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歴史掲示板

126管理人:2012/02/25(土) 23:10:29
Re: 案山子説は成立しない
みなさん、ご意見ありがとうございます。

秦野さん、イメージ図拝見しました。確かに、女王国が対馬の事例のように長細くて、周辺諸国との方位が異なってくるケースも考慮したいですね。
それで、侏儒國なのですが、よく読んでみると、女王国の東にある倭種の国の南となるかもしれません。女王国からみると東南ですね。

女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり、また侏儒國あり、その南にあり。人の長三、四尺、女王を去る四千余里。また裸國・黒歯國あり、またその東南にあり。船行一年にして至るべし。 倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里ばかりなり。

とすると、たとえば九州あるいは近畿の女王国の東にある本州中部・関東地方の南で、伊豆大島とかその辺を意味していたかもしれません。東南の黒歯国などもそうですね。この倭国の5千里は長里でないと理解できないかもしれません。


方位の問題に加えて、1里の単位が、それぞれ大きくことなるので、対象とする地域も数倍にまで膨れ上がっているものと感じます。77と430では、大きく異なりますからね。

倭人から聞いた部分についての「里」や方角と、魏や漢が実測して把握した「里」の単位・方角とを、まずしっかり把握しないと、混乱してしまうことでしょう。

倭人の使っていた里は、おそらく古い時代の呉のもので、短里でしょう。それに対して魏の使者が計ったのは長里。

とすると、朝鮮・対馬・壱岐までの記載が長里で、それ以降が倭人から聞いた短里と仮定すると、実際の魏志や後漢書が想定していた九州の大きさは、かなり大きな九州像ができてしまうわけです。だから、はるか南のほうまで延びてしまった倭国がでてくるんでしょうね。実際ははるかに小さな現在の九州内陸の方形区画が正解だったかもしれません。

もうひとつ、ぜんぜん違うのですが、後漢書の「大倭王」、魏志の「大倭」という警備官の存在が気になりはじめてます。

倭というのは蔑称と言われてますが、倭人は自分で自分の国を「倭」(ワ)と言っていたことも明らかになりますね。

それで「大倭」=「大和」で、「邪馬台」=「ヤマト」だという見方も出てくることでしょう。
後代も「倭直」のように「倭」をもって「ヤマト」と読ませてますね。

ともあれ、女王国の属国30国には、「大倭」という官がいて、さらに女王国より以北には「一大率」という軍隊も置いて警備させていたわけですよね。


「大倭」と「一大率」が両方いたのか?あるいは片方だけなのかも気になりますが、「大」の字をもってして、ひとつの役職を指し示しているようにも見えます。まとめる、統括するとかいう意味ですかね。

つまり「魏率・・・」の「率」です。中国的な支配地域と、倭人の支配地域があって、それぞれは、女王国の北と南で大きく様相が異なっているとも受け取れます。


尊卑各々差序あり、相臣服するに足る。租賦を収む、邸閣あり、國國市あり。有無を交易し、大倭をしてこれを監せしむ。 女王國より以北には、特に一大率を置き、諸國を検察せしむ。諸國これを畏憚す。常に伊都國に治す。國中において刺史の 如きあり。


こう読むと、「大倭」というのは、税を監督する文官のようにも見えます。一大率は武官ですね。ニラミが聞くところに派出所を作ったわけです。南のほうには、たいした脅威がなかったのか、あるいは海を隔てていたとか、あまり従わない国だったので、武官は置かなかった・・・。問題の狗奴国もそうですね。この南北の差がキーかもしれません。

あと、お手数ですが「引用」は短くまとめてくださると助かります。よろしくお願いします。




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