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質問
110
:
問答迷人
:2011/07/29(金) 18:16:29
古沢石日さん
昨日は、多忙の為、書き込む事が出来ませんでした。
>偽書と呼ばれる御書
明らかに偽書と判るものは、そんなに害はないと思います。また、論争が有って、真偽が決まっていないものも有ります。例えば三大秘法抄。大抵真書だろうという事で、真書扱いされているけれど、真蹟も無ければ、鎌倉当時の写本もないものも多数あります。これをどう扱うか、これが問題です。
この掲示板では、『真蹟が残るもの』『身延の火災で焼失したけれども、焼失前の写本が残るもの』『日蓮聖人の当時のお弟子さんの達の写本が残るもの』この辺りまでは、一応議論の基礎として良いのではなかろうかと言う意見が趨勢かと思います。勿論、真蹟遺文が残るものしか議論の基礎としない、という考え方もあると思います。
ただ、明らかに偽書だとされてきた、身延・池上の相承書や、百六箇抄、本因妙抄等の相伝書の類は、大石寺や創価学会では真書扱いで、堂々と議論の根拠とされています。どうしても、これ等の書が真書であると言うのなら、偽書だという指摘に反論すべきだと思うのですが、まともな反論はお目にかかったことがありません。反論というよりは強弁というべきものしかなされていないと思います。
例えば、身延・池上の両巻相承が真書であるという根拠として良く言われるのが、北山本門寺に於いて紛失したもので、その前の写本がちゃんとある、等との強弁です。そもそも、大石寺の相承書がなぜ北山に有ったのか、もし本当に北山に有ったというなら、北山が本家で大石寺は分家という事になり、しかも、その紛失したという時代には、北山と大石寺はすでに仲違いをしており、大石寺に日蓮聖人の血脈相承なるものが流れていないことは明らかであるわけです。
しかも、五老僧と日興上人の間で、意見の違いが生まれてしまったときに、この両巻相承がもし存在したとすれば、そのような時の為にこそ活用されるべき筈の相承書が、全く日興上人やそのお弟子さん達の著作に現れてこないのは極めて不可思議・不自然としか言いようがありません。
もし、紛失したのが事実とすれば、捏造された両巻相承が紛失したに過ぎないわけで、何の意味も無いと言わざるを得ません。
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