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質問

127問答迷人:2011/07/31(日) 16:17:02

>大日如来より日蓮に至る二十三代嫡々相承 建長六年六月二十五日

日蓮聖人の諸御書には、大日如来からの相承を覗わせる記述はありませんね。

この記述をどうとらえるかは、難問です。どういう訳か、恐らくは都合が悪いので削除したのでしょうが、この両感見記は真蹟遺文が現存するにも拘わらず、創価学会版にも大石寺版にも見当たりません。ただ、大石寺版の御書全集では、「不動・愛染感見記」を「真書ではあるが信仰に資するところ少なきものとして収録しなかった。」という言い訳が前書きの十一頁に書かれています。

この「不動明王」と「愛染明王」は曼荼羅には梵字で書かれているとされています。曼荼羅の両脇の梵字が不動・愛染を表しているそうです。それが事実なら、信仰者はいつも不動・愛染を拝している訳で、『信仰に資するところ少なきもの』という表現には大きな違和感を感じます。

富士宗学要集に収められている「御本尊七箇相承」には「五、梵字は不動愛染に限る事何の意有りて遊ばざるるや、師の曰はく西天より梵字を三蔵等将来して和漢の二字と成す目前なるものなり、我が仏法も亦復是の如し遠沾の翻訳仮字を梵漢に通ず可き先兆なり。」と書かれています。この相承が日蓮聖人の正しい相承書であるかどうかは、又、議論のあるところですが、日蓮正宗では不動・愛染について、曼荼羅の左右の梵字がそれを表現しているという認識を持っているわけですから、「信仰に資するところ少なき」と言うのは、どう考えても変ですね。

さらに、要集に収められている本尊三度相伝では「次に二明王の事は愛染王は煩悩即菩提の躰なり、是の色赤きは●欲の色なり、此の●欲即是れ道と観ずれば明王なり、さて不動明王は生死即涅槃の躰なり、其の色黒きは界内険氷・生死黒業は改めざる即不動明王なり、されば愛染は恵なり・不動は定なり、此の愛染不動は何物ぞ定恵の二法なり、此の定恵の二法は何物ぞ我等が境智の二法なり、我等が境智の二法何物ぞ只是れ我等が本分の妙法なり、爰を以つて経には歓喜して愛敬し能く千万種善巧の語言を以つて分別し演説し法華経を持つ故とも説き、又云く無量義処三昧に入つて身心動ぜずとも説けり、されば我等が煩悩愛染する時も妙法と唱ふれば即菩提の明王なり、我等が生死の動転する時も妙法と観すれば即涅槃明王なり、全く愛染不動とて別躰なし、只是れ我等が色心境智定恵の妙法是れなり、余准じて之を知るべし云云。 中略 問て云く至心敬礼し本尊を拝見するに皆以つて漢字なり、何ぞ不動愛染に限つて西天の梵字を用るや、答て云く異説有りと雖も且く一義を述ぶ不動愛染の自躰梵字に於いて利益す可き故に漢字を略して梵字を載せ例せば陀羅尼品咒の如き梵音を聞いて得益す可き故に直ちに梵語を説いて漢語に翻ぜず、之に准じて知る可し云云。是れ等当宗の大事秘蔵の奥旨なり、正機に非ざるよりは千金も伝ふる事なかれ、願くば門徒の法器を撰んで密に面授相伝す可し。」とあります。

不動・愛染が密教では大日如来の化身と考えられていますので、恐らくは、曼荼羅に梵字を取り入れられた背景には、密教曼荼羅の相伝が存在するのではなかろうかと、僕は想像しています。そして、それが感見記なのではなかろうかと。


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