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神の存在/不在と科学の範囲

1macska:2006/12/24(日) 20:28:24 ID:VdHL1C4M
こんにちはです。ブログはたまに読んでますが、今日偶然本サイトの方のQ&Aを見かけて疑問を抱きました。

> Q. 進化が正しいとすると、神さまはいないのでしょうか?
>
> A. いるともいないとも言えません。神がいるかどうかとい
> う問題は、科学の範囲外です。進化が正しいかどうかという
> 問題と、神がいるかどうかという問題は別問題です。進化論
> と信仰を両立させている科学者はたくさんいます。

この記述ですが、「神がいるかどうかという問題は科学の範囲外」という言明が常に正しいとは思いません。

神といっても宗教によっていろいろあるわけですが、その存在が科学が対象とする範疇内であるかどうかは、その神がどういった性質を持つものとされているかによるのではないでしょうか。たとえば、現実社会において奇跡を起こしたり悪人に罰を与えたりお祈りに応えてくれたり信者と対話してくれるような種の「神」であれば、その存在は(実際に証明もしくは反証は難しくても)原理的に言って科学的手法による検証の対象となりうるのではないですか。

逆に言うと、「神がいるかどうかは科学の範囲外」という言明は、少なくともわたしたちが生きる今の現実社会にいかなる形でも関与しないタイプの神か、あるいは「自然法則」や「全宇宙」をただ「神」と呼び変えている場合に限ってのみ言えるはずだと思います。

もちろん、進化論が正しいというだけで「奇跡を起こしたりお祈りに応えてくれたり信者と対話してくれるような種の神」が反証されるわけではないですが、かといってそうした反証が科学の範囲外というのは言い過ぎではないかと。

261谷庵:2007/01/18(木) 22:54:00 ID:???
>>246
>あとmacskaさんの主張を理解するのに必要なのは>>110にある「存在を主張する方に証明責任があり、非存在は証明不可能」という当たり前のルールですね

「存在を主張する方に証明責任があり、非存在は証明不可能」というのは科学の領域の話ですね。
信仰は神の存在が証明されたからするものじゃない。
「神の存在は科学的に証明された」とでも言えば別ですが「私は神の存在を信じます」という人に、神の存在を証明してみろと言っても仕方がない。

それにね、科学の領域だって、存在が証明されなければ存在しないと断言できる訳じゃない。
macska氏は>>188で(死後の世界は誰にとっても知覚できないと)断言しちゃっているんだよ、知らなかった?
(念のために言うと、谷庵だって誰かが死後の世界を知覚できるとは思っていない。でも、断言はしない。)

262fukken:2007/01/18(木) 23:34:55 ID:M5vfENrY
>>260
>>「分からないことについてもさも知っているように自分の思い込みを事実とすりかえる」が人として良い行いでないことは了解してもらえていますね?
>そういう行為はできるだけやめて欲しいとわたしは思っています。
>「人として良い行いでない」というような、絶対的な倫理はわたしは持ち合わせていませんが。

なるほど。
だからこそこうして平気で恥ずかしい真似ができるのですね。

>>「宗教はそれをして良いことになっている」と貴方は言ってしまったのです。
>全ての宗教ではないですが、世界的な大宗教の中にそれを許容し奨励するものがあるのは事実です。

確かに!オウム真理教もそうですよねっ!

#さすがにその言い訳は苦しすぎるだろ

>>もっと分かりやすく言えば、「宗教は悪行をして良いことになっている」です。
>うーん、多くの宗教では一般社会の善悪の基準を超越した倫理を説くのは事実です。それを「宗教は悪行をして良いことになっている」と表現するのは極端だしおかしいと思いますが、それはわたしの発言ではなく、あなたが勝手に言い換えただけです。

そうですか。
私は姑息で卑劣な真似が大嫌いなので「分からないことについてもさも知っているように自分の思い込みを事実とすりかえる」は、私にとっては十分「悪行」です。
姑息な真似を特技としているmacskaさんにとっては「善行」ってところなのでしょうね。

>>それでもこの発言に問題ないと言うのですか?
>どこが問題なのか、理解できません。

うん、macskaさん楽しい。こうなるともう一つの芸だね。


>例えば、特定の宗教者を指差して「こいつは分からないことをさも知っているようにすりかえている」と叫べば、そりゃ当然失礼にあたるでしょう。>>240

って言っていたじゃんって突っ込みはしないでおきます。(って、してるし。)

263fukken:2007/01/18(木) 23:35:33 ID:M5vfENrY
じゃ、つぎ。

>>236

>>>死後の世界の存在は、わたしには知りようがないし、断言もできません。しかし、その事について宗教がわたしに比べてより確かな知識を持っていないことは、断言できます。宗教をやっている人たちだって同じ人間なんですから。>>188

>>「断言できます」なんて言えるのならその確かな証拠を示してください。>>195と言う質問への回答がありませんでした。
>人間の知覚の対象とならない物事について、人間は確かな知覚を得ることができない、という論理そのものが根拠です。ていうか、確かにそう答えたけどな。「そんな答えじゃ満足できない!」というならまだしも、回答そのものがなかったことにしないで欲しいです。

それは失礼しました。
答えてもらっていたとは全く気付きませんでした。
私は「”確かな証拠”を示してください」とお願いしていたものですから。
では改めて、そんな答えじゃ満足できない!です。

例えばですね、
現時点でヒトの知覚の対象となっていないと思われていても、何年か後に科学で確認できてしまうって可能性だってなくはないわけで、実は修行等によってヒトの潜在能力を極めた宗教者にはそれが今でも察知できている。
って話は論理的におかしいですか。(論理的思考のトレーニングを山ほど積まれたYSさん、どうでしょうか。)

これを否定できなければ、macskaさんの主張は崩れます。

私はね、ここにいる誰もが「参った」と言わせてくれる”非の打ち所のない証拠”を見せてくださいと言っているのですよ。

>「科学がわからない領域のものごとについて、宗教が何かわかっているという証拠は一切ない。八百屋や農民や大工や主婦に分からない、現実世界の外のものごとが、宗教家になら分かるという証拠も一切ない」

そうですね。これには異議はありませんが、macskaさんが”証拠”を見せてくれない限り「わかっていない」という証拠もありません。

264macska:2007/01/19(金) 00:20:07 ID:VdHL1C4M
>>261
> macska氏は>>188で(死後の世界は誰にとっても知覚できないと)断言しちゃって
> いるんだよ、知らなかった?

不正確な引用です。もし「死後の世界」が現実世界に物質的に存在するのであれば、もちろんそれは人間によって知覚できる可能性があります。しかしここでは「死後の世界」が現実世界の外側にある、人知の届かないモノという前提で議論しているわけです。人知が届かないモノについて誰かが何かを「知っている」ということは、論理的にありえない。

さて、ここで「一般人には知覚できないが、特殊な人にだけは知覚できるという可能性」を挙げる人がいます。なるほど、人間の能力には幅があるので、ある現象について「ある人には知覚できないけれども、別のある人には知覚できる」という可能性は、一般論としてならあります。

しかしそういう可能性が考えられるのは、現実世界のどこかに物理的に存在する対象についてのみではないでしょうか。例えば、視力の弱い人には見えないものが、視力の強い人には見えたりしますが、現実世界の外側に届く視力というのはちょっと考えられません。目の構造からいってもあり得ないのではないかと。ここでは視力を例に出しましたが、他のどの感覚も(あるいは、いまのところ知られていない感覚があったとしても)やはり現実世界の外側に届くという「可能性」は、ないと言っていいんじゃないでしょうか。

# てゆーか、もし届くなら、「現実世界」という言葉の定義自体を再考しなきゃいけない。

>>262
> なるほど。
> だからこそこうして平気で恥ずかしい真似ができるのですね。

あなたの言動のほうが、よほど恥ずかしい真似だと思います。わたしの意見が結果として(わたしの意図に反して)信仰者を傷つけてしまうことはあるかもしれませんが、わたしは特定の誰かに向けて罵倒したりしていませんから。

> 私は姑息で卑劣な真似が大嫌いなので「分からないことについてもさも知っているように
> 自分の思い込みを事実とすりかえる」は、私にとっては十分「悪行」です。
> 姑息な真似を特技としているmacskaさんにとっては「善行」ってところなのでしょうね。

わたさいは「分からないことを〜」は「できるだけ止めて欲しい」と言っていますから、わたしがそれを「善行」だと思っているわけがないでしょう。他人に対するそうした人格攻撃は、「人として良い行いではない」とは思わないのですか?

>>263
> 私はね、ここにいる誰もが「参った」と言わせてくれる”非の打ち所のない証拠”を
> 見せてくださいと言っているのですよ。

これまで述べた論理が不十分というなら、残念ながらあなたを説得することはできそうにありません。
そこで、>>236 のように言い換えました。これならOKでしょ。

265e10go:2007/01/19(金) 00:41:07 ID:5/V6R9W6
>>260 :macska:2007/01/18(木) 22:53:01 ID:VdHL1C4M
>わたしの書き方が悪いから誤読してしまったというなら、いくらでも「文章ヘタですみません」と言ってもいいですが、「それは誤読である」と言っているのに「いや、お前はこういう意図だっただろう」と決めつけられてしまっては、議論が全然進みません。特に今回の件のように、わたしの意図からはるかにかけ離れたことを「わたしの意図」として決めつけられて攻撃されるのは不快です。誤読してしまったのは仕方がないとして、それは誤読だとちゃんと説明しているのに「いやそれが真意だ」と言い続けることにどんな意味がありますか? そんなことをやって何が楽しいですか?


macskaさんが「誤読だ」と言ったのは分かっています。
ワザと誤読させるように書いたのか、それとも天然でああいう書き方しているのかは置いといて、私は
「『誤読だ』と言うんなら、macskaさんが誤読させる書き方をしたのだから、『誤読だ』と言うんでなく、『内容を訂正します』と発言するべきでしょ」
と言ったのですが。
>>5 ミケさんも誤読した事になるけど、それでもmacskaさんは自分の書き方に問題ないと思いますか。
自分の書いた内容を見直すつもりはないですか。

「不快です。そんなことをやって何が楽しいですか?」と言うからには、そんなつもりはないでしょうね。
おそらく、macskaさんは、何故こんなツマラン横槍が入るか分かっていないでしょう。

266みずすまし:2007/01/19(金) 00:51:32 ID:TgyKdXjk
>>257

私は>>236の言い換えで満足なので,独り言コメント。

> > 第二に,論理的というよりも直観的な数学的知識もあるんじゃないでしょうか?
>
> わたしは数学はよく知らないのですが、「ある三角形に内接する円は一つだけ」という
> 問題なら、実際にいくつか三角形を描いてみて、それに内接する円をさまざまに描こう
> としてもどうしても1つしか描けない、という事実は、命題が真であることの証明には
> ならないまでも、それが「かなり確からしい」と判断するに足る材料にはなるのでは。
んー… そう言われると,そうなんですけど。
ただ,私は直観的な数学的知識もある,という立場ににそれなりにこだわっているので,ちょっと釈然としません。

267地下に眠るM:2007/01/19(金) 00:52:00 ID:wg4HFyLg
例によって酔っているので罵倒レスは後回し

>>254
>話題に上っている「神を知っている」の「知」は上記の「知」、すなわち「痛いを知っている」に近いと思われます。言うまでもなくそれは学的な「知」ではなく直観的な「知」です。このような「知」は科学では扱えないのではないとおもいますがいかがですか、皆様。

僕は同意するにゃ。穏当な見解にゃんね。
しかしまあ、カガク的な知を構成する契機すらない事象まで、現実におこったことは森羅万象カガクの対象だとかおっしゃるお方がどうおっしゃるでしょうかにゃ?

そのあたりの見解をちょいと敷延するにゃ。

以下は小林秀雄「歴史と文学」より(引用者が適時改段)
***********************
歴史は決して二度と繰返しはしない。だからこそ僕等は過去を惜しむのである。歴史とは、人類の巨大な恨みに似ている。歴史を貫く筋金は、僕等の愛惜の念というものであって、決して因果の鎖というようなものではないと思います。それは、例えば、子供に死なれた母親は、子供の死という歴史的事実に対して、どういう風な態度をとるか、を考えてみれば、明らかな事でしょう。

母親にとって、歴史事実とは、子供の死という出来事が、幾時、何処で、どういう原因で、どんな条件の下に起こったかという、単にそれだけのものではあるまい。かけ代えのない命が、取返しがつかず失われて了ったという感情がこれに伴わなければ、歴史事実としての意味を生じますまい。若しこの感情がなければ、子供の死という出来事の成り立ちが、どんなに精しく説明出来たところで、子供の面影が、今もなお眼の前にチラつくというわけには参るまい。
歴史事実とは、嘗て或る出来事が在ったというだけでは足りぬ、今もなおその出来事が在る事が感じられなければ仕方がない。母親は、それを知っている筈です。母親にとって、歴史事実とは、子供の死ではなく、寧ろ死んだ子供を意味すると言えましょう。

死んだ子供については、母親は肝に銘じて知るところがある筈ですが、子供の死という実証的な事実を、肝に銘じて知るわけにはいかないからです。そういう考えを更に一歩進めて言うなら、母親の愛情が、何も彼もの元なのだ。死んだ子供を、今もなお愛しているからこそ、子供が死んだという事実があるのだ、と言えましょう。愛しているからこそ、死んだという事実が、退引きならぬ確実なものと在るのであって、死んだ原因を、精しく数え上げたところで、動かし難い子供の面影が、心中に蘇るわけではない
***********************
有名な箇所ですにゃ。

小林は、この前段で、知るということについては2通りあると述べていますにゃ。例えば天文学を知る知り方、そして、友の死を知る知り方。もちろん、友の死を知る知り方をして「肝に銘じて知る」といっているわけですにゃ。
「子供の死」という実証的な事実の群れを知る知り方、つまりカガク的な知を知る知り方のほかに、「死んだ子供」という実存的な事実を肝に銘じて知る知り方、あえていえば宗教的な知を知る知り方というものがあるのだにゃ。こうした知を体系化したものが宗教であり神話なのよ。

カガクは「子供の死」を対象にすることはできても、「死んだ子供」を対象にすることはできにゃー。それは、カガクの範囲のソトにある。「死んだ子供という事実」はカガクには手も足もでにゃー。

268fukken:2007/01/19(金) 00:55:34 ID:M5vfENrY
>>264
>あなたの言動のほうが、よほど恥ずかしい真似だと思います。わたしの意見が結果として(わたしの意図に反して)信仰者を傷つけてしまうことはあるかもしれませんが、わたしは特定の誰かに向けて罵倒したりしていませんから。

私は自分の行った行為がはしたないものであると言う自覚はありますが、誰にでもこのようなことをするわけではありません。
余程腹に据えかねない限り、こうした行為はしていないつもりです。(人よりちょっと切れやすいことも認めます。)
あなたは特定の人を罵倒しない代わりに、複数の議論の相手を愚弄するような行為をしているじゃないですか。
本当に無自覚でこうした行為をしているのだとしたら同情し謝罪もしますが、察するところそうではないだろうと判断しました。

>これまで述べた論理が不十分というなら、残念ながらあなたを説得することはできそうにありません。

そうです。もう私と貴方の話は終わっています。
残りの質問にも答えていただかなくて結構ですよ。
また、貴方に卑劣な行為を強いるだけですしね。

269えめ:2007/01/19(金) 00:57:20 ID:UugNa5UQ

>不正確な引用です。もし「死後の世界」が現実世界に物質的に存在するのであれば、もちろんそれは人間によって知覚できる
>可能性があります。しかしここでは「死後の世界」が現実世界の外側にある、人知の届かないモノという前提で議論している
>わけです。人知が届かないモノについて誰かが何かを「知っている」ということは、論理的にありえない。

つまり貴方が今まで語っていた死後の世界ってのは「たとえ話として」なの?
人間が知りえない物のモデルとしてわかりやすい例が(理想気体のような)空想の、死後の世界なの?

もしイエスが現在に存在して間違いなく水をワインに変えて見せたらどうよ、見たいな。

だとしたらそれにどんな名前をつけようが人知の届かないモノを人間が知りえるわけないでしょうね。
知ったらそれは人知が届いちゃってるって事だからね。当たり前の話。
そんな絶対に知りえない世界を知ってると言い張る人間がいると想定する事自体が非論理的

皆さんは人知の届かないモノかどうかわからないものとして実際の死後の世界を考えていますから。
貴方の死後の世界は皆さんが言っている物とは別物なので、空想をもって現実の宗教批判は出来ませんよ。

そうでした、そういや批判していないんだっけ。

270地下に眠るM:2007/01/19(金) 01:05:49 ID:wg4HFyLg
てきとーに気づいたこと

宗教というのは一定の社会集団をつくるにゃ。
で、一定の社会集団に対して、「一般論として」と断ろうが断るまいが、かっちりと証明もできにゃーで悪口と解釈できることをいうのは差別的言辞なんではにゃーのかな?
言論の場で対等の立場で特定の個人をいろいろいうのは構わにゃーと僕は思っているし、かつ実行しているけどにゃ。
馬鹿に対して馬鹿というのは当然だし、馬鹿でにゃー相手に馬鹿といったら自分が恥をかくだけのことにゃんから。

しかしなあ、特定の社会集団に対し差別的言辞をふりまくのはいけにゃーよ。ニンゲンとして。

271macska:2007/01/19(金) 01:46:03 ID:VdHL1C4M
>>265
> 「『誤読だ』と言うんなら、macskaさんが誤読させる書き方をしたのだから、『誤読だ』
> と言うんでなく、『内容を訂正します』と発言するべきでしょ」と言ったのですが。

真意はこうでしたと釈明して記述を追加しているのだから、同じことではないですか?
そうして釈明したにも関わらず、まだ「自分の読解の方が正しい、真意である」と言い張るのはやめてね。

> >>5 ミケさんも誤読した事になるけど、それでもmacskaさんは自分の書き方に問題ないと思いますか。

ああ、これでやっと >>5 の意味が分かりました。そんな誤読されていたとは、指摘されるまでマジ気付きませんでした。「イエスやモーセのDNAが手に入ったとしても奇跡の検証は不可能」って、当たり前のことを何言ってるんだと思ってた。

「問題ないと思いますか」という点については、仮にその時点で誤解を招くような問題がある記述だったとしても、誤解を受けたと気付いた時点で釈明しているので真意は伝わっているものと思います。それ以上何か必要ですか?

>>268
> あなたは特定の人を罵倒しない代わりに、複数の議論の相手を愚弄するような行為をして
> いるじゃないですか。

そんなつもりは全然ないんですが… 自分では、真摯に議論しているつもりです。

あなたと意見は違うかもしれない。もしかしたらわたしの意見には大きな穴があって、それに自分で気付いていないのかもしれない。あるいは、気付かずにものすごく失礼なことをしてしまっているのかもしれない。それらは可能性としてありえます。しかし、故意に議論の相手を愚弄していないことは100%誓って言えます。

>>269
> つまり貴方が今まで語っていた死後の世界ってのは「たとえ話として」なの?

寓話という意味の「喩え」ではなく、ある一例という意味の「例え」という意味ですが、はい、例えの話です。
死後の世界でなくても、魂でも、輪廻でも、あるいは現実に一切手も口も出さないタイプの「神様」でも、なんでも構いません。

> そうでした、そういや批判していないんだっけ。

はい、宗教批判はしてません。

>>270
> で、一定の社会集団に対して、「一般論として」と断ろうが断るまいが、かっちりと証明もできにゃーで
> 悪口と解釈できることをいうのは差別的言辞なんではにゃーのかな?

社会集団に対して言った発言ではないし、悪口と差別は違うし、そもそも悪口でないものを悪口と決めつけられてもねぇ。
悪口ではないと何度も言っているし。

だいたい、あなたが「悪口」と呼ぶわたしの発言内容は、言い方は違うけれど中身はあなたの意見と全く同じなんだよ。

272macska:2007/01/19(金) 02:15:30 ID:VdHL1C4M
答え忘れ。

>>269
> 皆さんは人知の届かないモノかどうかわからないものとして実際の死後の世界を考えてい
> ますから。
> 貴方の死後の世界は皆さんが言っている物とは別物なので、空想をもって現実の宗教批判
> は出来ませんよ。

うーん、どうしてこういう議論になったか、筋道を忘れてませんか?

わたしの主張では、「死後の世界」というものが人知の届くモノであった場合、それは科学的探求の対象となります。もし人知が届かないのであれば、科学の対象とはならないので科学にはそれがあるともないとも(あるいはどれくらいの確率で存在するとも)全く何も分かりません。しかし、それが人知の届かないモノであるならば、科学にとってわからないだけでなく、宗教にとってもわからないはずです。

わたしの論理は、それだけの単純なものですよ。すなわち、「死後の世界」は人知が届くもの=科学の対象であるか、あるいは人知が届かないもの=科学にも宗教にも確かなことは何もわからないか、どちらかだと言っているのです。そういう意味では、わたしも「人知の届かないモノかどうかわからないもの」(けれども、届くか届かないかのどちらかであろう)として実際の死後の世界(があるとはとわたしは思っていませんが)について論じています。

273fukken:2007/01/19(金) 03:10:15 ID:M5vfENrY
>>271
>あなたと意見は違うかもしれない。もしかしたらわたしの意見には大きな穴があって、それに自分で気付いていないのかもしれない。あるいは、気付かずにものすごく失礼なことをしてしまっているのかもしれない。それらは可能性としてありえます。しかし、故意に議論の相手を愚弄していないことは100%誓って言えます。

そんな言葉はとても信じられません。
あなたはここで私を含め何人の方からあなたの投稿姿勢について私と同様の指摘を受けましたか。
もし貴方が言う通り、貴方が自分に非がある可能性を認めているなら、ここがこのような状況になっていないはずです。
もし貴方が嘘を付いていないとすれば、脳に障害がある可能性を疑った方が良いと思います。これは罵倒などでなく本当に貴方の身を案じての言葉ですのであしからず。

274diamonds8888x:2007/01/19(金) 05:42:00 ID:Zz3oJN62
>>273
 fukkenさんは感情的軋轢についてはもう引っ込めたとおっしゃったと理解してましたが(>>187)、
 そうでもないように見えるのは誤解でしょうか?

 macskaさんが故意に議論の相手を愚弄していないことは99.9%くらい、私には信じられますけどね。「そんな言葉はとても信じられません。」て何%くらい? 人の心の中についてはそれこそ信じることしかできないのでは?

 食い違いの原因は「確かさ」とか「根拠」とか「知」とかいう言葉の指す範囲がfukkenさんとmacskaさんで異なっていることだと思います。そこはお互いもっとすり合わせてもいいとは思いますが、それで「相手に悪意がある」なんて言ったのでは議論が錯綜してしまうと思うのですが。

 すり合わせるという意味は、fukkenさんにしても「確かさとはこういう基準なんだ」という御自分の基準は、macskaさんのような自分以外の人にとっても当然の常識である、というかのような前提は破棄するという意味です。どう違うのかを説明しようとすると長くなるので困るのですが。

275diamonds8888x:2007/01/19(金) 05:45:51 ID:Zz3oJN62
>>266
 私はここでいう「直観的な数学的知識」というのは実は「経験的な数学的知識」に他ならないと思います。「ある三角形に内接する円は一つだけ」という直観的な知識は、これまでに数多くの三角形に内接する円という図形を見てきたからではないのでしょうか? そもそも一度も見ていなければ、この命題の意味すらわからないでしょう。小中学の数学では、こういう体験をバンバン使って教えるのが効果的ですよね。

 数学的な定理の多くは人は直観的に正しいとわかります。たがらこそ「証明なんて面倒くさいことをなぜにわざわざ」という声も出るのです。

 ま、以上は徹底的な経験論に基づく科学の論理だ、と言われればそれまでですが。でもそれでちゃんと矛盾無く解釈できるほどに、徹底的な経験論に基づく科学の論理というのは意外と強力なのです。

276diamonds8888x:2007/01/19(金) 06:10:27 ID:Zz3oJN62
>>269 えめさん
 私から見てもちょっと意図が読みとりにくくなってます。時間不足で詳しく書けなくて指摘だけになりますが気分を害したらごめんなさい。

> そんな絶対に知りえない世界を知ってると言い張る人間がいると想定する事自体が非論理的

 ん? だったら「宗教人が知ってるはずがない」という主張は正しいことになりますね?

> 皆さんは人知の届かないモノかどうかわからないものとして実際の死後の世界を考えていますから。
> 貴方の死後の世界は皆さんが言っている物とは別物なので、空想をもって現実の宗教批判は出来ませんよ。

 それが理解できているなら、互いの言葉の違いが理解できたと言うことでOKでは?

> そうでした、そういや批判していないんだっけ。

 そうですよね。何も文句はないのでは?

277いらはい:2007/01/19(金) 06:12:00 ID:DHj5XiXA
しばらく見なかったら、議論の本質的な部分については収束しだしているようですね。
遅レスですが...

>>171
>そういう問題はあるでしょうが、現状はそれ以前の段階でして。

宗教者は他人を祈起するために、根拠を出せない教義を、出せるかのように偽ることがある、ということですか。
私は、人が宗教に帰依するのはボトムアップ的根拠を期待するからではなく、リアリティに惹かれているのだと思いますが。
ところで、モダリティ表現無しの断言、たとえば「死後の世界は存在します」は知っているように振る舞うことの内に入りますか?状況によっても変わると思いますが。

>科学によって否定される(可能性がある)のは、現実世界に対する何らかの言明です。その言明が、たまたま教義の一部だったからといって、科学的検証から保護される理由はありません。

信仰(=信じていること・崇めていること、という意味で使っています)の中のある言明が科学的に検証されることを「科学と信仰の衝突」と呼びますか?
そこは科学の側も宗教の側も、(たとえ科学的発見が常識になり信仰が変容しても)これは衝突ではないと言わなければならないのでは。

それから、どうしてもひっかかるのは言葉の選び方ですね。
「わからない」「知らない」を「合理的な根拠を持ってない」くらいに言い換えれば同意できるのですけど。
宗教者が「わかる」「知っている」と口にするのは
教義を確信している、宗教の教えるリアリティ(神の愛など)を生きている、ということの表明という面もあり、
それを否定してしまうと教義を疑っているような、帰依心が無いような印象になりかねない。
また「信じている」という言葉には、相対的なものごとから敢えてあるものを選択する、というニュアンスが含まれており、
冷笑的な人の「信じているだけでしょう?」という問いかけに頷くことは、
自身にとって信仰の内容が相対的であることを認めてしまうような印象になりかねない。
もちろん「知っている」と言われる側の論理としてはmacskaさんのおっしゃるようなことになるのかもしれませんが、
コンテキストによっては他人の信仰を貶めることになりかねないから、ひっかかるんですね。

278tema:2007/01/19(金) 07:40:20 ID:???
HAKASEさんへ

>>249
>それからパイロット解釈の紹介ありがとうございます.私も知りませんでしたが,カオス理論を用いた検証をしようという試みは量子力学の分野でも検討されているということですね.

 されてないと思います。
 量子の位置情報をカオス時系列解析の対象とするためには、特定の量子に対して複数回観測を重ねる必要がある、と考えます。
 仮にパイロット解釈が正しいとしても、観測を実現するには以下のとおり色々問題があります。

 まず、観測が及ぼす影響があります。

>そして,その観測装置が,各データ観測時刻で同じ特性を持つものだった場合,(後略)

と記述されてますが、1つの量子の位置を捉えるためには、各観測時刻の特性のぶれを観測対象の量子以下に抑える必要があるでしょう(注)。しかし、観測装置もそれを使う人間も膨大な数の量子から構成されています。
 観測装置自身の影響が大きすぎて、各観測時刻で同じ特性を持たせることはできないと考えます。

 そしてそもそも、同一量子に対する複数回の観測など、現在の技術では不可能だと思います。

>ですが,もし「科学的なデータ解析手法を適用して(例えば予測可能性などを)検証することが原理的にできない」という趣旨でしたら,私は原理的に不可能とまでは言えず,例えば上に示したような科学的な手法に基づく検証は可能なのではないかなと思います.

 現状temaは、「原理的にできない」とまでは言えません。ただし…
  1.(情報採取などが)原理的にできないことを証明する
  2.科学的な手法に基づく検証を行う
上記の実現可能性を考えた場合、1の可能性が高いと思います。

注)この文章の表現は適切ではありません。しかしどう表現すれば良いか判らないのです。

279tema:2007/01/19(金) 07:40:46 ID:???
『数学は科学が否か』

 この件については、言いたいことがあります。
「やだいやだい、数学も科学に加えてくんなきゃやだい!」
 いや、これではありません。

 本日は時間が無いので、ここまで。

280fukken:2007/01/19(金) 07:46:30 ID:M5vfENrY
>>274

>fukkenさんは感情的軋轢についてはもう引っ込めたとおっしゃったと理解してましたが(>>187)、そうでもないように見えるのは誤解でしょうか?

一度言ったことを守れなかったことについては弁解の余地なく申し訳ないと思います。
しかし>>260のようなふざけたレスをもらえば、「もうやってられるか」となるってものです。
のらりくらりに丁寧に付き合っているのが馬鹿馬鹿しくなって、言い逃れできないよう急所を一箇所ずつとことん追求することにしたのですが、結局あの通りの受け答えでしたから。
>>262で感情的になったことは否定しませんが、「もうこの件については終わりにしてあげるよ」と言う意味を込めて、地下猫さん風に言うと負け逃げし易いように、敢えて罵倒しました。
宗教蔑視発言が片付いたらと思ってストックしておいた>>263をUPしたものの、これじゃ息も出来なくなるだろうなあと思っていたら、>262に対する人格攻撃云々に埋もれさせる形で案の定>263はスルーでしたから彼(彼女なのかな?)にとってもこれで良かったんじゃあないでしょうか。

>macskaさんが故意に議論の相手を愚弄していないことは99.9%くらい、私には信じられますけどね。「そんな言葉はとても信じられません。」て何%くらい? 人の心の中についてはそれこそ信じることしかできないのでは?

私も99.9%くらいは信じていなければ、そうは言わなかったと思います。

>食い違いの原因は「確かさ」とか「根拠」とか「知」とかいう言葉の指す範囲がfukkenさんとmacskaさんで異なっていることだと思います。そこはお互いもっとすり合わせてもいいとは思いますが、それで「相手に悪意がある」なんて言ったのでは議論が錯綜してしまうと思うのですが。

いや、「議論にならん」と憤慨しているからこその、こういう態度なわけでして。

>すり合わせるという意味は、fukkenさんにしても「確かさとはこういう基準なんだ」という御自分の基準は、macskaさんのような自分以外の人にとっても当然の常識である、というかのような前提は破棄するという意味です。どう違うのかを説明しようとすると長くなるので困るのですが。

議論の内容に関してであれば私にもその用意はあります。要は議論以前の問題です。
私やここにいるほとんどの人が自分に間違いがあれば、直ちにそれを認めることができると思います。しかし、macskaさんはそれが出来ない人だと言うことがわかりました。一見紳士的な対話のできる方ですが、本質は過去にここを出入り禁止になった人などと変わらないと感じました。それを説明しろと言われると私の方も長くなりますので。

281macska:2007/01/19(金) 08:40:53 ID:VdHL1C4M
>>273
> そんな言葉はとても信じられません。
(略)
> もし貴方が嘘を付いていないとすれば、脳に障害がある可能性を疑った方が良いと思います。

わたしのことをそこまで悪く思われているのでしたら、そんな相手に何を言っても無駄だとお考えでしょうから、もう放っておいてください。わたしは自分が絶対に間違いをおかさないとは思っていないけれど、そこまで酷く言われなければいけないほどのことをやってきたとは到底思いません。

>>277
> 宗教者は他人を祈起するために、根拠を出せない教義を、出せるかのように偽ること
> がある、ということですか。

いや、そもそも宗教者自身、そのあたりの区別が付かなくなっていたりするのをよく見かけます。

> ところで、モダリティ表現無しの断言、たとえば「死後の世界は存在します」は知って
> いるように振る舞うことの内に入りますか?

断言だけではどちらとも言えないですが、例えばその断言を聞いて「どうしてそんなことが言えるんだよ」とわたしが聞き返したときに何と答えるかによってはそれに該当するでしょうね。

> 宗教者が「わかる」「知っている」と口にするのは教義を確信している、宗教の教える
> リアリティ(神の愛など)を生きている、ということの表明という面もあり、それを否定
> してしまうと教義を疑っているような、帰依心が無いような印象になりかねない。

「知っている」なんてまぎらわしいこと言わないで「確信している」と言えばそれで済むような。

>>280
> しかし>>260のようなふざけたレスをもらえば、「もうやってられるか」となるってものです。

ふざけたつもりはないですが、あまりにレベルが低くて相手にしていられない、というのでしたらどうぞそう言って、以後は無視してください。わたしに悪意があると決めつけられるよりは、馬鹿だから相手にできないと言われた方がよっぽどましです。

> >262に対する人格攻撃云々に埋もれさせる形で案の定>263はスルーでしたから

スルーしていません。これまで言った論理がわたしの主張の論拠であり、それが不十分だというならあなたを説得することはできない、と答えています。

> 彼(彼女なのかな?)にとってもこれで良かったんじゃあないでしょうか。

一方的にいわれのない罵倒を浴びせておいて、それはないんじゃないでしょうか。

> 私やここにいるほとんどの人が自分に間違いがあれば、直ちにそれを認めることができる
> と思います。しかし、macskaさんはそれが出来ない人だと言うことがわかりました。

自分に間違いがあれば認めることができるつもりでしたが、そのように評価されてしまったことは非常に残念です。しかし、仮にわたしがそういう未熟な論者であったとしても、あなたの罵詈雑言の全てが正当化されるわけではないでしょう。

要するにですね、わたしが論争相手として未熟であり相手にできないというなら、もちろんわたしはそうした評価には不服ですが、それはあなたの評価ですから自由ですよ。しかし、それならそれで、もっとマシな議論の抜け方、終わらせ方があるはずです。

282fukken:2007/01/19(金) 10:16:04 ID:M5vfENrY
>>281
>要するにですね、わたしが論争相手として未熟であり相手にできないというなら、もちろんわたしはそうした評価には不服ですが、それはあなたの評価ですから自由ですよ。しかし、それならそれで、もっとマシな議論の抜け方、終わらせ方があるはずです。

レベルが低いとか未熟であるとかそう言う問題でなく、態度が問題なのです。

恐らく知識レベルも文章力も貴方は私より優れている。読解能力だって低くないはず。
それがこのスレが立ってから遠巻きにロムしていた私の感想。
紳士的な態度も好印象で、貴方に対する地下猫さんのいつもの歯に衣着せぬ物言いが気の毒に思えるほどでしたし、特に突飛なことを言っているわけでもなさそうなのに、何故大勢の人が入れ代わり立ち代りでこれほど書き込んでいるんだろうと疑問に思っていたのですが、それはあまりしっかり読んでいなかったためだった。
実際に対話してみてよくわかりました。
私の突っ込み(と言う表現を使えるほど強い指摘でもない)は、こんなに揉めるような性質のものではないですし、何の敵意も反駁の意すらなく、ほんの数回やりとりすればすぐに終わるものと思っていました。
私には貴方ののらりくらりの不誠実な態度には腹に据えかねるものがあり、絶対に自分の非は認めず常に相手に問題があるように振舞う姑息なやり方に、ついに切れたわけです。

もちろん、貴方はそれを否定するでしょうが、私がそう感じたのだから仕方がない。
私の感覚がおかしいって結論でも構いません。

「私は貴方が姑息で卑劣な人だと思ったから罵倒した。」それだけです。

283みずすまし:2007/01/19(金) 11:10:33 ID:TgyKdXjk
>>275
> 私はここでいう「直観的な数学的知識」というのは実は「経験的な数学的知識」に他な
> らないと思います。「ある三角形に内接する円は一つだけ」という直観的な知識は、こ
> れまでに数多くの三角形に内接する円という図形を見てきたからではないのでしょう
> か?

んー,そうかもしれませんね,としか言えません。すみません。
少なくとも,「経験的ではない」と断言できる幾何学的直観を,私は例示することができません。

しかし,例えば,ユークリッド幾何学の「無矛盾性」というのものに(たんなる形式主義的な意味以上の)意味があると思いますし,それが真である(少なくともかなり確からしい)という私の確信が経験的なものだということには,今ひとつ納得がいきません。

また,数学的な「確からしさ」が全て経験的検証による「確からしさ」に解消されてしまうならば,>>253>>256>>257の「数学」を「(経験)科学」に含めることに疑問を呈する立場も,再考を迫られることになるのではないでしょうか。

ですから,数学的な「確からしさ」の少なくとも一部は経験的検証における「確からしさ」に解消されてしまわない,というのは常識に適った態度ではあると思います。

# 哲学的には,数学的な「確からしさ」どころか,論理学の公理や推論規則まで経験的検
# 証にさらされるだ,という立場があることは知っているで(理解不足で間違っているの
# かも),そういう立場が間違いだとはいいませんが。

# ポパーは数学と(経験)科学を明確に区別していますよね。
# 例によって,クーンは違うかも。

284NAN:2007/01/19(金) 12:08:42 ID:op1ePviI
レスをいただいたからには私も(笑。
ただ…まぁ多対1の状況ですから、macska氏に対して「返事を必ずせよ」と云う気はありません。
#ていうか私が書かなければいいだけですが、返事をもらえないからといって「不誠実だ」と云う気は、この状況ですのでありません。

>>245 から
>言っていない! いくらなんでもそこまでバカだと思わないでください。そんな読解が可能だなんて、あなたに言われるまで考えもしなかったくらいで。

この点に考えが及ばなかったのだとしたら、それは致命的ですね。馬鹿としか云いようがありません。また「それは誤読だ」と主張するよりも、自己の記述に「誤読を生むに足りる十分なミス」があったことを認め、前言撤回するなり訂正するなりすることのほうが議論をスムーズに進めることができるとは思えなかったんでしょうかね。

>イエスのDNAが手に入れば(そして周囲の人のDNAも手に入れば)、イエスの両親が誰であったかということは科学的に検証できる。できないという理由が何かありますか?

「我々が使うカガクとか云うモノサシによるひどく狭い限定的な検証」は可能です。しかしこれは「聖書にある言葉を逐語的に検証している」に過ぎず、イエスの生誕およびその周辺に関わる「宗教的知」に対してなんら疑義を挟める類のものではないでしょう。

>まぁ現実に何を人々が「奇跡」と呼んでいるかと調べれば、その大半は「現実世界で起きた物理的な現象」のことだとされているけどね。

想像力の欠如、としか云い様がない。
柳田理科雄だったっけ?の空想カガク云々みたいな本がありますね。アニメのVTRを持ってきてストップウォッチで計って「この宇宙船は時速●●キロで大気圏外に出ているのであり得ない」みたいなバカ理屈をこねるのとなにが違うんだろうな、この場合。

285えめ:2007/01/19(金) 13:21:02 ID:???
○○の夢を見たってのは人知の届くものでしょうかね。
 脳波を測定するとこの時間帯は脳が活動してるから夢を見ているに違いない、ではなく。
夢を心理分析に用いて、という話でもなく。

”霧の向こうにある古〜い獣医さんの所に行ったら犬のエサが売っていて、何気なく手に取ったのが丁度真空パックされたハムのような状態にスライスされた、サラミのような色の肉。
パックにある品質表示のラベルには「成人男性・腿肉」って書いてありました。”
と言う内容の夢を自分が見た事は科学のルールを用いて確からしいと証明できるのか。と言う話ですよ。

科学が言えるのは脳が活動しているかどうかでしょ?
夢を見ている。ましてや○○の夢を見ているってのはわからない。
所謂測定できない→実在しない、という意味で、貴方の言う”人知の届かないもの”です。
すると貴方の理屈ではこうなりますやね。

>人知が届かないのであれば、科学の対象とはならないので科学にはそれがあるともないとも(あるいはどれくらいの確率で
>存在するとも)全く何も分かりません。
そうだよね。ドラえもんか何かみたいに夢を見られる機械がない限り、○○の夢を見た事実は客観的に観測できないね。
たとえ嘘発見器を使ったとしても、本人が夢とどこかの記憶を混同している可能性を考えれば、その夢を見たかどうかと言う客観的な検証の方法はないでしょね。
>しかし、それが人知の届かないモノであるならば、科学にとってわからないだけで
>なく、宗教にとってもわからないはずです。
ところがさ、宗教は夢の内容を全て”解らない”という認識は取りませんやね。
宗教によっては夢は明確にお告げと言う事実であったりしますし。
それによって行動を起こす場合も少なくない。よかれ悪しかれですが。
何たって夢を見ているのは確かだし、見ている本人にとっては夢の内容は”事実”でしょう。
たとえ科学ではそれを事実とは言わないと言っても。それは科学だから言わないんであって、だから宗教も言うなってのは変でしょ?

科学がそれは宗教の傲慢であり、解らないとすべきだ。何故なら科学的にその夢の内容までは証明できないからだ。
だって科学にとってわからないものは、宗教にとってもわからないはずだから。
と主張するのはただ科学の認識ルールを宗教に押し付けているだけ(所謂科学主義)、滑稽じゃないですか?

奇跡の話に戻せば宗教的思考方法と科学的思考方法は混同すべきではないのー?と言っているんですよ。
んで、も一つ付け加えると科学的手法によって観測された事実だけがあらゆる事実の全てだと宣言するのは変だよーと。

事実の認識のルールが違うのを無視して一方的に経典の逐語的解釈者の立場に立ち、宗教者は自分の思うように教義を捻じ曲げられてラッキーの主張。やはり暴論でしょうよ。


>diamonds8888xさん
そうですね。ROMしてるつもりだったんですが
>>264の宣言がなにか
同意を得ない後出しの一方的な線引きに見えて「そりゃねえよ」と反応してしまいましてね。

>fukkenさん
出来るだけゆるりとやってくださいな。

286えめ:2007/01/19(金) 13:26:29 ID:???
訂正
×宗教的思考方法と科学的思考方法は混同すべきではないのー?
○宗教的思考方法と科学的思考方法は混同すべきではないよー

287ミケ:2007/01/19(金) 14:24:13 ID:???
本題とは全然違うお話ですが。

>>246
>なんで数学を科学から除外するのか私にはさっぱりわかりませんが
という書き込みを見つけたのでちょっと解説とか。
まあ書きこんだYS さんはもう見てないかもしれませんし、見ててもスルーするかもしれませんが

ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E7%A7%91%E5%AD%A6
上記サイトの「自然科学と数学」の項を参考のこと。

こと疑似科学と科学を区別する上で重要なのは、
現在得られる観察データと理論が矛盾しないかどうか
すなわち、検証可能かどうか、という点です。
数学とは理論そのものであり、「予測してデータと照らし合わせて検証する」
という疑似科学と区別する上で最も重要な過程がありません。
(といっても疑似科学ではないんだよ、念のため)

そういうわけで、「科学と疑似科学」を扱うここのHPの住人には、
数学を科学から除外する方も多いかと思われます。
ちなみにミケとしては、
「数学は科学にとって必要不可欠といってもいいくらいだけど科学そのものではない」という認識です。
論理的思考のトレーニングをそれなりに積んだ人なら、
納得はしなくても上記の立場を理解はしてくれると思います。

288ミケ:2007/01/19(金) 14:27:54 ID:???
>>287
>現在得られる観察データと理論が矛盾しないかどうか
>すなわち、検証可能かどうか、という点です。

ここ、ニホンゴの用法間違えました。
すなわち → そして

289macska:2007/01/19(金) 15:28:55 ID:VdHL1C4M
>>282
なるほど、そういうことなら今更わたしが何を言っても無意味でしょう。

でもわたしは何かの行き違いだと思うので、もし別の議論で出会うことがあれば、そのときはもっと建設的な議論ができることを願います。もちろん、こちらには悪気がないのにそこまで悪く受け取られてしまったということは、気分的にまだ納得できるものではありませんが、多少なりとも反省材料として今後に活かしたいと思います。

>>284
> また「それは誤読だ」と主張するよりも、自己の記述に「誤読を生むに足りる十分
> なミス」があったことを認め、前言撤回するなり訂正するなりすることのほうが議
> 論をスムーズに進めることができるとは思えなかったんでしょうかね。

コミュニケーションには誤解というのはつきものであり、必ずしもどちらかが悪いというわけではないと思うのです。今回の場合、「もっと分かりやすい書き方はできなかったか」と言われればそれは確かにできたと思うのですが、わたしが誤記したわけではなく、「ミスがあった」とまでは言えないのではないかと。もちろん、誤解を受けたことは事実ですから、全く責任がないとはいいませんが、だからこそ追加説明や釈明を行なうことでその責任を果たしているつもりです。

ま、議論をスムースに進めるためにとにかく頭を下げるというのも大人の知恵ですから、「訂正する」と一言どうしても言って欲しいというなら言っても良いです。でも、既におこなっている釈明で十分じゃないの、という気持ちは残りますね。もしあなたも議論をスムースに進めたいと思っているのなら、どうして「相手に明示的に落ち度を認めさせる」ことにそんなに固執するのかなぁと。

>>284
> 「我々が使うカガクとか云うモノサシによるひどく狭い限定的な検証」は可能です。

それで十分。それ以上のことを何も主張していません。

> しかしこれは「聖書にある言葉を逐語的に検証している」に過ぎず、イエスの生誕およ
> びその周辺に関わる「宗教的知」に対してなんら疑義を挟める類のものではないでしょう。

まったくその通り。そうであるにも関わらず、「現実世界で起きたとされる事象は検証が可能である」と言うことが宗教に対する侮辱だとか冒涜だとかいう人が多くて困っていました。

290macska:2007/01/19(金) 15:29:32 ID:VdHL1C4M
>>285
> ところがさ、宗教は夢の内容を全て”解らない”という認識は取りませんやね。

宗教の側がどう解釈するかはかれらの勝手ですが、傍目から見ていて「分かっている」ようには見えません。
やや控えめな言い換えをしても、「宗教ならば分かっているという証拠は何もありません」。

> たとえ科学ではそれを事実とは言わないと言っても。それは科学だから言わないん
> であって、だから宗教も言うなってのは変でしょ?

言えばいいんじゃないですか。

> 科学がそれは宗教の傲慢であり、解らないとすべきだ。何故なら科学的にその夢の内容
> までは証明できないからだ。

科学が宗教に指図を出すような問題じゃないでしょ。宗教が何を主張しようと勝手だけど、周囲が「宗教が何か確からしいことを知っているらしい」と認める必要が一切ないですよというだけで。

わたし個人としては、「知る」「分かる」という言葉を、「信じる」「確信する」という意味で使わないで欲しい、という要望があります。まぎらわしいし、宗教者自身がそのあたりの区別を見失って混乱しているのをよく見かけるからです。しかしわたしは、科学から宗教に出すべき要求としてそれを主張していません。

> 奇跡の話に戻せば宗教的思考方法と科学的思考方法は混同すべきではないよー ?と言って
> いるんですよ。

混同すべきではないですね。
ただ、宗教的見解として示されたことであれ、それが現実世界の事象についての言明であるなら、科学的手法による検証の対象となり得ますよと。仮にそれでその言明が科学的に否定されたとしても、それによって宗教的意義までは否定されない、ということでしたら同意します。

> んで、も一つ付け加えると科学的手法によって観測された事実だけがあらゆる事実の全て
> だと宣言するのは変だよーと。

それはその通りですが、そんな宣言誰もしてないし。

> 事実の認識のルールが違うのを無視して一方的に経典の逐語的解釈者の立場に立ち、

これは違います。水をワインに変えたとかマリアが処女受胎しただといかいうのは、「現実世界で起きたとされる事象についての言明」の例として挙げただけで、宗教的教義に含まれる「現実世界の事象についての言明」であればなんだって同型の議論ができます。聖書から例をとったのは、逐語的解釈の立場をわたしが取るからではなく、「現実世界で起きたとされる事象についての言明」として良く知られており、分かりやすい例だからです。

> 宗教者は自分の思うように教義を捻じ曲げられてラッキーの主張。やはり暴論でしょうよ。

「自分の思うように」という意味ではないですし、教義を変えることが悪いとも言っていない、と既に釈明しています。その釈明を受けたうえでも、まだ暴論だとお考えですか? もしそうであるなら、その釈明も考慮に含めたうえで、どうしてそれでもまだ暴論なのか説明してください。

291AH1:2007/01/19(金) 18:00:47 ID:b4lKR3h.
>そんなことで怒らないで欲しいんですけどね。まぁ、知りもしないことを「知っている」と標榜することで商売しているような宗教にとってはダメージかもしれませんが、宗教の価値ってそんなことではないんじゃないかなぁ。

「宗教の価値・・」という点については全く同意します。私の感じている違和感は以下の二つ(つきつめれば一つ)だけです。
「知っているという言葉は『科学的に検証されている』の意味だけか」
「知の体系は科学だけか」

昨夜あたりの投稿の中で、mcskaさんが「確信している、というなら別にいい」「自分は科学という枠の中だけで言っている」と仰っていますので、私としてはほぼ納得いきました。
強いて言えば、私なら『ここでは科学の枠内についてのみ、「現実世界」という言葉を使っている(カガク的な現実、とでも言えばいいか)が、もちろん宗教は科学とは違う、方法論も用語も異なる、別個の知の体系である』と、どこかで明確にしておきたいという事です(たぶん論争になったのはその部分)。
「宗教者が怒るだろうな」と書いたのは、これが明瞭でないと「何ー!貴様、科学だけが知だと言うか!宗教は科学に許して頂いた範囲でだけ存在せよと言う気か!」と言われかねない、という意味です(実際、そのようなカガク絶対主義的な考えは存在するでしょうし、少なくとも科学が『幅を利かせる』現代において宗教者は日々、実感しているでしょう)。

勿論、私は道具としての科学の有効性を疑わないし、馬鹿でもできる・・というか「衆生でもできる」と言いましょうか、サトリを必要としない知の体系として科学の有効性を認めています。一方で地下猫さんの言う「別の知の体系」の存在も認めます・・というか否定しません。
複数の知の体系がある場合、「それは『どの体系に関して』知ってるって意味か」をコンテクストから判断する、わからなければ確認する、また語る側が複数の知の体系を混ぜこぜにしてしまわない・・という注意は必要でしょうが、私はそれだけで良いと考えます。

ああ、やっと「腑に落ちた」。これは複数の体系にまたがって「わかった」ということでしょうね。

292芥屋@keya1984:2007/01/19(金) 18:59:17 ID:SDpU3giY
>macskaさん

本題に戻しますよ。

>神といっても宗教によっていろいろあるわけですが、その存在が科学が対象とする範疇内であるかどうかは、その神がどういった性質を持つものとされているかによるのではないでしょうか。

そうですね。ここでいう「神」には当然「仏」も含めていいのでしょうが、ひとくちに「仏」と言っても仏教にもいろいろですから、その仏説とされる教義についても、科学的な考察の対象となるものもならないものもあるでしょう。

macskaさんはここで、さも科学主義者のように思われているようですが、そのへんがいらぬ誤解を与えていると思います。というか、あなたは中願派仏教徒であると自称しているわけですから、他宗教他宗派の教義を引き合いに出して科学をつきつけ云々する前に、自分の仏教(macskaさんいわくの「本来の仏教」)では、これこれこういう具合に科学的検証と仏説とが関わっていると例示すべきでしょう。そこでは、当然に仏教の他の諸宗派との違いにも言及せねばならないでしょう。

こういったことをまず、自分が自分に課して人にそれを示してからでないと、自身も一人の(なんらかの)仏教徒でありながら、やっていることはそれを隠して科学をちらつかせて異教を攻撃しているにすぎないことになります。それこそが、宗教者が科学を悪用する典型ではありませんか。まず、自分が主張していることを自分はどう実践しているのか、それを示してからにすべきです。

いつぞやのように、「自分から見ればチベット仏教は本来の仏教ではない」というから「どういう理由でそう言えるのか?あれこそ中願派だろ?」と問えば無回答、フェミニストとして「大峰山の女人結界は差別だ」というから「それがなぜ差別なのか仏教徒として答えてみよ」と問えば無回答、「男女別で規範があれば、服飾のようなものでも差別」というから「ならば多くの宗教には男女別の規範があるが、それを理由に否定していくつもりか」と問えば無回答…といったことのないようにしていただきたい。
ttp://principle.jp/bbs5/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=1082;id=keya1984

もちろんその回答を今ここでせよというのではありません。少なくとも自分が今ここで主張していることを、自分の宗教によって説明すべし、ということです。あなたの仏教は「世俗化した多くの宗教」とは違うのでしょう?どう科学的検証を経てきたのか、明示すべきです。

293Josef:2007/01/19(金) 19:07:41 ID:uPoVYQoU
>>267
小林秀雄のその文章、昔読みました。死者を悼むことに似て、「神」とは相互主観的に共有できる「事実」ではなく主観的な「意味づけ」なのでしょう。この水準は科学の対象とはなりえないと思われます。

しかしながら「神」とされるものにもまたいろいろあるわけで、科学的に観測し得る経験世界に介入して科学法則に反する奇跡現象を惹き起こすような「神」もいる。そういう「神」の行為なら科学的検証の対象となる、というのがmacskaさんで、これもまた当然のことですね。

>>283
>少なくとも,「経験的ではない」と断言できる幾何学的直観を,私は例示することができません。

「点」とか「線」は非経験的な幾何学的直観ではありませんか?公理もそう。そしてそこから先はトートロジー。科学であれ数学であれ、経験的事実に還元しえない直観に始まっていると思われます。だから19世紀の急激な科学的知の増大とともに「本当にこれらは正しいのか」という自らの立つ地盤への懐疑が生まれ、各種基礎論が盛んになったと理解しています。『幾何学の起源』等で知られる現象学者フッサールは客観的な「正しさ」ではなく「疑いえない」という「確信」に諸科学の基礎を求めようとしましたね。成功したとは言えないのでしょうが。

その水準では、macskaさんが

>>290
>わたし個人としては、「知る」「分かる」という言葉を、「信じる」「確信する」
>という意味で使わないで欲しい、という要望があります。

と言うのは無理なのであって、科学もまた知の源泉を辿っていけば「確信」で行き止まりになると思われます。ただmacskaさんは最初からそういう水準ではなく、もっと常識的な水準で語っていることもまた明らかですから、あくまでもmacskaさんの主張から派生した別の話題として楽しく話し合えばいいでしょう。

294NORTON3rd:2007/01/19(金) 19:15:44 ID:tQvpJqX6
>>292芥屋@keya1984 さんはじめまして
>中願派

アノ、失礼ながら中観派(たしか竜樹菩薩のお弟子だったと思うけど)の間違いでは・・・

295AH1:2007/01/19(金) 19:35:59 ID:b4lKR3h.
ていうかまたタイプミスしてますね、私。macskaさんのaが抜けてる。

macskaさん、失礼いたしました。
(マウスの調子が悪いのでコピペをさぼっております。そのせいです)

296すらりん:2007/01/19(金) 19:43:23 ID:Fc.S231Y
>>290
>> 宗教者は自分の思うように教義を捻じ曲げられてラッキーの主張。やはり暴論でしょうよ。
>「自分の思うように」という意味ではないですし、教義を変えることが悪いとも言っていない、と既に釈明しています。

結局macskaさんが日本語表現に無頓着だったということですかねー。

教義を「捻じ曲げる」と表現してますけど、それは一般的には、「変える」という単に現象を説明する言葉プラス
「自分はその行為を不快に思っている・批判的に見ている・あるいは悪意を持って見ている」というような意味合いの、
発言者の主観をも含めた表現です。
そういう言葉を使ったまま「自分はそれが悪いことだと言ってないし思ってない」と後から釈明しているような行為も
冒涜とか愚弄とか受け止められた要因かも。
「捻じ曲げる」以外にも似たような表現の仕方がいくつかありましたからね。
そういう言葉に対する感覚のずれがあったんでしょうね。

297すらりん:2007/01/19(金) 19:44:31 ID:Fc.S231Y
>>224
>然り。
>相手がたとえオームであっても、その部分だけで判断するのなら、真理をつかんでいるかもしれにゃーという可能性を捨てることはできにゃーです。

いわゆる「理系エリート」などと言われる人達が何故簡単にオウムに騙されて犯罪に走ったのか、
と言われてましたが、
物事を突き詰めて考えると逆に騙され易くなる部分も出てくるのかなあ。

普通の人の感覚では「そんなアホな」と入り口の部分で一笑に付してしまえる事柄でも
科学が解らない真理をつかんでいる極小の可能性を見出して実際に入信して試してみようとする。

極小の可能性を否定しきれないという点については、
空飛ぶスパゲティの怪物の存在を否定し切れないのと同様の意味で同意できそうなんですけど、
ただ極小の可能性を強調することには上のような弊害はあるなあ、と思いました。

どうも話が拡散してしまいました^^;

298macska:2007/01/19(金) 19:59:21 ID:VdHL1C4M
>>291
> 強いて言えば、私なら『ここでは科学の枠内についてのみ、「現実世界」という
> 言葉を使っている(カガク的な現実、とでも言えばいいか)が、もちろん宗教は
> 科学とは違う、方法論も用語も異なる、別個の知の体系である』と、どこかで明
> 確にしておきたいという事です(たぶん論争になったのはその部分)。

うーん、わたしは科学だけが知の体系だとは思わないし、宗教の中にも知の体系はあると思うけれども、人知が一切及ばず信仰するしかないものについての「知識」がある、という言い方には抵抗を覚えます。人知が及ばないところに「知」は定義上ありえないように思うのですが…

例えば、宗派によって違いはありますがアブラハム系の宗教ではさまざまな天使の名前や階級や担当がことこまかに分類されていますが、それらは「知識」と言って良いのかどうか。仮にそれを「知」と呼ぶとしたら、それは他の分野の「知」とはかなり違った特殊な用法であると言わざるをえないです。

>>292
> というか、あなたは中願派仏教徒であると自称しているわけですから、他宗教他
> 宗派の教義を引き合いに出して科学をつきつけ云々する前に、自分の仏教(macska
> さんいわくの「本来の仏教」)では、これこれこういう具合に科学的検証と仏説
> とが関わっていると例示すべきでしょう。

いやー、たしかにわたしは中観派仏教徒を自称していますが、わたしにとって仏教は価値観であって、信仰ではないんです。というか、人知の及ばないことについてあれこれ言う人がいても惑わされるな、という教えが仏教にはあると思っています(そしてわたしは、それが神様や仏様や偉い人の教えだから従っているのではなく、その教えに納得がいくから従っています)。これまでわたしが発言してきたことには、そういう(わたしが理解するところの)仏教的価値観というか仏教経由の価値観も反映されているでしょう。

> こういったことをまず、自分が自分に課して人にそれを示してからでないと、自身も
> 一人の(なんらかの)仏教徒でありながら、やっていることはそれを隠して科学をち
> らつかせて異教を攻撃しているにすぎないことになります。

だから、異教を全然攻撃していないんですが。

> いつぞやのように(以下略)

わたしの発言の不当なまとめが多いです。ていうか、それぞれきちんと回答したことばかりなのに「無回答」と詐称するのは止めて欲しいですね。

ただ、納得していただけるまで延々と議論に応じることができなかったのは事実で、なぜならその当時、わたしは各地で講演の仕事が立て続けにあったからです。もしあの時に未解決だった論点があるのでしたら、出来る限り答えようとおもうので、芥屋さんの掲示板の方でまた話題を振ってください。

> 少なくとも自分が今ここで主張していることを、自分の宗教によって説明すべし、
> ということです。

わたしがこれまで主張してきたことの背景には、仏教的な価値観の影響もありました。まる。ドーキンスやデネットの影響の方が強く出ていたんじゃないかと思いますが。これで満足ですか?

> あなたの仏教は「世俗化した多くの宗教」とは違うのでしょう?

ドーキンス的には、わたしにとっての仏教(信仰ではなく価値観)は「宗教」と呼ぶべきではありません。以下は「The God Delusion」 p.37 から引用。

> And I shall not be concerned at all with other religions such as Buddhism
> or Confucianism. Indeed, there is something to be said for treating these
> not as religions at all but as ethical systems or philosophies of life.

もちろん、仏教と名がつくものでも超自然的な存在や事象を扱うのであれば、ドーキンス的な定義においては宗教と呼ぶべきです。(この本の別の部分でドーキンスは、障害児は過去の生において何か悪いことを行なったに違いない、という仏教徒の発言を批判的に引用しています。)

あと、わたしは「世俗化した多くの宗教」を何ら批判してないので、その点誤解なく。

>>296
> 「自分はその行為を不快に思っている・批判的に見ている・あるいは悪意を持って
> 見ている」というような意味合いの、発言者の主観をも含めた表現です。

ええ、だから軽い皮肉くらいの意味合いはありました。それはとっくに認めています。
でも、批判とかそんな大それたつもりじゃなかったんですよ。
まぁ、感覚のずれがあったと言われれば、そうだったとしか言えないですね。

299Josef:2007/01/19(金) 20:25:53 ID:uPoVYQoU
>>297
>いわゆる「理系エリート」などと言われる人達が何故簡単にオウムに騙されて
>犯罪に走ったのか、と言われてましたが、物事を突き詰めて考えると
>逆に騙され易くなる部分も出てくるのかなあ。

突き詰めて考える、というより、科学は価値を扱えない、ということが大きいんじゃないかと思います。勝手な推測ですが。こけおどしであれ、世界を説明する大きな価値体系を示されるとコロッと行く可能性はあるんじゃないですかね、文系理系を問わず。

あと、突き詰めて、に関して思い出すのですが、ノーベル賞の利根川進氏が「いくら人間の身体を調べてみても『尊厳』など出てこない」という意味のことをテレビで言っていました。「尊厳の不在」という喪失感・不安感は、ひょっとすると自然科学に携る人に存外強いのかもしれません。

300AH1:2007/01/19(金) 20:36:54 ID:b4lKR3h.
>仮にそれを「知」と呼ぶとしたら、それは他の分野の「知」とはかなり違った特殊な用法であると言わざるをえないです。

まあ、言葉の感覚の問題に帰着してしまうと要するにそれだけのことなんですが、私でしたら「人事課に問い合わせたんかい!」とう突っ込みは無しにして(笑)、「ああ、この人はこういう基盤で言ってるだろうね」と脳内翻訳します。業界用語として聞く、とでも言えばいいでしょうか。
宗教においては、「自分はそのような事を知るレベルにないために自分が確認したわけではないが、信頼できる先達がそう言っているのだからそれが正しいことを確信している」とする「知」の伝達もあり得るのではないですか?(職人技もこれに近いかな?製造・加工技術は物質を扱う故に科学と相性が良さそうですが)
それが「どの方法論によるどういう体系の知か」を確認しておくのは必要だと思いますが、その上で、私は恐らくmacskaさんよりも曖昧さ(もしくは多様性)を含めた形で「知」という言葉を使うことを認める、そういう言語感覚を持っています。
ということで、とりあえずROMに戻ります。おつきあいありがとうございました。

301みずすまし:2007/01/19(金) 22:02:15 ID:TgyKdXjk
>>293
>「点」とか「線」は非経験的な幾何学的直観ではありませんか?公理もそう。

私はそう思いますが,非経験的であると断言する気にはなれません。

あえて,それらは経験的なものだという主張をしてみると,「点」や「線」も不完全なものは黒板にも画くことができるので,そのような具体的に画かれた「点」や「線」から抽象した観念を私達は持っているにすぎないともいえますし,ユークリッド幾何学の公理も同様です。

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あと,単なるおしゃべりですが,ウィキクォートの「数学」の項↓がなかなか面白いです。
ttp://ja.wikiquote.org/wiki/%E6%95%B0%E5%AD%A6

302HAKASE:2007/01/19(金) 22:24:40 ID:ZC/gbS1c
temaさん.お返事ありがとうございます.

「原理的に不可能であるとまではいえない」という点に了解していただいてありがとうございます.私が言いたかった最大の点はこの点なので,ここを理解していただけて感謝してます.

で,temaさんのご指摘に対する回答ですが,大筋だけ最初に述べると,私自身は「将来的に観測できる可能性が高いだろう」とは思っていますが「現状の技術では観測できない」という点は同意見です(また,1,2年のスパンでは観測はまだ無理だろうとも思います).

私自身も,temaさんへのお返事を書いてから「原理的には不可能とまではいえないはずなのに,なんで現状ではパイロット理論と呼ばれるものの実証的な証明がなされてないのかなぁ・・・」と疑問に思って考えてみました.
まず前提として,前回の説明を若干補足したいのですが,「各データ観測時刻で同じ特性を持つ」という前提条件は少しおおざっぱで,もう少し書くと「観測系がカオス的でないことが明らかである場合」という事でした.
例えば観測装置が周期的な特性を持つ場合でも,観測結果のデータ列がカオス的であった場合には,観測対象がカオス的だといえます(観測系が「カオス的でない確率系」の場合にどうだったかはちょっと記憶があいまいなので(何か前提条件があった気もするのですが覚えてない)この点の厳密な説明は避けさせてください).

で,以下は量子力学の実証的検証の研究の現状について何ら調べていないうえでの個人的な想像で書きますが,「おそらく,各観測時刻で,統一的な特性か,周期的な特性(か,あるいはカオス的でない確率的な特性)を持つ事が保障されている観測装置を作るのが,現段階の工学的レベルではまだまだ困難だからなのではないかなぁ」と思い至っていたところでした.
カオス制御とかの工学的応用分野では,カオス系の特性を持つ力学系を周期性を持つ系へと変更する技術などがあります.それから特定の1つの量子を厳密に追いつづけなくても,集団での測定ができれば,多次元の時系列解析ができる余地があります.それらが応用できる可能性はあるのかなとも思います.ただ,量子レベルの観測装置に対して工学的にそれらが適用可能かどうかとかまでは,今の自分にはよくわかりません.

ただ,上であげたように分析手法や解析手法などは本当に様々な種類のものがあって,「観測系を含めた測定結果を用いたもの」や「カオス理論を応用したもの」などをはじめ,近年でも様々なものが新たに提案されていますし,現状の工学的技術のレベルでは無理であっても将来的には観測できる可能性があるように私には思えます.そのあたりの感覚がtemaさんと私との間で少し違ってるせいで,「可能性が高いと思える結論」が異なってるのかなとも思います.
これ以上は,お互い「可能性」の話以上にはならないと思いますし,主要な意見は合意しあえた(最終的な「可能性」に対する意見は異なりますけど)と私は思っていますが,どうでしょうか?

# 量子力学の話,いろいろ勉強になりました.ありがとうございました(結論聞く前にお礼書くのは問題かもしれませんが(^^;).

303みずすまし:2007/01/19(金) 23:35:32 ID:TgyKdXjk
>>246
> あとmacskaさんの主張を理解するのに必要なのは>>110にある「存在を主張する方に証
> 明責任があり、非存在は証明不可能」という当たり前のルールですね。>>202に関して
> いえば、Aが宇宙の真理が42である証拠を出さない限り、Bは(そしてA以外の誰も)A
> の主張を論理的に認める義務はありません。これは科学もクソもない、単なる論理の問
> 題にすぎません。

これについて反論がやっと整理できたので,だいぶ遅レスだけど,一応反論しときます。

第一に,それは「論理の問題」ではありません。たんに論理の問題なら,全称命題であれ,存在命題であれ,とにかくその命題の成立(証明可能性)を主張する人に証明責任があるはずです。

むしろ,私達はそこまで論理的に突き詰めて判断してばかりはいられないために,その「当たり前のルール」があるのではないでしょうか。

第二に,このスレはディベートをしているのではありません。審判がいないこと,論題が審判や主催者から与えられてるわけではないことから,それは明らかです。従って,少なくとも「ディベートのルールに反する」という形で非難を受けるいわれは,参加者の誰にもないものと思います。

# もっとも,「存在を主張する方に証明責任があり、非存在は証明不可能」というのは一
# 般的な議論のルールであって,ディベートに限らず,それ以外の形の議論にも適用され
# るとはいえるかもしれませんが。

第三に,下の>>75のmacskaさんの記述に関しては,macskaさんの「宗教にも分からない」という主張に対して誰かが「宗教には分かる」という主張をしているのならば,仰るところの「当たり前のルール」の適用によりその人に証明責任があると考える余地がありますが,少なくとも私は(そしておそらく多くの人は),「宗教には分かるかどうか,分からない」というメタレベルに議論を移そうとしていた(いる)のです。

# 私はそれがうまくいく自信がなくて,諦めましたが。

>>75
> 科学が主に対象とする領域については科学はある程度確からしいことを明らかにするこ
> とができますが、その科学が扱えない領域において宗教が何か確からしいことを言える
> のかというと、科学に分からないことはやっぱり宗教にも分からない。

「宗教にも分からない」という主張と,「宗教には分かるかどうか,分からない」というメタレベルの主張では,その「当たり前のルール」はそのままは適用できません。

強いて適用するなら,「宗教にも分からない」という主張は「宗教には分かるかどうか,分かる」という主張を含意しているのですから,その主張をしているmacskaさんに証明責任があるという帰結になるだろうと思います。

# 強いて適用する必要があるとは,私は思っていませんが。

そして,ディベートにおいてはそのようなメタレベルの主張を行うことは禁止されていますが,第二点として書いたように,ディベートのルールに反したからといって非難を受けるいわれはないものと思います。

また,ディベート以外の一般の議論について,「宗教には分かるかどうか,分からない」といったメタレベルの主張をしてはいけない,というルールがあるとは思っていません。

# あまりにメタレベルにメタレベルを重ねて,極端に深い懐疑論に根ざす主張は制約され
# てやむを得ないと思いますが。
## 比喩的にいうと天井はある。

いずれにせよ,そのようなメタレベルの主張が許されるのか,許されるのならばどの範囲で許されるのかは,おっしゃるところの「当たり前のルール」とは別の問題であるはずです。

304芥屋@keya1984:2007/01/20(土) 00:12:57 ID:Q7XBVw2.
>NORTON3rdさん

ご指摘ありがとうございます。「中観派」です。

>macskaさん
>>298
あなたにとって仏教が宗教であるとかないとか、何の言い訳にもなりません。ならば創造科学も「宗教ではない」と言えばそれまでになってしまうでしょう。そんなことは何の関係も無い。「価値感であって、信仰ではない」…だから何なのです。あなたにとって仏教が「宗教ではない」もので、「信仰ではなく価値感」だとして、それが仏教である以上は仏説であるはずです。その仏説に対して、あなたはどのように科学で検証して、今にいたるのか、それを示せと言っているのです。

できないことなどないでしょう?見せてご覧なさい。ナザロの復活やマリアの処女受胎などを科学で検証すべきだと言う以上、当然、あなたも自身の受け入れるところの仏説に対して、それを行ってきたはずだ。異教をあれこれ言う前に、自分はこうやったと示す責任がある。仏教徒と称しつつクリスチャンに科学の矢を放つ以上は、それが異教徒への最低限の責任だと言ってもよい。いや、それ以前に、同じ仏教徒への責任でもある。

それと、「ドーキンス流に言えば仏教は宗教にあらず」とは詭弁もはなはだしい。「宗教」という言葉が仏典用語である。「宗(むね)とする教え」だ。仏教が宗教でないことがあろうか。怪異や奇跡を信仰しないこと、むしろ「信仰を去れ」というに近いものであったかもしれないことは私も承知している。おそらく原初の仏説はそうだったのではないかとは私も思うが、その部分だけに逃げて仏教をとらえてはいけない。既に他の人が引用していますが、

*************
かようにわたしは聞いた。あるとき、世尊は、サーヴァッティの祇園精舎にあらわれた。その時、ヴァッチャという外道の行者が、世尊を訪ねてきた。二人は友誼にみち礼譲ある挨拶を交わしてから、さて、彼は世尊に問うて言った。「世尊よ、あなたは、世界は常住であるとおもわれるか。これのみが真であって、他は虚妄であると思われるか。」「ヴァッチャよ、わたしは、そうは思わない。」「では、世尊は、世界は常住でないという意見であるか。」「そうではない。」・・・(中略)・・・さらにヴァッチャは、霊魂と身体とは同一であるか別であるか、人は死後もなお存在するか存しないか等のことについて、世尊がいずれの意見であるかを問うた。だが、世尊は、そのいずれの意見をもとらない旨を答えた。

かくて、ヴァッチャは、さらに問うて言った。「いったい、世尊は、いかなるわざわいを見るがゆえに、かように一切の見解をしりぞけられるのであるか。」すると世尊は、かように教えて言った。「ヴァッチャよ、[世界は常住かどうか、霊魂と身体とは一体であるかどうか、人は死後にもなお存するかどうか、などのような種類の問い]に対する見解は、独断に陥っているものであり、見惑の林に迷い込み、見取の結縛にとらわれているのである。それは、苦をともない、悩みをともない、破滅をともない、厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃に役立たない。

(マッジマニカーヤ 中部経典72、増谷文雄訳「火は消えたり」『仏教の根本聖典』、大蔵出版、240〜242頁)
**************
ttp://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/muga_2.html

科学によってそれらを検証せよ…とのあなたの主張は、仏説に背くものであると思うが如何。だから私は問うている。あなたは、自分の主張をこの仏説に向けたことがあるのか。

それと、ドーキンスの近著に感化されたとのことだが、にわかじこみは恥ずかしいのでやめたほうが良い。ついこのあいだまで、社会生物学論争を反フェミのプロパガンダ程度にしか見ていなかったのに、急にグールドvsドーキンスの深い主題が理解できているとは、到底思えないのだが。

305芥屋@keya1984:2007/01/20(土) 01:38:40 ID:Q7XBVw2.
一例としてmacskaさんが挙げていた「ナザロの復活」を題材にして、ちょっと長い感想を書きました。ご参考までに。
ttp://d.hatena.ne.jp/keya1984/20070119

306地下に眠るM:2007/01/20(土) 02:04:12 ID:KGIxSE4o
ま、不毛といえば不毛なことにゃんが

>>233より
macska「偶然というのは、われわれが完全な情報やメカニズムを知覚できないから偶然として立ち現れるだけ」
馬鹿猫「macskaは偶然性ということについて「人間の無知のために存在するかにみえているにすぎない」という立場なのは明らかだ」
macska「わたしの立場は、そういう認識に依存しません。いい加減その誤解やめてください。何十回も説明させるつもりですか? 」

>>237より
>はい、その部分は、本来の議論とは関係のない議論に踏み込んでしまって、分かりにくくなってしまったと思います。しかし、 >>33 の時点から >>111 の時点までのあいだに「わたしの主張はそれではなくこれです」と何度も説明しているわけで、それだけ離れた発言を連続するものであるかのように書くのは不当です。
>はっきり書かないと分からないようなのでもう一度説明しますが、>>33 で示した「偶然」についての認識は、わたしは撤回しているのです。なぜなら、それは本来の議論から離れた論点であり、本来わたしが主張していることは、>>33 で示した認識に依存しないからです。

チミの議論スタイルがよくでているにゃんなあ(呆気
33から111の間に、偶然が無知によるものであるという見解を相対化するような記述は僕には認められなかったにゃ。あるなら具体的に出してよ。
「自分のコトバに責任をもつ」ちゅうのは、議論における最低限のルールのはずだにゃ。
ある言明を行なったのであれば、それを明確に訂正しにゃー限りは過去の言明を持ちだされてつつかれるのはアタリマエもいいところだろ? >>33で示した見解を、いったいどこで撤回したの? >>33以降も、何回か偶然は無知によるものだという旨の発言は見られるにゃんがね。

「はっきり書かないと分からないようなので」って何様のおつもり?
自分の発言を撤回するのであれば、それを「はっきり」書くのはアタリマエなのではにゃーのかね?(ここは逃げずに答えること)
チミの主張は、どれがいつ撤回されたものなのかわからにゃーんだ。過去ログを読んでいくと、チミの主張には多くの矛盾点がみられるのだけど、どうしていいのかわからにゃー。
だって、明確に撤回がされてにゃー過去発言をもとに(というか、僕には撤回のテの字も読めなかったけど)発言しても、「いい加減その誤解やめてください。何十回も説明させるつもりですか?」などといわれてしまったうえに、ログからその経緯をひっぱったら不当だとかいわれてしまうのではにゃー・・・・・


NANの指摘したキリストのDNAがどうとかいう問題もそう。
書き手の意図がうまく伝わらにゃーことは多々あるにゃ。それは確かに書き手と読み手双方に問題があることもあるし、書き手あるいは読み手に重大な、あるいは一方的な過失がある場合もあるにゃ。
そして、この件において、ミケ、NANその他の者が「誤読」をしていた(僕もミケやNANと同じように読んでいた)にゃ。読みは正確な連中だと思うんだけどにゃ。また、読み返しても、ミケやNANの読み方が可能(というかそっちのほうが自然に思える)な記述だにゃ。
そして、「誤読」というコトバは、読み手側の一方的あるいは重大なミスと解釈できる。

あんな文を書いておいて「誤読」とか抜かしたら紛糾して当然だろ?
あんな文を書いておいて「お前の読み間違い、こっちの真意はこうだよ」が通じるはずにゃーだろ?
自分の書いた文章に責任を持つのなら、文の記述にいささかなりともプライドを持つのであれば、訂正して謝罪というのがアタリマエ。チミ以外の多くのものはそうしているにゃ。もちろん僕も、表現に問題があったと思えば即刻謝っているにゃ。

>もしあなたも議論をスムースに進めたいと思っているのなら、どうして「相手に明示的に落ち度を認めさせる」ことにそんなに固執するのかなぁと。>>289

議論をスムースにすすめたいから、自分の発言に責任をもてということなんだけどにゃ。
誤りを認める、とか、撤回する、ってのは「明示的」に行なうものなの。でなきゃ、議論にならにゃーの。
あと、本質に関係のあまりにゃーところで、自らの間違いをさくっと認めることにより、ギャラリーに「自分の間違いを認められるヒト」という印象を与えることができるという特典アリ。多用するといい加減な馬鹿と思われるので逆効果。

お願いだから、自分のコトバに責任を持ってくれ。

今後、僕とチミの見解はまるで別物であること。
やはりチミは無知に基づく宗教批判をしていることを検証するにゃんが、自分のコトバに責任を持ってくれにゃーと、こっちのすることがまるでムダになっちまうにゃ。まあ、ギャラリー向けにサービスするけどにゃ。ただし投稿ペースはだいぶ落ちる。

307カモオオハシ:2007/01/20(土) 05:52:36 ID:C0VsT.3A
こんにちは。ここにははじめて書き込みますカモオオハシといいます
(第一掲示板には大昔に書き込んだこともあります)。
以前からmacskaさんと地下猫さんのそれぞれの愛読者(ROMですが)
だったもので「ルパン対ホームズ」でも読んでいるような気分でログを
よませていただきました。格下の論敵を相手に徹底的にたたきつぶすという
芸風の(しかもなまじ有能な)二人がぶつかるとこんなふうになるんですね。
まあ、どちらが正しいというより、お互いに信頼関係があれば問題にも
ならないようなちょっとした言い間違いや説明不足が信頼関係がないため
にいちいち問題化し、関係をさらに悪化させている例のように見受けました。
同じ論点が繰り返し出ているのにお互い納得せず、お互い相手が不誠実な
ように感じている、というのは、視点や関心が違うために同じものがまったく
違うように見えている徴候です。相手からはどんなふうに見えているのか、
自分にとって大事な問題が相手にとって瑣末な問題に見えるのは何故なのか、
とお互い想像力をはたらかせてはいかがでしょうか。

macskaさんに対して一つコメントです。
もともとの火種となった、「神がいるかどうかという問題は科学の範囲外」
という言い方についてですが、そもそも、NATROMさんはこれを
「「いかなる神も存在しない」と示すという問題は科学の範囲外」という意味で
書いたのではないでしょうか(対応する質問も「神はいないのでしょうか」
というものですし)。わたしは少なくともそう理解し、問題を感じませんでした。
まあ、NATROMさん本人があいまいさをみとめて削除された文章ですので
いまさら蒸し返すこともないのかもしれませんが、もしかしたらNATROMさん
はmacskaさんのクレームについて「そんな読解が可能だなんて、あなたに
言われるまで考えもしなかった。」と思ってらっしゃるかもしれません。

308diamonds8888x:2007/01/20(土) 06:07:17 ID:Zz3oJN62
>>267
 「認知の対象とする」ということと「認知した像が正しいか否か」ということは区別した方がわかりやすそうですね。「死んだ子供」も他人が客観的に認知できないとは言えないが、そうやって認知した像は、母親が認知した像とは異なっているし、どちらの像が正しいとか間違っているとかは言えない。
 この世界はヒトにとっても昆虫にとっても認知対象には違いないが、ヒトの眼に映る像と昆虫の眼に映る像と、どちらの像が正しいとか間違っているとかは言えない。
 この世界は科学にとっても神話にとっても認知対象には違いないが、科学の眼に映る像と神話の眼に映る像と、どちらの像が正しいとか間違っているとかは言えない。

 というところでしょうか。

309diamonds8888x:2007/01/20(土) 06:10:35 ID:Zz3oJN62
 AH1さん(>>300)、みずすましさん(>>303)とも重なりますが。

 macskaさんほどの方なら科学哲学や論理学についても一通りは御承知だと思います。とすれば「論理的には、科学のある命題が100%正しいことはありえない」という話は御承知ですよね。科学というより、人間の知覚が有限である以上は人間が何かを100%正しいと断言できることはありえません。科学のどんな命題もその根本には何らかの仮定があります。例えば、

・宇宙のどこもかしこも同じ物理法則が成り立つ
・過去も未来も物理法則は不変
・人間の知覚能力は一人の例外もなく似たり寄ったりである
・世界は論理的に矛盾無くできている

 強力で個人的には例外を見つけていない仮定ですけど、100%正しいと断言はできません。とりあえず正しいと見なして前へ進むという科学の方法は間違ってはいませんけど、思索の上では正しくないかも知れないという立場にたつことも可能です。
 そういう広すぎる立場にも理解を示していただかないと永遠に平行線だと思います。

310diamonds8888x:2007/01/20(土) 06:14:26 ID:Zz3oJN62
>>279, >>287, >>301
 数学について別スレッドを立てましたので、よろしければそちらで議論しませんか?

311macska:2007/01/20(土) 09:00:43 ID:VdHL1C4M
>>304
> あなたにとって仏教が宗教であるとかないとか、何の言い訳にもなりません。
> ならば創造科学も「宗教ではない」と言えばそれまでになってしまうでしょう。

創造科学は科学理論を標榜しています。だから、科学的手法により否定すればそれで済みますね。

わたしは自分にとって仏教は価値観であると言っています。価値観を科学的手法で否定できますか?

というわけで、

> その仏説に対して、あなたはどのように科学で検証して、今にいたるのか、
> それを示せと言っているのです。

価値観は科学的手法で検証されるものではないと思います。

> ナザロの復活やマリアの処女受胎などを科学で検証すべきだと言う以上

わたしの主張を曲解するのはやめてください。わたしが言うのは、現実世界で起こったとさsれる現象は科学の範疇であるというだけで、たまたまその現象を伝える書物が聖書だったからといって科学の範囲外であるということにはならない、というものです。わたしが「聖書に書かれているからといって特別扱いするべきではない」という要求を突きつけている対象は科学の側であって、キリスト教に対してなんら「奇跡を証明しろ」と要求していません。

> 異教をあれこれ言う前に、自分はこうやったと示す責任がある。

異教をあれこれ言っていない。科学のありかたを議論しています。

> 科学によってそれらを検証せよ…とのあなたの主張は、仏説に背くもので
> あると思うが如何。

そのように主張していません。って、これまでの議論ちゃんと読んでから発言してください。

> ついこのあいだまで、社会生物学論争を反フェミのプロパガンダ程度に
> しか見ていなかったのに、

酷い中傷はやめてください。事実に反します。

>>306
わかりました。書き方に誤解を招くような要素があってすみませんでした。
でも、今は真意が分かったわけですから、それをベースに議論していただけないでしょうか。

>>307
> もともとの火種となった、「神がいるかどうかという問題は科学の範囲外」
> という言い方についてですが、そもそも、NATROMさんはこれを
> 「「いかなる神も存在しない」と示すという問題は科学の範囲外」という意味で
> 書いたのではないでしょうか

そうかも知れませんが、別の意味で解釈可能でした。

> もしかしたらNATROMさん
> はmacskaさんのクレームについて「そんな読解が可能だなんて、あなたに
> 言われるまで考えもしなかった。」と思ってらっしゃるかもしれません。

おそらく、その通りでしょう。そして、その結果あいまいさが減って良い文になったと思います。

>>309
> とすれば「論理的には、科学のある命題が100%正しいことはありえない」
> という話は御承知ですよね。

はい。「宗教にもわからない」という断言は、科学的事実としてではなく、論理的真(人知が及ぶものであれば科学の対象となり得る、人知が及ばないものには「宗教」と名をつけても人知は及ばない)として主張しています。科学的命題はどこまでいっても100%正しいとは断言できませんが、論理的命題は100%正しかったり100%間違っていたりということがあり得ます。

312カモオオハシ:2007/01/20(土) 10:15:24 ID:C0VsT.3A
>311
>「宗教にもわからない」という断言は、科学的事実としてではなく、論理的真(人知が及ぶものであれば科学の対象となり得る、人知が及ばないものには「宗教」と名をつけても人知は及ばない)として主張しています。
わたしは論点となっているのはやはり論理の問題ではなく方法論的選択の問題だと思います。

われわれは五感によって世界について知ることができると思っています。しかし、哲学的には、五感が世界について知るための信頼のおける道具だとどうして言えるのか、と疑うこともできますし、「人々は五感で世界について知ることができるという思い込みを事実とすりかえている」と批判することもできるでしょう。デカルト以来の哲学の歴史が示すように、これは原理的に論駁不能な批判です。五感によってえられる知識が信頼できると示すためにわれわれが使えるのも五感によってえられる知識だけですから、それを疑われたらほかに手がかりはありません。

さて、多くの宗教は「啓示」や「さとり」という仕方で世界の本当の姿について(特に人間の知覚の及ばない部分について)知ることができると主張します。啓示やさとりなんてただの思い込みだと言われてしまえば、それに反論する証拠を挙げることはできないでしょう。しかしこれは構造的にはさきほどの五感の例とパラレルです。つまり、論理的には、知識を得るための手段としての五感と啓示は懐疑主義に対して同じような問題に直面しているわけです。

もちろん、五感は啓示にくらべていろいろな長所があり、五感のみを信じるという方法論的選択には十分な根拠があると思いますが、それを論理的真の地位に格上げするべきではないと思います。

313酔っ払い:2007/01/20(土) 10:25:39 ID:2.Oxx5s.
初めまして。といっても2回目ですが。

macskaさんに質問です。
宗教は人知が及ぶものでしょうか。及ぶのなら、科学の対象となり得るのですか。
宗教が人知が及ばないものだとすると、人知が及ばないものが、宗教の対象となり得ますか。



-------
202へ突っ込みいれてくださった方、ありがとうございました。

314macska:2007/01/20(土) 10:46:23 ID:VdHL1C4M
>>312
よく読んでくださいね。五感によって得られるものが論理的真なのだと言っているわけではなくて、「人知の及ばないものについては、人知は及ばない」という言明が論理的真だと言っているのです。

つまり、仮に「死後の世界」が人知の及ばないものであれば、人知が及ばないわけですから「宗教」という名をつけても人間にはやっぱり分からないでしょう。一方、仮に「死後の世界」に人知が及ぶとしたら、つまりそれについて何らかの確からしい知が得られるとしたら、それは科学的探求の対象となり得るはずです。

「死後の世界」で分かり辛ければ、「天使のさまざまな名前や序列や役割分担」でも構いません。また、アブラハム系宗教だけ例に出すのが不当だというなら「仏様や菩薩のさまざまな名前や序列や役割分担」でも構いません。そのあたりは例示にすぎないので。

>>313
> 宗教は人知が及ぶものでしょうか。

さぁ。「宗教は」と言われても幅が広いのでなんとも言えません。

それからわたしは、例えば「死後の世界」に人知が及ぶとか、及ばないとか、そういう特定の立場を持っていません。もし人知が及ぶのであれば、それは科学の対象となり得るし、もし人知が及ばないならば、それは宗教によっても「知る」ことはできず、「信じる」ことしかできないであろうと言っています。

> 及ぶのなら、科学の対象となり得るのですか。

「人知が及ぶ」ということを、何らかの客観的な観測が可能であるという意味に解釈するなら、科学の対象となると思います。この場合「客観」というのは、もちろん哲学的に言って100%確実ということはないので、まぁ常識的な範囲で解釈してください。

> 宗教が人知が及ばないものだとすると、人知が及ばないものが、
> 宗教の対象となり得ますか。

人知の及ばないものを信仰する宗教もあれば、そうではないものもあるでしょう(ドーキンス的には、後者は宗教と呼ばないようですが)。

315芥屋@keya1984:2007/01/20(土) 11:04:18 ID:Q7XBVw2.
>>311
>創造科学は科学理論を標榜しています。だから、科学的手法により否定すればそれで済みますね。わたしは自分にとって仏教は価値観であると言っています。価値観を科学的手法で否定できますか?価値観は科学的手法で検証されるものではないと思います。

何をムニャムニャ眠たいことを言っておるか。価値観を持たない宗教があるか。仏教が価値観であるのは当たり前であり、仏教も宗教であるのは自明のことだ。というか、「宗教」という言葉が仏典用語だと書いただろ。「宗教とは仏教なり。されどreligionにあらず」というなら別だが、そういう主張がしたければ、最初から言葉の再定義を自分でしてからにすべきですな。

でも、そんな作業は本件にはあまり関係ない。いいからサッサと、「自分は仏説について、釈尊の言行録について、自分の主張としてこのように検証してみた」と示してみたまえ。なぜそんな簡単なことができぬ。自分の主張を自分の価値観に対してやって見せよ、と言っているのだ。

ナザロの復活やマリアの処女受胎だって、ただポツンと出来事が挙げられれているのではない。それも彼らの価値観のよりどころではないか。「価値観は科学的手法で検証されるものではない」…?ならばあなたの主張は、あなたの言い逃れによって否定されるだけのことだぞ?いやそれ以前に、創造科学その他の似非科学だって科学理論を応用した価値感ではないか。何を言っておるのだ、君は(苦笑)。

それと、現実世界で起こったこと云々、現実世界への介入うんぬんというが、考え方が雑なんだよ。というか言葉が雑。私のブログにも書いたが、キリスト教は「ナザロを復活させたように誰でも復活させてあげますよ」と説いているのか?そういう介入の仕方ではないではないか。腐乱死体は蘇生せぬ…ということは百も承知のことを述べているだけだろ。

>わたしが言うのは、現実世界で起こったとさsれる現象は科学の範疇であるというだけで、たまたまその現象を伝える書物が聖書だったからといって科学の範囲外であるということにはならない、というものです。

>わたしが「聖書に書かれているからといって特別扱いするべきではない」という要求を突きつけている対象は科学の側であって、キリスト教に対してなんら「奇跡を証明しろ」と要求していません。異教をあれこれ言っていない。科学のありかたを議論しています。

科学のありかたを議論するために異教の教義をあれこれ引っ張り出して、科学の側につきつけているではないか。アホかおまえ。だから、今ここでの科学論の題材として具体的に何か選ぶんなら、異教ではなく自分の宗教、つまり仏説を引用して科学の側につきつけよと私は言っている。それにあたって、自分が自分にそうしてみた経過を示せと言っている。なぜ、それができぬ?相手につきつけることを自分にはつきつけないのはあなたの悪癖だが、それで済む話じゃないだろ、これは。

316芥屋@keya1984:2007/01/20(土) 11:06:21 ID:Q7XBVw2.
なお、ついこのあいだまで、あなたが社会生物学論争を反フェミのプロパガンダ程度にしか見ていなかったのは中傷でも何でもない。オルコックがブラウンミラーの一節を引いて批判した一文(および長谷川眞理子の邦訳部分)を、反フェミプロパガンダとして片付けようとしていたではないか。私がさも進化生物学と社会構築主義が対立するものと考えているようだとの誤解をあなたがしていたから、そうではないとしてグールドvsドーキンスを挙げてみた。ところが、大山鳴動して鼠一匹のポスモダ大騒ぎだぐらいにしか認識しておらなかったではないか。その件の話は別の人とすることになったけど、まったくついてこれなかっただろ?相手の人はmacskaさんにも参加してほしいと言っていたのに。

もちろん、知らない話に加わらなくてもいい。だけど、ついこのあいだまでその程度の認識だったのは事実じゃないか。最近になってドーキンスの近著を読んで感化されたのならそれは大歓迎です。だけど、にわかじこみは恥ずかしいからやめておけ、と言っただけだよ。それを中傷だという感覚こそ恥ずかしいことだ。

317酔っ払い:2007/01/20(土) 11:51:01 ID:2.Oxx5s.
>>312
回答ありがとうございます。

>「宗教は」と言われても幅が広いのでなんとも言えません。

了解しました。これについては、もう暫く考えてみます。

また、

人知が及ぶことに関して、人は科学の対象として扱える
人知が及ばないことに関して、人が「知る」ことはできない

と理解していますが、これに間違いないでしょうか。信じることしか出来ないかどうかは、人知が及ばないことからは導けないので外していますけれども。

もう一点、

> 例えば「死後の世界」に人知が及ぶとか、及ばないとか、そういう特定の立場を持っていません。

とのことですが、macskaさんの立場、>>33(人知が及ぶことと)「原理的に検知不可能な事象(例えば、死後の世界)とは区別されるべき」なのではなかったのでしょうか。


--------
こういった議論に慣れていないもので、回答はだいぶ遅くなります。申し訳ありません。

318酔っ払い:2007/01/20(土) 12:03:14 ID:2.Oxx5s.
失礼しました。
× >>33
>>31
に訂正します。

319macska:2007/01/20(土) 12:05:22 ID:VdHL1C4M
>>315
> 価値観を持たない宗教があるか。

それはごもっともですが、価値観があれば全てが宗教というわけではありません。わたしの場合、わたしは仏教を信仰しているわけではなく、価値観として仏教を参照していると言っているのです。それを宗教と呼ぶかどうかは定義によりますが、ドーキンスの定義によればそういうものは宗教とは呼ばないことになっています。

> いいからサッサと、「自分は仏説について、釈尊の言行録について、自分の主張として
> このように検証してみた」と示してみたまえ。なぜそんな簡単なことができぬ。自分の
> 主張を自分の価値観に対してやって見せよ、と言っているのだ。

自分の主張は、キリスト教やユダヤ教に対するものではなく、科学に対するものです。
また、わたしは「科学的な検証の対象となり得るはずだ」と主張しているだけで、実際の検証を行なっているわけではありません。

> ナザロの復活やマリアの処女受胎だって、ただポツンと出来事が挙げられれているのではない。

はい、その通り。だから仮にイエスのDNAが発見されて、イエスの生物学的な父親が人間であったことが判明したとしても、処女受胎伝承の宗教的な意義は失われないと思います。わたしが言っているのは、仮にそうした物的証拠があればそれは科学的検証の対象となり得るというだけのことであり、宗教的な意義が科学によって否定されると主張したことは一度もありません。

> ならばあなたの主張は、あなたの言い逃れによって否定されるだけのことだぞ?

わたしの主張は、現実世界で起きた事象は科学の対象となり得るということです。そのどの部分がどう否定されるというのでしょうか?

> だから、今ここでの科学論の題材として具体的に何か選ぶんなら、異教ではなく自分の宗教、
> つまり仏説を引用して科学の側につきつけよと私は言っている。

例に挙げるのであれば自分の宗教から例を出せ、というのはもっともなのですが、わたしは何ら超自然的なものを信仰していないのでそれは不可能です。

まぁ例えば、わたしは釈尊(と表記します)が歴史上に実在した人物だと思っていますが、かれが実在したかどうかは科学的検証の対象となるでしょう(そして、もし科学的証拠によってその実在が否定されたら、「へぇ、そうだったのか」と受け入れます)。また、その伝記が正確かどうかも、具体的な記述について何らかの物的証拠があれば検証可能でしょう(そしておそらく、誇張や創作も含まれているでしょう)。そんなこと当たり前ですし、それらの事実が科学的な検証の範囲外だと主張する人はまずいません(現実問題として、検証するに足る証拠が入手不可ということはあり得ますが)。したがって、これらのことが科学の対象であるとわたしがことさら主張する必要はありません。

ところが超自然的な信仰となると、「それは科学の範囲外である」と主張する人が大勢います。しかし、超自然的な主張の全てが科学の範囲外であると決めつけることは、科学の範囲を不当に狭めることになるのではないか、というのがわたしの主張です。超自然的な主張であっても、現実世界において何らかの現象が起きた(起きる)という主張であれば、それは科学的検証の対象となり得るからです。大勢の人が科学の範囲を間違って狭めて理解していることは科学にとって問題ですから、それはおかしいと主張しました。

その際、例として聖書をとりあげたのは、単純にわたしが生まれ育った環境においてキリスト教やユダヤ教の影響があり、聖書について詳しく知っているからです。仏説やコーランについても勉強中ですが、聖書の方が断然よく知っています(そのため、聖書の知識を他の宗教に一般化しているのではないかというおしかりも受けました)。また、マリアの処女受胎など聖書の中には有名な伝承が数多くあるので、読んでいる方にも理解しやすいと思って例にしました。キリスト教やユダヤ教を何ら冒涜あるいは否定する意図がないことは再三説明しています。

320macska:2007/01/20(土) 12:07:16 ID:VdHL1C4M
>>316
> オルコックがブラウンミラーの一節を引いて批判した一文(および長谷川眞理子の邦訳部分)を、
> 反フェミプロパガンダとして片付けようとしていたではないか。

全然違います。

芥屋さんが言っているのは、以下のエントリのコメント欄のことだと思います。
ttp://macska.org/article/138
ここで、わたしはオルコックや長谷川の批判をわたしは「反フェミプロパガンダ」として片付けた事実はありません。ブラウンミラーの主張が米国でアンチフェミニズムの側に曲解されて批判されているのは事実ですが、ブラウンミラーに対する批判のすべてが「反フェミプロパガンダ」で済ませられない(とわたしが認識している)ことは、わたし自身がブラウンミラーに批判的であると表明していることから明らかではないかと。

てゆーか、全然関係ない過去の議論から、一方的な解釈を持ち込まないでくれませんか?
別のスレッドなり掲示板で議論しろというなら応じますから。

> その件の話は別の人とすることになったけど、まったくついてこれなかっただろ?
> 相手の人はmacskaさんにも参加してほしいと言っていたのに。

こちらは、いつの話だか分からないです。
たまたまわたしが忙しくて見てないことだってありますし、掲示板において「議論に参加しなかったこと」を責められてもねぇ。

> だけど、ついこのあいだまでその程度の認識だったのは事実じゃないか。最近になってドーキンス
> の近著を読んで感化されたのならそれは大歓迎です。

わたしはずっと以前から(97年頃?)ダーウィニアンフェミニストを自称しているし、進化論とか進化心理学とかについてずっと以前から発言してますよ。その中で、もちろん社会的事象に対する進化論の過剰適用や濫用を批判することもあるけれど、それは基本路線として進化論の有効性を認めているからこその批判じゃないの。ドーキンスの近著の影響はもちろんあるけど、ドーキンスの無神論的な主張を読んだのはそれが初めてではないし。「ついこのあいだまで反フェミプロパガンダとして片付けていた」とか「ドーキンスの近著で感化された」なんていうのは中傷だから、止めてくださいね。

> にわかじこみは恥ずかしいからやめておけ、と言っただけだよ

にわかじこみであろうとなかろうと、おかしな部分があれば批判してくださるとうれしいです。
しかし、過去の経緯をあれこれ一方的に決めつけて中傷するのは迷惑です。

321カモオオハシ:2007/01/20(土) 13:10:33 ID:C0VsT.3A
>>314
>仮に「死後の世界」が人知の及ばないものであれば、人知が及ばないわけですから
>「宗教」という名をつけても人間にはやっぱり分からないでしょう。

「人知が及ばないものに人知は及ばない」というのはもちろんトートロジーで、だれもそれには反対していないと思いますが、まさかmacskaさんも宗教家がその意味で(つまり論理的矛盾として)「人知の及ばないことについて特別な知識を持っている」と主張しているとはおもってらっしゃいませんよね。
しかし、この引用した箇所で書かれている「人知の及ばないものについては分からない」というのは実質的な主張ですよね。もし、同じエントリーで書かれているように「人知が及ぶ」という言葉を「何らかの客観的な観測が可能であるという意味に解釈する」のなら、客観的観測が可能でないような仕方で分かることもあるだろう(そして啓示というのはまさにそういうやりかたで知識を得る方法だ)と主張する宗教家はいるでしょう。また、そのように解釈しないのなら、今度は「人知が及ぶものは科学の対象となりうる」という主張があやしくなりますね(これも311で「論理的真」の中に含めてらっしゃるようですがこちらはどう考えても論理的な真ではないですね)。

なお、私から見ても芥屋@keya1984さんの書き込みはほとんど言いがかりではないかと思えます。macskaさんご本人がいちいち的確に答えておられるので繰り返しませんが。

322芥屋@keya1984:2007/01/20(土) 13:17:18 ID:Q7XBVw2.
>>320
自分にとって仏教が宗教ではないから、それがドーキンスの定義するreligionに該当しないから、自分の仏教は自分が主張している科学的検証の対象にはならない…か。何じゃそりゃ(笑)。そんな論法が通用するなら、およそどんな宗教も科学的検証をさせない口実が立つだろう。

あなたが何をどう言おうが仏教は宗教なの。超自然的な怪異や奇蹟をよりどころとするものは(広義の)宗教の一部でしかない。「宗教」についての自分の貧困な知識をさらけ出して、何を馬鹿なことばかり言っておるか。いいからサッサと、自分の仏教を自分の主張で検証した経緯や結果をここに開陳して見せろって。それができないなら、自分ができないことを他人に要求するな。

いいかね?ドーキンスのreligion批判とあなたの今ここでの主張は同じレベルのものでもないし、そもそも今件、ドーキンスの定義するところにしたがう必要もないわけだ。というか、ドーキンスの定義にしたがえば「神は存在する」ことになることに気付いているか?

>自分の主張は、キリスト教やユダヤ教に対するものではなく、科学に対するものです。

だから、その科学につきつける主張に用いる具体例を自分の仏説にしてみろと言ってるんだ。なぜできない?

>はい、その通り。だから仮にイエスのDNAが発見されて、イエスの生物学的な父親が人間であったことが判明したとしても、処女受胎伝承の宗教的な意義は失われないと思います。わたしが言っているのは、仮にそうした物的証拠があればそれは科学的検証の対象となり得るというだけのことであり、宗教的な意義が科学によって否定されると主張したことは一度もありません。

んなこたぁ誰もがわかっている。相手がわかっていることをわかっていないかのように見せかけて繰り返す悪癖は直らんようだが、通用せんよ。

>例に挙げるのであれば自分の宗教から例を出せ、というのはもっともなのですが、わたしは何ら超自然的なものを信仰していないのでそれは不可能です。

しかし、仏説にも超自然的なものはいくらでもあるだろ。それをどうやって自分の価値観から除外したか、どのようなものが科学的検証をしたか、示せと言ってるんだ。サッサと汁。以下のごたくは無用。

323芥屋@keya1984:2007/01/20(土) 13:30:42 ID:Q7XBVw2.
>なお、私から見ても芥屋@keya1984さんの書き込みはほとんど言いがかりではないかと思えます。macskaさんご本人がいちいち的確に答えておられるので繰り返しませんが。

こういうのを、言いがかりというんですけどね。

324macska:2007/01/20(土) 14:20:08 ID:VdHL1C4M
>>322
> 自分にとって仏教が宗教ではないから、それがドーキンスの定義するreligionに該
> 当しないから、自分の仏教は自分が主張している科学的検証の対象にはならない…か。
> 何じゃそりゃ(笑)。そんな論法が通用するなら、およそどんな宗教も科学的検証を
> させない口実が立つだろう。

あのねー、ヒトの発言を勝手に切り刻んで任意に繋ぎ合わせて「論法としておかしい」なんて言うとは、言いがかりですよ。わたしは「自分にとって仏教は信仰ではない(宗教ではない、とは言っていない)」「自分にとっての仏教はドーキンスの定義するreligionには含まれない」「自分にとっての仏教はただの価値観であり、価値観は科学的検証の対象にはならない」とそれぞれ言いましたが、最初の2つから3つ目が導き出される、という「論法」は使っていません。言っていないことをでっちあげたうえで「何じゃそりゃ」と嘲笑してみせるのはやめてください。

ある教義が科学的検証の対象かどうかの基準は、それが現実世界における現象について言及しているかどうかである、と繰り返し述べています。当然、そこにキリスト教でも仏教でも違いはありません。「それはおかしい」というなら議論に応じますが、あなたの言いがかりは迷惑なだけで議論のしようがありません。

> いいからサッサと、自分の仏教を自分の主張で検証した経緯や結果をここに開陳
> して見せろって。それができないなら、自分ができないことを他人に要求するな。

「他人に要求するな」と言われても、わたしは誰に向かっても「あなたの宗教を科学的に検証しなさい、その結果を示しなさい」と要求していません。一切要求していないことを「要求するな」と言われても困ります。

> ドーキンスのreligion批判とあなたの今ここでの主張は同じレベルのものでもないし

そりゃそうでしょう。ドーキンスと同じレベルだとうぬぼれてはいません。
てゆーか、そもそもわたしは宗教やreligionを批判していないし。

> ドーキンスの定義にしたがえば「神は存在する」ことになることに気付いているか?

それは気付いていなかったです。新説ですか?

> だから、その科学につきつける主張に用いる具体例を自分の仏説にしてみろと
> 言ってるんだ。なぜできない?

わたしは超自然的な現象を何ら信仰していないから、具体例もないのです。

超自然的でない部分についても、例えば釈尊の伝記の具体的な箇所についてそれが歴史的事実かどうかというのは(史料の分析などによって)科学的検証が可能だと言っています。しかし、それが検証可能だということはそもそも誰も疑っていないので、わたしが言うまでもないでしょ。

> んなこたぁ誰もがわかっている。

つまり、わかっているのに、まるでわかっていないかのように言いがかりをふっかけているんですね。

> しかし、仏説にも超自然的なものはいくらでもあるだろ。それをどうやって
> 自分の価値観から除外したか、どのようなものが科学的検証をしたか、示せ
> と言ってるんだ。サッサと汁。以下のごたくは無用。

わたしは仏教を信仰しているのではなく、仏教の価値観に大いに影響を受けている立場であると既に言いました。信仰心というのは科学的検証をして受け入れたり除外したりするものではなく、何かを聞いてそれを信じられるか信じられないかという問題ではないでしょうか。

わたしの場合、聖書であれ仏説であれ、超自然的なものへの信仰を迫るような部分を読んでもちっとも信仰心が湧き出て来ないのです。つまり、何かの基準があって超自然的な部分を除外したわけではなく、ただ信じられないものは信じられないというそれだけのこと。「どうやって除外したのか示せ」と言われても答えられません。信仰の有無とは、そういうものではないかと。

ですから、わたしは誰に向かっても「信仰の根拠を示せ」と要求したことはないですし、科学によって信仰が否定できるとも思っていません。ただ「教義の対象となっている現象について科学的な検証をするのはやめてくれ」という要求に科学の側が屈してはいけない、と主張しているだけです。

325macska:2007/01/20(土) 14:35:44 ID:VdHL1C4M
>>321
> まさかmacskaさんも宗教家がその意味で(つまり論理的矛盾として)「人知の
> 及ばないことについて特別な知識を持っている」と主張しているとはおもって
> らっしゃいませんよね。

さすがにそういう風に聞かれれば「そういう主張はしていない」と答えるでしょうが、だったらどういう主張をしているのかよく分からないのです。

> もし、同じエントリーで書かれているように「人知が及ぶ」という言葉を「何
> らかの客観的な観測が可能であるという意味に解釈する」のなら、客観的観測
> が可能でないような仕方で分かることもあるだろう(そして啓示というのはま
> さにそういうやりかたで知識を得る方法だ)と主張する宗教家はいるでしょう。

まあ、そう解釈するしかないでしょうね。

しかし、その場合それが単なる思いつきでなくて「そこそこ確からしい」ということはどうやって分かるのか。それはどうしても、クレーン式ではなくフック式にならざるを得ないんじゃないかと思うんですよね。要するに、超自然的な存在への信仰が先にあって、それが前提となって個々のパーツの「確からしさ」が担保されると。そうやって得られるものを、わたしは「知」とは認めない立場なのです(それを認める、という人がいることも承知していますが)。

一方、そうした「知」も科学とは違った別のクレーンであるという人もいて、そちらの考え方には興味を持っていますが、まだその説をよく理解していないので、前提となる信仰を抜きに超自然的な「知」が可能なのかどうかは分かりません。

いずれにせよ、「知」という言葉の使い方がわたしと異なる人は「科学がわからないことは、宗教にもわからない」という言い方には完全に同意できないようなので、「科学がわからないことについて、宗教ならば知っているという証拠はない」という、ちょっと弱めたバージョンで共通了解が取れないかと思っているところです。

326いど:2007/01/20(土) 14:58:34 ID:NdEDLjDw
>macskaさん
はじめまして いどと申します

過去ログ読んできたんですがちょっと不明な点があったので質問させていただいてよろしいでしょうか?

以前の書き込みで「水をワインに」というものがあったと思います。

【事象】
ある場所に聖人が現れて神の奇跡とし水をワインにするという奇跡が起きた

【質問】
(1)上記事象は現実世界に影響を与えています。この場合科学の対象であり検証可能という主張であると思いますがこの認識であっているでしょうか。
(2)((1)が真である場合)どのような検証になるでしょうか?
(3)その検証は何を検証するための検証でしょうか?

327ミケ:2007/01/20(土) 15:29:17 ID:???
酔っ払い さんの
>>317
>> 例えば「死後の世界」に人知が及ぶとか、及ばないとか、そういう特定の立場を持っていません。
>とのことですが、macskaさんの立場、>>31(人知が及ぶことと)「原理的に検知不可能な事象(例えば、死後の世界)とは区別されるべき」なのではなかったのでしょうか。

にmacska さんがどう答えるか、興味があります。
誠実に議論するならば、これはスルーしてはいけない質問かと。

矛盾していると受け取られた部分については
訂正なり、真意の解説なり、何らかの対応をとる必要があります。
論者としてギャラリーの信頼を得たいのならば。

328芥屋@keya1984:2007/01/20(土) 17:07:44 ID:Q7XBVw2.
1.「自分にとって仏教は信仰ではない(宗教ではない、とは言っていない)」
2.「自分にとっての仏教はドーキンスの定義するreligionには含まれない」
3.「自分にとっての仏教はただの価値観であり、価値観は科学的検証の対象にはならない」

そう、こう言って通用するのであれば、およそあらゆる宗教がそう言えるだろう、と私は指摘している。1と2から3を導出したわけじゃない?だから何ですか。なるほど私は1と2から3という書き方をしたから、「そうじゃありません。1と2と3は横並びです」と言われれば、それで構いません。その横並びと同じくして、上記「仏教」を○○教や××科学にしてみたらよい。

>ある教義が科学的検証の対象かどうかの基準は、それが現実世界における現象について言及しているかどうかである、と繰り返し述べています。

A「昔々、どこそこで何某という人が神の力で死者を蘇生させたということです」
B「今ここで、わたしが死者を蘇生してあげますが、これこれ条件があります」

現実世界における現象として科学的検証が可能なのはBだけだと思うが?Aは古典であり、宗教価値とか文芸価値とかを問われる場合はあるだろう。まずはそこをふまえておかないといけない。

現実世界への介入というなら、現実世界においてキリスト教会が病院や大学の生死に関わる研究部門に「何とかして蘇生術を証明せよ」とか「イエスの真似事の研究などけしからん」とか、介入したことなどあるのかね。要するに、あなたは全く架空のお話をして、AとBとをごっちゃにして「科学につきつけて」いるわけだ。だから批判されてるの。

>「他人に要求するな」と言われても、わたしは誰に向かっても「あなたの宗教を科学的に検証しなさい、その結果を示しなさい」と要求していません。

するとクリスチャンの科学者はどうなるのだ?あなたは、科学のあり方という一般論として述べているのだから、仮に今ここに該当者がいなくても、そういう要求をしているのと同じだろう。というか、私はあなたがそういう要求をしているとは言ってない。異教の典籍から出すくらいなら自分の仏説から出せ、ということ。簡単な話だ。

>>ドーキンスの定義にしたがえば「神は存在する」ことになることに気付いているか?
>それは気付いていなかったです。新説ですか?

彼の出世作からですよ。そうは明言していないが、そうなることになる。『利己的な遺伝子』、読むべし^^。

>わたしは超自然的な現象を何ら信仰していないから、具体例もないのです。

しかし仏説にも怪異や奇蹟の叙述はある。具体例は山ほどあるじゃないか。いくらでも出せるだろ、あなたがそれを信仰していようがいまいが。なぜいまだに出せぬ?仏説の中で、あなたがここで主張することに相当するものはない、と考えているわけではなさそうだから、あるはずだろ、あなたなりにこれだというものが。じゃぁ私から聞いてみるが、たとえば梵天勧奨はどうよ?ブラフマー神が釈尊にひざまづいたというアレね。

>ですから、わたしは誰に向かっても「信仰の根拠を示せ」と要求したことはないですし、科学によって信仰が否定できるとも思っていません。

考えすぎ。今はそんな話、あなた以外の誰もしていない。

>ただ「教義の対象となっている現象について科学的な検証をするのはやめてくれ」という要求に科学の側が屈してはいけない、と主張しているだけです。

だからそれだよ。いったい、いつ、そんな要求があったのだ。ナザロ復活やアリア処女受胎に触れることだからと言って、人の生死に関する研究をやめるような要求がキリスト教会から出たというのかね。単純直裁に言って、たとえば死体がどのように腐敗していくかとか、なぜ蘇生がありえないのかとか、そういった研究はごくごく普通に行われてきているではないか。いつ、キリスト教会がそれを抑制した?医科学的見地から「ナザロの復活などありえんだろ」と思う人もいるだろうが、「ナザロの復活」があるからといって、それに触れる科学研究が抑制されたという話そのものがないだろうよ。

屈するな?ありもしない何に屈するなというんだ。そんなアジテーションを飛ばすために、自分は己の仏説について何も語らず、ナザロ復活やアリア処女受胎の古伝と万能薬詐欺と同列に並べること自体、異教に対する冒涜だろうが。気付けよ。

329baku22:2007/01/20(土) 17:21:18 ID:pNzc/oDo
> 超自然的な主張の全てが科学の範囲外であると決めつけることは、
科学の範囲を不当に狭めることになるのではないか、というのがわたしの主張です。

ざっと読んでみましたが、この主張自体に反対している人は、誰もおられないようですね。
なのになぜ紛糾するのか。

あくまで自分の場合、なんですが、
macskaさんのブログに書かれていた

■いわゆる「科学と宗教の住み分け」は不可能!
■てゆーか、科学と宗教は対等じゃねーんだよ!(暴言)
■科学に分からないことはある。でもそれらは宗教にだって分からない

という主張と、先の「超自然的・・・云々」の主張の結びつきが未だに分からないんです。
どうして後者の一連のかなり強い主張と、前者が結びつくのか。

背景の「アメリカのかなり酷い状況」をこちらで推測して、「暴言」をなんらかの事実命題の表現ではなく、
政治的発言と読み替えて受け取るのが、今の所やっとです。
その時勝手に「こちらで推測して」と、やっている自分が我ながら少し気持ち悪いです。

330macska:2007/01/20(土) 17:48:14 ID:VdHL1C4M
>>327
うっかり読み飛ばしていました。ご指摘感謝。
というわけで、

>>317
31 で「死後の世界」を「人知の及ばないもの」としたのは、一般にそう言われているモノだという意味です。しかし論理的には、「人知の及ぶ対象として死後の世界がある」という立場もありえるので、その場合どうなるかにも対応した議論を行なっています。

つまり、はじめのうちは一般的に「死後の世界」は人知の及ばないものであるという常識に従った立論をしていましたが、人知が及ぶかもしれないという意見を受け入れ、どちらの場合にでも通用するような主張に改めました。

>>326
> (1)上記事象は現実世界に影響を与えています。この場合科学の対象であり検証可能と
> いう主張であると思いますがこの認識であっているでしょうか。

それが喩え話ではなく現実に起きた事件だと主張されるのであれば、それは科学的検証の対象となるでしょう。
ただし、証拠が十分にないなどの理由で、現実的に検証が不可能であったりすることはあり得ます。「検証の対象となり得る」ことと、現実に「検証可能である」ことはそのため微妙にずれており、わたしが主張するのは前者の方です。

> (2)((1)が真である場合)どのような検証になるでしょうか?

その液体が本当にワインであるのか、まぁ常識的には飲んだら分かりますし、分析が可能なはずです。もちろん、もともとワインが入っていた可能性もあるし、何らかのトリックで入れ替えた可能性も考えられるので、それらの事前のチェックも必要でしょう。

もしそれが一回だけのもので、過去のいつかの時点で起きたことであったならば(例えば、そのワインが既に飲み干されていたら)、それを検証するのは非常に難しいでしょう。なぜなら十分な証拠が得られないからです。しかし、そういった事情により「現実問題として検証が困難なモノ」であれ、例えば「人生の意味」などといった「原理的に科学的検証を一切受け付けず、そもそもどういう証拠があれば科学的検証が可能なのかすら分からないモノ」と違い、科学的検証の対象と「なり得る」現象だと言えると思います。

> (3)その検証は何を検証するための検証でしょうか?

何をって、「水がワインに変わった」というのが事実かどうかが調べられるだけです。もし再現性があるなら、さらに研究を進めて水がワインに変わるメカニズムを解明できたら、みんなが安くワインを飲めるようになって嬉しいかもしれません(ワインメーカーや農家はたまらないですが)。が、多分そういうことはないだろうと思っています。

331AH1:2007/01/20(土) 18:01:40 ID:MM7DYpv2
ROMに戻りますと言った舌の根も乾かないうちに何ですが・・
macskaさんは繰り返し「これは科学の側への要求であって宗教には何も要求していない」と表明しておられますが、そうだろうか?
1「科学的にわかる事なら、科学は知ることができる」これはほとんどトートロジー。
2「科学的にわかる事だけを『知』と呼ぶ」
3「科学的にわかる事だけを現実世界とする」

これは知」や「現実世界」についてmacskaさんの用語法を全員が了解している限りはまあそれでいいかもしれないが、
そうでない場合、複数の知の体系が「知」と「現実世界」を奪い合うことになる。なぜなら、上の1〜3は「原理的に科学にわからない部分だけは宗教に開放する、しかし現実世界と接点があったり、「知っている」という言葉を使ったりしてはならない」となるからです。
いわば「日本政府は『北方四島は日本の領土だ』と主張せよ、と言ってるだけです!」という表明と同じですね。確かにロシアに「かえせ」とは言っていない。しかし、ロシアは絶対にこの主張を看過しないはずです。

前にもちょっと書きましたが、単なる用語の問題というより、用語法を通して「現実世界」や「知の体系である事」を奪い合う結果になるから紛糾するんですよ。

332Josef:2007/01/20(土) 18:34:11 ID:uPoVYQoU
baku22さんの仰るようなことはあるでしょうね(>>329)。
ファンダメンタリストの多いアメリカとは日本は事情が違うので、問題意識からして違う。「知る」の一語を取ってみても、macskaさんは限定的な意味で使っていて、その限りでは「その通り」と思うてのですが、この広い意味の言葉をそのように限定しなければならない必然性をここの人たち(私を含めて)は持っていない。だから特定の意味に限定すること自体に納得がいかない。

macskaさんは
>>325
>いずれにせよ、「知」という言葉の使い方がわたしと異なる人は「科学がわからない
>ことは、宗教にもわからない」という言い方には完全に同意できないようなので、
>「科学がわからないことについて、宗教ならば知っているという証拠はない」という、
>ちょっと弱めたバージョンで共通了解が取れないかと思っているところです。

と仰いますが、そもそも何で「証拠の有無」が問題になるのか。「私はかくかくしかじかの神を知っている」と言う人がいても、宗教的次元の話だから誰も「証拠を出せ」とは言いませんね。証拠を云々する類の知ではないと認識しているから、もともとそういう発想をしない。
で、言葉が出てくる「文脈」が分からないので、読者は「文脈」を想像して、たとえば「宗教を罵倒している」と言い、「罵倒ではない」と返す、そういう不毛なやりとりが多いと思います。

baku22さんの挙げる「対等」にしてもそうで、どうして根本的に違うものを比べる必要があるにのか、その背景が分からない。何らかの尺度を設定すれば比べることはできるだろうけど、どうしてそういう尺度が必要なのかもたぶん納得しがたいでしょう。

日本ではむしろ科学信仰の方が問題として重要だと思います。だから科学の限界(実際的にも原理的にも)を強調する必要性の方が高い。ここの皆さんもそういう志向が強いのではないかと思います。

333macska:2007/01/20(土) 18:53:09 ID:VdHL1C4M
>>328
> そう、こう言って通用するのであれば、およそあらゆる宗教がそう言えるだろう、
> と私は指摘している。

言えません。なぜなら、あらゆる宗教に価値観は含まれるけれど、「あらゆる宗教が価値観だけ」ではないからです。現実世界における現象や歴史的事実について(こういう意味である、とかこういう意義がある、ではなく)「こうである」と教える教義を持つ宗教は、その点において検証可能な(少なくとも検証の対象となり得る)主張をしていることになります。

> 現実世界における現象として科学的検証が可能なのはBだけだと思うが?
> Aは古典であり、宗教価値とか文芸価値とかを問われる場合はあるだろう。
> まずはそこをふまえておかないといけない。

だから、A が寓話や文学として提示されるのでしたら、それが事実かどうかと問うことに意味はありません。しかしそれが歴史的事実として主張されるのであれば、科学的な物証をもとに検証の対象となり得ます(もちろん、必ず解明できるとは言っていません)。

わたしは、何も進んで宗教の教義を科学的事実かどうか検証せよと言ってはいませんよ。そうではなく、科学の範囲には、現実世界における事象であるなら、宗教の教義によって「こうである」と教えられている対象を含みうる、という、当たり前のことを言っているのです。

> 現実世界においてキリスト教会が病院や大学の生死に関わる研究部門に「何と
> かして蘇生術を証明せよ」とか「イエスの真似事の研究などけしからん」とか、
> 介入したことなどあるのかね。

そんな誰も言っていないような極端な例を出してなんになるんでしょうか。

> 要するに、あなたは全く架空のお話をして、AとBとをごっちゃにして「科学につ
> きつけて」いるわけだ。だから批判されてるの。

架空の話をしているのはあなたでしょ。

> するとクリスチャンの科学者はどうなるのだ?あなたは、科学のあり方という一
> 般論として述べているのだから、仮に今ここに該当者がいなくても、そういう要
> 求をしているのと同じだろう。

もし仮に、クリスチャンの科学者が「聖書に書かれている内容は、現実世界に関する言及であれ一切科学的に検証してはいけない」と言うのであれば、わたしはそれは科学者としてふさわしい態度ではないと批判しますよ。それがなにか? そんな馬鹿なことを言う科学者は、現実にはいないでしょうけどね。

> 私はあなたがそういう要求をしているとは言ってない。

言ったでしょ、>>322で。

 > いいからサッサと、自分の仏教を自分の主張で検証した経緯や結果を
 > ここに開陳して見せろって。それができないなら、自分ができないこ
 > とを他人に要求するな。

わたしは、他者に向かって「自分の宗教を検証した経緯や結果を示せ」と要求していませんが、この部分を読むとあなたはわたしがそうした要求をしているかのように言っています。もしわたしがそうした要求をしていないと分かっているなら、どうして「自分ができないことを他人に要求するな」と言うわけですか?

334macska:2007/01/20(土) 18:53:35 ID:VdHL1C4M
>>328
> 異教の典籍から出すくらいなら自分の仏説から出せ、ということ。

だから、わたしは仏教を信仰していないから、信仰の例は出せないんだって。もちろん、わたし自身が信仰していないけれども、ほかの仏教徒が信仰している教えであれば例に出せたかもしれません。しかしそうしたところで、わたし自身にとってそれが「他者の信仰する内容」を例に出していることには違いがないわけ。どうせ「自分が信仰していない例」を挙げるなら、よりよく知っているーー内容だけでなく、その歴史的背景なども含めてーー体系から例を出すのが当たり前でしょ。

それに、これはこれまで公の場で言ったことがないけれど、わたしは仏教の教えに影響を受けているのと同じくらい、キリスト教やユダヤ教の伝統にも影響を受けています。高校時代は毎週教会に通っていたし、現在ではユダヤ教の祝日に年数回ほど出席したりしていますし。それでもわたしが仏教徒を名乗りキリスト教徒やユダヤ教徒を名乗らないのは、わたしの理解するところキリスト教徒やユダヤ教徒を名乗るには神を信仰しなければならないけれども、仏教徒を名乗るのにそういう要件はないからです。

> 『利己的な遺伝子』、読むべし^^。

学生時代に読みましたが、かなり前の話なのでそのうち再読してみます。

> だからそれだよ。いったい、いつ、そんな要求があったのだ。

そのような単純化したかたちでの要求はさすがにありません。しかし多くの「穏健な」科学者と宗教者の双方が、「科学と宗教は重なり合わない異なる領域を持ち、双方がお互いの領域を侵してはならない」というような、いわゆる「科学と宗教の紳士協定」のようなものを主張しています。しかし現実には、多くの宗教は「科学の領域」である現実世界の事象についても言及しているので(つまり、科学の領域と宗教の領域は完全には分離できない)、科学の側が宗教の教義を侵害しないことを最優先すれば、科学の領域を不当に狭めることになりかねない。だから、「紳士協定」を盾にとった圧力や自己欺瞞に科学は屈してはならない、というのがわたしの論理です。

> ナザロ復活やアリア処女受胎に触れることだからと言って、人の生死に関する
> 研究をやめるような要求がキリスト教会から出たというのかね。

くだらなーい。そんなわけがないでしょうが。

335macska:2007/01/20(土) 18:54:53 ID:VdHL1C4M
>>329
> という主張と、先の「超自然的・・・云々」の主張の結びつきが未だに分からないんです。
> どうして後者の一連のかなり強い主張と、前者が結びつくのか。

ええと、暴言はまぁ自分で暴言と言っているくらいですから許してください。
その他は、これまで書いてきたことで説明しているはずです。

>>331
> 1「科学的にわかる事なら、科学は知ることができる」これはほとんどトートロジー。

はい、トートロジーです。

> 2「科学的にわかる事だけを『知』と呼ぶ」

とは言っていません。科学以外にも知の体系がある可能性を認めますが、「空からのフック」を必要とする体系を「知」とは呼ぶことに抵抗があるのです。もっと簡単な言い方をすると、信仰と知識はイコールではない、と言っているだけなんですが、それがどこかおかしいですか?

> 3「科学的にわかる事だけを現実世界とする」

これも違います。現実世界には科学的にわからないこともたくさんあると思います。

> そうでない場合、複数の知の体系が「知」と「現実世界」を奪い合うことになる。
> なぜなら、上の1〜3は「原理的に科学にわからない部分だけは宗教に開放する、
> しかし現実世界と接点があったり、「知っている」という言葉を使ったりしては
> ならない」となるからです。

まず、現実世界と接点があることについて宗教が何かを主張することに、わたしは何ら反対していません。創造論でも天動説でも、科学だと標榜しない限りにおいて自由に信仰・布教する権利があります。どうしてそれを否定していると誤解されるのか、全然理解できません。

次に、「信じる」と「知っている」という言葉を区別して使って欲しいというのは、確かにわたしはそう願っています。宗教だけでなく、誰でも「信じている」に過ぎないことを「知っている」と言い換えるのはあんまり望ましいことではないんじゃないでしょうか。もちろん宗教において言葉を特別な用法で使うということはあるでしょうが、あんまりまぎらわしい用法を使わないで欲しいなぁと思っています。まぁ、要求と言えば要求になるでしょうが、希望といったレベルですね。

> いわば「日本政府は『北方四島は日本の領土だ』と主張せよ、と言ってるだけです!」
> という表明と同じですね。確かにロシアに「かえせ」とは言っていない。しかし、
> ロシアは絶対にこの主張を看過しないはずです。

それは、領有権が排他的だからでしょう? あるものが「科学的検証の対象となり得る」と主張することは「宗教的信仰の対象となり得る」可能性を排除しませんから、そのたとえは通用しないと思います。

336いど:2007/01/20(土) 18:58:10 ID:NdEDLjDw
macska さん、ご回答頂きありがとうございます。
>>330
>何をって、「水がワインに変わった」というのが事実かどうかが調べられるだけです。もし再現性があるなら、さらに研究を進めて水がワインに変わるメカニズムを解明できたら、みんなが安くワインを飲めるようになって嬉しいかもしれません(ワインメーカーや農家はたまらないですが)。が、多分そういうことはないだろうと思っています。

「水がワインに変わった」という事が事実かどうかを調べられるだけなんですね?

これでは「"奇跡により"水がワインに変わった」という事の検証にはなりません。

この検証結果により「水をワインに替えたトリックは確認できなかった」とします。しかしここで言えるのはあくまでもソコまでであり
・偶然起きたのか
・神の御業により起きたことなのか
は判別できません。


(A)信者たちによって「奇跡」と呼ばれる話が本当に起こった事柄なのか
 (例:本当に水がワインに変わったか、本当に高所から落ちたけれど助かった御婆さんがいるか)
(B)信者たちによって「奇跡」と呼ばれる話は本当に「奇跡として起こった」のか
 (例:"奇跡により"水がワインに変わったか、"奇跡により"高所から落ちたけれど助かった御婆さんがいるか)

macska さんが「検証可能だ」としているのは(A)ですよね?
皆さんが科学の対象外としているのは(B)ではないのでしょうか?
(間違っていたら突っ込みお願いいたします)

そして(A)は「事件の検証」であって「奇跡の検証」ではないですよね?

事件が起きたかだけでは「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうかは、その現実における介入を調査できればで科学的に検証できる」とは言い切れないと思うのですが…

(一通りログ読んだつもりですがすでに既出であり、類似質問に対する答えがどこかにあればお教えください)

>>329
>baku22さん
>> 超自然的な主張の全てが科学の範囲外であると決めつけることは、科学の範囲を不当に狭めることになるのではないか、というのがわたしの主張です。
>ざっと読んでみましたが、この主張自体に反対している人は、誰もおられないようですね。
>なのになぜ紛糾するのか。

それだけの主張であれば「そうよね」でおしまいだと思うんですが、

>>17
>現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうかは、
>その現実における介入を調査できればで科学的に検証できる。

というのがキーなのではないかと…

337Hiju:2007/01/20(土) 18:59:14 ID:kwkFD2KY
>>205
>>222
に関して。

>> つまり、宗教の「知」は科学の範囲内に納めておけ、科学がわからない事象
>> についての宗教的「知」などありえない、知っているんじゃなく信じている
>> だけだと認めろ、と、“宗教に対して科学側は主張すべきだ”と。

> いや、この件についてはわたしが「宗教にも分からない」と言っているだけであって、科学の側がことさらそう宗教に向けて主張するべきだとは言っていません。

了解しました。

>> macskaさんの定義そのものが、宗教的知を科学的知より不確かで範囲の狭い
>> ものであることを認めろ、という主張に読めます。

> 宗教的知というのが、(文脈上)現実世界の外側の事象に対する、人間の知覚によって何の確認も取れない物事についての知識であるとすれば、それは科学的知より不確かであると言って問題ないのではないでしょうか。

すみません,意味がわかりませんでした。どうして「科学的知より不確かである」
と言えるのですか。同等ならわかりますが。

また,私は「不確か」よりも,「範囲の狭いもの」の方が問題だと思っています。
繰り返しますが,

> 宗教の「知」は科学の範囲内に納めておけ、科学がわからない事象
> についての宗教的「知」などありえない、知っているんじゃなく信じている
> だけ

ならば,

> 宗教の知の範囲は、科学的検証が可能かどうかによって左右され
> てしまう。

のでは?という点が気になったのですね。
#おそらく他の方が繰り返してらっしゃるのもこの点では,と思うのですが。

あと,

> それはそうと、「本人の中で使い分けが出来ていれば良い」んだったらば、
> 「死後の世界が存在するかどうかは知らない(信じているだけだ)が、神の
> 存在は知っている」と主張する人がいたら、彼は「神の存在を知っている」
> と認められるんでしょうか?

というのは,純粋な疑問として聞きたいです。後で知の定義をなさっている
のでこれは議論の対象にならなりませんが,純粋な疑問です。

338Hiju:2007/01/20(土) 19:07:41 ID:kwkFD2KY
>>336 いどさんの

> (A)信者たちによって「奇跡」と呼ばれる話が本当に起こった事柄なのか
>  (例:本当に水がワインに変わったか、本当に高所から落ちたけれど助かった御婆さんがいるか)
> (B)信者たちによって「奇跡」と呼ばれる話は本当に「奇跡として起こった」のか
>  (例:"奇跡により"水がワインに変わったか、"奇跡により"高所から落ちたけれど助かった御婆さんがいるか)

> macska さんが「検証可能だ」としているのは(A)ですよね?
> 皆さんが科学の対象外としているのは(B)ではないのでしょうか?

> そして(A)は「事件の検証」であって「奇跡の検証」ではないですよね?

> 事件が起きたかだけでは「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうかは、その現実における介入を調査できればで科学的に検証できる」とは言い切れないと思うのですが…

に賛成します。宗教的知って,(B)だと思います。

339酔っ払い:2007/01/20(土) 19:09:17 ID:2.Oxx5s.
>macskaさん
回答ありがとうございます。

>>330
> つまり、はじめのうちは一般的に「死後の世界」は人知の及ばないものであるという常識に従った立論をしていましたが、
> 人知が及ぶかもしれないという意見を受け入れ、どちらの場合にでも通用するような主張に改めました。

了解しました。主張が改まったのは>>125「もしそういう次元で「死後の世界」が発見されるのであれば、もちろんそれは科学の対象ですね」から、だと考えてよろしいですか。
なお、改変後の主張は、「原理的に科学的検証を一切受け付けず、そもそもどういう証拠があれば科学的検証が可能なのかすら分からないモノ」であっても、究極的には科学的な検証対象にならないとは言えない、と考えていますが、この認識で間違いないでしょうか。

また、>>311 >>314 で仰られていた件、下記の通りの認識で構わないのでしょうか。

人知が及ぶことに関して、人は科学の対象として扱える
人知が及ばないことに関して、人が「知る」ことはできない

ひとまずのところ、この認識が正しい前提で、話を進めさせていただきます。

さて、macskaさんは

>>161 文学作品のよしあしは、価値観であって現象ではないでしょう。もちろん価値観が脳内の物理現象の反映であるならば(そうだとわたしは言っていませんが)、究極的には科学的な検証対象にならないとは言えないですが、いきなり脳の研究をするのは有効な研究だとは思えません。文化の研究にはそれに適したツールが別にあるはずです。
>>311 わたしは自分にとって仏教は価値観であると言っています。価値観を科学的手法で否定できますか?

と仰っていますので、ひとまず価値観を「科学的手法では否定(も肯定も)できず、現象でもなく、究極的には科学的な検証対象にならないとは言えないもの」としてみます。
なお、ここでも「人知が及ぶ」ということを、>>314「何らかの客観的な観測が可能である」と解釈してます。

この解釈上では、価値観は現象ではなく、科学的手法では否定も肯定も、今のところできません。確かに究極的には科学的な検証対象かもしれませんが、これだけですと、「人知が及ぶ」と言えるのかどうか不安です。ですが、「科学とは別の適したツール」が使えるのならそれで十分だとも思えます。

次に、「原理的に科学的検証を一切受け付けず、そもそもどういう証拠があれば科学的検証が可能なのかすら分からないモノ」を考えてみます。例えば「死後の世界」、ですね。

ここで、価値観と死後の世界の共通点を見ていきますと、死後の世界は現象ではなく、科学的手法では否定も肯定もできない。究極的には科学的な検証対象かもしれないけれども、違うかもしれない点も同様です。

残っているのは「科学とは別の適したツール」が使えるかどうかになりますが、価値観、文化の研究にはそれに適したツールが別にあるように、「死後の世界」にも、同様に「科学とは別の適したツール」が存在しています。

そしてその「科学とは別の適したツール」、それらが通常「宗教」と呼ばれているのだと思うのですが、この認識に、問題はありますでしょうか。

340AH1:2007/01/20(土) 19:21:58 ID:MM7DYpv2
>とは言っていません。科学以外にも知の体系がある可能性を認めますが、「空からのフック」を必要とする体系を「知」とは呼ぶことに抵抗があるのです。もっと簡単な言い方をすると、信仰と知識はイコールではない、と言っているだけなんですが、それがどこかおかしいですか?

いや、当初から紛糾した理由は、最初の頃にそう仰っていた事、あるいは(「暴言だった」と発言されているもののレスに埋もれて忘れていた)「宗教と科学は住み分けできない」という表現、そういった部分にあっただろうという意味です。
「知」と呼ぶことには抵抗がある、というくらいの言い方であれば私はそれほど違和感を覚えないですが、当初はもっと強い主張をしておられたように感じたので。

>> 3「科学的にわかる事だけを現実世界とする」
>これも違います。現実世界には科学的にわからないこともたくさんあると思います。

失礼。「科学に扱えないことは現実世界に含めない」なら良いですか?いやまて、これもおかしいな。
当初は「科学的にわかる事だけを現実世界とする」のように主張されていたと思ったんですが、記憶違いかも?だったら失礼いたしました。


>次に、「信じる」と「知っている」という言葉を区別して使って欲しいというのは、確かにわたしはそう願っています。宗教だけでなく、誰でも「信じている」に過ぎないことを「知っている」と言い換えるのはあんまり望ましいことではないんじゃないでしょうか。もちろん宗教において言葉を特別な用法で使うということはあるでしょうが、あんまりまぎらわしい用法を使わないで欲しいなぁと思っています。まぁ、要求と言えば要求になるでしょうが、希望といったレベルですね。

そうは感じられなかった、というのが理由の一つでした。希望であって要求しているわけではない、ということであれば、一応了解です。

>それは、領有権が排他的だからでしょう? あるものが「科学的検証の対象となり得る」と主張することは「宗教的信仰の対象となり得る」可能性を排除しませんから、そのたとえは通用しないと思います。

「住み分けできない」発言を撤回されているとのことですので、これは私の誤解でした。
失礼しました。

現実の取り扱いについてまだ複数の知的体系の間にコンフリクトを招きそうな部分があったように思うんですが、とりあえずお返事のみ。

341diamonds8888x:2007/01/20(土) 19:46:36 ID:Zz3oJN62
>>319

>「人知の及ばないものについては、人知は及ばない」という言明が論理的真だと言っているのです。

 それは人知というものが全てのヒトに共通であるという暗黙の前提に立っていますよね?

> 「人知が及ぶ」ということを、何らかの客観的な観測が可能であるという意味に解釈するなら、科学の対象となると思います。この場合「客観」というのは、もちろん哲学的に言って100%確実ということはないので、まぁ常識的な範囲で解釈してください。

 まさにその常識の範囲が食い違っていると思うのですが。客観的というのは「多くの普通のヒトにとって」と解すればよいと思いますが、啓示なんてのはその意味では客観的ではありませんよね?

 というのはカモオオハシさん(>>321)と重なってるのかな?

342diamonds8888x:2007/01/20(土) 19:47:25 ID:Zz3oJN62
>>328

>異教の典籍から出すくらいなら自分の仏説から出せ、ということ。簡単な話だ。

 宗教の例として何を持ってくるかは本筋とは無関係でしょう?

343diamonds8888x:2007/01/20(土) 20:04:20 ID:Zz3oJN62
そう言えば、法的な真理というものも科学的検証の対象とは言えないような気がする。

344NAN:2007/01/20(土) 20:13:20 ID:op1ePviI
このスレに投下すべきネタかどうか迷ったけれど、まぁ紛糾そのものは収束しつつあるようだし、あとは個別対応ということで、私としては一連の流れを読んで少し考えたことを書きます。

>>339でも再提示されていますが、「死後の世界」はまぁ…実を云うとこの世は全部死後の世界で、誰かが死んだ後の世界なので…みたいなネタも散見されますが、それも置いておいて…
宇宙論とか量子力学とか理論物理学とかを紐解くと、かなりの初学者向けの文献でさえ「高次元宇宙」だとか「折り畳まれた多次元宇宙」なんて概念が出てきます。私自身、この辺の数学的記述なんかちっとも理解できませんが、なんとなく面白いし、ワケも分からず考えてみたりするものです。

さて、その高次元宇宙あるいは「我々が住む4次元時空以外の宇宙」においても、重力がどう振舞うだろうとか空間の曲率がどうだろうとか、そういう基本的な項目については「科学もしくは数学(幾何学)モデルとして」予測することが可能らしいですね。しかし、そういう宇宙には「私たちには想像もつかない何か」が存在するんだろうか?という問いかけに対して、科学はなんと答えるんでしょうか。

あるいは、そういう宇宙…つまり概念として(おおまかな)モデル化ができるのに、実際に観測したり測定することが原理的に難しい事象に対して、なにかを実証したり反証するという行為は可能でしょうか。
#想像もつかないなにかについて言明することは不可能なのに、想像もつかないなにかを入れておける「器」については想像つくってのが、なんだか逆説的で面白い、と私は思う。

345芥屋@keya1984:2007/01/20(土) 20:22:59 ID:Q7XBVw2.
>>332
引用されたmacskaさんの>>325
>いずれにせよ、「知」という言葉の使い方がわたしと異なる人は「科学がわからない
>ことは、宗教にもわからない」という言い方には完全に同意できないようなので、
>「科学がわからないことについて、宗教ならば知っているという証拠はない」という、
>ちょっと弱めたバージョンで共通了解が取れないかと思っているところです。

これについてです。私は、macskaさんが自分のブログに列挙した一文は「本の帯の惹句のようなもの」だと思っていましたので、多少は過激に誇張があっていいと思っています。帯の惹句だけ見て本の内容も読まずに「そうだそうだ!」とか「けしからん!」とか決めつけて終わる奴は、ただの馬鹿だと思いますし。それだけに、「macskaさん、マジで言ってたのかよ…」みたいな感じはありますね。

譲歩して共通了解を…って、政策会議やってるんじゃないんだけどな。「私の考えすぎだったようで、こう考えてみようかと修正しようと思うのですがどうでしょう…」みたいには言えない人なんですが。

346macska:2007/01/20(土) 20:28:42 ID:VdHL1C4M
>>336
> macska さんが「検証可能だ」としているのは(A)ですよね?

その通りです。
(B)=宗教的意味付けが検証できると主張しているわけではない、と再三説明しているのですが。

> そして(A)は「事件の検証」であって「奇跡の検証」ではないですよね?

その通りです。正確には「奇跡とされる現象」について検証ができるのであって、それが本当に奇跡であったかどうかは検証できません。仮に奇跡であった場合、「現時点での科学では原因が解明できない不思議な現象」として立ち現れるでしょう。

> 事件が起きたかだけでは「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうかは、その現実
> における介入を調査できればで科学的に検証できる」とは言い切れないと思うのですが…

厳密には、科学的検証の対象となり得る、ですね。
実際に検証可能かどうかはまた別の話だというのはその通りだし、何度もそう書いてきました。

>>337
> すみません,意味がわかりませんでした。どうして「科学的知より不確かである」
> と言えるのですか。同等ならわかりますが。

うーん、「信憑性が確認された証拠に基づく知識」と「確認もできなければ証拠もない知識」では前者の方が「より確か」という言明が疑問でしょうか?

もちろん、究極的には科学的知識の一番奥底にも「現実世界や自然法則が存在する」「われわれの五感は現実世界を把握するための道具としてそこそこ信頼できる」みたいな前提があり、それら自体が確かだという確証はないかもしれません。しかしより常識的なレベルで、では科学的知識も科学的根拠を持たない知識も対等かというと、とてもそうとは言えないと思うのです。

> > 宗教の「知」は科学の範囲内に納めておけ、科学がわからない事象
> > についての宗教的「知」などありえない、知っているんじゃなく信じている
> > だけ
>
> ならば,
>
> > 宗教の知の範囲は、科学的検証が可能かどうかによって左右され
> > てしまう。
>
> のでは?という点が気になったのですね。

うーん、そういうまとめ方をすると何やらわたしが恣意的に「宗教の知の範囲」を狭めているように読めてしまうんだけれど、それはわたしが制限しているんじゃなくて、人間が得ることのできる知の範囲というのにはどうしても限界があって、わたしたちの知覚や論理の及ばない、現実世界の外側のことについては何ら分からないんだから、仕方がないんじゃないでしょうか。宗教の知の範囲じゃなくて、人間の知の範囲が有限なの。

> あと,
>
> > それはそうと、「本人の中で使い分けが出来ていれば良い」んだったらば、
> > 「死後の世界が存在するかどうかは知らない(信じているだけだ)が、神の
> > 存在は知っている」と主張する人がいたら、彼は「神の存在を知っている」
> > と認められるんでしょうか?
>
> というのは,純粋な疑問として聞きたいです。

その人は、何か具体的な(クレーン式の)根拠があって神の存在を「知る」に至ったんでしょうか? もしそうでないなら、どうして神の存在を「知っている」と言えるのか、とても不思議に思います。というか、その人は使い分けは確かにしているようだけれど、おそらくわたしが主張する使い分けーーというか、一般社会における定義の通りだと思うんだけどーーとは違った使い分けをしているのではないでしょうか。

いや、もちろん、その人が実際に神の存在を証明してしまったという可能性もありますよ。もしそうであるなら、ぜひ今すぐ発表していただきたいものです。

347macska:2007/01/20(土) 20:29:08 ID:VdHL1C4M
>>339
> なお、改変後の主張は、「原理的に科学的検証を一切受け付けず、そもそもどういう
> 証拠があれば科学的検証が可能なのかすら分からないモノ」であっても、究極的には
> 科学的な検証対象にならないとは言えない、と考えていますが、この認識で間違いな
> いでしょうか。

違います。「原理的に〜分からないモノ」は、やはり科学的検証の対象にはならないでしょう。しかし、あるモノがそのカテゴリに該当するかどうかは、究極的には分からない。現時点でそういうカテゴリに含まれると考えられているものが、将来のある時点には「科学的検証を受け付ける、現実世界の現象」とみなされるようになるかもしれないし、その逆もあるかもしれない。

例えばわたしは霊というものが現実世界に物理的に実在するとは信じていませんから、霊は科学的検証の対象とはならないと考えています。しかし、もしかすると霊というものは物理的に構成されているのかもしれない。そして、もしそうだと科学的に解明されれば、それはもちろん科学の範囲になります(というか、解明された時点で既にそうなってますね)。

「死後の世界」については、わたしはそれは「原理的に〜分からないモノ」の一種であるという前提ではじめは議論していたのですが、「どうして原理的に〜分からないモノだと言えるのか」という意見をいただき、「それは確かにそうだ、わたしにはそれが原理的に〜分からないモノだと断言できない」と思ったので、主張をリファインしました。

> 残っているのは「科学とは別の適したツール」が使えるかどうかになりますが、価値観、
> 文化の研究にはそれに適したツールが別にあるように、「死後の世界」にも、同様に
> 「科学とは別の適したツール」が存在しています。
>
> そしてその「科学とは別の適したツール」、それらが通常「宗教」と呼ばれているのだ
> と思うのですが、この認識に、問題はありますでしょうか。

問題があるというわけではありませんが、よく考えてみると実は宗教がそれに適しているという主張には何の根拠もありません。また、「死後の世界」についてあれこれツールを用意して考察することに価値があるという根拠もありません。もっとも、文学作品の価値が文学に分かるか、とか、そもそも文学に価値なんてあるのか、というのもまた難しい話なんですが… 文学にしても宗教にしても、社会にその価値を認めてもらうためにはそれなりの努力が必要ということでしょうね。

それはともかく、宗教がもともとあなたの言うような領域について答えるために発達したものだというのは事実だと思いますが、その領域は宗教だけが独占するものでもないと思います。哲学だとか、宗教と呼ぶに至らないような伝統だとか、芸術だってその領域のニーズを満たすかもしれません。

348macska:2007/01/20(土) 20:31:08 ID:VdHL1C4M
>>340
> > これも違います。現実世界には科学的にわからないこともたくさんあると思います。
>
> 失礼。「科学に扱えないことは現実世界に含めない」なら良いですか?いやまて、
> これもおかしいな。

ちゃんと回答するべきでした。わたしの意見は「現実世界の現象は、すべて潜在的に科学的探求の対象となり得る」です。わからないことはいくらでもあるけれども、わからないことは「科学の範囲外」であることと同義ではない、と考えます。

> 「住み分けできない」発言を撤回されているとのことですので、これは私の誤解でした。

えーと、「住み分けできない」というのは撤回したわけではありませんが、誤解を招いたのは事実なようなので、追加説明させてください。

ここでわたしが「住み分け」と表現しているのは、 >>334 で説明したような「科学と宗教の紳士協定」のことです。この協定によれば、科学と宗教はそれぞれ独立した領域の中にとどまるべきで、お互いに相手の領域に侵入してはいけない、とされています。しかしわたしは、「現実世界の事象について言及する」という点で宗教と科学の領域は分離されていないと思うので、そのようなきれいな住み分けは不可能だと考えているのです。

ではどうするか。「住み分けはできない」と言ったことで、「じゃあ科学が宗教を駆逐しろとでもいうのか」みたいな感じの反発を受けたようですが、わたしの主張は全く正反対で、「科学は科学のルールで粛々と現実世界の探求をすれば良く、宗教は宗教で自由に現実世界についての主張を信仰・布教すれば良い」というものです。その結果、科学と宗教で同じ事象についての見解が対立してしまうのは、仕方がないこととして受け入れるべきだと考えています。科学が過剰に宗教に気を配って遠慮するべきではないし、宗教の意義というのは科学が何を示そうとそれによって否定されるものではないと。

北方領土の例に話を戻すなら、わたしの主張は「日本とロシアのあいだに排他的な国境を引くのはやめ、両方の人々が共存すればいいじゃないか」というものです。もちろん現実の国境問題にこういった解決はあり得ませんし(というか、場合によってはあり得ますが日本とロシアのあいだにはあり得ないでしょう)そのような主張はしませんが、科学と宗教のあいだにおいては「現実世界」という領土を排他的に考える必要はないと思うのです。

349芥屋@keya1984:2007/01/20(土) 20:45:09 ID:Q7XBVw2.
>>334
>だから、わたしは仏教を信仰していないから、信仰の例は出せないんだって。

あん?じゃぁなぜ聖書から引っ張り出せるのかね。自分が信仰していないナザロ復活やマリア処女受胎を出せるのに、なぜだ?答えてみな。

>もちろん、わたし自身が信仰していないけれども、ほかの仏教徒が信仰している教えであれば例に出せたかもしれません。

だから私が出してやっただろ。あなたとして梵天勧奨はどうなんだよ。

>どうせ「自分が信仰していない例」を挙げるなら、よりよく知っているーー内容だけでなく、その歴史的背景なども含めてーー体系から例を出すのが当たり前でしょ。

じゃぁ、釈尊が何を仰っているかイエスと比べてよくわかならないから、出せない、ということか。すると仏教よりはキリスト教をよりよく知っているから、ナザロ復活とマリア処女受胎とを、万能薬詐欺と同列に扱うこともできるんだ、と。あなたにとって「よりよく知っている」とは何なのだ?

>それでもわたしが仏教徒を名乗りキリスト教徒やユダヤ教徒を名乗らないのは、わたしの理解するところキリスト教徒やユダヤ教徒を名乗るには神を信仰しなければならないけれども、仏教徒を名乗るのにそういう要件はないからです。

いい加減なもんだなぁ。要するに、ちょいと仏教解説書を読みまわして「ふむふむ、ここは私の考えに同じ」と感じたところがある程度で「わたしは仏教徒です」と言っても、そんなに文句言われないから名乗ってる、ってだけじゃん。いやさ、それでもいいんだけどね、だからって「チベット仏教は本来の仏教ではありません」とか、こういうときに異教の教義を平気でつきつける…ってのは恥知らずもいいとこだな。同じ仏教徒として、偉い迷惑な話だわなぁ。

350baku22:2007/01/20(土) 20:48:36 ID:pNzc/oDo
昔スピノザって人の本を読んだのをふと思い出したんですが、
彼の語る「神」は、かなり「科学的」な人でも受け入れやすいんじゃないかと思いました。

彼の「神」はそもそも世界の「創造主」ではないようですし。
そういう神の概念に愛着があることを、匿名の身ながらこそっと告白しておきます。

351いど:2007/01/20(土) 21:05:06 ID:NdEDLjDw
>>346
>> 事件が起きたかだけでは「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうかは、その現実
>> における介入を調査できればで科学的に検証できる」とは言い切れないと思うのですが…
>
>厳密には、科学的検証の対象となり得る、ですね。

つまり
「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうかは、その現実における介入を調査できれば科学的に検証できる」
ではなく
「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうかは、その現実における介入を調査できれば科学的検証の対象となり得る」
ということですね?

しかし前述したとおり
検証できるのは「奇跡として語られた話が実際に起きたか」というだけです。
それが「本当に奇跡だったかどうか」は確認できないのですよね?

ではどのようにして「『神』の存在」を確かめるのでしょう?

352酔っ払い:2007/01/20(土) 21:11:18 ID:2.Oxx5s.
>macskaさん
回答ありがとうございます。

>>347
「それが原理的に〜分からないモノだと断言できない」点、了解しました。誤読に関してお詫びします。

また、

>その領域は宗教だけが独占するものでもないと思います。哲学だとか、宗教と呼ぶに至らないような伝統だとか、芸術だってその領域のニーズを満たすかもしれません。

これは全くその通りだと思います。その点に関して、完全に同意します。


では、きりもよいようですので、ROMに戻ります。ありがとうございました。

353AH1:2007/01/20(土) 21:17:09 ID:MM7DYpv2
>「現実世界の事象について言及する」という点で宗教と科学の領域は分離されていないと思うので、そのようなきれいな住み分けは不可能だと考えているのです。

はい、私もまさにそのように思いますし、現実とは?知るとは?という点が議論になったのだと理解しております。

>ではどうするか。「住み分けはできない」と言ったことで、「じゃあ科学が宗教を駆逐しろとでもいうのか」みたいな感じの反発を受けたようですが、わたしの主張は全く正反対で、「科学は科学のルールで粛々と現実世界の探求をすれば良く、宗教は宗教で自由に現実世界についての主張を信仰・布教すれば良い」というものです。

ああ、なるほど。議論の途中で「もしかするとそのような光景を思い描いておられるのでは?」と思ったりもしたのですが、確信できませんでした。そのような御意見であれば異論はありません。
「四島は日本の尺度では日本の領土ですな」
「その通り、そしてロシアの尺度ではロシアの領土でもあります。ハラショー」
ということですね。
やっぱり202の酔っ払いさんの投稿(の特に後半部)のパクリみたいなものですが。

今度は、より納得が行きました

354macska:2007/01/20(土) 21:41:37 ID:VdHL1C4M
>>349
> > だから、わたしは仏教を信仰していないから、信仰の例は出せないんだって。
>
> あん?じゃぁなぜ聖書から引っ張り出せるのかね。

だから、自分が信仰していないモノなら、聖書かれでも仏教からでも出せますよ。でもあなたは「自分の信仰する宗教から例を出すべきだ」と言ってるんでしょ。ところが、わたしは宗教を信仰していないから、「自分の信仰する宗教の例」は出せない。仏教から例を出したとしても、それはわたしにとって「他者の信仰」であるという点で聖書からの例と変わらないのです。

…って、分かって言ってるでしょ? 言いがかりはやめてほしいなぁ。

> だから私が出してやっただろ。あなたとして梵天勧奨はどうなんだよ。

どうなんだよって、何が言いたいの?

梵天が人間に語りかけた、というのと、キリスト教の神様が人間に語りかけた、というのは、同じレベルの話として理解すべきじゃないの? 仏教から例を引けば結論が何か変わるかもしれないと思っているわけですか?

> じゃぁ、釈尊が何を仰っているかイエスと比べてよくわかならないから、出せない、
> ということか。

釈尊が何を言った(とされているか)くらいなら、仏教徒を名乗るくらいですからそこそこ知っていますよ。でも、その宗教学的な位置づけや解釈の歴史なんてことにはそれほど詳しくありません。ユダヤ教・キリスト教については、聖書編纂の歴史や神学的なことを含めてそこらの一般人よりはるかに知っていると思います。だから、より自信を持って例に出せるという意味では、その通りです。

> 要するに、ちょいと仏教解説書を読みまわして「ふむふむ、ここは私の考えに同じ」と感じたところ
> がある程度で「わたしは仏教徒です」と言っても、そんなに文句言われないから名乗ってる、ってだ
> けじゃん。

このように、相手の思想背景について決めつけて中傷するのはやめてよね。進化論についても、芥屋さんが以前「政治的な効果や影響とは無関係に進化論や科学理論そのものに興味がある、進化論についての発言は政治的立場抜きにやっている」みたいにいうのを聞いて、ああこの人とは政治的な立場は違うけれども進化論への関心は同じだと思って少し嬉しかったのに、芥屋さんの側には「macskaは進化生物学を反フェミのプロパガンダ程度にしか思っていない」と決めつけられたことに、こっちはショック受けてるんだからね。

> だからって「チベット仏教は本来の仏教ではありません」とか

不当な引用で中傷するのはやめてください。

これまできちんとあなたの批判にこたえてきたつもりですが、あんまりこうした中傷が続くようなら、無視しますよ。
それに、別の掲示板での発言に疑問があれば、そちらでお応えしますって言ってるでしょ。

355macska:2007/01/20(土) 21:43:57 ID:VdHL1C4M

>>351
> つまり
> 「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうかは、その現実における介入を調査できれば科学的に検証できる」
> ではなく
> 「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうかは、その現実における介入を調査できれば科学的検証の対象となり得る」
> ということですね?

もう1カ所違いました。
「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうかは、科学的検証の対象となり得る」です。
# 前回は後半だけしか書かなかったので、その前に何が来るのか分かりにくかったと思います。

なかなか理解してもらえなくて困っているのですが、ここで「科学の対象となり得る」というのは、現実に検証が可能かどうかとはとりあえず関係なく、科学の議題となる潜在性がある、ということです。現実世界に物質的な介入をする知的な存在というのは、現実世界に生息しているか、少なくとも介入する時点において現実世界との接点を持っているはずですから、それが未来永劫どんなことがあっても絶対に科学の議題とはなり得ないとは決して言えないはず。それに対し、現実世界の外にあり人知が届かないとされるもの(例えば、一般に言われる所の「死後の世界」)は、原理的に絶対に科学の議題とはなり得ません。

356芥屋@keya1984:2007/01/20(土) 22:14:23 ID:Q7XBVw2.
>>333はグチャグチャ言い訳してるだけだから割愛。
>>334の後半ね。
>多くの「穏健な」科学者と宗教者の双方が、(中略)というのがわたしの論理です。

あのね、それは「わたしの論理」ではなくドーキンスの主張。しかし、あなたがそれを自分の主張に流用しているのが幼稚で見てらんない。「わたしの論理」はひとまず置いておく。ドーキンスがなぜそう言っているかというのは、あなたがいうような、ナザロ復活とかマリア処女受胎が「科学的にあり得ない」「超常現象は信じられない」という話じゃないんだ。

たとえば「奇跡」ね、ドーキンスはどう言ってる?それがなぜホモ・サピエンスという種にとって「奇跡」と思えるかと言えば、その生理的な初期条件からして知覚して認識できる範囲を超えているから…ことに「体験を意識できる時間のスパン」の問題ね…それが「奇跡」に思えるんだ…というところから掘り起こしてゆく。で、彼はそこで何を訴えているか。

それが人間の思考能力の限界を超えていても、決して「奇跡」じゃないんだ、その「奇跡」を示すことで「神」が人に何かを示そうとの意志があったとかじゃないんだ…それは「ありえないことではないんだと考えて探求してゆくべし」と…科学としては、そこまで言わなくちゃだめなんだ、そう言っているんだよ。

なぜそこまで言わなくちゃだめなのか(その種の宗教と「紳士協定」を結んで「お互いそれを言わないことにする」という妥協をしてはだめなのか)といえば、そういう考え方でも良しとしたが最後、科学は科学としてやっていけなくなるじゃないか、ということですよ。科学者なら、そこは絶対にお茶を濁すな…ということね。彼の、グールドに対する批判(というか忠告ね)もその線もあったのだ。あの論争を、ポスモダ大騒ぎにしか見ていないようだと、こういうところで見落としが出るから。よく見てね。

>>ナザロ復活やアリア処女受胎に触れることだからと言って、人の生死に関する研究をやめるような要求がキリスト教会から出たというのかね。

>くだらなーい。そんなわけがないでしょうが。

そう、そんなわけない。よって、くだらねぇのはmacskaさんなのだよ。ナザロ復活やマリア処女受胎「それ自体」をあげつらうのは愚の骨頂。それが史実としてあったかことかどうかなど、それは歴史学の領分。科学としては、「現在の科学としては、そのようなことがありえるとは言えない。しかし、そういうことがあったというのだから興味をもって調べてゆきたい」とは言える。そこが科学の「限界」なのでも「領域」なのでもない。

「それを科学的に調べるな」と言われても屈するな…などという、あなたの主張は絵空事なのだよ。そんなわけがないのだから。しかし問題はそんなことじゃない。科学が、「そんなことはあり得ないことだと現時点での理知でもって決め付けるかたわら、それをことさらに言わず適当に現時点での教会との穏便な社交を優先して、さらなる探求を行わないようようなら科学の自殺」なんだ。しかしこれはドーキンスのreligion批判の片面。もう片面は、私が指摘した「神は存在することになる」の意味がわかってからにしたほうがいいと思うので、ここでは言わない(このスレッドの主題から離れるし)。

357いど:2007/01/20(土) 22:46:35 ID:NdEDLjDw
>>355
>なかなか理解してもらえなくて困っているのですが
申し訳ありません。
今しばらくわたくしにもお付き合い願えますでしょうか。

>>355
>「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうかは、科学的検証の対象となり得る」です。

了解いたしました。対象は「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうか」ですね。

さて、以前に以下のような書き込みを頂きました。

>>346
>その通りです。正確には「奇跡とされる現象」について検証ができるのであって、それが本当に奇跡であったかどうかは検証できません。

それを考慮に入れた上で疑問点があります。

【前提】
ある宗教ではAという奇跡が起きることを「神の存在の証」としています。
Aという奇跡は神の御業であり、その奇跡は現実世界に影響を与えます。

【質問】
(1)奇跡Aが観測されなかったとき「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうか」に関してどのような事が言えるでしょうか?
(2)奇跡Aが観測されたとき「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうか」に関してどのような事が言えるでしょうか?

358芥屋@keya1984:2007/01/20(土) 22:49:07 ID:Q7XBVw2.
>あなたは「自分の信仰する宗教から例を出すべきだ」と言ってるんでしょ。

言ってないよ。信仰していようがしていまいが、と言っている。落ち着いてよく嫁。

>ところが、わたしは宗教を信仰していないから、「自分の信仰する宗教の例」は出せない。

だからそれ、創造科学の言い分と一緒だろうが阿呆。

>梵天が人間に語りかけた、というのと、キリスト教の神様が人間に語りかけた、というのは、同じレベルの話として理解すべきじゃないの?

ぜんぜん違う。神の子イエスを通じて父なるヤハウェーが語って人に命じるのと、人の子ガウタマに主神ブラフマーがひざまづいて教えを請うのとでは、同じレベルではない。つうか何だ?その「レベル」ってのは。

梵天勧奨を信じられなければ仏教とは言えない。というか、上で引用した釈尊の言葉も理解できたことにはならない。単に仏説の一部に賛成しただけ。で、あなたにとっての「よりよく知っている」の意味はわかった。あぁ、やっぱりそういう種類の人か、と思った。「知っている」のは「わかっている」ことを意味しはしないんだがね。

>芥屋さんが以前「政治的な効果や影響とは無関係に進化論や科学理論そのものに興味がある、進化論についての発言は政治的立場抜きにやっている」みたいにいうのを聞いて、

そうだよ。だからジェンフリに代表される進歩派の反科学も、一部の保守派の似非科学も、ぶっ叩く。

>芥屋さんの側には「macskaは進化生物学を反フェミのプロパガンダ程度にしか思っていない」と決めつけられたことに、こっちはショック受けてるんだからね。

そうですか。でもあなたが自分で言ったことなので、仕方ないと思います。たとえば、

>>だからって「チベット仏教は本来の仏教ではありません」とか
>不当な引用で中傷するのはやめてください。
ttp://principle.jp/bbs5/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=1082;id=keya1984

359いど:2007/01/20(土) 22:51:45 ID:NdEDLjDw
訂正
>>357
誤)Aという奇跡は神の御業であり、その奇跡は現実世界に影響を与えます。
正)Aという奇跡は神の御業であると宗教では言っており、その奇跡の内容は現実世界に影響を与えるものです。

瑣末なことかもしれませんが一応…

360カモオオハシ:2007/01/20(土) 22:55:01 ID:C0VsT.3A
>>325
>しかし、その場合それが単なる思いつきでなくて「そこそこ確からしい」ということはどうやって分かるのか。それはどうしても、クレーン式ではなくフック式にならざるを得ないんじゃないかと思うんですよね。要するに、超自然的な存在への信仰が先にあって、それが前提となって個々のパーツの「確からしさ」が担保されると。そうやって得られるものを、わたしは「知」とは認めない立場なのです(それを認める、という人がいることも承知していますが)。

どうもお返事ありがとうございました。そこで>>312の書き込みに戻るのですが、ここでの用語法に即して言い換えるなら、五感による知識もまた哲学的懐疑主義者の目からみればフック式なわけです(そうなる理由は>>312で書いたことで理解いただけるかと思いますが)。要するに、五感への信仰が先にあって、それが前提となって個々の知覚の確からしさが担保される、と。こういう原理的に論駁不能な批判がありうることを思えば、経験による知のありかたを特権化する議論はもっと慎重であるべきだと思います。

>「科学がわからないことについて、宗教ならば知っているという証拠はない」

これも、そういう場面で唯一証拠になりうるもの(啓示やらさとりやら)の証拠能力を否定すればもちろん証拠はないにきまっていますが、そこが争点なわけですよね。


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