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歴史掲示板
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Re: 表音
管理人さんへのお返事です。
古代史上の興味がある内容でした。アトランティス(7000年で消滅)の歴史が見えそうです。
> それで与那国島の海底遺跡なのですが、先の表面照射年代測定法だと1万年前とのことで、いつごろ沈んだのかがきになるところですね。
> こちらの台湾のほうにも、与那国同様な海底遺跡があるそうで、確か以前聞いた話だと、回廊で与那国島までつながっているとのこともあるそうですから、同時代のものでしょう。
氷期は1万年前に終了。その後の第一文明がアトランティス(7000年で消滅)、のアトランティスが与那国まで来てたようですな。アトランティス消滅から1100年後になるが神話に約400日かけ中南米まで行った。記録がある。アトランティスは中南米を知っていたんでしょう。
>ただ、台湾側でも1万2千年前と言っているのですが、どこにその根拠があるのか気になるところです。また洪水神話が台湾にもあるそうです。
神話の中南米への出航地の近くですからあるでしょう。
> 最近スフィンクスの年代が1万年前だという新説が流れたのを思い出しますが、実のところ、そこまで古くないとの見方もあるそうです。
スフィンクス。エジプトは洪水から逃れた。その後、紀元前2500からピラミッドの建造が始まっている。もしですが、エジプトがアトランティスのポリスなら1万年前の可能性がある。スフィンクスの場所にポセイドーンの神殿が在ったことになる。
> ともあれ、邪馬台国の時代の小氷期で海面が低い時期に、与那国島の海底遺跡の一部が地表に顔を出していたということは、確かであろうと感じますね。
> 木村さんという方が、邪馬台国沖縄説で、先の海底遺跡を炭素年代法で、BC200年ころから作られたものだと話しているそうです。
> その木村教授が、先の表面照射年代測定法の詳細結果を記した方なので、それなりの根拠があるのかなとも感じます。下記のページに、地震による遺跡の地形の傾きとか、その辺の説明がなされてます。
邪馬台国沖縄説には悪いが邪馬台国は奈良に20年程度存在した国です。卑弥呼は卑弥呼の母と同年代に死んでいます。木村さんの話しと歴史の流れを整理すると、BC200年に大きい歴史の変化、縄文から弥生が沖縄にもあった事を暗示しているのでは。しかし、海底遺跡との関係は整理できない?。
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Re: 表音
秦野さん、さっそく御返事ありがとうございます。
>邪馬台国は奈良に20年程度存在した国です。卑弥呼は卑弥呼の母と同年代に死んでいます。
・・・・BC200年に大きい歴史の変化、縄文から弥生が沖縄にもあった事を暗示しているのでは。
ご指摘のこの件について、もうすこし深く掘り下げてみたいと感じました。
まず、小氷期による倭国大乱の様子について考えてみたいところです。
「その國、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。倭國乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。名付けて卑弥呼という。鬼道に事え、能く衆を惑わす。年已に長大なるも、夫婿なく、男弟あり、佐けて國を治む。王となりしより以来、見るある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。 」
下記はウィキの記載より。
建武中元二年(57年) - 倭奴国が金印を授与される。『後漢書』
永初元年(107年) - 倭国王の帥升が安帝に拝謁を願う。『後漢書』
倭国、男性を王とした七、八十年
桓帝と霊帝の間(146年 - 189年) - 倭国大乱。『後漢書』
173年 - 倭の女王卑弥呼が、使者を送って、新羅に交際を求める(二十年 夏五月 倭女王卑彌乎 遣使来聘)。朝鮮半島の『三国史記』新羅本紀:光和年間
(178年 - 184年) - 卑弥呼が共立され、倭を治め始める。『梁書』
こう見ていくと、秦野さん注目の倭奴国というのが、後の倭国と関係してくるように感じますね。
先の魏志の国名一覧でも「奴」のつく国が、個人的には奴国周辺に多くあったと考えてます。
そのうちに「倭国王の帥升」という記載が出てきますが、こちらは先述したとおり、女王国時代の「難+升(官職)+米」「弥馬+升」と類似の「帥升」の語を使用していることを考慮すると、女王国の原型となった国と組織であった可能性を感じます。「升」という語は、他の魏志の国には出てこないんですね。
AD50年前後あたりが、ひとつの倭人地域での変動の時期だったのではないでしょうか。
もちろん弥生人の先祖自体はBC200〜年あたりにやってきたものと感じます。
彼等は、室・楼観・城柵を設けるなど、大陸的な建築技術を有していた軍事・技術者集団ではなかったと考えてます。
ただ、ヒミコについては、「王となりしより以来、見るある者少なく」とあり、おそらくは政治も戦にもでかけず、完全に籠っていたようですね。だから見る人もいない。249年ごろにヒミコが死ぬまで50年近く籠っていたことになるでしょうか・・(・_・;)
あと、王でありミコである卑弥呼と、官職の長である難升米等とでは、魏王の対処の仕方も異なっているようですね。それはまた別記いたします。
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金印
続いて下記で触れました魏王から見た、女王、難升米への対処の仕方の相違についてです。
「景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守劉夏、使を遣わし、将って送りて京都に詣らしむ。
その年十二月、詔書して倭の女王に報じていわく、「親魏倭王卑弥呼に制詔す。帯方の太守劉夏、使を遣わし汝の大夫難升米・次使都市牛利を送り、汝献ずる所の男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉り以て到る。
汝がある所遥かに遠きも、乃ち使を遣わし貢献す。これ汝の忠孝、我れ甚だ汝を哀れむ。今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し、装封して帯方の太守に付し仮綬せしむ。汝、それ種人を綏撫し、勉めて孝順をなせ。
汝が来使難升米・牛利、遠きを渉り、道路勤労す。今、難升米を以て率善中郎将となし、牛利を率善校尉となし、銀印青綬を仮し、引見労賜し遣わし還す。
今、絳地交竜錦五匹・絳地スウ粟ケイ十張・セン絳五十匹・紺青五十匹を以て汝が献ずる所の貢直に答う。また、特に汝に紺地句文錦三匹・細班華ケイ五張・白絹五十匹.金八両・五尺刀二口・銅鏡百牧・真珠・鉛丹各々五十斤を賜い、皆装封して難升米・牛利に付す。
還り到らば録受し、悉く以て汝が國中の人に示し、國家汝を哀れむを知らしむべし。故に鄭重に汝に好物を賜うなり」と。
女王である卑弥呼には、「金印紫綬」を授け「親魏倭王」とし、「種人を綏撫」するよう命じていますね。「綏撫」は、安らかになるようにしずめおさめること。慰めいたわることの意味だそうです。文書による統治を感じさせます。
また、大夫と呉風に自称した難升米・牛利には、中郎将等の官職のほか、「銀印青綬」を授けてます。もちろん、その印字には、その文字が刻まれていたはずです。
それで金印は「帯方の太守に付し仮綬せしむ」、銀印と鏡の類は難升米・牛利にそのまま持って行かせています。
ここから帯方の太守が直接、卑弥呼に会いに向かったことがわかるのですが、「金印」を授ける際の取り決めなどが、中国側にあって、王もしくは太守から直接、当人に授けなければならないような何かがあったのではないでしょうか。
結局、社長の印鑑を、部長に渡してどこかで彼等が悪用されては困るというようなことかもしれません。
逆に、鏡の類は、倭国中に示せとあるので配って配布しても構わないということだったのでしょう。
だから倭奴国王の金印も、同様に楽浪郡の太守等が直接出向いて授けた、もしくは奴国の王が直接やってきて授かったのかもしれません。
金印が、その後の王に継承された可能性は感じます。次の王やイヨには授けてないんですね。もちろん、その間にやってきた使者には「印綬」はしているケースもあります。
しかしそうすると、後漢代に渡された倭奴国時代の金印を卑弥呼が継承していたとしても、魏から見るとそれは無効だったとも受け取れますし、魏はそのことを知っていたのかどうか、知っていたとしても、新たに金印を渡す必要があったとのことは理解できます。
ただ、次の晋代にはいって、その金印が有効だったかどうかはまたわからないところですね。
420年代に入って、宋から倭王の讃がやはり「除綬」されているわけですが、その後の王は「除綬」はされてないんですね。ここでも金印を授かったのかもしれない。
ともあれ、金印が継承されたとすれば、鏡のように王の墓から出ることはありえないわけでして、どこかの官庁があった場所とか・・・で出土するだろうと感じます。
糸島市の神社に「漢委奴國王」の金印が宝物として伝わっていたというのも、奴国の印を扱っていた役所が、外交・政務の中心地、伊都国だったからではないでしょうか。
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Re: 金印
管理人さんへのお返事です。
> 続いて下記で触れました魏王から見た、女王、難升米への対処の仕方の相違についてです。
> 「景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守劉夏、使を遣わし、将って送りて京都に詣らしむ。
京都は皇帝の都になるか?
京師は帯方郡から2000里の位置にある。
京師はもと、卑弥呼の居た杜。難升米は三公かもしれない。
文章より京師、京都の行程になる。
三公は三角縁神獣鏡で説明済み。
> その年十二月、詔書して倭の女王に報じていわく、「親魏倭王卑弥呼に制詔す。帯方の太守劉夏、使を遣わし汝の大夫難升米・次使都市牛利を送り、汝献ずる所の男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉り以て到る。
生口は杜氏(とうじ),卑弥呼は酒を送った。当時は高価なもので皇帝も懐かしい酒である。
この件を話すと、古事記からの話なので整理がつかないため、省略する。
> 汝がある所遥かに遠きも、乃ち使を遣わし貢献す。これ汝の忠孝、我れ甚だ汝を哀れむ。今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し、装封して帯方の太守に付し仮綬せしむ。汝、それ種人を綏撫し、勉めて孝順をなせ。
>??汝が来使難升米・牛利、遠きを渉り、道路勤労す。今、難升米を以て率善中郎将となし、牛利を率善校尉となし、銀印青綬を仮し、引見労賜し遣わし還す。
> 今、絳地交竜錦五匹・絳地スウ粟ケイ十張・セン絳五十匹・紺青五十匹を以て汝が献ずる所の貢直に答う。また、特に汝に紺地句文錦三匹・細班華ケイ五張・白絹五十匹.金八両・五尺刀二口・銅鏡百牧・真珠・鉛丹各々五十斤を賜い、皆装封して難升米・牛利に付す。
絳地交竜錦五匹:これが竜のマントか。これを着て雨乞いをしたみたいですな。
神社の竜の手洗いはこれでしょう。奈良の卑弥呼像はマントを着けたものが情けない鳥になっている。
> 還り到らば録受し、悉く以て汝が國中の人に示し、國家汝を哀れむを知らしむべし。故に鄭重に汝に好物を賜うなり」と。
> 女王である卑弥呼には、「金印紫綬」を授け「親魏倭王」とし、「種人を綏撫」するよう命じていますね。「綏撫」は、静かに安らかに治めるとの意味だそうです。文書による統治を感じさせます。
答えは卑弥呼の出生にある。金印、親魏倭王の訳:魏に親しい倭王、魏を親とする倭王、
この訳に総てが隠されている。
> だから倭奴国王の金印も、同様に楽浪郡の太守等が直接出向いて授けた、もしくは奴国の王が直接やってきて授かったのかもしれません。
倭奴国王は韓半島の倭国に送ったお墨付きで大きな意味はない。
> 糸島市の神社に「漢委奴國王」の金印が宝物として伝わっていたというのも、奴国の印を扱っていた役所が、外交・政務の中心地、伊都国だったからではないでしょうか。ただ女王がここにいたわけではないので、政務と王(ミコ)が、完全に居住地ともども分離していたことが伺えます。
韓半島から引き上げるとき、糸島市の神社に祭ったのでしょう。伊都国とは別物、
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Re: 金印
秦野北斗さんへのお返事です。
そこでですが、次に卑弥呼以後の時代、250年〜350年代について話を進めてみたいと思います。ご指摘のとおり、私も韓半島との関わりが強くなる時期ではないかと見ています。
> 倭奴国王は韓半島の倭国に送ったお墨付きで大きな意味はない。
>
> > 糸島市の神社に「漢委奴國王」の金印が宝物として伝わっていたというのも、奴国の印を扱っていた役所が、外交・政務の中心地、伊都国だったからではないでしょうか。ただ女王がここにいたわけではないので、政務と王(ミコ)が、完全に居住地ともども分離していたことが伺えます。
>
> 韓半島から引き上げるとき、糸島市の神社に祭ったのでしょう。伊都国とは別物、
>
204年前後に公孫氏が帯方郡を建てた際に、韓・濊族を撃って、「是より後、倭・韓遂に帯方に属す」との記載がありますね。その後238年に公孫氏が敗れて、魏が帯方郡を吸収していくわけですが、徐々に大陸との関わりが強くなっていく時期だろうと感じます。
景初2〜3年に、韓・濊に「邑君・長」の称号を与えて「印綬」を授けながら冊封関係を広げていく。
倭国も当然、周囲の韓・濊の動きを察知していたでしょうし、それで難升米を派遣した。
正始元年(240年)に、太守となった弓遵は、魏の詔書・金印紫綬を配下の梯雋に持たせて卑弥呼のもとへ送ってます。
卑弥呼に鏡を大量に配布するよう命じているのも、冊封支配を広める狙いもあったのでしょう。この鏡は女王国から「倭種」を治めるため、「倭国中」全域に配布されたこととでしょう。だから、島根でも桜井でも出てくる。
その後、245年に「難升米」に黄幢を賜与。
247年に卑弥呼は、太守王頎に「載斯烏越(サイシウエツ)」を使者として派遣して、狗奴国との戦いについて報告。太守は塞曹掾史張政らを倭国に派遣した。
女王に就いた壹与は、帰任する張政に「掖邪狗」ら20人を同行させ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5,000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。(266年)
神功皇后紀にて
「六十六年。〈 是年。晋武帝泰初二年 晋起居注云 武帝泰初二年十月 倭女王遣重訳貢献 〉」
そして150年の空白の4世紀があり、(413年)の倭王讃による朝貢記事。
特に注目したいのは「難升米」が5年程度見えたのちに消えたのに比して、その後の「掖邪狗」が20年近く在職し続けていることですね。
「難升米」は、247年までに、女王国からいなくなったかに見えます。桜井あたりで黄幢や鏡を抱えたまま墓に眠っている可能性もあるでしょう。大和に先に入り込んだ物部氏の祖・ニギハヤヒかもしれません。
伊都國の官を爾支「ニキ」、副を「泄謨觚(エ(セチ)ボク・ボコ)・柄渠觚(ヒョウゴク・ヘイゴコ)」があるのですが、その「ニギ」という発音がニギハヤヒを思い起こさせますね。
この国について、「世王有るも皆女王國に統属す。郡の使の往来して常に駐る所なり。」というのも、ここから使者が派遣されたことによるものでしょう。王もいて、ある程度女王国から独立した立場にあったのかもしれません。スイスみたいなものでしょうか。だから女王国は奴国が「北限」なんですね。
ただ、張政も掖邪狗と同様に20年も女王国にいたことになりそうです。もっともヒミコやイヨが、大和まで向かったかどうかは不明ですが、千人の侍女をかかえた籠り症のヒミコが、大和まで行ったかどうかは疑問がありますね。行ったとしたら次のイヨ以降ではないでしょうか。
そして空白の4世紀に入るわけですが、下記のページに、2〜3世紀の任那地域と北九州との関係、その後の3〜4世紀の畿内との遺物関係が指摘されてます。 http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn4/004_03.html
巴型・筒型銅器も出ているそうですが、巴型銅器は吉野ヶ里から復元されているように、北九州もので、ある時期から任那地域の首長にも渡されたように感じますね。
確かにこれらの銅器が、茨木・交野の前期古墳から出てくるのも、北九州・任那地域からの畿内への移動を示すようにも見えますし、舟形木棺とか朱の関連も同様な大陸遊牧民系の流れかと感じてます。
このあたりは、やはり313年の高句麗が楽浪郡を占領して、帯方郡の流民が三韓地域に流れ込んだこととも関係しているでしょうし、それ以前の流れもあっただろうとかんじます。
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Re: 金印
管理人さんへのお返事です。
> そこでですが、次に卑弥呼以後の時代、250年〜350年代について話を進めてみたいと思います。ご指摘のとおり、私も韓半島との関わりが強くなる時期ではないかと見ています。
250年〜350年代
250年代の前と後では韓半島は様変わりしています。
韓(馬韓+弁韓+辰韓)+濊は百済と高句麗に、倭に新羅が居候している。
これは魏志倭人伝の距離を秦野は秦野距離と命名した。
秦野距離を中国史籍に当てはめると当時の状況が明確になる。
現在の韓半島の古代地図は曖昧でこの辺、あの辺で制作している。
まあ言える事は、魏志倭人伝の単里が分らなければ古代史は解けません。
秦野は神功皇后を調べていて、陸行1月と単里を知った。
この頃に『日本書紀』、『先代旧事本紀』では日本武尊、『古事記』では倭建命
ヤマトタケルが韓半島に現われる。(日本では関東、名古屋をウロウロしている。)
神話でヤマトタケルが壱與=神功皇后をアマテラスと呼んでいる。
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「掖邪狗」=武内宿禰?
> 特に注目したいのは「難升米」が5年程度見えたのちに消えたのに比して、その後の「掖邪狗」が20年近く在職し続けていることですね。
卑弥呼以後の歴史の流れを推測しました。
5年程度「難升米」、
20年近く「掖邪狗」この点に注目すると。
248年 卑弥呼の死
8〜18年 男の王が立つが、国が混乱し互いに誅殺しあい千人余が死んだ。
266年 壱輿=神功皇后 13〜23歳
286年 33〜43歳で三韓征伐、55〜65歳?「掖邪狗」=武内宿禰?
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Re: 「掖邪狗」=武内宿禰?
秦野北斗さんへのお返事です。
さっそく御返事ありがとうございます。個人的に気になっているのは壱輿の寿命ですね。王としての在位期間も考慮せねなばりません。
13歳で即位して、たとえば80歳まで生きたとすると、310年ころ死んだと仮定します。
>
> 8〜18年 男の王が立つが、国が混乱し互いに誅殺しあい千人余が死んだ。
>
> 266年 壱輿=神功皇后 13〜23歳
>
> 286年 33〜43歳で三韓征伐、55〜65歳?「掖邪狗」=武内宿禰?
>
そうすると、彼女の古墳の形態は、古墳時代中期のものになってしまうかもしれませんよね。その前に死んだヒミコの墓の形態とは大きく異なるかもしれません。むしろ、先に死んだであろう「掖邪狗」とかの墓のほうが、古い形態を保っているのかもしれません。
ただもちろん、譲位(あまりない)あるいは、討伐されたりして死んでしまったこともありうるでしょうから、なんともいえませんけど。
だから、古墳の形態が新しいからといって、その時代の中心人物だったとは限らないわけでして、難しいものを感じます。
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Re: 「掖邪狗」=武内宿禰?
管理人さんへのお返事です。
> そうすると、彼女の古墳の形態は、古墳時代中期のものになってしまうかもしれませんよね。その前に死んだヒミコの墓の形態とは大きく異なるかもしれません。むしろ、先に死んだであろう「掖邪狗」とかの墓のほうが、古い形態を保っているのかもしれません。
卑弥呼の古墳は円墳です。1年ほど前に行ってきました。確かに円墳でした。
壱輿は前方後円墳、五社神古墳(神功皇后陵)。でしょう。
日本人なら一生に一度は、卑弥呼と壱輿の祭られている所へ行きます。
あとは推理してください。注、誰も卑弥呼と壱輿が祭られている事は知りませんな。
尚、神功皇后の応神天皇は韓半島、任那日本府で死んだと思われる。
枯野(からぬ)の船の詩から九州の伊都国に船を作らせ・・・。名を枯野(からぬ)と言う、『からぬ』は八咫烏の烏と奴を合わせ『烏奴』。建造の目的は多分、航路の防衛兵、今の海上保安庁ですな。この船が、任那の港,武庫で新羅の役人が火を出し、炎上、消失。応神天皇が怒り、・・新羅王が船の修理のため、船大工を派遣している。
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Re: 「掖邪狗」=武内宿禰?
秦野北斗さんへのお返事です。
枯野(からぬ)の船というと、伊豆国に応神天皇がそれをつくらせた伝承が残っているようですね。秦野さん的には、すると伊豆=伊都ということでしょうか。
枯野の船について
http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page410.html
それで武内宿禰の件について、もう少し調べてみたいところです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/武内宿禰
景行・成務・仲哀・応神・仁徳天皇と五代に仕えて、紀・巨勢・平群・葛城・蘇我氏などの中央諸豪族の祖ともされる人物ですね。
また景行や応神など、九州、朝鮮との関わりも出てきます。
この人物の寿命が200〜300と延びたのは、記紀の年代を延ばしたことと関係がありそうです。
葛城の宮山古墳に、彼と息子のソツヒコの伝承があり、盾・ユキ型の埴輪や、長持形石棺があるとのことで、山陰・北九州とのつながりを感じさせますね。
http://inoues.net/club/katuragi_kodo2_6.html
http://74589594.at.webry.info/200807/article_8.html
http://wiki.livedoor.jp/ksg_recon/d/????????
http://www.jpn-hayashi.com/cgi-bin/pjdetail.cgi?mode=&title0=???{?R?Õ?&choice0=k4400010&printer=&photoview=02&index=194&browser=99&colum=24&font=20&screen=240&life=
前方部と後円部に、埋葬施設が複数あり、石棺・木棺と種類も分かれていて、珍しいタイプの古墳あだと感じます。三角縁や割竹形木棺など、古い要素もあり、武内宿禰のような「長い歴史変遷」を集約した古墳のように見えます。
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Re: 「掖邪狗」=武内宿禰?
管理人さんへのお返事です。
検索するのが速いですね。
> 枯野(からぬ)の船というと、伊豆国に応神天皇がそれをつくらせた伝承が残っているようですね。秦野さん的には、すると伊豆=伊都ということでしょうか。
地名は表音に成っている。魏志倭人伝:対馬国(つしまこく)、『隋書』倭国伝:都斯麻国(つしまこく)がよい例です。
日本書紀、この文章の枯野(からぬ)は長さ十丈(30m)になる。遣唐使船クラスになる。
どうも、鳥船(とりふね)、八咫烏、烏奴が混在している。烏の意味は案内人を指すと思われ、神社数は五百寵の塩から500社になる。
諸国から五百の船が献上された。それが武庫の港(釜山の忠武港)に集まった。釜山=狗耶韓国で新羅と倭の境界に位置する。任那日本府はこの辺になる。
仁徳天皇の詩はどこで歌われたか未だ特定、出来ない。韓半島は間違いないが。
日本書紀 応神天皇の処
五年冬十月伊豆国に命じて船を造らせた。長さ十丈の船ができた。ためしに海に浮かぺると、軽く浮かんで早く行くことは、走るようであった。その船を名づけて枯野といった。
−--船が軽く早く走るのに、枯野と名づけるのは、道理に合わない。もしかすると軽野と
いったのを、後の人がなまったのでなかろうか。
三十一年秋八月、群卿に詔していわれるのに、「官船の枯野は、伊豆の国から奉ったものであるが、いまは朽ちてきて用に堪えない。しかし長らく官用を勤め、功は忘れられない。その船の名を絶やさず、後に伝えるには何かよい方法はないか」と。群卿は有司に命じて、その船の材を取り、薪として塩を焼かせた。五百寵の塩が得られた。それをあまねく諸国に施された。そして船を造ることになり、それが武庫の港に集まった。そのとき新羅の調の使が武庫に宿っており、そこから失火した。その延焼で多数の船が焼けたので新羅の人を責めた。新羅王はこれを聞き、犬いに驚いてすぐれた工匠を奉った。これが猪名部らの先祖である。
前に枯野船を塩の薪にして焼いた日に、あまりものの焼け残りがあった。その燃えないのを不恩議に思って献上した。天皇は怪しんで琴を造らされた。その音はさやかで遠くまで響いた。このとき天皇が歌っていわれるのに、
枯野塩焼其余、琴作、掻弾由良之門、
カラヌヲ、シホニヤキ、シガアマリコトニツクリカキヒクヤ、ユラノトノ
門中海岩触立浸欄木亮々
トナカノイクリニ、フレタツ、ナヅノキノ、サヤサヤ。
「枯野」を塩焼きの材として焼き、そのあまりを琴に造って、かき鳴らすと、由
良の瀬戸の海岩(海中の石)に触れて、生えているナズの木が、潮に打たれて
古事記 仁徳天皇の処にに書かれている
この御世に、免寸河の西に一つの高樹ありき。その樹の影、旦日に當たれば、淡道島に逮び、タ日に當たれぱ、高安山を越えき。故、この樹を
切りて船を作りしに、甚捷く行く船なりき。時にその船を號けて枯野と謂ひき。故、この船をもち旦夕淡道島の寒泉を酌みて、大御水献りき。
この船、破れ壊れて塩を焼き、その焼け遺りし木を取りて琴に作りしに、
その音七里に響みき。ここに歌ひけらく、
枯野を 塩に焼き 其が余り 琴に作り かき弾くや 由良の門の
門中の海石に 觸れ立つ 浸漬の木の さやさや
とうたひき。こは志都歌の歌返しなり。
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枯野
秦野さん、またいろいろ情報ありがとうございます。
枯野の船を焼いて塩を作るという話が面白いですね。
製塩をするのに、大量の木材が必要だと言っているわけです。
最近聞いた話で、倭と朝鮮の間で、鉄と塩を交換していた可能性があるそうです。岩塩も九州の山地では採れたそうです。
木材は倭つまり日本のほうが取れやすかったかもしれませんね。
また琴の話は、6世紀前後の話になりますが、カヤ琴の話が有名です。
そう考えていくと、任那と応神・仁徳との関わりは、重要かもしれません。
あと、補佐役という視点からいくと、コノハナサクヤヒメとセット出てくる塩土翁の存在があります。その塩の意味は、潮から転じて潮流のことだとか、製塩の神としても祀られるとのこと。
http://ja.wikipedia.org/wiki/シオツチノオジ
古事記では「塩椎」とも書かれていて、「椎」は、堅いシイの木のことだそうです。塩と木・船の関係が見て取れますね。書紀では「塩土」になって、製塩土器を思わせるように変化していく。
似たような船頭役をする人物に、宇豆毘古・シイネツヒコ(椎根津彦)というのがいます。
http://gejirin.com/src/U/utuhiko.html
九州南部の隼人から北部の大分、畿内にまで関係する重要人物です。「椎の竿の末を持たせてタケヒトの船に引き入れた」とのことで、別のところでも、蓑笠姿の翁として、香具山から、埴輪の土を持ってくる。
上記の流れで考えると、「海の老人」、製塩土器との関わりも考えうるでしょうし、黄憧を持って船で乗り込んだ人物、ニギハヤヒやニニギとの関わりも感じさせますね。
何か実在するイメージを元にして、できあがった人物像だろうと感じます。
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Re: 枯野
管理人さんへのお返事です。
> 枯野の船を焼いて塩を作るという話が面白いですね。
> 製塩をするのに、大量の木材が必要だと言っているわけです。
当時の船の材料は檜・杉・樫・椎で造られている?。
弦楽器はトンコリ系:アイヌに伝わる伝統的なでカラフトアイヌが用いていた五弦琴(三弦や六弦の物もある)。
エゾマツ材は淡黄色で着色した心材がない。木目もまっすぐに通っており美しく、建築材料に多く用いられる。また繊維が長く製紙用原料(パルプ材)にも非常に適している。切削などの加工も容易で、家具、箱材、楽器(ピアノ、バイオリン、ギター等)、経木、マッチの軸、碁盤など様々な用途に利用されている。
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Re: 枯野
秦野北斗さんへのお返事です。
さっそく情報ありがとうございます。
> > 枯野の船を焼いて塩を作るという話が面白いですね。
> > 製塩をするのに、大量の木材が必要だと言っているわけです。
>
> 当時の船の材料は檜・杉・樫・椎で造られている?。
>
魏志倭人伝に記された植物について研究したサイトがありました。
こちら参照ください。
http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/gisi/namae.htm
上記サイトより引用
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要旨
『魏志倭人伝』に記された樹木名は、クス、シイ、タブ、クヌギ、カシ、カエデなど、西日本の森や林を、構成する極めて一般的な樹木である。
『其木有、(だん)・杼(ちょ)・予樟(よしょう)・(じゅう)・櫪(れき)・投(とう)・橿(きょう)・烏号(うごう)・楓香(ふうこう)。其竹、篠(じょう)・(かん)・桃支(とうし)。有、薑(きょう)・橘(きつ)・椒(しょう)・何(じょうか)・不知以為滋味』
--------------------
それで、塩椎爺、椎根津彦の「椎」の木は、どうもその「杼」とのことです。
上記サイトによると、
「また杼とは機織りの横糸を走らせる『ひ』のことでもある。察するに『ひ』を作った材であろう、器具材としては、小径で曲がったコナラよりシイの方が適材である。したがって杼とはシイのことである。
わが国のシイにはコジイ(ツブラジイ)とスダジイがあるが、どちらであるかは定かでない。いずれも高さ25mに達する高木であり、上記のクスと共に西日本の照葉樹林を構成する代表的樹木でもある。」
http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/gisi/bunnpu.htm
こちらにその分布図がまとめられています。特に注目したいのは、
楓香(カエデ)と目される(イロハモミジ)の分布で、鹿児島方面が入ってないことです。
全体的には西日本の特性をもちながらも、鹿児島以北、その辺に絞られてくるのでしょうか。
(追記:一部誤記を修正しました)
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Re: 枯野
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000055M.jpg
管理人さんへのお返事です。
> 『魏志倭人伝』に記された樹木名は、クス、シイ、タブ、クヌギ、カシ、カエデなど、西日本の森や林を、構成する極めて一般的な樹木である。
> 『其木有、(だん)・杼(ちょ)・予樟(よしょう)・(じゅう)・櫪(れき)・投(とう)・橿(きょう)・烏号(うごう)・楓香(ふうこう)。其竹、篠(じょう)・(かん)・桃支(とうし)。有、薑(きょう)・橘(きつ)・椒(しょう)・何(じょうか)・不知以為滋味』
西日本の森や林は当時の生活圏を表わしている。秦野書、徐福と邪馬台国で倭国、『東西に五カ月の行程、南北に三カ月の行程。』の中部地方以西が地図上(添付)に描かれた。樹木の分布と三角縁神獣鏡の分布と一致する。不思議ですね。現在、徐福と邪馬台国で紹介した、茅渟(ちぬ)の道(日本最古の道)を調べています。
倭國者、古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中、依山島而居。東西五月行、南北三月行。世與中國通。其國、居無城郭、以木為柵、以草為屋。四面小島五十餘國、皆附屬焉。其王姓阿毎氏、置一大率、檢察諸國、皆畏附之。設官有十二等。 (「旧唐書」倭国・日本国伝)
倭国とは、古の倭奴国なり。京師から一万四千里、新羅の東南の大海中に在り、山島に依って暮らす。『東西に五カ月の行程、南北に三カ月の行程。』代々中国と通じている。 その国、居住地に城郭がなく、木を以て柵とし、草を以て屋根とする。四面の小島、五十余国、皆、これに附属している。その王姓は阿毎氏、一大率を置き、諸国を検察させ、皆はこれを畏怖している。官には十二等級を設けている。(堀貞雄の古代史・探訪館より)
> それで、塩椎爺、椎根津彦の「椎」の木は、どうもその「杼」とのことです。
椎根津彦(しいねつひこ、『日本書紀』)、槁根津彦(さおねつひこ、『古事記』)は同じものを言っている。『書記』では天皇が勅で椎の棹を授けて・・、椎根は『椎の棹』の椎、槁根は『椎の棹』の棹=槁。秦野が知る限り『日本書紀』と『古事記』は対に成っている。
シオツチノオジの文章は古事記を読み解けば理解できる。心配はない、難解ですが理解できます。
シオツチノオジ(シホツチノヲヂ)は、日本神話に登場する神であり塩竈明神とも言う。『古事記』では塩椎神(しおつちのかみ)、『日本書紀』では塩土老翁・塩筒老翁、『先代旧事本紀』では塩土老翁と表記する。別名 事勝因勝長狭神(ことかつくにかつなぎさ)。
『日本書紀』の天孫降臨の説話において、日向の高千穂の峰に天降ったニニギが笠狭崎に至った時に事勝国勝長狭神が登場し、ニニギに自分の国を奉っている。一書では、事勝因勝長狭神の別名が塩土老翁で、イザナギの子であるとしている。
海幸山幸の説話においては、ホデリ(海幸彦)の釣針を失くして悲嘆にくれるホオリ(山幸彦)の前に現れる。ホオリから事情を聞くと小舟(または目の詰まった竹籠)を出してホオリを乗せ、そのまま進めば良い潮路に乗って海神の宮に着くから、宮の前の木の上で待っていれば、あとは海神が良いようにしてくれると告げる。
『日本書紀』本文の神武東征の記述では、塩筒老翁が東に良い土地があると言ったことから神武天皇は東征を決意したとある。
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Re: 枯野
秦野北斗さんへのお返事です。
秦野さん、こんにちは。ここ数日パソコンが調子悪く、昨晩も書き込み終えた途端に文書が消えてしまいました(・_・;)
> 西日本の森や林は当時の生活圏を表わしている。秦野書、徐福と邪馬台国で倭国、『東西に五カ月の行程、南北に三カ月の行程。』の中部地方以西が地図上(添付)に描かれた。樹木の分布と三角縁神獣鏡の分布と一致する。不思議ですね。現在、徐福と邪馬台国で紹介した、茅渟(ちぬ)の道(日本最古の道)を調べています。
呉人が、台湾、沖縄経由で、九州南部から北部へ、吉備、畿内へと入っていくルートがあったようですね。
>??倭国とは、古の倭奴国なり。京師から一万四千里、新羅の東南の大海中に在り、山島に依って暮らす。『東西に五カ月の行程、南北に三カ月の行程。』代々中国と通じている。 その国、居住地に城郭がなく、木を以て柵とし、草を以て屋根とする。四面の小島、五十余国、皆、これに附属している。その王姓は阿毎氏、一大率を置き、諸国を検察させ、皆はこれを畏怖している。官には十二等級を設けている。(堀貞雄の古代
史・探訪館より)
この文書は、漢書から魏志・・と抜書きしている感じが見受けられます。
魏志の方位がおかしいことは、後代気付いたので、ちゃんと修正してますね。南が逆さまになった日本地図の話が出てこないようです。ただ、一大率という警察・軍隊の話は、よく把握できていなかったのでしょう。
> 椎根津彦(しいねつひこ、『日本書紀』)、槁根津彦(さおねつひこ、『古事記』)は同じものを言っている。『書記』では天皇が勅で椎の棹を授けて・・、椎根は『椎の棹』の椎、槁根は『椎の棹』の棹=槁。秦野が知る限り『日本書紀』と『古事記』は対に成っている。
日本における節刀関連の文書のはじまりが見えるというになるでしょうか。椎根津彦は重要です。
あと、「塩筒老翁」と神武東征のイメージこそが、後に記紀に出てくる海の老人の原型だと思いますね。「筒」の字を当てているのがまた興味深いところです。
同じくイザナギの息子で、住吉三神が、やはり「底筒男命」のように、「筒」を名前に入れてますね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/住吉三神
住吉は、元は「住江」とのことで、「スミ」というところにあった港のことだったのでしょう。
上記の呉とか隼人と結びつけるなら、安住・安曇、大隈といった「スミ」音の意味あたりまで追求したいところですが、元の根っこは弥生時代の発音にあって、後代の「澄んだ水」とかいう、文献学者の解釈では不十分であることをしみじみ感じますね。古代史やる人は、まず魏志倭人伝の読みからやらなければならないということなのでしょう。
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Re: 枯野
管理人さんへのお返事です。
> 呉人が、台湾、沖縄経由で、九州南部から北部へ、吉備、畿内へと入っていくルートがあったようですね。
おっしゃる通り、呉人、越人のルートは存在しています。秦野の調べでは台湾、沖縄経由はない。呉人は直接、九州南部になっている。越人は日を改めて・・。
> 魏志の方位がおかしいことは、後代気付いたので、ちゃんと修正してますね。南が逆さまになった日本地図の話が出てこないようです。ただ、一大率という警察・軍隊の話は、よく把握できていなかったのでしょう。
ちゃんと修正してますね。一大率という警察・軍隊の話は、よく把握できていなかった。?
この件は魏志倭人伝と古事記、日本神話。の解読して明らかになりますが、専門家、一般人で解読した話は聞いていないのですが?。解読できれば、同じ土俵で秦野は話をしたい。
古田、安本、鷲崎、桂川光和・・説では中国史籍の文中の距離表記を地図に書き起こせない。完全に間違っていると言ってよい。秦野はこれまでの説とは違う方法で古代史を紐解きたい。
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Re: 枯野
秦野北斗さんへのお返事です。
さっそく御返事ありがとうございます。
距離の件ですが、海にある沖縄などの孤島を入れて測量するとなると、相当高度な測量技術がないと、正しい距離数値を出せないかと感じます。3ヶ月・5ヶ月と日程として書いてあるのも、アバウトであることを意味してますね。
> 古田、安本、鷲崎、桂川光和・・説では中国史籍の文中の距離表記を地図に書き起こせない。完全に間違っていると言ってよい。秦野はこれまでの説とは違う方法で古代史を紐解きたい。
>
ただ個人的には、邪馬台国時代には、すでに海をもすべて考慮した精度の高い測量技術を持っていたと考えてますので、不可能ではなかったと感じます。詳細は研究会の会報あたりにて記しているので、参考まで。
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Re: 枯野
管理人さんへのお返事です。
> 距離の件ですが、海にある沖縄などの孤島を入れて測量するとなると、相当高度な測量技術がないと、正しい距離数値を出せないかと感じます。3ヶ月・5ヶ月と日程として書いてあるのも、アバウトであることを意味してますね。
> ただ個人的には、邪馬台国時代には、すでに海をもすべて考慮した精度の高い測量技術を持っていたと考えてますので、不可能ではなかったと感じます。詳細は研究会の会報あたりにて記しているので、参考まで。
3ヶ月・5ヶ月と日程・・、は日程でなく距離で現在のメートル法に換算可能です。
参考ですが1月は7000里です。魏志倭人伝の1月で、どこにも書いてないですよ。
唯一、知る方法は実測しかない。詳細な里は徐福と邪馬台国を参照
高い測量技術を・・・詳細は研究会の会報、どうも研究会の会報は未だ子供です。参考にも成らない。どうも、根拠が万葉集、伝承が中心です。注意点は、万葉集の詩は韓半島で歌ったもので日本には該当しない。秦野の調べでは魏志倭人の距離測定はセンチメートル (cm)まで測定している。
研究会の研究が進み、自信を持った専門家が、帯方郡さえ特定ができず、玄菟郡を楽浪郡と言っている。日本に在りもしない欠史八代の古墳を奈良に比定している。現実は大陸に散在している。
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Re: 枯野
秦野北斗さんへのお返事です。
あらら、拙い会報のほうもすでに拝読いただいているとのことで、ありがとうございました(*^_^*)
それで先の旧唐書の
「京師から一万四千里、新羅の東南の大海中に在り、山島に依って暮らす。『東西に五カ月の行程、南北に三カ月の行程。」
の部分なのですが、帯方からの距離は、魏志の記載から変化してないんですよね。新羅という国名が新たに出てきており、その後新たな距離情報が入りこんでます。先日の新羅の文献を引用しましたね。
それにしても3ヶ月、5ヶ月というのは、魏志で陸行1月とか水行10日とかいう記載との対応でどうなるのか、その辺が課題です。
ただ東西5ヶ月については、唐代になれば、馬や駅宿のある時代の話ですから、いささか長すぎる感じもします。
そうすると、やはりもっと古い時代で、馬を使わない徒歩や、小型船での距離感覚によるのかもしれません。
ご指摘の徒歩と距離換算の件は、そういう意味で重要です。馬や大型ガレー船での距離・時間感覚ではないのでしょう。
したがって、魏志も旧唐書も、ともに徒歩での距離感覚を、わざと記載しているのではないかと感じます。
邪馬台国までは魏志では、陸行1月(OR、+、水行10日)。 それが、南北3ヶ月、東西は5ヶ月の記載に変化する。
九州から茨城までを東西として5ヶ月とすると、1ヶ月でいける距離は、5分の1で、せいぜい岡山くらいまでとなるでしょうか。
当時の道は獣道でしょうし、主に沿岸沿いや坂道を多く歩いたでしょうから、我々の想像よりはるかに時間がかかるのかもしれません。獣道に慣れない人なら、1日にせいぜい15キロ程度でしょう。1月・450キロがいいところではないでしょうか。
また、水行は風向きや海流の向き、船の構造によって、大きく時間が異なってくると感じます。
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Re: 枯野
管理人さんへのお返事です。
> 邪馬台国までは魏志では、陸行1月(OR、+、水行10日)。 それが、南北3ヶ月、東西は5ヶ月の記載に変化する。
> 九州から茨城までを東西として5ヶ月とすると、1ヶ月でいける距離は、5分の1で、せいぜい岡山くらいまでとなるでしょうか。
> 当時の道は獣道でしょうし、主に沿岸沿いや坂道を多く歩いたでしょうから、我々の想像よりはるかに時間がかかるのかもしれません。獣道に慣れない人なら、1日にせいぜい15キロ程度でしょう。1月・450キロがいいところではないでしょうか。
水行10日は潮流から1〜0.5Knot:1.8〜0.9km/h で200Km程度。意外でしょう。
魏志倭人伝は中国から陳寿が来て文章にしている。いろんな事情があり陸行(月)、水行(日)としている。中国史籍を読み解けば、陳寿、卑弥呼の事情を知ることができる。
九州から茨城まで:約1000km、5分の1で:約200km。せいぜい広島です。感覚で1 月・450キロですか、1単里で64m近いです。しかし、正確でなければ、命取りに成りますよ。魏志倭人伝、中国史籍の距離に対応します。正確でなければ、魏志倭人伝の帯方郡、京師まで辿れる。中国史籍の韓半島の新羅、百済、扶余の位置が判明します。
注意が必要なのは、東西5ヶ月、南北3ヶ月は直線距離です。またも、意外でしょう。
陸行1月(OR、+、水行10日)は行程距離、道のりです。
尚、道は獣道に慣れない人なら・・。これは、大きな間違いです。通常の街道です。現在もこの道を使用している。名まえは変わり、現在は国道に成っている。途中から・・線(茅渟(ちぬ)の道)なり、道幅は5mはある。国道?号線は伏せておきます。楽しみが無くなるため。
本件は、韓半島の京師、帯方群から邪馬台国までの行程を纏めて出版『徐福と邪馬台国』してます。
古事記の解読は終わり、校正しています。
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Re: 枯野
秦野北斗さんへのお返事です。
さっそく御返事ありがとうございます。
> 水行10日は潮流から1〜0.5Knot:1.8〜0.9km/h で200Km程度。意外でしょう。
> 魏志倭人伝は中国から陳寿が来て文章にしている。いろんな事情があり陸行(月)、水行(日)としている。中国史籍を読み解けば、陳寿、卑弥呼の事情を知ることができる。
中国文献のあり方については、私も興味深く感じてます。特に漢書・魏志の時代のほかの諸国についての書き方ですね。
魏書(列伝)
http://ja.wikipedia.org/wiki/魏書
魏志・東夷伝
http://yumiki.cocolog-nifty.com/station/2006/05/post_e624.html
魏志・韓伝
http://kamodoku.dee.cc/gishi-kanden.html
ちょっと時間がかかりそうなので、ピックアップして読み進めたいと思います。
尚、道は獣道に慣れない人なら・・。これは、大きな間違いです。通常の街道です。現在もこの道を使用している。名まえは変わり、現在は国道に成っている。途中から・・線(茅渟(ちぬ)の道)なり、道幅は5mはある。国道?号線は伏せておきます。楽しみが無くなるため。
本件は、韓半島の京師、帯方群から邪馬台国までの行程を纏めて出版『徐福と邪馬台国』してます。
古事記の解読は終わり、校正しています。
また、秦野さんのご本を近いうち拝読させていただきたく感じてます。
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Re: 枯野
管理人さんへのお返事です。
> 本件は、韓半島の京師、帯方群から邪馬台国までの行程を纏めて出版『徐福と邪馬台国』してます。
> 古事記の解読は終わり、校正しています。
>
> また、秦野さんのご本を近いうち拝読させていただきたく感じてます。
魏志倭人伝の行程と邪馬台国、卑弥呼の墓の所在を明らかにしています。
本の疑問、問題点を聞かせて下さい。
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『三国志魏書』倭人伝の訳
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000064M.jpg
『三国志魏書』倭人伝(通称:魏志倭人伝)の翻訳であるが、翻訳に一部不備があるので修正している。(倭奴国)の存在は中国史籍の文章は当時、存在する国は記入するが無くなった国は空白としている。乍南乍東は文法から導かれる。
倭人在帶方東南大海之中、依山島為國邑。舊百餘國、漢時有朝見者、今使譯所通三十國。
倭人は帯方郡の東南の大海中に在り、山島に拠って邑落国家を為している。昔は百余国、漢代には朝見する者がおり、今は使訳(通訳を連れた使節)が通じるのは三十国。
從郡至倭、循海岸、水行歴韓國、乍南 (倭奴国) 、乍東到其北岸狗邪韓國、七千餘里。始度一海、千餘里至對馬國。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百餘里、土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸、無良田、食海物自活、乖船南北市糴。
帯方郡より倭に至るには、海岸に沿う、水行で歴韓国、南へ(倭奴国)、東へ北岸の狗邪韓国に到ること七千余里。初めて一海を渡り、千余里で対馬国に至る。そこの大官は卑狗、副は卑奴母離という。極めて険しい島に住み、四方は四百余里ほど。土地は山が険阻で、深い林が多く、道路は獣や鹿の小道(獣道)。千余戸あり、良田は無く、海産物を食べて自活しており、船で南北の市(物々交換の場)に出かけて、糴(てき=穀物を買い求める)する。 堀貞雄の古代史・探訪館より
状況を添付
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Re: 『三国志魏書』倭人伝の訳
秦野さん
さっそく情報ありがとうございます。特に引用の下記の箇所は行程を考える上で重要です。
帯方郡より倭に至るには、海岸に沿う、水行で歴韓国、南へ(倭奴国)、東へ北岸の狗邪韓国に到ること七千余里。
陸路を使わずに沿岸航路をたどってます。これがおそらく当時の魏の船の航路方法なのでしょう。ただ海流に乗らないので手漕ぎで遅いわけです。沿岸に何度も立ち寄って数十日かけて狗耶韓国へと向かったのでしょう。
「一海を渡り、千余里」からすると、確かに船の速度から本来の距離をだいたい割り出してますね。
「船で南北の市(物々交換の場)に出かけて、糴(てき=穀物を買い求める)する。」を読むと、まだ対馬までは南北の観念は東西に逆転してないわけです。
次の壱岐についても同じで
「又南に一海を渡ること千余里、...一大國に至る。・・・竹木そう林多く、三千ばかりの家有り。やや田地有り、田を耕せどなお食足らず、亦南北に市てきす。」
この場合も、南北は、松浦と対馬との間にある南北の観念で、まだ方位がここでも逆転してないわけですね。
「郡より女王國に至ること萬二千余里」も、
帯方郡から狗邪韓国までが七千余里+対馬まで1千余里+壱岐まで1千余里+松浦まで1千余里+伊都国まで500里+奴国(すなわち女王国の属国の北限の境界にある国)まで100里で、おおよそ1万2千里という意味だろうと感じます。ソ連のウラジオストク州からモスクワまでのような感じでしょう。
それとは別に女王国の都するところまでが陸行1ヶ月、水行10日かかったわけですね。
その間の属国のことを「以北」としているので、ここでもまだ南北の観念が見えます。
もちろん途中で陸路を通った可能性もあります。
ただ、そうすると船を乗り捨てなければならないわけでして、完全に現地人の案内に寄らないとたどり着けないことになるでしょう。多くの鏡や宝物を運ぶには、船が便利ですが、陸路を使う場合は、人手が必要です。
ともあれ「使訳(通訳を連れた使節)が通じるのは三十国。」ところを経由しないといけません。
同様に女王国への行程も、主に沿岸航路沿いに、使訳が通じる国を経由して、数十日かけて向かったものと感じます。
「乍南乍東」は、おおむねの意味で、かならずしもいつも同じ方角ではないといっているのでしょう。
【乍ち】たちまち 非常に短い時間の内に行われるようす。またたく間に。すぐに。 ある物事・行為が急に起こるようす。にわかに。 【乍ら】ながら 〜しつつ。二つの動作が平行して行われることを表す。
興味深いのは、投馬国と女王国については、「南」としか方角が記されてない点です。「乍南乍東」とは記さなかったんですね。だから、この両国の方位は、おおむね伊都国もしくは不彌国から「南」だった。
ただし、投馬国は船だけで20日かけて向かうのに対して、女王国は陸行で1月、加えて(もしくは)水行で10日かかる場所。その相違は地形的な条件が絡んでます。
確かに対馬について、「土地は山が険阻で、深い林が多く、道路は獣や鹿の小道(獣道)。」とあることを考慮すると、以前ご指摘いただいたとおり、他の諸国は、そこまではひどくない「道」であったと感じます。
この国の道だけがひどいので、こういう形でピックアップされているのでしょうね。
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Re: 『三国志魏書』倭人伝の訳
管理人さんへのお返事です。
> 帯方郡から狗邪韓国までが七千余里+対馬まで1千余里+壱岐まで1千余里+松浦まで1千余里+伊都国まで500里+奴国(すなわち女王国の属国の北限の境界にある国)まで100里で、おおよそ1万2千里という意味だろうと感じます。ソ連のウラジオストク州からモスクワまでのような感じでしょう。
帯方郡から狗邪韓国まで1万2千里、壱岐から松浦は六百里しかないんです。1万2千里の意味は水行で歴韓国、歴韓国から陸行になる。歴韓国が基点で狗邪韓国までが7千里になる。後の5千里は暦韓国から帯方郡の陸路の距離です。魏志は海岸に2千里沿い。陸行で5千里(海岸に2千里+歴韓国から海岸3千里)になる。何か事情があった模様です。
> それとは別に女王国の都するところまでが陸行1ヶ月、水行10日かかったわけですね。
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮、可七萬餘戸。
南に邪馬壹国の女王の都に至るには、水行十日、陸行一ト月。官には伊支馬があり、次を彌馬升といい、その次が彌馬獲支、その次が奴佳鞮という。七万余戸ほどか。
『都する』をミヤコと読んでいませんか?、『女王之所』は『女王の所』でミヤコとは言っていない。これは、行程を読み解かないと読めない。『女王之所都、水行十日、陸行一月』を中国語を熟知した人でも『女王の都に至る』と訳している。この訳は間違いです。これじゃ一生かけてもたどり着かない。400年のなぞは理解できる。
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Re: 『三国志魏書』倭人伝の訳
秦野北斗さんへのお返事です。
さっそく御返事ありがとうございます。
> 壱岐から松浦は六百里しかないんです。
私も秦野さんご紹介の地図をみながら、かなりアバウトな距離数値だと感じてました。
帯方から狗邪韓国まで7千余里という数値は、おそらく海沿いに回った距離ではなく、内陸の距離を示しているものと感じます。魏以前の時代から、すでにそこまでの距離は測量で確定していたことでしょう。それを陳寿が引用したのでしょうね。
たとえば漢書の朝鮮関連の記載に下記のようにあります。
「以故滿得兵威財物侵降其旁小邑 眞番・臨屯皆來服屬 方數千里」
すでにこの時点で、かなりまだアバウトですが、測量記載がありますね。
http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/shiki/chousen/gen.htm
同様に、ご指摘の「南至邪馬壹國、女王之所都」の「都」に関する記載についても、中国文献の記載の仕方を分析していくと、わかってくるかもしれません。上記の続きでこんな記載もあります。
「滿亡命 聚黨千餘人 魋結蠻夷服而東走出塞 渡水 居秦故空地上下鄣 稍役屬眞番・朝鮮蠻夷及故燕・齊亡命者王之 都王險」
「燕王の盧綰(ロワン)が背き、匈奴に亡命すると、髷(まげ)を結い、蛮夷の衣服を着た満は千余の人々を連れて長城を出て東に逃れ、?水(清川江)を渡り、秦の時代の昔の空地に居を構えて鄣(長城)を出入し、真番に軽く属していた朝鮮蛮夷や、その地に暮らす昔の燕や斉からの亡命者らの王となり、王険城(王倹城とも)を都とした。」
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kochosen/kochosen4-eisichosen.htm
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Re: 『三国志魏書』倭人伝の訳
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000068M.jpg
ぎし管理人さんへのお返事です。
燕王盧綰反、匈奴、滿亡命、聚黨千餘人、魋結蠻夷服而東出塞、渡?水、居秦故空地上下鄣、稍役屬真番、朝鮮蠻夷及故燕、齊亡命者王之、都王險。
燕王の盧綰(ロワン)が背き、匈奴に亡命すると、髷(まげ)を結い、蛮夷の衣服を着た満は千余の人々を連れて長城を出て東に逃れ、?水(清川江)を渡り、秦の時代の昔の空地に居を構えて鄣(長城)を出入し、真番に軽く属していた朝鮮蛮夷や、その地に暮らす昔の燕や斉からの亡命者らの王となり、王険城(王倹城とも)を都とした。
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮、可七萬餘戸。
南に邪馬壹国の女王の都に至るには、水行十日、陸行一ト月。官には伊支馬があり、次を彌馬升といい、その次が彌馬獲支、その次が奴佳鞮という。七万余戸ほどか。
上の2文書を比較します。翻訳には少し問題があるがおおむね理解できるので秦野も使用しています。
文中の『都』には名詞と副詞があります。ご存知でしょうね。
齊亡命者王之都、王險。斉からの亡命者らの王の都、王険城(王倹城とも)
女王之所、都水行十日、陸行一月。女王の所、都水行十日、陸行一ト月。
齊亡命者王之都と女王之所で都=所になる。女王之所、都・・は副詞と考えるのが自然です。
> 私も秦野さんご紹介の地図をみながら、かなりアバウトな距離数値だと感じてました。
> 帯方から狗邪韓国まで7千余里という数値は、おそらく海沿いに回った距離ではなく、内陸の距離を示しているものと感じます。魏以前の時代から、すでにそこまでの距離は測量で確定していたことでしょう。それを陳寿が引用したのでしょうね。
海沿いに回った距離は史籍の文中に2千里余り(行程)と記述があります。当時の港の名前も確定しています。言える事は、松浦ルートは存在しないのです。また、陳寿は壱岐(一支国)の大きさを測っています。距離数値は秦野距離で換算しています。添付
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邑
>陳寿は壱岐(一支国)の大きさを測っています。
「對海【馬】國・・方可四百余里」
「一大國・・・方可三百里」
は、邑の「尊卑有大小」が記述されている。
「尊卑有大小」とは
清代段玉裁『?文解字注』に
「先王之制。尊卑有大小。从?。尊卑謂公矦伯子男也。大小謂方五百里,方四百里,方三百里,方二百里,方百里也。」とあります。
「邑」を説文解字により解釈するなら、
「對海【馬】國」の「尊卑」は「矦」で「大小」は「方四百里」。
「一大國」の「尊卑」は「伯」で「大小」は「方三百里」。
となり、「方可四百余里」「方可三百余里」は実測数値ではないでしょう。
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Re: 邑
案山子さんへのお返事です。
> >陳寿は壱岐(一支国)の大きさを測っています。
>
> 「對海【馬】國・・方可四百余里」
> 「一大國・・・方可三百里」
> は、邑の「尊卑有大小」が記述されている。
> 「尊卑有大小」とは
> 清代段玉裁『?文解字注』に
> 「先王之制。尊卑有大小。从?。尊卑謂公矦伯子男也。大小謂方五百里,方四百里,方三百里,方二百里,方百里也。」とあります。
> 「邑」を説文解字により解釈するなら、
> 「對海【馬】國」の「尊卑」は「矦」で「大小」は「方四百里」。
> 「一大國」の「尊卑」は「伯」で「大小」は「方三百里」。
> となり、「方可四百余里」「方可三百余里」は実測数値ではないでしょう。
女王國東渡海・・・、では状況から陳寿は行ってない。文中に參問倭地と尋ねたとある。しかし、「對海【馬】國・・方可四百餘里」「一大國・・・方可三百餘里」では、それらしい文章はない。
女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國、?齒國復在其東南、『船行一年可至。』參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。
女王国の東に海を渡ること千余里、また国がある。いずれも倭人である。その南に侏儒(こびと)国が在り、身長は三、四尺、女王国から四千余里。また、その東南に裸国や?歯国も在り、『船で行くこと一年で至るとか。』倭の地と比較して訊いてみると、絶海の中央の島の上に在り、隔絶あるいは連結し、周囲を旋回すること五千余里ほど。
帯方郡より倭に至るには、海岸に沿って水行、韓国を経て、南へ行ったり、東へ行ったりして、北岸の狗邪韓国に到ること七千余里。初めて一海を渡り、千余里で対馬国に至る。そこの大官は卑狗、副は卑奴母離という。極めて険しい島に住み、『四方は四百余里ほど。』土地は山が険阻で、深い林が多く、道路は獣や鹿の小道(獣道)。千余戸あり、良田は無く、海産物を食べて自活しており、船で南北の市(物々交換の場)に出かけて、糴(てき=穀物を買い求める)する。
又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國、官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。『方可三百里、』多竹木叢林、有三千許家、差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。
また、南に一海を渡ること千余里、名を瀚海という、一大国に至る。官もまた卑狗、副は卑奴母離という。『四方は三百里ほど。』竹木の密林が多く、三千ほどの家があり、農地はあるが不足しており、耕作しても食べるには足らないので、また南北に物々交換に出かける。
「先王之制。尊卑有大小。从?。尊卑謂公矦伯子男也。大小謂方五百里,方四百里,方三百里,方二百里,方百里也。」
この文章はなにを言っているのですか。訳すと、先の王制では尊卑(身分などが尊いことと卑しいこと)大小があり、? から公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の順に、大小は四方五百里、四方四百里・・・四方百里なり。? =王都でしょうか。領地分けでしょうか。尊卑には大官はないが?。
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Re: 邑
案山子さんへのお返事です。
> 「先王之制。尊卑有大小。从?。尊卑謂公矦伯子男也。大小謂方五百里,方四百里,方三百里,方二百里,方百里也。」とあります。
> 「邑」を説文解字により解釈するなら、
> 「對海【馬】國」の「尊卑」は「矦」で「大小」は「方四百里」。
> 「一大國」の「尊卑」は「伯」で「大小」は「方三百里」。
> となり、「方可四百余里」「方可三百余里」は実測数値ではないでしょう。
「先王之制。尊卑有大小。从?。尊卑謂公矦伯子男也。大小謂方五百里,方四百里,方三百里,方二百里,方百里也。」
尊卑謂公矦伯子男也。大小謂方五百里,・・の領地を計算すると大きすぎるので、方四百里で九州ぐらいの大きさになる。「對海【馬】國」「一大國」は小島ですな。当時の公矦伯子男の領地がわかれば、
韓半島の倭奴国の地位がわかるかも。公爵・侯爵・伯爵クラスになるか。
秦野は驚きました。
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Re: 『三国志魏書』倭人伝の訳
秦野北斗さんへのお返事です。
ご指摘のとおり、松浦までの距離の短さは確かに気になりますね。
> 海沿いに回った距離は史籍の文中に2千里余り(行程)と記述があります。当時の港の名前も確定しています。言える事は、松浦ルートは存在しないのです。また、陳寿は壱岐(一支国)の大きさを測っています。距離数値は秦野距離で換算しています。添付
おそらく狗邪韓国から対馬までの距離についてですが、対馬北部から南部まで陸行しているものと考えます。
同様に壱岐も南北に陸行してから、松浦(唐津方面)へと向かうので、両島の陸路の記載があるんですね。
とすると、距離としては、狗邪韓国から対馬の北端までの間の海の距離、そして対馬の南端から壱岐の北端までの距離、壱岐の南端から松浦の北端までの距離が記されていると看做すべきかもしれません。
それでも、やや距離差が大きいですけど、島の長さを含まない分、3つの距離差は少なくなります。
そうすると、やはり魏使は、毎回海路と陸行を、倭国側の船を借りて行き来したように見えますね。
それで松浦に寄ったかどうかですが、個人的には、松浦、つまりマツロ国は唐津の半島だと思うんです。
そこで伊都国を、その東南だといっているのが気になります。本来なら東にあたるはずですよね。
狗邪韓国、対馬、壱岐の方角についても、本来東南であるべきところを、南と記載したので、東であるべきところも、東南になってしまった、そういうふうにも見て取れます。
対馬で狂うんですよね。対馬に行くとわかるのですが、南北に長く伸びていて、北岸から見る(考える)韓国・壱岐と、南岸から見る(考える)韓国・壱岐とでは全然方角が異なるんです。
ところが、対馬という長い島を、短い小さな島だと勘違いすると、韓国・壱岐の方角がここで大きくずれてしまうのでしょう。
この辺の方角の狂いは、魏の使いの特有のミスだと思います。
それ以前に九州に入った漢・・系の測量集団はしっかり南北を理解してますし、おそらくは邪馬台国自身も南北の観念はしっかり理解していたはずです。理解していなかったのは魏使だけということになるでしょうか。
この辺の要素は、さらに詳しく抽出して、本来の方位を確認していく必要があるでしょう。
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Re: 『三国志魏書』倭人伝の訳
管理人さんへのお返事です。
> とすると、距離としては、狗邪韓国から対馬の北端までの間の海の距離、そして対馬の南端から壱岐の北端までの距離、壱岐の南端から松浦の北端までの距離が記されていると看做すべきかもしれません。
おっしゃる通りです。行程で島内の100里未満は表記が無いんです。著書、徐福と邪馬台国で苦しめられました。著書では文章の欠落部を追加しています。結構、省略されていますよ。しかし、松浦にこだわると方位に矛盾がでますよ。上陸地は博多ですから・・。
志賀島(しかのしま)の金印との関係を無視ですな。
志賀島は、福岡県福岡市東区に所属する島。博多湾の北部に位置し、海の中道と陸続きである。
松浦は博多湾の南部方向で逆ですな・・。
> それ以前に九州に入った漢・・系の測量集団はしっかり南北を理解してますし、おそらくは邪馬台国自身も南北の観念はしっかり理解していたはずです。理解していなかったのは魏使だけということになるでしょうか。
>
> この辺の要素は、さらに詳しく抽出して、本来の方位を確認していく必要があるでしょう。
著書、徐福と邪馬台国で徐福が始皇帝の命で佐賀に来ている。この当時は北斗七星、(北極星)航海に使用、日の出の2方法で現在と変わらない。北前舟は北斗七星を使って航海をしている。徐福は始皇帝の命で日の出を追って2回航海している。魏志の測量は方位を使用。南、北は日の出を使ったと思われる。これが混在するので注意、見分ける方法は距離がでれば方位。距離が出なければ日の出でいいのでは。狗耶韓国は日の出の北、倭奴国は日の出の南、九州は南、奈良は北になる。
どうも、測量集団は方位磁石を使用したのでは、また、海上の距離も測定している。当時を知らない現代人は古代人を馬鹿にしているみたいです。
尚、三角縁神獣鏡は上が日の出の北、下が南になり、銘文は魏志倭人伝と同じ内容になっている。悲しいことに、銘文の翻訳に失敗している。
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Re: 『三国志魏書』倭人伝の訳
秦野北斗さんへのお返事です。
> おっしゃる通りです。行程で島内の100里未満は表記が無いんです。著書、徐福と邪馬台国で苦しめられました。著書では文章の欠落部を追加しています。結構、省略されていますよ。しかし、松浦にこだわると方位に矛盾がでますよ。上陸地は博多ですから・・。
特に対馬の南北間の行程の省略が大きいですね。対馬の長さを軽くみると、その後大きく方角が変わってしまうわけですが、案山子さんも引用されたように、「方百里」の測量記載は、かなりアバウトです。対馬はどうみても方形にはならないですから。本来なら「南北二百里」とか記されるべきところを、「方」としてしまっているところに、あまりこの島のことを詳しく理解してない感じが見て取れます。
松浦については、唐津の半島の先っぽですね。壱岐島には一番近いことは確かです。もっとも博多のほうが便利だとは思いますけど、どうだったんでしょうね。
興味深いのは、マツロ国に上陸してから、伊都国まで陸路を用いている件です。海路のほうが楽だとおもうのですが、どういうわけか陸行している。
マツロ国というのが、昔王がいたとの記載にあるとおり、ある程度女王国から独立した立場にあった可能性を感じてます。マツロ国の首都をあえて訪問しないといけないような理由があったのでしょうか。あえて訪問する代わりに、安全に陸路で送迎してもらうことができたのかもしれません。いつも最短距離を行けるというわけではなかったのでしょう。
>魏志の測量は方位を使用。南、北は日の出を使ったと思われる。これが混在するので注意、見分ける方法は距離がでれば方位。距離が出なければ日の出でいいのでは。狗耶韓国は日の出の北、倭奴国は日の出の南、九州は南、奈良は北になる。
確かに対馬・壱岐・松浦の方位が、ここまでいい加減だと、方位を何で測ったかが気になります。
伊都国にいたるまでの方位は対馬で狂って、東南を南と考えていた節がありますね。
ご指摘の日の出などアバウトな方位観念で旅した可能性はあります。
ただ個人的には、伊都→不彌、伊都→奴国の方位は間違ってないんです。過去の測量結果に基づく正確な情報をどこかで聞いて記載してます。ただ、投馬国と女王国の方位記載はまたアバウトな記載になっており、どのくらいずれているかは未知数です。距離と行程は魏志の記載にあるとおり、全部把握してあるけれど、省略しているとのことなんですね。
思うに海路を使うと方位観念がずれるのではないでしょうか。陸行の場合はしっかり方位を把握できますが、海の場合は、目印によって左右されますし、距離感覚がつかめないのでしょう。
> どうも、測量集団は方位磁石を使用したのでは、また、海上の距離も測定している。当時を知らない現代人は古代人を馬鹿にしているみたいです。
>
方位磁針を魏が使用していた件は会報でも記載したとおりですが、当時魏の時代になって、コンパスの記載が正式に出てくるようになります。すでに漢代から類似するものはあったのですが、実用化されたのは魏の時代で、特に軍事行動と関連して使用されたと見てます。
ローマでもそうですが、いつもコンパスが必要なのは、航海もしくは軍隊ですね。方角のわからないところに行く必要のない一般人は必要ないんです。
ただ方位磁針というのは、磁北の編年誤差があって、時代とともに最大15度程度真北からずれてしまうんです。時代経過による東西誤差でいれば最大で30度まで変化可能です。
そうすると、東西観念が大きくずれる可能性はあります。会報で記したとおり、奈良の古墳は磁北が時代によって大きく変化しているのですが、これは方位磁針の使用に頼ったせいだと解釈してます。それらをもたらしたのは魏の軍隊もしくは魏の使人たちでしょう。張氏も長く女王国にいましたからね。
ただ、魏の時代の磁北は東に15度ほどずれていたはずなんです。もしこの15度東を真北として測量したとすれば、南の女王国は九州南部よりさらに西にないといけないんですね。沖縄とか・・・。
この辺の地磁気編年がどの程度頼りになるかどうかとか、魏の時代にどの程度、軍隊や航海でコンパスが導入されたかは、今後の課題だろうと感じてます。
>三角縁神獣鏡は上が日の出の北、下が南になり、銘文は魏志倭人伝と同じ内容になっている。悲しいことに、銘文の翻訳に失敗している。
三角縁も、会報で記したとおり、方位磁針である指南魚を浮かべるための水がめだったと考えているわけですが、東西南北を、魏や倭がどう考えていたかは未知数です。西王母・東王父は東西を示しますね。漢代は南を重視しましたから、「左東王父」となるわけです。
彼らは方位磁針を見るときに、われわれと違って、北極星を背にして、南をみながら、聖なる方位だと考えたかもしれません。地図も南が上になっていたことでしょう。
ただ奈良の古墳をみると、主体であるはずの後円部を北や東にするケースが多く、南に向いているケースは少ないんですね。そこに漢代から引き継がれた方位観念が、すこし変化しているように感じるんです。
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Re: 『三国志魏書』倭人伝の訳
管理人さんへのお返事です。
> 思うに海路を使うと方位観念がずれるのではないでしょうか。陸行の場合はしっかり方位を把握できますが、海の場合は、目印によって左右されますし、距離感覚がつかめないのでしょう。
方位には間違いは見当たりません。不彌國は「東行至不彌國百里」平塚川添遺跡になります。投馬国と女王国は「南至投馬國水行二十日」の文章の読み方です。
沖縄までに行くのは少なくとも半年はかかる。水行二十日では行けない。日数は魏志の文章にあります。現代の古代史の学者は古事記との関連性も無視している。女王国はアマテラス国を言っている、理解できないでしょうね。
> ただ奈良の古墳をみると、主体であるはずの後円部を北や東にするケースが多く、南に向いているケースは少ないんですね。そこに漢代から引き継がれた方位観念が、すこし変化しているように感じるんです。
>
皇帝は北にいますので北が上になります。オーストラリアなら南でしょう。後円部を北や東にするケースが多く、これは日の出の方向から北が定まるので、やっぱり北です。
>
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Re: 邑
秦野北斗さんへのお返事です。
> 女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國、?齒國復在其東南、『船行一年可至。』參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。
>
Ø女王国の東に海を渡ること千余里、また国がある。いずれも倭人である。その南に侏儒(こびと)国が在り、身長は三、四尺、女王国から四千余里。また、その東南に裸国や?歯国も在り、『船で行くこと一年で至るとか。』倭の地と比較して訊いてみると、絶海の中央の島の上に在り、隔絶あるいは連結し、周囲を旋回すること五千余里ほど。
『女王国から四千余里。』の解釈は「去」を『さる』としていますね。
「去」は『行く』と解釈するのが正しいでしょう。
ですから、上記の起点は「侏儒國」で着点が「女王」です。
「去女王四千餘里」は『(侏儒國)より行く女王、四千餘里。』です。
「侏儒國」はフィリピン・ルソン島になるでしょう。
この「女王」とは「次有奴國 此女王境界所盡」の「女王」を刺しています。
又、「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。」の「女王國」とは
「自郡至女王國萬二千余里」の「女王國」です。「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。」の位置は北海道です。
とりあえず。
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Re: 邑
秦野北斗さんへのお返事です。
Ø尊卑謂公矦伯子男也。大小謂方五百里,・・の領地を計算すると大きすぎるので、方四百里で九州ぐらいの大きさになる。「對海【馬】國」「一大國」は小島ですな。
『方四百里で九州ぐらいの大きさになる。』の『四百里』を一辺『四百里』の正方形と解釈すればその面積は約三万ヘーホーキロになる。
が、『方四百里』とは『方里』が『400個』との解釈が正しいだろう。
今有田。 廣一里。 従一里。 問「為田幾何」。答曰「三頃七十五畝」。
案。゚此術「廣・従、里数相乗。得積里」。
方里之中`有三頃七十五畝。・・・・・九章算術
『方四百里』
一里=1800尺×24cm=432m
方一里=432m×432m÷1000000=0.186624平方キロ
方四百里=0.186624×400=74.6496平方キロ。
「方可四百余里」の「方可」は『差し渡し』なら、直径が四百里の領域を刺すことになる。
一里=1800尺=432m
四百里=432m×400÷1000=172.8km
その領域は、
(172.8km÷2)×((172.8km÷2)×π=24,927.863平方キロ。
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Re: 邑
案山子さんへのお返事です。
『新唐書』日本伝に『日本は小国で、倭に併合された』の文章がある。咸亨元年(670年)に併合、魏志倭人伝(240年)に北海道はありえない。ところで倭国の大きさはご存知ですか。今の歴史家は誰も知らないはずですが?。
『新唐書』日本伝
咸亨元年、遣使賀平高麗。後稍習夏音、惡倭名、更號日本。使者自言、國近日所出、以為名。『或云日本乃小國、為倭所并』、故冒其號。使者不以情、故疑焉。又妄夸其國都方數千里、南、西盡海、東、北限大山、其外即毛人云。
咸亨元年(670年)、遣使が高麗平定を祝賀。後にやや夏音(漢語)を習得し、倭名を憎み、日本と改号した。使者が自ら言うには、国は日の出ずる所に近いので、国名と為した。あるいは、『日本は小国で、倭に併合された』故に、その号を冒すともいう。使者には情実がない故にこれを疑う。またその国都は四方数千里だと妄りに誇る、南と西は海に尽き、東と北は大山が限界となり、その外は、すなわち毛人という。
> 秦野北斗さんへのお返事です。
>
> > 女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國、?齒國復在其東南、『船行一年可至。』參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。
> >
> Ø女王国の東に海を渡ること千余里、また国がある。いずれも倭人である。その南に侏儒(こびと)国が在り、身長は三、四尺、女王国から四千余里。また、その東南に裸国や?歯国も在り、『船で行くこと一年で至るとか。』倭の地と比較して訊いてみると、絶海の中央の島の上に在り、隔絶あるいは連結し、周囲を旋回すること五千余里ほど。
>
> 『女王国から四千余里。』の解釈は「去」を『さる』としていますね。
> 「去」は『行く』と解釈するのが正しいでしょう。
> ですから、上記の起点は「侏儒國」で着点が「女王」です。
> 「去女王四千餘里」は『(侏儒國)より行く女王、四千餘里。』です。
> 「侏儒國」はフィリピン・ルソン島になるでしょう。
> この「女王」とは「次有奴國 此女王境界所盡」の「女王」を刺しています。
> 又、「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。」の「女王國」とは
> 「自郡至女王國萬二千余里」の「女王國」です。「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。」の位置は北海道です。
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Re: 邑
案山子さんへのお返事です。
魏志倭人伝は単里になる。『四百里』を一辺『四百里』の正方形は里と考えます。
中国史籍は単里になっている。
案山子さんの一里=1800尺×24cm=432mで計算すると
方四百里は一辺:400×432m=172800=172.8km
九州:162km×240km
古田の単里=77m
方四百里は一辺:400×77m=30800=30.8km
対馬(厳原):24km×25km
伯爵で九州の領地は、これは1つの国ですな。伯爵の領地としては対馬(厳原):24km×25kmぐらいが妥当でしょう。中国史籍に従い単里に訂正です。注、古田の単里=77mは間違っていますので注意してください。実際もっと小さい。
尚、領域を円で示されてますが、魏志倭人伝の文書には四方、方位+直線距離で記されている。円はありません。
> Ø尊卑謂公矦伯子男也。大小謂方五百里,・・の領地を計算すると大きすぎるので、方四百里で九州ぐらいの大きさになる。「對海【馬】國」「一大國」は小島ですな。
>
> 『方四百里で九州ぐらいの大きさになる。』の『四百里』を一辺『四百里』の正方形と解釈すればその面積は約三万ヘーホーキロになる。
> が、『方四百里』とは『方里』が『400個』との解釈が正しいだろう。
>
>
> 今有田。 廣一里。 従一里。 問「為田幾何」。答曰「三頃七十五畝」。
> 案。゚此術「廣・従、里数相乗。得積里」。
> 方里之中`有三頃七十五畝。・・・・・九章算術
> 『方四百里』
> 一里=1800尺×24cm=432m
> 方一里=432m×432m÷1000000=0.186624平方キロ
> 方四百里=0.186624×400=74.6496平方キロ。
>
> 「方可四百余里」の「方可」は『差し渡し』なら、直径が四百里の領域を刺すことになる。
> 一里=1800尺=432m
> 四百里=432m×400÷1000=172.8km
> その領域は、
> (172.8km÷2)×((172.8km÷2)×π=24,927.863平方キロ。
>
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Re: 邑
秦野北斗さん、案山子さんへのお返事です。
そう、方里の問題がありましたね!
面積か、距離か・・・。
個人的には、陸行で示された九州諸国の距離は、76・5メートルで測量されたことを確認してます。
ただ、その測量を行ったのは、弥生時代中期に入った集団のもので、魏の使者が計ったものではありません。魏の使者の多くは文官ですから、測量自体することは無理だったろうと感じます。どこからか過去に計った数値を聞いたのでしょう。ただその後、魏の軍隊が入ったとしたら、測量の可能性はあったと感じます。
同様に「方数百里」の記載も、彼らが計ったわけではなく、どこからか聞いたものだろうと感じます。
その場合は、「方」の用法も、過去のおそらくは漢代の書き方を参考にすべきかもしれません。
対馬という島をよく調べていくと、南北の長さが50キロ近くあるのに比して、東西が5キロくらいしかないんですね。
また壱岐島との比較でも面積は4倍くらい違うわけです。
ただ魏志では、
「對海【馬】國・・方可四百余里」
「一大國・・・方可三百里」
これも対馬にいくとわかるのですが、対馬というのは、2つの島なんですね。途中で橋を渡ります。
名前の意味自体は魏志の時代から対になった二つの島という意味なのでしょう。
対馬の記載には、船に乗って南北を行き来する記載があるのですが、壱岐島には南北にはいくものの、船に乗る件はでてきません。対馬が2つの島で船に乗らないと両方いけないからでしょう。壱岐は丸い島ですからね。
対馬国の都があった島だけ測量した可能性も考慮すべきではないでしょうか。
それで案山子さん注目の「方可」の語ですが、仮に方形区画の斜線を意味するとしたら、さらに壱岐島と対馬のどちらかの島の測量値が近くなりそうです。
対馬の南北の長さは、壱岐島までの間の海の長さに等しいくらいで、いわゆる1千里もあるわけです。
魏志では、この1千里を省略してしまったのでありまして、明らかにおかしいですね。
もともと、南の島、あるいは北の島は、距離計算から除外して考えていたので、そういう省略が起きてしまったと考えることがでるのではないでしょか。
魏の使いはいつもどちらかの島にしか行ってないんです。
あえて対馬のところで「土地は険しく深林多く、道路はきんろくのこみちの如し。」と記しているのも、陸行が困難であるから、船で直接、壱岐に行くように諭しているようにも見えます。
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Re: 邑
管理人さんへのお返事です。
陳寿は皇帝の使いで邪馬台国に来たと考えると、護衛兵と共に来たと考えるべきです。
観光ツアーで行ってきました。現地の人が何里と言っていました。では、『隋書』には距離を知らないと書いてあるぞ?。どちらかが嘘を言っている。陳寿は茶を濁したのでしょうか。陳寿は茶を濁す様なら死罪でしょう。『隋書』を見る限り、陳寿は最低でも海南島まで行っている。文章はよく描写できています。
陳 寿(ちん じゅ、建興11年(233年) - 元康7年(297年))は、三国時代の蜀漢と西晋に仕えた官僚。字は承祚(しょうそ)。巴西郡安漢の人。俗説では、蜀漢の将であった陳式の末裔と言われているが根拠は無い。甥に陳符・陳莅(兄の子)・陳階(弟の子)。『三国志』の著者である。自身の伝は『晋書』にある。
『隋書』倭国伝
倭國、在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居。魏時、譯通中國、三十餘國、皆自稱王。夷人不知里數、但計以日。其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。其地勢東高西下。都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里、在會稽之東、與儋耳相近。
倭国は、百済や新羅の東南に在り、水陸を越えること三千里、大海中の山島に依って居する。三国魏の時代、通訳を伴って中国と通じたのは三十余国。皆が王を自称した。東夷の人は里数(距離)を知らない、ただ日を以って計っている。
その国の境は東西に五カ月、南北に三カ月の行程で、各々が海に至る。その地形は東高西低。都は邪靡堆、魏志の説に則れば、邪馬臺というなり。古伝承では楽浪郡の境および帯方郡から一万二千里、会稽の東に在り、儋耳と相似するという。
> ただ、その測量を行ったのは、弥生時代中期に入った集団のもので、魏の使者が計ったものではありません。魏の使者の多くは文官ですから、測量自体することは無理だったろうと感じます。どこからか過去に計った数値を聞いたのでしょう。ただその後、魏の軍隊が入ったとしたら、測量の可能性はあったと感じます。
>
> 同様に「方数百里」の記載も、彼らが計ったわけではなく、どこからか聞いたものだろうと感じます。
>
> その場合は、「方」の用法も、過去のおそらくは漢代の書き方を参考にすべきかもしれません。
>
> 対馬という島をよく調べていくと、南北の長さが50キロ近くあるのに比して、東西が5キロくらいしかないんですね。
>
> また壱岐島との比較でも面積は4倍くらい違うわけです。
>
> ただ魏志では、
> 「對海【馬】國・・方可四百余里」
>??「一大國・・・方可三百里」
>
>
> これも対馬にいくとわかるのですが、対馬というのは、2つの島なんですね。途中で橋を渡ります。
>
> 名前の意味自体は魏志の時代から対になった二つの島という意味なのでしょう。
>
> 対馬の記載には、船に乗って南北を行き来する記載があるのですが、壱岐島には南北にはいくものの、船に乗る件はでてきません。対馬が2つの島で船に乗らないと両方いけないからでしょう。壱岐は丸い島ですからね。
>
> 対馬国の都があった島だけ測量した可能性も考慮すべきではないでしょうか。
>
> それで案山子さん注目の「方可」の語ですが、仮に方形区画の斜線を意味するとしたら、さらに壱岐島と対馬のどちらかの島の測量値が近くなりそうです。
>
> 対馬の南北の長さは、壱岐島までの間の海の長さに等しいくらいで、いわゆる1千里もあるわけです。
> 魏志では、この1千里を省略してしまったのでありまして、明らかにおかしいですね。
>
> もともと、南の島、あるいは北の島は、距離計算から除外して考えていたので、そういう省略が起きてしまったと考えることがでるのではないでしょか。
>
> 魏の使いはいつもどちらかの島にしか行ってないんです。
> あえて対馬のところで「土地は険しく深林多く、道路はきんろくのこみちの如し。」と記しているのも、陸行が困難であるから、船で直接、壱岐に行くように諭しているようにも見えます。
>
>
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Re: 邑
秦野北斗さんへのお返事です。
さっそく情報ありがとうございます。
「三国魏の時代、通訳を伴って中国と通じたのは三十余国。皆が王を自称した。東夷の人は里数(距離)を知らない、ただ日を以って計っている。 その国の境は東西に五カ月、南北に三カ月の行程で、各々が海に至る。」
随書のこの記載は面白いですね。女王国に属しているのにもかかわらず、各国は王と自称したとあることは、いわゆる倭国がかなり緩やかな連合国だったことを意味してます。ここの部分は、魏志とは別の記録を引用してますね。しかし同じくらい古い倭について記した文献。魏志は省略されているとの秦野さんの意見と関連するかもしれません。
ただ、この里数を知らないので日数で距離を示すという記載は、7世紀当時のもので、もはや中国式の測量技術も廃れ忘れられたころの話かと感じます。しかし魏・漢の時代はしっかり把握していたと考えてます。
この隋書の記事も、倭人に距離つまり日数をあえて尋ねているんですね。自分ではもはや計ってません。
でも、魏使は多少は簡易的な測量をした可能性はあります。方位とか日数とかですね。
しかし正確な方位に基づく面積の測量は、これは人手も半端ではないですし、できる時期も限られてきます。精度の高い里数77メートルとかは、倭人との大掛かりな協力体制、あるいは過去に倭にやってきた中国人?の測量結果に頼らざるを得なかったという感じがします。
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Re: 邑
管理人さんへのお返事です。
鋭い、おっしゃる通り、倭人も単里で測定しています。おまけに中国語も話しています。『三国志魏書』倭人伝に記録があります。当時の倭人は距離を知り尽くし、1月で歩ける距離を知っていたのが現実の様です。これから言える事は倭人の行動範囲は現代人のスケールを遥かに超えたものと考えるべきです。倭人伝に『船で行くこと一年で至るとか。』一年の航行を可能としている。航行距離は大きいものではない(特定済みです)。単里は歴史が古く紀元前2万年ぐらいに定められたものらしい。里数77メートルは間違っている。神話に出てくる。本来、歴史は連続するものです。古事記のアマテラス(女王)、大国主の国譲り、スサノオ、神武天皇、神功皇后。これらを考察に入れなければ・・・。そう深刻に考えなくてもいい、魏志倭人伝の女王国は古事記の初代アマテラス(女王)を指している。難解ですか。
『三国志魏書』倭人伝(通称:魏志倭人伝)
女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國、?齒國復在其東南、『船行一年可至』。參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。
女王国の東に海を渡ること千余里、また国がある。いずれも倭人である。その南に侏儒(こびと)国が在り、身長は三、四尺、女王国から四千余里。また、その東南に裸国や?歯国も在り、『船で行くこと一年で至るとか。』倭の地と比較して訊いてみると、絶海の中央の島の上に在り、隔絶あるいは連結し、周囲を旋回すること五千余里ほど。
> 「三国魏の時代、通訳を伴って中国と通じたのは三十余国。皆が王を自称した。東夷の人は里数(距離)を知らない、ただ日を以って計っている。 その国の境は東西に五カ月、南北に三カ月の行程で、各々が海に至る。」
>
>
> 随書のこの記載は面白いですね。女王国に属しているのにもかかわらず、各国は王と自称したとあることは、いわゆる倭国がかなり緩やかな連合国だったことを意味してます。ここの部分は、魏志とは別の記録を引用してますね。しかし同じくらい古い倭について記した文献。魏志は省略されているとの秦野さんの意見と関連するかもしれません。
>
> ただ、この里数を知らないので日数で距離を示すという記載は、7世紀当時のもので、もはや中国式の測量技術も廃れ忘れられたころの話かと感じます。しかし魏・漢の時代はしっかり把握していたと考えてます。
>
> この隋書の記事も、倭人に距離つまり日数をあえて尋ねているんですね。自分ではもはや計ってません。
>
> でも、魏使は多少は簡易的な測量をした可能性はあります。方位とか日数とかですね。
> しかし正確な方位に基づく面積の測量は、これは人手も半端ではないですし、できる時期も限られてきます。精度の高い里数77メートルとかは、倭人との大掛かりな協力体制、あるいは過去に倭にやってきた中国人?の測量結果に頼らざるを得なかったという感じがします。
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Re: 邑
秦野北斗さんへのお返事です。
>ところで倭国の大きさはご存知ですか。今の歴史家は誰も知らないはずですが
「從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國 七千余里」の行程は、
洛陽⇒長垣→威海市(迄715.978km)→沙里院(迄337.781km)→済州島(迄561.657km)→台湾満州郷(迄 1,392.369 km)
長垣から台湾満州郷迄、約3,007.785km≒六千九百六十二里≒七千余里。
「其北岸狗邪韓國」とある「狗邪韓國」の領域の南端が現・台湾満州郷で
北端は「会稽東治【冶】之東」、所謂北緯26度より南の宮古島迄。
「參問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千余里」の「周旋可五千余里」の「可」は差し渡しであるから、
「倭地」の一方の端は、「狗邪韓國」の領域である現・宮古島と「会稽東治【冶】之東」との境界で、他の一端は「自郡至女王國萬二千余里」である北緯39度の現・平泉である。(平泉を中心とした直径2160km(五千里)の円を描くとその弧は宮古島をかする。)
倭地の「周旋可五千余里」内、にある、女王国と倭国。
女王国は、「会稽東治【冶】之東」・現沖縄本島から北緯39度の現・平泉迄。
倭国は「会稽之東」、所謂北緯30度の種屋久島から北緯39度の現・平泉迄。
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Re: 邑
秦野北斗さんへのお返事です。
> 魏志倭人伝は単里になる。『四百里』を一辺『四百里』の正方形は里と考えます。
> 中国史籍は単里になっている。
>
>案山子さんの一里=1800尺×24cm=432mで計算すると
>方四百里は一辺:400×432m=172800=172.8km
>九州:162km×240km
案山子は、方里の解釈の根拠を九章算術の方里においています。
方里とは 「廣・一里、従一里 」ですから、(1800尺×24cm)の二乗です。
方里400個の集合面積が「方四百里」です。
「方可四百里」という解釈は全く別解釈です。
「可」は差し渡しですから、「方可四百里」とは直径400里の円に名依存する正方形の対角線に相当するでしょう。
「方可四百里」に相当する面積は、
一辺が122.188kmになりますので、1492.907平方キロになりますが、
「方可四百里」は面積を記述したものではありません。
「對海【馬】國」の両端の差し渡し距離です。
「方可四百里」の國邑は列島では沖縄本島以外に存在しません。
故に、「對海【馬】國」とは沖縄本島を刺します。
とりあえず。
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Re: 邑
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000087M.jpg
案山子さんへのお返事です。
沖縄本島に1492.907平方キロの円をかきました。こんなものですか。
何か、理解できない。地図から半分は海です?
沖縄の全長は約102Km
1492.907平方キロ=3.14×r×r
r=21.8km
> 案山子は、方里の解釈の根拠を九章算術の方里においています。
> 方里とは 「廣・一里、従一里 」ですから、(1800尺×24cm)の二乗です。
> 方里400個の集合面積が「方四百里」です。
> 「方可四百里」という解釈は全く別解釈です。
> 「可」は差し渡しですから、「方可四百里」とは直径400里の円に名依存する正方形の対角線に相当するでしょう。
> 「方可四百里」に相当する面積は、
> 一辺が122.188kmになりますので、1492.907平方キロになりますが、
> 「方可四百里」は面積を記述したものではありません。
> 「對海【馬】國」の両端の差し渡し距離です。
> 「方可四百里」の國邑は列島では沖縄本島以外に存在しません。
> 故に、「對海【馬】國」とは沖縄本島を刺します。
>
> とりあえず。
>
>
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Re: 邑
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000088M.jpg
案山子さんへのお返事です。
秦野は頭が悪いのか、理解できない。案山子説を地図で表記しました。
文中で出発地が洛陽⇒長垣→威海市・・・ですが、本文は帯方郡になっている。
距離ですが一般には単里ですが里になっている。根拠があるのですか。
韓半島が女王国になる。誰が神武天皇か?。
洛陽 長垣 218km
長垣 威海市 690km
威海市 沙里院 289km
沙里院 済州島 690km
済州島 台湾満州郷 1370km
長垣から台湾満州郷迄 3039km 里:434m
> >ところで倭国の大きさはご存知ですか。今の歴史家は誰も知らないはずですが
>
> 「從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國 七千余里」の行程は、
> 洛陽⇒長垣→威海市(迄715.978km)→沙里院(迄337.781km)→済州島(迄561.657km)→台湾満州郷(迄 1,392.369 km)
>
> 長垣から台湾満州郷迄、約3,007.785km≒六千九百六十二里≒七千余里。
>
> 「其北岸狗邪韓國」とある「狗邪韓國」の領域の南端が現・台湾満州郷で
> 北端は「会稽東治【冶】之東」、所謂北緯26度より南の宮古島迄。
>
>
> 「參問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千余里」の「周旋可五千余里」の「可」は差し渡しであるから、
> 「倭地」の一方の端は、「狗邪韓國」の領域である現・宮古島と「会稽東治【冶】之東」との境界で、他の一端は「自郡至女王國萬二千余里」である北緯39度の現・平泉である。(平泉を中心とした直径2160km(五千里)の円を描くとその弧は宮古島をかする。)
>
> 倭地の「周旋可五千余里」内、にある、女王国と倭国。
> 女王国は、「会稽東治【冶】之東」・現沖縄本島から北緯39度の現・平泉迄。
> 倭国は「会稽之東」、所謂北緯30度の種屋久島から北緯39度の現・平泉迄。
>
>
>
>
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Re: 邑
秦野北斗さんへのお返事です。
> 沖縄本島に1492.907平方キロの円をかきました。こんなものですか。
>
大変失礼致しました。1492.907平方キロは14,929.07平方キロの書き間違いです。
> 何か、理解できない。地図から半分は海です?
>
「方可四百里」は面積を記述したものではありません。
對海【馬】國の差し渡し距離です。
四百里は≒432km×0.4=172.8kmになります。
糸満から沖永良部迄178.618 kmですから
「對海【馬】國」の差し渡しは、現沖縄本島・糸満から沖永良部島迄ということになります。
魏尺・一尺の原器が3点ほど出土していますが、いずれも一尺約24cm前。
魏尺から追うと、一里=1800尺 一尺=24cm 一里=432m。
画像地図、有難うございます。
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Re: 邑
秦野北斗さんへのお返事です。
> 文中で出発地が洛陽⇒長垣→威海市・・・ですが、本文は帯方郡になっている。
>
「從郡至倭」並びに「自郡至女王國萬二千余里」の「郡」を「帯方郡」とするのは、誤りでしょう。
清代陳昌治刻本『?文解字』
從:隨行也。从辵从,从亦聲。慈用切
清代段玉裁『?文解字注』
隨行也。以从辵。故云隨行。齊風。並驅從兩肩兮。傳曰。從,逐也。逐亦隨也。釋詁曰。從,自也。其引伸之義也。又引伸訓順。春秋經從祀先公。左傳曰順祀先公。是從訓順也。
清代陳昌治刻本『?文解字』
自:鼻也。象鼻形。凡自之屬皆从自。棹,古文自。疾二切
清代段玉裁『?文解字注』
鼻也。象鼻形。此以鼻訓自。而又曰象鼻形。
王部曰。自讀若鼻。今俗以作始生子爲鼻子是。
> 距離ですが一般には単里ですが里になっている。根拠があるのですか。
>
魏尺の原器が出土していますがいずれも一尺は約24cm前です。
> 韓半島が女王国になる。誰が神武天皇か?。
>
意味が解りません。
> 洛陽 長垣 218km
> 長垣 威海市 690km
> 威海市 沙里院 289km
> 沙里院 済州島 690km
> 済州島 台湾満州郷 1370km
> 長垣から台湾満州郷迄 3039km 里:434m
>
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千余里
地平線からの北極星の角度が緯度とほぼ同じであることが知られていたため、
緯度を計測することは比較的容易であった。
さて、会稽での地平線と北極星の角度はほぼ30度、又、
会稽東冶が存在した福州市での地平線と北極星の角度は26度。
会稽の北緯は30度で会稽東冶の北緯26度その緯度差は4度で
二点間は4度×111km=444km。
千里は約432kmで会稽〜会稽東冶間の距離にほぼ一致する。
故に
会稽・会稽東冶の東に当たる、口之島と糸満市間の緯度差は千余里である。
会稽東冶の東に当たる、糸満市から緯度的に4度南下した北緯22度が
台湾・満州郷に当り、会稽の東に当たる口之島から緯度的に千余里(432km)北上した地は北緯34度の下関にあたる。
北緯34度から緯度的に4度北上した北緯38度は、帶方(沙里院)の東にほぼ一致する。
故に
始度一海千余里 至對海【馬】國
又南渡一海千余里名曰瀚海 至一大國
又渡一海千余里 至末廬國
の至對海【馬】國は沖縄、一大國は種屋久島で末廬國は下関にあたる。
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Re: 千余里
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000092M.jpg
案山子さんへのお返事です。
案山子説には無理がある。
韓半島には馬韓があるが、以下の文章の説明ができますか。
案山子説で地図をかくと添付になる。倭国も馬韓に含まれる、ありえない。
『後漢書』馬韓伝
韓有三種:一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁辰。馬韓在西、有五十四國、其北與樂浪、南與倭接。辰韓在東、十有二國、其北與濊貊接。弁辰在辰韓之南、亦十有二國、其南亦與倭接。凡七十八國、伯濟是其一國焉。大者萬餘戸、小者數千家、各在山海?、地合方四千餘里、東西以海為限、皆古之辰國也。馬韓最大、共立其種為辰王、都目支國、盡王三韓之地。其諸國王先皆是馬韓種人焉。
韓には三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁辰という。馬韓は西に在り、五十四カ国、その北に楽浪、南に倭と接する。辰韓は東に在り、十有二国、その北に濊貊と接する。弁辰は辰韓の南に在り、また十有二国、その南はまた倭と接する。およそ七十八国、伯済はその一国である。大国は万余戸、小国は数千家、各々に山海の間に在り、土地は合計四千余里、東西は海が限界で、いずれも昔の辰国である。馬韓が最大、その苗裔を辰王として共立し、都は目支国、三韓の地の大王である。そこの諸国王の先祖は皆、馬韓の血族である。
「韓は帯方郡の南、東西は海をもって限りと為し、南は倭と接している。広さはおよそ四千里四方。三つの国があり、一は馬韓といい、二は辰韓といい、三は弁韓という。辰韓は昔の辰国である。(魏志韓伝)」 辰国の辰は東南を表し、朝鮮半島東南の国という意味のようです。
秦野のHP:秦野北斗の古代史に解答があります。
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Re: 千余里
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000093M.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000093_2M.jpg
http://ja.wikipedia.org/wiki/会稽郡
http://
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Re: 千余里
管理人さんへのお返事です。
魏志倭人伝の会稽東治は上海になります。内容は単純で海南島と相似であると書いてある。要約すると韓国南部と九州が海南島に相似する。古代史の専門家はまともに理解しない、困った人達です。
> もうひとつ気になるが、会稽・東治の位置です。
>
> 計其道里當在会稽東冶之東
ストーンサークルは魏志倭人伝より遥か昔の話しになります。測量技術は現在より進んでいたと思われる。ストーンサークルは世界各地に有るといってよい。聖書の天地創造より少し現代よりでしょうか。まあ、邪馬台国とは関係はありませんな。
> この手のストーンサークルは太陽観測と関係があるといわれてますね。
>
> 同じく楯築の弧帯文石あたりとともに、台湾ルートでの邪馬台国への文化・測量技術の伝来も、最近考えはじめているところです。
-
Re: 千余里
管理人さんへのお返事です。
> もうひとつ気になるが、会稽・東治の位置です。
>
> 計其道里當在会稽東冶之東
> http://ja.wikipedia.org/wiki/会稽郡
>
計其道里當在会稽東冶之東
の会稽東冶は、
http://ja.wikipedia.org/wiki/冶県
で、
遺跡は↓
http://heartland.geocities.jp/zae06141/fukusyuu.html
会稽東冶之東は北緯26度の沖縄。
> 緯度的には、奄美大島と鹿児島の間くらいになるはずです。
>
は、会稽で越、呉の国都があった所。
越は、会稽東冶に、呉は建康へ国都をうつしている。
建康は北緯32度03分37秒で西都市(32度06分31秒)と一致し、
会稽山は、北緯35度34分27秒で出雲大社(北緯35度24分07秒)とほぼ同緯度。
-
Re: 千余里
秦野北斗さんへのお返事です。
>
> 案山子説には無理がある。
>
> 韓半島には馬韓があるが、以下の文章の説明ができますか。
>
> 案山子説で地図をかくと添付になる。倭国も馬韓に含まれる、ありえない。
>
> 『後漢書』馬韓伝
>
> 韓有三種:一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁辰。・・・・
>?? 地合方四千餘里、
「地合方四千餘里」の面積は一辺が四千里ではありません。
「地合方四千餘里」とは、縦・横一里の正方形、4000個に相当する面積です。
ですから、「地合方四千餘里」を平方キロに換算すると、
1800尺×24cmの二乗で0.432km×0.42km×4000=746.496平方キロ
に、成ります。
-
お願い
秦野北斗さん
恐れい入りますが、
台湾から北緯39度までを時計方向に90度反転させた地図をUPして頂けるとありがたいのですが。
宜しくお願い致します。
-
Re: 千余里
管理人さんへのお返事です。
> 同じく楯築の弧帯文石あたりとともに、台湾ルートでの邪馬台国への文化・測量技術の伝来も、最近考えはじめているところです。
>
翰苑 卷第卅 蕃夷部 より 倭國
「魏略曰 女王之南 又有狗奴國 女男子爲王 其官曰拘右智卑狗 不属女王也 自帯方至女國 万二千餘里 」
の「自帯方至女國」の起点は「帯方」ですね。
「帯方」から大陸へ、大陸から台湾そして女國=倭国ですね。
「自帯方至女國」という記述は韓国を経由していません。
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Re: お願い
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000099M.jpg
案山子さんへのお返事です。
> 台湾から北緯39度までを時計方向に90度反転させた地図をUPして頂けるとありがたいのですが。
>
> 宜しくお願い致します。
>
>
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Re: 千余里
案山子さんへのお返事です。
自帯方至女國」帯方から女國に至る。万二千餘里。これはもろに韓国です。
帯方郡から倭国に至るには水行で海岸を循って韓国を経て南へ、東へ、7000余里で倭国の北岸の狗邪韓国(くやかんこく)に到着する(「従郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國七千餘里」)。
>??翰苑 卷第卅 蕃夷部 より 倭國
>
> 「魏略曰 女王之南 又有狗奴國 女男子爲王 其官曰拘右智卑狗 不属女王也 自帯方至女國 万二千餘里 」
>
> の「自帯方至女國」の起点は「帯方」ですね。
> 「帯方」から大陸へ、大陸から台湾そして女國=倭国ですね。
> 「自帯方至女國」という記述は韓国を経由していません。
>
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Re: 千余里
案山子さん、秦野さん
さっそくお返事ありがとうございます。
> 翰苑 卷第卅 蕃夷部 より 倭國
>
> 「魏略曰 女王之南 又有狗奴國 女男子爲王 其官曰拘右智卑狗 不属女王也 自帯方至女國 万二千餘里 」
>
この唐代の文書はおもしろいですね。「拘右智卑狗」と記しており、「ククチヒコ」ではなく「キユウチヒコ」と読ませていることがわかります。「ク」ではなく「キュウ」なんですね。この差は個人的に大きな意味を感じてます。
「女男子爲王」とあるのも、魏志の「男王ヒミクコ」だけの記載から進化しており、魏志と別の文献があったのではないかと感じます。
先日の文献『隋書』倭国伝で、女王国だけではなく、属国である30余国の「諸王」も、それぞれ王を自称しているとの記載も、魏志から「進化」しているケースでした。
魏の時代も、女王ヒミコが死んだのちに、イヨが就くまでの間、一時諸国がバラバラになっていた時代があり、あるいはこの時代に諸王が、女王国同様に魏に同時に朝貢等をした可能性もあるでしょうし、その記載がどこか魏志以外の文献にあった可能性も感じます。
当然、狗奴国も、どこかに朝貢したかもしれませんし、王の変遷もあったかもしれません。狗奴国がイヨの時代以降もなおまだ存在し続けた可能性も感じますよね。
また、90度反転させて図を見ると、いろいろ考えさせられます。
呉から倭に向かおうとするならば、確かに朝鮮半島よりも、台湾、琉球経由で行こうとするだろうこともよくわかりますし、DNAの流れがそれを裏付けているようです。
あと楯築古墳の石柱の件は、問題は墳丘の上にあることなんですね。そばだったなら私も縄文ストーンサークルで処理したんですけどね・・。
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案山子説の邪馬台国は平泉
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000102M.jpg
案山子さんへのお返事です。
どうも、理解できない。対馬国と馬韓を比較すると対馬国は馬韓の2倍になる。
案山子説には矛盾が多すぎる。ところで、洛陽ルートの朝貢は壱輿だと記憶します。
卑弥呼は帯方郡までの記録です。魏志は帯方郡を基点にしているので、案山子説の
邪馬台国は平泉になる。当時、常陸以北は倭国に属していないので、候補外になる。
「對海【馬】國」は、現沖縄本島・糸満から沖永良部島迄ということになります。
沖縄本島に1492.907平方キロの円
「方可四百里」は面積を記述したものではありません。
對海【馬】國の差し渡し距離です。
四百里は≒432km×0.4=172.8kmになります。
韓半島には馬韓
「地合方四千餘里」の面積は一辺が四千里ではありません。
「地合方四千餘里」とは、縦・横一里の正方形、4000個に相当する面積です。
ですから、「地合方四千餘里」を平方キロに換算すると、
1800尺×24cmの二乗で0.432km×0.42km×4000=746.496平方キロ
に、成ります。
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Re: 千余里
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000103M.jpg
管理人さんへのお返事です。
専門家は古代の遺物を見て、FS小説に負けない創造をする。しかし、お粗末な者が多い。
台湾、琉球経由は古代、紀元前に大きなもので3回有った。縄文ストーンサークルも説明できるが後日にしたい。案山子説の問題点は、魏志倭人伝の邪馬台国への行程は2世紀なので、航路、道程を考えると、存在しない。この際、岩手県も登録したら。
秦野著書、徐福と邪馬台国の邪馬台国が平泉とよく似ているです。片田舎状態まさに夏草や兵どもが夢の跡 (なつくさや つわものどもが ゆめのあと)なんです。帯方群、伊都国、倭奴国・・同様。
芭蕉の碑がまるでストーンサークルです。案山子説もわるくないな。
誰も場所、地名と卑弥呼は誰かを特定していない。しかし、秦野は邪馬台国、墓を見ることができたので幸せかもしれない。以下、歴史の放浪者。
(比定地)福岡県(提唱者)新井白石(場所・地名)山門郡(卑弥呼?)神功皇后(著書)外国之事調書
(比定地)福岡県(提唱者)星野悟(場所・地名)山門郡(卑弥呼?)田油津媛の先代(著書)日本国号考
(比定地)福岡県(提唱者)久米邦武(場所・地名)博多(卑弥呼?)筑紫国造(著書)住吉社は委奴の祖神
(比定地)福岡県(提唱者)橋本増吉(場所・地名)山門郡(卑弥呼?)一女酋(著書)邪馬台国及び卑弥呼に就いて
(比定地)福岡県(提唱者)津田左右吉(場所・地名)山門郡(卑弥呼?)一女酋(著書)邪馬台国の位置について
(比定地)福岡県(提唱者)井上光貞(場所・地名)九州北部(卑弥呼?)天照大神(著書)日本の歴史
(比定地)福岡県(提唱者)和辻哲朗(場所・地名)九州北部(卑弥呼?)天照大神(著書)日本古代文化
(比定地)福岡県(提唱者)植村清二(場所・地名)久留米市・三井郡(卑弥呼?)(著書)邪馬台国・狗奴国・投馬国
(比定地)福岡県(提唱者)榎一雄(場所・地名)山門郡(卑弥呼?)(著書)魏志倭人伝の里程記事について
(比定地)福岡県(提唱者)牧健二(場所・地名)山門郡(卑弥呼?)(著書)邪馬台国問題の解決のために
(比定地)福岡県(提唱者)喜田貞吉(場所・地名)山門郡(卑弥呼?)大和朝廷配下の九州の王(著書)
(比定地)福岡県(提唱者)藤間生大(場所・地名)北九州(卑弥呼?)(著書)埋もれた金印
(比定地)福岡県(提唱者)阿部秀雄(場所・地名)筑後川流域(卑弥呼?)(著書)
(比定地)福岡県(提唱者)重松明久(場所・地名)京都郡(卑弥呼?)(著書)邪馬台国の研究
(比定地)福岡県(提唱者)坂田隆(場所・地名)田川市・京都郡(卑弥呼?)(著書)邪馬一国の歴史
(比定地)福岡県(提唱者)実吉達郎(場所・地名)九州北部(卑弥呼?)(著書)動物から推理する邪馬台国
(比定地)福岡県(提唱者)大林太良(場所・地名)北九州沿岸(卑弥呼?)シャーマン(著書)邪馬台国
(比定地)福岡県(提唱者)木村俊夫(場所・地名)甘木市(卑弥呼?)(著書)邪馬一国とその周辺
(比定地)福岡県(提唱者)中堂観恵(場所・地名)八女郡(卑弥呼?)日の御子(著書)邪馬台国
(比定地)福岡県(提唱者)中島河太郎(場所・地名)北九州(卑弥呼?)巫女(著書)女王国探検
(比定地)福岡県(提唱者)田中卓(場所・地名)山門郡(卑弥呼?)(著書)海に書かれた邪馬台国
(比定地)福岡県(提唱者)大谷光男(場所・地名)北九州(卑弥呼?)シャーマン(著書)研究史金印
(比定地)福岡県(提唱者)森浩一(場所・地名)北部九州(卑弥呼?)豪族(著書)日本の古代文化
(比定地)福岡県(提唱者)松本清張(場所・地名)博多一帯(卑弥呼?)巫女(著書)古代史疑
(比定地)福岡県(提唱者)安本美典(場所・地名)甘木市・朝倉郡(卑弥呼?)天照大神(著書)邪馬台国への道
(比定地)福岡県(提唱者)村山義男(場所・地名)甘木市(卑弥呼?)天照大神(著書)邪馬台国と金印
(比定地)福岡県(提唱者)古田武彦(場所・地名)福岡市(卑弥呼?)(著書)邪馬台国はなかった
(比定地)福岡県(提唱者)奥野正男(場所・地名)博多・吉野ヶ里(卑弥呼?)(著書)吉野ヶ里遺跡の謎
(比定地)福岡県(提唱者)(場所・地名)甘木朝倉に及ぶ(卑弥呼?)(著書)
(比定地)福岡県(提唱者)松田正一(場所・地名)太宰府市近辺(卑弥呼?)(著書)まぼろしではない邪馬台国
(比定地)福岡県(提唱者)川野京輔(場所・地名)北九州(卑弥呼?)シャーマン(著書)邪馬台と出雲
(比定地)福岡県(提唱者)山村正夫(場所・地名)筑後川流域(卑弥呼?)女酋巫女(著書)日本のクイレオパトラ
(比定地)福岡県(提唱者)日影丈吉(場所・地名)(卑弥呼?)巫女(著書)女王国の展望
(比定地)福岡県(提唱者)高倉盛雄(場所・地名)朝倉郡(卑弥呼?)(著書)邪馬台国は筑紫にあった
(比定地)福岡県(提唱者)佐治芳彦(場所・地名)(卑弥呼?)(著書)邪馬一国抹殺の謎
(比定地)福岡県(提唱者)村山健治(場所・地名)山門郡(卑弥呼?)教祖族長(著書)誰にも書けなかった
(比定地)福岡県(提唱者)(場所・地名)(卑弥呼?)(著書)邪馬台国
(比定地)福岡県(提唱者)鯨清(場所・地名)北九州(卑弥呼?)天照大神(著書)卑弥呼は天照大神である
(比定地)福岡県(提唱者)吉田修(場所・地名)山門郡(卑弥呼?)シャーマン(著書)邪馬台国の終焉と復活
(比定地)福岡県(提唱者)佐藤鉄章(場所・地名)太宰府(卑弥呼?)(著書)隠された邪馬台国
(比定地)佐賀県(提唱者)藤沢偉作(場所・地名)筑紫平野(卑弥呼?)(著書)邪馬台国は沈まず
(比定地)熊本県(提唱者)白鳥庫吉(場所・地名)菊池郡山門(卑弥呼?)(著書)
(比定地)熊本県(提唱者)近藤芳樹(場所・地名)菊池郡山門(卑弥呼?)九州の一豪族(著書)征韓起源
(比定地)熊本県(提唱者)藤井甚太郎(場所・地名)阿蘇郡(卑弥呼?)神功皇后(著書)邪馬台国の所在に就いて
(比定地)熊本県(提唱者)藤芳義男(場所・地名)阿蘇郡蘇陽町(卑弥呼?)百襲姫(著書)倭日の国
(比定地)熊本県(提唱者)古屋清(場所・地名)玉名郡江田村(卑弥呼?)神功皇后(著書)江田村の古墳
(比定地)熊本県(提唱者)安藤正直(場所・地名)下益城郡佐俣町(卑弥呼?)(著書)邪馬台は福岡県山門郡
(比定地)熊本県(提唱者)(場所・地名)(卑弥呼?)(著書)に非ず
(比定地)熊本県(提唱者)工藤篁(場所・地名)人吉市(卑弥呼?)?(著書)
(比定地)熊本県(提唱者)鈴木武樹(場所・地名)山鹿市(卑弥呼?)(著書)日本古代史99の謎
(比定地)熊本県(提唱者)李鉦埼(場所・地名)八代市(卑弥呼?)インドの王女(著書)Time of India
(比定地)熊本県(提唱者)(場所・地名)(卑弥呼?)(著書)卑弥呼渡来の謎
(比定地)熊本県(提唱者)黛弘道(場所・地名)山門郡 (卑弥呼?)(著書)
(比定地)熊本県(提唱者)石崎景三(場所・地名)東九州(卑弥呼?)(著書)鉄剣と鏡が語る
(比定地)熊本県(提唱者)(場所・地名)(卑弥呼?)(著書)邪馬台国
(比定地)熊本県(提唱者)岩下徳蔵(場所・地名)菊池川流域(卑弥呼?)豪族の娘(著書)稲の道の果てに
(比定地)熊本県(提唱者)(場所・地名)(卑弥呼?)(著書)邪馬台国はあった
(比定地)大分県(提唱者)大羽弘道(場所・地名)周防灘沖合海中(卑弥呼?)(著書)邪馬台国は沈んだ
(比定地)大分県(提唱者)(場所・地名)(知珂島)(卑弥呼?)(著書)
(比定地)大分県(提唱者)山本武雄(場所・地名)別府湾岸(卑弥呼?)(著書)邪馬台国の地理像
(比定地)大分県(提唱者)富来隆(場所・地名)宇佐市(卑弥呼?)神功皇后(著書)魏志「邪馬台」の位置に
(比定地)大分県(提唱者)(場所・地名)(卑弥呼?)(著書)関する考察
(比定地)大分県(提唱者)久保泉(場所・地名)宇佐市(卑弥呼?)神功皇后(著書)邪馬台国の所在とゆくえ
(比定地)大分県(提唱者)高木淋光(場所・地名)宇佐市(卑弥呼?)神功皇后(著書)
(比定地)大分県(提唱者)伊勢久信(場所・地名)宇佐市(卑弥呼?)神功皇后(著書)
(比定地)大分県(提唱者)安藤輝国(場所・地名)宇佐市(卑弥呼?)応神天皇一族(著書)邪馬台国と豊王国
(比定地)大分県(提唱者)横堀貞次郎(場所・地名)中津市(卑弥呼?)(著書)
(比定地)大分県(提唱者)神西秀憲(場所・地名)宇佐神宮領地内(卑弥呼?)(著書)伝説で解く邪馬台国
(比定地)大分県(提唱者)市村其三郎(場所・地名)宇佐市(卑弥呼?)?(著書)
(比定地)大分県(提唱者)高橋ちえこ(場所・地名)宇佐市(卑弥呼?)巫女(著書)深き誓いの邪馬台国
(比定地)大分県(提唱者)平塚弘之(場所・地名)宇佐市(卑弥呼?)(著書)邪馬台国への行程
(比定地)長崎県(提唱者)宮崎康平(場所・地名)島原半島(卑弥呼?)(著書)まぼろしの邪馬台国
(比定地)長崎県(提唱者)野津清(場所・地名)東彼杵郡(卑弥呼?)(著書)邪馬台国ここに在り
(比定地)長崎県(提唱者)恋塚春男(場所・地名)佐世保市(卑弥呼?)(著書)真説邪馬台国
(比定地)長崎県(提唱者)鈴木勇(場所・地名)大村湾東岸(卑弥呼?)天照大神(著書)邪馬台国は大村だった
(比定地)宮崎県(提唱者)林屋友次郎(場所・地名)日向地方(卑弥呼?)(著書)天皇制の歴史的根拠
(比定地)宮崎県(提唱者)小田洋(場所・地名)延岡市構口(卑弥呼?)(著書)邪馬台末廬(席田郡)説
(比定地)宮崎県(提唱者)尾崎雄二郎(場所・地名)日向(卑弥呼?)(著書)
(比定地)宮崎県(提唱者)高津道昭(場所・地名)霧島山周辺(卑弥呼?)巫女(著書)邪馬台国に雪は降らない
(比定地)宮崎県(提唱者)清水正紀(場所・地名)西都原(卑弥呼?)天照大神(著書)新説邪馬台国
(比定地)宮崎県(提唱者)原田常治(場所・地名)西都市(卑弥呼?)天照大神(著書)古代日本正史
(比定地)鹿児島県(提唱者)本居宣長(場所・地名)九州南部(卑弥呼?)熊襲の女首長(著書)馬戎慨言
(比定地)鹿児島県(提唱者)鶴峰戊申(場所・地名)薩摩国・大隅国(卑弥呼?)熊襲の女首長(著書)襲国偽偕考
(比定地)鹿児島県(提唱者)吉田東伍(場所・地名)薩摩国・そお(卑弥呼?)(著書)
(比定地)鹿児島県(提唱者)那珂通世(場所・地名)大隅国姫木(卑弥呼?)(著書)
(比定地)鹿児島県(提唱者)加治木義博(場所・地名)鹿児島(卑弥呼?)(著書)異説・日本古代国家
(比定地)鹿児島県(提唱者)王仲殊(場所・地名)(卑弥呼?)(著書)日本の三角縁神獣鏡について
(比定地)鹿児島県(提唱者)(場所・地名)(卑弥呼?)(著書)
(比定地)鹿児島県(提唱者)(場所・地名)(卑弥呼?)(著書)
(比定地)鹿児島県(提唱者)提唱者(場所・地名)場所・地名(卑弥呼?)卑弥呼は誰?(著書)著書・論文
(比定地)鹿児島県(提唱者)(場所・地名)(卑弥呼?)(著書)
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)舎人親王(場所・地名)大和国(奈良県)(卑弥呼?)神功皇后(著書)日本書紀
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)松下見林(場所・地名)(卑弥呼?)神功皇后(著書)異称日本伝
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)伴信友(場所・地名)(卑弥呼?)神功皇后(著書)中外経緯伝草稿
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)内藤虎次郎(場所・地名)(卑弥呼?)倭姫命(著書)卑弥呼考
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)稲葉岩吉(場所・地名)(卑弥呼?)(著書)漢委奴国王印考
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)高橋健二(場所・地名)(卑弥呼?)神功皇后(著書)考古学上より見たる
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)(場所・地名)(卑弥呼?)(著書)邪馬台国
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)末松保和(場所・地名)(卑弥呼?)(著書)倭国に関する魏志
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)中山平次郎(場所・地名)(卑弥呼?)(著書)邪馬台国及奴国
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)(場所・地名)(卑弥呼?)(著書)に関して
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)梅原末治(場所・地名)(卑弥呼?)(著書)考古学上より見たる
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)(場所・地名)(卑弥呼?)(著書)上代の近畿
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)三宅米吉(場所・地名)(卑弥呼?)(著書)邪馬台国について
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)山田孝雄(場所・地名)(卑弥呼?)(著書)狗奴国考
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)藤田元春(場所・地名)(卑弥呼?)倭百日日倭姫命(著書)漢委奴国考
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)鈴木俊(場所・地名)(卑弥呼?)(著書)倭人伝の史料的研究
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)笠井新也(場所・地名)近畿内(卑弥呼?)倭百日百襲姫(著書)邪馬台国は大和である
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)橘良平(場所・地名)(卑弥呼?)倭彦命(著書)
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)志田不動麿(場所・地名)大和国(奈良県)(卑弥呼?)神功皇后(著書)
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)上田正昭(場所・地名)(卑弥呼?)(著書)日本古代国家成立史の研究
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)直木考次郎(場所・地名)(卑弥呼?)(著書)国家の発生
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)原田大六(場所・地名)畿内(卑弥呼?)倭百日百襲姫(著書)邪馬台国論争
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)田辺昭三(場所・地名)大和(卑弥呼?)(著書)謎の女王卑弥呼
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)由良哲次(場所・地名)大和(卑弥呼?)(著書)邪馬台国と大和
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)山尾幸久(場所・地名)大和 (卑弥呼?)(著書)日本古代王権の成立過程について
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)小林行雄(場所・地名)大和 (卑弥呼?)(著書)古墳の発生の歴史的意義
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)樋口隆康(場所・地名)(卑弥呼?)(著書)邪馬台国問題
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)岡崎敬(場所・地名)(卑弥呼?)(著書)邪馬台国問題
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)浜田敦(場所・地名)(卑弥呼?)(著書)魏志倭人伝などに・・
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)和歌森太郎(場所・地名)(卑弥呼?)倭百日日百襲姫 (著書)私観邪馬台国
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)肥後和男(場所・地名)大和三輪山麓(卑弥呼?)倭百日日百襲姫(著書)邪馬台国は大和である
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)三品彰英(場所・地名)(卑弥呼?)(著書)邪馬台の位置
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)大庭脩(場所・地名)(卑弥呼?)(著書)親魏倭王
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)鳥越憲三郎(場所・地名)大和郡山(卑弥呼?)物部氏一族(著書)古事記は偽書か
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)新妻利久(場所・地名)飛鳥(卑弥呼?)神功皇后(著書)やまと邪馬台国
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)佐原真(場所・地名)(卑弥呼?)(著書)
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)坂田隆(場所・地名)(卑弥呼?)倭姫命(著書)卑弥呼をコンピュータで探る
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)田口賢三(場所・地名)大和(卑弥呼?)神功皇后(著書)邪馬台国の誕生
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)青木慶一(場所・地名)大和(卑弥呼?)倭百日日百襲姫(著書)邪馬台の美姫
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)山口修(場所・地名)(卑弥呼?)(著書)ふたつの邪馬台国
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)西嶋定生(場所・地名)(卑弥呼?)(著書)
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)謝銘仁(場所・地名)(卑弥呼?)(著書)
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)(場所・地名)(卑弥呼?)(著書)
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)(場所・地名)(卑弥呼?)(著書)
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)提唱者(場所・地名)場所・地名(卑弥呼?)卑弥呼は誰?(著書)著書・論文
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)(場所・地名)(卑弥呼?)(著書)
(比定地)滋賀県(提唱者)小島信一(場所・地名)滋賀県琵琶湖畔(卑弥呼?)神功皇后(著書)女王国家
(比定地)京都府(提唱者)江戸達郎(場所・地名)京都府京都市(卑弥呼?)神功皇后(著書)京都新聞紙上
(比定地)徳島県(提唱者)古代阿波研究会(場所・地名)阿波国(徳島県)(卑弥呼?)神功皇后(著書)邪馬壱国は阿波だった
(比定地)和歌山県(提唱者)立岩巌(場所・地名)吉野から紀州一帯(卑弥呼?)(著書)邪馬台国新考
(比定地)山梨県(提唱者)奥平里義(場所・地名)山梨県逸見高原(卑弥呼?)(著書)新日本誕生記
(比定地)エジプト(提唱者)木村鷹太郎(場所・地名)エジプト(卑弥呼?)(著書)日本太古小史
(比定地)ジャワ・スマトラ(提唱者)内田吟風(場所・地名)インドネシア(卑弥呼?)神功皇后(著書)朝日新聞紙上
(比定地)北九州と大和(提唱者)海渡英祐(場所・地名)畿内(卑弥呼?)(著書)二つの邪馬台国
(比定地)四国松山(提唱者)浜田秀雄(場所・地名)愛媛県(卑弥呼?)(著書)切丹秘史と瀬戸内の
(比定地)四国松山(提唱者)(場所・地名)(卑弥呼?)(著書)邪馬台国
(比定地)長野県(提唱者)武智鉄二(場所・地名)諏訪地方(卑弥呼?)南シベリア族の女王(著書)月刊歴史と旅
(比定地)愛媛県(提唱者)大森忠夫(場所・地名)愛媛県川之江市一帯(卑弥呼?)(著書)邪馬台国伊予説
(比定地)大阪府(提唱者)大熊規短男(場所・地名)大阪市(卑弥呼?)(著書)神社考古学
(比定地)大阪府(提唱者)泉隆弐(場所・地名)難波(卑弥呼?)(著書)邪馬台国の原点倭
(比定地)石川県(提唱者)能坂利雄(場所・地名)羽昨市(卑弥呼?)能登ヒメ (著書)
(比定地)滋賀県(提唱者)大内規夫(場所・地名)野洲市(卑弥呼?)天照大神(著書)
(比定地)総国(上総・安房)(提唱者)鈴木正知(場所・地名)千葉県(卑弥呼?)巫女(著書)邪馬台国に謎はない
(比定地)千葉県(提唱者)伊藤邦之(場所・地名)我孫子市布佐(卑弥呼?)(著書)邪馬壱国
> 呉から倭に向かおうとするならば、確かに朝鮮半島よりも、台湾、琉球経由で行こうとするだろうこともよくわかりますし、DNAの流れがそれを裏付けているようです。
>
> あと楯築古墳の石柱の件は、問題は墳丘の上にあることなんですね。そばだったなら私も縄文ストーンサークルで処理したんですけどね・・。
-
Re: お願い
秦野北斗さんへのお返事です。
>
> > 台湾から北緯39度までを時計方向に90度反転させた地図をUPして頂けるとありがたいのですが。
>
折角地図をUpして頂いたのですが、
残念ながら、「反時計方向に90度」のちずですた。
-
Re: 千余里
秦野北斗さんへのお返事です。
> 自帯方至女國」帯方から女國に至る。万二千餘里。これはもろに韓国です。
>
「自」は一般的には『・・・・より』と翻訳され起点を意味すると言われています。
起点とすることは問題ありませんが『・・・・より』という解釈には問題があります。
清代段玉裁『?文解字注』に
鼻也。象鼻形。此以鼻訓自。而又曰象鼻形。王部曰。自讀若鼻。今俗以作始生子爲鼻子是。
とあるように、
数人の子が有り、『始生子』が『鼻子』で「自」に当たる。
幾つかの「郡」が有ってその最初の「郡」が「自郡」。
又「自郡」と記述する時その視点は国都である。
「自帯方郡」と記述する時、視点は「帯方」で「起点も帯方」です。
その「視点、起点である帯方」から幾つかの「郡」通過して「女国」に至るを、
「自帯方至女國」と記述されれる。
「帯方」から「韓国」方向への「郡」は存在しませんから、必然的に行程方向は大陸へ向かう。
> 帯方郡から倭国に至るには水行で海岸を循って韓国を経て南へ、東へ、7000余里で倭国の北岸の狗邪韓国(くやかんこく)に到着する(「従郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國七千餘里」)。
は、
魏志であり魏略の原文ではありません。また、魏志の原文は、
「自郡至女王國萬二千余里」で、『帯方』との記述はありません。
「自女王國」と「女王國」も同じ様に峻別して解釈しなければなりません。
「自女王國」が「對海【馬】國」ですから「女王國」との記述は邪馬壹【臺】國と同義です。
-
Re: 案山子説の邪馬台国は平泉
秦野北斗さんへのお返事です。
>どうも、理解できない。対馬国と馬韓を比較すると対馬国は馬韓の2倍になる。
>
魏志には「對海【馬】國」の地積記述は有りません。「方可四百余里」は「對海【馬】國」の差し渡し距離です。
「對海【馬】國」の地積記述が有りませんから馬韓との地積比較は不可能です。
> 魏志は帯方郡を基点にしているので、案山子説の
>邪馬台国は平泉になる。当時、常陸以北は倭国に属していないので、候補外になる。
>
案山子は、平泉を邪馬壹【臺】國に比定したことはありません。平泉は女王国と男王国の境界とおいています。
-
Re: 千余里
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000107M.jpg
案山子さんへのお返事です。
案山子さんの中国語の解釈には相当な問題をかかえています。
皇、大也、従自王、自、始也、始王者三皇、大君也、自讀若鼻、今俗以始生子為鼻子是
(皇、大也、自・王に従ふ、自は始也、始めて王たりし者は三皇なり、大いなる君也、自は讀みて鼻の若くす、今の俗に始めて生まるる子を以て鼻子と為すは是れなり)。
> 清代段玉裁『?文解字注』に
> 鼻也。象鼻形。此以鼻訓自。而又曰象鼻形。王部曰。自讀若鼻。今俗以作始生子爲鼻子是。
> とあるように、
> 数人の子が有り、『始生子』が『鼻子』で「自」に当たる。
> 幾つかの「郡」が有ってその最初の「郡」が「自郡」。
> 又「自郡」と記述する時その視点は国都である。
> 「自帯方郡」と記述する時、視点は「帯方」で「起点も帯方」です。
> その「視点、起点である帯方」から幾つかの「郡」通過して「女国」に至るを、
> 「自帯方至女國」と記述されれる。
> 「帯方」から「韓国」方向への「郡」は存在しませんから、必然的に行程方向は大陸へ向かう。
『始生子』が『鼻子』で「自」に当たる。間違い、「自讀」がセットで「自」接尾辞で「自讀」は自から読む
「自帯方至女國」の「自」は介詞、帯方から・・になる。
自の品詞
副詞
みずから、おのずから。
介詞
(文語 移動の起点)〜から、〜より。
(文語 時間の起点)〜から、〜より。
从/從
対語
至:〜まで
接尾辞
(動詞に前置し「自ら〜する」の意の動詞を形成)
動詞の前
抗議電話自全国紛紛打来。(抗議の電話が全国からかかってくる。)
本航班自北京飛往東京羽田机場。(本機は北京より東京羽田空港へ向かいます。)
動詞の後
来自農村的青少年。(農村より来た青少年。)
“自……而……”
自上而下(上から下へ)
自左而右(左から右へ)
自遠而近(遠くから近くへ)
……から/……より
自入冬以来,我総是咳嗽。(冬になってから,わたしはずっと咳き込んでいる。)
今天是自入夏以来最熱的一天。(今日は夏になってから最も暑い日である。)
自古以来,女人的敵人就是女人。(昔から、女性の敵は女性である。)
自明日起実施執行新規定。(明日より新規定を実施執行する。)
> 清代段玉裁『?文解字注』に
> 鼻也。象鼻形。此以鼻訓自。而又曰象鼻形。王部曰。自讀若鼻。今俗以作始生子爲鼻子是。
> とあるように、
> 数人の子が有り、『始生子』が『鼻子』で「自」に当たる。
> 幾つかの「郡」が有ってその最初の「郡」が「自郡」。
> 又「自郡」と記述する時その視点は国都である。
> 「自帯方郡」と記述する時、視点は「帯方」で「起点も帯方」です。
> その「視点、起点である帯方」から幾つかの「郡」通過して「女国」に至るを、
> 「自帯方至女國」と記述されれる。
> 「帯方」から「韓国」方向への「郡」は存在しませんから、必然的に行程方向は大陸へ向かう。
案山子さんへのお返事です。
> > > 台湾から北緯39度までを時計方向に90度反転させた地図をUPして頂けるとありがたいのですが。
> >
>
> 折角地図をUpして頂いたのですが、
> 残念ながら、「反時計方向に90度」のちずですた。
-
Re: 千余里
管理人さんへのお返事です。
>
> 当然、狗奴国も、どこかに朝貢したかもしれませんし、王の変遷もあったかもしれません。狗奴国がイヨの時代以降もなおまだ存在し続けた可能性も感じますよね。
>
後漢書の
「去其西北界拘邪韓國七千餘里」
「自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種 而不屬女王」
「拘」を追求する必要がる。
魏志の「狗邪韓國」と後漢書の「拘邪韓國」
違いを明確にする事と、
魏志の
「女王國東渡海千余里復有國皆倭種」
の「復有國皆倭種」と後漢書の
「拘奴國 」の「倭種」の相違と二国のロケーションを明確にする事。
> また、90度反転させて図を見ると、いろいろ考えさせられます。
>
> 呉から倭に向かおうとするならば、確かに朝鮮半島よりも、台湾、琉球経由で行こうとするだろうこともよくわかりますし、DNAの流れがそれを裏付けているようです。
>
台湾ルートは公孫氏の時代並びに魏の時勢は封鎖されていたのです。
その検閲にあたっていたのが魏志の一大卒です。
魏志の狗邪韓國は八重山諸島と台湾ですで、
「自女王國以北其戸道里可数得略載」の「次有斯馬國」から「次奴國」の21カ国です。
-
Re: 千余里
案山子さんへのお返事です。
さっそくお返事ありがとうございます。
> 後漢書の
> 「去其西北界拘邪韓國七千餘里」
> 「自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種 而不屬女王」
> 「拘」を追求する必要がる。
>
> 魏志の「狗邪韓國」と後漢書の「拘邪韓國」
> 違いを明確にする事と、
> 魏志の
> 「女王國東渡海千余里復有國皆倭種」
> の「復有國皆倭種」と後漢書の
> 「拘奴國 」の「倭種」の相違と二国のロケーションを明確にする事。
狗の音については、私も狗邪韓国と狗奴国との間に類似性を感じてますが、ただ他の諸国で狗の語を持つ国もあるようで、その辺との兼ね合いが課題かもしれません。下記に魏志韓伝に記された諸国を列記しておきます。ご参照ください。
●馬韓
爰襄国、牟水国、桑外国、小石索国、大石索国、優休牟涿国、臣濆沽国、伯濟国、速盧不斯国、日華国、古誕者国、古離国、怒藍国、月支国、咨離牟盧国、素謂乾国、古爰国、莫盧国、卑離国、占卑国、臣釁国、支侵国、狗盧国、卑彌国、監奚卑離国、古蒲国、致利鞠国、冉路国、兒林国、駟盧国、内卑離国、感奚国、萬盧国、辟卑離国、臼斯烏旦国、一離国、不彌国、支半国、狗素国、捷盧国、牟盧卑離国、臣蘇塗国、莫盧国、古臘国、臨素半国、臣雲新国、如來卑離国、楚山塗卑離国、一難国、狗奚国、不雲国、不斯濆邪国、爰池国、乾馬国、楚離国、おおよそ五十余国が在る。
●弁辰韓
弁辰もまた十二国、また諸々の小さな別邑があり、各自に渠帥(首領)がおり、大首領は臣智と言い、その次に險側、次に樊濊、次に殺奚、次に邑借がいる。
(弁辰には)彌離彌凍国、接塗国、古資彌凍国、古淳是国、半路国、樂奴国、彌烏邪馬国、甘路国、狗邪国、走漕馬国、安邪国(馬延国)、瀆盧国がある。
(辰韓には)已柢国、不斯国、勤耆国、難彌離彌凍国、冉奚国、軍彌国(弁軍彌国)、如湛国、戸路国、州鮮国(馬延国)、斯盧国、優由国がある。
●州胡国条
馬韓の西、海上の島に州胡国がある。その族人は背が低く小さく、髪がなく、衣服は毛皮で、上着はあるが下穿きはない。巧みに牛や豚を飼育する。船で往来し、韓で交易する。
引用: http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/bakan-kanbun1-gisi.htm
一応通説では、弁辰条の狗邪国が狗邪韓国とされてますね。
馬韓伝にも狗盧国、狗奚国が見えます。
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魏志の倭韓国名の共通性
下記の馬韓・弁辰伝についての追記ですが、やはり倭国の領域に近づくと国名も類似してくるようです。
下記に抽出した国名が特に倭の30国の国名や官職名と、語的な共通性があります。
具体的には「狗」「卑(離)」「一」「邪」「馬」「奴」「盧」「邪馬」「不彌」といったあたりです。
●馬韓
狗盧国、卑彌国、監奚卑離国、辟卑離国、一離国、不彌国、狗素国、捷盧国、牟盧卑離国、莫盧国、如來卑離国、楚山塗卑離国、一難国、狗奚国、不斯濆邪国、乾馬国、楚離国、
●弁辰韓
(弁辰)樂奴国、彌烏邪馬国、狗邪国、走漕馬国、安邪国(馬延国)、瀆盧国がある。
(辰韓)軍彌国(弁軍彌国斯盧国)
これらの倭国30国名との共通性は、馬韓では国名順の後半にあたる(おそらく)南部、弁韓では全体的に見えます。
これらのことから、それらの地域が、奴国・邪馬台国と同系の文化圏にあったことがあきらかになるでしょう。同じ意味を持つ慣用句が国名になっている可能性もありますね。
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Re: 千余里
秦野北斗さんへのお返事です。
> > 折角地図をUpして頂いたのですが、
> > 残念ながら、「反時計方向に90度」のちずですた。
>
反転地図UPありがとうございます。
倭人伝には、
「始度一海千余里 至對海【馬】國」
「又南渡一海千余里名曰瀚海 至一大國」
「又渡一海千余里 至末廬國」
と、有ります。
つまり「其北岸狗邪韓國」から千余里(432km〜444km)の南下を三回繰り返しています。
「其北岸狗邪韓國」を現台湾・満州郷(北緯22度02分38秒)として
千余里(緯度的に4度、約444km)南下した地点は会稽東冶で現福州市(北緯26度04分28秒)、
その東は沖縄・糸満市(北緯26度07分25秒)、所謂、ここから差し渡し400里が對海【馬】國。
会稽東冶・現福州市(北緯26度04分28秒)から、千余里(緯度的に4度、約444km)南下した地点は会稽・現紹興市(北緯29度59分45秒)、
その東は口之島(北緯29度57分46秒)所謂此処から差し渡し300里が一大國。
一大國である口之島(北緯29度57分46秒)から、千余里(緯度的に4度、約444km)南下した地点は北緯34度の末廬國、
末廬國は北緯33度57分28秒に位置する下関市。
末廬國(下関市)から東南五百里(216km)に伊都国がある。
伊都国の位置は現出雲です。
「東南陸行五百里 到伊都國」
秦野北斗さんへのUPして下さった地図でその位置を追うと
上記の様になる。
陳寿は、日本列島を時計方向に90度反転させて記述している。
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Re: 千余里
管理人さんへのお返事です。
>
> > 後漢書の
> > 「去其西北界拘邪韓國七千餘里」
> > 「自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種 而不屬女王」
> > 「拘」を追求する必要がる。
>
後漢書の「拘邪韓國」は魏志倭人伝の「對海【馬】國」でにあたり、
後漢書の「拘奴國」は魏志倭人伝の「一大國」にあたる。
全て、「自」の正しい解釈による。
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このパズルは解けますか。
拘奴国の位置問題です。
1.魏志倭人伝では『女王国より、特に南の狗奴国の男王卑弥弓呼と不和で戦争状態にあった。』
1.『後漢書』倭人伝『女王国より東に海を渡ること千余里で拘奴国に至る。』
ヒントは拘奴国は女王国に属さない。
魏志倭人伝
女王国より北方にある、対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国の他に、遠くに在って国名だけしか分からない国として斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国があり、女王国はこれら20数カ国を支配していた。日本列島の全てを支配した訳ではなく連合領域外の国々もあり、『特に南の狗奴国の男王卑弥弓呼と不和で戦争状態にあった。』
『後漢書』倭人伝
倭在韓東南大海中、依山島為居、凡百餘國。自武帝滅朝鮮、使驛通於漢者三十許國、國皆稱王、世世傳統。其大倭王居邪馬臺國。樂浪郡徼去其國萬二千里、去其西北界拘邪韓國七千餘里。其地大較在會稽東冶之東、與朱崖、儋耳相近、故其法俗多同。
倭は韓の東南、大海中の山島に拠って暮らす。およそ百余国。前漢の武帝が朝鮮を滅ぼしてより、漢に使訳(使者と通訳)を通じてくるのは三十国ほど。国では皆が王を称することが代々の伝統である。そこの大倭王は邪馬臺国に居する。楽浪郡の境界から、その国までは一万二千里。その西北界の拘邪韓国から七千余里。その地は凡そ会稽郡東冶の東に在り、(海南島の)朱崖や儋耳と相似しており、その法俗も多くが同じである。
『自女王國東度海千餘里至拘奴國。』雖皆倭種、而不屬女王。自女王國南四千餘里至朱儒國、人長三四尺。自朱儒東南行船一年、至裸國、黒齒國、使驛所傳、極於此矣。
『女王国より東に海を渡ること千余里で拘奴国に至る。』いずれも倭種とはいえども女王には属していない。女王国より南に四千余里で朱儒国に至る。そこの人の身長は三〜四尺。朱儒より東南に航行すること一年で裸国と黒歯国に至る。使訳の伝える所はこれに尽きる。
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Re: 魏志の倭韓国名の共通性
管理人さんへのお返事です。
おっしゃる通り。中国史籍の文章に従います。
新羅=新盧は馬韓より別れた。また、秦からの亡命者を辰韓に住まわせた。・・
辰韓と倭国が接していた。状況証拠ですな。
●馬韓
狗盧国、狗素国、狗奚国、(弁辰韓)狗邪国、(倭国)狗奴国
捷盧国、莫盧国、(新羅)新盧、牟盧、(倭国)末盧国、楚一難国、不斯濆邪国、
(弁辰韓)安邪国、乾馬国、(弁辰韓)走漕馬国、(倭国)投馬国、
不彌国、卑彌国、(辰韓)軍彌国、(倭国)不弥国、
監奚卑離国、辟卑離国、山塗卑離国、如來卑離国、卑離国、
一離国、楚離国、
●弁辰韓
(弁辰)樂奴国、彌烏邪馬国、狗邪国、走漕馬国、安邪国(馬延国)、瀆盧国がある。
(辰韓)軍彌国(弁軍彌国斯盧国)
●倭国
対馬国、一大国、伊都国、奴国、邪馬台国、斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、
可能性もありますね。
東北の南部鉄瓶は辰韓の伝統を引継ぐみたいですよ。秦野の古代史から出てきた結果です。
> これらのことから、それらの地域が、奴国・邪馬台国と同系の文化圏にあったことがあきらかになるでしょう。同じ意味を持つ慣用句が国名になっている可能性もありますね。
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Re: このパズルは解けますか。
秦野北斗さんへのお返事です。
> 拘奴国の位置問題です。
>
> 1.魏志倭人伝では『女王国より、特に南の狗奴国の男王卑弥弓呼と不和で戦争状態にあった。』
>
> 1.『後漢書』倭人伝『女王国より東に海を渡ること千余里で拘奴国に至る。』
>
> ヒントは拘奴国は女王国に属さない。
これはかなり難問ですね・・・(^^ゞ
後漢書は、400年代のものですが、かなり後漢当時の文献を拾っているようです。
倭についての記載も、そこそこ信用できるだろうと感じます。後漢末の霊帝あたりまで編纂が続いていたようですし、東夷伝が記されたのも最後の最後ではないかと感じます。
狗奴国の位置が南と東で相違するのには驚きました。
漢代に女王国の東にあったものが、魏の時代に南になる・・・。
『後漢書』倭人伝
> 倭は韓の東南、大海中の山島に拠って暮らす。
そこの大倭王は邪馬臺国に居する。楽浪郡の境界から、その国までは一万二千里。その西北界の拘邪韓国から七千余里。その地は凡そ会稽郡東冶の東に在り、(海南島の)朱崖や儋耳と相似しており、その法俗も多くが同じである。
倭の西北界に狗邪韓国が来るのは、特に異論ない感じです。拘邪韓国は、すると倭の一部だったのでしょうか。翻訳の仕方が気になります。
狗邪韓国から7千里というのは面白いですね。楽浪から狗邪韓国までが5千里、そこから女王国までが7千里という計算ですね。だいたい楽浪境界から、狗邪韓国までの距離にプラスアルファくらいで、届くことになりますから、三千里を狗邪韓国からマツロ国・伊都国までの距離と換算すると、あと4千里南?にある計算でしょうか。西都原とか吉備あたり・・?
ところが、狗奴国の位置が変わってしまうのが不思議です。
海を渡って東千余里の同じ記載は魏志にもあるものの、狗奴国とは断定しなくなっているんですね。
魏志では南に変化させてしまっている・・・。
女王国の位置や狗奴国の位置が、時代によって変化移動したのか?あるいは方位の見方が変わったのか・・。
後漢書ですでに台湾の記載は別にあるので、これはこれでいいと思うんです。
> 『女王国より東に海を渡ること千余里で拘奴国に至る。』いずれも倭種とはいえども女王には属していない。女王国より南に四千余里で朱儒国に至る。そこの人の身長は三〜四尺。朱儒より東南に航行すること一年で裸国と黒歯国に至る。使訳の伝える所はこれに尽きる。
「使訳の伝える所」という記載がおもしろいですね。やはり後漢書のこれらの記載は、倭人からの又聞きの話です。水行・陸行の話が出てくるのは、魏の時代で、使者が現地に行った見聞録からでしょうね。
あと、倭奴国が、倭の極南界としているのも驚きです。魏志の記載ならば、奴国はその北にある国々の中で最北界?になってますから・・・。いずれにせよ、界の国が奴国であることには変わりません。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun2-gokan.htm
ちょっと頭をひねる必要がありそうですね。フロに入って考えて見ます。
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Re: このパズルは解けますか。
秦野北斗さんへのお返事です。
> 拘奴国の位置問題です。
>
> 1.魏志倭人伝では『女王国より、特に南の狗奴国の男王卑弥弓呼と不和で戦争状態にあった。』
>
> 1.『後漢書』倭人伝『女王国より東に海を渡ること千余里で拘奴国に至る。』
>
> ヒントは拘奴国は女王国に属さない。
>
1.志倭人伝ではの問題点。
「其南有狗奴國」の「其」とは
「自女王國以北」に在る「次有斯馬國〜 次有奴國 此女王境界所盡」ことです。此処で云う「自女王國」とは「對海【馬】國」で沖縄本島を刺します。
その「以北」は、「狗邪韓國」の領域である台湾・八重山諸島です。
秦野北斗さんにUPしていただいた。反転地図をみてください。
八重山諸島(「狗邪韓國」)の南に在るのは、先ず南千余里で「對海【馬】國」、更に千余里南で一大国、更に南で末盧国ですが、一大国の差し渡しは三百里ですから、
この行程地図では、九州が抜けている。つまり、「狗奴國」は九州です。
「邪馬壹【臺】國」・卑彌呼と「狗奴國」・卑弥弓呼が戦争状態にあったと云う解釈も事実無根でしょう。地理条件的にそのような状況を想定することに無理がある。
>1.『後漢書』の問題点。
「不屬女王」との記述は有っても「不屬女王国」という記述は有りません。
「狗奴國」は「女王國」内に在るが、「不屬女王」。
> 『後漢書』倭人伝
>
Ø「倭在韓東南大海中、依山島為居、凡百餘國。自武帝滅朝鮮、使驛通於漢者三十許國、國皆稱王、世世傳統。其大倭王居邪馬臺國。樂浪郡徼 去其國萬二千里、去其西北界拘邪韓國七千餘里。其地大較在會稽東冶之東」
「樂浪郡徼」の「徼」に起点の意はありません。
この起点は後漢の国都長安(一応)です。
「樂浪郡徼」は長安からどの方向へ向かったかの通過地点を示したものです。
長安⇒錦州市(1,323.391km)⇒丹東市(295.621km)⇒平壌(179.419km)⇒糸満市(1,439.365km)
長安〜糸満市は3,237.796kmで約7494.9里。
7494.9里から「歫國五百里爲都」の五百里を引くと6994.9里。
六千九百九十四.九里は去其西北界拘邪韓國七千餘里と同数値である。
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Re: このパズルは解けますか。
案山子さんへのお返事です。
案山子さんの回答ですが具体的な場所はどこですか?、九州では広すぎる。
拘奴国の位置問題です。拘奴国に『九州』を入れますた。
1.魏志倭人伝では『女王国より、特に南の『九州』の男王卑弥弓呼と不和で戦争状態にあった。』
1.『後漢書』倭人伝『女王国より東に海を渡ること千余里で『九州』に至る。』
ヒントは拘奴国は女王国に属さない。案山子さんは「狗奴國」は「女王國」内に在るが、「不屬女王」。?
この問題の注意点は『東南に裸国や?歯国も在り、船で行くこと一年で至るとか。』侏儒国が存在します。
『九州』『三国志魏書』倭人伝
女王国より、特に南の狗奴国。
その南に侏儒(こびと)国が在り、女王国から四千余里。
また、その東南に裸国や?歯国も在り、船で行くこと一年で至るとか。
『後漢書』倭人伝
女王国より東に海を渡ること千余里で拘奴国に至る。
女王国より南に四千余里で朱儒国に至る。
朱儒より東南に航行すること一年で裸国と黒歯国に至る。
> この行程地図では、九州が抜けている。つまり、「狗奴國」は九州です。
>
> 「邪馬壹【臺】國」・卑彌呼と「狗奴國」・卑弥弓呼が戦争状態にあったと云う解釈も事実無根でしょう。地理条件的にそのような状況を想定することに無理がある。
>
> >1.『後漢書』の問題点。
> 「不屬女王」との記述は有っても「不屬女王国」という記述は有りません。
> 「狗奴國」は「女王國」内に在るが、「不屬女王」。
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案山子説は成立しない
馬韓の面積と国数を見る限り、過密すぎるので成立しない。古代には九州で20数カ国あった。
馬韓の国数から九州ぐらいの広さが必要。九州(35,000平方Km)。
韓半島には馬韓(案山子説では対馬の半分)
「地合方四千餘里」の面積は一辺が四千里ではありません。
「地合方四千餘里」とは、縦・横一里の正方形、4000個に相当する面積です。
ですから、「地合方四千餘里」を平方キロに換算すると、
1800尺×24cmの二乗で0.432km×0.42km×4000=746.496平方キロ
に、成ります。
●馬韓
狗盧国、卑彌国、監奚卑離国、辟卑離国、一離国、不彌国、狗素国、捷盧国、牟盧卑離国、莫盧国、如來卑離国、楚山塗卑離国、一難国、狗奚国、不斯濆邪国、乾馬国、楚離国、
●弁辰韓
(弁辰)樂奴国、彌烏邪馬国、狗邪国、走漕馬国、安邪国(馬延国)、瀆盧国がある。
(辰韓)軍彌国(弁軍彌国斯盧国)
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Re: 案山子説は成立しない
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000119M.jpg
秦野さん、案山子さん、ご意見ありがとうございます。
狗奴国がどこにあったのか?なぞが深まるところですが、イメージ図を作成したので、紹介いたします。
対馬あたりで南北の軸がずれて、すこし北西に軸が傾いた見方をしているのではないかと疑ってます。
それで東治の東も、九州南部から中部あたりになってきて、女王国の東も四国・近畿方面になるかもしれません。
沖縄は、女王国の南4千里に位置していた朱儒国となりますね。
それで、台湾・沖縄方面を論じるうえでは、やはり海南島・九州・琉球とともに、東鯷人についても忘れてはならないでしょう。
會稽海外有東鯷人、分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海、求蓬萊神仙不得、徐福畏誅不敢還、遂止此洲、世世相承、有數萬家。人民時至會稽市。會稽東冶縣人有入海行遭風、流移至澶洲者。所在絶遠、不可往來。
会稽の海の外に東鯷人があり、二十余国に分かれている。また、夷洲および澶洲がある。伝承によると、秦の始皇帝が方士の徐福を遣わし、数千人の少年少女を連れて海に入った。蓬萊山の神仙を探し求めたが、出会えず、徐福は誅罰を畏れて敢えて帰らず、遂にこの島に留まった。代々に相伝し、数万家を有した。人民は時に会稽に至り交易する。会稽東冶県の人が海に入って航行し風に遭い、漂流して澶洲に至る者がいる。絶海の遠地に在り、往来すべきではない。
「会稽の海の外」「会稽東冶県の人」という形で、会稽の観念が出てきてますね。夷洲および澶洲という2種類の「洲」は島の意味です。徐福伝承が記されていて、「絶海の遠地に在り、往来すべきではない。」としてます。「数万家」はかなりの人数。時折会稽東冶にやってくるだけの航海能力があるようですね。鯷はイワシの意味だそうです。漁民を感じさせますね。
二十余国あるということは、そこそこ国をつくるだけの人口が、その島にないといけない計算ですから、そう考えていくと、琉球方面と見るのが、妥当かなと感じます。
ただ魏志では、これらの国のことを、朱儒国としたのかもしれません。
それで狗奴国は、数万戸で構成される大国ですから、やはり沖縄・九州・四国のような大きな島ではなかったかと感じるんですね。ただ島という記載がないので、九州・四国方面が妥当な感じがします。
狗奴国が、女王国の東にあったのか、南にあったのかですが、四国という地域は、高知方面に青銅器関連の遺跡が多くあって、徳島方面にいくと、ホタテ貝式古墳なども出てきますよね。
海流面からみれば、九州南部からの黒潮関係や大分方面とのつながりもあったかもしれません。九州南部から四国にかけての遺跡関連のつながりを調べてみたいところです。
そして両国の抗争の地は、海を挟んでいたのか、あるいは陸の境界だったのか?この辺も気になるところです。
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プラズマの風(太陽風)
http://www.h2.dion.ne.jp/~mogiseka/article/071118solar_eclipse_sun_worship.htm
http://help.yahoo.co.jp/group/toraijinkenkyuu/
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Re: 案山子説は成立しない
秦野北斗さんへのお返事です。
> 韓半島には馬韓(案山子説では対馬の半分)
> 「地合方四千餘里」の面積は一辺が四千里ではありません。
> 「地合方四千餘里」とは、縦・横一里の正方形、4000個に相当する面積です。
> ですから、「地合方四千餘里」を平方キロに換算すると、
> 1800尺×24cmの二乗で0.432km×0.42km×4000=746.496平方キロ
> に、成ります。
>
秦野北斗さん勇み足ですよ。
「地合方四千餘里」は、三国の総地積ではありません。
「方里」とは「田畑」面積積算に使われていたものです。
ですから、
「地合方四千餘里」とは三国の田畑の総面積を記述したものです。
とりあえず。
-
Re: このパズルは解けますか。
秦野北斗さんへのお返事です。
> 案山子さんの回答ですが具体的な場所はどこですか?、九州では広すぎる。
>
「其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王」とあるので、
九州を刺しています。大きさは、
「倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和」と 「女王卑彌呼」と「男王卑彌弓呼」を並列記述していますので、卑彌呼の都が「距國五百里爲都 」にそうなら卑彌弓呼の「距國五百里爲都」の都も存在するでしょう。その都は九州全土を飲み込みます。(五百里≒216km)
> 拘奴国の位置問題です。拘奴国に『九州』を入れますた。
>
「自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種 而不屬女王」
から、異存有りません。
>
> この問題の注意点は『東南に裸国や?歯国も在り、船で行くこと一年で至るとか。』侏儒国が存在します。
>
後漢書
「自女王國南四千餘里至朱儒國 人長三四尺」の「朱儒國」は
「自女王國」が「其地大較在會稽・東冶之東」の沖縄・糸満に当たるので
其処から南へ4000里(約1,728km)ですからフィリピンを刺している。
「自朱儒東南行船一年 至裸國・?齒國 使驛所傳 極於此矣」
については、結論だけで
至裸國・?齒國はオーストラリアに迄至る。
行船一年は距離換算して約3888kmになる。
>
-
Re: 案山子説は成立しない
案山子さんへのお返事です。
案山子さん、読みが浅い。
ほうり はう― 1 【方里】
縦横が一里の面積。一里四方は日本語の表記です。
中国語の解釈は方里=方一里
地合方四千餘里、=方四千餘里になり一に四千餘が入る。
地合は四千餘里四方。←日本語です。縦横が四千餘里の面積
> 「地合方四千餘里」とは三国の田畑の総面積を記述したものです。
-
Re: このパズルは解けますか。
案山子さんへのお返事です。
これでは、日本に2〜3世紀大航海時代が存在した事になる。
フィリピン、オーストラリアは日本領になる。?
>
> > 案山子さんの回答ですが具体的な場所はどこですか?、九州では広すぎる。
> >
> 「其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王」とあるので、
> 九州を刺しています。大きさは、
> 「倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和」と 「女王卑彌呼」と「男王卑彌弓呼」を並列記述していますので、卑彌呼の都が「距國五百里爲都 」にそうなら卑彌弓呼の「距國五百里爲都」の都も存在するでしょう。その都は九州全土を飲み込みます。(五百里≒216km)
>
> > 拘奴国の位置問題です。拘奴国に『九州』を入れますた。
> >
> 「自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種 而不屬女王」
> から、異存有りません。
> >
> > この問題の注意点は『東南に裸国や?歯国も在り、船で行くこと一年で至るとか。』侏儒国が存在します。
> >
> 後漢書
> 「自女王國南四千餘里至朱儒國 人長三四尺」の「朱儒國」は
> 「自女王國」が「其地大較在會稽・東冶之東」の沖縄・糸満に当たるので
> 其処から南へ4000里(約1,728km)ですからフィリピンを刺している。
>
> 「自朱儒東南行船一年 至裸國・?齒國 使驛所傳 極於此矣」
> については、結論だけで
> 至裸國・?齒國はオーストラリアに迄至る。
> 行船一年は距離換算して約3888kmになる。
> >
>
>
>
>
>
-
Re: 案山子説は成立しない
管理人さんへのお返事です。
鋭い、もう少しです。夷洲か澶洲か、ですな。
> 會稽海外有東鯷人、分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海、求蓬萊神仙不得、徐福畏誅不敢還、遂止此洲、世世相承、有數萬家。人民時至會稽市。會稽東冶縣人有入海行遭風、流移至澶洲者。所在絶遠、不可往來。
>
>
> 会稽の海の外に東鯷人があり、二十余国に分かれている。また、夷洲および澶洲がある。伝承によると、秦の始皇帝が方士の徐福を遣わし、数千人の少年少女を連れて海に入った。蓬萊山の神仙を探し求めたが、出会えず、徐福は誅罰を畏れて敢えて帰らず、遂にこの島に留まった。代々に相伝し、数万家を有した。人民は時に会稽に至り交易する。会稽東冶県の人が海に入って航行し風に遭い、漂流して澶洲に至る者がいる。絶海の遠地に在り、往来すべきではない。
>
>
>
> 「会稽の海の外」「会稽東冶県の人」という形で、会稽の観念が出てきてますね。夷洲および澶洲という2種類の「洲」は島の意味です。徐福伝承が記されていて、「絶海の遠地に在り、往来すべきではない。」としてます。「数万家」はかなりの人数。時折会稽東冶にやってくるだけの航海能力があるようですね。鯷はイワシの意味だそうです。漁民を感じさせますね。
>
> 二十余国あるということは、そこそこ国をつくるだけの人口が、その島にないといけない計算ですから、そう考えていくと、琉球方面と見るのが、妥当かなと感じます。
>
> ただ魏志では、これらの国のことを、朱儒国としたのかもしれません。
>
> それで狗奴国は、数万戸で構成される大国ですから、やはり沖縄・九州・四国のような大きな島ではなかったかと感じるんですね。ただ島という記載がないので、九州・四国方面が妥当な感じがします。
>
> 狗奴国が、女王国の東にあったのか、南にあったのかですが、四国という地域は、高知方面に青銅器関連の遺跡が多くあって、徳島方面にいくと、ホタテ貝式古墳なども出てきますよね。
>
> 海流面からみれば、九州南部からの黒潮関係や大分方面とのつながりもあったかもしれません。九州南部から四国にかけての遺跡関連のつながりを調べてみたいところです。
>
> そして両国の抗争の地は、海を挟んでいたのか、あるいは陸の境界だったのか?この辺も気になるところです。
>
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Re: 案山子説は成立しない
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000126M.jpg
管理人さんへのお返事です。
パズルの回答です。イメージ図を日本に当てはめて下さい。
中国史籍の翻訳に所どころに難を感じますが地図で補正しています。
秦野距離で測れば狗奴国の位置が解る。狗奴国と卑弥呼の戦闘が激しく狗奴国には古墳が山ほどあり、食生活にも影響がみられる。
> 秦野さん、案山子さん、ご意見ありがとうございます。
>
> 狗奴国がどこにあったのか?なぞが深まるところですが、イメージ図を作成したので、紹介いたします。
>
> 対馬あたりで南北の軸がずれて、すこし北西に軸が傾いた見方をしているのではないかと疑ってます。
>
> それで東治の東も、九州南部から中部あたりになってきて、女王国の東も四国・近畿方面になるかもしれません。
>
> 沖縄は、女王国の南4千里に位置していた朱儒国となりますね。
>
> それで、台湾・沖縄方面を論じるうえでは、やはり海南島・九州・琉球とともに、東鯷人についても忘れてはならないでしょう。
>
>
>
> 會稽海外有東鯷人、分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海、求蓬萊神仙不得、徐福畏誅不敢還、遂止此洲、世世相承、有數萬家。人民時至會稽市。會稽東冶縣人有入海行遭風、流移至澶洲者。所在絶遠、不可往來。
>
>
> 会稽の海の外に東鯷人があり、二十余国に分かれている。また、夷洲および澶洲がある。伝承によると、秦の始皇帝が方士の徐福を遣わし、数千人の少年少女を連れて海に入った。蓬萊山の神仙を探し求めたが、出会えず、徐福は誅罰を畏れて敢えて帰らず、遂にこの島に留まった。代々に相伝し、数万家を有した。人民は時に会稽に至り交易する。会稽東冶県の人が海に入って航行し風に遭い、漂流して澶洲に至る者がいる。絶海の遠地に在り、往来すべきではない。
>
>
>
> 「会稽の海の外」「会稽東冶県の人」という形で、会稽の観念が出てきてますね。夷洲および澶洲という2種類の「洲」は島の意味です。徐福伝承が記されていて、「絶海の遠地に在り、往来すべきではない。」としてます。「数万家」はかなりの人数。時折会稽東冶にやってくるだけの航海能力があるようですね。鯷はイワシの意味だそうです。漁民を感じさせますね。
>
> 二十余国あるということは、そこそこ国をつくるだけの人口が、その島にないといけない計算ですから、そう考えていくと、琉球方面と見るのが、妥当かなと感じます。
>
> ただ魏志では、これらの国のことを、朱儒国としたのかもしれません。
>
> それで狗奴国は、数万戸で構成される大国ですから、やはり沖縄・九州・四国のような大きな島ではなかったかと感じるんですね。ただ島という記載がないので、九州・四国方面が妥当な感じがします。
>
> 狗奴国が、女王国の東にあったのか、南にあったのかですが、四国という地域は、高知方面に青銅器関連の遺跡が多くあって、徳島方面にいくと、ホタテ貝式古墳なども出てきますよね。
>
> 海流面からみれば、九州南部からの黒潮関係や大分方面とのつながりもあったかもしれません。九州南部から四国にかけての遺跡関連のつながりを調べてみたいところです。
>
> そして両国の抗争の地は、海を挟んでいたのか、あるいは陸の境界だったのか?この辺も気になるところです。
>
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Re: 案山子説は成立しない
みなさん、ご意見ありがとうございます。
秦野さん、イメージ図拝見しました。確かに、女王国が対馬の事例のように長細くて、周辺諸国との方位が異なってくるケースも考慮したいですね。
それで、侏儒國なのですが、よく読んでみると、女王国の東にある倭種の国の南となるかもしれません。女王国からみると東南ですね。
女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり、また侏儒國あり、その南にあり。人の長三、四尺、女王を去る四千余里。また裸國・黒歯國あり、またその東南にあり。船行一年にして至るべし。 倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里ばかりなり。
とすると、たとえば九州あるいは近畿の女王国の東にある本州中部・関東地方の南で、伊豆大島とかその辺を意味していたかもしれません。東南の黒歯国などもそうですね。この倭国の5千里は長里でないと理解できないかもしれません。
方位の問題に加えて、1里の単位が、それぞれ大きくことなるので、対象とする地域も数倍にまで膨れ上がっているものと感じます。77と430では、大きく異なりますからね。
倭人から聞いた部分についての「里」や方角と、魏や漢が実測して把握した「里」の単位・方角とを、まずしっかり把握しないと、混乱してしまうことでしょう。
倭人の使っていた里は、おそらく古い時代の呉のもので、短里でしょう。それに対して魏の使者が計ったのは長里。
とすると、朝鮮・対馬・壱岐までの記載が長里で、それ以降が倭人から聞いた短里と仮定すると、実際の魏志や後漢書が想定していた九州の大きさは、かなり大きな九州像ができてしまうわけです。だから、はるか南のほうまで延びてしまった倭国がでてくるんでしょうね。実際ははるかに小さな現在の九州内陸の方形区画が正解だったかもしれません。
もうひとつ、ぜんぜん違うのですが、後漢書の「大倭王」、魏志の「大倭」という警備官の存在が気になりはじめてます。
倭というのは蔑称と言われてますが、倭人は自分で自分の国を「倭」(ワ)と言っていたことも明らかになりますね。
それで「大倭」=「大和」で、「邪馬台」=「ヤマト」だという見方も出てくることでしょう。
後代も「倭直」のように「倭」をもって「ヤマト」と読ませてますね。
ともあれ、女王国の属国30国には、「大倭」という官がいて、さらに女王国より以北には「一大率」という軍隊も置いて警備させていたわけですよね。
「大倭」と「一大率」が両方いたのか?あるいは片方だけなのかも気になりますが、「大」の字をもってして、ひとつの役職を指し示しているようにも見えます。まとめる、統括するとかいう意味ですかね。
つまり「魏率・・・」の「率」です。中国的な支配地域と、倭人の支配地域があって、それぞれは、女王国の北と南で大きく様相が異なっているとも受け取れます。
尊卑各々差序あり、相臣服するに足る。租賦を収む、邸閣あり、國國市あり。有無を交易し、大倭をしてこれを監せしむ。 女王國より以北には、特に一大率を置き、諸國を検察せしむ。諸國これを畏憚す。常に伊都國に治す。國中において刺史の 如きあり。
こう読むと、「大倭」というのは、税を監督する文官のようにも見えます。一大率は武官ですね。ニラミが聞くところに派出所を作ったわけです。南のほうには、たいした脅威がなかったのか、あるいは海を隔てていたとか、あまり従わない国だったので、武官は置かなかった・・・。問題の狗奴国もそうですね。この南北の差がキーかもしれません。
あと、お手数ですが「引用」は短くまとめてくださると助かります。よろしくお願いします。
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単里
単里、九州と馬韓とは近くなのでそう変われない事を前提にすいそくしました。
1単里=187×1000m÷4000=47m誤差15%とすると40〜54m、秦野距離に近い値です。
會稽海外有東鯷人、分為二十餘國。が九州になる。古事記の地図では琉球になる。注意することは、馬韓の20数カ国から仮定だが面積が等しいとすると。
九州(35,000平方Km)。一辺187km
馬韓 地合方四千餘里。一辺4000里
會稽海外有東鯷人、分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海、求蓬萊神仙不得、徐福畏誅不敢還、遂止此洲、世世相承、有數萬家。人民時至會稽市。會稽東冶縣人有入海行遭風、流移至澶洲者。所在絶遠、不可往來。
会稽の海の外に東鯷人があり、二十余国に分かれている。また、夷洲および澶洲がある。伝承によると、秦の始皇帝が方士の徐福を遣わし、数千人の少年少女を連れて海に入った。蓬萊山の神仙を探し求めたが、出会えず、徐福は誅罰を畏れて敢えて帰らず、遂にこの島に留まった。代々に相伝し、数万家を有した。人民は時に会稽に至り交易する。会稽東冶県の人が海に入って航行し風に遭い、漂流して澶洲に至る者がいる。絶海の遠地に在り、往来すべきではない。
> 馬韓の面積と国数を見る限り、過密すぎるので成立しない。古代には九州で20数カ国あった。
> 馬韓の国数から九州ぐらいの広さが必要。九州(35,000平方Km)。
>
> ●馬韓
> 狗盧国、卑彌国、監奚卑離国、辟卑離国、一離国、不彌国、狗素国、捷盧国、牟盧卑離国、莫盧国、如來卑離国、楚山塗卑離国、一難国、狗奚国、不斯濆邪国、乾馬国、楚離国、
>
> ●弁辰韓
> (弁辰)樂奴国、彌烏邪馬国、狗邪国、走漕馬国、安邪国(馬延国)、瀆盧国がある。
> (辰韓)軍彌国(弁軍彌国斯盧国)
不思議なことにこの単里いたる所に出てくる。
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中国諸文献から
ちょっと話がそれますが、魏志の後代の史書が、後漢書のようにたまに古い文献を拾っていることがありましたので、調べてみて、興味深い記事を見つけたので、列記しておきます。
●晋書から
魏の時代に至って、三十国が通好してきた。戸数は七万。
※女王国に属する30国は独自に?通好もしていたのでしょう。戸数に狗奴国のそれは入らず。
宣帝が公孫氏を平定すると、その女王は遣使を帯方郡に送って朝見。その後貢献は絶えなかった。文帝が相となると、また数回やって来た。前泰の初め、遣使が重ねて入貢した。
※前秦のはじめ(350年代?)にも、邪馬台国の後続王朝が入貢している点に注目。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun3-sinzho.htm
●梁書から
正始中(240−249年)、卑彌呼が死に、改めて男の王を立てたが、国中が服さず、互いに誅殺しあったので、再び卑彌呼の宗女「臺與」を王として立てた。
その後、また男の王が立った、いずれも中国の爵命を拝受した。
※イヨと倭の五王の間?の男王記載に注目。
晋の安帝時(396−418年)、倭王讃がいた。讃が死に、弟の彌が立った。彌が死に、子の済が立った。済が死に、子の興が立った。興が死に、弟の武が立った。
斉の建元中(479年〜)、武を持節、督倭・新羅・任那・伽羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、鎮東大将軍に除した。高祖が即位すると、武の号を征東大将軍に進めた。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun4-ryosho.htm
●南斉書から
建元元年(479年)、使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・(慕韓)六国諸軍事、安東大将軍に新に進め、倭王の武の号を鎮東大将軍に叙した。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun6-nansai.htm
●北史から
その国境は東西に五カ月の行程、南北に三カ月の行程、各々が海に至る。その地形は東が高く西が低い。邪摩堆で暮らす、魏志に則れば、言うところの邪馬臺である。
※邪馬台国の地形全体について記してます。ヤマタイが正音か?地形に関係。山関連。
再び卑彌呼の宗女「臺與」を立てて王とした。その後、再び男の王が立ち、それぞれが中国から爵位を拝命した。江左(江東)は、晋、宋、斉、梁を経て、朝聘は絶えなかった。
※ここにも臺與の後続の男王がしっかり記載されており、南朝の記録に記載され続けたことが伺えます。
死者は棺槨に納める、親しい来客は屍の側で歌舞し、妻子兄弟は白布で服を作る。貴人の場合、三年間は殯(かりもがり=埋葬前に遺体を棺桶に安置する)をし、庶人は日を占って埋葬する。葬儀に及ぶと、屍を船上に置き、陸地にこれを牽引する、あるいは小さな御輿を以て行なう。
※古墳の葬儀を考える上で重要。日時を占ってますね。すると船型木棺は陸地を引きづられたのか?その傷跡があるのでは?
翌年、上(天子)は文林郎の裴世清を使者として倭国に派遣した。百済を渡り、竹島に行き着き、南に○羅国を望み、都斯麻国を経て、遙か大海中に在り。また東に一支国に至り、また竹斯国に至り、また東に秦王国に至る。そこの人は華夏(中華)と同じ、以て夷洲となす。疑わしいが解明は不能である。また十余国を経て、海岸に達した。竹斯国より以東は、いずれも倭に附庸している。
※九州東部より東の(竹斯+秦王国+10余国が倭に「附庸」するとのことですが、いわゆる対馬・壱岐島を倭に属さないと見ているのかもしれませんね。
また九州北部を「夷洲」としていますね。これは先の東鯷人伝にでてきた「夷洲」でしょうか。するとペアの「澶洲」はすると本州のことか?東夷の意味が、中華と関係あるということかもしれません。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun5-hokusi.htm
●宋書から
讃が死に、弟の珍が立つと、遣使を以て貢献した。
使持節、都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王を自称する。
興が死に、弟の武が立ち、使持節、都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王を自称した。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun7-sosho.htm
※ここに出てくる「武」王については、先の南斉書にでてきた「武」の「七国諸軍事」ではなく、「六国諸軍事」としている点で相違がある。任那・加羅に分離して記載されている点に注目。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun7-sosho.htm
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Re: 案山子説は成立しない
秦野北斗さんへのお返事です。
> >
> 案山子さん、読みが浅い。
>
読みの問題ではありません。
秦野北斗さんは方里に付いて何も理解していない。
> ほうり はう― 1 【方里】
> 縦横が一里の面積。一里四方は日本語の表記です。
>
方里とは、面積を表わす単位です。
たから、
「方一里」は「三項七十五畝」です。
一畝は廣15歩、従十六歩の方形の面積です。
百畝をもって一項です。
何だったら、検算をして見ましょうか?
一歩=六尺、一尺≒24cmでの三項七十五畝と
方一里(一里=1800尺、一尺≒24cm)の面積は同じになるでしょう。
三項七十五畝≒0.184112平方キロで、一方里は、約0.186624平方キロ。
> 中国語の解釈は方里=方一里
> 地合方四千餘里、=方四千餘里になり一に四千餘が入る。
> 地合は四千餘里四方。←日本語です。縦横が四千餘里の面積
>
> 「地合方四千餘里」とは三国
九章算術を勉強することをおすすめします。
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Re: このパズルは解けますか。
秦野北斗さんへのお返事です。
> 案山子さんへのお返事です。
>
> これでは、日本に2〜3世紀大航海時代が存在した事になる。
> フィリピン、オーストラリアは日本領になる。?
>
「參問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千余里」
を
無視しての解釈は成立しない。
倭地は「周旋可五千余里」です。
「又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千里
又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至」の領域が「周旋可五千余里」におさまりますか?
どうも、議論にはならないようだ。
それでは、失礼させて頂きます。
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訂正
先に引用した中国文献の注釈年代が狂ってましたので、修正・訂正しておきました。何でああいう狂い方してるのかなー・・・。
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Re: 訂正
管理人さんへのお返事です。
晋(晉、しん、265年 - 420年)
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun3-sinzho.htm
卑弥呼は(ひみこ、170年頃 - 248年頃)に死んでいる。
卑弥呼が死に、墓が作られた。(『梁書』では正始年間(240年 - 249年)に卑弥呼死亡)
男の王が立つが、国が混乱し互いに誅殺しあい千人余が死んだ。
卑弥呼の宗女「壹與」を13歳で王に立てると国中が遂に鎮定した。
女王位についた壹與は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ
晋(晉、しん、265年 - 420年)17年の差は何か?
倭人は騒乱となり、女子を立てて国王とした。
晋書の卑彌呼は壹與の間違いになる。
どうも、魏志倭人伝は三国時代の蜀漢と西晋に仕えた官僚が書いた最重要機密に相当する文章と思われる。
不知正歳四節、但計秋收之時以為年紀。人多壽百年、或八九十。國多婦女、不淫不妒。無爭訟、犯輕罪者沒其妻孥、重者族滅其家。舊以男子為主。漢末、倭人亂、攻伐不定、乃立女子為王、名曰卑彌呼。
一年の歴や四節を知らない、ただ、秋の収穫時を以て年紀としている。人の多くが百歳、あるいは八〜九十歳の長寿である。国には婦女子が多く、淫乱ではなく嫉妬もしない。争訟はなく、軽い罪を犯した者は妻子を没収し、重罪ではその家系を族滅する。旧来は男子を君主とした。後漢末期、倭人は騒乱となり、戦が鎮静しないので、女子を立てて国王とした。名を卑彌呼という。卑彌呼は壹與の間違い
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Re: このパズルは解けますか。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun11-sintosho.htm
http://
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小笠原諸島
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000135M.jpg
http://ja.wikipedia.org/wiki/石野遺跡
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侏儒國
ちょっと侏儒國について調べています。
下記のサイトに、神武天皇条に見える土蜘蛛を侏儒と呼んだ記載について、魏志とのかかわりで論じてます。
http://www.inoues.net/mystery/kokusikoku.html
『己未年春二月壬辰朔辛亥、命諸将練士卒。是時層富県波丘岬有新城戸畔者。<丘岬此云塢介佐棄。>又和珥坂下有居勢祝者。<坂下此云瑳伽梅苔。>臍見長柄丘岬有猪祝者。此三処土蜘蛛並恃其勇力、不肯来庭。天皇乃分遺偏師皆誅之。又高尾張邑有土蜘蛛。其為人也。身短而手足長、与侏儒相類。皇軍結葛網而掩襲殺之。因改号其邑葛城。』
侏儒が小柄で手足が長いとしていることは、縄文人の典型的な特徴で、寒冷適応で胴長短足になった弥生人と異なる風貌の縄文人が、弥生人に追われて山地に隠れたことはDNA的にも証明されてますね。また沖縄やアイヌにも縄文種の痕跡が色濃く見えます。
特に下記のサイトの沖縄とアイヌのイレズミの共通性については、かなり驚かされました。
http://www.y-asakawa.com/nihon-tansaku 2007-2008/ainu2.htm
とすると、侏儒がたくさんすむ島というのは、縄文種が残っていた沖縄方面のような気がします。女王国の南四千里ですね。
それで黒歯国と裸国は、女王国から見て東南ではるか遠く船行1年かかる小笠原諸島。ポイントは黒歯国と裸国の2つの大きな島があったことですね。伊豆諸島や、小笠原諸島のことでしょうか?
三宅島は結構たくさん弥生遺跡があるようです。
http://www.syougai.metro.tokyo.jp/iseki0/iseki/list/ruins/13381/381ruins.htm
八丈島は縄文遺跡だそうですね。
http://www.town.hachijo.tokyo.jp/gaiyo/history/history.html
其の南の青ヶ島の伝承もちょっと面白いです。
http://www.geocities.jp/gotos_room/_geo_contents_/aogashima.html
その南の小笠原諸島は、先述の石野遺跡が弥生時代です。
そうすると、狗奴国についての記載も、後漢書にしたがれば女王国から見て海を渡って東千里にある四国・・・、魏志に従えば同じく女王国の南に隣接する鹿児島方面・・・などとなってくることでしょうか。
そして、女王国を支点として、放射上に「其の」と記載を入れながら、周囲の国を記載している可能性があります。
これは伊都国あたりの条文でも見られる記載法で、魏志では中心となる1点(国)を支点にして放射状に記載していく特長があるようです。
「女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり、また侏儒國その南にあり。人の長三、四尺、女王を去る四千余里。 また裸國、黒齒國あり、またその東南にあり。船行一年にして至るべし。 倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里ばかりなり。」
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Re: 小笠原諸島
管理人さんへのお返事です。
海上ルートを考える場合は海流を考慮しなければ、めためたになる。
http://imagic.qee.jp/kairyuu.html
陸と島沿いに向かえば、1500〜2000キロなぞ、存在できない。
小笠原は常陸沖からのルートしかない。古代は漂流航行に近い。
>
>
> ちなみに、斜線(いわゆる「可」)だけで1280キロメートルあります。陸と島沿いに向かえば、1500〜2000キロになるでしょう。案山子さんのいう長里で4・5千里、船行1年の世界に似てきますね。
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Re: 小笠原諸島
秦野北斗さんへのお返事です。
さっそく情報ありがとうございます!
> http://imagic.qee.jp/kairyuu.html
>
> 陸と島沿いに向かえば、1500〜2000キロなぞ、存在できない。
> 小笠原は常陸沖からのルートしかない。古代は漂流航行に近い。
>
実は私も海流の件、気になってました、なるほど、北からの親潮に乗るという手がありましたね!
あとは、下記八丈島のページにも書いてましたが、黒潮に流されずに小笠原までたどり着けるのか、その辺が課題です。
鳥島をはさんでいるとはいえ、距離がありすぎますね。漂着するだけの一方通行ではなかったかとも感じるわけですが、それにしては小笠原の石野遺跡が、数百に上る土器片・石器類などそこそこしっかりした弥生遺跡であるのが気になります。ただ、沖縄からの影響は、黒潮による漂着でしょうね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/石野遺跡
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Re: 小笠原諸島
管理人さんへのお返事です。
この件はしらべました。徐福伝説になる紀元前200年に航海している。
http://www.asukanet.gr.jp/tobira/jofuku/jofuku.htm
HPには小笠原も出てきます。尚、説明文は再考が必要である。
古代の航海術は巧みで海を知り尽くしている。
黒潮に流されずに小笠原までたどり着けるのか、その辺が課題です。との事ですが、
船には櫂と帆があり、長期航海1年は可能。驚くことに、再循環流を知っていた模様。
http://ja.wikipedia.org/wiki/黒潮
> 実は私も海流の件、気になってました、なるほど、北からの親潮に乗るという手がありましたね!
>
> あとは、下記八丈島のページにも書いてましたが、黒潮に流されずに小笠原までたどり着けるのか、その辺が課題です。
>
> 鳥島をはさんでいるとはいえ、距離がありすぎますね。漂着するだけの一方通行ではなかったかとも感じるわけですが、それにしては小笠原の石野遺跡が、数百に上る土器片・石器類などそこそこしっかりした弥生遺跡であるのが気になります。ただ、沖縄からの影響は、黒潮による漂着でしょうね。
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黒歯国
その後、黒歯国について調べてみたのですが、意外にも中国文献にしばしば出てくる国のようで驚きました。
山海経や准南子にもすでに見えるとのことです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/黒歯国
それで漢代の山海経の話というのが、かいつまんで言うと、中国の伝説上の皇帝・禹の命令で東海にある南北の地域を部下に歩かせたことが記載されているようです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/山海経
その部下の行程で、南の最初の国が黒歯国でして、稲をつくって蛇を食べるとのことです。
それから順に北上して、最後のほうに毛人の国がでてくるのですが、これはいわゆるアイヌ人と見てよいかもしれません。
その間に、南から順に、湯谷・扶桑(水上の大木の上に住む)、雨師妾(蛇・亀を操る黒い人)、玄股(げんこ)の國(漁民・鵜飼の国)と入ります。
おそらく、ベトナム方面の水上生活者から、フィリピン、そして日本へと北上していく過程を示しているのでしょう。カメを飼うというと屋久島の海ガメが有名ですね。鵜飼の話は神武天皇条に見えるようです。神武条は先の朱儒記載の件も考慮すると、中国文献の比較が重要ですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/鵜飼い
?齒國、其の北に在り。人と爲り?し。稻を食し蛇を啖う。一は赤、一は青。其の旁に在り。一に曰く、豎亥の北に在り。人と爲り?き首。稻を食し蛇を使う。其の一の蛇は赤し。
下に湯谷有り。湯谷の上に扶桑(ふそう=扶桑樹)有り。十の日の浴(ゆあみ)する所。?齒の北に在り。水中に居す。大木有り。九の日は下の枝に居し、一の日は上の枝に居す。
雨師妾(うししょう)、其の北に在り。其の人と爲り?し。兩手に各(おのおの)一蛇を操る。左耳に青蛇有り、右耳に赤蛇有り。一に曰く、十日の北に在り。人と爲り?身人面。各(おのおの)一龜を操る。
玄股(げんこ)の國、其の北に在り。其の人と爲り魚を衣しを食す。兩の鳥を使い之を夾む。一に曰く、雨師妾の北に在り。
毛民の國、其の北に在り。人と爲り身に毛を生ず。一に曰く、玄股の北に在り。
勞民國、其の北に在り。其の人と爲り?し。或に曰く、?民。一に曰く、毛民の北に在り。人と爲り面・目・手・足、盡く?し。
http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/sengaikyo/frame/kaigaitoukyo_frame.htm
とすると、やはり案山子さんのおっしゃるように黒歯国は、インドネシア・ニューギニア方面と見て間違いなさそうです。
それで、後漢書だと、女王国の南に4千里で朱儒国があって、その朱儒国からさらに東南に船行1年で黒歯国に至ると記してありますね。ニューギニアあたりが黒歯国となるのでしょう。
おそらくは朱儒国は、縄文系とおぼしき小人のいる島国ですから琉球方面が妥当かもしれません。
そして、そこから北の4千里にあるところが女王国となるわけです。
この千里は、いわゆる狗邪韓国から対馬までの距離、あるいは女王国から海を渡って東の狗奴国までの距離のことですから、そうすると距離的にみて、九州南部⇔奄美・沖縄間あたりを想定するのが妥当かと感じますね。
女王国より東に海を渡ること千余里で拘奴国に至る。いずれも倭種とはいえども女王には属していない。女王国より南に四千余里で朱儒国に至る。そこの人の身長は三〜四尺。朱儒より東南に航行すること一年で裸国と黒歯国に至る。使訳の伝える所はこれに尽きる。
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Re: 黒歯国
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun2-gokan.htm
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