したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

漫画・ライトノベル以外の書籍スレ

453修都:2023/10/07(土) 17:01:07 ID:Wvozer8s
青野利彦「国際関係史としての冷戦史」
戦後構想の相違はあったものの、戦後一定の時期まで米英ソには互いに強調する用意があった→相違が明らかになりはじめたのはドイツ降伏の頃→ソ連はドイツの弱体化を目指していた
47年6月マーシャル・プラン→米国は対ソ協調を放棄して、英仏と共にドイツ・欧州を経済復興させる計画→スターリンは提案を拒絶し、東欧諸国にも参加を禁じる
50年代前半までに米ソは多くの国々と同盟を形成していった。西欧諸国は主体的に米国を招き入れる努力を行った。東欧はソ連によって支配体制が強制された側面が強い
→スターリンが死ぬと、ソ連は東欧諸国に政治的抑圧の緩和と生活水準向上を命じた。56年、フルシチョフがスターリン批判
→ハンガリーで反政府暴動が起きるとソ連は軍事介入。ソ連は東欧における同盟の揺らぎを繰り返し軍事的に押さえつける
戦後の脱植民地化に米ソは、支援する側に軍事・経済的支援を与えたり、秘密作戦を実施したりする形で介入した
ベトナムとインドネシアは独立戦争で米国に支援を求めたが米国は応じなかった→ベトナムのホー・チ・ミンは中ソに接近。インドネシアのスカルノは反共主義者だと米国に示す
エジプトのナーセルは非同盟主義で米ソ対立を利用
50年代中ごろから核戦争防止の観点からデタントを模索するようになる→現状を固定化、安定化する
英外交は固定化・安定化志向だったが、60年代半ば以降、欧州冷戦を終わらせるビジョンでデタントを追求したのがド・ゴール仏大統領
デタントはニクソン政権で新局面→ソ連をデタントへ誘導するために中国を利用する→ニクソン訪中と訪ソ→ブレジネフ訪米
米ソ関係は79年12月のソ連のアフガニスタン侵攻で決定的に悪化した→この時期の米国を牽引したのが反ソ強硬派のレーガン
85年にゴルバチョフが書記長に就任すると米ソ関係は大きく変化する→レーガンとゴルバチョフは互いに訪米・訪ソする
東欧の社会変動にゴルバチョフのソ連は不介入だった→東欧はソ連にとって負債となっていた


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板