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神の存在/不在と科学の範囲
20
:
NAN
:2006/12/26(火) 23:52:23 ID:Zs9mFctg
むぐぅ…>19は私です。
21
:
えめ
:2006/12/27(水) 00:12:14 ID:iiQXStbI
検証って
検証のルール(公正性)の基準に至る同意はどうするのよ
って問題が生じませんか?
科学は確かに公正性を纏っていますけど、相手のルールとして同意されなければ
淡雪のように儚い代物ですよ。
「確かに科学としてはそうでしょう。それがなにか」見たいな
科学以上にリアリティを持った思考体系は山ほど存在します。
22
:
えめ
:2006/12/27(水) 00:21:59 ID:iiQXStbI
>それは「地上のことを云うとき、そのことばは検証にさらされる」という意味の説明です。
スンマセン
上記の言葉に反応して書いている間に押してしまって… 飲んでいるいいちこ(焼酎)が悪いのよとは言いません。
占いや様々なジンクス、迷信が後を絶たないのは科学による認識も結局は並列として世界を認識する方法の一つに過ぎないんじゃなくて?
と言う無力感に苛まれての開き直りです。
23
:
ミケ
:2006/12/27(水) 00:43:20 ID:???
神っつっても色んなタイプがいるよね?
全能の神(検証不能)、運命の神(検証不能)、勝利の女神(検証不能)、
ほかにも人間みたいに幼稚な神や、モノに宿る神、
エロジジイもいれば、何かの物質や現象の化身みたいなのも。
Q&Aのような文脈で「神はいるかいないか」って訊かれたとき、
1.「この中のある特定のタイプの神はいるかいないか」
2.「この中のどれでもいいから何らかのタイプの神がいるかいないか」
どっちで受け取る?
24
:
えめ
:2006/12/27(水) 00:46:34 ID:iiQXStbI
>わたしは、奇跡というものを(1)何者かの意志によって引き起こされた、
(2)現実世界における、(3)自然法則に反する現象、と定義しています。
例えば大理石のマリア像が手を振ってみせる現象が(大理石を構成している分子が一斉に同方向へ動く)偶然に起こる確率を知り合いの物理学者に計算させた愚か者がいるんだけれど
答えは「凄まじく少ない確率だが0ではない」でした。
同様に彼は牛が月を飛び越える確率も計算させましたがそれは同じ結果になりました。
「凄まじく低い確率だが0ではない」
つまり科学と言う思考の根本はあらゆる可能性を否定していないと言えます。
買いもしない宝くじが目の前に出現して、しかもそれが一等に当たっている可能性も(上記二つに比べてさえ尚天文学的に低い確率では有ろうとも)0では有りません。
目の前でこのような現象が起こった場合、貴方はそれを奇跡と判断しますか?
それとも単に殆ど有り得ないかもしれないが結局は確率上の出来事に過ぎないと判断しますか?
25
:
tema
:2006/12/27(水) 00:47:47 ID:???
macskaさん、はじめまして。temaと申します。
本件に関して、temaの意見は以下の通りです。
神の存在あるいは不在について科学は一切何の見解も「持ってはならない」
科学は、心の外側の世界でのみ有効な方法論です。そのため、心を救う役には立ちません。
一方、神様は心の内側の世界で有効な存在です。有効であるだけでなく、場合によっては必要な存在なのです。多分。
科学は強力な方法論ですから、神を扱うこともできるでしょう。ただ、科学の方法論で神さまを扱うことは、意味が無いことだと思います。
例えるなら、虚数単位「i」を実数で扱うようなものです。
iを無理に実数で扱えば0となります。しかしi≠0なのです。
神様を科学で扱っても理解することはできない、と考えます。
26
:
ミケ
:2006/12/27(水) 01:43:10 ID:???
ヒマだし眠れないのでちょっと頭の体操をしてみた。
「神がいるかどうかという問題は科学の範囲外」
というのは神の種類によっては成り立たない。
なるほど確かに、『神』を厳密に定義してやれば、
その定義によっては『それ』は科学の検証にのる。
しかし、そうして検証にのった『神』が、
本物のカミサマであるかどうかは誰にも分からない。
う〜む、、、
特に断り無く「神がいるかいないか」って言う場合には、
(少なくとも日本においては)特定の宗教の神ってわけじゃなく
「本物のカミサマ(達?)」ってことだよね?
少なくとも宗教的背景の薄いミケはそう受け取る。
やっぱり
『「神がいるかいないか」科学の範囲外』
でいいと思うなぁ。
27
:
macska
:2006/12/27(水) 09:23:07 ID:VdHL1C4M
>>21
「確かに科学としてはそうでしょう。それがなにか」で十分です。
例えば創造論を「科学」として主張されるのは困りますが、
科学的には無根拠であることを承知のうえで創造論を信仰するのは構わないように。
>>24
自分の目の前でマリア像が手を振ったり牛が月を飛び越えたりしたら、
わたしはまず自分の視覚や知覚を疑います。
実際にそういうことが起きた可能性よりも、自分がまぼろしを見た可能性のほうが、
よほどありそうだからです。
が、買いもしない宝くじが目の前に出現して、一等に当たっていたら、
それは多分誰か他の人が宝くじを落としたのか、自分が買ったのを忘れたのか、
いずれにせよ偶然が重なったのであろうと考えます。
あるいは、宝くじは偽物で、誰かがいたずらをしたのか。
つまり、マリア像の例と牛の例に比べれば、宝くじの例のほうがありそうだと思います。
どうして、宝くじの例の方が「ありえない」と思うのか、不思議ですね。
>>26
「本物のカミサマ」なんて言い出したら、どの宗教が正しいのかなんて誰にも分かりません。
「神がいるかいないか」という問いは、「神として信仰される対象は実在するか」
という意味に解釈すべきだと思います。
28
:
ミケ
:2006/12/27(水) 10:19:09 ID:???
>>27
>「本物のカミサマ」なんて言い出したら、どの宗教が正しいのかなんて誰にも分かりません。
ええ、なので「科学では回答できない」と言うだけで十分だと思います。
もちろん回答可能なように質問を変換することも重要ですが、
相手が訊きたいのはそういうことなんだろうか、と。
「ねぇ、カミサマっているの?」と訊かれたとき、
「〜〜という神なら科学的に否定できるね」と答えたところで、
「じゃあカミサマはいないんだ?」
「それは分からないなぁ。なぜなら。。。」となるのがオチかと。
29
:
えめ
:2006/12/27(水) 10:23:31 ID:QJ1tMuDE
>自分の目の前でマリア像が手を振ったり牛が月を飛び越えたりしたら、
>わたしはまず自分の視覚や知覚を疑います。
あー。所謂幽霊を見た、と言う類の話ではなくて
事実として観測されたら、と言う意味ですよ。この場合。
自分の視覚や知覚は疑わなくても大丈夫です。
宝くじの話については言葉足らずの面があったので補足しましょう
1.ありえない程の偶然で分子が結合して空中、(水中でも、まあ何処でも)から不意に紙が”出現”する。
しかも
2.その紙のサイズや組成は在り得ないほどの偶然で発売されている宝くじと同じ(なんと模様まで)だ。
さらに♪
3.そこにある模様の一部、№が当たりくじと同じだ。
勿論上記1.2.3は気のせいや思い違いではなく、事実として観測されたハナシとしての事。
1.や2.に比べたら、特に2に比べたら3なんぞは必然といってもいい確率でしょうね。
だから大理石のマリア像が腕を振る確率の方がまだ遥に高いでしょ?
30
:
地下に眠るM
:2006/12/27(水) 11:01:23 ID:cizMQ0FI
>現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうかは、
>その現実における介入を調査できればで科学的に検証できる。
>現実に介入しないタイプの『神』であれば、それは科学が対象とする問いではない。」
カガクには手も足もでにゃーような介入の方法はあるにゃ。
例えば、「確率的事象に介入する神」なんてのはどうよ?
>わたしは、奇跡というものを(1)何者かの意志によって引き起こされた、
>(2)現実世界における、(3)自然法則に反する現象、と定義しています。
おみゃーさんの言い様は、実は定義の遊びだにゃ。
(2)現実世界における、(3)自然法則に反する現象、
ってのは、要するに
(2)現実世界における、(3)’自然科学の方法論によって検知できる現象
ということだろにゃ?
なら、確かに自然科学の検証対象だよにゃ。
しかし、神の介入とは自然科学によって検知できない種類のそれである(例えば確率に介入する)、と定義してしまったらどうなるかにゃ?
また、カガクが「完成」することは原理的にありえにゃーので、未知の知識領域に住まう何かを神(の介入)と見做すことは永遠に可能だにゃ。
31
:
macska
:2006/12/27(水) 13:23:04 ID:VdHL1C4M
>>28
> ええ、なので「科学では回答できない」と言うだけで十分だと思います。
正確には、「カミサマというのが何だかしっかり定義してくれないと、
回答のしようがない」ということではないですか?
だって、しっかり定義された「カミサマ」についてであれば、
その種類によっては科学にきちんと回答できる可能性があるわけですから。
>>29
うーん、言わんとしていることは分かりますよ。
つまり、未知の自然法則による現象と、奇跡をどう区別するのかと。
それは、確かに区別できません。
でも、だからどうだというのでしょうか。
ある現象が起きたとして、それが未知の自然法則によるものか奇跡か区別できなくとも、
そういう現象が起きたかどうかは、科学的に「観測」できるはずです。
水がワインに変わったのなら、それはその液体を調べることで確認できるはず。
これは、進化の背景に何らかの意志が働いていたかどうかは分からなくても、
進化のメカニズム自体は科学的に究明できるのと同じです。
>>30
「自然科学の方法論」には、統計学は入りませんか?
もし神が存在して、「確率的事象に介入」しているならば、
そのことは統計学の方法によって、
「理由はよく分からないけれど、おかしな現象」として検知可能では。
もちろん、もしカミサマが一度だけしか介入しないのであれば、
たしかにそれは検知不可能です。
しかし、それは証拠不十分によって検知できないだけであって、
原理的に検知不可能な事象(例えば、死後の世界)とは区別されるべきです。
32
:
地下に眠るM
:2006/12/27(水) 18:15:10 ID:cizMQ0FI
>もし神が存在して、「確率的事象に介入」しているならば、
>そのことは統計学の方法によって、
>「理由はよく分からないけれど、おかしな現象」として検知可能では。
統計的におかしな点がいっさいないかたちで介入するなんていくらでもできるにゃんが。
例えば、一定の確率でダウン症児は生まれるよね。
「どの家に、どの子がダウン症児として生まれるかは、神のご意志によるものだ」という言明にチミはどう反論するのかにゃ?
たまたま頭が悪く生まれてしまった、とか、顔が悪く生まれてしまった、とか、性格が悪く生まれてしまった、とか、チンコが小さいとか胸がないとか、生まれつき手が無かったとか足がなかったとか、そういう「実存にかかわる偶然」に神が介入していると考えてみたらどうでしょうかにゃ?
奇跡ってのは、カガクの問題ではにゃーと思う。
ニンゲンの側の意味付けの問題なんだにゃ。
33
:
macska
:2006/12/27(水) 19:16:35 ID:UfRlMoOA
>>32
それは、ダウン症が発生するメカニズムが完全には解明されていないからでしょ。現時点の科学もしくは人類の検知能力で検知不可能なことと、科学的アプローチによって原理的に検知不可能なことは区別すべきだと何度も言っているのですが。
偶然というのは、われわれが完全な情報やメカニズムを知覚できないから偶然として立ち現れるのであって、いくらバラバラで予測不可能に見えても自然法則に従っていないはずがありません。例えば、サイコロを転がしてどの数字が出るかは偶然によって支配されているとわれわれは考えていますが、ちゃんと考えればサイコロの動きが物理法則に従っているのは明らかです。
34
:
カクレクマノミ
:2006/12/27(水) 19:27:54 ID:JI1p82R.
>この場合、わたしの薬は宗教でしょうか、それとも疑似科学でしょうか。
宗教を名乗れば宗教、科学を名乗れば疑似科学です。
>しかしそれが「雨乞い」とか「祈り」だったら、科学者は「自分には何も言えない」と言うわけですか?
雨乞いや祈りが裁判沙汰になれば、科学者は万能薬の場合と同じように証言すべきです。
しかし、万能薬の場合にどう証言したらよいのかは、それほど簡単な問題ではありません。普通の裁判のような文脈では、「科学的には効き目はない」と答えてしまってかまわないでしょう。
しかし、哲学的な文脈になると話は別です。厳密には、「あるかもしれないし、ないかもしれないが、科学ではその効果を確認できない」と言うべきです。
本当に神の怒りが雨乞いの効果を妨げている可能性だって、否定できる根拠はないのですから。
35
:
NATROM
:2006/12/27(水) 21:31:10 ID:Z2veARY2
議論は続いていますが、それはそれとして、macskaさんの指摘を考慮してQandAを書き直しました。
36
:
RYU_TI_SYU
◆R9HFpK4NlY
:2006/12/27(水) 21:41:40 ID:???
>>31
>ある現象が起きたとして、それが未知の自然法則によるものか奇跡か区別できなくとも、
そういう現象が起きたかどうかは、科学的に「観測」できるはずです。
つまり、「観測」できた時点で「奇跡」ではなくなっているということか?
だとしたら我々は「奇跡」なんか観測できるわけはないのではないか?
ていうか、macska殿は「奇跡」にこだわりすぎではないのか?
最低でも地下猫殿の言われるとおり、「確率的事象に介入する神」はいてもおかしくはないじゃろうな。
サイコロやダウン症がお気に召さないのであれば
「ある電子AがX地点の蛍光剤を発光させたのは神の思し召し」
というのはどうじゃろうか?
こればっかりは
>メカニズムが完全には解明されていないからでしょ。
とは言えんぞ。
『将来的には解明できるかもしれません』
とは、いえるかもしれんがそれは
『将来的に創造論が正しくなるでしょう』
といってるのとあまり変わらんようなきがするな。
37
:
名無しさん
:2006/12/27(水) 22:49:19 ID:FvuUtEK.
>水がワインに変わったのなら、それはその液体を調べることで確認できるはず。
>これは、進化の背景に何らかの意志が働いていたかどうかは分からなくても、
>進化のメカニズム自体は科学的に究明できるのと同じです。
これはそのまま貴方の問いに対する答えだと思いますが。
現象を調べることは出来る、でもそれは宗教的な意味とはまるで関係ない。
仮に現在イエスが存在したとして、水をぶどう酒に変えて見せたとして
まぁ、おそらくマジシャンも参加した実験を繰り返しますわな。
で、結果
1.科学者が調べたが確かに水の組成はぶどう酒へと変化していた。
2.実験は厳密に行われ、トリックの介在できる余地は一切なかった。
3.念じただけで水がぶどう酒に変わる原理など皆目見当もつかなかった。
4.当の男はこの現象は神への信仰によって齎される(奇跡)と主張していた。
さて科学者はこの場合、自然法則を超越している「奇跡」だから神の存在(意思)が証明されていると主張すべきですか?
自分は科学として主張できるのは1.2.3だけだと思うんですが。
>偶然というのは、われわれが完全な情報やメカニズムを知覚できないから偶然として立ち現れるのであって、いくらバラバラで予測不可能に見えても自然法則に従っていないはずがありません。
知覚できる自然の振る舞いを観測していたら規則性が見えてきた、てのが法則の成り立ちだから、上記のような書き方は何か本末転倒の印象を受けますね。
量子力学では人間の知覚では世界は詰まる所確率(偶然)に支配されているとしか言えないと手を上げちゃっていますから。
で、世界は自然法則に従っているとしてじゃあそれを齎したのは神だよ見つけた法則こそがその意思の顕れだよ、との意見が科学として認められるなら貴方の主張
>「神がいるかどうかは科学の範囲外」という言明は、少なくともわたしたちが生きる今の現実社会にいかなる形でも関与しないタイプの神か、あるいは「自然法則」や「全宇宙」をただ「神」と呼び変えている場合に限ってのみ言えるはずだと思います。
は否定されちゃうよね。なんたってバリバリ関与しちゃってるんだから。いやいや関与しているからこそ世界は今の形で存在しているんだから。
ではどうして
じゃあそれを齎したのは神だよ見つけた法則こそがその意思の顕れだよ、との意見が科学として認められ、ないのか。
1つは否定を証明する方法がないから、もう一つとして、この場合の意思という言葉や意味は、科学としてのルールに則る必要がない思考方法で導き出されたからでしょう?
さて、奇跡と言う現象の解釈は科学としてのルールに則っているのでしょうか。
自分が問題にしているのは正にこの一点なのですよ。
凄まじく低い確率の出来事も、逆に必然とも言える出来事も共に解釈では奇跡であり、あるいは確立でもありうる。
奇跡と確立。
まったく同じ現象を扱っていながら二つの概念は殆ど相容れません。どころか正反対にも思えます。
では何故ここまで意味が違ってしまうのか。それは思考のルールが違うからでしょう。
奇跡とは宗教としてのルールに則った解釈です。ですから科学のルールで宗教は否定できません。
同様に宗教のルールで科学を否定できません。
便所掃除をしないと便所の神様が怒って下の病気に掛かりやすくなるという信仰だって、たとえ統計を用いて便所掃除の回数と膀胱炎の相関が薄いことは証明出来たとしてもそんな証明、膀胱炎の患者の中に便所の神様を信じ、便所掃除を疎かにした自覚を持つ人には無意味だと思いますよ。
膀胱炎になった原因は他にあると言ったところで「それはそれ」です。回数じゃないの心がけなのよ。感謝の念を込めてお掃除をするのが大事なの。○○さんも××さんも膀胱炎になりましたよ、ええええ、伺ってみたらやっぱり以前お便所の掃除をサボったり気を抜いたりした覚えがあるんですってよ、神様はちゃーんと見てるのねえ。
便所の神様教が便所掃除をすると膀胱炎にならないと言う教えは科学的な事実として認められるべきだと言うなら反論として前記の統計は大いに説得力を持つでしょうが
38
:
地下に眠るM
:2006/12/27(水) 23:15:04 ID:EpkA97A.
>それは、ダウン症が発生するメカニズムが完全には解明されていないからでしょ。
まず、ダウン症発生の機構が「完全に」解明されることがありえたとして、その機構についての知見が「偶然性」を否定すると決まっているものなのかにゃ?
そもそも、ダウン症発生の機構は「ある程度」わかっているにゃ。ウィキによると「標準型は精子・卵子形成時における染色体不分離が原因」ちゅうこと。有り体にいえば、減数分裂時の「事故」。
まあ、こんなこと書いても「だってまだ完全に解明されていない」とはいえるにゃんね。
もしかして、チミ、カガクが発達していけば、原理的に「偶然」の事象がなくなるなんてことを漠然とでも思ってにゃーかね? ラプラスの悪魔って知ってる?
>サイコロを転がしてどの数字が出るかは偶然によって支配されているとわれわれは考えていますが、ちゃんと考えればサイコロの動きが物理法則に従っているのは明らかです。
うん、ぜんぜんわかってにゃーね。
確率が物理法則に従うわけではにゃーんだ。
むしろ、物理法則が確率に従うのではにゃーかな(よくわかんにゃーので、詳しい人のツッコミ待ち)
少なくともサイコロは物理法則に従った結果、十分な試行回数の後には各々の出目が六分の一に収斂していくんだにゃ。
たった今ふったサイコロの出目が1だとしよう。なぜそのサイコロの出目が1だったのか、力学的に解析することは確かに原理的には可能だにゃ。しかし、サイコロを振るという単純な行為においてすら、そこにかかわる「全て」の要素を完全に解析しつくすのは不可能だということも間違いにゃーけどね。つまり、「完全な知見」を得ることは原理的に不可能であるというところに、カミサマの介入の余地が「必ず」存在する。
ダウン症にしてもそうだにゃ。
減数分裂時の事故発生機構から「偶然」あるいは「未知」の要素を完全に排除した説明というのはありえにゃーだろうね。
そもそもね、カガクってのは原理的に不完全なんだにゃ。
今のカガクは完全じゃないから、っていう言い訳は全然ダメなのよ。
39
:
地下に眠るM
:2006/12/27(水) 23:16:25 ID:EpkA97A.
>わたしは、奇跡というものを(1)何者かの意志によって引き起こされた、
>(2)現実世界における、(3)自然法則に反する現象、と定義しています。
(30)でこの部分にもレスしたのに、シカトされたのでもうちょっと書いてみるにゃ。
さて、今、僕の隣の部屋で、僕の娘の熊のぬいぐるみ(無論、動力ナシ)が涙を流すしぐさをしているとするにゃ。これは奇跡といえるのか?
こんなものは奇跡ではにゃーだろう。
にゃんとなれば、観測者がいにゃー。
観客がいにゃーところに、奇跡は存在しにゃーのだ。
では、僕がたまたま熊のぬいぐるみが泣くところを目撃したとしますにゃ。
これだけではまだ奇跡ではにゃーね。僕は幻覚を見たと思うだろうにゃ。
では、僕の娘に万が一の不幸が起こったことを知ったときに、娘が好きなこのぬいぐるみが泣くのを見たらどうか?
冷静に考えれば幻覚の可能性はさらに高まるけど、もう幻覚かどうかなんてどうでもいいことになるにゃ。その熊のぬいぐるみは僕にとって聖遺物となるでしょうにゃ。
ま、もちろん、熊のぬいぐるみが泣くなんてことはこれまでも起きたことはにゃーし、これからも多分起きることはにゃーだろう。
では、原理的に起こりえることはどうか?
いったん死んだと思われた者が息を吹き返すのは、ときどき見られることであり、医学的にも十分に説明が可能でしょうにゃ。
しかし、死亡と判断された者の蘇生なんて、それ自体は奇跡でも何でもにゃーよな。「あら珍しい」とか「運が良かったね」とかいわれるくらいでにゃーの?
しかし、ゴルゴダの丘で処刑された、ナザレのイエスとかいう男が、預言通りに「蘇生」したとしたら、医学的な説明が可能であったとしても、それは紛れもにゃー奇跡=復活なのではにゃーかね?
うっかりと足を滑らせて急な崖から落ちてしまったが、突風がふいてきて木がしなり偶然にもかすり傷で助かったとするにゃ。突風が吹くことは、別に奇跡でもなんでもにゃーし、もちろん物理法則に反するはずもにゃー。しかし、助かった本人にとってはどうかにゃ? もし、その本人がある宗教の教祖だとしたら、信者は(もちろん教祖本人も)それが偶然だと思うはずがにゃーだろうね。
つまりね、自然法則に反しているかどうかなんて、それが奇跡であるかどうかには関係にゃーのさ。
もっといえば、自然法則に反する事象は自然界にはおこらにゃー。いままでおこった全ての事象は自然法則にのっとったものであり、これから起こる全ての事象も自然法則にのっとったものだにゃ。それに反することができにゃーからこそ「自然法則」なんだにゃ。
自然界で起こった事象の全ては、当然ながら自然科学の検証の対象だにゃ。
しかし、奇跡が起こるのは自然界ではにゃーのだ。
たまたま預言通りにイエスが復活した、たまたま突風がふいて助かった・・・
奇跡ってのは、この「たまたま」なんだにゃ。
(こういう「たまたま」に何らかの方法で神が介入しているという理屈を、カガクの論証法で論駁するのは原理的に不可能なんでにゃーの?)
奇跡とは、ニンゲンの側の認識なんだよ。この「たまたま」を必然と結びつけてしまうところに宗教の(あるいはニンゲンの意識の)真骨頂があるんだにゃ。「全てはアッラーのおぼしめし」というやつだにゃ。
40
:
地下に眠るM
:2006/12/27(水) 23:36:21 ID:EpkA97A.
おお、そうか!
カミサマがときどき介入するとしたら、カガクで検証とか言うことにもなるけど
「全てがアッラーのおぼしめし」
つまり、全ての事象がカミサマの全面的介入のもとに起こっていると考えるとすると、これはこれで無敵論法にゃんな。
ま、この場合は現実に行われている「悪」も全てカミサマがおこしていることにもなるにゃんが。
にゃるほど、こうなるとグノーシス派の「神は悪、世界は悪」という見解が論理的帰結となるにゃんな。
さすがに矛盾がにゃーぞ>グノーシス
(独りでナットク)
41
:
macska
:2006/12/28(木) 11:46:20 ID:UfRlMoOA
>>37
ええと、あのですね、だから、水がワインに変わるわけがないんですよ。
なんだか話が逆に進んでいるような。
「水をワインに変えた、奇跡を起こしたのだから、イエスは神の子だ」という主張があったとき、「それは奇跡なのだから科学には手も足も出せないし事実とも事実でないとも言えない」というのはおかしいとわたしは言っているのです。なぜなら、本当に水をワインにする能力があるのかどうか(あるいは、本当に水がワインに変わったかどうか)は、理由はともかく事実の問題として科学的に検証できるからです。
量子力学については、わたし自身が理解していないので勘弁してください。わたしの不十分な理解の範囲で言うならば、それをわたしがより良く理解したとき、わたしの科学観が変わる可能性があることは認めます。
自然法則そのものが「神の意志」であるという解釈は、わたしが挙げた例外(全宇宙や自然法則そのものを神に見立てる解釈)の変形であり、そのような「神」については原理的に科学には手も足も出せないとわたしははじめから言っています。わたしが「現実世界に介入する神」というとき、一度限りの自然法則の設定はそれに含まれていません。
> ですから科学のルールで宗教は否定できません。
> 同様に宗教のルールで科学を否定できません。
その通り。しかし多くの宗教は、現実世界のものごとに超自然的な影響があると主張することによって、その枠組みを既に踏み越えているのです。
死後の世界とか、人生の意味とか、科学にはまったく手が届かないために宗教が担当している領域というのはあります。それらについて何かを主張する限りにおいて、どんなに無根拠でも科学によって否定されることはありません。しかし、宗教が現実世界について何かを主張するとき、その主張は科学的手法による検証に原理的に開かれるはずです。
仮に、紅海の海底を科学的に調査したところ、モーセの頃と思われる時代に海がまっぷたつに割れた証拠が発見されたとしましょう。もしそうなった場合、それを知ったキリスト教やユダヤ教やイスラム教の宗教家が、「科学には宗教は否定も肯定もできないのだから、そんな調査には何の興味もありません」と言うと思いますか? そうとは到底思えません。きっと「聖書の記述が正しいと証明された」と宣伝するでしょう。
つまり、宗教による現実世界についての言及が科学によって検証可能であることは、宗教者だって認めているのです。科学によって宗教に都合が良い情報が得られた時は思う存分利用するのに、科学が宗教にとって都合の悪い情報を明らかにしたときは「科学と宗教ではルールが違うので科学によって宗教は否定できない」という詭弁を許すべきではありません。宗教にも科学によって検証可能な部分とそうでない部分があり、現実社会についての主張であれば少なくとも原理的には検証可能なのです。
>>38
ダウン症の機構が21トリソミーであることくらい分かってますって。しかしどうしてある例において21トリソミーが発生したか(減数分裂で自己が起きたか)は解明されていないし、その原因にだって他にそれを引き起こした原因があるはず。いずれにせよ、それが自然法則に従っていることは疑いを持ちようがありません。
「今の時点で分かっていない」からといって宗教が好き勝手なことを言っていたら、将来痛い目に合う可能性が高いでしょうね。(完全に解明されなくても、ある宗教的主張を否定する程度に解明されることはあるでしょう。)
> そもそもね、カガクってのは原理的に不完全なんだにゃ。
それは「原理的」という言葉をわたしの言う意味とは違った意味で使っていますね。そして、その意図された意味において、同意します。
>>39
> つまりね、自然法則に反しているかどうかなんて、それが奇跡であるか
> どうかには関係にゃーのさ。
あのー、だからさ、信者の人たちは、それを自然法則による偶然じゃなくて、超自然的な理由によって起きたと思っているからこそ、奇跡と呼んでいるんでしょ。つまり、「奇跡」とは自然法則に反するものである、という定義は共有されている。
ちなみに、一端「死んだ」とされた人が蘇生したということはたまにありますが、イエスのように十字架で処刑された人が蘇生するというのはかなり考えにくいように思います。イエスが声をかけただけで生き返ったというラザロの場合はもっと怪しくて、埋葬されて既に4日たって腐りかけていた遺体を蘇らせたということになっています。
42
:
AH1
:2006/12/28(木) 16:43:03 ID:b4lKR3h.
横レス失礼します
「神」と言った場合、その能力が普通は無制限と解釈されている気がするのですが、
macskaさんは如何お考えになりますか?
能力が無制限ということは、
「いかなる方法も使い放題、いかなる証拠を残すことも消すことも自由、宇宙の法則も人間の記憶や記録も改変し放題」
な神になってしまいますよね。
すると、これを相手に検証したとしても、
・奇跡だけど奇跡に見えない
・奇跡に見えるけど奇跡じゃない
のどちらも可能になってしまい、かつその見分けがつかないとなれば、検証の実効性が非常に薄くなると思うのですが。
もちろん能力制限付きの神であれば検証できるのでしょうが、
普通は神のスペックは公開されてませんよね。
43
:
ミケ
:2006/12/28(木) 21:59:53 ID:???
>>31
>正確には、「カミサマというのが何だかしっかり定義してくれないと、
>回答のしようがない」ということではないですか?
>だって、しっかり定義された「カミサマ」についてであれば、
>その種類によっては科学にきちんと回答できる可能性があるわけですから。
「で、そのしっかり定義された『ある特定のタイプの神』はカミサマなんですか?」
と訊かれたらどうします?
アヤシゲなモノに「神」という名前を与えて、その存在を証明or否定する。
それは神の存在を検証したしたことになるのでしょうか。
Q & Aのような文脈での、「神がいないのでしょうか?」は結局のところ
>>28
での会話の例のように落ち着くのでは。
例1.
「〜〜のようなタイプの神は否定されるね」
「じゃあカミサマはいないんだ?」
例2.
「〜〜のようなタイプの神の存在は科学的に証明されてるよ」
「じゃあカミサマってホントにいるんだね。」
>>7
のNATROM さんの
>そんなことで否定できるしょぼいカミサマなんて神じゃないような気もしますが。
という一文がかなり端的にこの問題を表現している気がします。
「神はいないのでしょうか?」という質問をぶつけてくる人間に対し
「一部の『神と呼ばれる存在』については検証可能です。(たぶんいない、と)」
と答えるのが、適切な答え方なのか?ということです。
それは単に、カミサマ(いるかいないかも分からない)の形を絞っているだけでは?
ちなみに確率現象を介しての神の干渉については、統計学を以ってしても検証不可能です。
神がどの程度の頻度で、あるいはどのような条件で確率現象に干渉するかのデータが入手不能だからです。
まあ、宝くじ一等を同じ人に連続で当てさせるタイプの神はいないでしょうが、
それだって、いるとしたらそういうタイプではないよね、というだけに過ぎません。
たとえば、
那須与一が矢を射る際に風が止んだこと、あるいは元寇の際に神風が吹いたこと、
誰かさんが落雷の直撃を受けても死ななかったこと、どっかのおばあさんが11階から落下して生還したこと、
これらは確率的に低い事象ですが、もし事実だったとして、
どれが神による介入で、どれがホンモノの偶然かは判別不能です。
44
:
ミケ
:2006/12/28(木) 22:08:56 ID:???
>>43
が拡散してしまったので主旨のみ端的に。
>>43
の会話、例1.、例2.のような流れになったとき、
普通は、「それは分からない」に落ち着くのではなかろうか、
「『特定のタイプの神』についての検証」とは
結局はカミサマ(いるかどうかも分からない)の姿を限定してるにすぎないので、
「神はいるのか、いないのか」という質問に対して答える際に、
「『特定のタイプの神』が科学で扱うことが可能である」と
わざわざ注釈を入れるほど重要ではない。
45
:
地下に眠るM
:2006/12/29(金) 00:18:07 ID:EpkA97A.
すげー下痢。こりゃノロかにゃ・・・・・
ものすごく乱暴なスケッチを
・macskaは「生活世界」から宗教を排除したいのではにゃーかとも見える。
・現世利益の約束は、ある意味宗教の本来的な一面である。
・現世利益を謳いつつ、カガクにひっかからにゃー教義はいろいろと考えつく
・ナトロムのいう「しょぼい神」とは、つまりは「カガク的知見に依存する神」のこと。このタイプの神は確かにカガクで否定できる。
・・・・明日、仕事いけるかにゃ・・・・
ちゅうか、ノロだとしたら仕事しちゃまずいだろか・・・・
46
:
NATROM
:2006/12/29(金) 00:29:14 ID:Z2veARY2
>macskaは「生活世界」から宗教を排除したいのではにゃーかとも見える
そりゃないっしょ。私のサイトの不正確な部分について指摘してくれて、そのついでに議論しているだけなのではなかろうかと。
47
:
ミケ
:2006/12/29(金) 03:02:17 ID:???
まあ既に指摘箇所はNATROM さんによって修正されてるんで、
お互いに自分の考えを整理するための議論って感じですかね。
みんなの見解が微妙に少しずつ違ってて面白い。
48
:
macska
:2006/12/29(金) 05:20:01 ID:VdHL1C4M
>>42
> 「神」と言った場合、その能力が普通は無制限と解釈されている気がするのですが、
> macskaさんは如何お考えになりますか?
それを「普通」と言ってしまうことは、ユダヤ教/キリスト教/イスラム教的な宗教を過剰に一般化あるいは標準化することになって良くないと思うのですが、神様は万能であると信じている人は世界にたくさんいますね。
> 能力が無制限ということは、
> 「いかなる方法も使い放題、いかなる証拠を残すことも消すことも自由、宇宙の法則
> も人間の記憶や記録も改変し放題」
> な神になってしまいますよね。
つまり、神は水をワインに変えることができるけれど、その液体が本当にワインであるかどうか調べようと科学者が近寄ると、その瞬間だけ水になるんですか? 埋葬されて4日たって腐りかけた死体だったはずのラザロを蘇らせたうえで、科学者がそのことを確認しようとしたらその瞬間だけまた死んで、科学者が向こうに行ったらまた生き返ったうえに、一度死んだことまで無かったことにされると? どういう状況になるのか、説明できますか?
能力が無制限で万能な神でも、できないことはあります。古典的な例ですが、例えば神は自分が持ち上げられないほど重い岩を作り出すことができません。なぜできないかと言えば、それが論理に反するからです。つまり、万能というのは「論理的に矛盾しない範囲で」という制限がつくので、その辺りから検証可能なとっかかりはつかめると思います。
>>43
> 「で、そのしっかり定義された『ある特定のタイプの神』はカミサマなんですか?」
> と訊かれたらどうします?
「あなたがどのようなものを神と呼び信仰するか、あるいはしないかは、あなた自身が決めることです。科学者に応えられるようなことではありません。科学にできることは、一部の人々が『神』が起こしたと主張する事象を検証し、そうした事象が本当に起きたのかどうか、もし起きたのであればそれが自然現象として説明が付くものかどうかを判断することだけです。」
>>44
> 「神はいるのか、いないのか」という質問に対して答える際に、
> 「『特定のタイプの神』が科学で扱うことが可能である」と
> わざわざ注釈を入れるほど重要ではない。
はい、「わかりません」でいいと思います。しかし、もとの Q&A には、科学は神について何も言えない、と書かれていたんです。それは間違いですから、訂正した方が良いのではないかと思ったわけ。「『特定のタイプの神』が科学で扱うことが可能である」というのは、どこが間違いかを指摘するために言った言葉であって、そういう注釈を入れるべきだと主張したことはありません。というか、あの Q&A でそこまで書くのは明らかに場違いです。
>>45
> ・macskaは「生活世界」から宗教を排除したいのではにゃーかとも見える。
「神」というラベルを貼りさえすれば、現実社会についてどんな主張をしても科学的な検証を受けないだろうという宗教の傲慢に、科学はきちんと対抗すべきだと考えているだけです。
てゆーか、科学と宗教は対等じゃねーんだよ!(暴言)
> ・現世利益を謳いつつ、カガクにひっかからにゃー教義はいろいろと考えつく
現在の科学によって反証されない教義なら、いろいろあるでしょうね。でも、今後の科学の発展で教義を覆される可能性はあるので、できるだけそうならないためにはかなりよく考える必要があると思いますよ。
# 科学が完全に全てを解明するという話はしてませんのでその点誤解しないように。
# これまでの科学の進歩が宗教の教義の一部を反証したり、再解釈を必要とさせたように、
# 今後もそういうことが起きるだろうと言っているだけです。
# いまの時点安全な教義でも、何十年何百年と先に安全とは限りません。
…と言ってみたものの、実際よく考えてみたら「現世利益を謳いつつ、カガクにひっかからにゃー教義」というのがわたしには思いつきません。何らかの現世利益がその教団の信者だけに起き続けたら、やっぱり統計学の手法で検出されちゃうんじゃないかと思うんですが、いくつか「カガクにひっかからにゃー教義」の例を挙げてもらえますか?
49
:
tema@
:2006/12/29(金) 12:48:49 ID:???
>「現世利益を謳いつつ、カガクにひっかからにゃー教義」
もちろん、たまご(^-^)ノ教の教義です。
(ttp://members.jcom.home.ne.jp/natrom/board031206.htmlあたりを参照)
「卵は一日一個まで」という教義を守るだけで、「幸せ」になれるという教義です。
「幸せ」は現世利益ですが、自然科学では扱えません。
問題は「現世利益」を「自然科学で扱える利益」と定義した場合です。
この場合、本来の宗教の役割は心を救うことであり、現世利益を謳うことは、方法ではあっても目的では無い、と考えます。もし現世利益を謳う神が居たら…
その神については自然科学で扱ってよいのかも知れません。
50
:
tema@死語の世界
:2006/12/29(金) 12:52:30 ID:???
ああ、焦って書いたから文章とハンドルが失敗している…
51
:
えめ
:2006/12/29(金) 13:49:47 ID:eiXhG8Tk
>macskaさん
仮に現在イエスが存在したとして、水をぶどう酒に変えて見せたとして
まぁ、おそらくマジシャンも参加した実験を繰り返しますわな。
で、結果
1.科学者が調べたが確かに水の組成はぶどう酒へと変化していた。
2.実験は厳密に行われ、トリックの介在できる余地は一切なかった。
3.念じただけで水がぶどう酒に変わる原理など皆目見当もつかなかった。
質問でーす。
この場合「ええと、あのですね、だから、水がワインに変わるわけがないんですよ」との理由で現象そのものを否定する態度は科学的でしょうかそれとも宗教的でしょうか。
ヒント→「ええと、あのですね、だから、サルがヒトに変わるわけがないんですよ」
>能力が無制限で万能な神でも、できないことはあります。古典的な例ですが、例えば神は自分が持ち上げられないほど重い岩を作り出すことができません。<
能力が無制限で万能の存在と規定するなら可能でしょうねー。どうやってかは私は神でも一休さんでもありませんから解りませんけど。(実はちょっと考えた)
人間の理屈が通じないものを人間の理屈で説明するとこうなりますが。
>「現世利益を謳いつつ、カガクにひっかからにゃー教義」というのがわたしには思いつきません。
教義ってのは科学の手法など用いてませんから、どんな自然科学の学説も宗教の教義を用いていないのと同じですよ。
まあ具体的には酉の市で熊手を売ってるヒトにその理由を尋ねてみるって方法があります。
世界に山ほどある「現世利益を謳いつつ、カガクにひっかからにゃー教義」の一つが聞けますよ
でもその上で
「統計学上熊手の購入と倒産に相関があるとは言えない(相手が理解できなかったら『要するにいくら熊手買ったって潰れるモンは潰ますよ』)」と言ってはいけません。
んんんん〜 季節ネタですな
52
:
macska
:2006/12/29(金) 15:53:23 ID:VdHL1C4M
>>49
> 「卵は一日一個まで」という教義を守るだけで、「幸せ」になれるという教義です。
> 「幸せ」は現世利益ですが、自然科学では扱えません。
なるほど! 今日3個くらい食べてしまいました。反省。
しかし心理学では、「幸せ」というのをオペレーショナルに定義して「幸せ度スケール」みたいなので測ったりしますよね。そうした場合、「卵を一日一個以上食べないことは、幸せ度スコアの上昇と関連しているか」という形の普通の心理学というか栄養学の研究ができちゃいそうです。手法は観測でも実験でも。また、たまご教内部でも細かい解釈がいろいろ割れているようですが、「幸せ度スケール」を導入することによって神学的な問いに答えが見つかるかもしれません。
真面目に回答すると、要するにこの場合、約束されたご利益がちゃんと定義されていないだけで、定義した途端に検証可能になるという話。定義不能なご利益があるなんて言われても困ってしまうわけで(笑)
>>51
うーん、まだ分からないですか。
「科学者が調べたが確かに水の組成はぶどう酒へと変化していた」という仮定の話をされていますが、普通ならそうじゃなくて「科学者が調べたところ、それはやっぱり水のままだった」となるはずなんです。あるいは、何らかのトリックの余地があったとか。そういうことを示せば、奇跡は否定できるんですね。
さて、万が一本当に1〜3の条件が満たされたように見えたとしましょう。しかしそれでも、その3つの点それぞれについて1科学者やその計器が間違った可能性がある、2参加者の誰にも分からない新しいトリックが使われた可能性がある、3水がぶどう酒に変わる自然法則に矛盾しない理由がある可能性がある、という3つの留保は必ず残りますから、それが奇跡だという確証にはならない。
そうなったとき、はじめて「これは今の科学では説明できない、もしかしたら奇跡かもしれない」と言えばいいわけです。しかし大半の「奇跡」についてはそういう結果にはならず、十分な調査が可能であれば反証されるでしょう。
> まあ具体的には酉の市で熊手を売ってるヒトにその理由を尋ねてみるって方法があります。
ごめん、それがどういう市で何を売っているのか全然わかりません(笑)
…今調べて分かった。ありがとうWikipedia。
でも、これもご利益をきちんと定義してくれれば、検証可能ですね。
53
:
AH1
:2006/12/29(金) 17:24:51 ID:MM7DYpv2
>「科学者が調べたが確かに水の組成はぶどう酒へと変化していた」という仮定の話をされていますが、普通ならそうじゃなくて「科学者が調べたところ、それはやっぱり水のままだった」となるはずなんです。
いや、本当にワインになっていて、「水ーワイン転換」という現象が確認されてもいいと思いますよ。
1「ごく稀に偶然起こる」
2「ある方法で起こすことができる」
3「以後、観察されておらず、方法もメカニズムも謎」
等の可能性が考えられますが、さて、ある人が水に手を触れてワインにしたとします。
それは奇跡でしょうか?
1から考えれば、1度だけなら、そういう偶然があったかもしれません
2から考えれば、彼はその方法を知っていたのかもしれません。
3から考えれば、誰も知らない水ーワイン転換の方法を知っていたのかもしれません。
もちろん、いずれの場合も、彼は本当に神であり奇跡を行ったのかもしれません。
つまり、「何か凄い事」をした人が神なのか、マッドサイエンティストなのか、
未来人なのか、宇宙人なのか、ニュータイプなのか、バビル2世なのか、
あるいは宇宙人や未来人や超能力者が「神」と呼ばれても良いのか、
その辺は如何お考えになりますか。
私は神とは何ぞや?の定義が不明確な場合、どこまでいっても「神の御業は不可知」という領域に
逃げ込まれてしまうのではないかと思います。
また、macskaさんの仰った死体が復活する例であっても、
「さっきまで確かに死体であった、それが今は何故か生きている」
という例が「あってはならない」とは言えないと思うんですね。
もしあったら「極めて稀な、未知の現象」として扱うのが科学なんじゃないかと。
54
:
AH1
:2006/12/29(金) 17:32:21 ID:IOjgBizs
連投ですいません。
この話題を議論していて
「偉大なる存在」(小松左京)と「永久機関装置」(神林長平)を思い出しました。
前者は「こうあればいい」と思ったことが過去の辻褄まで合わせて現実となる男、
後者は自分の逃げ込む世界を自分で創造して逃げ回る永久逃亡犯の話です。
55
:
AH1
:2006/12/29(金) 17:33:23 ID:IOjgBizs
×「永久機関装置」
○「永久帰還装置」
失礼いたしました
56
:
macska
:2006/12/29(金) 17:52:48 ID:VdHL1C4M
>>53
話がこんがらがってしまって、何が論点だったのか分かりにくくなってしまいましたが、わたしは何も「科学的に検証すれば全てが解明できる」と言いたいわけではないのです。奇跡と呼ばれる現象が、現実社会において起きるなにかである限り、それは科学的手法による検証の対象となりうるというのがわたしの言わんとすることです。また、神というものが現実社会に介入する存在である限り、その存在については「科学の範囲外」ということはありえないとも言っています。そういうことで、よろしくお願いしますです。
> あるいは宇宙人や未来人や超能力者が「神」と呼ばれても良いのか、
> その辺は如何お考えになりますか。
わたしは、それを「神」とは呼びません。もちろん、麻原彰晃が「神」だという人もいるくらいだから、本当に座禅を組んだだけで空を飛べる超能力者とか宇宙人みたいなのがいれば、それを「神」と呼ぶ人はいるでしょうね。
どんなに優れた知識や能力を持っていても宇宙人や未来人や超能力者をわたしが「神」と呼ばないのは、それがいかに優れた存在であっても、それは自然選択による進化によって生まれたと思うからです。しかしもちろん、進化した存在であっても「神」と呼んでもいいじゃないか、という人はいるでしょうし、「わたしにとって『神』とはこういうモノなんだ」という個人的な定義以外に反論を思いつきません。
> もしあったら「極めて稀な、未知の現象」として扱うのが科学なんじゃないかと。
「もしあったら」その通りですが、大抵の場合は「やっぱりそんなことなかった、奇跡として宣伝された話はデマか勘違いか誇張だった」で終わると思います。
57
:
AH1
:2006/12/29(金) 19:04:55 ID:MM7DYpv2
失礼しました、話を拡散させましたね。
macskaさんの「たとえ奇跡と呼ばれる(或いは、呼ばれるであろう)現象も科学的に観測し検証することはできる」
という御意見には、もちろん同意します。
ただ、やっぱり『神の限界を示せ』という定義を相手に迫らない限り、
この検証は無理じゃないかなあ、という気がしたものですから。
(キリスト教では神はオールマイティになってますよね。
他の神話、たとえば古事記においては神といえどもできなかったことはあるけれど(黄泉から死人を連れ帰るとか)、
「神ができないことリスト」として列記してはいません。)
とりあえず「ワシが祈れば必ず風が吹くのじゃあ!」とか言い出す自爆似非教祖がいれば、
「科学的には有意に風が吹く頻度が高いとは言えない」とか
「あなたの祈りを持ち出すまでもなく、十分に説明できる程度の現象にすぎない」
という反論は、できると思います。
58
:
えめ
:2006/12/29(金) 21:13:27 ID:eiXhG8Tk
これはヒントの出し方が悪かったか
ヒント→「ええと、あのですね、だから、サルがヒトに進化するわけがないんですよ」
もう一つ
水からぶどう酒に変わったらそれは奇跡だ。などとは一言も言ってませんよ。
そういや数日前の雪請いが今回は天に通じたようですね。
59
:
地下に眠るM
:2006/12/30(土) 14:12:09 ID:EpkA97A.
ちょい体調がもどってきましたにゃ。昨日は仕事納めを休んじゃったよ。
「ひっかからない」というコトバに関する誤解があるようですにゃ。
「ひっかからない」というのをmacskaは「検知できない」と捉えているようだけど、僕は「矛盾しない」というつもりで書きましたにゃ。
41で僕に対するレスで以下の様にいっていたので、その反論のつもりだったのですにゃ。
「今の時点で分かっていない」からといって宗教が好き勝手なことを言っていたら、将来痛い目に合う可能性が高いでしょうね。(完全に解明されなくても、ある宗教的主張を否定する程度に解明されることはあるでしょう。)
macskaは一対多の状況でレスを返してくれているのだから、そのあたりを考慮して多義的にとれる表現をすべきではありませんでしたにゃ。
混乱させてごめんね>macska & おおる
で、正確にいいたかったことを記述すると
「現世利益をうたいつつ、カガクの手法で検証しても矛盾がみつからなにゃー教義はいくらでもある」
これならいくらでもあるだろにゃ?
例えば
「大地の恵みに感謝して、多種多様な新鮮な食物を食べましょう。直接大地からとれた野菜を中心に食べましょう。素材のよさをいかして(=塩分ひかえめ)調理しましょう。毎日大地を踏み締めて一日何時間かは歩きましょう。そうすれば、健康で長寿が約束されています」
あるいは優秀な投資機関が宗教を名乗るとか。「お金は神だから増やしましょう」とかいって、金持ち限定で入信させて(貧乏人は神に呪われた賎民)カネをガンガン増やす。
そもそも今だって貨幣を信仰している連中は多いんだから、そのあたりを自覚して宗教団体と名乗ればよろしい。貨幣と宗教はもともと切っても切れにゃー関係だしにゃ。資本主義ってシューキョーだしー(げらげら
ま、キョーサンシュギだって立派なシューキョーだけどにゃ。
別に煙に巻くためにこんなことを書いたわけではなく、根拠をいうものをドンドンと辿っていくと、最終的には「根拠ナシ」か「わからない」にいきつくにゃ。これは、カガクがどんなに進んでもそうなるはず。宗教は根拠を直接あたえ、ニンゲンの意識においては根拠は価値に直結する。上記2つの「大地の恵み教」も「お金はカミサマ教」も「カガク的に正しいこと」に依存しているわけではにゃーわけだ。価値は「健康長寿」「カネ」にあり、そのための方法は「神のお告げ」といえばいい。
60
:
地下に眠るM
:2006/12/30(土) 14:21:45 ID:EpkA97A.
>科学と宗教は対等じゃねーんだよ!(暴言)
おお、サービスいいちゅうかノリがいいちゅうか。
カガクそのものはツールにゃんね。
で、カガクのもたらす「真理」の特色は、
1)暫定的
2)共有可能(=開放性)
で、宗教も「真理」を扱うのでバッティングしちゃう(ようにみえる)わけだにゃ。
以前、ここの第一掲示板に貼ったものにゃんが
****************************************
三位一体というが、一は三に等しいか? どうして三が一になりえるのか? 母親が処女でありうるか? まだいろいろあるがこれくらいにしておこう。
すなわち宗教上のあらゆる表現は論理的矛盾や原則的に不可能な主張を含んでいるのである。いやそれこそまさに宗教的主張の本質をなすものである。一体いつになったらこのことに気づくのだろうか。テルトゥリアヌスはこう告白しているではないか。
「かくして神の息子は死んだ。このことは、まさしくそれが不合理であるゆえに信じられる。かくして彼は埋葬され、復活した。このことはまさにそれが不可能であるがゆえに確かなことである」
もしキリスト教徒がこのような矛盾を信じるよう要求するのであれば、この他に若干の背理(パラドックス)を認めようとする者を非難できないのではないだろうか。わけても背理は、極めて貴重な精神的財産の1つである。
これに反して一義性は、弱さのしるしである。従ってもし宗教が、その背理性を失ったり弱めたりするようなことがあれば、それは内面的に貧困化し、背理性が強められる場合にはそれは豊かになる。というのも充溢せる生をおおよそ捉えうるのはひとり背理のみであって、一義的な明白さとか矛盾のなさとかいうものは物事の一面にしか通用せず、従って把握しがたいものを表現するには不向きだからである。
誰もがテルトゥリアヌスの精神力を持っているわけではない。テルトゥリアヌスは明らかに背理に耐えることができたし、それどころか背理は彼の場合、その宗教的確信の最高の根拠でもあった。精神的に脆弱な大多数の人々は背理を、まともに受け止めれば大怪我でもするかのように危険なものに仕立て上げ、これを回避しようとする。
ユング「心理学と錬金術」P30より 引用者が適時改段
*******************************************
こういう心的態度に対して、「処女懐胎をカガク的に検証」とかいったところで何の意味もありゃしにゃーよな。
カガクは線形論理(線形論理は論理のひとつにすぎないと、やふ掲示板で僕の信頼する奴がいっていた)に従わなければならにゃーので、背理を認めにゃー。しかし、「充溢せる生をおおよそ捉えうるのはひとり背理のみ」なのであれば、カガクの真理なぞは、貧困な世界の真理にすぎにゃー。真理も知も階層があるんだにゃ。
ちゅうわけで、カガクとシューキョーだったら、もちろん問題なくシューキョーのほうがエライ! もう圧倒的にエライ!
カガクは徹底してツールなのだにゃ。あえていえば、カガクには奴隷の気高さがある。
それと、ここのサイトの基本的なお題に立ち戻ると、
「創造科学は宗教ではなく疑似科学である」だにゃ。
創造科学が奉ずる「しょぼい神」は「しょぼい」ゆえに宗教ではなく、疑似科学となる。
まあ、創造科学の場合は、科学を自称するからいろいろとわかりやすいんだけどにゃ。
■「しょぼい神」を奉じているのは、科学ではなく疑似科学、宗教ではなく「疑似宗教」。
創造科学が馬鹿のタワゴトのくせに科学を名乗っているように、馬鹿のタワゴトにすぎないものが宗教を名乗っているにすぎない。
61
:
地下に眠るM
:2006/12/30(土) 14:47:13 ID:EpkA97A.
>神というものが現実社会に介入する存在である限り、その存在については「科学の範囲外」ということはありえないとも言っています。そういうことで、よろしくお願いしますです。
確率的事象に介入する神と関連しそうなんだけど、一神教の神概念の中では予定説(予定論)はカガクには取り扱えそうににゃーね。
日本大百科より「予定論」の項、冒頭部を引用
****************************
praedestinatio
神の救いは、人間の側の行為や努力にかかわりなく、すでに定められているというキリスト教の教説。予定説ともいう。『旧約聖書』においてイスラエル民族は、その卑小さにもかかわらず神の選民としてたてられており、背信と亡国ののちも、その「残れる者」は究極的な救いに予定されているという信仰が一貫しており、『新約聖書』は「新しいイスラエル」の自意識のもとにこれを継承した。パウロの「ロマ書」(8章29―30)、「ガラテヤ書」(1章15)、「ピリピ書」(2章13)などは予定論の古典的典拠となる。
****************************
62
:
DDB
:2007/01/08(月) 00:41:31 ID:rgvQC6KQ
みなさん、こんにちは。ROMしているつもりだったのですが、どうやらmacska さんが言われっぱなしのまま幕切れを迎えたようで、非常に後味の悪い思いです。
macska さん(や、その周辺の人たち)は、現在、とある宗教団体関係者たちから、執拗に中傷され、侮蔑され続けています。その宗教団体が、ある特定の人間集団を「生まれながらに劣った者」と見なしていることに対して異議を申し立てた、というだけの理由からです。このスレで、macska さんの言説の揚げ足を取ったり、まぜっかえすようなことを言っている人たちの誰一人として、自分がそんな目にあった経験はないでしょうし、そんな目にあっている人たちのことなど微塵も考えたこともないでしょう。「心のありよう」の範囲を踏み越えて現実世界に干渉してくる宗教の怖さは、このスレに書き込んでいる誰よりも、macska さんが身をもってよく知っていると思います。
このスレにおいて、macska さんは、実に慎重に、一般論のみを述べるにとどまっていますし、立場上それが当然だと思います。ただ、実際には、macska さんは、もっと生々しい現実的な事例を念頭に置いているのではないでしょうか。例えば、教祖が空中浮揚するとか、触れただけであらゆる病気を治すとかの「奇跡」を売り物にして、信者から大金を巻き上げ、政治的発言力を増していき、行政や教育に干渉してくる団体とかです(特定の宗教団体のことを指しているわけではありません! カルトじみた団体は、そのような傾向を持ちがちだ、という意味です)。奇跡を信じるのが個人的な範囲にとどまっているなら、誰も野暮は言いません。しかし実際には、宗教が自らを権威づけ、権力を増強していくための手段として、奇跡を利用しているケ−スは多いわけですし、そうした現実には一切目をつぶって、なんでもかんでも心の問題にすり替えてしまうのはどうかと思います。
私とて、できれば宗教の話などしたくありません。うかつなことを言えば災いが降りかかるのは目に見えていますし、それこそ「宗教は心の問題」の一言で片付けて、あとは触らぬ神に祟り無し主義で生きていたいです。macska さん(や、その周辺の人たち)が受けている凄まじいバッシングを見れば、怖くて引きます。ただ、恐怖のあまり引いてしまうほどの宗教的バッシングが現にあるからこそ、何もしないでいるのはよくない、とも思います。宗教が「心のありよう」の範囲を踏み越えてきたときに、我が身に危険が及ばない範囲内で批判し、ささやかながらも釘を刺しておくのは、宗教の暴走をくいとめるうえで大事なことでしょう。
最後に、macska さんの真意に対する私の考察が深読みのしすぎであり、macska さんにとってはむしろ迷惑であったなら、その点はmacska さんにお詫び申し上げます。また、「ぽっと出」の私が、この掲示板の常連さんたちに非難めいた書き込みをしたことに対して、常連の皆様にお詫びを申し上げます。
63
:
ぽっと出2号
:2007/01/08(月) 02:37:32 ID:EZ3AtddI
私もROMっておりましたが、少し気になったので書かせていただきます。
>DDBさん
>しかし実際には、宗教が自らを権威づけ、権力を増強していくための手段として、奇跡を利用しているケ−ス
これは創造科学にも当てはまる話なのではないかな?と思うのです。
そして、ROMをしてこられたDDBさんならおわかりのように、
このサイトは科学的立場から擬似科学である創造科学に対して、論破を重ねてきているのではないでしょうか。
このスレッドをここまで読んだ限り、DDBさんの仰るような揚げ足取りがあるとも思えないのですが、
具体的に誰のどの発言がmacskaさんのどの発言の揚げ足を取っていて、それはmacskaさんの真意とどれほどかけ離れているのか?また、ではどのような話になっていれば良かったのか?について、DDBさんの見解を示されたほうが、わかりやすいと思います。
64
:
地下に眠るM
:2007/01/09(火) 16:21:09 ID:cizMQ0FI
>DDBくん
>このスレで、macska さんの言説の揚げ足を取ったり、まぜっかえすようなことを言っている人たち
どうやら僕のことでもあるようなので、後学のために聞きたいにゃんが、例えば僕のどの発言が「揚げ足を取ったり、まぜっかえすようなこと」なのか具体的に指摘してもらえにゃーかね?
>「ぽっと出」の私が、この掲示板の常連さんたちに非難めいた書き込みをしたことに対して、常連の皆様にお詫びを申し上げます。
馬鹿なことを発言したら馬鹿にされるのは当然だにゃ。馬鹿に馬鹿といったからといって、謝る必要なんてどこにもありはしにゃーのだ。
肝腎なのは、ちゃんと根拠のある非難なのかどうかだにゃ。文句言いながら謝るなどというチンケな予防線はってにゃーで、何が揚げ足取りとか混ぜっ返しなのかちゃんと説明しろよ。
ぽっと出2号も同じことをいってるだろ?
>どうやらmacska さんが言われっぱなしのまま幕切れを迎えたようで、非常に後味の悪い思いです。
僕だって議論を途中で放り出すなんてよくあることだにゃ。
飽きたとか面倒になったとか馬鹿すぎて話にならんとか忙しくなったとか、いろいろ理由があるだろうし、いちいち気にすることではにゃー。「言われっぱなし」が「負け」だなんてのはきわめて幼稚な感覚にゃんね。macskaも面倒になっただけなんでにゃーの?
ところがさ、どうやらチミの解釈ではそうではにゃーらしい。
だってさ、「揚げ足取りやまぜっかえし」のせいでmacskaが「言われっぱなし」となり「非常に後味の悪い思い」をしているといっておきながら、具体的に何が「揚げ足取り・まぜっかえし」なのかと聞かれても答えられにゃーということは、チミの解釈は「macskaの負け逃げ」ということになっちゃうんじゃにゃーのかね? macskaを馬鹿にしているのはチミだよ。
>このスレで、macska さんの言説の揚げ足を取ったり、まぜっかえすようなことを言っている人たちの誰一人として、自分がそんな目にあった経験はないでしょうし、そんな目にあっている人たちのことなど微塵も考えたこともないでしょう。
お笑いだよ>DDBくん
自分の思うような言動をしない相手に対して、経験や心情を勝手に忖度するなんてのは、アタマのワリイガキとかウスラ馬鹿宗教脳の基本的応答パターンだぜ。
65
:
diamonds8888x
:2007/01/10(水) 05:50:11 ID:je6LAXPY
議論には反論がつきものですし、反論であれば揚げ足取りやまぜっかえしと感じる人もいるのはやむをえないでしょう。ただ本掲示板での1対多の議論にしては珍しく袋叩きにはなりませんでしたね。それだけmacskaさんがしっかりした論客だからでしょう。57番ではAH1さんも一部に賛成してますし、NATROMさんも意見を入れてQAを書き換えましたし、59番の地下に眠るMさんの謝罪表明に至っては驚天動地でしたよ(^_^)
それはともかく、本件はなかなか深いテーマで自分の考えを述べるだけでも長くなりそうですが、まず私の基本的スタンスを述べておきます。
1.macskaさんの「現実世界に介入するタイプの神は原理的には科学的検証の対象となり得る」にはほぼ全面賛成。百歩譲っても「現実世界の説明に神という仮定は必要ではない」。また41番の「しかし多くの宗教は、現実世界のものごとに超自然的な影響があると主張することによって、その枠組みを既に踏み越えているのです。」にも同意。百歩譲っても「多数の信者がそのように信じているであろう。」「多数の者には心の救いと現世利益との境界は曖昧だろう。」
2.私自身は宗教を必要としないが必要とする人は莫大であり宗教の効用は否定できない。宗教のまともな効用は人生指針であり、近視眼的御利益のための奇跡を期待するのは現実的ではない(けど期待する人が多数いて、いわゆる疑似宗教詐欺にだまされるのが現実)。効用が人生指針という点では、人生訓、格言、師の教えなどと同様であるが、これらに比べると宗教は盲信による副作用が起きやすいのではないかと考える。
3.「宗教は良いが疑似宗教は悪」という論理は、権威への盲従または不当なレッテル張りという二面での危険が大きい。なぜなら「真の宗教やまともな宗教と疑似宗教の区別は本質的に不可能」だから。百歩譲っても「まともな宗教と疑似宗教の区別は凡人には極めて困難。手品と真の超能力の区別に勝るとも劣らずに困難」。
さて身も蓋もないことを言えば、本サイトでのQ&Aのような断りを入れる必要があるのは、この現実世界において宗教なるものの力があまりにも強いからです。ほんどの先進国では「信仰の自由」が唄われていますし、「まともな宗教」というお墨付きを獲得すれば、その信条や行動がほぼ無条件に認められる面があります。個人的な好き嫌いで出された料理に手を付けなければ「礼儀に反する」と思う人もいるでしょうが、宗教的理由を持ち出せば誰しも仕方ないと思うものです。さらに社会的に広く認知され、莫大な人に人生指針という点での効用を与え、多くの人に社会や人類に奉仕する動機付けを与えるという正の側面の強い宗教が多数あります。やっかいなことに負の側面の強い宗教と正の側面の強い宗教を区別するのは凡人には困難です。それどころかひとつの宗教自体が正負両面を持ちます。このような状態で単純に「宗教は非科学的だ」と言っているとだけ受け取られることは、余計な敵を増やすことになり得策ではありません。
科学的検証の通じない奇跡とは何か、という議論も盛り上がりましたが、実際問題として奇跡と称される多くは科学的検証の通じる現象として語られているのではないでしょうか? モーゼの事績やイエスの治療や諸々の奇跡はみなそうです。私は通常は素朴唯物論の立場を取りますから「紀元0年前後のある時、イエスと称する人物が水をワインに変えるのを目撃した人達がいる」という言明は真か偽のどちらかであると考えます。偽というのは例えば、後の新約聖書の記者によるでっちあげというケースです。真である場合には、その時代に科学的検証のできる人がいたとすれば、原理的に検証可能です。なにせイエスと称する人物が生きていれば再現実験が可能ですから。
真に科学的検証の通じない奇跡とは何かという問題を論じるのも、特に知性の高い人々にとってはおもしろいのですが、あんまり現実的ではないという気がします。哲学的にはおもしろいかも知れないがと言い換えてもいいです。
66
:
diamonds8888x
:2007/01/10(水) 05:55:26 ID:je6LAXPY
あと、以下の議論はmacskaさんが本当に論じたいこととは関係が薄いとは思うのですが、33からの偶然論に関して、量子力学には弱いと言うmacskaさんへの説明も含めて書き込みます。33でmacskaさんが暗黙のうちに前提としていたのは「決定論」と呼ばれる考え方です。最も強い意味でわかりやすく説明すれば、「この宇宙は時間軸も含めた唯一の4次元時空であり、過去も未来もすでに決定されている」という考えです。さらに、「この4次元時空の全ての場所で一定の自然法則が成り立っている」と付け加えると、ラプラスの魔が活躍可能な宇宙ができあがります。つまり「ある時点の事象はそれより過去の全空間の事象から一定の計算方法で計算されたものになる」ということです(因果律)。ただし未来予測が完全にできる可能性があるのは、この4次元時空の外部にいるラプラスの魔のみです。4次元時空の内部にいる知性体には不完全な予測しかできません。というか、彼がどんな予測をいつ行うかという事象も、全て定まっているというのが最も強い意味での「決定論」ですからね。こう極論すると内部の知性体たる我々の自由意志はどうしてくれる、という素朴な不満がでてくるので、「決定論」というのは感情的にはなかなか受け入れがたいのですね。
なお理屈から言うと、4次元時空のところどころに因果律とか一定の自然法則から外れた例外的事象が埋め込まれているとしたら、それこそ「奇跡」と呼ぶにふさわしいのではないでしょうか。この場合、奇跡の起きる場所と時間もあらかじめ定まっていることになります。
さて量子力学により上記決定論は葬り去られたとする見解がありますが、私はそうは断定できないと考えています。観測問題でコペンハ−ゲン解釈に従えうなら、ミクロな粒子の運動は波動関数で表され観測されるまでは複数の状態の重ね合わせですが、観測された瞬間に唯一の状態に収束します。ここでどの状態に収束するかは原理的に予測不可能というのがコペンハ−ゲン解釈であり、そうなるとラプラスの魔にも未来の予測は不可能です。でもねえ。どの状態が選択されたかを含めた4次元時空というものがあらかじめ定められているのだ、というモデルも可能ですし、そうだとしても内部の我々にはわかりませんからねえ。ラプラスの魔はある時点から過去の情報しか使えませんから、このモデルでも未来予測ができないことには違いありませんが、全ての時空を俯瞰できる存在がもしいれば、その存在には全てが決定されていることになります。
まあいずれにせよ、決定論が正しいかどうかは内部の我々には観測不可能ですから、そんなもので己の行動を左右されるのは馬鹿げたことです。哲学にはまる人には「自由意志はないのいかも知れない」などという可能性で絶望を感じるなんて人もいたようなんですけど、予測しがたい未来への不安でくよくよ落ち込むのよりももっと馬鹿げてますね。
67
:
macska
:2007/01/10(水) 19:34:49 ID:VdHL1C4M
こんにちは、みなさん。どもです。
わたしは、メインの議論はだいたい終わったと思ってたので、言われっぱなしのようには感じていなかったのですが…。揚げ足取りというのも違うように思いますし。
メインの議論というのは、「神というものがどういう存在であったとしても、それが現実世界に干渉する限り、そうした干渉は科学的検証の対象となり得る」というものです。これについては、実際に検証できるのかどうかという問題と原理的に検証の「対象となり得るかどうか」という点でやや議論が混乱しましたが、後者の意味、すなわち「検証の対象となり得る」という意味であればほとんどの方には同意していただいたと思います。
だから、だいたい議論は終わったと思っていたのですが、違ったのでしょうかね。
>>66
量子力学の話なんですが、それによって「科学がもっと進めば物事を完全に予測することができる」というわけにはいかない、というのは分かります。しかし、だから上に述べたような「神による現実世界への干渉」の検証ができなくなるということはないのではないでしょうか。というより、もし「神による現実世界への干渉」の検証ができなくなるのであれば、論理的に言ってそれと全く同じ手法を使った全ての科学的検証はできなくなるはずですが、実際のところそうはなっていない。
あえて言えば、全ての科学的検証が完全ではないように、「神による現実世界への干渉」の検証も完全ではない、という程度の話でしょう。そのため、科学的事実の一部は立証できないし、科学的間違いの一部は反証できない、そしてその中には「神による現実世界への干渉」も含まれると。するとやはり、量子力学が云々という話は一般論であって、「神による現実世界への干渉」についての今回の議論にはあんまり関係ないのではないかと思います。
> まあいずれにせよ、決定論が正しいかどうかは内部の我々には観測不可能ですから、
> そんなもので己の行動を左右されるのは馬鹿げたことです。
馬鹿げたことかどうか以前に、いったいどのように行動すれば決定論が正しいかどうかによって己の行動を左右したことになるんでしょうか?
68
:
地下に眠るM
:2007/01/11(木) 02:25:07 ID:EpkA97A.
ほう? 僕の理解とはだいぶ違っているにゃ。
1)奇跡がニンゲンの認識・解釈の問題であると捉えた場合、自然科学の対象ではない
例えば「選民思想」的な問題(奇形だの出自だの)において、自然科学的にありえるかありえないかは本質的な問題ではない。
2)現世利益をうたいつつ、それが検証はされえても、矛盾が発見されえない教義の具体例はだした。反論はない。
3)カルヴァン派の予定論のような、神の大規模な干渉を前提とし、しかも検証されえない例を出した。反論はない。
以上より、自然科学的に検知だのといったことは無意味であることが多く、それが意味ある場合は教義が「カガク的事実」に依存した場合であるというのが共通認識となっていったん議論は終了したと考えておりましたにゃ。
先の投稿で僕は「疑似宗教」という表現をしたけれども、誤ったカガク的事実に依拠する信念を「疑似宗教」といってしまっていいかどうかは考えどころだにゃ。それは宗教を名乗る疑似科学なのではにゃーのか?
また、宗教に対して矛盾の有無を追求しても無意味であることは、テルトゥリアヌスの例を引いて説明もしたにゃ。
ま、「背理に耐えられない」からこそ創造カガクのようなシロモノをでっちあげるのだとはいえるけどね。
そもそも
>多くの宗教は、現実世界のものごとに超自然的な影響があると主張することによって、その枠組みを既に踏み越えているのです
という主張は傲岸なんだよ。宗教はもともと人生訓や格言ではにゃー。現実的な救いの問題だにゃ。
カガクの側で勝手に宗教の領域を設定しておいて、そこから出てくると騒ぐなんてどういうこと?
「インディアン居留地」を勝手に作った合衆国政府のような真似にゃんな。
69
:
macska
:2007/01/11(木) 05:00:36 ID:VdHL1C4M
>>68
なるほど、あなたの言うことはどこまで本気か分からないので思わず飛ばしていました。
ネタにマジレスになっても良いので、今後は本気で応えることにします。
> 1)奇跡がニンゲンの認識・解釈の問題であると捉えた場合、自然科学の対象ではない
ニンゲンの認識・解釈によって、ある言説が自然科学の検証対象になったりならなかったりするわけがないのでしょう。奇跡については、「現実世界への干渉」としてよく言われることの例として上げただけであり、わたしは奇跡という言葉の定義に関わらず、神という存在による「現実世界への干渉」は科学の対象であると述べています。
> 2)現世利益をうたいつつ、それが検証はされえても、矛盾が発見されえない教義の具
> 体例はだした。反論はない。
たまたま科学的観測と矛盾しない教義であれば、科学との矛盾が発見されないのが当たり前。わたしは「検証の対象となり得る」(科学にとって全くノータッチではない)と言っているのであって、現実社会に関する宗教の教義は全て間違いと主張しているわけじゃないです。
わたしが「検証となり得る」と主張しているのに対し、「検証はされても〜」という例を出されても、それは一向にわたしの主張を否定していないので、そもそも反論のしようがありません。
> 3)カルヴァン派の予定論のような、神の大規模な干渉を前提とし、しかも検証されえ
> ない例を出した。反論はない。
「予定論」について引用されていた部分を読むと、「神の救いは、人間の側の行為や努力にかかわりなく、すでに定められているというキリスト教の教説」と書かれています。「神の救い」というのがよく分かりませんが、キリスト教における神の救いというのは一般に「死後、天国に行けること」ですから、そういう意味だとすると、これは現実世界に関する介入であるとは考えられません。
> また、宗教に対して矛盾の有無を追求しても無意味であることは、テルトゥリアヌスの
> 例を引いて説明もしたにゃ。
無意味とはどういう意味ですか? わたしは信仰を捨てろと迫っているわけではないので、「矛盾していてもいいから信じる」「矛盾しているからこそ信じる」という人がいても全然不都合じゃありません。もしわたしがかれらに信仰を捨てさせようとしているなら、「そんなこと言っても無意味だよ」と言われるのもわかりますが。
> 宗教はもともと人生訓や格言ではにゃー。現実的な救いの問題だにゃ。
この議論に無関係ですね。
> カガクの側で勝手に宗教の領域を設定しておいて、そこから出てくると騒ぐなんてどういうこと?
違う違う。そもそも引用された部分は、宗教への批判ではなく宗教に不当な妥協を許す科学者の一部を批判した部分です。
もとのやりとりは以下の通りです。
>>37
> 科学のルールで宗教は否定できません。
> 同様に宗教のルールで科学を否定できません。
>>41
> その通り。しかし多くの宗教は、現実世界のものごとに超自然的な影響があると
> 主張することによって、その枠組みを既に踏み越えているのです。
37の意見にあるような「宗教と科学の住み分け」は、例えばグールドが生前主張していたものです。そしてそれは、多くの「穏健な」宗教者たちには歓迎されているでしょう。しかし、これは間違いです。宗教と科学はそんなに簡単に住み分けできるわけがない。なぜなら、科学が検証の対象とする範囲と、宗教が教義の対象とする範囲には一部重なり合う部分があるからです。宗教が主張する、現実世界についての言明がそれに当たります。わたしは、そういう範囲に宗教が踏み込んではいけないとは言っていません。しかし、科学を犠牲にして良いわけもない。そういう話をしているんですよ。
70
:
diamonds8888x
:2007/01/11(木) 06:02:42 ID:je6LAXPY
> 馬鹿げたことかどうか以前に、いったいどのように行動すれば決定論が正しいかどうかによって己の行動を左右したことになるんでしょうか?
私が馬鹿げたことだと言ったのは例えば次のような行動です。
決定論が正しいと思いこむ−>未来は既に決まっているから、自分が努力したり意志決定したりすることは意味がないと思いこむ−>虚無的人生観に落ち込む
そもそも決定論が正しいかどうかは内部の者にはわかりませんから、思いこんだり信じ込んだりすることしかできませんよね。ああ、どこの誰がそんな行動をしたり、そんな思想を述べたりしたのかと詰め寄られてもちょっと困ります。過去の記憶からの印象だけに頼ってますので、ちと出典は示せません。ただ「決定論=自由意志の不在」という観点から「未来が既に決まっていたりしたらイヤだなあ」という見方は多く見かけてますので、そういう観点の持ち主が「未来は既に決まっている」と思いこむと上記のような状態に落ち込むことは可能性が大きいでしょう。
71
:
diamonds8888x
:2007/01/11(木) 06:08:52 ID:je6LAXPY
>宗教はもともと人生訓や格言ではにゃー。現実的な救いの問題だにゃ。
私の定義だと「大地の恵みに感謝して、(中略)健康で長寿が約束されています」というのもひとつの人生訓なんです。人生訓の根拠として神様を持ち出すと宗教になるのだと思います。で、人生訓と呼ばれるものには人生における現実的な救いを得るための処方箋も多いと思いますが、地下に眠るMさんの定義では違いがありましたか? で、もちろん人生訓や格言にだって、科学的検証にかけうるものは多数あります。上記の例も検証可能でたぶん正しいことが検証されるでしょう。
72
:
地下に眠るM
:2007/01/11(木) 10:43:59 ID:DdTIfl7A
>今後は本気で応えることにします。
そりゃタノチミにゃんね。
まず>1)
(43)ミケの記述より引用
**************************
ちなみに確率現象を介しての神の干渉については、統計学を以ってしても検証不可能です。
神がどの程度の頻度で、あるいはどのような条件で確率現象に干渉するかのデータが入手不能だからです。
まあ、宝くじ一等を同じ人に連続で当てさせるタイプの神はいないでしょうが、
それだって、いるとしたらそういうタイプではないよね、というだけに過ぎません。
たとえば、
那須与一が矢を射る際に風が止んだこと、あるいは元寇の際に神風が吹いたこと、
誰かさんが落雷の直撃を受けても死ななかったこと、どっかのおばあさんが11階から落下して生還したこと、
これらは確率的に低い事象ですが、もし事実だったとして、
どれが神による介入で、どれがホンモノの偶然かは判別不能です。
********************
この部分に対するmacskaの反論はされてにゃー。他の参加者からの反論もなし。
つまり、確率的事象を介する神の干渉に関しては検証不可能であるというのが、この場における合意事項のひとつのはずだにゃ。この前提にのって「奇跡がニンゲンの認識・解釈の問題であると捉えた場合、自然科学の対象ではない」と述べたんだけどにゃ。言い換えると、「現実世界に対する神の干渉そのものがニンゲンの側の認識・解釈の問題」なわけよ。確率的事象を介しての干渉であれば、相当大規模な干渉があったとしてもカガクには手がでにゃーことになると思われますにゃ。
このあたりがおさえられていれば、
>ニンゲンの認識・解釈によって、ある言説が自然科学の検証対象になったりならなかったりするわけがないのでしょう。奇跡については、「現実世界への干渉」としてよく言われることの例として上げただけであり、わたしは奇跡という言葉の定義に関わらず、神という存在による「現実世界への干渉」は科学の対象であると述べています。
こんな発言がでてくるわけにゃーはずなんだけどにゃー。
ちゅうわけで
・神の干渉に関してはカガクは手がでない
・お馬鹿教義=誤ったカガク的事実に依存する教義、疑似科学的教義に対してはカガクは検証できる
というあたりで「だいたい議論は終わったと思っていたのですが、違ったのでしょうかね。」
2)については了解
ま、「現実をひたすら後追いしながら差別的言辞を固定させていく教義」、なんてのもカガクには検証不可能にゃんね。
>3)
別に、「死後、天国に行けること」に限ったわけじゃにゃーよ。引用部分にユダヤ教の選民思想が述べられていたはずだにゃ。この予定説と、(66)でdiamonds8888xのいう「全ての時空を俯瞰できる存在」の構造が似たようなものであることを考えてみればいいのだにゃ。
出かけるので、続きはまたあとで
73
:
macska
:2007/01/11(木) 12:24:44 ID:VdHL1C4M
>>72
1)について。
> この部分に対するmacskaの反論はされてにゃー。他の参加者からの反論もなし。
> つまり、確率的事象を介する神の干渉に関しては検証不可能であるというのが、
> この場における合意事項のひとつのはずだにゃ。
いや、何度も言っている話で回答済みですが。
もう一度言いましょうか。
「証拠不十分で解明不可能であることは事実。けれど、現象そのものは原理的に検証可能というか、少なくとも科学的検証の対象となり得る範囲の出来事です。その点は、原理的にもまったく検証不可能である『死後の世界』や『人生の意味』といった、完全に科学の範囲の外側の領域にある問題とは区別されるべき。」
おしまい。
これだけの単純なことを、わたしがこれまで何度説明したと思っていますか?
とっくに済んだ話だと思っていたのに、まだそんな事言っていたとは驚いたよ。
2)について。
> ま、「現実をひたすら後追いしながら差別的言辞を固定させていく教義」、
> なんてのもカガクには検証不可能にゃんね。
検証不可能なのではなく、仮に無根拠であったとしても false-negative が出るだけです。
科学的検証の対象であるわけですから、検証自体は可能でしょう。
このあたりは、もう言葉遣いの違いになってしまうのかも知れませんが。
3)について。
> 別に、「死後、天国に行けること」に限ったわけじゃにゃーよ。
> 引用部分にユダヤ教の選民思想が述べられていたはずだにゃ。
うーん、キリスト教の予定論にもいろいろあるし、ユダヤ教の選民思想はそれとはまた別だし(ユダヤ教に予定論はあり得ず、ユダヤ教の一部をキリスト教が勝手に予定論の根拠として流用しているだけです)、具体的に見ていくと面倒なので挙げられた定義だけに沿って答えたんですけど、それでは駄目でしたか?
でしたら、議論の対象とすべき言説をもう少し絞ってもらえないと議論のしようがありません。
ありとあらゆる予定論の解釈を対象に全部一緒に斬って捨てるわけにいかないし。
あの定義では、予定論は「神の救いは、人間の側の行為や努力にかかわりなく、すでに定められている」という話として紹介されており、キリスト教における「神の救い」が死後の救済であることを考慮すると、わたしが書いた通りの回答で正しいはずです。別の予定論について答えよというなら、その別の予定論をきちんと説明してください。
って、続きはまたあとでということだから、説明してくれるつもりだったのかな。
だったら先走りしてしまったけど、最後の一行いままで気付かなかった…
74
:
Seagul-X
:2007/01/11(木) 13:44:47 ID:???
すみません、macska さんの主張がよくわからないんで確認したいんですが、たとえば
どっかのおばあさんが11階から落下して{たまたま|神の介入によって}生還した現象
を、どうやって(どのような手段・手順で)検証できるとおっしゃってるんでしょうか?
75
:
macska
:2007/01/11(木) 15:25:52 ID:VdHL1C4M
>>74
基本的に、一度だけ起きた現象を検証するのは難しいです。
「どっかのおばあさんが〜」の例なら、おばあさん本人の報告に加えて、落下地点を調べる、目撃者の証言を突き合わせる、医者の意見を聞く、たまたま映っている監視カメラみたいなのがないか調べる、みたいなところでは。
わたしの主張は、神様という言葉を持ち出されたからといって「神様は科学の範囲外だから、それについては科学は何も言えない」というのがおかしい、ということですよ。神様が起こした奇跡であるとされる現象だって、それが現実世界に干渉するものである限り、その他一般の現象と全く同じ手法で科学は扱うことができるのです。
もちろん、世の中には科学的に説明のつかない現象が存在します。それは、今の科学で分かっていないだけであったり、あるいは証拠不十分(一回性のできごとはほとんどこれでしょう)なので十分な検証ができなかったりします。しかしこれらは、原理的には科学の範囲です。
それに対し、死後の世界だとか人生の意味だとかいう問題については、原理的に科学の範囲外です。なぜならそれらはどんなに科学が進んでも全く解明できる見込みがありませんし、そもそも証拠らしきものが科学のツールで扱えるとは思えないからです。
と、ここでやめておけばいいのですが一言付け加えておくと、実は科学には見当がつかないこうした問題は、宗教にだって全く何も分かっていません。科学が主に対象とする領域については科学はある程度確からしいことを明らかにすることができますが、その科学が扱えない領域において宗教が何か確からしいことを言えるのかというと、科学に分からないことはやっぱり宗教にも分からない。分からないことについては何も言えない科学と違い、宗教は分からないことについてさも知っているように自分の思い込みを事実とすりかえても良いことになっているので、宗教者はラッキーですけどね。
76
:
fukken
:2007/01/11(木) 16:47:23 ID:M5vfENrY
macskaさん、はじめまして
いつもはトンデモさんに野次を飛ばすだけの不埒モノの私ですが、今回に限って真面目に意見してみます。
>>75
>宗教にだって全く何も分かっていません。
わかっていないこと、どう足掻いてもわかりそうにないことを、固有の言葉で補填しながら定義したのが宗教なのじゃないでしょうか。
私は、ヒトの わからない→不安感 の解消のために宗教は成り立ってきたように思います。(もちろん、それだけではないでしょうけど大きな要因にはなっていると思います。)
つまり、絶対にわからないことを「すべてわかった」と信ずることこそがそもそもの宗教の意義なのでしょうから、「宗教は分からないことについてさも知っているように自分の思い込みを事実とすりかえても良いことになっている」などと言うのは、「それを言っちゃあ、お仕舞いよ」って奴じゃないんでしょうか。
宗教者はラッキーなのではなく、宗教者はハッピーでなければいけないのです。
77
:
地下に眠るM
:2007/01/11(木) 17:20:54 ID:DdTIfl7A
macskaはカガク主義者にゃんねえ(しみじみ
結局、チミのいっていることは(38)でRYU_TI_SYUのいっていたことで片づけることができそうにゃんな。
***************************
『将来的には解明できるかもしれません』
とは、いえるかもしれんがそれは
『将来的に創造論が正しくなるでしょう』
といってるのとあまり変わらんようなきがするな。
******************************
いっとくけど、蒙古襲来のカミカゼとか11Fから落下して助かったおばあさんとか、ひとつひとつの実例に対して解析ができにゃーなどと僕は(多分ミケも)いっているわけじゃにゃーんだぜ。
カオス理論とかいうものがあるだろ?
蒙古襲来のカミカゼの原因が、その半年前に地球の裏側で蝶がはばたいたことにあるのが直接の原因だとするにゃ。
そして、その蝶のはばたきは蝶の神経系における量子力学的な確率事象に関する神の干渉であったとしたらどないよ?
いや、蝶のはばたきの原因が150億年前のビッグバンにおける何らかの介入に端をはっするものだとしたら?
こんなことは頭のワリイ僕だって思いつくわけで、全知全能の神であったのなら、はるかにスマートで足跡を遺さにゃー介入だっていくらでもあるはず。
こういう事象まで「カガクの守備範囲」だとおっしゃるのならそれで結構だにゃ。クチでは何といおうと、カガクの全能を信仰しているだけのことにゃんからな。
>実は科学には見当がつかないこうした問題は、宗教にだって全く何も分かっていません。科学が主に対象とする領域については科学はある程度確からしいことを明らかにすることができますが、その科学が扱えない領域において宗教が何か確からしいことを言えるのかというと、科学に分からないことはやっぱり宗教にも分からない。分からないことについては何も言えない科学と違い、宗教は分からないことについてさも知っているように自分の思い込みを事実とすりかえても良いことになっているので、宗教者はラッキーですけどね。
うむ、カガク主義の典型にゃんね。
宗教にわかってないと、なぜチミはいえるの?
うようよしている進化論否定馬鹿に対して、常連連中はよく「カガクの基礎を勉強しなさい」というにゃ。カガクを否定するのならカガクを勉強するのは当然にゃんね。当然、同じ論理は宗教での知見に関してもいえるのではにゃーのかね?
78
:
macska
:2007/01/11(木) 22:16:50 ID:UfRlMoOA
>>76
わたしは、一部の宗教が「本当のところは分からないけれど、信じていること」と「知っていること」の境界をなし崩しにするのは非常に問題が多いと思っていますが、その区別がちゃんとつけたうえで信仰することは可能だし、その区別をつけたうえで信仰する宗教であれば全く問題だとは思っていません。
もし「科学に分からないことは、宗教にだって本当のところは分かっていない」という言明が宗教にとってダメージになるとしたら、それは「本当のところは分からないけれど、信じていること」によほど自信を持てない宗教なのでしょう。
>>77
> こういう事象まで「カガクの守備範囲」だとおっしゃるのならそれで結構だにゃ。
科学の守備範囲に決まっているでしょう。カオス理論と言いますが、ある現象が科学によって現実的に解明不可能なことも、科学の内側において示されるわけです。「神の干渉」であれなんであれ、現実世界に起きていることが「科学の守備範囲」の外側であるはずがありません。
で、何度説明させるつもり?
てゆーか、カオス理論は科学じゃないの?
> クチでは何といおうと、カガクの全能を信仰しているだけのことにゃんからな。
そういうレッテル貼りに終始されても困ります。「クチで何といおうと」お前はこうだ、と決めつけられては、反論のしようがないし。「カガク主義者」という呼び方も、わたしは違うと思うので定義をきっちり示してください。
> 宗教にわかってないと、なぜチミはいえるの?
わかっていないでしょ?
「わかっている」という言葉の定義まで違うのかな、この人は。
> 当然、同じ論理は宗教での知見に関してもいえるのではにゃーのかね?
わたしは、宗教を一切否定していませんよ。宗教だけが、科学には持ち得ない何らかの「真実」に至る秘密の道筋を持っている、という宗教主義を否定しているだけで。そうした道筋を持っていると主張している宗教のすべては、実際には「持っていると信じている」だけです。
「死後の世界があるかないか」「人生の意味はなにか」なんて問いは、人間の知覚が及ぶ範囲に答えが見つかるような問題ではありません。だから宗教者にも、哲学者にも、あるいは芸術家でも料理人でも誰でもあれこれ人の考えを聞いたり自分なりに考えたりして自分なりの答えを出すことができます。そうした模索の対象を、宗教だけに限ってしまうのはもったいないと思うのですが。
79
:
えめ
:2007/01/11(木) 22:55:21 ID:dvIENlzA
>わたしは、宗教を一切否定していませんよ。宗教だけが、科学には持ち得ない何らかの「真実」に至る秘密の道筋を持っている、という宗教主義を否定しているだけで。そうした道筋を持っていると主張している宗教のすべては、実際には「持っていると信じている」だけです。
待ってくださいな。真実とは何でしょうか。
この場合の真実とは、あらゆる見地から鑑みても完全に誤謬のない事象解釈、としてそんなものが人間という限定的で不完全な存在に提示出来ますか。
科学とはどれだけ近接できても決して真実には到達できない(反証可能性を持つ、誤りで有りうる)を運命付けられているが故に成り立っている事象解釈の手法だと思うんですけどね。
科学だけが、宗教には持ち得ない何らかの「真実」に至る道筋を持っている。
って言うのが科学主義ですよ。
>そうした道筋を持っていると主張している宗教のすべては、実際には「持っていると信じている」だけです。
そうした道筋を持っていると主張している思考のすべては、実際には「持っていると信じている」だけです。
と言い換えると科学主義が理解できるかもしれません。
自分は人が信じる、と言う行為をもう少し深刻に、且つ自由に捉えていますから科学と言うルールは突き詰めるとルールに過ぎない、と言う気がしてならないのです。
言って置きますが、自分はクリスチャンではありませんよ。
80
:
macska
:2007/01/11(木) 23:28:57 ID:UfRlMoOA
>>79
> 待ってくださいな。真実とは何でしょうか。
> この場合の真実とは、あらゆる見地から鑑みても完全に誤謬のない事象解釈、
> としてそんなものが人間という限定的で不完全な存在に提示出来ますか。
提示できるわけがないじゃないですか。
宗教にだって提示できないのに、できるかのように主張するのはおかしいんだと言っているでしょ?
> 科学とはどれだけ近接できても決して真実には到達できない(反証可能性を
> 持つ、誤りで有りうる)を運命付けられているが故に成り立っている事象解
> 釈の手法だと思うんですけどね。
その通り。
> 科学だけが、宗教には持ち得ない何らかの「真実」に至る道筋を持っている。
> って言うのが科学主義ですよ。
良かった、じゃあわたしは科学主義者ではありません。
このような、わたしにとって当たり前のようなことをわたしに向けて書いて来るということは、あなたはわたしの主張を何か大きく誤解しているのではありませんか?
81
:
fukken
:2007/01/12(金) 01:49:19 ID:M5vfENrY
>>78
>わたしは、一部の宗教が「本当のところは分からないけれど、信じていること」と「知っていること」の境界をなし崩しにするのは非常に問題が多いと思っていますが、その区別がちゃんとつけたうえで信仰することは可能だし、その区別をつけたうえで信仰する宗教であれば全く問題だとは思っていません。
科学の進歩が宗教に矛盾を生ませていることも問題なのでしょう。
例えば、聖書が書かれた当時と今とでは、ヒトが確認できていることととそうでないことの境界は明らかに違います。
「その境界をはっきりさせた上で信仰しろ」と言うのは、下手をすると「聖書の記述が間違っていることを認めろ」と言っていることになりませんか?
>もし「科学に分からないことは、宗教にだって本当のところは分かっていない」という言明が宗教にとってダメージになるとしたら、それは「本当のところは分からないけれど、信じていること」によほど自信を持てない宗教なのでしょう。
日々進歩する科学によって経典や教義の矛盾を逐一突かれ始めたら宗教はダメージを受けるものだと私も思いますよ。
だから「それを言っちゃあ、お仕舞い」だと言うのです。
と、ここまでは宗教をまるで信じていない私の見解。
ですが、地下猫さんが「宗教にわかってないとどうして言えるのか」と言う意味も良くわかっているつもりです。
「どう考えったって神など人が造り上げたもの、宗教もすべて人が造り上げたもの」とは、地球の経た時間の僅か数億分の1しか生きていない私の推測に過ぎません。
本当に神がいないかどうか、科学で確認出来ていないことが宗教でわかっていないかどうかの事実は私にはわかりません。
>わたしは、宗教を一切否定していませんよ。宗教だけが、科学には持ち得ない何らかの「真実」に至る秘密の道筋を持っている、という宗教主義を否定しているだけで。そうした道筋を持っていると主張している宗教のすべては、実際には「持っていると信じている」だけです。
「死後の世界があるかないか」「人生の意味はなにか」なんて問いは、人間の知覚が及ぶ範囲に答えが見つかるような問題ではありません。
このようにはっきりと言える根拠はどこにあるのでしょうか。
人間の知覚で確認出来なくても、それこそ人知を超える神の存在があったなら、それを通じてヒトが「死後の世界」や「人生の意味」を知ることは容易いことなのかも知れませんよ。
もしそうであったなら、macskaさんの主張は明らかに宗教の否定になってしまいますね。
macskaさんは神の存在を理詰めで否定できますか。
と、地下猫さんは仰りたいのではないかと思います。
私は、仲間内でこうして言い合っている分には良くても、宗教と科学は個々の理屈をもって互いの領域に口を出すべきではないと思います。(科学の進歩と共にこの領域の重なりが大きくなっていると言うのが冒頭の話)
科学の側が積極的にそのようなナンセンスをしたことは滅多にありませんが、時折(ちょうど今第一掲示板に見られるように)科学で宗教を否定しようとする人が現れたりするので、管理人さんはQ&Aにあのように書いただけのことなのでしょう。
82
:
ミケ
:2007/01/12(金) 03:09:24 ID:???
「確率現象を介して現実に介入する」
の解釈にすれ違いが見られます。
今日は眠いので以上。
83
:
macska
:2007/01/12(金) 03:22:47 ID:UfRlMoOA
>>81
> 「その境界をはっきりさせた上で信仰しろ」と言うのは、下手をすると
> 「聖書の記述が間違っていることを認めろ」と言っていることになりま
> せんか?
聖書の記述は(「聖書には絶対に間違いがない」というイデオロギーを通して見ない限り)誰がどう見ても間違っているので、「認めろ」とわたしが押しつけるまでもないでしょうが、そもそもわたしはそんなことは言っていません。
そうでなくて、「知っている」と「信じている」を区別しろというだけ。イエスが神の子であるかどうか、聖書が正しい教えを伝える本かどうか、わたしたちが「知っている」はずがない。信じるか、信じないかでしかないはずです。そうでしょ?
> 本当に神がいないかどうか、科学で確認出来ていないことが宗教でわ
> かっていないかどうかの事実は私にはわかりません。
だから、もしある人が「イエスは神の子」と信じていたとして、仮にそれが事実であったと後から分かったとしても、その人が事実をあらかじめ「知っていた」ことにはなりません。信じていたことが、たまたま事実だっただけです。
> 人間の知覚で確認出来なくても、それこそ人知を超える神の存在があった
> なら、それを通じてヒトが「死後の世界」や「人生の意味」を知ることは
> 容易いことなのかも知れませんよ。
それが人知を越えた神からのメッセージであるというのは、やはりそう信じているだけでしょ? まったく確認のしようがない。
> macskaさんは神の存在を理詰めで否定できますか。
肯定論者に立証義務があります。
空飛ぶスパゲッティモンスターの存在すら、否定なんてできないわけですし。
ま、サービスして一つだけ言うと、創造神的な神の反証には argument from design が有効だと思います。
神のような複雑で素晴らしいものが、進化したわけでもなく独りでに生まれたとは考えにくい。
84
:
diamonds8888x
:2007/01/12(金) 06:06:41 ID:h2fLyT9w
>人間の知覚で確認出来なくても、それこそ人知を超える神の存在があったなら、それを通じてヒトが「死後の世界」や「人生の意味」を知ることは容易いことなのかも知れませんよ。
あくまでも「かもしれない」だけですよね。今のところは「人知を超える神の存在」を知覚していない私には無理ですね。
それを通じてといってもですね、人知を超える神の存在と言えども、ヒトは知覚(五感以外の脳に直接働くような知覚も含めて)でしか知り得ないと思いますよ。まあ常人にはない知覚を持ってるヒトが知覚しただけの場合は、他の常人がそのことを確認するのは極めて困難で、知覚したのだと称するヒトの言葉を信じるかどうかという話だけになりがちですがね。
頭の中にばっとひらめいたアイディアとか悟りは神から来たのかも知れません。神経インパルスの偶然の組み合わせから生じたのかも知れません。宇宙船が脳内の何かの分子に衝突したせいかも知れません。あくまでも「かもしれない」だけです。
> 宗教にわかってないと、なぜチミはいえるの?
「宗教にわかってない」ということがmacskaさんにはわからない、などとなぜMさんは言えるの?
「『宗教にわかってない』ということがmacskaさんにはわからないはず」とMさんが言えるはずがない」などと、なぜdiamonds8888xは言えるの?
うーむ。
いやmacskaさんの主張は、「わかっている」と断言する宗教への問いだと思いますが。
85
:
diamonds8888x
:2007/01/12(金) 06:07:55 ID:h2fLyT9w
> 「確率現象を介して現実に介入する」
> の解釈にすれ違いが見られます。
かも。私はあの例は、一回限りの歴史的事象については法則を認知できない、という話が絡んでると思っているのですが。
> 基本的に、一度だけ起きた現象を検証するのは難しいです。
難しいどころか原理的に不可能です。再現不可能では検証できません。そも確率現象としては、全く同一条件で何度も再現しないと現象として認知することさえできません。
86
:
diamonds8888x
:2007/01/12(金) 06:30:42 ID:h2fLyT9w
どっかのおばあさんが11階から落下して生還した例のことですが、この一例が神の介入によるかどうかは確かに検証できません。百歩譲ってもほとんど不可能なくらい困難です。でも現実的な問題は、それが検証できるかどうかではないのです。このおばあさんが「神のおかげだ」と信じて、「次に同じことが起きても神の介入があって助かるにちがいない」と思いこむ場合が問題なのです。それで次も助かると思って11階から飛び降りるようなまねをするとなると、かなり問題です。まあ教えによっては、「そんなことをして神を試してはいけません。」として戒めるでしょうけど。
11階から落下の例だと杞憂に見えますが、元寇の際に神風が吹いたという例だと、「日本は神国だ」という思いこみが生じて、それを見込んだ戦略を立てちゃったりしましたよね。まあうまく使えば志気を高めるという正の側面があるんですけどね。
87
:
fukken
:2007/01/12(金) 12:26:24 ID:M5vfENrY
>>83
>聖書の記述は(「聖書には絶対に間違いがない」というイデオロギーを通して見ない限り)誰がどう見ても間違っているので、「認めろ」とわたしが押しつけるまでもないでしょうが、そもそもわたしはそんなことは言っていません。
>そうでなくて、「知っている」と「信じている」を区別しろというだけ。イエスが神の子であるかどうか、聖書が正しい教えを伝える本かどうか、わたしたちが「知っている」はずがない。信じるか、信じないかでしかないはずです。そうでしょ?
宗教は信じれば良いもの。必ずしも知る必要はない。その通りだと思います。
だからこそ、宗教者はたとえ事実と違うことが生じてもそれをただ信じ続けるんじゃないでしょうか。
ところが、macskaさんは飽くまで「区別しろ」と言うんですね。宗教の曖昧な部分に線を引こうとすること、結局はそれは事実(知)を受け入れろ、違い(間違い)を認めろと主張することになってしまっているように思うのですよね。
だから私は何度も「そんなこと言ってはかわいそうじゃん」と言っているのです。
地球が6000年前に出来たなどと言うのは、今にしてみれば大間違いと言えますが、聖書の書かれた時点では納得出来るのかも知れません。現時点で黒だったとしても聖書に白と書かれていれば、クリスチャンにとってそれは絶対に白でしかないんじゃないでしょうか。宗教とはそのようなものなのでは?
>>本当に神がいないかどうか、科学で確認出来ていないことが宗教でわかっていないかどうかの事実は私にはわかりません。
>だから、もしある人が「イエスは神の子」と信じていたとして、仮にそれが事実であったと後から分かったとしても、その人が事実をあらかじめ「知っていた」ことにはなりません。信じていたことが、たまたま事実だっただけです。
信じることこそが宗教なのでしょうから、宗教にとっては事実であるか、知っているかなんて重要じゃありませんよね。
そのような性質のモノに「わかっているはずがない」と言うことに意味があると思いますか?
神や死後の世界の存在を明確に否定出来るなら話は別ですが、そうでないなら自由に語らせてあげたら良いじゃないですか。
>>人間の知覚で確認出来なくても、それこそ人知を超える神の存在があったなら、それを通じてヒトが「死後の世界」や「人生の意味」を知ることは容易いことなのかも知れませんよ。
>それが人知を越えた神からのメッセージであるというのは、やはりそう信じているだけでしょ? まったく確認のしようがない。
そう。確認しようがないから否定も出来ない。
宗教者が「死後の世界」「人生の意味」をわかった気になっているだけなのか、本当に知っているかを我々が判断することは出来ない。
「実際にはわかっていると信じているだけ」などとは言い過ぎなのではなかろうかと。
>> macskaさんは神の存在を理詰めで否定できますか。
>肯定論者に立証義務があります。
少なくとも私はそのような必要は全くないと思います。
神や死後の世界の存在を証明しろなどと言い出したら宗教は成立しなくなるでしょうね。(わからないことがあるからこその宗教
>>76
だと私は思います)
そもそも「宗教は信じるか否かでしかない」とmacskaさんも仰っていたはずなのに。
このような主張をなさると、macskaさんはやはり宗教を否定したいんじゃないの?って思えてきますね。
繰り返しになりますが、私が「神の存在を否定できるか」と尋ねた意味は、それが出来ない以上「神が存在するはずがない」とか「死後の世界がわかるはずがない」と言い切ることは出来ないのでは?と言うことです。
逆に、宗教に対して「神の存在を立証しろ」と言うのは、宗教の否定行為にほかならないと思います。
88
:
fukken
:2007/01/12(金) 12:29:51 ID:M5vfENrY
>>84
>>人間の知覚で確認出来なくても、それこそ人知を超える神の存在があったなら、それを通じてヒトが「死後の世界」や「人生の意味」を知ることは容易いことなのかも知れませんよ。
>あくまでも「かもしれない」だけですよね。今のところは「人知を超える神の存在」を知覚していない私には無理ですね。
そうです。でも「かもしれない」で十分だと思います。
この僅かな可能性をdiamonds8888xさんは恐らく否定出来ませんよね。
誰にも出来ないはずです。
だから人間の知覚で確認出来ないはずの「死後の世界」を宗教者が知ることは不可能とは言えません。
私は、macskaさんの「わかった気になっているだけ」と言うのは言い過ぎだろうと思っただけですから、「かもしれない」を認めてもらえれば私の理屈には十分です。
>いやmacskaさんの主張は、「わかっている」と断言する宗教への問いだと思いますが。
少なくとも私も地下猫さんも「わかっている」などと断定していませんし、それを肯定しているわけでもありませんよね。
不確かなことを「わかっていない」と断言したmacskaさんに「そんなこと言っていいの?」って言っているだけなんですよ。わかっていますか?
一方、
>>76
で言いましたように、
「わかっている」と断言しなければ宗教は始まらないんじゃないでしょうかね。
89
:
Seagul-X
:2007/01/12(金) 12:53:06 ID:???
うーんと、なんか説明が足りなくて誤解を与えちゃったみたいですみません。
といっても、macska 以外のかたには大筋ではわかっていただけると思うんですが。
いろいろ調べた結果、たとえば落ちたところが花壇でやわらかい土がクッションになった、地面に当たった時の姿勢がたまたま致命的な箇所の損傷を避けられる状態だった、などという結果は出ると思います。
でも、そこに神の介入があったかどうかをどうやったら知ることができるんでしょうか?
一回限りの現象では調べにくいというなら、倫理的にアレな点は無視した仮想実験になりますが、そっくりなおばあさん 1000 人を連れてきて、11 階からおなじ軌道で落下するように次々に突き落としたとします。
で、1000 人のうちほとんどは死んでしまったけれど何人かは助かったとして、助かった確率としては統計的に有意な偏差がみられなくても「このおばあさんが助かったのは神の御心によるものだ」という主張はできるだろうし、それを否定する根拠は科学には求められないと思うんですが。
そりゃ、そう云われたところで本当に神の介入があったかどうかなんて(たぶん云ってる本人にも)わかりゃしないでしょう。でも否定もできない。とすると、結局信じるかどうかということになってしまう。
みなさん、こういうことをいろんな言葉で言ってるだけなんだと思うんですが、macska さんの解釈では違うんでしょうか?それとも、上のような実験でも科学で神の介入を{肯定|否定}することができる手段がある、という主張なんでしょうか?
ということがお尋ねしたかったことなんです。
90
:
Seagul-X
:2007/01/12(金) 12:55:25 ID:???
失礼、「さん」を付け忘れてしまいました。
>といっても、macska 以外のかたには大筋ではわかっていただけると思うんですが。
↑「さん」
91
:
AH1
:2007/01/12(金) 16:24:51 ID:MM7DYpv2
流れ速っ!
多数の方が参加しておられるので申し訳ないんですが、意見だけ。代わり映えしない意見ですけど。
カガク君とキョウソ君の漫才だとして、
キ「私が祈ると1分後に必ず風が吹くんですよ。風よ吹け!」
カ「ほほう・・(ストップウオッチと風速計を取り出す)・・・吹きませんな」
キ「いやいや、夕べの雨は私が降らせたんですよ」
カ「ほほう・・(気象データにアクセス)・・統計的に言って、ふつーに雨が降る気圧配置ですが?」
前者の場合は「ウソじゃん」と言えますが、後者だと
「いや、気圧配置を動かしたのは・・」「温度分布を変えたのは・・」「日射量の分布は・・」「地球上の地形は・・」と、どこまでもキョウソ君は逃げられますね。その場合、カガク君にできる突っ込みは「結局、現時点で検証可能なキョウソ君の介入なんて示せないじゃん!」であり、「みんなー、コイツは科学的に自分の力を示すことはできないんだぜ!」です。
カガク君のように検証を試みることはできるし、キョウソ君がついうっかり「私の力は科学的に証明されているんです」などと言ったならそれを否定できますが、
「科学はまだ解明していないようですな」とか「人間の理解を越えていることでしてね」と言われたら追い詰めることはできないと思います。
その上でギャラリーがキョウソ君を「うさんくせー」と思うか、「すばらしい!」と入信するか、それはわかりませんし、またギャラリーの自由であるとも思います。
例えばキョウソ君が「私を信じれば病気は治るのだあ」とか言い出した時に「こら待て、臨床データは?治癒の実績は?!」と問いつめるのは、治療法を選ぶ上で絶対必要だと思いますけどね。
macskaさんの仰る「現実との関わり」は多分こういう部分かと想像はしているんですが。
92
:
macska
:2007/01/12(金) 17:26:18 ID:VdHL1C4M
>>87
> 宗教は信じれば良いもの。必ずしも知る必要はない。その通りだと思います。
> だからこそ、宗教者はたとえ事実と違うことが生じてもそれをただ信じ続けるんじゃないでしょうか。
> ところが、macskaさんは飽くまで「区別しろ」と言うんですね。
区別すべきです。米国大統領がジョージ・ブッシュであると「知る」ことはできますが、神様の名前がヤーウェであるかアッラーであるか「知る」ことはできません。
「いや、米国大統領の名前だって、そう信じているだけではないか」と思うかもしれませんが、米国大統領が誰であるかは、具体的な証拠を元に議論ができるわけです。100%完全の証明はできなくても、「かなり確からしい」ことを「知る」ことができます。そしてその「かなり確からしい」ことは、全世界共通なのです。
# たまに南北朝みたいになって、どちらが正統かで判断が分かれたりするかもしれませんが。
# そうなったらそうなったで、また具体的な根拠を元にそういう状態であると記述可能。
> 宗教の曖昧な部分に線を引こうとすること、結局はそれは事実(知)を受け入れろ、
> 違い(間違い)を認めろと主張することになってしまっているように思うのですよね。
逆です。かれらが曖昧な部分をまるで確定したことのように語るから、例えば科学の進歩によって教義の一部が反証されて傷ついたりするわけです。知らないことを「知っている」と言うな、というそれだけのこと。「信じている」という分には、どんなに非合理的な信仰であっても構わないです。
> 地球が6000年前に出来たなどと言うのは、今にしてみれば大間違いと言えますが、
> 聖書の書かれた時点では納得出来るのかも知れません。現時点で黒だったとして
> も聖書に白と書かれていれば、クリスチャンにとってそれは絶対に白でしかない
> んじゃないでしょうか。宗教とはそのようなものなのでは?
地球の年齢が6000年だと信じているクリスチャンはそれほど多くないはずです。要するに、大多数の宗教者は、自分の認識に合わせて都合よく教義を読み替えるくらい平気でやってのけます。
> そのような性質のモノに「わかっているはずがない」と言うことに意味があると
> 思いますか?
ありますね。だって、わかっていないのであれば、たとえば「人生の意味は何か? どう生きるのが正しいのか?」といった「科学が分からない問い」についての権威を宗教が独占する理由がありません。
> 宗教者が「死後の世界」「人生の意味」をわかった気になっているだけなのか、
> 本当に知っているかを我々が判断することは出来ない。
ここでわたしが「いや、わたしに判断できる、そいつは何も知ってはいない!」と言えば、「macskaが判断できる気になっているだけなのか、本当に判断できるのか、他人には判断できない」とでも言いますか?(笑)
いいですか、「知る」ということが何を意味するのか考えてみてください。単純な話からはじめると、わたしたちが何かを「知る」ということは、他のさまざまな根拠を元に、あることが「かなり確からしい」という認識を得ることだと考えられます。そういった根拠の数々は、それぞれ信憑性を疑うことができます。わたしたちの知覚だって、認識だって、計量器具だってなんだって疑えます。
しかしそのそれぞれについて、個別に「かなり確からしい」「そこそこ信頼できるっぽい」という感覚を得たうえで、一旦疑いを停止することにより、それらの上に新たなことを「知る」ことができるわけです。そのうちに矛盾がでてきたりしたら、自分が「知っている」と思っていることのどこかがおかしいんじゃないかと、また疑いだすわけですね。
宗教における「知る」というのはこれと違い、何の根拠もないところにいきなり「確かな知識」やその根源が登場してしまいます。何の進化もないところにいきなり複雑な「創造神」が登場してしまうのと似ていますね。デネットの言う「空から吊るされたフック」です。しかし、人間の知識も、何かを創造するほどの知性を持った存在も、「空から吊るされたフック」によってもたらされることはあり得ず、必ず下からクレーンによって築き上げられているはずです。
> そもそも「宗教は信じるか否かでしかない」とmacskaさんも仰っていたはずなのに。
> このような主張をなさると、macskaさんはやはり宗教を否定したいんじゃないの?って思えてきますね。
「神の存在を反証できるのか?」という相手に対して、「立証義務は肯定側にありますよ」という、論証上のルールを示しただけです。一般論として宗教は教義を証明する義務があるとは思っていません。
93
:
macska
:2007/01/12(金) 17:27:35 ID:VdHL1C4M
>>89
> でも、そこに神の介入があったかどうかをどうやったら知ることができるんでしょうか?
だから、それが必ず分かるという主張はしていませんって。
それが単なる偶然であったにせよ、神の介入による奇跡だったにせよ、
現実世界で起きたことは、科学的検証の対象となり得ますよ、と。ただそれだけ。
何度言えば理解してもらえるのか。
科学の範疇には、情報不足で解決不可能な問題はいくらでもありますよ。
このケースにおいて「神の介入があったか」というのもその一つというだけの話。
なぜそんなことを言うかというと、「神の介入や奇跡は科学の範疇の外」という人がいるからです。
それは明らかに間違いなのではないかというのがわたしの指摘の趣旨。
94
:
ミケ
:2007/01/12(金) 18:35:58 ID:???
>「神の介入や奇跡は科学の範疇の外」という人がいる
誤解。正確には、
科学で扱うことができない部分、たとえば、現象の『意味づけ』など
(サイコロを振って、1が出る確率は1/6だが、それが「今」起きたことの説明付け、みたいな)
を、神による介入や奇跡と呼ぶことには、科学的に問題も矛盾もない
というもの。
macska さんが誤解されてるとイヤなので、あえて言いますが、
ここでは誰も、「カミサマと謳えば科学は手出しできない」とは主張していないです。
宗教・科学についての現状把握については
議論参加者の(ほぼ)全員が、macska さんとほぼ変わらないとさえ思います。
この部分については結局のところ、日本語の問題。
A.神がいるかどうかという問題は、科学の範囲外
B.神と名がつけばどんなものであろうと科学の範囲外
A≠B。それだけのこと。これがすれ違いの大本です。
その後の部分、宗教と科学のそれぞれのとるべき態度・立場については
いくらか議論の余地はあるでしょう。
その辺はもう『価値観』の話題ですけど。
95
:
macska
:2007/01/12(金) 18:53:47 ID:VdHL1C4M
>>94
順序が違うって。
わたしはもともと、Q&A の記述がまさに「神の存在は科学の範囲外」だったから、そうとは一概に言えないのではないかと言い出したのです。そして、その点についてしばらく議論があって、Q&A も書き直してもらえたし、議論参加者全員「ほぼ変わらない」考え方を共有できたと思ったから、いったん議論を終わらせたわけです。
しかし「それは違う、共有していない」という人がでてきたので議論を再開したところ、相手はわたしの指摘を理解せずに勝手に別の意味に読み替えて「科学主義」だと決めつけている。だからこうして、何度も何度も「わたしが言っているのはこういうことですよ」と説明せざるを得ないのです。もしその説明に他の議論参加者の全員が同意しているなら、もうとっくに議論は終了しています。
96
:
ミケ
:2007/01/12(金) 19:09:38 ID:???
>>95
A≠B
97
:
ミケ
:2007/01/12(金) 19:27:03 ID:???
>>96
じゃ、あんまりに短すぎるか。
というわけで補足説明。
まず、
>>94
のA,Bをちょっと加工。
A.(ホンモノの)神がいるかどうかという問題は、科学の範囲外
B.神と名がつけばどんなもの(疑似科学的神)であろうと科学の範囲外
A ノットイコール B
AとBは異なります。
ここで、地下猫さんの
>>72
を見てみましょう。
>・神の干渉に関してはカガクは手がでない
>・お馬鹿教義=誤ったカガク的事実に依存する教義、疑似科学的教義に対してはカガクは検証できる
これを変換しますと、
・(ホンモノの)神の干渉に関してはカガクは手がでない
・神と名のついた誤ったカガク的事実に依存するモノ、疑似科学的神に対してはカガクは検証できる
まだ補足必要?
98
:
macska
:2007/01/12(金) 19:46:32 ID:VdHL1C4M
>>97
ホンモノであれ何であれ、神が実在して現実社会に何らかの物理的影響を与えているなら、その影響は科学の範囲内に決まっているでしょ? もちろん神様は、自分の能力によってそうした影響を極限まで検出不可能に操作することはできるかもしれませんが、それでもそうしたさまざまな事象が「科学の範囲外」であるという記述のは到底受け入れられません。現実世界で起きていることは、潜在的に全部科学的検証の範囲内です。
> ・(ホンモノの)神の干渉に関してはカガクは手がでない
その「手が出ない」というのは、単に「解明が不可能」というだけであって、科学の範囲の外にあるという意味ではないはずです。少なくともその神が現実世界に関与するタイプの神である限り。
それに対し、「死後の世界」や「人生の意味」はただ単に科学に解明ができないだけでなく、原理的に科学的検証を全く受け付けません。「検証できるけれど分からない」のではなく、そもそも検証できる対象ではないのです。
この違いをきっちり区別するべきです。
> まだ補足必要?
それはこっちが言いたい。
99
:
ミケ
:2007/01/12(金) 20:23:52 ID:???
やはり「確率現象を介した現実への干渉」の部分にすれ違いがあるというわけですね。
昨夜きっちり説明しとくべきだったかも。
1.ミケの言う「確率現象を介した現実への干渉」
神がある瞬間に
「ただしく作られたサイコロにおいて1の目が出る確率が1/6である」
という法則を変化させる。
◎要するに、法則・普遍性・斉一性を前提とする『科学』は、
その「前提」を覆す存在のことを、
データが足りないとかじゃなくて、原理的に検証できない。
証拠というのは、法則・斉一性に基づいて判断されるものだから。
2.地下猫さんの「確率現象を介した現実への干渉」(文脈から予想byミケ)
ただしく作られたサイコロを振って1の目が出た。
1が出るのは確率の問題。
これは神の導きによって1が出たのだ(これは運命だ)、と現実を“解釈”した。
◎科学が扱えるのは、1/6の確率で1が出る、というところまで。
※サイコロの運動がどうとか言いたい場合には「電子の位置(確率でしか記述できない)」に置き換えてください。
100
:
macska
:2007/01/12(金) 21:45:53 ID:VdHL1C4M
>>99
あのね、全部分かってこっちはモノ言ってるの。
問題は、「原理的に検証できない」というときの「原理的」というのをどういう意味で使っているかということで、ミケさんはわたしよりはるかに軽い意味で使っているのです。
たしかに、量子論において「確率でしか記述できない」ことを「原理的に」確定できない、という言い方はします。しかし、わたしが今使っている文脈における「原理的に検証できない」というのは、それとは違った意味なのです。
その意味とは、宗教との関係において、問い自体が科学の範疇を越えていることです。たとえば「死後の世界はあるか?」とか「正しい生き方とは何か?」という問いは、問い自体が既に科学の範疇ではありません。それを、わたしは「原理的に科学の範疇ではない」として、科学において問うことができる現象と区別しているのです。
それに対し「電子はどこにあるか?」という問いに原理的に答えが確定できないとしても、その問い自体は科学の範疇に含まれるものであり、現に量子論という科学理論によって論じられています。
だから、「原理的」という言葉の意味が違うと気付いたときには、これまでも何度か「それは『原理的』という言葉の意味が違いますね」と答えてきたのですが、なぜそれが分からないのでしょうか。
101
:
AH1
:2007/01/12(金) 22:06:17 ID:MM7DYpv2
横ですが
死後の世界は(もしそれがあり、観察する手段が開発されたなら)観測可能なんじゃないの?
102
:
地下に眠るM
:2007/01/12(金) 22:08:11 ID:Y7kDipRw
読めば読むほどカガク主義だにゃ。
その論法でいけば、「死後の世界はあるか」も「正しい生き方は何か」もカガクの範囲になっちまうんだけどにゃー(げらげら
自然科学が脳のことを調べることにより、意識というものがどういうことかわかり、ひいては魂というものを理解するかもしれにゃーので、死後の世界の有無はカガクの対象となる。
ニンゲンの意識の有り様を解析していけば、一定の条件のもとでの「正しい生き方」は自然科学で答えが出せるかもしれにゃー。
その論法なら、森羅万象すべてが自然科学の対象になるんだよ。
ただのカガク万能信仰だにゃ。
死後の世界だの正しい生き方だのは、macskaが宗教の領分(インディアン居留地)に適当だと思うものを恣意的にあげているにすぎにゃー。程度の低い詭弁だにゃ。
103
:
ミケ
:2007/01/12(金) 22:32:41 ID:???
macska さんへ。
えーっと、先のミケの言動を見たら、ちょっと挑発的に見える。
そのことが神経を逆なでしたのなら、そのことだけについては謝罪おきます。
すみませんでしたm(__)m。
(ちなみに地下猫さんの、挑発的態度はいわばキャラ作りみたいなものですので、
気にしすぎると疲れますよ、と忠告しておきます)
ただし、自分の理解力が足りなかったとして、それを詫びるつもりはありませんので
バカの面倒を見るつもりで気長に相手してくださいな。
これ以上バカの相手してられないと思ったら無視でも構いません。
以上礼儀の上での話、以下本題。
>「電子はどこにあるか?」という問いに原理的に答えが確定できないとしても、その問い自体は科学の範疇に含まれるものであり、現に量子論という科学理論によって論じられています。
問いは、「電子がどこにあるのか?」「サイコロの目はいくつが出るのか?」
ではありません。
「なぜ電子がそこに現れたのか?」
「なぜサイコロを振ったら六面あるうちの一つ、1の目が出たか?」
です。
あるところまで突き詰めると、科学は『たまたま』以上の答えを持ちません。
たまたま偶然に、というのは、何も言っていないに等しいので、
そこに神が介入したという“解釈”の入り込む余地が生まれる、というわけです。
インテリジェントデザインがこの最たる例。
インテリジェントデザインのことを、原理的に検証可能というヒトはまず、いません。
もちろん、もしかしたら『たまたま』以上の答えが見つかる可能性もあるでしょう。
そこは、
>>77
の
>結局、チミのいっていることは(38)でRYU_TI_SYUのいっていたことで片づけることができそうにゃんな。
>***************************
>『将来的には解明できるかもしれません』
>とは、いえるかもしれんがそれは
>『将来的に創造論が正しくなるでしょう』
>といってるのとあまり変わらんようなきがするな。
>******************************
104
:
地下に眠るM
:2007/01/12(金) 23:03:51 ID:Y7kDipRw
第一掲示板によく出没する馬鹿に「進化論が正しいなら俺にその証明をしてみせろ」「肯定論者に立証義務があります」というのがいますにゃ。ここの常連はよく知っているよね。で、この類いの馬鹿に対して、いろいろと説明していっても大抵は「わからん、俺にわかるように説明しろ。俺にはわからんからシンカロンは間違いだ」とかなんとかいいだすのがおきまりのパターンだにゃ。
この手の馬鹿は譲ることをしらなくてにゃ。
「専門家集団のなかではそれが認められているんだよ」といっても、陰謀説だのを持ちだしてくるしね。そもそもシンカロンが嫌いで理解したくにゃーんだよな。
その手の馬鹿に対しては、酒のつまみにしつつ「いいからカガクをよく勉強しなさい」くらいしかいいようがにゃーわけだ。
また、知には階層性があるちゅうのは僕もここでよくいっていることなんだけどにゃ。
例えば、イチゴヤドクガエルについての生態というお題については、生態学を中心とする知の体系がその問いと答えを独占するわけで、量子力学も相対性理論もイチゴヤドクガエルの生態を明らかにすることはできにゃー。量子力学と生態学では方法論はカガクという共通項はあるにしても、方法論は大きくちがうにゃ。もちろん、生態学の中でもほ乳類と両生類、両生類の中でもサンショウウオとカエルではそれぞれ方法論は異なるはず。
ある問いに対して特化した体系が、その問いに対する答え(=知)を独占するのはアタリマエのことにゃんね。
だから、その独占された知の正しさに疑問があるというのなら、その体系を丁寧に学んでみなければならにゃー。それもせずに、学ぶ気もにゃーくせに「肯定論者に立証義務があります」とかのたまってふんぞりかえるのは傲岸で無礼でかつ頭のワリイことですにゃ。
僕はもちろん、macskaクンのことをいっているにゃ。
宗教における知の体系というと、神秘主義がまず思い浮かぶにゃんね。スーフィーとかヨガとか禅とかいう体系には、修行者がいまどのくらいのレベルにあるかについては、先達がちゃんと判定できるということですにゃ。客観的な基準はあるらしい。客観的な基準はあっても体験者でなければわからにゃー。権威ある科学誌の査読はそれなりの科学者でなければつとまらにゃーのと同じことにゃんが、なにせ実際の体験の比重がカガクなどよりはるかにおおきい体系であるちゅうことは肝に銘じておかなければならにゃー。
こういう体系に対して、ソトから気楽に、どーせわかってない、とか、信じてるだけ、とか放言して、否定する対象についての無知と傲岸さを宣伝するという行為。
恥ずかしくにゃーのだろうか?
掲示板によくやってくるシンカロン否定にこりかたまったウスラ馬鹿と何が違うんだろうか?
105
:
tema
:2007/01/12(金) 23:11:19 ID:???
>>93
>なぜそんなことを言うかというと、「神の介入や奇跡は科学の範疇の外」という人がいるからです。
>それは明らかに間違いなのではないかというのがわたしの指摘の趣旨。
「現実世界で起きたことは、科学的検証の対象と出来る」これならば、temaは同意します。
しかし、「神の介入や奇跡は科学の範疇の外」こちらについても同意します。
宗教にとって「神の御技」「奇跡」とされた事象は色々あります。
当該事象に対して科学的検証を行った結果、「起こりうる」「不可能」「判断不能」などと判断したとします。
しかし、宗教にとっては科学的検証結果など「それがどうした」なのです、多分。
宗教に於いて、ある事象を「神の御技」「奇跡」とするのは、人の心でしょう。
その事象を科学的に検証しても、宗教にとっては科学が勝手にやってるだけで関係無いのです、多分。
このため、神の介入や奇跡とされる「事象」については科学的検証も可能ですが、その事象が「神の介入」や「奇跡」なのか否かを判断することは、科学の範疇外と考えます。
なお、神の介入や奇跡とされる事象を科学的に検証した結果、そんな事象は発生してなかったと判断しても、宗教にとっては「それがどうした」であり「その事象は発生した」なのです、きっと。
106
:
fukken
:2007/01/12(金) 23:16:01 ID:M5vfENrY
>>92
>かれらが曖昧な部分をまるで確定したことのように語るから、例えば科学の進歩によって教義の一部が反証されて傷ついたりするわけです。知らないことを「知っている」と言うな、というそれだけのこと。「信じている」という分には、どんなに非合理的な信仰であっても構わないです。
”かれら”とは具体的にどのような人たちを指すのでしょうか。
実は私も反省しなければならないのですが、私は真っ当な宗教を想定してここで議論をしていたつもりだったのですが、実際には無意識に似非宗教も含めて話してしまっていました。
「科学の進歩によって宗教がダメージを受けると思う
>>81
」と言うのがそれです。
「そんなこと言ってはかわいそうじゃん
>>87
」と言うのもそうした人たちに対する言葉で、本物の宗教者に対して無礼な発言でした。
さて、macskaさんは色々懸念なさっているみたいですが、果たして真の宗教者は「信じる」こと以外何をするのでしょうか。macskaさんが心配するようなことは何も起こらないのではないでしょうか。
本物の宗教者は、科学による”知”がどうあろうと自分の”信”は揺るがないはずです。
一方似非宗教者はたじろぎ、創造科学などで武装しようとするわけですよね。
恐らくmacskaさんが憤慨するのはそうした現象に対するものなのではないですか。
>要するに、大多数の宗教者は、自分の認識に合わせて都合よく教義を読み替えるくらい平気でやってのけます。
これは暴言だと思いますよ。
こんなのを聞いてしまうと「結局macskaさんは単に宗教が嫌いなだけなんじゃないのか」って思えますね。宗教に対してとても攻撃的な印象を受けます。
>宗教における「知る」というのはこれと違い、何の根拠もないところにいきなり「確かな知識」やその根源が登場してしまいます。何の進化もないところにいきなり複雑な「創造神」が登場してしまうのと似ていますね。デネットの言う「空から吊るされたフック」です。しかし、人間の知識も、何かを創造するほどの知性を持った存在も、「空から吊るされたフック」によってもたらされることはあり得ず、必ず下からクレーンによって築き上げられているはずです。
例えがちょっと漠然として良くわからないのですが、この場合「知る」を「信じる」に置き換えて不都合はないんじゃありませんか?
そして、”「信じている」という分には、どんなに非合理的な信仰であっても構わない”のであれば、それで丸く収まるじゃないですか。
「彼らが彼らが」と言いながら、どうもmacskaさんの側が宗教に対して喧嘩を吹っ掛けているように見えてなりません。
過剰反応し過ぎではありませんか。というより被害妄想なんじゃないかって気すらします。
107
:
地下に眠るM
:2007/01/12(金) 23:54:02 ID:Y7kDipRw
>>99
ミケの解釈で正しいにゃ。まあ(99)のミケ解釈と地下猫解釈は矛盾しにゃーしね。
ただ、もうちょい補足しておくにゃ。
日本大百科より「偶然性」の項を全文引用
***************************
contingency 英語
Zuflligkeit ドイツ語
contingence フランス語
常識的には、どうしてそれが生じたかについて十分な理解が得られていない事柄について、「偶然」という概念を使う。「今日、町で、偶然、昔の友人に会った」というふうに。しかし、よく調べてみれば、その日、同じ町角に、当人と友人とがそれぞれ出かけて行ったのには、それぞれ、それなりの理由があったことがわかるかもしれない。この考え方を推し進めていき、「世の中の事柄はすべて、それぞれが成立するための根拠があって成立したものであり、本質的に偶然生じたものは一つもない。偶然な事柄は、人間の無知のために存在するかにみえているにすぎない」とする人もある。また反対に、事柄を、必然的に生じたものと、偶然生じたものとの二つに分ける人もいる。この考え方は、様相論理学、あるいは物事の性質を本質的なものと偶有的なものとに分ける本質主義に通ずる。しかし、様相論理学や本質主義の当否をめぐってはいろいろな議論がある。
[吉田夏彦]
****************************
macskaは偶然性ということについて「人間の無知のために存在するかにみえているにすぎない」という立場なのは明らかだと思われますにゃ。しかしそれは、自分では気づいていにゃーのだろうけど、偏った立場なんだよね。
で、この「偶然はない」という立場と「偶然はある」という立場のどちらが正しいかは、そうそう決着のつく問題ではにゃーだろう。ほぼ神学論争といっていいんでにゃーかな。
仮に「偶然はない」という立場にたったとしても、カガクという知の体系は常に不完全なのだから(常に不完全であることがカガクという知の体系を最も強力なものとしているのだけれど)、相手が全能の存在だとしたらその「不完全」を突かれることになるにゃ。
この場合においても、「神の干渉はカガクの不完全をつくものである」と定義されてしまった時点でオシマイにゃんね(これをいっちゃオシマイと思って、いままでいわなかったけど)。
もちろん、「偶然がある」ということであれば、そこには魑魅魍魎が跋扈し放題にゃんなあ。
カガクとは因果関係を説明する線的な体系なのだから、本質的な偶有性には手も足もでにゃー。
「自然を対象とするのは自然科学だ」という言い方もここでは弱くて、例えば呪術だって自然を対象とするわけだにゃ。線的論理でにゃーものはカガクとはいえにゃー。
ところが、ニンゲンの意識は、その偶然性をいとも簡単に必然性に転化してしまうわけだにゃ。にゃんとなれば、意識には志向性があるからにゃんね。ドストエフスキー風にいえば、「意識は病気だ」。
ユングは、シンクロニシティを「意味ある偶然の一致」と定義しているにゃ。
「偶然」と「意味」の組みあわせは、自然科学の取扱い範囲外だにゃ。
そして、奇跡とか恩寵とか罰とかいった宗教的なものは、この「偶然と意味」にかかわるものごとなわけにゃんね。
108
:
地下に眠るM
:2007/01/13(土) 00:52:44 ID:Y7kDipRw
もう少し必要と思われるところを乱暴に書いておくにゃ。
この議論をきっちりとやりたかったら、本当は「呪術」という概念をもってくる必要があるように思われますにゃ。宗教と呪術は違うシロモノにゃんから。宗教と科学は呪術の領域において重なりあうのではにゃーかとも愚考するにゃ。なににしろ、宗教・科学・呪術はともに社会的実践にゃんからね。宗教と呪術は連続的ではあるが別の概念。そして、呪術と科学も連続的なところがあるといえるのですにゃ。どう連続的かはここではとても書ききれにゃーのだが。
疑似科学と疑似科学的宗教については、自然科学からだけではなく、文化人類学とか社会学、宗教学、民俗学の立場から総合的に分析することが必要ではにゃーかと思う。
宗教が「真理」を独占している時代というのは確かにあったわけだにゃ(まあ、西洋思想史だけどね)。「我々は真理を握っている」というところから現世否定をしていればよかったわけ(我ながらものすごく乱暴にゃんが、乱暴に書かにゃーと書ききれん)。ところが、科学技術の発展とか啓蒙思想によって、宗教が真理を独占することがかなわなくなってきたというのはいえるでしょうにゃ。
で、近代宗教は「慣習の保全」「道徳的言説」「近代批判」「社会的実践」によって生き残りをはかったわけ。このあたりが「超越性=真理」というエデンを追放された宗教の「インディアン居留地」なわけだにゃ。ひとことでいえば「世俗化」にゃんな。
失礼を承知でいえば、多くの宗教者の意識には、被害者意識のようなものがあってもおかしくはにゃーのだろうと思う。ここで方向性は基本的には2択。合理性をすすめるか(馴化)、聖地奪回をするかだにゃ。
フロイトによれば呪術とは自我防衛に使われるものであるということで(僕はすんごく納得できるんだけど。あと、「自我は呪術的」というのもある。自我の確立には呪術は必須といえる)、被害者意識と呪術は結びつきやすいといえるにゃ。小規模カルトはたいてい呪術的思考をするもんだし。
で、被害者意識を持ついろいろな集団が呪術的思考をして(疑似)科学をひっぱってくるのではにゃーかと思ったりするわけですにゃ。被害者意識に凝り固まってしまうと、科学と呪術の区別がつかなくなるともいえるかもしれにゃー。
で、呪術が宗教を名乗ったり科学を名乗ったりしているのではにゃーかと。
呪術そのものは別にワリイものではにゃーし、ニンゲンが呪術思考をしなくなることはありえにゃーとも思うけど、呪術は宗教でも科学でもにゃーんだな(宗教とも科学とも連続的なところはある)。
本来はこのあたりを仮想敵とみるべきなのではにゃーだろうか?
カガク的検知とかいうよく切れる刃物をふりかざして、宗教をぶったぎっても百害あって一利もにゃーのではにゃーかと僕は思う。さらに被害者意識をつのらせるだけに終わることでしょうにゃ。
109
:
地下に眠るM
:2007/01/13(土) 02:54:52 ID:Y7kDipRw
理系ニンゲンが多いこの場所で、いきなり「呪術」とかいってしまったので、呪術についての簡潔な説明を付け足すのがよいと思っていろいろ探しているんだけど、どうも今の議論においてピンとくるものがにゃーです。猫招きを店におくとかいうのも確かに呪術なんだけどね。
で、以下は呪術のある一面に着目したにゃんこ定義なので、眉に唾付けて聞いてくださいにゃ。
宗教→偶然性・固有性と意味解釈の体系
呪術→意味操作の体系
宗教には基本的に「操作」をしにゃー。
もちろん、まったく「操作」をしにゃーわけではにゃー。
例えば、ある男女が夫婦であると「宣言」することは立派な呪術のひとつだにゃ。宣言というものには呪術的性質がある。言語を使う以上、どうしても呪術性が発現してしまうわけで、禅宗で「不立文字」などというのはそのあたりを警戒してのことかもしれにゃー。信仰者にとって、意味は与えられるものであって操作するものじゃにゃーんだ。(とはいえ、概念操作ということはしなくちゃならにゃーんだが)
で、対象の「意味」を直接的に操作するのが呪術だというのは、例えばティーンエイジャーに「おまえ、臭いよ。みんなに嫌われてる」といえばどうなるか、を考えてもらえばわかると思いますにゃ。意味を直接攻撃して、対象を破壊しようとしているわけにゃんね。
当然ながら、心理療法は呪術の1種であるともいえますにゃ。意味を解釈して社会的に適応できるような方向に操作するのがその目的。占いもこの1種かにゃ。
ニンゲンに限らず社会的な動物は情動が感染するという面があるのだから、情動の表出ですら呪術的な一面を持つわけですにゃ。情動による対象のコントロールね。もちろん、ニセの感情(怒ったふり、泣いたふり)による対象の操作は意図的な呪術。
また、呪術においても、意味を操作するために前段階として意味解釈はなされるというあたりも、呪術と宗教の連続性を構成するでしょうにゃ。
このスレで言及されていた、雨乞いとか風をふかせる、とかは操作的なものなので文句なく呪術の範疇だにゃ。
呪術が悪い、とか、呪術は前近代的なもの、などとは簡単にいえにゃーこと。および宗教と連続的なところはあるけれども違うことは理解していただけたでしょうかにゃ?
そして、操作体系であることにおいて、カガクと連続性があるということもいっていいと思う。
110
:
macska
:2007/01/13(土) 08:27:13 ID:UfRlMoOA
>>101
もし死後の世界が、わたしたちと同じ現実世界のどこかにあるという主張であれば、確かに科学の範疇ですね。しかし、普通「死後の世界」というときにそれは現実世界にあるとは想定されていないはずです。(大昔であれば、雲の上に物理的にあると信じていた人もいたかもしれませんが。)
神様であれ、天国であれ、「現実世界の内側」に存在したり力を及ぼしていると規定される限り、科学の対象となり得ます。わたしたちの現実世界とは違った場所にあり干渉しないのであれば、科学は手が出せません。それだけのことです。
>>102
ヤケクソになるのはやめましょう(笑)
> 自然科学が脳のことを調べることにより、意識というものがどういうことかわかり、
> ひいては魂というものを理解するかもしれにゃーので、死後の世界の有無はカガクの対象となる。
例えば、進化論が広まった結果神の存在を疑問に思う人が増えたように、人間の意識の科学的解明が進んだ結果人々が死後の世界を疑問に思うようになるという程度の関連はあるでしょうが、進化論によって神の存在が科学の対象となったとは言えないのと同じように、死後の世界の存在そのものが科学の対象になるわけではありません。
> ニンゲンの意識の有り様を解析していけば、一定の条件のもとでの「正しい生き方」
> は自然科学で答えが出せるかもしれにゃー。
それは、宗教が教えるような、いわゆる「正しい生き方」とは違った意味になりますね。
> その論法なら、森羅万象すべてが自然科学の対象になるんだよ。
現実世界に起きていることなら、全て自然科学の対象に決まっています。
>>103
あのー、力説ご苦労ですが、だからそれがどう関係するわけですか?
ある科学的な問いにおいて、科学が「たまたま」以上の答えを出せない。
それは、科学がその問いには全く手も出せないという意味ではないでしょう?
「たまたま」と回答するのが、科学的に誠実な答えであるというだけの話で。
サイコロを振ったら1の目が出た理由を、科学は完全に解明できないかもしれません。
しかし、その現象自体は科学的調査の範疇でないはずがないんです。
>>104
> 第一掲示板によく出没する馬鹿に「進化論が正しいなら俺にその証明をしてみせろ」
> 「肯定論者に立証義務があります」というのがいますにゃ。
(略)
> だから、その独占された知の正しさに疑問があるというのなら、その体系を丁寧に
> 学んでみなければならにゃー。それもせずに、学ぶ気もにゃーくせに「肯定論者に
> 立証義務があります」とかのたまってふんぞりかえるのは傲岸で無礼でかつ頭のワ
> リイことですにゃ。
>
> 僕はもちろん、macskaクンのことをいっているにゃ。
「神の存在を否定できるものなら否定してみろ」という言いがかりが、その「第一掲示板によく出没する馬鹿」が述べる頭のワリイ論法の1つであることが、あなたには分かりませんか?
わたしはその言いがかりに対し、立証責任は「神が存在する」と主張する側にあるという、スタンダードな回答をしているだけですよ。なぜ存在側に立証責任があるかというと、不在を証明するには世界の全てを調べなければいけないので原理的に不可能であることや、宇宙軌道にあるティーポットや空飛ぶスパゲッティモンスターのようなばかげたモノですらその不在証明はできないことから、当たり前です。
わたしは神一般の存在を否定したことはないし、否定する論理も持ち合わせていませんが、それはスパゲッティモンスターを否定できないのと同じだけであり、「神の存在を否定できないこと」は神の存在可能性を少しも高めることにはなりません。神の存在可能性を高めることができるのは、神が存在するのではないかという肯定的な証拠だけです。
こうした思考法が「第一掲示板によく出没する馬鹿」と区別できないとすると、本当に頭のワリイのはあなたでしょうね。てゆーか、思い切り傲岸で無礼だし。
111
:
macska
:2007/01/13(土) 08:27:38 ID:UfRlMoOA
>>105
> しかし、宗教にとっては科学的検証結果など「それがどうした」なのです、多分。
そうあって欲しいものです。
しかし、既に例をあげましたが、仮に紅海の海底を調査したところ、ちょうどモーセの時代頃に海が突如ふたつに割れ、またすぐ元通りになったような跡が残っていたとします。モーセの神話を信じる人たちは、「科学的検証なんて関係ないね、こんな情報知りたくもない」と無関心でいられるでしょうか? おそらく逆に、「これこそモーセの話が事実であり、聖書が歴史を正確に伝えていた新たな科学的証拠である!」と宣伝するでしょう。
また、進化論を支持する論者のあいだで解釈をめぐる紛糾があったり、進化論者が「この部分では完全な証拠がない」と認めたりすれば、「進化論は科学的に証明されていない」と騒ぎ出す宗教者が大勢いるのはみなさんご存知の通り。
つまり、宗教が科学的検証に背を向けることが多いのは、科学が自分たちに有利な結論を出してくれないからです。もし少しでも有利な結論が出てくれば、遠慮なく科学的証拠を利用するでしょう。宗教は科学に無関心なのではなく、無関心を装わざるを得ないだけです。わたしは別にそれを責めようとは思いませんが、かれらの「自称無関心」をそのまま信じるほどナイーブではありません。
>>106
> さて、macskaさんは色々懸念なさっているみたいですが、果たして真の宗教者は
> 「信じる」こと以外何をするのでしょうか。
あのですね、別に何か社会的問題を起こすからダメだと言っているのではなくて、というかそもそも宗教はダメだとかそういう話はしていなくて、わたしは一貫して「科学的手法や理性を支持する側が、宗教に過剰に『遠慮』したり宗教の不当な要求に屈している」ことを批判しています。
>> 要するに、大多数の宗教者は、自分の認識に合わせて都合よく教義を読み替える
>> くらい平気でやってのけます。
>
> これは暴言だと思いますよ。
どうして? 事実として間違いだから? それとも、事実だけれどそれは指摘してはいけないの?
> 例えがちょっと漠然として良くわからないのですが、この場合「知る」を「信じる」
> に置き換えて不都合はないんじゃありませんか?
不都合です。「知る」とはどういうことなのかという部分を読み直してください。
>>107
> macskaは偶然性ということについて「人間の無知のために存在するかにみえている
> にすぎない」という立場なのは明らかだと思われますにゃ。
わたしの立場は、そういう認識に依存しません。いい加減その誤解やめてください。
何十回も説明させるつもりですか?
112
:
tema
:2007/01/13(土) 09:27:57 ID:???
>>108-109
の「宗教と呪術と科学」についてのtema的解釈は以下の通り。
#科学は、原理(公理)から矛盾を許さない論理を使って、事象を解釈する
#呪術は、原理から矛盾を許す論理を使って、事象を解釈する、または作り出す
#宗教は、原理を作り出す
ここで、科学が使う原理と宗教が作り出す原理は別物ですが、なんせ原理なので批判無用です。
問題は、宗教家が宗教の原理を基に呪術で事象を解釈する時です。
この際、事象を接点として科学と宗教が繋がってしまいます。
繋がりはしますが、原理も論理も違います。少なくとも宗教が作った原理は科学とは無関係ですし、「呪術による事象の解釈」と「科学による解釈」が違ったとしても、それは違ってるだけであり「呪術による事象の解釈」が間違ってるとは言えないのでしょう。
113
:
fukken
:2007/01/13(土) 10:36:31 ID:M5vfENrY
>>111
>>> 要するに、大多数の宗教者は、自分の認識に合わせて都合よく教義を読み替えるくらい平気でやってのけます。
>> これは暴言だと思いますよ。
>どうして? 事実として間違いだから? それとも、事実だけれどそれは指摘してはいけないの?
この指摘をする前段で私が真の宗教者を対象として議論をしたい旨をお伝えしたのは了解してもらえていますよね。(創造科学論者やアンチ進化論者、その他似非宗教家を相手にしたり話題にするのは無意味なだけでなく時間の無駄です。)
この条件であれば大間違いだと思います。
「宗教者のほとんどが自分の都合で教義を読み替える」とは宗教者を冒涜する発言であると思います。
そう言い切れるmacskaさんの根拠を教えてください。
私自身は無信心ですが、外国人との付き合いが多くムスリムやクリスチャンの友人が多数おり、寺の住職も親しい友人ですが、macskaさんの仰るようなことはありませんよ。
少なくとも、私の知っている範囲では「宗教者のほとんどが自分の都合で教義を読み替える」は全く成立しません。
114
:
Seagul-X
:2007/01/13(土) 10:56:36 ID:???
んー、別に何十回も説明する必要はないと思いますけどねー
macska さんが「何度も説明した」と主張しているにもかかわらず、納得しないひとがおおいってことは、
1) この掲示板に書いてるひとが(私を含めて)みんな macska さんの書いていることが理解できないほど知的レベルが低い
2) macska さんの説明の仕方がよくないので他のひとが理解(納得)できない
のどちらかだと思うんですが(他にも可能性はあるだろうけど、今回はたぶん無視していいかと)
どちらにしても、今後おなじように説明を続けてもおなじような結果しか得られないと思います。
で、どちらにしても、少なくとも私よりは macska さん頭良さそうなので、この堂々巡りから抜け出すにはどうすればいいか、私が考えつくようなことは説明しなくてもわかりますよね。
115
:
tema
:2007/01/13(土) 10:58:05 ID:???
>>111
>(前略)仮に紅海の海底を調査したところ、ちょうどモーセの時代頃に海が突如ふたつに割れ、またすぐ元通りになったような跡が残っていたとします。
>(中略)
>おそらく逆に、「これこそモーセの話が事実であり、聖書が歴史を正確に伝えていた新たな科学的証拠である!」と宣伝するでしょう。
その跡に対して科学的に解釈し、宣伝に対して科学的に反論(または同意)することは科学の範疇です。
この件については、地下に眠るMさんやミケさんも同意してくれるはずです。10対1で賭けても良いです。
>宗教は科学に無関心なのではなく、無関心を装わざるを得ないだけです。わたしは別にそれを責めようとは思いませんが、かれらの「自称無関心」をそのまま信じるほどナイーブではありません。
無関心を装っているのは宗教ではありません。宗教者です。
そしてtemaは「無関心を装ってる宗教者は一部である」と信じるほどにはナイーブなのです。
116
:
いらはい
:2007/01/13(土) 11:01:27 ID:DHj5XiXA
「知っている」「信じている」をmasckaさんが要求するくらい厳密に使えば、
その意味するところは「これは科学的な知見である」「これは宗教的な知見である」というのと同じになりませんか。
ある人が自分が宗教的な立場から発言していることをもって、その人の神に関する発言は全て「信じている」ことにするという立場が、
「科学と宗教の住み分けは可能」ということだと思うのですが、そのような態度は間違っているのでしょうか。
117
:
いらはい
:2007/01/13(土) 11:03:48 ID:DHj5XiXA
×ある人が自分が宗教的な立場から発言していることをもって
○ある人が宗教的な立場から発言していることをもって
118
:
macska
:2007/01/13(土) 12:33:06 ID:UfRlMoOA
>>113
> この指摘をする前段で私が真の宗教者を対象として議論をしたい旨をお伝えしたのは
> 了解してもらえていますよね。
意図は分かりましたが、「真の宗教者」という括りが恣意的だと思います。対外的な行動原理として「信仰を押しつけるか/押しつけないか」「科学の装いを取るか/取らないか」という違いはあるでしょうが、どちらか一方が「真の宗教者」だというような問題ではないと思います。「世間からみて、はた迷惑ではない宗教者」という区分はできるかもしれませんが。
わたしが「大部分の宗教者」というとき、それには「真の宗教者」もそうでないものも、どちらも含めています。というより、どう区別するのか本当のところいまだに理解していません。
> 「宗教者のほとんどが自分の都合で教義を読み替える」とは宗教者を冒涜する発言であると思います。
> そう言い切れるmacskaさんの根拠を教えてください。
ええとですね、冒涜するつもりは全然ないんですが、言葉が適切ではありませんでした。
「教義を読み替える」というのは書き間違いです。というのも、読み替えられた結果が教義になるわけであり、もともと確固とした教義があってそれが読み替えられるというのは順序が違うので。
わたしがいわんとしたのは、「教典を読み替える」です。元の文脈では「現時点では黒だったとしても聖書に白と書かれていれば、クリスチャンにとってそれは絶対に白でしかないんじゃないでしょうか」という発言に対して、「いや、クリスチャンは自由自在に聖書を読み替えますよ」という意味で答えたので、そこは「教義」ではなく「教典」にするのが正しいです。
というわけで、以下に言い直します。
「大多数の宗教者は、自分の認識に合わせて都合よく教典を読み替えるくらい平気でやってのけます。」
これでも冒涜だと思いますか?
>>114
ええと、議論の途中で、既に本来の論点は済んだものと勘違いして、より先の議論に進んでしまったのが間違いだったと思います。
神の干渉は、それが現実世界に対するものである限り「常に科学が対象とする範囲内」であるというのがわたしのもともとの主張ですが、それを「常に科学によって解明できる」もしくは「必ず潜在的には科学によって解明できる」という風に誤解を受けました。また、わたしもそのような誤解を受けるようなことを言ってしまったのは事実です(それはわたしの主張とは関係ないと撥ね除けるべき議論に、話題本意で乗ってしまった)。
そこで、議論再開以降はわたしの主張するのは前者の「常に科学が対象とする範囲内」だけに絞り、その他はわたしの主張ではないと説明しているのですが、その誤解がなかなか解けないで困っているところです。
>>115
はい、だから、科学が肯定的な結論を示したときだけ「科学の範疇」で、そうでなければ「科学に手が出せない」というのはおかしいのではないかと思うのです。どのような結論であろうと(あるいは結論が出せなくても)、それが「科学の範疇」であることに違いはないはず。
>>116
なりません。「信じている」は、宗教だけが独占するものではないからです。
また、宗教にも「知っている」ことはあり得ます。宗教学や宗教史という形で「知」を形成できます。
まぁ、神の存在や性質についての発言は、確かにほとんどが「信じている」になってしまいますね。
誰も何も知らないんだもの。
「科学と宗教の住み分け」については、何をもって「住み分け」ができているかによるでしょう。ある教義を科学や現実がいくら否定しても、宗教者はその否定された教義を延々と信仰し続けることはできます。それをもって住み分けと言えるなら、住み分けは可能でしょう。
しかし一般に言う「住み分け」というのはそれとは違って、科学には科学の領域があってその内部において宗教は科学を否定できないし、宗教には宗教の領域があってその内部において科学は宗教を否定できない、というものです。しかし、いかに宗教の教義であっても現実世界についての言及である限り科学によって否定される可能性が常にあるわけで、そうした意味での「住み分け」は成り立ちません。
119
:
ミケ
:2007/01/13(土) 12:56:50 ID:???
>>110
>ある科学的な問いにおいて、科学が「たまたま」以上の答えを出せない。
>それは、科学がその問いには全く手も出せないという意味ではないでしょう?
macska さんの専門外の話になってしまうかもしれませんが、
「不確定性原理」というものがあります。
以下、Wikipediaより引用(引用者が適宜改行)
>例として、量子力学で記述される粒子の位置と運動量について考える。
>この粒子の位置を正確に測ろうとするほど対象の運動量が正確に測れなくなり、
>運動量を正確に測ろうとすれば逆に位置があいまいになってしまい、
>両者を完全に正確に測る事は絶対に出来ない。
>なぜなら、位置をより正確に観測する為にはより正確に「見る」必要があるが、
>極微の世界でより正確に見る為には、波長の短い光が必要であり、
>波長の短い光はエネルギーが大きいので観測対象へ与える影響が大きくなる為、
>観測対象の運動量へ影響を与えてしまうからである。
どれだけ科学が進もうと、科学は人間の営みであり、
人間が人間である限り、観測できない(言い切れない)範囲は出てきます。
そこには、科学が人間の営みである限り手が出せません。
仮に決定論が正しいとしても、
ラプラスの悪魔しか知り得ないようなことまで科学の対象としてしまうのは
ガチガチの科学主義とはいかないまでも、やや科学主義よりかと思われます。
疑似科学の台頭を懸念する立場ならなおのこと、
ヒトがヒトであるがゆえの(神でないがゆえの)科学の限界について
注意深く認識しておくべきだと思います。
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ところで、macska さんは
スパゲッティモンスターを科学の対象だと思いますか?
思わない場合はもう少し続けたいですが、
スパゲッティモンスターを科学の対象だと言う場合、
そもそもミケの指す「科学」とあなたの指す「科学」は違うってことなので
ここらが潮時かな〜と思うのです。
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