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フランス語フランス文化質問箱

1Sekko:2006/04/19(水) 18:13:31
話し方
 学校関係のだいたいすべての試験にはORALがあります。数学や物理でも、問題をもらって、黒板の前で解説するという形の。国語(フランス語)も、口頭試問の日に籤で問題を選んで、別室で30分準備してから試験官たちの前で発表し、その後質疑応答ですね。バカロレアなどではテキトは20冊くらいの古典系のリストが分かっていて、それをリセですでに準備してるわけです。だから古典や名作文学はリセアンに最も多く読まれます。その発表の仕方は、まず、結論を言い、次にそれを説明し、最後にもう一度結論に導くというのが基本です。センテンスは一般に、短ければ短いほどエレガントだとされます。私は大学時代フランス語の先生の授業で、サルトルの戯曲のについてフランス語のレポートを書かされましたが、日本語でなかなかいいことを考えてからフランス語に訳して出しましたら、あらゆるところに疑問符がついて返ってきました。それからは関係詞などを一掃して、短いセンテンスだけで書くようにしたら分かってもらえました。でも今から思うと、思考の流れそのものが違ってたのだなあと思います。今日本の学生の仏語レポートを見てあげたりすると、その学生の日本語の頭の中が手に取るように分かるんですが、フランス語としては通じないということもはっきり分かるんです。でも、それは「何となく」分かるんではなく、はっきり言語化できるので、テクニックを伝授できます。これってフランスバロック音楽みたいです。内的ロジックがしっかりしてるので、偶然はないんですよ。これを知らない、ロマン派に毒されたような先生に当たると、「そこは、もっとクレシェンド、なぜって?そう感じるからさ」「作曲者の気持ちになって・・・所詮日本人には無理かも」ということになったりします。本当はフランス語やフランス音楽は、内的ロジックを言語化できるという点で、とてもユニヴァーサルで(だからと言って万人に分かりやすくハードルが低いという意味ではないですが)、教えやすいですよ。日本語の方が当然難しいですね。言語化されてない共有の認識、それが実は風化してるとか、日本人同士でも通じなくなってると感じさせられることはこのごろとみに多いですから。
 後は学校で、幼稚園から、韻文系やラ・フォンテーヌの寓話とかの暗誦がとにかく多いです。音とイントネーションでまるごと覚えさせます。それをクラスで暗誦させられます。グランゼコールのカリキュラムにヴィデオを使った面接の自己アピールの練習もありますね。
 もちろん政治学院なんかはもっとすごいですけど。サルコジにヴィルパン、あれだけ正反対なのに、二人ともフランス語うますぎで、聞きほれたりします。

2古川利明:2006/04/19(水) 20:42:43
apprivoiserの訳
 最近、サンテクジュペリの「星の王子さま」の翻訳独占権(?)が切れたということで、雨後の筍のごとく、いろんな翻訳が出てます。んで、4月開講のNHKのラジオフランス語講座の応用編でも、これをテキストにしているのですが、そこで大いなるギモンがあります。というのは、王子さまがキツネと出会う場面で、キツネと親しくなりたい王子さまにキツネは「Je ne suis pas apprivoise」と答えます。で、この「apprivoiser」の訳が、例の岩波版の内藤訳以下、そのラジオ講座のテキストに至るまで、「仲良くなる」という、実に生ぬるい訳語をあてているのです。この「apprivoiser」の元々の意味は「飼い馴らす」ということですよね。野生の動物を「家畜化する」ということだと思うのですが、そこから、キツネは「野生の獣を飼いならそうとする人間と僕とは、そう簡単に友達になれないんだよ」ということを言っていると思うのですが、そんな「仲良くなる」といった、生ぬるいというより、敢えて「誤訳」といっていいと思うのですが、そういう訳語が次々と踏襲されているというのは、いったい「なぜ?」と、私などは思います。こうやって、「規制緩和」されたのですから、そこらのところはそれぞれの訳者が「正確に」訳すべきだと思うのですが。

3Fusako:2006/04/19(水) 22:40:39
言葉
approvoiser、って見たらすぐに浮かんできたのが L'amour est un oiseau rebelle que nul ne peut apprivoiser でした。これをマリア・カラスが歌っているニュアンス、そうですね、「飼い馴らせない」ですね。

「言葉の教育」、やはりね。今、日本では、英語については、話せなければならない、小学校から導入してでも、という流れですが、日本語で「話す」訓練、「読む」訓練はないですね。国語の受験勉強、って判じ物と暗記物、で、古典のタイトルを暗記すると、本文は読んでもいないのにあたかも自分がそれを知っているかのような錯覚を持ちますね。

全然別の話なのですが、わたしは、海外に長く住む友人が何人かいます。その人たちとやりとりしていてほっとするのは、落ち着いた日本語、今の若い人たちの使う流行語の入らない文章でやりとりできること、なんですね。竹下さんの文章にもそういう感じを受けています。

4Sekko:2006/04/20(木) 03:53:25
星の王子さま
まず、フランス語が分かる人に、サイト3つ紹介。2つは、星の王子さまへの質疑です。
3つ目は狐の部分の読解問題です。試してください。

http://www.dialogus2.org/PRI/apprivoiser.html

http://www.dialogus2.org/PRI/sagesseetnaivete.html

http://www.richmond.edu/~jpaulsen/petitprince/chapitre21.html


 さて、ここから、古川さんへの答えです。
apprivoiser というのは、もともと動物の家畜化に使われてきました。
星の王子さまでのキツネの定義「絆を創ること(creer des liens)」があまりにも有名になったので、この作品によって、この言葉の tonalite が変わったとフランスでは言われています。でも星の王子さまでも、「自分のものにしたら特別になる」ようなことが書いてありますね。
 これは家畜化、所有化というより、rapport de seduction だと私は思います。というより、キツネの言葉をきいていると、仲良しというより、精神的依存を互いに作ることで互いに所有しあいたいというので、恋愛と同じですよね、でもこの seduction という言葉にもいい訳が思い浮かびません。どちらにしても異なる二つの存在が関わりあう時、惹かれあい、というより、相手を依存させたいという誘惑があり、はっきり言って、権力の誘惑にも似てますね。恋愛も親子もそういう共依存のリスクがあります。
 それはいいとして、ここからが大事なとこです。 apprivoiser は プリヴェ、プライヴェートと関係していて、要するに、外部のものをある家に取り込むってことです。つまり、ある家=家庭=共同体の基準に従わせるということです。それに対して、キツネは、絆を創る(クリエートですからゼロから新しく創るわけです)と言っています。これは連合です。つまり、共同体中心主義で外部のものを馴らすのでなく、個人を対等と認めて、依存やヒエラルキーやスタンダードの押しつけのない関係をつくらねばならないと言っているのです。キツネは確か、それには rite が必要だとも言っています。伝統じゃなく条約ですね。まさにコミュノタリスムからユニヴァーサリズムへ、です。
 別に私の「読みすぎ」ではないと思います。この本が共和国ガイドに引用されていることを私の新書でも書いたように、この本の中で求められている関係性は、優れてユニヴァーサリズムなのです。ユニヴァーサリズムはただの理想だとか御伽噺だとか批判されもしますが、それがポエティックな童話になったら世界中で愛されてるのを見ると、私は、ユニヴァーサリズムのまさにユニヴァーサルな訴求力を信じられますね。
 あまり質問の答えになっていないかもしれませんが、他の方もご意見があればどうぞ。

5古川利明:2006/04/21(金) 00:36:01
なるほど
 竹下さんらしい、含蓄のある回答をどうもありがとうございます。なんとなく自分の中で思い描いていたことが、説明されたような気がします。すごくすうーっと入ってきます。やはり、フランスに住んで、フランス語を駆使していないと、なかなか微妙なニュアンスは理解できないですね。ただ、ふと、思ったのですが、日本の場合、「本当は怖いグリム童話」ではないですけど(笑)、何か、子供向けの童話は、マイルドにするというか、苦かったり、痛みを伴う「真実」に敢えて触れさせないようにしようとする傾向があるような気がします。それと、私自身が超へそ曲がりなので(苦笑)、やはり、自分が訳すとなると、「前例踏襲」は嫌なので、「僕は飼いならされていないんだよ」と訳してしまうような気がします。私も権力を振りかざしてくる人間には、この上ない「大悪人」になりますけど、キツネのようにユニヴァーサリズムを求めてくる人間には、非常にピュアな愛情を注ぎますね。といっても、本気にしてもらえないでしょうけど(苦笑)

6古川利明:2006/04/21(金) 21:22:17
lienの訳語
 書いたついでですので、もう一つ、その星の王子さまに出てくる「creer des liens」ですが、これはこれまでの岩波版の内藤訳でも、「絆を創る」だったと記憶していますが、この「lien(s)」は、辞書を引くと、「鎖」という意味もありますよね。実はこれまで私はそのキツネと王子さまとの会話の中で出てくるこの「creer des liens」を「鎖で結びつける」というふうに、かなりネガティブな意味に解釈していたのです(もちろん、アイロニカルな意味もこめてですけど)。というのは、たまたま大学時代の原典購読の授業で、星の王子さまのうち、このキツネとの出会いの部分だけ、原文で読まされる機会があったからです。それもあって、「apprivoiser」という、日常生活ではたぶんあんまり使わない動詞を覚え、また、この「creer des liens」というステキな表現も、ずっと、頭にこびりついていたのです。そうこう考えていくと、翻訳という作業もなかなか難しいですが、そこに「解釈」という知的作業の醍醐味もあるような気がします。

7Sekko:2006/04/21(金) 21:49:07
絆を創る
ええと、内藤訳では、確か、「ぼくは飼いならされてないから」とか言うキツネに、その意味が分からないPetit prince が、「飼いならすってなあに」ときいたら、「仲良くなるってことさ」とキツネが答えたんですよ。それで「apprivoiser」の新しい意味が「creer des liens 」、つまり、異なる2者の関係を、優勢な方が劣勢な方を抱合して自分に従わせるという形から、新しい関係を creerする関係に

8Sekko:2006/04/21(金) 22:14:41
続き
さっきの続きです。途中で勝手に手を離れました。
それで、キツネは、従属関係を否定して、異なった2者が、ユニヴァーサルな価値観に基づいてあたらしい関係を創るべきだ、と主張したわけです。だから内藤訳の問題は、「絆を創る」を「仲良くなる」と訳したところなんですね。新訳では、「絆を創る」が優勢ではないでしょうか。まあ対等でないと仲良くなるのは無理なんで、内藤訳も意味は通るんですが、ここで大事なのは、creer の方なんですね。異なる歴史や文化を持つ二つの国や二人の人間が出会う時、どちらかのスタンダードを押し付けないで、平和を維持できるメタ空間を新たに創るというのが重要で、それがフランスでいうと非宗教的ライシテの空間だったりするわけです。そして、それまで、個々の人間の条件というのは Dieu の creation だったわけですね。だから、異なる2者の一方の押し付けは自分たちの創造者の押し付けでもあるわけです。そこを超越したメタ空間を、人間が「創る」というのは、神への挑戦、というか、自分の歴史や文化を相対化できる知恵をつけたということです。異なる神を奉じる人々が共存できる世界を、「神の創った自分たちの世界」とは別のレベルに公空間として人間がクリエイトするわけですね。それならただの無理やり条約に縛られた雑居世界かもしれませんが、キツネはそこから1歩踏み出して、そこに「惹き合う力」を持ち込んだわけです。それを「共依存」と見るか、共感世界と見るか、愛と呼ぶか、それはいろいろでしょうが、単にユニヴァーサリズムといっても、最小公倍数を共有することでの妥協でなく、求心的でダイナミックな統合する力を信じて想定しないとただの烏合だという意味なのかもしれません。

9古川利明:2006/04/22(土) 13:02:01
新しい意味の創造
 いやあ、竹下さんの回答を読んでいて、実にこの物語の深さに思いが至ります。「apprivoiser」という従属の関係を脱する行為を通じて、「lien」の意味が、「鎖」から「絆」へと昇華するのですね。サンテクジュペリがサハラの砂漠に不時着して、そうした孤独の中で「人間の絆」を求めていった彼の人生に思いが至ります。彼は最後、コルシカから飛び立って、そのまま消息を絶ってしまっているのですよね。彼はたぶん、そこで星の王子さまになってしまったのでしょうね。この物語を読むたび、帽子とそっくりなボア(=大蛇)の挿絵を描いて、いくつになっても「少年の心」を失わなかった「珠玉の精神」に改めて感動します。

10古川利明:2006/04/22(土) 14:53:20
補足
 その岩波版の内藤訳の「apprivoiser」は、私の勘違いでスミマセン、「飼いならす」でしたが、今、店頭に並んでいるNHKの語学講座のテキスト5月号は、「馴染みになる」という訳語を充てています。あと、立ち読みだったので忘れましたが、その最近出た訳本の一つは(確か文庫でした)、「仲良くなる」だったと記憶しています。もちろん、訳者の「自由解釈」があってしかるべきですし、それは言論表現の自由からも、最大限保障されなければならないのはいうまでもありませんが、でも、私は少し違和感を感じています(苦笑)

11Fusako:2006/04/23(日) 09:40:22
liens
というのは日常的に普通に使われる言葉ですよね。「リンク」もこれでしたね。creer des liensも、ごく日常的な表現ですか?
日本語と外国語でしばしば動詞の向きが違うことがありますね。特に、日本語として自然な表現を使うとそうなる、という。「仲良くなる」とか「縁ができる」というのは、働きかけでそうなった、というニュアンスで、creerの意味が出ませんね。

12Fusako:2006/04/23(日) 09:48:59
liens(続)
でも、言葉はこれまた面白いもので、「ご縁ができまして」「ご縁があったのですね」という表現は美しくて、わたしは好きです。ただ、こういうやわらかくて古風な表現は、もう今の日本ではあまり使われなくなっていると思いますけれど。
書きながらの自動連想。「縁」は広くやわらかく使うけれど、「縁を切る」は、日本語でも明白に主体的ですが、これは、日本の人間関係では親子・夫婦などに限定された厳しい表現になるように思います。友人だとせいぜい「仲違い」かな、と脱線しそうなので、これまでに。

13nao:2006/04/23(日) 10:56:01
apprivoiser
三野博司訳では「手なずける」とやくされています。その理由が(「星の王子さま」の
謎)論創社にでています。131-133Pです。書店でひろいよみしてください。竹下先生のお考えとぴつたりする、とおもいました。

14古川利明:2006/04/25(火) 00:47:30
難しいですね
 本棚を引っくり返していたら、ガリマール版の原本が出てきたので、読み直してみると、「apprivoiserってどういう意味なの?」と星の王子さまがキツネに尋ねた結果、キツネが「それはcreer des liensだ」と答えているんですね。これは私の解釈ですが、人間同士の関係が、権力的な共依存から対等な個人の自立した者同士のそれへと「昇華」していくことで、「apprivoiser」は、「飼いならす」から「仲良くなる」へ、「liens」も「鎖」から「絆」や「ご縁」へと変容していくのではないかという気がしています。んで、その「apprivoiser」という単語はこの第21章では何度も出てきて、確かに最初の方は「飼いならす」と訳した方がピタリと来るのですが、je crois q’elle (=une

15古川利明:2006/04/25(火) 00:54:46
続き
 途中で、間違って、送信を押してしまいましたので、前の続きですが、その、「je crois q’elle(=une fleur) m’a apprivose」のあたりから後の方は「飼いならす」ではなく、「仲良くなる」とか「馴染みになる」というような訳を与えた方がピタリと来るような気がします。しかし、このニュアンスを日本語の翻訳で伝えるというのは、なんかすごく難しいですね。確かに星の王子さまは文章自体はとても平易ですけど、そこに盛り込まれている内容は、奥深いですし、それを日本語で表現するとなると、なかなか難しいですね。

16Sekko:2006/04/25(火) 05:35:40
Apprivoiser最終解読!?
Naoさん、書店で拾い読みなんて言わないでください。この問題に興味ある人は、みなさんちゃんと、かって読みましょう。それで、私は、日本にいないので、拾い読みも出来ないんですが、その三野先生が、ネット上で星の王子さまの翻訳の好評をなさっているサイトがあって、今その21章をちらっと読んでみました。http://www.tbs.co.jp/lepetitprince/tr21_comment.html
です。古川さん、読んでみてください。
 私は、ちょっと違和感がありました。訳語とか文学性の問題は別として、apprivoiserの根本のイメージは、一番最初に古川さんが言っていた、「家畜化する」という屈辱的な意味が一番正しいです。
 つまり、文学研究とかじゃなくて、普通のフランス人の大人の目でここを読むと、まず、キツネは、古川さんの言ったように、「家畜化なんかされていないから」と、人間の仲間である王子様に敵対して忌避したのです。その非難を感じたからこそ王子様は、まず、誤ったのです。でも、何を非難されたのか分からず、家畜化とはさぞやおそろしいことだと思って、恐る恐るたずねてみた。何度もたずねられた後、キツネは、はじめて、王子さまには本当にその意味もわからず、またそれに相当する概念も持っていないのだ、と気づいたのです。そこで、キツネは、王子様に、本当のこと、つまり人間は動物と対等な関係を持つことはありえない、家畜化か狩の獲物かなのだということを、知らせたくなくなったのです。
 そこで、「忘れられてることだが・・・」とごまかしながら(これはひょっとして、いつか王子様が家畜化の本当の意味を誰かに知らされたときに、キツネにだまされたと思わないように、キツネの教えてくれたのは、忘れられた別の意味なのでと思ってもらえるための伏線であるわけです)、家畜化とは、特別な〈しかし対等な〉関係性を築くことなんだと言ったわけです。それを通して、本当はキツネも、獲物を追ったり人間に追われたりするだけの生活ではなく、誰かと対等に必要とし合う関係を求めていたので、「僕を家畜化してくれる?」って、可愛いことを言ったのですね(なかよくしてくれる?とかいうのが照れくさかったのですね。それに、最初に僕は家畜化されてないから遊べないと忌避した手前、そういうしかなかったのです)。
 それで、その説明を真に受けた王子様がまた、「花がぼくを家畜化して・・・」と可愛いことを言うわけです〈この言葉をはじめて使ってみたので、これでいいかなあ、とおそるおそる)。きゃー、ふたりとも可愛い。
 それを受けて、フランスでは、この本によって、apprivoiser は新しい意味を獲得した、というわけですが、それもフランス式のエスプリなわけです。
 つまり、apprivoiser  と creer des liens はニュアンスが違えば違うほど、この場のかわいらしさが生きてくるわけですよ。 だから、creer des liens を 鎖で結びつけるみたいな家畜化のヴァリエーションで訳するのは間違いで、もう一方、apprivoiser を 「なつかせる」みたいに、ちょっと甘い情緒的な言葉で訳すのもNGです。
 と、細かい読解になりましたけれど、なお、私が最初にお答えした内容は変わりません。同種でないものを家畜化するか、殺すか、という人間同士の搾取や戦争、ランク付けや排外主義を批判し、対等な絆を創らなくてはならない、しかもそれが形式的なものでなく、互恵互助的で人間的に惹き合うものでなくてはならないといっているわけです。

17古川利明:2006/04/25(火) 21:31:49
すごく面白いですね
 そのリンクされた星の王子さまの翻訳特集、ものすごく面白いですね。それぞれが自分のコトバで格闘しているというか、楽しんでいるのがわかって面白いです。やっぱり、ポイントはその「一輪の花」がどうして、「私」を「apprivoiserしたか」のあたりなのかなあ、という気がします。直訳すると、「花が僕を飼いならした」ということですけど、ここでキレイな一輪の花が登場することで、屈辱的なニュアンスから、ポジティブな意味へと変容していっているような気がするのですよ。「花」にはそういう力があります。しかし、このニュアンスを日本語に翻訳するというのは至難の技ですよね。こういうのを見ていくと、テキストを原文で読み込むことの大事さを感じます。

18Sekko:2006/04/25(火) 23:55:10
訂正
今読み返しましたら、下の文で、「その非難を感じたからこそ王子様は、まず、誤ったのです」というところ、「誤った」は誤変換で「謝った」が正しいです。すみません。このせいで、この文を読み「誤った」方がいらっしゃったら「謝り」ますね。
 王子様がキツネの言葉を真に受けて、「お花が僕を家畜化したと思うんだ。」とかわいらしく応用したのを聞いて、キツネも「きみが僕を家畜化してくれたら・・」とか言わざるを得なくなり、終わりの方で、飛行士もキツネのことを思い出して、「家畜化されたら、泣きたくなる」みたいに「キツネ語」を使っちゃいます。「家畜化」の概念自体がなくなった世界を王子様もキツネも飛行士も共有したわけですね。私の言っている意味がうまく伝わったか知りたいので、皆さんの感想お知らせください。

19古川利明:2006/04/26(水) 00:27:06
エスプリの力
 それともう一つは,竹下さんが指摘していた「エスプリ」ですよ。これは英語のユーモアとも違いますね。非常にフランス的だと思います。文章を読み進めていくうちに(王子さまとキツネの会話が進んでいくうちに)、だんだんと「apprivoiser」も、「lien」も意味の内容が移り変わっていくんですよね。ただ、そこにエスプリが込められると、「家畜化する」でも「鎖」でも、字面とは別に、そこに逆にアイロニカルな意味を付け加えるというのか、敢えて逆手に取るというのか、コトバのいいなりとは逆の意味をそこに込めて使うことができるんですよね。その意味では「コトバの遊び」というところで捕らえることもできて、なかなか面白いというか、奥が深いですね。

20Sekko:2006/04/27(木) 04:01:09
また
?? 「いまではすつかり忘れられていることだけどね」と前置きをして説明するように、キツネは新しいモラルの伝道者ではない。今日ではわすれられてしまつた古いモラルの守護者なのだ。しかし、彼がこの知恵をどこから、どのようにして継承してきたのかはわからない。また、彼がこれまでだれかと「手なずける」関係をむすんだことがあるのかどうかもわからない。ただ、彼は「手なずける」の意味をよくしつていて、具体的な行動の指導によつて、それを王子さまに教える。ともかく、彼は秘儀伝授者として、姿をあらわすのである。

21Sekko:2006/04/27(木) 04:39:27
しつこくapprivoiser
三野先生の『星の王子さまの謎』の一部を教えていただきました。

?? 「いまではすつかり忘れられていることだけどね」と前置きをして説明するように、キツネは新しいモラルの伝道者ではない。今日ではわすれられてしまつた古いモラルの守護者なのだ。しかし、彼がこの知恵をどこから、どのようにして継承してきたのかはわからない。また、彼がこれまでだれかと「手なずける」関係をむすんだことがあるのかどうかもわからない。ただ、彼は「手なずける」の意味をよくしつていて、具体的な行動の指導によつて、それを王子さまに教える。ともかく、彼は秘儀伝授者として、姿をあらわすのである。

 そうか、こういうイニシアティックな読み方もされているのですね。何かパウロ・コエーリョのニューエイジ小説みたいです。そういえば、フリーメイスンの知人がフランスのグラントリアンのロッジでは、サンテグジュべリはメイスンのイニシエではなかったけれど、著作からメイスンだと認められて名誉メイスンに認定されているのだと昔言ってたことを思い出しました。
 それで、昔子供だったフランス人たちにこのapprivoiserの話をふってみましたが、普通の人はそう穿った感じでは読んでないようです。キツネが最初に言ったのはapprivoiserのネガティヴな意味が入っていて、それから creer des liens へとシフトして行った、それで、それ以降に言及されるapprivoiserの含意が変わったというのはみんな合意なんですけど、フランス語の字面は変わらないわけで、翻訳で最初のネガティヴな感じで、訳しちゃうと、後に無理がくるわけですね。私はキツネをそんなに秘儀伝授の師のように見られなくて、可愛くて孤独でちょっとかわいそうなイメージから離れられないので(それは私だけじゃないようです)、Aapprivoiser と creer des liens を対照的に訳した方がほろりとくると思うんですが・・・Creer が重要だという意見は変わりません。フランス人たちはむしろ respect の含意が重要というんですが、私は affection の方が胸につまるんです。そして、この本では、花が王子様を、王子様が飛行士をと、相対的に弱い方が強い方をapprivoiserするところが可愛いですよね。ついでにうちの夫に私たちの関係を聞いたら、完全に私が彼をdresserしているということでした。
 しかし、ある言葉を翻訳するということは、含意の幅を温存せずに、意味を限ってしまうのですから、改めて難しいですね。soeur と出てきたら、フランス語的には何の問題もないのに、日本語だとどうしても姉か妹かを決めなくてはならない、それがフランス語だと、初めは漠然とで、やがて文脈で関係がわかってくるという仕掛けになっていたら、その言葉が最初に出たときにもう答えを出したらおかしいですよね。 ニュアンスが変わっていくapprivoiserは、同じ字面だからこそ面白いので、そのへんほんとにむつかしいです。そういえば私がイエスは洗礼者ヨハネの「いとこ〈従弟)」だと書くたびに「はとこ(再従弟)」と校閲さんに訂正されます。中には、マリアとエリザベツが従姉妹だからと系図をつけてくれる人も。フランス語では cousin germain がいとこで、後はみんなcousinでまとめちゃうので、その癖が抜けないのです。

22Sekko:2006/04/27(木) 18:07:40
sauvageについて
apprivoiser といえば、思いつくのは sauvage という言葉です。フランスに住み始めた頃、分からない言葉はたくさんあったんですが、よく知ってる言葉で、全然違う意味で使われるものもたくさんあり、その代表が impossible と sauvage でした。 sauvage は私の中では「野性的」とインプットされてたので、「あの子はsauvageだから」とか「私ってsauvageでしょう」と言われてもピンときませんでした。そのうちsociableの反対語だと気づきました。
 日常語のひとつです。私がこの言葉を一番よく使うシーンは、うちに誰か来たとき、サリーちゃんが隠れてしまうので、「Elle est tres sauvage」 と言い訳するときです。これは警戒心が強いとか、怖がりとか、知らない人が苦手という意味ですね。私たちには慣れてるんで、野生とは関係ないわけです。
 次によく使うのは、お客を招いたり、招かれたりする時、うちが義務を果たしてないのを言い訳するときです。私たちのようなシチュエーション(年齢とか暇さの具合)の仲間では、たとえば、月1回、Aさん夫婦とBさん夫婦を同時にお招きして、Cさん宅と Dさん宅に1度ずつおよばれ(そこでそれぞれ別のカップルとも知り合う)、次の月はCさん夫妻とDさん夫妻を同時にお招きし、Aさん宅とBさん宅に別々に1度ずつおよばれする、みたいな招待したりされたりのルーティーンがあるんですよ。それで、フランス人というのは昔から、そういうシーンで、他のカップルを品定めして浮気に走るというケースが多いんです。私はそんなことに興味はない上、誰が来た時何を出したか、誰が何を持ってきたか、お花かデザートかとか、次に呼ばれる時に何を持っていくか、とか考えるのが面倒なのです。そいでうちの連れ合いもsauvageなんで(彼を知っている人はまさかと思うでしょうが、ほんとのsauvageな人は、努力するから見た目が社交的なんですよ)、私たちはあまり人を呼ばず、「今度はあなたたちの番よ」と催促される始末。それで、「On vit??sauvagement」と弁解するわけです。うちには、たとえば現時点では毎週16人の生徒がレッスンに来て、そのうち半分は親が送迎に来るので、親と話すこともあり、人の出入りが一見多いのですが、基本的には引きこもりなんです。画家や音楽家の友人も毎週私と話しに来ますが、皆うちのことを「独身クラブ」と呼んでるんです。家庭や連れ合いから離れてうちに来ると羽を伸ばせて自由な気分になれてうれしい、という感じです。私も個人でつながった仲のほうが、無理やり連れ合いを紹介されるより長く続きます。うちの連れ合いは sauvage だけど、obeissant で、見た目完璧で信頼感をそそる人なんで、必要な時だけ駆り出します。うちは2件長屋なんで、独身クラブもお稽古場も生活圏と別なので。生活圏の方は猫まみれでぼろぼろで、みんなsauvageに暮らしてます。
 しかし、こういう風に弁解や言い訳に使えるということは、sauvage がすごくネガティヴじゃなく「そういうたち(ひとみしりする、社交が苦手、一人が好き)だからしょうがない」という認知があるということですよね。 もちろんsauvageには野生や未開という意味もありますけど、日本語で野生というと、野蛮も連想されますが、そっちは barbare に行くんで、日常言葉のsauvageにはそれがまったくありません。そしてその意味の反対語がapprivoiserでもあります。
 そして、そういっちゃったら、キツネが、毎日、少しずつ、あまりくっつかないで、云々というのは、確かに初めての人が苦手でsauvageなサリーちゃんに少しずつ慣れていただく、みたいなイメージはあります。だけど、最初にキツネが「おいらはApprivoiserされてないからね」といったのは、「僕はsauvageだからね」 だと言うのではない矜持や拒否があって、王子さまについごめんなさいと言わせたのですね。やはり動物に対する人間優先の言葉の不当さを感じ取ったのでしょう。
 それで、もし誰かが私に「あなたって、本当に付き合い悪いわね」と言ったとして、私は「ごめんなさい、sauvage なもんで」と答えて納得してもらえても、「Je ne suis pas encore apprivoisee」なんて言ったとしたら、何、この人、失礼ね、と思われるわけです。

23古川利明:2006/04/27(木) 20:20:26
フランス語の多義性
 竹下さんの「appivoiser」と「sauvage」に関する論考を読んで思うのは、「フランス語の多義性」ということです。英語と比べると、フランス語というのは、語彙がかなり少ないですよね(詳しい数字は忘れましたけど、慶応仏文の鷲見さんが出している「翻訳仏文法」に、そのフランス語の多義性ということについて、触れています)。確か、近代フランス語が確立していく過程で、かなり語彙を絞り込んでいったというふうなことが書いてありました。すると、語彙が少なくなっていったぶん、いきおい一つの語に多くの意味を持たせてしまうことになるんですよね。例えば、「sens」とかでも、辞書を引くと、「方向」だとか、「味覚」だとか、ものすごくいろんな日本語の訳語が出てて、まあ、文脈でわかるにしても、「何でこんなにたくさん訳語があるんだろう」と思ってしまうんですよね。日本語も確かに、一つの語をアイロニカルに使うことはありますけど、でも、「飼いならす」とか「野蛮」という単語は、なかなかそこから超えた意味へとトランスファーしていかないですよね。ところがフランス語は不思議で、そういった一つの語が持ってしまいがちな「意味の牢獄」からスルリと抜けてしまう自由さがあって、面白いですよね。星の王子さまのキツネは、そういう「言葉の魔術師」みたいなところがありますよね。それを日本語に翻訳するというのは、至難というより、たぶん無理じゃないかと思うのですよ。

24Fusako:2006/04/27(木) 21:42:42
言葉
「言霊」という表現がありますが、言葉には霊がこもっている、ということでしょうか。言葉こそ、その国や民族の魂である、という感じがします。
どの国も民族も、それなりの歴史を持っている、と思いますので、わたしは、アングロサクソンの方々にも、非常に興味もありますし、面白いし、共感するところもあるんですよ。英語が多義的でないとは全然思いませんけれども。単純化というか(動詞に顕著ですね)、どんどんsimplifyされた結果、英語がむしろ一番多義的な言語なのでは、とさえわたしは思いますが。

このところの「星の王子様」の話には、わたしはやや入れずにいました。と言いますのは、わたしは、食わず嫌いで、読んだことがないんです。原題はLe petit princeでしたっけ、それが「星の王子様」ですけれど、若い頃はこのタイトルだけで拒否反応でした。子ども向けの本では、ヴェルヌやアーサー・ランサム、サトクリフなどの冒険小説風のものが大好きで、王子様、には全く興味がありませんでしたので。今でも、その本よりは、テクジュペリの伝記なら読むかなあ、という程度です。

少し前に書きました、日本の法律用語、法律用語だからわかりにくい、というのではなく、もともと、日本語の中に、ぴったりあてはまり、誰にもすっと入る言葉がない、言葉がない、のは、そういう言葉にあらわされる霊、観念が日本に根付いていない、のだと思います。

でも、だからと言って、わたしは日本が精神的な後進国(?差別用語でしょうかね)とも思わないのですが。勝手な憧れかもしれませんけれど、たとえば、エスプリ、と比肩する言葉として、「粋」「気質」などが本来の日本の文化にはあったのでは、というように。
ここで、竹下さんのコメントを見ながら、わたしが考えるのは、フランスのあり方を参考にしながら、日本の中にある何を使えるか、ということですね。

25Fusako:2006/04/28(金) 13:33:24
sauvageについて
次の記述を思い出しました。大橋保夫さんの翻訳ですが、「私にとって『野生の思考』とは野蛮人の思考でもなければ未開人類もしくは古風人類の思考でもない。効率を昂めるために栽培種化されたり家畜化された思考とは異なる、野生状態の思考である。」
レヴィ・ストロースは、apprivoiserではなく、domestiquerを使っていますね。

26:2006/04/29(土) 08:23:38
apprivoiser について(訳者の解釈)
 三野博司です.
 初めて投稿します.このページを毎日のぞいているわけではないので,話題がどんどん発展して行っているようですが,もう一度『星の王子さま』に戻させてください.
 キツネが思わず「家畜化」と言ってしまったという竹下先生の解釈はとても新鮮です.キツネと王子さまとのやりとりが生き生きとしたものとして感じ取れます.
 私の解釈はこの第21章をイニシエーションの場ととらえるものです.それは,『星の王子さま』全体をどう解釈するのか,という問題とも密接にかかわっています.もっとも私の独創ではなく,似たようなことを言っている人はいます.Maryse Brumond ? Le Petit Prince ? (Bertrand-Lacoste) ですが,今年の夏には拙訳が世界思想社から刊行される予定です.
 拙著『星の王子さまの謎』(論創社)では,18頁を割いてこの第21章を解説しています.その内容をここで要約することは避けますが,章の終わりの部分だけを引用します.
「なぜ王子さまは、いったん友情を結んだキツネと別れるのだろうか。彼はキツネに対しても責任を負っているはずではないだろうか。また、王子さまとバラの花、王子さまとキツネ、この二つの<手なずけられた>関係のうち、どちらが優先されるべきなのだろう。それは、恋愛と友情のどちらが優先されるか、という問題でもあるように見える。しかし、キツネとの関係は、友情関係であるだけではなく、秘儀伝授の師弟関係でもある。師から秘儀を伝授された弟子は、もはや師を必要とせず、また師に依存してはならず、師のもとを去って行かねばならない。そして、今度は彼がこの秘儀を誰かに伝える任務を負うだろう。こうして、王子さまの旅は先へと続けられなければならないのである」
 ところで, 問題となっているapprivoiser の訳語についてですが,第21章だけでこの語は15回も使われています.邦訳するときに,これをニュアンスに応じて別の語をあててしまうと,原文では同一の語であることが分からなくなるために,多少の無理はあっても,日本語でも同一の訳語をあてる,というのがまず私の基本方針でした.
 たしかに,apprivoiser を訳すときに困惑を覚えるのは,この「家畜化」というニュアンスをどうするのか,ということです.そのまま「飼いならす」と訳してしまえば良いのですが,私はそこにちょっとこだわって「手なずける」としました.さらに,この「家畜化」のニュアンスを完全に消し去ってしまうと「なじみになる」というような訳語が考えられます.
 拙訳以外の10種近くある新訳はほとんど見ていないので,断定できませんが,approvoiser の訳語としては2つのグループに大別できるのではないかと思います.第1は,フランス語の字義通りに,「飼いならす」「手なずける」と訳すもの.第2は,原語のもつニュアンスからは離れて日本語として通りの良い「なじみになる」「仲良くなる」「ねんごろになる」「親密になる」などと訳すものです.
 私は,第2グループは採用しません.apprivoiser は他動詞であって,一方から他方への働きかけがあり,「なじみになる」と訳したのではこの働きかけが消えてしまうからです.apprivoiser には主体の側の意志的行為が前提とされているのに対して,「なじみになる」では,たとえば近所の商店へ毎日買い物に行っているあいだに知らず知らずのうちに「なじみになる」ように,そこには意志が介入しないからです.
 人と人が出会って親密になる過程では,出会ったときから双方が同時に歩み寄ることもないわけではないのですが,しかし多くの場合は,一方から他方への働きかけがきっかけとなります.この「働きかけること」が大事だと思うのです.キツネが教えるのはまさにこのことに他なりません.
 しかし,キツネはなぜ,王子さまに apprivoiser しておくれ,などと頼むのでしょうか.「なじみになる」「仲良くなる」ことが目的ならば,キツネのほうから王子さまを先に apprivoiser してしまえば,ずっと話が簡単です.あるいは,キツネが人間を apprivoiser するというのが不自然なら,「仲良くしようよ」と言ってしまえばいいわけです.しかし,キツネはそうした手っ取り早い方法を使わずに,王子さまのほうから apprivoiser するように誘いかけます.こうしたまわりくどいやり方には,initiateur としてのキツネの役割があるように思えます.
 キツネは apprivoiser には,「忍耐」が必要だと言います.またそれは「儀式」に則って行われなければならないと言います.これは友だちを作るための指南なのです.いきなり近づいてはいけません.それは不作法というものです.まずはじめは「少し離れて」座ることが求められます.それから時間をかけて,「日が経つごとに,少しずつ」近づくこと,これが作法に則ったやりかたです.ことばをかけることも禁物です.「ことばは誤解のもと」なのです.ことばは相手とのあいだに絆をつくる手っ取り早い手段のように思えますが,それは同時に危険を伴うやり方でもあります.キツネが勧めるのは,もっと時間はかかるけれども確実なやり方なのです.王子さまは「あまり時間がないんだ」と言いますが,ここでは時間を惜しむことは,実は一番避けるべきことなのです.
 毎日同じ時刻にやって来て,少しずつ近づくこと,これはすなわち学習です.キツネは王子さまに学習プログラムを提示するのです.このプログラムにしたがって,おれを相手に apprivoiser の実地練習をやってごらん,と言うのです.実際にやってみなければわからないし,身につかない.師匠がみずからを実験台にして,これを弟子に教え込もうとします.拙著『星の王子さまの謎』ではこう書いています.
 「こうして王子さまはキツネを手なずけることになる.手なずける行為の主体は王子さまでありキツネはその対象であるが,しかしこの行為を指導するのはキツネのほうなのである.実はこの手なずけることがそのまま王子さまにとっての実践的学習となることキツネは知っている」
 以上が,apprivoiser を訳すときに,私が先ほどの第2グループを採用しない理由です.
 訳語をどう選ぶか,というのは解釈と切り離せません.もちろん解釈はいくつもありますから,訳語もいくつもありえるでしょう.それぞれの訳者が自分の解釈にもとづいて訳しているはずです.そして,私は,解釈はたくさんの種類があるほどおもしろいと思っています.
 教室でいつも言っているのは,文学テクストの解釈はつねに複数あるということです.答えは一つではなくいくつもある.正しい解釈とか間違った解釈というものはない.優れた解釈と劣った解釈だけがある.優れた解釈がたくさん生まれれば,それだけテクストの読みが深まっていく.
 私の解釈も,もちろんたくさんある解釈の一つにすぎません.

27Fusako:2006/05/12(金) 22:36:43
NHKラジオのフランス語講座
4月から、毎週末は、「星の王子さま」です。今月は、いよいよキツネの出番でして、「なじみになる」が使われているようですね。
今日の放送では、2004年にテクジュペリの搭乗機の残骸が見つかった話が紹介されていましたが、フランスでのテクジュペリ、ってどういう受け止められ方なんでしょう。

28Sekko:2006/05/13(土) 22:56:36
サンテグジュペリ
 サンテグジュペリのイメージは、今の子はともかく、私の年代くらいのフランス人にとっては、何よりも飛行機の「英雄時代」の英雄として語り継がれていました。今の宇宙飛行士よりももっと危険とロマンに満ちた物語のヒーローという感じです。行方不明の冒険家、かな。植村克己とか・・・そこに戦争も入ってくるので、もっとヒーロー性が高いし。
 日本人が共有する飛行の歴史の初期の神話というのはあるのでしょうか。私は子供の時に「翼よあれがパリの灯だ」のリンドバーグの話を読み、日本の飛行機というと、その後は少年漫画の「零戦ハヤト」みたいなもので、航空機というと事故やハイジャックのことが頭にあるし、飛行機乗るのも嫌いなんですが、人々が最初の飛行士たちに向けた憧れの視線については理解できます。サンテグジュペリのような人にとって、空を飛ぶことの究極のセラピー効果も想像できます。彼が国民的冒険家であって、しかも、『星の王子さま』のような名作を残したのは、飛行の夢ということが何に繋がっていたのかを示唆している気もします。
 彼はTheiste だったと私は思います。無神論の系譜の中でも取りあげるつもりです。無神論とは、本当に、神を語ることで、近代以降のいろいろな思想家や文学者の心を鏡のように映してくれるツールです。

29Fusako:2006/05/16(火) 23:12:16
飛行、英雄、など
そういう人が書いた「童話」、それも、子どもには冷たい国(たしか鹿島茂氏がそのような形容をしていました)での、なんですね。

30Sekko:2006/05/17(水) 22:43:33
子供には冷たい国
フランスは子供に冷たいという評判はどこから来るんでしょうね。私も昔から耳にしてました。いわく、日本のように子供は7歳までは神様という国ではなく、創生神話がアダムとイヴという神の似姿の大人だったので子供は不完全な存在だ、とか、生殖や出産は原罪に対する罰だから、赤ん坊や子供の地位が低いとか、「大人の国」なので子供は2級人間とみなされるのだとか・・・だから68年の五月革命は若者が若者の権利のために戦ったのだとか・・・でも、少なくとも今のフランスで自分の周りの普通の人を見てると、みんな子供や孫に振り回されています。子供は王様、親は殉教者という言葉があるくらいで。むしろフランスでは時々日本のスパルタ式学習塾のドキュメント放送が流れて、日本の子はすごく勉強してかわいそうと思われてるような気がします。

31Fusako:2006/05/17(水) 22:58:23
訂正
ちょっといい加減な書き方をしたので、鹿島茂さんの表現をたしかめてきました。2005年に宝島社から出た「星の王子さまの本」という本で、フランスは「子供に非寛容な国」「子供っぽさが否定される社会」という表現をしておられます。「理性のそなわっていない子供はまだ人間ではない」という考え方が、フランスにはあるから、とのことのよう。で、そのようなフランスで、公刊された本の意義、フランスと日本どの受容は正反対、というような記述がありました。
フランスでの「子どもの発見」て、ルソーとか、アナール学派とか、との関連で聞いたような、とうろ覚えです。
日本とフランスとで、サンテグジュペリ、そして、「プチ・プランス」の受容、ってけっこう違うんじゃないかな、というのがわたしの印象です。
なお、「星の王子さまの本」の鹿島さんの対談にも、「apprivoiser」の訳語の話はやはり出ていて、これはラテン語のprivatus(私物の)から来た言葉、ということで、「飼いならす」としておられましたね。

いきなり全く変わって、日本では、冒険家、ってそれほど憧れの対象にならないのでは。植村直己とはなつかしい名前です。わたしも大好きでしたけれど、今の日本の若い人で彼を知っている人はどれほどいるでしょうか。植村直己とサンテグジュペリとを知っていて好きな人、っているかな、なんて考えました。

32Sekko:2006/05/20(土) 23:04:26
apprivoiser
フランス語講座での話を教えてくださる方がいました。それによると、「apprivoiserはもともとは動物について使うことば。主従関係よりお互いの親しみを想定している。そういうわけで夫婦、カツプルでこの言葉をつかう。たとえば男性が女性を完全にapprivoiserしてしまうということもできる。ということは時間の要素が随分はいつていて、時間をかけてしたしくなつてゆくことも含む」ということでした。
 私にはapprivoiser を そんなに「親しみっぽく」骨抜きにするのは、ちょっとまだ違和感があります。夫が妻をapprivoiser と言ったら、やはりシェイクスピアの『じゃじゃ馬馴らし』 = La Megere apprivoisee を思い出します。つまり相手は「じゃじゃ馬という動物」なわけです。対等な見知らぬ個人同士が時間をかけて「絆を創り」親しんでいくんじゃなくて、apprivoiserする方はapprivoiserしてやろうとする相手に対して、「優越感と恐怖を同時に感じている」のです。言い換えると「軽侮の念を持っているがその存在は怖い」という感じです。だからこそ、人間同士でなく人間と動物、男同士でなく、男と女になり、鶏を盗むキツネや、じゃじゃ馬や、野生の猛獣など、管理しないと脅威になるという相手をapprivoiserと言うのが基本だと思うのです。
 だから星の王子さまが「僕の花が僕をapprivoiserしちゃって」と言うのはキツネの定義を真に受けたかわいい間違いなんですよ。
 それで、このapprivoiserがフランスの雑誌などでよく使われるのは、なんと言っても「 apprivoiser la mort 」 という場合なんですが、これこそぴったりです。 人は死を無視して差別し遠ざけようと思ってるんですが、ほんとは怖くて、 その野生の荒々しさを何とか手なづけなくてはと思っているんですね。
 それでいくと、家畜化 domestiquer というのは、怖くない動物、牛とか馬とか鶏とかを働かせたり、つないだり囲ったりしますが、力では征服できないようなのは時間をかけてapprivoiser というのが基本かもしれません。そしたら、やはりキツネは、はじめは、「遊ぼうなんていってきても、所詮は人間の子、僕を対等に見てるわけないや、僕はだまされないもんね」と警戒してて、王子様が「お花にapprivoiserされちゃって」というのを聞いた時、王子様には人間と動物と植物の間の優劣や差別がないのだと知って、本当に友達になりたくなったんだと思います。
 で、私は 「 apprivoiser la mort 」 を含めて、apprivoiser がすきになれません。今調べている奴隷制の歴史で見るとでいくと、黒人を 奴隷化=domestiquer 出来なくなったところから、植民地化=apprivoiser が始まったと思うからです。じゃあ、異質の他者にどうすればいいかというと、やはり、真の意味で creer des liens です。
 「死」も、ごまかして恐怖を緩和したりするのでなく、生と死の間の絆を絶えず創っていき、生者と死者には共通の場があると想定したいです。多くの宗教はこういう点をカバーしているのですね。 Liens を創るのに rites が必要だというのもそこですね。
 真のユニヴァーサリズムは人を生と死のコミュニティに分けてどちらかがどちらかを管理するというものではなく、
存在のレベルの差を超えたコミュニオンを目指すものだと思います。

33Sekko:2006/05/25(木) 23:12:58
Marie−Antoinette
昨日から公開中のソフィ・コッポラの『マリーアントワネット』の映画は18世紀のレディDというか、15歳でフランス王に嫁いできた少女の物語なんですが、その解説にオーストリア人の彼女にhostileだった宮廷人を彼女が徐々にapprivoiserしていく、とありました。 敵意のあるものを魅力によって陥落させるというニュアンスですね。これは「apprivoiser la mort」とはまた方向性が違うと思いました。「死」は恐ろしくて逃避したいのとなじんでいくという感じですが、マリーアントワネットは、敵意ある環境から孤立させられないために、自分を適応させながら敵意を消失させるわけです。その成功が、怒れる民衆に対しても応用できると思ったところがちょっと悲劇的です。死とマリーアントワネットの二つの事例を考えた後で、キツネの話をもう一度読むと味わいが変わります。

34Sekko:2006/06/08(木) 21:42:16
ジェリコーとコメディ
 今リヨンでジェリコー展をやってます。ジェリコーといえば、ルーヴルにあって、日本の小中学校の美術の教科書にも載っていたと記憶する『メデューズ号の筏』で、ドラマティックだけどアカデミックなイメージです。でもこの人、フランス革命のさなかに生れ、1824年に33歳で死んだんですけど、ナポレオンの成功と没落、ルイ18世の王政復古と死、という、フランスの誇る共和国理念が、現実の嵐の中でぼろぼろがたがたになってどうしていいか分かんない、という政治的激動と危機の時代を生きて、すごく政治的な画家だったわけです。晩年に描いた『死馬』の画などは、メデューズ号と違ってミニマムにシンプルな一頭の馬だけなんですが、ひとつの時代が、完成せず、失望とともに終わったという悲劇が、諦念と鎮魂を凝縮して表現されてます。そして、メデューズ号の筏はその別の表現で、ミシュレーが、これはフランスだ、と言ったそうです。共和国の旗を掲げながら共食いし、屍累々、嘆いている者、救いを待っている者、波は荒く、空は暗雲立ち込め・・・
 それで、今回のジェリコー展の評といえば、そういう時代と今のフランスを必ず重ねるわけですね。一見自虐的とか絶望が深いとかも言えますが、こういう表現の中に文化的カタルシスがあるわけで、スペインにとってのゴヤのように、一番つらいところを引き受けて力の源泉にしてくれるような、こういう国民芸術財産があるのはいいなあと思います。

35Sekko:2006/06/08(木) 22:13:39
コメディ
 コメディのこと書くのを忘れました。ジェリコーとコメディは関係ないです。ジェリコーはむしろトラジェディー。
 最近、フランス映画のコメディを3本立て続けに見ました。私は普段あまりコメディ好きじゃないのですが、この頃、ちょっと、毎日馬鹿笑いしようと決めて、ジョークを収集したり、コメディを見ることにしたんです。それで、英語だと細かい笑いのつぼが分からないので、字幕を読むのも面倒だし、フランス映画にしました。『Essaye-moi』と『Quatre Etoiles』と『Maison du bonheur』です。結局一番面白かったのは『Essaye-moi』でポエティックとヴォードヴィルがよい具合にまざっていて、背景はむしろアメリカの郊外の町みたいでフランスっぽさがないのに、微妙にフランスっぽく、上質でした。これで充分笑えたので、力を得て、次の映画に行ったら、がっかり。ルービッシュとホークスとヒチコックを合わせたようなユーモアと様式と感動をということで期待したのですが、完璧に外れてました。まず、ヒーローの詐欺師がジョゼ・ガルシアなんですがいくらうまくておかしくても、全然共感できないのです。ハリウッドの猿真似でしかない。何が決定的に違うかといえば、ケーリー・グラントじゃないということに尽きます。ルービッシュとホークスとヒチコックを成功させるには、ケーリー・グラントのような「お約束」のキャラクターが必要だということがよく分かりました。ケーリー・グラントがでてきたら、どんな不真面目そうな詐欺師でも、ほんとは純粋で傷つきやすい心を持ってるんだろうとか、ヒロインはきっと恋するに違いないとか納得できるんですが、ジョゼ・ガルシアなら、ヒーローになりきれないのですね。これなら『Essaye-moi』で最初から変人の純粋君として出て来るフランソワ・マルタン・ラヴァルの方がまし。教訓=フランス人はケーリー・グラントのキャラはあわない。
 最後は芝居を映画化したダニー・ブーンのコメディで、購入した別荘の工事がめちゃくちゃになるという話ですが、これはまたフランス的過ぎて、笑えない。フランスに住む人なら誰でも身に覚えのあるような工事の不手際とか、不動産購入のリスクとか、身近な人の小さな裏切りとか、身につまされるところがあって、観客も、個人史の違いによって、それぞれ違うシーンでげらげら笑っていました。見終わった後も、あれよりはうちの方がましだよなあとけちな満足感が残るなんて、拍子抜け。ゲラゲラ笑えて、幸せ感が残り、ちょっとほろりなんてコメディは、天才が自作自演しないとだめかも。その意味でフランソワ・マルタン・ラヴァルは注目。ちょっと古いんですが日本で観れたらお勧めです。

36Fusako:2006/06/08(木) 22:38:26
映画
最近は日本に来るフランス映画って少ないので、おっしゃたのは来るのかなあ。
ルービッシュ、って日本での通常の表記だとエルンスト・ルビッチですよね。粋な映画を作る人でしたね。「ニノチカ」「天国は待ってくれる」「極楽特急」「生きるべきか死ぬべきか」、わあ、なつかしい!

37Sekko:2006/06/09(金) 04:13:15
ルビッチ
 ルビッチなんですね。私は彼の作品をほとんどカルチエラタンの名画座で見たので、日本語の表記も題名も知らなかったんです。今、ルビッチで検索したら、私の好きな「The Shop Around the Corner」は桃色の店(街角)とありました。James Stawart がなつかしい。ドイツ人でもこんなロマンチック・コメディーが創れて、原作がハンガリーの戯曲かなんかでしたよね。この中で、初老の店の主人が、浮気する奥さんに、君は僕と一緒に年をとってくれるのが嫌だったんだね、みたいなことを言うのがすごく身につまされました。まだ若かったんですが。そうか、一緒に年をとれるかというのがカップルなんだなあと思って。それに比べるとヒーローとヒロインの恋の顛末は印象が薄いでした。メグ・ライアンとトム・ハンクスでリメイクしたとか。あのEーメールの恋の映画がそれだったとは知りませんでした。

38hiromin:2006/06/11(日) 08:20:09
移民問題
先日の新聞で、移民の子どもの里親になるという運動が広がっているという記事を読みました。
サルコジ氏主導の移民の人たちを国外退去させるという政策に反対した親たちが、
「自分の子どもの友達を助けよう」ということで、移民の子どもの里親になり(里親になっても必ずしも国外退去させられないとはいうものの)、フランスに残れるようなんとかしようとしている人たちがいる、とのことでした。
日本的にいうと『親の会』って感じでしょうか。
こういった運動が広がるということに驚きましたし、感動しました。
これが日本だったらどうだったか?そう考えたときやっぱり悲観的になりました。
フランスではこういった動きは予想されるようなことなのですか?

39Sekko:2006/06/12(月) 01:18:22
移民の話とサルコジの言い分
ええと、充分想定内ですね。
サルコジが今度の移民法改正について言ってるのは要するにこういうことです。「みなさん、知ってますか? 移民に好かれる先進国のうちで、選択の基準のないのは世界中でフランスだけなんですよ。アメリカもイギリスもカナダもオーストラリアもみんな基準や条件がある。フランスだけが何でもありで、生活保護まで与え、家族を呼び寄せ、そういう移民家族が犯罪の温床になったり国のレベルを下げている。しかも、フランスは、不法移民でも10年住んでいたと証明出来れば労働許可つきの滞在許可を進呈している。これでは不法潜入を罰するどころか報償しているようなもの、こういうのはやめましょう。家族呼び寄せも、政府からの住宅手当や生活手当てなしで自立できている移民労働者だけに限りましょう。国民の税金で養ってもらっている労働者が国からどっと家族を呼ぶなんて変じゃありませんか。フランスに文句があるなら帰ってもらいましょう。あっ、でも労働許可のない不法移民でも、これからはケースバイケースで審査して、きちんと顧客と収入がある技術工とか、学校で優秀な成績を治めている子供とかには正式の書類を出せるように特例を作っていくつもりです。ね、厳しいけれど、人間的、これがサルコジ流ですからね」
近頃、サルコジが極右ル・ペンの外国人狩りのフィールドに侵入し、社会党のセゴレーヌ・ロワイヤルが「家族とか安全」などの保守党フィールドに侵出していると言われてますが、こういう論法はサルコジの典型です。
実際は、10年いればだれでも市民権(労働権)がもらえるというためには、すんでいたことを証明しなくてはなりません。そのためには自分の名で電気代や家賃や住民税を払っていることが必要で、まったくの不法移民の人は、それ自体が難しいのは当然です。学生ヴィザやアーチスト・ヴィザ、ヴィジター・ヴィザなどを更新しつつ、誰かに養われたり自国からの送金などで生活していて10年経過した、という人なら確かに居住者ヴィザをもらえていました。それだけモチヴェーションが高く生活力がある人だといえるので、決して不法に潜入していた根性に報償してもらってるわけではないのですが。サルコジの話だけ聞いてる一般フランス人は、そうか、そいつはひどい、隠れテロリストにどうぞいてくださいというようなものじゃないか、と思うわけです。それに、アメリカだって、不法移民は1100万人と言われていて、そういう人たちが道路にたむろして日雇い仕事場に連れて行くトラックを待っているのは公然の事実で、明らかに不法でも、数が多すぎて、警察も見て見ぬふりです。最近メキシコ国境に軍隊を配して話題になりましたよね。
フランスの問題は、たとえば難民のような人が、難民の認定をしてもらえるまでどうするかというときです。最近話題になったのは、旧ソ連のイスラム圏からの母子で、不倫の子といっしょで、強制送還されたら、シャリア法で母子とも殺されると言うのです。それで、その娘の通っている幼稚園の父兄がその娘を交代でかくまって、官憲からかばいました。あなたたちのやっているのは移民法違反の犯罪ですよ、と言われても、連れて行かれたら殺されると分かっている子供をかばわないのは「危険にある人を助けない罪」を犯していることに充当すると言って、皆一歩も引き下がりませんでした。
カトリック教会などは多くの不法移民の駆け込み寺になっていて、キリスト教の伝統としては、書類がどうとか国籍などは関係なく今ここで困っている人、宿のない人、病気の人、飢えている人、を養うのがイエスに仕えるのと同じだというので、官憲もなかなか手を出しません。そして、義務教育の学校はとにかく、誰でも無条件で無料なので、不法移民の子でも何でもOKなのですね。そして学年の間は就学児の追放はできないので、今、6月の学年末が近づくので、どっと、親とともに強制送還の手続きがなされるわけです。それで、そんな子達の学校の父兄が連帯して、学校に残れるように、なんとか養子手続きなどをしようとかするわけですね。そういう子は要するに学校に通ってみんなに溶け込んでいる子なので、正式移民の子でも不登校で群れをなして麻薬のディーラーになっている子よりも、将来の「共和国市民」として期待され受け入れられているわけです。前にも書きましたが、中国には、12歳くらいの優秀な子を単身フランスに送り込むエージェントがあり、毎日のように子供がパリにつくのが問題になっています。親の分からない未成年であれば、とにかく保護、フランス語を教えて学校に行かせるというのが今のフランスのシステムだからです。「未成年は社会が育てる」という基本があるからです。
 考えてみたら、たとえばインドネシアの地震のニュースで、多くの人が義捐金を寄付しているわけですが、あれも、別に国籍と関係ないですよね。書類があろうとなかろうと、今どこかで困っている人の存在を知ったら手を差し伸べるのが当然というコンセンサスがあるわけです。インドネシアの地震の犠牲者を助けるのが当然なら、いわゆる犯罪者でない限り、不法滞在だとか書類がないとかの理由だけで、困っている人を差別するのはおかしい、特に未成年は。というスタンスがあるのだと思います。
カルトなどの問題でも、未成年者の保護というのが絶対の課題であり、問題カルト関係者の子供たちはできるだけ早くカルトから引き離して「共和国市民」に取り込もうというのがフランス風教育社会主義ですね。日本の学校がカルトの子を受入れたがらないのとは逆の発想です。
とにかく自分以外の人が、衣食住や安全などの生存条件を満たされていないということを知った日からは、だれでも人生に影がさすというか、知らない前のようには生きられないように思うんですが。もしも地球が100人の村だったら、とかいう有名な絵本みたいなのがありますよね。あれを読んで、よかった、私は恵まれている、もう贅沢言わずに感謝して生きていこう、と思う人は多いと思いますが、私はなんかもう人生に陰がさしちゃいます。まあ、どちらの場合も「謙虚」ということを覚えるのは貴重ですけど。だって、自分が日本のような国に生れたりフランのような国で暮らしたりしている幸運は、全然自分のメリットと関係ない偶然でしかないですから。
この偶然の前には、「自助努力」「成果主義」なんて何ぼのもの、と思いますね。

40hiromin:2006/06/15(木) 00:20:41
移民の話
サルコジの言っていることに一瞬正当性を感じましたけど(小泉首相のはぐらかしにあっさり引き下がってしまうマスコミみたい)、なんだかたまたま恵まれた環境にいる人の言い分って感じですね。そこに痛みをもった他者に対する情のようなものもないし、フランスがその理念のもとにこれまでやってきた政策を問題が発生してきたからと言って簡単にないがしろにしようとしてる感じがします。
やっぱりフランスには基本理念は貫いていってほしいと思います。とても難しい問題ではありますけど。
こういう時のヨーロッパ人の発想にはやっぱりキリスト教が大きく影響してるんですね。先日フランス人の女性と話しをしていて「最近のフランス人はあまり教会には行かないのよ」と言ってましたが、それでもやはり影響は大きいんですね。
それにしても、だからといって「養子縁組」をするという発想はすごいと思いました。日本では誰もやらないでしょうね。自分も含めてよほど知っている人でない限り、反対運動はやったとしても「養子縁組」までできるかどうか。。。(これって戸籍の影響もあるんでしょうか)
日本にもかつては『子どもは地域の宝』という発想があったように思います。今は子どもが被害者になってしまう事件が多いので犯罪から守ろうという動きはありますが、もっとグローバルな考え方にたつべきではないかと思うときがあります。カルトの子を受け入れないことも、虐待されてる子どもをほっとくことも、国の宝である未成年を保護するという観点からしたらひどく間違った対応ですよね。

41古川利明:2006/06/16(金) 21:34:12
移民のサルコジ法案
 その移民問題を扱った、例のサルコジ法案ですが(下院は通過して、現在は上院審議ですか、それとも既に「法」として成立してしまったんですか?)、むしろ、私がいちばんアングロサクソン的なコミュニタリスティックなものを感じたのは、例えば、研究者とか、オリンピック、サッカー選手といった「有能な人間」は「どんどん、フランス入国OK」だけれども、「それ以外の人間のクズは、ガンガンと締め出すぜ」という、路線を打ち出していることです(という内容の記事が、外電面には出てました)。「それって、もろアメリカでしょ」の世界です。フランスの素晴らしいところは、もちろん、現実はなかなかそうではなく、非常にタテマエに過ぎるのかもしれませんが、祖国を迫害され、石追わるるごとく逃れてきた、亡命者、難民に対して、それこそ、ユニヴァーサリティックに受け入れ、とりあえず、自立の方策が見えてくるまでは、最低限度の生活保障くらいは面倒みましょう、という部分ではなかったですか。そういうユニヴァーサリズムの根幹を否定しようとしているサルコジに対して、私は、この上ない憤りを感じているのと、結構、そういうサルコジの言動に対して、「沈黙」という名の「支持」を与えているのではないか。そんな気がしてならないのです。60年以上前のレジスタンスも、当初はナチス全体主義に対して「ノン」と体を張って抵抗したのは、ほんのごくわずかの少数(とりわけドゴールくらい)で、フランス人の大半は沈黙していたんですよね。最近のセゴレーヌの「極右化発言」といい、「サルコジ的なるもの」に対して、妙におべっかな空気さえ感じるのは、私の思い込みが過ぎるのでしょうか。「不条理な存在」に対するフランス人のレジスタンスが何か、希薄な感じがしますが。

42Sekko:2006/06/17(土) 17:06:40
移民法
 ええと、上院は通過して、でも、法案の一部を修正(観光で入った外国人がフランス人と結婚して、その後6カ月以上不法滞在していたとき、ヴィザ申請に自国へ戻らなければならない、とするのを免除etc)で、例の資格や能力を明記する許可証については通過しました。優先連帯地域(ほとんどアフリカ)の国との共同開発においては、ということです。それで、こうしたら、ただでさえ自国の医者や技術者が少ないアフリカの国からますます優秀な人が流出するというので、野党は反対していました。今は、上下院共同の委員会にまわされています。(下院の方に差し戻しされれば決定権があります。)
 不法移民の就学児童の強制送還については、サルコジもついに世論に屈して、送還なしと言っています。
 優秀な人を優遇するというのは、フランス人のイメージとしては、優秀な人に来てもらって、「フランス人になってもらいたい」というのがユニヴァーサリズムに絡めた本音だと思います。サッカーチームを見ても分かるように、強ければ、黒人でもアラブ人でも、「みんなフランス人」で合意なのです。その意味で、ネーションより「エタ・レピュブリック」でしょうね。ドイツチームの半分がトルコ人だったりしたら、ドイツ人の応援アイデンティティは成り立たないでしょう、イングランドの半分がインド人とかも。
 フランスの歴史の中で、宗教改革と革命で優秀な国民にどっと出て行かれた、しかし、第一次大戦で優秀な移民が来てフランス人になった(あるいは第ニ世代は教育を受けて優秀になった)、その後は、アフリカの貧しい出稼ぎ移民で彼らは第二世代が適合しないのでまたレベルが下がった、アフリカからの移民を止められないなら、ここら辺で、アフリカ人は、最初から優秀な人に来てもらわなくては、という雰囲気ですね。

43hiromin:2006/06/29(木) 19:09:27
少年事件
先日、奈良で高校生の男の子が自宅に火をつけて母親と兄弟を殺してしまうという事件がありました。
このニュースを聞いたときとても悲しい気分になりました。
この少年は学校の成績のことで父親から厳しく叱責されたりしていたようで、何もかも忘れたくて火をつけたと供述しているようです。
私はこの少年が家から逃げ出せるような環境があれば事態は変わっていたのじゃないかと思いました。駆け込み寺じゃないですけど、一時的に家から離れられるようなところがあってそこに避難できれば、自殺したり殺したりするような事態もある程度は避けられるのじゃないかと。
フランスでは少年事件は増えてますか?またやっぱりフランスにも子どもが自ら駆け込んで行けるようなシェルターみたいのはないですか?

44Sekko:2006/07/21(金) 08:52:13
子供の暴力
 近頃、サルコジが、少年の暴力事件には幼年時から現れる素質によるものがあるとして、フランスでは2歳から入れる公立幼稚園や小学校から、「乱暴な子供」の観察と早期治療=管理というのを始めました。そこだけ聞くと過剰危機管理だと思うのですが、そのルポを見ていると、確かに、小さな子供の中にも、皆が静かに座っている状況で、突然他の子のお絵かきの紙を引きちぎったり殴りかかったりする子がいるので、そういう子は幼児心理学者などのカウンセラーを受けます。小学校では、殴り合いなどが始まると、教諭の他に、専門に配されている教育士が、その様子を観察して、当事者の子供を「話し合いの席」につかせて仲直りさせます。それでも、解放されるとすぐに校庭に飛び出して、意味なく他の子を殴る子供もいます。黒人の移民の子が多いです。これは家族がフランス語が不自由だとかうまく社会に溶け込めないとかいう不全感の投影かもしれませんが、確かに、こういう子はいかにも、このままほっておけば、中学くらいになると兄貴分について例の郊外「少年暴動」をやらかす予備軍のように思えます。14、15歳になって力が強くなってからではもう遅いので、かろうじて学校に通っている子供の時から対応するというのは教育的遠謀でもあります。まあこれができるのは、教育社会主義のフランスだからであって、教育費無料、教育士も教育省に雇われていて、問題児への心理学者や心理療法士の対応も全て無料という制度があるからでもあります。そして、教室外での子供同士の世界に口を出さないという「子供コミュニティ」尊重のコミュニタリスムでなく、一人一人の子供が権利を尊重されているかをチェックするユニヴァーサリズム方式なので、教育史が目を光らせていて不当なことには即介入というわけです。日本風のいじめや不登校が起きにくいのはそのためかもしれません。コミュニティより個人が優先して保護されている感覚があるからだと思います。
 昨日7月1日、不法滞在移民の就学児童とその親に滞在許可を与えよというデモがあり、パリでは里親の会など何千人もが繰り出しました。やはり黒人を中心に、不法滞在の家族たちが子供連れで歩きました。「就学児童=滞在許可証」というので、役所にも不法移民が押しかけています。その意味では、サルコジもまったく押されています。
 子供を共和国の学校に就学させれば、そこで「フランス人」を作るのだから滞在OKですよというのは、彼らの理にかなっています。しかし「教育」が聖域というのは考えたらすごいことですね。大体、他の国では、不法滞在者の子供を公立学校に登録できるのでしょうか?日本など、カルトの信者の子供だからといって受け入れたがらない学校とか自治体とかさえありました。里親どころか、PTAが猛反対という感じです。その癖、いじめとかには目が届かなかったりするので子供が追い詰められたまま大きくなりある日爆発するのだとしたら、悲しいことです。地理的にも歴史的にも状況が違うので、日本にアフリカ系黒人がどっと不法入国する事は考えられませんが、とにかく、たとえば東京の真ん中で、見た目マイノリティの不法滞在の親子たちに滞在許可を与えよといって同級生の親たちが一緒にデモ行進するなんて、逆立ちしても想像できないことです。すごく非現実的だし、こんなことでほんとにいいのか、ともよそ目にも心配ですが、これがフランスの特徴でもあり、こうやって子供の教育を引き受ける限り、「若者の暴動」は全て教育の問題だとみなして幼稚園から対応始めるというのも分かるので、10年後には効を奏するか見てみたいものです。
 結局、フランスにおけるライシテの聖域が学校なので、子供たち一人一人が私的に属する共同体が不法移民の家族であろうと伝統的なカトリック小教区であろうとカルトであろうと、学校はその上の「共和国=自由平等友愛」に置かれるわけです。その意味では、「ライシテ」の空間はそのまま駆け込みシェルターだといえます。教育士や多くのアソシエーションが具体的に活動しています。カトリックのシスターや修道会がこのようなライック(=非宗教的)の避難所を運営していることもあります。
 でも、何日か前、健康に問題のある不法滞在の人と話していたのですが、フランスでは不法滞在の人でも無料で診てくれるシステムがあるし、いろいろなアソシエーションもあるはずだから調べればとアドヴァイスしたら、自分は生きるのにせいいっぱいで、どこにそんなものがあるのか調べる余裕もないといわれました。理念の認識と情報の平等がないと、一つ一つの不幸は解消できないのです。でも「子供を学校に入れれば合法的に滞在できる」という情報は充分いきわたりましたから、光明を見出す人は多いでしょう。
 それで、奈良の高校生ですが、事情はよく分かりませんが、絶望や憎しみが自殺や他殺というほどの形をとるまでには、やはり、精神のケアを要する病的な段階を通過しているのだと思います。学校でも家族でも、第三者の誰かがそれに気付いてあげるシステムや状況がなかったのでしょう。絶望状態の人は、そこから逃げたりどこかに駆け込んだりしたら救われるかもしれないという発想すら奪われて、最後の抵抗が他人や自分を「壊す」ことしかなくなるのだとしたら、やはり、第三者による啓蒙と危機管理が必要なのかもしれません。シェルターがあろうとなかろうと、「他者に救いを求める」決意自体がすでにだれでも平等にもてるものではないのです。
 親はその定義上子に対して盲目だ、とフランスでは言われています。子供の危機を管理するのは至難の業、だめだと思ったら第三者に丸投げ、というシステムを認めるのもひとつの方法です。そういう親もまた、第三者の子に手を差し伸べて借りを返せばいいことです。誰でもよその子の教育士になれるし、ならなくてはならない。
 何の問題もない「いい子」をもてるのは、ただの僥倖か、子供の自由の搾取に成功したかのどちらかではないでしょうか。全ての少年事件、私には他人事とは思えません。せめて、私の生徒たちに「無償で助ける」ことの存在を教えたいです。助けることを知らなければ、いざというとき自分も助けてもらえるかもしれないと気付けないと思うからです。フランスの話と離れましたが、フランスのTVで、不法滞在の親子とデモ行進をする無償の人々(政治家もいますが)の姿を広く伝えるのは、その意味で悪くないと思いました。

45Fusako:2006/07/04(火) 22:29:32
子供の安全
個々の家庭の中に子供を囲い込みながら、学校や通学の安全については、国・自治体・学校など、外部の責任をすごく追及し、そして、子供の視線に立って考える、子供たちがのびのび暮らせるようにという観点が必ずしも共有されていない、のが、最近の日本のように思えます。

46Fusako:2006/08/17(木) 22:21:29
バロック音楽
「バロックはなぜ癒すのか」を読んでいます。
感想とは言えないのですが、面白いと思ったのは、フランス・バロックは演劇的で語りの要素が強い(イタリアに比べて)ということ。
つながるかどうかわかりませんが、しばらく前に聴きに言ったジュリエット・グレコのコンサートで、彼女の歌はほとんど、ドラマ・語りに近く感じました。ロックでも、フランスはけっこうラップが盛んだと聞きます。そんなことを思い出しながら読んでおります。

47Sekko:2006/08/19(土) 17:00:32
シャンソン
 日本にいわゆる「シャンソン」の根強いファンがいるのは、フランスの「語り物の歌」が、日本の伝統的な歌と親和性を持ち、一般に近代西洋音楽を聴く右脳の方でなく、曲も左脳の言語脳で聴くからだと思います。フランス人や日本人の方が、意味不明の外国語の歌詞の曲でも違和感なく語りとして聴くように思います。虫の声や鳥の声にでも「意味」を聞き取るのと同じシステムですね。その辺のことを近く『バロック音楽はなぜ癒すのか』の続編として書く予定です。右脳を鍛えろというのが流行ってますが、日本人やフランス人は左脳に情緒がリンクしてるんですよね。9月14日、朝倉未来良さんのフランス・バロック・フルートのコンサート、ぜひ行ってみてください(文化会館小ホール)。朝倉さん、フランス・バロックの名誉のために頼りにしてますよ。

48Fusako:2006/09/14(木) 23:07:00
小さな優しき歌
のコンサート、とても素敵でした。楽器が徐々に鳴ってくるとか、奏者が佳境に入って来るとか、休憩に頂いたシャンパンがきいてくるとかあるのでしょうか、最初「うむ、今日はバロックのお勉強だな」と思って聴き始めたのが、どんどん楽しくなって、アンコールまで快い高揚感で聴かせていただきました。

49Lion:2006/09/19(火) 17:17:56
ワインの話ですが
先日ワイン通の知り合いがワインを空気にさらして置くと味が変化してくるのを日本語では「ひらく」と表現するが、英語ではchangeと言いあまり言葉的に面白味がないと言うのです。
フランス語ではこういう時にピッタリ合う言葉は何かございますいでしょうか?

50Sekko:2006/09/19(火) 17:24:01
ワインの表現
フランス語は多分こういう場合EVENTE(最初と最後にアクサンあり)でしょう。Change(最後アクサン) というのはないので、
英語のchangeはフランス語の直訳ではないようですね。Ventは風の意味です。風にさらされて香りや味わいが飛んだ感じでしょうか。
酸化したならそのものずばりでOxyde(最後アクサン)もありますが。エヴァンテ の方が趣がありますね。
フランス語のワイン言葉で開く(ouvert)というのは、開花、熟成するという意味です。閉じたferme というのはその逆でまだ固いというか
青いというかですね。ニュアンスの違いはおもしろいですね。

51桐鈴:2006/10/17(火) 17:19:54
ストのこと・障害者雇用のこと
 パリに8年すんでいたという人が、こんなことを言っていました。「パリのストライキは、日本と違って、電車を止めないで、みんなにただで乗せちゃうの」だって。本当ですか?
 後、先日お聞きしたフランスの企業は従業員の6%を障害者雇用しなくてはならないという話ですが、どのくらいの企業が、達成できているの? %を聞かせて。知的障害の人はどんな仕事してるのかしら?

52Sekko:2006/10/17(火) 17:40:30
ようこそ
 電車、止まりますよ。でもわずかながら運転してる分にはコントロールがなくて、ストの日は改札の扉が手であくのはホンとです。でも、定期を持ってたからといって、後で払い戻したりしてくれません。95年の末みたいに2週間以上とまった時はさすがに翌月分が半額とかでした。多くの国では交通機関のような「公共事業」はスト権がないですが、フランスはあり、国鉄も派手にやってます。それは直接民主制の行使ってことで、お互い様で、みんな我慢強いです。
 障害者雇用について、現在、6%が課せられている企業(従業員20人以上)のうち、達成しているのが50%、一部雇用、一部は罰金というのが27%、まったく雇用してないのが23%です。政府は、2005年に、3年間計画で、3年の間何の努力もしない起業からは罰金を3倍に引き上げるとか通達を出してるようです。
 知的障害の人は、高齢化に伴って需要が増える介護助手などが新しいマーケットだとありましたが、今実際、どこにどのくらいいて何をしているのかは分かりませんでした。

53古川利明:2006/10/29(日) 18:15:45
女性大統領について
 竹下さんの「女性大統領待望論」、興味深く読ませて頂きました。竹下さんのセゴレーヌに対する期待が伝わってきます。ただ、彼女は(おそらく)、オランドと「ニコイチ」なんですよね。ヒラリーとクリントンとの関係のように。ヒラリーがクリントンなしに存在しないように(それは男女のそれよりも、「政治活動」という、オフィシャルな部分でしょうが)、セゴレーヌもそうだと思います。私は別に男女の能力差はないと思いますが、良くも悪くも、現実問題として、「政治」はあまりにもドロドロと汚いところに関わらざるを得ません。要するに「肥溜め」に手を突っ込む必要があるということです。それを考えると、あまりにもセゴレーヌは品が良すぎるというか、「清濁合わせ呑む」という部分がないんですよ。そこらあたり、ドビルパンとも共通するところだと思います。何か、フォーブール・サントノレのサロン・ド・テで、やんごとなくお茶を飲んでいる姿がサマになっているっていうのでしょうかねえ。日本でいうと、この前、滋賀県知事に当選したあのオバチャンみたいな感じですかね。確かに「市民派」で「クリーン」な感じはしますが、じゃあ、議会を牛耳っている、脂ぎった顔の、魑魅魍魎とした連中と渡り合えるか、ということです。その点、シラク、サルコジの方が、そういう手管には全然、長けています。シラクもかつては直球一本だったと思いますが、コアビタシオンでミッテランに煮え湯を飲まされて、だいぶ、変化球も使えるようになってきたとは思います。でも、去年のEU憲法草案の是非を巡る国民投票でも、それを最初に言ったのが、その前年の革命記念日だそうですよね。半年以上も間を開けたら、その間にいろんな世論動向の変化もあるわけですから、まだまだ脇は甘いです。それに比べたら、サルコジの方が全然「策士」で、アイツは本当に油断ならない男です。「頭が痛くなって、表から消える」なんてのは、要は「雲隠れ」じゃないですか。都合が悪くなったら「逃げる」ということでしょう。サルコジはENAに籍を持っていないにもかかわらず、ここまでのし上がってこれたのは、まさに「権謀術数」以外の何物でもないでしょう。その点では、彼は余りにも「謎」が多いですね。今、治安担当の内務大臣をやっていることを含めて、竹下さんも含め、フランスに在住する言論人たちが、サルコジをなかなか正面切って批判しようとしないのは、彼に対する「怯え」があるからでしょう。でも、シラクは叩かれる。ワールドカップの例の「頭突き騒動」で、ジダンがシラクに対して頭突きをしている風刺画がネット上に出回っていたようですけど、本来なら、あの頭突きの相手は「サルコジ」でなければならないはずでしょう。竹下さん、前にはっきりと私に言ってたじゃないですか、「もし、サルコジが大統領になったら、フランスから出て行きたいくらいだ」と。もし、「真の言論人」であることを貫くのであれば、もっと、筋を通した発言をしなければですよ。サルコジに別件でパクられて、警察の留置場に入るくらいの覚悟と勇気がなくて、何が、「言論人」だと私は思います。トルコの知識人は、クルド人問題で政府を批判するだけで留置場に引張っていかれているじゃないですか。私が「シラク3選」を支持するのは、そういう理由からです。それで、「共和国大統領」は、アメリカ、中国、ロシアといった、そういう手管にかけては、相当なものを持っている連中相手に交渉するわけですから、それを考えると疑問符を感じます。ただ、そういう「政治家としての資質」は置いといて、「女性らしさとしての魅力」という点で見れば、セゴレーヌもギグーも全然、OKですが(笑)

54Sekko:2006/10/30(月) 00:29:57
サルコジなど
 えーと「女性大統領待望」なんて言ってませんよ。私はDSKを支持だって書いてあるでしょ。あれはジェンダーコーナーで、政治家における男と女の「見た目」について考えてみただけで、サルコジ批判と直接関係ないし。でもサルコジとセゴレーヌの対決なら私はもちろんセゴレーヌで、DSKが首相になると見てます。DSKが大統領ならジョスパンが首相に返り咲きもありです。
 『もし、「真の言論人」であることを貫くのであれば、もっと、筋を通した発言をしなければですよ。サルコジに別件でパクられて、警察の留置場に入るくらいの覚悟と勇気がなくて、何が、「言論人」だと私は思います。』って、まさか私に言ってるんですか?
 サルコジのせいなんかでパクられるなんて、絶対ごめんですよ。まだカナダとかに引っ越すほうがまし。でもね、サルコジのなりふりかまわないむき出しの野心とネオリベぶりは、フランス的なエレガンスとも相容れないし、社会民主主義の伝統とも折り合わないし、その点で、サル居士がどうやって自爆するかつぶされるか、あるいは大統領になってしまったら、どう「フランス化」していくのか、そのへんを観察するのもすごくおもしろいんです。
逃げるのは解決じゃないし。
 もうひとつ、ジェンダーの記事にも書きましたがこちらではサル居士批判にすごく差別的言辞が飛び交っているんです。それに比べればセゴレーヌへの女性蔑視的批判はずっと穏当です。TVのギニョールなどの風刺番組ではシラクはサルコのことを一貫して「小人」と連呼してます。アメリカで「小人」が差別的というので「白雪姫と七人の小人」が検閲されたことがあるのを思うと、我彼の差にあらためて驚きです。
 シラクって、別に若いとき直球1本じゃないですよ。最近のドキュメント番組で、81年の二次投票のとき、彼がいかにジスカールをつぶしたかという証拠のコメントを改めて聞いて、今のサルコより上手のなりふりかまわぬ策士ぶりに驚きました。あの頃の私はシラクだけは信用の置けないマキャべリックなやつで絶対に大統領にしたくないと思ってました。
 ちょっと面白かったのは、シラク12年の功績として、イラク派兵反対や兵役撤廃と並んで、核実験の停止があがっていたことでした。日本人のイメージでは、シラクは大統領に就任してすぐ核実験を再開した悪いやつみたいのがありましたが、確か、ミッテランは10回以上やってたし、シラクは公約の時から、最後の核実験を数回やってそれから停止するというプログラムだったのですね。それで、基本的にフランスはもう核実験しない路線をシラクが用意したわけで、それが評価されてるのです。
 でも、最近、イスラエルの核兵器のことで、60年代にドゴールの肝いりで核開発した後、マルセル・ダソーがミサイル開発を助け、云々の資料を読んでいるうちに、プロアラブと思われているフランスが一方でヨーロッパ最大のユダヤ人口を抱えてイスラエルに率先して核を持たせていることの老獪さに改めて感心しました。イランや北朝鮮だとこんな騒ぎになってるのに、イスラエルだけは、欧米のパワーゲームの中でどうにでもできたんだ、という感慨です。こういうことを見てると、ほんと、清濁併せ呑むどころか、濁流の中で目を開けてどこまで見えるかというのが国の指導者の最低条件です。セゴレーヌは軍人の娘で、兄弟も軍人で、自分はセネガル生まれ、ヴィルパンもモロッコ生まれで、じょうずに「アフリカに強い」イメージも使ってます。「サントノレでやんごとなくお茶してる」感じじゃないですよ。
 そんなわけで、こちらは、サルコジが着々と人心をつかんで行くのに手をこまねいて黙っている、という構図ではなくて、サルコは目を覆いたくなるほど下品な非難や揶揄を含めて、すでにあちこちから攻撃されてます。こんな状況では確かに私は毒気がぬけるんですよ。個人的にはまわりはみんな「インテリ左翼」だし・・
 一度「ヴィルパンかわいい」とか口に出したら散々な目にあいましたし。11月の下旬、社会党の候補が決まったらまた報告します。

55古川利明:2006/10/30(月) 21:43:28
大統領のフランス化?
 失礼しました。確かに「ドミニク・ストラス・カーン(=DSK)に期待する」と書いてありました(笑)。ただ、このDSKという人物は、少なくとも日本では全く無名ですね。外電記事では見たことがないです(たぶん)。どういう人物ですか? それと、私がよくわからないのは、今回はPSもUMPも「党員選挙」で大統領選の候補者を決める、ということですよね。何で、そんなアメリカかぶれのようなことを、わざわざやるんですか? だって、フランス大統領選はアメリカもそれとは違って、有権者の直接投票・2回制なんですから。出たけりゃ、95年のRPR同士の「バラデュールVSシラク」のときのように、どんどん、みんな手を上げて出りゃいいじゃないですか(笑)。前回のジョスパンの1回目でのルペン敗北は、「油断」ですよ。現職の首相が、あのルペンに負けてるようじゃ、どうしようもないじゃないですか(笑)。それと、81年の大統領選で、シラクは決選投票に出れなっかったんで、同じ保守・中道のジスカールデスタンを潰すため、ミッテランに自分の票を回したってことですよね。「敵の敵は味方」なんだから、私だって、それくらいのことはする。私に言わせれば、その程度のレベルは、全然、「マキャベリズム」でも何でもないですよ(笑)。やっぱり、竹下さん、アカデミズムの人ですよ。私のように汚れていない。でも、それは大事なことだと思います。しかし、大統領になると「フランス化」するというのも「ふーむ」という分析です。ミッテランがそういうところがありましたからね。

56Sekko:2006/10/31(火) 01:09:10
DSKなど
簡単なのは、Dominique Strauss-Kahn - Wikipedia で検索したら顔とか経歴とか出てきます。この人も幼時モロッコにいたのでプロアラブのイメージと、でももとユダヤ系ということでバランスが取れてる気もしますが・・・PSがこうなった(党内選挙)のは、EU憲法条約の時のファビウスの離反、しかも離反した側が国民投票で勝ったというトラウマのせいです。でも今のとこ足の引っ張り合いで、議論をやればやるほど、内輪もめの印象を与えてます。サルコジが、少なくとも僕のおかげで彼らは「サルコジ批判」という共通点を持てて分裂をなんとか防げている、と今朝のラジオで言ってたのが皮肉です。UMPは保守から二人立てて共倒れになるのをふせぐためヴィルパンとMAMを抑えようとしてるんでしょうけど、今は去年の「郊外暴動」から1周年ということでまたポリスと若者の衝突が懸念されているので、サルコがかなり表に出ています。「僕は情熱の政治家、この国を情熱的に愛してる、課せられた責任を果たすのが大好き」と臆面もなく言ってました。「責任を果たす=権力を行使する」が彼の中ではナチュラルに一致してるのですが。
 シラクのジスカールへの近づき方と捨て方とつぶし方は、しかし、かなり印象的でしたよ。自分が落ちた後、「私はジスカールに投票しますが、みなさんはお好きなようにまかせます」と言った、その言い方が、見返してみるとびっくりでした。今ドゴールのTV演説を見ても、その芝居ぶりに驚かされました。舞台用としか思えません。ドゴールに比べたら、今の政治家はかなり普通になってます。
 大統領のフランス化というのは、第五共和制では大統領は「国の象徴」の役目もあるので、フランス革命の理念や何やらをせおわされるからです。でも今のシラクみたいに、もう博愛主義者として言ってることと、実際の政治とが遊離しちゃってる場合も出てくるわけです。

57:2006/11/08(水) 14:15:02
ちょっと場違いですかね
http://blogs.yahoo.co.jp/kenichimiura423/43370763.html?p=1&pm=l
こちらのブログでフランスでは教義を理由に団体を差別している。
という話が展開されているのですがこれはライシテの原則に反しているような気もします。
どなたか知見をお持ちの方おりませんか?

58Sekko:2006/11/08(水) 20:36:53
いいですよ
 ご指摘のブログを拝見しました。かなり誤解があります。まず、フランスの95年のセクトリストは、「教義によるカルト」の認定ではありません。ライシテとそれに基づく共和国主義を未成年に教育するための指針でした。当時も、法律に反することのない限り、これらのグループの存在は認められています。ただしフランスは、成年(18歳)に達するまでに共和国理念の教育を受けているというのが前提の「自由」なので、未成年(=分別力判断力の完成していない人間)の私的環境に干渉するのです。これは、ブログにあるようにカトリックの保護というのではなく、むしろ、私的地域的にどっぷりカトリックの刷り込みのあったフランスの歴史的状況との戦いを基礎にしてすべての反カルト法があるといっていいくらいです。ですから、反カルト法には今でもカトリック教会が目を光らせていて、信教の自由に反しないかチェックを入れているので、まあバランスは取れています。
 このリストは95年の時点で、フランスで、主として未成年に関係してしばしば訴訟の対象となったグループ(内部での教育機関に勧誘や宣伝、親権訴訟など)、金銭関係などに疑惑を持たれたグループ、寄付や脱会に際してしばしば訴訟の対象になったグループ、であり、「被害者」を助けるための非営利組織がすでにあるものがほとんどでした。「被害」とは、脱会の際に嫌がらせを受けたとか、洗脳されて大金を寄付してしまったとか、子供に法廷のワクチンを受けさせないとか、学校に行かせないとか、離婚した後、子供をつれてグループ生活をする親が、もう一方の親や祖父母との面会を認めないなどです。ブログにはオウム真理教が入っていないとありましたが、95年の時点でフランスでそういう被害がなかったからです。
 ですから教義とは直接の関係はなく(もし教義に社会から子供は隔離して育てるべしなどあれば別ですが)、宗教以外のグループも対象になるわけです。リストにはもちろん各グループの紹介がありますが、そこに挙げられている名目や公式の活動内容そのものがカルトだといわれているわけではありません。
 もちろん健康な大人が自分の判断でどのグループに入ろうと違法行動をしない限りOKです。ではこのリストがどういうふうに使われたかというと、離婚の時に一方が認定セクトに入っていると、入っていないもう一方が親権を主張しやすい、洗脳されていたとの主張が通りやすく賠償金をもらいやすいとかなどの訴訟シーンです。後、このリストに入っているグループは原則として、未成年教育施設、病院、リハビリ施設や老人ホームなど、判断力が充分でないか弱っている人の多い公共の場所とその半径200メートル以内での広報や勧誘活動ができなくなりました。それらのグループの「被害」は実際そういう場所での勧誘が多かったからです。教師が教室で広報勧誘するなどは当然だめですが、確かパリの16区のリセでは日本人のSGIの生徒が、リセの内部で友人を勧誘したことで一時問題になりました、未成年が未成年を、生徒が生徒を勧誘するというのは「想定外」だったからです。
 そういう「訴訟における判断の材料」というプラグマチックな意味があったので、170以上の名がリストにあったわけですが、その後状況は大きく変わりました。一つはもちろん2001年以後のイスラム原理主義のテロ問題です。
 移民や不法移民の子弟が共和国の学校から落ちこぼれる、モスクで原理主義グループに誘われてパキスタンなどの軍事訓練に行く、など深刻な問題がたくさん起こり、セクトどころではなくなったのです。172のグループの「被害者」はどちらかといえば、いいところの若者や小市民が多かったのですが、社会の別の次元の問題が大きな危険を伴って増大したのですね。それで、95年のカルトリストは、今年初めに一応役目を終えたことになりました。これは、それらのグループがセクト的傾向がなくなったと判断されたのではなく、95年の基準で行くと、今は同様のグループは170どころか400か500に上るそうで、172のリストに載っていないということを免罪符にすることの不都合のほうが大きくなったということらしいです。だからリストなどでくくらずに訴訟があるごとに個別のケースを審査すると言うことです。
 もちろん、カトリックの内部でも被害訴訟というのはあります。特定修道会に洗脳されたなどです。あるグループがセクト的であるかどうかは、普通は、教義そのものにあるのではなくその個別の運用にあるのですから。
 独善主義とか、秘密主義とか、全体主義など、共和国主義に反するとみなされる「セクト的」活動や考え方はあらゆるところにはびこっています。セクト(統合するものでなく分断するものというイメージで、フランス風ユニヴァーサリズムの敵)の誘惑といっていいくらいです。「自由・平等・友愛」といいますが、ほっておいたら、私たちは「不自由・不平等・憎悪」に限りなく向かっていくかのようです。だから建前など意味がなくてフランスは歪んでいるんだと言うより、だからこそ、建前をしつこく掲げて、試行錯誤しながら、理念を現実に反映しようと四苦八苦するフランスみたいな国があることは興味深いです。
今の日本では、子供が親と一緒に宗教団体で暮らし始めたら、祖父母が孫と会うことを拒否されても、どこへ訴えることもできず泣き寝入りするケースがほとんどですし、逆に、オウムの事件のように、カルト教団内で育てられていた子供たちを保護するどころか、就学を拒否したり「くさいものに蓋」式の封じ込めをするのも知られています。それよりはフランスの方が責任あるケアが期待できていいかなと思ってます。
 私の義妹はチベット仏教の学者であり僧侶です。その仏教センターに来る人々の心性は、旧ヒッピーというかエコロジーでロハスな人、リンポチェにをほぼ偶像崇拝してる人など、さまざまです。救いや幸福にもいろいろあって、救いや幸福を求める形にもいろいろあるんだと思わされます。でも救いや幸福を求める心につけこんで人をコントロールしたり搾取したりしようとする人間や組織も必ずいるわけで、私は少なくともそっち側(つけこむ側)に足を踏み入れないように気をつけたいです。
 そんなわけで、「・・はフランスでカルトに認定されてるからカルトだ」という言い方は、フランス人が言っても日本人が言っても間違いです。そんな言い方で断罪したり免罪したりせずに、グループや個人の個々の活動の現われを自由・平等・友愛の理念に照らしてこまめに微調整していくのがいいような気がします。

59:2006/11/09(木) 14:31:09
(無題)
ありがとうございます。
お詳しそうですね、文章も気合が入っております。
宗教関係の方からの中立な視点は非常に興味深く、拝読させていただきました。

95年報告書を字義通りに読むだけでは中々わからない話。
具体的な選定基準の話は知らなかった内容もあり参考になりました。
UNADFI等が関わったのは知っておりましたが、記載されたのが「被害者」を助けるための非営利組織がすでにあるものがほとんどという話や細かい基準は知りませんでした。
訴訟における判断の材料に使われたということは、それだけキチンとした報告書であったということですね。
しかし逆に考えると個別の事件に適用するというのは公平さを欠くような印象も受けます。
裁判で95年報告書は行政資料に過ぎないという話もあったようですし。
裁判で乱用してはいけないとの通達もあったようです。

セクトどころではなくなったというのは大変そうな話ですね。
評判が悪いが最悪というイメージが浮かぶほどでない団体が多いみたいでしたしそういう問題がおきたら放っておかれそうですねえ。
しかしMiviludes2004年度報告書を見ると一般的なカルトの手口に対抗するための行政施策が並んでいるようにも見えます。
単純に放っておかれているわけでもないように思えますが?
報告書などを読んでも普遍的なカルト対策に思えます。
そういえば報告書にも訴訟の援助や典型的な被害の目録づくりや詐欺研修防止などがありましたね。
特定団体を想定した対策ではないようですし、そういう方向に流れたというのは穏当な話ですね。

>>大人が自分の判断でどのグループに入ろうと違法行動をしない限りOKです
昔調べている途中で、大人の選択には干渉しない。
という表現があり不思議だったのですが未成年が重視されているとの貴方の説明もあわせると説得力を感じます。

私の話なのですが
日本語の記事を検索してもマスコミ情報はほとんど無く、信頼できるのは日弁連や読売新聞記者の談話など極少数。
このブログに代表されるような誤解だらけの記事が蔓延しておりました。
まずは正確な情報をと、私は今現在セクト対策に関わる行政資料の日本語訳をWikiSourceに提供している次第でして。
WikiSourceはWikiの姉妹プロジェクトで誰でも参加できます。
もし宜しければ参加していただけないでしょうか。
やはり情報が少ない状態ですので、詳しい方はひとりでも多いほうが良いのです。
それにこういうプロジェクトでは多様な視点が何よりも大事です。

60Sekko:2006/11/09(木) 19:44:09
セクト対策プロジェクト
Sさんのスタンスが分からなかったのでちょっと迷ったのですが、お役に立ててよかったです。でもこの問題にこの匿名の場ではあまり深入りしたくないので、このサイトへの個人メール sekko-culturelavo@hotmail.co.jp に改めてご連絡ください。

61:2006/11/12(日) 20:41:25
了解です
わかりました。
一応仕事と勉強を抱えている身分なので時々
お返事が遅くなるかもしれませんがその辺はご了承ください。

62お伺い:2006/11/14(火) 20:49:49
sekko様、s様
当該ブログの管理人の者です。
sekko様の投稿を読み、改めて考えさせていただきました。
その内容を全文記事にしたいとも考えております。
それについてのご意見をお聞かせください。

63Sekko:2006/11/15(水) 00:45:42
いいですけど
「全文記事」ってのがよく分かりませんが、Sさんがよければ私は別にいいです。私は大体において対決回避型の逃げ腰なんで、たとえばセクト的信念に固まった人との論争とかはしたくないんで、目立たないとこでお願いします。(だからSさんへのお返事にまよったんです)
 でも、こういうことで困っている方とかいらっしゃれば、哲学宗教の質問箱かサイトのメールに入れてくださればアドヴァイスできるかもしれませんのでどうぞ。

64お伺い:2006/11/15(水) 12:12:38
感謝
sekko様、全文記事というのは、意図的な変更を行わず、なるべくそのまま記事にしたいとの意味です。とりあえず記事にした際、何か注意点などあれば仰ってください。とにかく、「学会はフランスが国家的に認めた洗脳集団、破壊的カルトだ!」と一刀両断するのも、「それはフランス国家が悪い」としらばっくれるのも、どちらも真実を忠実に表現しているとは言えないと感じています。論争をする気はありませんし、大変フランス事情に精通されていて、敬服しております。

65:2006/11/20(月) 17:52:16
立場表明
偏見に固まらず中立的な見方。
やっぱりこれが一番大事ですからね。
私の場合ついついカルト批判に偏ってしまう側面があります。
事実は事実できちんと存在しているのですから
できるだけ正確な所を知りたいものです。
私もどうしても日本と言う情報の少ない場所に住んでいる身。
情報の少ない状態で犯した誤認は絶えず訂正しなくてはいけませんし。
固執するのはできるだけ避けたいところです。
でも私のサイト反カルトよりではあっても日本語ページで
一番中立的な情報を提供しているサイトだと自負はしているのですよ。

66:2006/11/20(月) 17:55:02
Reお伺い
私も掲載に賛成しますよ。
一つ条件をつけるとすれば
>>「学会はフランスが国家的に認めた洗脳集団、破壊的カルトだ!」と一刀両断するのも、>>「それはフランス国家が悪い」としらばっくれるのも、どちらも真実を忠実に表現してい>>るとは言えないと感じています。
この立場を保持していただくだけでよいです。

67:2006/11/21(火) 21:02:53
(無題)
Sekkoさまちょっと気になるのですがご指定のメールアドレスに私の方から
一通メールを送信しましたがまだお返事を貰っておりません。
一通でも結構ですのでお返事をいただけませんか?

68Sekko:2006/11/21(火) 21:22:13
へんですね
メール読みまして、2通返事しました。biglobe のアドレスに。変ですね。Sさんのサイトを教えてくだされば、そしてそこに連絡先があれば再度トライしますが。でなければ、別の方に頼みます。フランスからなので、返信枠でないと文字化けしたりすることもあるり、スパム扱いで消去されてるということもあるので。

69:2006/11/25(土) 01:05:09
へんですね
お返事遅れました。
もしかしたらジャンクメールと間違って削除したのかもしれません。
sinapusuA@hotmail.co.jp
にメールを送ってみてください。

70Sekko:2007/03/07(水) 00:58:46
大統領選荷ついて
 ここに来てフランソワ・バイルーが頭角を現してきた。サルコとセゴのあくの強いやり取りにうんざりし、どちらも大風呂敷を広げるのが不信感をそそるので、中道のバイルーが新鮮に見える。また、首相はともかく、フランス人は大統領には父親像を伝統的に求めている。サルコもセゴもそれを満たさない。バイルーにはそれがあり、吃音を克服したというやや訥々とした話し方も誠実そうに聞こえる。立て板に水のサルコや、妙に軍人っぽいセゴとは違う。教養のある教育者という雰囲気もある。サルコは、貴族の家系なのに品格がなく、自力でのし上がったとさかんに言っているが、本当にいかにも他人をだましたり押しのけたりして成功したという雰囲気をかもし出している。TVにも映ったが、何か都合の悪い質問をした女性に対して、「T’es qui,toi?」などと答えたことがある。フランス語には Bon pere de famille という表現があって、礼節を持って多者をリスペクトして常識的にふるまうことを「家庭の父としてふるまう」と言う。サルコにはそれがない。彼のその品のなさ、はある意味では一種の魅力でもあるのだが、それゆえに彼はリスペクトされない。バイルーも小柄だが、バイルーをちびだと言う人は一人もない。サルコだけが、はっきり言って気の毒になるほど、背が低いとからかわれている。サルコが体現しているのは父親像でなく、彼自身がクズと呼んで物議をかもしたチンピラ像なのだ。今から思えばジスカール・デスタンは若い大統領だったが背が高く髪が薄く雰囲気が老けていた。ミッテランも髪が薄く若くなかった。シラクは若い頃はぎらぎらしていたが、パパ・シラクとよばれ角が取れたイメージでようやく大統領になれた。その意味では、少し若いが、ヴィルパンは上品だが戦える父親像に適っていたがシラクに使い捨てにされた。サルコが大統領になっても閣僚にはならず、アメリカでアル・ゴアがそうしたように在野で独自の活動をすると彼は言っている。ゴアが環境問題でしたことを自分は世界平和のためにやると言っていた。その方がヴィルパンには似合っている。政治の世界を泳ぐには彼は上品すぎるからだ。フランス人は、190cm台ならとても背が高い、180cm台なら長身、170台は普通、という大まかな感覚があるが、ドゴール、ジスカール、シラク、ヴィルパンと、とても背が高い政治家がけっこういた。だからサルコの小柄が目立ち、シラクとヴィルパンの長身コンビと比べられて揶揄されるのだが、要は人柄だ。温かみのアルバイルーを見ててそう思う。サルコは、額に汗して働いている人が国からアシストされている人よりも稼げないのはおかしいという、ピューリタン成果主義みたいなことを平気で言って、そういうことをフランスで言う政治家は少ないので、一定の支持を受けている。ル・ペンが、うちの子がよその子より優遇されないのはおかしいという論理を打ち出したのと同じだ。サルコが大統領になったら、フランスも、生活保護は最低限のお情け、施しであり、働く人が税金を注ぎ込むのはおかしい、というどこかの国みたいになるだろう。フランスはアベ・ピエールを失って孤児になった。みんなが新しいお父さんを求めている。その気持ちがバイルーに向かえばいいのだけれど。バイルー大統領ならボルローの続投やヴィルパンの外相返り咲きもあり得るかもしれない。

71Sekko:2007/03/12(月) 05:22:46
シラクの言葉
 ついさっき、TVでシラクがようやく大統領選への不出馬を表明した。第五共和制になってから自らの意思で権力を手放した大統領は始めてなのだそうだ。そういえばそうかとびっくりした。不出馬の正式表明を延ばしてたのは、ヴィルパンがサルコジを支持すると言わなくてもいいように配慮していたのだと私は考えていた。結局、今日も、予想通り、サルコジ支持はしなかった。その代わり、無難というか、ユマニストでソシアルで、共和国的なメッセージを残し、文句のつけようがなかった。言ってることとやってることは違うとも揶揄されるが、共和国理念を堂々と完璧に話すだけでも意義がある。セゴレーヌやバイルーやラファランやル・ペンがコメントしていた。前はル・ペンを見るのもいやだったが、今は、78歳でこの意気盛んな様子、ある意味で敬服。今見るのもいやなのはサルコジだ。
 TVではじめシラクを見てたら、なんだかミッテランの時のデジャヴの気がしてきた。輪郭や禿具合がそっくりになってきてる。大統領になるとこうなるのか、右傾から社会党首になったミッテラン、左傾から保守になったシラク、二人とも、大統領を二期やってるうちに、「共和国の子」の顔になった。さっき、シラクは、フランスは世界の経済格差是正についてもがんばるようなこともちらっと言っていた。彼は現にアフリカ諸国から好かれているから意外でもないのだが、こういうときにこういうことを元首がちゃんと言える国というのはうらやましい。自分の国の貧しい部分を切って捨てたり「美しくない」とか思っている国の首長なら、世界の貧しい国のことに言及しないだろう。そういえば、わりと最近、アメリカのキッシンジャー元国務長官ら数名が、世界の核兵器をアメリカも含めてすべて廃絶せよという宣言を出していた。それを読んだとき、なんだか悔しかった。あんたに言われたくはないと言うより、何でこういうことを日本人が言わないんだろう、と思ったのだ。冷戦のときは物言えば唇寒し、というか、核の傘に入れてもらっているということで言いにくいのは分かるが、キッシンジャーですら、全廃棄が平和への唯一の道ととにかく口にする時代になったのだ。北朝鮮に対抗して自分たちもいまさら核武装なんていう声が聞こえる日本って・・・
 もし唯一の被爆国として、地球の片隅からとにかく核兵器全廃絶とずっと唱えていたならば、よそはともかくその日本にもう一度核爆弾を落としたらどんな国でももう国際社会ではやっていけない、という無言の国際合意を作れていたかもしれないなあといつも思わざるを得ない。「フランスには世界の公正と平和のための使命がある」と大統領がTVで熱く語れる国って、たとえGNPが下がっても若者の「暴動」が起こっても、「襤褸は着てても心は錦」って矜持があっていい。理想や原則って、やっぱり大事だ。

72Fusako:2007/03/13(火) 22:55:44
襤褸は着てても心は錦
このフレーズも、「矜持」という表現も、まあ、久しぶりに聞くなつかしい言葉のような気がします。海外にいる方の方が、古い日本を心の中に保っておられるのかもしれませんね。

73Sekko:2007/03/21(水) 01:04:58
仏文和訳
私からの質問です。次の文を和訳してみてください。
そして、Chacun, Quelqu'un, Quiconque 、Personne

という4つの言葉の訳を提案してください。お答えはこのサイトの著作紹介の所にある読者の感想を送る場所
sekko-culturelavo@hotmail.co.jp までどうぞ。


Responsabilité

C'est l'histoire de quatre individus :
Chacun, Quelqu'un, Quiconque et Personne :
Un travail important devait être fait,
et on avait demandé à Chacun de s'en occuper.

Chacun était assuré que Quelqu'un allait le faire, Quiconque aurait pu s'en occuper, mais Personne ne l'a fait.
Quelqu'un s'est emporté parce qu'il considérait que ce travail était la responsabilité de Chacun.
Chacun croyait que Quiconque pouvait le faire, mais Personne ne s'était rendu compte que Chacun ne le ferait pas.
A la fin, Chacun blâmait Quelqu'un, du fait que Personne n'avait fait ce que Quiconque aurait dû faire.

74Sekko:2007/04/06(金) 20:37:00
仏文和訳その2
 お待たせしました。前の質問の答えと次の質問です。といっても、答えはありません。宿題みたいだ、という意見がありましたが、別にどの答えが正しいとかいう評価はないんです。頭の体操として楽しんでください。今回の回答は6人でした。匿名でOKなので、気楽にやってください。
 まずその中で一番クラシックですっきりしてたKumikoさんの回答を貼り付けて回答がわりにします。


  Chacun, Quelqu'un, Quiconque et Personne :
  誰も、  誰か、  誰でも、   誰一人。

4人のおはなしです。
誰もと、誰かと、誰でもと、誰一人がおりました。

大事な仕事がありました。
誰もが取り掛かるようにと指示を受けました。

誰もが誰かがやるだろうと思っていました。誰でも良いのですから。ところが誰一人しなかったのです。
誰かが、この仕事は誰もに責任があるといって、怒り出しました。
誰もが誰でもできると思っていたのに、誰もがしないだろうとは誰一人考えなかったのです。
誰でもやるべきだったことを誰一人しなかったというので、しまいには、誰もが誰かのせいにするのでした。」



 これで4人の名前がぴったりおさまります。パチパチパチ。
「誰も」「誰か」「誰でも」「誰一人」 とミニマムにしたのがよかったみたいです。これに似たのはで、Mさんの「誰もが」「誰かが」「誰でも」「誰も」がありましたが、「誰もが」と「誰も」の違いを出すために「が」という助詞を加えたので、主語じゃないときに修正が必要になりました。
すごくユニークなのはKさんなのでこれも全文ご紹介。

「誰かが答えると、みんなが思っているかもしれませんが、試みに投稿させていただきます。
4つの言葉の訳はケースバイケースになると思います。考えるほどに難しくて、どこかでどれかがぴったり合わなくなります。ケースを決めるのは「大事な仕事」の種類ですね。

私はこんな図式で考えています。

[Chacun⇔Quelqu’un]= Quiconque ⇔ Personne



卑近な例ですが、「道路で狸が車に轢かれて死んでいた」と仮定して、

Chacun =役所

Quelqu’un =住民

Quiconque =心ある人(みんな自分がそうだと思っている)

Personne =傍観者



訳:



責任



4人の人がいました。4人の名前は、役所、住民、心ある人、見ている人、です。

大事な仕事がありました。

はじめに役所に電話がかかってきました。

役所は、そんなことは住民の手でなんとかすべきだと思っていました。心ある人なら誰でもできるはずのことです。でも、みんな見ているだけでした。

住民は怒りました。その仕事は役所の責任だろう、と。

役所は、誰でもできることは自分の責任でないと思っていましたが、役所がその仕事をしないだろうとは、見ている人は気付きませんでした。

とうとう、役所は住民を非難しました。みんな見ているだけじゃないかと、電話をかけた住民が逆に怒られてしまいました。」

サービス精神にあふれてます。考えさせられます。
ただ、この話では大事な仕事を4人に頼んできたのは「4人以外の外側の人間」だと考えられるので、住民と役所のような、すでに責任関係(役所は住民のサービス機関とか)がある間の2者のやり取りは適切じゃないかもしれません。この話の核は、「成員が同等な課題遂行能力を有するグループの中にいる『私と私以外』という意識の問題」だと思うんです。他の誰かができるからといってやらない自分は免責できるのかという話ですね。Blamer を「顔を青くした」と訳された方、このBlamerはブラスフェ−ム(冒涜)の語源の言葉なので、Bleu とは関係ないです。あ、考えるタネの最新記事にフランス語の発音の悩みを書いてます。コメントや、似たような体験があればどうぞ。
 では次の質問。また仏文和訳。
解説つきでもどうぞ! 文字化けの問題があるらしいのでアクサンつけません。敷衍してくださっても、前後の文を勝手に足してくださってもOKです。(liberte の最後のEに右上がりアクサンです。)
 La liberte, ce n'est pas faire ce que l'on veut, mais vouloir ce qu'on fait.

L

75Sekko:2007/04/17(火) 07:23:51
フィギュア・スケート
 ベルシーのフィギュアスケートのスター・オン・アイスに行ってきました。昔はよくホリデイ・オン・アイスとか行きましたが、フィギュア・スケートのショーは初めて、しかも世界チャンピオン級のは今までTVでしか見たことがありません。今回は、フランス人のブライアン・ジュベールが42年ぶりでフランス人男子シングルの世界チャンピオンになったばかりで、華やかです。私は日本人なので、女子チャンピオンの日本人も見たい感じですが、女性ソロはワルシャワであったヨーロッパ選手権の2位のサラ・メイヤーというスイス人、3位のキラ何とかいうフィンランド人でした。キラさんは最も美しいスケーターに選ばれたそうで、「もちろんブロンドで」とかいうナレーションは「なんかなあ」と思いました。サラ・メイヤーさんはブロンドじゃないけど美しかったし。カップルのアイスダンスが多かったので、ソロですべる人は何となく寂しそうに見えたのも意外。第一部のはじめの方で、転んだりする人が出て、司会者が、「ベルシーですべるのはすごく難しいんです。ベルシーだから、パリだから」とフォローしてました。この「パリだから」というのも、すごくフランス的だなあと思いました。国際大会とかで、「日本だから」「東京だから」みんな緊張するとは日本のアナウンサーは言わないだろうなと。出演者の主力はフランス・チームなので、この「パリだから」というのは、多分ほとんどのスケーターが地方出身者だということを意味してるのかもしれません。
 それで、男子ソロはこないだの日本で行われた世界選手権の金銀銅が全員出てました。銀の高橋大輔くんも。その順位で行くとまず銅のステファヌ・ランビエルが滑って、次に高橋、最後にブライアンかと思ったら、高橋が一部も二部も3人の中では前座扱いの最初でした。最もランビエルは2005年と2006年の世界チャンピオンだから、総合の格から言うと、高橋の後に滑るのが妥当かもしれない。それに彼はフランス系スイス人でフランス語を話すし、フランスでも人気だから。私は高橋がフリーで最高得点を出したのをTVで見ていたので、ベルシーでかっこよく滑るのを期待していたのですが、そして、期待通り上手でしたが、何か違う。完璧で高性能という感じで、集中力も伝わり、色気さえあるんですが、そして最後に「J'adore la France]とフランス語で言うというサービスも見せて受けていたんですが、ランビエルやブライアンにあって彼にないもの、それは余裕と華かもしれません。このショーは選手権とかじゃないんだから、ミスをしないとか完璧とかいうより、もっとはじけてほしかったです。3人の中では彼が一番若く、その差も多少出てくるのかもしれません。ブライアンも若いんですが、アレクセイ・ヤグディンの薫陶を受けたせいか、楽しんで、それをコミュニケートするという喜びをちゃんとあらわせています。彼が出てきたときの「華」というのは、スポーツ選手の華というより、なんだか宝塚の男役トップスターの華です。あたかも技術なんか2次的なような。「がんばる」という感じが見えていたらショーにはならない、フィギュアスケートはスポーツだけど、バレーなんかに非常に近いので、選手はアーティストである必要があります。ショーとなると、アスリートが完全にアーティストに変身しなくてはならないんですね。エンタテイナーといってもいいです。後、ッスケートクラブの女の子たちなんかが客席からすごい声で叫ぶんですが、その抑揚が独特で、掛け声の文化というのはどこにでもあるのだと感心しました。仏文和訳2の解説は明日にでも。

76Sekko:2007/04/18(水) 05:20:52
和訳その2の解説
 その1に参加してくださった方と同じ顔ぶれが大体そろいました。人数が少ないので、主なところをそのままコピーします。まずKumikoさん。

「 La liberte, ce n'est pas faire ce que l'on veut, mais vouloir ce qu'on fait.
『欲することを成すのが自由ではない。成すことを欲するのが自由なのだ。』

まあ〜、なんて単純。
それより、ひとつ質問させてください。初めのce que の後にはl' が入ってce que l'on veutになってますが、二度目の ce que の後にはなくて ce qu'on fait.になるのは、なぜなのでしょうね? リズム感の問題?(笑)
この l' の使い方って、難しくて、入れようとするとどこにでも入れてうるさくしてしまう気がするし、なければないでなにか抜けたような気が。慣例句のようになっているのは最低入れるように心がけてはいますが・・・あやふやなのです。むかし、フランス語の先生(外人に教えるフランス人)は、『あなたたちは使わなくてよろしい』と言いましたが・・・。」

ええと、単純ですがリズムがあってきれいな訳です。それに、単純なだけ、幅があって無難ともいえます。自由を2回繰り返したところがテクニックですね。最初のonに l' がついているのに2度目についてないのはやはりリズムの問題です。このlの挿入で、最初の部分のシラブルが2番目のちょうど2倍になっています。だから読んだ時に落ち着きがあります。日本人が書く時には確かに難しいですね。

次にNaoさんの答え。

『 自由とはしたいことをするというのではなく、することを熱心に追求するということである。

またこんなカツテな訳も考えました。
自由とは勝手放題のことをするというのではなく、他者のために、何かすることを望める可能性のことである。(他者のために、したくても制約があつてできないことが多いのでこんなことをかんがえました。)」

 この原文は、「自由とはAではなくBである」ということですね。つまりBはAの正反対にしたいところ。Aを「したいことをする」=「かって放題」=「自己の欲望優先」ととれば、それと対照的に、Bは利他的な行動指針と考えられるわけです。次にKさんの答え。

「私たちの欲することは数限りなくあります。人間、欲には限りがありません。限りのないものを求めることは自由とは「次元の違うこと」だと思います。自由とは行為する意志そのものであって、因果や運命に立ち向かう崇高な手段です。人間は自由を与えられて、責任を負います。

ですから、

『自由とは、欲することを行なうことでなく、欲して行なうことである。』

という訳にいたします。」

実はこの原文は、サルトルです。だから、文脈からいうと、これにかなり近いです。サルトル的にわりと単純で、人間がやることはすべからく自分で選択すべきだという、自由とは「生き方の選択と決定の自由」であるという意味なんですね。しかしMさんのように読んだ人もいます。
 「 自由とはやりたいことをするのでなく、することを望むことだ。
 竹下さんが祈りについて書いていらっしゃった時に『祈りとは祈ったことをかなえてもらうことでなく、可能なことを祈ることだ』というのと重なります。欲望は限りないので欲望から出発しないで、おのずからできることを望む境地に至るのが自由では。」

 これも含蓄がありますね。サルトルが選択の問題を自由と絡めたのは、キリスト教における自由意志の問題を意識しています。自由意志があるから、責任が生じ、責任があるから善悪の観念もでてくるわけです。
 Dieu se chisit. il n'est pas ce qu'il est, el est ce qu'il veut.というのはFrancois Varillon の言葉。コクトーは人間に自由意志を与えたのは神のアリバイだ、と言ってます。「私は自由だ、神さま、私を自由から遠ざけてください。」といったのはクローデル。逆にFerdinand Galianiは、「もし宇宙にたった一人でも自由な存在がいたとしたら、神はもう存在しないだろう」と言っています。この世に善悪が混在する現実の前に、人間の自由は神のアリバイであり、神の自由は人間のアリバイなのかもしれません。サルトルが神を捨てた時、神なき自由意志だけを引き受けたわけで、自由と欲望と責任と倫理とがのしかかってきました。自由がなければ原罪もなく悪も生まれなかったというユダヤ=キリスト教文化がベースにあります。

 次に仏文和訳その3です。これは今書いている『無神論』についての本に使おうと思ったのですが、うまく和訳できません。それで問題というより、皆さんのお知恵拝借です。

 Nier Dieu, c'est se priver de l'unique interet que presente la mort.
 です。interet の最初のeに右肩がりアクサンが、2つ目のeに山形アクサンがはいります。presente の最初のe にもアクサンテギュがつきます。サーシャ・ギトリィの言葉です。sekko-culturelavo@hotmail.co.jp か個人メールにお願いします。コメントつき歓迎。その2のお答えに関するコメントは直接この掲示板に書き込んでください。

77Sekko:2007/04/18(水) 05:23:53
choisit
さっきの文のDieu se chisit は Dieu se choisit のうち間違いでした。訂正。

78Sekko:2007/04/23(月) 04:55:33
また訂正、など。
この前のFrancois Varillonの文の el はもちろん il のエラーでした。この書き込み欄が狭くてチェックがちゃんとできずにすみません。
あと、和訳その2について別のコメントが来たので貼り付けます。J さんです。

「 『 自由とは望むことをすることでなく、することを望めることである。』
私はある依存症と強迫神経症に苦しんでいるものです。つまり、私のやることは私の望んでいることではありません。私の望んでいるのはむしろ「しないこと」ですが、してしまいます。やらされるといったほうがいいかもしれません。それで、しないように、しないように、といつも思いながらやってしまう現状から脱して、いつか「することを望める」ようになることが本当の自由だと思っています。」

 深刻です。「したいことをする」なんていうのは児戯の一種で、本当はみないつも何かやらされているのかもしれません。依存症は脳が覚えてしまっているので、やっていると一種の落ち着きが得られます。でも、それが自分や周りにとって不都合なことなら、少しずつデプラミングしていくことは、根気がいりますが可能だと私は思っています。それが自尊意識などと関わるとつらいので、依存症との関係性そのものを少しずつ変えていくのも必要です。全人格とかを問題にせず、知情意に分けて、アクションをどうコントロールできるかを検討してください。完全に克服できない悪癖とかは、増殖しないよう、転移しないように取り囲んで孤立させれば、罪悪感からは自由になれます。

79Sekko:2007/05/02(水) 21:42:43
和訳その3
 Nier Dieu, c'est se priver de l'unique interet que presente la mort.
の和訳の解説です。最近こんな言葉を見つけました。

「悪い訳でもエエ訳(英訳)、変に訳してもフツウ訳(仏訳)、二人で訳しても独訳、東で訳しても西訳、秘かに訳しても露訳、そもそもいい加減に訳しているのにホン訳(翻訳)というのが良くない。」

 変な訳でもフツウ訳(仏訳)かあ・・・肩の力を抜きましょう。
ベルギー人神父さまの訳。

「神の存在を否定するということは死ぬことのあたえる関心事をすてさることです。」ご感想は、この文章を読んだ時、それを書いた執筆者は自分自身が無神論者ではないと上手に(間接に)断言していると思われたそうです。また、「私にとって「死」とは「神との出会い」ですが、今現在「理性と信仰」によるもので、来世において「顔と顔を合せて」(1コリント人への第一の手紙13,12)と信じていますから神は存在していなければ」とのことです。
 生きている間には神を信じているが会うことはない。死ねばはじめて神と会えるのですから、神を否定すると死後の唯一の楽しみ、特権がなくなってしまいます。それがなければ、死なんて、生を失うという意味ではネガティヴだし、無という意味では、まさに無意味ですからね。私自身は、一応死後は各種聖人の真似をして、人の祈りと神との間の取り次ぎ役になろうと思ってるんですが、徳がないと逆効果かもしれません。それに、別に死んでまで神に出会っても・・・と言う気もちょっとします。今のとこ別にこの世で深刻に苦しんでないので死後の慰めはいらないし、逆に、すでにお世話になってます、ありがとうございます、と言いたいです。もちろんお会いしたことはないので、あの世で、オフ会というか、神の素顔を拝んで・・というのもいいですが、自分の知覚の仕方も変わっているでしょうから、今の好奇心はあの世に結びつきません。
 そこでおなじみK さんの答え。コピペ。
「l’unique interet の意味が問題ですね。死んでしまえば意識が消えて、生と死の区別さえ消えてしまう。その後にも先にも、神はある(のだろうか)。そういうことを考えさせるのが「死」ですが、今回は思いっきり俗な意訳で失礼いたします。
『最後の審判も閻魔さんも怖くなければ、神を否定するがよい。』」

 おお、これは現世利益でなくあの世利益の思想ですね。エジプトのミイラがいろんな護符と一緒にぐるぐる巻きにされてるのを思い出します。どんな文化のどんな共同体でも、一応「死後の物語」の筋はあるので、三途の川の渡り賃だとか、旅装束とか、死者にいろいろ支度させて送り出すというのは普遍的にあります。この文は、「たったひとつのアンテレ」というのが、死の持つ唯一のいいことともとれますし、神の唯一の効用とも皮肉にもとれます。つまり現世利益の部分は効かないので絶望したか、最初からあんまり期待しないけど、自助努力ではどうにもならない死後の世界でこそ、神にしかすがれません、どうぞよろしく、という、情報の少ない未知の分野における危機管理でしょうか。神のものは神に、カエサルのものはカエサルに、で、死後の世界こそ神の得意分野みたいな・・
 でもたいていの文化では、生前からそれなりに信仰していないと、死ぬ時にあわてて恩赦を請うてももう遅いというまっとうな考えなんで、生前の信仰を管理したり支配の道具にしたりする組織や人間も出てくるわけです。

 Naoさんの訳。
|
「神を否定するということは、死が与えてくれる唯一の利益をなくしてしまうということである。」

 同類で、Mさんの訳。
 「神を否定することは死のもたらす唯一の興味深いものを拒絶することだ」

もう一つ、Julieさん
 「『神を否定することは死というものが呈示してくれる唯一の慰みをむざむざ受け取らないことだ。』 死のおかげで味わえる(体験できる)たった一つの楽しみをむざむざと放棄すことだ、というのも考えました。」

 やはり、アンテレが問題ですね。結局、辞書にのっているような、興味、利益、関心事などすべて出てきて、そのどれも少し合っているし、微妙にずれてもいるような。
 結局、死の意識と不可知の意識は同時に生まれるとも思います。この文はフランス人の文なので、神は人格神であり、Nier というのは無神論など、神の存在の問題なんですが、被造物から超越した神なので、そもそも被造物の世界で被造物のような形では存在できないんですね。
 逆に、人間が死に思いをはせることがないか、不死身だったら、神は否定するまでもなく存在しないでしょう。神の存在は、有限の世界というこの被造物のあり方と人間によるその認識とペアになっているのです。「死ぬというあり方とその認識」といってもいいです。「Nier Dieu」は神の存在を前提としているわけです。しかし、死は否定できません。死とは無である、無は存在しないのだから無は存在しない、あるいは、死んだ時はそれを認識する人はもう存在しないのだから、死を知る人は誰もいない、などとエピキュリアン的詭弁は可能ですが、我々は誰でも、親しい人や動物が死に、肉体が破壊され、もう2度と帰ってこない経験などから、死の存在を実感します。死の体験とは、残された者にとっても一種の神との出会いの体験なのでしょう。死もまた神の被造物なのですから。
 哲学者シモーヌ・ヴェイユは、「神の体験をしたことのない二人の人間のうちでは、神を否定する人の方が、神のより近くにいるだろう」と言いました。
 神も死も、人間が否定するだけで存在しなくなるようなものではないんですね。ええと、なんだか、フランス語の解説と離れましたが、アンテレとは、語義的には、「注意を引くに足るもの」なんですね。利益はもちろんかもしれませんが、未知のものや、畏れを抱かせるものも、注意を引きます。死にひきつけられた時、神も姿を現すのかもしれません。

80greencurry:2007/06/02(土) 16:49:38
en の使い方
竹下先生、en の使い方について質問があります。
私は、友達5人でアランの幸福論を原文で読んでいるのですが、第9章 Maux d'esprit の中で次のような文章があります。
「L'imagination est pire qu'un bourreau chinois; elle dose la peur ; elle nous la fait gouter en groumets.」
で、最後の en groumets をどう訳すかよく分かりませんでした。
結局、「食通のように」と訳すのでいいのだと落ち着きましたが、en にはこのような使い方があるのですか?

81Sekko:2007/06/03(日) 22:45:06
わりと普通です。
En のこういう使い方、わりとふつうですよ。良く文例にあるのは「Vivre en prince」とか。「Vivre comme un prince」とどう違うかというと、comme の方が見た目というか、他から見てprinceみたい、という感じで、en prince の方が、本人もなりきって、みたいなイメージがあるかも。

 「日本に行ったら日本人みたいにふるまいなさい」と言うのを「comme des japonais」と言ったら、日本人じゃない人が、日本人のまねをしてそばにいる日本人のようにふるまうという雰囲気ですが、「en japonais」だったら、日本人として期待されるようなやり方でふるまいなさいと言う感じかな。むしろ、日本人に向かって、「外国に行ったら、日本人として(の自覚を持って)ふるまいなさい」と言うときにぴったり。
 このアランの文では、comme si nous etions des gourmets という意味に近いんですが、en gourmets とすることで、imagination がこっちの選択を許さないでいやおうなしに我々をグルメと決めつけて、有能なシェフのように恐怖を調合して味わわせる、我々もグルメっぽくそれにちゃんと反応して、シェフの思い通りに怖がる、という残酷さ皮肉さが効果的に出ていると思います。
 後、初めこの質問を見たとき、何のことか一瞬分からなかったんです。groumets とあったからです。単純ミスにも見えますが、日本人には、聞き取りとしては、groumets と gourmets の区別がつかないんですよね。たとえば、trou とtour では、それぞれ、トゥルー と トゥール とはっきり違って聞こえるんですが、次に母音が来て、たとえば「トゥルネ」と聞こえると、それが「trouner」「tourner」かは耳ではもう区別がつきません。この場合は trouner という動詞はなくtrouer になるので、判断はできますが。固有名詞なんかは大変です。
 昔日本のサッカーで、フランスのトルシエ監督というのを日本のメディアで読んで、それをフランス人に言おうとして、ぐっとつまったことがあります。まあ、trousseという単語から連想して、それで当たってたんですけど、RとLも含めて、なんかすごく可能性がありますから。
ちょっと気にとめといてください。

82greencurry:2007/06/08(金) 20:44:04
ありがとうございました
竹下先生、早速ご回答ありがとうございました。
en 〜 にはそんなニュアンスがあるのですね。一緒に本を読んでいるメンバーにも教えてあげます。それにしても、私はいつになったら、というか、いつかそのようなニュアンスが分かるようになるのでしょうか(苦笑)
フランス人への道は遠いなぁ・・・

83こけし:2007/07/05(木) 21:40:36
はじめまして
初めまして、こけしと申します。
竹下さんの著書『ジャンヌ・ダルク 超異端の聖女』に大変感銘を受けました。ジャンヌの男装の意味、当時の性概念などジャンヌに関する事への記述だけでなく、中世を生きた女性ヒルデガルドやカタリナ、ジャンヌ・ド・ベルヴィル達に関しての話も全て初めて知るものばかりで、目から鱗が落ちるような思いで読みました。特に復讐の女神と冠されたジャンヌ・ド・ベルヴィルの愛に生きたその生涯に魅了されてしまいました。彼女を知る事ができたのも竹下さんのおかげです。感謝してもしきれない程です、本当に有難う御座います。
私は『〜超異端の聖女』がキッカケでジャンヌ・ド・ベルヴィルについて知り、彼女について詳しく調べたいと思っているのですが、竹下さんの他の著書や資料、外部のサイトなど、ジャンヌ・ド・ベルヴィルについて詳しく書かれている資料でオススメのものはありますでしょうか?宜しければ御教授願います。

84Sekko:2007/07/07(土) 02:22:58
戦う女たち
 私もジャンヌ・ド・ベルヴィル大好きです。あれから出た本でまだ読んでないのは、

http://www.amazon.fr/Pirates-Corsaires-Patrick-Poivre-dArvor/dp/2844590756/ref=sr_1_4/402-9161165-3904159?ie=UTF8&s=books&qid=1183739494&sr=1-4

という本です。歴史雑誌には時々出ていますが、後は、百年戦争にまつわる歴史専門書でしょうか。

 でも、他にもフランスで有名な女性戦士としては、第2次十字軍に、妻が同行するのを禁じられたルイ7世の妻エレオノーレが男装して、やはり騎士の姿で固めた女性たちと一緒に男たちを十字軍へ誘う激をとばしながら、槍や斧で武装して馬を走らせてすごく勇ましかったそうです。そのせいで、第3次十字軍では一切の女性の参加が禁止されたそうです。
 17世紀にはアンゴラで50人の男のハーレムを連れていたというタマラ女王がポルトガルで戦いました。1592年にパナマで参軍した修道女の自叙伝というのも聞いたことがあります。戦う女性は、ジャンヌ・ダルクのような処女か男嫌い、あるいは超男好きかの2種類あると考えられていたようです。巫女型か、「英雄色を好む型」みたいです。前者は自らを犠牲に捧げるタイプ、後者は、エネルギッシュで長生き。フランス革命時代に活躍したのがマリー・ドゥシュマン。軍人を父に持ち1772年に生まれ、早く結婚して19歳で未亡人、1792年、祖国の危機に立ち上がり、父がいて、夫が所属していた部隊に入隊をゆるされて、下士官として7回参戦。その勇敢さを称えられて表彰されるも、25歳で敵前で負傷、兵士として男装のまま廃兵院で治療を受けました。王政復古の1822年、50歳の時にルイ18世から少尉の地位をあたえられます。さらに、1851年、ルイ・ナポレオンがレジオン・ドヌール勲章とセント・ヘレナメダルを授与、ボナパルティストとしての栄誉を受けました。このときマリーは79歳、パリに来たヴィクトリア女王が是非合いたいと言って面会したそうです。89歳で没した時はナポレオン3世夫妻が葬儀に出席、なんか華々しい戦士人生でした。もともと、ローマ軍の記録によれば、ケルトには女性戦隊がいたそうで、プルタルコスは102年にエクス・アン・プロヴァンスで剣や斧で襲ってきた女たちがローマ兵の楯や剣を奪ったと書いています。ローマへの最初の反乱軍12万の兵士を率いたのはBodiceaという女性で、女王とよばれていたそうです。ギリシャ=ローマ=ユダヤ=キリスト教文化の定着のせいで、ヨーロッパには女性戦士のジェンダーがなくなったけれど、土地の記憶としては、時々噴出してくるとも言われています。アマゾン河で女性戦士に襲われたヨーロッパ人がアマゾネスにちなんでその河をアマゾンと名づけたのも有名ですね。
 カノッサの屈辱時代に勇名をはせたマティルドは戦略と戦争の天才だったみたいで、43歳で15歳のバイエルン大公と結婚したし、60歳でも剣をとる気まんまんみたいだったようです。戦いの天才は男女関係なく存在する、みたいです。

85こけし:2007/07/07(土) 11:32:18
有難う御座いました
ご回答有難う御座いました。大変参考になりました。様々な女性戦士の逸話も興味深かったです。
女性戦士にも「英雄色を好む」人がいるというのに少し驚きました。

前回、誤字を打ってしまいました。大変申し訳ありませんでした。訂正いたします。
誤・ヒルデガルド→正・ヒルデガルト

86:2007/08/13(月) 04:10:29
フランス語に言い換えると
「生涯共に」を簡単なフランス語に言い換えると・・・教えてください。
結婚指輪に刻印したいんですよね。

87Sekko:2007/08/18(土) 13:10:17
ごめんなさい
留守しててお返事遅くなりました。

 やっぱ、pour toujours がきれいですね。ou 「う」が3回繰り返しでごろがいいし。直訳なら ensemble toute la vie  だけど長いし、生涯だけじゃなくてずーっと、ずーっと、という気持ちで。

 私たちは、日付と互いの愛称をそれぞれ逆の順で刻印しました。(自分の名を後に)

ずーっと、ずーっといっしょに、互いに相手のことを第一に思いやって暮らしてください。お幸せをお祈りします。

88:2007/08/31(金) 06:37:18
竹下氏の仏語論文について
 Mme.竹下の文春新書「アメリカに『NO』と言える国」を読んで共感を覚えたものです。日本の政治家および官僚に読ませたいとつくづく思いました。
 僕は高校の数学教員だったのですが、各国の数学教育の現状を調べていく内にどうも米・英の行き詰まり感は、氏の指摘する通り、コミュノタリスムに起因するとしか考えられません。弱い立場の人達にしわ寄せがいくというのは日本でも徐々に始まっています。そこで思い切って高校教員を辞し、フランスで数学教育を学ぶことにしました。現在4週間の語学研修をエクスで過ごし、ボルドー大学で引き続きフランス語を学びます。順調にいけば、ボルドー大学の数学教育系大学院へ進み、博士を取れればと思っています。そのとき氏のフランスにおけるグローバリズムに関する仏語の論文を参考にさせていただき、できれば引用させてもらいたいと考えています。氏の論文へのアクセス方法をお教え下さい。

89Sekko:2007/09/01(土) 00:45:58
どうなんでしょうね
 フランスが、数学の成績によって、生徒を選別するのは知られていますが、優秀な生徒は結局、グランゼコールの準備クラスから、エンジニアのグランゼコールに行ってしまって、大学の数学科には人が集まらないと言われています。大学院のレベルでは、グランゼコールの卒業生が入ってくることも少なくなく、また別なんですが。フランスゴのエンジニアは、日本語や英語のエンジニア(フランスではTechnicienと呼ばれます)と違って、理系管理職予備軍というか、エリートの異称で、新卒で就職した時点から、出身学校のレベルによって給料に差がついたりするんですよ。

 数学教育の王道なら、やはり数学のアグレガシオンをとることで、これは、出身によっての差別はありません。ENSの数学科はエンジニアのポリテクより難関と言われています。

 今、日本にいます。最近、マイケル・ムーアの『Sicko』を観ました。カリカチュラルなんですが、アメリカのつらい状況を見せつけられた後で、フランスの様子がうつると、何か胸に温かいものがこみ上げてきました。ヨーロッパの保険制度がカトリックの信心団の互助組合のメンタリティと関係のあることを思うと、マイケル・ムーアがアイルランド系カトリックであることも偶然じゃないかなあという気がします。

 フランスも、診察料、20ユーロが21ユーロに引き上げられたかと思ったら、最近また22ユーロに引き上げられました。個人負担が1ユーロです。昔は全額返ってきましたが・・・保険システムの破綻はカナダ同様うるさく言われているんですが、アメリカのような事態には戻らないでしょう。
 映画の中で、パリの中流家庭と紹介された家族は、夫がエンジニア(つまりエンジニアの国家免状を持っているエリート)で夫婦の収入が7000ユーロ以上と言っていましたから、すごく普通の人たちではないですね。でも、マイケル・ムーアはフランスで好かれているので、サーヴィスしてるんでしょう。『華氏911』よりは丁寧にうまく創られています。キューバを褒めてたわりには、WHOの健康保険充実度のランキングで37位のアメリカより下の39位とあったのがちょっと気になりました。チェ・ゲバラの娘が小児科医として出てくるのは感慨深いでした。

 病や怪我は、それだけで、自尊の念が傷つきます。そんな局面で金とか格差が露になるシステムは、やはり間違っていますね。サルコジのネオリベ体質も、日本のことも心配です。

 コミュノタリスムとユニヴァーサリスム関係の分かりやすいフランス語の本はいくつもあると思います。それと数学教育の関係は分かりませんが。私がフランス語で書いたものはバロック音楽におけるユニヴァーサリスムならありますが、あまり意味はないでしょう。9月半ばにフランスに戻るので、またあらためてお返事します。

90Sekko:2007/09/01(土) 00:48:39
お気軽に
 さっき書き忘れましたが、フランスでの生活や、フランス語のことなど、わかんないことがあれば気軽に質問してくださいね。

91:2007/09/03(月) 19:43:32
御礼
 さっそくのご返事有り難うございます。実は3日ほどパリに行っていて先ほど戻りました。パリにいる知り合いと食事しながらユニヴァーサリズムの話題について議論しましたが、フランス人には当たり前であって、日本人がアメリカに対しNOと言えない不自由さ、もどかしさを理解するのは難しいようです。氏のご指摘の通り、フランスでの優秀な生徒がグランゼコールに行くというのは、聞いてはいましたが、実際に若者に数学が嫌いになる理由の一つだと言われると辛くなります。ただ政治家・官僚にロジックを使える人が多いというのは大切だと思います。日本の政治家のように言動が矛盾していることを指摘されても、それが理解できない、もしくは何の罪悪感も感じないというのは、一般庶民からすると問題だと思います。
 ご存じのように数学では、小学校段階の算数から「同一視」という概念を気がつかない内に導入していきます。それが僕には人間の平等概念を形成するのに大きな役割を果たすと思われるのです。
 第2次世界大戦中、多くの優秀な科学者がアメリカに転住しました。ところがマッカーシーの赤狩り以来、アメリカの大学研究者の言論が一部封じ込められた感があります。理系はそんなことないのだろうかと思っていたのですが、僕が学生時代興味を持ったクルト・ゲーデルというロジシャンは、「ニューヨークの市民憲章は矛盾しているが宣誓せざるを得ない。」と言い、彼の哲学分野の研究も最後まで未発表のまま、ほぼ自殺に近い餓死という形で生涯を閉じました。数学基礎論の哲学的な側面はゲーデルの死後一切無くなり、ただの数学になってしまったのです。残念でなりません。
 ここからは推測ですが、ケンブリッジで教えていたヴィトゲンシュタインが大学を去ったことや、ブルヴァキの中心になってバリバリ研究をしていたグロダンディエックが行方をくらませたのも関連がある気がしてなりません。
 僕はアメリカに自由があるとは思えません。WASP達が恐れているのは、世界をひっくり返すような科学研究が、自分たちと反対サイドの人間によって達成されることではないかと思います。ビル・ゲイツが早々と引退してしまった(政治的活動に関わらないまま)のも陰で何らかの動きがあったか、それを恐れてではないでしょうか。
 ケネディ暗殺を例に出すまでも無く、自分たちの利害に反する者は例外なくたたきつぶすというのがアメリカの本心と思われます。田中角栄がつぶされたのも明らかに中国外交でアメリカの意志に逆らったからではないでしょうか。
 その恐ろしさを知っている自民党の一部の議員がアメリカにNOと言えるわけがありません。だからこそ、「筋が通らないものは誰が何と言おうとだめだ。」というフランス人のスタンスに清々しさを感じるのです。
 今アメリカの数学教育界は大きく動こうとしています。日本の指導要領のようなアメリカ全体で統一的なもの(スタンダードと呼ばれています)を作り、今のところ強制力は無いのですが、そのうち強制する割合が増えていくでしょう。また優秀な教員を育成するために、日本の出来のいい模範授業のDVDを無料で配布し、授業研究をさせています。日本のように研究授業後に反省会を開き、夜になって飲み会でまで議論を戦わすなんて信じられなかったアメリカ人教師がお互いの授業を見合うようにまで変わってきたのです。
 アメリカの大学では優秀なチャイニーズやインディアンが闊歩していますから、相当恐れているのではないでしょうか。
 最後に僕は数学ではなくて、数学教育の研究を続け、できましたら弱い立場にいる人達(例えばフランスが支援をしているアフリカの人達など)が数学教育のレベルを上げることによって豊かな国作りを行える手助けをしたいと考えています。
 よろしければまたのご助言をお願いします。

92Fusako:2007/09/05(水) 22:26:12
Sicko
周囲でけっこう話題になっています。
大学の社会保障論の先生が、学生に「必見」と勧めているという面白いページもありました。
http://news.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/work/korunakare103.pdf

ムーアの映画はわたしはまだ見てはいないのですが、そんなことから、医療制度のことをちょっとネットサーフィンしていたら、インドの医療ビジネスの話に行き当たりました。アメリカのように富裕層と貧困層との格差があるけれど、その上に更に技術力の高さとコストの安さから、海外からの需要を呼び込んで「メディカル・ツアー」が医療産業の儲けの目玉になりつつある、という話です。
日本はまさかそこまではと思いますが、今の日本で医学に進むような層に、志からという人たちが一体どれくらいいるのか、圧倒多数は「儲かって社会的ステイタスも高い」みたいなものをめざしているのだとしたら・・・、とやや疑心暗鬼に。ヨーロッパ型とアメリカ型どちらをめざすのか、というだけでなく、アジア型、というのもあるわけですね。

93Sekko:2007/09/07(金) 11:56:46
おもしろいですね。
Fusakoさま、このページ読みました。日本がなんでもアメリカに追随するとしても、軍事や社会保障など、直接命に関わることについては、本当に根本的な世界観や倫理感をふまえてほしいですね。笑い事じゃないです。
 宗教観の比較をしてたら、日本もヨーロッパも、本質的にあんまり変わらないというか、とにかく先進国は似てきている状況にあります。でも、いつも、ちょっと独特なのがインドで、インドの世界観とか宗教観って、今でも独自のものがあるみたいです。
だから、アジア型、っていっても、即日本に分かりやすいかは疑問ですね。
 医療と宗教って生命観、死生観を通じて重なる部分が多いですから、人柄、人格を抜きにして語れませんね。

 森田さん、アフリカの数学教育まで考えていらっしゃるんですね。
この夏セネガルで、サルコジが「アフリカ人は伝統的に進歩に関心を持たない」、とか、差別言辞を吐いたんですよ。彼の横には黒人女性のフランス外務次官がいました。
 これが「ユダヤ人は」とか「アラブ人は」とか、「黒人は」、とかだったら、大騒ぎになってたでしょう。アラブ人も黒人も入ってるんですが、「アフリカ人は」というところが微妙でした。もちろん現地でも、ヨーロッパメディアでも取り上げられたんですが、フランスではマスコミが無視したので、ほんとにいやな傾向だと思っています。
 まあ、よく見たら、フランスの歴史では、カリスマ性を持った専制君主的な人が現れて国民を魅了したり、それが度を過ぎると引き摺り下ろされるという繰り返しもあるんで、「哲学と数学」を両輪にしてきた教育の底力が、いい方に向くことを祈ります。等価交易などの運動がグランゼコールのエリートなどから生まれて広がってきたように、エリートの使命感というのもまだ健在みたいですし。
 森田さんが数学教育でそういう志を持っているなんてうれしいです。

94:2007/09/08(土) 23:56:42
落語
 今回は軟らかい内容で失礼します。ISというエクスにある語学学校で4週間フランス語初級を学びました。必ずプレゼンタシオンをやるのですが、2回目はクラスにもう一人日本人女性がいることもあって、離日前から温めていた落語をやりました。昨年のパリ公演でも「Rakugo」となっていたので「Rakugo japonais」とし、まず落語の意味を説明しましたが、その日本人女性を除いて誰も知らなかったので、大変難しかったです。最初「tour de mots」と言ったら、フランス人の先生が「jeu de mots」の方が正確だと言われました。
 演題は「les tableaux」です。NHKの「英語でしゃべらないと」という番組を見ていたら、故桂枝雀師匠の弟子のイギリス人女性が青井アナウンサーに英語落語の稽古をつけている場面があり、それを仏訳し、話しやすいように少し手直ししたものです。フランス人プロフェッサーとアメリカ人マダムとの掛け合いですが、カンペを見ることもなく無事演じきりました。ただ私の仏語が拙いせいか、先生以外にはあまり受けませんでした。先生には事前に原稿の手直しをお願いしてあったので、ストーリーおよびオチが読めていたこともあってバカ受けしていました。
 パリ公演では字幕スーパーで行いましたが、枕をフランス語でやったり、紙切りの師匠は通訳も、字幕も無しで観客とやりとりされたと聞きました。
 フランス語で落語をやることで、また違った日本文化への理解が生まれるのではないかと思います。日本語での落語にこだわる関東と、積極的に英語落語に挑戦する上方落語とアプローチが異なるのも面白いと思います。大変失礼しました。

95:2007/09/08(土) 23:58:27
落語の続き
 現在仏語での落語台本はみつかりません。仕方がないので、英語落語の原稿を容易に入手する方法を模索中です。

96Sekko:2007/09/09(日) 11:12:41
私も落語好きです。
 この夏、新宿の末廣亭に2回行きました。一番笑えたのは、2回とも、最長老82歳の米丸師匠でした。その脱力ぶり、前ふりが、面白くて、年を取るにつけ、芸と人生や人格が一体になっていくのはおもしろいですね。若い人は、芸をインプットしてそれを何とか味付けてアウトプットするだけで、それをする本人は一種の装置みたいに見えるんですが。
 こういうArt de monologueは、フランス語にも向いてると思うんですが、脱力イメージはフランス語のDeclamationの伝統と会わないので、むしろ講談なんかが受けるかなあ、と思います。
 Jeu de mots は「さげ」の部分だけだから、本質ではない気もします。
 私はソロのパントマイムとの親和性も大きいかと思ってます。寄席に行くとその身体性や、表情の妙味がよく分かりますから。話芸だけではないんですね。パントマイムにも一人で複数の人間を演じ分けるのがありますが、すごく共通点があると思いますね。
 Jeu de mots だけに注目したら、ラブレーだとか、駄洒落を駆使してそれを訳する荻野アンナさんとかを思い出しますが、ああいうエネルギーの高さより、私の好みの脱力系落語はフレンチ・エレガンスと共通してるかなと思います。
 まあ、語学の勉強としては、古典落語をどうやって伝えるかという風になるんでしょうが・・ マイムの要素の多いのが楽しいでしょうかね。食べるシーンとか・・・でもそうなると、まさに「芸」の領域であり、語学学生の手には負えないかも。

97:2007/09/10(月) 03:15:27
脱力派?
 落語家の稽古を見ていても話すのがやっとという人は肩に力が入っていると思います。
師匠が言葉一つ、動作一つをすべてチェックしているのだから当たり前だとは思いますが・・。力が抜けてその人の味が出せるまでに何年かかるでしょうか。落語好きの素人にもうまい人がいますが、やっぱり「間違えたらどうしよう。」という空気が少しでも流れたらダメですね。非常に難しいと思います。僕の落語を評価してくれた先生も、言葉よりも動作(パントマイム)の方が難しいのではと感想を述べてくれました。
 古典落語はまだ手に負えないので、新作落語で短いものから少しずつレパートリーを増やしていければと考えています。こんな駄文にご返事下さり有り難うございました。

98:2007/09/16(日) 08:30:04
野田秀樹氏の話
 前々回仏語で落語を演じたということをお伝えしました。実はこれも「英語でしゃべらないと」の中の話です。野田秀樹氏が英国公演中、まだ日本語で劇をしていた時、劇の最中に台詞をど忘れしてしまったときのことについて話されました。当然のごとく、イギリス人は台詞が飛んだことに誰も気づかなかった。それがあまりに印象強く氏の脳裏に残ったそうです。もし伝えようとするなら現地語でやらなければと。私は野田演劇に詳しくないのですが、氏の脚本には「言葉遊び」の場面がいくつかあり、日本語なればこそ面白いという要素があるそうです。英語で演じるとなれば、そこはあきらめるしかないと仰っていました。英語なればこその面白さ(韻を踏むなど)もあるので、開発の余地はあるそうですが・・。
 この話を聞いて、確かに日本語での落語の良さは出せないかも知れないが、笑いに対する日本人の知恵や歴史や造詣の深さを伝えるには仏語でやるべきだと考えたわけです。まとまりませんが、わかってもらいたいという強い気持ちを伝えるには現地語で演ずるべきではないでしょうか。野田氏も現在英語で脚本を書き、イギリス人に演じさせているものも増えているとのことでした。

99Sekko:2007/09/18(火) 20:14:16
聞きたいです。
 仏訳落語、聞いてみたいです。
 昔、両親がフランスに滞在中、フランス人とフランス語のジョークを笑っていて、通訳してくれと言われ、訳すると全然おもしろくなく、逆に、日本語で笑っていて、フランス人に訳しても、何がおもしろいのか、訳しながらすでにわからなかったということがしょっちゅうありました。
 やはりもう昔ですが、フランスの政治家が日本に行った時に通訳した仏人の大学教授が「何々でござりまする」みたいなアナクロな語尾をいちいち使ったので、訳される度に日本人が苦笑し、ジョークを言うタイプではまったくなかったその政治家はすごくショックで傷ついたというエピソードもありました。
 小話の訳と笑わせ方をテーマにしてフランス語を教えたことも一時あります。このコーナーでもそのうち仏語和訳とか再開しましょう。その時はどうぞ参加してください。

100Fusako:2007/09/19(水) 21:41:47
落語
もうずいぶん昔のことですが、柳家花緑が真打に昇進したばかりの頃、彼の高座をきいたことがあります。なんと、「時そば」を演目に入れていました。で、もちろん、枯れているどころか、真剣勝負、のようなぴんと張り詰めた緊張があって、身を乗り出して聞き入ったのを覚えています。
彼のお兄さんはベジャールのバレエ団で踊っていた人ですが、彼も多才な人なんですよね。ピアノも弾く人で、ショイクスピアにショパンのBGMまで入れたちょっと面白いアルバムも出していますね。それは聴いていませんが。


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