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貧困スレ

218チバQ:2012/03/20(火) 23:18:01
http://sankei.jp.msn.com/west/west_economy/news/120108/wec12010818010004-n1.htm
【karoshi過労死の国・日本 第2部(4)復興の犠牲者たち】
男泣きに泣いた父「訴えぬのは、いい息子でいさせたかったから」
2012.1.8 18:00 (1/4ページ)[karoshi過労死の国・日本]

新潟県中越地震から復興した旧山古志村の人々。東日本大震災の被災地・大槌町を訪れ、演歌歌手の小林幸子さんと炊き出しを行った=2011年5月、岩手県大槌町(古田貴士撮影)
 「俺、疲れたよ」。村の麓で会った同僚に、復興へ向けて走り回っていた青年は、ぽつりと言った。少し休んでいくよう勧められても「こうしちゃいらんねえ」と車を走らせた。車はその後、信号柱に激突し、青年は帰らぬ人となった。

 新潟県山古志村(現長岡市山古志)の村職員、星野恵治=当時(32)。東日本大震災と同じ最大震度7を記録した平成16年10月23日の新潟県中越地震は、棚田や闘牛場、ニシキゴイの養殖池が点在する村の風景と同様、恵治の生活を激変させた。

 全村民2167人が自衛隊のヘリで隣の長岡市に逃れ、恵治は避難所になった高校の体育館に入った。ボランティアとの交渉や村民からの相談を夜遅くまで受け、夜明け前に出発しては、孤立した村へ徒歩で入る日々を続けた。手塩にかけた簡易水道の被害状況を確認するためだ。

 雪が降り積もる前に被害額を確定させなければ、復旧の予算がおりない。職員78人の中でやり遂げられる可能性があったのは、12年余りかけて簡易水道を全戸に敷設した恵治だけだ。孤軍奮闘するしかなかった。


村のため“本望”


「東北も依然、大変な状況なのだから、際限のない仕事を無理して全部やろうとしたり、一人だけに仕事を押しつけられたりすれば、恵治のように過労死してしまう」。母、信子(64)の訴えは切実だ。

 地震2カ月後の12月22日に死亡した恵治は、復興に伴う長時間の過重労働があったとして、公務員の労災にあたる公務災害が認定されている。ただ、それは“震災過労死”の証明にはなっても、復興を願う被災者でもあった両親には、複雑すぎる感情しかもたらしていない。

 父、祐治(69)は「そんなに疲れていたなんて…。俺が気づいてやれなかった」と、7年たった今も悔やむ。両親は地震後、恵治のいる避難所に身を寄せていたが、恵治とはほとんど顔を合わせず、たまに会っても話しかけなかった。村職員が村のために必死で働くのは当然、と思っていたからだ。


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