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漫画・ライトノベル以外の書籍スレ

412修都:2023/07/02(日) 17:33:46 ID:Iwso9WKY
池田嘉郎「ソヴィエト社会主義の成立とその国際的文脈」
1873年、ヨーロッパと北アメリカは長い不況に入った→社会主義者は資本主義の最後が間近であると受け取った→しかし、1896年に好景気
1889年、ヨーロッパの社会主義政党を中心にした社会主義インターナショナル(第二インター)結成→第一次世界大戦が始まると社会主義政党も戦時予算を受け入れたので崩壊
ドイツ社会民主党内の右派には、戦時統制経済を国会社会主義とみなすものもいた。レーニンも戦時統制経済がある程度確立されたロシアで、社会主義に移行することは可能と認識した
1917年、二月革命が起こるとレーニンはドイツから帰国→10月25日、十月革命→平和に関する布告を採択→イギリス・フランス・ドイツ労働者の応答もなかったことはレーニンの期待を裏切った
→ドイツ側同盟国のみとブレスト・リトフスク講和条約
1918年、ロシア社会主義ソヴィエト共和国という国名が打ち出される。モスクワに首都移転。党名はロシア社会民主労働党からロシア共産党に→民主主義自体を見直している
5月、チェコスロヴァキア軍団が反乱→軍団の救出を名目に連合国も軍事干渉
6月、重要工場企業の全面的国有化
1919年、モスクワで第三インターナショナル(コミンテルン)創立大会→西方では革命の展望が開けなかったが、シベリア・極東ではソヴィエト化の展望
トロツキーは軍隊を労働軍に改組、労働義務制と組み合わせた→レーニンは、トロツキーを抑える。農村では穀物徴発に対する放棄があいつぐ→食糧税へ転換。残った穀物は市場で取引できる
1922年、ソヴィエト社会主義共和国連邦結成。レーニンはこの年から政治活動から遠ざかり、1924年死去した
トロツキーの永続革命論に対して、スターリンは一国社会主義論を打ち出した→実際にはトロツキーの構想とあまり異ならない
トロツキーは農産品を輸出し、工業機械を輸入することを主張→要職を追われる。スターリンは1928年、強制的に穀物を供出させる→農業集団化への展開
→農村は飢餓に苦しむが、穀物を輸出して工業化の原資獲得→トロツキー派の多くが支持
1937年・38年、157万5259人が逮捕され、68万1692人が銃殺判決。ただ、ソ連体制が、総力戦を耐え抜いたこともたしか
第二次世界大戦後、ソ連は帝国主義廃絶・世界社会主義革命という第一次世界大戦時の課題に回帰する

413修都:2023/07/03(月) 20:11:15 ID:Iwso9WKY
中野耕太郎「二〇世紀アメリカの勃興」
1893年、シカゴ万博→資本主義文明の最先端を誇示→開幕の4日後、ニューヨーク株式市場大暴落→万博会場の外には貧困と暴力が渦巻く世界。全米の貧困者の数は1000万人
→生活状態の物質的な底上げへの議論。アメリカの後進性の自覚→ヨーロッパから社会福祉を学ぶ
セオドア・ローズヴェルトは市場規制を推進した政治家。社会的な問題に、集権的な国民国家の行政で対応しようとした。ヨーロッパに倣い、帝国主義的な政策も展開
第一次世界大戦によってアメリカが世界の金融や海運を支配する力を持つようになった。ウィルソン政権の国際主義への変革には、ヨーロッパを指導する立場に立ったという強い自負心
第一次大戦によって、アメリカ政府は鉄道や鉱山を国家の管理下に置くなど前例のない産業・社会統制
黒人は前線から排除→地域的な人種慣習が国策として受容された。分断の深化
戦後、労働者保護政策や社会福祉は後退→かわりに排外的な社会保守運動が活況→禁酒法→白人至上主義団体KKKと密接に結びついていた
大恐慌下のフランクリン・ローズヴェルト政権は、労働者保護と貧困対策に舵を切るニューディールが新しかった→はじめて労働組合を法的に承認。失業保険と老齢年金を制度化
→社会保障法は非白人の労働を制度の対象外とする→新たな分断
ニューディールは一国主義的→帝国支配からも撤退。フィリピンの独立公約。ただし、現地に一定の軍事力を残す

414修都:2023/07/04(火) 19:48:38 ID:Iwso9WKY
飯塚正人「イスラーム主義の盛衰」
ムスリム諸王朝の近代化は、国家財政の破綻を招き、列強への従属を深めてしまった→イスラーム主義者は、没落はムスリム個々に非があると発想した
エジプトは1876年、財政破綻→イギリス人、フランス人がそれぞれ国家の収入と支出を管理するヨーロッパ内閣に→民族運動
→運動は成功したかに見えたが、イギリスの侵攻を受け、70年に及ぶイギリス占領期→第一次世界大戦が起こると、反乱を恐れて、保護国とし、戒厳令を布く→戦後、反英運動
→1922年、イギリスはエジプトの独立を宣言。エジプト王国誕生→独立は形式的なもの
オスマン帝国が第一次世界大戦で敗北すると、ムスタファ・ケマルが武力反乱。勝利→スルタン・カリフ制をスルタン制とカリフ制に分離、スルタン制廃止→1924年にはカリフ制も廃止
→政教分離への決意→新たなカリフの選出をめぐって各所で議論。1928年、エジプトでムスリム同胞団が生まれる
→1930年代、イスラームを後進的と非難してきたヨーロッパは混沌としており、ムスリム側にヨーロッパの先進性に関する疑問が生じていた→真に優れているのはイスラームなのではないか
同胞団は政治に一定の距離を置いていたが、パレスチナにユダヤ人移住者が急増すると、ジハードを強調するようになり、イギリスに警戒される存在となっていった
同胞団は、女性と男性が同じ空間で一緒に教育を受けることには反対だったが、服装と行動さえイスラーム道徳に則っていれば、何にでもなれると説いた
第二次世界大戦後、エジプトは極めて深刻な不況→政府との決定的な対立だけは回避する構えだった指導部の意思を無視して政府関係者を襲撃する同胞団
1952年、エジプト革命→同胞団はクーデタに協力したがやがてクーデタ側と対立→クーデタ指導者ナーセルが亡くなるまで同胞団冬の時代
ナーセルは同胞団がイスラームを歪める者だとして弾圧。ナーセルは67年の第三次中東戦争でイスラエルに惨敗→同胞団など大衆イスラーム主義運動の復活
1970年、ナーセルが急死すると同胞団幹部は大量釈放された→大統領サーダートは左翼勢力に対する勢力として同胞団を利用
→サーダートが対イスラエル単独和平路線を歩むと、81年、同胞団幹部は一斉検挙された→81年、サーダートはジハード団員によって暗殺される
→エジプトのイスラーム主義運動は、法の枠内でイスラーム国家を目指すムスリム同胞団と武装闘争派の地下組織に分かれる
2011年、30年続いたムバーラク政権が倒れると、同胞団は自由公正党を結成、政権を獲得→13年、軍事クーデタで非合法化、テロ組織に指定される。再び冬の時代となっている

415修都:2023/07/05(水) 19:24:20 ID:Iwso9WKY
石井香江「労働とジェンダー」
第一次世界大戦中、軍需産業で働く女性の増加は各国で確認できる→未熟練労働者のため戦時福祉や労働の機械化の導入→戦時中に限定的な代替労働力であるという印象を強めた
戦後、女性は失業するか、女の仕事へと戻っていった→ジェンダー秩序を本質的に変化させることはなかった
ナチスなどファシズムは、男女の役割を二分したが、女性を労働市場から完全に排除することはできなかった→ただし、これはファシズム国家に限られた現象ではない
ナチスは、労働動員しなかった中・上層階級女性には無駄を排する主婦を期待

416修都:2023/07/06(木) 19:48:10 ID:Iwso9WKY
篠原琢「中央ヨーロッパが経験した二つの世界戦争」
第一次世界大戦時、オーストリアにおける政治と社会の軍事化、軍部独裁は極端であった。二重帝国の東側ハンガリー王国では議会も文民政府も機能を続ける
オーストリア=ハンガリーは最も早く配給制度を導入した→1916年の冬から、必要最低限の栄養すら供給できなくなる→1917年春、飢餓暴動
→日常生活に直接介入した帝国権力は、介入の使命を果たせないまま支配の正統性を失っていった
1916年11月フランツ・ヨーゼフ1世死去→新帝カールは軍部独裁廃止、帝国議会を召集→1918年、帝国の連邦化案を発表
1918年、チェコスロヴァキア国民委員会はチェコスロヴァキア共和国の独立を宣言。新国家は市民権の認定にあたってネイションへの帰属を問うた
1939年、ミュンヘン協定により、ドイツ人が集住するチェコスロヴァキア西部国境地域ズデーテンはドイツに併合された。翌年にはスロヴァキアがチェコスロヴァキアから独立
→翌日にはドイツ軍がチェコを占領してボヘミア・モラヴィア保護領が設置された→ユダヤ人コミュニティは破壊された→保護領総督はドイツに同化可能なチェコ人を選別
→チェコの抵抗運動はチェコスロヴァキアからのドイツ人の大規模追放を要求→1945年9月、ドイツ人の追放、財産の略奪が始まる
→チェコスロヴァキアはナチスドイツの人種主義を拒絶したが、市民権の付与・剥奪でその実践を継承→チェコ的価値に忠実かが問われた
→ユダヤ人も占領中の反ファシスト活動を証明しなければ市民権を獲得できず、7500人のうちチェコスロヴァキアに残ったのは500人程度とされる
チェコスロヴァキア西方の国境地域の新しいチェコ人は出自が非常に多様であった→地域コミュニティの中に差異をつくりだした

417修都:2023/07/07(金) 18:57:38 ID:Iwso9WKY
野村親義「インドにおける工業化の進展」
近代的製造業がインドに次々に出現したのはインド大反乱前後の19世紀半ば以降→近代的製造業の発展を主導したのは綿ジュートの二大繊維産業
日本との競争にもかかわらずインドの機械制綿糸は1920年代以降も100%自給率→ただし、近代的製造業はインドの一人当たり国民総生産を大幅に上昇させるには不十分だった
植民地期インド政府は小さな政府に固執し、政府の積極的な関与に基づく近代的製造業の発展を実現するための財政的基礎を欠いていた
インドと日本の名目賃金は1900年以降、ほぼ同水準。短期資金と労働力に関しては印日間に大きな違いがなかった可能性
日本やドイツで重要な役割を果たした銀行による長期資金融資は、植民地期インドでは稀

418修都:2023/07/08(土) 16:41:13 ID:Iwso9WKY
平井健介「日本植民地の経済」
台湾と朝鮮は総督府を行政府とする外地である。外地では経済的近代化をもたらす開発が志向された
内地では19世紀末に米の自給が困難となり、政府は外国米を輸入して米価安定を図る外米依存政策を採っていた→第一次世界大戦で外国米の輸入が不安定化
→帝国内自給策に転換。需給のギャップは外地米の移入で埋められ、内地の米自給は1930年代前半に達成された
外地では第一次世界大戦期以降に工業部門が成長。外地は内地の重化学工業の市場としても重要な役割を果たした
戦時期の内地で需要された原料や燃料の供給での寄与は乏しく、中華民国・東南アジア侵略が進められる背景の一つとなった
朝鮮の一人当たり穀物・イモ類摂取カロリーは、1920年頃を頂点に停滞・低下。1920年代は一人当たり実質GDPの成長が最も低く、在内地朝鮮人が4万人から42万人へ急増

419修都:2023/07/09(日) 12:33:00 ID:Iwso9WKY
中村隆之「ネグリチュード運動の形成」
ネグリチュード運動の中心人物は、この語を発明したマルティニックのエメ・セゼールと、この語を普及させたセネガルのレオポル・セダール・サンゴール
アフリカ系住民は、西洋の人種イデオロギーを通じて形成された白と黒の優劣意識を長らく内面化してきた
→カリブ海の黒人エリートは文明の地はヨーロッパ、アフリカは未開で野蛮の土地だという社会進化論的な考え方を身につけていった
→しかし、黒人エリートも宗主国に渡ると野蛮な黒人として多数の白人に見られることに気づく
→マルティニック出身のナルダル姉妹がパリ郊外クラマールで開いたサロンが黒人意識の目覚めを可能とする交流の場となる→ここから『黒人世界評論』という雑誌が出る
→この雑誌やそれ以外のさまざまな交流と影響のもとに『黒人学生』が刊行される
1944年、ドゴール将軍は植民地諸制度の改革を約束した→第四共和政は植民地住民にフランス人と同等の市民権を認める
セゼール(共産党)とサンゴール(社会党)も政治家としてのキャリアをスタートさせた
しかし、フランスは独立運動は容赦なく弾圧した→セゼールがカリブ海の四つの植民地を県に昇格させる法案を提出し可決される
1956年、セゼールは、スターリン主義に追従し、アルジェリアの武力弾圧を支持するフランス共産党を批判し、離党を表明→マルティニック進歩党結成
1958年、ドゴールが、フランス共同体に加盟する是非を植民地や海外県に問うた→加盟を拒否したのはギニアのみ
1960年、セネガルではフランスとの関係を維持したままサンゴールが初代大統領となる。セゼールはフランス共同体加盟に賛成した
→サンゴールとセゼールは後続の世代からの支持を得られなくなった

420修都:2023/07/10(月) 19:48:28 ID:Iwso9WKY
田中ひかる「アナーキストによる国境を越えた連帯」
国境を越えてアナーキズムの理念を共有した最初の運動は、1870年代に形成される第一インターナショナルにおける反権威派
→マルクスらはインターナショナルを権威主義的に運営していると非難→運動を引き継ぎながらアナーキストを自認する人々が現れる
→1880年頃から提起されたのが、各人はその能力に応じて働き、その欲求に応じて消費する共産主義
1886年5月、シカゴでヘイマーケット事件。全米一斉ストライキで警官により労働者に死者が出ると、アナーキストが抗議集会開催→解散させようとした警官隊に爆弾が投げ込まれた
→4名のアナーキストが公開処刑→共通の記憶とシンボルとなり、国境を越えて共有されることとなる
幸徳秋水が1907年、直接行動を支持すると宣言した要因として、アメリカのアナーキストたちとの交流がある→処刑後、遺族支援の義援金がアメリカやヨーロッパから送られている
アナーキズムから影響を受けた労働運動サンディカリズム運動は、19世紀末からフランスで始まり、世界各地に広がる→労働者階級が政党と国家から自律し、直接行動を行う
アナーキズムとサンディカリズムの対立は世界各地で見られる→サンディカリストは特定の政治運動を否定する。アナーキストはサンディカリズムが労働条件改善だけにとどまっていると批判
アナーキストは国家が他の国々や地域の人々に支配を拡大する帝国主義戦争に反対した→反植民地闘争のナショナリストとの連帯
→しかし、第一次世界大戦が始まると、アナーキストに戦争を支持する人々が現れ、アナーキスト間での対立が生まれる
→クロポトキンは、ドイツによる勝利がリベラルな政治体制を破壊するという理由から、連合国の勝利が必要と主張した→多数のアナーキストは支持せず、戦争を肯定しなかった
ロシア革命以降、ロシアでは弾圧を受け、ヨーロッパでもアメリカでもアナーキズム運動は沈滞するが、1936年からのスペイン内戦で刺激を受け活性化する

421修都:2023/07/22(土) 17:28:30 ID:Iwso9WKY
後藤明「太平洋世界の考古学」
太平洋世界の全貌を明らかにしたのは、1768年に始まるイギリスのジェームズ・クックによる3度の探検
1950年代から始まった放射性炭素による年代測定法で、太平洋の島々にも数百年から数千年の歴史があることが証明された
後期更新世、氷河期の海面低下でインドネシアの島々は大陸とつながりスンダランドを形成していた。オーストラリア大陸とニューギニア島もサフル大陸を形成していた
完新世、海面上昇すると、島嶼世界では貝類、ネズミ、コウモリ、爬虫類が食されていた。ニューギニア島高地では紀元前4000年頃には初期農耕が始まる
→穀物の導入はなく、豚は紀元前1000年頃、サツマイモは1000年以降、もたらされるので、サツマイモを食べ、豚を飼育するニューギニア島高地の生活は伝統ではない
放射性炭素年代の基準が示されると、中央・東部ポリネシアの居住は今から1000年前以降という結果となった→急速に東進してきたラピタ集団はなぜ1000年以上そこへの移動をしなかったのか
人類は安全を考えて東進した可能性が高い→安全に帰ることができる風があるか
リモート・オセアニアに入植した集団は持ち込んだ資源と新しい島で動植物を効率よく利用しようとしたが、いくつかの島では貝類や鳥類が減少し、または絶滅した
アオテアロアの鳥モアが絶滅したのは森林伐採と火入れで環境が変革されたことが大きい
アジア起源のオーストロネシア集団は、西部ポリネシアの長い滞在期間で階層的な社会や宗教体系の原型が形成されたのだろう→14世紀頃までは、島間の交流が盛ん
→15世紀以降、各諸島は孤立する傾向となり、人口増加、社会階層化、戦争などが起こり、一部の島では国家に匹敵するレベルにまで発展した

422修都:2023/07/23(日) 12:31:57 ID:Iwso9WKY
風間計博「ヨーロッパ人との初期接触から新たな太平洋島嶼世界の生成へ」
ラピタ人を除くと、アジアから東へ大洋に漕ぎ出す人々はいなかった。西から航海に挑んだのはヨーロッパ人だった。ヨーロッパ人と在地住民との初接触の多くは敵対的であり、頻繁に流血をみた
スペインのグアム支配を除くと、ヨーロッパ人は資源の乏しいミクロネシアには進出しなかった
太平洋の全体像を明らかにしたジェームズ・クックの探検→プロテスタント諸宗派は異教徒の習俗に身震いした
ポリネシアにおける外来者との邂逅は、衝突を回避できた場合には、訪問客を庇護することとなった。しかし、実際は頻繁に衝突が起こった
ヨーロッパ人は、一方的に理想的な人間像を無垢な島嶼出身者に投影した。一方、探検船に乗った島嶼の人々は、新たな世界を経験し、事物や知識を貪欲に吸収した
欧米の探検は海軍を動員した国家事業であった。18世紀後半以降、商人、宣教師等の民間人が本格的に太平洋に進出
ポリネシア人は、19世紀初頭から船員になっていた。在地住民は、ビャクダン交易の活動的な参加者だった
太平洋島嶼各地では、男性船員と在地女性の性的接触が起こり、未知の感染症がもたらされた。在地住民に免疫はなく、極度な人口減少が起こった。労働交易も人口減少の主要因

423修都:2023/07/24(月) 19:31:01 ID:Iwso9WKY
藤川隆男「移民国家オーストラリア」
イギリスによるオーストラリア入植が始まったのは、フランス革命の一年前。オーストラリアが本格的に発展するのは、ナポレオン戦争以降
1830年、植民地オーストラリアの人口の約70%が流刑囚と元流刑囚→識字率はイギリスの労働者の平均をかなり上回っている。8割が窃盗犯、その半数が初犯
イギリスでは1833年、奴隷制廃止。流刑制度にも批判が高まった→オーストラリアへの移民の主力が流刑囚から自由移民に→先住民から無償で奪い取った土地が、移民補助の原資となった
ゴールドラッシュを契機に中国からも移民流入→1850年代から移民制限。1880年代末までには、中国人移民を制限する移民制限法制定
1901年、オーストラリア連邦成立。有色人種の移民に言語テストを課し、非白人を事実上排除した→白豪主義
1902年、連邦選挙法→すべての女性が男性と同等の選挙権。先住民の選挙権を否定。太平洋諸島労働者法→1906年までに全メラネシア人労働者を国外に輸送する
アボリジナル政策→混血の児童の多くを親から引き離し、施設に収容→実際は十分な教育が与えられず、非熟練労働者となった→現在も補償が課題となっている
旧来の歴史が批判的に検討されるようになったが、戦略的に先住民や女性の国民国家への貢献を強調する研究が増やされている
第二次大戦後、資本主義諸国が人種差別的だという批判を封じる必要性、アジア諸国との経済的関係の拡大などを背景として、1958年、言語テスト廃止、移民制限措置緩和

424修都:2023/07/25(火) 19:36:15 ID:Iwso9WKY
矢口祐人「ハワイの内側から見るハワイ史」
ポリネシア系と呼ばれる人びとがハワイに渡ったのは、今から1500から1800年ほど前と言われている。ジェームズ・クックが1778年に辿り着くまで西洋では知られていなかった
1893年のクーデター→在ホノルル駐米公使ジョン・スティーブズが白人男性たちと共謀し、アメリカ海軍とも協力してリリウカラーニ女王を王座から降ろした
→1900年にアメリカの領土となる。ほとんどのハワイアンは、女王を支持し、併合に反対した。アメリカが標榜する自由や民主主義の理念を用いてアメリカを批判した
→1993年、アメリカ合衆国連邦議会はハワイアンが主権を直接放棄したことは一度もないと謝罪
1959年、ハワイはアメリカの州となるが、それまで連邦議会に代表を送ることもできず、選挙人を選ぶこともできなかった。州知事も選挙ではなかった。事実上の植民地
→州になることは名実ともにアメリカの一部に組み込まれることを意味しており、強く反対した者もいた。州になれば白人とアジア系住人が利益を得ることも明らかだった

425修都:2023/07/28(金) 19:47:43 ID:Iwso9WKY
深山直子「先住民マオリのアオテアロア・ニュージーランド史」
ヨーロッパ人として初めてNZを確認したのは、1642年のアベル・タスマンら→上陸したのは、1769年のジェームズ・クック一行→ヨーロッパ人とマオリとの接触は浅く断続的なもの
→宣教師が赴くようになると、文字や知識も浸透
ヨーロッパからの来訪者が増加し治安が不安定化するなかで、1832年、イギリスはジェームズ・バスビーを駐在事務官に任命した
→1835年、北島北部のマオリ首長たちにニュージーランド部族連合として独立宣言に署名させ、保護者となった
→1839年、ウィリアム・ホブソンを副総督として実質的に植民地化する方針に→1840年、ホブソンはマオリにワイタンギ条約締結を迫った→500人以上の首長から署名を集めた
→条約によって、NZはイギリスの直轄植民地となり、ホブソンは総督に任命された→自治の要求が高まると、1852年、自治植民地となる
→条約では、マオリに権利や資源を認めるとあったが、実質的にほとんど効力を発揮しなかった
→1858年、イギリスの王制に対抗するため、フェロフェロがマオリ王として擁立され、マオリ王運動が組織される
1860年、マオリと植民地政府との間で戦争(ニュージーランド戦争)→1863年、マオリを制圧
原住民土地裁判所設立→マオリの土地は、個人所有化され、1939年までに北島の約半分がマオリの手を離れた
NZの選挙権は大半のマオリに認められなかった→1867年、マオリ議席が4席確保され、マオリ議席への選挙権は認められる
→1893年、世界に先駆けてマオリを含む全ての成人女性に選挙権が認められる。1967年、一般議席とマオリ議席いずれにも立候補することが可能になる
1907年、ドミニオン(自治領)になり、国際連盟の初代加盟国にもなる
1975年、ワイタンギ条約法。ワイタンギ審判所→条約の原則に合致しない国王(NZ政府)による不利益を被った蔡、申し立てができる
→近い将来に過去の植民地主義的な収奪に関して全て和解に至る見通し

426修都:2023/07/29(土) 19:45:07 ID:Iwso9WKY
馬場淳「パプアニューギニア史におけるホモソーシャルな政治と女性たち」
ニューギニア高地に白人が入っていくのは1930年代以降。植民地化は、1884年、ドイツとイギリスが東部ニューギニア島および周辺を保護領とすることからはじまる
→イギリス領ニューギニアは1906年からオーストラリアの領土パプア。ドイツ領ニューギニアは1921年からオーストラリアの国際連盟委任統治領となる
→異なる政治的地位にあった二地域だが、日本軍の侵攻に対抗するため一元化される
1950年代、キリスト教の教理や白人の性別役割分業にもとづき、現地人女性に、家庭を守る母・妻として、主婦的なスキルが教えられる
→性差を絶対化し、公的領域に男性を、私的領域に女性を配置する→しかし、伝統的社会では、女性も経済や儀礼を担っていた
パプアニューギニアは1973年11月、高地出身の保守系議員の多くが反対するものの、内政自治へ移行が決定し、1975年9月16日独立する
パプアニューギニアは地方分権主義→住民は国家よりも出身集団のアイデンティティを強く保持している
1980年代後半からのブーゲンヴィル問題→強引な鉱山開発による環境破壊と補償への不満を背景にした爆破事件から始まる独立戦争→2001年、和平協定。05年、自治政府発足
パプアニューギニア憲法は男女平等や女性の政治参加を掲げているが、絵に描いた餅→女性議員は数えるほどしかいない

427修都:2023/07/30(日) 18:44:13 ID:Iwso9WKY
桑原牧子「フランス領ポリネシアの歴史」
1767年、サミュエル・ウォリス船長のドルフィン号が西洋船として初めてタヒチ島を訪れた→イギリスの占領を宣言
→1768年、ブーガンヴィルがタヒチ島に訪れる→ウォリスのことを知らず、フランスが占領したと信じた
1788年、バウンティ号がタヒチ島に到着→船員の多くは島の女性たちと性関係を持った→89年、島を出発すると船員が叛乱→船員たちは島に滞留した
→首長トゥは船員を味方につけ義兄との戦いに勝利→ポマレと改名して王朝を樹立→船員の叛乱はタヒチ島への楽園幻想を西洋社会に広めた
ポマレ2世は宣教師団を全面的に支援した→島民は疫病や死傷に対してオロ信仰が無力であると疑念を抱き始めておりキリスト教を信仰する人々が現れる
1815年、反キリスト教を掲げてポマレ2世に対抗する首長オプハラがキリスト教礼拝の現場を攻撃→ポマレ2世は勝利を収め、全島を支配する
→キリスト教への改宗が進むなかで、伝統信仰は異教徒の信仰となっていく→1836年、フランス人カトリック宣教師が上陸
→女王ポマレ4世助言者のイギリス人プロテスタント宣教師はカトリック宣教師らを追放する→1838年、フランスはカトリック宣教師追放の賠償請求を行う
→女王は賠償に応じるが、イギリスはカトリックの締め出しを強化→フランスは女王不在時に他の首長たちに保護領化同意の署名をさせ、女王にタヒチ島をフランス保護領とする条約を締結させた
→ポマレ4世は逃亡。1844年、ポマレ王朝を支持する首長たちがフランスに反発、フランコ・タヒチ戦争勃発→1847年、フランス勝利→ポマレ4世はタヒチに戻り、77年に死ぬまで政権掌握
→保護領ではポマレ王朝とフランス人総督による執政が併存→ポマレ5世は80年、主権をフランスへ譲渡→第二次大戦後、海外領土となり、住民にフランス国籍が与えられる
20世紀後半、ポリネシア人による植民地統治への抵抗が起こったが、1958年、国民投票が実施され、フランス残留支持率が64%だった
アルジェリアが独立するとフランスの核実験地はアルジェリアからツアモツ諸島となった→核実験は1992年まで行われたが95年に再開決定されると暴動まで勃発した。96年までに193回の核実験

428修都:2023/07/31(月) 19:56:38 ID:Iwso9WKY
丹羽典生「民族の対立と統合への可能性からみたフィジーの20世紀の歴史」
1874年、フィジーは大英帝国の植民地となる→先住系首長13人が、イギリスへ主権を受け渡す方式で植民地化
→プランテーションでの雇用の中心は契約労働者で、太平洋諸国からの移民労働者は賃金が上昇していた→インド人契約移民労働者導入
1910年代、先住系からもインド系からも反植民地主義的な運動。この頃は両者の連帯は無い→1959年のストライキではじめて先住系とインド系が連携した
1970年、フィジーは独立。1987年、フィジー労働党・国民連合党(インド系)が連携し、独立以降フィジーを牽引してきた同盟党(先住系)に選挙で勝利
→首相は先住系、閣僚の半数が先住系だったが、先住系の人々から警戒された→軍隊がクーデタ→インド系宗教施設の破壊など、民族対立の感情が衆目にさらされた
→このクーデタをきっかけとして、現在に至るまで政治的混乱が絶えない

429修都:2023/08/01(火) 19:55:02 ID:Iwso9WKY
石森大知「ソロモン諸島史にみる社会運動の系譜」
イギリスがソロモン諸島の全領土を保護領としたのは1899年。1910年代までには、イギリスの武装警官らによって集団的な武力衝突は影を潜める
1920年代、植民地政府が統制を強め、数々の武力闘争が発生する→30年代になると、非暴力的な手段となっていく
第二次世界大戦では、ソロモン諸島民は関係のない戦争に苦しめられた→ガダルカナル島では、病気や飢餓で14%の住民人口が失われた
ソロモン諸島民は、アメリカ軍が運んできた大量の物資に圧倒され、分け与えられるものを喜んで受け取った→イギリス人とは違い、アメリカ人とはいい関係を作れた
→戦後、戻ってきたイギリス人はアメリカ軍がもたらした物資を没収する
西ソロモン行政区での反植民地主義的な運動は、反政府というよりも反教会だった。西ソロモンでは、教会が交易者および政府に代わる存在だった
イギリスは経済的利益をもたらさないソロモン諸島の早期の独立を望んだ→独立は与えられたものだった→1978年、ソロモン諸島はエリザベス2世を国家元首とする立憲君主制国家として独立
ソロモン諸島では、1998年末からの民族紛争を契機として各州で州政府への移行および分離独立を求める機運が高まっており、現在に至っている

430修都:2023/08/02(水) 19:34:45 ID:Iwso9WKY
今泉裕美子「太平洋分割のなかの日本の南洋群島統治」
1898年の米西戦争後、スペインはグアム島をアメリカに売却、北マリアナ諸島とカロリン諸島をドイツに売却
スペインの統治はキリスト教の布教活動に重点を置いたことに比して、ドイツは産業開発に着手→日本人も生活の糧を求めて渡航し、植民地社会の一員となっている
→日本人移民たちの仕事ぶりは、仕事を奪われるのではないかとの不安を移民先の社会に生み、対日脅威論を強めることにもなる
第一次世界大戦は、日本が太平洋分割に初めて参加する機会となり、南進を実現する好機と捉えられた→日本は南洋群島の領有を強く希望した
日本の委任統治政策は、東南アジアへの経済的進出、対米軍事戦略上の要地としての活用を現地住民の福祉及発達の履行であると説明して行うもの
委任統治開始時、沖縄は困窮状況(ソテツ地獄)にあり、移民や出稼ぎを求める人々が急増していた→南洋群島は格好の移民先→現地住民が、開拓事業に従事する機会は、限定されていた
暗黙の序列:一等国民内地人、二等国民沖縄人・朝鮮人、三等国民島民→現在も、日本統治時代を経験した人びとはトーミンと呼ばれることに嫌悪感を示す
→賃金は内地、沖縄、中国人、チャモロの順に低い
現地住民は、成績優秀者の中のごく僅かに認められた児童のみが小学校での就学を許された

431修都:2023/08/03(木) 19:50:52 ID:Iwso9WKY
石原俊「小笠原諸島史」
小笠原群島の発見に関する最古の記録は、1670年→徳川幕府は1675年、探検家の島谷市左衛門を派遣
硫黄列島の発見は、1543年のスペイン。北硫黄島には、紀元前1世紀から紀元後1世紀頃にかけて定住者がいた
1830年、シチリア島出身とされるマテオ・マッツァーロがハワイ・駐ホノルル英国領事から支援を引き出して約25人の移民団を組織し、小笠原群島に渡航
→小笠原群島には、入植者・寄港者・逃亡者・漂流者・掠奪者がいた
ペリーは1853年、小笠原群島の領有宣言をしている→英国からの強い抗議と米本国での政権交代で白紙
→日本は1862年、咸臨丸を小笠原群島に派遣→父島に幕府の役所を設置し、統治業務を開始→英仏との軍事的緊張から1863年、官吏と入植者を引き揚げさせる
1875年、明治政府は官吏団を小笠原群島に派遣→先住者に服従を求め、外国からの移住を禁じた。先住者は1882年までに日本国民に編入→扱いは帰化人
先住者は経済的に豊かであったが、1911年、世界初の本格的な野生生物保護条約でラッコとオットセイの海上捕獲全面禁止、第一次大戦後の米国との軍事的緊張
→1920年代には、先住者の子孫の多くが貧困層に転落
硫黄列島は1887年、巡航団が派遣され、91年、領有宣言→硫黄の採掘事業が行き詰まると、糖業が主産業に。開拓農民の大多数は小作人
→1920年代半ば、糖業危機が起こると、コカの生産地となり、コカインも精製された。コカインは、インドの闇市場やナチスドイツにも密輸された
1920年代、日本は父島に米国を仮想敵国とする要塞建設→帰化人と呼ばれた人びとは、潜在的スパイとみなされた
1944年、小笠原群島で本格的な島民疎開開始→先住者系島民は疎開先の本土でも潜在的スパイとみなされ、地域住民から暴力を受けることもあった
一方で、16歳から59歳までの小笠原群島・硫黄島民男性は軍属として徴用された。地上戦に動員された103人の硫黄島民のうち、生存者は10人
戦後、小笠原群島・硫黄列島には島民も日本軍関係者もいない状態になった→1946年、日本併合以前から小笠原群島に居住していた先住者の子孫に限り、再居住が許可された
1968年、小笠原群島・硫黄列島を含む南方諸島の施政権が日本に返還された。本土系島民にも居住が認められた
硫黄島は海上自衛隊の駐屯が始まり、硫黄列島のインフラ整備を行わないことで民間人の再居住を事実上阻んだ
硫黄列島民は、約80年にわたって全島民が帰還を認められないという状況に置かれ続けている

432修都:2023/09/02(土) 17:00:37 ID:Wvozer8s
踊共二「宗教改革とカトリック改革」
ルターは「信仰のみ」。カトリック教会は人間の主体的な意思や努力を強調する。ルターの宗教改革は体制的に新しかった→ザクセン選帝侯が改革を支持し、新しい教会創始を認めた
ドイツ語圏スイスではルター主義とは異なる宗教改革が進展(改革派)。ツヴィングリが指導者→信仰によって個人の生活と社会のあり方が変わる
ルターが死去した年の1544年、神聖ローマ皇帝カール5世はプロテスタント諸侯に攻撃→皇帝側の勝利→協議も礼拝も再カトリック化しなければならなくなった
→1555年、カール5世弟フェルディナントはプロテスタント諸侯の抑圧は難しいと考え、アウクスブルク宗教平和令公布→諸侯にカトリックかルター派か選択を許す
ルター派の重心はドイツ諸領邦と北欧でローカルな性格が濃かったが、カルヴァンの改革派は国際的
カトリック改革の成功は新しい修道会や修道団体によるところが大きい→イエズス会の活動によって西欧各地で再カトリック化が成功

433修都:2023/09/03(日) 12:34:48 ID:Wvozer8s
小野塚知二「産業革命論」
産業革命はまず機械革命としてドーヴァー海峡の両岸で認識され始め、ヨーロッパ諸国、アメリカ合衆国、日本に及んだ
伝統的な再生可能エネルギーのみの状態からの大きな転換(エネルギー革命)でもある。また、原料革命でもあった→木材から鉄へ
産業革命は、欧米による世界支配の完成を意味している。産業革命とは、過去の自然と他国の自然に依存した産業社会が世界規模で確立するための長い過程
産業革命は産業による相違と地域による相違が大きいため、全産業・全地域で一斉に革命的変化が進行したということは、できない
それ以前とは断絶した技術・組織・基盤を獲得した産業と、在来の技術・組織・基盤の上に成立した産業とが併存している
産業革命によって時間規律が発生した。産業革命期までの人びとの時間はもう少し自由で、時間の進行を主体的に決定できていたが、産業革命以降、時計にしたがって生きるようになった
当初は女性と子どもが長時間労働で、近世まで続いた家庭のあり方は産業革命期に危機に瀕するが、その後、男女の分業、子どもとの関係が再編され、近代家族が生みだされる
18世紀後半から19世紀前半、イングランド食文化の伝統は途絶え、食文化を育んできた人的基盤の再生産もできなくなった
→産業革命期、もともとあった祭が楽しまれることもなくなった。利用可能なのは大量生産食材と輸入食材に限られるようになった
イギリス以外の産業革命では、これほどの変化は無く、農村と祭も維持され、食の能力は維持された

434修都:2023/09/04(月) 19:47:03 ID:Wvozer8s
松浦義弘「大西洋世界のなかのフランス革命」
フランス経済全体の中核となったのは対外貿易(植民地貿易)で、商業資本主義の発展だった→18世紀後半、民衆層へも贅沢品が普及→中間層としてのブルジョワジーの増加
印刷物の増大、識字率上昇。1720年代、パリでフリーメイソン創設→ネットワークの形成。18世紀後半の大西洋世界では印刷物や書簡が流通、地域人などが頻繁に往来した
革命前のパリでは、フランス人、ヨーロッパ諸国からの亡命者、アメリカの革命家などが交流するサークルが存在し、大胆な変革が構想された
1780年代のフランスではアメリカ革命論が共和政を争点として展開され、体制批判も出版され流通した

435修都:2023/09/05(火) 19:47:18 ID:Wvozer8s
小山啓子「ルネサンス期の文化と国家」
ルネサンスは商業活動や戦争等を介してヨーロッパ諸地域に広まり、影響を与えていった→イタリアの文化はそのまま輸入されたのではなく、土地の風土や価値にあわせて修正・再構築された
ルネサンスという16世紀の文芸復興運動に、それまでの時代に起こった文化的な変革と異なる要素があったとするなら、それは印刷術という媒体を持っていたこと
文化の創造を支え、発展・伝播に寄与したのが宮廷→都市や農村は、財産、パトロン、政治的党派などのつながりによって、宮廷に結び付けられていた

436修都:2023/09/06(水) 19:32:16 ID:Wvozer8s
後藤はる美「ブリテン諸島における革命」
三王国(スコットランド王国、イングランド王国、アイルランド王国)は、それぞれの独立性を完全には失わない同君連合の状態に置かれ続けていた
イングランド宗教改革は上からだったが、スコットランドの宗教改革はそうではなかった。植民地状態に置かれていたアイルランドでは、人口の大半が根強くカトリック教会を信奉した
チャールズ1世は三王国の統合を推進した→三王国戦争。1637年、イングランド国教会のやり方に抵抗したスコットランドの反乱から始まる→スコットランドの勝利
1641年、スコットランドの勝利に刺激されたアイルランドのカトリックが蜂起→軍隊指揮権をめぐり、イングランド内戦
→チャールズ1世のたび重なる裏切り行為にイングランド軍は共和国を宣言→イングランドで王は処刑された→スコットランドは王の遺児チャールズの即位を宣言
→イングランドのクロムウェルの征服
説示→イングランドは契約王政。王は統治を委託されたにすぎず、内戦開始時点でチャールズは王の政治的身体から去っていた

437修都:2023/09/07(木) 18:54:34 ID:Wvozer8s
豊川浩一「ロシアの「大航海時代」と日本」
ロシアのシベリア進出は11世紀以来の植民運動に始まり、本格的な領土拡張は16世紀の軍事植民
アジアと北アメリカは陸続きであるか、皇帝ピョートルはその答えを見出そうとし、18世紀ロシアの探検が始まる。ロシア帝国はウラル以東をアジアとして征服し植民することになった
1739年、ロシア船が初めて日本の沿岸に現れ、仙台藩領に上陸した。同年、安房国の沖合(現在の千葉県鴨川市)にもロシア船が停泊、上陸
極東の行政役人は首都と密に連絡を取りながら日本と丁寧な交渉を行っていた

438修都:2023/09/08(金) 19:22:36 ID:Wvozer8s
弓削尚子「啓蒙主義とジェンダー」
18世紀、スコットランド啓蒙主義のヒュームの議論において、共感は女性や異教徒、世界の諸民族へ向けられることはなかった
モンテスキューは、ムスリム男性にはリスペクトの姿勢を示したが、女性は不貞な存在で、男性の監視が必要だとしていた
フランス革命期の国民議会では女性の権利をめぐる議論は争点にならず、政治的支持組織もなかった
女性がフランス革命から獲得したのは、夫婦の平等な財産管理権および親権などの一部保障だったが、政治的権利は認められなかった
→ジャコバン派は、女性の政治結社を禁じ、政治的論陣を張った女性たちを徹底的に取り締まり、女性の権利を唱えたグージュは処刑された
→1804年、ナポレオン法典では、女性の諸権利は制限され、女性は男性の権利に従属させられた

439修都:2023/09/12(火) 20:02:46 ID:Wvozer8s
中野勝郎「アメリカ独立」
フレンチ・インディアン戦争後、自治に委ねられていたアメリカ植民地は、ブリテンの直接的な統治におかれた→植民地の反発
帝国内の反乱を国家間の戦争に転じるためには、国際社会から認められる政治体、国家を創設しなければならなかった→アメリカの植民地は独立を宣言しなければならなかった
→1778年、米仏条約→独立した国家として事実上認定された→1783年、パリ講和条約で独立が承認される
→諸邦連合は独立反対派やブリテンの商人に対して財産、債権の返還、補償をしなければならなかったが、それができなかったためブリテン軍は駐留し続け、インディアン部族を支援
→スペインは西フロリダの領有権を主張、西部地域が諸邦連合から離反。フランスも、アメリカの農産物を大量に輸入することはなかった
1787年、連邦憲法→連邦共和国建設。主権を有する諸邦の連合国家。人びとの間にブリテン人という意識は消えていったが、アメリカ人という意識は生まれていない
1794年、ジェイ条約でブリテンは駐留軍を引き揚げた。1795年、サン・ロレンツォ条約でスペインとの国境線を明確化。1803年、フランスからルイジアナを購入し、領土はほぼ倍増
1831年、最高裁で、諸邦連合が先住諸部族の居住地を事実上の植民地とすることが認められる
ブリテンが勢力均衡を主導し、綿花の市場となったから諸邦連合は拡大することができた→発展は、ブリテンの現実政治により可能になった
むしろ発展を阻むのは、産業社会化している北部だった→諸邦連合内の北部と南部の異なる体制の対立→南北戦争を契機に、国民国家化が進んでいく

440修都:2023/09/13(水) 19:16:39 ID:Wvozer8s
小俣ラポー日登美「17-18世紀ヨーロッパにおける日本情報と日本のイメージ」
ルネサンス期にいたるまで、ヨーロッパに存在した世界観の中では、アフリカ大陸の未知の部分、極東地域までもがインドであった
→日本が地図上の実態として認識されるようになったのは、イエズス会の宣教師が来日した後の1550年代以降
日本への宣教が積極的に展開されていた時期の刊行物は、日本人を好意的に語り、知的好奇心が強い、礼儀正しい、侮辱を我慢できないという日本人像はその後にも継承された
1717年、ケンペルの『日本誌』はザビエル以降のポジティヴな日本観の到達点で、ヨーロッパに劣らない日本像が普及した
一方で、過去の宣教師の情報に基づき刊行され続けた殉教伝的性格の強い布教史(キリスト教徒への磔刑、拷問)は、日本の為政者の残虐さを印象づけていた
→モンテスキューは専制主義の国の代表として日本を非難→マルクスのアジア的専制に連なっていく
『ロビンソン・クルーソー漂流記』では日本が残酷な土地して言及され、『ガリヴァー旅行記』では日本の踏み絵が登場する

441修都:2023/09/18(月) 18:49:31 ID:Wvozer8s
芝崎祐典「冷戦と地球規模環境問題」
国境を越えた環境意識の萌芽が最初に見られたのが、核実験反対運動→開発過程で環境へ過大な負荷をもたらすという有害性に注目が集まった
→反核運動は1964年前後から求心力が失われる→1963年の部分的核実験禁止条約で一つの節目。国際社会の最大の関心事はベトナム戦争に集中する
ベトナムの環境は、戦争によって激しい破壊に直面した。ベトナム反戦を含む60年代の社会運動は急進化し、70年代に入るころには広範な運動としてのダイナミズムはほぼ消滅した
→しかし環境意識は次の時代にも受け継がれた。日本が公害防止を公的な関与を法で規定したことは、国際的に見ても早い動きであった
60年代の急速な経済発展は、因果が環境破壊として姿を現すことになり、環境に対する意識の水準を上昇させる契機となった→後押ししたのは60年代の社会運動
→一方で、環境問題に対して異議申し立てをすることは、特殊な勢力による特殊な行為という見方が根強かった
地球の有限性に意識が向かうようになったのは1960年代末頃から→1972年、国連人間環境会議→環境問題への対処は地球的広がりを持たねばならないと公式文書に記された
70年代以降、環境意識は一般市民の関心対象となりうる問題へと移行していく→西ドイツで緑の党の支持が拡大する可能性→既存政党は環境問題も取り込まざるを得なくなった
→西ドイツが環境問題について積極姿勢に転じたことで国際協調の動きがヨーロッパ地域において姿を現す。ただし英米は積極的ではない
1980年のアメリカ大統領カーターは環境諮問委員会がまとめた報告書を出した→その年の大統領選でレーガンに替わり、逆に環境規制は緩和されていった
フロンガス問題について各国の政治指導者たちが理解を示した点は、環境問題においてこれまでにない新しい動きだった→世界が協力して化学物質を排除したのは人類初の試み

442修都:2023/09/19(火) 19:47:16 ID:Wvozer8s
齋藤嘉臣「冷戦と東西文化外交」
東西間の文化交流が本格的に始動する契機となったのは、1953年スターリンの死去と、その後のソ連による文化攻勢
アメリカは政府主体の文化外交には積極的ではなかったが、50年代半ばまでに東西交流がソ連における個人の自由や福祉、安全を求める圧力を下から高めることになるとの期待をもった
日本は米ソ文化冷戦の最前線でもあった→アメリカは日本でのソ連文化攻勢に焦り。アメリカからも音楽家やバレエ団が送り込まれる
グローバルに芸術家を派遣し続けたソ連の文化攻勢は60年までに多くの実績を残した。ただ、その文化外交は芸術家が西側文化に魅了される危険と隣り合わせであった
アメリカがクラシック音楽家や楽団を最も多く派遣したのはヨーロッパだったが、ジャズ音楽家の主な派遣先はアジアやアフリカだった
→ジャズの人種混成バンドにはアメリカの人種関係が改善しつつあることを訴える役割が期待された
→しかし、アメリカにおけるジャズや黒人の社会的地位は低いままであり、ジャズ音楽家らは時に憤りを示していた
60年代よりソ連・東欧ではジャズの現地化が進み、脱アメリカ化が進んだ→国家主導の文化外交はメッセージがそのまま受容されるのではなく、受容者側で再解釈される
ソ連が文化外交で重視したのはクラシック音楽とバレエ→バレエについては東西バレエ観の相違が表出→西側からは保守性を批判される
バレエ外交では、ソ連の社会主義リアリズム対アメリカのモダニズムの争いが時に前景化した→ソ連ではアメリカバレエ団の「若さ」が指摘された

443修都:2023/09/20(水) 20:02:48 ID:Wvozer8s
小沢弘明「グローバリゼーションと新自由主義」
1970年前後の世界は、経済成長の黄金時代が終焉していく過程にあった→決定的だったのが73年10月のオイルショック→世界経済は不況とインフレが同時進行(スタグフレーション)
→福祉国家(社会的自由主義)の再分配政策の危機→70年代までに経済学の主流派は新自由主義→80年前後、英米は福祉国家から政策転換
85年には世界銀行が政策を転換させ、第三世界における国営企業の私有化、労働市場の自由化、福祉国家の縮減を融資の前提条件とした→グローバリゼーション政策の始まり
ニュージーランドの新自由主義化はケインズ主義的介入国家の政策を完全に放棄するもので、モデルとして各国から参照される
中国やベトナムの市場社会主義は、自由主義ではない政治体制と新自由主義は両立すること、国家は新自由主義の制度化・安定化権力として機能していることを示している
東欧の体制転換も新自由主義革命的。南アフリカではアパルトヘイト転換後、新自由主義アパルトヘイトが取って代わった
新自由主義は90年代前半には世界体制となった

444修都:2023/09/21(木) 19:57:30 ID:Wvozer8s
松井康浩「ソ連の異論派と西側市民の協働」
1968年、モスクワ赤の広場でチェコスロヴァキア侵攻に抗議したソ連市民の行動→ソ連も世界を席巻した社会運動の渦中にあった
1965年から人権の擁護を掲げた異論派と呼称される集団が、モスクワを中心に出現しはじめていた
ゲルツェン財団から出版された『時事日誌』はソ連の人権侵害情報を広め、ソ連国内に加え西側の政界、メディア、世論に働きかけた
人権擁護を貫いたモスクワの運動とそれを支えた西側市民の事業は、1970年代に活発化したが、80年代初頭に終焉を迎えた
→異論派はソ連の大衆の中に影響を持ち得なかった、代わってナショナリズム「ロシア・ファースト」がソ連で顕著になった

445修都:2023/09/24(日) 19:16:35 ID:Wvozer8s
福田宏「東欧のロック音楽と民主主義」
68年頃には長髪族やロック文化は東欧でも珍しいものではなくなっていたが、地方では70年代に入ってからも一定のアレルギーが見られた
チェコスロヴァキアのバンドPPU(プラスチック・ピープル・オブ・ジ・ユニヴァース)のイロウスには、ロックによって正面から体制に抵抗するという意図はうかがえない
76年3月16日PPUなどのメンバー19名が逮捕された→この後の裁判が体制に批判的な人びとを集結させる役割を果たし、出会いの場となる
同年12月、人権規約の遵守をチェコスロヴァキア政府に要求する憲章七七が公表される→国営テレビ局はミュージシャンを攻撃する番組を繰り返し放送、彼らは放蕩の限りを尽くしていると説明
→憲章七七のきっかけを作ったロックバンドという位置づけにPPUはなるが、明確な政治的メッセージを含む曲は作品にはほとんど見られない

446修都:2023/09/25(月) 19:59:14 ID:Wvozer8s
原山浩介「日本経済」
洗濯機・冷蔵庫・テレビは1973年までに90%の普及率に達した。91年になると、自動車は79.5%、エアコンは68.1%、電子レンジは75.6%、ビデオデッキは71.5%
→物質面での生活様式の骨格が広く浸透するのは、実際には概ね90年頃。農村と都市両方でハイペースで耐久消費財が普及した日本はグローバルにみれば特殊例
60年代末から70年代にかけて、均質・平等な消費社会像は揺らいでいる→公害への恐れや怯え、食への不安感→物質的な豊かさを求め続けたことへの反省
86年末からの急激な地価の上昇で、マイホームの購入を諦めざるを得なくなる人が大都市を中心に出てきた→リゾートマンションブーム。各地でリゾート開発
→不動産購入・売却できる者とできない者の格差が歴然と開く。80年代半ばにかけて、東南アジア出身の女性たちが繁華街などで増えていき男性外国人労働者も増えていく
→外国人労働者は円高の進行によって日本で稼ぐことが有利になったこと、バブル期の人手不足が呼び水になった
経済大国という自画像を追い風にしながら、共生・多様性が模索され、諸問題を克服していかねばならないとする言説が示されていく
経済大国となった日本に対して、市場開放を求める外圧が強まる→トイザらスの日本への出店は、象徴的だった

447修都:2023/09/26(火) 21:00:54 ID:Wvozer8s
高木佑輔「アジア新興諸国の発展」
新興国に定義はないが、高い経済成長率、世界経済への影響、リスクに対する関心は共通している
アジア新興国の李承晩、スカルノ、ホー・チ・ミンなどの指導者は戦争指導者の顔を持ち、祖国統一や独立が政治課題であった。特に韓国と台湾は、米国からの援助の維持に関心が集中
植民地経済の主役は宗主国資本であったので、独立直後の政府は外来者の所有が多かった民間資本の国有化と輸入代替工業化政策を進めた→多くの国は国際収支危機や過度なインフレ
→独立直後の指導者が退くと、新たな指導者の下で生産性の政治が広まる→経済成長によって階級対立などを相対化する→日本、韓国、台湾は政府主導で産業政策
製品を製造するための企業内貿易や産業内貿易が増加した結果、アジア諸国の貿易相手がアジア諸国という現象が生じた
→円高の結果、経済特区を整備し、政情も安定していたタイ、マレーシア、インドネシアなどへの投資が加速したから→最終財は米国市場が主な輸出先
97年のアジア通貨危機は、東南アジア諸国と北東アジア三ヶ国との結びつきを強めた。通貨危機後、タイ、インドネシア、フィリピンでは有力な経済閣僚は政権交代が起きても残留・再任された
新興国化に伴い、アジア諸国は都市中心の社会に変貌した。2015年の東南アジアの都市人口比率は56.5%。タイもインドネシアも高位中所得国であるが、首都圏は高所得国化している
計算では、2030年にはASEANの中間層は51%に達し、中間層が人口の多数を占めることになる。逆に、アメリカ、EU、日本は中間層が減少する

448修都:2023/09/27(水) 20:04:14 ID:Wvozer8s
丸川知雄「中国の変貌と大国への道」
1972年、ニクソン大統領訪中、日本や西ドイツなどと国交回復→中国は戦争準備に傾斜していた投資の方針を、国民生活の向上を目指す方向へ転換しようとする
78年、西側先進諸国からの設備導入によって大規模工場を全国に築き上げるという計画→期待したのは日本
→日本の企業と契約を行うが支払い困難に陥り、79年、契約を見合わせようとする→日本政府も巻き込んで中国のキャンセルを思いとどまらせた
90年代末には委託加工が輸出産業で主流となる→外国企業が材料を提供して製品を外国企業が引き取る→委託加工工場は民主化も経済制裁もどこ吹く風だった
78年から85年までの時期に目覚ましい成功を見せたのが農業と農村の改革→集団農業をやめて戸別経営を導入。一人当たり農業生産は77年を100とすると85年は165となった
戸別経営は国家に対する食糧売却義務を果たせば、生産した作物は自由に処分できる→83年にはほとんどの農村で戸別経営が採用された
戸別形成に先行する生産請負制(集団の農地を農家に分けて、ノルマを超えて生産した農作物は請け負った農家に多く配分する)は鄧小平、趙紫陽、胡耀邦らによって推進された
→生産請負制も戸別経営も資本主義だという批判があったが、82年には生産請負制も戸別経営も社会主義の集団経済に属すると規定された
78年頃から従業員が7名以下の民間企業は個人経営として認められるようになる→中国経済を牽引する企業も生まれる

449修都:2023/09/28(木) 19:20:25 ID:Wvozer8s
藤永康政「ブラック・パワーとリベラリズムの相剋」
1930年代のニューディール労働政策は、急進的な労働組合の興隆を助けた→しかし労働組合は白人性を確証し他者を排斥する組織であり、黒人の不信感は強かった
デトロイト郊外のフォード自動車は黒人労働者を組合運動の防波堤としていた。デトロイトの黒人成年男子の半数以上がフォードと何らかの労使関係を持っていた
UAW(統一自動車労働組合)には新たな黒人指導層(ホレス・ホワイト、チャールズ・ヒルなど)がおり、彼らはフォードから金銭の提供を受けている黒人指導者たちを批判した
1941年4月のフォード車工場でのストライキでは黒人労働者約2000名がスト参加を拒否→ヒルが説得
デトロイトが白人住宅地が多い地区の隣接地に200戸の黒人向け住宅建設計画発表→UAWには黒人と居住地を共有したくない者もいたが、黒人入居を支持した
→開明的な労働組合と黒人自由闘争の共闘の成立→しかし1943年6月20日流言がきっかけとなって約1万人の白人と数千人の黒人がダウンタウンで激突→死者34名
→逮捕者の85%、死者の25名が黒人、そのうち17名の死には警官が関与→UAWは黒人市民側だった
UWA右派の労働運動家(ウォルター・リューサー)にとって、急進的なことが組合の外から持ち込まれることは大問題だった
→46年UWA会長となったリューサーは左派を追放→黒人労働者の同盟者が失われた。60年代、黒人自由闘争が急進化していくとUAWと黒人労働者の対立が増えていく
57年にデトロイトで結成されたTULC(労働組合指導者会議)は61年のデトロイト市長選でUAW幹部に逆らって対立候補を支援→黒人有権者から支持を受けた候補が当選
63年、デトロイトで自由への行進という大集会が企画されると新世代の黒人たちは運動が黒人だけのものになることを強く要求→10万人ともいわれる黒人がダウンタウンを行進
60年代後半の黒人運動は、自らを第三世界の労働者としている。LRUW(革命的労働者組合連盟)の黒人労働者にとって、UAW幹部は労働貴族だった
→UAWにしてみればLRUWの主張は黒人の利害だけに関心を持つもの

450修都:2023/09/29(金) 19:40:49 ID:Wvozer8s
佐藤千登勢「福祉国家とジェンダー」
戦後の世界的なベビーブーム→核家族が標準家庭とされ、男性稼ぎ主モデルが定着した。50年代末に就労していた既婚女性の割合はイギリス、ドイツ、アメリカいずれも30%程度
欧米諸国で形成された社会保障制度は、男性稼ぎ主モデルを確立した→被扶養配偶者に関する規定→被扶養者でない女性は経済的な困難に見舞われる可能性が高い
ケインズ主義的福祉国家は経済成長によって労働力が不足するようになり、女性の就労を促すという側面があった
→70年代には、世界的に景気が後退し、男性労働者の失業も増えたため、働く女性の数は増え続け、男性稼ぎ主モデルは変化を余儀なくされる
女性は非正規雇用が圧倒的多数を占め、家庭では無償労働の大半を担うことが当然とされた→新自由主義が台頭すると、家族の価値という保守的な道徳観も復活する
スウェーデンは90年代までに最も共働き家族モデルへと移行した。フランスとドイツは子どもを持つ家庭への支援は進んだが、男性稼ぎ主モデルが部分的に修正されただけだった
イギリスとアメリカは社会福祉の受給資格が厳格化されたが、アメリカでは家族・児童手当が存在しないのに対し、イギリスは子どものいる家庭への経済支援が重視されている

451修都:2023/10/01(日) 12:58:32 ID:Wvozer8s
森本あんり「宗教と現代政治」
1979年イランでのイスラム革命。アメリカでは77年に福音派のカーター大統領登場→20世紀の終わりが近づくにつれて世界各地で宗教と政治の連関を示す出来事が起こる
民主主義の前進は、キリスト教右派、ヒンドゥー至上主義、イスラム主義などが勢力を獲得する格好の手段となった
20世紀後半以降、先進工業国では脱工業化社会→宗教は存在意義を増すようになった。21世紀、世界の宗教人口は増加することが予想されている
アメリカのイラン観では、民主国家には起こるはずのなかった革命がイスラム革命だった→宗教の影響力を軽視していた
後進国の第一世代の指導者が退くと、混乱と空白の中で、伝統的な宗教が復権し、政治的な舞台へ再進出する→西洋の後追いの結果は、抑圧と不平等と紛争だった
九・一一テロの実行犯の多くは上中流階層の出身だった→西洋の民主主義と資本主義でテロをなくすという指摘は説得的ではない
イスラム世界には、国家や国籍や国境という概念は希薄。アメリカは宗教的熱狂は歴史的進歩への反動と西洋的な無理解を示している

452修都:2023/10/01(日) 12:59:15 ID:Wvozer8s
森本あんり「宗教と現代政治」
1979年イランでのイスラム革命。アメリカでは77年に福音派のカーター大統領登場→20世紀の終わりが近づくにつれて世界各地で宗教と政治の連関を示す出来事が起こる
民主主義の前進は、キリスト教右派、ヒンドゥー至上主義、イスラム主義などが勢力を獲得する格好の手段となった
20世紀後半以降、先進工業国では脱工業化社会→宗教は存在意義を増すようになった。21世紀、世界の宗教人口は増加することが予想されている
アメリカのイラン観では、民主国家には起こるはずのなかった革命がイスラム革命だった→宗教の影響力を軽視していた
後進国の第一世代の指導者が退くと、混乱と空白の中で、伝統的な宗教が復権し、政治的な舞台へ再進出する→西洋の後追いの結果は、抑圧と不平等と紛争だった
九・一一テロの実行犯の多くは上中流階層の出身だった→西洋の民主主義と資本主義でテロをなくすという指摘は説得的ではない
イスラム世界には、国家や国籍や国境という概念は希薄。アメリカは宗教的熱狂は歴史的進歩への反動と西洋的な無理解を示している

453修都:2023/10/07(土) 17:01:07 ID:Wvozer8s
青野利彦「国際関係史としての冷戦史」
戦後構想の相違はあったものの、戦後一定の時期まで米英ソには互いに強調する用意があった→相違が明らかになりはじめたのはドイツ降伏の頃→ソ連はドイツの弱体化を目指していた
47年6月マーシャル・プラン→米国は対ソ協調を放棄して、英仏と共にドイツ・欧州を経済復興させる計画→スターリンは提案を拒絶し、東欧諸国にも参加を禁じる
50年代前半までに米ソは多くの国々と同盟を形成していった。西欧諸国は主体的に米国を招き入れる努力を行った。東欧はソ連によって支配体制が強制された側面が強い
→スターリンが死ぬと、ソ連は東欧諸国に政治的抑圧の緩和と生活水準向上を命じた。56年、フルシチョフがスターリン批判
→ハンガリーで反政府暴動が起きるとソ連は軍事介入。ソ連は東欧における同盟の揺らぎを繰り返し軍事的に押さえつける
戦後の脱植民地化に米ソは、支援する側に軍事・経済的支援を与えたり、秘密作戦を実施したりする形で介入した
ベトナムとインドネシアは独立戦争で米国に支援を求めたが米国は応じなかった→ベトナムのホー・チ・ミンは中ソに接近。インドネシアのスカルノは反共主義者だと米国に示す
エジプトのナーセルは非同盟主義で米ソ対立を利用
50年代中ごろから核戦争防止の観点からデタントを模索するようになる→現状を固定化、安定化する
英外交は固定化・安定化志向だったが、60年代半ば以降、欧州冷戦を終わらせるビジョンでデタントを追求したのがド・ゴール仏大統領
デタントはニクソン政権で新局面→ソ連をデタントへ誘導するために中国を利用する→ニクソン訪中と訪ソ→ブレジネフ訪米
米ソ関係は79年12月のソ連のアフガニスタン侵攻で決定的に悪化した→この時期の米国を牽引したのが反ソ強硬派のレーガン
85年にゴルバチョフが書記長に就任すると米ソ関係は大きく変化する→レーガンとゴルバチョフは互いに訪米・訪ソする
東欧の社会変動にゴルバチョフのソ連は不介入だった→東欧はソ連にとって負債となっていた

454修都:2023/10/09(月) 17:03:38 ID:Wvozer8s
難波ちづる「脱植民地化のアポリア」
第一次世界大戦で文明を体現するヨーロッパで悲惨な戦闘が繰り広げられたことはヨーロッパの威信に打撃をもたらした
また、戦争協力を求めた植民地住民に与えられた見返りは、期待とは大きく乖離していた。戦後にウィルソンが示した民族自決の概念もヨーロッパに限定されていた
第二次世界大戦で日本の攻撃によって宗主国が不在となると、民族主義者達が活動を活発化させた。一方でフランスは植民地改革は決定したが、自治の可能性は否定した
戦後、オランダとフランスは不在の間に奪われたアジアの重要拠点を手放すわけにはいかなかった→現地住民にとって、宗主国の復帰は受け入れがたい
1947年、スカルノが共産主義運動を弾圧するとアメリカはオランダ政府へ圧力を強め、スカルノへの政権譲渡を働きかけた→49年インドネシア連邦共和国成立
インドシナではフランスが敗北し撤退したが、共産化を阻止するため、アメリカがその戦争を引き継ぐことになる。アメリカの優先事項は共産主義国家誕生阻止
インドではイギリスはもはや抵抗運動を阻止できるだけの軍事力は無かった。経済的にもインドは不可欠な存在ではなくなっていた
インドでもパレスチナでもイギリスは宗教対立に巻き込まれることを恐れ、撤退する
50年代半ばまでヨーロッパ経済復興のための植民地開発が続く(第二次植民地占領)→重視されたのはアフリカ
→戦後の一定期間、植民地は西ヨーロッパの経済復興に貢献したが、長くは続かなかった。アフリカにおける急激な経済開発はインフレを引き起こした
フランス連合への参加を拒否したチュニジアとモロッコでは反仏運動が盛んとなり56年に独立。アルジェリアには約100万のヨーロッパ系住民が住んでいたが、大半が短期間でフランスに退去した
→フランス側についたアルジェリア人は、退去したヨーロッパ系住民以上にフランスでは差別され、アルジェリアに残された多くが虐殺された
1956年スエズ戦争は、アメリカからの強い圧力もあり、英仏はエジプトから撤退した→帝国主義的介入は国際的支持がえられない
イギリスは植民地を直接支配するより、旧植民地と友好関係を維持するメリットの方が大きいとした→イギリスのアフリカ撤退。フランスもアフリカ植民地は利益をもたらさないとして撤退
→ド・ゴールの思惑はアフリカに多数の小国を誕生させ、それぞれと結びつきを強化し、軍事や財政の実権を維持すること→実際に成功している
長期独裁政権が続いていたポルトガルの植民地独立は70年代をまたなくてはならなかった→民主化が達成されるとアフリカから素早く撤退
アフリカに新たに誕生した国民国家は、あらゆる差異を架空の共同体のなかに押し込め、時に強引な統治を行い、内戦や民族浄化につながった
国を独立に導いたという正統性を盾に、政権をとった立役者たちは、しばしば単一政党・長期政権によって、権威主義的な体制をしいた
→独立後の新たな国家は、国民国家という制度だけでなく、軍や非民主的な統治制度、植民地主義そのものをも踏襲した

455修都:2023/10/10(火) 19:47:31 ID:Wvozer8s
川嶋周一「地域統合の進展」
1949年成立した欧州審議会(CE)は史上初めて成立した欧州共同体→政府間協議の場に過ぎず、統合の中心とはならない
50年仏外相シューマンによるシューマン・プラン→独仏の石炭鉄鋼資源共同管理→伊ベネルクス3ヶ国を加えた6ヶ国で欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)成立
→50年代前半、ECSC以外の統合は失敗に終わる。欧州経済共同体(EEC)と欧州原子力共同体(ユートラム)が成立するのは58年
ド・ゴールはフランスにとって有利な政策は加速しつつ、加盟国の意見が反映されやすいように統合を運用しようとした→イギリスの加盟には政治的に反対
67年、ECSC、EEC、ユートラムが合併し、ECと呼ばれるようになる→EECはド・ゴールという政治家に振り回されたが、69年の退場後、統合は質的転換し始める
→イギリスの加盟が認められる。70年代に最重視されたのは通貨統合→ニクソンショックで混乱→79年に首相となったサッチャーがさらに混乱させる
86年、単一欧州議定書成立→欧州委員会委員長ジャック・ドロールが統合を牽引→サッチャーは反発するも92年、広範な政治体としてのEU成立

456修都:2023/10/11(水) 20:02:39 ID:Wvozer8s
南塚信吾「さまざまな社会主義」
スターリン型社会主義→農業集団化、重工業化、計画経済、一党制、個人崇拝など。ポーランド、チェコ、ハンガリー、ルーマニアは複数政党制で社会主義を目指した
ユーゴスラヴィアは一党制の社会主義を目指した→結果的に、スターリンと対立したユーゴ以外は、スターリン型社会主義になる。ユーゴは個人農を基礎とし、共同化を図った(自主管理社会主義)
ベトナムではスターリン型社会主義の中国的変種が定着した→中国の人民公社をモデルとする。カンボジアは王制社会主義(仏教社会主義)を目指した
インドは社会主義型社会を目指した。エジプトも社会主義を導入。中ソが対立するとモンゴルはソ連を支持した。北朝鮮は朝鮮式社会主義を目指し、主体思想を打ち出した
ラオスはソ連にならったが、カンボジアは中国にならっていた→75年にポル・ポト政権になると性急な社会主義を目指した。市場経済を否定し、貨幣を廃止した
→混乱を招き、79年にポル・ポト政権は打倒される。ビルマは、軍制の仏教社会主義であった。キューバは、ソ連と歩調を合わせた
→ラテンアメリカではペルーとチリで社会主義の試みが短期に終わり、キューバだけが残った。アラブでは、イラクとシリアがアラブ社会主義を実現しようとした
→70年に実権を握ったイラクのフセインはソ連に接近した。リビアのカッザフィーは、イスラームとアラブ民族主義と社会主義を融合した体制(ジャマーヒリーヤ)を推進した
アフリカで社会主義を本格的に取り入れたのはタンザニアが最初→中国の影響。60~70年代、東欧各国では改革が試みられたが、順調には進まなかった
→89年にはポーランド、ハンガリー、東ドイツ、チェコ、ブルガリア、ルーマニアで共産党一党制終焉→新自由主義が導入される
→ソ連・東欧で社会主義が崩壊し、途上国社会主義は終焉。91年、アフリカの社会主義が消滅。ラテンアメリカでも社会主義はほぼ消滅したがキューバは市場社会主義を維持している

457修都:2023/10/15(日) 18:03:19 ID:Wvozer8s
久保亨「中国のソ連型社会主義」
共産党政権は、社会主義に向かうのは将来の課題であると当初は言明している→1950年6月25日朝鮮戦争→10月参戦→130万人を派兵し36万人が死傷
→政治的にも経済的にも世界から孤立。西側諸国との国交樹立は困難に陥る→打開策としてソ連型社会主義をめざす路線が52年秋頃から模索され、56年1月社会主義化達成を宣言
→56年スターリン批判→中国はスターリンの貢献を評価しつつ、個人独裁を批判するという二面的な評価を行った
→ポーランドに関してはソ連の介入に異を唱える一方、ハンガリーに対するソ連の介入は支持するという微妙な立場をとった
同年、政権への批判も積極的に受け止める姿勢を示したが、批判の高まりに驚き、一転して思想統制を強化する
58年大躍進政策→無残な失敗。工業生産は低迷、大凶作。2000万人以上が飢餓や栄養失調で死亡した→60年代、ソ連の対中援助は停止→60年以降、市場経済が部分的に復活した
66年文化大革命の展開が宣言させる→全国に混乱→軍によって秩序が回復され、林彪が毛沢東の後継者に指名されたが、文革派によって71年失脚させられる
72年ニクソンが訪中、毛沢東、周恩来らと会談した。76年周恩来が死去すると、周恩来を追悼する形で文革派批判が広がる。同年、毛沢東も死去→文革派は逮捕される
→鄧小平が実権を握り、ソ連型社会主義からの離脱を開始する。ただし、鄧は政治改革の流れは押しとどめている
84年までに全国の農家の96%が小農経営に戻り、集団農業は解体された→市場経済が展開され、豊かになる者が生まれたが、物価高に追いつかない都市住民に不満が鬱積していた
89年胡耀邦前総書記が死去すると、追悼しながらデモ行進が始まった→100万人を超えるデモが行われるようになっていく→戒厳令が北京に施行され、軍によって鎮圧される(天安門事件)
→中国は国際的に孤立→社会主義市場経済の発展を目標とするようになる

458修都:2023/10/16(月) 19:31:04 ID:Wvozer8s
砂野幸稔「アフリカ諸国の「独立」とアフリカ人エリート」
アフリカのナショナリズムを主導したのは、ヨーロッパ語などを学び、西欧型の近代主義を身につけたアフリカ人エリートたちだった→人種的ナショナリズム
植民地体制の中ですでに一定の位置を占めていたアフリカ人エリートは、独立後、植民地宗主国との政治的関係を大きく変えることはなかった
ガーナのクワメ・ンクルマはアフリカ合衆国を目指したが、大多数のアフリカ人エリートは、自らの地域での政治権力獲得に関心があった
選挙を通じて植民地後継国家の政権が成立した国々では、多くが複数政党制をとっていたが、70年代には大多数の国が独裁の体制に移行した→統合ではなく、権威主義と抑圧が選択された
サハラ以南のアフリカでは、ほとんどの国で、アフリカ人エリートは植民地支配の言語を公用語として選び、教育制度も植民地支配者が作り上げた制度を引き継いだ
→植民地統治のシステムを引き継ぐため。現在も農村部では公用語が浸透していない国が多い
アフリカ人エリートたちは、強力に介入する国家主導型開発政策をとろうとした。タンザニアはアフリカ社会主義を標榜→都市の近代主義エリートが現実を把握せず描いた理想論は挫折
多くのアフリカ諸国で重視されたのは都市→都市による農村搾取。農村における生産性は向上せず、都市の拡大によって、食糧生産力は不足→農村軽視の結果としての飢饉
冷戦下、東西それぞれの陣営が、政権を倒すために反政府勢力を支援する場合もあった。欧米の援助は国家を腐敗させていった
石油危機以降、アフリカ諸国は多額の債務に苦しむようになる→資金援助の条件として市場経済化、政府支出削減が要求されるようになる。冷戦終了後は、民主化も迫られるようになる
→90年代、ほとんどの国が、複数政党制を導入する

459修都:2023/10/17(火) 19:34:58 ID:Wvozer8s
臼杵陽「イスラエルの建国とパレスチナ問題」
イギリスは1915年、アラブ人の独立を約束したフサイン・マクマホン協定を締結してアラブ人をイギリス側につけた
→1916年、東アラブ地域を英仏で分割するサイクス・ピコ密約。1917年、パレスチナにユダヤ人のための郷土を建設することを約束したバルフォア宣言
→第一次世界大戦後、パレスチナでは連続的にアラブ人の反乱→第二次世界大戦後の1948年9月22日ハーッジ・アミーンによってガザを中心としたパレスチナ政府が樹立される
→シオニスト側は5月14日にイスラエルの建国を宣言している→アラブ諸国軍がパレスチナに侵攻
1950年のイスラエルの事実上の国境(グリーン・ライン)内に残ったアラブ人はイスラエル人口の約20%で現在も変わっていない→アラブ人に市民権を与えるが、行動できる地域の範囲を限った
イスラエルは48年、避難民のイスラエルへの帰還を禁止した→アラブ人避難民は難民化→64年パレスチナ解放機構(PLO)が設立された
アラファトはクウェートで非合法政治組織を結成し、この組織が58年頃にファタハと名乗る。ファタハは第3次中東戦争後、ヨルダンに軍事的拠点を置き、ゲリラ活動を展開
→ヨルダンのパレスチナ難民キャンプを中心に国家内国家を形成→絶大な支持と信頼を集めたアラファトは69年PLO議長となる
→ヨルダンは70年PLOに対して軍事的攻勢→PLO敗北→レバノンへと拠点を移す→ファタハは72年ミュンヘンオリンピックでテロ活動→イスラエルによる報復
74年アラブ首脳会議でPLOがパレスチナ人の唯一正当な代表であると認められる。さらに国連オブザーバーの地位を獲得→PLOは90ヶ国以上と外交関係
PLOはレバノンでも難民キャンプを拠点に解放区を形成→75年以降PLOを排除しようとするマロン派キリスト教徒によってレバノン内戦
→82年イスラエルはレバノンに侵攻→PLOはレバノンからチュニジアに移る→レバノンではパレスチナ難民が虐殺された→PLOは対話路線へ転換
イスラエルは違法建築という理由でヨルダン川西岸のパレスチナ人家屋を破壊していた→ファタハは西岸を義援金で支援。ファタハはヨルダン川西岸・ガザに活動の中心を移す
ノルウェーでイスラエルとPLOとの間で秘密交渉が行われていた→93年ホワイトハウスでクリントン大統領が立ち会い、アラファト、イスラエル首相・外相とのオスロ合意調印
→ガザを中心とするヨルダン川西岸の一部の地域にパレスチナ暫定自治が始まる

460修都:2023/10/18(水) 19:18:02 ID:Wvozer8s
藤本博「ベトナム戦争論」
ホー・チ・ミンは45年9月2日、アメリカ独立宣言を引用し、連合国に独立承認を求めた→しかし、46年12月からフランスとの戦争。アメリカは対仏援助→フランスは敗北
→アメリカは2年後にベトナム統一のため選挙をするという協定を無視し、南部に親米政権を育成した→南ベトナム解放民族戦線結成
61年発足のケネディ政権は、共産主義拡大への不安から軍事介入を始める。次のジョンソン政権で北爆の必要性をまとめ開始。作戦終了までに約64万トンの爆弾が投下された
なお、ラオスへの爆弾投下量は北爆の2倍以上に及んでいる
アメリカの作戦は残虐行為が日常化した→68年3月16日ソンミ村虐殺。南の戦場では北爆以上に非人道的兵器が大量使用され過剰殺戮が行われた。南爆は北爆の3倍以上の爆弾を投下
アメリカの作戦は南ベトナムをコメの輸出国から輸入国に転落させた→親米政権の社会的基盤を脆弱化させた
68年1月末の解放勢力総攻撃(テト攻勢)によって米国内のベトナム政策反対意見は過半数を超える→テト攻勢は解放勢力にとっては敗北だったが、アメリカに衝撃を与えた
米国や米国以外でも史上未曽有のベトナム反戦運動が展開された
69年発足のニクソン政権は、南ベトナム政権維持を前提とする名誉ある和平を追求した。69年11月、ソンミ村虐殺が公になる。帰還兵も反戦集会に参加
ニクソンはジョンソン政権以上に北爆を展開→それでも解放勢力優位は揺るがず、アメリカと北ベトナムは72年10月和平協定案に合意→南ベトナムが反対→ベトナム戦争史上最大規模の北爆
→北ベトナムはそれにも堪え、73年1月27日、ベトナム和平協定。米兵の死者約5万8000人、ベトナムの死者約300万人(民間人約200万人)だった

461修都:2023/10/19(木) 19:47:54 ID:Wvozer8s
竹峰誠一郎「オセアニアから見つめる「冷戦」」
54年3月1日、米国はビキニ環礁で水爆実験を実施→第五福竜丸被爆。現地住民も被爆→マーシャル諸島から国連に苦情を申し立てる請願書が出される
→米政府代表は現地の人が被害に遭ったことを認めたが、核実験実施の正統性を主張→核実験は黙認されたが、米国は危機感は持った
→しかし、マーシャル諸島で核実験は繰り返され、頻度もあがった→58年8月18日の67回目の核実験がマーシャル諸島での最後の核実験→ただし、計画はさらに存在した
イギリスも太平洋で原水爆実験を行っていたが、63年部分的核実験禁止条約が調印されると、米英は太平洋での核実験を停止し、フランスが太平洋で核実験を始めた
フランスは66年から96年まで193回の原水爆実験→反対の声は太平洋諸国の政府だけでなく草の根レベルでも広がっていた
日本は核の加害国としても登場した→低レベル放射性廃棄物の海洋処分計画→太平洋一円に抗議が広がる
80年に独立したバヌアツは非核宣言を国会で議決しており、日本の科学技術庁にも合う必要はないとした
85年8月6日に締結された南太平洋非核地帯条約(豪州、クック諸島、フィジー、キリバス、NZ、ニウエ、サモア、ツバルが調印)は核廃棄物の海洋投棄禁止も盛り込んだ
→バヌアツは赤道以北が含まれていないとして調印しなかった
パラオは、米軍軍事戦略に真っ向から対立する非核憲法を制定して81年パラオ自治政府となった
条約の圏外となった北マリアナ諸島では海洋投棄反対の世論が盛り上がり85年中曽根首相は海洋投棄を凍結すると表明した

462修都:2023/10/20(金) 19:59:15 ID:Wvozer8s
戸邉秀明「沖縄と現代世界」
米軍にとっての沖縄→世界規模で展開した基地ネットワークの結節点。恒久的な軍事基地と基地コミュニティからなるリトルアメリカのひとつ。核戦略の要
米軍が沖縄を日本から切り離したのは、他国の主権による制約を全く受けない基地の自由な確保と使用の権限を確保するためだった
日本本土の米軍基地が60年代にかけて4分の1程度に急減するのに対して、沖縄の基地面積はほぼ倍増する
→沖縄は、日本が主権を部分的に委譲することで、米国に同盟国として認められるために支払うリスクを転嫁する集積地となった
法制度上、沖縄は日本国憲法も米国憲法も適用されない法の雑居状態だった。米兵による事件・事故のほとんどは起訴されなかった
米軍による土地接収は、沖縄にいながらにして難民同様となる人々を大量に生み出した→基地依存社会→混成社会化。離島の人々や華僑などが基地の街に集まった
沖縄戦後、数年のあいだ、日本を公然と批判する言論は少なくなかった。指導者たちも復帰論は少数派→日米いずれからも自立する
→1950年の秋から恒久的な基地の造成が始まるなかで、指導者たちは復帰を唱え始める。米軍との対抗を優先して、日本の差別や暴力の記憶は封印された
→立派な日本人になることが地域社会や子どもたちに激しく求められた。60年代からは運動の革新化が進むが、本土への集団就職のため言語指導の必要性は高かった
60年代後半、住民丸抱えの統治コストを日本政府に丸投げするため沖縄返還へ進む→返還が決まると復帰運動の日の丸はいっせいに消えていき反復帰論もあらわれる
沖縄は、観光業を主力として経済的な自立に取り組んできており、現在、観光収入は基地関連収入の倍以上→ただし、観光産業は非正規雇用率が高い
基地への抗議の声は4半世紀以上持続している

463修都:2023/10/30(月) 17:44:25 ID:Wvozer8s
松田孝一「モンゴル帝国の統治制度とウルス」
大モンゴル・ウルスでは、成人男子を10人をひとつの単位としてまとめ編成し、そのうちの1人を長にし、その十人隊を積み上げた国民組織を形成した
→十人隊長の1人が百人隊長、百人隊長の1人が千人隊長、千人隊長の1人が万人隊長
チンギス・カンは5子3弟に全軍隊の約半分を分配した→ウルスが生み出された→チンギス・カンは8ウルスの枠組みを将来も変更させず、固定、存続する方針だった
→第2代カン、オゴディの時代にウルスは11個となる
クビライの分割案→エジプトの境からアム河までをフレグ、アム河からアルタイ山脈までをアルグ、アルタイから東をクビライが支配する提案、西北部にジョチ家の勢力圏があるので4分割
→クビライとアリク・ボコの対立の中でフレグ、アルグ、ジョチ家のベルケ、アリク・ボコが死去したので、公式に承認されないまま、帝国4分割は既成事実となった

464修都:2023/10/31(火) 19:51:45 ID:Wvozer8s
飯山知保「モンゴル支配下の中国と多民族国家」
チンギス・カンの金国侵攻から1234年の金国滅亡まで、華北の大部分は20年以上の戦乱→在地の有力者が漢人軍閥となる→漢人軍閥はモンゴル王侯にかわって人々を管轄した
南宋では華北のような軍閥の割拠はなく、モンゴルへの服属も華北より2世代遅れた→華北の人より出世で不利→旧南宋の管理者の多くは華北から派遣された
→ただし、旧南宋在来の在地有力者の協力が無ければ統治を行うことは難しかった。モンゴルは科挙を重視しなかったので出世するには主従・縁故関係が重要となった
モンゴル王侯らは、支配下の社会と直接接点をもたないことが多かった

465修都:2023/11/01(水) 20:58:11 ID:Wvozer8s
松井太「トルキスタン・トルコ系諸集団とモンゴル帝国」
西ウイグル国は12世紀前半に西遷してきた西遼の間接支配下におかれ、西のカラハン朝は滅ぼされた→金末からモンゴル初期の漢籍資料は西ウイグルの西までウイグルと称する
モンゴル帝国が勃興すると、西ウイグルはモンゴルに臣従し、ウイグル王は厚遇された→公用文字としてのウイグル文字を提供→帝国崩壊後にはモンゴル文字と称されるようになる
東トルキスタン・ウイグル社会にモンゴル支配が与えた影響や変化は中華地域・イラン地域の状況とも多くの点で整合(通貨体制の導入など)→モンゴルのユーラシア支配の共時性
モンゴルの税役制度は西ウイグルの制度が参考とされた可能性が高い。モンゴル支配層へのチベット仏教の伝道も、ウイグル仏教徒により媒介された

466修都:2023/11/02(木) 19:26:20 ID:Wvozer8s
関周一「宋元時代の東アジア海域世界」
都市博多は11世紀後半に成立したと考えられる→日宋貿易の輸出品、金や水銀などが出土。中国人海商が博多に寄住していた
中国人海商は日本の寺社・権門に帰属し、パトロンとした→禅宗寺院は唐物の仏具類を集めるため、北宋や南宋との交易を必要とした
高麗にとって対北宋外交は、貿易の要素が強かった→朝貢する側は良質・多量の文物を入手できる→北宋からは絹織物、陶磁器など。高麗からは、金・朝鮮人参など
蒙古襲来以降、むしろ日元貿易は活況を呈す。日元貿易では海商が幕府への依存度を高めている
日本から元に来航した海商が度々暴動→役人が海商から財物を奪い取ったことに原因→1335年から43年まで日元貿易断絶
日本の硫黄山地は薩摩国硫黄島だった→九州西海岸を経て博多に運ばれ、北宋にもたらされた。沖縄島の王朝が明に進貢した硫黄は硫黄鳥島が産地の可能性が高い

467修都:2023/11/04(土) 19:44:34 ID:Wvozer8s
向正樹「モンゴル覇権期のディアスポラ」
ディアスポラ→離散型共同体。散居しつつもゆるやかな一体性を有する。モンゴル覇権期のディアスポラはトルキスタン・イラン出身のムスリム
ムスリム高官の一族や子孫らは、モンゴル支配下の中国各地に地方官として赴任し、世襲の支配層を形成していった

468修都:2023/11/05(日) 13:13:57 ID:Wvozer8s
高橋英海「中央アジア・東アジアのシリア教会」
サーサーン朝ペルシア領内のキリスト教徒は、ローマ帝国領内の教会からは徐々に距離をとっていた→ローマ帝国内の教会からはネストリウス派として異端視
唐代に中国に移り住んだキリスト教徒の多くはイラン系民族の出自だったと推測される。モンゴル支配下の中国にいた東シリア教会信徒は、ほぼすべてトルコ系諸部族の出自
元末の中国で支配者のモンゴル人や色目人に対する漢人の反感が強まっていくなかで、トルコ系民族を主体とするキリスト教徒の立場は徐々に脅かされていくようになったと考えられる
→元が滅びた後、墓地が荒らされ、石材が城壁の建材として用いられている(キリスト教徒もイスラム教徒も)
中央アジアの14世紀半ば以降のキリスト教の史料については皆無だが、ペストの流行で弱体化したキリスト教集団は、ティムール朝の弾圧で消滅したと考えられる

469修都:2023/11/06(月) 19:48:04 ID:Wvozer8s
渡部良子「イル・ハン国のイラン系官僚たち」
イル・ハン国では、ウイグル文字モンゴル語とアラビア語・ペルシア語官僚技術を習熟した官僚たちが活躍した
イル・ハン国では、歳出は、必要額を各地の税収に割り当てた。徴税請負責任者がいたが、要求に応じられない場合は責任者が自ら不足を補填した→過酷な取り立てと納税者の疲弊
第三代アフマドを除き非ムスリムだった歴代イル・ハンは、多くが仏教を信奉する一方、有能な人材は宗教宗派を問わず取り立てた

470修都:2023/11/07(火) 19:48:17 ID:Wvozer8s
中村淳「チベット仏教とモンゴル」
第五代皇帝クビライは、高層サキャパンディタの甥パクパを大朝国師に任じて、仏教の統領を命じた→なぜカシミールやチベットの高僧が仏教界のトップに据えられたのかはいまだ明らかではない
クビライは国師パクパに皇位の正統性や王権を表象、具象する施策を委ねた→クビライを金転輪聖王として表現する大法要など

471修都:2023/11/08(水) 19:48:06 ID:Wvozer8s
渡邊佳成「モンゴルの東南アジア侵攻と「タイ人」の台頭」
1253年、クビライは雲南に侵攻→大半はモンゴルの支配下に入った→ビルマ、北タイ方面への勢力拡張の拠点
1257年、雲南のモンゴル軍は、ベトナムに侵攻。陳朝の軍を破る。1282年、チャンパーへ侵攻→膠着状態となる→ベトナム側が攻勢に転じ、モンゴル軍撤退
→1288年、ふたたび進軍→元軍は糧食を輸送していた船が撃破され、退却を余儀なくされる。クビライはさらなる侵攻を計画していたが、1294年クビライの死によって中止
陳朝にとってモンゴルの衝撃は衰退につながるものではなかった
1277年、ビルマ軍が雲南に侵入→1284年、モンゴルはビルマ北部を奪う→その後、良好な関係に転じたが、ビルマで政変が起こると関係が悪化
→モンゴル軍は侵攻するが、炎熱などのため退却→その後、ビルマ国内は分裂→ビルマの衰退はモンゴルの侵攻以前に始まっており、モンゴルは分裂の直接の要因ではない
タイ人の勃興にもモンゴルの侵攻の影響は認められない

472修都:2023/11/09(木) 19:48:57 ID:Wvozer8s
森達也「ユーラシア世界の中国陶磁流通」
中国陶磁の海外輸出が本格化するのは、唐代後半期の8世紀末から9世紀→エジプト、東アフリカ、インド洋沿岸、タイ、ベトナム、日本、韓半島などに流通
元代に器形の大型化、装飾の多用化、色彩装飾の誕生など→モンゴル人と色目人の嗜好。食物を大型容器に盛る草原の民の食習慣が影響
イランの陶器やガラスのカラフルな世界を中国の磁器の技術で再現。モンゴルがユーラシアの主要部分を支配した時期に中国の製磁技術で西アジアの人々が好む磁器が生み出された
日本は中国文化のすべてを持ち帰りたいという意識でさまざまな産地の中国陶磁を日本に運び、日本人の好む宋代の中国陶磁を集めていた→日元貿易は他の地域の中国貿易とは異なる

473修都:2023/11/10(金) 19:46:16 ID:Wvozer8s
川口琢司「カラチュの時代」
ティムール朝の創始者ティムールは、晩年までオゴデイ家出身の人物を傀儡のハンとして置いた→名実ともにチャガタイ・ウルスからティムール朝へと変わったのは、ハンを置かなくなってから
ティムール朝の歴代君主はモンゴル系出身であるため、チンギス家のみに許されるハンの称号を名乗ることはなかった
ティムールの軍事行動の目的はあきらかにチャガタイ・ウルスの復興と拡大だった→ユーラシア各地を征服→各地域にチンギス家の人物を代理として送り込み、影響力を維持しようとした
部族出身者はモンゴル語でカラチュと呼ばれ、高貴でない者、非チンギス家の者を意味する。ティムールは自信をカラチュと認識している

474修都:2023/12/03(日) 16:37:40 ID:Wvozer8s
割田聖史「ヨーロッパにおける国家体制の変容」
フランス革命とナポレオン戦争は、ヨーロッパに暴力・テロル・戦争をもたらした→1814年のウィーン会議でヨーロッパの混乱終わる→ウィーン体制
→イギリス、プロイセン、オーストリア、ロシア、フランスの5大国体制
1848年革命→既存国家の自由主義化。フランスで第2共和政→ヨーロッパの政治地図は変わらない→1861年イタリア王国創設(第6の強国)、1871年ドイツ帝国創設(プロイセンの変化)
19世紀段階は社会保険というセーフティーネットが張られるようになったことから社会保険国家と呼ぶことができる。なお女性、労働者の家族は保険対象外
社会扶助機能は、小単位ではもはや担うことはできず、国家などの広域団体が役割を負うこととなった→国家や広域単位が帰属意識の対象となる
自由主義的国家では、政治参加、社会保障が、国家の側からの統合要求を満たすのに大きな位置を占めた
周縁地域である植民地は、国民化が望まれなかったにもかかわらず、帝国の一部として認識され、ヨーロッパ側の優位に基づいた統治体制に組み込まれた

475修都:2023/12/04(月) 19:23:52 ID:Wvozer8s
姫岡とし子「ナショナリズムとジェンダー」
18世紀後半、男女の生得的な違いを強調する言説が登場するようになる→両性の基本的特性を二項対立的にし、役割を定めていった
→ただし、19世紀初頭くらいまでは、両性の対極化や公私の分離に適合しない市民層もいた
ナポレオン戦争期、男性は戦闘的でなければならないという言説が流布される→ナポレオンに敗北したドイツは男たちを祖国のために命をかける戦いへ鼓舞した
→女性は家を守るべきものだとされる→ただし、家庭の範疇にとどまらず福祉活動を展開して祖国のために熱心に活動する女性もいる→女性にふさわしいとされる活動
女性の戦争貢献は女性がネイションの一員であることを示し、一体感を強めた→ただし、ジェンダー秩序への抵触とみなす男性たちも多く、戦後には女性の活動について取りあげられなくなる
植民地言説では、文明的な強者は男性、自然で弱者である被植民地は女性にたとえられた。20世紀転換期、人種の純粋さを優先すべきという主張の登場→植民地現地人との婚姻禁止の動き

476修都:2023/12/05(火) 19:34:35 ID:Wvozer8s
貴堂嘉之「移民の世紀」
アメリカは世界史上にも特殊な移民国家として誕生したとされる→民族的単位の欠如。総人口に占めるイギリス系の割合は建国当時6割に満たず、今日では1割強
→理念を統合の核とする国→ただし、独立から1820年まで25万人ほどの移民しか入国していない→最初の移民の大波は1845~49年のジャガイモ飢饉の影響。アイルランド人移民急増
米国は元々は奴隷国家だが移民国家へと移行した分水嶺は南北戦争。リンカン政権は積極的な移民奨励策を打ち出した最初の政権
中国人労働者がサンフランシスコのチャイナタウンに集住し始めると初の移民制限立法である排華移民法が1882年制定→アジア系移民は何年アメリカに居住しても市民権が得られない
移民国家アメリカには、移民を包摂するヨーロッパ系向けの顔と使い捨て労働力としてアジア系を眼差す顔がある
黒人奴隷制の廃止と代替労働力としてのアジアからの移動→日本人移民も奴隷の亜種として眼差されていた

477修都:2023/12/06(水) 19:25:27 ID:Wvozer8s
金澤周作「海域から見た19世紀世界」
19世紀は木造帆船の時代であったが1860年代までに蒸気船の領分は拡大してきた。1865〜66年、大西洋横断海底電信ケーブルの敷設完遂
19世紀半ば以降、イギリスでは黒人船員が増え、ヨーロッパ航路ではインド系の船員がかなりの割合を占めた。アメリカ船には日本や中国系の船員がいた
棺桶船として記憶される移民船の環境は劣悪で、船舶熱がたびたび発生した。客船では、船で働く労働者と同じく、乗客にも資本主義化を象徴する階級・人種的な格差が顕在化していた
19世紀の制海権を握っていたのはイギリス→ドイツはイギリスに対抗し、世紀末に海軍予算を大幅に増額→建艦競争→果てに第一次世界大戦
19世紀初頭から関税水域や漁業水域は次第に3カイリに収斂していく

478修都:2023/12/07(木) 19:27:04 ID:Wvozer8s
並河葉子「奴隷貿易・奴隷制の廃止と「自由」」
環大西洋奴隷貿易が始まるのは16世紀初頭。規模が拡大したのは17世紀後半以降→19世紀前半まで活発に行われ、その後ほぼ終了する
1777年7月2日、ヴァーモント共和国の憲法が奴隷制の法的な廃止のもっとも早いもの→他のアメリカ合衆国北部諸州も相次いで奴隷貿易禁止・奴隷解放
最大の奴隷貿易国であったイギリスで1787年から全国的な反奴隷制運動。フランスでも1788年から→旧来のイギリスの支配層とは異なる人びとが不自由で非人道的だと批判した
→イギリスの奴隷制廃止はおよそ半世紀後の1833年→イギリスは文明化の使命を掲げて世界の奴隷制廃止に向けて活動するようになる
解放アフリカ人たちは、すぐに完全な自由を手に入れたわけではない→文明化する必要があると考えられた
大西洋奴隷貿易は急激に衰退したが、奴隷制度はしばらく残る→最後まで残ったのはキューバ(1886年)とブラジル(1888年)
インド洋西海域やアフリカ域内の奴隷取引・一部の奴隷制は20世紀初頭まで残る
フランスは革命後の1794年奴隷解放を決定した→ナポレオンは奴隷制を復活させるが、ハイチは1804年に独立した→白人や自由黒人が出ていき、奴隷も内戦で多くがいなくなり、労働力が激減
→流出した人々は、周辺の他の島でプランテーションを開き、そこに奴隷の需要が生まれた→キューバとブラジルに奴隷流入
奴隷解放後、イギリスでもフランスでもプランターと元奴隷たちとの紛争→プランター側は奴隷を保護する義務が無くなったのでむしろ労働条件が厳しくなった

479修都:2023/12/08(金) 19:46:42 ID:Wvozer8s
中澤達哉「一八四八年革命論」
ライン川以西の革命はブルジョワジーと労働者の対立に端を発し、労働者階級が革命の担い手だが東側はそうではない
1848年2月、七月王制の瓦解(二月革命・第二共和政)→社会主義政策の実施→男性普通選挙で農民がブルジョワジーを支持、社会主義者は惨敗→カヴェニャックの軍事独裁
→憲法に民主的共和主義は無し→ナポレオンの甥のルイ・ナポレオンが大統領に→1851年、ナポレオン三世を名乗って第二帝政開始
ライン川以東のベルリンでは三月革命→国民議会開設。ウィーンではメッテルニヒ失脚。ハンガリーでも革命、国民議会
革命後の労働者の不満から利益を守るには福祉国家が必要→第二帝政は福祉の実施を掲げた→労働者を消費者にするためには植民地も必要
中・東欧は革命以後も礫岩国家を構成する各地域にとどまっていた→ハンガリーは最大限の自治を獲得したが、主権から零れ落ちた民が多く存在する

480修都:2023/12/11(月) 18:34:50 ID:Wvozer8s
勝田俊輔「「イギリス」にとってのアイルランド」
19世紀、ブリテンの人間にとって身近な外国人はアイルランド人だった→1861年、ブリテンの総人口の4%に満たない
1800年の合同法は、対等ではなかった→行政府のトップは連合王国政府によって派遣される。カトリック解放がアイルランドから突き付けられたが、ブリテンの人間は強く反発
連合王国政治においてアイルランドはさまざまな困難をもたらした→アイルランドの要求に全て反対するのがユニオニズム、自治のみに賛成するのがリベラリズム
ブリテンは合同法を撤廃すれば統制が及ばないどころかカトリック国家が発足する可能性があることをおそれた
自治法案は2度の否決を経て1914年9月に可決される→しかし、第一次世界大戦勃発で施行延期
→戦後、アイルランドを南北に分割し、それぞれに自治議会を与えるとして21年に北アイルランド自治政体発足
→南部では独立戦争が泥沼化→22年、独立を認める→49年にブリテン帝国から離脱することとなる

481修都:2023/12/12(火) 19:31:52 ID:Wvozer8s
二瓶マリ子「一九世紀前半、米国の領土拡大と大西洋革命」
スペイン領テキサスは先住民たちの襲撃やフランス領ルイジアナとの境界争いが絶えない上、銀山なども発見されず、植民は進まなかった→密貿易で大西洋世界と接続
1808年、ナポレオンがスペイン国王を退位させ、兄を王位につけると、メキシコでスペインへの反乱
→1813年4月6日、メキシコは独立を宣言。テキサスはテキサス州となり、メキシコ共和国に属した→メキシコは広大な領土を有したが、諸地方を統合する指導者がいなかった
→29年、スペイン軍が再征服のため侵攻してきたのを破ったサンタアナが大統領になると副大統領の自由主義者ゴメスが急進的な改革
→1834年、保守派がクーデター→35年、連邦制停止。反革命体制に→テキサスが独立を求める→米国は中立を宣言したが、テキサス周辺の州政府はテキサスを支援
→テキサスはサンタアナを捕虜とする→サンタアナはテキサスの独立を承認→メキシコはサンタアナが調印しただけだとしてテキサス共和国を承認しようとしなかった
→イギリス、フランスはアメリカのテキサスへの介入を警戒してテキサス共和国を承認。45年、テキサス併合を掲げるジェイムズ・ポークがアメリカ大統領に
→テキサス共和国は米国への加入を表明、併合された→アメリカは46年、メキシコに宣戦布告→48年、カリフォルニア、ニューメキシコ、ネバダ、ユタ、アリゾナが米国に割譲された

482修都:2023/12/13(水) 19:32:59 ID:Wvozer8s
野村真理「近代ヨーロッパとユダヤ人」
フランス革命後の1791年、ユダヤ教徒解放令が議決された→フランスに併合されたライン川左岸地方でもユダヤ教徒解放。プロイセンも1812年、ユダヤ人に自由と権利、市民的義務を認めた
国民国家においてユダヤ教徒が平等な国民となるには、ユダヤ教自身の近代化も必要があった→ユダヤ教徒は会派にわかれることとなる
一方でドイツ人からは、ユダヤ人はドイツ人になりうるかという不毛な議論が繰り返される→ナポレオン失脚後、ユダヤ人の解放は後退。市民権は地域によって撤回・制限された
ドイツ帝国成立時のユダヤ人は約51万人(総人口の1.25%)で70%以上が農村地帯に住んでいた→帝国成立後、大都市への移動が加速
→歴史的に商業に携わってきたユダヤ人は、自由主義経済の波に乗り、成功した者も少なくない。偏見や差別が残るドイツ社会でユダヤ人は弁護士、医師、ジャーナリストなど専門職を好んだ
→1873年の恐慌→経済的反ユダヤ主義。ユダヤ人が市場経済を腐敗させ、ドイツ人が犠牲者になっているとした
ポーランド会議王国では1862年、ユダヤ人の居住制限撤廃→農村地帯のユダヤ人は都市に向かって移動
ポーランドにはリトアニアやロシア帝国領ポーランドからの流入もあり、ユダヤ人人口は1816年の21万2944人から97年には127万575人(総人口の14.54%)に増加
19世紀の会議王国ユダヤ人にはハシディズムが受け入れられた→熱狂による神との直接的結合を志向
ドイツのユダヤ人はドイツ文化への同化を志向したが、ポーランドでは若いユダヤ人の間でユダヤ人の民族運動が支持を集めた
ポーランドの商業・金融・保険業のユダヤ人の割合は59%近く→異民族によるポーランドの経済支配と見なされ、排斥が唱えられる

483修都:2023/12/14(木) 19:26:45 ID:Wvozer8s
工藤晶人「植民地統治と人種主義」
フランス植民地の有色自由民は18世紀になると差別を受けるようになっていった→現地人と白人の結婚禁止
近代国家の建設に関わった為政者たちは、黒人や混血者の存在を危惧した。アメリカ独立宣言の起草者ジェファーソンは、混血は白色人種を汚染すると述べていた
ナポレオンの民法典は植民地を法の例外として位置づけている→白人と解放奴隷は別個の法域に属する。フランスの国籍定義は血統主義

484修都:2024/01/27(土) 17:39:17 ID:Wvozer8s
藤井崇「ローマ帝国の支配とギリシア人の世界」
ローマ支配の優越が認められるようになった前2世紀前半は、ギリシア人にとってローマ帝国の開始時期
ローマ人はギリシア人を帝国に服従する人々と軽蔑する一方、ギリシア文化への強い憧れを持ち続けた→ギリシア人側のローマ・イタリア文化の摂取は選択的
ギリシア人都市は勝ち組になるべく対立する陣営の見極めに四苦八苦しながらも、小帝国主義はパクス=ロマナ(ローマの平和)成立直前まで継続
ギリシア人は都市や共同体の神話をローマ帝国の神話と接続。ローマがギリシア人の血統を引き継ぐ共同体であると主張

485修都:2024/01/29(月) 10:42:01 ID:Wvozer8s
三津間康幸「ローマ帝国と対峙した西アジア国家」
アルシャク朝パルティアは、前3世紀半ば中央アジアの半遊牧部族連合に属したパルニ族のパルティア侵入で形成→前145年までにセレウコス朝シリアから独立→バビロニアも支配
前64年、セレウコス朝はローマの属州シリアになり滅亡→ローマとアルシャク朝が対峙
黄道十二宮の起源は約2400年前のバビロニア→ローマに影響を与える
224年、ペルシス地方のサーサーン家がアルシャク朝アルタバーン4世を敗死させた→サーサーン朝がアルシャク朝を引き継ぐ
602年、サーサーン朝はローマに対する全面戦争を開始→サーサーン朝の敗北→630年からアラビア半島のアラブ・イスラーム勢力が侵入→侵攻を止める力はサーサーン朝には残っていない
→651年、サーサーン朝滅亡

486修都:2024/01/30(火) 19:36:21 ID:M/tp9h46
池口守「古代世界の経済とローマ帝国の役割」
ローマ首都に対する穀物供給の7、8割は市場での売買に委ねられたと考えられる→定期市は農民と都市住民の間で売買を行う場
ローマ人の食習慣は、穀物が大部分を占め、獣肉や魚介類が占める割合は小さかったというのが通説。外食の習慣も古代ローマ人には一定程度根付いていた
交通では動物としてロバ、ラバ、ラクダなどが活躍した。速度を重視する場合は馬。長距離輸送の主役は海上輸送
ローマの海上覇権が交易活動の安全を保障したことで、地中海沿岸諸地域の市場が一定程度結合された可能性がある
ローマはエジプトを併合すると、プトレマイオス朝の遺産を活用してインド洋交易に乗り出した→輸出品は金貨と銀貨→インドでは溶かされて使われた。輸入品は香辛料など
ローマ政府はインド洋交易から得られる関税や通行料には関心を向けたが、交易の安全の保護は一定の水準にとどまる

487修都:2024/01/31(水) 19:20:25 ID:M/tp9h46
春田晴郎「西アジアの古代都市」
古代ペルシア語では都市にあたる語がはっきりしない。ハカーマニシュ朝の都市ペルセポリスは中心部に人口が集中せず、居住域は分散している。城壁市壁は存在しない
アレクサンドロス大王によってハカーマニシュ朝が滅亡すると都市のあり方も変化した→ギリシア都市が西アジアから中央アジアに建設される
アルシャク朝パルティア時代になると市壁で囲まれた都市が多くなる

488修都:2024/02/04(日) 17:38:16 ID:M/tp9h46
高橋亮介「ローマ帝国社会における女性と性差」
皇帝家に属さない女性たちの姿はなかなか現れないが地方都市の碑文には、都市参事会身分に属する女性についてしばしば言及されている
女性が都市公職や神官職に就く道はあるが、富と地位を誇りうる女性のみ。また、女性が自由に振る舞えたかにも疑い
属州エジプトのパピルス文書の自筆署名は男性が34%であるのに対し女性は6.7%

489修都:2024/02/05(月) 19:36:58 ID:M/tp9h46
田中創「ローマ帝国時代の文化交流」
ローマがギリシア文化に敬意を払い、模倣したことは間違いないが、ラテン語という自分たちの言語と表現を研ぎ澄ますことで、全面的にギリシア語を採用せずに済ませた
東地中海地域ではローマ帝国のもとでもギリシア語が広く用いられたが、3世紀末以降は、ラテン語や西方の文化の影響も見て取れる。帝政後期には、エジプトのパピルス文書からもラテン語
『ローマ法大全』はギリシア語が主流の帝国東部において、ラテン語で書かれた大部の専門書だった→法学教師たちが逐語訳
4世紀、キリスト教がローマ政府からの支援を受けるようになると、エジプトのパピルスから異教の神々に由来する個人名が姿を消し、キリスト教名に取って代わられる
ギリシア神話に登場する神々は大きな功績を残した人間だとなっていき、聖書の物語とも融合されていく

490修都:2024/02/06(火) 19:36:35 ID:M/tp9h46
南雲泰輔「「古代末期」の世界観」
古代世界では、征服活動によって増大した地理学的な視野と知識は、新たな知的好奇心も喚起し、さらなる軍事的拡大へ結びついた。地理学・地図製作と政治権力は密接に結びついている
ローマ人は、3世紀末までに総延長約40万キロメートルと推計される街道網を敷設し、一定区間ごとに里程標石を設置した。地理情報のカタログ化は古代末期を通じて数多く見出される
古代末期の世界観は、ギリシア・ヘレニズム時代からの継続性とローマ時代における新規性を取り込みつつ、特異な形で変容を遂げた
→街道網が組み込まれた結果、ユーラシアの東西は途切れのない世界として認識された

491修都:2024/02/07(水) 18:36:24 ID:M/tp9h46
大谷哲「内なる他者としてのキリスト教徒」
イエスが磔刑に処されてから約70年、1世紀末頃にキリスト教徒というアイデンティティがユダヤ教徒から分化しつつあった
1世紀のローマ帝国が、キリスト教徒という独立した集団を認識していたとは思えない。ローマ人がキリスト教徒という存在を認識したと確認できる最初の史料は112年秋頃、2世紀初頭
迫害は散発的で小規模だったことがわかってきている。ローマ帝国に迫害する意志はなかった。社会的少数者であったので頑迷な者達、迷信者達として認知されていた

492修都:2024/02/08(木) 19:55:56 ID:M/tp9h46
井上文則「三世紀の危機とシルクロード交易の盛衰」
3世紀、軍人皇帝時代にローマ帝国が危機に直面していたことは否定できない→軍人皇帝時代の帝国分裂、異民族の攻撃、疫病、インフレ
3世紀以後、中国でもローマと同じく分裂時代(漢の滅亡)。アルシャク朝も滅びた。3世紀のローマは、古代末期小氷期への移行期。中国でも寒冷化と乾燥化の時代
さらにシルクロード交易も不振だった。1世紀後半がシルクロード交易の最盛期→2世紀に入ると規模は縮小し始める
2世紀後半になるとローマでは疫病で空前の被害、同時期に中国でも疫病→シルクロード交易の人の移動による疫病流行
3世紀になるとサーサーン朝が東西で積極的な軍事行動に出るので、交易路の安定が損なわれる。3世紀後半には、ローマのインドとの交易量はどん底に落ち込む
→交易の不振が3世紀の危機を引き起こしている
ローマ帝国は輸入だけでなく、輸出にも関税をかけており、税額は莫大だった→シルクロード交易の衰退はローマ帝国にとって大きな損失

493修都:2024/02/10(土) 15:41:26 ID:M/tp9h46
藤井純夫「古代オリエント文明の骨格」
紀元前1万3000〜前1万年頃の西アジア、ナトゥーフ文化の段階には野生動植物の多くは主要な食料の1つとして利用されていた。小型の集落も出現、農具が用いられていた
栽培ムギや家畜が食物残滓の大半を占めるようになったのは、紀元前7500〜前6500年頃の先土器新石器時代Bの後期後半。集落の大型化・固定化加速→農耕牧畜社会
→牧畜は農耕地から放しておくため、農耕と牧畜が分離していく
紀元前6500〜前5000年頃の後期新石器時代には巨大集落が解体する一方でメソポタミアの一部が都市へと発展していった
後期新石器時代までは温暖・湿潤化で、それ以降は乾燥化。農業関連石器が主流を占める。世帯を単位とした農村社会が西アジアほぼ全域に成立。社会の階層化は進んでいない
牧畜集落は乾燥化による本村の再編によって集落を移動する遊牧となった
前5300〜前3800年頃のウバイド後期、メソポタミア南部で農業生産が飛躍的に拡大。神殿の建築も始める
前3300〜前3100年頃のウルク後期に世界最古の都市ウルクが誕生。社会の階層化も進行。世界最古の文字記録システムも発明された→楔形文字
周辺乾燥域では遊牧社会が部族制となっていた

494修都:2024/02/12(月) 20:00:02 ID:M/tp9h46
柴田大輔「古代メソポタミアにおける神々・王・市民」
古代メソポタミアのハウスホールド(世帯)は明らかな父系。単婚が主流。核家族が中心。古代メソポタミア国家はおおむね王制で、強大な中央集権国家もある
古代メソポタミアは、典型的な多神教。神殿に勤務した人々は主神に仕える家来・奴隷として働いていた
古代メソポタミア世界では神こそが国土・人民の主→王は神の委託を受けたエージェント。前2000年紀前半ごろまではエンリルが最高神。後半ごろからはマルドゥクなども最高神となった

495修都:2024/02/13(火) 19:55:52 ID:M/tp9h46
佐藤昇「古代ギリシアのポリス」
前570年頃から前200年頃までの間に、およそ1500のポリスが確認されている→世界史上最大規模の都市国家文明
前5世紀半ばまでに多くのポリスで採用された体制は、穏健寡頭政もしくは民主政
基本的にポリスの下に正当な物理的暴力行使はほぼ独占されていた。ただし、その暴力行使はかなり小規模で、実効性に疑問符
ポリスでは間接税が好まれていた。富裕者に対する直接税はポリス財政の重要な部分を占めた
いずれの神をどのように祀るかは、ポリスごとに異なっていた

496もにゃら:2024/02/14(水) 17:07:58 ID:wYxr5ygg
>>495
ポリス毎にいろいろ違ってたらしいね

アテネは男尊女卑がキツくて、クレタは緩く、不倫した時の罰則に差異があると聞いた

497修都:2024/02/14(水) 20:43:12 ID:M/tp9h46
>>496
かつてはアテネかスパルタかみたいな考え方みたいだったですが、今はその2つだけじゃなくて
それぞれをちゃんと考えようというのが研究のスタイルのようです

498修都:2024/02/14(水) 20:44:02 ID:M/tp9h46
三宅裕「西アジア新石器時代における社会システムの転換」
西アジアにおける新石器時代の始まりは完新世の始まりとほぼ一致(紀元前9600年頃)、温暖な気候が安定して続くようになる時期→定住生活への移行と農耕牧畜開始
先土器新石器時代の集落に公共建造物が存在することは特別なことではない。社会的な不平等・格差の拡大もある程度進行していた
公共建造物はPPNB後期頃になると姿を消す→土器新石器時代には小規模な集落が点在する状況に。農耕社会が成立したのに衰退ととれるような変化
→儀礼祭祀という余剰生産物や富を集積する機構が機能しなくなったことで、社会全体の生産力が低下したのでは

499修都:2024/02/15(木) 20:03:46 ID:M/tp9h46
馬場匡浩「初期国家形成期のエジプト」
ヒエラコンポリス遺跡の墓地→殉葬の慣習、身長1.2メートルのドゥワーフ人骨の存在。動物も墓主と共に埋葬されている→階層化の進行は明らか
ヒエラコンポリスでは、支配者の台頭とほぼ同時に、生産活動でも分業化が発達、従属の専従職人も階層化社会の一翼
ファラオは南のナカダ文化と北の下エジプト文化を統合する支配者。ビール生産の広がりが、ナカダ文化内の地域性消失、下エジプトの文化変容の契機となったとされる
農耕社会で、特殊狩猟集団は、名声や優位性を獲得し、動物に係わる儀礼を管掌することで宗教的威信を高め、権力を伴う社会格差へと発展。ビール生産も掌握

500修都:2024/02/16(金) 18:10:27 ID:M/tp9h46
唐橋文「シュメール都市国家における王権と祭儀」
都市国家ウルクのイナンナ女神はシュメール(現在のイラク南部)全域で崇敬され、祭儀も複数の都市で維持されていた→祭儀を中心にある種の都市連合
王朝の継続と支配の正統性をもたらす祭儀を執り行うことは王妃の役割の一つだった。王は、神の代理者として、神によって定められた秩序を維持した

501修都:2024/02/19(月) 17:56:21 ID:4qrqq.3Y
河合望「新王国時代第一八王朝のエジプト」
北のヒクソス王朝と南のクシュ王国の間に挟まれて脅威にさらされていたテーベのエジプト第一七王朝→イアフメス王の時代にヒクソス王朝を滅亡させた
→クシュ王国も直轄植民地としてエジプトを再統一。新王国時代第一八王朝の開始。潜在的な脅威は北メソポタミア・シリアのミッタニ王国
→ヒッタイトがシリアに進出し始めるとミッタニとエジプトは同盟→国際情勢安定
第一八王朝前半の国家神アメンの権威は絶対的→古王国時代の国家神太陽神ラーと習合して国家神アメン・ラーに
アメンヘテプ四世の時代にアメン神と決別、アテン神へ帰依→アメン神像の破壊。他の神々への祭祀も停止
→アクエンアテン王(アメンヘテプ四世が改名)が死ぬとアメン神信仰再開→ツタンカーメン王がアメン神復興

502修都:2024/02/20(火) 19:26:51 ID:4qrqq.3Y
山田重郎「アッシリア帝国」
イラク北部のアッシュルは紀元前14世紀まで南メソポタミアの大国の影響下にある都市国家にすぎなかった→前2025年頃、独立。前15世後半は、ミッタニ(北メソポタミア・シリア)の影響下
→ヒッタイトによってミッタニが衰えるとアッシュルが大国となった(ギリシア語訳がアッシリア)→前13世紀半ばに頂点→前12世紀末以降、遊牧集団の攻勢と飢饉で衰退
→紀元前10世紀後半から前9世紀にかけて、固有領土を回復すべく軍事遠征(先帝国期)→固有領土が2倍ほどになる。アッシリアの国土は直接統治されるアッシュルの地と朝貢国から構成される
帝国内のエスニック集団は、納税など臣民としての義務を果たすなら、個性はある程度保持され、宗教文化も容認された
アッシリア滅亡は、直接的には南のバビロニアと東のメディアの攻撃によって起こった→崩壊の要因としては、遠征の前線を遠方に広げすぎた、気候不順による不作などがあったと考えられる

503修都:2024/02/21(水) 19:19:18 ID:4qrqq.3Y
長谷川修一「ヘブライ語聖書と古代イスラエル史」
ヘブライ人という呼称を用いるのはヘブライ語聖書のみ。イスラエル人という呼称は複数の同時代史料によって確認できる
イスラエル人が遊牧民だったという記述もヘブライ語聖書だが、伝承を裏付ける史料はない。イスラエル人がエジプトにいたことを示す同時代史料も皆無
前13世紀末、イスラエルと呼ばれる集団が南レヴァントに存在したことは確認される。王国の存在を直接的に裏付ける同時代史料はない
ダビデという人物を創始者とする王朝は存在していたとは思われる。しかし、ダビデとソロモンの実在は裏付けられない
分裂前の王国の存在はわからないが、北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂後の史料はある。北王国がアッシリアに滅ぼされ、住民の一部が強制移住させられたことは裏付けられる
南王国はバビロニアに滅ぼされたが、バビロンに連行されたのは王族などだけで、その他の人は諸地域に移住させられたようである

504修都:2024/02/22(木) 19:55:56 ID:4qrqq.3Y
周藤芳幸「ミケーネ宮殿社会からポリス社会へ」
前1200年前後数十年間でミケーネ時代の諸王国の中心にあった宮殿が相次いで姿を消していった。ミケーネ諸王国の規模は、ポリスと変わらないどころか地域によっては明らかに小規模
ミケーネ時代からポリスへ連続するものとして饗宴が社会的統合の手段だったことがある
ミケーネ宮殿社会とポリス社会の相違点の1つは、ポリスでは神殿と聖域、そこで定期的に開催されていた祭儀が欠かせないものだったこと

505修都:2024/02/23(金) 16:35:08 ID:4qrqq.3Y
栗原麻子「ジェンダーからみたアテナイ社会」
アテナイの政治生活は、およそ男性市民のみの閉鎖的な空間で成り立っていた。社交生活の男女分離は、古典期アテナイの特徴
アテナイ在留外国人は、市民とは別の部隊に編入させられる→アテナイ男性市民の男らしさより劣る集団とされる
妻に求められたのは、家庭の管理と嫡出子を産むこと。女性市民は家庭内ならば一定の発言力があった。宗教領域では、女性たちは、男性を経ずに声を届けることができた

506修都:2024/02/26(月) 15:25:33 ID:4qrqq.3Y
阿部拓児「アケメネス朝ペルシア帝国とギリシア人」
前540年代、アケメネス朝帝国はアナトリアを征服し、エーゲ海沿岸に住むギリシア人は帝国臣民となった→建築技師や医師としてギリシア人が活躍
ペルシア大王は、近隣地域が渦巻き状・同心円状に、それ以外の地域は放射線状に広がっていくという中心―周縁の座標軸で世界を認識していた
ペルシア大王は地上世界の統治者として、多様性にあふれる世界を構成する要素にたいし配慮した→各要素も王を支える
スパルタと対立したアテナイがペルシアに接触したことは、ペルシア大王からすれば頼ってきたことであり、その時点でアテナイは、ペルシア大王の監督する多様な世界の一員となった

507修都:2024/02/27(火) 21:12:33 ID:4qrqq.3Y
長谷川岳男「ヘレニズム時代のポリス世界」
ヘレニズム時代のポリスは大国の狭間で厳しい状況にあった。ポリスの力をはるかに超える勢力が周囲に存在した
→ポリスは血縁関係を根拠にローマのような大国を利用したり、ギリシア人に助けを求めたりした。ポリスが連盟をつくって大国に対抗する形もあった
対立を力ではなく、第3者の仲裁、裁定に委ねる行為もポリス間で行われた。ヘレニズム時代でも民会は様々な事案を決定している
ヘレニズム時代の変化として、富裕者が施与行為により指導的な立場を盤石とするものがある。ヘレニズム時代は西アジア、エジプトの莫大な富が地中海世界に流入、富を得る者が出現した
→貧富の差の拡大→富裕者たちは不満を抑えるためにも施与行為が必要だった。前2世紀後半以降は、指導者層は固定され、民会も一部の市民以外の関与が難しくなっている

508修都:2024/03/16(土) 17:47:32 ID:4qrqq.3Y
酒井啓子「リベラルな国際秩序の拡散・終焉とグローバル・サウス」
近代以降の国際秩序は、欧米諸国がルールを制定し主導的に維持するものであって、被支配側に置かれたグローバル・サウスはルール策定者の立場から外されてきた
→被支配国も国際秩序のなかに取り込まれることで、利益追求のために妥協したり利用したりする協働関係が存在。植民地性に目をつぶる被支配国内のエリート
湾岸戦争時、フサイン政権は反植民地主義、アラブ・ナショナリズムを掲げ、一定の大衆的支持を喚起した。イスラエルがパレスチナ撤退すればイラクも撤退するとしてアラブ社会の支持を得た
冷戦末期、アメリカはフサイン政権を利用していたが、冷戦後には危険視した。アメリカは反イラン勢力としてフサイン政権を支援していた
アフガニスタンでは、アメリカはソ連への対抗のため、ムジャーヒディーン勢力を支援していた→アルカーイダに発展
九・一一事件に始まった対テロ戦争は、イラクでもアフガニスタンでもアメリカにとって望ましい政権を確立することができなかった→アメリカの退潮→代替大国としての中国、ロシアへ期待
→ロシアのウクライナ侵攻後、アメリカは産油国に石油増産を要請したが、サウディは拒否、他の産油国も欧米の対ロシア政策に追随していない
60年代以降、欧米型国際秩序、世俗的国民国家建設に抗する形でイスラーム主義が展開した。パレスチナやレバノンでは国家の代わりにイスラーム主義政党が疑似国家能力を発揮
→90年代以降、自由選挙が導入されると多くの国でイスラーム主義政党が多数の議席→それもまた権威主義化し、魅力は風化しつつある
イスラーム国の登場は、欧米諸国で移民社会がいかに欧米的秩序から排除されているか、鬱屈を解消するための幻想をイスラーム国が提供し、受け皿になることを示した

509修都:2024/03/17(日) 17:19:53 ID:4qrqq.3Y
水島治郎「民主主義とポピュリズム」
ポピュリズムは民主主義的だが、反多元主義であり、自由民主主義とは両立しづらい。右派ポピュリズムの人民は、自民族。左派ポピュリズムもナショナルな枠組みを肯定
20世紀中葉までポピュリズムは南北アメリカが中心。多くは富の偏在を批判する左派系→21世紀に入ると、西欧地域におけるポピュリズムが台頭
→21世紀、穏健な左右の2大勢力が弱体化の一途をたどっている→新興のポピュリスト政党は従来の左右対立軸とは異なる主張を持ち出している

510修都:2024/03/18(月) 19:53:30 ID:4qrqq.3Y
半澤朝彦「二一世紀の国連へ」
19世紀から20世紀前半のイギリス帝国の非公式支配は、公式帝国をはるかに超えていた→ラテンアメリカのほとんどはロンドンの金融支配など。イギリスの比較優位を保証する世界体制
→国際連盟は、この世界秩序に制度的な形を与えた→イギリスの国力に陰りが見えると、機能不全に陥る→中小国が離脱しないよう、開発援助や技術協力を行う
国際連合の新しさは五大国の拒否権→連盟時代のイギリス帝国のヘゲモニーが圧倒的だった時代と違う
米ソ両陣営は、国連を利用→衛星国家的な中小国を国連に加盟させていく。国連の枠組みを利用して基地も確保していく
2000年代初頭、アメリカ絶頂期のアフガニスタン戦争でもイラク戦争でも、国際的正統性の源泉として国連安保理決議を欲したがそうはならなかった
→多様なアクターが冷戦後の非公式帝国を形成している状態。もはや特定の国家が非公式帝国ではない

511修都:2024/03/19(火) 19:49:26 ID:4qrqq.3Y
栗田禎子「「アラブの春」の世界史的意義」
2011年の中東で生じた革命状況は、新自由主義に深刻な一撃を与えるほとんど最初の事例だった。エジプトは特に典型的な新自由主義だった
中東同時革命は、中東に成立した諸国がいずれも共通の矛盾を抱えており、それゆえ一カ所で起きた変革が連鎖・共振を生み出していくというものだった
中東は、新自由主義の弊害だけでなく、先進諸国が軍事介入を仕掛けてくるという局面もあった→再植民地化的状況→アラブの春は欧米の中東介入に対する異議申し立てという面もあった
チュニジアでは民主的・市民的勢力が強靭さを発揮しているが、19世紀のアラブ地域でも最初に立憲主義運動が始まったのはチュニジアで、民主化闘争の最前線となってきた歴史がある
2011年の中東革命では初期にはイスラーム主義勢力が役割を果たしていない。イスラーム主義勢力は独裁政権と支え合い、共犯関係だった
→国際的圧力から早期選挙が実施されると資金・組織面で勝るイスラーム主義勢力が勝利→革命の団結を破壊するために分断・対立が煽られる

512修都:2024/03/21(木) 19:57:20 ID:4qrqq.3Y
川島真「中国と世界」
中国は19世までは冊封朝貢関係だが、儀礼を伴わない貿易関係である互市もある→アヘン戦争後の南京条約は互市の調整なので冊封朝貢関係は維持
→日清戦争後、互市が対外関係の基礎になる。それ以降は、既存の世界秩序に対応する
江沢民、胡錦濤政権は党内民主化を推進した→習近平政権はその流れで成立しながら、党内民主化を止めた
社会主義市場経済→社会主義を大前提にして市場経済的要素を取り入れて社会主義を完全なものにする
胡錦濤はかろうじて改革開放路線を堅持し、党内民主化を推進した政権だが、保守派の台頭で「選挙」で習近平が選ばれた
→格差解消、一党独裁堅持という胡錦濤からの課題を克服する政権として期待された→胡錦濤には無かった強いリーダーシップが求められた
中国は国際連合重視を唱えながらも、西側先進国の秩序、価値を批判するようになった→批判を主としたもので、既存の秩序に代わるものは提示していない

513修都:2024/03/22(金) 19:44:11 ID:4qrqq.3Y
島田周平「アフリカの変容」
サハラ以南アフリカは80年代は経済の自由化、90年代は政治の民主化を遂げてきた→一党制の国は無くなった
アフリカの紛争では最終的な停戦には国連や欧米諸国の平和維持軍の派遣が欠かせないが、初期段階でAU(アフリカ連合)や準地域機構が一定の役割を果たしている
21世紀、海外投資流入でサハラ以南アフリカは高い経済成長率を記録した。その投資の最大の国が中国だった
→6ヶ国は対中国債務が危険水域に達しているといわれている。中国が直ちに政治的・軍事的要求を押し付けることはないと思われるが、高圧的に転じる可能性も否定できない
ジンバブウェでは白人農場が無断占拠されたとして2001年に欧米から制裁を受けたが、もともとイギリスが国土の46%強を所有する状況を維持しようとした歴史的背景がある
サハラ以南の医療関係者流出は深刻で元首や有力政治家が入院治療のために欧米やサウディアラビアに出かけることが常態化している
サハラ以南ではキリスト教徒が多いと考えられている。推計ではキリスト教徒が人口の63%、イスラーム教徒が約28%→キリスト教系新宗教が弱者たちに拡大している
2000年以降急増した土地売買の中には、伝統的土地保有権で守られてきた耕作権や居住権を奪うものもあった

514修都:2024/03/23(土) 11:04:25 ID:4qrqq.3Y
大串和雄「ラテンアメリカの模索」
20世紀後半、ラテンアメリカ諸国が採用したのは、国家主導の輸入代替工業化→80年代に経済失速。輸出志向工業化を追求したアジア諸国とは対照的に経済危機
→国際金融機関や先進国からの圧力でラテンアメリカは新自由主義の時代に→国営企業民営化、貿易の自由化、雇用保護弱体化、経済規制緩和など
ラテンアメリカ諸国は19世紀初頭に独立して共和政を選択したときから民主化が始まっている→しかし、20世紀前半になっても非民主制が併存(制限選挙、クーデター、強圧的な政権)
2000年代以降、いくつかのラテンアメリカ諸国では、民主制から非民主制への揺り戻しが見られるが先進国並みの民主制もある
60年代から70年代にかけては、キューバ革命などの影響で、ラテンアメリカ各地で急進左翼運動が伸長した→弾圧→暴力革命放棄、自由民主主義・市場経済を受容
2000年前後から、一時はラテンアメリカ諸国の半数以上が、左派政権となった→穏健派はかつての急進左翼が穏健化したものだが、急進派は新たな勢力が多い
1960年代からラテンアメリカ諸国は米国から自律的な傾向を見せている→中国はいくつかの国では最大の貿易相手。存在感を高めている

515修都:2024/03/24(日) 13:33:17 ID:4qrqq.3Y
森千香子「移民・難民」
冷戦終結以降、欧米を中心とする移民受け入れ国では治安の悪化や失業の増大などを移民のせいにする排外主義の機運が高まり、移民を厳しく管理する政策への転換が進んだ
2001年の同時多発テロ事件以来、移民は国家の安全保障上の脅威とみなされる。EU諸国はアフリカや東欧に資金を与える対価に移民・難民を取り締まる役目を課した
80年代より欧米を中心に、家事労働などに従事する労働者として国境を越える女性の姿が顕著になった→女性たちが社会進出したことの代行
→移民女性には出身国に子どもや親がおり、家族を養うために出稼ぎに来ている→途上国の家族の世話をする人がいなくなる→さらに貧しい女性を雇い面倒を見てもらうという連鎖
日本では80年代以降、性産業と結婚の枠組みで女性移民の導入が行われてきた→前者は2004年に米国国務省から人身売買と批判をうけ05年に入管法改正
強制移住者の大半を受け入れているのは低中所得国で先進国の受け入れは24%にすぎない
→しかしシリア内戦が本格化し2015年に100万人を超える人が欧州に渡ると欧州難民危機が叫ばれ、移民の排除の議論が広がる
21世紀以降、ライフスタイル移民の増加→日本でも国外移住者は89年から30年間で2.3倍に増加。移民は途上国の人間が先進国にむかってするものだけではない

516修都:2024/03/25(月) 19:39:03 ID:4qrqq.3Y
田村慶子「ジェンダーとセクシュアリティをめぐるアジアの政治」
東南アジアの伝統社会では欧米よりも女性の地位は高く、セクシュアリティの多様性も認められていた→商売に関わることは女性の仕事。一方で、女性の教育は無視されていた
中国とベトナム北部では儒教道徳によって男性による女性の支配は正当化されていた。インドのマヌ法典も同様で女性は男性に支配されていた
キリスト教会や欧米諸国がアジアに進出しても女性の地位は向上していない→ヴィクトリア王朝的性道徳にもとづく男女の理想像が持ち込まれている
→東南アジアでは近代的生活様式を取り入れるにつれて女性が公共の場から撤退していった。同性愛者は犯罪者となった
日本でも比較的穏やかであった性生活やセクシュアリティに関する風俗習慣を明治政府はヨーロッパを範として矯正した
独立を獲得したアジアでは、家父長制が採用された。若い未婚女性は単純・未熟練労働者として動員されたが、男性との賃金や昇進での差別は深刻で、税制面でも差別された
中華人民共和国では、憲法に男女平等が規定され、男女平等になった→しかし、女性労働力の評価は男性より低く、同一労働同一賃金は達成されなかった
→80年代から改革開放が始まると、女性労働者は過酷な競争に晒されリストラの対象になり、家庭内の性別役割分担も強化された
→一人っ子政策が始まると、男児を産まない妻への虐待、女児の間引きや捨て子が急増
国際社会の動きの中で80年代になって、アジア各国で女性の地位の向上が謳われる→天安門事件で失墜した信用を回復するため95年、中国で第4回国連世界女性会議が開催される
中国のジェンダー格差指数順位は下がり続けている→女性の貧困が拡大している。現在の新指導部には女性はいない。日本では、性別分業を前提とした制度と慣行が続いている
男性の発言が受け入れられやすいアジアでは、レズビアンよりもゲイの発言力の方が大きい
イスラームの道徳言説が大きな影響を与えているマレーシアやインドネシアでは、同性愛は危険な存在とみなされる傾向が強い
台湾で2019年に同性婚が合法化されたのはアジアではユニークな事例→ただし、法案成立までに賛成派と反対派が激しく対立しており、台湾でも異性愛規範は根強い

517修都:2024/03/26(火) 20:03:08 ID:4qrqq.3Y
喜多千草「コンピュータの普及とメディアの変容」
1978年、ベル電話研究所がUNIXを搭載したコンピュータ間の通信を電話回線を利用して可能にする仕組みを発表した
→カリフォルニア大学バークレー校版UNIXの完成度が高く、現在に至るまでのネットワーク用サーバの基盤的なソフトウェア設計に大きな影響を与えた
さまざまな情報通信ネットワークが存在していたが、90年代に複数のネットワークをつなぐ仕組みであるインターネットに合流していく
→コンピュータ通信を介して、情報交換しようとするユーザたちがあったからこそ、商用解禁後すみやかにインターネット利用者が拡大していった
1957年から、米国の防空システムのために量産されることになった高速コンピュータの製造を請け負ったのが、会計機製造会社のIBMだった
今日のインターネットは起源の異なる多様な機能を実現しているため、現代社会のインフラとみなされている
情報技術の導入による社会の変容を革命になぞらえることは50年代から見られ、何が革命的かという内容は時代によって変換している
かつては新聞・テレビ・雑誌が担っていたプロパガンダの器としての機能はインターネット上のメディアでも担われるようになってきた

518修都:2024/03/26(火) 20:53:01 ID:4qrqq.3Y
以上、岩波講座世界歴史全24巻まとめ終わり
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