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近現代史綜合スレ

98とはずがたり:2006/03/25(土) 11:51:57
日中和平探った近衛文麿の自筆23枚、鏡台引き出しに
http://www.asahi.com/politics/update/0325/004.html
2006年03月25日08時02分

鏡台の鏡と台の間に引き出しがあり、その中に終戦工作の記録が隠されていた=東京都港区で

 太平洋戦争の末期、近衛文麿元首相(1891〜1945)が中国の蒋介石政権との間で和平交渉を模索したことを示す資料が見つかった。近衛が書き写し、家族の鏡台に隠していたもので、交渉の可能性を探るため北京で行われた会談の内容などが記録されていた。

 近衛の娘の山本斐子(あやこ)さん(74)が、昨年秋に発見した。母の縫子さんが使っていた三面鏡の、鏡と化粧台の間に外からは分からないように作られた引き出しに隠されていた。便箋(びんせん)23枚に万年筆で書かれていた。斐子さんら家族によれば、すべて近衛の筆跡だという。

 近衛家に伝わる文書類などの保存にかかわってきた東郷神社(東京都渋谷区)宮司の松橋暉男さんらが解読した。その結果、北京にあった燕京大のレイトン・スチュアート学長を仲介役にして、蒋介石政権と和平交渉ができないかを模索した記録とわかった。内訳は、スチュアートから近衛への手紙の訳文など39年のものが2点、近衛の側近がスチュアートの秘書と会談した45年5月の記録が2点。スチュアートはルーズベルト米大統領、蒋介石と親しいことで知られていた。

 45年5月の2点は、会談の内容が一問一答の形で記録されていた。「和平問題に蒋介石は自由に対応できるのか」と日本側が尋ねると、「直接全面和平は希望するところだが、日中和平は対米関係とは切り離せない」との回答。「中国を圧迫、侵略する必要も力も日本にはもうない。疑うのをやめてほしい」と日本側が話すと、「その通り。戦争をやめよう」と答えていた。

 戸部良一・防衛大学校教授(政治外交史)によると、交渉の存在は知られていたが、内容が明らかになったのは初めて。スチュアートは日本軍に拘禁されていたため、日本側が接触できたのは45年8月11日になってだった。すでに手遅れで、スチュアートにできたのはポツダム宣言の受諾を勧めることだけだったという。

 敗色が濃厚になった45年、軍部は終戦工作に警戒を強めていた。近衛が隠し場所を探していたので、鏡台のからくりを教えると、とても喜んだことを斐子さんは母から聞いていた。「憲兵隊の家宅捜索などに備えたのだろう」と斐子さんは思っている。

 発見された記録は松橋さんらが「近衛文麿『六月終戦』のシナリオ」(毎日ワンズ)としてまとめ、来月4日に出版される。

99小説吉田学校読者:2006/03/26(日) 06:53:13
蒋介石について「(日本にとって)忘恩の裏切り者」とか何だかんだ言っている人もいますが、
この記事読むと、満州事変の後には抗日戦は念頭にあったんだなと思う。国土統一に並々ならぬ野望が見てとれる。
北伐→国共→抗日というのが蒋介石のプランだったのではないかと私見。

「雪恥」対日戦へ決意の文…蒋介石日記、米大で初公開
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20060325it05.htm

【パロアルト(米カリフォルニア州)=古沢由紀子】毛沢東と並ぶ現代中国の指導者、蒋介石(1887〜1975)が長年にわたってつづった日記の原本が24日、当地のスタンフォード大フーバー研究所で、初公開された。
 日中戦争の導火線となった満州事変(1931年)をめぐる心情や、当時の中国の最高実力者としての本音などがつづられており、中国近現代史や日中関係史の第一級資料として注目される。これまで台湾の研究者が日記の写しから一部を抜粋、引用してきたが、蒋介石自筆の原本が公開されるのは初めて。
 蒋介石が1917年から、75年に台湾で死去するまでつけていた日記は昨年、遺族から、台湾研究で知られる同大に寄託された。歴史資料としての価値が高いとして、大学が遺族に公開を要請したという。
 この日は、原本の一部が国民党関係者や研究者、報道陣に公開された。
 公開された日記は原本とコピーの計5日分。満州事変の約3週間後の10月7日の日記は、「雪恥」(恥辱をぬぐい去る)という2文字から書き始めている。「(対日関係は)戦争の勝敗にあるわけではなく、民族精神の消長と国家の存亡にある」「私が持っているのは、良心、人格、そして革命の精神主義だけだ」「もしも倭寇(わこう)(日本)が、わが政府を追いつめて、わが民族の独立と存続の余地をなくそうとするならば、もはや、勝敗や利益を考えている場合ではなく、自ら犠牲によって、国家の格を示し、民族精神を発揚しなければならない」などと記され、対日戦に向け徐々に決意を固める様子がにじんでいる。

100杉山真大 ◆mRYEzsNHlY:2006/04/01(土) 20:05:23
この種のリサイクルって結構昔から行われてたんですね。

明治期のレール大量発見、大阪三越の解体現場から
http://www.asahi.com/national/update/0401/OSK200604010053.html
2006年04月01日19時41分

 昨年5月に閉店した旧三越大阪店(大阪市中央区高麗橋)の解体現場から、明治時代に近畿一円の鉄道で使われたレール約500本が見つかった。1917(大正6)年に完成した7階建ての同店の建築時に、古レールを鉄筋として再利用したとみられる。日本最古で現存例が少ない「幻のレール」も数多く見つかり、各地の博物館や研究者から引っ張りだこになっている。(四倉幹木)

 大阪・北浜の堺筋に面した約1300平方メートルの敷地地下で、解体工事を進める長谷工コーポレーション(東京)によって発見された。

 同店は、れんが製土台に載せられた高さ約3メートルの鉄筋コンクリート製の基礎柱が、建物の骨組みとなる鉄骨を支える構造になっていた。基礎柱は全部で19柱あった。

 解体の技術顧問を務める柴山建築研究所(大津市)の高嶋三郎さんが調べたところ、それぞれのれんが土台の下にレール14本ほどが格子状に敷かれていたほか、基礎柱の鉄筋としても1柱当たり8〜10本が使われていた。レールの長さは2.5〜3.5メートルだった。

 さらにレールの刻印から約100本の製造者や製造時期が判明。大半が19世紀末の英、米、独などの外国製だが、20世紀初年に九州の官営製鉄所(後の八幡製鉄所)で生産されたものもあった。後に東海道線となる官設鉄道や旧山陽鉄道、旧関西(かんせい)鉄道など、近畿各地で明治期に開業した7路線以上の鉄道で使われたものらしい。

 三越の建設当時は鉄が貴重で高価だった時代。古レールは強度が高いため、三越でもすり減った古レールを集めて建築用に転用したとみられる。

 発見されたレールの3割ほどは、1870年代前半に英国でつくられた「双頭レール」だった。断面が上下同じ形のI字形で、一方が摩耗したら上下を逆さにして使う珍しい形状。双頭レールに詳しい「新日化環境エンジニアリング」(北九州市)の大石徹さんによると、初期のごく一部の鉄道にしか使われなかった「幻のレール」で、「こんなに大量に見つかる例はまれだ」という。

 このうち最も古いものは1870年製。1872年に日本で最初に営業運転した東京の新橋―横浜間か、続く74年開通の大阪―神戸間で使われたものに違いないという。

 レールはすでに交通科学博物館(大阪市港区)や八幡製鉄所の跡地にできる北九州産業技術博物館(北九州市八幡東区)=仮称・07年春開館予定=、日本工業大学工業技術博物館(埼玉県宮代町)などに贈られた。また、基礎柱1体も先月から大阪市立大学杉本キャンパス(大阪市住吉区)に展示されている。

 交通科学博物館の高井洋文課長は「諸外国製や国産の非常に早い時期のレールがそろっていて鉄道や製鉄技術の変遷をたどるのに十分な史料だ。詳しく調べたうえで公開したい」としている。

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101杉山真大 ◆mRYEzsNHlY:2006/05/14(日) 22:07:21
かの金大中も、李承晩の独立運動家としての功績を認めながらも後年親日派を登用し独裁政治に陥ったことを批判しているんですよね。こうした論争ができるようになった分だけ韓国も"戦後"が終わったということなんですかね。

李承晩をめぐる韓国学界の熱い論争
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/04/30/20060430000031.html

 現在韓国で巻き起こっている保守・進歩間で繰り広げられている論争は、より具体的に考察すると初代大統領、李承晩(イ・スンマン)をめぐるものといえる。特に昨年は「李承晩研究ブーム」が起こったという点で、その傾向は顕著だ。直接的な論争にはなっていないが、互いに違った立場から膨大な量の研究書を通じて論争を繰り広げている。

 まず左派進歩陣営の徐仲錫(ソ・ジュンソク)成均館大教授が昨年2月に『李承晩の政治イデオロギー』(歴史批評社)を出版した。左右合作路線を支持する徐教授は、李承晩の政治イデオロギーは当時の安浩相(アン・ホサン)文教部長官が主張した「一民主義」だとし、それはファシズムに似たものだとの自説を展開した。徐教授は李承晩の路線を「反共極右独裁」だったと評価している。

 昨年6月には呂運亨(ヨ・ウンヒョン)研究を専門とする木浦大の鄭炳俊(チョン・ビョンジュン)教授が、中間左派的な立場から李承晩を批判的に考察した『ウナム・李承晩研究』(歴史批評社)を出版した。これは徐教授の研究より実証的な分析が際立っていると評価されている。

 また西江大社会科学研究所のキム・スジャ研究員は、昨年9月に韓国建国当時の李承晩の政治姿勢を批判的に分析した『李承晩政権初期の権力基盤研究』(キョンイン文化社)を出版した。興味深いのは、李承晩を批判する側の理念的な傾向は左派で、みな韓国史学を専攻している点だ。

 これらに対する反撃は10月、元老政治学者の李庭植(イ・ジョンシク)慶煕大客員教授から始まった。李教授は長年の研究成果をもとに、『李承晩の旧韓末改革運動』(培材大出版部)を出版した。近代思想を率先して受け入れた改革派の政治家として李承晩を考察したものだ。南時旭(ナム・シウク)教授の研究は、李承晩に関する研究書という形ではないが、李承晩が「開化派第3世代」の代表的な人物であり、「韓国右翼保守勢力の始祖」という点を思想家的に立証したという点で、いわゆる「李承晩論争」の域を脱していない。

 2004年に出版されたが、日本統治時代の李承晩を考察した浦項工大の高珽休(コ・ジョンヒュ)教授の『李承晩と韓国独立運動』(延世大出版部)と、釜山の政治運動を新たに分析したジャーナリストのチョ・ヨンジュン氏の著書『大統領の無血革命』(ナナム)も、右派陣営の貴重な研究成果だ。ジャーナリスト出身の孫世一(ソン・セイル)氏が『月刊朝鮮』に5年間連載している「李承晩と金九」も、全9巻で出版が予定されている。

 李承晩体制をナポレオン体制と比較した論文で学位を取得した成均館大の金一榮(キム・イルヨン)教授(政治学)は、「現在の韓国政治勢力の大部分が民族主義から左右に分かれた時に生じた陣営に起源を発しているため、李承晩を取り巻く論争が激化している」とし、「これまでの実証的な研究もある程度終息しているため、今後は本格的な論争が起こるだろう」と見ている。

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102小説吉田学校読者:2006/05/14(日) 22:34:31
>>101
金大中は、日韓人脈に対する批判は凄かったですね。反共の下に、李承晩政権と日本右派(岸信介とか)の大同団結は朝鮮半島統一を妨げる、こういう文脈で親日派批判がなされていました。これはこれで一理あると思いますね。

103小説吉田学校読者:2006/05/20(土) 10:39:44
日本政府も辻政信の死亡を検証するくらいの度量が欲しい。

インド最大のミステリー ボース台北事故死の定説覆す
http://www.sankei.co.jp/news/060520/kok006.htm

 【シンガポール=藤本欣也】インドの独立運動の英雄、チャンドラ・ボース。第2次大戦終戦直後に台湾で飛行機事故死したことになっているが、同国の調査委員会はその定説を真っ向から否定する報告書をまとめた。日本で保管されている「遺骨」も「ボースのものではない」と結論付けている。ボースは死なずにどこに行ったのか。60年以上にわたり続くインド最大のミステリーに幕は下りそうもない。
 ボースは1945年8月18日、台北の松山空港で中国・大連に向かう際、搭乗機が離陸に失敗し炎上、全身火だるまになって病院で48歳の生涯を終えたとされる。遺体は台北で荼毘(だび)に付され、遺骨は日本に移送されたというのが定説だ。
 これに対し、1999年に組織された政府の調査委員会は今月17日、報告書を公表。(1)ボースは台北の飛行機事故で死亡しなかった(2)よって日本に保管されている遺骨はボースのものではない−と結論付けた。
 その理由として調査委員会は「しっかりとした状況証拠がある」と説明する。事故があったとされる45年8月18日とその前後に、台北で飛行機事故が発生した記録がないというものだ。調査委員長を務めたムケルジ元最高裁判事は、「台北市長(馬英九氏)と台湾の外交部(外務省)が確認した」とインドのメディアに語っている。
 これまでにも、政府の調査委員会が56年と70年に組織されたが、いずれも医師や事故の生存者の証言をもとに「ボースは台北の飛行機事故で死亡した」と結論付けている。初めて定説を否定した今回の報告書についてインド政府は、「細かく吟味したが、その結論には同意できない」とする異例の意見書を付けて、報告書とともに国会に提出した。今後、国会で論議を呼ぶ可能性もある。
(05/20 01:09)

104杉山真大 ◆mRYEzsNHlY:2006/05/24(水) 22:52:17
早速壺に屯しているネトウヨどもがファビョってますよ。
  ,,,,,,,,
 ミ ・∀・ミつ http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1148467283/

「百人斬り競争」訴訟、二審も本社などが勝訴
http://www.asahi.com/national/update/0524/TKY200605240390.html
2006年05月24日20時39分

 旧日本軍将校2人が中国で1937年、中国兵を日本刀で殺害した人数を競う「百人斬(ぎ)り競争」をしたとする当時の新聞報道や、後にこの問題を扱った書籍を巡り、2人の遺族が「うそを書かれ名誉を傷つけられた」などと訴えた訴訟の控訴審判決が24日、東京高裁であった。遺族は毎日新聞社、朝日新聞社などと本多勝一・元朝日新聞記者を相手に出版差し止めや計1200万円の損害賠償などを求めていたが、石川善則裁判長は請求をすべて棄却した一審・東京地裁判決を支持。遺族の控訴を棄却した。遺族側は上告する方針。

 焦点は「何が真実かをめぐって論争を呼ぶような歴史的事実に関する表現が、故人に対する遺族の敬愛追慕の情を違法に侵害したか」だった。判決は、違法に侵害したと言える前提として「摘示された事実の重要な部分が全くの虚偽であることが必要」との基準を示した。そのうえで、それぞれの記述は全くの虚偽とは言えないと判断。遺族側の主張を退けた。

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105杉山真大 ◆mRYEzsNHlY:2006/06/08(木) 23:12:18
試しにググってみたら、当の中澤教授のエッセーが「萬晩報」に載ってました。
  ,,,,,,,,
 ミ ・∀・ミつ http://www.yorozubp.com/0502/050228.htm

ネットで流行「アインシュタインの予言」、人違い?
http://www.asahi.com/science/news/TKY200606070141.html
2006年06月07日

 アインシュタイン博士が日本をべた褒めしたとされる「アインシュタインの予言」という文章が、ネットや一部の書籍で広まっている。だが実は、博士とはなんの関係もない言葉が孫引きで広まっただけだと、東京大学の中澤英雄教授(ドイツ文学)が主張している。調査でたどり着いたのは、シュタインという法学者の言葉とされていた文章だった。

 「神に感謝する。我々に日本という尊い国をつくっておいてくれたことを」といったくだりがあるこの文章は、多少の相違はあるものの、1950年代から軍人や宗教家の書籍で紹介され始め、最近は日本文化を誇る「ちょっといい言葉」としてネットで引用されることも多くなった。

 だが出典が常にあいまいで、内容も博士の思想とは相いれないのではと疑問を持った中澤教授が、この言葉のルーツを追ってみた。その結果、アインシュタインの言葉として引用されている例として一番古いのは、56年の書籍であることがわかった。

 さらに戦前にさかのぼると、文意がよく似た文章が28(昭和3)年の『日本とは如何なる国ぞ』という本のなかに記されているのが確認できた。著者は、戦時中の日本の国体思想に大きな影響を与え、「八紘一宇」という言葉の提案者である宗教家の田中智学だった。

 ただし、この本では予言を語った人物はローレンツ・フォン・シュタインという明治憲法成立にも大きな影響を与えたドイツ人の法学教授だとされていた。

 中澤教授は、田中智学がこの言葉を知るもととなったシュタインの講義録などにも当たってみたが、該当する文章を見つけることはできなかったという。

 結局、起源はシュタインの言葉でもなく、田中智学が自らの思想をシュタインに寄せて語った文章の可能性が高いと中澤教授は見る。それが孫引きを繰り返されているうちに、どこかで「アイン」がついて、アインシュタインの予言だということにされてしまったらしい。

 中澤教授は「海外からみたらアインシュタインをかたってまで自国の自慢をしたいのかと、逆に日本への冷笑にもつながりかねない事態」と心配し、安易な孫引きにくぎを刺している。

 ■博士の言葉として流布「日本という尊い国に感謝」

 例えば、『世界の偉人たちが贈る日本賛辞の至言33撰(せん)』(ごま書房、2005年)には、アインシュタイン博士の言葉として次のように記されている。

 「近代日本の発展ほど世界を驚かせたものはない。一系の天皇を戴(いただ)いていることが、今日の日本をあらしめたのである。私はこのような尊い国が世界に一カ所ぐらいなくてはならないと考えていた。世界の未来は進むだけ進み、その間、幾度か争いは繰り返されて、最後の戦いに疲れるときが来る。そのとき人類は、まことの平和を求めて、世界的な盟主をあげなければならない。この世界の盟主なるものは、武力や金力ではなく、あらゆる国の歴史を抜きこえた最も古くてまた尊い家柄ではなくてはならぬ。世界の文化はアジアに始まって、アジアに帰る。それには、アジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない。我々は神に感謝する。我々に日本という尊い国をつくっておいてくれたことを」

     ◇

 〈アインシュタイン研究者の板垣良一・東海大教授(物理学史)の話〉 この言葉は、アインシュタインのものではないと断言できる。彼はキリスト教徒でもユダヤ教徒でもなく、「神」にこだわらない人だった。日記や文献を詳しく調べてきたが、彼が天皇制について述べた記録はない。

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106杉山真大 ◆mRYEzsNHlY:2006/06/12(月) 22:07:52
>>105
ネットを慫慂してみたら、中澤教授とは別に"アインシュタインの予言"なるものを検証しているblogがあったんですね。熱湯浴の言説に一つ一つ根拠を示しながら冷静に検証していく姿勢、見事です。
#でも中澤教授って「九条の会」の参加者だったんだな
  ,,,,,,,,
 ミ ・∀・ミつ http://alberteinstein.seesaa.net/

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107とはずがたり:2006/07/02(日) 20:14:10
色々酷いなぁ。。

鉱毒に消えた谷中:廃村100年 消極姿勢際立つ藤岡町 /栃木
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060626-00000059-mailo-l09

 藤岡町を貫く渡良瀬川のほとりに、足尾鉱毒事件に生涯をささげた田中正造の銅像が木々に囲まれて建つ。人目につかないその姿は、同町の正造への態度を表しているようにも見える。鉱毒事件を郷土史の欠かせない一部として伝える茨城県古河市や埼玉県北川辺町などに比べ、藤岡の消極姿勢は際立っている。[塙和也]
 ◇薄れゆく記憶に危惧も
 谷中村が1906(明治39)年に廃村となった際、合併先の藤岡町には古河市に次ぐ66戸が移り住んだといわれる。明治政府の買収に協力する「役場派」と、あくまで村に残ることを主張した「正義派」。廃村前から谷中村民は分裂した。
 役場派は廃村後も「裏切り者」と後ろ指をさされ、正義派も、正造を政府に盾突いた「国賊」と見る町内外の人たちから批判の的にされた。さらに、「谷中上がり」と呼ばれた子孫への差別が戦後も続き、次第に町民も旧村民も鉱毒事件に口を閉ざすようになった。
 昨年から今年にかけ、谷中村の子孫らが中心となり、廃村となった7月1日の記念日化を求めて藤岡町議会に請願や陳情を出した。だが、いずれも不採択。「廃村を語るなんて寝た子を起こすようなものだ。公害なんて暗いことは掘り起こさない方がいい」。採択に反対した岡田安雄町議は強調した。一方、谷中村残留民の末えいでもある島田稔町議は「議員という立場上、(自分の)意見は控えた」と苦しげだが、残留民らで続けてきた「田中霊祠」(正造を祭る神社)の例祭などは「子々孫々まで守るつもりだ」と言い切る。
 廃村100年の節目でありながら、町が独自に主催する催しはない。国土交通省によるイベント「谷中メモリアル100」も、鉱毒事件より、遊水地開発に向けたアピールの場となる可能性が強い。国は明治時代から、谷中村の廃村は鉱毒ではなく洪水の問題だと主張してきた。旧村民が鉱毒被害を語らなくなったことで、第二貯水池の掘削問題でも「遊水地の目的はあくまで治水対策」とする国交省側の主張のみが公の場で語られる。
 藤岡町はかつて町史の一部として谷中の資料を編さんするなど、記録作業に貢献したこともあった。それだけに、現状を危惧(きぐ)する人も多い。「今の町の姿勢では谷中の記憶は薄れていく。遊水地に30以上もある団体が、活動で一つになれないのも残念だ」と、谷中村民の菩提(ぼだい)寺「赤麻寺」の仙田光俊住職は語る。
 古河市で教育委員会とともにさまざまな行事を立案する「田中正造を後世に伝える会」の佐々木斐佐夫会長(76)は「合併先である肝心の藤岡町があまりにも消極的だ。『公害の原点』としての廃村は右も左もない歴史的事実。語り継がないのはおかしい」と憤る。(随時掲載します)

6月26日朝刊
(毎日新聞) - 6月26日12時3分更新

108杉山真大 ◆mRYEzsNHlY:2006/07/03(月) 23:16:45
特攻だったんですな・・・・・何と愚かしいことをしたことか怒りを感じたくなる。

沖縄特攻直前の戦艦大和の写真、米公文書館で見つかる
http://www.asahi.com/national/update/0703/OSK200607030062.html
2006年07月03日21時36分

 太平洋戦争末期の山口県徳山沖で、沖縄海上特攻作戦に向けて準備中の戦艦大和をとらえた米軍の偵察写真が米国立公文書館で見つかり、広島県呉市の大和ミュージアム(市海事歴史科学館)が3日、発表した。出撃の5時間前の写真という。国内での最後の姿をとらえた資料とみられ、年内に同館で展示される。

 同館の依頼を受け、「空襲・戦災を記録する会全国連絡会議・米軍資料研究会」代表責任者で、山口・徳山高専教授の工藤洋三さん(56)が今年3月に探し出した。

 写真は45年4月6日午前10時、米軍のB29偵察機が高度約9300メートルから撮影した。一緒に特攻に向かった巡洋艦矢矧(やはぎ)なども写っていた。写真説明には「戦艦『大和』級1、重巡洋艦1、駆逐艦6」とあった。同館によると、沖縄特攻の対空戦に備え、大和が主砲塔などに機銃を増強した様子が分かるという。

 大和を旗艦とする第2艦隊は撮影直後の6日午後に出撃。大和は翌7日午後、東シナ海で米軍機の攻撃を受けて沈没した。

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109杉山真大 ◆mRYEzsNHlY:2006/07/08(土) 18:01:57
岸壁の母ならぬ「引き揚げの母」ね・・・・・

平和祈願・万国戦没者慰霊の会元会長の田端ハナさん死去
http://www.asahi.com/obituaries/update/0708/001.html
2006年07月08日02時35分

 田端 ハナさん(たばた・はな=平和祈願万国戦没者慰霊の会元会長、引揚を記念する舞鶴・全国友の会顧問)が7日、老衰で死去、99歳。通夜は8日午後7時、葬儀は9日午後1時から京都府舞鶴市倉谷1720の4の西舞鶴シティーホールで。喪主は長女の泉朝子さん。自宅は同市南田辺71の3。

 舞鶴港で戦後、同市連合婦人会長として多くの引き揚げ船を出迎えたことから、「引き揚げの母」と呼ばれた。

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110小説吉田学校読者:2006/08/03(木) 07:13:54
カストロも広島訪問した。ゲバラも訪問した。広島と革命家を繋いだのは「反米」か「反覇権主義」か「反大量破壊兵器」か「平和主義」か。

ゲバラが撮ったヒロシマ 地域誌が掲載
http://mytown.asahi.com/hiroshima/news.php?k_id=35000000608010001

 キューバ革命を指導したエルネスト・チェ・ゲバラ(1928〜67)が47年前に広島を訪れた際、爆心地近くの平和記念公園で撮影した未公開のモノクロ写真がキューバで保管されていたことがわかった。存在を知った広島の出版社が「被爆61年を前に公開を」と遺族に求め、地域誌に掲載された。研究者は「伝説的革命家が核の脅威に強い関心を寄せていた証しではないか」と話している。(武田肇)
 写真を保管していたのは、ゲバラの遺族が運営する「チェ・ゲバラ研究センター」(キューバ・ハバナ)。03年に革命の同志であるキューバのカストロ議長が広島を訪問したのを機に、広島市の出版社「南々社」が足跡を検証。写真の存在を知って遺族と交渉し、発刊する地域誌「がんぼ」で7月末に特集を組んだ。
 同センターによると、撮影は59年7月。平和記念公園のアーチ形の原爆死没者慰霊碑の前で人がたたずむ姿をとらえ、原爆ドームや完成まもない広島市民球場も見える。ゲバラが同公園で撮影した別カットの1枚は海外など一部で公開されたことがあるが、今回の1枚は未公開という。
 ゲバラは革命政権が成立した直後に経済使節団長として来日した。池田勇人通産相(当時)と会見した後、予定になかった広島訪問を強く希望。1泊して慰霊碑に献花し、平和記念資料館(原爆資料館)や原爆病院を訪れた。
 遺族があわせて南々社に提供した「原爆の悲劇から立ち上がれ、日本よ」と題した手記(帰国後キューバで新聞掲載)には、「痛ましいのは原爆が投下されて14年たった今年も後遺症で多くの人が亡くなっていることだ」「資料館では、胸が引き裂かれるような場面を見た」と訴えている。
 旧ソ連ミサイルのキューバ配備をめぐり、核兵器使用の一歩手前まで緊迫した「キューバ危機」が起きたのは来日3年後の62年。直後にキューバを訪れ、工業相だったゲバラを撮影した写真家の近藤彰利さん(77)=東京都=は、現地の子供でさえ広島で起きたことを知っていたことに驚いた。「その陰にはゲバラの広島訪問があったかもしれないと納得した。一見平凡な写真だが、込められた意味は深い」
 チェ・ゲバラ研究センターの担当者は朝日新聞社の取材に「様々な困難を乗り越えた広島市民の勇気に敬意を表し、写真を公開することにしました」と説明している。
 《関係者を取材し71年に「チェ・ゲバラ伝」を著した作家の三好徹さんの話》 当時ゲバラは国内であまり知られておらず、報道はほとんどなかった。日本政府も使節団として受け入れながら、米国への配慮から広島訪問に難色を示していた。広島行きを強行したのは、多数の非戦闘員を一瞬で殺傷した原爆の残虐性に関心を持っていたからだろう。写真好きは有名で、ゲリラ活動中もカメラを持ち歩いたほど。新たに公開された写真はゲバラの関心がどこにあったか考える材料となり興味深い。
 《エルネスト・チェ・ゲバラ》1959年、キューバの指導者、フィデル・カストロ国家評議会議長とともにキューバ革命を成功させたアルゼンチン生まれの革命家。その後、大臣の地位を捨ててアフリカ・コンゴの反政府勢力にゲリラ戦を指導し、67年、南米・ボリビアでも革命を指導している途中に国軍に銃殺された。

111小説吉田学校読者:2006/08/05(土) 11:37:14
すでに歴史的風景となったロッキード事件。
今月号の月刊「現代」によりますと、全日空ルートの灰色高官とされた14名中12名の実名が掲載されております。
私の推測ではなく、記事そのまま書きますけれども、灰色高官は、二階堂進、佐々木秀世、加藤六月、福永一臣は既報されておりますが、そのほかには村山達雄、竹下登、木村睦男、関谷勝利、大橋武夫、佐藤守良、中川一郎、西村直巳の8名。いずれも運輸族、防衛族のお歴々であります。これはサラっと書いておりますが、歴史の空白を埋める作業でありまして、月刊現代と坂上遼はよくやったと思います。

で、中曽根サンが灰色とされたP3Cルートはもっともっと解明された方が良かったですが・・・

ロッキード事件:対潜哨戒機P3C事件化、東京地検断念
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/jiken/news/20060727k0000m040180000c.html

 対潜哨戒機を巡っては72年2月、海上自衛隊の次期対潜哨戒機を国産化すると政府が閣議決定しながら、同10月の国防会議議員懇談会(議長・田中角栄首相=当時)で白紙撤回。74年12月に輸入の方向が強まり、ロ社のP3C輸入につながった。丸紅は72年11月、ロ社とP3Cの売却手数料授受契約を結び、73年7月には児玉誉士夫・元ロ社代理人(故人)とロ社との間で「50機の確定契約があった場合、ロ社は児玉に25億円を支払う」との誓約が結ばれた。
 当時の捜査関係者によると、76年2月の米議会での事件発覚直後、実際にP3C関連を専門に調べる検事が特捜部内におり、防衛庁関係者らを参考人聴取するなど、捜査を進めたという。
 同年4月、米証券取引委員会(SEC)から提出された全2860ページに及ぶ資料が日本の検察当局に届けられ、この中には「Tanaka」をはじめ政府高官名が記された人脈図などが含まれていたが、P3Cの対日工作を示す資料は見当たらなかったという。
 また、児玉元代理人の脱税を巡る捜査でも、P3Cに関するロ社側からの資金提供を裏付ける証拠はなく、かなり早い段階で、トライスター機導入を巡る捜査に重点を置いたという。
 1機当たりの金額は当時、トライスター数十億円に対しP3Cは100億円前後と言われ、採用された場合の導入機数もP3Cの方が多く見積もられ、ロ社にとってP3Cの方が「うまみ」は格段に大きかった。このため、田中元首相への資金提供があれば、P3Cの受注工作資金との見方が当初あった。
 一方で、日米安保条約という国策も絡むP3C疑惑の立件見送りは「米国謀略説を裏付ける」などさまざまな憶測を呼んだうえ、「事件の本質に迫れなかった」などとロ事件の評価につながる議論の下地にもなっていた。

112小説吉田学校読者:2006/08/12(土) 22:02:31
評価分かれるいうか、私はまったく否のほうで、「私兵特攻」の一件において、特攻で涙してしまう小泉首相とは歴史的認識を異にする私である。悲しみじゃなくて怒りがわかないか。

「宇垣特攻」最期の真実、親族女性が遺品調査
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20060812i104.htm

 終戦を告げる1945年8月15日の玉音放送後に、海軍の宇垣纏(まとめ)中将が若い兵士を率いて出撃した「宇垣特攻」について、厚生労働省非常勤職員の吉田紗知さん(27)(東京都葛飾区)が、独自の調査研究を続けている。
 吉田さんは宇垣隊の一員だった親族が戦死しており、終戦記念日は61年目の命日となる。
 今年になって別の隊員の遺品が米国の博物館に展示されていることを知り、今月、博物館から遺品のノートのコピーを手に入れるなど、謎の多い宇垣特攻の最期に一歩ずつ近づいている。
 吉田さんの曽祖父の弟で、当時21歳の大木正夫・上等飛行兵曹(上飛曹)は8月15日夕、海軍大分飛行場を沖縄に向け飛び立った11機、23人の1人。大木上飛曹ら8機17人は戦死した。特攻作戦を指揮していた第5航空艦隊司令長官で、終戦後に「最後の特攻」を率いた宇垣中将については、「部下を道連れにした」との批判が多い。
 吉田さんは、戦争の話をよく聞かせてくれた祖父が2年前に亡くなったのを機に、「大木さんの生きた証しをたどりたい」と思った。今年2月、戦争体験を紹介する日本のホームページを通じ、米オハイオ州の国立空軍博物館に、宇垣特攻の搭乗員だった後藤高男・上飛曹(当時26歳)の救命胴衣の一部などが展示されていることを知った。入手した写真には、救命胴衣に「後藤上飛曹」と記されていた。
 救命胴衣などの遺品を博物館に提供したのは、終戦時、沖縄にいた元米兵のフィリップ・トンプソン氏(80)だった。吉田さんはトンプソン氏と文通を続け、その中で、後藤機が、米軍キャンプのあった沖縄・伊平屋島の砂地に激突後、爆発炎上したことを知った。
 吉田さんは、福岡県八女市で暮らす後藤上飛曹の弟、照男さん(79)を探し当て、今年4月、自宅に訪ねて写真を渡した。「兄貴は砂地に突っ込んだから、遺品が残ったんじゃのう。ありがたい」。照男さんは、そう感謝しながら吉田さんの話に聞き入った。
 博物館は、宇垣隊の別の隊員のノートも保管している。吉田さんは、宇垣中将の最期の様子や、大木上飛曹についての記述があるのではと、コピーを博物館に頼み、今月7日、全12ページ分が郵送されてきた。ノートは後藤上飛曹の同乗者のもので、残念ながら任務に関する記録ばかりだった。
 休日を利用して自費で関係者を訪ね歩くなどしている吉田さんは、「これからも調査を続け、将来は記録に残したい」と決意を新たにしている。

(「宇垣特攻」を知りたい人は)
松下竜一その仕事〈第21巻〉私兵特攻―宇垣纒長官と最後の隊員たち (単行本)  松下竜一著
http://www.amazon.co.jp/gp/product/430962071X/sr=1-2/qid=1155387571/ref=sr_1_2/249-8232065-9478756?ie=UTF8&s=books

指揮官たちの特攻―幸福は花びらのごとく (文庫) 城山三郎著
http://www.amazon.co.jp/gp/product/410113328X/sr=1-3/qid=1155387623/ref=sr_1_3/249-8232065-9478756?ie=UTF8&s=books

113とはずがたり:2006/08/12(土) 22:21:48
>>112
なるほど,こんなことがあったんですねぇ。近現代史もドラマですな。。
http://ja.wikipedia.org/wiki/宇垣纏

特攻隊で死んだ者(更には戦死者も)には悲しみではなく怒りをという吉田学校氏の認識に共感。
国のために死んだ英雄ではなく無能な国家首脳の哀れな犠牲者なのだ。為政者に騙されちゃいかん。

114とはずがたり:2006/08/17(木) 21:13:58
【第一次大戦】
http://ww1.m78.com/index.html
第1次大戦と20世紀サイト

昭和天皇と事変の拡大
http://ww1.m78.com/topix/emperors%20decision.html

【大東亞戰爭研究室】
http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai/kindai-annai.html

帝国陸海軍 人事挿話集
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/2687/jinjiotu/jinji2-annai.html

近代日本戦争史概説
http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai/kindai-annai.html

115とはずがたり:2006/08/21(月) 00:11:44

戦後の軍隊に宇垣一成を引っぱり出してくる辺り何とも云えず時代錯誤な感じもするが,当時の感覚だとなかなかの配役って感じになるのでしょうか?

幻の「新日本軍」計画 旧軍幹部、首相に提案  2006/08/20 21:39
http://www.hokkaido-np.co.jp/Php/kiji.php3?&d=20060820&j=0023&k=200608204880

[ワシントン20日共同] 旧日本軍幹部が太平洋戦争後の1950年前後、「新日本軍」に相当する軍組織の設立を独自に計画していたことが20日、機密指定を解除された米公文書で判明した。構想は連合国軍総司令部(GHQ)の了解の下で進み、河辺虎四郎元陸軍中将(故人、以下同)らが立案。最高司令官には宇垣一成元大将(元陸相)を想定しており、当時の吉田茂首相にも提案していた。

 戦後史に詳しい複数の専門家によると、服部卓四郎元陸軍大佐ら佐官クラスの再軍備構想は知られているが、河辺氏ら将官級による新軍構想は分かっていなかった。毒ガス隊など3部隊の編成を目指した河辺氏らの構想は最終的に却下され「幻の計画」に終わった。

 文書は、GHQや中央情報局(CIA)の記録を保管する米国立公文書館で見つかった。

116片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2006/08/21(月) 08:11:39
>>115
そういえば、下のニュースが最近ありましたね。GHQは戦前からの日本軍の人的蓄積を反共陣営強化のために使おうとしたんでしょうね。その代わりに、処罰や断絶は不徹底になったと。
日本の戦争総括・戦後体制は国際情勢次第でいかようにも変わりえたのでしょう。

GHQ資金で反共工作 旧軍幹部の「河辺機関」
http://kumanichi.com/news/kyodo/index.cfm?id=20060812000208&cid=main

 【ワシントン12日共同】太平洋戦争後に日本を統治した連合国軍総司令部(GHQ)が河辺虎四郎元陸軍中将(元参謀次長)=故人、以下同=ら旧軍幹部を中心に編成した反共工作組織「河辺機関」が、GHQの資金提供で日本国内の情報収集のほか旧ソ連と北朝鮮への工作員潜入を計画していたことが12日、機密指定を解除された米公文書で判明した。秘密工作は「タケマツ作戦」と名付けられていた。

 「河辺機関」の存在は関係者の証言などで伝えられていたが、計画の詳細が米公文書で初めて確認された。河辺氏はじめ機関の主要メンバーは戦犯訴追を免れており、文書は冷戦に直面した米国が旧軍幹部の訴追よりも反共工作を優先させた軌跡を物語っている。

「河辺機関」に関する米公文書の要旨 
http://www.topics.or.jp/Gnews/news.php?id=CN2006081201003480&gid=G15

 【ワシントン12日共同】「河辺機関」に関する米公文書の要旨は次の通り。

 ▽1949年5月20日付メモ1(秘密、発信者、受信者はなお機密扱い)

 一、「タケマツ」は連合国軍総司令部(GHQ)の参謀二部(G2)が進める秘密情報作戦のコード名。国内の情報活動(マツ)と国外での情報活動(タケ)からなる。

 一、活動全体がG2の資金で賄われる。

 一、タケマツ作戦の中心人物は河辺虎四郎、有末精三、辰巳栄一各元中将ら。米側の作戦指揮者はウィロビー少将、レイシー大佐ら。

 一、48年9月25日にレイシー、河辺、辰巳らが会談。河辺は活動経費8万7000円を要求。

 一、48年10月9日にレイシー、河辺らが会談。第1回の支払いとして3万7000円を河辺に支給。

 ▽49年5月20日付メモ2(同)

 一、48年11月20日、レイシー、河辺、有末らが会談。

 一、河辺がレイシーに南日本でのタケ作戦の概要を説明。

 第1段階 (山口県)防府を拠点に工作員を南朝鮮(現在の韓国)へ派遣、38度線を越え、北朝鮮と満州(現在の中国東北部)の情報を伝える。防府のビジネスマンの貿易ルートを利用。

 第2段階 対馬への情報拠点設置が可能。南朝鮮からの密貿易に使われており、日本人工作員の南朝鮮潜入に利用。ソ連船の情報獲得のため対馬の漁民を工作員に雇うことも可能。

 第3段階 米の無線機を使用。中国、朝鮮、ロシア語の放送を傍受。

 一、レイシーは必要な機材を用意すると約束。

 一、河辺は南日本での半年間の経費として390万5000円を提示。

 一、河辺は北日本でのタケ作戦の概要を説明。

 (1)北日本での作戦は49年4月に開始。本部を北海道・美唄に、支部を札幌、函館、礼文島に。

 (2)樺太(現在のサハリン)在住の信頼できる日本人に接触。(樺太や千島からの)帰還者を工作員にして送り返す。万年筆や時計の密輸ルートをソ連領内に開拓。意図的に船を難破させ船員をソ連領内に送る。周辺海域を高速艇で監視。無線傍受を実施。

 一、河辺は北日本での半年間の経費として596万2000円を提示。

 ▽49年5月20日付メモ3(同)

 一、48年12月3日にレイシーが河辺らと会談、ウィロビーが北日本の作戦に集中することを求めていると説明。ただ朝鮮への潜入も了承。

 ▽53年1月16日付の情報報告(秘密)

 一、G2が52年12月、河辺に次年度には関連予算が計上されないと通知。河辺は突然の決定に憤慨、機関の活動を公にする意向。

 一、河辺は機関解体を見越し、G2の決定前に、15人を保安隊に入隊させていた。

 ▽有末元中将の個人情報データ(59年9月15日付、秘密)

 一、48年末ごろ、ウィロビーが河辺機関として知られることになる情報組織創設を要請。下村定、河辺らが参加。

117名無しさん:2006/08/28(月) 22:12:53
渡嘉敷島集団自決、軍命令を否定する証言
http://www.sankei.co.jp/news/060827/sha047.htm
http://www.sankei.co.jp/news/060827/sha048.htm

≪元琉球政府の照屋昇雄さん≫

 第二次大戦末期(昭和20年)の沖縄戦の際、渡嘉敷島で起きた住民の集団自決について、戦後の琉球政府で軍人・軍属や遺族の援護業務に携わった照屋昇雄さん(82)=那覇市=が、産経新聞の取材に応じ「遺族たちに戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作った。当時、軍命令とする住民は1人もいなかった」と証言した。渡嘉敷島の集団自決は、現在も多くの歴史教科書で「強制」とされているが、信憑(しんぴょう)性が薄いとする説が有力。琉球政府の当局者が実名で証言するのは初めてで、軍命令説が覆る決定的な材料になりそうだ。

 照屋さんは、昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員を務めた。当時、援護法に基づく年金や弔慰金の支給対象者を調べるため、渡嘉敷島で聞き取りを実施。この際、琉球政府関係者や渡嘉敷村村長、日本政府南方連絡事務所の担当者らで、集団自決の犠牲者らに援護法を適用する方法を検討したという。

 同法は、軍人や軍属ではない一般住民は適用外となっていたため、軍命令で行動していたことにして「準軍属」扱いとする案が浮上。村長らが、終戦時に海上挺進(ていしん)隊第3戦隊長として島にいた赤松嘉次元大尉(故人)に連絡し、「命令を出したことにしてほしい」と依頼、同意を得たという。

 照屋さんらは、赤松元大尉が住民たちに自決を命じたとする書類を作成し、日本政府の厚生省(当時)に提出。これにより集団自決の犠牲者は準軍属とみなされ、遺族や負傷者が弔慰金や年金を受け取れるようになったという。

 照屋さんは「うそをつき通してきたが、もう真実を話さなければならないと思った。赤松隊長の悪口を書かれるたびに、心が張り裂かれる思いだった」と話している。

 300人以上が亡くなった渡嘉敷島の集団自決は、昭和25年に沖縄タイムス社から発刊された沖縄戦記「鉄の暴風」などに軍命令で行われたと記されたことで知られるようになった。作家の大江健三郎さんの「沖縄ノート」(岩波書店)では、赤松元大尉が「『命令された』集団自殺をひきおこす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長」と書かれている。

 その後、作家の曽野綾子さんが詳細な調査やインタビューを基にした著書「ある神話の背景」(文芸春秋)で軍命令説への疑問を提示。平成17年8月には、赤松元大尉の弟らが岩波書店と大江さんを相手取り、損害賠償や書物の出版・販売の差し止め、謝罪広告の掲載を求める訴えを大阪地裁に起こしている。(豊吉広英)

118片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2006/08/28(月) 23:27:19
>>117
> −−ではなぜ集団自決をしたのか
> 「民間人から召集して作った防衛隊の隊員には手榴(しゅりゅう)弾が渡されており、隊員が家族のところに逃げ、そこで爆発させた。隊長が(自決用の手榴弾を住民に)渡したというのもうそ。座間味島で先に集団自決があったが、それを聞いた島民は混乱していた。沖縄には、一門で同じ墓に入ろう、どうせ死ぬのなら、家族みんなで死のうという考えがあった。さらに、軍国主義のうちてしやまん、1人殺して死のう、という雰囲気があるなか、隣の島で住民全員が自決したといううわさが流れ、どうしようかというとき、自決しようという声が上がり、みんなが自決していった」

そういえば、高校生のときに読んだ大岡昇平の『野火』を久しぶりにまた読みました。
食べ物に窮乏したため、手榴弾を使って味方を殺し、人肉を食うってのは、考えさせるシーンでした。
戦争、特に孤島という状況だと、考え方も極限まで追い詰められてしまうものなんですかね。

しかし、まあ、こうやってなんたら陣営が相対立してる状況があるんですね。戦争は災難の連鎖を生むのかね。戦争とは別に、カネというものの魔力か。人間はそういうものだとは謂えど。

119とはずがたり:2006/08/29(火) 03:49:44
旧日本軍を神聖化する動きは真実がどうであれ,警戒する必要があると思う。
軍隊が日本国民を大いなる不幸に陥れた元凶であることは間違いないのであって,南京で実は虐殺はしてないとか,島民に自決を強制してないとかは些細な話。
なんかそういう背後に旧日本軍は立派だったみたいな風潮にしたい意志を感じる。戦死者は国を守った英霊なんかではない。惨めな犠牲者なのである。神様にして貰って遺族が救われると云う機構が弔いに成るだけなら良いが,国の為に死ぬことが崇高なことだとしたい連中が居るんじゃないか?自分らは戦争で死ぬ心算がない癖に,国民は為政者の私益の為に死ねと思ってる連中が。
靖国を神聖視するネット右翼を始め踊らされた間抜けな庶民どもが勝手に死ぬ分にはかまわんが,戦争は他の国民も犠牲にする迷惑なものである。更に本当に心穏やかに死者を弔いたいならお偉い議員の先生方に参拝させて悦に入ってるじゃねーよと思う。政治家みたいな俗な連中の参拝など断れや。

120小説吉田学校読者:2006/09/02(土) 09:39:01
昨日産経本紙に載っていましたが、ネットにはあがっていませんでした。
このメモ問題、私としましては、秦氏の見解と同じで、これを基にして靖国分祀論だ何だかんだと盛り上がるのは反対です。

メモといっても、巷間仄聞するところによれば「政治的な箇所はごく一部にとどまる」「食べ物、植物、戦前、戦争直後の苦労の話が多い」らしいです。となれば「「原田日記」「牧野日記」だけが昭和天皇か?」というのが富田氏の備忘の動機だったのかもしれない。
それと「とてもおもしろくて」の部分、私はこういう奥さんを持てた富田氏は幸せだったと思う。こういう奥さん、好きだなあ、俺。

メモ公表した富田元宮内庁長官夫人の真意とは
http://news.www.infoseek.co.jp/topics/society/showa_emperor/story/01fuji320060901016

 昭和天皇が靖国神社のA級戦犯の合祀(ごうし)に強い不快感を示されたとされるメモを富田朝彦元宮内庁長官(故人)が書き残していた問題で、富田元長官の妻(81)は産経新聞の取材に応じ、「こんなに大騒ぎになるとは思わなかった。日記やメモを公表したのは、昭和天皇のお人柄を伝えたかったから」と語った。
 妻によると、メモや日記は元長官が平成15年11月に亡くなった後、東京都内の自宅寝室の奥に残されていた。
 「読んだらとてもおもしろく、まるで富田が生きているみたいで…」
 元長官は生前、日記やメモの扱いについて何も言い残していなかった。だが、彼女自身は「いずれ発表できる機会があればいいと考えていた」という。
 その理由については、「陛下は口数が少ないといわれていましたが、実はお話し好きでした。日記やメモには、富田が知らないことを(昭和天皇が)教えてくださったことがつづられていました。いろんな歴史も教えてくださったそうです。ユーモラスな方でもあって、そのお人柄をみなさんにもお伝えしたかった」と説明した。

121片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2006/09/02(土) 12:47:10
讀賣新聞のお盆の戦争検証特集は立派だと思いました。
軍の一部が先走ってしまい、非軍人もそれをコントロールできなかった構図(それがいろんな局面で起こる)が浮き彫りになっています。
しかし讀賣も、天皇に関する部分の検証がぽっかり抜けてるように感じました。
先代ってことで、検証はまだしにくいか・・・。

靖国神社の問題も、
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1114775789/237-239
↑と似たところがあるんですよね。
当時、「靖国」に殉じた人の想いをどうするかってところで。
終戦後の殉職者は、戦死ではないということで受け入れていないようですから。
http://d.hatena.ne.jp/Baatarism/20060825/1156477427

ところで、山口県護国神社合祀訴訟というのがかつてありましたが、
あれは戦後の殉職者(公務死者)について、各県の護国神社が受け入れているということですよね。
どこの自衛隊も、一律に護国神社で祀らせてるんだろうか?
東京都と神奈川県には護国神社がないようだけど・・・。

ともかく、新しい殉職者たちが靖国神社にどんどん合祀されていってる状況がないところは、不幸中の幸いというか。
仮にそんなことになっていると、将来の我々の選択も雁字搦めになりかねなかった。
平成の殉職者(公務死者)・靖国神社・天皇 この3者が密接にかかわる状況でなくて良かった。

靖国神社の扱いは難しいものがあるけれど、将来に向けてやるべきことはあると思いますね。

(調べつつ書きながら、なんて知らないことばかりなんだろうと思った・・・)

122片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2006/09/03(日) 17:18:52
>>120
驚くべきバイタリティ...

上坂冬子さんの富田夫人訪問記余話
http://oshimas.iza.ne.jp/blog/entry/33351/

上坂さんの文章を若干紹介すれば、7月22日付で投函された元宮内庁長官、富田朝彦夫人からの分厚い封書が自宅に届いた。富田夫人とは面識はなかったが、あけてみると、便箋4枚にぎっしり書かれた質問が14項目もあった。夫人は81歳だが、女子大生のような勢いのいい字だったとか。なぜ、富田夫人は、上坂さんに質問状を送ったのか。経緯はこうだ。
「富田メモ」の記事が出たのが7月20日。翌21日の産経新聞「正論」欄で、すばやく上坂さんは、「富田メモ」を第一級の資料なみに扱おうとしている風潮を批判した。この記事を富田夫人にみせたのは、同居している大学教授の息子さん。富田夫人はそれを読むやいなや、近所の書店にかけつけ、上坂さんの新刊『戦争を知らない人のための靖国問題』(文春新書)を買って、一晩で読み終えて、質問状を書き上げた、という次第のようである。 「ともかく行動的な人らしい」と上坂さんは書いているが、このくだりをゲラで読みながら、おもわず笑みが浮んでしまった。というのは、上坂さんご自身が、とびきり行動的な人だからである。何度も、上坂さんには、本誌で連載をお願いしているので、自信をもってそういえる。

123片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2006/09/03(日) 17:29:10
鎮霊社『靖国』の回答検証
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20060829/mng_____tokuho__000.shtml

 靖国問題は自民党総裁選の中で数少ない争点の一つになっている。今月12日付の『こちら特報部』では、この靖国神社の一角にある鎮霊社にスポットを当てた。その後、読者の方々から「もっと詳細を」という要望をいただいた。前回は多忙を理由に取材に応じなかった神社側も、今回は本紙の質問に書面で答えてくれた。再び鎮霊社を舞台に靖国問題を考える材料を提供したい。 (浅井正智)

 【『こちら特報部』からの質問(1)】

 一八六九年に靖国神社の原型、東京招魂社が創建されて九十年以上たった一九六五年に、鎮霊社が建立された理由は何か。

 【靖国神社広報課の回答(1)】鎮霊社は、時の筑波藤麿宮司の発案で、戦なき平和を願い創建された御社。嘉永六(一八五三)年以降の戦争・事変にて非命に斃(たお)れ、職域に殉じ、病に斃れ、自ら生命断つなどして靖国神社に祀(まつ)られない御霊(みたま)と、同年以降の戦争・事変に関係し、死没した諸外国の御霊、二座を鎮祭している。

 一八五三年という年は何を意味するのか。この年以降の戦争で死亡した人を祀ることは、鎮霊社のみならず靖国神社本殿にも共通している。

 日本文化総合研究所の高森明勅(あきのり)代表はこう説明する。「靖国神社(当時の東京招魂社)が最初に祀ったのは戊辰戦争の官軍兵士。一八五三年のペリー来航から国難が始まり、明治維新につながったという認識があり、後にそこまでさかのぼって祀ることになった」

 【質問(2)】A級戦犯の本殿への合祀(ごうし)を避けるため、鎮霊社を建立し、以後、合祀された一九七八年まで、実際に祀られていたという指摘がある。これは事実か。

 【回答(2)】学者にはいろいろな推論もあろうが、御本殿の御祭神と鎮霊社の御祭神では全く性格を異にしている。鎮霊社の御祭神は奉慰の対象だが御本殿の御祭神は奉慰顕彰の対象と認識している。

 このA級戦犯の事実上の分祀説を採る日大講師で現代史家の秦郁彦氏は、靖国側が「学者の推論」と直接答えていない点について、「肯定はしていないが、否定もしていない点が重要だ」とみる。

 「神社側は一時的にでもA級戦犯が鎮霊社に祀られていたなら、否定はできない。だが、肯定すれば、A級戦犯は鎮霊社から分祀して本殿に移されたと認めることになる。これは靖国を深刻な矛盾に直面させる。つまりA級戦犯の本殿からの分祀を拒んでいる靖国自身が、分祀した過去を認めることになるからだ」

■『顕彰ならば 政治的行為』 

 鎮霊社の霊が「奉慰」の対象で、本殿の霊が「奉慰顕彰」の対象と差のある点についても注目される。

 筑波大学の千本秀樹教授(現代日本史)は「慰霊ならば宗教的な行為といえるが、顕彰というのは国のために死んだ人をたたえるという政治的な行為だ。靖国神社は政治的な施設であり、しかもA級戦犯を顕彰の対象にしていることが明確になった」と指摘する。

 【質問(3)】鎮霊社はだれを祀っているのか。「朝敵」や「逆賊」の怨霊(おんりょう)を鎮める役割を担っているのか。

 【回答(3)】御本殿で祀られていない全世界の戦争犠牲者であり、具体的な名前を挙げての鎮祭ではない。(怨霊論は)学者により説はさまざまあろうが、神社としては(1)で述べた通り。

 千本氏は、鎮霊社が戊辰戦争で官軍と戦った会津藩白虎(びゃっこ)隊や西南戦争で明治政府と戦った西郷隆盛らの「逆賊」の恨みを鎮めるためにつくられたという見解を採る。

 これに対し、高森氏は「鎮霊社と怨霊はおよそ結びつかない」と強調する。

 「怨霊を鎮めるというのは、不遇の死を遂げた人が現世にたたりをもたらすという発想に基づく。そうならば、この霊を祀らないとたたりがくるという具体性が示される必要がある。だが、全世界の戦没者を祀る鎮霊社にはこうした関係を考えることはできない」

124片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2006/09/03(日) 17:38:01
 【質問(4)】鎮霊社はなぜ鉄柵で囲われ、一般参拝者が近づけないのか。

 【回答(4)】過激派の活動が盛んであった昭和四十年代に、警備上、御本殿をはじめ、元宮、鎮霊社を守るために鉄柵を設けたのであり、鎮霊社だけを囲っているわけではない。また、現在、拝殿脇より誰でも参拝できる参道を設ける計画を進めており、十月には竣工(しゅんこう)予定だ。

■謎めいた存在10月には公開

 千本氏は「九〇年代まで天皇制に関心がある人でも、靖国神社を問題視する人はほとんどいなかった。かつての『靖国神社国家護持法案』に反対したのもキリスト者が中心で、日本の左翼は何もしていない。過激派対策のための鉄柵というのは、後から取って付けた理由としか思えない」といぶかる。

 秦氏は「靖国は分祀論にからんで、鎮霊社に関心が向くことを好まない」という見方を示す。今後、参道を設けるという点についても「一般の人が近づけず、しかも分祀論と結びつけられると、鎮霊社はいよいよ謎めいた存在にみられてしまう。むしろオープンにした方がよいという判断が働いたのでは」と推測する。

 【質問(5)】

 鎮霊社の例祭日(七月十三日)には、どのような方式で祭事が行われるのか。

 【回答(5)】

 他の祭事同様、神道の儀式で行われている。

 キリスト教やイスラム教などの一神教は他の神を認めない。このような信者を鎮霊社に祀り、国家神道方式で祭事をするのは、彼らの宗教心を冒涜(ぼうとく)することにはならないか。

 靖国自身は「名前を挙げての奉慰ではなく、戦争犠牲者全般の鎮祭であり、日本古来の神道形式で他国の戦争犠牲者全般の魂を鎮めることが、必ずしも冒涜にあたるとは認識していない」と補足して説明する。

 高森氏も「靖国神社がその一神教を国家権力と結びついて弾圧するのでない限り、独自に祭祀(さいし)対象を設定することを第三者が妨げることはできない。仏教系教団でも類似した例はあるが、それが問題になることはない」と靖国側を擁護する。

 これに対し、千本氏は「靖国が宗教法人である限り、祭祀対象を自由に決めることができる。しかし靖国がもつ強い政治的性格を考えると、純然たる宗教法人とはいえず、祀られることを拒否できないのは問題がある」と主張する。

 総じて今回の靖国側の回答は抽象的で、極めて慎重だった。そんな姿勢の背景を千本氏はこう分析する。

 「靖国神社自身がこれから戦没者を顕彰する政治的な施設として存続していくのか、慰霊・追悼に絞った宗教施設になるのか、自身の中で解決されていない。そのことが、外部に対して意見を明確に打ち出せないことにつながっている」

<メモ>鎮霊社 靖国神社の本殿脇に1965年、ひっそりと建てられた。現在は鉄柵で囲まれ、一般参拝者は存在にすら気づかない。本殿とは対照的に、明治維新の“逆賊”やイラク戦争などで亡くなった「万邦諸国の戦没者」も祀っているとしている。本殿でのA級戦犯合祀を回避するため、A級戦犯を一時的に祀っていたという指摘もある。

<デスクメモ>

 “逆賊”たる会津武士の末えいで、戦後右翼の大物だった故田中清玄氏は生前「(靖国参拝とは)長州藩の守り神にすぎないものを全国民に拝ませているようなものなんだ。ましてや皇室とは何の関係もない」と言い切った。靖国問題は「右左」で語れるほど単純ではない。まずは事実の把握が何より大切だ。 (牧)

125とはずがたり:2006/09/07(木) 16:58:56
嘘つけ!平安時代は結構色んな名前を付けてた筈>皇室の名前は、男子は「仁」、女子は「子」で2文字が原則。例外はあるが、858年に即位した清和天皇以来の伝統という。

新宮さま誕生、命名も秋篠宮ご夫妻で
秋篠宮家 男児ご誕生
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20060906ic03.htm

 秋篠宮家に新宮さまが誕生した。7日目の12日には「命名の儀」が行われ、お名前が決まる。誕生に伴う儀式の流れは――。

  ◆賜剣(しけん)

 新宮さまが誕生した6日、天皇陛下からさっそく守り刀が贈られる(賜剣)。皇太子ご夫妻の長女、愛子さま(4)の時は、反りのない刀身約26センチの白サヤ短刀だった。女子には袴(はかま)の目録が添えられる。職員が病院の枕元に置き、守り刀として生涯、身近に置かれることになる。

 ◆お名前とお印(しるし)

 皇室の名前は、男子は「仁」、女子は「子」で2文字が原則。例外はあるが、858年に即位した清和天皇以来の伝統という。

 皇太子ご夫妻の長女、愛子さまの場合は、学者3人が天皇陛下に複数の案を上申し、陛下が皇太子さまの意向を聞いて決められた。陛下が決めるのは自分の子や皇太子の子の場合で、宮家は宮さまが決定される。秋篠宮さまは長女の眞子さまも、二女の佳子さまも、ご夫妻で相談して決められた。

 一方、身の回りの品につけるお印は、眞子さまは「木香茨(もっこうばら)」、佳子さまはハイビスカスの一種「オオハマボウ」の沖縄地方の呼称「ゆうな」。ともにご夫妻が好きな花を選ばれた。
 「命名の儀」は、お名前とお印が記された2枚の和紙をご夫妻で確認されたあと、宮務官が白木の桐箱(きりばこ)に納め、お子さまの枕元に置く。

 ご夫妻は、男女それぞれのお名前を考えられていたという。

 ◆皇統譜登録

 新宮さまのお名前は、官報に掲載されたあと、皇室典範の規定に従って皇室の戸籍である「皇統譜」に登録される。皇統譜は天皇、皇后両陛下を記載している「大統譜」と、その他の皇族用の「皇族譜」があり、新宮さまは、皇族譜に名、父、母、生年月日と誕生の時刻などが記され、羽毛田信吾・宮内庁長官と折笠竹千代・書陵部長が署名する。正本は宮内庁、副本は法務省で管理されている。

 ◆賢所皇霊殿神殿(かしこどころこうれいでんしんでん)に謁(えっ)するの儀

 誕生から50日を過ぎたころ、紀子さまに抱かれ、皇居内の賢所皇霊殿神殿にお参りする。一般の「お宮参り」で、新宮さまには白羽二重の産着が用意される。

 ◆初参内

 「賢所皇霊殿神殿に謁するの儀」を終えると、新宮さまは紀子さまに抱かれて御所を訪ね、天皇、皇后両陛下にあいさつされる。

 ◆お箸初(はしぞめ)

 一般のお食い初めと同様の儀式が120日目ごろに行われる。
(2006年9月6日14時10分 読売新聞)

126名無しさん:2006/09/07(木) 22:41:34
>>125
当初は仁の方が例外的で、11世紀ごろに増えだし、
14世紀ごろにようやく定着といった感じですね。

足利尊氏に名を与えた後醍醐天皇は「尊治」でした。

http://nekhet.ddo.jp/people/japan/jpn-emp.html

127片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2006/09/07(木) 23:23:59
そういえば、年号も、M T Sと来て、アルファベットをかぶらないようにHにしたという話がありますね。
修文や正化ではSになり、もうその略称が使えなくなりますから。
修文のほうが引き締まったいい年号のようにも思えますがねぇ。

O K N Y J D あたりでしょうね、次は。

>>125>>126
護良親王とかいましたねー。
例外なのか原則でさえなかったのかよくわかりませんけども、当時はどういう意識だったんですかね。
伝統慣習重視の命名者が仁をつけて、型破りな思考の者がつけなかったりしたんだろうか。

かぶらないで「○仁」ってつけるのは大変だな。即位した人だけならまだしも、即位してない人も合わせると・・・。

孝仁、常仁とかですかね。思いつきですが、樹仁(みきひと、たつひと)なんてのはどうでしょうか。

128とはずがたり:2006/09/07(木) 23:49:44
例外はあるかもしませんが
醍醐天皇の皇子は○明(安和の変で失脚した源高明が有名)
村上天皇の皇子は○平
後醍醐天皇の皇子は○良
で統一してあったり,結構天皇毎の特色が出たりしてましたね。

129とはずがたり:2006/09/16(土) 12:23:22
素晴らしい対応だ,(新)津市。合併によるメリットはかくありたい。

旧明村役場庁舎が国登録文化財に
芸濃で解体の危機免れる
http://www.chunichi.co.jp/00/mie/20060916/lcl_____mie_____006.shtml

 15日の国の文化審議会の答申で、津市芸濃町林の「旧明(あきら)村役場庁舎」が登録有形文化財(建造物)になることが決まった。旧芸濃町が解体しようとしたが、合併後に津市がストップをかけ、間一髪で貴重な文化財が守られた。大正初期の官庁庁舎は珍しいという。

 同庁舎は1916(大正5)年の建築。木造2階建て瓦ぶき。下見板で張った壁、上げ下げ窓など洋風デザインで、明治と大正の様式を融合させた。角地の立地を生かして玄関を建物の角に配置。ポーチを張り出し、その2階部分をバルコニーにするなど玄関部分を強調した特色ある構造となっている。旧津署の外観を参考にしたといわれている。

 56年の合併で芸濃町役場明支所となり、71年から町資料館として使用してきた。旧芸濃町は昨年、老朽化のため解体を決めたが、合併で工事の執行を引き継いだ津市が一転、保存することにした。県内の登録有形文化財は建造物で58件目。 (矢野修平)

130とはずがたり:2006/09/27(水) 03:51:22

福島市は福島県の県都としては明らかに北に寄り過ぎており,福島県を福島県とするのは余り適切ではない様な気がしてた。県の地理上の中心なら郡山だし,若松の歴史も古い。福島に県庁を置いたのは会津の影響を成るべく小さくしたかった明治政府の意向があったのではないかと思ってたけど,福島市が長らく東北の地方中枢都市機能を仙台市と分担しており,可能性としては今の仙台市の様な位置に成長した可能性もあったというのもあったのではないか?とちょっとこの記事を読んで思った。

東北電力福島営業所ただ壊すには惜しい
http://www.fukushima-minpo.co.jp/news/kennai/20060925/ronsetu.html

 福島市は歴史的な建築物をまたも失ってしまいそうだ。同市置賜町の東北電力福島営業所社屋で、解体・撤去への動きが進んでいる。平成7年から行われている都市計画道路・栄町―置賜町線の拡幅に伴い、敷地と社屋の約半分が事業対象となっているためだ。保存や移築は極めて難しい現状だという。

 同営業所社屋は昭和2(1927)年に福島電燈(でんとう)株式会社本社として完成。その後、東北配電―東北電力に受け継がれた。コンクリート製一部石造りで洗練された外観。車寄せや玄関が撤去され、内部が大幅改修されているものの、昭和初期の面影を残した貴重な建築物と言える。本県の産業発展を支えた電力供給の拠点として近代化遺産の価値もある。また、庭園は大正時代に酒造業を営んでいた加賀屋総本家の別邸の庭だ。樹齢100〜150年のナシの古木が枝を伸ばす。

 同市内には、かつて日本銀行福島支店や県農工銀行(第一勧業銀行支店)など明治・大正期の建造物があった。しかし、改築などによって相次いで姿を消した。一方、花の写真館(旧日本電気計器検定所福島試験所)や御倉邸(旧日銀福島支店長役宅)など、古い建築物を保存・活用する動きも広がっている。市民の中から社屋保存を求める声が上がるのも当然だろう。

 拡幅事業はJR福島駅の東側一帯の慢性的交通渋滞の緩和や市街地の回遊性促進などが狙い。栄町―置賜町線は県道と13号国道を結ぶ延長220メートル。現在7〜8メートルの幅員を22メートルに広げ、両側に広めの歩道・自転車道を新設する。車道は交互交通に切り替え、駅前を発着するバスが迂回(うかい)せずに直進できるようになる。電線を地中化し、ミニ公園を設ける予定だ。総事業費は約42億円で、22年度完成を目指す。

 拡幅事業に異議を唱えるつもりはない。しかし、拡幅地を道路反対側に設定したり、営業所敷地を迂回することはできなかったのだろうか…。市によれば、拡幅はバスプール移転など駅前整備と密接に関連しており、反対側を拡幅すればバスプールからの道が「鍵形」となって円滑な通行を妨げかねない。迂回策も、道路延長が短いため「無理な形になる」としている。

 社屋をそっくり後退させる案もこれまでに検討された。背後地が狭い上、費用が新築以上にかかるため断念せざるを得ないという。地権者の多くが既に立ち退きを済ませており、現時点での変更は協力を無駄にする結果を招く。

 現在、市と同社が協議を重ねており、市は20年度にも工事に入りたい考え。「ナシの古木などは移植を含めて保存を検討したい」としている。近年は建物の外観や一部を残しながらビルを建設したり、イメージ・デザインを受け継ぐ開発も試みられている。建物についても、何らかの形で保存したり、“記念物”を残す努力を望みたい。約80年の県都の歩みを見つめてきた建物をただ壊してしまうのは、やはり惜しい。
 同市に限らず県内には貴重な建築物はまだ多く、今後も同様の事態が起こり得る。計画時には配慮を求めたい。何より「壊して建て直す」から「生かしながら再開発」への転換が必要だろう。(鈴木 久)

131小説吉田学校読者:2006/09/28(木) 20:57:05
>>130
明らかに道路の邪魔でもありました。建物を壊さずに道路をギリギリに広げる福島市の街づくりがダメなのであります。おかげで狭い路地ばっかり・・

福島の位置は確かに変で、「郡山遷都論」もありますが、「福島県はオーストラリアに形が似ているんだから、シドニーとキャンベラみたいに政治と経済がある程度分離していてもいいんじゃないか」論もあるのも事実ではあります。
「行政、農政は福島、経済は郡山」みたいな区分けが地元に染み付いて、もう慣れているのも確かではあります。でも、経済発展は阻害しているよね。。

132とはずがたり:2006/09/28(木) 21:27:34
>>131
どんちゃんさわぎをした友人どもには理由を話して見に行くの付き合って貰ったのでしょうか??とまれ乙っす。

>行政、農政は福島、経済は郡山
行政=福島,商業=郡山,工業=いわきのイメージでしたが,最近福島は仙台に買い物客迄取られて衰退してるのではないでしょうか?
嘗ては東北一の人口を有する福島県の県都にして山形にも仙台にも近いという地の利が結局活用されませんでしたねぇ。

>でも、経済発展は阻害しているよね。。
県都がその政治力故に県内で一方的に発展するという構図は不健全だと思いますのでまぁこれでも良いのかもしれません。。

133小説吉田学校読者:2006/09/28(木) 22:21:17
>>132
いやあ、福交飯坂線のわびしさ最強。
東北電力福島支店は福島駅のすぐ近くにありますよ。
まあ、それはそれでありまして、福島の地の利は「山形にも仙台にも近い」んですが、どちらも山を越えなきゃいけないのがきついところですね。

134とはずがたり:2006/10/21(土) 12:32:23

角栄時代は遠くに成りにけり??

<田中角栄元首相>中越地震で破損の胸像、修復されずに2年
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061020-00000020-mai-soci

 新潟県中越地震で破損した小千谷市の故田中角栄元首相の胸像(銅製、台座を含む高さ2.5メートル)が、地震から2年たつ今もそのままになっている。修復の話も出たが、建てられた当時の関係者の多くが亡くなっており、資金が集まらないという。ロッキード事件で元首相が逮捕されてから30年。地元では「角栄先生の威光も昔話」とのぼやきが聞かれる。
 胸像が建てられたのは元首相が蔵相当時の1964年。当時の市長ら有力支持者が発起人となり資金を募集、市内の彫刻家に依頼し、信濃川を見下ろす神社に建てた。
 地震では土台のコンクリート部分が崩れ、台座も横に約30センチずれた。地元や長女の田中真紀子衆院議員の後援会関係者らから修復の声が上がったが、管理者が分からず、費用負担の協議もまとまらなかった。いまだに修復費の見積もりすらされていないという。
 同後援会の幹部は「(真紀子氏の)事務所に修復や移転を要望している」と話すが、長岡市の同事務所は「小千谷市の有志が作ったもので、直接関係ない」と当惑顔だ。
 胸像の向かいで、元首相がよく訪れた料亭を経営していた内山芳郎さん(76)は「地震で小千谷はめっきりさびれた。田中先生が生きていれば、復興はもっと良くなったはず」とさびしげに話した。【前谷宏】
(毎日新聞) - 10月20日13時26分更新

135今亜寿 ◆nlHjMum/8M:2006/10/22(日) 09:18:58
>>134
角栄銅像といえばJR浦佐駅のものかとおもったら小千谷市ですか。
当時の市長って星野某ですかねえ。

私は北陸ツーリングにいったとき、銅像が長岡駅にあるかと思って駅前で
掃除してた老人に聞いたところ「みんなここ(長岡)にあると思って
聞くんだよなー」といわれましたw

136片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2006/11/23(木) 23:50:54
この資金提供って、どれくらいの意味合いがあったんだろう。

ライシャワー勧告で中止 自民党への秘密資金工作
http://www.sanyo.oni.co.jp/newsk/2006/11/23/20061123010003271.html

 ワシントン23日共同】1950年代後半から60年代にかけ、日本の保守政権安定と左派の弱体化を狙って自民党有力者らに資金を提供していた米中央情報局(CIA)の「秘密資金工作」は、工作発覚により日米関係に重大な支障が出ることを懸念した故ライシャワー駐日大使(当時)の勧告を受け、中止が決まったことが23日、分かった。関連文書の内容を知る米政府高官が共同通信とのインタビューで語った。

 自民党有力者と、旧社会党右派を指すとみられる「左派穏健勢力」に秘密資金を提供していた同工作をめぐってはことし7月、国務省刊行の史料集「米国の外交」で存在が確認された。しかし関連文書は公開されていないため、中止に至る経緯は分かっていなかった。

 高官はまた、米政府が秘密工作の中止に至る経過を伝える公文書3点の開示が、在日米大使館とCIAの反対で見送られたことを明らかにした。開示に踏み切った場合の日米関係への影響を危惧したとみられる。

 高官によると、ライシャワー大使は64年1月、国務省の要請を受け、秘密資金工作に関する意見を伝達。(1)日米関係が成熟し、親米政治家への資金提供の必要はなくなった(2)工作発覚時のダメージが大きい−ことを理由に中止を勧告した。

 高官は、ジョンソン米政権が最終的に工作中止を決める際、この勧告が「非常に決定的だった」と解説した。

 今年7月に国務省が出した「米国の外交」第29巻第2部「日本」は、秘密工作に関するライシャワー氏のホワイトハウスあて書簡など関連公文書を掲載せず「編集者による注釈」として秘密工作の概要だけを説明した。

137名無しさん:2006/11/25(土) 08:18:36
>>136
一番大きな効果は、社会党分裂・民社党結党('59〜'60)でしょう。

138名無しさん:2006/11/25(土) 08:20:58
左派弱体化狙い、秘密資金提供〜CIAが50年前、日本の保革両勢力に
http://www.usfl.com/Daily/News/06/07/0719_017.asp

 中央情報局(CIA)が1950年代から60 年代にかけて、日本の左派勢力を弱体化させ保守政権の安定化を図るため、当時の岸信介、池田勇人両政権下の自民党有力者と、旧社会党右派を指すとみられる「左派穏健勢力」に秘密資金を提供、旧民社党結党を促していたことが18日、分かった。

 同日刊行の国務省編さんの外交史料集に明記された。同省の担当者は「日本政界への秘密工作を米政府として公式に認めたのは初めて」と共同通信に言明した。

 米ソ冷戦が本格化した当時、日本を反共の「とりで」にしようと、自民党への支援に加え、左派勢力を分断する露骨な内政干渉まで行った米秘密工作の実態が発覚。日本の戦後政治史や日米関係史の再検証にもつながる重要史実といえそうだ。

 同省刊行の史料集「米国の外交」第29巻第2部によると、米政府は58〜68年「日本の政治動向への影響を狙った4つの秘密計画」を承認。アイゼンハワー政権は58年の総選挙前に「数人の親米保守の有力政治家」への資金提供を行うことをCIAに認めた。

 資金提供を受けた政治家には「米ビジネス界からの支援」との説明がなされたという。依然機密扱いの公文書を基に書かれた史料集は額や個人名を明かしていないが「適度の資金援助」が60年代も続いたとしている。

 またCIAは59年以降「左派穏健勢力」を社会党から分断し、「より親米で責任ある野党」の出現を目指した「別の秘密計画」を展開。民主社会党(後の民社党)が誕生する60年には、計7万5000ドルの資金援助を行い、秘密工作が打ち切られる64年まで同額程度の支援が続けられた。(共同)

■対米依存の「闇の構図」
 今回確認されたCIAによる日本政界への秘密資金工作は、当時先鋭化した米ソ対立や共産中国の台頭といった冷戦の激化を背景に、日本の左傾化を極度に恐れた米政府中枢の意思が介在した露骨な内政干渉だ。

 旧ソ連が旧社会党に資金提供していたことを示すソ連側文書はこれまでも見つかっているが、米国の秘密工作の影が、戦後政治の一角を占めた旧民社党の結党にも及んでいたことは衝撃的。日本の与野党が大国の資金提供を受けていた「闇の構図」が浮かび上がり、「55年体制」の新たな史的検証が必要となりそうだ。

 1958〜59年に立て続けに行われた総選挙、参院選などで資金が枯渇し、左派の躍進を強く懸念した自民党は、国内法的に違法性の高い外国からの資金援助に依存。明らかになった資料は、CIA主導の左派分断工作に乗じながら、保守長期政権の礎を築いていったことを示す。

 資金受領に携わった可能性がある岸信介、岸政権下で蔵相だった佐藤栄作両元首相らは、60年の日米安保改定や72年の沖縄返還という日米戦後史の大事業を成し遂げた親米保守政治家だ。

 安保改定や沖縄返還の際に「核持ち込み」の「密約」が交わされた経緯を考えると、米国の秘密資金工作が、「献金先」の親米保守政権が下した対米重要政策に影響を与えた疑念はぬぐえず、戦後の日米関係史にも見直しを迫る重要史実が今回確認されたといえる。(共同)

139とはずがたり:2006/11/25(土) 11:50:43
ううむ,民社の分裂で構造的に社会党が現実路線取れないばかりか,社会・民社の近親憎悪で共闘が巧くとれずに政権交代の機運を大きく削ぐなど罪は大きいなぁ。

140今亜寿 ◆nlHjMum/8M:2006/11/25(土) 14:20:50
>>139
向坂老人が率い、旧社会党の地方組織を抑えていた社会主義協会
の存在をスルーするのは片手落ちだと思いますけどね

141とはずがたり:2006/11/25(土) 15:32:30
>>140
まぁ向坂先生のはあれはあれで正々堂々となされたことですから。。

142小説吉田学校読者:2006/11/25(土) 18:50:35
>>140
西尾派離脱は、非協会系党員大量離脱が痛い。これで、旧社会党の場合、左右対立が、左の多数の党員と右の少数の議員とに分かれる「上下対立構造」になり、党員に影響力を持った向坂翁率いる協会の教条主義を打ち崩せなくなってしまった。
歴史にifが許されるのであれば、西尾、河上派に支えられた江田委員長体制、見てみたかったです。そしたら、高沢寅男あたりが「左の社民連」を作っていたかもしれない。

143とはずがたり:2006/11/25(土) 18:59:09
>>140-142
勿論私も協会派に引っ張られれ現実路線が取れなかった社会党を手放しで認めてるわけではないっす。
むしろ「西尾、河上派に支えられた江田委員長体制」見てみたいですね。

なるほど,面白いっす>「左の社民連」
作るのは「早めに出来た新社会党」じゃないですかね?それとも「本土の社会大衆党」か?

144今亜寿 ◆nlHjMum/8M:2006/11/25(土) 21:25:30
>>142
新自由クラブと社民連のジョイント(統一会派)も2年しか持ちませんでしたので…

145とはずがたり:2006/11/25(土) 22:43:18
>>144
新自由クラブ民主連合でしたっけ?
(右の)社民連は4人の所属国会議員を民社と社会の両会派に二人ずつ所属して接着剤たらんとしたりしましたが,左の社民連が出来てたならば社会と共産に半々で所属させたりして社共共闘させようと頑張ったりしたかもw

146小説吉田学校読者:2006/11/26(日) 07:09:09
>>144
「江公民」路線で、社会党の左派と民社党の極右派を切った社公民中軸路線。
社会党の左派は「左の社民連」を設立。人事・予算では閣外協力。個別政策はパーシャル連合。外にあって、社共対立、民共対立解消へと動く。

歴史にifあらせば、政権交代可能な体制が平成初めころには小選挙区導入待たずしてできていたかもしれない。

147今亜寿 ◆nlHjMum/8M:2006/11/26(日) 08:39:35
>>145
統一会派結成記者会見のあとすぐに柿澤弘治(当時参院議員&党政策委員長)が
「政策面の合意ができないのに統一会派組むのは反対だった」
と離党したとか、なんともまあ。

148今亜寿 ◆nlHjMum/8M:2006/11/26(日) 08:40:45
その13年後に柿澤さんは新進党結成時でも同じことやらかし、
結成パーティーに出る振りして逃げ出したりと

149片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2006/12/15(金) 22:07:32
ソ連と台湾が拒否権の応酬 日本加盟、土壇場で消える
http://flash24.kyodo.co.jp/?MID=RANDOM&PG=STORY&NGID=intl&NWID=2006121501000570

 【ニューヨーク15日共同】日本が国連加盟を果たす前年の1955年末、日本など18カ国の加盟を認める安全保障理事会の決議案が、当時の国連で中国を代表し西側陣営に属していた中華民国(台湾)と、ソ連による拒否権の応酬の末、土壇場で否決された際の安保理内の具体的なやりとりが15日、国連の公文書で明らかになった。
 55年の加盟失敗の事実は日本の外交文書などで公開されているが、国連文書は当時の安保理内の「大国外交」の実態を生々しく記録している。日本は18日に加盟50年を迎えるが、文書は現在と同様、拒否権を持つ5常任理事国に翻弄される日本の姿を映し出した。

150片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2006/12/16(土) 19:20:04
国体明徴運動・・・http://www.c20.jp/1935/10meic2.html

天皇機関説学者を個別攻撃 報復警告し、転向を強要
http://flash24.kyodo.co.jp/?MID=MYZ&PG=STORY&NGID=intl&NWID=2006121601000343

 【ワシントン16日共同】日本で軍部ファシズムの台頭につながった1935年の「天皇機関説事件」をめぐり、文部省思想局(当時、以下同)が憲法学者ら19人を「速急の処置が必要」など3段階に分類、機関説の修正に応じない場合は講義を担当させないなどの報復措置を警告し、学説の変更を強要していたことが16日、分かった。思想局の秘密文書が米議会図書館に保管されていた。
 事件から70年余。政府が学者を個別に攻撃、転向を迫る徹底した思想統制の過程が個人名や具体例とともに判明した。複数の専門家は、文部省による具体的な圧力の実態を記した文書が確認されたのは初めてだとしている。
 文書は、米国が終戦直後に日本で接収した「各大学における憲法学説調査に関する文書」で、計約450ページ。

文部省秘密文書の要旨 
http://flash24.kyodo.co.jp/?MID=MYZ&PG=STORY&NGID=intl&NWID=2006121601000413

 【ワシントン16日共同】米議会図書館所蔵の旧文部省思想局の秘密文書「各大学における憲法学説調査に関する文書」の要旨は次の通り。(原文の大半は片仮名交じりの文語体)
 ▽天皇機関説論者の分類表(文書の題名、日付なし)
 一、速急の処置が必要な者。著書や講義内容の絶版、改訂を要求、受諾しない場合は著書の禁止を考慮。憲法講義を担任させない=中島重(関西学院大)、田畑忍(同志社大)、森口繁治、野村淳治(早大、明大)、宮沢俊義(東大)、浅井清(慶大)、中野登美雄(早大)、副島義一
 一、厳重な注意を与えることが必要な者。絶版、改訂を要求、受諾しない場合は憲法講義をやめさせる、または休講させる=佐々木惣一(立命館大)、野村信孝(明大、専大)、竹内雄(明大)、藤井新一(早大、日大)、渡辺宗太郎(京大)、河村又介(九大)、吉田一枝(関西大)、中村進午(立大、日大、拓大、上智大)
 一、(1)機関という語を使用させない(2)不穏当な個所を改めさせ将来を誓約させる−の点について注意を与えることが必要な者=西川一男(国学院大)、志田☆太郎(立正大)、田上穣治(東京商大専門部)
 ▽文部省部内メモ「憲法学説に関する件」(1935年8月10日)
 一、関西学院大の中島重教授の申し出によれば、機関説は講義しないことにしたとのこと。改説ではなく、自省して同説を説かないという。
 ▽竹内雄明大教授の上申書「憲法講義の根本的立場」(同年10月4日提出)
 一、天皇が最高決定者。国家意思は天皇意思。天皇が国家の機関として意思決定をされるのではなく、天皇が統治主体として意思を決定されることが国家の意思となる。
 一、拙著憲法原論は根本的に修正しつつ講義を進めている。
 ▽文部省思想局あて関西大の書簡(同10月7日)
 一、学長は文部省で専門学務局長に面会、指導取り締まりの方法などを拝承。自ら佐々木博士、吉田教授に面接、講義で一切天皇機関説に触れないよう注意し、両氏は了承。
(注)☆は金ヘンに甲

151片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2006/12/18(月) 09:44:09
鳥居龍蔵を京大に誘う 内藤湖南あて承諾の手紙見つかる 徳島新聞
http://www.topics.or.jp/News/news2006121706.html

 徳島市出身の人類学の先駆者・鳥居龍蔵(一八七〇−一九五三年)が東大講師時代の一九〇七(明治四十)年、東洋史学者・内藤湖南(一八六六−一九三四年)あてに送った、京大への転職を承諾する手紙が見つかった。湖南は当時、東洋史講座開設に際して京大に招かれており、鳥居を誘っていたとみられる。

 京大への転職は実現しなかったが、県内の鳥居龍蔵研究者らは「当時三十代だった鳥居が学界で大きな評価を得ていたことが裏付けられる、貴重な手紙」と話している。

 手紙は、湖南の孫・内藤敬子さん=京都市=が所有する百六十三通の書簡に含まれていたもので、谷川道雄・京大名誉教授らでつくる「内藤湖南研究会」(事務局・京都)の会員・名和悦子さん=岡山市=が整理中に確認した。

 明治四十年九月五日付で、「先日御はなしありし貴大学『人種学』云々の件小生は承知いたしました。都合によりて東京大学をやめてもよろしい」と記している。鳥居がきみ子夫人とともに教員として赴任していた蒙古カラチン(現在の中国内モンゴル)から送っている。名和さんによると、『人種学』とは、湖南が中心になって設立を進めていた「人類学教室」のこと。

 二人の交友については、一九〇五年に中国・奉天(現・瀋陽)での民族問題調査時に宿舎で同室となり親交を深めたことが、鳥居の「ある老学徒の手記」や湖南の「游清第三記」に記されているが、湖南が京大転職を持ちかけていたことは、これまで知られていなかった。

 前県立博物館長の天羽利夫さんは「鳥居は五十四歳で東大を助教授で去るが、もし京大へ移っていれば日本の人類史の歴史が変わっていたかもしれない」と話し、「湖南がどのようにして鳥居を誘ったのか、なぜ京大への転職が実現しなかったのか、県立鳥居記念博物館に残されている膨大な資料を整理・調査していけば、そのいきさつを解き明かすことができるかもしれない」と言う。

 また、その手紙には「家内よりもよろしく申居候 令夫人へもよろしく」とも記されており、同会会員の葭森(よしもり)健介・徳島大教授(中国史)は「鳥居と湖南の間に公私にわたる交友があったことがうかがえる。明治・大正期の研究者の交友関係がみえてくる点でも、非常に興味深い」と話している。

 ないとう・こなん 秋田県生まれ。本名・虎次郎。秋田県立師範学校卒業後、「萬朝報」主幹などを経て、1907年に京大の東洋史学の講師となり、09年から27年まで教授。東方文化学院京都研究所(現・京大人文研)評議員を務めるなど東洋史学の発展に貢献し、「京都学派の祖」と呼ばれる。

【写真説明】鳥居龍蔵から内藤湖南へ送られた手紙。京大への転職を受諾する内容となっている=内藤敬子さん所蔵

152とはずがたり:2006/12/20(水) 09:36:41
「中国正規軍による日本軍への不法攻撃」や「日中和平を拒否する中国側の意志があった」の表現になんら間違いは無いやろ。日本が中国に侵略していることに対しての反撃なんだから。ここをどう誤解されると云うんだ?ずれとるなぁ。

靖国神社:「遊就館」の展示 一部表現を変える方針
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20061220k0000m010169000c.html

 靖国神社は19日、戦史博物館「遊就館」に展示している歴史記述で、当初は「見直す必要はない」としていた中国関連の記述について、一部表現を変える方針を決めた。10月に修正することを決めていた第二次世界大戦の米国関係部分に加え、来年1月1日から新しい展示に切り替える。

 新たに修正することを決めた中国関連の展示パネルは、「日露戦争から満州事変」「満州の歴史」「支那事変」の三つ。

 修正後の具体的な表現は最終調整中だが、例えば「支那事変」のパネルは、盧溝橋事件(1937年)が起きたきっかけとして、現在は「中国正規軍による日本軍への不法攻撃」や「日中和平を拒否する中国側の意志があった」などと表現しているが、「事実関係に誤りはないが、表現が足りずに誤解を与える部分があったので、もう少し柔らかい表現に言い換える」(監修関係者)という。他の2展示も、基本的には同じ考え方で見直す方針だ。

 また、記述の根拠となる史料として、中国側の刊行物も含めて多数提示し、一方的な記述ではないことを強調することも予定している。

 このほか「ヒトラー」「スターリン」「ルーズベルト」を同列に並べている展示方法や、「日米交渉」のパネルの記述についても見直す。

 同神社は今回の修正を「中間報告」と位置付けており、来年7月の遊就館新築5周年に向け、全面的な変更を検討している。【野口武則】

毎日新聞 2006年12月20日 3時00分

153とはずがたり:2007/01/08(月) 13:52:26

満州建国に尽力した故工藤忠資料館開館へ
子孫が春オープンへ準備
http://www.mutusinpou.co.jp/news/07010102.html

 満州国皇帝溥儀の侍従長を務めた板柳町出身の故工藤忠(本名・鉄三郎)さんの生家にゆかりの資料を展示しようと工藤さんの子孫の妻に当たる工藤静子さん(57)=同町小幡=が春ごろのオープンを目指して準備を進めている亡き夫正道さん=享年(63)=の遺志を継いだもので静子さんは「資料館のほか喫茶コーナーも設け地域住民に親しまれる場所にしたい」と意気込んでいる

 工藤さんは1882年(明治15年)生まれ。陸羯南らの影響で大陸への思いを募らせ、結氷の間宮海峡を徒歩で横断するなどして数回渡支。満州建国に尽力し、建国後は侍従長陸軍中将に任官され「忠」の名を賜った。その後日本に帰国し、1965年(昭和40年)に死去した。
 生家は築130年ほどで、広さは約260平方メートル。老朽化した母屋の活用法について数年前から夫婦で構想を練ってきた。だが2005年4月に正道さんが死去し、残された静子さんが私費を投じて志を継いだ。
 改築工事は06年4月から始まり、屋根と土台部分の直しを終えた。今後は内部を改装し、生家にある工藤さんの書、掛け軸、写真などのほか、町立郷土資料館に寄贈した資料約60点も併せて展示する計画だ。
 現在、陸奥新報の毎週火曜日付に、いずみ涼さん作「皇帝の森―ラストエンペラー溥儀と工藤忠」が連載されていることもあり、生家を訪ねてくる歴史ファンもいるという。郷土資料館長を務める中谷豊教育長は「激動の時代に活躍した郷土の偉人の遺品が実家に展示されれば、町民が(工藤さんに)再び目を向けるきっかけになると思う」と語り、関係者も「町の新たな観光スポットとなるのでは」と期待を寄せている。
 静子さんは「庭にはサクランボやクリなどの木があるので、展示館だけでなく庭も地域の子供たちのために活用したい」と夢を膨らませている。

154名無しさん:2007/02/16(金) 00:18:20
[正論]現代史家・秦郁彦 アジア女性基金の遅すぎる解散
http://www.sankei.co.jp/ronsetsu/seiron/070206/srn070206000.htm

 ■誤解招く「河野談話」を取り消すべき

 ≪元慰安婦償い事業終了≫

 「アジア女性基金ニュース」第28号(最終号)なる刷り物が先日送られてきた。12年つづいた元慰安婦たちへの「償い事業」が今年3月末に終了、基金(村山富市理事長)が解散するというお知らせである。

 「償い事業への募金にご協力くださったみなさまへ」と題し、韓国、台湾、フィリピンなど計285人の元慰安婦たちに対する5億6500万円の支援事業が終わったという新聞公告を見たのは平成14年7月だから、「えっ、まだ解散していなかったの」とおどろく人もいよう。

 政府の補助金に全面おんぶするこの種の特殊法人は、あれこれと理由をつけては延命をはかるのが常道。女性基金も慰安婦たちのアフターケアが必要だとか、アフリカに女性会館を建てたいとか、いろいろと画策しているのを筆者も耳にしていた。

 ニュース28号でも和田春樹専務理事が「政府の形を変えた支援措置が望まれる」と未練たっぷりに書いているが、かねがね基金の事業を「税金の壮大な無駄遣い」とみなしてきた筆者は、仕事もないのに5年も延命させた責任を問いたいぐらいだ。ではなぜ無駄遣いなのか。

 国民から集まった浄財は5億円余だが、それを配る基金の人件費や事務経費に毎年3億〜4億円、合計すると50億円前後の国費を投入しているからである。

 しかも認定作業は相手国政府に丸投げ、送金は銀行がやるから、関係省庁や市民団体からの「天下り」職員は、時折開くシンポジウムのお膳立てか、作文コンクールの審査ぐらいでお茶を濁してきた。

 ≪米議会も対日非難決議案≫

 それでも国連のお墨付きまでつく日本の恥部にされてしまった慰安婦問題が決着したのなら50億円は安いものだが、そうはならなかった。野党3党は、この解決策は国が法的責任を回避するものだとして、韓国NPOなどと連携、別に公式謝罪と国家補償を軸とする救済法案を13年から何度も提出した。

 そのつど廃案になったが、まだあきらめていないようだ。条文のなかには「いまだ判明していない被害者の調査」もふくまれている。

155名無しさん:2007/02/16(金) 00:18:35
 こうした動きはアメリカにも飛び火して、同趣旨の慰安婦問題に関する対日非難決議案が下院に上程された。日本大使館の奔走もあり、決議案は昨年12月廃案となったが、日系3世のマイク・ホンダ議員らが中心となって1月31日、再上程にもちこんだ。

 さすがに自民党の有志議員による「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」小委員会は、いわゆる「河野談話」の見直しに向け、年頭から活動を始めた。

 河野談話とは5年8月4日、宮沢内閣の官房長官河野洋平氏(現衆院議長)が発表した政府見解で、新聞は「従軍慰安婦−政府、強制連行を謝罪」(読売)のみだしで報道した。筆者はその前日に担当の内閣外政審議室長から原案への意見を求められ、いくら政治的妥協とはいえ、たしかな証拠なしに強制連行を認めるかのような表現を入れると、必ずや将来に禍根を残すと切言したが、河野氏が事務局の抵抗を押し切ったとあとで聞いた。

 それから十数年、わが国では櫻井よしこ氏らの努力でこうした内情はかなり知られてきたが、海外では国連をふくめ、河野談話は日本の公式見解として定着してしまった。この誤解を解くには、285人の元慰安婦で官憲が強制連行した例は1件も見つかっていない事実をふくめ、河野談話を明確に否定する声明を出すしかないと思う。

 ついでに書けば、筆者は以前から河野という政治家のあやふやな歴史認識に危惧(きぐ)の念を抱いてきた。最近では昨年10月、ベトナムのズン首相を国会に迎えたとき「先の大戦で、わが国の軍政下において多数の餓死者を出したことを忘れてはならない」(10月25日付朝日)と挨拶(あいさつ)している。

 ≪ベトナム大量餓死の誤認≫

 餓死説の起源は、ホーチミンの独立宣言に出てくる「200万人餓死」のくだりだが、ベトナムはフランスの統治下にあり、日本が軍政をしいたのは餓死が下火になりつつあった昭和20年3月以降の5カ月にすぎない。

 それをフランスではなく日本の責任と言いだしたのはわが国の一部歴史家と運動家だが、ベトナム政府はその扇動に乗る気配はない。

 河野議長の迎合的言動をズン首相は黙殺したらしいが、朝日紙上で話を振られた河野氏は「過去を学ばねば流される」とのたまった。河野さん、まさか基金を作って謝罪と補償をと言い出さないでしょうね。(はた いくひこ)

(2007/02/06 05:53)

156小説吉田学校読者:2007/02/26(月) 07:10:28
酷評。国士なんてこんなもんだよ。

児玉氏・辻氏は使えず…米反共工作でCIA分析
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20070225it16.htm?from=top

 【ニューヨーク=大塚隆一】米国の情報機関が東西冷戦初期、日本の戦犯容疑者や右翼を使って進めようとした反共工作や情報収集について、米中央情報局(CIA)が役に立たないケースが多かったと分析していたことがわかった。
 AP通信が24日、米国立公文書館で2005〜06年に解禁されたCIAの極秘文書をもとに伝えた。
 それによると、CIAなどの米国の情報機関は第2次世界大戦後、右翼の大物で後にロッキード事件の被告になった児玉誉士夫氏や戦犯容疑を免れた元陸軍参謀の辻政信氏らに接近した。
 しかし、CIAの文書は「彼らは自らの威信や利益のために情報をたびたび捏造(ねつぞう)した」「日本の戦後は、驚くべき数の、役立たずの情報提供者を生み出した」と指摘。工作資金を持ち逃げされたり、同じ情報が米国の複数の機関に売られたりした例もあったという。
 児玉氏の反共工作への関与の程度は不明だが、CIAは1953年の文書で、「情報要員としての価値は無きに等しい。彼はプロのうそつき、ギャング、ペテン師、大泥棒だ。もうけることにしか関心がない」と酷評。辻氏については、連合国軍総司令部(GHQ)の情報部門が対中工作を指揮させようとしたものの、逆に日本の再軍備のために米国を利用しようとしたと分析し、「第3次世界大戦さえ起こしかねない男」(54年の文書)と警告した。

157やおよろず:2007/02/26(月) 12:15:26
>>156

 この文からすると、辻政信は「国士」として評価できるような気がしますね

158小説吉田学校読者:2007/02/26(月) 21:20:26
稲田氏の場合は目的語が「写真」なのか「虐殺」なのか不明なので評価は避けますが、松原氏は「虐殺が事実無根」などと本当に言ったのか。
少数説までは、私も許容はできるのだが、さすがに「ゼロ」となるといかがなものか。感覚を疑われかねない。

「南京事件の真実を検証する会」が初会合
http://www.sankei.co.jp/seiji/seisaku/070226/ssk070226003.htm

 自民、民主の若手国会議員で作る超党派の勉強会「南京事件の真実を検証する会」は26日、国会内で初会合を開き、藤岡信勝拓殖大教授が中国系米国人、故アイリス・チャン氏が著書「レイプ・オブ・南京」で、「南京大虐殺」の証拠として掲載している写真の真偽を検証した。
 会合には自民党から14人、民主党から8人の国会議員が出席し、秘書らの代理出席を合わせると計48人が参加した。民主党の松原仁衆院議員は「虐殺が事実無根だということを資料を通じて国会議員が知っておく必要がある」とあいさつ。自民党の稲田朋美衆院議員は「うそだと分かっていることに抗議しないことが国益を損ない、国家の名誉を棄損している」と語った。
 藤岡氏はチャン氏の著書の写真11枚について合成部分や修正個所、写真説明の改変の跡を1枚ずつ説明し、「大虐殺があったとする証明の写真は、検証すれば間違いだと証明できる」などと指摘した。

159小説吉田学校読者:2007/02/26(月) 21:26:32
>>156-157
今亜寿氏でしたか「売国と簡単に言葉にするようなのは信用できない」と言いましたっけ。
私は、それと対になる形で「国難」とか「救国」とかいうのも信用できないんですねえ。

自民党結成資金の一部まで出して反共運動を起こしていた児玉氏ですけども、ならばなぜ共産党が少ないとはいえ国会に議席を持っているのか。
児玉氏に使った金はムダだったわけで、50年経ってCIA文書は、人物評価という一面をもってして輝きを持つのであります。

160とはずがたり:2007/02/26(月) 21:35:12
>>159
それらに加えて「国益」なんてのも同様かと。
まぁ煽りで俺も連発してますけどw
ネット上でも現実世界でも本気になって使っている人はちょっと疑ってしまいますねぇ〜。

161小説吉田学校読者:2007/02/26(月) 21:38:58
>>160
国益はまだ許容できるんですが、そこから発展して、「国益って具体的に何を指すのか」と問われると、みんな詰まるのね。右も左も。だったら使うなって(笑)。

162片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2007/02/26(月) 21:57:44
>>160-161
大まかな概念じゃないですかね。
個人対個人で面と向かってどうこうするのは場違いかと思いますね。
でも、外交や安保の話では使える場面もあると思うんですけど。

ちょっと関連する話題だと思うんですが、辛淑玉がゲストのこの嶌信彦のラジオが面白かったですね。
辛淑玉って悪評が立っている人という印象で、どういう人かその実知らなかった私ですけど。
http://www.tbs.co.jp/954/shima.html

163今亜寿@ ◆nlHjMum/8M:2007/02/26(月) 23:17:26
>>159
国益とか売国ってのは長い歴史のスパンで初めて
評価できる、そういう事象が多いのでは思ってる次第で。
そういう意味で幕末の小栗忠順や明治の小村寿太郎なんかは
じっくりといろんな文献集めて読んでみたい人物かなと思います。
(あ、もっとわかりやすく勝安芳がいたか)

164名無しさん:2007/02/26(月) 23:39:15
>>156
辻つながりで…1952・吉田首相暗殺&クーデター計画。

旧日本軍将校ら、吉田首相暗殺を計画…CIA文書
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20070226it14.htm

 【ニューヨーク=大塚隆一】旧日本軍の参謀本部作戦課長を務め、戦後は連合国軍総司令部(GHQ)の秘密工作に関与した服部卓四郎氏らが1952年7月、当時の吉田茂首相の暗殺を企てていたとする報告が解禁された米中央情報局(CIA)の文書から見つかった。

 同年10月31日付のCIA文書によると、服部氏ら旧日本軍将校を中心とする6人のグループは、吉田首相が公職から追放された者や国家主義者に敵対的だとして不満を募らせ、暗殺によって首相を鳩山一郎氏にすげ替える計画を立てた。

 しかし、戦時中からの盟友で、グループの表向きの代表になっていた元陸軍参謀の辻政信氏が「クーデターを起こす時ではない」「敵は保守の吉田ではなく、社会党だ」と説得し、思いとどまらせたという。

 CIA文書には、計画の具体的な内容は記されていない。

 一方、同年に衆議院議員に当選した辻氏は61年、ラオスで消息を絶つが、CIA文書は北ベトナムからラオスを経て中国に入り、63年、共産党当局に拘束された可能性を指摘している。中国で処刑されたとする未確認情報もあるという。
(2007年2月26日22時1分 読売新聞)

165とはずがたり:2007/02/26(月) 23:53:15
wikiで辻とか小栗とか調べて読んでましたが,辻は参院議員にもなって挙げ句の果てに行方不明と波瀾万丈の人生ですな〜。

166やおよろず:2007/02/26(月) 23:57:26
>>158

 事実関係を詰めても、声の大きいほうが勝つのだから、徒労に終わる気がしますね
 
>>161

 ある程度、客観的に観測可能なものでないと、議論のしようがありませんね。

>>162

 交渉内容の有利さで、国益を測定できるのだ思いますが、
 国家目標がまったくわからないので、日本に関してはどこまで使えるのかはわかりませんが

167名無しさん:2007/02/27(火) 00:08:22
>>159
「地球市民」というのも信用できませぬw

>>162
相変わらず中身のない反日&韓国万歳だなぁ>シンスゴ
遠回しにホリエモン失脚を残念がっているのにワロタ
あと米軍にいる在日にインタビュー云々とさらりと言ってのけたけど、
[韓国籍+日本の特別永住資格+アメリカのグリーンカード(永住権)+市民権?]を
持っているというのはすごいな。
韓国に入国すると韓国の徴兵忌避で逮捕されそうな気もするけどw

168やおよろず:2007/02/27(火) 00:14:09
>>167

 株式保有という点からいくと、小泉政権時に「地球市民」化が一気に進みましたね
 特に、経済の中枢というべき銀行に関しても例外なく

169とはずがたり@自称コスモポリタン:2007/02/27(火) 00:27:06
>>167
地球市民は非常に素晴らしい発想だと思いますよ,胡散臭さはよくわかりますけど…w
近代国家など糞喰らえだヽ(`Д´)ノ

170とはずがたり:2007/02/27(火) 00:28:56
>>168
小泉には銀行株で資産倍増させて貰ったので頭あがらないかもっす。。

171やおよろず@マルクス主義者ではありません:2007/02/27(火) 01:02:45

 >>169

 資本主義は帝国主義的拡大を伴う(ローザルクセンブルグ)のでありまして、
 資本主義の力で、地球市民が誕生するのではないでしょうか?

 ドル危機論争で、危機否定の有力説として、
 資本主義の拡大により新興国が外貨準備としてドルを選択するので、ドル需要が拡大し、ドル暴落は起こらない
 というのを見て、まさに「資本主義」の「帝国主義的拡大」だなと思いました。


 しかし、近代国家崩壊後の世界は、無秩序か巨大権力による統治かの2者択一のような気がしますけど

172片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2007/02/27(火) 01:24:13
>>167
中身の無い反日なんですかね。
アメリカのことなんかは当たってる面があるなと思ったんですが。
反日に洗脳されますかね、私。

173片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2007/02/27(火) 01:33:55
>>169>>171
前にデヴィッド・ヘルド読んでそのへん勉強したけど、もうすっかり抜けちゃってる。哀しい。

174片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2007/02/27(火) 01:57:11
ちょっと読み返してみましたが、
ハイエクが理想としていたような「国境による制約を受けない市場」と裏表の関係にありますね、コスモポリタンな考え方は。
地球市民というのがコスモポリタンな法の支配(国境を越えた市場のもとでの自律性確保)を求める考え方だとすれば、小泉政権時云々ってのはよくわからないですけどね。

なんだかよくわかりませんが、結局、暴力による担保をゼロにはできないから、一般的イメージにあるような脳天気な「地球市民」的な考え方じゃ行き詰まりますよね。

175やおよろず:2007/02/27(火) 02:23:06
>>174

>>ハイエクが理想としていたような「国境による制約を受けない市場」と裏表の関係にありますね

 ハイエクに関しては、仮想しているのがパクスブリタニカであり、国際化による倫理の崩壊まで考えが及んでいなかったという批判があります。

 ハイエクにしてもマルクスにしても、市場における運動法則に絶対の信頼を置いていたので、突き詰めて考えれば結論が似たものになるのは、まあ必然的でしょう。

>>小泉政権時云々ってのはよくわからないですけどね。

 日本においては小泉政権時にコスモポリタンな法の支配が確立したということです。

>>暴力による担保をゼロにはできないから

 ゼロどころか、現在よりも格段に強力な暴力を必要とすると思います。

176片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2007/02/27(火) 02:40:44
>>175
やおよろずさんより経済わかってないと思うのでそのへんはご勘弁ください。

>市場における運動法則に絶対の信頼を置いていたので
なるほどと思いました。

コスモポリタニズムな法の支配とは、むしろ、超国境市場の現実におされる個人(市民)の政治的権利や自律性を確保するためと思われるので、あえて小泉政権というのもどうかなと思うんですけど。
グローバリズムという意味では小泉政権ってのもアリだなとは思いますが。コスモポリタニズムの要請が強まる状況を出来したという意味で(まだ日本ではそこまで個々人困窮してないかもしれないけど)。
まぁ定義とかイメージの問題で、「地球市民」を現状に結びつけるのも絶対ダメというわけではないでしょうけど。

>ゼロどころか、現在よりも格段に強力な暴力を必要とすると思います。
だから、無政府主義とか単一政体主義とかは、明らかに無茶な志向ですよね。
一方で、コスモポリタニズムは、突拍子も無いその名称ながらw、現実的路線もありうる。市場任せの「自由」に対して個人の「自由」を守るための介入はどうなされるべきかという、程度問題として出てくる。

しかし、まぁこういうのも、曖昧な言葉だから、説明無しに使ったり使う場面を間違えると、「国益」と同様なのかも。

177とはずがたり:2007/02/27(火) 04:43:33
みんなお詳しいですなぁ〜・・。
特にやおよろず氏は片言丸氏と同じ分野の人かと思ってましたが経済畑の人でしたん??

>>171
>資本主義の力で、地球市民が誕生するのではないでしょうか?
そうだと思いますよ。
先進国の労働者が資本主義の発展の過程で富裕化(マルクス的に云えばプチブル化)して,資本主義が(マルクスが想定したような社会主義ではなく)修正資本主義に変成しつつ,資本主義下の労働者が社会主義革命への担い手たることを止めた(むしろ社会主義への反対者として立ち現れるようになった)訳ですから,コスモポリタンが(修正)資本主義(今日風の言葉で言えばグローバリゼーション?)の裏打ちがあって成立してたとしてもまぁ宜しいかと。

>ゼロどころか、現在よりも格段に強力な暴力を必要とすると思います。
俺は憲法九条を非現実的だと思いながらもその理想論を是とする人間ですから。
その理想を前提としつつ,暴力やパワーポリティクスにどう対処してゆくかは現実的に思考すべきであると思ってます。

178やおよろず:2007/02/28(水) 13:55:59
>>176

>>超国境市場の現実におされる個人(市民)の政治的権利や自律性を確保する

 これの役割を果たすのが、国家でしょうな。
 さらに、その権利や自立性の内容は、国家による差異があってしかるべき。
 この辺の普遍化は、世界を支配するような巨大権力による圧制にほかなりません。

>>市場任せの「自由」に対して個人の「自由」を守るための介入はどうなされるべきか

 市場運動の完全性を仮に認めたところで、市場均衡は永久に達成されない。
 経済は均衡点の周囲の円状を周回し、不均衡状態が継続し続ける。
 という論もあります。(岩井克人「不均衡動学論」岩波書店・・私の理解が間違っているかもしれないので、時間があれば是非お読みください)

 氏は、その不均衡状態の正体は、さまざまな形での「差異」である。
 また、その不均衡状態が利潤を生み出す企業活動を引き起こすのだ、というように展開しています。

 市場の「自由」から守るべき個人の「自由」とは、この差異性ではないでしょうか?
 国際化の流れの中では、個人に限らず万物が標準がされていきますから、そこから守るべきものは「差異」ではなかろうかと。
 国境を設ければ、人間は普遍的な個人ではなく、国民になります。

 かなり荒い論立てですが、このようなことからも、現実的なコスモポリタニズムこそが、現存の国民国家体制ではなかろうかと思います。


>>177
 
 >>先進国の労働者が資本主義の発展の過程で富裕化(マルクス的に云えばプチブル化)して,
   資本主義が(マルクスが想定したような社会主義ではなく)修正資本主義に変成しつつ,
   資本主義下の労働者が社会主義革命への担い手たることを止めた(むしろ社会主義への反対者として立ち現れるようになった)訳ですから,
   コスモポリタンが(修正)資本主義(今日風の言葉で言えばグローバリゼーション?)の裏打ちがあって成立してたとしてもまぁ宜しいかと。
 
 19世紀に近代国として成立した諸国家について普遍的に当てはまる事実だと思います。
 しかし、これは史上最大の経済成長に支えられた、一過性のものではないでしょうか?
 「修正」資本主義の「修正」の部分が統一されていくのが、現在進行形の「国際化」の姿かと思います。
 「修正」の統一は不可能であるか、強国モデルの世界標準化でしょうから、「自由」か「強圧」かの選択になることと思います。
 よって、無修正資本主義、または、アメリカ資本主義によるコスモポリタニズムにしかならないのではないかと懸念しています。

 >>コスモポリタンが(修正)資本主義(今日風の言葉で言えばグローバリゼーション?)の裏打ちがあって成立してたとしてもまぁ宜しいかと。

 まだ完成の状態ではなく、国家による修正があります。
 純正資本主義が存在するかどうかは、また別の議論でしょうけど、各国に修正権のあるうちは、コスモポリタンの完成とはいえないでしょう。

 コスモポリタンの概念にやや近いのは、ヨーロッパ諸国でしょう。
 少なくとも金融が超国家権力に握られていますから。
 国民国家とはまったく別の次元で、統一的な標準が作られていくわけですから。
 超国家機関に権力を握られては、民主主義の手から権力が離れたも同然であり、このような事態が各分野で進展していくことこそ、地球市民化でしょう。

179やおよろず:2007/02/28(水) 14:19:44
訂正
×「不均衡動学論」
○「不均衡動学の理論」

180片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2007/02/28(水) 15:29:36
>>178
いろんな方向から語れる問題であるだけに、言葉遣いが難しいですね。

”国に属している、地域に住んでいるという意識がなければ
語り始める土台を有さない人になってしまう”、という意味で言えば、
「地球市民」をグローバリズム全面擁護の人と見ることになるし。
(地元アイデンティティがないなら、
 「他をさておき我が地域を守れ」と主張するのは矛盾的だし。)

ですが、ボーダーレスな企業活動をする側でなく、
むしろその現状を危惧する立場から「地球市民」という言葉を使ったりすることが実際は多いんじゃないでしょうか。
たとえば、「フェアトレード」を提唱したりする人たちとか。

日本では、あまり深い考えなしに、平和的国際的人的協力とか、反戦非戦運動とか、
そういうのを主張する人たちが使ったり、逆にそういうのを嫌う人たちが使ったりしてる感じですが。

そういう意味では、地球市民という言葉はワケがわからない。

近年のグローバル化反対勢力ですが、やおよろずさんの定義での「地球市民」に反対してるみたいなことになりますが、一体どうなってるの、と。
http://www.ken1.tv/kizon/article9912.html



話がバラっとしてしまいましたが、直接の返答をしておくと、
単一政体化は>>176に書いたとおりもちろん無茶なものであるけど、
政治的権利や自律性というものは、国家間の差異と簡単に片付けられるものではなく、
それが保障されるように、国際間で協力して努力するというのはよいことだと思います。
それが保障されることが圧制(圧政?)というのはおかしいと思います。

確かにEUだと、EUの政策決定にEU民が直接的に関与するのが難しくなり、
そういう意味では一定の政策に関する政治的権利や自律性が失われがちといえるかもしれませんし(それでも直接選挙の欧州議会ってありますけど)、
それが進んでいき、国をまさしく統合したり、国の意義が代議員輩出のみになったりすると問題でしょうけど、
現状、政治に参加しておおよそのことを言う権利やおおよそのことを決める自由がそれぞれの国で守られ、
基本的に各国民がそれぞれの国・地域の政策を決しているのであり、そういう状況を圧政とはいわないんじゃないでしょうか。

181やおよろず:2007/02/28(水) 23:05:59

>>近年のグローバル化反対勢力

>* 例えば各国が持つ、環境・労働基準・公衆衛生・消費者保護などの規則がある。WTOの主な役割の一つは、貿易上の非関税障壁撤廃なので、貿易促進の立場から見ればこうしたルールも「障壁」だ。そうなると、これらの「調和」を図るべく、最大限の保護効果を上げている加盟国の法律が、最も自由な=保護力最低ラインの国の水準に引き下げられる恐れがある。(悪しき過保護の撤廃は良いにしても。)自給自足でうまくいってる農村に、多国籍企業が「WTO」の旗を掲げて入って来て、新しい市場のルールがあてがわれ、自給も出来なくなってしまう、という懸念がある。
>* ある産品の輸入を衛生上の問題や環境破壊の危険があるとして拒むなら、売る側が無害性を示すのではなく、拒む側が有害性の科学的根拠提出を求められる。 これは、市民運動のみならず、加盟国間の根本的な対立の一つだ。例えば、成長ホルモン漬け牛肉、遺伝子組換え作物に慎重でありたい社会への輸出攻勢などが、これに当たる。
>* 外国産品に対する差別の禁止原則(自国産品同様に扱え)…というと聞こえは良いが、「我が社会の尺度では許されない人権無視の生産方法だ」と考えてある産品の輸入を拒否しても、制裁されてしまう可能性もある。
>* 「農産物の自由な輸出入」で食糧危機国から穀物が、「林産物の自由な輸出入」で森林破壊国から丸太が、歯止め無く流出する。
>* 絶滅危険種や有害廃棄物の取引は防げるか?
>* 武器貿易に歯止めがかけにくくならないか?

 1番目に凝縮されてますね。

>>近年のグローバル化反対勢力ですが、やおよろずさんの定義での「地球市民」に反対してるみたいなことになります

 「地球市民」に反対しているかどうかは、微妙ですね。
 環境・労働・消費者保護・武器取引が、この団体の言うように規制されたとしたら、この団体は反対運動を起こすでしょうか?
 逆に、多国籍企業は「グローバリズム」大反対!となるのではないでしょうか?
 この団体連合軍は、「グローバリズム自体」ではなく、「グローバリズムの中身」に異議を申し立てているのではないでしょうか?

 私は「グローバリズム」自体に反対しているわけです。
 「グローバリズム」は、絶対的「自由」か画一的「倫理」、または両者の混合でしか、なしえないと思います。
 「自由」は「倫理」の放棄に他ならないからです。
 旧来の倫理観から解き放たれることが「自由」であり、そこでは自分の「倫理」が通用しない。
 「自由」を絶対視すれば、「倫理」の出る幕はない。
 自らの「倫理」が通用していた領域が「自由」に蹂躙される。
 古来から延々と続く「倫理」を墨守しろという意味ではありません。
 変えるにしろ守るにしろ、もっと慎重であるべきだということです。
 「自由」を絶対化すること・「倫理」が画一化されることは、危険であると主張したいわけです。

 国家を絶対視しているわけではありません。
 できることなら地域・職域に細分化された「民主」が望ましいと思います。
 しかしながら、地域・職域が実力で「倫理」を維持するだけの力はないのではないかと思います。
 よって、国家がこの地域・職域の「倫理」を守るということが必要ではないかと思います。


 私には手に負えない壮大なテーマなので、駄文かつ長文なのを、お許しいただきたい。

182やおよろず:2007/03/01(木) 12:39:10
河野談話 慰安婦「強制性」に韓国から働きかけ

 宮沢内閣末期の平成5年8月、河野洋平官房長官(当時)は「慰安所の設置、管理および慰安婦の移送は旧日本軍が直接、間接に関与した。慰安婦の募集は、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、甘言、強圧によるなど本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、官憲等が直接これに加担したこともあった」とする談話を出した。

 官憲による慰安婦募集の強制性を認めたもので、韓国などにより、日本政府が正式に慰安婦の強制連行を認めたと拡大解釈、宣伝された。

 しかし、談話の根拠は元慰安婦女性からの聞き取り調査だけで、9年3月の参院予算委員会で平林博内閣外政審議室長は「個々の証言を裏付ける調査は行っていない」と答弁。河野氏自身も同年、自民党の「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」の会合で「強制的に連行されたものかについては、文書、書類では(証拠は)なかった」と述べている。

 証拠がないにもかかわらず、政府が強制性を認めたのはなぜか−。河野談話作成にかかわった石原信雄元官房副長官によると、当時、韓国側は談話に慰安婦募集の強制性を盛り込むよう執拗(しつよう)に働きかける一方、「慰安婦の名誉の問題であり、個人補償は要求しない」と非公式に打診していた。日本側は「強制性を認めれば、韓国側も矛を収めるのではないか」との期待感を抱き、強制性を認めることを談話の発表前に韓国側に伝えたという。

(2007/03/01 11:00)

http://www.sankei.co.jp/seiji/seisaku/070301/ssk070301000.htm

 ことなかれ主義が、問題を拡大させたって事かな?

183小説吉田学校読者:2007/03/02(金) 06:57:19
南京虐殺の方に対する私の書き込みに反応が大きいかなと思ったのですが、コスモポリタンまで話が及ぶところ、さすがの論客陣であります。

情けない話で、バカがやったことだと思います。他方、真面目に書き込む人もいるわけですから、撤去までするのはいかがなものか。該当部分を墨塗りすればいいんじゃないか。
だいたい、こういうノート、設置する側は「何を書かれても受けて立つ」意気込みが大事であると思います。だったら、最初から置かなきゃいい。他にも「手紙」投函箱とかやり方があるわけだし。

平和資料館ノートに落書き=ハングル感想文に差別用語−広島
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070301-00000151-jij-soci

 広島市の平和記念資料館が見学者に感想を書いてもらうために設置している 「対話ノート」に、悪質な落書きが見つかったことが1日、分かった。ハングルや中国語の感想に対して、韓国人や中国人らを差別する言葉が書かれていたといい、同館はノートを撤去した。
 ノートは1970年に設置されて以来1000冊目に当たり、撤去は初めてという。 同館によると、4カ所に韓国人らを直接、やゆする差別用語が書かれていた。このほか、「しょせん君らは僕らの植民地です」など、約12カ所に差別的な文言が記されていた。筆跡から同一人物によるものとみられる。

184とはずがたり:2007/03/02(金) 10:21:46
「西郷は征韓論」記述を削除 知事の要請で教科書出版社
2007年3月1日(木)22:06
http://news.goo.ne.jp/article/kyodo/nation/CO2007030101000825.html?fr=rk

 西郷隆盛らの征韓論を記述した日本史教科書に、西郷が朝鮮との平和的交渉を目指したとする「遣韓論」も併記するよう鹿児島県の伊藤祐一郎知事から要請を受けた教科書出版社7社のうち1社が、「西郷は征韓論を唱えた」との記述を削除していたことが1日、分かった。伊藤知事が県議会で自民党県議の質問に答え、明らかにした。記述を変更したのは、第一学習社(広島市)発行の高校向け日本史教科書。

185とはずがたり:2007/03/02(金) 10:25:41
>>156-183あたり
ちょいと忙しくて真面目に議論に参加できてないのですが,現代の近代国家体制が現代の多様で多元的な市民社会の擁護者として健全に機能しているというのがやおよろず氏の主張でしょうか?
大変説得力がありましたが,近代国家群として正常に機能しているヨーロッパがEUの壮大な実験で超国家機関をつくろうとしている一方,国民の収奪機関に成り下がっているアフリカ諸国の"国民国家"を見るに近代国家の超克の必要性を強く感じます。
定義にもよりますけど,其処迄厳密に地球レベルの国家権力を造って全世界人がその支配に服することという発想が地球規模の近代国家を作ろうとしているだけの発想にも思えます。
中世というのは日本も西洋も多元的な権力体系が存在しましたが,それが一定地域の最高権力として絶対王政ついで近代国家が掌握する過程が近代化だったように思われますけど,偏狭なナショナリズムの源泉となったり,アフリカの部族社会に無理矢理当てはめられた近代国家という存在を理想に基づいて改良して行く事は人類にとって必要であろうと思います。
もっと細かい皆さんの論点や用語法を質問して整理したいのですがまとまらないので取り敢えず暫定レスで失礼。

>>183
>バカがやったことだと思います。他方、真面目に書き込む人もいるわけですから、撤去までするのはいかがなものか。該当部分を墨塗りすればいいんじゃないか。
>だいたい、こういうノート、設置する側は「何を書かれても受けて立つ」意気込みが大事であると思います。
たしかに。仰るとおりですな〜。

186やおよろず:2007/03/03(土) 18:36:35
 この議論に含まれる様々な論点を含んでいると思うのでドイツを例に論を展開します



近代ドイツ成立小史

1789 フランス革命

1792 フランス革命への干渉戦争

1806 ライン連盟の成立
     
     神聖ローマ帝国終焉

1807 ティルジット講和

1813 諸国民戦争

1815 ウィーン会議

     ドイツ連邦の成立

1834 ドイツ関税連盟の成立  
     
1848 三月革命

1850
〜59 ドイツが工業国化の進展

1862 ビスマルクが首相に就任

1864 対デンマーク戦争

1866 対オーストリア戦争

1867 北ドイツ連邦の成立

1870 普仏戦争

1871 ドイツ帝国の成立

187やおよろず:2007/03/03(土) 19:20:38
1フランス革命

 フランスは、絶対王政からフランス革命と混乱期を経て、ナポレオン時代に突入した。
 ドイツはフランスの混乱を見て、「革命」ではなく「改革」を選択した。

2ライン連盟

 ライン連盟が、オーストリアのナポレオンに対する相対的劣位が明確になったため、フランスの庇護を受けるために結成される。

3神聖ローマ帝国の終焉

 ライン連盟諸国の神聖ローマ帝国からの脱退。
 オーストリアも神聖ローマ皇帝の帝位を返上。
 中世秩序の残存たる教皇=皇帝(国王)の関係が名実ともに消滅した。

4ティルジット講和以降

 ナポレオンの事実上の支配下に入ったドイツ諸国が、「農奴解放」「都市条例」など近代国家としての形式を整える。
 領邦国家レベルでの「改革」が進展する。

5諸国民戦争など対ナポレオン戦争

 プロイセンで「愛国運動」が起こり、ロシア遠征に失敗したナポレオンと戦う。
 オーストリアも反ナポレオン陣営につき、ナポレオン=フランスは相対的劣位に立たされる。
 形勢の逆転を見て、ライン連盟諸国も反ナポレオン陣営につく。

6ウィーン会議以降におけるドイツの工業化

 ウィーン会議により大規模戦争は休止の期間を迎える。
 その間、プロイセンでは工業化が進み、オーストリアとの間で経済的な優位が明確になる。

7ドイツの改革

 ナポレオン支配下から継続して改革が進む。
 フランス「二月革命」の影響で、ドイツでも「三月革命」が起こる。
 ナポレオン時代の課題が、この期に進展する。

8「大ドイツ」統一

 オーストリアはハンガリー・イタリア・ボヘミアを版図としており、多民族国家となっていた。
 各地で民族主義的蜂起が頻発する。

 オーストリアは工業面でプロイセンに立ち遅れる。
 オーストリアは関税面で折り合わず、ドイツ関税連盟に加入することは拒否する。

 民族主義の勃興と工業面の立ち遅れで、大ドイツ統一の試みは失敗する。

9「小ドイツ」統一

 北ドイツの勢力をのばしていたデンマークとの戦う。
 戦後処理を巡ってプロイセンとオーストリアが戦争する。
 オーストリアに加担した諸国を併合し、残りの諸国を参加に治める。
 この過程でビスマルクは、自由主義者からも支持を受けるようになる。

 南ドイツ諸国は北ドイツ連邦に参加しなかったものの、関税同盟を通じて北ドイツとの結びつきを強める。
 普仏戦争にはプロイセン側として参戦し、ドイツ連合軍としてフランスと戦う。
 これをきっかけに、南ドイツ諸国もドイツに加入し、「小ドイツ」の統一が達成される。

188やおよろず:2007/03/03(土) 19:42:21
>>185

>>地球レベルの国家権力を造って全世界人がその支配に服することという発想が地球規模の近代国家を作ろうとしているだけの発想にも思えます。

 ドイツの例は様々な要素を含んでいるとは思いますが、近代ドイツ成立の要因の一つは「反ナポレオン」では無いかなと思います。
 つまり、ナポレオンによって祖国を奪われた反動がプロイセンを反ナポレオンへと向かわせたのではないでしょうか?

 地球レベルでの国家権力の創造過程で、反対に民族意識が強まるおそれも十分に考えられます。


>>アフリカの部族社会に無理矢理当てはめられた近代国家

 これは、ドイツのパターンでは、オーストリアに近い形の国になっているものと思われます。
 これでは、国家に対する諸部族の反発が絶え間なく続くのではないかと思います。
 オーストリアの安定期は、宗教的支配によるものだったわけで。
 部族ごとに宗教のあり方の異なる連合国家は解体すべきと思います。
 
 理想形は、小国分割と、その枠組みを守るための国連軍の駐留です。
 
 また、この点、同じく人為的国境が引かれた中東諸国で超国家的に宗教勢力が「活躍」しているのは、とても興味深いことです。

>>国民の収奪機関に成り下がっているアフリカ諸国の"国民国家"

 国民の貧困の主因は人口爆発でしょう。
 人口抑制策に対する国の無作為、教育水準や生活水準を向上させるための援助物資の横領により、この主因に対応できていない。
 このような構造ではないかと思います。
 収奪の定義にもよりますが、民間企業の収奪の方がもっと過酷なのではないかと思います。

189名無しさん:2007/03/08(木) 00:35:50
朝日新聞 [社説]2007年03月06日(火曜日)付
「慰安婦」発言―いらぬ誤解を招くまい
http://www.asahi.com/paper/editorial20070306.html

 旧日本軍による慰安婦問題をめぐって、安倍首相の発言が内外に波紋を広げている。

 首相は先週、記者団の質問に答えてこう述べた。「当初、定義されていた強制性を裏付ける証拠はなかった。定義が変わったことを前提に考えなければならない」

 これが米国などで「安倍首相、戦時中の日本による性奴隷を否定」「安倍首相、性奴隷に証拠なし」などと報じられた。韓国の宋旻淳外交通商相が不快感を示したりもした。

 だが、この解釈は行き過ぎていたようだ。きのうの参院予算委員会で民主党議員に真意をただされ、首相は何度も「政府の立場は河野談話に書いてある通りだ」と繰り返した。

 この問題についての日本政府の公式見解は、93年に出された河野官房長官談話である。旧日本軍が慰安所の設置などに関与し、「総じて本人たちの意思に反して行われた」と認めた。慰安所での生活について「強制的な状況の下での痛ましいものであった」としている。

 首相は就任直後に、この談話を受け継ぐと表明した。そのスタンスは何ら変わらない。誤解はやめてほしい。そう言いたいのだろう。

 首相には「強制性」について、こだわりがあるようだ。それが首相の発言をわかりにくくしている。

 女性を集めた業者らが事実上強制をするような「広義の強制性」はあったが、当局が人さらいのように連行するといった「狭義の強制性」はなかった。きのう、首相はそう説明した。

 だが、いわゆる従軍慰安婦の募集や移送、管理などを通じて、全体として強制性を認めるべき実態があったことは明らかだろう。河野談話もそうした認識に立っている。細かな定義や区別にことさらこだわるのは、日本を代表する立場の首相として潔い態度とは言えない。

 首相の一言が大きな波紋を呼んだのは、首相自身がかつて河野談話を批判する議員グループの先頭に立ってきた過去があるからだ。

 このグループは、いまも河野談話の修正を求めようと議論を進めている。米国の下院に、慰安婦の問題をめぐって首相の公式謝罪を要求する決議案が出されたことに反発しているようだ。

 政府は河野談話に基づいてアジア女性基金を発足させ、元慰安婦への償いの事業に民間と協力して取り組んできた。自民党が連立する村山政権の時からだ。

 以後、橋本龍太郎氏から小泉純一郎氏まで4代の自民党首相が「おわびの手紙」に署名し、元慰安婦に送ってきた。戦争で蹂躙(じゅうりん)してしまったアジア諸国との和解のために、官民が連携して積み上げてきた努力なのだ。

 首相は政権として方針を決めた以上、要らぬ誤解を招く発言は避けるべきだ。日本の信用にかかわりかねない。米議会に対しては、こうした首相の手紙などの取り組みを説明すればいいことだ。

190名無しさん:2007/03/08(木) 00:36:06
3月7日付・読売社説(1)
 [慰安婦問題]「核心をそらして議論するな」
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20070306ig90.htm

 いわゆる従軍慰安婦問題の核心は、官憲による「強制連行」があったかどうかだ。

 米下院外交委員会で慰安婦問題に関する対日決議案が審議されている。日本の軍隊が若い女性を「強制的に性的奴隷化した」歴史的な責任を明確に認め、日本の首相は謝罪すべきだ、という内容だ。

 日本軍が組織的に「慰安婦狩り」をしたかのように決めつけている。だが、日本政府の調査でも、これを裏付ける文書はない。歴史家の間でもこうした事実はなかった、というのが「定説」だ。この決議案を提出した議員らは、これらを覆すだけの確かな資料があるのか。

 安倍首相は国会で、決議案は「客観的事実に基づいていない」と語った。麻生外相も、同様の見解を示して「甚だ遺憾だ」と述べた。曲解に満ちた決議案である以上、政府は事実を正確に説明して、採択を阻止しなければならない。

 首相は、慰安婦の募集について、「狭義の意味の強制性を裏付ける証言はない」と強調した。「官憲が家に押し入り、人さらいのごとく連れて行く、『慰安婦狩り』のような強制的なもの」、つまり、官憲による強制連行はなかったということを明確にした。

 その一方で首相は、民間業者による、本人の意に反した「広義の強制性」があったことを認めた。だが、こうしたケースと、軍による強制連行とは、まったく違うものだ。

 「強制性」を拡大解釈し、核心をそらして非をならす一部のマスコミや国会議員らは、今後も内外に誤った認識を広げるだけだ。

 それにしても、この問題は、なぜ、何度も蒸し返されるのか。

 その最大の理由は、1993年、当時の河野洋平官房長官が発表した談話にある。それには、慰安婦の募集に「官憲等が直接これに加担した」などと、日本軍が強制連行したかのような記述がある。だが、これが裏付けのないまま書かれたことは、元官房副長官らの証言ではっきりしている。

 自民党の有志議員らは、談話のあいまいな表現が、誤解を生む原因になっているとして見直しを検討中だ。米下院の決議案は、「談話の内容を薄めたり、撤回したりする」ものとして、こうした動きをけん制している。しかし、不正確な談話を見直すのは当然のことだろう。

 河野談話を発表した背景には、韓国側の圧力を前に「強制連行」さえ認めれば問題を決着できるとみた甘さがあった。政府は米下院決議をめぐり、再び、外交上の失策を繰り返してはならない。

(2007年3月7日2時0分 読売新聞)

191とはずがたり:2007/03/19(月) 03:10:33
>>186-189
大学時代経済政策と云いながら独逸経済史が専門の先生のゼミについてまして,独逸統合過程には関心があり国民経済の統合の興味深い例として俺も注目してます。但し後進資本主義国の国民国家形成の典型的に扱われる独逸では有りますが,現代から見ればやはり市民階層の形成やハンザ同盟や中世やそれ以前からのヨーロッパ経済圏の蓄積を考えるとやはり先進国としての一例に過ぎないとも云えるのではないかと思います。

>>地球レベルでの国家権力の創造過程で、反対に民族意識が強まるおそれも十分に考えられます。
個人的にはいきなり強権的な国家権力の様なものを造れと主張している訳でも出来ると想定している訳でもありません。EU統合の様に必要に応じて様々な葛藤の中でコンセンサスを積み上げてゆく中で現代の近代国家システムがよりよいものにすべきであって固定的に枠組みを考えてしまう事はないと思います。

>これは、ドイツのパターンでは、オーストリアに近い形の国になっているものと思われます。
旧オーストリア帝国の跡地は民俗と国家の版図が一致せず少数民族が発生してますがヨーロッパのような近代的市民階級がちゃんと蓄積している所は未だマシでありまして,アフリカの部族社会は近代国家の担い手たる市民階層が出来ていないのに形式的に近代国家を作ってしまった点に悲劇があるのであると思います。

>理想形は、小国分割と、その枠組みを守るための国連軍の駐留です。
いいですね。アフリカ諸国が自決を考えるならアフリカ連合が主導すれば良いんでしょうけど「近代国家」の利害を超越的に振る舞える組織では現段階では無さそうです。。

>国民の貧困の主因は人口爆発でしょう。
近代化の先駆として人口爆発が起きることもあり必ずしも人口爆発が貧困の原因であるというのは専門家のコンセンサスにはなってない面もあるようです。

>収奪の定義にもよりますが、民間企業の収奪の方がもっと過酷なのではないかと思います。
紛争地域は国家による収奪が主でしょうし,平和な国家では欧米の多国籍企業と現地の国家が結託して収奪している事も多いでしょうからどちらが過酷かは一概には決められない気もします。

亀レス失敬でした。

192やおよろず:2007/03/19(月) 05:02:42
>>いきなり強権的な国家権力の様なものを造れと主張している訳でも出来ると想定している訳でもありません。
 EU統合の様に必要に応じて様々な葛藤の中でコンセンサスを積み上げてゆく中で現代の近代国家システムがよりよいものにすべきであって固定的に枠組みを考えてしまう事はないと思います。

 ①国家からの包括的権限委譲の是非、②個別具体的権限委譲の是非という2つの論点があるのだと思います。
 この2つの論点から導かれるかたちで、この問題に関して、4つの立場が存在すると思います。

 一つは、包括的賛成・個別反対派。
 これは、個別委譲に関して否定的というよりは、個別委譲を越えて早期に包括的委譲を完成させようとするグループです。
 いわゆる左派・地球市民派が該当することになると思います。

 次いで、包括的賛成、個別賛成派。
 これは、包括的権限委譲を目標としながらも、現実的に個別具体的な権限委譲を推進するグループ。

 3つ目は、包括的反対、個別賛成派。
 これは、包括的権限委譲には断固反対であるが、個別案件について特例的に超国家機関を認めるというもの。

 4つ目は、包括的反対、個別賛成派。
 これは、国際的機関の存在を認めず、国家単位での統治を絶対視するもの。 

 とは氏は、2番目の包括的賛成・個別賛成派に分類されると思います。
 その上で、3番目の立場から、諸論点の中で特に、「民主」の観点から反論させてもらいます。

 諸制度を通じた支配機構の管理が、民主主義にとって肝要であると思います。
 その点、権限委譲は、管理対象たる機構を拡大させます。
 一般に、管理対象の拡大は、国民の管理可能性の低下を招きます。
 つまり、管理対象の拡大により、仮に規模的効用がもたらされるとしても、それは管理可能性の低下とのトレードオフにあるわけです。
 包括的権限委譲の完成時には、管理不能部分を多分に含む巨大な統治機構が生成されているわけです。
 管理可能性を考えれば、機構の規模は合理的に小さいものであるべきです。
 よって、超国家的機関の権限は特例的なものにとどめ、基本的には国家単位を脱することがないようにすべきであります。
 その点、国内においては、国家的巨大プロジェクトのような特例を除き、分権化細分化がのぞましいという結論になるわけです。
 「民主」の実現可能性は、管理可能性であり、その規模の拡大は、民主主義の危機であることもあります。

193とはずがたり:2007/03/19(月) 21:06:26
>>192
非常にクリアに論点を整理いただき勉強になります。ちなみに4つめは包括的反対、個別反対派ですね?

理想として目指せば面白いとは思うんですけど現実として他星人or火星や月へ移住した人類代表との交流の必要性でもない限り地球政府として纏まる必要性はないのかもしれません。。

また近代国家という権力形態を大前提にしている現状を批判しているので次世代の超国家機関がなにか近代版国家の拡大版みたいなものがリバイアサン的に君臨するものであってはならないでしょう。

ヨーロッパの試みを心情支援しつつ,途上国の収奪型の国家に対しては厳しい目を注ぎたいと思うのが自分の基本的姿勢です。俺だって民主制を侵害するようなものが出来れば反対ですし,理想的な何らかの組織が現在の国家システムを越えてできるのが無理だと諦めてるのではなくそれへの(そんなものがあるかどうかの模索を含めた)努力に期待をしつつあるといったスタンスです。
国家が国民の保護者として信頼を置いておくのか場合によっては戦争の実行者として懐疑的な目を向けるのかあたりがスタンスの分岐点になるのでしょうかね。

194やおよろず:2007/03/20(火) 07:35:50
>>193

>>国家が国民の保護者として信頼を置いておくのか場合によっては戦争の実行者として懐疑的な目を向けるのかあたりがスタンスの分岐点になるのでしょうかね。

 これは、2律背反する問題ではないと思います。
 性善説に基づく信頼を置いているのは能天気な話で、常に誠実性を失う誘引があるものに対しては、監査・監督体制を築くべきでしょう。
 その上で、国家のもたらす効用を享受できるわけです。
 国家性善説的な態度では効用を享受できないし、かといって国家を否定しても国家による効用は享受できないわけです。
 
 国家による暴力の独占がもたらす効用には、①対外的なもの②対内的なものが存在します。

 ①対外的効用とは、当然、他国との間の戦争において発揮されるものです。
 暴力が国家に独占されている分、一般に、諸邦が個別に戦うよりも、戦争遂行に係る効率性が高いものとなります。
 ②対内的効用とは、国内における内戦状態の回避です。
 国家が暴力を独占していれば、刑事事件的暴力行為は別ですが、いわゆる内戦が起こりえません。
 よって、国家は①他国からの圧力を排し②内戦状態を回避する権能を持っているといえます。
 この能力が効率的に発揮されるか否かについて、国民の管理可能性が必要とされるのだと考えられます。

 この国家の暴力は、当然に、国民の諸権利への重大な危険でもあります。
 これが、国家の暴力の負効用に当たるものであろうと思います。
 それでは、本来、①他国の圧力を排し、②国内の内戦状態の回避をもって、国民の諸権利の実効性を確保する機能が果たされなくなってしまいます。
 そこで、この暴力装置の管理可能性が、誠実に発揮されるか否かという点で、問題になるのではなかろうかと思います。

 つまり、暴力の独占の①効率性②誠実性について、国民は管理が必要ということになります。

 超国家的に、暴力が一元化されたとします。
 すると、規模的に効率性が上昇し、効用をもたらす能力は上昇します。
 世界的に一元化されることにより、対外的な力の発揮は必要なくなり、対内的な内戦状態の解消が世界的に広がるわけで、戦争そのものが回避されるように思えます。
 ここで、問題になるのが、誠実性に対する管理可能性です。

 この巨大となった暴力装置の管理可能性が、規模に応じて低下していくことが予想されます。
 管理可能性が喪失することにより、この一元的暴力機構は、諸国民に対して大きな、不幸ようをもたらすことになります。
 よって、結果として、史上最強のリバイアサンが誕生することになります。

 暴力の独占だけに限りません。
 例えば、欧州中銀に関して、その総効用に関しては、悲観的に考えています。
 フランスでは閣僚レベルからも、欧州中銀への批判が出てくるようになりました。
 通貨発行権の超国家的独占に対しても、諸国民の管理可能性を失ったまま、国家に対するリバイアサンとなって現れる可能性は条文に考えられます。

195片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2007/03/21(水) 12:08:13
>>192>>194
おっしゃる趣旨には、重点の置き方で差異があるにしても、おおむね納得します。
現実的には、やおよろずさんが書いた中で、2〜3の間でのせめぎあいだと思われます。

私は確たる信念を持っていませんので仮の立場から論じますが、
国家の枠組みが十分維持されている状態ならば、なんらかの権限委譲をすることが必ずしもマイナスにならない場合もあるんじゃないかと思っています(国際的自由貿易が発展してるもとでどうしても自立・自律できない人たちを支援するなど)。

富んでいる国や自由主義・民主主義が整備されている国民にとってはそういうのなくてもよいかもしれないですけど。
EU統合とは別の話になっちゃいますね・・・。


で、繰り返しになっちゃうかもしれませんが、やおよろずさんのお書きになったことからすると、小泉政権が地球市民的だというのがやはりよくわからないところもありますが。

196やおよろず:2007/03/21(水) 12:22:39
>>195

 英米金融資本が上部、日本産業資本が下部という国際経済構造を完成させたことにあります。
 小泉政権だけで構築されたものではありませんが、完成させたのは小泉政権です。

 資本構造が国家の枠から大きく踏み出し、制御不能なものにしたことで、「地球市民的」としました。
 資本に日本国籍をなくしたわけですから。

 株式持合の解消と銀行債権のバーゲンパーチェスが、この構築の柱です。

197小説吉田学校読者:2007/03/24(土) 09:53:22
「死に至らせないテロ」は生命の危険狙いより何かのメッセージであることが多いが、だからといって、テロが許されるわけがない。
知事選告示、岩見氏が抑えた筆致でこのことを書いているのが目を引く。「民主主義のしもべ」たる政治家がテロ支持のような言辞を弄するなど、絶対に許してはいけないと私も思う。政治家以前に人間としてどうか?

近聞遠見:三木生誕百年と「あの事件」=岩見隆夫
http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/iwami/kinbun/news/20070324ddm003070134000c.html


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