がないと思うのですがね…。

だって、大事なのは、「教団」ではない、谷口雅春先生の「教え」そのものなのですから。

「復興G」様も、そうは思われませんか?

「復興G」様、「鎮護国家」が外されて「世界平和」に看板が変わってしまうのですよ。

それでもまだ「八ヶ岳教団」側に立って、「谷口雅春先生を学ぶ会」の悪口を言い続けられますか?

生長の家は悪口を言わないところ、その悪口というのは、「八ヶ岳教団」に対してであって、「谷口雅春先生を学ぶ会」に対しては言っていいのだということなのでしょうか?

そういうダブルスタンダードの教えが生長の家の教えだとはとても思えないのですが…。

ともあれ、「真理を生きる」を拝読させていただく限り、少なくともA氏が教団側に立っているというのは誤報であり、為にする論としか思えません。

「復興G」様は、こちらの掲示板で、影響力のある方と思っておりますので、老婆心ながら、一言、注意を喚起させていただいたということで、ご了承ください。

1164「訊け」管理人:2012/11/27(火) 12:42:49 ID:???

>>ハマナスさま

>>「八紘一宇」というのは一時誤解されて、侵略して世界を併呑(へいどん)する理想の如く考えられましたが、「八紘」というのは、八方の荒れた地球のすみずみまでも、「一宇」即ち一つの家の兄弟である実をあげようという理想であります。この理想によって建国されたのが神武建国の日本国家であります。<<


チェスト!!



"These wall were not built to shut out problems, you have to face them."

CESTOOH!!!

1165「訊け」管理人:2012/11/27(火) 12:50:22 ID:???


>>1163熊本鎮台殿

 なお当方、口は挟みません。ですので心ゆくまで復興Gさまと語り合ってくださいませ。

 ただし、以下の事実はございません。同氏に於かれましてはその様な点は、過去に事実としてございませんでした。その点はご確認ください。

↓貴殿ご発言より(訂正を求む)

>>それでもまだ「八ヶ岳教団」側に立って、「谷口雅春先生を学ぶ会」の悪口を言い続けられますか?<<

>>生長の家は悪口を言わないところ、その悪口というのは、「八ヶ岳教団」に対してであって、「谷口雅春先生を学ぶ会」に対しては言っていいのだということなのでしょうか?<<




1166「靖国見真会」参加者:2012/11/27(火) 13:44:05 ID:iV4zMp.2
「訊け」さんへ。

「訊け」さんは、このような掲示板で、ハッキリと悪口を書いてくれますから、私はそれはそれでいいと思っています。

変に、生長の家は悪口を言わないところと、教条主義に捉えていない点がいいと思っています。

生長の家も「浄心行」では悪口を書いていいことになっていますから…。

「訊け」さんの私への“悪口”を見ては、また「浄心行」している、そう思って笑っています。

心が浄化していないと、商売もうまくいきませんから、そういう意味で、「訊け」さんのお役に立てているのでしたら、それはそれで本望とすら思っています。

だって、大儲けしたら、こちらに支援してくれるとまで言ってくれましたから。

忘れていませんよ、だから、大繁栄するよう、祈っているんです。

閑話休題。

「復興G」様については、「訊け」さんの言うとおり、「谷口雅春先生を学ぶ会」への悪口をここで書いたりはされていません。

しかし、こういうところではないところで、「谷口雅春先生を学ぶ会」の悪口を言っているという情報が入ってきています。

それを教えていただいた方を私は信用しておりますので、そう書かせていただきました。

それが「事実」と違うというのであれば、「復興G」様からその旨、忠告していただければと存じます。

その時には、いくらでも誤る用意はあります。

そして、先の内容を「トキ」さんに削除してもらうつもりです。

これをもって「訊け」さんへの回答とさせていただきます。

さて、何で、こんなに“悪口”の話しに言及したのかといいますと、今、「八ヶ岳教団」の「谷口雅春先生を学ぶ会」に対する悪口雑言が余りにも凄まじいからであります。

先日も、ある教化部長のその悪口ぶりを目の当たりにして、気分が悪くなったという方がありました。

本当に残念ですが、「訊け」さん、それが現実です。

でも、「訊け」さん、「谷口雅春先生を学ぶ会」の悪口を言うのも結構ですが、その前に、「八ヶ岳教団」の現実の方がもっと深刻だとは思いませんか…?

「鎮護国家」から「世界平和」へ。

如何に何でも、「住吉大神」のご使命を、勝手に変えていいものかどうか。

如何に生長の家総裁と言えども、そこまで許されるべきものなのかどうか。

私は、これは、“宗教的大罪”であるとまで思っております。

日頃は温厚な私ですが(?)、今回はちょっと違います。

これは、「大東亜戦争侵略論」以上の大問題だと思っております。

思うに、谷口雅宣先生は、鎮護国家の「住吉大神」が嫌いなのではないでしょうか?

だから、生長の家のご本尊を「観世音菩薩」に絞りたかったのだと思います。

そうじゃないというのであれば、ぜひ、「住吉大神讃歌」を作っていただきたいと思います。

それが出来れば、この発言は撤回します。

しかし、きっと「住吉大神讃歌」はつくらないと思いますよ。

だって、法燈継承祭で、「法燈を継承すると言ったって、あそこの住吉本宮でちょこっと神想観するだけだから」そう言った谷口雅宣先生でありますからね。

以上、とりめもないことを書いてしまいました。

これからも引き続き、「訊け」さんの「浄心行」を楽しみにしております。

失礼いたしました。

1167復興G:2012/11/27(火) 14:21:49 ID:vWpLkCzM

>>1163 :「靖国見真会」参加者さま。

私の書き込みに対して、貴重なレス、情報提供、ご忠告、ありがとうございました。

>>M氏・A氏ともに、今は「真理を生きる」というタイトルで毎月、原稿を書いておられます。
「生長の家光明掲示板」では、A氏のそれだけは読むこともできます。<<

そうでしたか。ありがとうございます。
このところ、私はもっぱら谷口雅春先生の御文章などに真剣に取り組んでいて、「生長の家光明掲示板」は見ておりませんで、存じませんでした。
間違いがありましたら、お詫びします。

少し余裕ができましたら、「生長の家光明掲示板」を拝読させて頂きたいと思っています。

私は、「“デマ”の煽り」などするつもりは全くありません。
私は、常に「真理」の側に立っていたいという思いだけでありまして、「教団側」に立っているつもりはありません。総裁に対しても、教団に対しても、苦言を呈しており、私は「新経」は読みません、とはっきり言っています。無条件に総裁と教団に従い、これを擁護しているわけではありません。
「谷口雅春先生を学ぶ会」も、存在理由があると思っており、その“悪口”を言ってはおりません。率直な感想を言ってしまうことはありますが。

≪11月20日「教化部長懇談会」において、生長の家総本山の祭祀の重点が「鎮護国家」から「世界平和」へ移すことが発表された≫

という情報があるとのことについては、詳細を確認して、いずれ私の意見を書き込まねばならぬと思っているところです。そのための伏線、根拠となるようなことを、今この板で再確認のために書いているつもりです。

ありがとうございます。再拝

1168トキ:2012/11/27(火) 14:27:19 ID:nJCQR0VA
 復興G様、すばらしいご投稿、ありがとうございました。

 実は、靖国見真会参加者様からは抗議のご投稿がありましたが、私は復興G様のご文章は抑制された内容だったと思います。
 百万運動の関係者の心情にもよく配慮された文章だと思います。

また、「東京事件」のNさんが、M先生、A先生と和解されたというのも初めて知りました。

 しかしですよ、「靖国見真会」参加者様、もし、谷口雅宣先生が、「住吉大神讃歌」を本当に作ったら、毎日、仏前で読まれるのですか?
和解派の私でも、そんな根性はありません。さすが、スゴい勇気ですね。尊敬してしまいます。頑張って下さい。(笑)

1169「靖国見真会」参加者:2012/11/27(火) 14:47:06 ID:iV4zMp.2

「復興G」様、投稿、ありがとうございました。

〉「谷口雅春先生を学ぶ会」も、存在理由があると思っており、その“悪口”を言ってはおりません。率直な感想を言ってしまうことはありますが。

なるほど「率直な感想」でありますか。

それがその方には、“悪口”として捉えられたのでありましょう。

その方に言わせれば、「谷口雅春先生を学ぶ会」の名が出ると、途端に嫌悪の情が表に出るような印象をもったという話しでありましたから。

実際、「復興G」様は、「谷口雅春先生を学ぶ会」はそのうちつぶれるよ、と言われましたよね?

これもまた「率直な感想」だと言われてしまえば、致し方ありません。

ここの当たりの線引きは、なかなか難しいところではありますが、「復興G」様としては、“悪口”を言っているつもりはない。

そうと言われるのであれば、お約束通り、私の投稿を、「トキ」さん、お手数をかけますが、削除していただいて結構です。

どうせ、削除されるついでに、折角の機会ですから、ぜひ、「復興G」様には、今回の秋季大祭での教化部長懇談会の資料、そして22日の谷口雅宣先生の挨拶をどう捉えるか、見解を伺いたく思います。

こちらの掲示板に影響力を与えておられる「復興G」様でありますので、ぜひ、お願いいたします。

こちらの掲示板に、ご迷惑をおかけしまして、失礼いたしました。

1170山ちゃん1952:2012/11/27(火) 15:09:05 ID:pawvtx4M
復興G様へ
≪生長の家教団 戦後60年の運動 その光と影≫を読まさせていただきました。
素晴らしい文章に感服させていただきました。生長の家で影の部分を殊更に
強調したりして、すべてがそれが真実の如く言われるのが、当時の同志を見て
いたり、共に『百万運動』を戦ってきた人達の心情を犬死の如く扱われのが見て
いられない。
谷口雅春先生の思いとして、行き過ぎはあったにせよ義憤がそのようにさせたように
思っています。少しだけ百万運動を知って全てを知り尽くしたような顔をして
この掲示板に書くのを見ていられない。
昭和47年から7年間は寝食を共にして、生活をかけて活動してきましたので、
当時の状況はよくわかります。
とりわけ、専従として三年間したときが『百万運動』達成した昭和51年1月8日
は私は忘れられない日であります。
目標の為に借金をして、生活もままならぬ人も何人か見ました。職業を棄て、
全財産をこの百万運動に費やした人も知っています。

当時の左翼との台頭と赤旗が学園や会社にばら撒かれ、谷口雅春先生が『やまと新聞』
や『生長の家』誌『理想世界』『白鳩』誌に切々と書かれる文章に発奮して
行動したと思っています。
今は多くの同志は生長の家の活動はしていません。「生長の家」に裏切られた
ような気持ちすらあることを理解して下さい。

その点、この復興G様の文章は当時を思い起こさせる『良い文章』です。
続きをよろしくお願いいたします。

>1138 :復興G
>私は『理想世界』百万運動の渦中にいましたから、その雰囲気は身をもっ
て感じ、知っています。その「光」の面も、「影」の面も。具体的に見聞し体
験したこともありますし、文書資料もあります。が、その「影」の面を今ここ
に公開しようとは思いません。

 しかし谷口雅宣さんは(「雅宣さん」と呼ばせて頂きます。なぜなら、その
当時は総裁でも副総裁でもなく、生長の家の組織役員でありませんでした
から)、その“影”の面を見て、この運動を“悪”として激しく批判し、副総裁
になられてからは、百万運動のリーダーであったM氏・A氏およびその同
調者を徹底的に排除しようとして来られたようです。私は本部の外にいま
したから、あまり具体的には知りませんでしたが、信頼できる本部員から
の情報で、それがあったと思います。<

1171さくら:2012/11/27(火) 15:31:31 ID:tmTtwX3A
わたしは、いまの日和見主義……もとい、「日時計主義」の活動内容で、
伝道意欲を全くなくしてしまい、組織活動から退きました。
いま、復興Gさまのようなご指導をして下さる講話には、残念ながら、いまの教団には、出会うことができません。
また、分裂した組織間で、このように冷静な見方で、生長の家の歴史を振り返ることも、できない状態のような気がします。

復興Gさまの本流対策室での一連のご文章、
>1159〜などを拝読いたしまして、
個人的には、この真理の中心把握の自覚こそが、魂の喜びとなって、伝道の原動力になることを、再確認いたしました。

感謝いたします。


老子の言葉に、
「聖人常無心、以百姓心爲心。
善者吾善之、不善者吾亦善之、徳善。
信者吾信之、不信者吾亦信之、徳信。
聖人之在天下、歙歙焉、爲天下渾渾。
百姓皆注其耳目、聖人皆孩之。」
という言葉があります。

こういう意味、みたいです、
(最も理想的な君主と言うのは、民衆はただその存在を知るだけで何をしているのか解らないくらいで良いのだ。次に良い君主は民衆がその功績を讃える様な君主で、その次は法と罰を厳しくして民衆が恐れる様な君主で、その次は民衆から愚かだと侮られる様な君主である。君主が誠実さを欠いて余計な事をすると民衆からの信頼を失うものだ。だから理想的な君主は悠然としてめったに口を挟まず、人々が力を併せて事業を為す様にさせて、民衆が「我々の力で国が良くなった」と自らを誇れる様にするのだ。)

これを読むと、いま、日本とは、一触即発の状態にあるような国が生んだ大思想家も、
理想とするような君主は、
まさに、日本の天皇陛下だと感じました。

日本人の多くが、「君民一体の生命把握の自覚」に目覚めたら、それは、日本という国だけでなく、世界の平和へ繋がる精神ではないかとおもいます。

天皇を頂いている、日本国民はたいへんすぐれた徳の高い民族です。
徳の高い民族でなければ、ここまで天皇制というのは、存続できなかっただろう、ということを考えると、
中心の徳と同時に、それを支える国民の意識というのが、とても大切であると、感じました。

だからこそ、生長の家のほんとうの真理を、おおくの方に知って頂きたいとおもいました。




…また、この掲示板で、復興Gさまからは、真理を学ぶことそして、伝えるものの姿勢というものも教えて頂いています。

本流派さまの悪口の基準が、全くわかりませんが、
今までの投稿からも、復興Gさまは、私的な感情で悪を見て「悪口」をいうのではなく、
真理の立場からご判断される方であると信じられます。

ありがとうございます。



1172復興G:2012/11/27(火) 16:27:40 ID:vWpLkCzM

≪「唐松模様」11.22−生長の家総本山の祭祀の重点が「鎮護国家」から「世界平和」へ移されるということについて≫

<11月20日「教化部長懇談会」において、生長の家総本山の祭祀の重点を「鎮護国家」から「世界平和」へ移すことが発表された>という情報があり、総裁のブログ「唐松模様」で11.22 「谷口雅春大聖師御生誕日記念式典」での総裁のスピーチの概略が掲載されています。

 これについて、ここでも>>1166で「靖国見真会」参加者様が、

>>「鎮護国家」から「世界平和」へ。
如何に何でも、「住吉大神」のご使命を、勝手に変えていいものかどうか。如何に生長の家総裁と言えども、そこまで許されるべきものなのかどうか。私は、これは、“宗教的大罪”であるとまで思っております。<<

と書かれました。

 それについて私は、「詳細を確認して意見を述べたい」と申しました。

 「教化部長懇談会」で発表されたことについてはまだ確認しておりませんが、すでに公開されている「唐松模様」の記事について、所感を述べます。

 22日の記念式典で総裁のスピーチで、「七つの燈台」の名称の意味を解説され、

≪……第1番目の燈台に「天孫降臨皇御国成就燈」という名前を付けられたことの意味は、明確になると思います。先生が私たちに託された願いは、「天の下ことごとくに神の御心が満ちひろがる世界が来ること」です。「日本に天皇制国家を樹立する」などと解釈することは、全くの誤りであります。≫

 と述べられたとあります。

 私は、これはちょっとおかしいと思います。なぜ、

 ≪「日本に天皇制国家を樹立する」などと解釈することは、全くの誤り≫

 などと言う必要があるのか。

 日本はこれから「天皇制国家を樹立する」のではありません。すでに、神ながらに、天皇(すめらみこと)を中心にした「くに」が出来上がっているのです。これから樹立するのではありません。

 そして、すでに神ながらに出来上がっている天皇国日本こそ、神の創造の根本構図――中心が一つあって全てのものが生き生きと生かされている「中心帰一」のすがたを、現実世界に如実にあらわしている。だから、そのすがたを護り育てることが、真の世界平和を実現するために必須必要なことである。だからこそ「鎮護国家」が生長の家総本山の祭祀の重点とされてきたのではないか。だから「鎮護国家」が「世界平和」をもたらすためには必要なのであって、「鎮護国家」を「世界平和」に変える必要は毛頭ない、と思います。

 そのことは、この板の>>1146以下の投稿文とか、>>1076などをご覧いただいてもわかると思います。

 そのくらいの道理が、総裁はおわかりにならないのかと思うと、まことに残念で、情けなく思います。
<つづく>

1173復興G:2012/11/27(火) 17:28:32 ID:vWpLkCzM

>>1172のつづき

 私は、「鎮護国家」=「世界平和実現」であると思っています。

 「鎮護国家」なしに真の、究極の「世界平和」はあり得ないのではないか、と思っているのです。

 その「鎮護国家」を抜きにしたら、「生長の家」はなくなってしまうのではないか。

 そのくらいに思います。

 総裁の「谷口雅春大聖師御生誕日記念式典」でのスピーチでは、次のようにもおっしゃっています。

≪自分たちは神国の民だから、他国や多民族を征服して支配する権利があり、さらには蛮族を支配する義務があるなどと考える人が出てこないわけではない。戦前のドイツや日本、イタリアなどには残念ながら、そういう思想が人気をもって拡大した。≫

 ――これは、本当に「神国の民」だと思ったら、神は全てを包容し愛し給うものですから、「他国や多民族を征服して支配する権利がある」などと考えるわけがない。正しい神の愛を伝えればよいわけで、そこにこそ宗教の役目があるのではないでしょうか。

 ≪排外的日本人は外人を見て、『あれは外人だ、外人は排斥すべきものだ』と見るが、包容的日本精神は、イギリス人を見れば、『あれも日本人だ、日本人がイギリスと云う土地に生まれたのだ』と見、インド人を見れば、『あれも日本人だ、インドに生まれている日本人をインド人だと云う』と考える。斯くの如くして普天卒土(ふてんそつど)、天上天下、日本の国土ならざるはなく、日本の国民ならざるはなく、仏教も基督教も、日本の教えならざるはないのである。≫
   (『明窓浄机』草創篇269頁、「訊け」管理人様謹写文より孫引き)

 というのが、「大和の神示」にある「大日本世界国(ひかりあまねきせかいのくに)」なのではないでしょうか。

 つづいて総裁がお話しになった、

≪「天孫降臨と云うことは天の父のみこころが天降って、天が下ことごとくが一つの光の世界になり、大和、平和の世界があらわれると云う意味の象徴的表現である。日本民族が世界を治めるのではなく、『天孫』すなわち『天の父のみこころ』が全世界を治める時期が到ることである」。
 ……これ(天孫降臨のこと)がイエスの『主の祈り』にある御心が既に成る世界の意味である。それが真の大日本世界国(ひかりあまねきせかいのくに)である。大日本世界国(ひかりあまねきせかいのくに)と云うことを狭い意味に解釈して、日本民族の国だなどと考えるから誤解(まちがい)を生ずるのである。そんなものは小日本であり、本当の大日本国(ひかりのくに)ではない。天の下ことごとくが『天のみこころ』で満ちひろがる世界が来ることを、「全世界五大州の国土を『天孫(てんのみこころ)』に御奉還申すべき時期が来る」と教えたのである。≫

 というのは、前記『明窓浄机』草創篇に書かれていることであろうと私は思います。つまり、「天上天下、日本の国土ならざるはない」というのは、日本の心は無我の心、即「すべては我なり、宇宙全体がわが家なり」と見ることだと思います。決して、侵略して支配する必要はない。そのままわが国土である、みんなわが同胞であると見て仲よくするのが真の大和魂、日本の心である。それが「八紘一宇」の精神であり、これを伝えて世界平和を実現するのが私たちの使命であると思います。
<つづく>

1174復興G:2012/11/27(火) 18:59:32 ID:vWpLkCzM

>>1169 :「靖国見真会」参加者様

>>1170 :山ちゃん1952様

丁重なコメント、ありがとうございます。


>>1171 :さくら様

ご愛念に、感謝します。ありがとうございます。

1175神の子さん:2012/11/27(火) 19:06:28 ID:???
>>1171
いいこと書くじゃん。いつもこうであってね。

1176復興G:2012/11/27(火) 20:54:43 ID:vWpLkCzM

>>1173のつづき

≪生長の家総本山の祭祀の重点を「鎮護国家」から「世界平和」へ移す≫というのは、重点を移すだけで、「鎮護国家」をはずしてしまうわけではない、ということでしょうか。

 私は、>>1172>>1173で書きましたように、
 「鎮護国家」=「世界平和実現」である
 「鎮護国家」なしに真の、究極の「世界平和」はあり得ない
 「鎮護国家」を抜きにしたら、「生長の家」はなくなってしまう
 と思います。

 ある教区の幹部(五者の一員)から電話がかかってきました。

 「ご存じですか、総本山が『鎮護国家』をやめて『世界平和』に変えるという話を。わたしはもう、今かかっている仕事が一段落ついたら、役員をやめるつもりです。一度お会いしてお話ししたいと思っています」

 と。

 私は今、自分がいかに行動すべきか、真剣に祈って考えるつもりです。内なる神の声に、真剣に耳を傾けたいと思います。

 合掌

1177閲覧者のひとり:2012/11/28(水) 07:20:28 ID:/O0vzWNA
「靖国見真会」参加者様へ

>「復興G」様については、「訊け」さんの言うとおり、「谷口雅春先生を学ぶ会」への悪口をここで書いたりはされていません。
>
>しかし、こういうところではないところで、「谷口雅春先生を学ぶ会」の悪口を言っているという情報が入ってきています。
>
>それを教えていただいた方を私は信用しておりますので、そう書かせていただきました。
>
>それが「事実」と違うというのであれば、「復興G」様からその旨、忠告していただければと存じます。

これはちょっといかがなものかと思いました。
情報で人を決めつけては危険です。
実際にご自分の目や耳で確かめてください。
なぜなら私も復興G様を知っているからです。
学ぶ会に対して「感じたこと」を言ってはおられましたが、
悪口は言っておられません。
私にはそう感じましたので、よろしくお願いいたします。

1178「靖国見真会」参加者:2012/11/28(水) 09:15:38 ID:iV4zMp.2

「閲覧者のひとり」様へ

ご忠告、誠にありがとうございます。

かつて、「復興G」様が、「谷口雅春先生を学ぶ会」はそのうちにつぶれるよ、みたいな投稿があったように記憶しておりまして、それが私の先入観となってしまった部分もあるかと思います。

そこに人生を賭けているものにとっては、その投稿には、カチンときましたからね。

ご趣旨はわかります。

「復興G」様は、悪口をいわれていないということで了解します。

「復興G」様には、行き過ぎた表現をしてしまいましたこと、心よりお詫びいたします。

1179goro:2012/11/28(水) 09:42:37 ID:3Dk63Vjg

復興G様
>>生長の家教団 戦後60年の運動 その光と影<<
長文の説明・解説はわかりやすく、また示唆に富むものが多くありました。が、
青年会の運動等についてはあくまでも復興G様の見解として承りたいと思います。

一つだけ申し上げたいことがあります。
生長の家の現在の状態について復興G様は「業」であると言われています。
ハッキリ申し上げて目に見えない世界の事については反論のしようがありません。
宇治における疑経読誦の際の自然現象の問題も同じように反論のしようがありません。
反論できないと同じく「そうである」との証明も出来ません。
因果律・心の法則を振り回すことの危うさを感じます。

もし80年の業の結果であるとするならば、その時点で「思考停止」に陥ります。
青年会の百万運動の暴走も現在の状態に至る「業」であるとするならば
暴走に至る原因もまた何らかの「業」でなければなりません。
過去・現在の生長の家信徒の「業」の連鎖という認識でいいのでしょうか?

正道に戻す為の生長の家信徒の信仰の有るべき姿(道)をわかりやすく御説明下さるようにお願い致します。

1180閲覧者のひとり:2012/11/28(水) 09:51:00 ID:9IyyIVlU
>>1178
「靖国見真会」参加者様へ

早速謝罪していただきありがとうございます。
さすが学ぶ会様は素直でいらっしゃいますね。
今後のご活躍を応援しております。

1181復興G:2012/11/28(水) 10:31:25 ID:vWpLkCzM

>>1177 :閲覧者のひとり様。

 どなたかわかりませんが、ご愛念ありがとうございます。

1182復興G:2012/11/28(水) 10:32:47 ID:vWpLkCzM

>>1178 :「靖国見真会」参加者様。

>>かつて、「復興G」様が、「谷口雅春先生を学ぶ会」はそのうちにつぶれるよ、みたいな投稿があったように記憶しておりまして、それが私の先入観となってしまった部分もあるかと思います。
そこに人生を賭けているものにとっては、その投稿には、カチンときましたからね。
ご趣旨はわかります。「復興G」様は、悪口をいわれていないということで了解します。
「復興G」様には、行き過ぎた表現をしてしまいましたこと、心よりお詫びいたします。<<

 誠意あるお言葉、ありがとうございます。

 「靖国見真会」参加者様が、

>>かつて、「復興G」様が、「谷口雅春先生を学ぶ会」はそのうちにつぶれるよ、みたいな投稿があったように記憶しておりまして……<<

とおっしゃるのは、下記のことであろうかと思います。

   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

<web誌友会板>の303 :復興G:2012/06/01(金)
>>297 :如月様。

 「開放」――それは、どういうことか、考えてみようと思っていました。コメント、ありがとうございます。

>会員になって以来、つきまとう不安があります。
このまま信仰を続けて行けば、何かの役が回って来るに違いない(現在も出きるお仕事はさせて頂いています)。
家族の賛同を得られていない私が、教区のお役に立てるとはとても思えない。そうなれば、会員をやめるしかない。等々、考えない日はありません。
講習会ともなれば、ン十万円の資金を用意しなくてはいけない。年金がもらえないと言われている世代の我々が、頑張れるのは現役のうちだけ。いずれにしても、資金が尽きれば教団をやめるしかありません。<

 ――私の好きな「老子」の言葉に、
 「跂(つまだ)つ者は立たず」
 というのがあります。

 爪先立ちをしている者は長く立っていられない。そのように、無理は長くは続かない、ということです。

 現在、生長の家教団も、またそれを批判攻撃している人たちも、双方ともちょっと無理している感があります。
無理は、つづきません。「無理して死んだ者は多い」です。このままでは、無理してつま先立ちしている教団は衰退の一途をたどるしかないでしょうし、また無理して教団を批判攻撃している人たちも自滅……かと思われます。
 如月様、無理をされることはありませんよ。無理せずにできる愛行を、喜んで、真心を尽くしてやってまいりましょう。

>生長の家の開放とは、キリスト教や仏教のように、講習会や会費にしばられることなく、誰もが真理に触れ続けて行けるという事です。<

 ――それが老子の言う「無為自然」の道でしょう。

>ずっと疑問でした。嘗て釈迦牟尼如来もキリストもこの為に来たのであれば、生長の家も同じような形になって行くはずなのに。何故、生長の家には二代目三代目が存在するのか。生き通しの命ならば、雅春先生を過去の人扱いにするのでは無く、現在も、生長の家の中心と考えればいいのではないかと思うのです。<

 ――私も、その通りだと思います。素晴らしいコメントを、ありがとうございます。

   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 以上は、<web誌友会板>の303(2012/06/01)のコピペでした。
<つづく>

1183「訊け」管理人:2012/11/28(水) 10:47:31 ID:???

(横断の件ご海容くださいませ)

>>1166熊本鎮台殿

 私へのご寄稿を、誠にありがとうございます。さて、話はやや飛びますが我々は「皇軍」に、なろうではありませんか。なお、ここで申すところの「皇軍」とは何か。以下に雅春先生の御文章を謹写・投稿致します。

・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥

 日本の戦は血ぬらずして相手を和らげる、即ち「ことむけやわす」であって、「コト」即ち、「神のミコトバを差し向けて和らげる」のが皇軍である。(「生長の家」誌昭和二十一年二月号より)

<全文>
○『神武不殺』――皇軍にあらざるもの
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65703710.html
・ ‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・

追伸

 なお本日のブログ記事ですが、実に興味深いものです。終戦直前に雅春先生が(人ばらいの上)で吉田國太郎先生をお呼びになられます。「ここは立ち聞きする者もない。忌憚のない意見を」と言われたおふたりの間で、いったいどのような会話がなされたのでありましょうか――ぜひ、ご拝読くださいませ。

 「一視同仁の神のみ心から御覧になったら、アメリカ兵と雖も神の子である。その神の子であるアメリカ兵を出来るだけ沢山殺す方が好いと云うようなそう云う戦争は神の御心ではない。随って無論、陛下の大御心ではない。随ってそう云う戦争をする日本軍は皇軍ではない。」(ブログ記事より一部引用)

1184復興G:2012/11/28(水) 11:03:26 ID:vWpLkCzM

>>1182 のつづき

 上記において、私は
<無理して教団を批判攻撃している人たちも自滅……かと思われます。>

と書いておりますが、<「谷口雅春先生を学ぶ会」はそのうちにつぶれるよ>とは書いておりませんでした。

<無理して> というは、もちろん時には無理するぐらいでなければ事は成就しない、ということもあるでしょう。

 しかし、太陽は決して無理をしないで永く照っています。太陽がもし無理をして光とエネルギーを放射しているんだったら、気の毒で、いつ消滅してしまうかと不安になってしまいます。

 やはり老子の言葉に、

「天は長く地は久し。天地の長くかつ久しきゆえんのものは、その自ら生ぜざるを以てなり」

 というのもあり、それは、「俺ががんばらなくては」という自我の力みがないから、長く続いているのだ、という意味であって、「わが生くるはわが力ならず、天地を貫きて生くる祖神のいのち。わがわざはわが為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能」という招神歌の意味するところと同じではないかと、私は思っています。

 私も無理して暴走することが多くありますから、自壊、いや自戒しております。
 合掌

1185志恩:2012/11/28(水) 11:14:27 ID:.QY5jUA6
横スレ失礼します。

靖国見真会参加者様にお伺いします。

「谷口雅春先生を学ぶ会」は、

復興G様が危惧されておられるように、

無理して教団を批判攻撃している人たちの集まりなんでしょうか?

私は,自然発生的に やむにやまれぬ 気持ちから起きた会だと思っています。

私自身も、まったく無理していませんけれど、、、。

1186閲覧者のひとり:2012/11/28(水) 12:11:48 ID:9IyyIVlU
私はこのビデオを見て学ぶ会が好きになりました。
http://www.youtube.com/watch?v=8nlddq3X1_k
決して原宿教団を攻撃されているようには思えません。

原宿教団の公式サイトを見ると、教団が学ぶ会を攻撃しているように思えます。
とらえ方は人それぞれですね。

こちらでも、光明掲示板でも自分なりに勉強させていただいています。

ありがとうございます。

1187復興G:2012/11/28(水) 12:57:36 ID:vWpLkCzM

>>1179 :goro様。

コメント、誠にありがとうございます。

>>一つだけ申し上げたいことがあります。
生長の家の現在の状態について復興G様は「業」であると言われています。
ハッキリ申し上げて目に見えない世界の事については反論のしようがありません。
宇治における疑経読誦の際の自然現象の問題も同じように反論のしようがありません。
反論できないと同じく「そうである」との証明も出来ません。因果律・心の法則を振り回すことの危うさを感じます。もし80年の業の結果であるとするならば、その時点で「思考停止」に陥ります。
青年会の百万運動の暴走も現在の状態に至る「業」であるとするならば、暴走に至る原因もまた何らかの「業」でなければなりません。過去・現在の生長の家信徒の「業」の連鎖という認識でいいのでしょうか?
正道に戻す為の生長の家信徒の信仰の有るべき姿(道)をわかりやすく御説明下さるようにお願い致します。<<

 上記ご投稿は、誠に時宜を得た提題であると、感謝します。

 さて、「業(ごう)」というのは波動の蓄積であり、生命が活動した跡でありますね。一般に「業」といえば、悪業のイメージが強いようです(「業が深い」という時がそれですね)が、生命は波動であり、生きることは業を積むことであって、決して悪いことではありません。万物は宇宙の業によって生じたとも言えます。(『生命の實相』の中に、そのように書かれていたところがあったと思います)

 業は、大別して善業と悪業とに分けられます。
 善業は、「善徳」と同義であると考えてよろしいのではないでしょうか。

 『如意自在の生活365章』の58〜61頁には、次のように記されています。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

    その人の経済状態と運命

 その人の経済状態もその人の“心の影”である。ゆたかなる心をもてば、そして、ゆたかに種を蒔く心をもてば、収穫する量も多いのである。人に恵み、公けに寄進し、与えること多き人にも、ときとして損をすることもある。それは個人の業の結果ではなく、彼が属する「国の業」を国家の一員として国民が一緒に、国家の背負っている業果を倶(とも)にするのである。それはたとえば戦争による有形無形の損害のごときものがこれに属する。

 しかし、潜在せる業が形にあらわれたときは、業が排泄されて消えつつあるのであるから、過去の業が消えたあとには、その人が他に恵み、公けに寄進し、善き事に蒔いた種が、一層ハッキリ形.にあらわれて経済的にも報いられることになるのである。すべて現象界の出来事は、一進一退の中に伸展してゆくのであって、善き業をつんでいる人にもときとして“退”はあるけれども、総合的結果としては、善業あるものは栄え、悪業あるものは衰頽するのである。

    根本的なる善業とは?

 善き業にもいろいろある。他に金銭を恵むのも善き業であり、真理を伝えるのも善き業である。もっと根本的な善業は、神の善意を信ずることである。神を、神罰の本源や、災禍の本源であるかのごとく信ずるならば、それは根本的な悪業を積むことになるのである。神は健康の本源であり、力の本源であり、美の本源であり、富の本源であり、繁栄の本源であるのである。その本源を正しく認めて、その本源と融合して、神の“み心”とともに生活するように心懸けるのが、本当の根本的な善業である。単に金銭を人に与えることは必ずしも善業にはならないことがある。誰に、何を、何の目的で与えるかが問題である。
<つづく>

1188復興G:2012/11/28(水) 13:02:22 ID:vWpLkCzM

>>1187のつづき

 谷口雅春先生『如意自在の生活365章』の引用文のつづきです。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

    あなたの運命はあなたの心次第

 人は“神の子”であり、神から完全な自由を与えられているのである。そして人間自身の運命を支配する力は“想念”と“感情”とである。わたしたちは想念感情を道具として自分の運命をつくりあげる。むろん、行動を伴う必要があるが、本当に自分の想念感情が強く動けばおのずからそれは言葉となり、動作となり、行動となってあらわれてくるのである。自分の想念感情が行動を起こして、それが言葉となり、行動となって周囲に影響を与え、千波万波を起こして自分の運命を決定するのであるから、わたしたちは自分の不幸について何人をも非難することはできないのである。自己の運命が面白くないならば、自分がいかに感じ、いかに想い、いかなる言葉を発したかを反省してみて、すべてを動かす行動の本源であるものを変化するようにつとめれば、その変化の程度に応じて、その人の運命は改善されてくるのである。すべて現象にあらわれてくることは結果であって、結果を支配するものは心の中にあるのである。

    あなたの判断を正しくするには

 あなたが毎日神想観を実修して、神との一体観を深めていられるならば、神の智慧があなたの判断力となってあらわれるのであるから、誤解や、やりそこないや、判断の間違いや、災禍に出くわすことなどはなくなるのである。すべての人に対し、物に対し、処に応じて、最も適切な判断を下し、最も適切な行動をとることができるようになるのである。またあなたは、自分の判断を他に対して押しつけようとは思わないのである。他の人が自分の判断と異なる判断をしている場合に、その判断が間違っていると思う場合には“論争”することなく、「彼は神の子であり、神の智慧に充たされていて正しい判断をすることができるのである」と祈ってあげるがよいのである。論争は反感を生むのみであるが、祈りは相手を平静に導き、自然に正しき判断を彼もできるようになるのである。むろん、彼の判断が正しくて、自分が誤解していた場合は素直に自分の見解を改めるがよい。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

<つづく>

1189みすはなまる:2012/11/28(水) 13:13:41 ID:M8Og9jzQ

私も、閲覧者のひとり様と同じで、閲覧者のひとり様が添付くださっている、you tube に感動したひとりです。

この掲示板は、教団信徒の方も、学ぶ会の方もはじめ色々な方が見ておられることと思います。

私も志恩様と同様に、学ぶ会に入会し聖使命菩薩会に入らせていただいていることは、全く無理ではなく、嬉しいです。
雅春先生の説かれた教えを後世に遺していくために、聖使命菩薩会に献資させていただけるなんて、この上ない幸せです。

私は学ぶ会が、「教団のことをあれこれ文句や悪口を言う会」であれば、絶対に入会しませんし、人にも勧めません。

人はみな、それぞれが霊魂の修行でありますから、見方や受け止め方もそれぞれであると思います。

これだけは言えます。学ぶ会は、雅春先生の説かれた永遠不滅の真理を後世に遺すべく、歩んでいる会です。

ですから、「谷口雅春先生に学ぶ会」ではありません。

「谷口雅春先生を(通して説かれた真理に)学ぶ会」なのです。私はそう受け止めています。

1190復興G:2012/11/28(水) 13:15:53 ID:vWpLkCzM

>>1188のつづきです。

 上記2回の引用文の中で、特に>>1187の「根本的なる善業とは?」というところは、注目すべき大切なお教えであると私は思っております。

 「根本的な善業とは、神の善意を信ずることである」

 ここですね。
<つづく>

1191復興G:2012/11/28(水) 13:47:07 ID:vWpLkCzM

>>1186 :閲覧者のひとり様
>>1189 :みすはなまる様

 ご紹介下さったYouTube、拝見しました。
 前原講師、熱がこもって、笑わせて楽しませながらの雄弁、なかなか素晴らしいですね。
 一層のご活躍を祈ります。
 ありがとうございました。

1192復興G:2012/11/28(水) 14:19:17 ID:vWpLkCzM

>>1190のつづきです。

 「根本的な善業とは、神の善意を信ずることである」

 ――
 「善因善果、悪因悪果」
 「善業を積めば善果が現れ、悪業を積めば悪果が生ずる」

 というのは、現象の、影の世界のことであり、実相=神の世界には善果も悪果もなく、ただ善のみの世界なのでありますね。それを信ずることが、根本的な善業になる。

 その根源世界を、日本民族は「一」 「中(みなか)」 として捉えた。

 それは>>1153でハマナス様が謹写掲載してくださった、谷口雅春先生著 『限りなく日本を愛す』P.89より 「君民一体の生命把握の自覚」 という御文章にもあるとおりであります。

 それは、時空未発(時間も空間もまだ現れない、そこから時空が展開した根元)の世界であって、その中に全てが包みこまれてある世界。それは「未発の中(ちゅう)」とも言われるところです。

 そこは、業を超えた世界。そこに立たなければ、現象の業に流されて、「神の子」としての主体性を失ってしまいます。その「中(みなか)」に還るのが、神想観です。そう、谷口雅春先生はお教え下さっています。
<つづく>

1193閲覧者のひとり:2012/11/28(水) 14:30:46 ID:9IyyIVlU
>>1191 復興G様
まさか見ていただけるとは思ってもいませんでした。
ありがとうございます。
面白おかしく簡単に教えていただけるところが気に入っています。

あと、女性では勅使河原淑子先生のご講話が好きでしたが、残念なことにYouTubeで検索してももう出てきませんね。

復興G様のご講話もこのようにして拝聴できないかと以前から思っております。
あ、でも身バレしますからだめですね(笑)
今後機会があればということで、宜しくお願い致します。

今後の復興G様のご活躍も応援致しております。

1194復興G:2012/11/28(水) 15:57:10 ID:vWpLkCzM

>>1192のつづきです。 

 かつて昭和40年5月号の『理想世界』誌に、「『中(みなか)』への還元」と題して谷口雅春先生が書かれた御文章が出てきました。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 幕末の歌人、八田知紀(はった・とものり)は、この日本国が「中(みなか)」の本源に還元するとき、どんなに一時濁っているかのように見えていても、本来の姿に澄みかえることを次の如く歌っている。

  いくそたびかき濁すとも澄みかえる 水や皇国(すめくに)の姿なるらん

 現象を追いまわす知識や、従来の現象から蒐集(しゅうしゅう)した先入観念で、事件を処置していると必ず行きすぎや、やりぞこないが起こってきて混乱状態に陥るときがくるのである。それは常に「現在」には「過去」になかった要素を含んでいるからである。

 その混乱がきたとき、イザナギの神が「天津神(あまつかみ)」のところへ詣昇(まいのぼ)りて、「天津神」のみ心を聴きたもうたようにすれば、そこから実相本来の知恵がでてきて、混乱が収拾され、混乱と見えたものが、新たなる発展の契機となって、混乱以前の状態よりも、尚一層よい状態に移行することになるのである。(中略)

 「天津神」とは宇宙本源の太極であり、絶対無であり、一切現象の未だ出現せざる以前の「中(ちゅう)」であり、そこに還元することによって現象界の乱れや歪みが去るのである。

 その絶対無なる「中(みなか)」への還元の修業が、茶道といい、華道といい書道といい、剣道といい、武道といい、歌道といい、神想観というのである。

 すべての日本的芸術または作法が「道」になったのも、左右分化的な分裂病的籠手先(こてさき)の巧者を越えて絶対無の「中」への還元が日本的精神の姿であるからである。(中略)

 日本国は一時的にどんなに混乱することがあり、歪められることがあっても、「中」に還元することによって本来の美しい実相があらわれるのである。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

  (以上、昭和40年5月号の『理想世界』誌所載「『中(みなか)』への還元」と題する谷口雅春先生の御文章より)

 生長の家の運動も、絶対無なる「中(みなか)」に還元することによって、対立は消え、本来の大調和の美しい実相があらわれると信じます。

 しかしながら、現象界は影の世界、映像の世界でありますが、実相の完全なすがたがまだ完全には現れていない。その不完全なすがたが肉眼には「あり」と見えますから、それを攻撃して破壊しようとする。

 私も今、反省しています。
>>1172で、
>>そのくらいの道理が、総裁はおわかりにならないのかと思うと、まことに残念で、情けなく思います。<<

 などと、偉そうな物言いをしていました。これは、暴走でした。これは、

≪あなたは、自分の判断を他に対して押しつけようとは思わないのである。他の人が自分の判断と異なる判断をしている場合に、その判断が間違っていると思う場合には“論争”することなく、「彼は神の子であり、神の智慧に充たされていて正しい判断をすることができるのである」と祈ってあげるがよいのである。論争は反感を生むのみであるが、祈りは相手を平静に導き、自然に正しき判断を彼もできるようになるのである。≫

 という谷口雅春先生のお教え(>>1188)に反していました。お詫びを申し上げます。

<つづく>

1195復興G:2012/11/28(水) 16:05:49 ID:vWpLkCzM

>>1193 :閲覧者のひとり様

 応援、ありがとうございます。

1196「靖国見真会」参加者:2012/11/28(水) 16:12:43 ID:iV4zMp.2
「志恩」様へ。

いつも、共感しながら拝読させていただいております。

私への質問がありましたので、お答えいたします。

〉「谷口雅春先生を学ぶ会」は、復興G様が危惧されておられるように、無理して教団を批判攻撃している人たちの集まりなんでしょうか?
私は,自然発生的に やむにやまれぬ 気持ちから起きた会だと思っています。
私自身も、まったく無理していませんけれど、、、。〈

「復興G」様がどうして、「谷口雅春先生を学ぶ会」が「無理して教団を批判攻撃している」と思われたのか、不思議に思っています。

それほど、「谷口雅春先生を学ぶ会」へのマイナスイメージが強いということなのかもしれません。

それはそれとして、私としては、「批判」ということについては、私なりに気を遣っているつもりです。

生長の家の信徒は、そういう点について、一種の生理的嫌悪感をもっていると思うからです。

いくらいいことを言っても、耳を貸してもらえなければ話しになりません。

私が、一貫して、「谷口雅宣先生」という言い方をしているのもその理由からです。

よく、だったら「批判」をしなければいいではないかと私どもを「批判」される方があります。

しかし、何度も言っていますが、「おかしい」と思うことをそのまま「おかしい」というのがどうして「批判」なのかと思うのです。

「批判」ではない、ただそれを座視し得ないからこそ言うのです。

たとえ、それが「批判」だと受け取られようとも、です。

それもこれも、谷口雅春先生の「教え」がおかしくされていると思うが故です。

已むに已まれぬ思い、そんな思いで、私は投稿しているつもりです。

「谷口雅春先生を学ぶ会」に対して、今、続々と賛同者が増えているのも、その思いが次第に広がっているからこそと思っております。

今後とも、ご支援のほど、よろしくお願いいたします。

1197復興G:2012/11/28(水) 16:32:48 ID:vWpLkCzM

>>1194 のつづきです。

 私も結構よく暴走します。

 生長の家において“暴走”とは、前記 「中(みなか)」 からはずれて、現象ありと捉われて突っ走ること、と言ってもよいのではないでしょうか。

 まあ、私も“暴走老人”かも知れません。老いらくの恋をして、心中をするような暴走をする可能性は、もはや0に近いでしょう。それでも皆無とは言えません。
 いや、下記のような本当の 「心中」 なら、したいと思っています。

 谷口雅春先生は、『幸福の原理』(新選谷口雅春法話集③)に、「『心中』に於ける倫理」として、次のようにお教え下さっています。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

   <恋愛と心中の倫理>

 人間は本来一つのいのちから生れているのでありますから、本来一つであるという実相を認めるとき初めて生活を本当の根拠に打ち立てたということになります。

 「本来一つ」の自覚が愛、即ち自他一体の再認識であります。「自分」と「他」とが本来一つのものであるという自覚を完全に得たとき、その時、その人は初めて悟りを得たのであります。此の自覚は人間が青春期に近づいたとき、先ず恋愛を通して体験するのであります。……

 恋愛の極致は「心中」になるのであります。心中と情死とは異なります。個体の情慾を死を貫いてまで充たそうとするのが情死でありますが、個体を無にして、心を元の「中(ちゅう)」に貫いてしまうのが「心中」であります。個人は死んで本元の中即ち「本来の一」の生命の中に自己を没却するのが「心中」であります。本当の「心中」は滅多にない。宇宙本源の「中」に於いて一体となれば生きていても心中である。

 太宰治などのは情死である。「心中」では恐らくない。世の多くの恋愛に於いては男女は唯快楽の対象だと思って肉体を満足するために、肉慾の楽しみの為に、男女は互いに遊ぶのだと思っている。自他一体の自覚も肉の自他一体に過ぎない。ところが心中的恋愛の自他一体の自覚は「肉」を否定しての「霊」の自他一体である。少しも肉の交わりなしに「心中」してゆく男女もある。私は別に死ぬ意昧での「心中」を勧める訳ではないが、この自他一体の本元の「一」の自覚からして、更に進んで人類「本来一体」の自覚が出て来、人類すべて仲よく平和に生きられる道こそ宗教の道だと信ずるのであります。

 そういうように人間が青春時代に「愛」の目覚めを経験し、「体」は分れておっても「一」にならしめようとして惹きつけられる不思議なる力を感じ、しかもその力たるや、個体を殺してしまってさえも「宇宙の一」に帰らしめずに置かないというような、そういう不思議な力があるということを体験して、そして「個体」は本来ないのだ、「心中」即ち「中」に帰一する心だけがあるのだということが自覚されて来るのです。

 体験というものほど有難いものはない。体験を通して個体は無いが、自他一体の生命はあるということが判って来るのであります。小鳥の啼くのを聴いても、小鳥の心が分るような気がするのは何故か。花の咲いているのを見ても花の心が分るような気がするのは何故か。他が悪いことをするのを見ると、自分が憤慨せずにおれないのは何故か。他が善いことをするのを見ると自分が賞めずにいられないのは何故か。それは自他一体だからであります。

 (註)『中庸』に「喜怒哀楽未だ発せざるを中(ちゅう)と謂う」とあり、中とは宇宙の本体のことである。

(新選谷口雅春法話集③『幸福の原理』より)

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

≪宇宙本源の「中」に於いて一体となれば生きていても心中である。≫

 ――死なないで、生きていながら、このような≪心中≫をして行きたいと思います。

1198復興G:2012/11/28(水) 17:00:46 ID:vWpLkCzM

上記、「このような≪心中≫をして行きたい」というのは、特定の誰かとだけではなくて、

この掲示板の皆さま、お一人お一人、全部≪心中≫をして行きたい、と思います。

1199復興G:2012/11/28(水) 17:03:25 ID:vWpLkCzM

全部≪心中≫をして行きたい → 全部と≪心中≫をして行きたい

に訂正します。

1200閲覧者のひとり:2012/11/28(水) 17:50:09 ID:9IyyIVlU
復興G様へ

「恋愛と心中の倫理」、興味深く拝読させていただきました。
最後とても慌てておられる復興G様に笑ってしまいました(笑)

>ところが心中的恋愛の自他一体の自覚は「肉」を否定しての「霊」の自他一体である。
>少しも肉の交わりなしに「心中」してゆく男女もある。

というところで、雅春先生は「男女」と書かれていますが、
肉の交わりがなければ、「男同士」「女同士」で心中ということも間違いではないのでしょうか?
美輪明宏さんのような方は、「肉的には男」でも「霊的には女」ということなのか、
ちょっと不思議に思いました。

1201復興G:2012/11/28(水) 19:11:29 ID:vWpLkCzM

>>1200 :閲覧者のひとり様

 ありがとうございます。

>>最後とても慌てておられる復興G様に笑ってしまいました(笑)<<

 慌てた心がばれてしまいましたか・・・・(笑)

 まあ、「心中」は、宇宙本源の「中(ちゅう)」、「中(みなか)」と一体となって生きること、というのですから、男女にかかわらず、また人間とだけでなく、たとえば日本の国と心中、とか命をかけて育てている会社と心中、というような気持もあり得るのではないでしょうか。私はかつて自分の編集している雑誌と心中するんだ、なんて思ったこともありました。

 この第1章は全20頁にわたって書かれており、続く第2章のタイトルは「『一』の哲学」、第3章のタイトルは「真空妙有の宗教」となっています。

 以上、ご理解下さい。
 ありがとうございます。

1202復興G:2012/11/28(水) 19:35:13 ID:vWpLkCzM

 ご参考までに、>>1197でいんようさせていただいた<恋愛と心中の倫理>という御文章の前に書かれている御文章を、謹写掲載させて頂きます。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

『幸福の原理』(新選谷口雅春法話集③)より

  第一章 恋愛と本来一つのもの

   希臘(ギリシャ)神話に於ける「本来の一」

 人間は本来一つのいのちから生まれているのでありますから、本来一つであるという實相を認めるとき初めて生活を本当の根拠に打ち立てたということになります。
 「本来一つ」の自覚が愛、即ち自他一体の再認識であります。「自分」と「他」とが本来一つのものであるという自覚を完全に得たとき、その時、その人は初めて悟りを得たのであります。この自覚は人間が青春期に近づいたとき、先ず恋愛を通して髄験するのであります。皆さんが或る異性を恋して、私は彼を愛する、というのは「彼」という半分と、それから「自分」という半分とが本来一つであるということを自覚して、元の一つに還ろうという衝動であり、それが愛であります。古代ギリシャの神話では本来人間は男女が「一つ」であった。男女が「一つ」に密着したままで四本の手と四本の足とを備えていた。そしてそれは一つの「生命」であったけれども、ジュピターの神様がそれに嫉妬心を起してそれを両人(ふたつ)に切り離してしまった。本来一つであった生命が、形の上では二つに分れて二本の手、二本の足の現在のような姿になったというのであります。これは現象界は差別の相であり、實相界では「本来一体」ということを象徴的に言いあらわしたものであります。差別にいて實相の「一」を忘れず實相の「一」を悟って差別を真面目に誠を以て行じなければならないのであります。肉体を見ますと吾々は個々別々だと思われますけれども、本来は一つなのであります。「本来一つ」だから互いに「半分」を見出そうとして、そして人生の航路をさまよい歩いて、やがて相手を見つけて一つになろうとする、それが愛であります。人間はこの差別で同時に「一体」を生きるその自覚を青春期に恋愛によって体験し、それから恋愛以外にも、他のものとの一体感を味うようにまで自覚が進歩してまいります。創世記の神話もやはり同じことで、アダムが眠っている間に肋(あばら)の骨を取って、そしてその半身を拵(こしら)えた。それは「男から出たものだから女と謂(い)う」というように書かれているのは、男女は「本来一つ」であったということを象徴的に説いているのであります。

    日本神話における「本来の一」

 日本神話にこんなのがあります。「本来一つ」の生命――本来「一」なるもののそのいのちが二つに岐(わか)れて、神漏岐(かむろぎ)・神漏美(かむろみ)となった――それが伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)の両神にあらわれられた。「那美(なみ)」というのは「波(ナミ)」であります。一定のところに固定していないで漂うている姿であります。伊邪那岐命(いざなぎのみこと)の「那岐(なぎ)」というのは「凪(ナギ)」であります。漂いさすろうて一定の帰趨(きすう)なき現象の姿を一定の理念の相(すがた)に常立(とこたち)させる働き、一定の相象(すがたかたち)に修理固成(しゅうりこせい)する働きであります。
 理念の形に修めるのを「修理」といい、常立(とこた)たせることを固成するというのであります。

 そこで天津神(あまつかみ)即ち宇宙本元の神様が伊邪那岐・伊邪那美の二神に「この漂える国を修理固(つくりかため)成せ」と仰せられた。これは天津神即ち宇宙の大神の勅(みことのり)でありますから、宇宙に満ちているので、宇宙的なことにも、社会的なことにも、家庭的なことにも、陰陽のムスビにも当て嵌まるのであります。「イザ」という言葉は呼びかけの言葉で、互いに陰陽が相呼応する、「漂えるもの」と「理念の一定の姿に修理固成する力」とが互いに相呼応する。それが相呼応することによって「本来の一」にかえる。「本来一」のものが相呼応して「一」に還るときそこに新たなる「生み出し」が生ずる。電気が火花を散らして電燈となり、動力となり、電気化学工業品となるように、「本来一」なるものが互いに仮りにわかれていたのが、一つに仲よく相合すれば萬物が生成化育され、よきものが生まれ出るのであります。
<つづく>

1203復興G:2012/11/28(水) 19:35:58 ID:vWpLkCzM

<つづき>
『幸福の原理』(新選谷口雅春法話集③)より

 青春期の恋愛に於いて吾等は「本来の一」を自覚し始めると言いましたが、既に吾々は子供の時には親子の愛というものによって肉体は差別界に別個の姿を有(も)っておりながらも本来一体だということを自覚しておりましたけれども、だんだん我儘になり、愛に狎(な)れて来まして、可愛がって貰うのは当り前のように狎れ切って、世話になる事では自他一体だけれども、親孝行という自他一体の行事は忘れてしまっている偏頗(へんぱ)な無自覚な自他一体状態だったのであります。ところが青春期になりますと、男女の愛というものが出て参りまして、深刻に愛ということを考えるようになる。そして肉体は本来分れていて、他人のように観えるのに、何故こんなに惹きつける不思議なる力があるのだろうかと考えずにはおられなくなって来るのであります。

 それは自他一体感の目覚めであります。親子の愛は未だ目覚めざる自他一体感であると致しますと、恋愛は目覚め初めんとする自他一体感であります。どうしてこう相手に惹き着けられるのかハッキリはわからない。そこに恋愛の神秘性があるとも謂えます。親子の愛では現實的に、子は親の肉体細胞から出たという事實があるが、恋愛にはそういう物質的根拠はない。しかもその牽引力は親を捨てても走らすほどの力がある。もしそれを邪魔するものがあったら、その邪魔ものをどんなにしてでもかなぐり捨ててそれを成就しないでは置かぬ。否、それが成就しなかったら自殺したり、心中したりして個体のいのちを殺してまでもそれを成就しようとする。個体のいのちを殺してでも「二つ」が「一つ」になろうといういのちの衝動、これこそは肉を超えた眼に見えぬいのちの存在の最初の目覚めというべきであります。
<以上>

1204goro:2012/11/28(水) 20:59:34 ID:3Dk63Vjg

復興G様

>>1179
生長の家の現在の状態について復興G様は「業」であると言われています。
ハッキリ申し上げて目に見えない世界の事については反論のしようがありません。
宇治における疑経読誦の際の自然現象の問題も同じように反論のしようがありません。
反論できないと同じく「そうである」との証明も出来ません。
因果律・心の法則を振り回すことの危うさを感じます。
もし80年の業の結果であるとするならば、その時点で「思考停止」に陥ります。
青年会の百万運動の暴走も現在の状態に至る「業」であるとするならば
暴走に至る原因もまた何らかの「業」でなければなりません。
過去・現在の生長の家信徒の「業」の連鎖という認識でいいのでしょうか?
正道に戻す為の生長の家信徒の信仰の有るべき姿(道)をわかりやすく御説明下さるようにお願い致します。

>>1187以降の投稿内容は、上記の質問についてお答え頂いたということでよろしいでしょうか?

お答えの結論から言いますと「この掲示板の皆さま、お一人お一人、全部≪心中≫をして行きたいと思います」
と云うことになりますでしょうか?

お答えであるならば、過去・現在・未来の全信徒が打ち揃って雅宣総裁及び教団幹部・今の教えに帰依する全信徒様に対して
我々がひたすらに「心中」するということなのでしょうか?

1205復興G:2012/11/28(水) 21:06:10 ID:vWpLkCzM

>>1179 : goro様

私はgoro様の
>>正道に戻す為の生長の家信徒の信仰の有るべき姿(道)をわかりやすく御説明下さるようにお願い致します。<<

というご質問にお答えしようとして、長々と書いてきましたが、「わかりやすく」というのは、とても難しいですね。

私は、>>1154および>>1159で引用させていただきました榎本恵吾先生の御文章が、ずばり、業に翻転されてきた運動から「正道に戻す為の生長の家信徒の信仰の有るべき姿」を指し示す指針であると思っているのですが、なかなかこれがわかって頂ける方は少ないのかも知れません。

 goro様は、上記>>1154および>>1159の榎本先生の御文章、どう感じられますか?

1206「訊け」管理人:2012/11/28(水) 21:06:56 ID:???

>>復興Gさま


 ところで、「諸君は住吉大神の全身全霊である」――これは、強烈なラヴレターですね。・・・・いや、何のお話しかと申しますと「恋愛」のお話です。さてこの「恋愛」のお話なのですが以下は、謹写御文章を拝読しふと思いましたことです。

 神は毎日、我々に「ラヴレターを贈り給うておられる」とは、言えないでありましょうか。少なくともそう、個人的には感じます。そして、それに感謝することが「『中(みなか)』と一体となって生きること」と、言えるのかもしれません。今回は「ふと」感じた内容とは、そういうものであります。神は毎日、我々にラヴレターを贈り給うておられる。あとは我々が、その文面をそのまま「受ける」だけでありますね。

 なお「そのまま受ける」のは少々困難です。ですが、そのまま受けるのは難しくとも毎日、ラヴレターが贈られてくるのは事実です。先ず、その事実に感謝するのが肝要なのかもしれません。そして、「中(みなか)と一体となって生きること」とは先ず、その事実(毎日のラヴレター)への感謝が重要かもしれません。生意気ながらそう、感じた次第です。自然に湧き起こる、自力作善でないところの「感謝」、これが重要なのかもしれません。

 なお冒頭文の「諸君は住吉大神の全身全霊である」――これは、強烈なラヴレターですね。このようなラヴレターが届けば我々、自然に湧き起こる、自力作善でないところの「感謝」が持てると思います。

 今回はこのような、気づきを得ることが出来ました。ご謹写文投稿の労に対し、厚く御礼申し上げます。ありがとうございました。
 



追伸

 以下は、昔の歌です。国民が「国家へ恋愛していた」時代の歌ですが、歌詞が素晴らしいですね。

 ところで雅春先生の「愛国書」ですが、精読後にこの歌を聴くと感動が増すと思います。少なくとも個人的には、そうでした。特に二番の「往け八紘を宇(いえ)と成し」のあたりは感動を催して参りました。これは、国民から国家へ宛てた、ラヴレターだったのではないでしょうか――

「愛国行進曲」
http://www.youtube.com/watch?v=bsN2kQ-0pNE&amp;feature=fvwrel

作詞:森川幸雄
作曲:瀬戸口藤吉

見よ東海の空明けて
旭日(きょくじつ)高く輝けば
天地の正気潑溂(せいきはつらつ)と
希望は踊る大八洲(おおやしま)
おお晴朗の朝雲に
聳(そび)ゆる富士の姿こそ
金甌(きんおう)無欠揺るぎなき
わが日本の誇りなれ

起て一系の大君(おおきみ)を
光と永久に頂きて
臣民我等皆共に
御稜威(みいつ)に副(そ)はむ大使命
往け八紘(はっこう)を宇(いえ)となし
四海の人を導きて
正しき平和打ち立てむ
理想は花と咲き薫(かお)る

今幾度か我が上に
試練の嵐哮(あらしたけ)るとも
斷乎(だんこ)と守れその正義
進まむ道は一つのみ
嗚呼悠遠(ああゆうえん)の神代より
轟く歩調受け継ぎて
大行進の行く彼方
皇國(こうこく)常に榮えあれ

1207さくら:2012/11/28(水) 21:27:09 ID:e8ieIrPA


復興Gさまが一連のご文章を読ませて頂いて、
信徒の信仰の立つべき位置が、改めて示されているとおもいました。
ご教示いただいたことに、感謝いたします。

 >その混乱がきたとき、イザナギの神が「天津神(あまつかみ)」のところへ詣昇(まいのぼ)りて、「天津神」のみ心を聴きたもうたようにすれば、そこから実相本来の知恵がでてきて、混乱が収拾され、混乱と見えたものが、新たなる発展の契機となって、混乱以前の状態よりも、尚一層よい状態に移行することになるのである。(中略)

 「天津神」とは宇宙本源の太極であり、絶対無であり、一切現象の未だ出現せざる以前の「中(ちゅう)」であり、そこに還元することによって現象界の乱れや歪みが去るのである。

 その絶対無なる「中(みなか)」への還元の修業が、茶道といい、華道といい書道といい、剣道といい、武道といい、歌道といい、神想観というのである。

 すべての日本的芸術または作法が「道」になったのも、左右分化的な分裂病的籠手先(こてさき)の巧者を越えて絶対無の「中」への還元が日本的精神の姿であるからである。(中略)

 日本国は一時的にどんなに混乱することがあり、歪められることがあっても、「中」に還元することによって本来の美しい実相があらわれるのである。


「和解」とは、復興Gさまが説かれるような、
心中の自覚に信徒一人一人が立つことという、
み教えの観点からこそ、あり得るのだとおもいます。

靖国見真会さまが、

>「本流派」であれ、「和解派」であれ、生長の家の「教え」を愛する点では「和解」しあえると私は思っています。

と、すばらしい、愛深いお言葉を下さり、有り難いと思います。

わたしも、同感です。

この「中(みなか)への還元」が、信仰の原点に立ち戻ることだと、改めて気づかせて頂きました。

感謝


1208復興G:2012/11/28(水) 21:57:20 ID:vWpLkCzM

>>1204 :goro様。

 私が「心中」の御文章を持ち出したのは、何とかして実相世界、宇宙の、いのちの本源世界――「すべてが一体」の「絶対善」の世界を、「わかりやすく」お話ししたかったからです。

 「業」というのは本来ない。絶対善(対立するものがないのを「絶対」と言います。つまり、悪は無い、善のみ)の世界、神のつくり給うた世界には、業はありません。

 しかし、時空間に影を写した現象世界は、生命が業を積み、業力によって翻転します。「現象あり」という迷妄から「迷いと迷いと相撃って」争い戦う業を積めば、やがてそれは自壊作用が起こって浄化され、本来のすがた、調和した実相が顕現します。だから、すべて善しの世界なのですが、その自壊作用は、迷妄が深く大きければ、激しいものになります。

 生長の家80年の運動においても、生命が波動をおこしたのですから、当然「業」を積んでいます。その業は当然、善業が大きく、多くの人々に幸福を与え、日本を革命の混乱から守って来た。

 しかし、この教えに触れたすべての信徒が、最高の悟りを得て一切の争い戦いもなく、澄み切った浄い心のみでこの運動を進めてきたかと言えば、そうは行かなかった。私自身、今でもなかなか自我を捨てきる、死にきることが出来ず、悪い暴走をしてしまうことしきりです。

 正直いって教団も、“本流”も、暴走していると思います。
 ですから、生長の家教団にも、「自壊作用」は起きつつあり、まだまだこれからも起きると思います。そうして浄まるのです。

 谷口雅春先生も晩年に、生長の家という教団がかかえている「業」から今後、大混乱が起こると予言されていた、と伺ったことがあります。(出所は秘されていますが)

 しかし、「絶対善」なる神の善意を信じることが、今、善業を積むことになるとお教えいただいています。

 それを信じて、私たちは今こそ、谷口雅春先生の御教えの根本をしっかりと学び、神の光であるという自覚を深め、愛を行じてゆくことが大切なのではないでしょうか。

1209復興G:2012/11/28(水) 22:07:30 ID:vWpLkCzM

「訊け」管理人様
さくら様

コメント、感謝します。ありがとうございました!

1210志恩:2012/11/28(水) 23:27:42 ID:.QY5jUA6
みすはなまる様

いらして下さって、うれしかったです。
復興G様のご文章を読み直しましたら【無理してやったら、破滅する】と書かれてありました。

しかし、靖国見真会参加者様が、私の質問に、お答え下さいました。「無理して、やってるわけじゃないのですから」と。
ですから、無理してやってるわけではないので、学ぶ会は、破滅は、しないのです。

それに、復興G様は、

>>私は、「鎮護国家」=「世界平和実現」であると思っています。

 「鎮護国家」なしに真の、究極の「世界平和」はあり得ないのではないか、と思っているのです。

 その「鎮護国家」を抜きにしたら、「生長の家」はなくなってしまうのではないか。

 そのくらいに思います。<<と、今回のことについて、

生長の家の大先輩としての見識ある判断されておられます。
その上で、
「今後は、調和した実相が顕現します」というご見解を述べておられるので、

私達も安心して、これからも、みこころのままに邁進してまいりましょう。

1211goro:2012/11/28(水) 23:42:16 ID:3Dk63Vjg

 復興G様

至尊尊師の聖語・敬愛する榎本恵吾先生の「天地(あめつち)の初発(はじめ)に立ちて」
―人類光明化運動の楽的展開論―を拝読させていただいて思い浮かんだ言葉がありました。

 ただ光 光のなかに我住めり 全て御光 我も御光

この聖なる御詩が私の思いの全てであります。絶対善の世界こそが真実唯一の世界であることも
生長の家の信徒であるならば極々自然に受け入れられる真理であると思います。

雅宣総裁・教団幹部・指導的立場にあられる方々も、その実相においてはただ光のなかに在られるのです。
その事を疑ったことは寸毫もありません。只々深く切ない思いに満ち満たされています。
それが私の祈りの全てであるといっても過言ではありません。

最後にもうひとつだけ質問いたします。「虚説に和解するな」をどのように理解されていますか?

1212「靖国見真会」参加者:2012/11/29(木) 08:33:38 ID:iV4zMp.2

「復興G」様へ。

「暴走」という語彙の使い方が、いまいち判然といたしませんが、どうも「谷口雅春先生を学ぶ会」に対する悪しきイメージが抜きがたくあるようですので、今回は、ある方の手紙をご紹介して、先入観なしで、自分の目で、耳で確かめていただきたく、この場をお借りさせていただくことにいたします。

去る9月、「谷口雅春先生を学ぶ会」は10周年を迎えました。

10周年を迎えたとは言え、本部を起ち上げ、本格的に組織だって具体的な対外活動を展開し始めたのはここ2年ぐらいのことであります。

いわば草創期のようなものですから、講演会でも何でも、何かやろうとしたら、自分たちだけで、いわば手作りで行わないといけません。

しかし、というか、だからこそというべきか、やっている方は、その手作りの運動の楽しさを感じていられるようです。

この方もその一人です。

こんな手紙でした。

…神様からの「使命因縁」を果たすためにはどうしてもどこかで出合わないと私の「使命因縁」は花開くことはできなかったと確信しています。今の生長の家教団をやめてから、真の生長の家が始まり、私の使命のときが花開きました。信仰の喜び、神様に使っていただく悦び、人のお役に立たせていただく慶び、そして日本に生まれたよろこび、生かされている有り難さ、今、フツフツと感じられるようになりました。私が幼い頃より、心の底でいつも願っていた思いが今やっと実を結ぼうとしています。「谷口雅春先生を学ぶ会」との出会いがなかったらどうなっていたでしょう?「谷口雅春先生を学ぶ会」を起ち上げていただいたことに心から心から感謝しております。

「八ヶ岳教団」がこんなになって、行き場を失っている方がたくさんいます。

これからもっともっと増えるでしょう。

そんなときに、こうして「谷口雅春先生を学ぶ会」と出会って、新たな生き甲斐の場を見出した方がいるのです。

そういう方が今、どんどん増えています。

このよろこびの輪をこれからも更に更に大きく広げていきたいと思っております。

「谷口雅春先生を学ぶ会」が更に注目されるようになります。

乞う、ご期待ということでよろしくお願いいたします。


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