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貧困スレ

1チバQ:2009/10/21(水) 21:46:08
労働運動スレより独立
非正規雇用・母子家族などなど貧困にかかわるさまざまな話題を収集するスレ
主にルポ系の記事がメインになりそうな予感

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2009102002000236.html
日本の貧困率15・7% 07年 98年以降で最悪
2009年10月20日 夕刊
 厚生労働省は二十日、全国民の中で生活に苦しむ人の割合を示す「相対的貧困率」を初めて発表した。二〇〇七年は15・7%で、七人に一人以上が貧困状態ということになる。十八歳未満の子どもの貧困率は14・2%だった。
 厚労省は国民生活基礎調査の既存データを使い、一九九八、〇一、〇四、〇七の各年にさかのぼり、経済協力開発機構(OECD)が採用している計算方式で算出。〇七年の全体の貧困率は九八年以降で最悪、子どもは〇一年に次ぐ水準だった。
 長妻昭厚労相は同日の会見で「子ども手当などの政策を実行し、数値を改善していきたい」と述べ、同手当を導入した場合に貧困率がどう変化するかの試算も今後公表することを明らかにした。
 政府は六〇年代前半まで、消費水準が生活保護世帯の平均額を下回る層を「低消費水準世帯」と位置付け増減などを調べていたが、その後は貧困に関する調査はしていなかった。相対的貧困率は、全人口の可処分所得の中央値(〇七年は一人当たり年間二百二十八万円)の半分未満しか所得がない人の割合。
 全体の貧困率は九八年が14・6%、〇一年が15・3%、〇四年が14・9%。〇七年は15・7%と急上昇しており、非正規労働の広がりなどが背景にあるとみられる。


関連しそうなスレ
労働運動
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1114776863/l50
社会福祉総合スレ
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1225898224/l50
農業総合スレ(限界集落もこのスレの対象かも・・・)
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1060165378/l50
人口問題・少子化・家族の経済学 (母子家庭など)
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1148427444/l50
文部スレ (新卒採用問題なども・・・)
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1116734086/l50

143チバQ:2011/08/29(月) 20:05:03
http://sankei.jp.msn.com/economy/news/110829/biz11082919080014-n1.htm
非正社員38・7% 過去最多を更新 厚労省調査
2011.8.29 19:05
 企業に勤める労働者のうち、パートや派遣など「非正社員」の割合は昨年10月1日時点で38・7%となり、平成19年の前回調査から0・9ポイント増加し過去最多を更新したことが29日、厚生労働省の調査でわかった。昭和62年の調査開始以降、非正社員の割合は右肩上がりで増えており、厚労省は「企業が雇用調整のしやすい労働形態に依存している傾向が続いている」としている。

 調査は、5人以上を雇用する1万6886事業所などを対象に実施。1万414事業所が回答した。

 調査によると、非正社員のうち、派遣労働者は3・0%で前回(4・7%)よりも1・7ポイント減少。リーマンショック後の派遣切りの影響とみられる。一方、嘱託社員は2・4%(前回1・8%)、契約社員は3・5%(同2・8%)と、それぞれ前回よりも増加した。団塊世代が正社員から嘱託社員や契約社員に移行したことも影響しているとみられる。

144とはずがたり:2011/09/14(水) 12:25:58

米貧困者4600万人=過去最多、人口比15%―2010年
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110914-00000014-jij-int
時事通信 9月14日(水)1時29分配信

 【ワシントン時事】米国勢調査局は13日、2010年の米国の貧困者が4618万人(前年は4356万9000人)と、統計を初めて公表した1959年以降最多になったと発表した。これで4年連続の増加。金融・経済危機の影響は依然消えておらず、オバマ政権や議会に一段の景気対策を求める声が強まりそうだ。
 国勢調査局によると、全人口に占める貧困者数の割合は15.1%(同14.3%)と、3年連続で上昇した。
 今回の調査では、4人家族の場合、年収が2万2314ドル(約172万円)以下の世帯を貧困層と定義。全米の世帯の年収は中央値で4万9445ドル(約381万円)と、前年比2.3%減少した。 

年収170万円以下4人家族、米で4618万人
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1071749960/831

(前略)米国では、政府が毎年収入の基準を定め、それを下回る収入の世帯を貧困層と定義しており(後略)

(2011年9月14日10時48分 読売新聞)

145とはずがたり:2011/09/17(土) 11:19:18

これまでなんとかギリギリでやってきた人達への打撃は甚大ですね。。

東日本大震災:苦悩半年 シングルマザー普通の暮らし遠く
http://mainichi.jp/select/weathernews/news/20110917k0000m040092000c.html

 震災から半年がたち、多くの被災者は働く場の確保に懸命だ。事業再開した地元企業に勤め始めた人、古里を離れ就職した人……。「でも私は、悩むだけで半年を過ごしてしまいました」。岩手県陸前高田市の仮設住宅で、中学3年の長女(15)と暮らすシングルマザーの女性(41)は言う。両親に長女の世話を任せ働いてきたが、津波に両親も仕事も奪われた。どう生活していけばいいのか。いまだに決めかねている。【市川明代】

 同市出身の女性は、長女を出産後まもなく離婚。ガソリンスタンドや熱帯魚販売店などで正社員として働き続けてきた。実家に戻って両親に長女を任せ、残業をいとわず深夜の帰宅も当たり前。「稼げれば何でもやる」が口癖だった。

 しかし3月11日の津波で実家は流され、父は死亡、母は行方不明になった。避難所から仮設住宅に移って少し落ち着くと、どれだけ年老いた両親に負担をかけてきたか省みるようになった。今までの生き方は正しかったのか。わからなくなった。

 勤務先は津波で閉鎖され、失業手当を受けて職を探している。スーパーや水産加工会社の求人はあるが、以前なら飛びついた変則勤務や残業の多い仕事に目が向かない。長女と一緒にいる時間がほしい。社会保険が備わり、長く続けられる職を選びたい。でも、これはと思う求人は男性向けの仕事ばかり。面接も受けられずにいる。

 長女の通う中学校は転校が相次ぐ。仮設住宅を出ると砂漠のような風景が広がる。「自分に何かあったら、娘はここで生きていけるのか」。都会へ出るべきだとも思うが、受験を控える娘のことを考えると、決断できない。

 母娘で暮らす仮設住宅では、今も炊き出しや支援物資の配布が続く。「働いたお金で物を買う、普通の生活を取り戻したい。それができない自分に腹が立つんです」

毎日新聞 2011年9月16日 22時00分

146チバQ:2011/09/27(火) 23:12:38
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110927/trd11092716590013-n1.htm
39%が賃金格差に不満 派遣ら、正社員への道なく
2011.9.27 16:57
 パートや派遣社員として働く独身女性の39%が「同じ仕事の正社員と賃金に差がある」との不満を持っていることが27日、流通や繊維などの労働組合でつくる産業別労組「UIゼンセン同盟」のアンケートで分かった。

 「いくら働いても正社員になれない」とする人も25%いた。調査は今年1〜4月に実施し、独身女性の組合員約1300人が回答した。

 仕事に不満を抱く理由として、複数回答で「やりがいや達成感を感じられない」が35%、「雇用が不安定」30%、「昇進の機会がない」が28%だった。

 改善を希望する課題は「時給など賃金を上げてほしい」が70%、「ボーナスを支給してほしい」が41%。一方で、派遣やパートとして働く理由は「休暇が取りやすい」が40%、「異動や転勤がない」が36%だった(いずれも複数回答)。

147チバQ:2011/09/29(木) 12:29:23
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20110929-00000001-diamond-bus_all
「派遣業界問題」はいつの間に埋もれてしまったか さらに深刻化する派遣社員の厳しい現実と今後の課題
ダイヤモンド・オンライン 9月29日(木)8時29分配信


派遣労働ネットワークのHP。ここから、2011年度のアンケート結果を見ることができる。また、現在困っている方の相談にも応じている。
 リーマンショック後の”派遣切り”がマスコミに取り沙汰され、大きな社会問題になったことを、ご記憶の方も多いだろう。しかし、その後の国政の混乱と衆参ねじれ国会などの余波を受け、いつの間にか「派遣業界問題」は埋もれてしまった感がある。

 派遣社員の実態は、現状どのようになっているのか? 改めて調べてみた。やはりと言うべきか、派遣労働ネットワークが行なっている「派遣スタッフアンケート2011年度ダイジェスト版」の中身を見ると、派遣社員の待遇は全く改善されていないことがよくわかる。

 まず、派遣社員の平均時給額だが、2008年の調査では1508.6円であったのに対して、2011年の調査では1504.5円と、下落が止まらない。これは首都圏を中心とした回答だが、全国的に見ると1310.6円とさらに200円ほど低くなる。派遣社員の生活が非常に苦しいことは変わらないどころか、ますます拍車がかかっているようだ。

 アンケート結果の詳細を見ても、7割近くの派遣社員が「今の仕事の収入では生活が苦しい」と回答している。中には、「年金、健康保険料が払えない」「食費を切り詰めている」など、娯楽はおろか最低限必要なものまで節約しなければ生活できないという訴えも見受けられる。

「税込み年収額が200万円」などという話は、今や地方では珍しくない。確かにこれでは、節約生活を余儀なくされるばかりか、働く希望や意欲さえ持てなくなる。ましてや、結婚をして子どもを作ろうとしてもなかなか難しいだろう。

 実際に、現在派遣社員として働いている人に話を聞くことができた。厳しいのは、給与面だけではないそうだ。正社員でないため、派遣先の福利厚生面でも待遇が悪いという。私用休暇はもちろん、体調不良で休もうものなら「明日から出社しなくてもよいからね」と言われてしまう場合さえあるというから驚きだ。しかし、そんなことは当たり前だという。

 今時、「正社員だから安心」という時代ではない。早期退職制度という名の下に、いわゆる「肩たたき」が行なわれている企業も珍しくない。しかし、安い給与と簡単に解雇されるリスクに耐えながら、日々汗して働いている派遣社員からすれば、正社員という肩書きはやはり魅力的なのだ。

 東日本大震災の際も、真っ先に解雇されたのは言うまでもなく派遣社員だった。「切りやすいところから切る」という企業もあれば、「改正労働者派遣法案を国会で通過させるな」と明言する企業すらあるという。会社自体がなくなり、仕事がないのだから、そういった発言は止むを得ない部分もあるのかもしれない。

 東日本大震災の復興に向けた増税も検討されているが、国会にすら出席しない議員に対して、「明日から来なくてもよいですからね」と派遣社員のように“肩たたき”ができるだけで、どれだけ減税できるのか……。そんなことをふと考えてしまう。

 それくらいのことをしなければ、派遣社員の痛みは国会議員には伝わらないだろう。早急に派遣法案を国会で通過させ、法的に派遣社員と正社員の格差を埋めなければならない。

 立場によって意見は分かれているものの、現行の派遣法案が、社会全体の景気回復を妨げている一因となっているのではないかと思っているのは、筆者だけではないはずだ。未来ある子どもたちが現状の社会情勢を見て、悲観した将来観を抱くのは当たり前だ。派遣社員の状況を見るにつけ、「子どもたちが期待を持てるような世の中にしてあげなければならない」と、切に感じる。

(木村明夫)

148チバQ:2011/10/21(金) 00:31:19
http://diamond.jp/articles/-/14451
経済学の常識からみると
派遣社員の賃金は正社員より高くすべき
1234経済学の定義を一言でいえば、「国民を豊かにするための最適な資源配分を考える学問」です。経済学を勉強しても、将来の株価も将来の為替相場も予想できないかもしれませんし、商売で簡単に儲ける方法もわからないかもしれません。しかし、経済学はよりよい社会をどうやって作っていくかを考えるためにとても役に立つのです。
この連載では、その経済学が今日本を取り巻く問題に対してどのような答えを出しているのかを紹介していきます。第1回は、日本の「労働市場と解雇規制」についてです。

派遣社員はクビにできるから雇われる
 日本の労働市場はさまざまな法規制によって資源配分が失敗している典型的な例です。会社側が正社員を解雇できないために、社会全体の経済の成長を阻んでいます。

 市場原理がうまく働いていないから、労働力という貴重な資源がうまく社会に配分されないのです。日本の労働市場はコレステロールでどろどろになった血液みたいなものです。

 最近何かと話題の「格差」については、規制緩和や市場原理がその原因だとよくいわれますが、これはまったくのデタラメです。ボリュームの点で、日本における重大な格差は、大企業の中高年正社員や公務員と若年層の非正規社員との格差で、これは市場原理が働かないから引き起こされています。

 問題は同一労働同一賃金というマーケット・メカニズムからみれば極めて当然のことが、日本の労働市場では実現していないことです。正社員があまりにもガチガチに法律で保護されているので、経営者はダメな正社員の給料を減らすこともクビにすることもできません。そのシワ寄せが派遣社員のような非正規労働者や、採用数が大幅に減らされる新卒の学生にすべて押し付けられてしまっています。

 そもそも派遣社員というこの日本で問題になっている雇用形態は、コストの面で見れば企業にとってそんなにいいものではありません。なぜなら派遣会社にピンはねされるからです。手取り20万円の派遣社員を雇うのに企業は40万円ぐらい負担しないといけません。

 それでもなぜ派遣社員を使うかというと、景気が悪くなった時に解雇できるからです。企業は派遣社員を使うことによって人件費を変動費にすることができます。そのためには少々割高な費用でも割に合うわけです。

「派遣村」に惑わされるな! 派遣の規制は失業者を増やすだけ
 しかし派遣社員にとってはたまったものではありません。景気が悪くなったら雇用調整に使われる、つまりクビになるし、普段は派遣会社に給料をピンはねされて自分の手取りは安いままだからです。経済学的には景気が悪くなったら解雇できるというオプションを会社に与えている派遣社員が、その分、他の解雇できない正社員よりも高い給料をもらうのがまともな姿です。

 仕事がなくなってもクビにできない正社員は、その分ふだんから給料を安く抑えておかなければいけません。それが正常なマーケット・メカニズムが働いている状態なのです。

 2008年の年越しにマスコミを大いににぎわした「派遣村」の影響もあり、最近では派遣社員を禁止しようという方向です。しかしこれこそ本当に欺瞞に満ち溢れた間違った考え方です。そんなことをしたら大企業はますます日本での正社員の雇用を抑制して、海外に拠点を移すために、国内の雇用の空洞化を加速させるだけです。その結果、派遣社員は正社員になれるわけでなく、派遣社員よりはるかに悲惨な失業者になるだけなのです。

149チバQ:2011/10/21(金) 00:32:25
過労死する正社員、貧乏で死ぬ失業者
 現在のように、雇用規制が法律的にも社会的にもますますきびしくなる状況では、会社は正社員の採用にものすごく慎重になるので、今いる少数の正社員で仕事を回すことになります。そして日本は忙しすぎて死にそうな正社員と、貧しくて死にそうな失業者に二分されていくのです。おまけに出世をあきらめて、会社が解雇できないことを大いに活用している仕事をしない正社員もいます。国の経済の効率にとっても、人々の幸福にとっても、これはとても悪いことです。

 派遣社員を規制しても何も問題は解決しません。正社員も含めて日本の雇用を流動化させることが極めて大切なのです。「給料の何か月分を払えば会社都合でいつでも解雇できる」というようなわかりやすい解雇ルールを法制化することです。これで解雇する側も解雇される側も、裁判で何年も争うような不毛な時間と労力、そして訴訟費用を節約できます。

 確かに一時的に失業した人はかわいそうですが、仕事がない人にずっと給料を払い続けさせるような、社会保障の責任を民間企業に負わせるべきではありません。そんなことをしていてはグローバル経済の中での競争に勝てないからです。失業保険や職業訓練などのセーフティネットを作るのは企業の仕事ではなく、国がやるべきことです。

 ところで、僕が働く金融業界でも、2008年の世界同時金融危機の後の各企業のリストラで話題になったことがあります。スペインの銀行の話です。 

スペインの銀行のクレイジーな提案
 スペインというのは世界でもっとも解雇規制がきびしい国のうちのひとつで、この国では社員を一度雇ったらまずクビにすることができません。しかし今回の金融危機でさすがのスペインの銀行もリストラせざるを得ませんでした。そこでこの銀行は社員に次のような提案をしたのです。

「あなたの夢を実現するためにこれから5年間休暇を取りませんか? その間、今の給料の3割を保障しますし、休暇から戻ってきた時のポジションも保証します」

 この募集に応募した社員は、5年間世界旅行に出かけてもいいですし、他の会社でアルバイトしてもいいですし、(戻る場所が保証されているので)リスクなしで起業にチャレンジしてもいいのです。その間、ずっと会社からお金をもらえます。

 スペインでは社員をクビにすることが不可能なので、不景気で仕事もないのに会社の椅子に一日中座られて、給料を毎月毎月満額請求されてはたまったものではありません。そこでこのようなものすごくいい話を社員に持ちかけて、少しでもコストを減らして金融危機を生き残ろうとしたのです。

150チバQ:2011/10/21(金) 00:33:17
 この話を聞いて、アメリカや香港のように簡単に会社が社員のクビを切れる国で働いている僕の友人は「クレイジーだ」と言って大いにうらやましがっていました。僕もこんな条件を提示されたら真っ先に飛びついたことでしょう。

 実際スペインでは、多くの中小企業はばかばかしくて正式に社員を雇いません。社会保険料の負担が重くどんな時でも社員を解雇できないとなれば会社が抱え込むリスクはものすごく大きいからです。結果的にスペインでは形式上は失業者なのに隠れて働いて、証拠が残らない形で裏で現金の給料をもらっている労働者がたくさんいます。

 このようにスペインでは闇労働市場がものすごく発達したのです。そして闇の市場ではふつうの司法制度は機能しませんから、私的な司法機関であるマフィアも大いにうるおうというわけです。 

解雇規制は大企業正社員しか得をしない
 一見、解雇規制がきびしい方が労働者にはやさしいしくみに思えますが、労働市場の流動性がなくなるので簡単には転職できませんし、一生懸命働いて会社のためにお金を稼いでも、中高年のノンワーキングリッチの人たちの給料に多くが消えていってしまうために若年層の給料が非常に安くなりがちだったりと、長い目で見れば労働者にとっても悪いことの方が多いでしょう。

 運よく大企業の正社員になったけどあんまり仕事をしない人にとっては硬直した解雇規制というのは天国みたいなもので、大きな既得権益なのですが、一番悲惨なのはこれからキャリアをはじめようとして仕事を探している若者でしょう。スペインやフランスのように解雇規制が厳しい国では若年層の失業率が常に20%を超えています。

 きびしい解雇規制というのは、じつは新卒の学生に一番不利なしくみなのです。中高年の正社員をひとり解雇できれば、新卒を3人雇うことができても、正社員の権利は法律で固く守られているのでそのようなことは起こらないのです。

 労働市場が硬直していると若者の職が奪われてしまい、社会人として必要なスキルを学ぶ機会もなくしてしまうので、生涯を通して単純労働しかできない人を社会にたくさん生みだしてしまいます。

 また、社会全体としても、衰退産業にいつまでも労働者が残り、成長していく産業に労働力を移動させることができませんので、経済全体で見れば大きなマイナスなのです。

151とはずがたり:2011/10/27(木) 12:59:45

ホームレス告白 「私はヤクザの義捐金騙し取りに加担した」
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/crime/532850/
配信元:NEWSポストセブン
2011/10/25 11:27更新

被災した東北の人々のために全国から集まった義捐金は約3000億円に上る。しかし、その一部は暴力団の懐に収まっていた。その行為に加担したあるホームレスが、義捐金騙し取りの仕組みを懺悔告白した。

「私は“東北の被災者”でした」−−千葉県内の公園を根城にするAさん(57)は、絞り出すような声でこう語り始めた。

発端は震災から1週間ほど過ぎた頃だった。借金を重ねた末に3年ほど前から公園でホームレス生活をしていたAさんは、取り立てを受けていた暴力団員から、「借金を減らしてやるから、宮城県のB市に行ってこい」と命令されたという。

「ヤクザが用意したバスには私と同じような中年のホームレスが8人乗っていました。到着すると、バスに同乗していた男に指示されるまま避難所に転がり込んだのです。彼は地元ではかなりの顔利きのようで、私は“千葉からB市に働きに来ていた出稼ぎ労働者で、彼の借家で生活していた”という設定だと説明され、数日後には罹災証明も交付されました」

支給される食事は冷めた弁当や菓子パンばかりとはいえ、ホームレスのAさんにとって避難所生活は全く苦ではなかった。

「雨風をしのげるだけで嬉しかった。最初は周囲から“見慣れない奴がいるぞ”という目で見られましたが、瓦礫撤去などを手伝っているうちに、避難所のお年寄りから頼られる存在になっていました」

が、そんな“避難生活”は2か月ほどで終わる。顔役の男から、「市の窓口に行って義捐金の申請をしてこい」と指示されたのだ。

「住民票もないのに認められるのか半信半疑でしたが、驚くほど簡単に交付された。罹災証明があれば機械的に認められるようでした。私に避難所生活をさせたのは、周囲から怪しまれないようにするためだったのでしょう」

B市の社会福祉課も、「当市で生活をしていた証明があれば、住民票がなくても認めている。その後は市外、県外に避難しても義捐金は振り込まれます」と説明する。どさくさの中では“偽被災者”を調べる余裕がないのはやむを得ないところだろう。

Aさんに下りたのは「大規模半壊世帯」の認定。B市の規定では数回に分けて75万円を受け取ることができる。

申請が認められるや、Aさんは千葉行きのバスに乗せられた。

「2か月前にB市に向かった時のホームレスも何人か一緒でした。おそらく、私と同じ役割を担っていたのでしょう」

Aさんに東北行きを持ちかけた暴力団員が所属するのは、ある広域指定暴力団だった。その団体関係者はこう明かした。

「こうした義捐金の騙し取りは阪神大震災や北海道南西沖地震の時にヤクザが編み出した方法で、配分は暴力団が半分、残りを顔役や“出し子”のホームレスが分け合う。申請する口座は暴力団が管理し、それぞれの取り分を口座に振り込むというパターンが多い」

すでに50数万円がB市から振り込まれているAさんの場合、暴力団の取り分は25万円。ホームレスを8人手配していたなら、それだけで200万円となる。

「我々の系列だけで、東北の各地に20〜30グループが派遣されている。バスを手配するだけで5000万円近いカネが転がり込んでくるのだから、これほど楽なシノギはない」(同前)

Aさんは自身の行為をこう振り返った。

「避難所で自分に優しく接してくれた被災者の皆さんのことを考えると、申し訳ない気持ちで一杯です。ホームレス仲間にはそのまま東北に残って、瓦礫の撤去や建設作業の日雇い労働者として働いている者もいます。私もできることなら、今度は本当に被災者の方々のために働きたい」

※週刊ポスト2011年11月4日号

152とはずがたり:2011/10/30(日) 14:05:17
生活保護費の不正受給、10億円超える
http://mytown.asahi.com/fukuoka/news.php?k_id=41000001110290006
2011年10月29日

 県内の生活保護費の不正受給が昨年度、2612件、10億2729万円にのぼったことが県のまとめでわかった。前年度から666件、2億9393万円増え、過去5年間でともに最悪だった。福岡、北九州両市の件数が1373件で半数を占めた。

 県保護・援護課によると福岡市は940件、3億4161万円、北九州市は433件、1億5877万円だった。生活保護を受けている人は、年金を含めて収入があった場合、地元の福祉事務所に申告する義務があるが、不正の9割近くは申告をしなかったり過少申告したりしていた。福祉事務所が課税調査などをして発覚した。

 不正防止策として、同課はケースワーカーによる定期的な家庭訪問で、受給者の生活実態を把握することなどが重要だとしている。不正を繰り返す受給者には生活保護を打ち切る行政処分もあるという。

 不正受給が増えている背景には、2008年のリーマン・ショック後から生活保護世帯が急増したこともある。県内の生活保護世帯数は09年6月が7万3765世帯で、前年同月に比べ9・1%増えた。今年6月には8万9136世帯になった。特に福岡、北九州両市の増加率は高く、「失業した人たちが仕事を求めて都市部に集中したようだ」(同課)という。(礒部修作)

153チバQ:2011/11/01(火) 12:06:07
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20111101k0000m040059000c.html
23歳過労死:自殺の男性社員を労災認定
 飲料大手キリンビバレッジの子会社「東京キリンビバレッジサービス」(東京都千代田区)の男性社員(当時23歳)が昨年4月に自殺し、品川労働基準監督署が過労によるとして労災認定していたことが分かった。男性は清涼飲料の自動販売機の管理で長時間労働を強いられ、亡くなる5分前、姉(26)の携帯電話にメールで「仕事がつらい。父さん母さんをよろしく」などと書き送っていた。認定は10月5日付。

 会見した遺族や弁護士によると、男性は高校を出て05年4月に入社し、10年3月に品川区の営業所に移って担当エリアが拡大。自販機約80台を1人で担当し業務用車両で巡回して商品の補充や交換、売上金の回収などを行っていた。同年4月13日夕、勤務中に会社の屋上から飛び降りた。

 品川労基署は、09年10月〜10年3月の半年間で男性の毎月の時間外労働は平均81時間、最長で92時間だったと認定。亡くなった4月は季節の変わり目で商品を入れ替える繁忙期に当たり、時間外労働は13日間で63時間と、月120時間を超えるペースだった。1日15時間労働、3時間睡眠が続き、男性は精神疾患にかかった。

 同居していた母(62)は「まじめに働く子で、毎日おにぎりを持たせて送り出した。運転中に食べていたようだが、残すこともあり『食べる余裕もない』と言っていた」と涙を浮かべて振り返った。父(64)によると、葬儀の時、参列した社の幹部から「他の社員も同じくらい働き、特別につらい仕事はさせていない」などと言われ、労災認定後も謝罪はないという。

 代理人の増田崇弁護士らは「同社は男性の職種を『セールスマン』と呼び、残業代をほとんど払わず、売り上げに応じた販売コミッション(手数料)を与えている。男性の月給は手取り20万円を切ることもあった。若者を使い捨てにする異様な勤務、給与実態だ」と批判。同社総務部は「現時点でコメントできない」としている。【井上英介】

毎日新聞 2011年10月31日 20時21分

154とはずがたり:2011/11/06(日) 10:19:20

生活保護受給、過去最多に=7月、不況で205万人超―厚労省
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111106-00000009-jij-pol
時事通信 11月6日(日)2時34分配信
 今年7月に生活保護を受けた人が、1951年度の204万6646人(月平均)を超え、過去最多を更新したことが5日、明らかになった。受給者数は前月(204万1592人)よりも1万人程度増加し、205万人を突破したもよう。厚生労働省が9日にも、関連の集計値などを盛り込んだ福祉行政報告例を公表する。
 景気や雇用情勢が好転しない中、多くの人が経済的に困窮していることを改めて示した形で、就労支援の強化や生活保護に陥る前のセーフティーネットの重層化など、国はさらなる貧困対策を求められそうだ。
 受給者数がこれまで最も多かったのは、戦後間もない51年度の204万6646人。経済成長とともに徐々に減少していき、95年度には88万2229人と底を打った。その後、不況などにより受給者数は増加に転じ、2008年のリーマン・ショックを引き金に急増した。 

失業、生活保護急増で過去最高=09年度社会保障給付費−厚労省
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201110/2011102800653&rel=y&g=pol
 厚生労働省の国立社会保障・人口問題研究所は28日、2009年度に税金や保険料から支払われた年金、医療、介護などの社会保障給付費が前年度比6.1%増の99兆8507億円となり、過去最高を更新したと発表した。社会保障給付費は高齢化の進展に伴い増加傾向が続いており、10年度は100兆円を突破する見通しだ。
 同研究所は「高齢者の増加に加え、リーマン・ショック後の厳しい雇用環境の中で失業手当の受給者が増えた影響が出ている」と分析している。(2011/10/28-16:48)

155とはずがたり:2011/11/06(日) 10:23:25

バックパッカー街に大変身〜大阪「あいりん」
http://www.jiji.com/jc/v4?id=airin0001&rel=j&g=phl

156チバQ:2011/11/10(木) 12:38:24
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20111110ddm041040097000c.html
東京・新宿のアパート火災:孤独な老後、映す悲劇 住人の大半、生活保護
 ◇「他に住む場所ない」
 東京都新宿区大久保で6日朝、7人が死傷したアパート火災。風呂はなくトイレも共同の築約50年の木造2階建てアパートは、23人の住人のうち18人が生活保護を受けていた。「他に住める場所がない」と移り住んだ身寄りのないお年寄りが多く、死亡した4人の身元は3日たっても確認されていない。都会の一角で起きた火災は、苦しい生活を続けながら孤独な老後を過ごす人々の姿を浮かび上がらせた。【喜浦遊】

 火災直後、現場のアパート「ローズハウス林荘」近くの路上に、住民の男性(71)が座り込んでいた。携帯電話と財布だけを手に逃げ出したという。「死ぬかと思った。また新宿で住む場所を探そうと思えば同じような古い木造アパートしかない」と不安を口にした。

 染め物工場を経営していた男性はオイルショック後、不渡りを出して工場を手放し、妻子とも離別した。川崎市や都内で1人暮らしをしながら、タクシー運転手や水道の設備作業員などをしてきたが、腰を痛めて仕事ができなくなり、新宿駅でホームレス生活を送るようになった。

 生活保護を申請したのは約7年前。家賃5万円のアパートは4畳半一間。保証人が不要で、家賃の支給上限(月額5万3700円)に収まることが魅力だった。区からは家賃の実費の他に生活費として月約7万円を受け取る。食費や携帯電話代などに使う一方、自らの葬儀代として貯金も続けているという。住人には同じような境遇の人が多かったが、付き合いはほとんどなかった。「他人を気遣う余裕はない」。今は、区の施設に滞在しながら次の入居先を探している。

 NPO自立生活サポートセンター・もやいの小幡邦暁事務局長によると、生活保護を受ける高齢者が都心の古い木造アパートに集まる背景には、ホームレス生活をしていた地域で生活保護申請をすることが多いという事情もある。

 8日夜、新宿区を拠点に独居高齢者の訪問活動をする僧侶、中下大樹さん(36)は、火災現場に近いJR新大久保駅周辺を歩きながら「ここも同じようなアパート」と指さした。古い木造で家賃は4万〜5万円。保証人は不要という。

 韓流ブームで知られる大久保通りから一歩路地に入れば、同様のアパートがあちこちに建つ。街灯も少なく、道路は消防車が入れないような狭さだ。付近の不動産業者に掲示された物件には、生活保護受給者の居住が可能なことを示す「福祉可」と書かれていた。中下さんは「同じようなアパートは、数が多すぎて実態が分からない。生活保護を受けていなくても、生活が苦しい孤独な高齢者も多いはずだ」と話した。

毎日新聞 2011年11月10日 東京朝刊

157とはずがたり:2011/11/11(金) 01:25:33

なにわのあした(5)生活保護
2011年11月09日
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1224522282/1920

158とはずがたり:2011/11/14(月) 18:04:34

2011年11月9日12時37分
生活保護、7月は205万人超 通年で過去最多の可能性
http://www.asahi.com/national/update/1109/TKY201111090108.html

 厚生労働省が9日に公表した今年7月の生活保護受給者数は、前月より8903人多い205万495人で、通年の平均で過去最多だった1951年度の204万6646人を上回った。受給者数が毎月1万人前後のペースで増える傾向にあり、今年度は通年でも最多になる可能性がある。政府は貧困対策の強化を求められそうだ。

 生活保護を受けている世帯数も、前月より6730世帯多い148万6341世帯で、過去最多を更新した。世帯の種類別で最も多いのは「高齢者」。63万527世帯と、全世帯の42%を占める。働ける現役世代を含む「その他」は25万1176世帯。リーマン・ショック前の3年前の同月(11万7005世帯)に比べて2倍以上に増えた。仕事が見つからず、生活保護を受けざるを得ない世帯が増えているとみられる。生活保護費の支給総額は、10年度で3兆2289億円にのぼる。

 市区町村別でみると、大阪市が15万1097人で最多だった。

159とはずがたり:2011/11/14(月) 18:04:59

堺市、生活保護受給者の自立支援で独自策
http://mytown.asahi.com/osaka/news.php?k_id=28000001111040002
2011年11月03日

 生活保護受給者の自立を支援するため、堺市は今年から、受給者のニーズに沿った就労先の開拓など独自のサポート事業を始めた。9月までの4カ月間で388人が支援を受け、99人が就職。255件の求人先も見つかった。

 竹山修身市長は2日の定例会見で「きめ細やかな就労支援で職業訓練などを積み重ね、自立につなげていきたい」と述べた。

 市生活援護管理課によると、6月から始めたサポートの主な柱は(1)生活保護受給者の就労意欲の喚起(2)就労先の開拓(3)企業での訓練の三つ。これまでの就労支援では、受給者が自分にあった仕事をなかなか見つけられなかったり、職場の環境が合わずすぐにやめたりする場合があった。

 このため、市のケースワーカーとは別に専門のキャリアカウンセラーが受給者と面談して希望する職種を把握。ハローワークにも同行して仕事探しを支援し、担当者が近隣企業を回って就労先を探している。さらに、市から委託を受けた人材派遣会社が2カ月間、受給者を雇用し、希望する職種の基本的な技能を身につけるため、企業での職業訓練もしている。

160チバQ:2011/11/19(土) 18:36:49
http://www.tokyo-np.co.jp/article/living/life/CK2011111102000063.html
<はたらく>派遣法改正 たなざらし 「早期成立」求める声
2011年11月11日

牧義夫・厚生労働副大臣(右)に労働者派遣法改正案の早期成立を要請する鴨桃代会長(右から2人目)ら=9日、厚生労働省で


 二〇〇八年秋のリーマン・ショック後に社会問題化した「派遣切り」など、派遣労働の弊害を防ぐ目的で、民主党など政府・与党が国会に提出した労働者派遣法の改正案が、継続審議のまま一年半もたなざらしになっている。派遣の現場で働く労働者や支援者からは「早急に成立させるべきだ」との声が高まっている。 (稲田雅文)

 「どこまで我慢すればいいのか。正社員、非正規社員といった身分で差別されることのない社会に一刻も早くしてほしい」

 十月中旬、東京都内であった「反貧困世直し大集会二〇一一」。「廃案にさせない労働者派遣法改正!」と銘打った分科会で、派遣労働者として働く関東地方の五十代女性は訴えた。

 十年以上前に母子家庭になり、就職先を探したが正社員になれなかった。派遣会社に登録をして今の派遣先企業で働き始めた。

 労働者派遣法で定められた専門二十六業務の一つ「OAクラーク業務」に就き、データ入力や文書作成をする契約。しかし、実際は正社員と同じ仕事を何でもこなし、必要に迫られて英語も独学で学んだ。

 正社員への登用を目指し、毎年一つのペースで資格を自費で取得したが、時給アップにすらつながらない。正社員なら当たり前のボーナスや住宅手当、慶弔休暇もない。

 上司のミスを押しつけられ、課長に相談すると「そんなにつらいなら死んだらどうか」と暴言を吐かれた。契約は三カ月更新を繰り返し、更新が近づくと雇い止めを恐れて、びくびくする。「人間扱いされていない」と感じている。

 同法は、派遣労働者が正社員の代わりに使われるのを防ぐため、三年以上派遣されると派遣先企業に雇用義務が生じるなどの制限を設けている。しかし、専門二十六業務は例外で、派遣先企業が専門外の業務もさせるなど、都合よく派遣労働者を使い、法の抜け穴になってきた。

 改正案では、登録型派遣を原則禁止とするが、専門二十六業務については例外とする。専門業務の見直しもなく、この女性の場合、今回の改正で直接今の雇用形態に規制が掛かるわけではない。それでも「まずは労働者保護を目的とした改正を実現してほしい」との思いから声を上げた。

     ◇

 個人加盟の労働組合でつくる「全国コミュニティ・ユニオン連合会」の鴨桃代会長はこの七、九の両日、民主党と厚生労働省に対し、改正法の早期成立を求める要請書を提出した。

 要請書は、改正案が一年半も審議されないまま放置されていることを批判。「成立が遅れれば、貧困はさらに拡大する」と訴えた。

 鴨会長は「リーマン・ショックに続き、東日本大震災でも雇い止めになった派遣労働者がいる。震災以後『仕事があるだけまし』との声も出るが、切ってもいい労働者として固定化されるのはおかしい。ますます雇用が劣化しかねない」と訴える。

 名古屋大の和田肇教授(労働法)は「労働者派遣法は、より総合的な規制をかけ、専門的な知識や技術を生かし、希望する働き方を選べるという本来の性格に戻していくべきだ」と指摘。「従来は家計の補助的な働き方だった非正規労働が、家計を支える人にまで広がっている。雇用と所得を安定させるため、新しい雇用システムの全体構想を政治主導で議論するときではないか」と語る。

<労働者派遣法改正案> 「派遣切り」などが社会問題化したことを受け、政府・与党が2010年4月に衆議院に提出した。製造業派遣を原則禁止し(1年を超える常用雇用の労働者派遣は例外)、仕事があるときだけ雇用する「登録型派遣」を、秘書や通訳、ソフトウエア開発、機械設計など専門26業務を除いて禁止する。

 さらに、派遣先企業が、違法と知りながら派遣労働者を受け入れている場合は、労働契約を申し込んだとみなす「みなし雇用制度」を盛り込むほか、「日雇い派遣」など2カ月以内の雇用契約の派遣も原則禁止する。

161チバQ:2011/11/20(日) 20:39:53
http://www.asahi.com/special/kozoku/TKY201012250323.html
55歳、軽自動車での最期 「孤族の国」男たち―12010年12月26日3時14分
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佐藤正彦さんの遺骨が納められている安置所は市中心部から離れた山中にある。石碑の裏側にまわると、子どもの背丈ほどの小さな扉があった=神奈川県逗子市、仙波理撮影

79歳の男性が死後3カ月以上経ってから発見された団地の一室を片付ける作業員=仙波理撮影
 駐車場に止めてあった軽自動車の中から男性の遺体が見つかったのは、6月25日のことだった。3カ月間、放置されていた車のドアミラーには、ツタのような植物が絡みついていた。

 神奈川県逗子市の公園の一角。駐車場の前は県立高校、隣には保育所がある。毎日、高校生や親子連れら数百人もの人が車の前を行き来していた。だが、犬を散歩させていた近所の男性が「臭いがする」と通報するまで、警察や市に連絡はなかった。

 後部座席に敷かれた布団で寝たまま、遺体はすぐに身元が分からないほど腐乱していた。DNA型鑑定で身元は特定できたが、遺体の引き取り手がおらず、逗子市が火葬して遺骨を預かっている。

 佐藤正彦さん、享年55。なぜ、このような最期を迎えたのか。引き取り手のない「行旅(こうりょ)死亡人」として官報に記された以前の住所を訪ねた。

 木製の窓枠がきしむ、2階建ての古いアパートだった。昔からの住人は、借金の取り立てが佐藤さんのところに来て、部屋を荒らしたのを覚えている。2001年ごろ、佐藤さんは荷物を残したまま、姿を消す。部屋の玄関に積まれたままのスポーツ新聞には、求人欄に印がつけられていた。

 さらに、本籍地の秋田県北部へ。佐藤さんが育ったトタン張りの実家は窓が割れ、人は住んでいなかった。約10キロ離れた場所に住む姉(62)を探し当て、話を聞いた。4人きょうだいの末っ子だった佐藤さんは1970年に地元の中学を卒業するとすぐに上京し、働きはじめたという。地方の若者が職を求めて大量に都市に移り住んだ時期である。

 その後、実家への連絡は途絶えた。親の葬儀にすら出なかった佐藤さんが出し抜けに姉の元に現れたのは、昨年の夏だった。事前の連絡もなく、東京で亡くなった兄の遺骨を携えていた。郷里での滞在は、わずか3日。菩提(ぼだい)寺で納骨を済ませ、再び軽自動車で帰っていった。

 姉が仕事や住まいを尋ねても、決して答えることはなかった。

 兄の勤務先だった都内の塗装店を訪ねると、佐藤さんの生前の姿がおぼろげに浮かび始めた。

 上京後も4歳上の兄を頼り、時にお金も借りていたという。一つの職が長続きしない弟に困りながらも、兄は連絡がつくように携帯電話を買い与えていた。

 「弟は上京した当初は国鉄関連の溶接工として働き、収入もよかった。でも目をけがして転職せざるを得なかったんです」。塗装店主は、そう兄から聞かされた。

 その兄が昨年3月に亡くなると、佐藤さんはエアコンが壊れた軽自動車で、兄のお骨を郷里に届けに向かった。片道約700キロの道程、兄の骨と二人きりで、何を考え続けたのか。その胸中を知る人は、いない。

 佐藤さんの生存が最後に確認できたのは、兄の死の約1年後の今年4月9日。神奈川県警によると、姉に電話をかけた記録が残っている。「ご飯を食べるお金にも困っている」。姉が「私も困っている」と答えると、電話は切れた。司法解剖の結果によると、軽自動車の後部座席で生涯を終えたのは、その直後。病死だった。

 生活保護を受けて暮らす姉は「弟を迎えに行きたいけれども、逗子まで行くお金も力もない」と話した。県警はもうひとりいる姉にも連絡を取ったが、「縁が切れているので」との返事だった。

 郷里に残る墓には、墓石がない。目印となるのは、佐藤さんが兄のために立てた卒塔婆(そとば)と、姉が今年の墓参りで並べたコップ酒や缶ジュースだけだ。佐藤さんの遺骨は今、そこにはなく、逗子市郊外の遺骨安置所に眠っている。

 「終(つい)のすみか」となった軽自動車は、市役所が業者に頼み、処分をした。(中井大助)

162チバQ:2011/11/20(日) 20:40:13
■街のアパートで一人また一人

 開け放しの共同玄関は、昼間でも暗い。目をこらすと、男物の靴ばかりが並んでいるのが見えた。靴を脱いで上がると、冷たく、湿ったような感触が足の裏に伝わる。

 東京都北区の2階建てアパートの一室で6月、50代とみられる男性が遺体で見つかった。死後8カ月経っていた。

 商店街の外れにあり、スピーカーは一日中、歳末福引の案内を流している。呼び込みをする八百屋の店先で、買い物客が世間話に興じる。

 2階の廊下には、前日の雨漏りでできた水たまりがあった。その奥に、部屋がある。「今でも時々においが漏れてくる。いい気持ちはしないけど、もう慣れたよ」。案内してくれた隣の部屋の住人(63)がいう。

 遺体の周囲には、食べ物のゴミや酒の空き缶、たばこの吸い殻が散乱していたという。部屋からは生活音もほとんどせず、人を避けるように暮らしていた。

 このアパートでの孤独死は、今回が初めてではない。「ここに住んで20年だけど、記憶にあるのは4人くらいかな」。10年ほど前には、今回と同じ部屋で高齢の男性が亡くなった。開いたままのドアから寝ている足が見え、「暑いから開けてるのかな」と思っていたら、翌日になっても同じ格好だったという。

 アパートが建ったのは昭和30年代、半世紀ほど前だという。そのころは家族連ればかり。共同台所を囲み、みな銭湯に通った。「改築して台所を中に作ってから、中のことがわかんなくなっちゃったね」と長年管理をしてきた男性(76)はいう。元々、管理人としてここに住んでいたが1年半前、転居した。「住んでれば気づいただろうけど」

 隣のアパート兼店舗も、同じ頃に建てられた。ここでクリーニング屋を営む店主は振り返る。「昔はどちらのアパートも家族連ればかりだった。表で子どもが遊んでいてにぎやかだったよ」

 単身男性ばかりの今、誰が住んでいるかすらわからない。店舗の上のアパートでも数年前、男性が孤独死し、数カ月後に見つかった。「すぐ上でも気づかないもんだね」と店主は天井を見上げた。

 十数年前、近くに大型スーパーができ、通りの店は次々に姿を消した。店先で話しこむ客も減った。豊かになり、求められるものは変わった。

 亡くなった男性は10年ほど前に入居したという。偽名だったため、当初は身元がわからず、「行旅死亡人」として、区が火葬した。その後、身元はわかったが、生前語っていた本籍地や年齢とは全く違っていた。

     ◇

 首都圏の大規模団地で11月上旬、死後3カ月以上経った男性(79)の遺体が見つかった。遺族に依頼された遺品整理会社「あんしんネット」の作業に同行した。

 部屋に一歩入ると、防臭マスクを通してすら強烈な異臭が鼻を突く。昭和40年代の団地に典型的な2DKの間取り。ちゃぶ台には、食べかけのご飯やみそ汁がそのまま残っていた。

 居間として使われていた南側の部屋が最期の場所だった。食事をしている途中に倒れ、そのまま亡くなっていた。床に広がるおがくずのような茶色い粉は、皮膚や体液が乾いて固まったものらしい。カレンダーには7月10日まで斜線が引かれていた。

 第一発見者の長女(52)夫妻は、団地から車で1時間ほどのところに住んでいる。

 男性は山形県出身。サラリーマンで、70歳まで現役で働いていたが、2年前に妻を亡くし、あまり出歩かなくなった。「けんかでも相手がいた方がいいな。一日口きかないの、つらいな」という言葉が、長女の耳に残っている。

 それでも、同居の勧めにはなかなか応じず、ようやく説得し、家を改築しているところだった。「商売や引っ越しで忙しくて」。もっと早く連絡していれば、早く改築を始めていれば――。長女は後悔の言葉を重ねた。

 10棟以上の建物に囲まれた公園で、日が暮れるまで、子どもたちの歓声が響く。スーパーや八百屋、医院まで併設されている。発見時、ポストには郵便物があふれ、テレビはつけっぱなしだったが、男性の死に気づいた人は誰もいなかった。

 市民が当たり前の生活を営む場所の一角で、人知れず孤独死が発生する。そんな時代を、この国は迎えている。

 管理事務所は、一人暮らしだということも把握していなかった。発見前日、隣人から「虫が増えた」と苦情が入ったが、ポストに「対処してほしい」と書いた紙を入れただけだった。

163チバQ:2011/11/20(日) 20:40:33
■苦しみの末路に目を向ける

 何カ月も誰にも発見されない、孤独な死。団地や古いアパートがその現場となることが多いのは、一戸建てなどに入居できない中高年単身者の受け皿となっているからでもある。さらに、そこにも住めない人たちが、車や路上で暮らし、ひとり死んでいく。

 彼らは生前、他人とのつながりを拒絶するように、閉じこもって暮らしていることが多い。では、自ら選んだ結果といえるのだろうか。

 「あんしんネット」の石見良教さんは、最近、高齢者の部屋を片づける「福祉整理」に力を入れている。認知症や体力の低下でゴミを片づけられず、不衛生な状態で暮らす高齢者がいる。「助けを求めることもできない人たちに目を向けてほしい」という。

 悲惨な孤独死が問題なのは迷惑だからではない。それが、孤独な人間の苦しみの末路だからだ。そこに目を向けることが、いま多くの人が抱える生きづらさを和らげる一歩にもなる。(仲村和代)
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164チバQ:2011/11/20(日) 20:40:58
http://www.asahi.com/special/kozoku/TKY201012260302.html
還暦、上海で婚活したが 「孤族の国」男たち―22010年12月26日21時17分
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コイ釣りの仕掛けを準備する男性。中国人女性との結婚に失敗し、「時々心細くなる」=岡山県瀬戸内市、仙波理撮影

中高年専門の結婚情報センター「太陽の会」が主催した婚活パーティー。「やはり相性が大事」といった言葉が飛び交う=東京都新宿区、仙波理撮影
 雲を突くような銀色の摩天楼、101階建ての「上海環球金融中心」がかすんで見える。目的のホテルは、高層ビル群から離れた裏通りにあった。生鮮市場や小売店が雑然と並び、不用品を集めるリヤカーが、ベルを鳴らして通り過ぎていく。

 今年還暦を迎えた岡山市の男性は2年前の11月、上海に来た。かび臭い廊下の奥まった一室に、現地で集められた女性を次々に招じ入れた。

 今度こそ。男性は強く念じていた。今度こそ妻を――。

 婚活を本格化させたのは50代半ばから。若いころ心に決めた相手がいたが、思いを打ち明けられずに終わった。今も写真を大切にしている。その後、父から継いだすし屋の借金返済に追われ、同居の母親が他界したときには、未婚のまま50歳を過ぎていた。

 結婚紹介業にはいくつ登録したかわからない。登録料を納めたのにそれきり、ということもあった。

 中国人を妻に、と考え始めたのは4年前のこと。

 「あなたの年では日本人は難しい」。岡山市内のホテルで、ある業者からファイルを見せられた。中国人女性の写真とプロフィルで50人分はある。ニーハオぐらいしか知らないが、他に選択肢はない。

 最初に紹介されたのは、日本在住の「チョウ」という39歳の女性。日本人男性と離婚していた。初めて会った日に食事をして、もう一度会った後に婚姻届を提出した。念願の夫婦になるのに要したのは、わずか2日間。

 だが、業者に150万、女性に30万円支払って得た結婚生活は、すぐ破綻(はたん)した。婚姻届を出したその日に大阪で働くと出て行った。1カ月後に帰ってきたが、結局、生活を共にしたのは5日ほどだ。

 どんなに手を尽くしても、日本人でなくても、伴侶が見つからない。家業の手伝いや後継ぎを望むわけではない。老いゆく自分の世話をし、みとってくれる相手が欲しいだけなのに。

 伴侶を求めて国の外へ目を向ける男たち。外国籍の女性を選ぶ日本人男性は年間3万人前後。そのうち、中国人が約1万2千人と最も多い。

 上海のホテルで、男性は2日間で約20人と「見合い」し、「リュウ」という38歳の女性を選んだ。決め手になったのは、仲人役として同行した在日中国人女性の言葉だった。「服が派手じゃない。あの人はまじめよ」

 だが、その女性も来日後20日間で姿を消した。生活費として5万円を渡した2日後。2度の「結婚」に費やした金はおよそ450万円。蓄えのほとんどをはきだした。

 自分は孤独死するかもしれないと覚悟している。死後に備えるノートを買った。親類の連絡先や保険証書類の保管場所を記し、遺影用の写真をはさむ。遺体は献体するように書き留めてある。

 20年ほど前からコイ釣りにのめり込み、暇な日はぽつんと糸を垂れる。孤独には慣れた。が、寂しくないといえばうそになる。(井上恵一朗)

165チバQ:2011/11/20(日) 20:41:17
■赤い糸、今日も見つからなかった

 午後3時過ぎのファミリーレストランで、千葉県市川市の39歳の男性は、その日初めての食事だという中華定食をゆっくりと口に運んだ。温かいものを期待して頼んだが、出てきたのは冷たい料理。「おかしいなあ」。独りごちて、スープをおかわりした。

 最後の仕事を辞めて1年10カ月がたつ。専門学校を卒業後、非正規も含めて10近い仕事を経験し、いずれも短期間で辞めた。自宅アパートにはテレビもない。空の冷蔵庫、電気ポット、カセットコンロ、ちゃぶ台の上のパソコン、それがすべてだ。

 「普段の生活すらみすぼらしいのに、婚活なんて無理。収入のない自分は、そもそも勝負のラインから外れちゃってます」

 結婚相手探しをする前に、諦める。自ら、線を引いて。そんな男性が増えている。

 この男性が人とのつながりの大切さを痛感し始めたのは最近だ。20代半ばまではゲームセンターに通うお金があればそれでよかった。気軽に食事に行くような友達もいないのは、「自己責任」かもしれない。でも、もう戻れない。

 時々、出会いを期待してインターネットのオフ会に顔を出すが、女性が出てくることはほとんどない。姉と妹は、20代で出産した。「あの時、気づいていれば」。仕事や子どものことがつづられた同年代のブログを見て、ため息をつく日々だという。

 5年たっても10年たっても、自分が結婚できる状況にあるとは、とても思えない。「どう考えても、まともな人生にはもう返ることができないんです」

     ◇

 年末のある日。貸し切りになった新宿駅近くのレストランに、50代から70代の男女が集まり始めた。女性の服装はそれぞれに趣味が感じられる着こなしだが、男性はほぼ一様にスーツとネクタイだ。

 午後1時半、店を貸し切った中高年限定の婚活パーティーが始まると、一人の男性があいさつに立った。「ここに来るようになってだいぶたちますが、赤い糸はどこかにいってしまって見つかりません。来年こそいい年に」

 そう、婚活という言葉ができる前から伴侶さがしを続け、20年以上になる。川崎市に住む原泰浩さん(76)が妻を胃がんで亡くしたのは、38歳のときだった。

 「おなかに固いしこりがあるの」と打ち明けられ、触ってみると卵大の塊が。診察を受けると「余命半年」と宣告された。娘が小学生、息子は2歳半でおしめも取れていなかった。それからの人生、子育てと仕事の両立で、白刃の上を歩いているようだった。

 子どもが大きくなってから、中高年専門の結婚紹介団体の先駆け、「太陽の会」に登録した。月に1度の会に出席し、20人以上の女性と会話をする。200回以上は出席しただろうか。会で次々とカップルが誕生しても、自分の赤い糸は見つからなかった。

 「太陽の会」は、住民票と戸籍謄本を会に提出しなければならないなど、厳格な運営方針で知られる。最近、後発業者が急増しており、「高齢婚活希望者は、年2割は増えている感触」と坂本達児・東京本部代表は言う。

 だが、ブームといっても意識には男女差がある、と原さんは感じる。女性は生活の支えを求める人が多いが、男性は寂しさが理由では、と。

 仲のいいカップルを見ると自分が惨めに思えて、観光地への足も遠のいた。次第に日が短くなってきた人生の残り時間、70代後半を迎えて欲しているのはただ、優しさだ。

 会話が盛り上がるのを横目に原さんはこの日、パーティーを早めに切り上げた。今年春から飼い始めた雌のシバイヌの不妊手術のために。

 今日も、これは、という人は現れなかった。死ぬ間際に「おまえがそばにいてくれて幸せだった」と言えるような人が欲しいだけなんだが。

 「やはり、孤独死かなあ」

166チバQ:2011/11/20(日) 20:41:36
   ◇

 北上山地の中腹に広がる岩手県住田町は人口6千人余、面積の多くを山林が占める山村だ。この町役場に、担当者しか全容を知らない、という極秘のファイルがある。

 町が始めた結婚支援事業に登録をする町民のリストだ。

 この事業の目標は「5年で結婚10組」だったが、これまでの成婚例はゼロ件。最大の誤算は、登録した十数人が全員、男性だったことだ。

 登録者たちはみな、自分がリストに載っていることが周囲に知られることを恐れている。そのため、町役場は、保秘にかなりの気を使う。

 町の人口は30年前と比べて約3割減った。高齢化率は、今年10月現在で38.6%と、県内で3番目に高い。町内の未婚者を対象にした調査では、3人に2人が「結婚を希望しているが、出会いや紹介を待っている」と答えた。

 「年間2組ぐらいだったら簡単だと思っていたけれど、甘かった」。相談員の佐々木忍さん(65)は失敗を認める。出会いの場を設けて男女を引き合わせても、先に進むことがほとんどない。

 町内で、独身男性はすぐに見つかる。町立スポーツセンターの管理人を務める吉田次男さん(60)も、そうだ。

 町を離れていた30代のころには結婚を考えた女性もいたが、相手が岩手に住むことを嫌がった。病気だった母の面倒をみるために仕事を辞め、故郷に帰ってきて20年。下の世代に、同じ境遇の男性がどんどん増えている。

 町議の高橋靖さん(55)も独身だ。過疎化の方向性に一石を投じたいと町議選に立候補し、初当選したのは2001年。10年近くこの問題に取り組んで、一つだけわかったことがある。特効薬はない、ということだ。(仲村和代、真鍋弘樹、中井大助)

■未婚でも不安感じない社会に

 孤独死と隣り合わせの時代。寂しい最期を迎えたくないと、婚活に励む男性たちがこれほど多いことに驚く。結婚年齢の上限は、もはや無くなったようだ。

 未婚、晩婚化が進んでいても、人々の結婚願望が衰えたわけではないと感じる。かつて地域や職場の世話焼きが男女の仲を取り持ち、親が決める見合い結婚も多かった。それがいまや、結婚相手探しは恋愛市場での自由競争が原則となった。

 経済力や容姿、性格……。様々な条件が合致しなければ、なかなかゴールにまで至らない。不安定雇用と低収入のために二の足を踏む若者や中年男性が多いのも無理はない。「おれも孤独死かな」。20代でそんな言葉をもらす若者さえいる。

 出会いの場を広げることはもちろん大切だ。男女のすき間を埋めるように「婚活ビジネス」が広がる。

 それでも単身化は進むだろう。未婚で生涯を送る「孤族」たちが不安を抱えずに生きていける、そんな社会であってほしい。(井上恵一朗)
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167チバQ:2011/11/20(日) 20:42:00
http://www.asahi.com/special/kozoku/TKY201012270408.html
失職、生きる力も消えた 「孤族の国」男たち―32010年12月27日21時45分
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工藤均さんが通ったハローワーク浜松。職業紹介のパソコンは朝から満席で、順番待ちの番号札を持つ人もいた=浜松市中区、仙波理撮影

22歳の男性の自室。好きなアニメの本やポスター、ロボットの玩具などで雑然としていた=埼玉県川越市、仙波理撮影
 師走の朝に訪ねた浜松市内のハローワークは、54台ある求人検索機がすでに満席だった。やっと空いた端末で、ある男性の条件を入力する。

 61歳、フルタイム、派遣、木材加工、勤務は浜松周辺――。結果は「該当する求人件数 0件」。勤務地を静岡県全体に広げて、どうにか「2件」になった。

 その2社に電話してみた。

 「資格や免許はない? いろんな工場を転々? そういう人が一番困るんだよ」

 「老眼になると労災が怖い。体力も落ちる。正直言うと60歳超えると無理ですね」

 ため息が出た。彼も、同じだったろう。

 工藤均さんが自ら命を絶ったのは、汗ばむ陽気の残る10月中旬の昼すぎだった。

 「もう疲れた。仕事もないし、金もない」。か細い筆跡で遺書を記し、ひとりで22年間暮らした木造アパートのベランダにロープを掛けた。東名道のインターに近く、工場や住宅が混在する地域。裏のアパートに住むベトナム人工員が第1発見者だった。

 「安すぎる。生活保護と変わらない」。派遣会社を去ったのは5月半ば、誕生日の翌日。60歳を超すことを理由に1200円から850円への時給引き下げを通告されていた。年金保険料を納めず、何とか確保してきた手取り月17万円が、約3分の2になる。

 自らハンドルを握って、派遣先に社員を送り届けるという社長は作業着姿で取材に応じた。「賃下げは、派遣先の建材工場の要求だった」「280円の牛丼もある。食っていける額だ」と言い、工藤さんをこう評した。「強気でプライドが高い。辞めても、若い時のように次があると勘違いしていたんだ」

 確かに、次はなかった。(西本秀)

■働きたい、人とつながりたい

 6月、アパート前に白いセダンが止まったままなのを心配して、上階の男性が工藤均さんの部屋を訪ねた。

 「仕事が見つからない。自分も安い部屋に移りたい」

 ふさぎこんだ工藤さんは、男性が市営住宅の抽選に当たったと聞き、しきりにうらやましがったという。

 7月、貧困相談に乗る市民グループと面会し、生活保護受給を勧められる。だが、車の処分が必要と聞くと申請を拒んだ。グループの落合勝二事務局長は、「年金も預金も家族もない。彼には車が唯一の財産だった」とみる。

 最後の失業手当、約10万円を受け取った9月。落合さんの目には、身長160センチほどの工藤さんがもっと小柄に見えた。生活保護に代わり住宅手当を提案したが、「頼れる人も頼られる人もいない身。どうなったっていい」と投げやりに断った。

 仕事が見つからず、生きるプライドも奪われていく。

 10月に入り、失業手当もほぼ使い切ったのだろう。近所の主婦(63)は、泣きはらした顔でアパートに帰る工藤さんに気付いた。野菜を譲ったこともあったが、その日は声をかけそびれた。「あの時、話しかけていれば……」

 リーマン・ショックが直撃した製造業の街、浜松では、2009年の自殺者が前年から2割増えて165人になった。中高年を中心に、男性が8割近い。

 クリスマスの夜。「温まってください」。浜松駅前で失業者らにスープを配った日系ブラジル人団体「エスペランサ(希望)」の河内オスバルドさん(58)は、失業者が自殺に追い込まれる日本が不思議でならない。ブラジルの10万人あたりの自殺率は日本の5分の1以下。「私たちは食べものと一緒に、声をかけて言葉を配る。助ける、助けられる、に遠慮はいらない」

 青森に生まれ、両親のいない工藤さんに、遺体の引き取り手は現れなかった。市役所が火葬し、遺骨を預かった。

 手放すのを拒み続けた車は所有権が宙に浮き、いまもアパートの駐車場に放置されている。最後まで仕事を探していたのか、助手席には運転用の黒いサングラスと一緒に、求人情報誌が置かれていた。

168チバQ:2011/11/20(日) 20:42:20
    ◇

 働きたいのに、働けない。働き盛りであるはずの30〜50代の男性が、もがいている。

 元編集者、55歳。待ち合わせの駅に、着慣れたスーツ姿で現れた。15年ほど勤めた業界紙が昨年10月に倒産。勤めていた時と同じリズムを保ち、家を出るという。

 100社に書類を送り、面接まで行けたのが3社。若い頃は、引く手あまただった。時代は急激に変わった。

 生きていけないんじゃないか、という不安だけではない。働くことで社会の一員になっているんだ、と思う。とにかく、働きたい。

 元出版社員、40歳。大手企業を辞めた「即戦力」だが、勤めた会社が次々に倒産したり、部署がなくなったり、と不運続きだ。給料は安くてもいいから、長く勤められる会社。求めているのはそれだけなのに、決まらない。

 求人は昔と比べると両極端だ。とても高いスキルが必要か、逆に単純作業で誰でもいいか。「ちょっと何かができる」という中間層は、どこに行けばいいのか。お金じゃなく、人から信頼されて働けることが楽しいのに。

 大学院卒、31歳。塾講師のアルバイト以外は経験なし。弁護士を志し、旧司法試験に6回挑戦した。30代半ばで就職活動するよりは、と法科大学院への思いを振り切った。

 もうすぐ年賀状の季節。同級生から、近況が届くだろう。家を買った。子どもができた。そんな一方で、勤めた会社が倒産し、再就職先もつぶれた友人がいる。まるで、人生はくじ引きのよう……。

 仕事を失うことで、収入以外に失うものが確実にある。彼らは今日も面接会場へと向かう。

     ◇

 その部屋が自分の唯一の居場所であるかのように、22歳の男性は座っていた。

 アパートの一室。壁には美少女アニメのポスターやカレンダー、雑誌や漫画本が積み上がる。自分が好きなもの、自分を拒否しないもので、周囲にバリケードを築こうとしているかのようだ。

 昨年、うつ病の診断を受けた。離婚した親の援助も受けられず、21歳の若さで生活保護を申請した。

 最後に働いたのは、巨大な冷蔵庫の中だった。くるぶしまで届く分厚いコートを羽織り、手には軍手。冷凍された弁当の食材を指定された数だけ振り分ける。次第に足先がしびれ、感覚がなくなる。時給は1千円。

 翌朝のボードに、食材の数のミスが張り出される。また自分だ。「一緒だと仕事にならない」と同僚。「簡単なことなのに」と上司。遠回しに解雇を宣告された。

 高校を卒業し、郷里の岩手県から上京してアニメ・ゲーム制作の専門学校に進学したが、希望の職にはつけず、非正規労働を繰り返した。宅配便の荷物の仕分け、日雇い派遣、風俗情報誌……。だが、なぜか、何をやっても人より遅い。いつも追われるように職場を去る。生きる資格がない、と社会から宣告されたような気がする。

 思えば小学生の頃から、同級生に近づいただけで「バイ菌」と逃げられた。過去をさかのぼっても、いい思い出は見当たらない。唯一の例外は高校生のとき、県で俳句大会の1位になったこと。22年の人生で、あのころが最も輝いていたと思う。

 今でも、俳句雑誌に投稿を続けている。〈どこまでも向かうあてなき冬野かな〉

 今、定期的にしているのは、ブログに思いを書き込むことだけ。人とつながりたい、と画面が叫ぶ。

 「一生、結婚なんて考えられない。生活保護がなければ路上生活か自殺しか……」

 この年末はしばらく部屋から出られず、1日1食、白米やインスタントラーメンだけで過ごした。100円ショップで買った壁時計は、12時55分を指したまま動かない。「途中で止まって。まるで僕の人生のようですね」(西本秀、仲村和代、真鍋弘樹)

■最後の命綱失うと転落は深い

 人はなぜ働くのだろう。生活のため。食べるため。それだけか。「社会の役に立ちたい」。出会った失業者の多くが生きがいを求めていた。

 自殺した浜松の男性も、ただ食べるためなら生活保護で済む。でも受給を拒否した。自殺は「孤立の病」と呼ばれる。失業をきっかけに、社会につながっているという感覚が消え、生きる意欲を奪われてしまったのか。むしろ社会の側が、彼を拒否したのだと、取材して思った。

 取りかえ可能な非正規雇用が広がり、「必要とされている」という手応えが得難くなっている。就職難で社会の入り口で門前払いされた若者は、結婚から遠ざかり、「孤族化」に拍車をかける。家族や地域のきずなが細れば、仕事が最後の「命綱」となり、切れた時、転落は深い。

 浜松のハローワークで出会った59歳の男性は半年間、失業状態が続いていた。「選択肢がない」とこぼして、「首相の言った、一に雇用、二に雇用、三に雇用の約束はどうなった」と語った。(西本秀)
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169チバQ:2011/11/20(日) 20:42:48
http://www.asahi.com/special/kozoku/TKY201012280412.html
39歳男性の餓死 「孤族の国」男たち―42010年12月30日22時35分
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男性が餓死した家(左)。電気は止められ、夜の明かりは給油所(右)から差し込む光だけだった=北九州市門司区、仙波理撮影

餓死した男性の遺骨が安置された納骨堂=北九州市門司区、仙波理撮影
 たたきの先の障子を開けた警察官が声をあげた。

 「あっ」

 まさか――。60代の家主の女性は怖くて家のなかをのぞく気になれない。

 「やせている人ですか?」

 警官から聞かれてけげんに思った。独居の借り主はがっちりした男性のはずだ。高校時代はラグビー部員だった。

 月2万5千円の家賃が滞り始めて4カ月。消費者金融の取り立てもきていた。行方をくらましたと思っていた。

 まだ39歳。死んでいるなんて思いもしなかった。

 冷蔵庫は空。棚にしょうゆと油の瓶があるだけだった。医師の死体検案書に〈摂食の形跡無し〉と記載された。

 その借家は、トタン張りの平屋建て。さびて赤茶けていた。師走の風に、玄関のサッシがカタカタと鳴る。

 裏の借家の初老の女性は、男性と話したこともないという。真っ暗だった家で人知れず死んでいたと知ったときはふるえがとまらなかった。

 「なるときはあんなになるのかと思って。餓死では死にきらん。餓死では」

 この死が報じられた当時、家の前に来て涙を流す女性を見た。「『いい人だった』と聞いて、そんな人やったんやなって」と同情を寄せた。

 昨年4月、北九州市門司区で起きた餓死事件。男性は、いま37歳の私と2歳しか違わない。健康面に問題を抱えていたわけではないという。前年11月まで働いてもいた。

 そんな男性が、飢えて、死んだ。心象風景を探る取材を始めた。

■「たすけて」言い出せぬまま

 餓死した39歳の男性が育った家は、借家から数百メートルの場所で床屋を営んでいた。

 祖父母と両親、兄との6人暮らし。親族によると、父親は借金が原因で行方不明になった。祖父母が死に、兄は大学進学を機に家を出た。男性も県外で働いた時期があったが、実家に戻った。未婚で、母親が5年前に亡くなってからは一人暮らしだった。

 仕事は不安定だった。専門学校を出て富山県の会社に就職。だが1年ほどで退社して福岡県内の会社に入り、2001年からは居酒屋などの飲食店を転々とした。少なくとも6店に勤めたが、いずれもアルバイトだった。

    ◇

 最後に勤めた居酒屋チェーン店を今年10月に訪ねた。人の入れ替わりが激しく、当時のスタッフはいなかった。当時の店長(32)は熊本市の系列店にいた。男性は10〜20代のアルバイトに交じって、調理場の仕事を黙々とこなしていたという。辞めた理由は借金。取り立てが来ると迷惑をかける、と自ら切り出した。

 同じ時期に半年間、掛け持ちで働いた食堂では、「自分の店を持ちたい」と周囲に希望を語ることもあった。

 無職で迎えた昨年の元日。男性を招いた家があった。保育園から一緒だった元同級生宅。その同級生の帰省に合わせて呼び、みんなで刺し身や煮物をつついた。

 元同級生の母親(61)は振り返る。「ちょっとやせたなって思ったんよ。でも『恋でもしよる?』ってたわいのない話をして、いつもと変わらんようだった」

 仕事の近況を尋ねたときは、働いてます、と答えていた。

 昨年3月20日ごろ、男性から電話があった。

 「おばちゃん、風邪ひいて何も食べてないんよ」

 「ならお弁当でも作ってあげる」。もち米を使っておこわを作り、卵焼きを詰めて車で来た男性に渡した。

 「あれが最後の食事やったんか……。助けて、と一言いってくれれば何かできたかもしれんのに。それが腹立たしくて」。涙声になった。

 元同級生と男性は同じ専門学校に通い、同じ飲食店でアルバイトをした。陽気な元同級生は接客。物静かな男性は調理室。元同級生は、気に入られた客の誘いで東京の会社に就職した。以来、正社員として働き、妻子もできた。「何かにつけて得な人とそうでない人と、あるんかね」。しみじみと母親は言った。

 この土地には、隣近所で助け合う心が残っていた。気さくなこの母親に接し、なぜ、との思いが強まった。

170チバQ:2011/11/20(日) 20:43:09
  ◇

 〈たすけて〉

 平仮名で書いた紙の切れ端が入った封筒が男性の部屋に残されていた。

 宛先に書かれていたのは母方の叔父(66)。駅に近いマンションで暮らしている。

 「逃げたと思ってた。餓死とは意外やった。できるか? 40前の男が食えないまま閉じこもって死ぬなんて」

 叔父の言葉は辛辣(しんらつ)だった。

 「誰も悪くない。本人の責任」

 男性の家族が借金問題を起こすたびに親族が尻ぬぐいをしてきたという。男性の収入は少なく、同居する母親の月8万円の年金と叔父らの資金援助が頼りだった。「完全なパラサイト」と断じた。

 「もう、情けないよ……」

 叔父は高卒で地元のセメント会社に就職。「粉まみれになってがんばった」と言う。「金を稼げるならなんちゅうことはなかった」。いまなら3Kと言われる職場だ。先輩後輩、社内の人間関係でつながっていた。簡単に辞めていく人間はいなかった。そうして定年まで勤めあげた。

 叔父にとって、おいっ子は歯がゆい存在だったろう。

 男一人なら生きていける、と母親が病死したあとは援助をやめた。

 男性が飲食店を掛け持ちで働き始めたのはこの後だ。

 食堂の時給680円、居酒屋800円。午前8時から日付が変わるまで働いて、月収は20万円に届くかどうか。

 二つの店と自宅とはほぼ一本道でつながっている。車検が切れた軽自動車で単調な道のりを往復する日々、何を考えていただろう。

 昨年1月、門司区役所に生活保護の相談に行っている。相談記録票には、飲食関係の正社員に限定して求職中と聞き取った内容の記載に続き、「相談結果の処理」の欄にこう書いてあった。

 〈39歳、健康体であれば何か仕事はあるはずである〉

 「幅広く探してみる」と男性は保護を申請せず帰った。

 男性を追い込む直接のきっかけとなった借金の理由は取材ではわからなかった。督促状は丁寧にクリップで束ねられ、6社から計150万円に上った。家に5台も残されていた携帯電話も謎だった。

 頼ったのは結局、親族。昨年2月に大阪にいる4歳上の兄に連絡して金銭的な支援を頼んでいる。叔父は兄からの電話で経緯を聞き、借金問題にはかかわらないように忠告したという。

 その兄に電話で取材を申し込むと、仕事で多忙だから、と断られた。もう一度かけても答えは変わらず、心境を聞くことはかなわなかった。

 未投函(とうかん)の叔父あての手紙。封筒の表書きがぴしっときれいな字で書かれているのに、〈たすけて〉の文字は弱々しかったという。

 出すか、出すまいか。

 命が尽きる寸前まで迷ったのではないか。

 弱い自分をさらけ出し、助けにすがってまで生きる。生き延びたとして、その先に希望があるのか――。電気が切れ、真っ暗な借家で煩悶(はんもん)するやせ細った39歳を想像した。

 叔父の言葉が、私の頭にこびりついている。

 「すがるところが無くなった。だから、死んだ」

 財布に残されていた現金は9円。叔父は、これもメッセージだと受け取った。

 「食えん(9えん)」

 菩提(ぼだい)寺のさい銭箱に投げ入れたという。

 私もやってみた。1円玉4枚と5円玉1枚。軽い硬貨が乾いた音をたてて落ちた。


■救いの手にすがる難しさ


 餓死した39歳の足跡をたどって見えてきたものは、孤立した働き盛りを支える「希望」の無さだった。

 正社員を辞めた時期にバブルが崩壊。職を転々とした男性の生活は、母親の年金や親類の援助で成り立っていた。「自分の店を持ちたい」と周囲に語っていたが、実際には蓄えと呼べるものは無かったようだ。若いころ交際相手がいたが未婚のままで母親と2人で暮らし、その母親を亡くすと、孤立無援になった。

 男性が最後に職を失ったのは、リーマン・ショックのあと。同じ時期に自動車工場を解雇された元同級生(41)は「ひとごとではない」とおびえていた。自分も親がいなかったら生活できなくなっていた、と。

 男性には、支え、支えられる存在としての家族がいなかった。だがほかに助けを求める先は無かったか。

 心配してたびたび様子を見にきていた家主、弁当を持たせた元同級生の母、生活保護の窓口……。すがってもいい、どこかで一言を絞り出してほしかった。(井上恵一朗)
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171チバQ:2011/11/20(日) 20:44:01
http://www.asahi.com/special/kozoku/TKY201012290338.html
彼は無表情だった 「孤族の国」男たち―52010年12月30日22時52分
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街宣の様子を撮影し、ネット上に投稿してきた男性=兵庫県内、仙波理撮影

中高生らが襲われた現場を警察庁の安藤隆春長官が視察した。長官が記者らに囲まれる様子を若い女性が携帯電話で撮影していた=27日、茨城県取手市、仙波理撮影
 休み時間は、いつもひとりでいた。本を読むでもなく、携帯電話をいじるでもない。休憩室を出て、日当たりがいい場所に、ただ座っていた。

 茨城県つくばみらい市の工場に勤務する男性(44)は、昨年9月まで部下だった期間契約社員のそんな姿を、よくおぼえている。

 彼は、反物状のフィルムを梱包(こんぽう)し、ラベルを貼り付ける仕事をしていた。仕事は丁寧で、中高年の同僚7人と一緒に黙々と作業を続けていた。

 口数は少ないが、声をかけると丁寧に受け答えをする。女性たちが「お菓子、食べようよ」と誘うと、控えめに輪に加わるが、翌日にはまたひとりで、ひなたに座る。

 元上司は語った。「コミュニケーションが得意じゃないんだろうが、普通の青年だった。あんな事件を起こす人間とは思えない」

 12月17日の朝、JR取手駅前で、中高生らが乗るバスに包丁を持って乱入した。バス運転手の怒号と生徒たちの悲鳴。あごを切られた女子高校生のマフラーが血に染まった。切られたり殴られたりして、14人が負傷した。

 斎藤勇太容疑者(27)。工場を辞めた1年2カ月後、不特定多数の未成年にやいばを向けた。殺人未遂容疑で現行犯逮捕され、「人生を終わりにしたかった」と供述した。

 茨城県警によると、斎藤容疑者は高校を卒業した後、半年ほど予備校に通った。だが大学には進まず、10回ほど職を変える。3年前に母親を亡くし、年金暮らしの父と同居していたという。昨年、工場との契約が切れた後は職に就かず、自宅にこもっていた。

 県警の捜索時、部屋にはテレビやパソコンといった、外界とつながる道具が一切なかった。高校時代に好きだったという本も一冊もなく、友人、知人とつながる携帯電話も持っていなかった。

 取手駅から約9キロ離れた同県守谷市内に、容疑者の自宅はある。事件の2カ月前、近所の60代女性が会っていた。

 髪を肩まで伸ばし、ぶかぶかの部屋着姿だった。一言も発しない。「中学生のころと、ずいぶん変わっちゃったな」と感じた。女性が何より驚いたのは、まったく表情が無かったことだった。

 つながりを断った1年2カ月について、斎藤容疑者は何も語っていない。事件の動機についても、弁護士に「表現しづらい」と話している。

 工場の元上司は思う。ひとりが好きなのだと思っていたが、実は違っていたのかもしれない。してやれることがあったんじゃないか。「でも、子どもたちを傷つけたのは許せない。しかりつけたい」

 弁護士を通じ、元上司がそう語っているのを知った斎藤容疑者は、こうつぶやいたという。「そんなふうに思ってくれている人がいるんだ」

■居場所を探す 宗教にネットに

 12月上旬、中国地方の大学で、大津市の会社員(36)が大学教員ら約40人を前にして、「大学におけるカルト勧誘」をテーマに講演をした。「大学に入ったばかりは、知り合いが少なくて寂しいですよね。ベンチで1人で座っている新入生が狙い目です」。「孤独を狙う」との文字を映し出したスクリーンの前で声を張り上げる。

 「僕もそういう人に声をかけました。例外なく話を聞いてくれました」。自らがしたことへの後悔がこもる。

172チバQ:2011/11/20(日) 20:45:06
■家族より濃い血

 1993年に大学に入学したが、遊ぶことばかりに熱心な同級生に違和感を持った。入試を終え、新しい目標も持てない。話し相手が欲しくなり、前年、受験を前に大学を下見したときに声を掛けられた「人生を考えるサークル」に電話をした。

 講義の選択方法や試験対策を丁寧に教えてくれる。飲み会や食事会、合宿が頻繁に開かれる。サークルが新興宗教の偽装だと分かった後も、キャンパスの外にある「部室」に通い詰めた。少し年上の東大生が、教義をマンツーマンで教えてくれた。まるで兄のよう、いや「家族より濃い血」が流れていると感じた。

 教団で生きていこうと決心した。4年生で大学を中退。「なぜだ」と父は激怒し、母は泣いた。昔の自分のような大学生を、今度は自分が「兄」になって勧誘し、100人以上を誘い込んだ。

 お布施集めにも奔走した。「保険も解約したし、もうだいぶつぎ込んだ。もう出せるものは……」。土下座して号泣する高齢女性を「地獄に落ちますよ」と脅し、50万円をむしり取った。

 認められて本部職員となり、ネット対策を担当した。教団を攻撃するサイト運営者を、告訴すると脅す日々。「おまえ、変わっちゃったな」と言われたくなくて、教団の外にいる知り合いを避け続けた。

 そんなある日、ふと疑問がわいた。なぜ、教団職員の残業代が支払われないのか。なぜ、教団の会長に絶対服従なのか。なぜ、会長はぜいたくな生活をしているのか。外部の人たちが言うことの方が、正しいのでは……。

 12年間在籍した教団を去ると、孤独が押し寄せた。家族より濃いつながりのはずの仲間から、ぱったりと連絡が来なくなった。就職はしたが、同僚との付き合い方が分からず、3回転職した。教団に入る前よりつらい。まるで、焼け野原に一人でたたずんでいるように。

 孤立感から抜け出せたのは3年後。結婚して子どもが生まれ、家を建てた。同じ年齢の男性が送っている生活を、自分も営めるようになったと思えたときだった。

■サイトの有名人

 かき入れどきの土曜だというのに、店のシャッターは閉じていた。朝方までソファでパソコンを操り、そのまま眠ってしまったのだという。

 兵庫県の阪急沿線、駅前に続く通りの一角で、男性は小さな洗車店を営む。だが、実際は休業状態。週1度、食料を買いに出かけるほかは、店舗2階の自室にこもってインターネットに浸る。

 自分のことを「僕」と呼び、眼鏡の奥で人が良さそうに笑う34歳には、ネットの世界にもう一つの顔がある。「bureno(ブレノ)」。動画サイトでは、ちょっとした有名人だ。

 「スパイの子」「日本から出て行け」。画面の中で、日の丸や拡声機を手にした男たちが、ののしり声をあげる。今年8月、右派団体の幹部らが威力業務妨害容疑で逮捕された朝鮮学校前の街宣を、この男性が撮影した。

 ドラマのように軽快な音楽をつけて編集した「作品」はネットに投稿され、累計で数十万回もアクセスがあった。各地の街宣に同行し、投稿を繰り返していた男性は、団体幹部とともに逮捕されたが、「関与が薄い」として不起訴になった。

 「ブレノ」は、滑らかなカメラワークで「ぶれない」という意味を込めた登録名だ。自身の活動を、海上保安官が「sengoku38」の名で尖閣沖の衝突映像を流出させた事件とダブらせる。「日本はもっと怒っていい」

173チバQ:2011/11/20(日) 20:45:18
 自分の居場所はどこだろうか。いつも探してきた。

 小学生のとき両親が離婚した。父と母の家を行き来して育ち、小中だけで五つの学校に通った。捨ててあるラジオやゲーム機を持ち帰り、自宅で一人、分解して遊んだ。

 理系の専門学校を中退し、カプセルホテルのフロントなど職を転々とする。父が亡くなり、遺産を元手に、車の塗装剤の販売を始めたが失敗。洗浄水を特別な濾過(ろか)装置に通した現在の店も振るわない。「自分のこだわりは、世の中には分からない」と強がる。

 動画や書き込みを投稿する度に、引用、転載されていないかを確認する。取材の日に男性が検索すると、以前投稿した写真が17カ所からリンクを張られていた。「ちょっと少ないなあ」

 掲示板には、何百もの投稿が秒単位、分単位で届く。自分の発言に、ほかの人から反応がある時、男性の胸は弾む。一瞬一瞬の反応でいい。認められている、と思える。

 現実の社会で右派団体の撮影にのめり込んだのは、行く度に喜ばれ、必要とされたからだった。だが、会のメンバーの多くは、彼を「ブレノさん」と呼び、逮捕されるまで本名すら知らなかった。

 事業のため、生活のために取り崩してきた父の遺産は間もなく底を突く。最近の夕食は1キロ200円のソーメンを小分けして食べている。「愛国」にすがり、見ないようにしていた現実に目を向ける時期は、近づきつつある。

 本当は何をしたいのか、と聞くと、拍子抜けするほど普通だった。

 「中小企業でこの人がいると便利だなっていう人がいるでしょ。パソコンもサッと使えて、ホームページもチラシもつくれる。本当は、そうやって役に立ちたいんです」(鈴木剛志、西本秀)

■自分を追い込む若者たち

 茨城・取手事件の斎藤勇太容疑者について、彼を知る人を訪ねて歩いた。職場で一緒にお菓子を食べた女性は「あんなことをする子じゃない」と動揺した。元上司も「私たちが知っている斎藤君じゃない」と。

 これらの印象と、忌まわしい凶行との落差が胸につかえている。

 斎藤容疑者は、度重なる転職、失業、母の死などの苦境や不運をいくつか抱えていた。社会から切り離されていく間に、やり場のない怒りを心の中にため込んでいたのかもしれない。突然、爆発するほどに。

 新興宗教に10年以上を捧げた36歳。ネットにのめりこむ34歳。彼らの素顔は、まじめで少し不器用な青年だった。そんな若者たちが、時に日常に背を向け、自分を追い込む。

 社会から認められない。社会とつながっていない。そんな不遇感を募らせるのは彼らだけではないだろう。顔を上げて、すぐ近くに目を向けてみれば、自分はひとりではない、と気付かせてくれる誰かがいるかもしれない。(鈴木剛志)
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174チバQ:2011/11/20(日) 20:46:50
http://www.asahi.com/special/kozoku/TKY201012310223.html
少女のような目の母と 「孤族の国」男たち―62010年12月31日21時30分
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94歳の母里津子さん(左)に大きな声で話しかける森谷康裕さん。食品雑貨店を営みながらの介護が続く=東京都葛飾区、仙波理撮影
 居間のかもいに、額縁入りの賞状が並ぶ。米寿の祝いなどに贈られた「寿状」は、亡父あても含めて3枚。94歳になるベッドの上の母を、静かに見下ろす。

 介護保険で、最重度より一つだけ軽い「要介護4」。週1の訪問入浴を済ませ、おぼつかない手つきでコップを口元へ。「あっ、こぼすよ」と慌てて近づく長男を、少女のように澄んだ目で見つめる。

 森谷康裕さん(66)は父が逝った10年前から、母里津子さんと2人きりで暮らす。東京都葛飾区にある築39年の木造2階建てで小さな食品雑貨店を営む。

 昨年、母の左太ももの骨折がわかったが「もう治せない」と医者に言われ、ほぼ寝たきりになった。耳が遠くなり、終日つけっぱなしのテレビの音も聞こえているかどうか。最近の会話は「今」と「過去」が入り乱れる。

 そんな母との生活を「自営だから良かった」と思う。お兄ちゃーん、と呼ばれれば、すぐ飛んでいく。親類の消息を問われても「あの人、もう死んじゃったでしょ」と耳元で何度でも正してやれる。

 いつの間にか居着いた猫が、ひだまりの部屋を通り過ぎていく。

 4人きょうだいの一番上だった森谷さんは、高校を中退して16歳で、両親の店を手伝い始めた。すぐにオート三輪を買い、毎朝6時に市場へ。父が作るきんぴらや煮豆は評判で、年の瀬になれば自家製の「お節」を買いに来る常連客を、親子3人でさばいた。

 30歳過ぎで見合い結婚したが、1年足らずで破綻(はたん)した。「サラリーマン家庭みたいに決まった休暇が欲しいと言われても、ね」

175チバQ:2011/11/20(日) 20:47:24
 時代は流れ、街は変わる。

 駄菓子の売れ行きが落ち、主婦は消費期限が表示されたパックの総菜を好むようになった。常連客は老い、店の前を通り過ぎる人々は向かいの駐車場付きスーパーへ吸い込まれていく。

 忘れられた孤島のような商店の陳列棚に品物は少なく、閉店セール最終日のようだ。

 森谷さんはほとんど外出せず、毎日3度の食事を作って母に食べさせ、おむつを替えて寝かしつける。独身の弟(58)が週2回は顔を出すが、妹たちはあまり来ない。「旦那や孫の世話で忙しいんだろう」。ため息がもれる。

 2人の時間は、10年前から止まっているかのようだ。だが、母は卒寿を過ぎ、自分も高齢者と呼ばれる年齢に達して、同じ病院に通う。10年後、一体どんな暮らしが待つのか、考える余裕はない。

 「車いすにさえ乗せられれば、日帰りでも連れ出してやれるんだけど」。そう言いながら、2年前の旅行の写真を手に取った。満開の芝桜を背にした母は、少し不安げに、こちらを見つめている。

■息子介護の本音 言えた

 残業を終えて帰宅すると、母は出走直前の競走馬のような目をしていた。明け方まで続く徘徊(はいかい)の前兆だ。「向こうに行ってろっ」。思わず頭をたたくと、みるみるうちに白髪が鮮血に染まった。急いで病院へ。「次は通報します」と医師は言った。

 数年前のことだ。

 鈴木宏康さん(51)は独身で、アルツハイマー型認知症を患う82歳、要介護3の母を介護する。川崎市の築30年を超す分譲団地の4階、3LKで2人の生活を続ける。

 電機メーカーの下請け会社を辞めたのは46歳。リストラ含みの配置転換で嫌気がさしていたとき、母の病状が悪化した。四六時中、部屋を動き回って、独り言を繰り返す。水道の蛇口は開けっぱなし。そばを離れられなくなった。

 最初はアルバイトに出るつもりだった。でも面接で「欠勤しないで」と言われれば諦めるしかなかった。昼間預かってくれるデイサービスの利用料を差し引けば、時給は実質275円。施設に入れる貯蓄もなく、母の年金で暮らそうと決めた。

 生活は想像を絶した。

 力任せに玄関ドアをたたき続ける母を部屋にとどめておけず、昼も夜も背後から追って、何キロも歩き続けた。たびたび行方不明になり、連絡を受けては連れ帰る。やむをえずデイサービスに預けた晩は、興奮して大暴れ。地域のケアマネジャーに愚痴をこぼすと「育ててくれた親でしょ」と言われ、心が折れそうになった。もう二度と行政には頼るまい、と決心した。

 たまに元同僚や友人から飲み会へ誘われたが、断った。苦しい胸のうちを訴えたところで何になるのか。そもそも母を置いて外へ出られない。周囲に壁を築き、2人だけで閉じこもるような日々。

 ボランティアの女性(63)が訪ねてきたのは、この頃だ。「気になる親子がいる」というケアマネらの訴えで、様子を見にきた。片時も落ち着かぬ母の横で、ふてくされてたばこを吸い続けていると、集まりに顔を出して、としつこく誘われた。足を運ぶうち、「本を書いたら」とすすめられた。

 2人きりの閉じられた空間に、少しずつ新しい空気が入っていく。

 日記を書いたこともないのに真夜中、パソコンに向かった。2009年、単行本「息子介護」を出した。つたなくも過激な表現で、孤立無援な日々に正気を失いかける心境をつづる。「自分自身の人権なんて言ったら、介護なんてできない」「日にいく度か心の中で殺すのです。お袋を」

 単行本は話題を呼んだ。同居の親をみる無職の独身男性の「本音」を聞きたいと、介護職や行政担当者らが続々とやってくる。介護関係者の会に誘われることも増えた。

 鈴木さんは気が向くと、母を連れて、そんな会に参加する。「キャバクラに行く方がいいに決まってます」などと憎まれ口をたたきながら。(高橋美佐子)

176チバQ:2011/11/20(日) 20:48:17
■「ごめん」2階に父の遺体

 2階に上がると、目の前の部屋の床には楕円(だえん)形のしみが広がっていた。北関東の新興住宅地の一角にある、築14年の木造戸建て。薄茶色のフローリングに広がるしみは周囲が黒く、中心部は白い。

 1人でここに住む男性(39)が7カ月間、父親の遺体を寝かせていた跡だ。

 「仏様だから、頭は北に向けて、こうやって、そっと布団の上に寝かせて……」

 丸刈りの男性は、遺体を布団に乗せた様子を、腕を広げて示した。刺繍(ししゅう)の入ったジャンパーにジャージーのズボン。家の中には、ゲームセンターで取ったぬいぐるみがいくつも飾ってある。

 2009年2月のある日。66歳の父親が心臓発作が起きたように苦しみ始めた、という。「心臓マッサージのようなことをして、発作が治まったのでよくなったと思って寝ちゃって」

 目覚めると、父は息を引き取っていた。呼びかけても、返事はない。

 「医者に診断書を書いてもらうためのお金もなくて、お葬式代もないし、家のローンも残っているし、もうどうにもならなくて」

 ほとんど使われていなかった一番きれいな部屋に遺体を寝かせた。毎日、「ごめんな、ごめんな」と声をかけ、顔を触り続けた。

 遺体と2人きりの生活が終わったのは、「父親の姿をみない」という近所の通報があったからだ。父の死後も年金を受け取っていたとして、男性は詐欺容疑で逮捕された。死亡を届け出ていれば保険でローンを返済できたことは、取り調べで初めて知った。

 「所在不明高齢者」の存在が明らかになった昨夏以降、この種の事件が各地で発覚した。首都圏の住宅地で、地方都市で、山村の集落で、同じことが起きている。男性の場合、生活の歯車が狂い始めたのは10年ほど前。母の病気が悪化したことが理由だった。

 当時は父、母、妹との4人暮らし。ローン返済には父親の収入が不可欠だったため、男性が仕事を辞めて看病や家事をした。さらに父が交通事故で大けがをし、両親の面倒をみなければならなくなった。収入は1カ月おきに振り込まれる、約30万円の年金だけになった。

 母は、06年冬に死亡。1年半たたないうちに、今度は妹が心臓の病気で亡くなった。国民健康保険料すら払えず、父親の容体が急変しても、医療費が心配で119番できなかった。

 「住宅ローンの保険のことを知っていれば」。猶予つきの有罪判決を受けて自宅に戻った男性は、家族3人の遺影が並んだ仏壇の前でそう語る。相談できる知人や親族はいなかった。父親が役所に頼ることを嫌がっていたので、公的機関にも駆け込まなかった。孤立に導かれるように、男性は年金詐取に走った。

177チバQ:2011/11/20(日) 20:48:47
 今、生活保護を受けている。就職のあてはない。将来どうするのか、日が暮れると考え込む、という。

 年を取っても親と同居している人は年々増え、収入は年金頼みということも多い。家族関係の研究を続けてきた、山田昌弘・中央大教授は「年金パラサイト」と表現する。

 「寄生」が、「介護放棄」になることもある。12月22日、津地裁の法廷に立った桐本行宏被告(57)は、そんな一人だ。

 「年金を半分あげる」と言われて母親と同居を始めた。だが数年後、ささいなことから対立。食事を運ばなくなり、さらには当時80歳の母の部屋が開かないよう、ふすまに釘を打った。母の死を確認した後も約1年半、年金をもらい続けていた桐本被告は詐欺のほか、保護責任者遺棄などの罪に問われている。

 「お母さん、ごめんなさい。愚かな息子です。恥ずかしく、情けないです。小学校の入学式の時につないだ手の温かさを覚えています。もしできるのなら、あのころに戻りたいです」。留置場で壁を眺めながら考えたという謝罪の手紙を弁護人が読む間、桐本被告は声を上げて泣いた。(中井大助)

■介護で引きこもり 防ぐ手を

 私の兄は44歳の独身サラリーマン。都内の実家に住んでいたが、最近一人暮らしを再開した。以前は「結婚して独立を」とせかした妹の自分が、ここ数年は、老いた両親のそばに兄がいる「安心感」に寄りかかってきたことに気づく。

 介護をする家族で最も孤立しやすいのが「高齢の親と同居する独身の息子」とされる。家事に不慣れで近所とのつながりが薄く、地域の見守りや緊急支援の対象からも外れてしまう。高齢者虐待のトップも息子で、夫や娘をはるかにしのぐ。

 「介護のせいで職を失ったのに、落後者という負い目に苦しむ」と春日キスヨ・松山大教授は警告する。介護する息子の「声にならないうめき」は、時に命を危機にさらす。

 老いた親と経済的に苦しむ子が、「家」という密室に引きこもるのを防ぐため、早い段階から他者がかかわる必要がある。「男性介護者と支援者の全国ネットワーク」が、一昨年設立された。受け皿は、各地に生まれつつある。(高橋美佐子)

178チバQ:2011/11/20(日) 20:50:04
http://www.asahi.com/special/kozoku/TKY201101020168.html
聞いてもらうだけで 「孤族の国」男たち―72011年1月2日22時43分


「聞き上手倶楽部」を利用する浅見真さん。携帯から聞こえる声にやすらぎを感じるという=埼玉県入間市、仙波理撮影
 きらきらと光る装飾がつけられたハンドルを握り、埼玉県の重機オペレーター、浅見真さん(39)は帰路につく。今日は電話しよう、そう思うと一日の疲れが和らぐ。

 祖母の作った夕飯を食べ、風呂に入って一段落してから、電話に手を伸ばす。相手は、有料の話し相手サービス「聞き上手倶楽部」。話を聞いてもらう。それだけのために10分千円のお金を払う。

 指名するのは、代表の菊本裕三さん(51)。顔は写真でしか知らない。会いたいわけでもない。でも、友達のような存在だ。いや、この世で自分のことを一番よく知ってる人かもしれない。

 最初の電話は4年前だった。高額請求を警戒して、プリペイド携帯電話でかけた。

 「離婚しました」

 「何で?」

 意外にあっさりと話せた。月に数度は利用するようになった。中身はもっぱら仕事の愚痴だ。会社はゼネコンの下請けで、リーマン・ショック以降、年収は半減し、社員も減らされた。不安が募る。

 「中間管理職みたいな立場なんすけど、現場の不満を上に伝えても何も変わらない。でも下からは突き上げられて、板挟みなんですよ」

 「職場で元気なのは外国人だけ。日本人は下向いて歩いてて指図聞くだけ。俺って、沈んでいく日本のど真ん中にいるんだと思うんです」

 「聞き上手倶楽部」の菊本さんは元美容師。客の話に耳を傾ける美容師ほどリピーターが多く、「聴く」大切さは身にしみて感じていた。うつ病の増加が話題になっていた2006年、「一歩手前で予防することができれば」と考え、サービスを開始。「話し相手のいない高齢者」を想定していたが、実際は違った。家族も友達もいて仕事もしている、まじめな人が多い。

 家族に何回も同じ話はできない。周りに聞いてもらえない。利用者から漏れるのはこんな言葉だ。

 顧客は数千人になり、同業者も増えている。事業は順調だが、半面、菊本さんは少し寂しさも感じている。「嫌なやつと思われたくない、うっとうしがられたくない、だから愚痴や悩みを言えない。もっと甘えてもいいのに」

 浅見さん自身、一緒に暮らす祖母や父との関係が悪いわけではない。肉体労働で鍛えた体にストリート系ファッション。友達も彼女もいる。でも、深刻な話はしない。愚痴をいうと雰囲気が悪くなる。「話しても仕方ないなって思うんすよ。自分をさらけだせる人、いないっすね」

 「10年後は大した楽しみもなく引きこもってるんだろうな。さみしいっていうより、すごくひとりなんじゃないかな。孤独死、するかもな」

 こんな話、身近な人には、したことがないし、サービスを利用していることはこれまで誰にも話していなかった。思いをはき出したら、翌朝、また現場に向かう力が湧いてくる。(仲村和代)

■赤の他人に救われた

 石油ストーブでほどよく暖まった畳敷きの部屋、60代の男性2人が、ちゃぶ台を前に向き合う。聞こえるのは、小さな声、そしてインコが鳥かごを揺らす金属音だけだ。

 「少しずつ進んでしまう病気ですから。1ページずつ、記憶を破っていくわけです」

 「はい」

 「私が夫であるかどうかも、わからない状況になっていくわけです」

 「はい」

 語り手は、千葉県船橋市に住む徳田利彦さん(67)。相づちを打っているのは同市の小柳嘉一郎さん(69)。2人は数カ月前まで、まったく面識のない赤の他人だった。

 傾聴ボランティア。高齢者ら悩みや寂しさを抱えた人の話し相手になる運動だ。自治体としては船橋市が初めて、9年前から始めた。ボランティアは現在286人、昨年度の訪問回数は3717回。

 勧められてボランティアを受け入れた徳田さんは、最初は懐疑的だった。初回は仕事の話題だけ。こんなことをして意味があるのか、と思ったが、ふと気が変わった。

 この人に話してみようか。自分のこと、妻のことを。

 「家内がアルツハイマーだとわかったのは7年前です。今思えば、20年近く前から始まっていたのかもしれない。家に帰ると、暗い部屋でひとり座り込んでいて。どうして気付いてやれなかったのか」

179チバQ:2011/11/20(日) 20:50:30
 話し始めると、次から次へと思いが湧く。92歳の母親も施設に入っていること。妻や母のことを相談したいが、息子たちも不況で収入が減り、それどころではないこと。

 「家内と夜中にドライブしました。死のうと思って、直線道路でスピードを出して、母さん、これでいいかいって。その時だけ家内は真顔で、いいよ、と言うんです。かえって踏み切れなかった」

 小柳さんは余計な口を挟まない。ただ話を聞くだけ、といっても簡単ではない。同市福祉サービス公社の40時間の講習を受けなければボランティアにはなれず、会話の内容には守秘義務が課せられる。

 「家内がこうなったのは、私のせいなんです。夫婦は空気のようなものと思い、ずっと無視してきた。家内を介護施設に入れてから、ひとりでいると、おかしくなってしまいそうになる。テーブルをたたき、泣きわめいて……」

 徳田さんは、自分の生きてきた道を語り始める。高校を卒業し、鹿児島から集団就職列車で上京したこと。転職を重ね、睡眠時間3時間で何年もがむしゃらに働いたこと。

 「人がつながりを失って、今のような世になったのは私たちに責任があるんですよ。がむしゃらに働いて、家族にいっぱい迷惑をかけて」

 小柳さんはただ、深くうなずく。同世代の男性2人。同時代を背負ってきたからこそ分かり合えることがある。

 徳田さんの顔に、次第に赤みがさしていく。(真鍋弘樹)

■話すことは生きること

 苦境にあるとき。悩みを抱えているとき。誰かに話しても、決して問題が解決するわけではない。それでも胸中を吐き出せば、心の荷物が軽くなる。

 家族が「孤族」へと姿を変えている今、話し相手の不在に悩む人たちは今後も増えていくだろう。ボランティアや有料の話し相手も、選択肢のひとつとなっていくに違いない。

 船橋市の傾聴ボランティアでは、話し手と聞き手のペアが7年間も続いたケースがあったという。人を固く結ぶのは、決して血縁や地縁だけではないのだ。

 話すことは、息をすることに似ていると思う。普段は意識をしなくても、人はこれなしには生きていけない。(真鍋弘樹)
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180チバQ:2011/11/20(日) 20:52:26
http://www.asahi.com/special/kozoku/TKY201101030274.html
最後に人とつながった 「孤族の国」男たち―82011年1月3日22時41分
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炊き出しに合わせ、健康不安を抱える山谷地区の男性らのために相談窓口を設けた「コスモス」の看護師たち=3日午後、東京都墨田区、仙波理撮影
 がん末期で入院を拒否し、一人暮らしをしている人がいると聞き、昨年10月半ば、71歳の男性の部屋を訪ねた。

 東京都台東区の山谷地区にある古い木造アパートの2階。畳の上の介護用ベッドに、男性がうっすらと目をあけて横たわっていた。

 「つらいよねー」。そう声をかけながら、看護師が胸に医療用麻薬を貼る。男性の表情が次第に和らいでいく。

 1日2回、看護師が訪問する。医師が適宜往診し、ヘルパーも1日3回。だが、その合間や夜間は一人きりだ。

 家族のいない、独居の人が自宅で最期を迎える。医療の見守りを受けつつ、たった一人で。そんなことができるのだろうか。病院に死を任せるのが当たり前の今の日本で。

 男性が病院から自宅に帰ってきたのは6月だった。

 口腔(こうくう)底がんが進行し、手術、化学療法、放射線治療ともできず。余命数カ月。気管切開、胃に管で栄養を直接入れる「胃ろう」。生活保護。病院からの受け入れ要請を受けて、地元で「あやめ診療所」を営む伊藤憲祐医師(40)は言葉を失った。

 がんは早期に発見されたにもかかわらず、手術のタイミングを逃していた。何度入院しても勝手に退院してしまう、という。もう、ほかに頼るところはない。

 山谷地区では、簡易宿泊所などに住んでいる日雇い労働者たちの高齢化が進んでいる。そんな男性たちに医療や介護を提供するNPOの訪問看護ステーションや介護サービスが、医師とチームを組んだ。費用は、生活保護の医療扶助などでまかなう。

 トラブルは、初日から起きた。入浴サービスを受けるとき、指定時間より早く自分で施設に来た揚げ句、待たされたと怒って帰ってしまったのだ。自分のペースを貫き、針を逆立てたヤマアラシのように、いつも周囲に突き刺さる。そんな人だった。

 男性は、半生をほとんど語らず、訪ねてくる親類や知人もいなかった。温泉とこけしで知られる宮城県の鳴子出身。生活苦で中学生のときから働きはじめたのだという。その性格から、人と群れずに生きてきたのだろう。

 その後も、「自己流」は続いた。看護師が訪問する時間にわざと外出する。胃ろうに入れる栄養剤に、自分で缶コーヒーや豆乳を混ぜる……。

 そんな身勝手の数々を、スタッフらはあえて受け入れ、休日さえつぶした。

 男性を担当した訪問看護ステーション「コスモス」看護師の平野智子さん(35)は、その理由を語る。「人を待つ」ということが今、医療の場で失われている。病院ではどうしても医療が中心になるが、在宅なら患者のこだわりを大切にできるはず、と。

181チバQ:2011/11/20(日) 20:55:57
■閉じた心 開いた医療ケア

 室温で氷がとけていくように男性は変わっていった。看護、介護が終わると、何度も手を合わせるようになった。病状が進み、会話が難しくなるとペンを握った。「すみません」「たすかります」

 その頃、ある高齢の女性が、部屋を訪ねた。50年以上会っていなかったという男性の姉(84)だった。

 本人は不義理を気に病み、身寄りのあることを隠していた。伊藤医師が説き伏せ、半ば無理やりに連絡をとった。

 「あなたも安心して、感謝を忘れずに最期を全うしなさい。私もすぐにいくから」

 姉は、肉親でなければ口にできない言葉を、ほほ笑みながら言った。義姉のはからいで親や兄と同じ墓に入れることも伝えた。看護師の目には、男性の表情がすっと楽になったように見えた。

 衰弱し、血圧が低下していく。それでも残された力を振り絞り、胸の前で手を合わせようとする。最期は、かすかに布団が動くだけになった。

 ありがとう、と。

 男性が亡くなったのは、10月末の深夜だった。朝、ヘルパーの渡辺博幸さん(47)が部屋に入り、いつも通りに声をかけながら布団をめくると、胸が動いていなかった。

 翌週、斎場に集まったのは医師、看護師、ヘルパー、姉と義姉、そしてボランティアの僧侶と記者の私。男性が残したのは、数十枚の写真と数枚のCD、腕時計、そして鳴子産のこけし二つ。

 男性は、みとる人もいない深夜、一人暮らしの部屋で、この世から去った。世間の尺度を当てはめれば、孤独な死だったのだろう。でも、たった一人で生きてきた男性は、死の直前に、大切な何かを取り戻したようにみえる。

 伊藤医師は言う。「人の死は点ではないんですよね。いい生が続けば、いい死になるんです、きっと。男性は、最後に人とつながった」

 ヘルパーのひとりは、男性が亡くなる数日前に見せた表情が忘れられない。

 部屋にあったビートルズのCDをかけると、男性は曲を口ずさもうとした。顔には、確かに笑みが浮かんでいた。

■山谷地区での試みに希望

 「人は誰でも死ぬんですよね。私も、あなたも」。男性の介護をしたヘルパーが、取材中、ふいにそう言った。

 そう、人は例外なく死ぬ。孤独死を恐れる人は多いが、死ぬ時は誰でも一人きりだ。孤族と多死の時代、「幸せな死とは何か」という問いの答えは、それぞれ自分でみつけるしかない。在宅死を望む人も、きっと増えるだろう。

 大切なのは、死の直前まで不安を取り除き、手を携えてくれる人の存在だ。孤立した単身男性が多く住む東京の山谷地区には、志を持った医療・介護関係者が集まっている。彼ら、彼女らの試みに希望をみたい。(真鍋弘樹)

182チバQ:2011/11/20(日) 20:57:19
http://www.asahi.com/special/kozoku/TKY201101040348.html
ひきこもり抜けたくて 「孤族の国」男たち―92011年1月4日21時56分
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男子学生のアパートを訪問した宮西照夫教授(左)=和歌山市、仙波理撮影
 庭先で、マツが腰をひねり枝を広げる。奥には、どっしりとした瓦ぶきの家屋。その2階に男性の部屋はある。

 「僕がひきこもっているのは、父さんへの復讐(ふくしゅう)だ」。そう家族に訴え、30年間、社会と接点を持たずにきた48歳の男性が、昨秋、中部地方の専門病院に通い始めた。

 結婚して家を出ている姉によると、通院へ背中を押したのは、反発しながらも同居してきた80代になる父の死だった。「病院へ行こう」。1人になった男性に姉が促すと、素直にうなずいたという。

 対人不安から、会話は親類と医師に限られる。記者も、姉に付き添われて歩く姿を離れて見守った。病院へ送り、実家に食品を届ける姉は疲れ果てる。「世間から見ると大人。でも、自立はまだ」

 高校3年、最初は不登校から始まった。母の死、いじめ、進路選択などが重荷となり、思春期の心を閉ざした。

 「母さんが甘やかした」「卒業して就職しろ」。仕事中心で、亡くなった母に子育てを任せてきた父は、叱るほか接し方を知らなかった、と姉は言う。それが息子を逆上させ、時に暴力となった。

 一つの家に冷蔵庫が二つ。父子は別々に食事した。体面から家族で抱え込み、医師にも相談しなかった。「でも、父なりに弟を愛していた」と姉は思う。将来を案じ、年金保険料を代納し、貯金を続けた。スーパーの警備員など定年後も75歳まで働いた。

 ひきこもりの長期化に、当事者と家族が追い詰められている。国の推計で当事者は全国70万人。「親の会」の調査では平均年齢30歳を超す。

 関東地方の36歳の男性。大学になじめず、うつ状態になり自殺を図った。人と会うのが怖い。昨年から介護施設で週1回のバイトを始めたが、気分に波がある。取材後、携帯に電話してもつながらず、数日後に「落ち込んで、出られなくて」。67歳になる元高校教師の父の年金が頼りだ。

 大学院の時に就活に失敗した東北地方の29歳の男性は、30歳を前に自分で入院を決めた。同世代が仕事をこなし、結婚する時期。30代になると就職も難しくなるため、長期化させない治療の節目と言われる。「退院したら教員免許をとりたい」「まだ間に合うだろうか」。焦り、揺れる。

 出てくるのを待たず、専門家の医師が迎えに行こう。そんな試みがある。

183チバQ:2011/11/20(日) 20:57:31
■「おるかー」医師が迎えに

 「おーい、おるかー」。呼び鈴を押しても反応がない。和歌山大学そばのアパートの2階。玄関口で宮西照夫教授(62)が声を張り上げて20分たったころ、やっと開いた。

 師走の夕暮れ。無精ひげの男子学生(24)は湯船の中で寝ていたという。ベッドの枕元の壁には、「怠けたい自分に打ち克(か)て」と手書きの張り紙が掲げてあった。

 精神科医の宮西教授は、大学の保健管理センターの所長を務める。ひきこもる学生らの自宅を訪問してカウンセリングし、外出を促す独自のプログラムを実践。8割以上を復帰させてきた。

 男子学生は、留年を機に夏まで不登校を続けていた。復学後も1週間以上休むと、教授や友人が自宅を訪ねる。

 この学生の場合、一人暮らしのアパートを初めて教授が訪ねたのは昨年6月。呼び鈴を押しても反応がなく、ポストに手紙を残した。「元気か」「また来るよ」。それをくり返し、4度目の訪問となった7月、ドアが開いた。

 「最初は面倒くさいと居留守した」と男子学生。「でもこのままじゃダメだという思いが募ってくるタイミングがある。その時にノックされるとドアを開けられる」

 一方、両親から外に出るように言われると、心配かけてるな、申し訳ないなと、ますます落ち込むという。当事者や家族が問題を抱え込み、孤立する事例を見てきた宮西教授は、「行き詰まった親子に第三者が介入し、風穴を開けることが大事」と訴える。

 「宮西プログラム」には番外編がある。信頼を築き、部屋を出られると食事に誘うのだ。この日、床に座って1時間近くひざ詰めで語った後、別れ際に玄関口で学生の肩を抱いた。「今度、一緒にラーメン行こな」

■親も高齢化 態勢づくりを

 なぜか、ひきこもる人々の6、7割を男性が占める。進学や就職をめぐり、周囲が男性に寄せる期待の高さがストレスになっている、と専門家は見る。さらに、最近の不景気が社会復帰を阻んで長期化を招き、加えて就職難が新たに20、30代になってひきこもる高年齢層も生んでいる。

 親の高齢化も深刻だ。「全国引きこもりKHJ親の会」の奥山雅久代表は66歳。自身も末期がんを患い、長期化する当事者を支える制度実現を訴える。記事の48歳の男性のように、抱えてきた親が亡くなる事態はすでに始まっている。家族に依存しない態勢づくりが急務だ。(西本秀)

184チバQ:2011/11/20(日) 20:58:01
http://www.asahi.com/special/kozoku/TKY201101050366.html
自殺中継 ネットに衝撃 「孤族の国」男たち―102011年1月5日21時29分
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インターネットで自殺中継した男性に対する書き込みを学生は悔やんでいる=仙波理撮影
 男性の体が動かなくなった。画面の中で、ベランダの向こうの空だけが明るくなっていく。「これ、ガチ(本当)だぞ」「やべえ」。ニュースはあっという間にインターネット上に広がった。

 「来週自殺します」という予告が、ネット掲示板2ちゃんねるに載ったのは昨年11月上旬だった。予告した男性は自室にカメラを設置。生中継動画をネット配信し、書き込みを見ながら思いを語っていた。中継は最期の瞬間まで続いた。

 掲示板には、「どうせ死ねないだろ」「早くしろよ」と、匿名の書き込みが相次いでいた。24歳の男子学生も、その中にいた。

 興味本位で動画を見始め、同年代が泣きながら語る姿に、「これはやばい」と思った。学生も突然大学に行けなくなり、うつ病と診断されていた。手首に包丁をあて、痛みに耐えられずにやめた。八方ふさがりだった。

 画面の向こうで、その男性は語った。うつ病で休職中であること、大学時代の友人と離れて寂しいこと、容姿へのコンプレックス。ひとごととは思えない。「死ぬのはやめろ」。そう書き込み、朝まで中継につきあった。

 翌日、男性は「昨日は途中で寝ちゃってごめん」とまた配信を始めた。「死ぬ気ないな」。掲示板の書き込みはだんだん、あおる方向へ変化していく。「さっさと死ね」。学生もばかばかしく思って、何度か言葉を浴びせた。最期の映像を見ても、現実感はなかった。

 「あおったヤツは人殺し」。今度は掲示板に、そんな言葉があふれた。

 それから1カ月。取材に応じた学生は「書き込みと自殺の因果関係はないと思う」と話した後、続けた。「ほかの人があおってる中で『生きろ』と書き続けて、『空気を読め』っていわれるのが嫌だったのも事実。死ぬわけないって思ってた。でも、人が亡くなった以上、言い訳でしかない」

 2ちゃんねるは「習慣」だった。1日10時間以上パソコンの前にいたこともある。現実の友達とは違う、独特のつながり。出会いもあった。

 しかし、大学に行けなくなった時、真っ先に頼ったのは両親。相談すると、郷里から数時間かけて、すぐに駆け付けてくれた。大学の先生や友人も見守ってくれている。

 あの男性は、そんな存在に気づけなくなっていたのだろうか――。学生は事件を機に、ネット漬けの生活を卒業する決意をしている。


■救いと牙と 紙一重の空間


 自殺した男性も24歳。大学を卒業し、昨年4月から仙台市で働きはじめたばかりだった。上司は「ごく普通の職場の、ごく普通の青年」と語った。

 例年の倍以上の難関となった入社試験をくぐり抜けた。飲み会でも「がんばります」と明るかった。ところが5月末、突然「調子が悪い」と休みを申し出たという。

 「ゆっくり休むように伝え、親御さんとも連携してケアしていたつもりだった」。ショックを隠しきれない様子の上司は繰り返した。「自殺をあおるサイトがあるなんて、理解できない」

 男性の自殺の衝撃が、水紋となって同世代に広がる。

 事件の後、残された動画を見た神奈川県のフリーター(23)は「誰かに分かってほしい、かまってほしい。彼にとってその場所が、ネットだったんだ」と思った。

 17歳の頃から、生きる意味を見いだせずにひきこもった。何度も死を考えた。分かり合える人を求めて、ネットをさまよった。同じようにつらい人がたくさんいることを知り、少し、救われた。

 固定した人間関係が苦手だから、正社員にはなりたいとも思わない。親がいなくなって生活できなくなったら死ねばいい、と低い声で話す。

 それでも、一歩ずつ前に進もうと、もがく自分がいる。生活を立て直そうとする姿を連日、ブログにつづる。「4カ月くらい安定剤を断っている。がんばってるな、おれ」

 共感したいと願う人たちが誰かに寄り添ったり、時に傷つけたり。膨大な情報が飛び交うネットは、プラスにもマイナスにもなる、と思う。

 最近、派遣社員として販売の仕事をするようになった。いつもは昼夜逆転の生活だから昼間に働くのはつらいが、徐々に人前に出ることに慣れてきた。今なら、前向きな人たちとつながることもできるかもしれない。

 ネットでも、現実でも。

185チバQ:2011/11/20(日) 20:58:19
■つまずいてもやり直せる道を


 ネット上でどぎつい言葉を交わす彼らは、実際は礼儀正しく、まじめな若者たちだった。実社会でつまずき、自己否定の言葉を連ねる彼らを追いつめているのは何だろう。

 若者の生きづらさをテーマに取材をする渋井哲也さんは「少子化で子どもへの期待値が高まり、逃げ道がなくなっている」と指摘。小さな集団で育つ分、異質な人と対話する力が落ちていると感じる。

 周囲と同じ歩調で歩むことを求められ、一度つまずくと元の道には戻れない。その恐怖が、彼らを閉じこもらせているように感じる。何度でもやり直せる、そんな「空気」が必要なのだと思う。(仲村和代)

186チバQ:2011/11/20(日) 20:59:35
http://www.asahi.com/special/kozoku/TKY201101060454.html
動かぬ体 細る指 外せぬ指輪「孤族の国」男たち―112011年1月6日22時12分


伴侶を亡くした人がカラオケの席を囲んだ「気ままサロン」の忘年会。歌詞を聞いて、時折しんみりとなった=東京都新宿区、仙波理撮影
 ベッドを降りて5メートルほど離れたトイレへ歩く。引き戸を開けてまた数歩。便座に腰掛ける。「つえをつかんと行けた。治ったんや」。うれしさと同時に目が覚める。

 兵庫県西部の特別養護老人ホームに入所している男性(78)は、繰り返しこんな夢をみる。布団に横たわっている自分の右半身は、脳梗塞(こうそく)の後遺症で動かない。

 仕事も、遊びも。そんな半生だった。働いていた妻とはすれ違いが続き、1987年に離婚届を突きつけられた。早期退職して得た退職金と、自宅を売って作った計6500万円を慰謝料として渡した。

 それでも、遊び癖は直らない。転職してからも大阪の盛り場・キタで毎日のように飲んだ。スポーツクラブに週5日通い、悲惨な老後とは無縁と思っていた。

 5年前の春、カーテンを取り換えようとして上を向いたとき、頭の後ろに痛みを感じた。入院して1週間後に意識がなくなり、目覚めたのは2カ月後だった。

 話こそできるようになったが、つえがなければトイレにも行けない。食事以外は6畳ほどの自室にこもる。親しく話せる入所者はおらず、一言もしゃべらない日もある。

 離婚後も元妻とは連絡をとっていたが、病気になってからは途絶えた。「死んどると思っとるやろな。僕のことが新聞に載ったら、誰かが妻に伝えてくれますかね」

 入院しているうちに、私物は親類にほぼ捨てられた。残ったのは結婚指輪だけだ。やせた薬指には合わず、中指にはめている。半身不随になり、年老いた今になって切実に思う。妻がいたら、子どもがいたら、と。

 「指輪を外されへんのは、近くに妻がおったらなと思うからかな。結局、自分のことしか考えてない。勝手放題にしてきた僕への罰ですわ」

■死別の悲しみ分かち合う

 東京都心からJR中央線で約1時間半の山梨県上野原市。駅を囲むように広がる住宅街の一角に、武田繁男さん(64)は暮らす。

 家のことは妻に任せきり。休みの日は家でごろごろするだけ。当たり前だと思っていた生活は、4年前、妻の突然の死で終わりを告げた。あと半年で定年を迎えたら、2人で旅行を、と考えていたところだった。

 電車の中で泣きそうになる。誰もいない家でぽろぽろと涙をこぼす。おいしいものを食べると、「食べさせてやりたかったな」と思う。

 何より心残りなのは、感謝の言葉を伝えられなかったことだ。「優しい言葉、いえないんだよね、俺たちの世代は。だめだね」

 今、多くの時間を、縁側のそば、深緑の山並みを望むこたつで過ごす。左手に電話とパソコン、目の前にテレビ。手の届く範囲で、ほとんどの用が足りる。

 そこでほぼ毎日、欠かさずにするのが、メールの送信だ。宛先は、配偶者を亡くした人の会「気ままサロン」のメーリングリスト。

 〈一瞬に終わった一年。エスカレーターの駆け上がり、いつまで続けられるか。脱兎(だっと)のごとくいければ〉

 〈子供達(たち)は昨夜あわただしく帰京。よって、お一人様生活に戻りました〉

 ほぼ毎日、日常生活や気づいたことを取り留めなくつづる。パソコンの向こうにいる仲間たちが、話し相手の代わりになる。

 みな、同じような喪失感を味わっている。千葉県柏市の公平(こうへい)敏昭さん(70)は4年前に、東京都日野市の堀野博資さん(69)は10年前に妻を亡くした。深くて冷たい海の底にいるよう。そんな思いを、同じ境遇だからこそ安心して伝えられる。

 「男の方がめそめそしていますよ。カミシモつけて素直に気持ちを吐き出せないんだよね」と堀野さんは言う。

 時には顔を合わせ、共に過ごす。年末、平日の昼間、新宿のカラオケボックスで開かれた「気ままサロン」の忘年会には20人以上が集まった。東京都板橋区の井出弘明さん(74)が選んだ古い洋楽に、1人の女性が涙をぬぐった。

 「主人が好きだった歌で」

 「いやあ、女性を泣かせちゃったな」。井出さんはそういって、場を和ませた。

 井出さんも、家に帰れば1人。「行ってくるよ」と声をかけても、答える人はいない。ついでに買い物を頼まれることもない。かっこ悪いからと嫌がったネギだって、今なら買ってくるのに……。

 そんな気持ちを抱えるのは一人だけじゃない、そう仲間たちは教えてくれる。

 悲しみは決して消えない。でも、分かち合う友がいれば少しだけ、心が軽くなる。(鈴木剛志、仲村和代)

187チバQ:2011/11/20(日) 20:59:55
■つながりがあれば前向きに

 死別や離別で伴侶を失った人、そしてその人たちが過ごす時間は、長寿に伴って増えていくだろう。男性の場合、家事能力の低さが苦しみに拍車をかける。「孤族」の時代、よりよく生きるために、最低限の生活能力は必要だ。

 一方、喪失感は簡単に埋められるものではない。「残された者を最期まで気遣っていた夫や妻の思いをおろそかにせず生きよう。そのために仲間がいる」。気ままサロンの佐藤匡男代表の言葉だ。

 共感できる人とのつながりがあれば、伴侶と生きた時間をいとおしみながら、前向きに生きることもできるのだと感じた。(仲村和代)=第1部おわり

188チバQ:2011/11/20(日) 21:01:11
http://www.asahi.com/special/kozoku/TKY201107230603.html
震災 死悼む身内なし 「孤族の国」3・11から2011年7月23日22時51分

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 震災に吸い寄せられるように、被災地を訪れる人たちがいる。

 7月上旬の深夜、仙台市中心部の公園。真っ暗なベンチに一人の男性が座り、宙を見つめていた。荷物は小さなキャリーバッグだけ。仕事を求め、名古屋から来た労働者だった。

 44歳、独身。両親は他界し、故郷の大阪に住む兄とは20年以上、連絡をとっていない。派遣の仕事を転々としていたが、昨年末から生活保護を受けている。

 そんな彼に、震災はチャンスに映った。がれき処理の仕事に手を挙げ、仙台へ。しかし、実際の仕事は家屋の解体だった。日当7千円。契約途中で辞め、ネットカフェや公園で寝泊まりを始めて5日がたった。

 次に福島の原発周辺の復旧作業を狙っている。20日間限定で昼4万円、夜5万円との募集を見た。「今は満員だけど、次回に来てくれって」。翌日、彼に連絡をとろうとしたが、携帯電話はつながらなかった。

    ■

 震災の犠牲になりながら、その死を悼む身内すらいない人たちがいる。

 宮城県石巻市の中心部に近い古い木造の平屋で、70代の夫婦は、10年ほど前から暮らしていた。時折笑い声が外まで響いたが、近所との交流はなかった。近くの大家(62)も、生活保護を受けていること以外、身の上は知らなかった。

 3月11日、近くの川から押し寄せた津波は、2メートル近くの高さに達した。何日かたって、ビニールシートにくるまれた2人の遺体が、平屋から運び出された。

 4月に入って、大家が警察に呼ばれた。身元を確認できる身内は見つからず、2人の名は県警の「所持品等から推察される氏名等事項一覧」に掲載された。

 ようやく犠牲者として名を刻まれたのは、震災から4カ月後だった。(平井良和、仲村和代)

    ■

 朝日新聞が昨年末から始めた連載「孤族の国」は、人のつながりが変化し、社会から孤立する人々が急増していることに焦点をあてた。東日本大震災という未曽有の災害が列島を襲い、被災者、そして被災地以外の人々にも孤立化の危機はより身近となっている。

 先送りにすることのできない問いを、私たちは突き付けられている。あの日、2011年3月11日から。

189チバQ:2011/11/20(日) 21:01:39
http://www.asahi.com/special/kozoku/TKY201107240491.html
集落解散 消えるつながり 「孤族の国」3・11から―1【全文】2011年7月24日22時20分

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管理人として住み込むリゾートマンションの最上階から太平洋を眺める佐藤俊一郎さん、芳子さん夫妻=静岡県熱海市、仙波理撮影

孤族の国と震災
 6月半ばの昼下がり、神奈川県のJR小田原駅ホームで一人、電車を待っていた佐藤芳子さん(53)の携帯電話が鳴った。

 ふるさとの宮城県石巻市にいる友達からだ。

 心が弾んだ。

 それなのに、涙で声が出ない。津波で壊滅した故郷を出て2カ月余り、寂しさが抑えきれない。「せっかくかけてくれたのに、ごめんね」と電話を切った。

 その日から、「また泣くだけかも」と思い、電話に出られなくなった。

 夫の俊一郎さん(53)と2人、石巻の漁師町・雄勝町から静岡県熱海市へ移った。家も仕事も失う中、東京で暮らす長男の勤め先がリゾートマンション管理人の住み込みの仕事を紹介してくれた。「自分たちは恵まれている」と思う。

 熱海駅から車で10分、プール付きのマンションは、夏だけ訪れる会員用の部屋が半数を占める。海が見えない管理人室にある故郷の品は、壊れた家から持ち出した位牌(いはい)と線香立てだけ。

 住民たちは優しく声をかけてくれ、石巻から来たことを知ると何かと気遣ってくれる。だが、夫の俊一郎さんは「余計な心配をかける」と感じ、自分から故郷の話をしなくなった。

    ■

 故郷の雄勝町は、ホタテやカキの養殖業が中心の約4千人の町だった。200人が住む明神集落で育った俊一郎さんは、高校を出て船に乗り、25歳で隣町の芳子さんと結婚。33歳で腰を痛めて船を下りた後は、町内の水産加工場で働いた。

 3月11日。津波は家と勤め先を流し、愛犬をさらった。66戸の明神集落は58戸が全壊、100人以上が地区の避難所に身を寄せた。

 電気も水道もない避難生活を俊一郎さんは「つらいけど、楽しかった」と言う。夜には、互いを知り尽くした仲間と思い出を語った。海で泳ぎながら野球をしたこと、神社の柿を盗んだこと。北洋漁業が栄えた高度経済成長期、町の人口は1万人を超えていた。

 4月初め、避難所を出る時、「逃げるようで申し訳ない」と思った。

 そんな俊一郎さんを気遣うように、今も明神の友人から長靴や下着、懐中電灯などが届く。「こっちは何でもそろうのに、くだらないものばっか。それが、たまらなくうれしいんだ」

190チバQ:2011/11/20(日) 21:01:56
   ■

 その明神集落は、「解散」の危機にある。仮設住宅用の高台がなく、住民の大半が集落を去った。自治会は6月末に「お別れ会」を開き、斎場の修繕費などの積立金を分配した。

 津波が来なくても、こんな日が来たのか。「震災は、町を出ようかとずっと悩んでいた人の背中を押したのかもしれない」。10年近く、自治会長を務めた鈴木力夫さん(65)は思う。

 1970年代後半、200カイリ規制で遠洋漁業が勢いを失うと、町人口は減り続けた。2005年に石巻市に合併する頃には、高齢化率が4割に近づく過疎地になった。

 家を失った鈴木さんは、市中心部のアパートに住むことを決めたが、それでもまだ、避難所にいる。「別れ難い。つながりを消したくない、と思うんだ」

 残る鈴木さんは消えゆく集落に惑い、離れる佐藤さんは心に大きな空洞を抱える。震災は被災地に、こんな人々を数多く生んだ。

 繁忙期のお盆に帰省できない佐藤さん夫妻は、7月初め、集落に残る先祖の墓に参った。俊一郎さんが墓前でつぶやいたのは、こんな言葉だった。

 「死ぬまで墓は守るから安心してくれ。そうできるよう、お願いします」

 責任感半分、願いが半分。いつ戻れるのか、わからない。それでも思う。

 家や集落すら、なかったとしても、俺の心が安らぐ場所はここなんだ、と。

■「望まない孤」寄り添えるか

 住む人がいなくなって何年もたった空き家。各集落に点在する廃校の跡。細りつつあった雄勝の町で、家族を超えて助け合う共助の力は、集落の支えだった。

 津波は理不尽に、それを断った。決して便利な生活でなくとも、つながりの中に身を置くことで平穏を感じた人たちに、故郷を離れて生きることを強いた。隣人を知らないことも珍しくない都会への移住、その孤立感は計り知れない。

 「望まない孤」に惑う人たちに気づき、支える力がこの社会に残されているか。震災は、そう問うているようだ。(平井良和)

191チバQ:2011/11/20(日) 21:05:54
http://www.asahi.com/special/kozoku/TKY201107240524.html
細る開拓地 外国人妻涙 「孤族の国」3・11から―2【全文】2011年7月24日23時20分

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. がらんとした牛舎に、牧草や牛ふんの甘くすえた臭いが漂う。

 原発で 手足ちぎられ 酪農家

 壁の黒板にチョークで書かれた「辞世の句」が、消されずに残っていた。

 福島県相馬市の副霊山(ふくりょうぜん)地区で、酪農を営む男性(54)が自死したのは先月。携帯電話の電波も途切れる山あいの農場に、小1と幼稚園児の2人の息子を抱えた妻(33)が残された。

 小柄で目がくりっとしたフィリピン国籍の妻は、自分を責め、家にこもっていた。「私がそばにいたら、死なずに済んだかも」と。

 夫の死を知ったのは、ルソン島の実家へ一時帰国している時だった。原発事故後、フィリピン政府の呼びかけに応じ、子供を連れて避難していた。

 「農場再開のめどが立たないんだ」。夫とは、数日前に国際電話で話したばかり。息子の手を引いて成田空港に降り立ち、手荷物を受け取るのも忘れて福島に舞い戻った。

 子供らに涙は見せたくない。だが、夜になると抑え切れなくなる。日本語もままならず、夫の死に伴う法的手続きを、周囲に頼る自分がもどかしい。

    ■

 「高3の孫に、酪農を継がせてよいものか……」

 仲間の自死を機に、近くで農場を営む村松征吉さん(73)は悩む。原発から北西50キロの副霊山は放射線量が比較的高い。事故後、原乳出荷が一時止められた。

 酪農の盛衰を肌で知る。終戦の翌年、兵隊帰りの農家の次男三男や旧満州引き揚げ者らが山林を開墾した開拓地だ。戦災復興と食糧増産の右肩上がりの時代。115世帯すべてが酪農に取り組み、「電気や電話が通じ、牛が増え、暮らしがみるみる良くなった」。

 だが、1970年代がピークだった。「物価の優等生」と呼ばれる乳価は抑えられ、少子化で給食用など牛乳消費量も低迷する。住民は75世帯にしぼみ、うち酪農家は自死した男性を含め6世帯に。原発事故はそこを突いた。放射能を避け、自主避難も始まる。

    ■

 細る地域を支えるのが、アジアからの外国人だ。

 毎朝、副霊山の一角に、若い女性の中国語が響く。鶏肉処理場へ通う20人の中国人実習生たちである。地区人口の1割を占める。

 工場は、酪農を諦めた農家の多くが養鶏に転じ、設立された。だが、海外から安い鶏肉が大量に輸入されるようになると、農家は養鶏から撤退し、働き手も外国人へ重心を移した。

 家族の維持にも貢献している。東北の農村が「外国人花嫁」を積極的に招き始めたのは80年代半ば。いま福島県には2千人超のフィリピン人が暮らす。副霊山にもフィリピン人2人、中国人3人がやってきた。

 99年に業者を通じてフィリピン人女性と結婚した地区の男性(51)は言う。「朝夕2回、乳を搾り、休めない酪農は3K職場。日本の嫁さんは来ない」

 自死した男性の妻は、02年冬に来日した。最初は雪の冷たさや、朝5時起きの生活に戸惑った。慣れると、軽トラを操り牧草を運んだ。月1度の休み、家族で近くの温泉に出かけたのが懐かしい。

 これからどうしよう。自分にとってここは異国。でも、息子らにとっては故郷だ。気持ちは揺れる。

 「残るならストロング・マザーにならなくちゃ」。静まり返った農場を見つめた。(西本秀)
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192チバQ:2011/11/20(日) 21:07:07
http://www.asahi.com/special/kozoku/TKY201107250770.html
避難の母 支えきれなくて 「孤族の国」3・11から―3【全文】2011年7月25日22時15分

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仮設住宅で独り暮らしをする太田和子さん。必要最小限の生活用品しかない部屋で、趣味の手芸をして一日を過ごすことが多いという=宮城県石巻市、仙波理撮影
 また、泣いている。背を向けて、声も出さずに。

 宮城県石巻市の実家が津波で流され、東京都江東区の小林真智子さん(52)のマンションに身を寄せた母の太田和子さん(77)は、部屋にこもって縫い物ばかりしていた。「東京にいたら何もすることがない。死ぬの待ってるだけだ」

 母に合わせ、生活時間帯も、食事も変えた。出かけることもできない。なのに――。つい言葉がきつくなり、自己嫌悪に陥った。

 震災前は、認知症の父(84)を母が世話する「老々介護」の状態だった。ベッド脇に便器があり、そこで父は食事をする。母は夜中に何度も起こされる。そんな生活がいつか限界を迎えることはわかっていた。

 これからは、もっと頻繁に実家に帰ろう。そう考えていた矢先、地震が東北地方を揺さぶった。

     ◇

 震災の1週間後、石巻に駆けつけた真智子さんが見たのは、別人のような母だった。錯乱状態になって避難先で暴れ、父と一緒に総合病院に搬送されていた。「毒が入っている」と食事に手をつけず、やせ細っている。

 急患であふれる病院には、いつまでもいられない。高齢者2人の居場所を求め、漂流が始まった。

 県の紹介で仙台の介護施設へ入ったものの、母の錯乱の原因は一時的な水分不足と診断され、長居はできなかった。「石巻で暮らす」と言い張る母を連れ、父を施設に残して東京へ。だが、家族3人に母が加わった生活は、想像以上のストレスだった。

 受け止めきれなかった。

 1カ月ほど経った頃、母の地元の友人から電話があった。方言で楽しそうに話す母を見て、決断した。「仮設住宅に申し込もう」。それから、母は、みるみる元気になった。

 一方、石巻に戻る母に同行した真智子さんは、すぐに帰りたくなった。30年離れていた故郷は異文化のよう。母とも、細かいことですぐ言い争いになる。

 ショッピングセンターで、見知らぬ男性が話しかけてきた。「娘のとこにいたけど、気い使って、3日で帰ってきたよ」。家族や知人を頼った縁故避難の難しさに悩むのは、自分たちだけではなかった。

 結局、2週間で逃げるように東京に戻った。誰にも話せず、何かをする気力もない。母も、同じ思いだったのか。

     ◇

 「ごめんくださーい」

 和子さんの暮らす石巻の仮設住宅に、近所の女性がいなりずしを持って訪ねてきた。新しい「ご近所さん」とも、食べ物を分け合う生活が始まっている。

 「東京だと、家族以外と話さないの。ここは、散歩にいけば知り合いがいるし」。自ら願った故郷での暮らし。介護からも解放されたが、1人の時間は長い。先のことを考えるとパニックになるから、縫い物や草取りで時間をつぶし、考えないようにしている。

 仙台の介護施設を出て以来、夫とは会っていない。「私のことばかり心配してんだって。かぁは料理がうまい、っていってやんだそうです」。うれしそうに話したが、一緒に暮らしたいかを尋ねると言葉を濁した。「これからどうなるかもわかんないしね」

 先が見えないのは、真智子さんも同じだ。たとえ命は縮めても、家族が一緒に暮らした方がいいのではないか。いや、1日でも長く生きてほしい。揺れながら、自分に言い聞かせる。

 今はこうするしかない、と。

■同居の負担 分かち合える場を

 せっかく親族宅に「縁故避難」したのに、被災した自宅や環境の悪い避難所に戻る被災者は少なくない。家族だから支えたい。そう思っても、価値観の違う世代が共に暮らすのはそれほど簡単ではない。家族が縮小し、支える側の負担も大きい。これは、子育てや介護とも通じる問題だ。

 真智子さんは、取材に思いをはき出し、少し楽になったという。当事者同士で分かち合うだけでも、救われる人は多いはずだ。行政やNPOの支援に頼るだけでなく、自力でどれだけそんな場を作れるか。胸に手を当ててみる。(仲村和代)
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193チバQ:2011/11/20(日) 21:12:12
http://www.asahi.com/special/kozoku/TKY201107260749.html
心帰る場所流され「孤族の国」3・11から―4【全文】2011年7月28日22時8分

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実家に帰った鈴木重光さん。築100年を超す蔵は地震でひび割れし、近く解体される。幼い頃いたずらをする度に罰として閉じ込められた=福島県いわき市、仙波理撮影
 眠れぬ夜が続く。

 ネイルサロン開設の夢に向けて、4月から簿記を学び始めていたのに。東京都足立区の阿部明奈さん(27)は、医者の勧めで5月半ばから休んでいる。

 東日本大震災の10日後、故郷の岩手県大槌町に息子(5)と娘(4)を連れて入った。祖母や兄の連絡が途絶えていた。

 実家があるはずの場所にあったのは、見覚えのあるれんが造りの土間だった。玄関だ。土台の枠しか残っていない家を、記憶を頼りにたどる。ここは茶の間、ここはおっかぁの部屋。

 がれきを前に泣いた。

    ■

 「おっかぁ」とは、祖母のソヨさん(77)のことだ。両親が離婚し、代わりに自分を育ててくれた。

 高校を卒業して、18歳で東京に出た。岩手にはない仕事があり、夢をつかむチャンスがあると信じた。都内の飲食店や魚市場で働きながら、21歳で結婚した。2人の子が生まれたが、3年前に離婚した。

 交通費を工面できない時を除き、盆と正月は決まって帰省した。夏は海で泳ぎ、夕方に墓参りをする。満天の星の下の花火。

 東京へ帰る日は「また来(く)っから」と別れると、「気をつけでいけーよー」とソヨさんは見送ってくれた。

 二つ違いの兄、勝孝さんの遺体が見つかったのは震災から2カ月近くたった頃だった。ソヨさんと祖父の妹のサヨさん(90)の行方は、今も分からない。

 「あっこ、帰ってきたんか。ずっといろ」と、帰省中に声をかけてくれた近所の人もいない。息子や娘をあやしてくれた向かいのまきちゃん、ひろちゃん、中学時代に気にかけてくれた同級生のお母さん。みんな、いなくなった。

 「やったぐなったら、帰ってこぉ」。嫌になったら、帰っておいで。おっかぁの言葉を電話で聞くだけで、元気になれたのに。

 帰る場所がなくなった。

194チバQ:2011/11/20(日) 21:12:35
   ■

 青々と輝く田を、風が吹き抜ける。戸を開け放った縁側に座り、鈴木重光さん(39)は母親が切り分けたスイカにかぶりついた。

 震災後、福島県いわき市の実家に戻るのは、5月の田植えに続いて2度目だ。その前は、いつ帰ったか、忘れるほど昔なのに。

 「この家も見納めだからかな」。どっしりとカーブを描く瓦屋根を見上げる。地震で基礎が浮き、傾いてしまい、秋には取り壊す。

 4人きょうだいの長男で名前には祖父と曽祖父の名が1字ずつ入っている。家を継ぐのは当たり前、そんな圧力への反発が、故郷を出る背中を押した。

 就職氷河期に世に出たロスジェネ世代だ。20代半ばに仙台でやっと見つけた正社員は商工ローン会社だった。資金繰りに苦しむ中小企業経営者らを居丈高に値踏みした。支店が閉鎖し、次はお年寄りを狙ったリフォーム訪問販売に。2004年、川崎市のトラック工場で派遣労働を始めた。

 車体にブレーキやクラッチを取り付ける班だった。今までで一番、人に喜ばれる仕事だと感じていたのにリーマン・ショック後の08年末に派遣切りされた。

 取り壊す実家は、代わりに家を継ぐ弟夫妻が2世帯住宅に建て直す。もう自分の居場所はない。原発事故のあった福島で仕事を見つけるのも、難しいだろう。

 失ってわかる。いつでも帰れる場所があったから、これまで頑張れた、と。(佐々波幸子、西本秀)

■ふるさとの温かさ、失って痛感

 東京で暮らす阿部明奈さんのもとにソヨさんからよく、段ボール箱が届いた。田んぼでとれた米やみそ、畑のネギやジャガイモが詰まっていた。帰省したときは米1俵としょうゆを持たされ、宅配便で送った。

 仕事の選択肢の少ない田舎を飛び出したものの、故郷の存在はどんどん大きくなる一方だったという。家族は束縛でもあり、心のよりどころでもある。この震災で失ったものの大きさは、東京生まれの私の想像を超えるものだったろう。

 お盆をどこでどう過ごすか。明奈さんはまだ決めかねている。(佐々波幸子)
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195チバQ:2011/11/20(日) 21:13:19
http://www.asahi.com/special/kozoku/TKY201107270760.html
避難所出た途端、独り 「孤族の国」3・11から―5【全文】2011年7月31日21時56分

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日が暮れる頃、避難所近くの仮設住宅を訪ねた岩波政美さん。自身は「知り合いもいないから」とアパートへの入居を決めた=福島県郡山市、仙波理撮影
 「山一つ越えれば、こうも気候が違うのかね」

 福島県中部の大玉村で、県内最大規模、630戸の仮設住宅の一室に暮らす小薬(こぐすり)栄次さん(62)が、エアコン全開の車に乗り込む。

 阿武隈の山並みを左に国道4号を南へ。その向こうが自宅のあった富岡町だ。「浜通りの夏は涼しくて住みやすかったんだけど」

 45分後、車は郡山市の「ビッグパレットふくしま」についた。福島第一原発の事故で、町民が役場ごと移った避難所だ。

 顔なじみが集うホールの一角に腰を下ろす。「3カ月もいたからかなあ。やっぱ、落ち着くんだよねえ、ここが」。テレビに目をやりながら、独りごちた。

 仮設住宅に移って1カ月。週に1、2度は避難所と行き来する。30代で妻と父を相次いで亡くし、高齢の母を独りにはできないと東京から帰郷した。その母も他界して4年になる。

 「避難所が閉鎖したら、いよいよ行き場を無くしちゃうなあ」。先週末、数日ぶりに足を運ぶと、親しい顔なじみが何人か、姿を消していた。

    ■

 ビッグパレットには今も約250人が暮らす。小薬さんの居場所から100メートルほど離れた通路で、岩波政美さん(60)は7月半ば、久しぶりに響く子どもたちの歓声に目を細めた。

 「にぎやかでいいねえ」。避難所の夏祭り、周囲に焼きそばの匂いが漂う。

 3年前、富岡町へUターンした。仕事を辞めて故郷でのんびり過ごそうと、兄がいる実家へ身を寄せた矢先、原発事故が起きた。

 福島第一原発の着工1年前、15歳で埼玉へ働きに出て、28歳の時に難病を患った。縁談を断ってきたのは、持病を抱えて妻子を養えるはずがないとの思いからだったが、最近は後悔の念にかられる。

 「自由なんだけど、張り合いがないんだよね」。そう語りながら、涙がほおを伝う。このまま老いたら、どうなるのか。避難所の通路で体を横たえる夜、不安が頭をもたげる。

    ■

 被災者は避難所を出た途端、「孤」にばらけて、個人情報保護の壁の前で見えにくくなる。

 岩手県大船渡市の仮設住宅「地ノ森団地」に住む鍼灸(しんきゅう)マッサージ師菅原史生さん(58)は、弱視で身体障害者手帳3級を持つ。心臓ペースメーカーを付ける父(88)、肺がんを患う視覚障害の妻(55)は1級だ。

 「市の方針で、高齢者や障害者が優先入居の条件らしいんです」。敷地内に慣れ親しんだ顔は少ない。

 陸前高田市の「仲の沢団地」は96戸中、一人暮らし世帯が24戸を占める。自治会長の熊谷省二さん(66)が「支援物資を配るのに必要」と説得して調べた。

 実は、孤独死対策だ。持病は何か。身内は近くにいるのか。「本当はかかりつけの病院まで知りたいが、そこまでは難しくて」

 “はさみ状格差”。大災害後、時間の経過とともに、被災者の中で「元気な人」と「落ち込む人」の差が、はさみが開くように広がっていく現象を指す。

 菅原さんは仮設で営業を再開したが、患者数は震災前の3割に減った。仮設に住む被災者はまだ、一人も来ていない。玄関に車いす用スロープを付けた家が4軒に1軒。「互いの家を行き来するほどの人間関係は想像できません」

 施設のバリアフリーは整備されても、仮設住宅で「人付き合いの壁」を崩すのは簡単ではない。この夏、被災地では、5万戸を目標に仮設住宅の建設が進んでいる。(兼田徳幸、高橋美佐子)

=終わり

■中高年単身世帯へ目配りを

 「妻子を食わせられないくらいなら」と結婚をあきらめた岩波政美さんは、戦後の「標準的な家族像」にとらわれた犠牲者のように思えた。コンビニなどがあれば単身でも普通に暮らせる現代。選び取った「個」でも、ふとしたきっかけで「孤」に傾くことを、震災は改めて浮き彫りにした。

 孤立を防ぐ「見守り」の取り組みが各地で進む。ただ高齢者に比べ、中高年以下は見落とされがちだ。故郷を追われて「地縁」を失い、失業などで「社縁」もはぎ取られた単身世帯への目配りも不可欠だ。(兼田徳幸)

196チバQ:2011/11/21(月) 23:40:37
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111121-00000021-kyt-l26
ホームレス支援雑誌「ビッグイシュー」 震災後、売り上げ減
京都新聞 11月21日(月)14時9分配信


街中に立ってビッグイシューを販売する光冨さん。震災後、売り上げが減っているという(京都市下京区・四条河原町交差点)

 ホームレスの自立を支援する雑誌「ビッグイシュー」の販売部数が、東日本大震災以降、全国的に落ち込んでいる。震災後6カ月の売り上げは前年同期比2割減で、発行元は「原発事故の影響や、被災地への募金活動が優先されたことが理由では」とみている。
 ビッグイシューは街頭でホームレスが1冊300円で販売し、売り上げのうち160円が売り手の収入となる仕組み。震災前は毎月約3万部を販売していたが、震災後は約2万5千部に落ち込んだ。
 京都市下京区の四条河原町交差点を拠点にする光冨紳弥さん(59)は「雑誌は外国人観光客にも人気があったので、原発事故などの影響で外国人客が減ったことが売り上げに響いた」と話す。
 ビッグイシュー日本(大阪市)によると、各地の販売者からは「原発事故後は放射能の影響を避けるため人通りが減った」「節電で駅や繁華街の照明が暗くなり、薄暗い雰囲気を嫌って立ち止まってくれる人が少なくなった」などの声が寄せられているという。
 経営悪化はホームレスの販売者にとって死活問題となるだけに、ビッグイシュー日本の佐野章二代表(69)は「地道に仕事をしている販売者のためにも、誌面改革や販売戦略の見直しを進めたい」と話している。

197チバQ:2012/01/31(火) 12:32:29
http://www.asahi.com/national/update/0131/TKY201201310116.html
求職者の望む仕事把握せず ハローワークに改善勧告

 ハローワーク(公共職業安定所)が求職者の希望を正確に把握しないなどずさんな業務をしている事例があるとして、総務省は31日、厚生労働省に改善を勧告した。

 総務省は過去1年間、全国31カ所のハローワークを調査。うち29カ所で求職者の「希望する仕事」「希望勤務地」を把握していない事例があった。求人内容の確認も不十分で、不正確な労働日数が記された求人票が23カ所、最低賃金を下回っていたのも6カ所でみられた。また求職相談1万682件のうち7割にあたる7589件の記録に不備があった。求人紹介後、採否結果を確認していなかったケースも14カ所であった。

198とはずがたり:2012/02/08(水) 13:12:01

単身女性32%が「貧困」 20〜64歳、国立研究所分析
http://www.47news.jp/47topics/e/225432.php

 単身で暮らす20〜64歳の女性の3人に1人が「貧困状態」にあることが国立社会保障・人口問題研究所の分析で8日、分かった。生活の苦しい人の割合を示す「相対的貧困率」が32%だった。単身の20〜64歳男性は25%で、女性の苦境が際立っている。

 同研究所の阿部彩(あべ・あや)部長は「以前から女性が労働環境で置かれている地位は低く、貧困状態も女性に偏る傾向がある」としている。

 厚生労働省の2010年の国民生活基礎調査のデータを基に同研究所が分析。相対的貧困率は国民1人当たりの可処分所得を高い順に並べ、真ん中となる人の所得額(中央値)の半分に満たない人が全体の中で占める割合を示す。10年調査では年間の可処分所得112万円未満の人が該当する。

 65歳以上の単身で暮らす女性の貧困率は47%で、やはり男性の29%よりも高かった。

 また、19歳以下の子どもがいる母子世帯の貧困率は48%だった。

 阿部部長は「最近は若い男性にも貧困が浸透しており、若年層に向けた国の雇用対策が課題となる」としている。

 (2012年2月8日、共同通信)
2012/02/08 11:25

199とはずがたり:2012/02/08(水) 22:13:45

浜松市の生活困窮求職者支援施設 来年度も継続へ
(2/ 4 08:38)
http://www.at-s.com/news/detail/100097023.html

 生活困窮などで自立生活が困難な求職者の就労支援施設として、昨年5月に同市中区のザザシティ浜松中央館に開設された「浜松市パーソナル・サポート・センター」が2012年度も継続運営されることが3日までに、関係者への取材で分かった。
 同センターは内閣府のモデル事業の一環。浜松市の実施計画が採用され、国から8600万円の交付金を受けてことし3月までの期間限定で試験運用している。関係者によると、来年度も引き続きモデル事業に採用され、国から1億円余りの事業費が市に交付されることが内定したという。
 運営はNPO法人「青少年就労支援ネットワーク静岡」(理事長・津富宏県立大教授)に委託していて、来年度も同法人に委託する可能性が高いという。

200チバQ:2012/02/20(月) 00:28:49
http://www.asahi.com/national/update/0218/SEB201202180041.html
2012年2月19日10時24分
返せぬ奨学金、返還訴訟が急増 背景に若者の困窮機構が起こした訴訟件数の推移


 学生時代に受けた奨学金の返還に行き詰まる例が相次いでいる。国内最大の奨学金貸与機関、独立行政法人・日本学生支援機構が返還を求めて全国の裁判所に起こした訴訟は、過去5年間で9倍近くに急増した。背景に、就職の失敗や就職先の倒産で生活に困窮する若年層の姿が浮かぶ。

 「最初に就職した会社がつぶれなければ、こんなことにはならなかった」。昨年夏、機構から奨学金の一括返済を求める訴訟を起こされた北九州市小倉北区の男性(28)は悔しがった。

 約220万円の奨学金を受け、2006年3月に福岡県内の私立大を卒業。呉服販売会社に就職し、同年4月から毎月1万3千円ずつ返し始めた。ところが、わずか5カ月後の8月末、会社が破産手続きに入り、いきなり解雇された。10月に飲食店に再就職したが、手取り月給は約14万円に減り、家賃や車のローン、生活費に消えた。やむなく機構に返済猶予を申し出た。

 07年9月に結婚して返済を再開。1年弱は支払ったが、子育て費用などで再び行き詰まり、08年夏ごろ、2度目の猶予を申請。10年6月には飲食店を辞め、日雇い派遣などでしのいだ。同年12月に3度目の就職が決まったが、昨年春には、機構から未返済の190万円の一括納付を求める郵便が届くようになった。

 「まだ大丈夫だろう」と思っていた昨年夏、機構の担当者から電話で告げられた。「裁判になりました」。男性は、その後、23年1月まで月1万5千円ずつ、延滞金を含め計約200万円を支払うことで機構側と合意した。

■過去5年間で9倍に

 日本学生支援機構の奨学金には、無利息の「第1種」と、利息がつく「第2種」があり、2011年度時点の貸与額は新規と継続分を合わせて1兆781億円(予算ベース)。不況のせいか、奨学金を利用する学生は増える一方だ。11年度は約127万人で、10年前の約1.7倍に。延滞額も増え続けている。10年度は852億円で、5年前の約1.5倍に増えた。

201チバQ:2012/02/21(火) 22:29:15
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20120221-00000301-wedge-pol
生活保護化する原発就労補償 震災から1年 被災地雇用の現実
WEDGE 2月21日(火)12時14分配信

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南相馬市へ向かう途中で通った飯館村。行き交う車は少なくないが、歩いている人は見かけなかった。「除染モデル事業実施中」との立て看板が見える。

 「福島の再生なくして日本の再生はございません」

 昨年9月の就任演説でこう強調し、12月には東京電力福島第一原発の冷温停止状態を宣言した野田佳彦首相。だが、現場からは「国の方針が見えない」「雇用の受け皿がない」など、厳しい声ばかり聞こえてくる。1月下旬、南相馬市を訪ねた。取材を通じて、原発就労補償が“生活保護化”する現実が広がりつつある実態が見えてきた。

■飯舘村でトラック数十台とすれ違う

 降り積もった雪が残るJR福島駅から車で南相馬市へ向かった。国道114号線から県道12号線を進み、しばらくすると、飯舘村に入る。原発から20キロ圏外だが、年間の積算放射線量が20ミリシーベルトとなる計画的避難区域で、全村避難を強いられている。人の気配はまったく感じられない。途中で寄った道の駅は、「臨時休業します」の張り紙が貼られたままだった。

 だが、車はひっきりなしに往来し、ガレキを積んでいるわけでもない、何十台ものトラックとすれ違った。後で、海岸沿いの国道6号線が原発事故で不通となったため、南相馬市から南関東に向う工業製品などを乗せたトラックが迂回しているのだと聞いた。

 また、「除染モデル事業実施中」の立て看板が目に付いた。日本原子力研究開発機構が公募し、大手ゼネコンを中心とする共同事業体(JV)が現在、除染作業を行っているためだ。

■赤ちゃんが消えてスーパーも開かない

 「震災以降、放射能汚染を恐れ、この町から、主婦と赤ちゃん、そして、子供たちが消えました」

 南相馬市議会議員の奥村健郎さんは、ため息交じりにつぶやいた。奥村さんによると、震災前には約7万3000人いた人口も今では約4万人に減少している。また、市内にある太田小学校は震災前、約130人もの児童がいたが、現在は50人近くまで減少しているという。

 最大の課題は、除染をどう進めていくかということだ。除染なくして、復興はない。「20キロ圏内の警戒区域には200〜300人の従業員を雇用する工場がいくつかありました。4月1日をメドに警戒区域を解除するとの方針が示されましたが、自由に出入りできるのか、できないのか、まったくわからず企業も困っているはずです」(同)。

 事実、ゴルフのシャフトなどを製造する藤倉ゴム工業小高工場は、昨年2月に100名規模の工場を稼働させたばかりだった。「どのように対処すべきか検討中」(同社総務・広報チーム)というように、撤退か存続か、多くの企業が悩んでいることは間違いない。

 問題はそれだけではない。人手不足で、一部のスーパーでは再開のメドが立たないために住民は、不自由な生活を強いられている。「赤ちゃんや子供と一緒に多くの主婦が避難したため、再開しようにも、従業員が集まらない」(ハローワーク相双統括職業指導官の菊池正広さん)という状況が続いているからだ。

202チバQ:2012/02/21(火) 22:29:34
■“民”の力を結集した除染プロジェクト

 南相馬市はいま、警戒区域と計画的避難区域とそれ以外と、3つの区域に“分断”されている。車を走らせると、市内の至る所に「立入禁止」の立て看板があり、警察官の姿も見える。道路一本を挟んで向かい合う、整備された農地と荒れ果てた農地が“分断”を象徴している(写真)。

 南相馬市は昨年11月、除染計画をまとめ、2014年3月末までに、除染を行うことを決めた。住宅や学校などの生活圏を担当する市の除染対策室によると、「2月中に作業を開始できるように現在、業者を選定中」だという。
だが、除去土壌等の仮置き場が決まらない中、計画どおりに進むとは限らない。このままでは人口流出がますます進む恐れもある。こうした事態を乗り越えようと、南相馬市の原町商工会議所青年部を中心に有志メンバーによる除染プロジェクトが立ち上がった。

 「炎天下の昨年6月に、汚染された畑を何とかしようとするおじいさんの姿に心を打たれました。行政や東電に任せていても、ほとんど進みません。自分たちの手で、この町をなんとかしようと決意しました」

 こう語るのは、建材の販売施工会社の経営者で、みなみそうま除染企業組合理事長の但野英治さん。組合員は約20人で、業務もさまざまだ。但野さんは言う。

 「足場、塗装、掃除、土建など、多岐にわたります。除染方法は検討中ですが、みんなで手を組めば、住宅の屋根や壁の除染ができると考えています。今後は、福島大学や東北大、北里大の研究チームとも連携する予定です」

 但野さんは、このプロジェクトが地元住民の雇用の受け皿になることも視野に入れている。

 「行政の除染計画では、大手の建設会社に発注することになります。そうなれば、地元の会社は下請けになり、黙っていたらゼネコンにピンハネされる可能性もあります。そのためにも自分たちの力でやらなければ」

 背景にあるのは、「原発事故に伴う就労補償が生活保護のようになってしまっている」ことに危機感を覚えているためだ。「もちろん、仕事ができない状態にした東電の責任は大きい」と怒りを押し殺しながら、但野さんはこんな事情を教えてくれた。

 「就労不能になれば、以前の収入の不足分は補償され、人によっては、原発事故以前よりも1.5倍ほどの収入になったと聞きます。というのも、家族が町から避難すれば、1人あたり10万円ということもあるからです。もちろん、そうなることを望まない人もいるでしょうが、以前の収入よりも、原発事故に伴う補償のほうが多くなり、就労意欲が著しく失われる人が見受けられます」。話し終えると、但野さんはやりきれないという表情を浮かべた。

 南相馬市では、工場が閉鎖されるなどして雇用が失われる一方で、人が戻ってこないことや、就労意欲が削がれることで労働力不足が生じていた。

203チバQ:2012/02/26(日) 16:50:50
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120226-00000070-san-soci
餓死者、バブル崩壊後急増 セーフティーネット不備映す
産経新聞 2月26日(日)7時55分配信

 さいたま市で親子3人が餓死とみられる状態で見つかった問題で、全国の餓死者はバブル崩壊後の平成7年に前年の約2・8倍の58人に急増、それ以降、高水準で推移していることが25日、分かった。22年までの30年間の餓死者数は1331人で、うち7年以降が8割以上を占めた。専門家はセーフティーネット(安全網)のあり方の見直しを呼びかけている。

 厚生労働省の「人口動態統計」によると、死因が「食料の不足(餓死)」とされた死者は昭和56年から平成6年まで12〜25人だったが、7年に58人、8年には80人を突破。それ以降、22年に36人となるまで毎年40人以上で推移し、過去30年間の最高は15年の93人だった。

 50代の死者が多いのも特徴だ。22年までの16年間で50代の死者数は348人、60代が252人、40代が185人に上り、40〜60代で全体(1084人)の72%を占めた。男女比は30年間で男性が女性の約4・5倍と圧倒的に多かった。

 死亡場所は「家(庭)」が多く、59〜85%(7〜22年)を占める。このため、行政や地域社会のセーフティーネットから、何らかの理由でこぼれ落ちていた可能性も指摘されている。

 貧困問題や生活保護に詳しい小久保哲郎弁護士は「餓死者の急増はバブル崩壊後、急速に景気が悪化した時期と重なっている。当時、雇用状況の悪化に伴ってリストラなどで失業者が増加した」と指摘する。

 また、高齢者ではない「50代男性」の餓死者が多いことには、「稼働層といわれる働き手世代のうち、年齢的に再就職が難しいことから50代が突出したのではないか」と分析した。

 女性よりも男性が多いことについては、「男性は自立できるはずという強い社会規範がある」とし、行政などから助けを受けることに心理的抵抗を感じている可能性があるとみている。

 不況が続き、今後も餓死者が増える恐れがあることから、小久保弁護士は「労働と社会保障の仕組み全体を改善する必要がある」と話している。

204チバQ:2012/02/28(火) 22:56:40
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2012022500173
住民登録、生活保護申請なし=行政、困窮世帯把握に課題−3人餓死・さいたま
 さいたま市北区のアパートで20日、60代の夫婦と30代の息子とみられる男女3人の遺体が見つかった。3人は餓死した可能性が高く、埼玉県警は住人とみて身元の確認を進めているが、この3人は同市に住民登録しておらず、生活保護の申請もしていなかった。
 県警によると、アパート管理会社社員が「昨年11月から連絡が取れない」と通報、警察官とともに訪れ遺体を発見した。死後約2カ月。室内で見つかった現金は一円玉数枚だけで、冷蔵庫に食料品はほとんどなかった。
 捜査関係者によると、息子が以前建設関係の会社に勤務していたとみられる書類が見つかったが、最近の3人の就業状況は不明だ。
 アパート所有者の男性(57)によると、3人は11年前に秋田県大館市から引っ越してきた。アパートの間取りは2K、家賃は約6万円。(2012/02/25-14:10

205チバQ:2012/03/10(土) 18:14:16
http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/120310/waf12031018000016-n1.htm
あの「芦屋」で生活保護世帯が増え続ける「理由」
2012.3.10 18:00 (1/5ページ)

山の手に位置する高級住宅地「六麓荘町」。眼下に大阪湾も見え、見晴らしは抜群だ=兵庫県芦屋市
 高級住宅地のイメージのある兵庫県芦屋市で生活保護世帯が増え続け、今年1月末時点で1年前と比べ約70人増えて594人に達した。市は平成24年度予算案に、生活保護経費として初めて10億円を超える10億3400万円を計上。市の担当者は「生活保護受給者が増えているのは全国的な傾向」といい、不況の影響を受けているのは芦屋だけではないという。芦屋に住んでいるのは、“お金持ち”だけではないのだろうか。(加納裕子)

 

高級住宅地のイメージ


 芦屋市は兵庫県東南部に位置し、六甲山と瀬戸内海に挟まれた面積約18平方キロメートルの自治体。大阪や神戸のベッドタウンとして住宅開発が進んだ。市域を縦断する芦屋川沿いや、昭和初期に開発された高級住宅地「六麓荘町」には財界人などの豪邸が次々と建てられた。

 芦屋市の今年2月時点での人口は約9万4千人(推計)。大企業などが存在しないため法人市民税による収入は少なく、市の財政は所得に応じて増額される個人市民税に頼っている。市によると、平成22年度決算での住民1人当たりの個人市民税は約11万9千円で日本一。市の担当者は「いつからかは分からないが、阪神大震災で被災した平成7〜8年度を除けば、おそらくずっと日本一なのでは」という。

 住民のブランド意識も高い。六麓荘町では住民の強い要望を受け、市は敷地面積400平方メートル以上の豪邸しか建てられない住宅地として条例に規定した。平成21年7月には全市域が景観地区となり、その後、芦屋川沿いの地域はさらに建築規制の強化された特別景観地区として指定。別の条例でパチンコ店などの出店も規制され、市内にはパチンコ店が1店もない。

 一方、厳選した飲食店を紹介する「ミシュランガイド京都・大阪・神戸・奈良2012」には芦屋市内の飲食店が8店掲載されており、人口比でいえば高い割合である。市域全体が上質なイメージでブランド化されているのが、芦屋なのだ。

206チバQ:2012/03/10(土) 18:14:49
生活保護が増えたといっても…


 そんな芦屋で、生活保護受給者が少しずつ増えている。

 芦屋市によると、生活保護世帯は平成18年4月時点では359人だったが、昨年4月には528人と5年間で約170人増えた。それが今年1月末には594人と1年足らずで70人も増えており、増加のペースは上がっている。生活保護経費の予算も増大しているという。

 ただ、生活保護が増えているのは全国的な傾向。人口に対する生活保護受給者の割合は0・6%で、全国的にみればむしろ相当に低い水準といえる。

 厚生労働省によると、昨年11月時点の全国の生活保護受給者は約207万人で、人口に対する割合は1・6%。生活保護の割合が高い大阪市の受給者は約15万人で人口の5・6%を占め、予算規模も数千億円にのぼっている。

 芦屋市生活援護課によると、市内で新たに生活保護を受ける人たちは、もともと市内で暮らしていた人が高齢になったり病気になったりして仕事もできず、預貯金が底をついた−などの事情が多く、困窮した人が流入する傾向のある大阪市などとは異なるという。

 芦屋市内のスーパーや飲食店などは、価格設定が高めの店が多い。市の担当者は「生活保護受給者にとって暮らしやすい町とはいえないのではないか」と本音を漏らす。

 

イメージを維持しながら多様な住民で活性化


 そもそも芦屋は、東京の高級住宅地である田園調布や成城、麻布などの限られた街区とは違い、一つの自治体である。市民のすべてが広い豪邸に住むセレブのはずがなく、賃貸住宅に住むサラリーマン家庭ももちろんいる。とくに近年、市民の所得階層が分散する傾向にあるという。

 昨年10月に芦屋の歴史、経済、まちづくりなどを総合的に研究する「芦屋学研究会」を立ち上げた芦屋大臨床教育学部の楠本利夫客員教授は「芦屋市は市域が狭くかつては大規模開発はできなかったが、昭和40年代以後、臨海部が埋め立てられ、市内に集合住宅が数多く建設された。阪神大震災、長引く不況の影響もあり、住民の年齢、所得階層、国籍が多様化してきた」と指摘している。

 楠本客員教授はこうした現状を踏まえ、「高級住宅地のイメージを維持しながら住民の多様性を生かして芦屋を活性化していくことが必要だ」と強調。芦屋学研究会でも「都市イメージの維持と住民の多様化」を研究テーマの一つに掲げて分析を進めるという。

 全国的な水準と比べれば芦屋の生活保護受給者の割合は高いとはいえないものの、不況や高齢化といった問題は確実に影を落としている。芦屋は今後、大きな転機を迎えるのかもしれない。

207チバQ:2012/03/10(土) 22:17:55
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120310-OYT1T00034.htm
地震保険と義援金で被災者の生活保護打ち切り



. 巨大地震
 東日本大震災で被災後に受け取った地震保険金などが収入にあたるとして、宮城県塩釜市から生活保護を打ち切られた女性(63)が県に審査請求し、県側が市の生活保護打ち切りを取り消す裁決をしていたことが9日、分かった。

 同日、支援団体が記者会見して明らかにした。女性は震災当時住んでいた多賀城市のアパートが全壊。転居した塩釜市で昨年5月に生活保護を受け始めたが、女性が受け取っていた地震保険金約57万円や義援金が収入とされ、7月に市から生活保護を打ち切られたという。

 県の裁決書は今月5日付で、市側が女性の生活再建に必要な資金の確認や検討をせず、保険金などを収入と認定したのは妥当性を欠くとし、生活保護の打ち切りを取り消すと結論づけた。

 塩釜市社会福祉事務所は「地震保険金や義援金で、女性が当面生活できると判断した。裁決を踏まえ適切に対応する」としている。

(2012年3月10日16時07分 読売新聞)

208チバQ:2012/03/20(火) 19:06:55
http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20120225/CK2012022502000141.html?ref=rank
福島第一で過労死認定 御前崎の原発作業員
2012年2月25日

「心配するな」言い残し
 東京電力福島第一原発事故の収束作業中に心筋梗塞で死亡した御前崎市の作業員大角(おおすみ)信勝さん=当時(60)=の遺族が、横浜南労働基準監督署(横浜市)に労災申請していた問題で、労基署は24日、「短時間の過重業務による過労死」として労災認定した。厚生労働省によると、同原発の事故をめぐる作業員の過労死認定は初めて。

 同日夕、静岡県庁で会見した遺族代理人の大橋昭夫弁護士は「防護服、防護マスクを装備した不自由な中での深夜から早朝にわたる過酷労働が、特に過重な身体的、精神的負荷となり心筋梗塞を発症させた」と認定理由を説明した。遺族には国から労災保険金が支給される。

 労災は昨年7月、大角さんの妻でタイ国籍のカニカさん(53)が申請。申請書によると、大角さんは元請けの東芝の四次下請けに当たる御前崎市内の建設作業会社に臨時で雇われ、昨年5月13日から集中廃棄物処理施設で放射性物質に汚染された水を処理する配管工事に従事した。

 13日は未明に宿舎を出発し、防護服などに着替えた後、午前6時から3時間、作業に従事。昼食を取り、午後3時ごろ宿舎に戻った。翌14日も未明に宿舎を出て午前6時から作業に入った。約40分後に体調不良を訴え、その約2時間40分後に福島県いわき市内の病院に搬送されたが、死亡が確認された。死因は心筋梗塞で、被ばくの影響はないとされている。

妻「ようやく認められた」
 「福島へ行かなかったら、きっと夫は今も生きていた」。24日夜、夫婦で暮らしていた御前崎市池新田のアパートで、弁護士から労災認定の知らせを聞いた大角さんの妻カニカさん。すぐに夫の遺影に手を合わせ「ようやく認められたよ。良かったね」と涙を流して報告した。

 カニカさんはタイ出身で、2002年に大角さんと結婚。浜岡原発などで働く大角さんと新婚生活をスタートさせた。

 夫が福島に向かう時「心配するな。おれは元気だし、大丈夫だ」と声を掛けられたという。「夫は病気もなく、元気だった。福島では大変な作業だったんだと思う。引き留めればよかった」と悔やむ。

 大角さんは病死と判断され、カニカさんは「何の補償も受けなかった」という。現在も同じアパートで1人で暮らし、生活のために週5、6日、パートを続けている。

 「優しい夫が突然いなくなり、独りぼっち。生活も苦しく、つらい毎日です」とカニカさん。労災認定の朗報に「夫が好きだったカレーライスを作り、ねぎらいたい」と悲しげな笑顔を見せた。

過酷な環境 毎日3000人
 福島第一原発事故収束作業の現場で働く東京電力社員や下請け企業の作業員は今も1日約3000人に達する。政府・東電は昨年12月に「事故収束」を宣言したが、大量被ばくのリスクは変わらない。事故から間もなく1年、今も過酷な環境での労働が続く。

 作業員たちは体や衣服に放射性物質が付着するのを防ぐため、不織布製の防護服を着て全面マスクを装着。累積線量管理のための線量計も手放せない。

 事故当初は食事、物資の補給が間に合わず、作業後に体育館や会議室の固くて冷たい床で寝る日々が続いた。東電社員や作業員の中には、自宅が津波に襲われて「被災者」となった人も多い。中には家族の安否が分からないまま勤務を続けた人もいた。

 夏には、暑さと汗で防護服の中は“蒸し風呂”状態に。エアコンを完備した休憩所の整備が遅れたこともあり、熱中症で倒れる人が相次いだ。

 東電は、作業員に適切な休憩を取るよう呼び掛けたが「同僚に迷惑を掛ける」「休んでいたら工期に間に合わない」との責任感から、休まず作業を続ける人が相当数に上った。

209チバQ:2012/03/20(火) 19:08:16
http://www.j-cast.com/kaisha/2012/02/28123581.html
過労死をなくす、たったひとつの方法
2012/2/28 11:10

ワタミの過労自殺問題で、渡邉美樹社長に対するバッシングが盛り上がっている。責任の所在については経営者に帰せられるのは当然なので、別に異論はない。ただ、同様の悲劇を防ぐための対策は別途考える必要がある。というのも、経営者にお灸を据えた程度では、この種の問題は決して根絶しないからだ。

まず、そもそもの大前提として、日本に「従業員が死んでもいいから働き続けろ」と考えている経営者はいない。当たり前の話だが、従業員が過労死や過労自殺することによって受ける社会的信用の毀損は、月に100時間残業させることで稼げる利益よりケタ違いに大きいからだ。

ワタミのようにトップが目立ちたがり屋の企業ならなおさらで、きっと今ごろ人事部門の責任者は社内で責任を追及されているはずだ(とはいえそれを監督するのがトップの務めであるわけで、やはり最終的に渡邉社長自身の責任問題だろう)。

忙しかったら従業員をじゃんじゃん採用しろ
では、管理職や人事部にはっぱをかければ、この種の出来事は未然に防ぎきれるだろうか。筆者の経験上、それは難しいと考える。たとえば、厚労省は過労死の認定基準について、以下のように定めている。

「発症前1か月間におおむね100時間又は発症前2か月間ないし6か月間にわたって、1か月当たりおおむね80時間を超える時間外労働が認められる場合は、業務と発症との関連性が強いと評価できることを踏まえて判断すること」
月に100時間、もしくは2か月間連続で80時間以上残業している従業員全員と面談し、メディカルな部分まで含めてチェックできるかというと、現実にはなかなか難しい。

筆者は以前、担当事業所で3か月連続で100時間を越える従業員のチェックを担当していたが、やっている自分の残業時間が150時間を越えてしまった。それでも十分なチェックができていたとは思えない。当時(自分も含め)誰も死ななかったのは運が良かっただけの話である。

では、抜本的な対策は何か。もうこれは単純に、厚労省が言うように、月の残業時間を80時間未満に抑えるしかない。つまり、忙しかったら従業員をじゃんじゃん採用しろということだ。そして人的リソースをジャブジャブにした上で、

「残業するなんてバカじゃないの?」
という他国ではごく常識的な価値観を社会全体で共有すればよい。

210チバQ:2012/03/20(火) 19:08:35
「人を雇うと発生するしがらみ」を減らせ
もちろん、そのためには「企業がどんどん人を増やしやすくなる環境整備」が必要となる。社会保険料の事業主負担や最低賃金といった「企業が負担せねばならない社会保障コスト」を思い切って減らしつつ、雇用契約の見直しを柔軟に認める流動化が必須だろう。

人を雇うと発生するしがらみを減らすことが、もっとも多くの雇用を生み出すのだ。

実は筆者は、上記のような政策が、労働者の側にもう一つの、目には見えないが強力なセーフティネットを作りだしてくれるのではないかと強く期待している。

それは「辞めたくなったらいつでも辞められる環境づくり」だ。このご時世、せっかく入った会社を辞めたくても辞められない人は多いだろう。中には歯を食いしばって、月百時間以上の残業に耐えている人もいるはずだ。

そんな時、いつでもアクセス可能な流動的な労働市場があれば、状況は大きく変わるのではないか。

「石の上にも3年」というのは日本独自の美徳だが、美徳が生命の上に位置してはならない。そんなことはやりたい奴が勝手に我慢比べをしていればいいだけの話で、そうでない人のための抜け道を整備するのが、究極の過労死対策だろう。

城 繁幸

211チバQ:2012/03/20(火) 19:28:10
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120320-00000019-yonh-kr
韓国総選挙 与党の比例名簿1位は女性科学者
聯合ニュース 3月20日(火)15時32分配信

【ソウル聯合ニュース】韓国与党のセヌリ党は20日、4月11日投開票の総選挙(国会議員選挙)の比例代表名簿を発表した。韓国原子力研究院の閔丙珠(ミン・ビョンジュ)研究委員が1位に登録された。党の選挙対策委員長を務める朴槿恵(パク・クンヘ)党非常対策委員長は当選予想圏の中間ラインとされる11位だった。
 名簿に登録されたのは計46人。閔氏を含め女性候補が上位10位までに5人入った。この中には元卓球韓国代表の李エリサ氏(9位)が含まれている。
 北朝鮮脱出住民(脱北者)で初めて1級公務員になった趙明哲(チョ・ミョンチョル)統一教育院長が4位に登録されたほか、昨年大ヒットした映画「ワンドゥギ」に出演したフィリピン出身の李ジャスミンさんが17位に登録された。
 名簿を発表した党公職候補者推薦委員会の鄭フン原(チョン・フンウォン)委員長は「どれだけ国民に感動を与えられるかを最も考慮した。分野別の役割や功績も参考にした」と述べた。
sarangni@yna.co.kr 最終更新:3月20日(火)15時32分

212チバQ:2012/03/20(火) 23:15:10
http://sankei.jp.msn.com/west/west_economy/news/120107/wec12010712000000-n1.htm
【karoshi過労死の国・日本 第2部(1)復興の犠牲者たち】
美談で済まされぬ「フクシマの英雄たち」
2012.1.7 12:00 (1/4ページ)[karoshi過労死の国・日本]

福島第1原発で働く東京電力の社員ら原発労働者は、第2原発の体育館で防護服のまま雑魚寝していた=2011年5月(谷川武愛媛大教授提供)
 福島第1原発の事故収束にあたった原発労働者や消防・自衛隊員たちが、スペイン王室のアストゥリアス皇太子基金から「フクシマの英雄たち」として表彰された。基金は創設約30年と歴史は浅いが、過去には国境なき医師団など国際平和に貢献した個人や団体に平和部門賞を授与しており、欧州ではノーベル賞に匹敵する権威ある賞として知られている。


作業開始40分後に倒れ…死亡


 「彼らは極限状態にあるにもかかわらず、さらなる大惨事が起きるのを避けようと闘った。義務感や自己犠牲の精神という、日本社会に根付いた価値を示してくれた」。授賞理由にはそうあった。だが、10月21日の授賞式に原発労働者の姿はひとりもなかった。

 東日本大震災による大津波で炉心溶融(メルトダウン)を起こした原子炉は、冷温停止の達成目標が年内に前倒しされたとはいえ、今も「誰か」が放射線に身をさらさなければ、制御できない。

 厚生労働省によると、福島第1原発では毎日約2千人が働き、フクシマの英雄たちは、東京電力の社員と下請け労働者だけで、10月の段階で累計1万9237人にのぼっているというのだ。

 一方でこんな現実もある。3〜6月に作業に当たった下請け労働者のうち、341人が一時、所在不明となった。

 「推測にはなるが、労働者たちが過酷さや恐怖のあまり逃げ出した可能性がある」。原発労働に詳しい関西労働者安全センターの事務局次長、片岡明彦(52)はこう指摘する。「無名の労働者たちによる献身という美談で、済まされる話なのだろうか」


自然に息さえも…


 真夏の作業。高線量の放射線から原発労働者の身を守った防護服は、代わりに42人を熱中症にした。

 防護服は、微細なポリエチレン繊維を幾層にも重ねた特殊シートが素材で、空気をほとんど通さない。場合によっては厚手の上着や雨がっぱを上から着込み、酸素ボンベ付きの人工呼吸器を背負うこともある。

 暑さに加えて息苦しさも追い打ちをかける。顔面を覆う防護マスクには、放射性物質を吸着する活性炭入りのフィルターが組み込まれているためだ。福島第1を含む原発3カ所で約30年前、下請け労働を体験したフリーライターの堀江邦夫は、著書「原発ジプシー」(現代書館)の中で、その過酷さをこうつづる。「ごく自然に息をすることさえできない−こんな生理的・精神的な苦痛を伴う労働が他にあるだろうか」

213チバQ:2012/03/20(火) 23:15:28

死と隣り合わせの重圧


 静岡県御前崎市の配管工、大角信勝=当時(60)=は5月14日、汚染水処理施設の配管設置工事にあたっていたさなか、心筋梗塞で死亡した。雇い主である建設業者の説明は、こうだ。

 深夜に宿舎を出発し、午前3時半、前線基地である「Jヴィレッジ」で防護服に着替えた。その後、約20キロ離れた福島第1原発で朝礼を受け、6時から作業を開始。重さ約50キロの機械を同僚と2人で運ぶ途中、体調不良を訴え意識を失った。6時40分ごろのことだったという。

 構内には当時、医師は常駐しておらず、東電の業務用車両に乗せられJヴィレッジに引き返し、さらに約45キロ先の福島県いわき市内の病院に搬送されたが、すでに倒れてから約2時間40分も経過していた。

 大角は作業2日目に死亡したが、生活は楽ではなく半年前からは建設現場でガス溶接の仕事に当たっており、狭い所に無理な姿勢で潜り込む厳しい作業が続いたことから、毎日のように「しんどい。大変だよ」と妻に漏らしていたという。

 7月13日、妻は労働基準監督署へ労災を申請している。代理人を務める弁護士の大橋昭夫(63)はこう語る。「直前までの負担に加え、死と隣り合わせの環境で緊張を伴い、さらに防護服による蒸し暑さにも耐えようとした。これは、れっきとした過労死だ」

(敬称略)





 

 「karoshi」として世界に知られてしまった日本の過労死問題。第2部では、東日本大震災の復興に立ち向かう人々が直面する“震災過労死”を追う。

214チバQ:2012/03/20(火) 23:16:06
http://sankei.jp.msn.com/west/west_economy/news/120107/wec12010719000003-n1.htm
【karoshi過労死の国・日本 第2部(2)復興の犠牲者たち】
日給2万円…原発労働の対価と代償
2012.1.7 19:00 (1/4ページ)[karoshi過労死の国・日本]

福島第1原子力発電所事故で、1号機の格納容器につながる配管を切断する作業員=2011年10月(東京電力提供)
 「おまえ、裏切ったな!」

 福島第1原発事故の収束作業中に死亡した静岡県御前崎市の配管工、大角信勝=当時(60)=の妻、カニカ(53)は、夫が勤めていた建設業者の社長の言葉が忘れられない。

 社長は50万円と引き換えに、ある書類に判を押すよう迫っていた。タイ国籍で日本語が不自由なカニカには読めなかったが、示談書のたぐいだったことは間違いないだろう。一度断ると、社長は金額を倍の100万円に引き上げ、それでも頑としてうなずかないカニカに、そう怒鳴りつけたという。

 最初から社長はこんな態度をとっていたわけではない。福島市内の斎場で大角が荼毘(だび)に付されるまで、カニカにかかった宿泊費や交通費を負担した。大角が働いた分の給料も払い、生活に困るカニカに米を10キロ差し入れもした。

 だが、カニカは市役所の無料相談を通じて代理人弁護士の大橋昭夫(63)と連絡をとり、労災申請の準備を進めていた。

 「裏切ったな」という社長の言葉は、弁護士に助けを求めたことに対する逆恨みだけではなかったはずだ。背景には、労災が認められれば経営が傾きかねないという抜き差しならない事情があるのだ。大橋は端的に言う。

 「元請けから仕事が来なくなるのを心配したのだろう」


「協力会社」の欺瞞


 この業者は、東京電力が工事を発注した大手企業からみて4つめの下請けに当たる。電力会社が呼ぶところの「協力会社」である。

 「協力を強いられているのに、あたかも進んで協力していると錯覚させる欺瞞(ぎまん)に満ちた名称だ」。そう批判するのは、約40年間にわたり原発労働者を取材してきたフォトジャーナリスト、樋口健二(74)だ。樋口は言う。

 「底辺の労働者が何社もの下請け業者から搾取されている構造の上に、日本の原発は成り立っている」

 汚染水処理施設の配管設置工事で、社長が大角に約束した賃金は、日給2万円だった。ただし、東電が発注した際の人件費が日給いくらと見積もられていたかは、定かでない。

 2万円という日給が、危険とストレスの大きい仕事に見合った金額だったかはともかく、大角夫妻にとっては願ってもない条件だった。自宅アパートは6畳2間の2DKで、家賃は4万5千円。カニカが働くコンビニ弁当の製造工場の月給は、手取りで10万円強だ。

215チバQ:2012/03/20(火) 23:16:27
 一方で、配管工としての大角の仕事は、この不況ともなれば収入も限られる。浜岡、島根、志賀…。大角の放射線管理手帳には、少なくとも平成3年から各地の原発を転々として働いていた記録があった。生きていくには、その経験を生かすしかなかったのだ。


最後の晩餐、愛の言葉


 「福島での仕事が決まったとき、私は『頑張ってな』と言ってしまった。止めたらよかった」。カニカはそう涙をぬぐった。

 自宅アパートは中部電力浜岡原発から約2キロの住宅地にある。停電の多いタイの農村で生まれ育ったカニカは、世界有数の技術力で電気を量産する日本の原発が、たとえ事故を起こしていても危険なはずはないと考えていた。出発の前日、夫とともに旅行かばんと作業着を買いに行き、食卓に好物のカレーと刺し身、缶ビール2本を並べてささやかに前祝いまでした。

 「お父さん、周りの人に迷惑かけちゃだめよ」

 「心配するな。母ちゃんは自分のことを考えな。そして2年でお金をためて、早くタイで暮らそう」

 カニカが労災を申請したのは、「原発事故の収束のために死んだのだから、仕方がない」と思われることが、耐えられなかったからだ。カニカは言う。「地震や津波でさよならも言えず亡くなった方々は大勢います。私よりつらいと思います。でも私もつらいんです」

(敬称略)

216チバQ:2012/03/20(火) 23:17:04
http://sankei.jp.msn.com/west/west_economy/news/120108/wec12010815010003-n1.htm
【karoshi過労死の国・日本 第2部(3)復興の犠牲者たち】
津波被害との闘いの果てに…
2012.1.8 15:00 (1/4ページ)[karoshi過労死の国・日本]

救援物資の受け入れ作業に奮闘する七ケ浜町職員=2011年4月、宮城県七ケ浜町(佐藤裕介撮影)
 東日本大震災から1週間たった3月18日未明。集中治療室に搬送された宮城県七ケ浜町の税務課長、佐藤栄一郎=当時(60)=は、輸血をされながらあるうわごとを言った。「心配するな。早く役場に戻ってくれ」。付き添いに町職員がおらず、家族だけだと知ると、妻の久美子(55)に「ごめんな」と言い残し、息を引き取った。


町民から「税金で食ってる、当然だ」


 仙台湾に面した七ケ浜町は、町内の約4割が津波にのまれた。死者・行方不明者は107人。隣接する石油コンビナートは火災で4日間、燃え続けた。電気は復旧までに2週間、水道は1カ月以上を要している。

 非常用の発電機でしのいでいた町役場で、佐藤は当時、部下らとともに不明者の安否確認や炊き出しに追われていた。不眠不休で働き、職場で吐血し倒れたという。

 こんな非常事態に、帰宅することは絶対にない、と久美子が悟っていたとおり、辛うじて被害に遭わなかった自宅に、佐藤は震災後、一度も戻らなかった。家族旅行や子供の行事よりも仕事を優先する男だ。久美子は、夫を誇りにこそ思っても、責める気持ちになどならなかった。

 久美子は言う。「主人は死ぬまで役場で働けて、本望だったんじゃないかと思うんです」


労災申請に“罪悪感”


 実は、佐藤にはC型肝炎の持病があった。3月末で定年退職する予定だった佐藤は、あと20日余りで治療に専念できるはずだったのである。

 「震災さえなければ、佐藤さんは死んでいなかった」−。

 ともに震災に立ち向かった七ケ浜町役場の職員たちはそう痛感し、公務員の労災にあたる公務災害を率先して申請した。もちろん、持病があっても、長時間労働や過重なストレスなどが原因で持病が悪化したと証明されれば、過労死と認定される可能性はある。

 ただ、遺族は是が非でも過労死だと認めてほしいと思っているわけではない。最も気にかけているのは、佐藤の名誉を守ることであり、次女の美佳(28)は「申請が父の遺志に反しているのではないかと考えることもある」と、迷いさえ打ち明ける。

217チバQ:2012/03/20(火) 23:17:27
 家族を失った町民がおり、海岸沿いには津波がえぐり取った家々の残骸がうち捨てられている。自分たちだけが公務災害にこだわる状況ではないと思ってしまう、いわば“罪悪感”のような感情なのだという。


いらだちの矛先


 原発事故の収束と同じく、震災復興もまた、誰かが担わなければ前には進まない。ただあのとき、被災した市町村に勤める自治体職員なら、誰もが過重労働をするしかないという現実があった。

 七ケ浜町役場の職員は約160人がいたにすぎなかったが、町民約2万1千人の絶望は、ときにいらだちとなって押し寄せてきた。「いつになったら給水の順番が回ってくるのか」「食料が届かないじゃないか」。「税金で食っているんだから、働いて当然だ」と、面と向かって言われた職員もいた。

 復興にあたる自治体職員のなかでも、とりわけ住民と接する機会の多い職員は、いまもよく似たストレスを感じているという。美佳は「人手が足りていないのに、自衛隊や警察と違って目立つ仕事をしていない自治体職員は、あまり感謝される機会もなかった。職員も同じ被災者なのに…」と語る。さらに久美子は、長引く復興への道程をこう案じる。

 「私たちと同じ思いは誰にも味わってほしくありませんが、こうした状態が続けば、震災過労死が起きるのは避けられないのではないでしょうか」

218チバQ:2012/03/20(火) 23:18:01
http://sankei.jp.msn.com/west/west_economy/news/120108/wec12010818010004-n1.htm
【karoshi過労死の国・日本 第2部(4)復興の犠牲者たち】
男泣きに泣いた父「訴えぬのは、いい息子でいさせたかったから」
2012.1.8 18:00 (1/4ページ)[karoshi過労死の国・日本]

新潟県中越地震から復興した旧山古志村の人々。東日本大震災の被災地・大槌町を訪れ、演歌歌手の小林幸子さんと炊き出しを行った=2011年5月、岩手県大槌町(古田貴士撮影)
 「俺、疲れたよ」。村の麓で会った同僚に、復興へ向けて走り回っていた青年は、ぽつりと言った。少し休んでいくよう勧められても「こうしちゃいらんねえ」と車を走らせた。車はその後、信号柱に激突し、青年は帰らぬ人となった。

 新潟県山古志村(現長岡市山古志)の村職員、星野恵治=当時(32)。東日本大震災と同じ最大震度7を記録した平成16年10月23日の新潟県中越地震は、棚田や闘牛場、ニシキゴイの養殖池が点在する村の風景と同様、恵治の生活を激変させた。

 全村民2167人が自衛隊のヘリで隣の長岡市に逃れ、恵治は避難所になった高校の体育館に入った。ボランティアとの交渉や村民からの相談を夜遅くまで受け、夜明け前に出発しては、孤立した村へ徒歩で入る日々を続けた。手塩にかけた簡易水道の被害状況を確認するためだ。

 雪が降り積もる前に被害額を確定させなければ、復旧の予算がおりない。職員78人の中でやり遂げられる可能性があったのは、12年余りかけて簡易水道を全戸に敷設した恵治だけだ。孤軍奮闘するしかなかった。


村のため“本望”


「東北も依然、大変な状況なのだから、際限のない仕事を無理して全部やろうとしたり、一人だけに仕事を押しつけられたりすれば、恵治のように過労死してしまう」。母、信子(64)の訴えは切実だ。

 地震2カ月後の12月22日に死亡した恵治は、復興に伴う長時間の過重労働があったとして、公務員の労災にあたる公務災害が認定されている。ただ、それは“震災過労死”の証明にはなっても、復興を願う被災者でもあった両親には、複雑すぎる感情しかもたらしていない。

 父、祐治(69)は「そんなに疲れていたなんて…。俺が気づいてやれなかった」と、7年たった今も悔やむ。両親は地震後、恵治のいる避難所に身を寄せていたが、恵治とはほとんど顔を合わせず、たまに会っても話しかけなかった。村職員が村のために必死で働くのは当然、と思っていたからだ。

219チバQ:2012/03/20(火) 23:18:21
「東北も依然、大変な状況なのだから、際限のない仕事を無理して全部やろうとしたり、一人だけに仕事を押しつけられたりすれば、恵治のように過労死してしまう」。母、信子(64)の訴えは切実だ。

 地震2カ月後の12月22日に死亡した恵治は、復興に伴う長時間の過重労働があったとして、公務員の労災にあたる公務災害が認定されている。ただ、それは“震災過労死”の証明にはなっても、復興を願う被災者でもあった両親には、複雑すぎる感情しかもたらしていない。

 父、祐治(69)は「そんなに疲れていたなんて…。俺が気づいてやれなかった」と、7年たった今も悔やむ。両親は地震後、恵治のいる避難所に身を寄せていたが、恵治とはほとんど顔を合わせず、たまに会っても話しかけなかった。村職員が村のために必死で働くのは当然、と思っていたからだ。

 山古志村が長岡市と合併した後、衆院議員に転身した長島は、中越地震と復興に向けた日々を回想した著書「国会議員村長−私、山古志から来た長島です」(小学館)の巻頭言に、こう記した。「山古志復興に尽くして亡くなった星野恵治氏に−この本を捧(ささ)げる」。そして、恵治の過労死に直面したとき、村長を辞職しようと思った、と告白している。

 著書での長島の言葉にはこうある。「悔やんでも悔やみ切れない気持ちは今も胸に抱いている。でも私がどれだけ悔やもうとも、彼はこの世にはいない。そのことの重さは生涯忘れるつもりはありません」

220チバQ:2012/03/20(火) 23:18:50
http://sankei.jp.msn.com/west/west_economy/news/120109/wec12010918000001-n1.htm
【karoshi過労死の国・日本 第2部(5)復興の犠牲者たち】
「なぜ主人が2度も派遣された…」
2012.1.9 18:00 (1/4ページ)[karoshi過労死の国・日本]

「全国過労死を考える家族の会」の寺西笑子代表。自身も飲食店店長の夫=当時(49)=を亡くし、過労死防止基本法の制定を目指している(小野木康雄撮影)
 「被災地に2度も行かなければ、主人は死んでいなかった。なぜほかの職員ではなく、主人が派遣されてしまったのか。その思いだけは、ずっとある」

 東日本大震災の復興支援で大阪府から岩手県に派遣された職員、垣内祐一=当時(49)、仮名=は平成23年5月14日夜、宮古市内の宿泊先で倒れた。脳内出血だった。4月3〜7日に続いて2度目となった派遣のさなかのことだ。運転手である祐一は、同じく応援組の保健師や栄養士を車に乗せ、宮古市内の避難所20カ所あまりを巡回していた。

 妻の友子(49)=仮名=は、搬送先の宮古市内の病院に駆けつけたとき、被災地での運転が想像していた以上に大変だっただろうと痛感した。震災から2カ月たっていても、がれきのほかに何もない光景は、テレビで見ていたよりずっと悲惨だったからだ。

 2度目の派遣が決まったとき、祐一は友子に不安げにこう語っていた。「被災地は困っている。でも誰も行きたがらない。だから、少しでも道に慣れた自分が行くべきなんだろうな」

 だが、上司からの打診に対し、祐一は表向き「わかりました」と即答している。2度目だから断ってもいいと告げられたのに、冗談交じりに「もっと長く被災地にいてもいいですよ」とも応じていた。


曖昧な境界、暗黙の強制


 上司とのやりとりを伝え聞いた同僚たちの中には「祐一が被災地への派遣を志願した」と誤解した人もいるが、友子にとって「わかりました」という即答は、強い責任感の表れだったとしか思えない。

 甲南大名誉教授(労使関係論)の熊沢誠(73)はこう指摘する。「人間として断れない状況に追い込まれるのであれば、たとえ災害派遣でも、強制という側面があるのではないか」

 熊沢は過労死問題を「強制された自発性による悲劇」ととらえる。例えば、少しでも残業代を得るために深夜まで働くことは「自発的」とは限らない。基本給だけで生活できないのなら、そのような働き方は「強制された」とも受け取れるからだ。「強制と自発の境界があいまいになっている日本の労働現場は、過労死を起こしやすい」という熊沢の観点からみれば、祐一の死もまた、強制された自発性による悲劇といえるかもしれない。


橋下行革の果て、畑違い業務に

221チバQ:2012/03/20(火) 23:19:10
「『被災地派遣で過労死』大阪府職員遺族、公務災害申請へ」と、8月25日のMSN産経ニュースで報じた通り、友子は祐一の死について、公務員の労災にあたる公務災害を申請した。「誰も恨まないけれど、主人も『復興の犠牲者』という証明がほしいと思うはずだから」と友子は語る。

 もともと、祐一は技師として大阪府に採用され、20年以上にわたり医療機器の操作を担当していた。それが、橋下徹知事流の行政改革のあおりで、約2年前、運転手に配転された。

 まぶしさを感じすぎる軽い白内障を患っており、必ずしも運転に向いていたわけではない。それでも祐一は、新しい仕事に慣れようと懸命に働いた。支給される地図だけでは道に迷うからと、自費でカーナビを購入し、公用車に取り付けていたほどだ。

 大阪府で運転手をしている職員は約30人。祐一と同じく保健師らを乗せる避難所の巡回業務は、3月24日から7月2日まで派遣が続いた。祐一を2回選んだ府健康医療部は「介護や子育てといった家庭の事情、本人の体調、日常業務の都合を加味して誰を出すか決めていた」と説明する一方、期間中に一度も派遣されなかった運転手がいたことも明かしている。

 被災自治体に派遣された全国の職員の総数は、7月1日までだけで延べ5万6923人を数える。被災自治体の職員を兼任する辞令を伴った派遣もあり、長い人では今年24年の3月まで現地にとどまるという。

 “震災過労死”のリスクは、まだ続いている。

222チバQ:2012/03/20(火) 23:19:51
http://sankei.jp.msn.com/west/west_economy/news/120317/wec12031718010009-n1.htm
【karoshi過労死の国・日本 第3部(1)若者に迫る危機】
ワープア、ブラック企業、鬱で自殺…悪循環
2012.3.17 18:00 (1/4ページ)[karoshi過労死の国・日本]

貧困問題に詳しい作家の雨宮処凛さん。右は「ゆとり教育」推進の元文部省官僚の寺脇研さん、左は北海道大学准教授の中島岳志さん=2011年、シンポジウム「『橋下』主義(ハシズム)を斬る」
 昨2011年世界規模で起きた、ある重大ニュースの発信源は米ニューヨークだった。「ウォール街を占拠せよ」。格差社会に疑問を持つ若者たちによって9月に自然発生したデモが、フェイスブックやツイッターといった新しいメディアを通じ、わずか1カ月間で東京を含む1400以上の都市に波及したのだ。


非正規20代の2割、月10万円みたぬ収入


 デモは、先導者がおらず統一した要求もないという異例づくしだったが、だれかが必ずこんなプラカードを掲げていた。「We are the 99%」(私たちが99%だ)。1%の富裕層が招いた金融危機を99%の貧困層が尻拭いしているという批判を込めた言葉だ。これが、日本の若者たちの間でも共感を呼び続けているという。

 貧困問題に詳しい作家の雨宮処凛(36)は「デモの広がりは、非正規労働者と正社員が対立するという構図が、嘘であることを気づかせてくれた」と説明し、過労死問題について重要な指摘をしている。「非正規労働者の貧困と正社員の過労死は、表裏一体の社会問題なのだ」と。

 派遣社員やパート、アルバイトといった非正規労働者の待遇が悪くなれば、正社員は明日はわが身と感じて会社にしがみつく。正社員は過労死のリスクを抱え、非正規労働者は仕事を奪われてますます貧困に陥る−。そんな悪循環が、日本の労働現場に起きつつあるというのだ。


30代3割が精神発症で労災申請…20代も2割


 兆候は、若い世代にほど顕著に表れている。一昨年の厚生労働省調査によると、20代前半の働く男性のうち、非正規労働者の割合は46%。うち44%が月収10万円にも満たない。

 大阪過労死問題連絡会会長で関西大教授の森岡孝二(67)は言う。

 「ワーキングプアと過労死は、特に“ブラック企業”の中で併存している」

 ブラック企業−。低賃金での長時間労働やサービス残業を強いたり、暴言などのパワーハラスメントが当たり前だったりする会社を意味する言葉だ。

 この呼び方は、ネット掲示板への書き込みを書籍化した黒井勇人の「ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない」(新潮社)で知られるようになった。

 出版された平成20(2008)年は、ちょうどリーマン・ショックと「年越し派遣村」で、非正規労働者の貧困問題が注目された年だ。

 年越し派遣村の出現を境に、若者に迫る過労死の危機が表面化したと考えるのが、NPO法人「POSSE(ポッセ)」事務局長、川村遼平(25)だ。川村は、POSSEが受ける年間約350件の労働相談に、ある変化を感じている。派遣切りに続いて、入社1〜2年目の正社員が不当に解雇されはじめ、それがなおも続いているというのだ。

223チバQ:2012/03/20(火) 23:20:15
 「相談者の大半が、自分でも気づかないうちに過労死寸前まで働き、心を病んだ末に退職を強要されている」。川村はそう明かす。


パソコン相手、孤独な労働


 厚労省によると、働き過ぎや職場でのストレスから鬱病などの精神疾患を発症したとする労災申請は22年度、過去最多の1181件にのぼった。年代別では、30代の390件(33%)が最も多かったが、20代も約2割を占めていた。

 「karoshi」が英語として使われだした約20年前は、40代の働き盛りが急死する例が目立っていた。

 それが今は、精神疾患を悪化させて正常な判断力を失い、自ら命を絶つ「過労自殺」として、若者に蔓延(まんえん)している。これこそが、過労死問題に取り組む弁護士や学者、遺族たちに共通する、現状への危機感だ。

 甲南大名誉教授の熊沢誠(73)は「今の若い労働者はコンピューターに向かう孤独な作業が多く、上司の圧力にも1人で対峙(たいじ)しなければならない」と指摘し、こう持論を述べる。

 「若者は昔に比べて弱くなった、という精神論は必ず指摘されるが、それは本質的な問題ではない。ワーキングプアの若者が過労自殺の危機に直面しているいまだからこそ、社会は過労死問題と真剣に向き合わなければならないのだ」

(敬称略)






 第3部では、日本の将来を担う若者たちが過労自殺という形で「karoshi」に至る現実を探る。

224チバQ:2012/03/20(火) 23:20:50
http://sankei.jp.msn.com/west/west_economy/news/120318/wec12031818000002-n1.htm
【karoshi過労死の国・日本 第3部(2)若者に迫る危機】
“正社員”餌に残業100時間 「マジで無理…」首つり
2012.3.18 18:00 (1/3ページ)[karoshi過労死の国・日本]

男性が自殺する直前の業務日報のコピー。「無理」などの記述がある
 「本人には悪いが、息子は就職戦線での“負け組”でした」。長男を「過労自殺」で亡くした父親は、そう言葉を絞りだした。

 平成20(2008)年8月2日朝、村井義郎(65)=仮名=は兵庫県尼崎市の自宅で長男、智志=当時(27)、仮名=の変わり果てた姿を見つけた。スーツのズボンに白い肌着という出勤時に着る服装のまま、首をつっていたという。

 智志は、死のわずか4カ月前に「正社員」になったばかりだった。それまでの5年間を、アルバイトなどの非正規労働者として働きながら就職活動に費やしていたのだ。

 智志が大学を卒業したのは、就職氷河期まっただ中の15年3月。前年10月時点での就職内定率は、64・1%だった。いまや24年3月の卒業予定者で59・9%というさらに厳しい時代を迎えているが、当時でも智志は3年生から応募を始め、書類選考だけで落とされ続けたという。

 ようやく面接にこぎつけた会社からは、容姿をけなされる“圧迫面接”を受け、自信を失ったこともあったが、希望は捨てなかった。義郎を安心させたいという思いが強かったのだろう。回り道の末に採用が決まったとき、智志は「やっと正社員になれたよ」と笑顔で報告している。


「朝7時15分〜午後4時15分」で求人、実際は


 就職先は大手飲料メーカーの孫請けで、自動販売機に清涼飲料水を補充する会社。コンピューター関係の仕事に就きたいという夢を持ち、資格取得に向け勉強もしていた智志にとって、求人広告にあった午前7時15分〜午後4時15分という勤務時間は魅力だった。

 だが、実態は違った。朝は6時台に出社し、清涼飲料水を運ぶトラックの洗車を済ませておかねばならない。トラックで自販機を回り、商品補充を終えて夕方帰社しても、翌日分の積み込み作業とルート確認、在庫管理などに追われ、帰宅は深夜になった。

 補充自体も過酷な肉体労働だ。1日のノルマに加え、自販機の故障や客からの苦情があれば、急行しなければならない。「倒れそうです」。自殺1週間前の7月26日の日報にはこう記したが、智志だけでなくほかの従業員も「まじで無理!!」とつづっていた。

 「耐えられないなら、辞めてもいいよ」。姉の寛子(34)=仮名=は何度もいたわったが、智志の答えはいつも同じだった。

 「せっかく正社員になれたんやから、もう少し頑張ってみるよ」 


実際は「元請けの契約社員」


 智志の死後、義郎と寛子は会社を訪ねて遺品を受け取った。そのとき、机の引き出しから見つかったある書類に、2人は目を疑った。智志が正社員ではなく、元請けの契約社員であると明記してあったのだ。

 書類の日付は7月11日。自殺の約3週間前だ。これ以降、日々の出費や雑記がこまめに記されていた手帳は、ほぼ空白になっている。「正社員だと信じて疑わずに就職したのに、本人は相当なショックを受けたに違いない」。義郎はわがことのように悔しがる。

 智志の過労自殺は22年6月、直前1カ月間の時間外労働(残業)が100時間を超えていたなどとして労災が認定され、義郎は会社を相手に民事訴訟を起こした。智志が本当に正社員でなかったのかは、まだはっきりしないが、義郎は少なくともこう確信している。

 「会社は正社員という餌をちらつかせて、アリ地獄のように待ち構えていた。健康でまじめに働く息子はいい獲物だったはずだ」

 夢を持ちながら頑張り抜いた智志を、義郎は就職戦線の負け組とは口にしても、人生の負け犬だとは、決して思ってはいない。

(敬称略)


=次回は20日7時にアップ

225チバQ:2012/03/20(火) 23:21:44
http://sankei.jp.msn.com/west/west_economy/news/120320/wec12032007010001-n1.htm
【karoshi過労死の国・日本 第3部(3)若者に迫る危機】
“国策”地デジの影…SEは鬱率3倍
2012.3.20 07:00 (1/4ページ)[karoshi過労死の国・日本]

58年間、番組を送り続けてきたアナログ放送の送信をとめるため、停波のスイッチを押すNHKの職員=平成23(2011)年7月24日午後11時59分、東京都港区の東京タワー(早坂洋祐撮影)

最後の言葉「もう一度だけ、会社に戻る」


 「命が大事。もう会社を辞めて」

 神戸市須磨区の西垣迪世(みちよ)(66)は平成17(2007)年秋、鬱病で休職し帰省していた一人息子の和哉に、たまりかねて言った。見るからに疲れ果てていたからだ。

 就職氷河期のさなか、システムエンジニア(SE)として川崎市内の会社に入って4年目。日本有数の大手企業の子会社だったが、人間らしく働かせているとは到底思えなかった。

 「もう一度だけ、会社に戻るよ。それでダメなら帰ってくる」。最後に和哉は母を気遣うようにそう言い残し、社員寮へと戻った。そして復職から約2カ月後の18年1月、鬱病の治療薬を大量に飲んで死亡した。27歳だった。

 生前、和哉は迪世にこう漏らしている。同僚にも鬱病患者が多く、自分だけ弱音を吐くわけにはいかないこと。上司の期待に応えたい気持ちがまだあること。もしこのまま退職しても、再就職は難しいこと…。


すし詰め231人、昼夜ブロイラー状態


 厚生労働省が発表する新卒とパートを除く有効求人倍率は5年以降、毎年1倍を切っている。正社員に転職したくても、全員には職がないという現実は、たしかに厳然としてあったのだが、「同僚にも鬱病患者が多い」とは、何を意味していたのか。

 「過労自殺」につながる精神疾患での労災申請が急増している現状を踏まえ、厚労省は昨年11月、新しい認定基準をまとめた。2カ月連続で月120時間残業すれば「強い心理的負荷」に当たる−などと例示し、審査を迅速にするのが目的だ。

 迪世のケースは同年3月の東京地裁判決で労災認定されるまでに、約5年を要している。その過程で会社側は、和哉と同じ14年入社組の6人に1人がメンタル不調を訴えた経験があった事実までも明かしていた。

 「なぜ僕が止められなかったんだ」。同僚の一人で和哉の友人でもあった清水幸大(29)=仮名=は、突然の訃報を聞かされたとき、自責という言葉では足りないほどの怒りが自分に対してこみ上げた。清水もまた、鬱病を患っていた。和哉と違ったのは、病状の悪化に耐えられずに退職し、営業職の非正規労働者に転職していたことだ。

226チバQ:2012/03/20(火) 23:22:06
合併や再編…メンタル対策継続できぬIT業界
 当時、清水は和哉と食事をともにした機会に、見かねて「体を動かす職人のような仕事をした方がいい」と勧めていた。和哉は「そうやな」と答えただけだったという。

 「和哉がSEに誇りをもって働いていたのは分かっていた。ただ僕は、心と体を壊してまでやる仕事じゃないと思った。もっと強く辞めろと言っていればよかった」。清水は悔やむ。

 2人が鬱病になったきっかけは、入社1〜2年目の平成15年に相次ぎ投入されたプロジェクトだった。在京テレビ局の地上デジタル放送のシステム開発だ。昨23年7月の完全移行に向け、地デジ化への準備は当時、すでに始まっていた。

 失敗の許されない“国策”だったためか、会社はワンフロアに最大231人ものSEを集め、作業を急がせた。狭い机と人いきれの中、2人は昼夜を問わず働き続けた。食事は弁当をかき込むだけ。終電を逃せば机に突っ伏して朝を迎えた。仮眠室やソファが与えられなかったからだ。

 著書「ITエンジニアの『心の病』」(毎日コミュニケーションズ)がある精神科医の酒井和夫(60)は、SEなどのIT技術者は機械相手で会話が少なく、仕事を抱え込むおとなしい性格の人が多いため「一般企業の会社員に比べ鬱病の発症率が2〜3倍ほど高い」と指摘している。

 酒井は警告する。「IT企業は、合併や再編が多く、大半が継続してメンタルヘルスに取り組んでいない。IT時代は若いSEを大量に生んだが、こうした若者も過労自殺の危険にさらされているのだ」

(敬称略)

227チバQ:2012/03/20(火) 23:22:49
http://sankei.jp.msn.com/west/west_economy/news/120320/wec12032012010004-n1.htm
【karoshi過労死の国・日本 第3部(4)若者に迫る危機】
ITに無理解、労災認定2.2%
2012.3.20 12:00 (1/4ページ)[karoshi過労死の国・日本]

労働基準監督署を視察する長妻昭・厚生労働相(左から2人目)ら=平成22(2010)年4月、東京都渋谷区(代表撮影)
 「職業の専門家であるはずなのに、あの人たちはシステムエンジニア(SE)やIT業界がどういうものなのかを知らなすぎた」。元SEの清水幸大(29)=仮名=は、そう振り返った。かつての同僚、西垣和哉=当時(27)=の死をめぐる労災申請に協力し、「労働保険審査会」で証言したときのことだ。

 「過労自殺」を含む広義の過労死の労災申請は“三審制”を敷いている。まず会社のある労働基準監督署に申請し、認められなければ各都道府県にある労働局の審査官に不服を申し立てる。それでも棄却された場合に再審査を求めるのが、厚生労働大臣が所管する労働保険審査会だ。

 法廷に似た小さな一室に、裁判官役の委員3人が並ぶ。委員は「労働問題に関する識見を有する学識経験者」と法に定められており、任命には国会の同意も必要とされている。

 だが、清水に対する質疑は当初予定の10分を大幅に超えて1時間以上に及んだものの、その大半はSEに対して理解がないとしか思えない内容だったという。

 そして、決定は覆らなかった。


残業80時間なら“過労死ライン”


 労働保険審査会は“狭き門”で知られる。労災を逆転認定したケースは、平成22年度で2・2%にすぎないのだが、棄却という裁決を下された大多数の中には、さまざまな事情から、その先にある行政訴訟をあきらめざるを得なかった過労死遺族がいることも確かだ。

 大阪府八尾市の富原美恵(61)は20年1月、東京の大手企業に勤め始めてわずか10カ月だった営業マンの長男、貴史(たかふみ)=当時(23)=を、過労自殺で亡くした。

 美恵は労災を申請したが、労基署と労働局審査官からは棄却されていた。自殺直前の時間外労働(残業)が“過労死ライン”である月80時間に満たないと判断されたためだ。

 それでも、貴史が鬱病を発症していたことは明らかだった。死の4日前には、先輩社員に少し話を聞いてもらっただけなのに「このご恩は一生忘れません」と、目に涙をためて頭を下げた。「仕事がやばい。自殺を考えている」。交際中だった女性に対する憔悴(しょうすい)しきった告白は、もっと直接的だった。

228チバQ:2012/03/20(火) 23:23:19
上司「10時間超す残業を付けるな!」

 実は、貴史の労働時間は勤怠表の記録よりも長かった可能性がある。上司は「残業を月10時間以上つけるな」と叱責したことがあったからだ。取引先の接待が午後10時すぎまであった日でも、記録上は6時終業になっていたという。

 労働保険審査会に臨むにあたり、美恵はかつて貴史と同じ部署で働いていた元社員と会うために、移住先のオーストラリアへ飛んだ。自殺の1カ月前から会社で寝泊まりする機会が増えていたこと。パソコンが動いている時間が労働時間と数えられるため、電源を切ってまで仕事していたこと…。元社員は、貴史の知られざる働き方を明かし「労災が認定されるように」と陳述書を書いた。

 美恵は、この元社員を含む同僚5人から陳述書を取りつけ、事前に提出した。当然のように質疑があると考えていたが、当日、委員3人は「陳述書はもちろん拝見しています」と言ったきり、ほとんど質問もせずに審査を打ち切った。「本当に読んでくれているのだろうか」。美恵がそう感じたのはこの日、ほかの審査が実に10件以上入っており、時間をかけたくないという態度がありありとうかがえたからだった。


いくら状況証拠を集めても…


 裁決は棄却だった。美恵は、実際の残業時間を証明する有力な証拠を独力で集めることができず、行政訴訟を断念した。美恵は言う。「これだけ状況証拠を集めても、だめなんだと痛感した。厚労省には心の底から失望しています」

(敬称略)

229チバQ:2012/03/20(火) 23:23:50
http://sankei.jp.msn.com/west/west_economy/news/120320/wec12032018000005-n1.htm
【karoshi過労死の国・日本 第3部(5完)若者に迫る危機】
労基署さえサービス残業…根絶へ防止法を
2012.3.20 18:00 (1/4ページ)[karoshi過労死の国・日本]

「過労死防止基本法」制定への活動は全国で続いている=大阪市北区
 「過労死の労災が認定されるかどうかは、ある意味“運”もある。担当者の力量に左右されるからだ」。労働基準監督署で約20年間勤務していた元職員、後藤圭次郎(40)=仮名=はそう明かす。労災申請の窓口となる労基署は全国に321あり、ハローワークと同様、47都道府県にある労働局が管轄している。

 後藤の勤務先では、労災審査の担当職員を「輪番制」で決めていた。つまり申請のあった順に、機械的に割り振っていたのだ。新人、ベテランを問わず、ましてや過労死問題に詳しいかどうかは関係ない。

 労災の認定は「労災保険金」の支払いを意味するため、輪番制にはこんな弊害もあったという。「労働者保護の観点から、払えるだけ払おうとする職員もいれば、民間の損保会社並みに渋る職員もいる」

 労災保険金の原資は、ハローワークの失業給付金と同じ「労働保険料」だ。主に企業から徴収され、厚生労働省所管の特別会計で運用されている。平成23年度当初予算では、徴収予定の3兆2210億円のうち、労災保険金には7930億円(24・6%)しか回されず、大半は失業給付金に充てられてしまう実態があるのだ。


積極認定なら過労死を減らせる


 担当になった職員は申請者本人から話を聞いた上で、同僚や上司、人事管理者らから事情を聴く。検察官や警察官と同様に“調書”を取り、署名と押印も求める。合わせてタイムカードや賃金台帳、出勤簿の提出を求めて証拠を集める。

 「企業は、労災認定の先にある責任追及やイメージダウンを恐れる。だから非協力的になることが多い」。ただし、虚偽や妨害などには6月以下の懲役または30万円以下の罰金を科すというから、担当職員には強い権限があるといえる。

 後藤が問題視するのは、それでもこの権限を使いきることができない内部事情だ。「担当職員が抱えている案件が多すぎる。笑えない冗談だが、職員もサービス残業をしている」

 在職中、後藤は「過労自殺」やそれにつながりかねない鬱病などの精神疾患の事案を、10件以上担当した。近年はやはり若者の事案が多いことを痛感していたが、調査の人手が足りないというお粗末な状況では、認定のハードルは高かった。

230チバQ:2012/03/20(火) 23:24:15
 「労災保険金を早くもらえれば、申請者は症状が軽いうちに治療に専念できる。行政が積極的に認定すれば、亡くなるほどの深刻な事案は減るのだが…」。後藤はそう考えている。


署名100万人、超党派で


 既存の労働行政と法令だけでは若者たちが過労自殺してしまう現状は打破できないのではないか。過重労働を課すことは、企業にとって短期的に利益になっても、長期的には人材の流出や枯渇を招くだけではないのか−。そんな思いが今、過労死問題に取り組む弁護士と遺族を突き動かしている。

 昨年11月18日、衆議院第1議員会館で「過労死防止基本法」の議員立法による制定を目指す院内集会が開かれた。参加者約250人のうち、国会議員は党派を超えた約20人(代理を含む)。100万人の賛同署名を集めようと決議したこの集会は、大阪過労死問題連絡会が中心になって仕掛けたものだった。

 法案には、国や企業の責務を明確にし、国が調査研究にあたって過労死対策を立てることなどが盛り込まれる。連絡会事務局長で弁護士の岩城穣(ゆたか)(55)は言う。

 「働き方と働かせ方だけでなく、日本の根幹を変える法律になる。わたしたちはそれに挑戦し、過労死の根絶を目指す」

(敬称略)






 この連載は小野木康雄が担当しました。

231チバQ:2012/03/20(火) 23:25:50
http://sankei.jp.msn.com/west/west_economy/news/120106/wec12010613050005-n1.htm
【karoshi 過労死の国・日本(1)繰り返される悲劇】
tsunami、復興…なぜ死ぬほど働くのか
2011.8.8 14:35 (1/3ページ)[karoshi過労死の国・日本]

現在は英和辞典にも掲載されるようになった「karoshi」。「日本における超過勤務による過労死が1980年代後半から注目されたことから」と注釈がある (ジーニアス英和辞典より)
 「震災で業務量が増えた。帰宅は毎日午前3時で、睡眠は3時間程度しかとれない」。建設業の30代男性は、電話越しにこう訴えたという。

 

震災復興の影で


 東日本大震災から3カ月がたった6月18日、過労死弁護団全国連絡会議が行った無料電話相談「過労死110番」には、全国から震災に関連する過重労働のSOSが10件以上相次いだ。

 死者も出ていた。被災地に派遣されたある自治体職員の男性は、多忙な業務に追われ、鬱病を発症した末に自殺した。作業員の健康が問題となっている福島第1原子力発電所の事故も含め、今回の震災は、過労死という新たな犠牲を生む危機に直面している。

 過労死問題に詳しい弁護士、松丸正(64)は言う。「復興に向け、極限の状況で働く人々が存在するいまこそ、私たち日本人は過労死と向き合うべきだ」

 日本の過労死は、世界的に知られた社会問題だ。しかし、震災で世界が息をのんだ「tsunami」(津波)と同様に「karoshi」(過労死)もまた、ローマ字表記で世界に通じる単語であることは、あまり知られていない。

 tsunamiは、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が1897(明治30)年、村人を避難させた豪商の物語「稲むらの火」の原作を英語で書いた際に使った。1946(昭和21)年には、アリューシャン地震で米ハワイが津波に襲われ、日系人が英語に定着させたとされる。一方、karoshiは2002(平成14)年、オックスフォード英語辞典のオンライン版に掲載されている。

世界が見つめる


 「あなたの国、日本はkaroshiを克服できないのか」

 世界181カ国が加盟する国際労働機関(ILO)の前理事、中嶋滋(66)は昨年11月までの在任中、他国の理事や海外の労働組合関係者から、よく過労死について説明を求められた。中嶋によれば、国際社会で労働問題に取り組んだことのある日本人ならほぼ例外なく、外国人のこうした質問に直面するという。

 オックスフォード英語辞典オンライン版に、karoshiの意味は「働きすぎや仕事による極度の疲労が原因の死」とあるが、日本の実態はこれだけで説明できないほど深刻だ。年間何人が過労死しているのかさえ、だれも正確に把握していない。

 厚生労働省によると、平成22年度に労働災害(労災)と認定された過労死による死者は113人。長時間労働や職場のストレスから鬱病などになって自殺する「過労自殺」は、未遂を含め65人にのぼる。だが、過労自殺を含めた広義の過労死の申請に対する認定率は約4割にとどまるうえ、申請自体をあきらめた例も相当数あるとみられる。

 「統計に表れる死者数は氷山の一角にすぎない」。大阪過労死問題連絡会会長で関西大教授の森岡孝二(67)の実感だ。

232チバQ:2012/03/20(火) 23:26:10
「必要悪」の風潮


 ILOは1993(平成5)年、年次報告で過労死問題について、日本に警告を発した。それでも「過労死をなくせ」と強硬に求めているわけではない。

 文京学院大特別招聘(しょうへい)教授で、ILO事務局長補などを歴任した堀内光子(67)は意外な理由を明かす。「日本は労働時間の規制に関するILO条約を一本も批准していない。批准しない政府には、監視も改善勧告もできない」

 世界では、過労死に直結する長時間労働の制限が92年前に始まった。1919(大正8)年、ILOは初めての総会で、工場労働者に1日8時間を超えて働かせてはならないという第1号条約を採択している。これを含め、労働時間に関する条約は現在約10本ある。

 一方で日本の労働基準法は、昭和22年に制定されて以来、会社が労働者の代表と協定を結べば残業や休日出勤を認めている。

 過労死弁護団全国連絡会議の幹事長で弁護士の川人(かわひと)博(61)は、日本では過労死を建前では拒絶しながらも、本音では必要悪とみなすような風潮があると指摘する。そして、こう訴える。「人間は生きるために働くのに、なぜ死ぬほど働かねばならないのか」(敬称略)





 第1部では、日本のkaroshiを世界に知らしめてしまった、ある男性の話を通じ、日本の抱える過労死問題の知られざる実態に迫る。

233チバQ:2012/03/20(火) 23:26:58
http://sankei.jp.msn.com/west/west_economy/news/120106/wec12010613100006-n1.htm
【karoshi 過労死の国・日本(2)繰り返される悲劇】
米紙が1面で報じた「経済戦争の戦死者」
2011.8.9 14:22 (1/3ページ)[karoshi過労死の国・日本]
 「仕事に生き、仕事に死ぬ日本人」。1988(昭和63)年11月13日、米紙シカゴ・トリビューンはこんな見出しをつけ、日本の過労死問題を1面トップで報じた。海外メディアでは初めて、過労死を「karoshi」というローマ字表記で紹介し、「経済戦争の戦死者」として、その年の2月に過労死したある工場労働者を取り上げている。

 ベアリング大手「椿本精工」(現ツバキ・ナカシマ)の工場班長、平岡悟=当時(48)。63年2月23日夜、大阪府藤井寺市の自宅に戻って数時間後に、急性心不全で死亡した。

 中間管理職でありながら製造ラインに立ち、日勤と夜勤を1週間ごとに繰り返していた。度重なる早出と残業が加わり、1日当たりの労働は12〜19時間。年始から51日間、まったく休みがなかった。

 作業着を脱ぎ風呂に入っても、体に染みついた工場の臭いがとれない。少しでも仕事から離れて仮眠してほしいと願った家族は、夜勤明けにクラシック音楽のコンサートに誘ったが、残業で行くことは叶(かな)わなかった。死の2日前のことだ。

心に響かぬ弔辞


 葬儀の席で当時の社長が述べた弔辞は、悟をこうたたえた。「幾多の同志とともに、いばらの道を切り開き、苦難を乗り越えながら、まさに椿本精工の発展の歴史とともに、人生を歩んでこられました」。だが妻、チエ子(69)の心には響かなかった。

 確かに悟はまじめに働いてきたが、実直な性格に乗じて休ませなかったのは会社ではなかったか。死の背景には会社の理不尽な働かせ方があったのではないか。労働災害(労災)を申請し、後に会社へ損害賠償を求める訴訟を起こしたのは、そう疑ったからだ。

 会社はタイムカードなどの資料提供を拒否。担当者は「平岡さんのような労働は、ほかにも7人ほどやっています」と説明し、労働組合の関係者までもが「残業代が出て生活が楽になって、良かったんじゃないですか」などと心ない言葉をぶつけた。

 チエ子は実名と顔を出して、新聞やテレビの取材に応じた。世間に訴えるしかないと考えたからだ。思いが通じたのか、悟の過労死は全国ニュースで報道され、反響を呼んだ。

「狂信的な献身」


 シカゴ・トリビューンは記事の中で「労働への狂信的な献身が、日本を戦後の廃虚から世界で最も豊かな国に引き上げた」と、高度成長の負の側面として過労死をとらえていた。

 いまや国内総生産(GDP)で中国に抜かれた日本だが、当時は「東洋の奇跡」を起こしたわが国への関心の高さから、皮肉なことに「karoshi」は国際語として定着していった。ただし、シカゴ・トリビューン掲載時、チエ子は「主人の生きた証しを残せた」という以上の感慨を持てなかったという。

 「それよりも、過労死をなくす運動を根づかせたり広げたりしたいという思いが強かった。そうすることが、会社に対する最大の抵抗だと考えていました」

 チエ子自身は、悟の死に直面するまで過労死という言葉を知らなかった。日本には、働きすぎやストレスで死んでいく労働者が多いという実態があることを、想像すらしていなかった。

 意識を変えたのは、四十九日を終えたばかりの4月19日、偶然目にした新聞の、ある“ベタ記事”だった。それは弁護士や医師らでつくる大阪過労死問題連絡会が、全国に先駆けて初めて行う無料電話相談「過労死110番」の開催を告知していた。

(敬称略)

234チバQ:2012/03/20(火) 23:27:33
http://sankei.jp.msn.com/west/west_economy/news/120106/wec12010613120007-n1.htm
【karoshi 過労死の国・日本(3)繰り返される悲劇】
先進国なのに…24時間働かせても合法
2011.8.10 13:37 (1/2ページ)[karoshi過労死の国・日本]
 米紙シカゴ・トリビューンに「経済戦争の戦死者」として取り上げられた大阪府藤井寺市の工場労働者、平岡悟=当時(48)=の妻、チエ子(69)は昭和63年4月23日、大阪過労死問題連絡会による初の無料電話相談「過労死110番」が始まった午前10時きっかりに電話を鳴らし、くしくも第1号の相談者となった。

 電話を受けたのは、連絡会の結成に尽力した弁護士の松丸正(64)。悟は1日12〜19時間も働き続けた末に亡くなっていたが、松丸が問題と考えたのは、そこまでの長時間労働を可能にした「三六(さぶろく)協定」と呼ばれる協定だった。

 日本の労働基準法が許す労働時間の上限は、国際基準並みの1日8時間、週40時間である。ただし、同法第36条では、会社が労働組合などの労働者の代表と協定を結んで労働基準監督署に届け出れば、残業や休日出勤を可能にしている。

 その協定が、条文の数字にちなんで三六協定といわれているのだ。


三六協定が温床


 「長時間労働を許す三六協定が、過労死の温床になっている」

 これは今も変わらぬ松丸の持論だ。

 しかし、悟の勤務先である椿本精工(現ツバキ・ナカシマ)の三六協定が、労基署から開示されたときばかりは、さすがの松丸も目を疑った。

 残業可能な時間を「1日15時間」で労使が合意していたからだ。それは、法定の労働時間8時間と休憩1時間を足せば、実質24時間働いても合法になることを意味していた。

 三六協定の存在は、国際労働機関(ILO)が採択した労働時間に関する条約約10本のうち、日本が一本も批准していないことと密接に関係している。

 ILO前理事、中嶋滋(66)は「一本も批准していない先進国は珍しく、日本も早く批准すべきだという国際的な圧力があることは事実だ」としたうえで、こう指摘する。

 「もしも批准をしたら即、実態が条約違反に問われてしまう。批准しないのではなく、できないと言った方が正しい」

 ILOには、批准各国で条約が適用されているかどうかを調べる専門家委員会がある。労働法や国際法に詳しい学者ら18人で構成され、現在、委員長は初の日本人として法務省特別顧問の横田洋三(70)が務めている。

 条約を批准していない日本に対し、改善を勧告することはできないが、横田は「ILOの国際基準に沿って、日本の実態を変えた方がいい」と話す。    

「青天井」で物議


 悟の過労死は、平成元年5月に労基署から労働災害(労災)と認定され、その後、チエ子が椿本精工を相手に起こした民事訴訟は、同社が全面的に責任を認めて6年11月に和解した。裁判の過程では、労務部長が「残業時間は青天井だった」と証言して物議を醸した。それでも、三六協定があることから、労働基準法違反には問えなかった。

 「悟は自分の意思で残業し、過労になった」と主張していた会社側は、最終的にチエ子に謝罪した。チエ子は、まじめに堂々と働いてきた夫の名誉を守ることができたが、引き換えに過労死をなくすという理想を実現する手段を失ったようにも感じた。

 悟の過労死から23年。三六協定をめぐる状況はほとんど改善されていない。次に取り上げる、ある若者の過労死をめぐる訴訟では、まさに三六協定に関して信じがたい主張を、会社側が行っている。

(敬称略)

235チバQ:2012/03/20(火) 23:28:14
http://sankei.jp.msn.com/west/west_economy/news/120106/wec12010613140008-n1.htm
【karoshi 過労死の国・日本(4)繰り返される悲劇】
「23年前の繰り返し」激安を支える月100時間残業
2011.8.11 14:50 (1/2ページ)[karoshi過労死の国・日本]
 ドイツの公共放送「ARDドイツテレビ」の日本特派員だったマリオ・シュミット(41)は昨年8月、報道番組で日本の過労死問題を取り上げた。「仕事のために自分を犠牲にするという倫理観のある日本だけでなく、ドイツでも『自分は仕事で疲れ切って死ぬかもしれない』と追いつめられる人は少なくない」との思いがあったからだ。

 EU加盟国の中でも労働時間短縮に率先して取り組むドイツは、週35時間制を敷く国として知られるが、シュミットによると、それは「夢の世界」。現実には、過重労働に悩まされている国民は多いという。

 ARDドイツテレビの取材を受けた京都市北区の吹上了(さとる)(63)と妻、隆子(56)は平成19年8月、長男の元康=当時(24)=を急性心不全で亡くした。東証1部上場の居酒屋チェーンの新入社員として滋賀県内の店舗で働きはじめてから、わずか4カ月後のことだ。


給与のからくり


 元康はほぼ毎日、従業員のだれよりも早く午前9時ごろには出勤し、終電で帰宅していた。仕込み、昼営業、仕込み、夜営業と間断なく仕事を強いられ、休憩時間は包丁の練習や使い走りに費やされていた。

 そうした実態もさることながら、問題は会社の給与体系にあった。公表していた初任給は19万4500円。ところが、実際には基本給を12万3200円に抑えた上で、残りを「役割給」と称し、月80時間残業しなければ満額支給しない仕組みをとっていたのだ。

 厚生労働省が脳・心臓疾患の危険が生じると判断する平均残業時間は、まさに月80時間である。

 きちょうめんな性格だった元康は、入社後の研修で知らされた初任給のからくりを、ノートに書き残していた。死後、ノートを見つけた隆子は「組織ぐるみで長時間の残業をし向けられていた」と痛感したという。

 吹上夫妻は、会社に加え、経営陣4人を相手に、安全配慮を怠ったとして民事訴訟を起こし、1、2審とも勝訴した。過労死をめぐって大手企業経営陣の個人責任を初めて認めた判決だったが、会社側は上告している。


価格破壊の裏側


 実は、役割給のほかにもうひとつ、見過ごせない争点があった。残業時間の上限を労使で決める「三六(さぶろく)協定」だ。この会社では繁忙期などの特別な事情があるときに限ってではあるが、月100時間に設定しており、1審判決が「労働者への配慮がまったく認められない」と指摘する根拠となった。

 すると会社側は、2審になって同業他社13社の三六協定を証拠として提出。中には特別な事情があるときの上限を月135時間に決めている企業もあり、これを基に「外食産業で、残業を上限100時間とすることは一般的だ」と主張した。

 企業は利益を出すために人件費を抑える。従業員は安い給料を残業代で補おうとする。価格破壊の裏側にあるこの構図が、長時間労働を常態化させている。

 吹上夫妻の代理人を務めた大阪過労死問題連絡会の弁護士、松丸正(64)は「低価格を売りにする外食産業が、過労死の危険のある三六協定を常識としているなら、社会常識に反している」と批判した。

 2審判決は「誠実な経営者なら、労働者の生命・健康を損なわない体制を構築し、過重労働を抑制する義務があることは自明」と断じている。

 ただ、三六協定が問題になり、海外メディアに取り上げられたという点では、元康の過労死は、23年前に米紙が初めて報じた「karoshi」と何ら変わりがなかった。

(敬称略)

236チバQ:2012/03/20(火) 23:29:02
http://sankei.jp.msn.com/west/west_economy/news/120106/wec12010613160009-n1.htm
【karoshi 過労死の国・日本(5)繰り返される悲劇】
国際労働機関の大株主…ニッポン特有の国内問題扱い
2011.8.12 13:43 (1/3ページ)[karoshi過労死の国・日本]
 2009(平成21)年10月、パリで行われた労働法に関する弁護士の国際会議に、過労死弁護団全国連絡会議の弁護士、尾林芳匡(よしまさ)(50)の姿があった。西欧諸国の弁護士ら約200人を前に、尾林は「日本からの報告」として、過労死関係の短いスピーチをした。

 多くの日本人が脳・心臓疾患の危険が生じるとされる月80時間以上の残業をしていること、法定の週40時間を超えた残業を合法にする「三六(さぶろく)協定」が存在すること…。尾林が列挙した日本独特の背景は注目されたが、とりわけ地元フランスの弁護士からは、次のくだりが反響を呼んだという。

 「国際競争力をつけるために、労働者を保護する規制は緩和されてきたが、どんな競争にもルールは必要だ。労働者の生命と健康を危険にさらす競争は、不公正ではないか」

 無理もない。2007(平成19)年には、パリ郊外にある自動車大手「ルノー」の新車開発拠点で、従業員3人が4カ月の間に相次ぎ自殺したことが判明。プジョー・シトロエングループも同年、5カ月間で自殺者を6人出してしまった。多くの事例は遺書や遺族が仕事のストレスを原因に挙げており「過労自殺」とみられている。


貧困克服を優先


 翌2008(平成20)年、トヨタ自動車は世界販売台数で米ゼネラル・モーターズ(GM)を抜いて初の世界一になった。経済のグローバル化が進むとともに、言葉だけでなく実際の「karoshi」までもが、国境を越えて広がってしまったのだろうか。

 尾林は、日本で過労死の被害者救済に取り組むことはもちろん、“外圧”を通じて過労死を防ごうとしている。特に、国際労働機関(ILO)が過労死を深刻な国際問題ととらえれば、日本も改善せざるをえなくなると考えている。

 だが、その見通しはきわめて厳しい。厚生労働省元局長で元ILOアジア太平洋総局長の野寺康幸(68)はこう断言する。「今後、ILOが過労死対策に取り組む可能性は、まずない。過労死が大事でないとは言わないが、優先順位は低い」

 第一次世界大戦後の1919(大正8)年に設立されたILOは、憲章の中で「世界の永続する平和は、社会正義を基礎としてのみ確立することができる」とうたっている。以来90年以上にわたり取り組んできた課題は、ひとことで言えば、戦争をもたらす貧困の克服にほかならない。

 加盟181カ国の中には、労働組合を結成しただけで弾圧されてしまう国や、スラム街で露天商や売春などを仕事とする人が際立って多い国もある。こうした国々への支援を最優先にすることこそ、ILOの使命だと野寺は言う。  


拠出金は第2位


 もう一つ、注目すべき背景もある。加盟国の分担金に頼るILOの資金力だ。日本は毎年約55億〜69億円を負担しており、2010(平成22)年の分担金率は16%余り。上限の22%を払う米国に次ぐ2番目の高さだが、下限の0.001%しか払えない加盟国は50カ国余りにのぼる。

 野寺は「ILOにとって日本は“お得意さま”だからむげにはできない」とした上で、こう続ける。「だが過労死は、日本だけが突出して議論している特異な問題というのがILOの考えだ」

 日本の不名誉として、世界に知られてしまった「karoshi」は、日本が先進国であるかぎり、自力で解決すべき国内問題なのだろうか。だとすれば、毎年死者が出続ける状況を放置することは、もはや許されない。

(敬称略)


=第1部おわり

237チバQ:2012/03/24(土) 22:26:07
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120323-00000046-mai-soci


<労働契約法改正案>「裏切りには慣れっこ」非正規社員複雑
毎日新聞 3月23日(金)13時53分配信

 5年超で有期雇用を無期に転換できるとする労働契約法改正案が23日、閣議決定された。だが、労働問題の専門家は5年に届く前での雇い止めを警戒。法案の不十分さも浮かぶ。

 神戸市の長田郵便局集配課で10年間働く福本慶一さん(32)は半年ごとに労働契約を更新する非正規雇用の契約社員だ。営業職で正社員と同じ勤務だが年収は300万円未満。課の約80人の半数が非正規雇用という。

 4年前の朝、上司に呼ばれ、耳を疑った。「非正規社員に払う賃金の予算がない。次の更新から8時間勤務を6時間に縮めたい」。時給制なので賃金25%カットを意味する。「同意しないと雇用期間満了となる可能性もある」と雇い止めを示唆された。福本さんは仲間と職場で組合を作り、通告を撤回させた。

 今年1月、正社員登用試験の不合格通知が届いた。試験は10年、当時の亀井静香・郵政担当相の「日本郵政グループで非正規10万人を正社員にする」との号令で始まった。だが、その年に正社員となったのはわずか8438人で福本さんは不合格。2度目の挑戦でもだめだった。10万人にはほど遠く、逆に雇い止めの動きもある。「僕ら30代は裏切られるのに慣れっこ。でも期待した。子供を授かり普通に暮らせる、と」。結婚にはほど遠い。

 今回の法改正に、福本さんは「無期雇用の安定感は今の半年更新とは全然違う。でも本当にそうなるのか」と複雑な表情だ。労働問題に詳しい棗一郎弁護士は、非正規雇用労働者の支援集会で「合理的理由のない有期雇用を禁止する『入り口規制』が必要だ」と根本的な不備を指摘した。【井上英介】

 ◇解説 雇い止め対策不十分

 働く期間をあらかじめ定めた有期雇用に導入される新ルールは、会社側が一方的に労働契約の更新を拒否する「雇い止め」の防止が狙いだ。08年秋のリーマン・ショックで大量の有期雇用労働者が雇い止めに遭い、社宅を追われ路上生活を強いられる事例も相次いだ。

 その後もパートやアルバイト、派遣・契約社員など非正規雇用の労働者は増え続けている。国の10年の統計では1756万人で、有期雇用はその7割にあたる約1200万人とみられる。

 有期雇用は現在、原則3年が上限だが、会社は3年ごとに契約を更新しながら長期間働かせることができた。新ルールで無期雇用に転換されれば労働者は雇い止めの不安から解消されるものの、経営側の意向をくみ、会社を離れていた期間が6カ月以上あると、期間の積み上げがゼロに戻る規定(クーリング期間)が盛り込まれた。このため、5年を超える前での雇い止めを許す余地がある。

 さらに、無期雇用に転換しても、会社側は賃金や待遇などの条件を正社員並みに改善する必要はない。低賃金にあえぐ非正規雇用の現状を変えるには、今回の法改正だけでは不十分だ。【井上英介】

239チバQ:2012/03/30(金) 22:08:17
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20120330dde012040004000c.html
特集ワイド:内閣府参与を辞任、湯浅誠さん 「入って」みたら見えたこと

政権に入った2年間について語る湯浅誠さん=西本勝撮影 ◇ブラックボックスの内部は「調整の現場」だった
 08年末の「年越し派遣村」村長として知られる湯浅誠さんが今月7日、内閣府参与を辞任した。政府の外から貧困対策を訴えてきた社会運動家が、政権内に入って約2年。中に入って見えたものは?【山寺香】

 ◇求められれば関わり続ける
 湯浅さんが最初に内閣府参与になったのは、民主党に政権交代した直後の09年10月。派遣村村長として政府を厳しく批判してきた人物の登用は、注目を集めた。10年3月に一旦辞任し、同年5月に再任用された。

 この間の政権の変化をどう見ているのか。

 「漠としたイメージで言うと、従来の自公政権から一番外れたのが鳩山由紀夫政権でした。そこで提示された格差・貧困政策の方向性はおおむね歓迎すべきものでしたが、その後の菅直人政権で少し戻ってきて、野田佳彦政権でかなり戻ってきた。菅さんのころから、かつての自民党の幅の中に収まってきたと感じています」。しかし、辞任の理由はこの揺り戻しではない。

 「辞任したのは、直接関わってきた生活困窮者らの雇用や生活、住居などを総合的に支援するパーソナル・サポート・サービスが制度化の軌道に乗ったことと、ワンストップ相談支援事業が事実上来年度の予算を確保でき、仕事に一区切りがついたため。関わった事業のめどが立ったから辞める。それは10年の時も同じで、自分の中で決めた基準です。仮に今民主党の支持率が高かったとしても、辞めていますし、今後首相や政党が代わっても、求められれば関わり続けるつもりです」

240チバQ:2012/03/30(金) 22:08:53
◇利害複雑で結果責任伴う
 社会運動家が政府に入って見えたことは何か。それは、政治が「調整」の現場であることだったという。

 「90年代にホームレス問題に関わっていたころ、社会や世論に働きかけて問題を解決したいという思いはあったが、その先の永田町や霞が関に働きかけるという発想はなかった。こちらが投げ込んだ問題は、ブラックボックスを通して結果だけが返ってくる。『政治家や官僚は自分の利益しか考えていないからどうせまともな結論が出てくるはずがない』と思い込み、結論を批判しました。しかし参与になって初めて、ブラックボックスの内部が複雑な調整の現場であると知ったのです」

 ブラックボックスの内部では、政党や政治家、省庁、自治体、マスコミなど、あらゆる利害関係が複雑に絡み合い、限られた予算を巡って要求がせめぎ合っていた。しかも、それぞれがそれぞれの立場で正当性を持ち、必死に働きかけている。「以前は自分が大切だと思う分野に予算がつかないのは『やる気』の問題だと思っていたが、この状況で自分の要求をすべて通すのは不可能に近く、玉虫色でも色がついているだけで御の字、という経験も多くした」

 そして、こんな教訓を得たという。

 「政府の中にいようが外にいようが自分は調整の当事者であり、『政府やマスコミが悪い』と批判するだけでは済まない。調整の一環として相手に働きかけたが結果が出ない−−それは相手の無理解を変えられなかった自分の力不足の結果でもあり、工夫が足りなかったということです。そういうふうに反省しながら積み上げていかないと、政策も世論も社会運動も、結局進歩がないと思う」

 それは、自らに「結果責任」を課すということだ。思わず聞いた。ブラックボックスの中身って、知らない方が楽じゃありませんでしたか。

 湯浅さんは「それはありますね」と苦笑した。「でもね、複雑なことについて、その複雑さが分かるというのは悪いことではありません。物事を解決していくには、複雑なことの一つ一つに対応していく必要があります」

 ◇シンプルとは「切り捨て」だ
 しかし今、それとは逆に、複雑な調整過程を力で突破しようという「強いリーダーシップ」が支持を集めている。代表的な人物は、橋下徹・大阪市長だろう。

 「橋下さんが出てくる前、小泉純一郎政権のころから、複雑さは複雑であること自体が悪であり、シンプルで分かりやすいことは善であるという判断基準の強まりを感じます。複雑さの中身は問題とはされない。その結果の一つとして橋下さん人気がある。気を付けなければならないのは、多様な利害関係を無視しシンプルにイエス・ノーの答えを出すことは、一を取って他を捨てるということです。つまり、世の中の9割の人は切り捨てられる側にいる」

 長年、切り捨てられる側を見続けてきたこの人の言葉は、ずしんと重い。

 「けれど、自分たちが切り捨てられる側にいるという自覚はない。なぜなら複雑さは悪で、シンプルさが善だという視点では、シンプルかどうかの問題だけが肥大化し、自分が切り捨てられるかどうかは見えてこないからです。それが見えてくるのは、何年後かに『こんなはずじゃなかった』と感じた時。本当はそうなる前に複雑さに向き合うべきですが、複雑さを引き受ける余力が時間的にも精神的にも社会から失われている。生活と仕事に追われ、みんなへとへとになっているんです」

 この現象は、政治というよりも民主主義の問題だと言う。

 「民主主義って民が主(あるじ)ということで、私たちは主権者を辞めることができません。しかし、余力がないために頭の中だけで降りちゃうのが、最近よく言われる『お任せ民主主義』。そのときに一番派手にやってくれる人に流れる。橋下さんはプロレスのリングで戦っているように見えますが、野田さんはそうは見えない。要するに、橋下さんの方が圧倒的に観客をわかせるわけです。でも残念ながら、私たちは観客じゃないんです」

241名無しさん:2012/03/30(金) 22:09:08
 ◇誤解も含めて自分の責任と
 約束の1時間があっという間に過ぎた。湯浅さんは20分後、東京駅から大阪行きの新幹線に乗るという。もう少し話を聞きたいと、東京駅に向かう車に同乗させてもらった。

 本当のところ、政権内に入ってみてよかったですか?

 「個人的にはよかったですが、『あっち側に取り込まれてしまった』という意見をはじめ、誤解はいろいろ生まれました。それは、私の責任として議論していかないといけない。参与を辞めて2週間ほどたちますが、毎晩のように飲み歩いて、議論していますよ。あちこちで納得いかないと言われながらね」

 車が東京駅のロータリーに滑り込む。問題解決のための働きかけ方は変わっても、目指すビジョンは変わらない。「2年前と変わりませんね」。そう言おうとしたが、軽く片手を上げ、湯浅さんはもう足早に改札口に向かっていた。

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 ◇「特集ワイド」へご意見、ご感想を
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ファクス03・3212・0279

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 ■人物略歴

 ◇ゆあさ・まこと
 1969年、東京都生まれ。95年からホームレス支援活動に関わる。東大大学院在学中の01年、NPO「自立生活サポートセンター・もやい」設立。「反貧困ネットワーク」事務局長。

毎日新聞 2012年3月30日 東京夕刊

242名無しさん:2012/03/30(金) 22:09:39
http://mainichi.jp/seibu/news/20120327sog00m040005000c.html?toprank=onehour
話題:現場発:「貧困ビジネス」野放し/生活保護受給者『食い物』に/各自治体は対応苦慮
 生活保護費を狙う「貧困ビジネス」−−。生活保護受給者らに無料または低額で居室を提供する「無料低額宿泊所」の規制が立ち遅れている。社会福祉法上は都道府県や政令・中核市が指導監督権限を持つが「現行法では宿泊所の定義があいまい」(厚生労働省保護課)で、無届け施設が少なくない。民主党の議員連盟が規制強化に向け法案提出を目指すが、与野党対立で立法化は遅れており、各自治体は対応に頭を痛めている。【斎藤良太】

 福岡市博多区や長崎県諫早市、東京都新宿区など少なくとも全国10カ所でアルコールや薬物依存症患者のリハビリ施設を運営している団体がある。90年代半ばから活動を始め、全入所者は数百人に上るとみられる。

 博多区内の2施設では、団体が借り上げている周辺のアパートなどで暮らす男女計約60人が福岡市から生活保護を受けている。2カ所とも宿泊所の届け出はしていない。そして、団体側は取材を一切拒否している。

 元入所者らによると、入所者の多くは元ホームレス。衣食住は保証されるが「金銭管理は一切(施設に)任せる」ことが入所条件だ。入所者が自治体から受け取る毎月の生活保護費約10万円の大半を施設側が管理し、入所者が自由に使えるのは3000円程度。外出も制限されるという。

 事実上の囲い込み状態を苦にして施設を退所し、別の支援団体が保護するケースも少なくない。しかし、「お金や行動が自由になると、酒やギャンブルに走ってしまう」(元入所者)と納得している入所者も多い。

 この団体への各自治体の対応はさまざまだ。札幌市は06年以降、団体の施設入所者からの保護申請を原則却下し、要保護の人には別の施設を紹介している。同市保護指導課は「運営形態は貧困ビジネスの最たるもので、貴重な税金を使うことは許されないと判断した」と話す。

 那覇市では07年、入所者に転居を指導した。「依存症の治療目的で生活保護申請していたのに、治療活動していないことを当時の担当者が問題視した」(同市)ためだ。指導後、団体は同市内の施設を閉鎖。入所者約20人を同市役所ロビーに置き去りにしたという。

 一方、福岡市保護課は、団体の運営方法に疑問を抱きつつも「ホームレスの社会復帰を支援する施設は不足しており、頼らざるを得ない」と明かした。

 こうした団体は、ほかにも全国に存在する。中には劣悪な住環境で高額な利用料を請求し生活保護費を吸い上げるケースも少なくない。民主議連が議員立法を目指す「被保護者等住居・生活サービス提供事業の業務適正化法」は、無届けを含む宿泊所や類似事業など現行法では対応が難しかった施設も規制対象とし、金銭管理は知事などの承認が必要になる。

 ただ、規制強化で施設運営から撤退する業者や団体が増えれば、元ホームレスが生活できる場をどう確保するのか。NPO法人北九州ホームレス支援機構(北九州市)の奥田知志理事長は「悪徳業者排除のため法規制は必要だが、規制だけでなく、健全な施設には行政が助成するなど支援強化策も不可欠だ」と指摘する。

   ◇  ◇

 貧困ビジネス 主にホームレスを勧誘し、生活保護を申請させて住宅などを提供する代わりに、高額な家賃・食費を徴収するビジネス。企業や団体が社会福祉法に基づく「無料低額宿泊所」を運営するのが一般的だが、住環境が劣悪で無届けの施設も少なくない。10年には名古屋の任意団体幹部が所得税法違反の罪で国税局から摘発されるなど、規制の動きが進みつつある。


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