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貧困スレ

161チバQ:2011/11/20(日) 20:39:53
http://www.asahi.com/special/kozoku/TKY201012250323.html
55歳、軽自動車での最期 「孤族の国」男たち―12010年12月26日3時14分
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佐藤正彦さんの遺骨が納められている安置所は市中心部から離れた山中にある。石碑の裏側にまわると、子どもの背丈ほどの小さな扉があった=神奈川県逗子市、仙波理撮影

79歳の男性が死後3カ月以上経ってから発見された団地の一室を片付ける作業員=仙波理撮影
 駐車場に止めてあった軽自動車の中から男性の遺体が見つかったのは、6月25日のことだった。3カ月間、放置されていた車のドアミラーには、ツタのような植物が絡みついていた。

 神奈川県逗子市の公園の一角。駐車場の前は県立高校、隣には保育所がある。毎日、高校生や親子連れら数百人もの人が車の前を行き来していた。だが、犬を散歩させていた近所の男性が「臭いがする」と通報するまで、警察や市に連絡はなかった。

 後部座席に敷かれた布団で寝たまま、遺体はすぐに身元が分からないほど腐乱していた。DNA型鑑定で身元は特定できたが、遺体の引き取り手がおらず、逗子市が火葬して遺骨を預かっている。

 佐藤正彦さん、享年55。なぜ、このような最期を迎えたのか。引き取り手のない「行旅(こうりょ)死亡人」として官報に記された以前の住所を訪ねた。

 木製の窓枠がきしむ、2階建ての古いアパートだった。昔からの住人は、借金の取り立てが佐藤さんのところに来て、部屋を荒らしたのを覚えている。2001年ごろ、佐藤さんは荷物を残したまま、姿を消す。部屋の玄関に積まれたままのスポーツ新聞には、求人欄に印がつけられていた。

 さらに、本籍地の秋田県北部へ。佐藤さんが育ったトタン張りの実家は窓が割れ、人は住んでいなかった。約10キロ離れた場所に住む姉(62)を探し当て、話を聞いた。4人きょうだいの末っ子だった佐藤さんは1970年に地元の中学を卒業するとすぐに上京し、働きはじめたという。地方の若者が職を求めて大量に都市に移り住んだ時期である。

 その後、実家への連絡は途絶えた。親の葬儀にすら出なかった佐藤さんが出し抜けに姉の元に現れたのは、昨年の夏だった。事前の連絡もなく、東京で亡くなった兄の遺骨を携えていた。郷里での滞在は、わずか3日。菩提(ぼだい)寺で納骨を済ませ、再び軽自動車で帰っていった。

 姉が仕事や住まいを尋ねても、決して答えることはなかった。

 兄の勤務先だった都内の塗装店を訪ねると、佐藤さんの生前の姿がおぼろげに浮かび始めた。

 上京後も4歳上の兄を頼り、時にお金も借りていたという。一つの職が長続きしない弟に困りながらも、兄は連絡がつくように携帯電話を買い与えていた。

 「弟は上京した当初は国鉄関連の溶接工として働き、収入もよかった。でも目をけがして転職せざるを得なかったんです」。塗装店主は、そう兄から聞かされた。

 その兄が昨年3月に亡くなると、佐藤さんはエアコンが壊れた軽自動車で、兄のお骨を郷里に届けに向かった。片道約700キロの道程、兄の骨と二人きりで、何を考え続けたのか。その胸中を知る人は、いない。

 佐藤さんの生存が最後に確認できたのは、兄の死の約1年後の今年4月9日。神奈川県警によると、姉に電話をかけた記録が残っている。「ご飯を食べるお金にも困っている」。姉が「私も困っている」と答えると、電話は切れた。司法解剖の結果によると、軽自動車の後部座席で生涯を終えたのは、その直後。病死だった。

 生活保護を受けて暮らす姉は「弟を迎えに行きたいけれども、逗子まで行くお金も力もない」と話した。県警はもうひとりいる姉にも連絡を取ったが、「縁が切れているので」との返事だった。

 郷里に残る墓には、墓石がない。目印となるのは、佐藤さんが兄のために立てた卒塔婆(そとば)と、姉が今年の墓参りで並べたコップ酒や缶ジュースだけだ。佐藤さんの遺骨は今、そこにはなく、逗子市郊外の遺骨安置所に眠っている。

 「終(つい)のすみか」となった軽自動車は、市役所が業者に頼み、処分をした。(中井大助)


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