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オショーのSadhana Pathを読んで実践する

1避難民のマジレスさん:2020/11/18(水) 21:29:41 ID:Dp/qMVVc0
Sadhana path 修行の道
第1章 ようこそ
私は深い闇に包まれた人間を見ている。彼は暗い夜にランプが消された家のようになっている。彼の中の何かが消えてしまった。しかし消えてしまったランプは再び点火することができる。

私はまた、人間がすべての方向を失っていることが分かる。彼は公海で道を失った船のようになってしまった。彼はどこに行きたいのか、何になりたいのかを忘れてしまった。しかし、忘れられていたことの記憶は、彼の中で再び目覚めさせることができる。

闇はあっても、絶望する理由はない。闇が深ければ深いほど、夜明けは近い。沖合で私は全世界の霊的な再生を見ている。新しい人間が生まれようとしており、私たちはその誕生の苦しみの中にいる。しかし、この再生には私たち一人一人の協力が必要だ。それは、私たちを通して、私たちだけで起こる。私たちはただの見物人でいる余裕はない。私たちは皆、自分自身の中でこの再生の準備をしなければならない。

新しい日が近づいてきて、夜明けを迎えるのは、私たち自身が光で満たされたときだけだ。それは、その可能性を現実に変えるのは私たち次第だ。私たちは皆、明日の建築物のレンガであり、未来の太陽が誕生するための光線なのだ。私たちはただの見物人ではなく、創造者なのだ。しかし、必要なのは未来の創造だけではなく、現在そのものの創造であり、自分自身の創造なのだ。自分自身を創造することによって、人間は人間らしさを創造するのである。個人は社会の構成要素であり、進化も革命も彼を通して起こることができる。あなたはその構成要素だ。

だからこそ、あなたを呼びたい。眠りから目覚めさせたい。あなたの人生が無意味で役に立たない、退屈なものになっているのがわからないだろうか?人生はすべての意味と目的を失っている。
――
これは1964年6月、オショーの初の瞑想キャンプでの講話です。
私が修行の道に入ったのも、何をしても最後には死によって失われてしまうと実感し、せめてその前に真実を知りたいと切望したからでした。
オショーが「記憶は、…目覚めさせることができる」と言っているのは、自我が無いときの記憶という意味なのでしょうか? それとも、何かを象徴していますか?

425避難民のマジレスさん:2022/07/07(木) 05:02:59 ID:XIzJxhik0
2.附託と無明 2.1.附託の定義  p216-225

   [質問して]言う。この附託とはいったい何なのかと。答えて言う。[附託とは]以前に知覚されたXが、想起の姿で56別の場所Yに顕現することであると。
   [反対主張]確かに附託に用いられるのは、以前[に認識したことのある実在]の認 識に限られ、現に認識している実在(Paramārthatta)[自体]が[附託に用いられることはない]。しかし、[ヴェーダーンタ側の主張によれば]身体・器官等は・空中の蓮のように、全く実在しない[はずだから、それらが]認識されること自体ありえない [ことになる]。
   [反対主張に対する反論][身体・器官等は、全くの非実在ではない。それらは・実 在であるとも非実在であるとも表現し得ないものである。従って、全く認識しえない わけではない]57。
   [反対主張]実に、純粋精神であるアートマンの場合でも、[それが]実在である[根拠]は、まさに[それが]輝いている(認識の対象となっている)点(prakāśamāntā)にあ るのであり、それ以外の、実在性という普遍との内属関係(sattāsāmānyasamavāya) 58や効用を果す能力を持つものという性質(arthakriyākāritā)59が、[その実在性を決 定する根拠なの]ではない。というのは、[それらが純粋精神であるアートマンの実在 性を決定する根拠だとすると]二元論に陥ってしまうからである60。そしてまた[この場合]、実在性(sattā)[という存在]と効用を果たす能力を持つものという性質[が 実在する根拠として、さらに、それぞれ]に、別の<実在性>と別の<効用を果す能力 を持つものという性質>を想定しなけれぱならなくなり、無限遡及に陥ってしまうから である。従って、輝いている(認識の対象となっている)ことこそが、実在性[を決定 する根拠]なのだ、と認めるべきである。同じく、身体等も、輝いている(認識の対象 となっている)から、純粋精神であるアートマン同様、非実在ではない。あるいは、も し、[身体等が]非実在であれば、輝いていない(認識の対象となっていない)[はずであるが、実際には、輝いている(認識の対象となっている)。従って、身体等は実在で ある]。とすれば、どうして、[ヴェーダーンタ側の言うような]真実[であるアートマ ン]と虚妄(非実在)[である身体等]との混淆がありえようか。[そして]、それ(混淆)が在在しなければ、相違に対する無理解とは、一体、何の[相違に対する無理解]であり、[それは]何から[生じうるの]か。[さらに]、それ(相違に対する無理解)か 存在しなければ、どうして、附託がありえようか。このような考えを抱いて、[反対主 張者が]言う、すなわち反論する。この附託とは一体何のかと。何なのかという[語]は反論[の意味で用いられているの]である。

脚注
56 57
58実在性という普遍との内属関係とは、ニヤーヤ学派やヴァイシェーシ力学派で、物の実在性を決定する根拠として用いられる術語である。これらの学派によれば、個々の個物(たとえば個々の火)が共通に同一の語(たとえば火という語)で示されるのは、普遍(たとえば火性)があるからであるとされる。また、これらの学派は、物と物とを結びつける関係には、二種類あると考えてい る。すなわち、関係によって結びつけられた二つの物が不可分の関係にある場合(たとえば属性とその基 体等との関係)と、両者が分離可能な関係にある場合(たとえば壷と壷が置かれている場所等との関係) の二種である。前者は内属関係と呼ばれ、後者は結合関係と呼ばれる。そし て、普遍と物(実体・属性・運動)との関係は、内属関係であるとされている。従って・個々の火が共通 に火という語で示されるためには、それか火性という普遍と内属関係にあることが必要とされる。同じように、個々の物が実在という語で示されるためには(実在であるためには)、それらが実在性という普遍と内属関係にある必要があるのである。
59効用を果す能力を持つものという性質とは、仏教論理学派で対象の実在性を決定する根拠として用いられる術語である。この派によれば、対象(たとえば壼)が実在であるのは、それ に効用を果す能力(たとえば水が汲める)があるからであるとされている。
60不二一元論学派は、ブラフマン=アートマンのみが実在するという一元論の立場をとっている。従っ て、もし実在性という普遍との内属関係や効用を果たす能力を持つものという性質が実在性を決定する根拠だとすると、ブラフマン=アートマン以外に実在が存在することを認めることになり、その基本的立場
がくずれてしまうことになる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

426鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/07(木) 22:59:55 ID:1d4drIFg0

 質問したのじゃ。
 付託とは何なのかと。

 答えのじゃ。
 付託とは、以前に知覚されたものが想起の形で別の場所に現れたものであるというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 身体、器官等は実在しないから認識されることもないはずだというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 身体、器官等は全くの非実在ではなというのじや。
 全く認識されないということもないというじや。

 反対なのじゃ。
 アーマトンさえも実在の根拠はそれが認識の対象であるからというのじゃ。
 身体や器官も認識の対象であるはずだというのじゃ。
 そうであるならばどうして真実であるアートマンと非実在であるアートマンの混淆があるのかというのじゃ。
 混淆が存在しなければ無理解もなく、生じないというのじゃ。
 無理解がなければ付託もないというのじや。

427避難民のマジレスさん:2022/07/08(金) 03:49:46 ID:dqLu5VTI0
(つづき)
   [答論]答論者は、[次のように]、単に附託の定義一[それは]世間の人々に良 く知られたものである ーを述べるだけで、反対主張を退けているのである。答えて 言う。[附託とは]以前に知覚されたXが、想起の姿で、別の場所Yに顕現することであると。顕現すること(avabhāsa)とは、[のちに]消えざる(avasanna)、あるいは、 価値がなくなる(avamata)現れ(bhāsa )61のことである。そして、消えさること (avasāda)、あるいは、価値がなくなること(svamāna)とは、これ(顕現)が、別の 観念によって拒斥されること[を言っているので]ある。そのため、[顕現が]誤った 認識と言われるのである62。そして、以前に知覚されたX(pūrvavadrsta)等は、これ (顕現)の説明である。以前に知覚されたXが顕現すると(pūrvavadrstavabhāsa)とは、以前に知覚されたXの顕現のことである63。そして、誤った観念は、附託の対象 [たとえば真実である真珠母貝]と被附託者[たとえば虚妄である銀]とが混淆されな ければ、存在しない。それ故、以前に知覚されたXと述べることで、[まず]虚妄であ る被附託者を明示するのである。そして、知覚されたX(drsta)と述べてあるのは、 [附託に]用いられるのは、それ(被附託者)の知覚されたものであるという面だけであり、[それの]実在(vastusat)であるという面が[附託に用いられるの]ではないか らである。しかしながら、現に知覚されているもの、すなわち[その]姿(darśana) が、附託に用いられることはない。そのため、以前に(pūrva)と述べてあるのであ る。このうち、以前に知覚されたXは、本来は実在であるが、被附託者となっているので、[実在であるとも非実在であるとも]表現し得ないもの(anirvacanīya)64、すな わち虚妄(mithyā)である。[また]別の場所Yに(paratra)とは、附託の対象一 [それは]真実である ー のことを言っているのである。すなわち、別の場所Yにとは、 真珠母貝等の実在(paramāthasat)に[という意味である]。従って、以上[の論議]により、真実と虚妄とが混淆されることが明らかになった。
   [反対主張][しかし]以前に知覚されたXが、他の場所Yに顕現することというのは、[附託の十分な]定義ではない。なぜなら[定義の]外延が広すぎる(ativyāpaka)65からである。というのは、以前スヴァスティマティーという[名の]牛で見たことのある牛性が、他の場所すなわち力一ラークシー[という名の牛]に顕れるのは、[正しいことで]あるし、また、以前パータリプトラ[という町]で見たことのあるデーヴァタッタが、他の場所すなわちマヒシュマティー[という町]に顕れるのは正しいことだからである。さらに、顕現という語が、正しい観念(認識)にも[用いられるのは]周知の事実である。たとえば、青の顕現、黄色の顕現というように。

脚注
61 62 63
64ātmakhyātiによれば、誤謬とは内的なものである識を外界に存在する対象であると認識する ことである。第二に、asatkhyātiによれば、誤謬とは、非実在を実在と認識するこ とである。第三に、akhyātiによれば、認識はすべて正しいものだが、二種の正しい認識どうし(たとえば知覚と想起等)を正しく区別して認識しないことで誤謬が生じるとされる。第四 に、anyathākyātiによれば、誤謬とは、実在X(たとえば真珠母貝)を非実在Y(たとえば銀)として認識することであり、Yも本来は実在であるとされる。最後にanirvacanakhyāti(anirvacanīyakhyāti)よれば、誤謬とは、実在であるとも非実在であるとも表現し得な いものを認識することである。本文中では、2-1一附託の定義以下2.4.他学派による附託の定 義(3)までで、附託の定義をめぐって、anirvacanakhyātiの立場から他学派の誤謬論か批判されている のである。
65定義が正しいものであるためには、以下の三つの欠陥のないことが必要である。すなわち、(1)定義 の外延が狭すぎること、(2)定義の外延が広すぎること、(3)定義が全くあては まらないことである。ここで、附託の定義に欠陥(2)が認めら れるから十分な定義ではないと言われているのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

428鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/08(金) 23:46:54 ID:1d4drIFg0

 答えたのじゃ。

 付託の一定義を述べるだけで反対主張を退けているというのじゃ。
 付託とは以前に知覚されたものが、想起の形で別の場所に顕現することであるというのじゃ。
 顕現とは後に別の観念によって消え去ること、排斥されることだというのじゃ。
 顕現とは結局、誤った観念だというのじゃ。

 その誤った観念とは付託の対象と被付託者が混淆しなければ存在しないというのじゃ。

 反対するのじゃ。

 以前に知覚されたものが別の場所に顕現することは、付託の十分な定義ではないというのじゃ。
 なぜならば別の場所に正しい観念の対象が存在することもありえるからというのじゃ。
 顕現も正しい観念に用いられることもあるから正しくないというのじゃ。

429避難民のマジレスさん:2022/07/09(土) 04:37:58 ID:rxilBjuA0
(つづき)
    [答論]そこで答えていう。想起の姿(smrutirūpar)でと。想起の姿とは、それには想起の姿のような姿がある66[という意味である]。すなわち、想起の姿で[と言うことで]、対象を[現に]直接に知覚していないことを言っているのである。一方、正 しい認識である再認識(pratyabhijñāna)の場合には、対象を[現に]直接に認識し ている。従って、[この定義の]外延が広すぎる(ativyāpti)67ということはない。ま た、[この定義の]外延が狭すぎる(avyāpti)68ということもない。何故なら、夢の中の認識も、想起という[姿の]誤認であるが、[これも]このような(附託という)性 質を持っているからである。というのは、こ(夢の中の認識)の場合にも、[人は]、あ ちこちでまさに以前知覚したことのある、現存する場所と時間という性質を、想起した 父親等一[ところが、父親等を現に]直接に知覚しているのではないということは、夢に昏まされて理解されていない一に、附託するからである69。
   また、「真珠母貝が黄色い」とか「黒砂糖が苦い」という場合にも、同様に、こ(附託)の定義が当然適用される。詳論すれば、次の通りである。黄疸にかかった人(dravyamat)70は、胆汁という実体(bittadravya)一[それは]目から外に放射された非常に透明な光と接触している一に存する黄色という性質を、胆汁という実体とは無関係に、経験(知覚)する。一一方、[感官器官に]欠陥があるために、真珠母貝を白いものとは知らずに経験(知覚)する。さらに、黄色という性質が真珠母貝と無関係であることを
経駿(認識)しない。そして、[黄色という性質と黄金とが無関係ではないと考えるのと]71同じように、[黄色という性質と真珠母貝とが]無関係ではないと考えて、 「黄色い黄金」や「黄色いビルヴァの実」等の場合に以前に知覚したことのある[両者の]同格関係を、黄色という性質と真珠母貝に附託して、「真珠母貝が黄色い」と言うので ある。以上[の説明]で、「黒砂糖が苦い」という観念(認識)も説明したことになる。
[また]同様に、[鏡や水に映った顔を自分の顔だと思う]反映による誤認(Pratibimba- vilbhrama)72にも、[附託の]定義があてはまる。[すなわち、この場合には]服[から出た]光は、非常に透明な鏡や水等一[それらは]認識主体である人間と向かい合っている一と接触しても、[それより]強い太陽の光に[はねかえされて]逆流し、 顔と接触して、[認識主体に]顔を認識させる。一方、[眼に]欠陥があるため、[その 光は]、顔の[実際にある]場所および顔が[実際には自分と]向い合ってはいないことを[認識主体に]認識させることはない。そして、以前に知覚したことのある鏡や水 一[それらは、自分と]向い合っていた一のあった場所という性質および[それら が自分と]向い合っているという性質を、顔に附託するのである。以上[の説明]により、二つの月、方角を誤ること、火輪73、ガンダルヴァの町74、竹薮の蛇等の誤認の場 合にも、場合に応じて、[附託の]定義が適用されるはずである。

脚注
66ここで「想起のような姿」と述べているのは、まず、「想起の姿」と述べることで、附託が再認識とは 異なることを示し、「のような」と述べることで、附託が想起とは異なることを示しているのである。
67 68脚注65参照。
69この個所は、夢の場合には、真珠母貝を銀に附託するときの真珠母貝に相当する基体が存在しないから、附託の定義のうち、「他の場所Yに」という部分があては まらなくなるという反論に対する答た だとさている。
70 71 72
73たいまつの火などを速く回すと、実際には輪ができるわけではないのに、輪のように見えること。
74雲を天界の町と見誤ること。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

430鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/09(土) 23:45:58 ID:1d4drIFg0

 答えたのじゃ。

 付託では想起の姿で認識されるのであるからそれでよいじゃ。
 想起の姿であるとは、対象を直接に知覚していないのじゃ。

 正しい認識である再認識では、対象を直接に認識しているというのじゃ。
 これによって定義の外延が広すぎることも、狭すぎることもないのじゃ。
 夢の中の認識も誤認であるが、付託という性質を持っているからというのじゃ。

431避難民のマジレスさん:2022/07/10(日) 04:31:09 ID:bwOC2mBQ0
(つづき)    p221-222
   以上述べてきたことの趣旨は次の通りである。単に輝いていること(認識の対象に なっていること)だけが、実在性[を決定する根拠]ではない。[もし、それが実在性を 決定する根拠なら]身体・器官等は、輝いている(認識の対象となっている)から、実在であることになろう。[しかし実際には、それらは実在ではない]というのは、[縄等を蛇と見誤る時]、縄等は蛇の姿で顕れ、[水晶に赤い花か映っている時]、水晶等は 赤等の属性を備えたものとして顕れるが、[それら]顕れたもの(蛇等と赤等の)属性を 備えた水晶等)が、それら(蛇等と赤等の属性を備えた水品等)自体であったり、それ らの属性(蛇の属性等と赤等)を備えたりすることはないからである。もしそうなら、 砂漠で、上下に[揺れる]光線の束(唇気楼の河)75を[見て]、「「これは、さざ波という花輪をかけたマンダーキニー(天界のガンジス河)が、近くに降りてきたのだ」と 思って近づいた人は、その水を飲んでも、渇きをいやすことができるはずある。[しかし実際にはそうではない]。従って、たとえ意に添わなくても、「附託されたものは、輝いていても(認識の対象になっていても)、実在ではない」と認めるべきである。
    [反対主張]水は、光線(唇気楼)の姿では非実在である。しかし、それ自体ではまさに実在である。一方、身体・器官等は、それ自体でも非実在である。従って、[身体・ 器官等は]経験の対象とはならないから、附託されることなどどうしてあろうか。
   [答論]それは正しくない。というのは、もし、非実在が経験の対象とはならないのなら、光線(唇気楼)等の非実在が、水として、経験の対象となることはないからであ る。[すなわち、水]それ自体は実在だが、[光線(屡気楼の水)]も、水を本質としており実在である、ということはないのである。
   [反対主張]非実在(abhāva)とは実在(bhāva)と異なるものでは決してない。そうではなくて、まさに実在が、別の実在を[その]本質とすることで、非実在となるのである。[従って、非実在は]それ自体では実在なのである。このことが「非実在とは 実在の別[の形]にほかならない。ただし、[実在が]ある特定の観点から見られたものなのである」76と言われている。従って、[このように、非実在は]本質的には実在であると説明しうるら、これ(非実在)が経験の対象となるのは理にかなっている。 ところが、[身体等の]現象(Prapañca)は、[輝く(顕現する)能力や効用を果す能力 等の]能力をすべて欠き、かつ実在性(tattva)のない・全くの非実在である[から、それが]経験の対象となることはありえない。[従って、身体等の現象が]純粋精神で あるアートマンに附託されることなどありえないのである。
   [反対主張に対する反論]対象には、[輝く(顕現する)能力や効果を果す能力等の]能力がすべて欠けていても、それ(対象)に対応する識(認識、jñāna)一[その]個々の独特な本質は、良く知られており、[識]自らの観念(一瞬時前の識)の力により 得られる一自体が、非実在[である対象]を照らし出す(顕現させる)のであるか。 従って、非実在を照らし出す(顕現させる)こ(識)の力が無明(avidyā)[と言われるの]である。
    [反対主張者の答]それは正しくない。その理由は次の通りである。[そもそも]識
のもつこの非実在を照らし出す(顕現させる)力とは[一体]体]何なのか。また、こ [のカ]は、[一体]何を可能にするのか。もし、[この力が]非実在[の顕現を可能にする]とすると、それ(非実在)とは、これ(識のもつ力)の[生み出した]結果(kārya) なのか、それとも、識のもつ力によって認識させられるもの(jñāpya)なのか。[このうち]まず、[非実在は、識の力が生み出した]結果ではない。非実在がそれ(識の力が生み出した結果)であることはありえないからである。また、[識の力が非実在を]認識させるわけでもない。というのは、[非実在を認識させる識と同時に、それとは] 別の[非実在を認識する]識[が存在すること]は認められないからであり77、また、 [別に非実在を認識する識が存在するとすると、その識をさらに認識させる識が存在することになり]無限遡及に陥るからである。
   [反対主張に対する反論]識は本来非実在を照らし出す(顕現させる)ものなのである。
  [反対主張者の問い]実在と非実在はどのような関係になるのか。

脚注
75文脈に応じて、適宜、光線の束と蜃気楼の河、蜃気楼の水等とを訳し分けた。
76
77唯識論者によれば、識は刹那滅だから、ここに述べられているような二つの識が同時に存在することはありえない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

432鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/10(日) 23:28:20 ID:1d4drIFg0
今までのまとめなのじゃ。

 認識の対象であることが実在性を決定する根拠ではないというのじゃ。
 身体、器官も実在ではないというのじゃ。
 縄が蛇と認識されるとか、水晶に赤い色が反映されるとか蜃気楼のように付託があるからなのじゃ。

 反対なのじゃ。

 水は光線では非実在であるが、それ自体は実在はするのじゃ。
 身体、器官は自体も非実在であるというのじゃ。
 経験とか認識されるものではないから、非実在であり、附託されることもないのじゃ。

 答えたのじゃ。

 非実在が経験の対象とならないならば、光線が水として経験の対象となることはないから正しくないというのじゃ。

 反対なのじゃ。

 非実在が実在と異なるといことはないというじゃ。
 実在が別の実在を本質とすることで非実在になるというのじゃ。
 そうであるから非実在も経験の対象となるというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 対象は能力などが欠けていても、識によって顕現するというのじゃ。
 非実在を顕現させる力が無明というのじや。

 反対なのじゃ。

 識の非実在を顕現させる力は何なのかというのじゃ。
 さらに識を認識させる識が必要になり、無限遡及に陥るとのじゃ。

 答えたのじゃ。

 識は本来、非実在を顕現させるものというのじゃ。

 聞いたのじゃ。

 実在と非実在の関係はどのようなものなのかというのじや。

433避難民のマジレスさん:2022/07/11(月) 00:03:26 ID:DotYiV8Q0
(つづき) p223-224
   [反論者の答]実在である識[のあり方]は、非実在に基づいて決定される、という
のが実在である識と非実在との関係である。
  [反対主張][対象が]実在しなくても、これ(識)[のあり方]が決定されるとは、 このあわれな観念(識)は、実になんとまた運のいいことだろう。[そんな馬鹿なこと があるはずはない]。また、観念がそれ(非実在)に基づくことなど全くありえない。 というのは、非実在が基体となるのは埋に合わないからである。
  [反対主張に対する反論][確かに]これ(観念)が非実在に基づくことは決してな い。しかし、観念は、[常に非実在と共存しているから]、非実在がなければ現われる (prathate)ことはない。それが、まさに、観念の本質なのである。
  [反対主張]この観念は、それ(非実在)から生じるわけでも、それ(非実在)を本 質とするわけでもないのに、それ(非実在)と必ず必然的関係(avinābhava)にある とは、実になんとまた、非実在に未練がましいことか。[しかし、そんな馬鹿なことが あるはずはない]。従って、[以上の論議から明らかなように]、身体・器官等は、実在性(tattva)のない完全な非実在(atyantāsat)であって、経験の対象とはなりえない のである。
  [答論]ここで答えて言う。もし、実在性のないものは経験の対象とはならないとす ると、[光線(屡気楼の水)は水を本質とするものとして]経験の対象となっているから、 この場合、光線(唇気楼の水)も水を本質とするものとして実在している(satattva) ということになるのではないか。
   [反対主張][光線(蟹気楼の水)は]実在ではない。光線(蟹気楼の水)は、それ (水)を本質とするものとしては、実在しない(asat)からである。そもそも、事物のあり方(tattva)には二種ある。すなわち実在(sattva)と非実在(sattva)とである。 このうち、前者は、自らに基づいて(自己を本質として)[存在して]おり、一方、後 者は、他に基づいて(他の事物を本質として)[存在して]いる。このことが、「常に実在でありかつ非実在である事物に関して、ある人々は、ある時に、[事物]それ自体 の姿で、ある姿(実在)を認識し、ある人は、ある時に、[事物とは]別の姿で、ある 姿(非実在)を認識する」78と言われているのである。
  [答論]だとすると、光線(蟹気楼)を[見て]水が現われたと認識するの(pratyaya) は、真理(実在、tattva)を対象とする[認識だ]ということになるのだろうか。そう だとすると、[この認識は]正しい認識であり、従って、誤認ではないことになり、拒 斥されることもないはずである。[しかし実際には、この認識は誤認であり、のちに生じた認識によって拒斥されるではないか]。
   [反対主張]もし、[この認識が]、光線(屡気楼の水)一それは、実際には、水を本質とするものではない一を、水を本質としないものとして認識していれば、確かに、[この認識は]拒斥されることはない[し、誤認でもない]。しかし、[光線(蟹気 楼の水)を]水を本質とするものとして認識している場合には、[その認識が]どうし て誤認でなかったり、拒斥されなかったりしようか。

脚注
78
(´・(ェ)・`)
(つづく)

434鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/11(月) 23:30:41 ID:1d4drIFg0
 答えたのじゃ。

 実在である識は非実在に基づいて決定されるというのじゃ。

 反対なのじゃ。

 対象が実在しなくとも、識のありかたが決定されるとはおかしいといのじゃ。
 観念が実在しないものを基底にすることはありえないというのじゃ。
 存在しないのであるからのう。

 答えたのじゃ。

 観念は非実在と共存しているから、非実在がなければあらわれないというのじゃ。
 それが観念の本質というのじゃ。

 反対なのじゃ。

 観念は非実在から生じるのではなく、非実在を本質とするのでもないのに、必然的な関係なのはおかしいというのじゃ。
 そうであるから身体や器官は非実在で経験の対象にはならないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 
 実在ではないものは経験の対象とはならないならば光線による屡気楼の水は水を本質とするものとして経験の対象となっているから、
 光線(唇気楼の水)も水を本質とするものとして実在するということになるのじゃ。

 反対なのじゃ。

 それは違うというのじゃ。
 実在は自らに基づいて存在するものであるというのじゃ。
 非実在は他を本質とするものというじゃ。

 答えたのじゃ。

 だとすると蜃気楼の光線を見て水だと認識するのは正しいことになるというのじゃ。

 反対なのじゃ。

 それは正しくないというのじゃ。

435避難民のマジレスさん:2022/07/11(月) 23:54:39 ID:HbYTaiSg0
(つづき) p224-225
  [答論]実に、光線(蟹気楼の水)一[その]本質は水ではない一が、水であることを本質とするのは、まず、実在ではない。というのは、それ(光線=唇気楼の水) は、水でないものと異ならないから、水であることを本質とすることはありえないからである。また、[光線(蟹気楼の水)が水であることを本質とするのは]非実在でもない。というのは、[あなた方反対主張者は]「非実在とは実在の別[の形]である。[実 在と]異なるものでは決してない。何故なら、[実在とは別の非実在は]確証されないからである」79と主張しており、事物Xが実在しないということは、別の事物Y[が実 在すること]にほかならないということを認めているからである。また、[光線に]附託された[水という]姿は、[光線とも、また、水とも]異なるものではない。というの は、[もし、それらとは異なるものだとすると]、それ(光線に附託された水の姿)は、 光線であるか、ガンジス河等の水であるかのどちらかであろう。前者の場合には、光線があるという観念(認識)が[生ずる]はずで、水があるという[観念(認識)は生じ]ないことになる。後者の場合には、ガンジス河に水があるという[認識が生じる] はずで、ここに[水があるという認識は]決して[生じ]ないはずである。[また]、も し、特定の場所が想い出せない時には、水があるという[認識が生ずる]はずで、ここに[水があるという認識は]決して[生じ]ないはずである。
   [反対主張]これ(屡気楼の水)は完全な非実在であり、全く実体(svarūpa)のない単なる虚妄(alīka)のはずである。
   [答論]それは正しくない。というのは、それ(虚妄=完全な非実在)が経験の対象となりえないことは、すでに述べた通りだからである。従って、[屡気楼の水は]実在 でもなく、非実在でもない。また、実在でありかつ非実在であるということもない。というのは、[実在でありかつ非実在であるというのは]相矛盾することだからである。 だから、光線に[附託された]水(唇気楼の水)は、[実在であるとも非実在であると も]表現し得ないものであると理解すべきである。それ故、以上の論議から[次のこ とが結論づけられる。すなわち、光線に]附託された水(屡気楼の水)は、実在する水 (paramārthatoya)のようであり、従って、以前に知覚されたもののようであるが、実際には、水ではなく、以前に知覚されたものでもない。そうではなくて、虚妄(mithyā)、 すなわち、[実在であるとも非実在であるとも]表現し得ないものである。また、同様 に、身体・器官等の現象も、[実在であるとも非実在であるとも]表現し得ないものであり、[従って、それらは]以前に[知覚されたことは]なくても、以前の誤った観念から顕れたものであるかのように、別の場所すなわち純粋精神であるアートマンに、附 託されるのである。[そして]このことは理にかなっている。というのは、附託の定義 にあてはまるからである。また、身体・器官等の現象が拒斥されることに関しては、の ちに説明するつもりである80。
  一方、純粋精神であるアートマンは、天啓聖典・聖伝書・叙事詩・プラーナの対象で あり、[それが]本質的に、清浄で、悟っており、解脱したものであることは、それ(天啓聖典等)に基づきかつそれ(天啓聖典等)と矛盾しない論理によって確定している。 [従って、アートマンは]まさに実在であると表現し得る(nirvacanīya)のである。そ して、それ(アートマン)が実在である[根拠]は、[アートマンは]自ら輝いている[か ら、他の認識によって]拒斥されることはないという点(abādhitā svayamprakāśatā) にこそあるのであり、そして、それこそか、純粋精神であるアートマンの本質なのであ る。一方、それ(他の認識こよって拒斥されることのない、自ら輝いているという性質)とは異なる、実在性という普遍との内属関係や効果を果す能力を持つものという性質は、[アートマンが実在であることを決定する根拠では]ない。こうして、すべては 明らかとなったのである。

脚注
79 80
(´・(ェ)・`)つ

436鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/12(火) 22:48:16 ID:1d4drIFg0
 答えたのじゃ。

 蜃気楼の光線は水を本質とするものではないから、実在ではないというのじゃ。
 非実在でもないというのじゃ。
 反対者が実在と非実在は同じというからなのじゃ。

 反対なのじゃ。

 蜃気楼の水は非実在であるというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 非実在である虚妄が経験の対象になりえないことはすでに述べた通りなのじゃ。
 そうであるから屡気楼の水は実在 でもなく、非実在でもないというじゃ。
 実在であり、非実在であるということもないのじゃ。
 矛盾するからなのじゃ。

 同じように身体や器官等の現象も、また実在であるとも非実在であるとも表現できないものというのじゃ。
 アートマンに付託されたものであるというのじゃ。

 そのアートマンは聖典とかに記された論理で確定されているから実在といえるのじゃ。
 さらにアートマンは自ら輝いているから、他の観念によって排斥されないから実在なのじゃ。
 それがアートマンの本質であるというのじゃ。

437避難民のマジレスさん:2022/07/13(水) 10:33:39 ID:WCu/3GdE0
2.2.他学派による附託の定義(1):Ātmakhyātivādin 1. p225-226 114右/229

  そして、この[実在であるとも非実在であるとも]表現し得ない附託一[その]定義は先に述べた通りである一は、実に、すべての人が認めているところである。[しかし]、その(附託の)詳細(bheda)に関しては、諸論者間に相当な見解の相違がある。 そのため[『註解』の作者シャンカラは、附託が実在であるとも非実在であるとも] 表明し得ないものであることを確定するために、[次のように]述べているのである。
  ある人々81は、それ(附託)とは、Xの属性82を別の場所Yに附託すること (文字通りには、別の場所Yに対するXの属性の附託)であると言っている。
  Xの属性のとは、識(認識)の属性の、[たとえば]銀の識の形相(jñānākākra)の、 等々[という意味]である。[それを]別の場所Yに、すなわち外界に、附託する。ま ず、経量部の見解では、外界の事物は実在であり、それ(外界の事物)に識の形相が附 託されるのである。[一方、唯識論者によれば]、外界の事物は実在しないが、無始である無明の潜在印象(Vāsanā)より生じた外界[の事物]ー[それは]虚妄であるーが存在する[から]、唯識論者の場合にも、それ(外界の事物)に識の形相が附託され るのである。[唯識論者が、外界の事物は虚妄であっても存在する、と認めている]理 由(upapatti)は次の通りである。すなわち、経験によって良く知られた姿は、[それ を拒斥する観念が生じないうちは]、そのままの姿で[存在するものと]認めておくぺ きである、という原則があるからである。というのは、それ(経験によって良く知られ た姿)が[拒斥されて、それとは]別の姿になるのは、[その経験を]拒斥するより強 力な観念の力によるからである。そして、[たとえば「これは銀ではない」83という拒斥の場合、[それは、銀が外界に存在することを示す] 「これ」という性質のみを拒斥 することによって可能となるのである。[従って]、この場合、[拒斥の]対象が銀であ るというのは適当ではない。というのは、銀という基体が拒斥されると、銀とその属性である「これ」という性質が[共に]拒斥されることになるから、基体である銀も拒 斥される[と考える]よりは、これ(銀)の属性である「これ」という性質だけが拒斥 される[と考える]ほうが、理にかなっているからである。そして、このように、銀が 外界に[存在在すること]は拒斥されるから、当然(arthāt)、銀は内的な識に[存在 するのだと]確定されるのである。従って、外界に、識の形相が附託されることが確立 されるのである。

脚注
81 82
83 以下、真珠母貝を銀と見誤る例に基づいて論議が進められるので、理解しやすくするため、適宜、真珠母貝と銀の例を補った。
くま注、経量部、部派仏教の一派である。説一切有部から分派した。3世紀末に開かれた。説一切有部、及び大乗仏教の中観派・唯識派と共に、「インド仏教4大学派」の1つに数えられたりもする。
説一切有部が論(アビダルマ)を重んじたのに対して、経典を重んじて基準(量)としたため、「経量」部と呼ばれた。
(´・(ェ)・`)つ

438鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/13(水) 23:53:03 ID:1d4drIFg0
このような実在でもなく、非実在でもないという付託の定義はすべての人が認めているというのじゃ。
 しかしその詳細には各派で違いがあるというのじゃ。

 それについてシャンカラが述べているというのじゃ。

 経量部は、外界の事物は実在であり、それに識の内部にある形相が附託されるというのじゃ。

 唯識派は、外界のものは存在しないというのじゃ。
 ただ無明によって生じた虚妄の外界の事物に、職の形相が附託されるというのじゃ。

439避難民のマジレスさん:2022/07/14(木) 01:07:11 ID:CztdSez.0
2.3.他学派による附託の定義(2):Akhyātivādin p227-228

  しかし、ある人々84は、[附託とは]XがYに附託された時、[Xと]Y85との区別を理解しないことに基づく誤認(bhrama)のことであると[言う]。
  しかし、ある人々は、すなわち、識の形相説に満足しない人々は、[附託とは]Xが Yに附託された時、[Xと]Yとの区別を理解しないことに基づく誤認のことであると [言う]。そして、[識の形相説に]満足しない理由を[次のように]述べている。すな わち、銀等が識の形相であることは、経験に基づいて確定されるか、推論に基づいて確定されるかのいずれかであろう。このうち、推論に関しては、のちに退けるつもり である86。[さてもし、銀等が識の形相であることが経験に基づいて確定されるとすると、その]わ87経験とは、さらに、銀等の観念であるか、[銀等の観念を]拒斥する観念で あるかのいずれかであろう。まず第一に、[それは]銀の観念ではない。というのは、 それ(銀の観念)は、「これ」という語(観念)の対象である(外界に存在する)銀を認識させるのであり、内的なもの(識の形相としての銀)を認識させるのではないからである。何故なら、その場合には(もし、銀の観念が、内的なものである識の形相としての銀を認識させるのなら)[「これは銀である」どういう認識ではなく]、「私は[銀である]」と[いう認識が生ずることに]なるはずだからである。というのは、[唯識論者にとっては]認識主体と観念(識)とは異ならないからである。
  [唯識論者]錯誤せる識が、まさに自己の形相を外界に存在するものとして定立するのである。従って、これ(識)の対象は、[外界に存在するものとして定立された識の 形相であるから]、「私」という語(観念)の対象ではない。さらに、これ(外界に存在 する銀等)が識の形相であることは、[外界に存在する銀等を]拒斥する観念から知られるはずである。[すなわち、外界に存在する銀等を拒斥するものが観念であるから、拒斥されるものすなわち銀等も観念、のはずである]。 [Akhyātivādin]ああ、あなたは長生きするよ88。[銀等を]拒斥する観念をよく考察してごらんなさい。[銀等を拒斥する観念は]ー体、眼前にある実体と銀とを識別するのか、それとも、[銀が]識の形相であることを示すのか。このうち、[銀等を]拒斥 する観念の機能は、[銀等が]識の形相であることを示す点にあると[あなたが]言うのなら、[あなたは]見上げた利口者であり、神々のお気に入り(馬鹿)である。
   [唯識論者][銀が]眼前にあることが否定される(pratisedha)のだから、当然(arthāt)、 これ(銀)は、[内的なものであり]識の形相である。
  [Akhyātivādin]そうではない。[銀が認識主体の]近くに存在していないことに対する無理解が否定されると、[銀等が]認識主体の近くに存在していない[ことが理解 されるだけで]あり、[そのことから]どうして、これ(銀)が認識主体を本質とするというような、[銀と認識主体との]極端な近接関係(sannidhāna)が[理解されたり]しようか。

脚注
84 85 86 87
88「長生きするよ」とか「神様のお気にいり」という語は、反対主張者なかでも仏教徒を郷楡して馬鹿よばわりするときに用いられる表現である。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

440鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/14(木) 23:50:40 ID:wWrqg5gM0
 しかし、他のものは付託とは、XがYに附託された時、それらの区別を理解しないことに基づく誤認だというのじゃ。
 唯識のものがいうように、たとえば銀の形相が経験に基づいて確定されるならば、それは銀の観念ではないというのじゃ。
 なぜならば唯識論者にとって観念と認識主体は異ならないから、私は銀であるという認識が起こるというのじゃ。

 唯識論者は反対するのじゃ。

 認識の対象は自分ではないからそれはないというのじゃ。
 外界に存在する銀等が識の形相であることは、それを拒斥する観念から知られるというのじゃ。
 なぜならば外界に存在する銀等を拒斥するものが観念であるから、拒斥されるものである銀等も観念のはずであるというのじゃ。

 
  答えたのじゃ。

 銀等を排斥する観念は、眼前にある実体と銀とを識別するのか、それとも銀が識の形相であることを示すのかと聞くのじゃ。
 銀等を拒斥 する観念の機能は、それ識の形相であることを示す点にあると言うのなら間違いなのじゃ。

 反対なのじゃ。

 銀が眼前にあることが否定されたのであるから、当然それは内的なものであり、識の形相だというのじゃ。

答えたのじゃ。

 それはただ銀が認識主体の近くにないことを示しただけなのじゃ。
 それだけで認識主体を本質とするということにはならないのじゃ。

441避難民のマジレスさん:2022/07/14(木) 23:56:03 ID:cOC89WfM0
(つづき)  p228-229    
  さらに、これ(銀を拒斥する観念)は、銀を否定するのでも、「これ」という性質 を否定するのでもなく、「これは銀である」という銀に関する日常的表現(経験)一 [それは、真珠母貝を対象とする「これ」という認識と想起された銀の認識との]区別 を理解しないことから生じたものである一を否定するのである。
  また、[anyathākhyāivadinが言うように]89、銀の認識によって銀自体が真珠母員貝に現われる(prsañjita)のではない。何故なら、銀が顕現する基体(ālambana)が 真珠母貝であるというのは、理に合わないからである。というのは、[それは]経験に 反するからである90。
  また、[真珠母貝は、真珠母貝であることは知られていなくても]存在するだけで (sattāmātrena)[銀が顕現する]基体となるということはない。というのは、[その場 合には、銀が顕現する基体となりうるものの範囲が]広くなりすぎるという誤謬に陥るからである。すなわち、すべての事物は、存在であるという点では変わりがないから、 [すべての事物が、銀の顕現する]基体となるという誤謬に陥るのである。さらに、[真珠母貝は、銀が顕現する(認識される)]原因であるから、[銀が顕現する基体(銀とい う認識の対象)である、というわけ]ではない。というのは、感覚器官等も[銀が顕現 する(認識される)]原因だからである。従って、基体(対象、ālambana)91が意味す るのは、顕現すること(認識されること)にほかならない。そして、真珠母貝が銀の認識に顕現することはないから、どうして、[真珠母貝が銀の顕現の(銀の認識の)]基体(対象)でありえようか。あるいは、[銀の認識に真珠母貝が]顕現することを認めた場合には、[銀の認識の対象が真珠母貝であるということになり]、どうして経験に反しないことがあろうか。[経験に反することになってしまう]。
  さらに、感覚器官等には正しい認識を生み出す能力[のあること]が認められているのだから、どうして、それら(感覚器官等)から、誤った認識が生じようか。
  [反論]これら(感覚器官等)は、欠陥を伴う場合には誤った観念[を生み出す]能力も持つのである。
  [Akhyātivādin]そうではない。何故なら[感覚器官等の]欠陥は、[感覚器官等に備わった]結果を生み出す能力を損う原因となるだけ[であって、誤った認識を生みだ す原因とはならない]からである。というのは、さもなければ、欠陥があればクタジャ の種からでも、バニヤンの芽が出る、という誤謬に陥ることになるからである。さら に、[銀が認識の対象でもないのに、銀が認識されるというように]、諸々の認識が自己 の[正当な]対象からはずれるとすると、あらゆる場合に、[認識が]不確実なものと なる(anāśvāsa)という誤謬に陥ることになる。それ故、認識はすべて正しいと認め るべきである。従って、「銀」という認識と「これ」という認識は、[それぞれ]想起と経験(知覚)という姿をした二種の[正しい]認識なのである。

脚注
89
90何故、経験に反するのかという点については、以下の論議を参照のこと。
91ālambanaという語には、基体という意味と対象という意味がともに含まれているので、ここでは、文脈に応じて、適宜、基体と対象を訳し分けた。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

442避難民のマジレスさん:2022/07/15(金) 09:56:22 ID:QQibwu9g0
「くまなりまとめ」は、長くなり過ぎるので、中断するであります。
 
鬼和尚の解説が優れた要約になっているので、それを参照しながらの読解の訓練が、集中力の鍛錬になるであります。
たいへんありがたいことであります。
(´・(ェ)・`)b

443鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/15(金) 23:30:30 ID:wWrqg5gM0

 さらに銀を排斥する観念は銀を否定するのではなく、性質を否定するのでもないというのじゃ。
 銀に関する経験を否定するのじゃ。

 また銀の認識で銀が真珠母貝に現れることもないというのじゃ。
 銀が顕現する基体が 真珠母貝であるというのは理に合わず、経験にも反するからなのじゃ。

 真珠母貝は真珠母貝として存在するだけで銀の基体になることもないというのじゃ。
 それだと全ての存在が銀の基体となってしまうからなのじゃ。

 真珠母貝は銀が顕現する原因であるから基体であることもないのじゃ。
 感覚器官も銀が顕現する基体となるかなのじゃ。

 基体とは認識されることに他ならないというのじゃ。
 真珠母貝が銀の認識に顕現することはないから基体ではないというのじゃ。

 感覚器官も正しい認識を生み出す能力があるから、それから誤った認識が起こることもないというのじゃ。

 反論なのじゃ。

  感覚器官は欠陥があれば、誤った認識を生み出すのじゃ。

 答えたのじゃ。

 感覚器官の欠陥は、結果を生み出す能力を生む原因となるだけで、誤った認識の原因とはならないというのじゃ。
 認識の欠陥である植物の種から、別の植物の実がなることはないからなのじゃ。

444避難民のマジレスさん:2022/07/16(土) 00:55:58 ID:kcJDodG20
(つづき) p229-230
  このうち、「これ」という[認識]は、眼前に[何か]実体があることだけを知覚しているのである。というのは、そ[の実体]に属す真珠母貝性という[真珠母に]共通 の特質(sāmānyaViśesa)92が、[感覚器官等に]欠陥があるために知覚されていないからである。そして、 「それ(眼前に存在する何らかの実体)だけが知覚されると、[その実体は、銀と]似ているので、[人に、過去に知覚したことのある銀の]印象を想い 起こさせることで(samskārodbhdakakramena)、銀を想起させるのである。そして、 それ(銀の想起)は、[過去に]知覚したことのある認識を本質とするものではあって も、[感覚器官等に]欠陥があるために、[過去に]知覚したことのあるものだという 面が欠落している(pramosa)から、[現存する]知覚としてのみ立ちあらわれているのである。このように、銀の想起と眼前に存在する[何らかの]実体のみを知覚することとは、[両者の]区別が理解されていないために、[認識]それ自体に関しても、ま た、[その]対象に関しても、混同されるのである。「これ」という[認識]と「銀」という[認識]は、知覚と想起というように[それぞれ]異なっているにもかかわらず、 [それらは、感覚器官と]結合した銀(眼前に存在する銀)を対象とする認識と似ているために、[両者を]区別しない日常的経験や[両者を]同格関係で表現することを引き起すのである。 また、ある場合には、二種の知覚の区別が互いに理解されないことがある。たとえば、「法螺貝が黄色い」という場合のように。この場合には、[眼から]外た出た光線 一[それは]水晶のように透明である一に存在する胆汁の黄色は知覚されるが、胆汁は知覚されず、[一方]ほら貝も、[感覚器官等に]欠陥があるために、白という属 性のない、単なる実体として知覚される。それ故、これら属性(黄色)と[その]基体 (法螺貝)とが無関係であることを理解しないことから[生ずる]類似性に基づいて、「黄金の塊は黄色い」という観念の場合と同じように、[「法螺員は黄色い」という、両者 を]区別しない日常的経験や[両者を]同格関係で表現することが[生ずるので]ある。 また・[想起と知覚あるいは二種の知覚の]区別を理解しないことから生じる、[両者 を]区別しない日常的経験が拒斥されることで、「これは...ではない」という[両者を]識別する観念が拒斥するもの(bādhaka)であることも成り立つのである。そして、こ のことが成り立てば、前に[生じた]観念は、[あとに生じた観念によって拒斥される から]誤認である、という世間で認められている事実も成り立つことになるのである。
  それ故、[次のような椎論式が成立する。すなわち]「(主張)疑問と誤認に満ちた相 矛盾する見解はすべて正しい(yathārtha)。(理由)というのは、[それらは]観念だからである。(実例)たとえば、壷等の観念のように」。
  以上のことが・Xが[Yに]附託される[時]云々と言われているのである。真珠母貝(Y)に銀等(X)が附託されるのは、世間で周知の事実である。[しかし]、それは、 YがXとして認識されること(anyathākhyāti)93に基づくのではない。そうではなく て、[それ(附託)とは、ある場合には、以前に]知覚したことのある銀等およびその [銀等の]想起が、「これ」という形で眼前に存在する[何らかの]実体およぴそ(実体) の認識とは異なるということを理解しないこと一[それは銀等の以前に]知覚した ことのあるものであるという面が欠落することによる一に基づく誤認である。また、[ある場合には・附託とは、以前に]知覚したことのあるものが、rこれ」という形で眼前に存在する[何らかの]実体およぴそ(実体)の認識とは異なるということを、理解 しないことに基づく誤認である。そして、知覚と想起を互いに同格関係によって表現することや・「[これは]銀である」等の日常的経験は、誤認[の結果]なのである。

脚注
92共通の特質とは、個物に対しては普遍であり、実在性に対しては特殊であるものを言い、類と同義である。
93 脚注64参照。
(´・(ェ)・`)つ

445鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/16(土) 23:24:38 ID:wWrqg5gM0
 認識は眼前に実体があることだけを知覚しているというのじゃ。
 それが実体をも否定する唯識論者との違いなのじゃ。

 実体に属する共通の特質が知覚されず、似たものが想起されるというのじゃ。
 以前に認識したものと眼前のものと区別しないから混同が起こるのじゃ。

 また二種の知覚の区別が理解されないために起こる事もあるというのじゃ。
 対象の属性と基体が無関係であることを理解しないから起こる事もあるというのじゃ。
 それらの無理解が拒斥されることで両者を区別される観念も成り立つというのじゃ。

 付託とは何かが別の何かに認識されるというだけではないのじゃ。
 眼前の対象が、以前に知覚された別の似たものに誤認されることが付託されたということだというのじゃ。

446避難民のマジレスさん:2022/07/17(日) 02:45:26 ID:qTt0I4uw0
2.4.他学派による附託の定義(3):その他の学派   p231-235

  しかし、別の人々は94、[附託とは]XがYに附託された時、Yにはまさに [それに]反する属性があると誤って構想すること(kalpanā)である、と主 張している。

  しかし、別の人々は、すなわち、これ(これまで述べてきたakhyātiの見解)にも満 足しない人々は、[附託とは]、XがYに附託された時、Yにはまさに[それに]反する 属性があると誤って構想することである、と主張している。ここ(本文中)で言おうと していることは以下の通りである。銀を求める人は、「これは銀である」という観念に 基づいて、眼前に存在する実体に向かったり、[その実体と銀とを]同格関係で表現し たりする。これは、広く知られているところである。[しかし]、知覚と想起およびその [それぞれの]対象が互いに異なることに対する単なる無理解から、このことが[起こ る]ということはありえない。というのは、精神神的存在の日常的経験(vyavahāra, 活動)95と表現は、理解に基づいており、[それらが]単なる無理解から[起こること]は決してありえないからである。
  [Akhyātivādin][それらは]単なる無理解から[起こるの]ではない。そうではなくて、知覚と想起は、それ自体に関しても、また、[その]対象に関しても、互いに異 なることが理解されていない場合には、[「これ」という知覚と「銀」という想起とが]眼前に存在する銀に関する正しい認識と類似しているために、[「これ」と「銀」とを]区別しない日常的経験(活動)や[両者の]同格関係による表現を引き起すのである。
  [Akhyati批判][このようにあなたは]言っていったが、では、これら(知覚と想 起)が正しい認識と類似していると理解されている時に、[その類似性が]日常経験(活 動)を引き起こす原因となるのか、あるいは、[類似していると]理解されていなくて [も]、単に[類似性が]存在するだけで、[それが日常経験(活動)を引き起す原因と なるの]か。[このうち、知覚と想起が正しい認識と類似していると]理解されている 場合には、[この理解は]、さらに、 「『これ』という[知覚]と『銀』という[想起]と いうこれら二種の認識は、正しい認識と類似している」という形の理解になるか、「こ れら二種[の認識]は、実に、[認識]それ自体に関しても、また、その[それぞれの] 対象に関しても、互いに異なることが理解されていない」という形の理解となるか[のいずれかであろう]。このうち、まず、 「正しい認識と類似している」という認識は、 正しい認識のようには、日常的経験(活動)を引き起すことはない。というのは、「カ ヴァヤ96は牛に似ている」という認識は、牛を求めている人を、ガヴァヤに向かわせる ことはないからである。一方、 「これら二種[の認識]は、実に、異なることが理解 されていない」という認識は、自己矛盾である。というのは、「[両者が]異なることが理解されていな」ければ、 「これら二種[の認識]は」という形はとらないし、 「こ れら二種[の認識]は」という理解があれば、 「[両者が]異なることが理解されてい ない」ということはないからである。従って、[次のように]言うべきである。すなわ ち、[「これ」という知覚と「銀」という想起が眼前に存在する銀に関する正しい認識と 類似しているという事実が]単に存在するだけで、[知覚と想起が]異なることを理解していないということが分からなくなり、[それが]日常的経験(活動)の原因となる のであると。

脚注
94Ratnaprabhāは、「空観派の人々」と解し、Nyāyanirnayaは、中観派の人々 と解している。Bhāmatīがどう解していたかは不明だが、その註釈は、(中観派の人々 )と解している。
95日常的経験という語には、日常的活動という意味あいも含まれている。
96 牛に似て牛に非ざるものの例としてよく用いられる雄牛の一種。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

447鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/18(月) 00:07:57 ID:7bvYmyZM0
さらに別の派のものは付託とは、あるものが付託され時にそれとは反する属性があると、誤って構想することというのじゃ。
 それは単なる無理解ではなく、知覚と想起が主客共々、互いに異なることが理解されていない時に区別しない表現を引き起こすというのじゃ。
 つまり真珠母貝が銀と誤認された時に、実は過去の記憶から想起されたものであるのに、知覚されたと思ってしまうということじゃな。
 それも類似しているからというのじゃ。

 反論なのじゃ。

 正しい認識と類似しているという認識が、それらの認識を引き起こすことはないというのじゃ。
 
 
 さらに二種の認識が異なることが理解されていないというのは自己矛盾であるというのじゃ。
 異なることが理解されていなければ、これら二種の認識はという形はとらないからなのじゃ。
 その理解があれば両者が異なることが理解されていないということはないからだというのじゃ。
 
 そうであるから、対象の知覚と想起が、想起対象の正しい認識と類似しているという事実が単に存在するだけで、
 知覚と想起が異なることの無理解が起こり、誤認の原因となるのであると言うのが正しいというのじゃ。

448避難民のマジレスさん:2022/07/18(月) 00:45:29 ID:ct57SF/Q0

(つづき)    p932-933
  [問]この場合、これ(知覚と想起が異なることに対する無理解)は、附託を生み出 すことで、日常的経験(活動)の原因となるのか、それとも、附託を生み出すことなし に、まさに、それ自身で、[日常的経験(活動)の原因となるのか。]
  [Akhyāti批判者]我々は[次のように]考えている。すなわち、精神的存在の日常 的経験(活動)が無知を前提とすることはありえないから、[知覚と想起が異なること に対する無理解は]、附託という認識を生み出すことによってのみ、[日常経験(活動) の原因となるのである]と。
  [Akhyātivādin][確かに]その通りで、精神的存在の日常的経験(活動)は、無知 を前提とすることはないが、[附託という認識を前提とするのではなくて]、異なること が知られていない知覚と想起とを前提とするのである。
  [Akhyāti批判]そうではない。というのは、「銀」という名詞語幹(prātipadika) の意味を想起しただけでは、活動の役には立たないからである。実に、銀を求める人々 の活動が、[ただ想起しただけの銀に向かうのではなく]、「これ」という語(観念)の 対象に向かっているのは、疑いのない事実である。もし、これ(「これ」という語(観 念)の対象)を求めていなければ、どうして、この人(「銀」という名詞語幹の意味だ けを想起した人)が、「これ」という語(観念)の対象に向かおうか。Xを求めてYに 向かうというのは自己矛盾である。もし、「これ」という語(観念)の対象が銀である と知らなければ、銀を求める人は、どうして、それ(「これ」という語(観念)の対象) を欲しがったりしようか。
  [Akhyāti批判に対する反論]そうでない(銀でない)ことが分かっていないから[銀を求める人は、「これ」という語(鮒念)の村象を欲しがるの]である。
   [Akhyāti批判]もし、そんなことを言うのなら、そうである(銀である)ことが分かっていないのだから、どうして、[「これ」という語(観念)の対象に対して]無関心 でいられないのか答えるべきである。[このように]この[銀を]求める精神的存在が、 [銀を]取りに行くほうにつくか、[銀に対して]無関心であるほうにつくかは確定して いないが、「これ」という語(観念)の対象に銀を附託することによって、[この人は、 銀を]取りに行くほうにのみ、確定させられるのである。従って、[知覚と想起とが]異なることに対する無理解は、附託を生み出すことによって、精神的存在の活動の原因 となるのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく

449鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/19(火) 00:23:36 ID:7bvYmyZM0
聞いたのじゃ。
 
 知覚と想起が異なることに対する無理解は、附託を生み出すことで、日常的経験の原因となるのか。
 あるいは附託を生み出すことなしに、れ自身で日常的経験原因となるのかというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 
 精神的存在の日常的経験が無知を前提とすることはありえないのじゃ。
 そうであるから無理解は附託を生み出すことで、日常的経験の原因となるというのじゃ。

 聞くのじゃ。

 精神的存在の日常的経験は、無知を前提とすることはないが、異なることが知られていない知覚と想起とを前提とするというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 想起だけでは人は日常的な活動はしないからそれは違うというのじゃ。
 想起の対象が必要なのじゃ。

 反対なのじゃ。

 銀でないことがわかっていないから、人はその想起の対象を欲しがるというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 銀でないことがわかっていないならばその対象に無関心でいられないのかというのじゃ。
 観念の対象に銀が付託されているから、人は銀を取りに行くというのじゃ。
 そうであるから知覚と想起が異なることに対する無理解は、附託を生み出すことで日常的経験の原因となるのじゃ。

450避難民のマジレスさん:2022/07/19(火) 08:03:53 ID:GORVQfcI0
(つづき) p233-234
  詳論すれば次の通りである。[「これ」という知覚と「銀」という想起とが]異なるこ とに対する無理解から、[まず]「これ」という語(観念)の対象に銀性を附託する。[次 に]その(銀という)種類に属すものは役に立つものであると考える。[そして]「これ」 という語(観念)の対象である銀は、その(銀という)種類に属するものであるから、それ(役に立つもの)であると推論する。[次に]それ(「これ」という語(観念)の対 象である銀)を求めて、人は、[その銀に]向かう。このような順序が確立されるのであ る。[一方]一般的な(tatastha)銀の想起は、「これ」という語(観念)の対象が役に立 つものであると推論するのには役立たない。というのは、[その場合には、「これ」と いう語(観念)の対象が役に立つものであることを推論する]原因(hetu)である銀性 は、場(paksa)に存在するもの(dharma)ではないからである97。実に、推論を成立 させるの(anumāpaka)は[推論によって立証しなければならないものと推論によっ て立証するための原因とが]同一の場に見られることであって、[両者が]別々の場に見られることではないのである。たとえば、[そのことが]「[遍充]関係(sambandha) を知る者は、[推論によって立証しなけれぱならないものと推論によって立証するための原因とが]同一の場に見られることに基づいて、[推論を行う]」98と述べられてい る。一方、附託の場合には、[推論によって立証しなければならないものと推論によっ て立証するための原因が]同一の場に見られる99。従って、[次のような推論が]成立 する。(主張)この論議の対象である銀等の認識は、眼前に存在する事物を対象として いる。(理由)何故なら、銀等を求める人を、必ず、そこ(眼前に存在する事物)へ向かわせるからである。(実例)Xを求める人を、必ず、Yへ向かわせる時、[その]Xに 関する認識はすべて、Yを対象としている。たとえば、[我々]両者が[そうだと]認 めている銀に関する正しい認識のように。(適用)これ(論議の対象となっている銀等 の認識)もそうである(眼前に存在する事物を対象としている)。(結論)従って、そう である(銀等の認識は眼前に存在する事物を対象としている)。

脚注
97推論が正いいものであるためには、二つの条件、すなわち、(1)推論の原因と推論によっ て立証しなければならないものとが同一の場に存在すること、(2)領域を覆うものの存在する領域が領域を覆われるものの存在する領域を覆って(あるいはそれと 重なっ)いるという関係にあることとが、満たされる必要がある。たとえば、山から立ち昇る煙を見て山 に火があることを推論する場合、山が場であり、煙が推論の原因であり、火が推論によって立証しなけれ はならないものである。また、火が領域を覆うものであり、煙が領域を覆われるものである。この推論が 正しいものでああるためには、(1)煙と火が同一の山にあること、(2)火の存在する領域が煙の存在する 領域より広い(あるいは同一である)ことが必要とされる。このことについては、脚注(14)でふれたの で、ここでは、詳しく説明することは避けたい。なお、本文の場合には、銀性が推論の原因であり、「これ」という語(観念)の対象の役に立つものであるという性質が推論によって立証しなけれぱならないも のであるが、銀性は銀という場に存在し、役に立つものであるという性質は「これ」という語(観念)の 対象である真珠母貝という場に存在しており、両者は同一の場に存在していない。従って、条件(1)が 満たされないから、銀の想起は、「これ」という語(観念)の対象か役に立つものであると推論する原因 とはならないのである。
98
99附託の場合には、銀性は「これ」という語(観念)の対象(真珠母貝)に附託されているのだから、 「これ」という語(観念)の役に立つものであるという性質も銀性もともに、同一の場、すなわち「これ」 という語(観念)の対象(真珠母貝)に存在することになり、推論が正しいものであるための条件(1)が満たされていることになる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

451鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/19(火) 22:51:45 ID:7bvYmyZM0
 知覚と想起への無理解から、知覚の対象に銀という観念を付託するのじゃ。
 それから銀が役に立つものと考えるのじゃ。
 そして銀が役に立つ貴金属であると推論するのじゃ。
 それから人は銀を求めて行動するというのじゃ。

 ただ想起するだけでは、人は動かないのじゃ。
 目の前に銀がないからなのじゃ。
 
 付託による認識は目の前にあるものを対象にしているというのじゃ。

452避難民のマジレスさん:2022/07/19(火) 23:42:31 ID:IB25p8NI0
(つづき) p234-235
  [Akhyātivādin]真珠母貝は、[銀の認識に]顕現しないから、[銀の顕現する]基 体([銀の認識の]対象)ではない100。
  [Akhyāti批判][このように、あなたは]言っていた。この場合、あなたに尋ねる。 説明せよ。「これは銀である」という認識の基体(対象)とならないのは、一体、真珠母貝性なのか、それとも、眼前に存在する白く輝く何らかの実体なのか。もし。真珠母貝性が[「これは銀である」という認識の]基体(対象)ではない[と言うの]なら、確 かにその通りである。[しかし]後者(眼前に存在する白く輝く何らかの実体)が[「こ れは銀である」という認識の]基体(対象)ではないと言うのなら、あなたはまさに、 経験に反することになる。というのは、「これは銀である」と経験している人は、経験しながら、眼前に存在する事物を、指等で指し示しているからである。
  [Akhyātivādin][感覚器官等の欠陥は、感覚器官等に備わった結果を生み出す能力
を損う原因となるだけであって、誤った認識を生み出す原因とはならない。というの は、さもなければ、欠陥があれば、クタジャの種からでも、バニヤン芽が出る、という 誤謬に陥ることになるからである。]101
  [Akhyāti批判][このように、あなたは言っていたが、そうではない]。というの は、欠陥のある原因は、通常の結果[が生じること]を妨げることで、[それとは]別 の結果を生み出すことができる、ということが経験されるからである。たとえば、山火事で焼かれると、竹の種から、カダリー木の茎が生ずることがあるし、また、体内の火は、過食病(bhasmaka)にやられると、多くの食物を消化することがある。
   [Akhyātivādin][次のような推論が成り立つことになる。「疑問と誤りに満ちた相矛盾する見解はすべて正しい。というのは、それらは、観念だからである。たとえば、 壼等の観念のように」。]102
  [Akhyāti批判][このように、あなたは言っていたが、そうではない]。直接知覚に よって[その]対象が拒斥された誤認が、正しい[などという]推論は、誤り(ānhāsa) である。たとえば、火が熱くないという推論のように。
  [Akhyātivādin][銀が認識の対象でもないのに、銀を認識するというように]誤っ た認識が、[認識自身の正当な対象から]はずれているとすると、あらゆる正しい認識根拠が不確実なものとなってしまう103。
   [Akhyāti批判][このように、あなたは]言っていた。[しかし]我々は、[認識は、人を]目覚めさせる(bodhaka)から、それ自体で正しいものであるのであって、[認識自体の正当な対象から]はずれることがないから[正しい]というわけではないの だ、と明言しており、これ(あなたの主張)は[すでに]、『ニヤーヤカニガー』の中 で104退けたので、ここでは、詳しくは説明しないことにする。
  また、[誤認の場合には、想起されたものの]想起という面が欠落しているのだ105[と いうakhyātivādinの主張]に対する批判については、ここ(akhyāti批判の箇所)で は、少しふれただけであるが、詳しくは、『タットヴァサミークシャー』106の中で、理解いただけるはずである。
  以上のことが、[『註解』本文中で]次のように述べられているのである。すなわち、
しかし、別の人々は、[附託とは]、XがYに附託された時、Yにはまさに[それに]反 する属性があると誤って構想することである、と主張していると。[附託とは]Xがす なわち銀等がYにすなわち真珠母貝等に附託された時、Yにはすなわち真珠母貝等に はまさに[それに]反する属性がと誤って構想することである。すなわち、銀牲という属性があると誤って構想することである、というのが本文の脈略である。

脚注
100 本訳228頁15-17行参照。
101 本訳229頁参照。
102 本訳228頁29行参照。
103 本訳230頁5-7行参照。
104
105 本訳229頁13-15行参照。
106これは、マンダナミジュラの『ブラフマ・シッディ』に対するヴァーチャスパティ・ミシュラの註釈であるが、現存しない。
(´・(ェ)・`)

453鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/20(水) 23:45:49 ID:XIHZ8HZ20
 
 また他の派の者は付託とは近くの対象に別のものが付託された時に、その対象に反する属性があると構想されてしまうことであるというのじゃ。
 銀等が真珠母貝等に附託された時、真珠母貝等に はそれに反する属性がと誤って構想することであるだというのじゃ。
 つまり銀牲という属性があると誤って構想することだというのじゃ。

454避難民のマジレスさん:2022/07/21(木) 08:49:14 ID:3wdMPGqs0
2.5.附託の定義のまとめ  p236-237 120左/229

  しかし、いずれにしても、[これら附託の定義は、附託とは]Xの属性がY に顕現することであるとすることがらはずれることはない。世間での経験も また同様である。[たとえば]真珠母貝が銀であるかのように顕現するとか、 一つ[しがない]月が二つであるかのように[顕現する]というように。

  [反対対主張]諸論者問の見解の相違はそのままにしておこう。ところで、[「註解』 本文中の]文脈の中で、[シャンカラが]言おうとしていることは、一体、何なのか。
   [答論]それに対して、[師シャンカラは]、しかし、いずれにしても、[これら附託
の定義は、附託とは]Xの属性がYに顕現することであるとすることがらはずれること はないと言っているのである。附託とは]Xの属性をYに誤って構想することである とは、[附託は]虚妄であるということ(anrtatā)である。そして、それ(附託が虚妄 であるということ)は、[附託が実在であるとも非実在であるとも]表現し得ないもの である、ということにほかならない。このことは、以前に、明らかにしたところであ る107。従って、[附託が]Xの属性をYに誤って構想すること、すなわち、[実在であるとも非実在であるとも]表現し得ないものであるということは、あらゆる論者の[附 託に関する]見解の中で、必ず認められている。従って、[附託が実在であるとも非実 在であるとも]表現し得ないものであるというのは、あらゆる学説と矛盾しない事実で ある。以上が[『註解』本文の]意味である。[誤認とは知覚と想起とが異なることを] 認識しないことであるとする人々(Akhyātivādin)も、[「これ」と「銀」とが]必ず同格関係で表現され、[「銀」を求める人が「これ」という語(観念)の対象に]必ず向か
うという事実を無視できないために、いやいやながらも、このこと(附託が実在であるとも非実在であるとも表現し得ないものであること)を認めている、というのが現状で ある。
  この[附託が]虚妄であるという事実は、単に、諸論者の間で確立しているだけでは なく、世間の人々の間でも[良く知られている]。だから、[師シャンカラは]世間での 経験もまた同様である。[たとえば]真珠母貝が銀であるかのように顕現するようにと 言っているのである。[この本文は]「しかし、それは、銀ではない」を補って読むべき である。
  [反対主張]Xの性質がYに存在するという形の誤認は、世間の人々に良く知られて いる。しかし、一つ[しかなくて]かつ区別のないものには、区別に基づく誤認は見られない。従って、純粋精神であるアートマンとの区別のない諸個人存在に関して、ど うして、区別に基づく誤認があろうか。
  [答論]だから、[師シャンカラは]、一っ[しかない]月が二つであるからのよう にと言っているのである。

脚注
107 cf.Bhāmatī,p.18。
(´・(ェ)・`)つ

455鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/21(木) 23:23:12 ID:XIHZ8HZ20

 聞いたのじゃ。

 見解の相違はあるにしても付託は各派皆主張しているというのじゃ。
 その上でシャンカラが主張していることは何か聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。

 いずれにしても付託の定義は、知覚の対象の属性に、他の想起されたものが顕現することだというのじゃ。
 それは虚妄であり、実在とも非実在とも言えないものであるというのじゃ。

 反対なのじゃ。

 そのように対象が他のものに誤認されることはよく知られているのじゃ。
 しかし、ただ一つのものであり、区別のないもの、唯一無二のものには誤認などないというのじゃ。

 答えのじゃ。

 シャンカラはそれについて一つしかない月が二つであるかのように見られることはあるというのじゃ。

456避難民のマジレスさん:2022/07/22(金) 00:45:07 ID:QRNVGPEs0
2.6.アートマンに対する附託は不可能であるとする反対主張  p237-238

  しかし、どうして、対象でない内的アートマンに対象とその諸属性を附託できるのか。[附託できないはずである]。というのは、すべての人は、眼前に存在する対象に[それとは]別の対象を附託するのであるが、あなたは、「内的アートマンは、『汝』という観念とは無関係なもので、対象ではない」と言っているからである。

  さらに、また、[反対主張者が]純粋精神であるアートマンに対する附託を批判して言う。しかし、どうして、対象でない内的アートマンに対象とその諸属性を附託でき るのかと。[その]趣旨は次の通りである。[まず]純粋精神であるアートマンは輝い ている(認識されている)のか、あるいは、輝いていない(認識されていない)のか。 もし、輝いていない(認識されていない)とすると、どうして、これ(純粋精神である アートマン)に対象とその諸属性を附託できるのか。というのは、眼前に存在する実体 が顕現していなければ(認識されていなければ)、それに、銀やその諸属性を附託することは全くできないからである。[一方]、もし、[純粋精神であるアートマンが]顕現 している(認識されている)とすると、実に、アートマンは物質ではないのに、[物質である]壼のように、[自己]以外のものに依存して輝く(認識される)ことになり108、 理に合わない。何故なら]、同一のもの(アートマン)が行為主体でありかつ[行為の] 目的(対象、karma)109であるというのは、矛盾するので、ありえないからである。というのは、[行為の]目的(対象)とは、[自己]以外のものに内属する行為[から生じた]結果を保持しているもののことであるが、認識行為が[アートマン]以外のものに内属することはないのだから、[アートマンが]それ(認識行為)の自的(対象)とな ることは決してないからである110。また、同一のものが自己に内属しかつ[自己]以外のものに内属する、ということもない。何故なら、[それは、自己]矛盾たからであ る。一方、[認識行為がアートマンAとは]別のアートマンBに内属していることを認 めると、アートマンAは、認識の対象(認識行為の目的)であることになり、アートマ ンはでなくなる、という[理論上の]誤謬に陥ることになる111。[そればかりか]、同 じように、それ(アートマンBも)、[それとは別のアートマンCに内属する認識行為の目的(対象)であることになり、さらに]それ(アートマンC)も、[それとは別の アートマンDに内属する認識行為の目的(対象)であることになる]というように、無限遡及に陥ることになる。

脚注
108ここでは、対象は、自己以外のもの(すなわち認識主体)によって認識されるから、精神的存在である認識主体とは異なり、物質的なものであるという考えが前提とされている。 109ここで、目的(対象)と訳したkarmaという語は、動詞の目的という意味と動詞によって表わされている行為の対象という意味をともに含んでいる。
110「[行為の]目的(対象)とは、それ以外のものに内属する行為[から生じた]結果を保持しているもののことである 、たとえば、「デーヴァタッタが村へ行くという例で説明すると、次の通りである。まずこの例では、(1)デーヴァタッタが 行為主体であり、(2)村が行くという行為が目的(対象)であり、(3)村に到着することが行くという行為の結果である。ところで、ニヤーヤ学派やヴァイシェーシカ学派によれば、物と物とを結びつける関係には、結びっけられたけられた二つの物が不可分の関係にあ る場合と、分離可能な関係にある場合との二種あると考えられており、前者は内属関係、後者は結合関係と呼ばれる。そして、内属関係にあるものは、部分と全体、属性とその基体、 行為とその行為主体、普遍と個物、特殊性と恒常な実体だけに限られるとされる。従って、ここにあげた例では、行くという行為とその行為主体であるデーウァダツタとの関係だけが、内属関係にあることにな る。一方、行くという行為の結果(到着)は、デーヴァタッタが到着するわけだからデーヴァタッタにあ り、かつ、村に到着するわけだから村にもあることになるが、それらの関係は結合関係である。それ故、「目的(対象)とは、自己以外のもの(デーヴァダヅタ)に内属する行為(行くという行為)[から生じた] 結果(到着)を保持するものである」と言えば、村に限られることになるのである。何故なら、デーヴァ タッタも到着という結果を保持してはいるが、それが行くという行為の目的(対象)だとすると、自己以外のもの(村)は、行為(行くという行為)が内属していないから、この定義はあてはまらないからであ る。
111ここでは、アートマンは認識主体であるということが前提とされている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

457鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/22(金) 23:01:56 ID:XIHZ8HZ20

アートマンとは認識主体であるから、付託はされないというのじゃ。
 そもそも付託とは認識の対象である客体に他のものの属性が顕現されるという心の働きであるからのう。
 認識主体とは関係ないものなのじゃ。

 認識主体であるアートマンは、認識されることはないのじゃ。
 もし認識主体であるアートマンが認識できたとしたら、別の認識主体が存在することになるからなのじゃ。
 その認識主体もまた他の認識主体に認識されることになり、無限遡及に陥るからなのじゃ。
 認識できない認識主体がアートマンであり、認識主体に対する働きである付託とは無関係なのじゃ。

458鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/22(金) 23:03:09 ID:XIHZ8HZ20
 ↑ 間違えたのじゃ。

 認識できない認識主体がアートマンであり、認識客体に対する働きである付託とは無関係なのじゃ。

459避難民のマジレスさん:2022/07/23(土) 05:24:13 ID:PaUr0f520
(つづき)   p238-240
  [反対主張に対する反論]112アートマンは、物質であっても、また、あらゆる対象に 関する認識の中に顕現するもの(認識されるもの)であっても、まさに行為主体であって、[行為の]目的(対象)ではない。というのは、[アートマンは]、チャイトラ[という人]の場合と同じように、[自己]以外のものに内属する行為[から生ずる]結果 を保持することはないからである。たとえば、チャイトラが、チャイトラ[自身]に内 属する「行くという]行為によって、町に到着する場合に、[到着という結果は、チャ イトラと町との]両者に内属していても、町だけが[行くという行為の]目的(対象) である。何故なら、[町は、自己]以外のもの(チャイトラ)に内属する[行くという]行為[から生ずる到着という]結果を保持しているからである。一方、チャイトラは、 [行くという]行為[から生ずる到着という]結果を保持してはいても、行くという行為がチャイトラに内属しているので、[行くという行為の目的(対象)では]ないので ある。
  [反対主張]それ(アートマンは、物質であっても、また、あらゆる対象に関する認 識の中に顕現していても、まさに行為主体であって行為の目的では在いというの)は[正しく]ない。何故なら、天啓聖典に反するからである。というのは、天啓聖典は、「ブラフマン(アートマン)は、真実であり、認識であり、無限である」113と述べてい るからである。また、[アートマンが認識それ自体であるということは]理論的にも成 りたつのである。詳論すれば次の通りである。対象の牌き(対象の認識)が[認識行為 の]結果であり、対象とアートマンは、そ(対象の輝き:対象の認識)の中に、顕現する。この場合、それ(対象の輝き=対象の認識)は、一体、物質的なものであるのか、 あるいは、自ら輝いているものであるのか。もし[それが]物質的なものであるとすれ ぱ、対象もアートマンも物質的なものであることになり、[対象の認識と対象とアート マンとの]区別がなくなってしまうから、一体、何がどこで輝く(認識される)というのか。[全く何も認識されないということになってしまう]。従って、全世界が盲目に なってしまうことになる。同じ趣旨で、「盲人につかまっている盲人が、一歩ごとに足 を踏みはずすように」114という格言がある。
  [反対主張に対する反論]認識は、それ自身は輝いていて[も](認識されなくても)、 対象とアートマンとを認識させる。ちょうど、眼等[が、それ自身は知覚されなくて も、対象を知覚させる]ように。
  [反対主張]そのように言うべきではない。というのは、認識させるということは、 認識を生み出すということであり、生み出された認識は、物質的なものであるから、先 に述べた欠陥(対象の認識と対象とアートマンとが物質的なものであることになり、全世界が盲目になってしまうことになるという欠陥)を克服できないからである。同様 に、[物質的なものである認識により生み出された]それぞれ後の認識も、物質的なも のであることになり、[認識は]いつまでたっても[物質的なものであることに]なっ てしまう。従って、認識(samvit)は、[自己]以外のものに基づくことなく輝いている(自ら輝いている)、と認めるべきである。
   [反対主張に対する反論][認識は、自己以外のものに基づくことなく輝いている、 ということは認めよう。しかし、アートマンは、どうして、物質的なものでないことが あろうか]115。
  [反対主張者]たとえそうだとしても(認識は自己以外のものに基づかずに輝いでいるとしても)、対象とアートマン [それらはあなたがたによれぱ]本質的に物質的 なものである一は、[それで]一体どうなるのか。
  [反対主張に対する反論][対象とアートマンは物質的なものであっても]、それら (対象とアートマン)に関する認識は物質的なものではない、ということになる。
  [反対主張][認識が物質的なものではない(自ら輝いている)からと言って、認識 の原因である対象とアートマンも輝いている(認識されている)とは限らない116。と いうのは]息子が学者だからと言って、[その]父親も学者であるとは限らないからで ある。

脚注
112これは、アートマンが認識の基体であるとする論者の説である とされている。すなわち、反対主張者が、アートマンは認識と同一であり自ら輝いている、という立場を 取るのに対して、反対主張に対する反論者は、アートマンは認識とは異なり、自ら輝いてるのは認識のほうであるという立場を取っているのである。
113 114 115 116
(´・(ェ)・`)
(つづく)

460鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/23(土) 23:07:41 ID:ylLhGWow0

 反対の反対なのじゃ。
 
 アートマンは行為の主体であって、対象ではないというのじや。
 主体は行為の結果を保持しても、行為の目的ではないというのじゃ。

 反対なのじゃ。

 聖典ではアートマンは認識であると書いてあるというのじゃ。
 対象の認識が物質的なものであれば、主体も客体も物質的なものとなり区別がつかなくなるというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 認識はそれ自体が認識されなくとも、対象とアートマンを認識させるというのじゃ。
 目などが自身は見えなくとも対象を知覚させることであるとわかるように。

 反対なのじゃ。

 認識は物質的なものであるから、先のとおり何も区別がつかないのじゃ。
 認識は自己以外に基づくことなく自ら認識しているというのじゃ。

 答えのじゃ。

 アートマンは物質的なものではないというのじや。

 反対なのじゃ。

 対象とアートマンは本質的に物質的なものというのじや。

 答えたのじゃ。

 対象とアートマンに関する認識は物質的なものではないというのじゃ。

 反対なのじゃ。

 認識が物質的なものではないから、認識 の原因である対象とアートマンも認識されているとは限らないというのじゃ。

461避難民のマジレスさん:2022/07/23(土) 23:33:54 ID:z3augnMs0
(つづき)    p240-241
  [反対主張に対する反論]対象とアートマンとに[常に]結びついているというのが、自ら輝いている認識の本質なのである。[従って、認識が自ら輝いていれば、対象 もアートマンも輝いている(認識されている)ことになるのである]。
  [反対主張]実に、学者である息子の場合でも、父親と[常に]結びついているとい うのが[学者である息子の]本質であるという点では、[認識と対象やアートマンとの関係と]同一である。
  [反対主張に対する反論]認識は、対象とアートマンが輝いている(認識されている)時に共に輝く(顕現する)のであって、対象とアートマンが輝いていない(認識されていない)時には、[輝かない(顕現しない)]。これが、認識の本質なのである。
   [反対主張]もしそうだとすれば、認識は、[一方では]認識が輝いていること(顕現していること)と異なることになり、[他方では]対象とアートマンとが輝いていることと異なることになるのだろうか。もしそうだとすれば、認識は、[認識が輝いてい ることとは異なるのだから]、自ら輝いているものではなくなることになり、また、認 識は、[対象とアートマンとが輝いている(認識される)こととは異なるのだから]、対象とアートマンの輝き(認識)ではなくなることになる。
  [反対主張に対する反論]認識が輝いていること(顕現していること)と対象とアー トマンが輝いていること(認識されていること)は、認識[それ自体]と異ならない。それらは共に認識である。
  [反対主張]もし、そうだとすれば、[あなたは、先に] 「認識は、対象とアートマンが輝いて(認識されている)時に共に輝く(顕現する)」と言ったが、[それは] 「認 識は対象とアートマンと共に存在する」と言うのと変わりなくなる。従って、[輝いて いる(認識されている)時に共に牌く(顕現する)」という箇所で、あなたが]言おう としていたことが成り立たなくなってしまう117。[そればかりか]過去や未来の対象に関する[現在の]認識も、[それらの]対象と共に存在することになってしまう。
   [反対主張に対する反論][過去や未来の対象に関する現在の認識は1、それ(過去や 未来の対象)に対する排除、受容、無関心という意識(buddhi)を生み出すから、[それらの]対象に関するものである(それらの対象と共に存在している)。
   [反対主張]排除等の意識も、[過去や未来の]対象に関する[現在の]認識と同じように、それ(過去や未来の対象)に関するものではない(過去や未来の対象と共に存 在していない)。
  [反対主張に対する反論]排除等の意識は、[対象の]排除等を[実際に]生み出す から、対象に関するものである(対象と共に存在している)。そして、対象の認識は、 対象に関する排除等の意識を生み出すから、それ(排除等の意識の対象)に関するもの である(排除等の意識の対象と共に存在している)。[従って、対象の認識は、対象に関 するものであることになる(対象と共に存在していることになる)。] [反対主張][もし、あなたが言うように、対象の認識は、対象を排除したり、受容
したりする原因であるから、対象に関するものである(対象と共に存在している)とすると]、身体と努力の存在する118アートマンとの結合(samyoga)は、身体が対象に向 かったり[対象から]退いたりする原因であるが、[その結合も]、対象の輝き(認識) であることになるのか。
  [反対主張に対する反論]身体とアートマンとの結合は、物質的なものであるから、 対象の輝き(認識)ではない。

脚注
117
118 身体は物質的存在であるから、精神的存在であるアートマンと結合しなければ、活動しえない。その上に、アートマンに活動しようとする努力(意志)がなければ、身体の活動は生じない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

462鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/25(月) 00:42:30 ID:TD/s1y0g0
 答えなのじゃ。
 認識の本質は、対象とアートマンに結びついているというのじゃ。
 認識が機能していれば対象もアートマンも認識されるというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 認識と対象やアートマンは常に結びついているというのじゃ。

 答えなのじゃ。
 対象とアートマンが輝いている(認識されている)時に共に(顕現するというのじゃ。
 対象とアートマンが認識されていない時は、顕現しないのじゃ。

 反対なのじゃ。
 それならば認識は自ら認識するものではなくなるというのじゃ。
 
 答えなのじゃ。
 認識が顕現していることと、対象とアートマンが認識されていることが認識だというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 それでは認識は対象とアートマンと共に存在するということになるというのじゃ。
 そして前に説いた認識されている時に顕現するというのと違うのじゃ。
 さらに過去や未来の対象に関する今の認識も、対象と共に存在することになるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 過去や未来の対象に対する認識は、排除、受容、無関心という意識を生み出すから、それらの対象と共に存在しているのじゃ。

 反対なのじゃ。
 排除等の意識も対象に関する今の認識と同じように、過去や未来の対象と共に存在していないというのじゃ。

 答えたのじゃ。 
 排除等の意識は、排除等を[実際に]生み出す から、対象と共に存在しているのじゃ。
 
 反対なのじゃ。
 対象の認識は、対象を排除したり、受容したりする原因であるから、対象と共に存在しているとすると、身体とアートマンとの結合は、身体が対象に向 かったり対象から退いたりする原因であるからその結合も、対象の認識になるのかというのじゃ。
 
 答えたのじゃ。
 身体とアートマンとの結合は、物質的なものであるから、 対象の認識ではないのじゃ。

463避難民のマジレスさん:2022/07/25(月) 07:31:35 ID:6b9WITxg0
(つづき)   p241-242
  [反対主張]これ(認識)は、[身体とアートマンの結合とは異なり]、自ら輝くもの であるが、[その]輝きは、蛍[の光]のように、自己自身を[照らす]だけであって、 対象に関しては物質的なものである(対象を照らすことはない)。このことは、[学者で ある息子とその父親の例で]119すでに明らかにした通りである。
  また、対象は、輝き(認識)を本質とするものではない。何故なら、それら(対象)は、[外界に存在する]有限なもの、すなわち、長いものや粗大なものとして経験(認識)されるが、この輝き(認識)は、内的なものとして、また、粗大でないもの、微細ででないもの、長くないもの、短くないものとして輝いている(顕現している)からである。従って、対象は、自ら輝いているもの(認識)とは異なり、月が[二つに]見える時の二つ目の月のようにまさに[実在であるとも非実在であるとも]表現し得ないものである120。このように[考えるのが]正しいと我々は思っている。また、この輝き (認識)には、本来、本質的な違い(svalaksanabheda)は見られない。[従って、この輝き(認識)が同じく自ら輝いている唯一のアートマンと同一であることにさしさわり はない]121。
  また、[対象がそれぞれ異なるから、その輝き(認識)もそれぞれ異なるということはない。実在であるとも非実在であるとも]表現し得ない対象が異なるからという理由 で、[それとは全く異なり、実在であると]表現し得る輝き(認識)も[それぞれ]異な るとすることはできないのである。何故なら、[理由の適用する範囲が]広すぎる、という[理論上の]誤謬りに陥るからである122。また、対象どうしの相互の違いは、正しい認識への過程の中には存在していないということも、のちに明らかにされること であろう。従って、この輝き(認識)とは、自ら輝いており、唯一で、変異すること なく永遠で(kūtasthanitya)、部分のない、内的なアートマン(pratyagātman)のことである。[そしてそれは、実在であると]表現し得るアートマンが[実在であるとも 非実在であるとも]表現し得ない身体・器官等とは異なる(pratīpa)と認識している (añcati)から、内的(pratyń)であり123、そのアートマンが内的アートマンなので ある。
  それ(内的アートマン)は、[自己]以外のものに基づくことなく輝いて(認識されて)おり、かつ、部分がないから、対象ではない。それ(対象ではない内的アートマン) に対象の諸属性を、すなわち、身体・器官等の諸属性を、どうして附託できるのか。どうしてというのは反論の意味である。すなわち、その反論とは、この附託は理に合わ ないということである。
  [反対主張に対する反論]では、何故、これ(附託)は理に合わないのか。

脚注
119 本訳239頁23行以下参照。
120 本訳236頁参照。
121
122 その理由として、もし、対象がそれぞれ異なるから、認識もそれぞれ異なるとすると、それは、池などに映った太陽が多数あるから、太陽も多数であると考えるようなものであるという例をあげている。
123ここでは、「内的アートマンの、内的という語を分解して、その語義を説明しているのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

464鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/25(月) 23:02:03 ID:OHlZX1Go0
 認識は自己自身を認識するだけであり、 対象を見ることはないというのじゃ。
 対象は認識を本質とするものではないのじゃ。
 対象は外界にある有限なもの、長いものや粗大なものとして認識されるが、この認識は内的なものとして顕現しているからというのじゃ。

 そうであるから対象は認識とは異なり、幻の月のように実在であるとも非実在であるとも表現し得ないものだというのじゃ。
 その認識はアートマンであるというのじゃ。

 さらに対象が異なるから、認識もそれぞれ異なるということはないというのじゃ。
 実在であるとも非実在であるとも表現し得ない対象が異なるからという理由 で、実在であると表現し得る認識も異なるとすることはできないのじゃ。
 何故ならば理由の適用する範囲が広すぎる、という理論上の誤謬に陥るからというのじゃ。

 対象どうしの相互の違いは正しい認識への過程の中には存在していないということも後で語るというのじゃ。
 認識とは、自ら輝いており、唯一で、変異すること なく永遠で、部分のない、内的なアートマンのことである。
 実在であると表現し得るアートマンが、実在であるとも 非実在であるとも表現し得ない身体や器官等とは異なると認識しているから内的であり、そのアートマンが内的アートマンなのであるというのじゃ。
 
 内的アートマンは、自己以外のものに基づくことなく認識されており、部分がないから対象ではない。
 対象ではない内的アートマンに対象の諸属性を、身体や器官等の諸属性を附託できないというのじゃ。
 故にこの付託とは理に合わないというのじゃ。

465避難民のマジレスさん:2022/07/26(火) 02:44:05 ID:q9S9X5JI0
(つづき) p242-243
  [反対主張]だから[反対主張者は、「註解』本文中で]というのは、すべての人は、眼前に存在する対象に[それとは]別の対象を附託するのであると言っているのであ る。この(本文の)趣旨は次の通りである。[自己]以外のものに基づいて輝き(認識さ れ)、かっ、部分のあるものXは、[Yと]共通な部分が認識されて[も]、[認識]器官 に欠陥があるために、[Xに]特有の性質が認識されない場合には、Yとして輝く(認 識される)ことがある。しかし、内的アートマンは、もし、[自己を認識するのに、認識器官を必要とするの]なら、それ[認識器官]に存在する欠陥に影響されることもあろうが、[自己]以外のものに基づくことなく輝いている(認識されている)ので、 自己を認識するのに、[認識]器官を必要としない。また、[内的アートマンに]、もし [部分があれ]ば、そのある部分は認識され、ある部分は認識されないということもあろうが、[内的アートマンには]部分はない。実に、XがXそれ自身によって、同時に、 認識されたり認識されなかったりすることはないのである。従って、[内的アートマン は]自ら輝いており(自己自身によって認識され)[部分がない]とする見解においては、附託はありえないのである。また、[内的アートマンが]常に輝かない(認識され ない)場合にも、[内的アートマンに対する]附託はありえない。何故なら[そのよう な内的アートマンには]眼前に存在するという性貰、すなわち、直接に知覚されるとい う性質が存在していないからである。実に、眼前に存在しない真珠母貝に、「これは銀 である」という形で銀を附託することなどないのである。従って、完全に認識されているものや全く認識されないものに対しては附託はありえない、と確定した。
  [反対主張に対する反論]もし、純粋精神であるアートマンが実際に対象でなければ、[それに対する]附託はありえないであろうが、純粋精神であるアートマンは、まさに、「私」という観念の対象なのである。従って、附託のありえないことなどどうしてあろうか。
   [反対主張][だから『註解』本文中で反対主張者は]どうして、対象でない内的アー トマンに対象とその諸属性を附託できるのかと言っているのである。実に、もし、純粋精神であるアートマンが対象(客観)であれば、[それとは]別のものが主観である ことになってしまう[が、それは理に合わない]。従って、主観こそが純粋精神である アートマンであり、対象(客観)は、それ(純粋精神であるアートマン)とは異なり、「汝」という観念の対象であると認めるべきである。それ故、[純粋精神であるアートマ ンが対象(客観)であれば、それは]アートマンでないことになってしまうという誤謬に陥るから、[次々に主観が必要となるという]無限遡及[に陥るの]を避けるため に、「汝」という観念とは無関係なもので、対象ではない[と述べられている]のである。まさに、以上の理由で、アートマンは対象ではないと言うぺきなのである。だから、[アートマンに対する]附託はありないのである。以上が[『註解』本文の]意味である。
(´・(ェ)・`)つ

466鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/26(火) 23:44:21 ID:nuS2uxxM0
 反対なのじゃ。

 内的アートマンは自己以外のものに基づくことなく認識されているので、 自己を認識するのに認識器官を必要としないというのじゃ。
 内的アートマンは自己自身によって認識され部分がないとする見解においては、附託はありえないのじゃ。

 さらに内的アートマンが常に認識され ない場合にも、内的アートマンに対する附託はありえないというのじゃ。
 何故ならば内的アートマンには、直接に知覚されるという性質が存在していないからなのじゃ。
 完全に認識されているものや全く認識されないものに対しては附託はありえないのじゃ。

 反論なのじゃ。

 もし純粋精神であるアートマンが実際に対象でなければ、それに対する附託はありえないであろうが、純粋精神であるアートマンは、私という観念の対象だというのじゃ。
 そうであるから附託されるというじゃ。


 反対なのじゃ。
 対象でない内的アー トマンに対象とその諸属性を附託できるのはずはないのじゃ。
 主観こそが純粋精神である アートマンであり、対象である客観は、純粋精神であるアートマンとは異なり、「汝」という観念の対象であると認めるべきである。

 純粋精神であるアートマ ンが対象であり客観であれば、それはアートマンでないことになってしまうという誤謬に陥るから、次々に主観が必要となるという]無限遡及[に陥るのを避けるため に、「汝」という観念とは無関係なもので、対象ではないと述べられているのじゃ。
 まさに、以上の理由で、アートマンは対象ではないと言うぺきなのじゃ。
 そうであるからアートマンに対する附託はありないのじゃ。

467避難民のマジレスさん:2022/07/26(火) 23:54:37 ID:N0DkOq7A0
2.7.アートマンに対する附託は可能であるという答論  p244-245

  答えて言う。まず、これ(内的アートマン)は、絶対に対象ではないというわけではない。というのは、これ(内的アートマン)は「私」という観念の対象 なので、内的アートマンは直接に良く知らているがらである(aparoksatvāc ca pratagātmaprasiddheh)124。さらに、眼前に存在する対象にのみ[それとは]別の対象を附託すべきであるという定まった規則(niyama)はない。というのは、愚者たちは、虚空が直接知覚の対象でなく(apratyaksa) 125でも、それに、面や汚れ(talamalinatā)126などを附託するからである。
 従って、内的なアートマンにアートマンでないものを附託しても、さしつかえ ない。

  [師シャンカラは、以上の反対主張を]退けて言う。答えて言う。まず、これ(内的 アートマン)は、絶対に対象ではないというわではない。何故か。というのは、これ (内的アートマン)は「私」という観念の対象なので、内的アートマンは直接に良く知 られているからであると。
  この(『註解』本文の)趣旨は次の通りである。内的アートマンは、自ら輝いているか ら、対象ではなく部分がない、というのはその通りである。しかし、[内的アートマンは]、本来は、統覚機能・思考器官・粗大身・微細身・器官という限定者(avaccheda) 127一[それらは、実在であるとも非実在であるとも]表現し得ない無明によって誤って構想されたものである一によって、限定されることも区別されることもなく、行 為主体でも経験主体でもないが、個人存在(jīva)という状態になると、それらの限定者によって、限定されているかのように、区別されているかのように、また、行為主体であるかのように、経験主体であるかのように、見えるのである。[それは]ちょうど、[本来、区別も属性もない]虚空が、壷・水差し・水鉢等の限定者の違いによって、 区別されているかのように、多種の属性を備えているかのように[見える]ようなもの である。
  実に、純粋精神そのもの(cidekarasa)であるアートマンは、[その]純粋精神という 側面(部分、amśa)が理解されれば、理解されないものは何も存在しない(アートマ ンのあらゆる側面が理解されたことになる)。というのは、もし[アートマンの歓声・永遠性・遍在性等が純粋精神という性質とは異なるもの]なら、それ(純粋精神という 性質)が理解されても、[歓喜等は]理解されないことになろうが、[実際には]これ (アートマン)の歓喜・永遠性・遍在性等よ、純粋精神という性貰と異ならないからである。[このようにアートマンの純粋精神という面が理解されていれば、その歓喜等も 本来は]理解されるのである。にもかかわらず、[純粋精神という性質が理解されても 歓喜等は]、誤って構想された[純粋精神という性質との]違いのために、忍識されな いので、理解されていないかのように見えるのである。

脚注
124この箇所は、これまで、次の三通りに解釈されてい る。(1)「内的アートマンの認識は直接的なものであるかわらである」と解す。これは、Bhāmatīの解釈である。(2)「というのは、内的アートマンは、直接的に知られているから、周知のものだからである」と解す。(3)「というのは、内的アートマンは、周知の存在だから、直接に知られるからである」と解す。本訳では、(1)の解釈に従って訳した。
125虚空が直接知覚の対象でない理由については本訳247頁22行以下参照。
126
127 統覚機能等の限定とは、添性のことにほかならないので、これを統覚機能等の限定者の意味に解した。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

468鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/28(木) 00:38:05 ID:FXbP5sdM0

 シャンカラは反対意見に反論するというのじゃ。

 内的アートマンは本来は統覚機能や思考器官や粗大身や微細身や器官という限定者、限定されることも区別されることもなく、行為主体でも経験主体でもないが、個人存在という状態になると、それらの限定者によって、限定されているかのように、区別されているかのように、また、行為主体であるかのように経験主体であるかのように見えるのじゃ。
 それは虚空が壷や水差しや水鉢等の限定者の違いによって、 区別されているかのように、多種の属性を備えているかのように見えるようなものだというのじゃ。
 無明によってそれらがアートマンであると誤認されるというのじゃ。

 純粋精神そのものであるアートマンは、その純粋精神という側面が理解されればアートマ ンのあらゆる側面が理解されたことになるというのじゃ。
 アートマンの歓喜、永遠性、遍在性等は純粋精神という性貰と異ならないというのじゃ。

469避難民のマジレスさん:2022/07/28(木) 00:43:32 ID:sGDPqo/s0
(つづき)  p245-247   
  また、もし[アートマンと統覚機能等との違いが、真実であれ]ば、純粋榊神である アートマンが理解されると、それ(アートマンと統覚機能との違い)も理解されようが、[実際には]アートマンと統覚機能との違いは真実(実在、tāttvika)ではない。 というのは、統覚機能等は、[実在であるとも非実在であるとも]表現し得ないものなので、[アートマンと]それ(統覚機能等)との違いも[実在であるとも非実在であるとも]表現し得ないものだからである。従って、自ら輝いておりかつ限定されていないアートマンは、限定された統覚機能等と異なるとは理解されていないので、それ(統覚機能等)が附託されると、個人存在となるのである。
  また、このアートマンは、「これ」 (対象である)という性質と「これではない」 (対 象ではない)という性質とを[同時に]備えている128[ので]、「私」という観念の対象でありうるのである。詳論すれば次の通りである。純粋精神であるアートマンは、「私」 という観念の中では、行為主体・経験主体として現れている。[しかし]、これ(アートマン)は、無関心な存在(udāsīna)129な[ので]、行為の能力や経験の能力を[本来]備えていることはありえない。[一方]、身体と器官の集合体である統覚機能等には、行 為や経験の能力は備わっているが、精神性は備わっていない。従って、純粋精神であ るアートマンが、身体と器官の集合体と結びついて、行為や経験の能力を獲得するのてある。[このように、アートマンは]自ら輝いでい[るので、本来は対象でなく]ても、 統覚機能等という対象に覆われている(vicchurana)から、なんとか、「私」という観念の対象となり、個人存在、被造物(jantu)、田地の智者(ksetrajña)130と呼ばれう るのである。
   [反対主張][個人存在は、統覚機能等の添性がなくならない限り、アートマンとは異なるものである。従って、個人存在は、「私」という観念の対象ではないのではないか]131。
  [答論]個人存在は、実に、アートマンと異ならないのである。というのは、天啓聖典が、「[さて、予は]、この個人存在であるアートマンとともに[これらの三神格(熱と水と食物)に入り、名称と形態とを展開しよう]」132と[述べている]からである。 従って、個人存在は、純粋精神であるアートマンと異ならないから、自ら輝いている。 にもかかわらず、[それが]、行為主体・経験主体として日常的に経験される(表現される)ようになるのは、「私」という観念によるのである。そのため、[個人存在は]、 「私」という観念の対象(基体、ālambana)と言われるのである。
  [反対主張][あなたが言うように、アートマンは、個人存在という状態では、「私」 という観念の対象であるから、それに対する附託が可能なのであるとすると、統覚機能等がアートマンに]附託された時に、[アートマンは個人存在として「私」という観念の]対象となり、[アートマンが個人存在として「私」という観念の]対象である時に、 [統覚機能等がアートマンに]附託されることになり、[対象であることと附託とが]相互に依存しあう[という理論的誤謬に陥る]ことになってしまう。
  [答論][それは]正しくない。というのは、[両者の関係は]種と芽のように無始だ からである。何故なら、それぞれ前の附託とその潜在印象(Vāanā)によって対象と なったものに対して、それぞれ後の附託がなされるのは、矛盾しないからである。だ から、『註解』という作品が、このことを、これが生得の(naisargika)世俗的な日常的表現(経験)であると述べていたのである。従って、[以上の論議から明らかとなるのは、『註解』が]まず、これ(内的アートマン)は、絶対に対象ではないというわで はない、と述べているのは、[反対主張に対する実に]的をえた答えであるということである。すなわち、個人存在は、純粋精神であるアートマンであり、[従って]、自ら輝 いているから、対象でははないが、添性によって限定された状態では、対象となってい る、というのが[この『註解』本文の]意味なのである。

脚注
128アートマンには、「これ」という面と「これではない」という面とがあるという論議
129「無関心な存在」とは、「何ものとも結びつくことのない存在」という意味であり、従って、それが、行為の能力や経験の能力と結びつくことはありえないのである。
130「『田地』に穀物が実るように、行為の結果が身体に於いて実るので、身体が「田地』と言われる。」アートマンは、身体の中にあって、認識主体であるから、「田地の知音」と呼ばれるのである。
131 132
(´・(ェ)・`)
(つづく)

470鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/28(木) 23:43:37 ID:A2qoIofg0
 アートマンは限定された統覚機能等と異なるとは理解されていないので、統覚機能等が附託されると、個人存在となるのであるというのじゃ。
 このアートマンは、対象であるという性質と対象ではないという性質とを同時に備えているから、私という観念の対象でありうるのじゃ。

 反対なのじゃ。
  個人存在は統覚機能等の添性がなくならない限り、アートマンとは異なるのじゃ。
  そうであるから個人存在は私という観念の対象ではないのではないかというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 個人存在は、アートマンと異ならないというのじゃ。
 聖典には個人存在であるアートマンと書いているからなのじゃ。
 それが行為主体や経験主体として日常的に経験されるようになるのは、私という観念によるのじゃ。
 そのために個人存在は、私という観念の対象と言われるのじゃ。

 反対なのじゃ。

 アートマンは個人存在という状態では私という観念の対象であるから、それに対する附託が可能なのであるとすると、
 統覚機能等がアートマンに附託された時に、アートマンは個人存在として私という観念の対象となり、その時にまた統覚機能等がアートマンに附託されることになり、相互に依存しあう理論的誤謬に陥るというのじゃ。
 
 答えたのじゃ。

 それは間違いなのじゃ。
 両者の関係は種と芽のように無始だからなのじゃ。
 それぞれ前の附託とその潜在印象によって対象となったものに対して、それぞれ後の附託がなされるのは矛盾ではないのじゃ。

 註解はまず内的アートマンは、絶対に対象ではないというわではない、と述べているのじゃ。
 個人存在は純粋精神であるアートマンであり、対象でははないが、添性によって限定された状態では対象となっている、というのが註解本文の意味だというのじゃ。

471避難民のマジレスさん:2022/07/29(金) 01:07:34 ID:hkICw4oc0
(つづき)   p247-248
  [反対主張]私たちは、[内的アートマンは自己]以外のものに基づかずに輝いてい る(自ら輝いている)から対象ではないという理由で、[内的アートマンに対する]附 託を否定しているわけではない。そうではなくて、自己に基づこうとも[自己]以外の ものに基づこうとも輝かない(認識されない)という理由で、内的アートマンは対象ではないと言っているのである。従って、内的アートマンは、決して輝かない(認識されない)のだから、どうして、それに附託ができようか。
  [答論][以上の反対主張に対して、師シャンカラが]、内的アートマン(pratyagātman) は、直接に(aparokda)良く知られている(prasiddhi)からであると答えているので ある。すなわち、内的な(pratīca)アートマン133が良く知られていること(prasiddhi)、 つまり[内的アートマンの]認識(prathā)は、直接的だからである(aparoksatvāt)。 [内的アートマンは認識それ自体であるから]、内的アートマンには[それ自身]以外に 認識が存在するわけでないが、[内的アートマンの認識と言うように、内的アートマン とその認識とが]区別されるのは、比喩的用法(upacāra)なのである。[それは]ちょ うど、[プルシャは精神性そのものなのに]プルシャの精神性[と言われる]ようなも のである。[従って、『註解』本文の]趣旨は次の通りである。すなわち、純粋精神であるアートマンは必ず直接に認識されるのだ、と認めるべきである。というのは、そ れ(純粋精神であるアートマン)が認識されないと、すべてが認識されないことにな るから、世界が盲目になってしまうという誤謬に陥ってしまうからである。このことは、すでに述べた通りである134。そして、このことに関して、「まさに、それ(アートマン)が輝くと、すぺてがそれ(アートマン)に従って輝く。その(アートマンの)輝 きによって、この全世界が輝く」135という天啓聖典がある。
  さて、このように、[まず、反対主張を]究極的な意味で退けたのち、[次に、師シャ ンカラは]、純粋精神であるアートマンが直接的に認識されない(paroksa)ことを[一応]認めた上で、付加的な議論(praudhavādin)136として、[反対主張を]別な形で退けて言う。すなわち、眼前に存在する、つまり直接に知覚される対象にのみ[それとは]別の対象を附託すべきであるという定まった規則はないと。
  [反対主張]何故、これは定まった規則ではないのか。
  [答論][この問に対して、師シャンカラは]答えて言う。というのは、愚者たちは、 虚空が直接知覚の対象でなくても、それに、面や汚れなどを附託するからであると。と いうのは(hi)とは、何故なら(yasmāt)という意味である。実に、虚空は、実体で はあっても、色彩と感触がないから・外[界を知覚するための]感覚器官によって直接に知覚されることはない。さらに、思考器官によって直接に知覚されることもない。 何故なら、思考器官が、[外界を知覚するための感覚器官に]助けられることなく、外界に対して作用することはないからである。従って、[虚空は]直接知覚の対象ではないのである。しかし、愚者たち、すなわち、識別力のない人たち、他の人々が示した通りに[物事を]見る人たちは、これ(虚空)に、ある時には、大地の影である暗青色を 附託して、[虚空は]青い蓮華の花弁のように暗青色であると見、また、ある時は、光の属性である白色を附託して、[虚空は]白鳥の群のように白いと見る。ここでも、以 前に知覚された光や闇の色が、想起という姿で、別の場所に、すなわち虚空に顯現し ているのである。同じように、[愚者たちは、虚空を]インドラニーラという大きな宝石でできた半円球の鍋をうつむけにしたようなものだと考えて、同じそれ(虚空)に、 [半円球の形の]面を附託するのである。[さてここで、師シャンカラは、以上の論議 を]結論付けて言っている。このように、すなわち、これまで述べてきたような反対主張[とそれに対する]答論すべてから[明らかなように]、内的アートマンにアートマ ンでないもの、すなわち統覚機能等を附託しても、さしつかえないと。

脚注
133ここでは、「内的アートマン」という複合語を、「内的な」「アートマン」 と分解しているのである。
134 本訳238頁26行以下参照
135 136
(´・(ェ)・`)つ

472鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/29(金) 23:50:20 ID:3KmJ.Gzg0
 反対なのじゃ。
 内的アートマンは認識されないから、付託も出来ないというのじゃ。
 
 答えたのじゃ。
 純粋精神であるアートマンは必ず直接に認識されるのだ、と認めるべきであるというのじゃ。
 純粋精神であるアートマンが認識されないと、すべてが認識されないことになるからなのじゃ。
  
 直接に知覚される対象にのみ別の対象を附託すべきであるという定まった規則はないというのじゃ。

 聞いたのじゃ。
 なぜこれは定まった規則ではないのかと、問うのじゃ。

 答えたのじゃ。
  愚かな者たちが知覚出来ない虚空にも、青とか半円球の鍋と付託するように、
  内的アートマンにアートマ ンでないもの、すなわち統覚機能等を附託されたりするのじゃ。

473避難民のマジレスさん:2022/07/30(土) 08:52:20 ID:NzE6tTWQ0
2.8.無明と明知  p248-250 126左/229

  賢者たちは、以上のように定義付けられた附託を無明(avidyā)であると考える。そして、それ(非アートマン)137を識別することによって実在そのもの(アートマン)を確知することを明知(vidyā)と呼ぶ。このような場 合138、XがYに附託された時、YはXに由来する欠点や美点によってほんのわずかでも影響を受けることはない。認識根拠一認識対象[等の区別に基づく]日常的経験139はすべて一世俗のものであれ、ヴェーダによるものであれ一この無明と呼ばれる、アートマンと非アートマンとの相互附託に基づ いて起こるのである。また、儀軌・禁令・解脱をもっぱら説いているあらゆる 聖典も140[同様に相互附託に基づいている]。

  [反対主張]附託は何千と存在する。[にもかかわらず]どうして、この(アートマンと非アートマンとの)附託だけが、反対主張と[それに対する]答論を通して説明されているのか。何故、附託一般[を説明し]ないのか。
   [答論][だから師シャンカラは]賢者たちは、以上のように定義付けられた附託を無明であると考えると言っているのである。実に、無明があらゆる悪の原因であることは、天啓聖典・聖伝書・叙事詩・プラーナ等で周知の事実である(なおそれ(無明) を取り除くために諸ウパニシャッドが開始されたということについては、のちに141述べるつもりである)。[この]あらゆる悪の原因は内的アートマンに非アートマンを附託するところにのみあり、[真珠母貝等を]銀等と誤認するところに[あるのでは]決してない。従って、それ(内的アートマンに非アートマンを附託すること)こそが無明なのである。[そして]その(無明の)本質を知らなければ、[無明を]取り除くことはできない。だからこそ、それ(無明の本質=内的アートマンに非アートマンを附託 すること)142だけを説明しているのであり、附託一般[を説明し]ないのである。[さらに、この附託が]悪の原因であることは、ここ[『註解』本文中]に[も]、以上のように定義付けられたという形で述べられているのである。[つまり、この附託には]以上のような性質(悪の原因という性質)がある143[と言っているのである。すなわち] 飢え等とは無関係な内的アートマンに、飢え等と結びついた内官などの害になるものを附託することによって、[本来]苦しんだりすることのない内的アートマンが苦しむことになるから、[この附託が]悪の原因なのである。もし[愚かな人々も附託をこのようなものだと考えて]いれば、[附託について]説明する必要はないのだが、愚かな人々は、附託をこのようなものだと考えているわけではない。従って、[師シャンカラは]賢者たちは考えると言っているのである。
   [反対主張]この無明は無始であり、かつ、極めて根が深くて頑強な潜在印象と結びついている[ので]、滅することができない。何故なら[それを滅する]手段が存在しないからである。

脚注
137「それ」を、アートマンに附託されたもの」すなわち統覚機能等の非アートマンと解している
138 Bhāmaltīは、「実在そのものがこのように確知された場合と解している。
139この日常的経験には、(1)世俗的な日常的経験、(2)祭式を説く聖典に基づく日常的経験・(3)解脱を説く聖典に基く日常的 経験の三種があるとされる。
140ヴェーダ聖典は通例、儀軌・禁令を教える祭事部と解脱を教 える知識部に分かれ、前者はミーマーンサー学派の、後者はヴエーンダーンタ学派のそ れぞ研究対象である。
141 本訳263頁11行以下参照
142
143「以上のように定義付けられた」とは、「内的アートマンに非アートマンである内官・自我意識等との同一性を附託すること」を第一に意味しているのだが、この附託が悪の原因にほかならないから、ここ では、この附託が悪の原因なのであるということも暗に意味しているのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

474鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/30(土) 23:07:40 ID:SR7jmlf.0
 非アートマンを識別することによって実在そのものであるアートマンを確知することを明知と呼ぶというのじゃ。
 それは付託の影響を受けないというのじゃ。
 認識主体と認識対象の区別に基づく認識は、世俗のものでも、経典のものでもアートマンと非アートマンとの相互附託に基づいて起こる無明のなのじゃ。
 
 反対なのじゃ。

 なぜその付託だけを説いて、他の付託を説かないのかというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 それは内的アートマンに非アートマンを付託することが無明であるからというのじゃ。
 無明はあらゆる悪の根源であり、苦を生むものなのじゃ。
 そうであるからその無明を生む内的アートマンに非アートマンを付託することを説いているのじゃ。

 
 反対なのじゃ。

 この無明は始まりもない昔からあるから取り除くことはできないというのじゃ。
 取り除く手段がないからというのじゃ。

475避難民のマジレスさん:2022/07/31(日) 00:17:34 ID:DaoHRgDo0
(つづき)   p250-251
   [答論]このように考える人に対して、[師シャンカラは]、それ(無明)を滅する手段を[次のように]述べている。それ(非アートマン)を識別することによって実在そのもの(アートマン)を確知することを、すなわち疑間の余地のない知識を、賢者た ちは明知と呼ぶと。実に、内的アートマンは、統覚機能等とは完全に異なるのに、統覚機能等と異なるとは理解されていない。そのため、統覚機能等の本質と諸属性が内的アートマンに附託されるのである。この場合、[ウパニシャッドの教えを]聴聞・思惟・[瞑想]144することによって、[内的アートマンと統覚機能等とを]識別する認識が[生ずれば]、そ[の認識]によって[内的アートマンと統覚機能との]違いに対す る無理解が取り除かれる。[その時]実在そのものの確知(その本質は附託を拒斥するところにある)、すなわち明知一[それは]純粋精神であるアートマンそのものである一が、本来の姿を現わすのである。
   [反対主張]無明は、根が深くて頑強な潜在印象と結びついている[ので]、たとえ明知によって拒斥されても、自らの潜在印象の力に上って再び生じてくるだろう。そし て、自己にみあった結果一たとえば潜在印象等一を[さらに]生み出すであろう。
  [答論][これに対して、師シャンカラは]答えて言う。このような場合、すなわち 実在そのものがこのように確知された場合、XがYに附託された時、YはXに由来する欠点や美点によってほんのわずがでも影響を受けることはない。すなわち、純粋精神であるアートマンが内官等のもつ欠点である飢え等によって影響されることはないし、 また内官等が純粋精神であるアートマンの特質(美点)である精神性・歓喜等によっ て影響されることもないのである。この(「註解』本文の)趣旨は以下の通りである。 [確かに]、誤った観念は無始であり、かつ、根が深くて頑強な潜在印象と結びついてい る。しかしそれでも、それ(無明)を取り除くところに、実在そのものを確知することの本質があるのである。というのは、認識(dhī)の本質は、真理の側に傾くところに あるからである。たとえば、他学派の人々でさえ[次のように]言っている。「事物の本質は錯倒による影響を受けていなければ拒斥されることはない。というのは、認識(buddhi)は努力しなくてもそ(事物の本質)の側に傾くからである」145と。だが。[ヴェーダーンタ学派の場合には]特に、「真理の認識は、純粋精神であるアートマンを本質とし、完全に内的(直接的)なものである[のに]、どうして、[実在であるとも非実在であるとも]表現し得ない無明によって拒斥されているのか」という[問題が 残る]。
  [先に『註解』で]真実と虚妄とを混淆し、[両者の]相違が分がらないために[それらを相互に]附託して、「これが私である」「これは私のものである」と[言う。これ が]([文字通りには]というのが)世俗的な日常的表現(vyavahāa)である146と言 われていたが、そこでは、明らかに、日常的表現という意味でのvyavahāraのことが 説明されていた。[一方、ここでは、先に「これが私である」「これは私のものである」というのがという箇所で]というのが(iti)という語が暗に意味していた、脊俗的な 日常的経験(活動vyvahāra)のほうを説明して、認識根拠・認識対象[等の区別に基 づく日常的経験(vyavahāra)はすべて...[相互附託に基づいている]と言っている のである147。この箇所の意味は自明である。

脚注
144
145 出典不明。
146 本訳214頁参照。
147 「日常的表現」と「日常的経験(活動)」という二義に区別しているという点に関しては、脚注51参照のこと。
(´・(ェ)・`)つ

476鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/31(日) 23:19:04 ID:yOmlILwI0
 シャンカラは無明を滅する手段を説いているというのじゃ。
 アートマンではないものを識別することで、実在するアートマンを確知するのじゃ。
 それを賢者たちは明知と呼ぶのじゃ。
 
 内的アートマンは、統覚機能等とは完全に異なるのに、統覚機能等と異なるとは理解されていないのじゃ。
 それゆえに統覚機能等の本質と諸属性が内的アートマンに附託されてしまうのじゃ。

 ウパニシャッドを聴聞し、思惟して瞑想4することによって、内的アートマンと統覚機能等とを識別する認識が起こり、それらの違いへの無理解が取り除かれるのじゃ。
 そうすれば実在そのものの確知、明知である純粋精神のアートマンが本来の姿を現わすというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 無明は根が深くて頑強な潜在印象と結びついているから明知によって拒斥されても、自らの潜在印象の力に上って再び生じるじゃろう。
 一度はなくなっても潜在印象等が再び起こってくるというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 それにもシャンカラは答えているというのじゃ。
 実在そのものが確知された場合は、附託によってほんのわずがでも影響を受けることはないというのじゃ。
 そもそも認識の本質は、真理の側に傾くからなのじゃ。
 他学派の人々でさえ事物の本質は錯倒による影響を受けていなければ拒斥されることはないといっているのじゃ。
 なぜならば認識は努力しなくても事物の本質の側に傾くからなのじゃ。

 しかしそれならば、真理の認識は純粋精神であるアートマンを本質とし、完全に直接的なものであるのになぜ無明によって拒斥されているのかという問題があるのじゃ。
 それは人々が認識主体と認識対象を混同して、相互付託しているからだというのじゃ。

477避難民のマジレスさん:2022/07/31(日) 23:36:01 ID:qGJd.G9Q0
2.9.認識根拠は無明を持つ者に基づく p251-253 

  [反対主張]一体どうして、直接知覚等の認識根拠や聖典は、無明を持つ者 に関係しているのか。
  [答論]答えて言う。身体・感覚器官等に関して「私である」「私のもので ある」という誤った観念(abhimāna)を持たない者が認識主体となることはありえないし、その際、認識根拠が機能することはありえないからである。 というのは、諸感覚器官を用いなければ、直接知覚等の日常的経験は成立しな いからである。さらに、基体(身体)148がなければ、諸感覚器官の活動は成り立たない。身体にアートマンの性質が附託されていなければ、誰ひとり活 動することはない。また、これらすぺてが存在しなければ、アートマンは[何 ものとも]結びつかないので、認識主体ではありえない。さらに、認識主体で あることが存在しなければ、認識根拠が機能することはない。従って、直接知覚等の認識根拠も聖典も、無明を持つ者にのみに関係しているのである。

  [反対主張]ー体どうして、直接知覚等の認識根拠や聖典は、無明を持つ者に関係しているのが。正しい認識(Pramā)すなわち明知(vidyā)とは、実に、真理を確定す ることであり、その手段が認識根拠である[のに、それが]どうして無明を持つ者に関係していたりしようか。認識根拠は、その結果である明知が無明と相入れないので、 無明を持つ者に基づくことはないのである。これが[この『註解』本文の]趣旨なので ある。
  確かに、直接知覚等は世俗的(samvrtti)[な認識根拠]であるから、そう(無明を持つ者に基づくの)かもしれない。しかし、諸聖典は、人に有益なことを教示するのを目的としており、無明と対立するものであるから、無明を持つ者に基づくことはありえ ない。だから、[『註解』本文中に]聖典はと述べられているのである。
  [答論][以上の反対主張に対して、師シャンカラは次のように]答えている。身体・ 感覚器官等に関して「私である」「私のものである」という誤った観念を持たない者が、 すなわち、[身体等との]同一性およびそれらの諸属性が[アートマンに]附託されて いなければ149その者が、認識主体となることはありえないし、その際、認識根拠が機 能することはありえないがらである。その趣旨は次の通りである。実に、認識生休であるということは、認識に関する行為の主体であるということであり、それ(行為主体である)ということは、自立した存在であるということである150。そして、[認識主体が]自立した存在であるということは、すなわち、認識主体は[それ]以外の<行為に関係する要素>(kāraka)151によって動かされる(prayojya)ことのないものであっ て、それがすべての<行為に関係する要素〉を動かす(Prayojaka)ということであ乱る。従って、これ(認識主体)が認識の手段である認識根拠を動かすはずなのである。だが、 [認識主体]自身が活動しなければ、[認識の]手段を動かすことはできない。ところ が、[認識主体であるべき]純粋精神アートマンは、変異することのない永遠な存在であって、変化することがない[ので]、それ自身が活動することはない。従って、[アー トマンが]認識根拠を統御することができるようになるのは、活動を備えた統覚機能等との同一性が附託されて、活動するようになった時なのである。だから、[師シャンカラは]認識根拠は無明を持つ者と関係している、すなわち、無明を持つ人がその基体と なっていると言っているのである。

脚注
148「基体」をBhāmatīは、「基体がなければ」を「行為主体によって統御されていなければ」と取り、諸感覚器官の活動は、行為主体すなわち個人存在に制御されていなければ成立しないという意味に解している。筆者はここで、「身体」の意味にとった。
149[アートマンとの]同一性及びその諸属性が[身体等に]附託されていなければ」と解している。
151「行為に関する要素」には、行為の主体、行為の対象、行為の手段、 行為の受益者、分離行為の起点、行為の基体の六種がある。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

478鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/01(月) 23:07:59 ID:/kBPxDA.0
 反対なのじゃ。
 なぜ直接知覚等の認識根拠や聖典は、無明を持つ者に関係しているのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 身体や感覚器官等を自分とか、自分のものだという誤った観念を持たない者が認識主体となることはありえないからだというのじゃ。 
 その時認識根拠も機能しないからなのじゃ。
 そうであるから直接知覚等の認識根拠も聖典も、無明を持つ者にのみに関係しているのじゃ。
 
 さらに聞いたのじゃ。

 なぜ直接知覚等の認識根拠や聖典は、無明を持つ者に関係しているのかと聞いたのじゃ。
 諸聖典は人に有益なことを教示するのを目的としており、無明と対立するものであるから、無明を持つ者に基づくことはありえない筈だというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 認識主体自身が活動しなければ、認識の手段を動かすことはできないのじゃ。
 しかし認識主体である純粋精神アートマンは、変異することのない永遠な存在であって、変化することがないのじゃ。
 そうであるからアートマン自身が活動することはないのじゃ。
 アー トマンが認識根拠を統御することができるようになるのは、活動を備えた統覚機能等との同一性が附託されて、活動するようになった時なのじゃ。
 シャンカラは認識根拠は無明を持つ者と関係している、無明を持つ人がその基体となるというのじゃ。

479避難民のマジレスさん:2022/08/02(火) 00:57:22 ID:PP8rHRhg0
(つづき) p253-254
  [反対主張]認識根拠が機能しないとしてみよう。[そうすると]我々にどんな不都 合が生ずるのか。
  [答論]これに対して[師シャンカラは]答えて言う。というのは、諸感覚器官を用 いなければ、直接知覚等の日常的経験は成立しないからであると。日常的経験は、これ(認識根拠)に基づいて成立しているから、結果である。すなわち、それは直接知覚等の認識根拠[に基づいて生じる]結果なのである152。諸感覚器官をとは、諸感覚器官・徴標(1ińga)等をと解すべきである。たとえば、「棒を持った人たちが行く」と言う場合[「棒を持った人たち」という語カ...、棒を持たない人たちをも意味することがある]ように。というのは、そう取れば、直接知覚等[という本文中に「等」という語の ある理由]が理解できるからである153。また、日常的経験という行為は、日常的経験の主体[の存在]を前提としているので、[その]行為の主体は[諸感覚器官を用いない人と]同一である154。[従って]、ある人が[諸感覚器官を]用いなければ、[その同じ人の]日常的経験は[成立しない]、というのが[本文の]脈略なのである。
   [反対主張]一体どうして認識主体が認識根拠を用いる[必要がある]のか。[認識根拠は]何故それ自体で機能しないのか155。
   [答論]これに対して、[師シャンカラは]答えて言う、さらに、基体(身体)がなければ、諸感覚器官の活動は、すなわち認識根拠の活動は、成り立たないと。つまり[認識根拠などの]行為手段は、行為主体によって統御156されていなければ(anadhistha)、自らの結果(対象)に対して作用することは決してないのである。というのは、織子が いなければ織機から布が生ずることはないからである。
  [反対主張]では、身体が統御者であっては何故いけないのか。そうすれば、アート マンを[身体に]附託する必要がなくなるではないか。

脚注
152ここでは、「直接知覚等の日常的経験は認識によって達成されるのだから、どうして、諸感覚器官とい う認識根拠なしに、その(直接知覚等の)日常的経験が可能だといえるのか」という疑問に対して、「日 常的経験という語によって、直接知覚等の認識根拠の結果である認識こそが述べられているのだと答えているのである。
153『註解』本文は、諸感覚器官を用いなければ、直接知覚等の日常的経験は成立しないがらであるとなっているが、ここで「諸感覚器官」という語が文字通りに諸感覚器官だけを指すと考えると、諸感覚器官を通して得られる直接知覚という日常的経験だけが問題になっていることになり、『註解』本文中に「直接知覚等」と書かれていることが説明つかなくなってしまうことになる。そこでここでは、「棒を持った 人たちが行くと言った場合、必ずしもすべての人が棒を持っているわけではなく、「棒を持たない人たち」 をも間接的に表示することがあるように、「諸感覚器官」という語は、諸感覚器官以外の徴標等も間接的的に表示していると解すのである。そうすれば、「直接知覚等」の「等」には徴標等を通して得られる推論等が含まれることになり、『註解』本文中に「等」という語がある理由を説明できる というわけである。
154諸感覚器官を用いなければ、日常的経験は成立しないという『註解』本文中、「用いなければ」の個所で接尾辞が用いられているが、この接尾辞は、二つの行為の主体が同 一である時に用いられるものだとされている。だがここでは、諸感覚器官を用いないのは認識主体であり、成立しないのは日常的経験であるから、二つの行為の主体が異なることになる。従って、「用いなければ」の箇所で接尾辞を用いるのは不適切である 。以上のような疑問に対して、ここでBhāmatīは日常的経験は行為であり、その行為の主体は諸感覚器官を用いない人と同一であるから、二つの行為の主体が同一であることに なり、接尾辞を用いることにさしつかえはないと答えているのである。
155T1では、この箇所では、「[認識主体は〕何故それ自体で機能しないのか」という意味になるが、以下の答論から判断すると、ここでは 諸認識根拠のことが問題になっているので、「[認識根拠は]何故それ自体で機能しないのか」と解した。
156『註解』本文で「基体」と訳した語には、「統御」という意味もあるので、Bhāmatī は、この語を「統御」という意味にとって、「基体がなければ」を「行為主体 (=個人存在)によって統御さてれいなけれぱ」と解しているのである。
(´・(ェ)・`)
(つづき)

480鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/02(火) 22:57:38 ID:368Oa4hw0
 反対なのじゃ。
 認識根拠が機能しないとどんな不都合があるのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。

 直接知覚等の日常的経験は諸感覚器官を用いなければ成立しなくなるというのじゃ。
 認識根拠に基づいて日常的経験はあるからなのじゃ。
 
 
 反対なのじゃ。
 なぜ認識主体が認識根拠を用いる必要があるのかというのじゃ。
 認識根拠は何故それ自体で機能しないのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。

 基体である身体がなければ、認識根拠の活動は成り立たないというのじゃ。
 認識根拠などの行為手段は、行為主体によって統御されていなければ対象に作用することはないからなのじゃ。

 反対なのじゃ。

 それでは身体が統御者であっては何故いけないのかと聞いたのじゃ。。
 そうすれば、アートマンを身体に附託する必要がなくなるからというのじゃ。

481避難民のマジレスさん:2022/08/03(水) 01:28:54 ID:18AWXTn60
(つづき)   p254
  [答論]これに対して、[師シャンカラは]答えて言う。身体にアートマンの性質が 附託されていなければ、誰ひとり活動することはないと。[何故なら、身体にアートマ ンの性質が附託されていなくても活動が成り立つとすると]、熟眠状態においても活動が[成立する]、という誤謬に陥るからである。以上が、[『註解』本文の]趣旨である。
  [反対主張]織子は、自己(アートマン)の附託されていない織機を作動させて、布 を作る主体となるように、それ(身体・感覚器官等)の認識者(アートマン)は、アートマンの附託されていない身体・感覚器官等を作動させて、認識主体となるのではないのか。
  [答論]これに対して、[師シャンカラは]答えて言う。また、これらすべてが、すな わち、[基体の]相互附託と属性の相互附託とが、存在しなければ、アートマンは[何ものとも]結びつかないので、すなわち、常にどんな形であれ、あらゆる属性および[その]基体と結びつかないので、認識主体ではありえないと。確かに織子等は、活動を備えている[ので]、織機等を統御して作動させている。だがアートマンは、身体等に アートマンの性質が附託されていなければ、活動することはありえないのである。これが、[この本文の]意味なのである。

脚注
157この箇所は、「認識主体であることがなければ、認識根拠が機能することてありえない。このような場合どうして、認識根拠は附託に基づいているのか」という疑問に対して、「認識主体も精神性と物質性という姿の混ざりあった認識の基体(なの)で、それ(附託)を本質 とするものであることはありうる。精神性と物質牲が混ざりあうことは附託がなければ存在しないから、 認識根拠は当然附託に基づくはずである」と答えているのだとされている。
I58 壺の認識というような外的な対象の知覚を例にとると、内官は視覚を通して対象である壷の方に向 かって外に出て、壷に達し、そこで変容して壷の形を取る。このような変容が内官の変容 であるが、この時、正しい認識は、アートマンという純粋精神の二つの限定者、すなわち外界の対象であ る壷と内官の変容とが外界の同一の場を占めた時に、言いかえれば、両者によって限定された純粋精神が 同一である時に、生ずるのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

482鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/04(木) 00:32:46 ID:gfiOqVvw0

 答えたのじゃ。

 シャンカラは身体にアートマンの性質が付託されていなければ、誰も活動できないというのじゃ。
 認識主体がないからのう。

 反対なのじゃ。
 
 布を織るための織子は主体がなくとも、織機を作動させて布を織る主体となるのじゃ。
 それと同じようにアートマンは付託されていない身体や感覚器官を作動させて主体になるのではないかと聞くのじゃ。

 答えたのじゃ。

 シャンカラは相互附託と属性の相互附託とが、存在しなければ、アートマンは何ものとも結びつかないので認識主体ではないというのじゃ。
 客体がなければ当然主体もないからのう。
 アートマンは、身体等に アートマンの性質が附託されていなければ、活動できないというのじゃ。

483避難民のマジレスさん:2022/08/04(木) 00:58:16 ID:5jZWvCyU0
(つづき)  p254-256
  また、以下の理由からも認識根拠が附託に基づくというので、[師シャンカラは]認識主体であることが存在しなければ、認識根拠が機能することはないと言っているのである。実に、認識主体とは、[認識の]結果である正しい認識から自立した存在なのである157。そして、正しい認識は、[内官が]認識対象に向った[時に生ずる]内官の変容の一種(parināmabheda)158であって、[認識]行為の主体に存在し、かつ、純粋精神を[その]本質としているのである。従って、もしそれ(内官)に純粋精神アートマンが附託されていなかったら、どうして物質的な内官の変容が、純粋精神を[その] 本質としたりしようか159。また、もし活動を備えた内官が純粋精神アートマンに附託 されていなかったら、どうしてこれ(内官の変容)が、純粋精神アートマンを[認識]行為の主体として有しようか160。それ故、正しい認識という結果一[それは]純粋精神アートマンという[認識]行為の主体に存在する一は、相互附託に基づいて成 り立っているのである。そして、これ(正しい認識)が成り立っている時に、認識主体であることも[成り立ち]、認識根拠はまさにその正しい認識に対して機能するのであ る161。従って[『註解・本文中の]認識主体であること[という語]は、正しい認識を暗に意味しているのである162。[つまり]、「結果である正しい認識が存在しなければ、認識根拠が機能することはなく、その結果、認識根拠が正しい認識根拠でなくなってしまうだろう」というのが[『註解』本文の]意味なのである。[それ故、師シャンカラ は]従って、直接知覚等の認識根拠は、無明を持つ者にのみ関係しているのであると結論づけているのである。

脚注
159内官は物質的なものであるから、純粋精神アートマンが附託されていなければ、精神的活動である認識活動を行なう主体とはなりえないのである。
160 逆に、純綿神アートマンには、活動がないから、活動を備えた内官が附託されていなければ、認識活動を行なう主体とはなりえないのである。
161「これ(正しい認識)が成り立っている時に、認識主体であることも[成り立ち]。という箇所は、本訳251頁20-21行の「認識根拠は、その結果である明知が無明と相入れないので、無明に基づくことは ないのである」という反対主張に対する答論であり、「認識根拠はまさにその正しい認識に対して機能す るのである」という箇所は、本訳251頁19-20行の「正しい認識すなわち明知とは、実に、真理を確定 することであり、その手段が認識根拠である[のに、それが]どうして無明を持つ者に関係していたりし ようか」という反対主張に対する答論である。すなわち、反対主張においては、「正しい認識は、無明と相入れないから、その手段である認識根拠が無明に基づくことはない。とさ れているわけだが、それに対して、「正しい認識が成り立っている時には、その認識主体が存在しており、 その認識主体自体がアートマンと内官との相互附託(=無明)に基づいているわけだから、正しい認識で すら無明に基づいており、その正しい認識に対して機能する認識根拠も当然無明に基づいている」と答え ているのである。
162認識根拠を統御する認識主体の必要性についてはすでに説明済(本訳252頁4行以下参照)なので、 ここで更に同じ説明を繰り返す必要はない。従って、Bhāmatīはここで、認識主体であることという『註解』本文の語を「正しい認識」の意味に取り、この箇所の論議を「正しい認識自体が精神性と物質性のいり混ったものだから、純粋精神であるアートマンと物質的な内官等の相互附託を前提としている」と解すのである。
163「当面」を、附託が行なわれているまさにその時の[日常的経験]」と解している。
(´・(ェ)・`)つ

484鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/04(木) 23:43:31 ID:SYPx9A2Y0
 認識根拠は附託に基づき、認識主体であるアートマンがなければ機能しないというのじゃ。
 主体がなければ客体も根拠もないからなのじゃ。

 認識主体であるアートマンは正しい認識からも自立した存在であるというのじゃ。
 正しい認識とは内官が認識対象に向った時に生ずる内官の変容の一種であるというのじゃ。
 認識行為の主体に存在し、純粋精神を本質としているというのじゃ。

 もし内官に純粋精神アートマ附託されていなければ、物質的な内官の変容が純粋精神を本質としたしないのじゃ。
 もし活動を備えた内官が純粋精神アートマンに附託されていなければ内官の変容が、純粋精神アートマンを認識の主体として有ることもないのじゃ。

 それ故に純粋精神であるアートマンという認識の主体に存在する正しい認識という結果は相互附託に基づいて成 り立っているというのじゃ。
 そして正しい認識が成り立っている時に、認識主体であることも成り立ち、認識根拠は正しい認識に対して機能するのじゃ。
 
 シャンカラは直接知覚等の認識根拠は、無明を持つ者にのみ関係しているのであると結論づけているというのじゃ。

485避難民のマジレスさん:2022/08/05(金) 05:35:15 ID:xFpRaH6I0
2.10.世俗的な日常経験には入間と動物の区別はない  p256-257

  そして、動物等と区別がないからである。動物たちは聴覚等が音声等[の外界の対象]と接触し、不快な音声等の知覚が生ずると、それから退き、また快よい[知覚が生ずる]と、[それに向かって]前進する。[また]棒を持った手を振り上げた男を目の前に見て、「この男は私を打とうとしている」と考えて逃げ始める。[他方]手に青草を一杯持った[男]を見て、その男に向って行く。それと同様に、人間も、たとえ知性が発達していても、恐しい目付きをし、わめき、手に刀を振りかざしている、力の強い男を見て、その男から遠ざかり、そうでない男に向って進んでゆく。それ故に、認識根拠・認識対象[等の区別に基づく]日常的経験に関しては、人間は動物と同じなのである。また、動物等のもつ直接知覚等の日常的経験は、周知のように、[アートマンと 非アートマンとを]識別しないことに基づいており、たとえ知性が発達していても、人間の直接知覚等の日常的経験は、[動物の]それと等しいことが経験されるから、当面163、[動物の日常的経験と]同じである、と結論付けられる。

  [反対主張]愚かな人々の場合には、その通りであるとしておこう。だが、学識ある 人々は、聖典と諭理に基づいて内的アートマンという真理を理解しているが、その人た ちの場合にも、認識根拠・認識対象[等の区別に基づく]日常的経験が認められるのである。従って、認識根拠は、無明をもつ者のみに関係しているなどということがどうしてあり得ようか。
  [答論]これに対して[師シャンカラは]、そして、動物等と区別がないからであると答えているのである。確かに、[学識のある人々は]聖典と論理に基づいて、内的アー トマンが身体・器官とは異なる、と認識しているかもしれない。だが、認識根拠・認識対象[等の区別に基づく]日常的経験の際には、[彼らもやはり]生命体にすきない のであって、[生命体としての]諸属性を超越することはないのである。というのは、 学識ある人々でも、[日常的経験に関しては]獣や鳥など一[それらが]愚かであることには異論の余地がない一の日常的経験と同様であることが経験されているからである。従って、それ(獣や鳥などの日常的経験)と同じであるから、彼ら(学識あ る人々)も、日常的経験の際には、無明を持っているのだ、と推論すべきなのである。 [『註解』本文中の]そしてという語は、[これまで述べてきた理由と以下の論議を]結 びつける意味で[用いられているので]ある。[すなわち。反対主張者の]提示した疑問を退ける根拠としてこれまで述べてきた理由が、[以下の論議でも]認識根拠が無明を持つ者に関係していることを確定するのであるというのが、[そしてという語の]意 味するところである。まさにこのこと(認識根拠が無明を持つ者に関係しているとい うこと)が、動物たちは以下で具体的に論じられているのである。このうち、聴覚等が音声等[の外界の対象]と接触し[という箇所]では、直接知覚という認識根拠がとり あげられており、音声等の知覚が生ずると[という個所]では、その(直接知覚の)結果が述べられており、不快な[という箇所]では、推論の結果が[述べられているのである]。詳論すれば以下の通りである。[動物等は]音声等[の外界の対象]それ自体を知覚し、その種[の音声等]が不快であったことを思い出す。そして、現在知覚している[音声等]はそれと同類のものであるから、不快であると推論するのである。[そして、さらに]例をあげて、捧[を持った手を振りあけた男を云々]と述べているのである。その他[の箇所]の意味については、極めて明瞭である。

脚注
163「当面」を「附託が行なわれているまさにその時の[日常的経験]」と解している。
(´・(ェ)・`)つ

486鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/06(土) 00:17:39 ID:55Qf8oCo0
 認識根拠や認識対象等の区別に基づく日常的経験に関しては、人間は動物と同じだというのじゃ。
 
 反論なのじゃ。

 おろかな人間はそうかもしれんが、聖典などでアートマンという真理を理解している者は違うはずというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 学識のある人々は聖典と論理に基づいて、内的アー トマンが身体や器官とは異なる、と認識しているかもしんが日常的な経験では同じというのじゃ。
 ただ知識だけではアートマンを実現したことにならないからなのじゃ。

487避難民のマジレスさん:2022/08/06(土) 03:00:05 ID:CrLGiYa20
2.11.聖典に基づ<日常経験も無明に基づく  p257-259

  しかし聖典に基づく日常的経験[たとえば祭式の執行等]に関して言えば、 たとえ思慮深い人であっても、アートマンが他の世界と関係していることを 知らなくては、その資格がない164。それにもかかわらず、ウパニシャッドによって知られ、飢餓等を超越し、バラモン・クシャトリヤ等の区別を離れ、輪廻しないアートマンという真理は、[祭式等を執行する]資格として前提とされていない165。何故なら、アートマンは[その]役に立たないし、また資格 とも矛盾するからである166。しかし聖典は、このようなアートマンの認識が起こる前には機能するから、聖典が無明を持っている者に関係しているという事実に背くものではない。例えば、「バラモンは祭式を執行すべきである」等の諸聖典句は、アートマンに対する、階層・生活期・年齢・状態等167の特殊性の附託に基づいて[始めて]機能するのである。

  [反対主張]直接知覚等は無明を持っている者に関係しているのだとしておこう。しかし、「天界を望む者はジュヨーティシュトーマ祭を執行すべきである」168等の聖典は、身体のアートマンヘの附託を通じて機能するわけではない。実に、この場合には、来 世で果報を享受するのに適した者に[祭式を執行する]資格があると考えられるのであ る169。また、偉大な聖者[ジャイミニの著した]スートラも、同じ趣旨のこと(果報を享受する者と祭式を執行する者とは同一であるということ)を、「聖典[に命じられて いる行為の]果報は、[行為を実際に]遂行する人に[生ずる]。何故なら、[そのことは]それ(聖典)から明らかだからである。それ故、[人は、聖典に命じられている行 為を実際に]自分で行わなければならない」170と[述べている]。身体等は[死後]灰 に帰す[ので]、他界(天界)で果報[を享受するの]には適しない。従って、[「天界を望む者はジュヨーティシュトーマ祭を執行すべきである」等]の聖典は、[祭式を執行する]資格のある者が身体とは異なるなにかであることを暗に意味しているのである。そして、それ(祭式を行う資格のある者すなわち身体とは異なるアートマン)171を理 解することが明知なのである。それ故、聖典が、どうして、無明を持つ者と関係していたりしようか。

脚注
164 聖典の命ずる祭式を行なって天界に生まれる場合、天界に達するのは、死後灰となる身体ではなくて、 アートマンである。従って、アートマンが他の世界(天界)と関係していることを知る必要があるのであ る。
165
166アートマンは、行為主体でも経験主体でもないので、祭式を行ってその果報を享受することはありえ ないのである。
167 個々の具体例及ぴ「等」に何が含まれているかについては、本訳260頁参照のこと。 168この儀軌はあらゆるミーマーンサーの文献の中で常にこの形であらわれるにもかかわらず、このままの形では現存のヴェーダ文献中には見当らない。
169この聖典句の場合、身体は、死後灰に化すわけだから、来世(天界)で果報を享受するのに適した者ではなく、死後も存続するアートマンが天界で果報を享受するのに適した者であることになる。従って、祭式を行なう資格があるのはアートマンであって、身体がアートマンに附託されている必要はないのである。
170 供犠の主催者自身が個々の祭式 を直接行なうべきなのか、それとも、供犠の主催者は供物を捧げるだけで十分であって、個々の祭式は供儀僧にまかせておけぱいいのか、という点が問題となっている。このうち前者が反対主張であ り、後者が定説である。ところで、当該スートラは反対主張に属するものなので、ここで典拠として引用 されているのは一見不適当であるように思われるが、反対主張も定説も、果報のために祭式に従事した人 に果報が生ずることは緩めているので、反対主張に属すスートラをここで典拠としても問題はないとされる。
171
(´・(ェ)・`)
(つづく)

488鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/06(土) 23:32:19 ID:DaOPWT1A0
 しかし祭式の執行等に関しては、アートマンが他の世界と関係していることを 知らなくては執行資格はないというのじゃ。
 それでも輪廻しないアートマンという真理の実現は、祭式等を執行する資格として前提とされていないのじゃ。
 アートマンは祭式執行の役には立たず、また資格とも矛盾するからというのじゃ。
 聖典はこのようなアートマンの認識が起こる前には機能するのであるから、聖典が無明を持っている者に説かれることは正しいのじゃ。
 例えばバラモンは祭式を執行すべきである等という諸聖典句は、アートマンに対する、階層や生活期や年齢や状態等の特殊性の附託に基づいて機能するのじゃ。

 反対なのじゃ。

 天界を望む者はジュヨーティシュトーマ祭を執行すべきである等と書いてある聖典は、身体のアートマンヘの附託を通じて機能しているのではないのじゃ。
 この場合には来世で果報を享受するのに適した者に、祭式を執行する資格があると考えられるのじゃ。
 
 身体等は死後には灰に帰すものであるから、天界で果報を享受できないのじゃ。
 そうであるからそれらの聖典は、祭式を執行する資格のある者が身体とは異なるものであることを暗に意味しているのじゃ。
 祭式を行う資格のある者とは、すなわち身体とは異なるアートマンを理解している者なのじゃ。
 そうであるから聖典は、無明を持つ者と関係していないのじゃ。

489避難民のマジレスさん:2022/08/07(日) 02:34:30 ID:AhtPDg9.0
(つづき)   p259
  [答論][以上のような反対主張を]想定して、[師シャンカラは]答えて言う。しか し聖典に基づく[日常的経験]に関して言えばと。[ここで]しかしという語は、聖典に基づく[日常的経験]が直接知覚等の日常的経験とは異なることを言っているので ある。実に、[「天界を望む者はジュヨーティシュトーマ祭を執行すべきである」とい う、祭式を執行する]資格について[述べている]聖典は、天界を望む者が他界(天 界)と関係していなければ成り立たないということを暗に意味しているだけであって、 これ(天界を望む者)が輪廻の主体ではないということを[も暗に意味しているわけ では]ない。というのは、それ(輪廻の主体ではないという性質)は、[祭式を執行す る]資格と合わないからである172。また、ウパニシャッドの説くプルシャ(=アートマン)は、行為の主体でも経験の主体で古をい[ので、祭式を執行する]資格と矛盾するからである。何故なら、行為(祭式)を執行する資格のある人、すなわち[行為の]主とは、行為を行う人(prayoktr)、行為から生じた果報の享受を経験する人のことだ からである。この場合、行為の主体でない者が、どうして、行為を行う人であったりしようか。また、経験主体でない者が、どうして、行為から生じた果報の享受を経験したりしようか。それ故、儀軌と禁令を扱う聖典は、[自分を]行為主体、経験主体、バラ モン等一これらの性質は無始の無明から生ずる一だと思い込んでいる人を対象と して、開始されているのである。同様に諸ウパニシャッドも、無明を持つ者だけを対象としている。というのは、認識識主体[・認識対象]等の区別が存在しなければ、そ れ(諸ウパニシャッド)の意味が理解されることはないからである。ただし、それら (諸ウパニシャッド)は、無明を持つ者を教え導いて、無明をすべて拭い去り、その者 を本来の姿に立ちもどらせる。この点だけは、それら(諸ウパニシャッド)が[儀軌と 禁令を扱う聖典とは]異なるところである。従って、諸聖典は無明を持つ者に関係し ているのである、と確定した。

脚注
172 先にミーマーンサー側は、身体は死後灰と化すから、天界に達することはできず、従って、天界で果報を享受する者、すなわち天界を望んで祭式を行なう資格のある者は、アートマンであるはずであるとし ていたが、シャンカラ及ぴBhāmatīに言わせれば、天界で果報を享受する者は、その果報が尽きればま たこの世に戻ってくるわけだから、輪廻の主体であり、一方、アートマンは、輪廻の主体ではないのだから、天界で果報を享受する者、すなわち天界を望んで祭式を行なう資格のある者ではありえない。
173「ヴェーダを学習すべきである」(svādhyāyo adhyetavyah,Taittrī iya Āranyaka Ⅱ.15.7)という 儀軌に従って、ヴェーダの一部であるウパニシャッドを学習すれば、行為主体でも経験主体でもない人 (purusa)が理解される。だが、この人(pumsa)は、行為主体でも経験主体でもないわけであるから、祭式を執行する資格を妨げることになり、しいては、先のヴェーダの学習を命ずる儀軌が祭式の執行を命ずる儀軌を妨げることになってしまう。
174このように、ヴェーダの学習を命じる儀軌と祭式の執行を命ずる儀軌という二つのヴェーダの個々の部分が互いに意味を損ないあうとすると、ヴェーダは整合性のないものになるから、正しい認識根拠としての妥当性を失うことになるのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

490鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/08(月) 00:02:36 ID:AtgM3b4U0

 答えたのじゃ。

 そのような祭式を執行する資格について述べている聖典は、天界を望む者が天 界と関係していなければ成り立たないということを暗に意味しているだけというのじゃ。
 天界を望む者が輪廻の主体ではないということを意味していないのじゃ。
 輪廻の主体ではないという性質は、祭式を執行する資格と合わないからというのじゃ。
 
 アートマンは、行為の主体でも経験の主体でもないから、祭式を執行する資格と矛盾するのじゃ。
 何故ならば祭式という行為を執行する資格のある者、行為の主とは、行為から生じた果報の享受を経験する者であるからなのじゃ。
 認識の主体であるアートマンは、行為の主体ではないからなのじゃ。

 そうであるから儀軌と禁令を扱う聖典は、無明によって自分を行為主体、経験主体、バラ モン等と思い込んでいる人を対象と しているのじゃ。
 同じように諸ウパニシャッドも、無明を持つ者だけを対象としているというのじゃ。
 認識識主体や認識対象等の区別がなければ、諸ウパニシャッドの意味が理解されることはないからなのじゃ。
 諸聖典は無明を持つ者に関係しているのである、と確定したのじゃ。

491避難民のマジレスさん:2022/08/08(月) 02:53:03 ID:vI5l2cvI0
(つづき)  p259-261
  [反対主張]ウパニシャッドの説くプルシャは、[祭式を執行する資格と]矛盾するし、[祭式を執行する資格に]適しないので、[祭式を執行する]資格として必要とされることはないが、[それは学習を命ずる儀軌に従うことによって]ウパニシャッドから 理解されるわけだから、[祭式を執行する]資格を妨げることができることになる173。 このように、[ヴェーダの各部分が]互いに意味を担いあうことになるから、すべてのヴェーダが正しい認識根拠としての妥当性を失うことになるであろう174。
  [答論]だから、[師シャン・カラは]、しかし、このようなアートマン[の認識が起る]前には云々と言っているのである。ウパニシャッドの説くプルシャについての理解が、[祭式を執行する]資格と矛盾するというのは確かにその通りである。しかし、 それ(ウパニシャッドの説くプルシャについての理解)以前には、祭式[の執行を命ずる]諸儀軌は、自らに適した日常的活動を行うのであって、[それらが]未だ生じて いないブラフマンに関する知識によって妨げられることはありえないのである。また、 [ヴェーダの各部分の意味が]互いに担いあうということもない。というのは、明知を 備えた者[には祭式を執行する資格はないが]、無明を持つ者[には祭式を執行する資 格がある]というように、[それぞれ関わっている]人の違いに応じて、[ヴェーダの各部分を]区別することが可能だからである。たとえば、「生き物を殺すべきではない」 という[禁令]が、遂行すべき事柄の一部を禁止していても、「敵を殺そうと思う者は シュエーナ祭を執行すべきである」175という聖典があれば、その聖典は、「殺すべきで はない云々」というそれ(禁令)と矛盾しないのである。それはどういう理由によるの かといえぱ、[行為を行う]人が違うからなのである。すなわち、怒りという敵を克服した人々は禁令[に従う]資格があり、一方、怒りという力に支配されている人々は シュエーナ祭を云々と[述べている]聖典に[従う]資格があるのである176。
  [先に、聖典は]無明を持つ者に関係しているという事実に背くものではない、と述 べたが、まさにこのことを[師シャンカラが]例えば以下で明らかにしているのである。 [まず]階層の附託とは、「王はラージャスーヤ祭を執行すべきである」等である。生活期の附託とは、「家住期の人は、同じ[階層の]妻をめとるべきである」等である。年齢 の附託とは、「髪の黒い人(若い人)が火を保つべきである」等である。状態の附託と は、「直る見込みのない病人は、水などに飛び込んで命を捨てるべきである」等である。 [『註解』本文中に]等と述べてあるのは、大罪、小罪、混姓罪(samkarī karana)、不応受罪(apātrīkarana)、不浄罪(malinīkarana)等177の附託をも含めるためである。

脚注
175 176
177「大罪」とは、バラモン殺し等、「小罪」とは牛殺し等であるとされ、「混姓罪」はろば等を殺すこと、「不応受罪」とは非難すべき人から財物を受け取ること等、「不浄罪」とは大小の虫類または鳥類を殺害すること等であり、「等」にはバラモンに苦痛を与えること等の失姓罪等が含まれるとされている。
(´・(ェ)・`)つ

492鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/08(月) 23:59:52 ID:uRaYg.d.0
反対なのじゃ。

 ウパニシャッドの説くプルシャは、祭式を執行する資格と矛盾するというのじゃ。
 聖典には学習を命ずる儀軌があるが、すでにプルシャ、アートマンを実現している者は学習しなくてよいから、祭式を執行する資格がないのじゃ。
 このようにヴェーダの各部分が互いに意味を担いあうことになるから、すべてのヴェーダが正しい認識根拠としての妥当性を失うことになるというのじゃ。
 
 答えたのじゃ。

 シャンカラはプルシャ、アートマンの理解がある以前には祭式の資格があると説いているのじゃ。

 さらにヴェーダの各部分の意味が互いに担いあうということもないのじゃ。
 明知を備えた者には祭式を執行する資格はないが、無明を持つ者には祭式を執行する資格があるというようにそれぞれ関わっている人の違いに応じて、ヴェーダの各部分を区別することが可能なのじゃ。

493避難民のマジレスさん:2022/08/09(火) 10:25:53 ID:mHBnFMpY0
2.12.附託の具体例  p261-262 132右/229

  附託とはXでないものの中にXを認識することである、と我々はすでに述 べた。例えば、妻子等が病気であれば、「私は病気である」と思い、健康であ れば、 「私は健康である」と思うが、これは外的なものの属性をアートマン に附託しているのである。それと同様に、身体の属性を[アートマンに]附託すると、「私は太っている」「私は白い」「私は立っている」「私は行く」「私は 越える」と思うのである。同様に、感覚器官の属性を[アートマンに]附託す ると、「私は唖者である」「私は片目である」「私は不能である」「私は聾者であ る」「私は盲目である」と思うのである。同様に、内官の属性、すなわち、愛欲・思惟・疑惑・決定等を[アートマンに]附託する。このように「私」とい う観念をもつもの(内官)178を、その一切の活動を観照している内的アートマンに附託し、またそれとは逆に、一切を観照するこの内的アートマンを内官等に附託するのである。

  [師シャンカラは]これまで、アートマンと非アートマンとの相互附託を、反対主張 と[それに対する]答論を通じて[まず]明らかにし、次に、認識根拠・認識対象[等の区別に基づく]日常的経験について論ずることで、[この相互附託を]確固たるもの とした。そして、それ(アートマンとの相互附託)が諸悪の根源であることを[これから]例をあげて詳しく説明するために、[ここで師シャンカラはまず]すでに述べたそれ(相互附託)の本質を[次のように我々に]想起させるのである。附託とはXでない ものの中にXを認識することである、と我々はすでに述べたと。これは、[附託とは]以前に知覚されたXが想起の姿で、別の場所Yに顕現することである179を要約して述 べているのである。この(アートマンと非アートマンとの相互附託の)うち、「私のもの」という[形で経験される]属性の附託の生じていない、単なる基体の同一性の附託 一[それは]「私」という[形で経験される]一は、諸悪の根源ではないのであっ て、属性の附託、すなわち「私のもの」という観念こそが、輪廻という一切の諸悪の直接的な原因なのである。

脚注
178
179 本訳216頁参照。
180『註解』本文では、それそれ、「健康」「病気」を意味するが、BhāmatĪはそれを、「完全」「不完全」の意味にも解している。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

494鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/09(火) 23:42:07 ID:cslTyIcU0
 附託とはXでないものの中にXを認識することであるというのじゃ。
 そして愛欲や思惟や疑惑や決定等をアートマンに附託いるのじゃ。
 さらに私という観念をもつものをも、一切の活動を観照している内的アートマンに附託しているのじゃ。
 またそれとは逆に、一切を観照するこの内的アートマンを内官等に付託する相互付託をしているのじゃ。
 

 シャンカラは以上のような付託と相互付託を説いたというのじゃ。
 そしてこのアートマンと非アートマンとの相互附託のうち、私という付託は、諸悪の根源ではないというのじゃ。
 属性の附託、私のものという観念こそが、輪廻という一切の諸悪の直接的な原因だというのじゃ。

495避難民のマジレスさん:2022/08/10(水) 00:01:29 ID:ge9fvPmY0
(つづき)  p262-263 
  [このことを、師シャンカラは]例をあげながら詳しく説明して、例えば、妻子等が云々と言っているのである。[人はまず]、身体との同一性をアートマンに附託し、[次 にこの同じアートマンに]妻子等の所有者であるという性質一[これは]やせているという性質と同様に身体の属性である一を附託して、「私は病気(vikala)であ る」 「私は健康(sakala)である」と言うのである。さらに、「所有者」すなわち「支 配者(īśvara)」は、自己の所有物が完全(sakala)180であれば、[その]所有者である という[彼の]性質も完全となるので「完全なのである」、すなわち「満たされている (sampūrna)のである」。同じように、「所有者」すなわち「支配者」は、自己の所有物 が不完全(vikala)であれば、[その]所有者であるという[彼の]性質も不完全とな るので「不完全なのである」、すなわち「満たされない(asampūrna)のである」。こ のように、不完全さという性質等の外的な属性は、[その]所有者という性質を媒介と して、[まず]身体に移される。そして、それ(身体に移された外的な属性)を[人は]アートマンに附託するのである。さて、外的な添性(paropādhi)181に基づく身体の属性一だとえば所有者という性質一の場合には、以上の通りであるとすると、[外的 な]添性に基づかない身体の属性の場合には、いったいどのような話になるのだろう か。このような考えを抱いて[師シャンカラは]、それと同様に、身体の属性を云々と言っているのである。[さらに同様に、感覚器官の属性を以下の]文脈は[次の通りで ある。すなわち人は]身体等よりも内的な器官である諸感覚器官一[それにはすで に]アートマンが附託されている一の属性である唖者という性質などや、さらにこれ(諸感覚器)よりも内的な器官である内官一[それにもすでに]アートマンが附託されている一の属性である愛欲・思惟などをアートマンに附託するのである。

脚注
180『註解』本文では、それそれ、「健康」「病気」を意味するが、BhāmatĪはそれを、「完全」「不完全」の意味にも解している。
I81 「外的な添性」を「息子・妻等を特徴とする添性 と取っている。添性とは、事物.に付加されてその本来的なあり方を限定する、事物そのものにとっては非本来的要素のことで、通常は、(1)粗大な身体と微細な身体、(2)主要生気、(3)手・足等の五種の行動器官、(4)聴覚・触覚等の五種の感覚器官、(5)内官、という五種の要素がアートマンの添性を構成するとされるが、ここでは、これら五種の構成要素よりもさらに外的な添性のことを言って いるものと思われる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

496鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/11(木) 00:54:18 ID:Wf71GXdg0
身体との同一性をアートマンに附託し私は病気であるとか、私は健康であると認識するのじゃ。
所有者、支配者は、自己の所有物が完全であれば、所有者であるという性質も完全となるので完全なので満たされていると思うのじゃ。
同じように所有者、支配者は自己の所有物 が不完全であれば、所有者であるという性質も不完全となるので不完全で不満なのじゃ。
 
こ のように、不完全さという性質等の外的な属性は、所有者という性質を媒介として、身体に付託されるのじゃ。
そして、それ身体に移された外的な属性を人は、アートマンに附託するのじゃ。

 諸感覚器官、愛欲、思惟などの内的器官も同様にアートマンに付託するのじゃ。

497避難民のマジレスさん:2022/08/11(木) 01:04:21 ID:tKHnzmC.0
(つづき)  p263-264
   以上の説明で[師シャンカラは]、属性の附託について述べ[終っ]て、[次に]そ の(属性の附託の)もととなる基体[どうし]の附託について、このように「私」という観念をもつもの(内官)をと言っているのである。[ここで]「私」という観念をもつものとは、「私」という観念すなわち変容(vrtti)が、内官に[生じている]時の それ(内官)182のことであるが、それをその[一切の]活動を観照している一すな わち純粋精神であって無関心な存在であるために内官の活動の観照者である一内的アートマンに附託するのである。以上で、[内官の附託されたアートマンが]行為主体であり経験主体であるということを説明し終った。[そこで次に師シャンカラは、内官 に備わっている]精神牲について、またそれとは逆に、一切を観照するこの内的アートマンを内官等に附託するのであると説明しているのである。[ここで]それとは逆に (tadviparyena)とは、内官等とは逆に[という意味である]。すなわち、内官等は物 質的なもので、それと逆のものが精神性をのだが、その[精神性という]姿で(tema)一[この]三格は<特定の性質を備えているものを示す特相(itthambhūtalaksana) を表わす>ためのものである183一[人は内的アートマンを]内官等に附託するので ある184。従って、このように内官等に限定された内的アートマンは「これである(物質である)」[という要素=内官]と「これではない(純粋精神である)」[という要素= 内的アートマン]からなる185精神的存在であって、行為主体、経験主体、二種の無明
一原因としての無明と結果としての無明186一の基体、「私」という観念の対象、輪廻主体、あらゆる悪の集まる容器・個人存在(jīva)・相互附託の質料因なのである。そして[逆に]それ(内官等に限定された内約アートマン)の質料因が附託なのである。
このように、[内官に限定された内的アートマンと附託との関係は]種子と芽のように無始なのである。従って、[この両者が]相互に依存しあう(itaretarāśraya)[という理論的欠陥は]存在しないのである。[このことについてはすでに]述べたところであ る187。

脚注
182アートマンの本性である純粋精神が物質的な内官に附託されると、内官はアートマンの形相をとって 変容し、「私はアートマンである」という観念が内官に生ずる。この観念が「私という観念」であり、この ような変容は内官そのものにほかならないから、「私という観念をもつもの」とは内官のことである。
183「特定の性質を備えているものを示す特相を表す三格とは、たとえば、「(彼は)もつれた髭をしているから 苦行行者である」という場合にみられ、この場合、この三格は、苦行者性という特定の性質を備えているものを示す特相を表している。同じように、この本文の場合にも、三格は、精神性という特定の性質を備えている もの(ここでは精神性の附託された内官)を示す特相(精神性)を表している。
184「それとは逆に」とは、『註解』本文では、「内官等を内的アートマンに附託するのとは逆に、内的アートマンを内官等に附託する」という意味にすぎないが、それをBhāmatīは次のように解するのである。 すなわち、これまでは、活動を備えていない内的アートマンが行為主体、経験主体でありうるのは、活動を備えた内官等が内的アートマンに附託されているからであるということを説明してきたので、これからは、物質的な内官等が精神的活動(認識活動)を行ないうるのは、アートマンの精神性という姿が内官に附託されているからだ、ということを説明するのであるという意味で、「それとは逆に」と言っているの だと解するのである。
185 「これであるとこれでないからなるを「精神性と物 質性の混ざりあった」駐しているので、これに従って補った。
186「原因としての無明」と「結果としての無明」が何を指すのかは明確ではないが、二種の無明について、「無始の実体としての無明」と「それぞれ前の錯誤より生ずる潜在印象としての無明」と解している。だが、Bhāmatīは、アートマンと非アートマンとの相互附託を無明と解し (cf.島,1983)、この相互附託を、基体の附託と属性の附託とに区別し、前者が後者の原因だと考えてい る(261頁参照)ので恐らく、「原因としての無明」とは、アートマンと非アートマンとの基体どうしの附託のことを、「結果としての附託」とは、アーマンと非アーマンの属性の附託のことを指しているものと 思われる。
187本訳216頁参照。
(´・(ェ)・`)つ

498鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/11(木) 23:52:46 ID:DRtoFtpI0
 属性の附託のもととなる、基体の附託である私という観念をもつ内官を説くのじゃ。
 私という観念をもつものとは、私という観念による変容が、内官に生じている時の内官のことなのじゃ。
 それは活動を観照している内的アートマンに附託するのである。
 内官の附託されたアートマンが行為主体であり経験主体であるというのじゃ。

 人は内的アートマンを内官等に附託するのであるから、内官等に限定された物質である内官と、純粋精神である内的アートマンからなる精神的存在なのじゃ。
 行為主体であり、経験主体であり、因果としての無明の基体、私という観念の対象、輪廻主体、あらゆる悪の集まる容器が個人存在という認識を生む相互附託の質料因だというのじゃ。
 そして逆に内官等に限定された、内約アートマンの質料因が附託なのじゃ。
 このように内官に限定された内的アートマンと附託との関係は、種子と芽のように無始であるというのじゃ。
 この両者が相互に依存しあうという理論的欠陥はじゃ。

499避難民のマジレスさん:2022/08/12(金) 00:15:59 ID:4VSQE6nw0
3.本書の目的:ウパニシャッドの目的はアートマンの唯一性に関 する明知を得るところにある   p264-265 134左/229

  このように始めも終りもない生得的な附託は、誤った観念という姿をして おり、行為主体、経験主体という観念を生み出し、万人によって直観される。この悪の原因を滅し、アートマンの唯一性に関する明知を得るために (pratipattaye)、すべてのウパニシャッドが開始されるのである。そして 我々は、これ(アートマンの唯一性に関する明知を得ること)188がすべてのウ パニシャッドの目的であることを、以下のシャーリーラカ・ミーマーンサー189において明らがにするつもりである。

  [ここまでで師シャンカラは」、認識根拠・認識対象[等の区別に基づく]日常的経験 [について論ずること]によって、附託を確固たるものとしてきたが、 [これからは]、 学生の利益のために、世の人々すべてが直接に理解できるような形で[附託の]本質に ついて述べ、それによって、附託をさらに確固たるものにするのである。 [『註解』本文中の]このように始めも終りもないとは、真理が認識されなければ滅することはで きない[という意味である]。[そして]始めも終りもない理由が、生得のと述べられているのである。[また]誤った観念という姿をしておりとは、誤った観念の姿は、[実在 であるとも非実在であるとも]表現し得ないものであるが、それ(このような姿)をそれ(附託)は備えているのである、ということを言っているのである。つまり、[附託は実在であるとも非実在であるとも]表現し得ないものだという意味なのである。
  [次に師シャンカラは]この悪の原因を滅するために[述べて、この序論の]主題を を結論付けているのである。
  [反対主張][附託と]対立する観念がなければ、どうしてこれ(附託=悪の原因) を滅することなどできようか。
  [答論]そこで[師シャンカラは]、アートマンの唯一性に関する明知を得るために (pratipattaye)と答えているのである。[ここで]得ること(pratipatti)とは獲得 (prāpti)のことで、そのために[すべてのウパニシャッドが開始されるのであり、それは]単に低唱(japa)のためでもなけれぱ、祭式を行なうためでもないのである。[また]アートマンの唯一性とは、多様性(prapañcatva)がすべて消えさることである。 [従って]諸ウパニシャッドは、歓喜そのものである実在の獲得を疑いなくもたらして、 附託を根絶するのである。

脚注
188
189「シャーリーラカ」とは「身体を有するもの」の意味で、個人存在を指している。この個人存在に関する考察、すなわち、個人存在と絶対者ブラフマンは同一であるということを明らか にすることが、『ブラフマ・スートラ』の主題であるところから、「ブラフマ・スートラ』が「シャーリーラカ・ミーマーンサー」と呼ばれているのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

500鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/12(金) 23:05:25 ID:qe7/Ue9w0
 附託は誤った行為主体、経験主体という観念を生み出し、万人によって直観されるというのじゃ。
 この悪の原因を滅し、アートマンの唯一性に関する明知を得るために、すべてのウパニシャッドが説かれるというのじゃ。
 
 始めも終りもないとは、真理が認識されなければ滅することはで きないという意味なのじゃ。
 生得の性質であるから始めも終りもないと述べられているのじゃ。
 誤った観念とは実在であるとも非実在であるとも表現し得ない姿を附託は備えているからというのじゃ。
 つまり附託は実在であるとも非実在であるとも表現し得ないものだという意味なのじゃ。

 反対なのじゃ。
 附託と対立する観念がなければ、どうして附託を滅することができるのかと聞くのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラはアートマンの唯一性に関する明知を得れば、対立観念がなくとも付託は滅するというのじゃ。
 アートマンの唯一性とは、多様性がすべて消えさることなのじゃ。
  諸ウパニシャッドは、歓喜そのものである実在の獲得を疑いなくもたらして、 附託を根絶するのじゃ。

501避難民のマジレスさん:2022/08/13(土) 03:15:52 ID:xSe4xYGY0
(つづき)   p265-266
  以上述ぺてきたことの趣旨は次の通りである。もし、「私」という観念の対象がアー
トマンであって、その観念が正しいものなら、[アートマンと同一である]ブラフマン は、[「私」という観念によって]すでに知られていることになり、[ブラフマンに関する考察は]意味(目的)のないものとなってしまう。従って、[ブラフマンを]知りたい という欲求が[生ずることは]ありえないであろう190。そして、それ(ブラフマンを 知りたいという欲求)がなければ、ブラフマンを知るために諸ウパニシャッドを学習す るということはなく、[諸ウパニシャッドは、それが本来]意図していない意味で、低 唱にのみ用いられるということになろう。[だが]その場合には、実に、ウパニシャッドの説くアートマンに関する[「私」という]観念は、正しい認識根拠とはならないのである191。そして、この誤った[観念]は、反復したところで、アートマンが行為主 体・経験主体等であるという<真実>を否定することはできない。というのは、附託された姿は真理の認識によって否定されるが、<真実>が虚偽の認識によって否定さ れることはないからである。実に、縄が縄であることは、蛇の観念が千連続して[現われて]も、否定することができない。だが、誤った観念によって生み出された姿は、真理の認識によって否定しうるのである。そして、誤った認識[から生じた]潜在印象も、たとえそれが極めて頑強なものであっても、真理の認識より生じる潜在印象、 [それは]真理の認識を注意深く、絶え間なく、長い問、繰り返すことによって生ずる一によって[否定し]うるのである。
   [反対主張]それはその通りかもしれない。[だが]諸ウパニシャッドには、生気等に関する念想(upāsanā)I92も、しばしば見うけられるではないか。その場合にも、どうして、あらゆるウパニシャッドの目的がアートマンの唯一性を明らかにするところ にあると[言えるのか]。
  [答諭]だから[師シャンカラは]、そして我々は、これ(アートマンの唯一性に関 する明知を得ること)がすべてのウパニシャッドの目的であることを、以下のシャー リーラカ・ミーマーンサーにおいて明らかにするつもりであると言っているのである。
[ここでは]身体(śarīra)それ自身がシャリーラカ(śārīraka)であり、そこ(身体) に住む者がシャーリーラカ(śārīraka)、すなわち個人存在(jīvātman)のアートマン なのである。[そして]「汝」という語で表現されているそれ(個人存在のアートマン) と「それ」という語で表現される最高存在193との同一性に関するミーマーンサー(考察)が、このように(シャーリーラカ・ミーマーンサーと)述べられているのである。

脚注
190 本訳201頁参照。
191 「属性のないアートマンに、『私は行為主体である』『私は経験主体である』 という行為主体性、経験主体性等の属性をひきおこす『私』という観念は、正しい認識根拠ではない」と いう意味に解しており、ここではそれに従った。
192 「ブラフマンを生気として念想する者たち...」という生気に関する念想について述べている章句がある。
193「汝はそれなり」という有名な聖典句において、「汝」という語は個人存在のアートマンを指し、「それ」という語は最高存在(ブラフマン)を指しており、この聖典句は、両名が同一であることを示している。この聖典句は、個人存在と最高存在との同一性を示す有名な典拠(大文章)として、不二一元論学派では非常に重要視されている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

502鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/13(土) 23:06:49 ID:UbsNfmlE0
 もし、私という観念の対象がアートマンであって、その観念が正しいものなら、アートマンと同一であるブラフマン はすでに知られていることになり、ブラフマンに関する考察は意味のないものとなってしまうというのじゃ。
 ブラフマンを知りたいという欲求がなければ、ブラフマンを知るために諸ウパニシャッドを学習するということはなく、それは低唱にのみ用いられるということになるのじゃ。
 その場合はウパニシャッドの説くアートマンに関する私という観念は、正しい認識根拠とはならないのじゃ。

 この誤った観念を反復したところで、アートマンが行為主体であり、経験主体等であるという誤認を否定することはできないのじゃ。
 附託された姿は真理の認識によって否定されるが、真実が虚偽の認識によって否定されることはないからなのじゃ。
 誤った認識から生じた潜在印象も、たとえそれが極めて頑強なものであっても、真理の認識より生じる潜在印象によって厭離されるのじゃ。


  反対なのじゃ。
 諸ウパニシャッドには、生気等に関する念想も、しばしば見うけられるのじゃ。
 どうして、あらゆるウパニシャッドの目的がアートマンの唯一性を明らかにするところにあるというのかというのじゃ。


 答えたのじゃ。

 シャンカラはアートマンの唯一性に関する明知を得ることがすべてのウパニシャッドの目的であることを、以下のシャーリーラカ・ミーマーンサーにおいて明らかにするつもりであると言っているのじゃ。
 身体がシャリーラカであり、身体に住む者がシャーリーラカ、すなわち個人存在のアートマンだというのじゃ。
 汝という語で表現されている個人存在のアートマンとそれという語で表現される最高存在との同一性に関するミーマーンサー(考察)が、このように(シャーリーラカ・ミーマーンサーと)述べられているのじゃ。

503避難民のマジレスさん:2022/08/14(日) 01:34:39 ID:u1Q0ogOM0
(つづき)   p266-267 
  ここで、[以上述べてきた]ことを要約すれば以下の通りである。
  [反対主張](1)ヴェーダの学習[を命ずる]儀軌194から明らかなように、[ヴェー ダを学習すれば、その]果報として、「ヴェーダの学習」という語で表現されている全 ヴェーダの意味が理解されることになる。[従って]諸ウパニシャッドも、「ヴェーダの 学習」という語で表わされる[わけだから]、祭式に関する儀軌・禁令のように、[ヴェー ダを学習すれば、その]果報として、意味が理解されることになる。このことが、ヴ ェーダの学習[を命ずる]儀軌から分かるのである。(2)[さらに]「しかし、聖典の 意味は[通常の用法と]異ならない」という格言(nyāya)195から[も明らかなよう に]、諸ウパニシャッドの意味は、真言(mantra)の場合のように196、通常のものな のである。(3)[そして]諸ウパニシャッドからは、純粋精神と歓喜のかたまりであって、行為主体であるとか経験主体であるということは無関係で、多様性のない、唯一 の内的アートマンが理解されるのである。[だが、この(1)(2)(3)]にもかからず、 諸ウパニシャッドは、「私」という観念一[それは]疑問や拒斥とは無縁のもので、 アートマンを行為主体・経験主体で、苦しみ・悲しみ・迷妄に満ちたものだと考えている一と矛盾する[ので]、本来の意味からはずれていることになる。[すなわち、諸 ウパニシャッドは]比喩的意味をもつか低唱のみに用いられるかのいずれかであって、 [本来]意図していない意味をもつものなのである。従って、そ(諸ウパニシャッド) の意味の考察を本質とするシャーリーラカ・ミーマーンサー一[それは]四章からな る一は、開始すぺきではないのである197。
  [答論]もし、「私」という観念が正しい認識根拠であれば、それ(反対主張)はその 通りであろう。だが、それ(「私」という観念)は、天啓聖典等を拒斥することができな いし198、また、天啓聖典等やあらゆる論者達によって正しい認識根拠だとは認められ ていないので、附託されたものなのである。従って、諸ウパニシャッドは、[本来]意 図していない意味をもつのでも比喩的意味をもつのでもなく、述べられている通りの特相(laksana)をもっているものなのである。[そして]内的アートマンこそが、それら (諸ウパニシャッド)の一義的意味(mukhyārtha)なのである。[そして]これから述 べるように、これ(内的アートマン)は、疑間の余地のあるものであってかつ意味(目的)のあるものなので、[この内的アートマンについて]考察するのは正当なのである。
以上のような理由で、 『ブラフマ・スートラ』の作者は、そ(内的アートマン=ブラフ マン)の考察をスートラという形で199、[次のように]述べているのである。そこで、 この故に、ブラフマンの考察が[開始されるべきである](Brahmasūtra I.1.1)と。

脚注
194 195
196「真言」(mantra)とは、ヴェーダを構成する五部門、儀軌・真言・余命・禁令・釈義の一つで、祭式の執行と関連した事物を想起させるヴェーダの章句 のことを言う。
197「シャーリーラカ・ミーマーンサー」すなわち「ブラフマ・スートラ」は、四章からなり、諸ウパニ シャッドの意味の考察を目的とするわけだが、諸ウパニシャッド自体が本来的な意味をもたなければ、それについて考察しても無意味なので、『ブラフマ・スートラ』を開始する必要はないというである。
198 天啓聖典は人間の作ったものではないので絶対的権威があり、「私」という観念と矛盾する場合には、 「私」という観念のほうが否定されるべきであるという論議については、本訳207頁以下参照。
199「スートラ」をBhāmati,は次のように定義している。「賢者は、簡潔で、意味を暗示し、少しの文字と句でできており、あらゆる点で[教えの]精髄であるものをスートラと呼ぶ」
(´・(ェ)・`)つ

504鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/15(月) 00:14:40 ID:rC.0kWJY0

 反対なのじゃ。
 
 ヴェー ダを学習すれば、全ヴェーダの意味が理解されることになるのじゃ。
 そうであるからウパニシャッドからは、純粋精神と歓喜のかたまりである多様性のない、唯一の内的アートマンも理解されるじゃろう。
 それによってもはや理解できるのであるから、ウパニシャッド の意味の考察を本質とするシャーリーラカ・ミーマーンサ一は、開始すぺきではないというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 私という観念は、天啓聖典等を拒斥することができず、天啓聖典等やあらゆる論者達によって正しい認識根拠だとは認められていない、附託されたものなのじゃ。
 そうであるから諸ウパニシャッドは、本来意 図していない意味をもつのでも比喩的意味をもつのでもなく、述べられている通りの特相をもっているものというのじゃ。

 内的アートマンこそが、それら(諸ウパニシャッドの一義的意味なのじゃ。
 そして内的アートマンは、疑間の余地のあるものであり、悟りという目的のあるものなのじゃ。
 このような理由で内的アートマンについて考察するのは正当なのである。

505避難民のマジレスさん:2022/08/15(月) 02:44:29 ID:9tk31Kbk0
『バーマティー』I.1.1 p269-270 136右/229

1.ブラフマンの考究には目的があり、疑問の余地がある

  これから詳細に説明しようとしている「ウパニシャッドの考察に関する聖典」(VedāntaMīmāmsāśāstra=Brahmasūra)のなかで、次のものが 最初のスートラである。

  そこで、この故に、ブラフマンの考究が[開始されるべきである](atha atho brahmajijñāsā,BS I-1-1)

  [スートラ中の]「考究」[という語]によって、[ブラフマンの考究には]目的(意味) と疑問[の余地のあること]が暗に示されているのである200。このうち、[ブラフマン の考究の]目的がブラフマンの知識であることは、[スートラ中の「考究」(=知りたいという欲求,jijñāsā)という語によって)はっきりと示されている。というのは、[ブ ラフマンの知識はブラフマンを知りたいという]欲求によって直接に覆われている201 (欲求の直接の対象だ)からである。もし[ブラフマンの知識のあとになにかあれぱ] これ(ブラフマンの知識)は二次的な目的となるだろうが、祭式に関する知識のあとに [祭式の]執行があるのとは異なり、ブラフマンの知識のあとにはなにも存在しないそれどころか、疑問の余地のないブラフマンの知識一[それは]あらゆる苦しみの止滅を本質としており、歓喜そのものであって、諸ウパニシャッド([その]内容は、ブラフマンの考察(BrahmaMīmāmsā)と呼ばれる考察法(tarketikartavyatā)を通して知られる)によって伝えられてきた一こそが、最高の目的なのである。というの は、賢者たちは、まさにその目的に対して向かって行くからなのである。そして、それ (最高の目的=ブラフマンの知識)は、すでに獲得されているにもかかわらず、無始の無明のせいであたかも獲得されていないかのようであるので、得たいと望まれるのである。[それは]ちょうど、ネックレスが首にかかっているのに、なにかの思い違いのせいでないと思っている人が、他人に指摘されると、まるで[それまで]なかったもの であるかのように、[そのネックレスを]獲得するようなものである。
  また一方、「考究」は疑間の結果なので、その原因である疑問を暗に示していることになる。そして、疑問が考察を開始させるのである。このようにこのスートラは、賢者が聖典[『ブラフマ・スートラ』]へと向かう原因となる疑問や自的を暗示しているから、聖典の最初にあるのが妥当なのである。だから、神聖なる註解作者は、われわれがこれがら詳細に説明しようとしている「ウパニシャッドの考察に関する聖典」のなかで、次のものが最初のスートラである、と述べているのである。
  [この註解中の]考察(Mīmāmsā)という語は、尊ばれている論考(vicara)を意味する。(そして)論考が尊ばれるということは、[その論考の]結果、人間の最高の目的の原因である最も微妙な事柄が確定される、ということなのである。[そして]その考察に関する聖典が「考察に関する聖典(Mīmāmsāśtra)」なのである。というのは、それ(聖典)が弟子たちに対してそれ(考察)を教授し、真に明らかにするからである。さらにスートラとは、多くの意味を暗示するから[スートラ]なのである。たとえば[それは]次のように定義されている。「賢者たちは、簡潔で、もろもろの意味を暗示し、少しの文字と句でできており、あらゆる点で[教えの]精髄であるものをスー トラと呼ぶ」202と。

脚注
200ブラフマンの考究には目的(意味)と疑問の余地があるので、ブラフマンは考究の対象に価するというこの論議に関しては、本訳201-213頁参照のこと。
201ブラフマンを知りたいという欲求が領域を覆うもので、ブラフマンの知識が領域を覆われるものであって、前者の存在する領域の中に後者が含まれているので、ブラフマンを知り たいという欲求が存在すれば必ずブラフマンの知識も存在するという意味。なお、領域を援うものと領域を覆われるものとの関係については、脚注14参照のこと。
202 出典不明。
(´・(ェ)・`)つ

506鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/16(火) 00:17:16 ID:0g9kA3Ck0

 スートラ中の考究という語によって、ブラフマンの考究には目的と疑問[の余地のあること]が暗に示されているというのじゃ。
 この中のブラフマン の考究の目的がブラフマンの知識であることは、考究という語によって)はっきりと示されているのじゃ。

 ブラフマンの知識は、実はすでに獲得されているにもかかわらず、無始の無明のせいで獲得されていないかのように人は苦るしむから、得たいと望まれるのじゃ。
 例えばそれは、ネックレスが首にかかっているのに、思い違いのせいでないと思っている人が、他人に指摘されて気づいてネックレスを獲得するようなものじゃ。

 さらに考究は疑間の結果であるから、その原因である疑問を暗に示しているというのじゃ。

507避難民のマジレスさん:2022/08/16(火) 00:23:27 ID:tUSbF34A0
2.スートラの語義解釈(I) 「そこで」の語義
p270-271 137左/229

  この[スートラの]中で、「そこで」(atha)203という語は「直後」(ānantarya) という意味に解すべきであって、「新しい論題の導入」(adhikāra)という意味に[解すぺきでは]ない。というのは、ブラフマンの考究は新しい論題として導入されるべきものではないからである204。 また[この語は、「吉祥」(mańgala)205の意味に解すぺきでもない]。というのは、「吉祥」[という意 味]は[スートラの]文意に合わないからである。何故なら、「そこで」という語は、[吉祥]以外の意味に用いられても、[その語を]聞くだけで、吉祥の 効果があるからなのである。さらに[この語は、「前に主題とされた事柄への 言及」(pūrvaprakrtāpeksa)の意味に解すぺきでもない]。とういうのは、 「前に主題とされた事柄への言及」とは結局[前に主題とされた事柄の]「直後」にほがならないがらである206。

脚注
203「そこで(atha)」という語に「直後」「開始」「吉祥」等の意味がある。
204 Brahmajijñāsāのjijñāsāという語は、「知りたいという欲求jñānecchā)」か「考察(vicāre)」の 意味がのどちらかだが、前者だとすると、考察が新しい論題ごとに開始されることはあっても、知りたいという欲求が新しい論題ごととに開始されることはないから、理に合わない。一方、後者の場合だと、「開 始すべきである」という語を最後に補わなけれぱならないことになるが、athaという語に「新しい論題の導入(すなわち開始)」という意味があるのが余計になる。従って、athaは「新しい論題の導入」とい う意味ではない。
205mańgalaとは、著作を著すに際して、著作が無事完成することを祈って、自己の帰依する神や師等に対して捧げる詩句のことであるが、この『ブラフマ・スートラ』にはそのような詩句がみあたらないので、スートラの最初の語athaにこのmańgalaの意味があるのではないかとする議論である。
206この一節の意味は、諸註釈も諸訳もまちまちではっきりしないが、ここではBhāmatīに従った。

2.1.「そこで」の語義(1)ー「直後」という意味である

  このようにスートラの趣旨を説明したのちに、[師シャンカラは]、その(スートラ の)最初の語「そこで」を、[次のように]説明している。この[スートラの]中で、「そこで」という語は「直後」という意味に解すべきであると。[すなわち]スートラ中 の諸語の中で、この「そこで」という語は「直後」という意味である、というのが文脈 なのである。
(´・(ェ)・`)つ

508鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/16(火) 23:10:19 ID:U6BnA6720

 このスートラのそこでという言葉は直後と意味だというのじゃ。
 新しい議題との導入とか、吉祥でもなく、前に主題とされた事柄への言及でもないというのじゃ。

509避難民のマジレスさん:2022/08/17(水) 00:19:01 ID:lIUFXdqk0
2.2.「そこで」の語義(2)ー 「新しい論題の導入」の意味では ない  p271-272

  [反対主張]「そこで」という語には「新しい論題の導入」という意味もみられる。 たとえばヴェーダ聖典には、「そこでこのジュヨーティ祭が[開始されるべきである]」 207と[いう例が]あるし、また世俗的[な用法]では、「そこで言葉に関する教えが[開始されるべきである]」208、「そこでヨーガに関する教えが[開始されるべきである]」 209と[いう例が]ある。従って、どうして「新しい論題の導入」の意味に解さないのか。
   [答論]だから[師シャンカラは、次のように]言っているのである。「新しい論題の導入」という意味に[解すぺきでは]ない。何故か。というのは、ブラフマンの考究は新しい論題として導入されるぺきものではないからである。すなわち、考究.(知り たいという欲求)がブラフマンやその(ブラフマンの)知識よりも主要なものであることは、スートラの中で、[「ブラフマンの考究」(brahmajijñāsā)という]語[自体] から分かるからである210。

  [反対主張]たとえば、「棒を持った僧が、神々を勧請することを許可する真言(praisa) と勧請が終わったことを伝える真言(anuvacana)とを唱える」という場合には、[「棒」 という語は]主要なものではないが、「棒」という語の指すものが意図されているものであるように211、ここ(スートラ中)でも、ブラフマンとその知識[が意図されてい るものなのである]。

脚注
207「そこでこのJyoti祭が[開始されるべきである]云々」)という聖典句は、すでに執行するよう命じられているJyotistoma祭とは異なる新たな祭式であるJyoti祭等を行うよう命じているとされている。すなわち、Jyoti祭等は、すでに執行するように命じられている。
すなわち、Jyoti祭等は、すでに執行するように命じられているJyotistoma祭とは別に、新しい祭として導入されたものだと解釈されているのである。
208 athaを「新しい論題の導入」ととっている。
209 athaを「新しい論題の導入」の意味に とっている。
210
211「棒を持った僧が神を勧請が 終ったことを伝える真言を唱える」)との関連で、「祭官が勧請することを許可する真言を唱え、そして勧請が終わったことを伝える真言を唱える」という 聖典句を挙げ、さらに、次のような説明を加えている。adhvaryu祭官か 実際に供物を捧げるのにたいし、maitrāvarna祭官は供物の準備をし、hotr祭官は供物が準備できしだ い神を勧請する役割にある。maitrāvaruna祭官が供物を準備し、adhvaryu祭官がその準備に満足すると、maitrāvaruna祭官は、āśrāvayaという真言を唱えて、hotr祭官に神を勧請する許可を与える。勧 請が行われると、maitrāvaruna祭官は、astu srausatという真言を唱えてそのことをadhvaryu祭官に 伝える。このうちはじめの真言がpraisa、あとの真言がanuvacanaと言われる。さてここで、これら 二種の真言をmaitrāvaruna祭官が唱えるぺきであることは、maitrāvarupah presati云々という聖典 旬から理解されるわけであるから、この聖典旬は、単に同じこと、すなわち maitrāvaruna祭官がこれらの真言を唱えるべきことを繰り返しているだけではなく、これらの真言を唱 える際にmaitrāvaruna祭官に棒をもつ資格があることを示していると解釈される。従ってこの場合に は、棒を持つ人という語は、言葉の上では棒という語が主要なものではないが、棒を持っ人よりむしろ棒のほうに意味がおかれているのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

510鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/17(水) 23:27:42 ID:JqRbnjB20
反対なのじゃ。

 そこでという語には新しい論題の導入という意味もあるというのじゃ。


 答えたのし゜ゃ。
 シャンカラは新しい論題の導入という意味に解すぺきではないといっているのじゃ。
 何故ならばブラフマンの考究は新しい論題として導入されるぺきものではないからなのじゃ。
 考究とは知りたいという欲求であるから、それがブラフマンやブラフマンの知識よりも主要なものであることは、スートラの中でブラフマンの考究という語でわかるからなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 
 スートラ中でも、主題としてブラフマンとその知識が意図されているというのじゃ。

511避難民のマジレスさん:2022/08/18(木) 00:15:50 ID:o9ybA/5s0
(つづき)   p272-274
   [答論]それは正しくない。というのは、[考究は]ブラフマンの考察に関する聖典へと[賢者たちが]向かう契機となる疑問と[考察の]目的とを暗に示すことを目的と しているから、 [その]考究こそが[スートラの]意図するところなのである。もしそれ(考究)が意図されていなければ、これら(疑問と考察の目的)が暗に示されていな いことになるから、賢者たちは、烏の歯212の考察に向かわないのと同じように、ブラフマンの考察に向かうことほないであろう。その時には実に、ブラフマンあるいはそ の(ブラフマンの)知識が主題(abhidheya)や目的となることはない。というのは、 諸ウパニシャッドは、附託が行われていない[と一般に考えられている]「私」という 観念と矛盾するので、このような種類の(疑問の余地と考察の目的の暗示されていな
い)対象に対して正しい認識根拠たりえないからであり213、また、[ウパニシャッドが 本来]意図していない意味、たとえば、比喩的な意味一[それは一義的には人々を] 祭式へと向かわせるから[比喩的なのである]一や「フム」等の低唱に役立つもの は、ヴェーダの学習[を命ずる]儀軌に基づいて理解することが可能だからである214。 従って考究は、疑問と[考察の]目的を暗示しているのであって、ここ(スートラ中) では語のうえでも文のうえでも、主要なものと意図されていてしかるぺきなのである。
  さらに、もし[考究が各論題ごとに新たに導入されるようなものであれぱ]、それ(考究)[という語]の近くにある「そこで」という語は、「新しい論題の導入」の意味に[解し]うるだろうが、考究(知りたいという欲求)は、(各論題ごとに)新たに導入されるようなものではないから、新しい論題として導入されるぺきものではないのである。
  一方、考究の限定詞(viśessnp)であるブラフマンの知識は、新しい論題として導入 されるぺきものであろうが、それは[「ブラフマンの考究」という語のなかで]主要なものではないから、「そこで」という語と結びつかないのである。
  またもし、[考究(jijñāsā)と考察(MĪmāmsā)が同じであれば]、ヨーガに関する教えのように、新しい論題として導入することができるだろうが、考究は考察ではない。というのは、「測る」という意味の動詞語根māń215一[この動詞語根は]不規則的に nで終わることがある一、あるいは、「尊敬する」という意味の動詞語根mān216に関 する、「[sanという接尾辞は]man,badha云々」217という[パーニニの規定]に基づいて、欲求の意味をもたない[接尾辞]sanを付加して作られたMīmāmsā(考察)と いう語は、尊ばれている論考(vicāra)を表し、一方「考究」(jijñāsā)という語は、知 りたいという欲求(jañāna-icchhā)を表しているからである。実に、「考究(知りたい という欲求)」は、[人々を]「考察(Mīmāmsā)」へと向かわせるもの(pravartaka)なのである。そして、向かうべき対象(pravartya)と向かわせるもの(pravartaka)と は同一ではない。何故なら、同一だとすると、その(両者の)関係が成り立たないから である。
  さらに、[「考究」という語が]本来の対象(知りたいという欲求)を示しうる時に、 それ以外の対象(考察)を示していると想定するのは正しくない。何故なら、[語の意 味を]広げすぎるという誤謬に陥るからである。従って[以上のような理由で、師シャ ンカラは、ブラフマンの]考究は新しい論題として導入されるぺきものではないからで ある、と的確に述べているのである。

脚注
212 いうまでもないが、鳥には歯がないので、鳥の歯についての考察は無意味である。 213この議論に関しては、本訳210-213頁参照。
214この議論に関しては、本訳265頁以下参照。
215 216 217
(´・(ェ)・`)つ

512鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/18(木) 23:01:28 ID:KMC7q63o0
答えたのじゃ。

 それは正しくないというのじゃ。
 考究は賢者達がブラフマンの考察に関する聖典へ向かう契機となる疑問と、考察の目的とを暗に示すことを目的としているからだというのじゃ。
 考究こそがスートラの意図するところなのじゃ。

 考究は疑問と考察の目的を暗示しているのであって、スートラの中では語のうえでも文のうえでも、主要なものと意図されているのじゃ。
 
 考究は各論題ごとに新たに導入されるようなものではないのじゃ。

 文法からも否定されるのじゃ。

 さらに考究という語が本来の対象を示しうる時に、 それ以外の対象を示していると想定するのは間違いなのじゃ。
 何故ならば語の意味を広げすぎるという誤謬に陥るからなのじゃ。
 以上のような理由でシャンカラはブラフマンの考究は新しい論題として導入されるぺきものではない述べているのじゃ。

513避難民のマジレスさん:2022/08/19(金) 01:39:32 ID:BhC18BJU0
2.3.「そこで」の語義(3) 「吉祥」の意味ではない  p274-275 139左/229

  [反対主張]「そこで」という語は、どうして「吉祥」の意味ではないのか。その場合にスートラは、「ブラフマンの考究は吉祥の原因であるから毎日行うべきである」という意味になるであろう。
  [答論]だから[師シャンカラは、以上のような反対主張に対して、次のように]答えているのである。また[この語は、「吉祥」の意味に解すぺきでもない]。というのは、「吉祥」[という意味]は[スートラの]文意に合わないからである。実に、文意に合う (文意と文脈上結合する)のが語意であり、それは明示されている(Vācya)か暗示され ている(laksya)かのいずれかである。しかし今の場合には、吉祥はrそこで」という語 によって明示されているわけでも暗示されているわけでもなく、太鼓(mrdańaga)や 法螺貝の音の場合のように、「そこで」という語を問いただけで[生ずる]結果(kārya) なのである。そして、[語より生ずる]結果や[語から]知られるもの(jāpya)が文意に合う(文意と文脈上結びつく)ことは、語の用法上みられないのである218。以上が[『註解』本文の]意味である。
   [反対主張]ところで果たして、「そこで」という語は、吉祥という意味であちこち
で用いるぺきではないのだろうか。[もしそうだとすると]、「オームという語とそこで という語のこれら両者は、太古にブラフマンの喉から発せられたものである。だから両者は吉祥なのである」219という聖伝書に反することになろう。
   [答論]だから[師シャンカラは、以上のような反対主張に対して]、何故なら、「そ
こで」という語は、[吉祥]以外の意味に用いられた時にでも、[その語を]聞くだけで、吉祥の効果があるからなのである、と答えているのである。「そこで」という語は、 [吉祥]以外の意味、すなわち「直後」等[の意味]で用いられた時に、[その語を]聞 けば、すなわち聞くだけで、竹笛や琵琶の音のように吉祥さを生み出すので、他の目的で運ばれてきた水壼を見た時のように220、吉祥の効果があるのである。従って、聖伝書に反することはない。すなわち、この(スートラの)場合、[「そこで」という語は]、「直後」という意味であっても、[その語を]聞いただけで吉祥の意味がある、という意 味なのである。

脚注
218 文は語の集合であるから、当然文意は語意の集合であることになる。そしてこの 語意には、語によって直接に明示されているもの(たとえば「壼」という語が萱を意味する場合)と、間 接的に暗示しているもの(たとえば「ガンジス河に牛飼部落がある」と言った時、河に牛飼部落のあるはずはないので、この場合には「ガンジス河」という語はガンジス河岸を意味するような時)がある。語に 活用語尾が含まれるかどうか、語意どうしを結合させて文意を形成させる条件はなにか、というような問 題はさておいて、「そこで」という語と「吉祥」という意味の関係に的をしぽると、「吉祥」という意味は、「そこで」という語が直接に明示しているわけでもないし、間接的に暗示しているわけでもなぐ、「そこで」 という音と感覚器官が接触して生じた結果なのである。また、「煙」という語から、煙があるところには常に存在する火が同時に知られることもあるが、これも語意ではないので、文意と結びつくこ とはない。
219 出典不明。
220 意図不明
(´・(ェ)・`)つ

514鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/19(金) 23:30:37 ID:g1ui.JIQ0
反対なのじゃ。
 そこでという語は、吉祥という意味ではないのかというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラはこの語は、吉祥の意味に解すぺきでもないと言っているのじゃ。
 なぜならば吉祥という意味はスートラの文意に合わないからなのじゃ。
 暗示でも明示でも合わないから違うというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 そこでという語は、吉祥という意味で聖伝に説かれているのじゃ。

 答えたのじゃ。
 そこでという語は、吉祥以外の意味に用いられた時にでも、その語を]聞くだけで、吉祥の効果があるのじゃ。
 直後という意味でも吉祥の効果はあるというのじゃ。

515避難民のマジレスさん:2022/08/20(土) 01:44:19 ID:mtPwygT60
2.4.「そこで」の語義(4)ー「前に主題とされた事柄への論及」 という意味ではない   p275-276

  [反対主張]atha(そこで)という語は「直後」という意味でなくても、「前に主題とされた事柄への論及」[という意味]でいいのではないか。それはたとえば、まさ にこのatha(そこで)という語を主題として、「このathaという語は直後[という意味]なのか、それとも(atha)、新しい論題の導入[という意味]なのか」と考えるようなものである。[すなわち]この疑問文(vimarśavākya)において、atha(それとも)という語は、前に主題とされたatha(そこで)という語に論及して、まず第一の見解 (「直後」という意味)を紹介し、[次に]別の見解(「新しい論題の導入」という意味) を紹介しているのである。まずこの[atha(それとも)という語]は、「直後」という 意味ではない。というのは、[このatha(それとも)という語と]前に主題とされた事柄(atha=「そこで」という語)[とのあいだ]には、第一の見解の紹介が介在しているからである。また[このatha(それとも)という語は]前に主題とされた事柄に反していないわけではない。というのは、[atha(それとも)という語は、それ(前に主題とされた事柄)に論及していなければ、それ(前に主題とされた事柄)を主題とし ていないことになるから、[atha(それとも)という語の前後の]主題が共通でないことになり、その結果[atha(それとも)という形での]選択(vikalpa)が成り立たなくなってしまうからである221。何故なら、「アートマンは永遠なのか、それとも(atha)、 統覚機能は無常なのか」という[選択]は、決して存在しないからである。従って、ここ(スートラ中の)athaという語は、「直後」という意味でなくても、「前に主題とされた事柄への論及」[という意味]でいいのではないか。
   [答論]だから[師シャンカラは、以上のような反対主張に対して、次のように]答えているのである。というのは、「前に主題とされた事柄への論及」とは結局[前に主 題とされた事柄の]「直後」に(ほ)かならないからであると。この[『註解』本文の]意味 は以下の通りである。われわれは、やみくもに「直後」という意味を好んでいるわけではなくて、むしろブラフマンの考究の原因である<前に主題とされた事柄>を確定するために、[「直後」という意味を好むのである]。というのは、それ(「直後」という意味)は、「そこで」という語が「前に主題とされた事柄への論及」[という意味]であっても成り立つので、「直後」という意味に決めようとわれわれが執着するのは無意味だからである。だからこそ[『註解』本文に]、結局と述べられているのである。しかし厳密に言えば、前に主題とされた事柄へ論及するのは、[Aそれとも(atha)Bというように]別の見解を紹介する場合であり、ここ(スートラ中)では別の見解が紹介されて いないから、消去法に基づいて「直後」という意味だけが[残ることになるのである]。

脚注
221「そこで」と訳したathaという語には、この反対主張にみられるように、「あるいは」という意味もある。そして「XはAなのかあるいはBなのか」という場合、この「あるいは」(atha) という語は、Xというすでに主題とされた事柄に論及しながら、「AなのかそれともBなのか」という選択をせまっているわけである。もし、この「あるいは」という語が、すでに主題とされたことからXに論 及していなければ、ここに述べられているように「AなのかそれともBなのか」という選択はそもそもなりたたない。
(´・(ェ)・`)つ

516鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/20(土) 23:20:00 ID:m2mt7pXY0

 反対なのじゃ。
 そこでという語は前に主題とされたことへの論及でもよいのではないかというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 それは結局、直後という意味に他ならないというのじゃ。

517避難民のマジレスさん:2022/08/21(日) 00:55:14 ID:d34t4rOI0
3.何の直後にブラフマンの考究が開始されるべきか 140右/229
3.1.ヴェーダの学習の直後ではない  p277-278

  [「そこで」という語が]「直後」という意味だとすれば、ダルマの考究222には前提条件として必ずヴェーダの学習が必要なように、ブラフマンの考究にも必ずなにかが前提条件として必要である[ので]、それについて述べなけれ ばならない。しかしながら、ヴェーダの学習(svādhyāya)223の直後というのは、[ダルマの考究とブラフマンの考究の両者に]共通であって、[必ずしもブラフマンの考究にのみ必要な前提条件ではない]。
 
  [反対主張][「そこで」という語は]「直後」という意味だとしておこう。だとすれ ぱどうだというのだ。
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して、「そこで」という 語が]「直後」という意味だとすれば云々と答えているのである。この場合にはまず、 なにかの直後だと言うべきではない。というのは、それは言わずもがなのことだからである。実に人は、必ずXを行ったのちに、Yを行うものなのである。またわれわれは、[なにかの]直後だけでは、目に見えるものであれ見えないものであれ、[なんら] 意味を認め[ることができ]ない。従って、Xがなければブラフマンの考究が存在せず、Xがあるときに[ブラフマンの考究が]まさに存在するような、そのXの直後だと言うぺきなのである。だから[師シャンカラは]、次のように言っているのである。 [ブラフマンの考究にも]必ずなにがが前提条件として必要であると。
  [反対主張]ダルマの考究と同じように、ブラフマンの考究にもあてはまるので、 ヴェーダの学習の直後に[ブラフマンの考究が開始されるべきである]。というのは、 (1)ダルマと同じようにブラフマンも、聖典という認識根拠に基づいてのみ知られ、(2) それ(聖典)が理解されなければ、[聖典]それ自身の対象(ダルマとブラフマン)に関する知識は生じず、(3)[聖典の]理解は、「ヴェーダ(svādhyāya)を学習すべきで ある」224と[命じられている]学習(adhyāya)によってのみ必ず生ずるからである。
それ故、ブラフマンの考究の場合にも、ヴェーダの学習の直後こそが、「そこで」という語の意味なのである。
   [答論]だから[師シャンカラは、以上のような反対主張に対して]、しかしながら、ヴェーダの学習(svādhyāya)の直後というのは、ダルマの考究とブラフマンの考究 の両者に共通であって、[必ずしもブラフマンの考究にのみ必要な前提条件ではない] と答えているのである。ここ(『註解』本文中)で、「ヴェーダ」(svādhyāya)という[学習の]対象[を示す語]は、それ(ヴェーダ)を対象とする学習を表しているのである225。ところで、[もしこのスートラが、ヴェーダの学習の直後に開始されるのだとすると]、このこと(ヴェーダの学習の直後ということ)は、「そこで、この故に、ダルマ の考究が[開始されるべきである]」226というスートラからだけでも分かるので、この スートラ(「そこで、この故に、ブラフマンの考究が[開始されるべきである)」)を開始 する必要はない。というのは、ダルマという語は、ヴェーダの意味するものすべてを表 しており、ダルマ同様ブラフマンも、ヴェーダの意味するものである点では変わりがな いから、[両者は、]ヴェーダの学習の直後に教示されるという点で共通だからである。

脚注
222 ダルマは「そこで、この故に、ダルマの考究が[開始されるべきである]]」 とMīmāmsā学派の主題とされており、「[ヴェーダの]教令によって規定されている好 ましき事柄がダルマである」と定義されている。
223ヴェーダの学習の直後にのみダルマの考究が開始されるぺきであるとされている。
224
225『註解』本文の訳では、svādhyāyaという語をヴェーダの学習の意味にとったが、ここでBhāmatīは、この語をヴェーダの意味にとり、学習という意味も含むと解釈しているのである。
226
(´・(ェ)・`)つ

518鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/21(日) 23:49:51 ID:TqJjTAe.0

 ヴェーダの学習の直後というのは、ダルマの考究とブラフマンの考究の両者に共通だというのじゃ。

 反対
 それはどいういうことかときいたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラはブラフマンの考究にも前提条件として必要なものがあるというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 ブラフマンの考究にも、ヴェーダの学習の直後が、そこでという言葉の意味゛というのじゃ。

 答えたのじゃ。
 ダルマとブラフマンの考究が、ヴェーダの学習の直後に教示されるというのじゃ。

519避難民のマジレスさん:2022/08/22(月) 05:45:32 ID:aWTxRF5w0
3.2.祭式に関する知識の直後であるという反対主張

  [反対主張]この(ブラフマン)の場合には、祭式に関する知識の直後というのが[ダルマの考究と]異なるところである。

3.2.1.天啓聖典の文章理解に祭式は必要ではない(1)一一義軌と禁令の場合  p278-279

  [反対主張]この[ブラフマンの考究]の場合には、祭式の知識の直後というのが、ブラフマンの考究がダルマの考究と異なるところである。この(『註解』本文の)趣旨は次の通りである。[すなわち]、何故なら、「[人々は]供犠によって(yajñena)知ろうと望む」227という場合には、供犠等は、三格で明言(śruti)されているので、ブラフマンの知識に対して従属するもの(ańga)として用いられている(viniyyga)からであ る。というのは228、[知識は知りたいという]欲求の目的(karma)であるから、知識のみが主要なもの(pradhāna)であり、主要なものではないそれ以外のもの(padārtha) は、主要なものに関連している(従属している)からである。だがこの場合にも、供犠等は[天啓聖典の]文章の意味の理解(jñāna)が生ずるのに従属する(前提として必 要である)わけではない。というのは、文章の意味の理解は、文章それ自身から生ずるからである。
  [反対主張に対する反論][天啓聖典の]文章は、[それを理解する]補助として祭式 を必要とする。
  [反対主張]それは正しくない。というのは、祭式を行わなくても、語および語の意味 の繋がりを知り、言葉に関する規則(śabdanyāya)についての真理を理解し、主従関係 (gunapapradhanabhāva)・前後関係にある語の意味どうしの相互依存関係(ākaniksā)・ 近接関係(sannidhi)・適合関係(yogyatā)229に注意を払っていれば、文章の意味の 理解がなんの障害もなく生ずるからである。もし[このようにして文章の意味の理解が]生じないとすると、儀軌と禁令の文章の意味が理解されないことになるから、それ(儀軌の文章)の意味するもの(すなわち儀軌の文章が命ずる行為)を遂行せず、それ (禁令の文章)の意味するもの(すなわち禁令の文章が禁ずる行為)を避けないという 誤謬に陥ることになろう。またもし、[天啓聖典の文章の理解には祭式の執行一すなkわち儀軌の文章が命ずる行為を執行することと禁令の文章が禁ずる行為を避けること一が必要で、かつ]それ(儀軌と禁令の文章の)理解に基づいてそれ(儀軌と禁令の文章)の意味するものを遂行したり避けたりするのだとすれぱ、それ(儀軌と禁令の文章の理解)が存在する時に、それ(儀軌と禁令の文章)の意味するものを遂行したり避けたりし、またそれ(儀軌と禁令の文章の意味するものを遂行したり避けたりすること)に基づいて、それ(儀軌と禁令の文章)が理解されるという相互依存[に陥ること)になろう。

脚注
227
228viniyogavidhiとは、従属するものと主要なものとの関係を教える儀軌のことである。
たとえば、「ヨーグルトによって護摩を行う」というviniyogavidhiの場合、この手段 を表す三格で示されているdadhiは、それによって実現される目的である護摩(主要なもの)に対して従属する関係にあることが示されているのである。なお次の、動詞の表す行 為の目的(karma)は、行為者の最も望んでいるものであるから主要なものである。
229この三種は、Nyāya学派で、文章の意味の理解を生ずる原因とされている。すなわち、文章の意味 は、先行する語と後続する語に相互依存関係がない場合、たとえば「牛は、馬は、人は」というような文章 の場合や、個々の語の示す意味相互の間に適合関係のない場合、たとえば「火で水をかけよ」というよう な文章の場合、また語と語に近接関係のない場合、たとえば「牛を」と言って何時間がたったのちに「連 れて来い」と言うような場合には、理解されないのである。
(´・(ェ)・`)つ

520鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/22(月) 23:20:26 ID:LGZBOB/k0
 反対なのじゃ。
 ブラフマンの考究の場合には、祭式の知識の直後というのが、ブラフマンの考究がダルマの考究と異なるところであるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 天啓聖典の文章は、理解する補助として祭式 を必要とするのじゃ。

 反対なのじゃ。
 祭式を行わなくても、語および語の意味 の繋がりを知り、言葉に関する規則についての真理を理解し、主従関係や前後関係にある語の意味どうしの相互依存関係とか 近接関係とか適合関係に注意を払えば文章は理解できるからなのじゃ。

521避難民のマジレスさん:2022/08/22(月) 23:43:58 ID:BEBLCLy60
3.2.2.天啓聖典の文章理解に祭式は必要ではない(2)一ウパニシャッドの場合 p280

   [反対主張に対する反論]ウパニシャッドの文章の場合にだけ、その意味を理解する
のに祭式が必要なのであり、それ以外の文章の場合にはそうではない。
  [反対主張]それは正し(く)ない。何故なら、[そんなふうに考える]特別の理由がないからである。
  [反対主張に対する反論]心の清らかでない人たちは、「汝はそれなり」という230[ウ パニシャッドの]文章から、「汝」という語の意味するもの、すなわち、行為の主体であり経験の主体である個人存在と、「それ」という語の意味するもの、すなわち最高存在一[それは]本性上永遠で、清浄で、悟っており、無関心である一とが、そのままで同一であると、即座には理解することができない。何故なら[「汝」という語の意味するものと「それ」という語の意味するものとのあいだに]、適合関係がないことは確実だからである。しかし、供犠、苦行、布施によって内面の汚れを少なくした心清らかな人たちは、信仰をそなえている[ので]、まず[「汝」という語の意味するものと 「それ」という語の意味するものとのあいだの]適合関係を理解し231、さらに[個人存在と最高存在とが]同一であることを理解するであろう。
   [反対主張]もしそうだとすると、[語の意味どうしの]適合関係を確定する根拠は、
正しい認識根拠にある[のに、それが]正しい認識根拠でない祭式から[生ずる]のだとでも、あなたは言うことにきめているのだろうか。それとも、直接知覚等以外に祭式も正しい認識根拠だ[とでも言うことに決めているのだ]ろうか。だが[いずれにせよ、ウパニシャッドの文章の語どうしの]適合関係は、ウパニシャッドに反せずかつそれ(ウパニシャッド)に基づく論理の力によって確定されるのだから、祭式は余分なのである。

脚注
230
231「汝」という語は個人存在を指し、「それ」という語は「最高存在」を指すので、通常の意味では両者は異なるから、両者の間には、r汝=それ」というような形で表現されるような適合関係は存在しないは ずだが、心が清らかになり、信仰をそなえると、個人存在と最高存在が本質的に同一であることに気づいてくるから、適合関係が理解されるようになってくるのである。


3.2.3.ブラフマンの念想(修習)には祭式が必要である  p280-281

  従って、「汝はそれなり」等[のウパニシャッドの文章]を聞くと生ずる知識によって、個人存在が最高存在であると理解し、さらに[それを]それ(ウパニシャッド)に 基づく論証によって確定したのち、それ(個人存在と最高存在が同一であること)を 長い間、絶え間なく念想一別名修習(bhāvanā)ともいう一すれば、その果報としてブラフマンの直証が[得られるのだが、その念想に]供犠等が役立つのである。[そ のことが]例えば、「しかし、それ(修習abhyāsa)は、長い間、絶え間なく専念して 実行されると、堅固な境地に到達する」232と述べられているのである。そして[ここ で]、「専念」というのは、不淫、苦行、信仰、供犠等のことなのである。またまさに同
じ理由で、「賢明なバラモンは、まさにそれ(アートマン)を知り、智慧を働かせるべきである」233という天啓聖典句がある。論理に支えられた聖典の言葉によって「知り」、 「智慧」すなわち修習を働かすべきである、というのが[この天啓聖典句の]意味なの である。

脚注
232 233
(´・(ェ)・`)
(つづく)

522鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/23(火) 23:20:59 ID:CC8dBTgM0
答えたのじゃ。
 ウパニシャッドの文章の場合にだけ、その意味を理解するのに祭式が必要だというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 そのように考える特別の理由などないからだというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 供犠、苦行、布施によって内面の汚れを少なくした心清らかな人たちは信仰があるから、汝はそれなり、という言葉から自らの主体とアートマンが一つであると気づくのじゃ。
 そのように知識を得るのに祭式も必要なのじゃ。

 反対なのじゃ。
 ウパニシャッドの文章の言葉の適合関係は、ウパニシャッドに反せず、ウパニシャッドに基づく論理で確定されるのであるから祭式は不要というのじゃ。

523避難民のマジレスさん:2022/08/24(水) 01:12:12 ID:fZuL8T/c0
(つづき)  p281-283
  ところである者は、「供犠等は至福の敵である汚れを滅する有益である」と[言う]。 また別の者は、「[供犠等は]人を浄化するから[有益なのである]」と[言う]。というのは、人は、供犠等によって浄化されて、ブラフマンを注意深く、絶え間なく、長い問、修習すれば、無始の無明の潜在印象を根こそぎ絶滅でき、そうすれば、その人の内的アートマンはとても清らかで、純粋で、汚れなくなるからである。そしてまさに同じ理由で、[次のような]法典の句があるのだ。「[五]大供犠と[その他の]供犠 によって、人身はブラフマンに到達しうるものとなる」234「これらの四十八の浄化式[およびアートマンの八つの徳]を備えて[いない]人は、[ブラフマン]との合一にも ブラフマンと同じ世界にも達しない」235と。だが別の者は、祭式は三つの債務を弁済 するという点で、ブラフマンの知識に役立つと言う。というのは、「三つの債務を弁済したのち、心を解脱に向けるべきである」236という法典の句があるからである。とこ ろが、別の者は、「バラモンはヴェーダの学習によって、また供犠によって、まさにそれ(アートマン)を知ろうと望む」237等の天啓聖典句に基づいて、「諸々の祭式は、それぞれの果報のために[行うよう]命じられてはいが、[ある時にはそれぞれの果報と]結びつき(samyoga)、[ある時にはそれぞれの果報を]離れて(prtaktva)、[ブラ フマンの修習と結びつく]から、ブラフマンの修習に対して従属関係にある」と主張 している。[それは]ちょうど、「しかし、同一のものに二つの性格がある時には、結合と分離(samyogaprtaktva)[という関係]がある」238という原則に従って、供犠のためのものであるカーディラ木が、[供犠の主催者が]強くなるためのもの[でも]あ るようなものである239。そしてまさに同じ理由で、[次のような]偉大な聖者(バー ダラーヤナ)のスートラがあるのである。「そして、あらゆるもの(あらゆる宗教的行為)が必要である。というのは、供犠等[の必要性を説く]天啓聖典句があるからであ る。ちょうど馬の場合のように」240と。[ここで]「あらゆるもの」とは、供犠、苦行、布施等であり、ブラフマンの修習にはそれらが必要である、という意味である。従って、もし天啓聖典等が正しい認識根拠であり、またもし、偉大な聖者のスートラ(ブラフマ・スートラ)が[正しい認識根拠で]あれば、いずれにせよ、三つの限定詞(注意深く、長い間、絶え間なく)つきの<ブラフマンの念想>は、供犠等の祭式行為と併合されると、無始の無明およびその潜在印象を滅することによって、ブラフマンの直証一別名解脱とも言う一を生みだすから、その(ブラフマンの念想しいてはブ
ラフマンの直証)のために、諸々の祭式が必要なのである。[ところで]、祭式はそれぞれ互いに異なっており、[それぞれの祭式には]一連の従属要素(ańga)241がつきものである。[そして、その従属要素には、ヴェーダ聖典中に]直接教示されているも の(aupadéika)と[ヴェーダ聖典中の教示を]拡張解釈することで理解されるもの (ātideśika)242とがあり、[それぞれの従属要素は、その遂行の]順序が決まっている。 [さらに、これらの従属要素には、主要な祭式に]内属して目に見える果報あるいは目に見えない果報[を生みだすの]に役立つ原因(drstādrdtsāmavāyikārpakārahetu) となる[祭式行為]と、[主要な祭式の<最終的な目に見えない果報>を生みだすのに] 直接役立つ原因(ārādupakārahetu)となる[祭式行為]とがある243。そして、諸々の祭式は、[このようなそれぞれの]祭式の性質と、それらの[祭式を行う]資格のあ る人(adhikārin)についての知識とがなけれぱ、執行することができない。さらにその知識は、ダルマの考察に学ばなければ[生じ]ないのである。だから[『註解』本文中に]祭式に関する知識の直後というのが[ダルマの考究と]異なるところであると的確に述べられているのである。すなわち、ブラフマンの念想が祭式の執行と併合されるのは、祭式の知識によってである、という意味なのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

524避難民のマジレスさん:2022/08/24(水) 01:14:42 ID:fZuL8T/c0
(つづき)  p281-283
脚注
234五大供犠とは、生物、人間、父祖、神、ブラフマンに対する供犠のことである。
235四十八の浄化式については、
236三つの債務とは、聖仙、祖霊、神に対する債務(つまりこれらを祭ること)である。
237 脚注227参照。
238
239このsūtraに対するŚabaraの註によれば、祭式に従属する同一の要素、たとえばkhādira木という 同一のものが、一方では、「khādira木に獣をつなぐべきである」という聖典句によって、祭式に用いら れる道具として祭式に欠かすことのできないものとされ、他方では、「強さを望むものはkhādira木の杭 を作るべきである」という聖典旬によって、祭式に必ず必要な要素ではないが強くなりたい人の場合には 必要なものとされるような場合、同一のものが異なる二つの目的に用いられても、これは矛盾だと考えられない。従って、同一祭式が、一方ではそれ固有の果報のために、他方ではブラフマンの修習のために用 いられても、別段矛盾はないのである。
この「馬の場合のように」を、人は歩いていけて も、早く行きたい時には馬に乗るように、早くブラフマンを知りたい時には、祭式を行うという解釈をしている。
241従属要素とは、祭式のために用いられるものや祭式のための行為など祭式に従属するものすぺてをいう。
242 脚注34参照。
243 祭式の従属要素のうち、祭式のための行為がこの二種に分類される。祭式の際の諸行為は、行為を行ったのちすぐに滅するのに、何故、その果報が長い時間を経たのちに生じうるのか(たとえば、祭式を行っても、その果報として天界に生まれるのは死んでからである)、という疑問に答えるため、Mīmāmsā学派は、目に見えない果報(adrsta=新得力apūrva)というものを想定する。そうすることで、行為自体はすぐに滅しても、その果報であるadrsta=apūrvaは、アートマンの層性としてアートマンに残っているから、長い時間ののちにそれが熟して、天界等の果報を生じうると考えるのである。さて、先の祭式のための行為のなかには、たとえばDarśapūrnamāsa祭の場合、聖典の教令に従って穀粒を打って籾殻を取り除くという行為や、穀粒に水をかけるという行為があるが、前者は籾殻がとれるという目に見える果報のある行為であるのに対して、後者はとりたてて目に見える果報を生まない。しかし、ヴェーダ聖 典にはなんら無意味なことは述べられていないとするMīmāmsā 至学派にとっては、聖典が命じている以上、この穀粒に水をかけるという行為が無意味であるはずはないので、この場合には、なにか目に見えない果報が生ずるとされる。しかし、このように果報に違いはあるものの、この両者はともに主要な祭式 であるDarśapūrnamāsa祭に内属した行為である。これが、「主要な祭式に内属して目に見えるあるいは目に見えない果報を生みだすのに役立つ祭式行為」である。一方、Darśapūrnamāsa祭の前に行われ るPrayāja祭等の祭式は、主要な祭式であるDarśapūrnamāsa祭に従属はしているが、別個の祭式であってDarśapūrnamāsa祭に内属しているわけではない。この祭式の場合には、この祭式から生じた果報が他の様々な祭式行為から生じたadrstaと一緒になって、Darśapūrnamāsa祭の最終的な目に見えない果報(最終的新得力)一これが天界とという果報を生む一を生みだすのに直接役立つのである。
(´・(ェ)・`)つ


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