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質問

1管理者:2009/02/07(土) 20:42:27

新しいスレッドの提案が有りましたので立ち上げます。提案文は以下の通りです。


「質問」
日蓮、仏教、宗派の教義、歴史などの質問。検索すれば直ぐにわかることを除く。

95問答迷人:2011/07/23(土) 12:07:12

補足です。

出世の本懐について

守護国家論には「法華経は如来出世の本懐なる故に『今者已満足 今正是其時 然善男子 我実成仏已来等』と説く。」と仰せです。釈尊の出世の本懐は法華経を説くことにあったと日蓮聖人は述べられています。そして、日蓮聖人は末法の法華経として「妙法蓮華経の五字」を説かれ、その末法の法華経を、明確な形として残されたものが曼荼羅であると考えています。

つまり、日蓮聖人の出世の本懐は妙法曼荼羅であると考えています。

96古沢石日:2011/07/23(土) 13:40:39
>約790年間 → 約740年間です。失礼いたしました。

>日蓮聖人の出世の本懐は妙法曼荼羅であると考えています。
文永8年の10月に出世の本懐をとげられたのでしょうか。

出世の本懐といえば、すぐに「聖人御難事」をあげられる方が多くいらっしゃいます。
「聖人御難事」が戒壇御本尊のことを仰せでないのは、この御書を初めて
拝したときから存じ上げておりました。
どうして出世の本懐が「聖人御難事」となるのか、書物やネット等のいろいろなお考えを
読ませていただいてもまったくわかりません。
お忙しいところご無理をもうしますが、「聖人御難事」の本当の意味を
御教授お願いできませんでしょうか。

97問答迷人:2011/07/23(土) 15:21:59

>文永8年の10月に出世の本懐をとげられたのでしょうか。

どの段階で、曼荼羅が確立されるか、という事ですね。基本形は、文永8年10月の楊子本尊から、観心本尊抄執筆の文永10年4月を経て、文永11年3月の赦免までの佐渡流罪の時期に固まったと考えて、そんなに間違いはないのではなかろうか、と思います。いずれにしても、出世の本懐は、何年何月何日と特定出来るような事ではないと考えます。

>「聖人御難事」の本当の意味

まぁ、この書に本尊の「ほの字」も見当たりませんので、日蓮正宗59世の日亨上人が仰る通り、特定の本尊を指し示す書でないことは明らかだと思います。日蓮聖人は他の御書でも、諫暁八幡抄の『二十八年』とか、今までの弘通を振り返って述べられている個所がありますので、特に聖人御難事の『二十七年』だけに重大な意味があるとは僕には思えません。

98古沢石日:2011/07/23(土) 22:58:43
文永・建治年間では、首題が大きく力強く一目で「南無妙法蓮華経」が
浮かび上がりますが、弘安年間では首題が小さく、四天王・梵字が凄く大きく
相貌は同じでも、全く違うという印象を受けるのですが、何か意味があるのでしょうか。

>今までの弘通を振り返って述べられている

おっしゃるとおりですよね。お題のまま「聖人御難事」を振り返られている御書
ですよね。どうしてこれが「戒壇の本尊」なのかこじつけもいいとこです。

そうしましたら、御書には「戒壇の御本尊」についての御文は「無」ということ
になりますでしょうか。

99問答迷人:2011/07/24(日) 06:08:27

古沢石日さん

>相貌は同じでも、全く違うという印象を受けるのですが、何か意味があるのでしょうか。

申し訳ありませんが、僕は曼荼羅の相貌について研究したことがありません。この掲示板をご覧の諸賢が、書き込んでくださるのを待ちたいと思います。

>御書には「戒壇の御本尊」についての御文は「無」ということ

戒壇について述べられた個所はありますが、戒壇本尊などと言うヘンテコな記述はありません。『戒壇本尊』は一体、誰が言い始めたのか、後世であることは間違いないですね。

100古沢石日:2011/07/24(日) 13:32:26
問答迷人さん

こちらの板では全員「日蓮聖人」とお書きになります。
日蓮聖人と日蓮大聖人の違いは何なのでしょうか。

101問答迷人:2011/07/24(日) 14:26:06

大聖人=仏の意。法華経方便品には釈尊の事を『慧日大聖尊』と書かれています。ここで『尊』とは『尊い人』の意味ですから、大聖尊とは大聖人の意味と取れます。末法御本仏日蓮大聖人 これが、日蓮正宗・創価学会等の呼び方ですね。宗祖を久遠本仏の再誕と考える訳です。

聖人=宗祖の自称です。法門可被申様之事(文永六)に次のように述べられています。

『又聖人は言をかざらずと申す。又いまだ顕れざるのちをしるを聖人と申すか。日蓮は聖人の一分にあたれり。』

102古沢石日:2011/07/24(日) 14:46:54
問答迷人さん

ありがとうございます。
では私も本日より日蓮聖人と書かせて頂きます。

>宗祖を久遠本仏の再誕
解らない事を山ほど持っている私ですが、この久遠元初のお話が全くわかりません。

「久遠元初の自受用報身如来こそ「末法の法華経の行者」たる日蓮大聖人」
「久遠元初の自受用報身如来」
何がはじめで何が後で何が何時で?????始まりがなんで末法と同じなのか
日蓮正宗・創価学会のご本尊の首題ははどうして自受用報身如来では無いのでしょうか?

103問答迷人:2011/07/24(日) 15:35:50
古沢石日さん

当掲示板に於いて、この点は色々な方々が議論をなさっています。まずは、過去の掲示板の議論をご覧になって見られては如何でしょうか。

過去ログは当掲示板の上部にリンクが張られています。その中の「日蓮大聖人が御本仏であるという教義について」をご覧ください。


さらに、当掲示板の議論は、同名のスレッドが当掲示板にありますから、そこをご覧ください。その上で疑問点をご提示戴けると、有難いです。宜しくお願いいたします。

104古沢石日:2011/07/24(日) 20:43:06
問答迷人さん

かしこまりました。
他の話題のスレッドもいろいろじっくりと拝見させていただきます。
今後とも宜しくお願い申し上げます。

105古沢石日:2011/07/26(火) 21:02:32
少し読ませて頂きましたが素晴らしい掲示板ですね。
勉強に勉強を重ねらた方々が対話されるのですから宝箱のような討論ですね。
「本尊と曼荼羅」スレッドで犀角独歩さんが桐谷先生のお名前を書かれていましたので
検索させていただきました。
実は私は、信仰を別にして日蓮聖人のおまんだらが何よりの心の癒しといいますか
安心といいますか、本当に大好きです。
まあ小学校入学するかしないかの時期からずっとおまんだらを見つめて生きてきましたから
親以上に心に残るのは当然だと思います。
問答迷人さんにご紹介いただきました御本尊一覧のサイトも毎日のように
見させていただいています。

106古沢石日:2011/07/26(火) 21:13:32
ところがですね、いざ相貌と考えても
目を閉じると「南無妙法蓮華経」の首題しか浮かんでこないのです。
私も壮年となりましたが、昔から記憶力には自信がありますが
首題しか目の前にお出になりません。
それにもう一つ、パソコン仏壇をと思いまして、土日で設定しかけたのですが
エラーの続出で断念いたしました。
モデムの不調やらパソコン本体の不具合。
管理されてる方はご存知と思いますが、IPがかなり変動していると思います。
モデムの再設定をかなりやりました。
パソコン仏壇はしばらく保留とさせていただきます。

107問答迷人:2011/07/27(水) 09:26:21

古沢石日さん

>宝箱のような討論

僕もそう思います。ところでお探しの宝物は見つかりそうですか?

>首題しか浮かんでこない

主題の五字が一番大事なので、蓮祖の、そのようなご配慮があるのだと思います。

108古沢石日:2011/07/27(水) 23:48:45
問答迷人さん

ひきこもり小僧が部屋の外に出てきたような驚きです。
こちらにお邪魔するまでは偽書の存在も知りませんでした。
今までまったく気付かなかった事なのですが、創価系や法華講系の
掲示板で議論の際に引用される遺文は偽書と呼ばれる御書が大半ですね。
捏造・改竄されている事も知らず、自分達の正当性を主張する為に
これぞ伝家の宝刀なりと引用しています。

日蓮聖人の御遺文を日寛教学を通して学ぶ
創価学会も日蓮正宗も「池田教」とか「日顕宗」ではなく
双方ともに「日寛宗」と呼ぶほうが正しいのではないでしょうか。

109古沢石日:2011/07/27(水) 23:56:32
五年前に亡くなった私の父は、薄給を工面しながら昭和40年代の
「日蓮大聖人御書講義集」原島崇著を何十冊も購入しておりました。
父も偽書の存在は知らなかったと思いますし、知らないままでよかったです。
残された書籍の山ですが、目を通す必要は無いでしょうか。

110問答迷人:2011/07/29(金) 18:16:29

古沢石日さん

昨日は、多忙の為、書き込む事が出来ませんでした。

>偽書と呼ばれる御書

明らかに偽書と判るものは、そんなに害はないと思います。また、論争が有って、真偽が決まっていないものも有ります。例えば三大秘法抄。大抵真書だろうという事で、真書扱いされているけれど、真蹟も無ければ、鎌倉当時の写本もないものも多数あります。これをどう扱うか、これが問題です。
この掲示板では、『真蹟が残るもの』『身延の火災で焼失したけれども、焼失前の写本が残るもの』『日蓮聖人の当時のお弟子さんの達の写本が残るもの』この辺りまでは、一応議論の基礎として良いのではなかろうかと言う意見が趨勢かと思います。勿論、真蹟遺文が残るものしか議論の基礎としない、という考え方もあると思います。

ただ、明らかに偽書だとされてきた、身延・池上の相承書や、百六箇抄、本因妙抄等の相伝書の類は、大石寺や創価学会では真書扱いで、堂々と議論の根拠とされています。どうしても、これ等の書が真書であると言うのなら、偽書だという指摘に反論すべきだと思うのですが、まともな反論はお目にかかったことがありません。反論というよりは強弁というべきものしかなされていないと思います。

例えば、身延・池上の両巻相承が真書であるという根拠として良く言われるのが、北山本門寺に於いて紛失したもので、その前の写本がちゃんとある、等との強弁です。そもそも、大石寺の相承書がなぜ北山に有ったのか、もし本当に北山に有ったというなら、北山が本家で大石寺は分家という事になり、しかも、その紛失したという時代には、北山と大石寺はすでに仲違いをしており、大石寺に日蓮聖人の血脈相承なるものが流れていないことは明らかであるわけです。
しかも、五老僧と日興上人の間で、意見の違いが生まれてしまったときに、この両巻相承がもし存在したとすれば、そのような時の為にこそ活用されるべき筈の相承書が、全く日興上人やそのお弟子さん達の著作に現れてこないのは極めて不可思議・不自然としか言いようがありません。
もし、紛失したのが事実とすれば、捏造された両巻相承が紛失したに過ぎないわけで、何の意味も無いと言わざるを得ません。

111問答迷人:2011/07/29(金) 19:02:51

>双方ともに「日寛宗」

日寛師はすでに存在していた大石寺教学を体系化し、纏め上げたのだと僕は認識しています。本気で大石寺教学を信奉していたかどうか、その点は定かではない気がします。宗門の拡大興隆に貢献したことは事実でも、日蓮聖人の教義を捻じ曲げたのは、感心しません。一番気になるのは、戒壇板本尊を中心にして教義を組み立てたことです。恐らくは、日寛師も、戒壇板本尊が後世の作と知りながら、宗門の興隆を第一に考えて、そのようにしたのかなぁ、等と思っています。

今の創価学会や日蓮正宗も、その日寛師の教学の呪縛から一歩も出ていないように思います。そういう意味では、仰る通り、どちらも日寛宗であり、その分派という事になりましょうか。

112問答迷人:2011/07/29(金) 19:08:10

>「日蓮大聖人御書講義集」原島崇著

日蓮聖人の遺文を学ぶにはあまり役に立たないかもしれませんが、その当時の創価学会と現在の創価学会の変遷を知るためには、大変貴重な資料という事になると思います。大切にされるべきだと思います。いつか、必要になる事が必ずあると思います。

113古沢石日:2011/07/29(金) 22:32:55
問答迷人さん

お忙しい中多数ご回答御教授いただきまして真に有難うございます。
原島著作は資料として保管したほうがよろしいでしょうか。
掲示板をご覧の方で、興味を持たれる方がいらっしゃるのなら
送料を持っていただけるのでしたら差し上げます。
研究資料として使っていただけるのでしたら、父も喜ぶと思います。

日蓮聖人のご意思を離れた「日寛宗」同士のいざこざならば怨嫉にも
なりませんね。

お忙しい中御教授願いたいのですが、「胸中の肉団におはします」の御遺文を
戒壇本尊を否定するときに引用することが多いのですが
日女御前御返事も偽書なのでしょうか。

114古沢石日:2011/07/29(金) 22:34:28
誤(戒壇本尊を否定するときに引用することが多いのですが
正 (創価学会側が、戒壇本尊を否定するときに引用することが多いのですが

失礼いたしました。

115古沢石日:2011/07/29(金) 22:41:26
戒壇本尊否定ではないですね。
すみません。創価学会はまだ否定しておりませんですね。
上手くいえませんが、創価学会員は日女御前御返事をすごく大事に語ります。

116問答迷人:2011/07/30(土) 07:05:18

>古沢石日さん

建治三年の日女御前御返事は、御本尊について詳しく述べられた御書として有名ですね。創価学会では盛んに用いられてきたと存じます。

一点、問題があります。この中の引用に「一念三千即自受用身」とありますが、「自受用身」という表現、及び引用は、真蹟遺文には全く存在しません。この点から、偽書の疑いがあると思います。
勿論、この書が曼荼羅を否定していないばかりか、曼荼羅を供養することの重要性を述べられていることは、疑いの余地がありません。この書の都合の良い個所を切り文にして、曼荼羅否定に利用するのは、この書の趣旨に真っ向から逆らいますね。これは、この書が真書であるか偽書であるか以前の問題です。

117古沢石日:2011/07/30(土) 10:57:36
問答迷人さん

過去に創価学会の書籍、会合等でいろいろな指導に引用された御書の
多くに、真偽を問う議論がされていることをネット検索で気付きました。

これは一から勉強しなおすといいますか、今まで受けてきた指導は
全て頭から切り離したほうがよいでしょうか。

何をどう勉強していいのか訳がわからなくなってきました。
文底読みという言葉も正宗と学会だけでしょうか。

118問答迷人:2011/07/30(土) 18:22:49

古沢石日さん

>一から勉強しなおす

恐らくは、日蓮聖人の教えとは違うものを、日蓮聖人の教えだとして、受容してしまうと、急には頭の切り替えは難しいですね。例えば、天動説しか知らなかった人が、急に地動説を教えられても、面食らってしまいます。時間の経過の中で少しずつ修正されるのが良いと思います。日蓮正宗こそが日蓮聖人の正系門家であるという前提から物を考えてきた人に、「日蓮聖人は六老僧の選定をされたのみで、唯授一人の血脈相承等と言う事はなされておらず、それらは全て後世の作り話」と急に言われても、「はい判りました」とはならないと思います。

>文底読み

開目抄には、『文の底に沈めたり』と言う表現があることは確かです。それは、法華経の経文の全てが「一大秘法=妙法蓮華経の五字」の為に説かれている、と言った意味合いでしょう。日寛師のように、さらに「どの経文の底か」等と突き詰めれば、やはり「我本行菩薩道」の文の底に一大秘法・妙法蓮華経の五字が沈められている、という議論にはなると思います。ただ、大石寺並びに創価学会は、この一大秘法・妙法蓮華経の五字を、さらに「戒壇板本尊の事である」と読み代えるわけですが、これは真っ赤なウソであると考えます。これこそ、日蓮聖人の教義の重大な改竄だと思います。

119古沢石日:2011/07/30(土) 23:40:15
問答迷人さん

私が最初に疑問を持ったのが「戒壇本尊」でした。このことは以前書かせて頂きました。
次に会員の会長崇拝に違和感を持ちました。会長から頂いたと聞かされた米粒ほどの
パンの切れ端を涙ながらに口に入れる会員達にこれは普通じゃないと感じておりました。

そんな中で私が信じてきたのは「お題目」と「御書」だけです。
その御書に偽書があったなどまったく知らず、今それがかなりショックです。
しかも学んで来た御書が選んだように真偽の疑いがあるものばかり。

問答迷人さんは、日々どのような形で御書を勉強されているのでしょうか。
御書を手にしても、どこからどう読ませていただくのか、少し頁を開いても
ほとんど現代語訳ができません。
暗記するほど勉強した御文は偽書の疑いありです。
どうしていいか本当に悩んでおります。

一大秘法を戒壇本尊の読み代えは、ずっと以前から否定していました。
たまに誘われて会合に出ては「一大秘法は本門の題目」と主張して
まわりから白い目で見られておりました。
最近、創価学会のHPの公式見解から会談本尊が本懐という記述が
削除されたそうです。
会合等では何のお知らせも全くなく、HP見てる人しかしらないみたいですが。

120古沢石日:2011/07/30(土) 23:41:50
会談本尊が本懐 → 戒壇本尊が本懐  失礼いたしました。

121問答迷人:2011/07/31(日) 07:13:07

古沢石日さん

>問答迷人さんは、日々どのような形で御書を勉強

日蓮宗の現代宗教研究所のホームページに真蹟遺文、写本遺文、注法華経、などの貴重な資料がアップされています。これをダウンロードして、使わせていただいています。

具体的には、たとえば「本尊」について、日蓮聖人はどのように述べておられるかを、ダウンロードしたテキストファイルの【編集(E)】から【検索】を選んで、【検索する文字】欄に【本尊】と入力して、次々と真蹟遺文を検索して行きます。ヒットした遺文の該当箇所から必要と思われるものを新たなテキストフアィルにコピーして行きます。最終的に選び出された真蹟遺文の該当箇所を繰り返し拝読して行くと、日蓮聖人が【本尊】についてどのように述べておられるかが概略把握できてきます。さらに、そこから、関連する【曼荼羅】や【五字】と言った用語を、同様の手法で検索抽出して、更に日蓮聖人の本尊観を突き詰めて行く、と。まぁ、こういう手法で、一つ一つの語句を日蓮聖人がどのように考え、使われているかを探ってゆく中で、日蓮聖人の御考え、教えの全体像が順次浮かび上がって把握できるようになってきます。そうなれば、御遺文は、比較的に意味が取れるようになってきます。

テキストフアィル化された遺文は、本当に貴重です。検索を掛けることによって、全体観が手早く把握できます。このような遺文の拝読方法はパソコンの普及して現代ならではですね。テキストフアィルの活用をお勧めします。

122問答迷人:2011/07/31(日) 07:15:02

現宗研の資料がアップされているアドレスは以下の通りです。

http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/bunken.htm

123問答迷人:2011/07/31(日) 10:26:11

追加です。

既にご存知かもしれませんが、創価学会版の新編日蓮大聖人御書全集がアップされており、ダウンロード出来ますので、ご紹介しておきます。

http://sgi.daa.jp/netgsofl/index.html

124問答迷人:2011/07/31(日) 10:31:05

更に追加です。

その他、大石寺版の御書全集のテキストファイル版もありますが、これはネット公開されていません。もし、必要ならば、メールして下さい。添付ファイルにてお送りします。

125古沢石日:2011/07/31(日) 14:18:12
問答迷人さん

ご丁寧にお答え頂きまして真にありがとうございます。
現代宗教研究所のファイル、早速にダウンロードさせていただきました。
日々勉強させていただきます。ありがとうございます。

創価学会版の新編もダウンロードさせていただきました。
大石寺版、是非頂けませんでしょうか。
お手数をおかけしますが何卒よろしくお願いいたします。
先程メールさせていただきました。
何から何まで本当にありがとうございます。

126古沢石日:2011/07/31(日) 15:23:56
問答迷人さん

すぐに勉強を始めさせていただきました。
真蹟遺文を開きますとすぐ「不動・愛染感見記」がありました。
大日如来より日蓮に至る二十三代嫡々相承 建長六年六月二十五日
とありますが、立宗宣言翌年に大日より相承とはいかなる事でしょうか。

翌年の諸宗問答抄において、大日如来信仰を破折されておりますが
こちらは真蹟がなく西山本門寺に日代の書写本があるそうです。

問答迷人さんは、どのようにご判断なさいますか。

127問答迷人:2011/07/31(日) 16:17:02

>大日如来より日蓮に至る二十三代嫡々相承 建長六年六月二十五日

日蓮聖人の諸御書には、大日如来からの相承を覗わせる記述はありませんね。

この記述をどうとらえるかは、難問です。どういう訳か、恐らくは都合が悪いので削除したのでしょうが、この両感見記は真蹟遺文が現存するにも拘わらず、創価学会版にも大石寺版にも見当たりません。ただ、大石寺版の御書全集では、「不動・愛染感見記」を「真書ではあるが信仰に資するところ少なきものとして収録しなかった。」という言い訳が前書きの十一頁に書かれています。

この「不動明王」と「愛染明王」は曼荼羅には梵字で書かれているとされています。曼荼羅の両脇の梵字が不動・愛染を表しているそうです。それが事実なら、信仰者はいつも不動・愛染を拝している訳で、『信仰に資するところ少なきもの』という表現には大きな違和感を感じます。

富士宗学要集に収められている「御本尊七箇相承」には「五、梵字は不動愛染に限る事何の意有りて遊ばざるるや、師の曰はく西天より梵字を三蔵等将来して和漢の二字と成す目前なるものなり、我が仏法も亦復是の如し遠沾の翻訳仮字を梵漢に通ず可き先兆なり。」と書かれています。この相承が日蓮聖人の正しい相承書であるかどうかは、又、議論のあるところですが、日蓮正宗では不動・愛染について、曼荼羅の左右の梵字がそれを表現しているという認識を持っているわけですから、「信仰に資するところ少なき」と言うのは、どう考えても変ですね。

さらに、要集に収められている本尊三度相伝では「次に二明王の事は愛染王は煩悩即菩提の躰なり、是の色赤きは●欲の色なり、此の●欲即是れ道と観ずれば明王なり、さて不動明王は生死即涅槃の躰なり、其の色黒きは界内険氷・生死黒業は改めざる即不動明王なり、されば愛染は恵なり・不動は定なり、此の愛染不動は何物ぞ定恵の二法なり、此の定恵の二法は何物ぞ我等が境智の二法なり、我等が境智の二法何物ぞ只是れ我等が本分の妙法なり、爰を以つて経には歓喜して愛敬し能く千万種善巧の語言を以つて分別し演説し法華経を持つ故とも説き、又云く無量義処三昧に入つて身心動ぜずとも説けり、されば我等が煩悩愛染する時も妙法と唱ふれば即菩提の明王なり、我等が生死の動転する時も妙法と観すれば即涅槃明王なり、全く愛染不動とて別躰なし、只是れ我等が色心境智定恵の妙法是れなり、余准じて之を知るべし云云。 中略 問て云く至心敬礼し本尊を拝見するに皆以つて漢字なり、何ぞ不動愛染に限つて西天の梵字を用るや、答て云く異説有りと雖も且く一義を述ぶ不動愛染の自躰梵字に於いて利益す可き故に漢字を略して梵字を載せ例せば陀羅尼品咒の如き梵音を聞いて得益す可き故に直ちに梵語を説いて漢語に翻ぜず、之に准じて知る可し云云。是れ等当宗の大事秘蔵の奥旨なり、正機に非ざるよりは千金も伝ふる事なかれ、願くば門徒の法器を撰んで密に面授相伝す可し。」とあります。

不動・愛染が密教では大日如来の化身と考えられていますので、恐らくは、曼荼羅に梵字を取り入れられた背景には、密教曼荼羅の相伝が存在するのではなかろうかと、僕は想像しています。そして、それが感見記なのではなかろうかと。

128古沢石日:2011/07/31(日) 17:47:00
このような質問が出来るようになるなどとは、夢にも思っておりませんでした。
疑問が生じることが、命が湧き出るように感じて幸せです。
本当にありがとうございました。

>信仰者はいつも不動・愛染を拝している訳で、『信仰に資するところ少なきもの』という表現には大きな違和感を感じます。

「日蓮正宗創価学会」の時代から、この二つの団体は日蓮仏法の鎖国
状態にありましたから、隠すというより「知らない」のではないでしょうか。
どちらも自身を正当化するために御遺文等を改竄し、不都合は隠蔽してきた結果
自分たちの知るものには奥深く知識があるが応用も引用もできかねるのではないでしょうか。
現存する御真筆のまんだら127幅のうち4幅以外はすべて梵字の二明王を取り入れられている。
それなのに「信仰に資するところ少なき」?絶対知らないと思います。

信仰には二通りあると思います。
「何を信仰するのかを知り確信する」と「何も迷わず考えずただ信ずる」
普通指導者等は、前者を極め指導するのが信仰だと思いますが、
お寺も学会も後者のような気がします。
考えを書き込みとスレ違いになりそうなので、これからは私見は創価学会の功罪スレに
書かせていただくようにします。
そちらでも私見を破折して頂けますよう、お願い申し上げます。

129古沢石日:2011/07/31(日) 18:45:59
失礼しました。
× そちらでも私見を
○ そちら様におきましても私見を

130問答迷人:2011/07/31(日) 21:15:39

>隠すというより「知らない」のではないでしょうか

創価学会版御書全集の編纂者、堀日亨師は、日蓮宗とも交流があり、しかも、日蓮宗も碩学として一目も二目も置く存在でした。しかも、元々、この不動・愛染感見記は富士門に伝わる数少ない真蹟遺文の一つです。その方がその価値を「知らない」等という事はあり得ないと思います。自宗門の信仰のあり方を深く知っておられたが故に、ワザと知らんふりして、編集から外したのだと思います。

>「何も迷わず考えずただ信ずる」・・・・・お寺も学会も後者のような気がします。

学会員や法華講員には、そういう側面は確かにあると思いますが、創価学会の指導層も宗門の指導層も、何もかも判っていて、だんまりを決め込んでいるように思います。何しろ、唯授一人の血脈などというドグマが罷り通っていますから、先師が右だと言えば、それを左だ、と訂正することは困難な訳です。現に、日顕師も、教学部長の時は、戒壇板本尊が偽物、と喋っておきながら、67世になると、そんなことは言っていない、聞いた河辺師の記憶違いだ、等と恍けて見せる訳ですから。

131古沢石日:2011/08/01(月) 00:46:21
知らないのではなく「言えない」ですか。
言えないじゃなくて「言わない」ですね。
なんだか怖いですね。

以前ご本尊のことで、御書を用いて釈迦多宝十方諸仏普賢菩薩等は仏像として造立して題目の左右に立ててもよい
と教えていただきました。

しかし日興上人身延離山の理由は「神社参詣、神社への寄進、釈迦立像建立の可否」とありますが、
造仏を禁したのは日興上人独自のお考えなのでしょうか。
創価学会が宗門を攻撃するもののひとつに「日興上人の禁を破り17世が造仏をした。」
とあります。いかがお考えでしょうか。
よろしくお願いいたします。

132問答迷人:2011/08/01(月) 16:59:14

古沢石日さん

>造仏を禁したのは日興上人独自のお考えなのでしょうか

身延離山(正応二年一月)の少し前に書かれた、有名な「原殿御返事」(正応元年十二月十六日)には、次のようにあります。

「身延沢を罷り出で候事面目なさ本意なさ申し尽くし難く候えども、打ち還し打ち還し案じ候えばいずくにても聖人の御義を相継ぎ進らせて、世に立て候わん事こそ、詮にて候え。さりともと思い奉るに、御弟子悉く師敵対せられ候いぬ、日興一人本師の正義を存じて、本懐を遂げ奉り候べき仁に相当つて覚え候えば、本意忘るること無くて候。」

「日興一人本師の正義を存じて」とありますから、この文面からはそのようにも取れます。この文の前に、造仏について述べられた個所があります。

「日興が申す様には、せめて故聖人安置の仏にて候わさばさも候いなん。それも其の仏は上行等の脇士も無く始成の仏に候いき、其の上其れは大国阿闍梨の取り奉り候いぬ、なにのほしなさに第二転の始成無常の仏のほしく渡らせ給うべき。御力契い給わずば、御子孫の御中に作らせ給う人出来し給うまでは、聖人の文字にあそばして候いしを安置候べし。」

この文面からは、強ちに造仏を否定されている訳でなく、『四菩薩の脇士が無いと久遠の仏にならないから造っては駄目だ』と仰せの様に取れます。これは、唱法華題目抄において、日蓮聖人が示された本尊の有り方とは、少し違っていますね。

「本尊は法華経八巻・一巻・一品、或は題目を書きて本尊と定むべしと、法師(ほっし)品並びに神力品に見えたり。又たへたらん人は釈迦如来・多宝仏を書きても造りても法華経の左右に之を立て奉るべし。又たへたらんは十方の諸仏・普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし。」(唱法華題目抄)

この唱法華題目抄は日興上人の写本が現存するわけですから、日興上人は、この日蓮聖人の本尊についての教えを良くご存知な訳で、その上で、四菩薩を添えた釈尊像ならば、本尊としても良い、と言う見解を持って居られた訳で、この点については、日興上人の独自見解と言えると思います。但し、結論として「御子孫の御中に作らせ給う人出来し給うまでは、聖人の文字にあそばして候いしを安置候べし。」と述べられ、日蓮聖人の曼荼羅を安置しなさい、と指導された訳ですから、結果的に造仏禁止の様な流れがそれ以降の富士門に色濃くなっていったのだろうと思われます。

>日興上人の禁を破り17世が造仏をした

日興上人が禁止されたのは、一体仏を造って本尊として安置する事ですから、どのような造仏を日精上人が行ったのか、が問題になりますね。宗門攻撃の詳細内容をご存知ありませんか。それを見てみないと何とも言えないのではありませんか。

133古沢石日:2011/08/01(月) 22:02:50
問答迷人さん

>日興上人が禁止されたのは、一体仏を造って本尊として安置する事ですから、
>どのような造仏を日精上人が行ったのか

申し訳ございません。私の読み違いでございました。
日精が批判されているのは、仏像を造り仏像を本尊とした事のようです。
おまんだらも本尊、釈迦像も本尊としたことが、日興上人のご指導に
そむいたとされているということだそうです。
唱法華題目抄で仰せのことは、題目を本尊としてその左右に
立ててもよいということですから、私の読み間違えでございます。
愚問を書き、お忙しいお時間をいただいた事をこころよりお詫び申し上げます。

134古沢石日:2011/08/01(月) 23:27:46
問答迷人さん

日蓮聖人が本仏であると一番最初におっしゃったのは日有上人なのでしょうか。

9世日有より法の付嘱を受け、登座した10世日乗は、わずか3年で法を11世日底に
付嘱し、その2年後の4月に日底、11月に日乗が遷化したため
翌年に再住したそうです。文永14年9月7日に12世日鎮わずか14歳で登座。
しかもその後すぐの9月29日、9世日有遷化。その後13世日院9歳で登座。
17世日清はわすか一年で日盈に付嘱。5年後に再住。
日寛上人も再住するものの、最初は2年で27世へ付属。

その後も付属をうけるも一年ほどで遷化された法主も結構おられるようですね。

法主であるのに、子供だったり短期間であったり、なんだか不思議な相承の歴史だと思います。

日達上人から日顕上人への相承のことが常に論争になっておりますが
登座されてから急に亡くなられた方も多々いらっしゃったようで
昔から結構あった問題ではないでしょうか。

135問答迷人:2011/08/02(火) 06:47:10

>なんだか不思議な相承の歴史

無理やりこじつけて、法灯連綿を強弁しようとした結果だと思います。不自然になるのは当然ではないでしょうか。元々、唯授一人の血脈相承などと言うものは存在せず、そんな神話を権威づけの為に作り上げたのが間違いだったと思います。尤も、当時は何らかの理由で、そんな権威付けをしてでも、大石手を守らなければ、寺の存続すら危うい状態があったのかもしれません。火災で大石寺の諸堂が16世の時に焼失し、17世への相承は江戸で行われたりしている訳ですから。

136古沢石日:2011/08/02(火) 23:24:53
問答迷人さん

少しずつ大石寺のもやっとした霧が晴れてくるように感じます。
いつもありがとうございます。

本日の疑問なのですが、妙心尼御前御返事で
「今の日 本国の人は一人もなく極大重病あり
所謂大謗法の重病なり
今の禅宗念仏宗律宗真言師なり」とありますが
禅・念仏・律は「宗」なのに、どうして真言だけ「師」なのでしょうか。
お忙しい中恐れ入りますが、よろしくお願い申し上げます。

137古沢石日:2011/08/02(火) 23:25:49
× 大石寺のもやっと
○ 大石寺に対するもやっと   
失礼しました。

138問答迷人:2011/08/03(水) 05:51:28

古沢石日さん

>真言師なり

創価学会版並びに日蓮正宗版では、「真言師」となっていますが、現宗研の真蹟遺文では、「真言宗」となっていますね。もう少し当たってみますが、遺文の判読の差があるのではないかと思います。どちらが正しいのか、真蹟に直接当たらないと判らないでしょうね。少し時間を頂戴します。

139問答迷人:2011/08/03(水) 07:43:32

昭和定本では、『真言宗』ですね。やはり、見解は真っ二つに分かれているようです。

これ以上は、僕の現在の調査能力を超えますので、諸賢のご意見を待ちたいと思います。

140古沢石日:2011/08/03(水) 22:29:23
問答迷人さん

ひょっとすると誤植かもしれませんね。
創価学会・日蓮正宗版ともに誤植だったら、この二冊は
真蹟を元にでなく、先に編集されたどちらかを手本に編集された
ということかもしれませんね。

先日「小樽問答」を文章に起こした物をじっくり読んでみました。
問答での創価学会の主張は現在の日蓮正宗の主張であり、日蓮宗の主張は
今の創価学会に思想に近い物を感じました。
高々五十数年でこんなに変わってしまうのだから七百数十年の経てばいろいろあっても
無理はないのかもしれませんね。

昔からいろいろな日蓮系の宗派が、自宗の正当性を主張して相手方の間違いを
誹謗中傷してきたと思うのですが、
日蓮聖人のおまんだらを本尊とし、「南無妙法蓮華経」の題目を
唱える者同士の誹り合いを、戒めるような御遺文はありませんでしょうか。

宗派が違ったら何でもありなんでしょうか。怨嫉だと思えます。

141問答迷人:2011/08/04(木) 13:28:05

>誤植かもしれませんね

可能性はあると思いますが、誤植とすれば如何にも唐突な誤植だと思います。恐らくは、何らかの根拠でそうされているのではないかと思います。追加で調べたら「行道文庫版」御書も『真言師』となっています。

>唱える者同士の誹り合いを、戒めるような御遺文

真蹟遺文では、思い当たりません。真蹟以外だと「異体同心事」はそのような内容とも取れますね。

142古沢石日:2011/08/04(木) 22:59:32
問答迷人さん

「異体同心事」ですが、法華講の方がのブログ等では
ご本尊を根本とした「異体同心事」。特に本山の戒壇ご本尊を根本とした「異体同心事」
ですね。
創価学会では「先生」「師弟不二」を中心とした「異体同心事」
まったく別信仰の宗教団体ですね。破門がなければ、もめる事もないというか
交じり合うことも無いくらい信仰対象の違う団体ですね。

問答迷人さんは、団体に所属せず、日蓮聖人の教えを信仰されておられますが
折伏はどうなさっておられるのでしょうか。
仏法対話されて、お相手が「是非自分も信仰したい。」と希望される方が
一人二人三人と現れた場合、その人たちに勤行唱題の基本から教え始めたら
団体化してしまうのではないでしょうか。
折伏なしに自行化他はありえないと思います。
どのように行動されておられるのでしょうか。

143問答迷人:2011/08/05(金) 10:58:15

>一人二人三人と現れた場合、その人たちに勤行唱題の基本から教え始めたら
団体化してしまうのではないでしょうか。

確かに難問ですが、既に、最大の難問である本尊問題は、インターネットからダウンロードして表装して本尊とするという事で、一応解決済みかと思います。

144問答迷人:2011/08/05(金) 14:14:09

つづきです。

>勤行唱題の基本から教え始めたら

これ等は、ネットの掲示板、或いはブログを拠点として、行う事は十分可能であると思います。動画をアップ可能な掲示板があります。御本尊の安置方法の動画、勤行動画、唱題動画、等々。

>団体化

あくまでも無教会主義のサイトとして、組織は一切作らない。勿論、集金システムは一切作らない。運営責任者は一切置かない。等々を基本として、運動が進むようにシステム化を図る。基本は、コンピューターシステムによる自動運営とする。
まぁ、このようにすれば、ある程度は団体化の弊害を排除できるのではないでしょうか。

>どのように行動されておられるのでしょうか。

無教会による日蓮法華信仰の啓蒙、と言っても今のところはこの掲示板の書き込みを行っているだけです。これが、今は点ですが、やがて線になり、面に広がって行くようにしたいと思っています。

145古沢石日:2011/08/05(金) 23:35:20
>>143
>>144
まさに新時代の折伏と感じます。
>無教会による日蓮法華信仰の啓蒙、と言っても今のところはこの掲示板の書き込みを行っているだけです。これが、今は点ですが、やがて線になり、面に広がって行くようにしたいと思っています。
現にわたしは、この掲示板で問答迷人さんの啓蒙を受けて日蓮法華信仰に
目覚めました。おっしゃるとおり点が線にそして面に広がること間違いなしと
確信しております。本日立正大学の小松邦彰先生の「立正安国論」・「開目抄」
を購入して読み始めました。この掲示板にお世話になる前の私は、モヤモヤしながらも
創価系の書籍しか読むことが出来ませんでした。このような心の変化は
問答迷人さんのご指導の賜物です。ありがとうございます。

最近創価学会では「謗法」を「謗法」とみなしません。
問答迷人さんは、神社仏閣に対してどう対処されますか。
私は付き合いでいかなくてはいけない時には、神社等には
いやいやいきます。しかし鳥居はくぐりません。
仏像って木彫りのでかいお人形だと思ってます。

146問答迷人:2011/08/06(土) 20:14:00

>問答迷人さんは、神社仏閣に対してどう対処されますか。

この課題には、立正安国論における日蓮聖人の御考えを理解することが先決だと思います。立正安国論の該当箇所を引用します。

「倩微管を傾け、聊か経文を披きたるに、世皆正に背き人悉く悪に帰す。故に善神国を捨てて相去り、聖人所を辞して還らず。是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る。言はずんばあるべからず。恐れずんばあるべからず。」

この短い文章の中に日蓮聖人の基本的な御考えが網羅されていると思います。先ず、人々が正法に背き、悪法に帰依すると、『善神』という国土が人々を守る働きが失われ、『聖人』という社会が人々を安泰に導く働きが損なわれる。そして、『鬼』という「国土が人々を襲う天災」が盛んになり、『魔』という「社会が人々を様々な困難に陥れる人災」が盛んになる。

このような立正安国論の日蓮聖人の御考えを受けて、日興上人は次のように原殿御返事に記されています。

「殊にいたく此の国をば念仏真言禅律の大謗法の故大小守護の善神捨て去る間、その後の祠(ほくち)には大鬼神入り替わりて、国土に飢饉、疫病、蒙古国の三災連連として国土滅亡の由、故に日蓮聖人の勘文関東の三代に仰せ含ませられ候い畢んぬ、」

ここに示された『人々が仏の正法に背いて悪法に帰依すると、善神が去りそこに鬼神が入れ替わる。』という日興聖人のお考えは、立正安国論に見られる日蓮聖人のお考えと基本的に同じと考える事が出来ます。原殿御返事にはさらに次のようにも述べられています。

「いかに謗法の国を捨てて還らずとあそばして候守護神の、御弟子の民部阿闍梨参詣する毎に来会すべしと候は、師敵対七逆罪に候わずや」(謗法の国を捨てた善神が、『日蓮の弟子が参詣すれば、その都度神社に戻ってくる』等というのは、日蓮聖人に対する師敵対である。)

日興上人は、『一つは悪法に帰依してはならない。もう一つは国中の人々の悪法帰依が原因で鬼神の棲家となってしまった神社には参拝してはならない。』と教えらたと思います。

以上の事から、日蓮法華信徒は、『念仏真言禅律の大謗法の仏閣に参詣してはならないし、さらに日本が正法帰依の国になるまでは、神社に参詣してはならない。』という事になると思います。

近所や親戚の付き合いで行くのは、これは、信仰とは基本的に関係のない『御付き合い』なので問題はないですが、その時も周囲の人に「寺社詣で」と取られないような配慮は必要かと思っています。

147古沢石日:2011/08/07(日) 00:04:42
>日蓮法華信徒は、『念仏真言禅律の大謗法の仏閣に参詣してはならないし、さらに日本が正法帰依の国になるまでは、神社に参詣してはならない。』
>という事になると思います。


付き合いなので、参拝の意思がないから、などと気がゆるんだ事もありました。

>周囲の人に「寺社詣で」と取られないような配慮は必要かと思っています。

仰せのとおり今後は気をひきしめさせて行動していきたいと思います。
ありがとうございました。

日興上人のご指導を引いていただきましたが、
問答迷人さんは、日蓮聖人のご意思を継承されたの日興上人以降
何代までとお考えでしょうか。
その他の門流の上人などの書物は参考にされませんでしょうか。

148問答迷人:2011/08/07(日) 09:31:21

>日蓮聖人のご意思を継承されたの日興上人以降何代まで

「日蓮聖人のご意思」というのは具体的には神天上法門についての事でしょうか。それなら、結構、大石寺は今日に至るまで継承してきたと思います。

>その他の門流の上人などの書物

そこまで手を広げる時間的経済的余裕がありませんでしたので、参考にした事はありません。

149古沢石日:2011/08/07(日) 15:23:34
>本当に大事なのは法華経二十八品ではなく題目の五字だよ

以前問答迷人さんにご指導いただいたお言葉です。
いま日本国中の日蓮系のすべての教団で
この事に気づき指導している宗派は皆無だと思うのですが
いかがでしょうか。

150古沢石日:2011/08/07(日) 15:39:43
功徳について、創価系の掲示板で素晴らしいとおもうやり取りがございましたので
こちらに紹介させて頂きますのでご意見いただけますでしょうか。
板名、投稿者様名など引用しますと許可いただかなくてはいけませんので
私なりに文章を整理してみました。

板主さんは、功徳を語ることでまた功徳があるので、とにかく何でもかんでも
喜びを功徳と感じ功徳を板に書こうとおっしゃってます。過去に会長指導でそう
あったそうですが、趣意としてしか紹介されておりません。
例としては、昇給した出世した商売繁盛、試合で勝った。代表に選ばれた等々
みなさんで書き込みしておられます。
それに対して功徳とは六難九易で言うところの九易の部分でつまりは題目を唱えれば現れて当然なもの。
創価の方は何故にいつまで経ってもこの様な当たり前すぎることに一喜一憂するのかと思うと、
いう意見がありました。
さらに、考えられる事は題目を唱えても、この当たり前の現象が現れない人が多いからだとおっしゃる。
九易と言うくらいですから功徳は現れて当然なもの、むしろ題目を唱えているにも拘らず功徳が現れない方が不自然な現象である。
創価も創立80年だと言います、そろそろ功徳が訪れたと言う当たり前の現象より
功徳が現れないと言う不自然な現象について語っていった方が宜しいのではないか
現証から察すれば、これは当然の理に思えるのですが。
この方は創価学会二世でしたが、脱会してお一人で信仰されてます。

151古沢石日:2011/08/07(日) 15:42:51
それに対して
>功徳が現れないと言う不自然な現象

お題目を唱えていないからではないでしょうか。
本人は題目だと思っているが、題目ではない。
だから功徳が現れないのではないでしょうか。

という意見があり
「南無妙法蓮華経」とはお題目の事になります。
お題目とはそもそもタイトルのことを意味しますから
一念によって、その内容は如何様にも変化するものだと思われます。
このお題目を通じ、仏に念じれば功徳が得られるものとして唱えれば
それはお題目は念仏となり、念仏となってしまったお題目は、やがて無間地獄を願うお題目となるでしょう。
何故、念仏を唱えると無間地獄となるかは、念仏の特性である捨閉閣抛から
怨嫉誹謗の言葉が発せられるようになるからともいえます。
功徳を感じられなくなった人には、この怨嫉誹謗に心当たりがあるのではないかと思います。
加えて、お題目を真理の言葉と捉え唱えると、そのお題目は真言となります。
こちらは念仏とは違い功徳を感じる事が出来ます。
しかし、今度はこの当たり前の現象である功徳に対して執着し
いつでも功徳、功徳と欲する乞食信心となるでしょう。
乞食信心では功徳におぼれる事になり、それが尽きる時に人は離れてしまい、やがては亡国の道を辿ると言えます。
ですからあまり功徳、功徳と当たり前のことに一喜一憂するのではなく
本物の信心とは何かと言う事を考えていきたいものです。

という答えがありまして

152古沢石日:2011/08/07(日) 15:45:25
功徳とは現世安穏です。

と意見があり

我此土安穏 天人常充満 園林諸堂閣 種種宝荘厳
宝樹多華果 衆生所遊楽 諸天撃天鼓 常作衆伎楽
雨曼陀羅華 散仏及大衆

我が此の土は安穏にして 天人常に充満せり 園林諸の堂閣 種々の宝をもって荘厳し
宝樹華果多くして 衆生の遊楽する所なり 諸天天鼓を撃って 常に衆の妓楽を作し
曼陀羅華を雨らして 仏及び大衆に散ず

功徳とは、園林諸の堂閣が種々の宝をもって荘厳であるとか
宝樹華果多くして、衆生の遊楽する事にあるとかいろいろあるかもしれませんが
結果的にそれもこれも確かに仰るように
安穏にある事が一番の功徳なのかもしれませんね。

と結ばれておりました。
いかがでしょうか

153問答迷人:2011/08/07(日) 17:39:41

古沢石日さん

>>本当に大事なのは法華経二十八品ではなく題目の五字

これは観心の本尊抄等、諸御書に於いて、日蓮聖人が繰り返し教えられたことです。そして、唱法華題目抄によれば、題目の五字を紙に書いて本尊とし、その本尊の前に座って南無妙法蓮華経と唱える事を教えられています。この趣旨から、お題目を唱える時には『仏壇にお掛けした曼荼羅の妙法蓮華経の五字を拝し奉り、嗚呼有難いと深く信じて南無妙法蓮華経と唱え奉る』と言う事を僕は心掛けてきました。この趣旨は日蓮正宗の67世日顕師が観心本尊抄を講義された時に述べられたもので、甚く感銘しましたので、ずっとこの心構えを忘れないように自分に言い聞かせています。


>本人は題目だと思っているが、題目ではない。
>一念によって、その内容は如何様にも変化

もし、そういう事があるとすれば、妙法蓮華経に南無する、という趣旨から大きく外れた気持ちでお題目を唱えているという事でしょうね。たとえば、誰かの不幸を願うとか・・・

>功徳とは現世安穏

正確には、功徳とは「現世安穏 後生善処」だと思います。

御本尊たる『妙法蓮華経の五字』に南無し奉る、と言うのが日蓮聖人の教えられた『南無妙法蓮華経』であると考えています。

154古沢石日:2011/08/07(日) 21:41:24
>日蓮正宗の67世日顕師が観心本尊抄を講義された時に述べられたもので、甚く感銘しましたので、
>ずっとこの心構えを忘れないように自分に言い聞かせています。

日蓮正宗を離れられた現在でも67世日顕師の指導は大事にされておられるのですね。
私は、疑問が生じるとすべて否定的になってしまうところがあります。
ここは学ぶ部分ここは除く部分の判断が出来なくなり、白黒のどちらかでないと
気がすまないことがほとんどです。
否定もするが、のめり込み易い。
自分の心の弱さが情けないです。

155問答迷人:2011/08/07(日) 22:05:56

古沢石日さん

>67世日顕師の指導は大事にされて

日顕師の指摘で大切にしているものがもう一つあります。例の河辺メモです。実に正確に事実を認識しておられたと感服しています。

日蓮正宗関連HPリンク集の資料の箇所にリンクが張られています。恐らくは、このメモが世に出ることが無ければ、僕は今も大石寺戒壇板本尊を信じて信仰していたと思います。この意味で、日顕上人には正直、深く感謝しています。

156古沢石日:2011/08/07(日) 22:20:15
大石寺戒壇板本尊ですが、後世の作であってもご本尊はご本尊であり
他のご本尊と全くかわりは無いということですよね。
それよりも日蓮大聖人本仏論の主張というほうが、
御本尊たる妙法蓮華経の五字に南無し奉る、と言うのが日蓮聖人の教えられた
南無妙法蓮華であるとというご意思に反するのではありませんか。
釈迦を本仏とする他の日蓮宗各宗派諸々も
同様に日蓮聖人のご意思に反していると思います。

現在日本に「妙法蓮華経の五字に南無し奉る」宗派は存在するのでしょうか。

157古沢石日:2011/08/07(日) 22:27:47
続きです。

南無妙法蓮華経と言葉を発するが心では日蓮大聖人を仏としたり、
釈迦を仏とし念じ唱題する事は、大変な間違いではありませんか。

>>151に、引用しました
本人は題目だと思っているが、題目ではない。
この意味はそういう事ではないでしょうか。

158古沢石日:2011/08/07(日) 22:44:43
長々続けてすみません。

そもそも、妙法蓮華経に南無し奉り己心の仏界を湧現する
唱題がすべてとして教えに「本仏」という考えは必要ないのでは
ありませんか。
「本仏」を特別な対象としてしまうと
南無 「(本仏)」がお題目になってしまいます。

これって誹謗になりませんか。

159問答迷人:2011/08/07(日) 23:05:54

古沢石日さん

>大石寺戒壇板本尊ですが、後世の作であってもご本尊はご本尊であり他のご本尊と全くかわりは無いということですよね。

確かにそうなんですが、この戒壇板本尊のみが日蓮聖人の出世の本懐であり、他宗の曼荼羅は、たとえ日蓮聖人の直筆であっても、拝んでも何の功徳も無いばかりか、謗法の咎によって、却って罰を受ける、とまで、日蓮正宗は教えたわけです。この我田引水の邪義の対象とされたのが大石寺戒壇板本尊です。この邪義に踊らされてはならないと思います。

>現在日本に「妙法蓮華経の五字に南無し奉る」宗派は存在するのでしょうか。

日蓮宗各派は全て南無妙法蓮華経を教えている、つまり、妙法蓮華経の五字に南無することを教えている訳ですから、すべて、「妙法蓮華経の五字に南無し奉る」宗派なのではないかと思います。僕が行ったことのある日蓮宗の寺院では、確かに釈尊像が祭られていましたが、その後ろには、曼荼羅が掛けられており、四菩薩も祭られていました。

恐らくは、本尊の形式は、日蓮聖人の教えから出発している訳ですから、そんなに差異が有るとも思えません。問題は、信徒に対してどのように「南無妙法蓮華経」の謂れを伝えているか、なのではありませんか。

>心では日蓮大聖人を仏としたり、釈迦を仏とし念じ唱題する事は、大変な間違いではありませんか。

恐らくは、日蓮聖人は、「何しろ、南無妙法蓮華経と唱えなさい。そうすれば意味は分からなくても、赤子が乳を飲むのは理屈では無いように、自然に正しい信仰に成って行くのだ」という御考えだったと思います。そんなに事細かく喧しくは言われなかったのではないかと思っています。

160古沢石日:2011/08/08(月) 00:54:31
>「何しろ、南無妙法蓮華経と唱えなさい。そうすれば意味は分からなくても、赤子が乳を飲むのは理屈では無いように、
>自然に正しい信仰に成って行くのだ」という御考えだったと思います。

仰せのとおりこの事が肝心要ですね。
大事なことを忘れておりました。ありがとうございます。

質問ですが
どうして熱原の三烈士には、諸天の加護が無かったのでしょうか。
三烈士の不惜身命の行為が出世の本懐だとする声もありますが
そうだとすると仏教でなくなってしまうのではないでしょうか。

161古沢石日:2011/08/08(月) 20:40:42
>確かに釈尊像が祭られていましたが

この釈尊像をとらまえて、日蓮本仏団体は大謗法だと指摘するわけで
逆に日蓮宗は釈尊本仏をもって、「御書をも読めぬ偽書創作大謗法団体だ。」と
争い続けておるのではないでしょうか。

>赤子が乳を飲むのは理屈では無いように、自然に

これを実践するなら、教学が不要ですね。
心を真っ白に唱題するのが一番という事になりませんか?
全てを受け入れる心が一番なら、お題目以外一切目に耳に頭にいれない
事がもっとも正しい信仰姿勢ということではないでしょうか。

ひとつの言葉、一行の言葉、それらをあらゆる方向からいろいろな見解で
議論研究するという行為が日蓮聖人のご意思にそむくのではないでしょうか。

162問答迷人:2011/08/08(月) 21:56:55

>どうして熱原の三烈士には、諸天の加護が無かったのでしょうか

上野殿御返事(弘安二年十一月六日)に、次のように日蓮聖人は述べられています。

「仏になるみちこれにをとるべからず。いをの龍門をのぼり、地下の者のてんじやうへまいるがごとし。身子と申せし人は仏にならむとて六十劫が間、菩薩の行をみてしかども、こらへかねて二乗の道に入りにき。大通結縁の者は三千塵点劫、久遠下種の人の五百塵点劫、生死にしづみし。此れ等は法華経を行ぜし程に第六天の魔王、国主等の身に入りてかうわづらわせしかば、たい(退)してすてしゆへに、そこばくの劫に六道にはめぐりしぞかし。かれは人の上とこそみしかども、今は我等がみ(身)にかかれり。願はくは我が弟子等、大願ををこせ。去年去々年のやくびやうに死にし人々のかずにも入らず。又当時蒙古のせめにまぬかるべしともみへず。とにかくに死は一定なり。其の時のなげきはたうじ(当時)のごとし。をなじくはかりにも法華経のゆへに命をすてよ。つゆを大海にあつらへ、ちりを大地にうづむとをもへ。法華経の第三に云く「願わくは此の功徳を以て 普く一切に及ぼし 我等と衆生と 皆共に仏道を成ぜん」云云。恐々謹言。

十一月六日 日蓮花押 上野賢人殿 御返事 

此れはあつわら(熱原)の事のありがたさに申す御返事なり。」

三烈士は殺されるのを覚悟して、殉教の道を選んだ訳です。日蓮聖人は、一度は死ぬ命なのだから「をなじくはかりにも法華経のゆへに命をすてよ」と述べられて、彼らの殉教の姿を愛でられています。「此れはあつわら(熱原)の事のありがたさに申す御返事なり。」と。

>これを実践するなら、教学が不要

これでは又、もう一つの極端に陥ってしまうと思います。当時の識字率は極めて低かったと思います。僧侶や武士階級は文献を読んで教学を学ぶことが出来ます。その人たちの為に、日蓮聖人は、多数の御書を送られ、法門を教えられています。教学が必要ないとお考えであれば、法門を弟子檀那に教えようとはされなかったと思います。いかし、信徒の中には、文字を知らず、日蓮聖人のお手紙を見ても読めない方が多数おられたと思います。また、少しは文字は読めても、法門の道理を理解するまでは難しかった方も多数おられたと思います。日蓮聖人はそのような人に対しては、何も知らなくても良い、ひたすらに南無妙法蓮華経と唱えよ、と教えられ、武士階級の信徒には、教学を教え、揺るがない信仰を確立するようにご配慮されたと思います。
現代に生きる僕たちは、瞬時にして、日蓮聖人の御書を読み、理解することが出来ます。あらゆる疑問を次々と乗り越えて、赤子が乳を飲むような純粋無垢な心でお題目を唱える事が出来れば、それが一番良いと思います。今日は多忙につき、御書の引用は、明日以降にさせてください。

163古沢石日:2011/08/08(月) 23:10:53
問答迷人さん

お忙しい中ご丁寧に御教授いただきまして
真にありがとうございます。
今後とも宜しくお願い申し上げます。

164古沢石日:2011/08/09(火) 01:10:00
>赤子が乳を飲むような純粋無垢な心でお題目を唱える事が出来れば

初心の功徳ということでしょうか。

165問答迷人:2011/08/09(火) 19:19:03

古沢石日さん

>初心の功徳ということでしょうか

四信五品抄で、日蓮聖人は次のように述べておられます。

『答ふ 小兒乳を含むに其の味を知らざれども、自然に身を益す。耆婆が妙薬誰か弁へて之を服せん。水心無けれども火を消し、火物を焼くに豈に覚り有らんや。龍樹・天台皆此の意なり。重ねて示すべし。問ふ 何が故ぞ題目に万法を含むや。答ふ 章安の云く「蓋し序王とは経の玄意を叙す。玄意は文心を述す。文心は本迹に過ぎたるは莫し」妙楽云く「法華の文心を出だして諸経の所以を弁ず」云云。濁水心無けれども月自ら清めり。草木雨を得て豈に覚り有りて花さくならんや。妙法蓮華経の五字は経文に非ず、其の義に非ず、唯一部の意耳。初心の行者其の心を知らざれども、而も之を行ずるに自然に意に当る也。』

つまりは、南無妙法蓮華経のお題目は、法華経二十八品の極意なので、その謂れを知らなくても、自然に法華経の極意に達するのだ、と。

この日蓮聖人の御主張は一貫していますね。題目の五字が何かを表現しているのではなく、妙法蓮華経の五字それ自体が法華経が表現しようとした、仏の悟りそのものである、と。

ただ、日興上人の有名な遺戒置文には、「論議講説等を好み自余を交ゆ可からざる事」或いは「当門流に於ては御書を心肝に染め極理を師伝して」等と議論や教学の大切さを遺言として戒めておられます。当然、その当時は、対象は僧侶な訳ですが、無教会信徒は、自ら僧侶の役目も兼ねなければなりませんから、この遺戒は心に刻むべきだと思っています。

166古沢石日:2011/08/09(火) 21:10:09
古沢石日さん

>>165 のご意見を頂きまして信心という言葉の大事さを
    改めて心に刻めることが出来ました。
いつもいつも、お忙しい中お時間頂きまして心より御礼申し上げます。

167古沢石日:2011/08/09(火) 21:12:13
すみません。
>>166 問答迷人さんへの御礼です。
失礼いたしました。
私って、そそっかしいですね・・・恥ずかしいです。

168古沢石日:2011/08/10(水) 23:12:11
問答迷人さん

いつもありがとうございます。

題目をあげてもあげてもあげてもあげても
心に躍動感を感じないとおっしゃる方がいらっしゃいます。
どうアドバイスしてあげればよろしいでしょうか。

169問答迷人:2011/08/11(木) 10:33:39

古沢石日さん 

四信五品抄の先ほどの次の文を引用してみます。

「問ふ 汝の弟子、一分の解りなくして但一口に南無妙法蓮華経と称する其の位如何。答ふ 此の人は但四味三経の極意竝びに爾前の円人に超過するのみに非ず、将た又真言等の諸宗の元祖、畏・厳・恩・蔵・宣・摩・導等に勝出すること百千万億倍也。請ふ、国中の諸人、我が末弟等を軽んずること勿れ。進んで過去を尋ぬれば、八十万億劫供養せし大菩薩也。豈に煕連一恒の者に非ずや。退いて未来を論ずれば八十年の布施を超過して五十の功徳を備ふべし。天子の襁褓〈むつき〉に纏はれて、大龍の始めて生れんがごとし。蔑如すること勿れ、蔑如すること勿れ。」

このように日蓮聖人は仰せです。やはり、「嗚呼有難いと深く信じて」と言う事が大切だと思います。この『信仰心』が歓喜を湧き上がらせる根本だと思います。

170独学徒:2011/08/11(木) 19:33:35

>>169

横レスにて失礼します。

私は日蓮聖人のこのような主張は、結局は密教の優れた霊験に対抗するための解釈だと思います。

法華における現世利益は、「千中無一人得者」といわれるように難行であり、ましてや末代の凡夫に法華による現世利益は望めません。

それに対して密教では加持・祈祷によって、全く仏道修行をしなかった者でも現世利益を受ける事ができるのです。

理(客観的な理論)の上では同等でも、事(主観的な充足感)では密教が優れている。
所謂「理同事勝」ですが、この慈覚大師の主張はその通りだと思います。

今なお、どの日蓮関係の寺院・教会よりも、密教系寺院の方が無信仰の人も含め多くの参拝者がいます。
何よりの現証だと思います。

171問答迷人:2011/08/11(木) 20:23:10

独学徒さん

日蓮聖人と密教というテーマは、何か、宿敵との死闘の様相ですね。

一つご質問てす。感見記の相承の件ですが、意味を取りかねていますが、この密教の相承と曼荼羅の愛染・不動には、何か関連性があると思えます。この点に関して、独学徒さんの御見解がお聞きできれば幸いです。

172独学徒:2011/08/11(木) 20:57:11

問答迷人さん、

真言宗、天台宗では、勤行の折に「光明真言」という陀羅尼を読誦しますが、真言宗では「光明真言曼荼羅」というものがあり、その為書の書き方が不動・愛染感見記のそれと非常によく似ています。

初期の日蓮本尊は、ご承知の通り主題本尊ですが、もしかしたら現代のように掛軸状にして見上げるようにして拝していたのではなく、禅を組み視線が約1.5メートル先の下を見るように、地面・床等に置いて拝したか、下向き目線で拝せる位置の壁等に貼り付けて拝した可能性もあるのではないかと考えています。

つまり真言密教で行なわれる座禅行「阿字観」を法華信仰に模したのが、日蓮主題本尊の始まりではないかと愚考しています。

ご存知の通り「阿字観」では、「阿」字という文字を本尊にします。
禅を組み瞑想しますが、真言も唱えます。

文字を本尊として同じ言葉を唱える儀式はよく似ていると感じています。
また富士門流に多い読経の日蓮像ですが、正座の座像は見た事がありません。
また両膝がV字にならずに平行になっている座像ばかりですので、胡坐ではなく座禅のお姿なのだと考えています。

先日拝観した「空海と密教美術展」展示の佛・菩薩像も、殆どが結跏趺坐・半跏坐といった座禅を組んでいる座像でした。

まだまだ根拠・論拠薄弱ですが、日蓮聖人の文字曼荼羅信仰は、密教瞑想法の「阿字観」にヒントを得ているのではないかと考えています。

よって、文字曼荼羅に梵字で記される不動・愛染と、感見記、密教修行法とは点と点程度でしか説明がつかない状態ですが、私は大いに関連性があると思います。

173問答迷人:2011/08/11(木) 21:50:12

独学徒さん

>真言密教で行なわれる座禅行「阿字観」を法華信仰に模したのが、日蓮主題本尊の始まりではないか

そうですか、やはり、日蓮法華文字曼荼羅は、真言密教曼荼羅の転用ではないのか、という思いがありましたが、具体的な前駆的修行方法があると言うのは、大変興味深いご指摘です。ありがとうございます。

>不動・愛染と、感見記、密教修行法とは・・・・大いに関連性があると

これは、密教を学ばなくては判らない様に思います。これからの課題にしたいと思います。御教示、大変有難うございました。

174古沢石日:2011/08/12(金) 01:31:02
独学徒さんは真言宗の方ですか。

175独学徒:2011/08/12(金) 08:27:32

古沢石日さん、

>>独学徒さんは真言宗の方ですか。

違います。
元創価学会で青年部時代は中堅幹部まで経験しましたが、その後ある富士門流の日蓮宗本山貫首猊下とご縁があり、御本尊を御書写戴き現在に至っています。

仕事の合間に文献収集と実地踏査を自分なりに行い、色々と調べ実物を眼にしていますが、日蓮聖人の思想を解析するには天台学の研鑚がまず必要であることに気付き、最近ようやく有縁の台家寺院で真言・念仏・止観(座禅)を実践しつつ、摩訶止観や選択本願念仏集を最初から読み始め、密教関連の資料を収集し始めるといったところに来ています。

日蓮法華の信仰者、特に創価学会等の経験が長いほど、座禅・念仏・真言の学問はまだしも実践は違和感があり、勇気がいることでしょう。
しかし行事て見れば、どれも実に心地よい実感があります。
私的には「理異事同」で、それぞれの教えには異なりがあるものの、実際に行じた時の主観的な実感はどれも同じだと思います。

あえていえば、最近覚えたという充実感から、観音経の読誦や真言、念仏、止観禅の充実感は素晴らしいと思っています。

但し、自分は福祉業界の仕事をしており、高齢者、保育、障害者の支援を行っておりますが、お体が不自由になればまず座禅は難しい、赤子や知的機能の障害が重度になれば、易行といわれる称名念仏行も唱題も難しい場合があります。
他者に自行の実践を勧めるだけの化他行と異なり、密教の加持・祈祷だけは、本人の自行がある無しに関わらず利益があり、自行の実践が困難な人には現世の救いが望めない座禅・念仏・題目よりも密教の方が救済対照が広がることは事実として受け入れる以外にないかと思います。

そういう意味で現在の仏教各派も、密教を批判しているようでも、実際には日蓮宗でも加持・祈祷を行なっており、過去には伝教大師が弘法大師に弟子入りしてまで密教を習得しようとしたのだろうと思います。

176古沢石日:2011/08/13(土) 01:26:21
独学徒さん

>日蓮法華の信仰者、特に創価学会等の経験が長いほど、座禅・念仏・真言の学問はまだしも実践は違和感があり、勇気がいることでしょう。

他宗の事に関しましては、心の鎖国状態で「見ざる言わざる聞かざる。」です。
名前だけで全く何もしりません。
独学徒さんは、題目を唱え他宗の行も実践なさるのですか。
謗法ではないのですか。

177独学徒:2011/08/13(土) 05:43:38

古沢石日さん、

>>謗法ではないのですか。

法を謗っていないので「謗法」ではないと思います。
たとえ「謗法」といわれても、目の前の林檎の味を食べずして判別する事が愚かなように、実践せずして何の判別にもならないと思います。

178古沢石日:2011/08/13(土) 08:21:55
独学徒さん

>目の前の林檎の味を食べずして判別する事が愚かなように

毒入り林檎だったら、口にしたら死んでしまいます。

>何の判別

どう判別されるのでしょうか。

日蓮大聖人は法華経の題目を本尊とせよと仰せではないでしょうか。
判別は大聖人がなさって、これを食しなさいと仰せなのに
我々凡人が、一から試食していくのは愚かだと思います。

179匿名:2011/08/13(土) 09:34:59
日蓮教学自体が既に時代に合いません「五時八教」や「末法説」は天台教学の影響ですでに後世のフィクションだと言うことは現在の常識です、いかに大聖人の説法と言えども、教学を客観的に見て判断するのは現在の日蓮門下の人間として当たり前です。
日蓮遺文を絶対視し過ぎて周りを見ないのはただの盲信です。何時まで起っても真実には辿りつけません。

180問答迷人:2011/08/13(土) 10:51:30

匿名さん

>日蓮遺文を絶対視し過ぎて周りを見ないのはただの盲信です。

仰る通りだと思います。日蓮聖人も時代の人ですから、当時の制約の中で遺文を書かれているという事実に目を塞ぐべきでないと思います。

日蓮聖人の教えを正しく理解するには、まず、後世の写本しか存在しない御書を外し、真蹟遺文と時代写本に絞り込む事。さらに、時代の制約の中で書かれているという歴史的事実を考慮して、真蹟遺文といえども、絶対視しない事。この二つはやはり日蓮法華を学ぶ上で、最低限必要な配慮であろうと思っています。

181独学徒:2011/08/13(土) 10:57:36

古沢石日さん、

匿名さんの仰るとおり、既に述べたとおり日蓮聖人の言説といえども、一期の弘通の中において変化変化の連続で、初期讃嘆した人物を後年誹謗したりといった矛盾を露呈しています。
日蓮聖人は、御本仏でもなければ大菩薩でもない、本山の貫首でもなければ末寺の住職ですらなかったわけです。
研鑚の途上で御主張がコロコロ変わり、修行法も一様ではありません。よって、現在の日蓮門下の修行法がこれほど混乱しているのです。
そのような日蓮聖人の言説に縛られること無く、行学に励むことは別段問題ありとは思えません。

そもそも大石寺側から見れば創価学会は大謗法団体、創価学会から見れば大石寺は大謗法団体、それぞれの組織の都合で「謗法」のレッテルを貼っているだけですね。
「謗法」の概念など現代的にはその程度、信者を縛っておきたいからつかう上等文句に過ぎません。
そのような二文字に何を恐れる必要があるのかと私は思います。

真言宗でも浄土宗でも禅宗でも、大石寺でも創価学会でも幸せな人は幸せ、不幸な人は不幸、宗教に正邪など無く、どの宗教でも取り組む人の心の持ちようでしょう。

日蓮聖人の判別は必ずしも正しくありませんでした。
よって現代に再検討し、宗教観の争いがいかに無意味なことか証明することの方がはるかに尊いと思えます。

既に日蓮宗では機関紙「日蓮宗新聞」紙上にて、法華経が後世創作の経典であることを認めています。
創価学会関係でも、創価大学や東哲研では常識としてとらえているでしょう。

天台大師は法華経が創作である事に気付かないまでも、法華経の真偽に関係なく実践可能な止観(座禅)行を「摩訶止観」として講説し後世に残しました。

日蓮聖人の唱題行は、法華経が後世の創作であり、加えて鳩摩羅什訳が梵品を私訳している以上、残念ながら完全に破綻しています。
その破綻した日蓮聖人の御主張をもとに、他宗の修行法を「謗法」などと謗ることほど愚かな行為は無いと思います。
もし他宗の修行法を批判するなら、自ら実践しその上で効験の有無を論ずるしかないでしょう。

これが現代という、一つの仮城にたどり着いた一日蓮門下の小結です。

182独学徒:2011/08/13(土) 11:58:52

問答迷人さん、

>>180

実に冷静なご見解だと思います。
無教会主義とはいえ、日蓮法華の信徒として、受け入れがたいことを私は記していると思っています。
10年以上にわたりこの板を管理され、多くの人を覚醒させることに貢献された証だと思います。

>>181
誤記が多くありました。

誤:宗教観 正:宗教間

誤:梵品  正:梵本

183独学徒:2011/08/13(土) 12:10:56

>>181

誤:仮城  正:化城

ですね。

重ねて失礼しました。
べつに酔っ払っているわけではないのですが、家族で食事に出かける直前だったもので申し訳ありません。

184古沢石日:2011/08/13(土) 12:29:12
独学徒さん

>日蓮聖人の唱題行は、法華経が後世の創作であり、加えて鳩摩羅什訳が梵品を私訳している以上、残念ながら完全に破綻しています。

完全に破綻しているということは、まったく意味が無いということでしょうか。
独学徒さんは、現在はもうまったくお題目をあげないのですか。
富士門流の日蓮宗本山貫首猊下に御書写いただいたお曼荼羅は
独学徒さんにとっては信仰の対象でなく、研究資料なのでしょうか。

185古沢石日:2011/08/13(土) 12:39:28
独学徒さん

信徒を縛るだけの脅し文句が謗法という言葉。
唱題行は完全に破綻している。
すでに信仰としてはまったく意味がないということですね。
貴方には必要ない。
では貴方「お曼荼羅」不敬できますか。
意味が無いものだとおっしゃるのなら謗法などないと
言い切れるなら不敬平気でできますよか。
美術品だとか貴重品だとかは別として心の問題で「不敬」できますか。

186古沢石日:2011/08/13(土) 12:40:56
誤 できますよか。
正 できますよね。
すみません。わたしも酔っ払ってません。
ちょっと頭に血が上ってしまいました。

187問答迷人:2011/08/13(土) 12:53:01

独学徒さん

>この板を管理され、多くの人を覚醒させることに貢献された証

色々な経過がありましたが、それぞれ自分の所属する団体の主張が「絶対正しい」と思い込んでいる限り、掲示板に参加しても残念ながら何ら得るものはないと思います。そして、自分の信ずるところは信ずるところとして、その信ずる所を批判的に考えている人のお話を大切に考える事が必要なんだと考えるようになりました。反対意見に真摯に耳を傾けなくては、何の進歩・発展もないと思います。このことが少し分からせて戴けたのが、掲示板管理者としての役得かな、と有難く考えています。

>日蓮法華の信徒として、受け入れがたいことを

日蓮法華の信徒と自覚する以上は、あらゆる日蓮法華に対する反対意見に耳を傾け、取り入れるべき知見は取り入れ、改めるべきは改め、そのように学ばせて戴くことが、日蓮法華信仰を深化させ得る唯一の道かな、と思っています。勿論、ひょっとしたら、日蓮法華信仰を深化させて行った先に、全く違った世界が開けるかもしれません。それはそれで是であると思っています。ですから、独学徒さんのご参加を、大いに歓迎致しております。ご意見を聞く度に啓発されます。有難うございます。

188匿名:2011/08/13(土) 13:13:16
誤解無き様にわたしが言った「五時八教」や「末法説」がフィクションだと言うのも「日蓮遺文を絶対視し過ぎるのはただの盲信」と言うのは学術的歴史的にであって個人の信仰面まで意味が無いとは言いません。

どんな宗教でも信じている人には信仰面では世界最尊の宗教です。

それとは別に所属教団の在り方を冷静にみる必要があります。
あらゆる面で絶対に正しいと思うのは 世の中の全てを知ってから言える事です。

189独学徒:2011/08/13(土) 13:29:36

古沢石日さん、

曼荼羅を不敬などしませんよ。そんなことをする必要性が無いからです。
「謗法」について日蓮聖人の解釈を否定しても、それが曼荼羅の不敬につなげる必要性など無いでしょう。
両極端な発想は正邪の二法で全てを判別する教団独特の特性だと思いますが、その両極端な発想そのものを捨てた以上、破綻した教義の宗派の曼荼羅であっても大切に扱って何の問題があるでしょうか。
日蓮宗の貫首上人より賜わった御本尊は、貫首上人の御遷化後、板曼荼羅として彫刻し紙幅の御本尊はお巻きして大切に保管しています。
今でも題目も唱えます。

他宗の修行を実践するから唱題はできないなどということも無いと思っています。
そのような縛りを一切廃しても、日蓮宗や天台宗のお寺はお付き合い下さっています。
創価学会では組織としても、教義的にも認めてくれないでしょうが、自由な世界はいくらでもあります。

「謗法」などという言葉に脅えていては、神社のお参りもできません。
破綻している宗教でも自分がいいと思えば続ければいいことで、特定の宗教だけを他者に押し付ける事が無ければ自由なのがこの国ですから。

美術品的扱いといわれるかもしれませんが、大石寺や要法寺、北山、西山などの富士門流歴代貫首の書写した直筆御本尊も30幅以上ありますが、どれも大切に保管しているつもりです。
いつか金銭的に余裕ができれば、表装を直したいとも思っています。

181に述べたとおり、宗教に正邪など無いと思います。
どの教団も大なり小なりの矛盾や破綻はあります。
だから特定宗教の教義に縛られすぎることは、私的には価値的とは思えなくなりました。

題目も念仏も、真言も座禅も、神社参詣も自由に取り組ませていただきます。

190古沢石日:2011/08/13(土) 13:30:25
匿名さん はじめまして

>あらゆる面で絶対に正しいと思うのは 世の中の全てを知ってから言える事です。

世の中の全てを知った人など人類史上おりません。

191古沢石日:2011/08/13(土) 13:35:13
独学徒さん

お食事楽しまれましたか。
ご回答ありがとうございました。

192古沢石日:2011/08/13(土) 13:37:50
みなさん

ではみなさんにとって「立正安国論」とは?
ご意見ご指導お願い申し上げます。

独学徒さんのおっしゃるように宗教に正邪がないのなら
立正安国論は何だったのでしょうか。

193独学徒:2011/08/13(土) 13:56:01

古沢石日さん、

地元でラーメンを食べてきました。
お盆なのですいていました。

立正安国論も身延入山以降(建治年間と云われていますね)に再校正されて、内容の一部が幕府提出時から変わっています。所謂広本です。

真言宗に対する取り扱いが変わっているわけですが、この広本執筆時からみれば、宗教の正邪について日蓮聖人も曖昧なところがあるまま執筆・奏進されたことになります。
宗教の正邪が分明ならば、変わってはならないところを変えていると思います。

しかし、自分の思ったことを、思い切って主張してみる、そんな現代人に欠けた勇気を日蓮聖人には感じます。

194匿名:2011/08/13(土) 14:00:09
古沢日石さん

ご指摘ありがとうございます

飽くまでそれ位広く知らなければ滅多な事は言えないと言う例えだったのですが…すみませんわたしも文章力が無いもので、そう取られても仕方ないですよね。
また宜しくお願いします。


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