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Web誌友会 板/2

5328神の子さん:2015/04/04(土) 08:54:01 ID:???
a hopeさま

でも、やっぱりこっちだよね。「縦の真理、人間神の子」

根本真理だから。

横の真理ぽっちは案外誰でも知ってたりするけど、(#^.^#)

5329神の子さん:2015/04/04(土) 09:16:30 ID:p..UGkhA
上はるん吉でした

5330神の子さん:2015/04/04(土) 12:21:43 ID:RwGVxWiM
51 :神の子さん :2015/04/04(土) 08:57:25 ID:p..UGkhA教区板に続き、

独占板 ( *´艸`)

5331神の子さん:2015/04/04(土) 14:00:03 ID:UgE//uj6
>>5319


5332るん吉:2015/04/04(土) 15:05:00 ID:???
a hopeさま
>>自分が大きく成長できるチャンス。
>>自分から辛い修行を求めなくても、今現在の自分の置かれた状況に
>>感謝できるようになるのが、・・・

読ませて頂きました。けど、自分は応援さんのいうよのがちと分かるかなぁ。ですね。
感謝も難しい時はあるし、それを自力で感謝やったら、現象の心でやるわけやから
これも、修養ですよね。
私はa hope様みたいに人間出来てないから、難しいかな。

5333a hope:2015/04/05(日) 10:09:48 ID:cEpBaIdo

>>るん吉さま

わたしはここでは偉そうなことを言っていますが、現実には全然大した人間ではありません(;・∀・)

日々、偽我(ウソの自分)との戦いです。

現象のわたしには欲ばり根性もしっかりありますし、見栄をはりたい時もありますし、
相手を傷つける言葉を発してしまったり、態度をとってしまったりして、
落ち込むこともよくあります。

でも、以前よりはそういう自分にこだわらなくなりました。
それは、そんな自分は真我(本当の自分)ではないんだとわかっているからだと思います。


例えば、子供が悪さをして暴れている時など、頭から叱らないで静かにさとすように、

「こんな悪さをする○○君は、本当の○○君じゃないんだよ。それはウソの○○君だね。
お母さんは本当の○○君を信じているよ。」

と言ってあげると、必ず静かになって悪さをやめてくれます。
「実相を見る(信じる)」とはそういうことなのではないかと思います。


『感謝』に関しては、わたしもるん吉さまのおっしゃる通りだと思います。

「感謝しなくては・・・」という気持ちでするのであれば、
それは「現象の心」で無理やりすることになってしまいますものね。

わたしは「感謝の気持ち」とは実相の〝気づき〝 であり『悟り』なのではないかと感じています。

だから、『感謝』は内から湧き上がってくるものでなければ本物ではないと思います。

わたしはそこのところがわかったときに「大調和の神示」の内容がよく理解できました。

そして、本当の「和解」とは「感謝し合うこと」であり、
それができたとき、現象世界に「生長の家」が復活するのだと信じています。

5334a hope:2015/04/05(日) 10:11:57 ID:cEpBaIdo

「大調和の神示」


汝ら天地一切のものと和解せよ 天地一切のものとの和解が成立するとき 天地一切のものは汝の味方である

天地一切のものが汝の味方となるとき 天地の万物何物も汝を害することは出来ぬ 

汝が何物かに傷つけられたり黴菌や悪霊に冒されたりするのは汝が天地一切のものと和解していない証拠であるから省みて和解せよ 

われ嘗て神の祭壇の前に供物を献ぐるとき 先ず汝の兄弟と和せよと教えたのはこの意味である 

汝らの兄弟のうち最も大なる者は汝らの父母である 神に感謝しても父母に感謝し得ない者は神の心にかなわぬ 

天地万物と和解せよとは天地万物に感謝せよとの意味である 

本当の和解は互いに怺え合ったり 我慢し合ったりするのでは得られぬ 

怺えたり我慢しているのでは心の奥底で和解していぬ 感謝し合ったとき本当の和解が成立する 

神に感謝しても天地万物に感謝せぬものは天地万物と和解が成立せぬ 

天地万物との和解が成立せねば 神は助けとうても 争いの念波は神の救いの念波を能う受けぬ 

皇恩に感謝せよ 汝の父母に感謝せよ 汝の夫又は妻に感謝せよ 汝の子に感謝せよ 汝の召使に感謝せよ 

一切の人々に感謝せよ 天地の万物に感謝せよ その感謝の念の中にこそ汝はわが姿を見 わが救を受けるであろう 

われは全ての総てであるからすべてと和解したものの中にのみわれはいる 

われは此処に見よ 彼処に見よと言うが如くにはいないのである 

だからわれは霊媒には憑らぬ神を霊媒に招んでみて神が来ると思ってはならぬ 

われを招ばんとすれば天地すべてのものと和解してわれを招べ 

われは愛であるから 汝が天地すべてのものと和解したとき其処にわれは顕れる 

(昭和六年九月二十七日夜神示) 



「大調和の神示」 転載元 http://www.na.rim.or.jp/~hfg01061/public_html/16-9-27.htm 

感謝 合掌

5335a hope:2015/04/08(水) 09:24:55 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第17巻 p44 5行目〜

病気の話が大分出ましたが、「生長の家」は何も病気治しばかりをするところではない。
「生長の家」の説くところは一切宗教の神髄である。
何教でなければならぬと凝り固まった宗派ではない。
また宗門でもない。
派生したものならば、その流れて行く方向がちがうかもしれぬ、また宗門でありましたならば、
それは門でありますから、東門と西門とはまったく別方向を向いているかもしれぬ。
別方向に流れたり、別方向を向いていたら、イヤこの教えは東向きじゃ、イヤこの教えは西向きじゃと言って互に争わなければならぬかもしれぬ。
けれども、「生長の家」はどの方向へも偏寄ってはいないから、宗派争い、宗門争いをする必要がない。
お前の宗教をやめて「生長の家」へ入れとは言わない。
また言う必要がない。
すべての宗門もそれで宜しい。
しかしもっと奥へ這入れ、その堂奥(どうおう)に「生長の家」があるということを説くのであります。

キリスト教の人はキリスト教でそれでよい。
仏教の人は仏教でそれでよい。
神道の人は神道でそれでよい。
しかし宗教というものをただ講座や、哲学や、乞食のような拝み倒しや、死に際の用だと思ってはならない。
宗教はその神髄まで深く入って来るとき必然的に実生活にまで生きてこなければならないのであります。
宗教が実生活にまで生きてこないとき、宗教は無用の長物視され、閑人の閑事業視され、老人の玩弄物視されてしまうのであります。

ところが宗教が実生活にまで生きてきますと、それが実生活の指導原理となってくるのであります。
実生活の指導原理となるばかりでなく、「神の子」の生活を人生に実現することになるのであります。
実際宗教の目的は、「神の子」の生活を人生に実現するためであって、これこそ「生長の家」がこの世に出現した使命であります。

5336a hope:2015/04/08(水) 09:26:31 ID:cEpBaIdo

>>5335 a hope所感)

この第1章「生活に生きる宗教」は、昭和9年11月10日に東京都有楽町報知講堂で行われた、
「人類光明化運動講演会」での谷口雅春先生の講演内容です。
その講演では、雅春先生の話を聞いたり、「生命の實相」を拝読したりすることにより心が整い、
病気が治ってしまったという『唯心所現』の実例が次々に紹介されています。

しかし上のわたしの謹写部分にですが、「生長の家」は決して『唯心所現』(横の真理)だけを説く宗教ではないと述べられています。

つまり、人々に唯心所現の真理(横の真理)を悟らせて実生活に生かすことで、「人間神の子」(縦の真理)を人生に実現させること、
それが「生長の家」がこの世に出現した使命であるとおっしゃっています。

>>5328でるん吉さまもコメントをくださっていますが、
この「人間神の子」の『縦の真理』が「生長の家」の根本真理にあるからこそ、「生長の家」は一切宗教の神髄だといえるのですね!

「生長の家」って本当にすばらしい!!

5337a hope:2015/04/10(金) 10:29:21 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第17巻 p56 後から4行目〜

今までの宗教に属する人や道徳家が善くなろうと思っても善くなれないのは「頼みにならぬ我」――本来悪いわれ――本来無いわれ―― ウソのわれで善くなろうと思うからなのだ。 
なぜいつまでもそんな「ニセ物の我」で善くなろうと思いつつ善くなれないといってそんなことに引っかかっているのだ。
今まで他の宗教や修養法や自制法などでいくら禁酒禁煙しようと思っても禁酒禁煙できなかった人が「生長の家」に来られて神想観をやったり、わたしの『生命の實相』を読んでいるうちに、自然に巧まず工夫せずに禁酒禁煙させてくる実例が多いのであります。

それは前の場合には、酒を飲みたい心、――ウソの心で酒を飲むまいと工夫していたからそれが止められなかったのです。
「酒を飲みたい心」で酒を飲むまいと工夫したとてそれは無駄な努力にすぎないのです。
そんな悪い心は無いと知って、実相の心、阿弥陀仏の心、無限に善い心、久遠のキリストの心ばかりが実在であり、それが「本物の自分の心」だと知ったとき、ひとりでに内在の善が顕われてきて、善きことばかりができるようになるのです。

「生長の家」の説くところは、自分を悪いくだらないものであると大きくいったんその悪さを認めてから捨てるというような迂回的な捨て方をするのではない。
闇をいったんあると認めてその闇を握って摑んで捨てようと思っても、闇というものは消えるものではない。
闇というものを消す方法は、闇がアルとかナイとかいうことなしに頓着しないで闇の反対――「光」をだせば、闇は消えてしまうのです。

光さえ出せば幾億万年以来からの濃い闇でも電燈一個ともせば消えてしまうのです。
だから闇のことは頓着する必要はちっともないのです。
「悪い自分」のことは頓着する必要がない。
ただ本当の自分の「光」さえだせばよいのです。
本来「天照大御神」と同体の自分のみを認めればよいのです。
本来「尽十方無礙光如来と同体の自分」というもののみを認めればよいのです。
「久遠のキリストと同体の自分」のみを認めればよいのです。
そうしたら光が出ればすべての闇が消えてしまうように、悪い自分というものは本来無いから消えてしまうのです。
だから苦労して止(や)めようとしても止まなかった飲酒癖などが自然になんの苦しみもなく止まるのは、自分のうちに宿る仏性が出て来るからです。
自分の中に宿るキリストが出て来るからです。・・・

5338a hope:2015/04/10(金) 10:32:59 ID:cEpBaIdo

>>5337 a hope所感)

ここに、「生長の家の教え」が、「修養」とか「自制」とかいうような方法で
『悪い自分(偽我・本来無い自分)に働きかけて善くしていこうという教えではない』、
ということがはっきりと述べられています。

<<今まで他の宗教や修養法や自制法などでいくら禁酒禁煙しようと思っても禁酒禁煙できなかった人が「生長の家」に来られて神想観をやったり、わたしの『生命の實相』を読んでいるうちに、自然に巧まず工夫せずに禁酒禁煙させてくる実例が多いのであります。>>

わたしたち「生長の家」を信仰する者は、人間の悪や罪を認める必要はまったくなく、
だだ、神想観をして、『生命の實相』を拝読することで、自然に「実相の心」(本当の自分)が顕われてすべてが順調に流れ出すというわけですね!

5339トキ ◆AXzLMGIbhk:2015/04/10(金) 19:49:24 ID:4juByk5Y
生命の実相第17巻 44ページより謹写

 病気の話が大分出ましたが、「生長の家」は何も病気治しばかりをするところではない。
「生長の家」の説くところは一切宗教の神髄である。何教でなければならぬと凝り固まった宗派ではない。
また宗門でもない。派生したものならば、その流れて行く方向がちがうもしれぬ、また宗門でありましたならば、
それは門でありますから、東門と西門とはまったく別方向を向いているかもしれぬ。
別方向に流れたり、別方向を向いていたら、イヤこの教えは東向きじゃ、イヤこの教えは西向きじゃと言って争わなければならぬかもしれぬ。

 けれども、「生長の家」はどの方向へも偏寄ってはいないから、宗派争い、宗門争いを
する必要がない。お前の宗教を止めて「生長の家」へ入れとは言わない。また言う必要
がない。すべての宗門もそれで宜しい。しかし、もっと奥は這入れ、その堂奥に「生長の家」
があると説くのであります。

 キリスト教の人はキリスト教でそれでよい。
仏教の人は仏教でそれでよい。
神道の人は神道でそれでよい。

 しかし、宗教というものをただ講座や、哲学や、乞食のような拝み倒しや、死に際の用だと思ってはならない。
宗教はその神髄まで深く入って来るとき必然的に実生活にまで生きてこなければならないのであります。

(つづく)

5340トキ ◆AXzLMGIbhk:2015/04/10(金) 20:03:14 ID:4juByk5Y
 宗教が実生活にまで生きてこないとき、宗教は無用の長物視され、閑人の閑事業
視され、老人の玩物視されてしまうのであります。ところが宗教が実生活にまで生き
てきますと、それが実生活の指導原理となってくるのであります。実生活の指導原理
となるばかりではなく、「神の子」の生活を人生に実現することになるのであります。

<以上で、謹写を終えます>

 私が感じた部分は以上の部分であります。

 亡くなられた藤原敏之先生は、生長の家宇治別格本山の長期練成が終わる時のご講話
で、「みなさんは、今日で宇治の練成会は最終日を迎えますが、ここで学んだことを
帰ってから実践することが大事なんですよ。」と言われていたのを思い出します。

 聖典に書かれていることを生活に実践し、よりよい生活を送る。
その悦びがあって、はじめて他人様にお伝えしようという原動力になるのであります。

 生活に活かす、という信仰は、簡単なようですが、たいへんな部分はあります。
が、そこからしか、本当の向上はないと感じております。

合掌 ありがとうございます

5341a hope:2015/04/12(日) 23:26:23 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第17巻 p60 後から2行目

神さまは決してイエス・キリストを磔刑(はりつけ)にされはしなかったのです。
またキリスト自身も磔刑に処せられて血を流したこともなかったのです。

ではなぜキリストは磔刑になって実際われわれの眼に磔刑になったのごとく顕われ給うたのでしょうか。

それは神の怒りをなだめんがためではない。
至仁至愛(しじんしあい)なる神は決して未だかつて怒り給うたことはないのです。
だから神の怒りをなだめる必要などは露さらないのです。

ではなんのために神はキリストを遣わし給うて磔刑にかかって苦しむ有様を現じ給うたのでありましょうか。

それは実に人類の罪の意識をなだめんがためなのであります。
「罪」というものを神は造り給わないのでありますから、罪はこの世に実在しない、実在しないはずの罪がどうして消えないかというと、人類自身の念が、罪がある、罪が重いと思ってそれに執着しているからなのです、「罪はない」と知って念を罪から解放しましたらなら、地球の引力がなくなったらいっさいの雲霧が飛び散ってしまうように、「本来無い罪」は自然に消え去ってしまうのであります。

だといって、「罪は無い」と教えてやっても、「罪はアル」と思っている人々には、なかなか「オオそうか」と罪念が消えてしまわない。
そういう人の罪の観念を消し去るためには、罪を贖(あがな)うためには罪の値を支払うためには、自分自身何か罪つぐないの苦しみをするか、誰かが代わりに苦しんで「オイお前の罪の代価はワシが代わりに払ってやったよ」と言ってくれる人がなくてはならない。

イエスが神から遣わされて十字架にかかって苦しまれたのは人類に対して「オイお前の罪の代価はワシが代わりに支払ってやったよ」と言って、われわれの罪の意識をなだめる役目で出現されたのであります。
決して神の怒りをなだめるためではなかったのです。

神は決して怒り給うような神ではないのです。
「オオ君が僕の代わりに借金を支払ってくれたのかありがとう」――人類はこう言って罪の重荷がおりたと思ってラクになり、ヤレヤレと思う。
これで、人類から罪の念が解放される。
罪本来無く、ただ罪の念で繋ぎ止めておいたために今まで消えなかった罪ですから、もうこれで罪は消えてしまったのです。

イエス・キリストはこういうように人類の罪の意識をなだめて人類から罪を解放し、人類をラクにしてあげようと思って、本来苦しまず、本来金剛不壊で傷つかない「久遠の実在」であるにもかかわらず、磔刑にかかって傷ついた姿であらわれたのであります。

だから、キリストの十字架の目的からいってもキリストでさえ苦しみ給うたのであるから自分も苦しまねばならないなんて考えているのはまちがいなのであります。
キリストの十字架は人間が楽になるように出現したのです。

宝蔵菩薩の四十八願は人間が楽になるように、極楽になるように出現したのです。
宗教というものは、こういうように人間が楽になるように、極楽になるように出現したのでありまして、今までの宗教には難行道という易行道(いぎょう)とがあると言われていますが、真宗などは易行であって、ただ南無阿弥陀仏と言うだけで救われるのでありますが、「生長の家」は易行よりもまだやさしいのです。

それは容易(やさ)しいだけではない。
楽な行である。
楽行道だと言っているのであります。
もう時間も予定の十時を十分過ぎましたから今日の講演はこれで終ることに致します。

第1章 終わり

5342a hope:2015/04/12(日) 23:27:37 ID:cEpBaIdo

>>5341 a hope所感)

あくまでも、磔行(はりつけ)になったのは肉体キリストの現象の姿であって、
実相のキリストは久遠の実在で、磔行(はりつけ)にもなっていないし、血も流していないのですね。

わたしたち人間の実相もみなキリストと同じ久遠の実在なのですから、悟ってみれば、
どんな苦難に見舞われようとも苦しむこともなく傷つくこともないのだと思います。

そして、「病なし 迷いなし 罪なし」 の「実相独在」の真理を悟るためにわたしたち「生長の家」の信徒がすべきことは、
神想観と聖典「生命の實相」の拝読なのですから、それは本当に「楽行道」ですよね!

5343トキ ◆AXzLMGIbhk:2015/04/13(月) 20:18:29 ID:SxM22Y9g
>>5342

 おっしゃる通りですね!

 生長の家の聖典を拝読すると、いろいろ良い事が書いて有ります。
例えば、生命の実相の第7巻の「朝の時間を活かせ」などは有名です。

 ただ、そういう部分は、倫理とか道徳というところでも説かれてい
ます。信仰が倫理や道徳とどこが違うか、というと、神様の説かれた
真理から出発するところにあります。生長の家の信徒だと、人間=神の子
の真理から始まるかと感じます。

 タバコや肉食をやめなさい、ではなくて、人間 神の子の自覚が深まる
と自ずからタバコも肉食も減ります。そのために必要なのは、日常生活
の中で、誰でも始められるものですから、本当に「楽行道」ですね。

5344a hope:2015/04/14(火) 09:38:18 ID:cEpBaIdo
>>5343 トキさま

わたしの所感にご賛同くださりありがとうございます。

<<タバコや肉食をやめなさい、ではなくて、人間 神の子の自覚が深まる
と自ずからタバコも肉食も減ります。>>

わたしも、トキさまのおっしゃるようになってこそ、神の子の実相が顕現したといえると思うのです。


現教団の雅宣先生や純子先生のご指導は、
『人間は「神の子」だから「神の子らしく」肉食を減らし、地球にやさしく暮らしましょう!』
みたいな、ご指導になってしまっていて、そのような指導方法では、神の子の実相は顕現しないと感じています。

今現在、生長の家の信徒の為すべきことは、
雅春先生の遺された「聖典の拝読」と「神想観の実修」それが最優先だと思います。

それに、それは、誰をも幸せにする「楽行道」なのですから・・・

5345a hope:2015/04/14(火) 14:55:27 ID:cEpBaIdo

みなさま こんにちは

家政連板 >>5143で神の子さま(おそらく曳馬野さまかそのお仲間)が、
わたしの>>4344のトキさまへのコメントに反応されて、

<<「三正行」と云われているわけですが、二つだけでは野弧になりましょう。
教団の中で『愛行』をやり切れなかった人間、が隠れてネットで寝言を言う。どこが「楽行道」なんだか?>>

と発言されています。

わたしが今回、雅宣先生や純子先生のご指導を批判したので、きっと登場されるのではないかと予測はしていました。

わたしは、今までずっと、生長の家の信徒がすべきこととして、三正行をあげさせていただいていましたが、
今回は「聖典の拝読」と「神想観の実修」だけをあげさせていただいのには理由があるのです。

なぜなら、最近では「生長の家」の信徒のすべき「愛行」の定義がハッキリわからなくなってきてしまっていると感じているからです。

わたしが認識している愛行とは「生長の家の教え」つまり「人間神の子の真理」の伝道です。

ですが現教団の指導の下では、太陽パネルの建築への募金や、マイ箸運動、節電、・・・
そんなことが生長の家の「愛行」であるかのようになってしまっていませんか?

だから、あえて、生長の家の信徒が最優先にすべきことの中に「愛行」を省かせていただいたのです。

雅春先生の「聖典を拝読」し「神想観を実修」していれば、おのずと正しい「愛行」は行われるものだと思います。

5346a hope:2015/04/14(火) 14:59:39 ID:cEpBaIdo
>>5345訂正

わたしの>>4344のトキさまへのコメントに反応されて、
  ↓
わたしの>>5344のトキさまへのコメントに反応されて、

5347神の子さん:2015/04/14(火) 15:26:37 ID:wVeysO6Q
>>雅春先生の「聖典を拝読」し「神想観を実修」していれば、おのずと正しい「愛行」は行われるものだと思います

以下の3144を答えとしましょう

3140 :神の子さん :2015/04/14(火) 12:51:34 ID:1Pks5UNk
過疎の村起こしですか?安倍ポチの言いぐさと同じこと


3141 :神の子さん :2015/04/14(火) 13:08:17 ID:1Pks5UNk
福岡のまじめな信徒さんの書き込みを妨害するかのように、a hopeさんがつまらん貼り付けをしたので、出てこなくなった。

誌友会版で能書き云うだけならいいのだが、二つの版を独占した。トンチンカンさんも一つの版の独占、縹さんも一つの版の独占、

この三個の版には誰も反応しない。過疎化の原因は管理人のいい加減さでしょう。


3142 :神の子さん :2015/04/14(火) 13:36:28 ID:1Pks5UNk
なんかアクセス制限掛けてるのかな


3143 :神の子さん :2015/04/14(火) 14:11:50 ID:wUlsSC6Y
今現在、生長の家の信徒の為すべきことは、
雅春先生の遺された「聖典の拝読」と「神想観の実修」それが最優先だと思います。
それに、それは、誰をも幸せにする「楽行道」なのですから・・・ a hopeさん

「三正行」と云われているわけですが、二つだけでは野弧になりましょう。

教団の中で『愛行』をやり切れなかった人間、が隠れてネットで寝言を言う。どこが「楽行道」なんだか?


3144 :神の子さん :2015/04/14(火) 14:52:12 ID:wVeysO6Q
大体トキさんが教区の人間であり、生長の家の教えはこうだと云える人であるならば、そして人から信頼されているのであれば、

貴女の教区から分派に行く人はいないでしょう。そして総裁の教えがおかしいと云うのでしたら、今の教えから残っている信徒を救う

のが愛行でしょう。そして昔のままの素晴らしい教区として全国に知れ渡っていることでしょう。

そうなっていないとすれば現場で愛行をしていないと云うことでしょう。

壇上で能書き云うことを仕事としているのでしょうか?それとも本部直轄の組織人間で給金のために能書き云っているのでしょうか?


3145 :神の子さん :2015/04/14(火) 15:04:41 ID:wVeysO6Q
公開プロキシ規制だとか、リファラ規制だとか、管理人さん頑張っていますね

5352a hope:2015/04/14(火) 19:34:15 ID:cEpBaIdo

以下に1月12日の純子先生のFBからのご文章を紹介させていただきます。

――――――――

今週のことば--

私たちは、困っている人、災害にあった人、難民などに、物資を送ったり献金をします。
肉食からノーミートに転換することは、貧しい国の人々に献金するのと同じような効果があり、大きな愛行であり、善行と言えます。
そのように考えれば、毎日の食事から少しずつ肉を減らしていくことを、信仰者ができないはずはないと思います。
            
機関誌『生長の家』2014年11月号33頁

―――――――


本当に、肉食からノーミートに転換することが、貧しい国の人々に献金するのと同じような効果があり、
「大きな愛行」で「善行」になるのでしょうか?

それに、「毎日の食事から少しずつ肉を減らしていくことを、信仰者ができないはずはない」というご発言があまりにも押しつけ的に聞こえてしまい、
時にはお肉も美味しくいただいているわたしは、生長の家の「信仰者」ではないのかととても嫌な気持ちになりました。


繰り返しますが、>>5343でトキさまがおっしゃっているような、

<<タバコや肉食をやめなさい、ではなくて、人間 神の子の自覚が深まる
と自ずからタバコも肉食も減ります。>>

という状態になっていくのが、本当の「生長の家」の信仰者の姿なのだとわたしは思います。

5353神の子さん:2015/04/15(水) 06:30:32 ID:???
>>おそらく曳馬野さまかそのお仲間が


曳馬野に、お仲間無し。ひとりぽっち。

5354a hope:2015/04/18(土) 18:38:19 ID:cEpBaIdo

生命の實相第17巻 p80 1行目〜

実際に「生長の家」の聖典『生命の實相』を読みますと、「ああ自分の宗教の教祖はこういう意味を説いていられたのか」とはじめて頷けて釈然とするのであります。
よく宗教同士相争うているのを見受けますが、元来宗教は和解がその役目でありますのに、その宗教が互いに相争っているのは、「こうでなければならぬ、ああでなければならぬ」と捉われるから、ギコチなくなり、固苦しくなり、ついには互に相争うて和解を使命とする宗教本来の使命が滅びてしまうのであります。

「生長の家」はすべての争っている宗教を一つの真理の内に癒合して仲好しにさせるという機能をもっているのでありますから、よくちがった宗教の人たちが夫婦になると互に調和しないで家庭にいろいろな問題が起っているような場合に、そこへ一冊の『生命の實相』の聖典が舞い込みますと、今まで、反対のように見えていた宗教は実は一つの真理の表門と裏門であって、本当はやはり一つであるということが分かって夫婦が仲好しになられた例がたくさんあるのであります。

5355a hope:2015/04/18(土) 18:39:28 ID:cEpBaIdo

>>5354 a hope所感)

<<よく宗教同士相争うているのを見受けますが、元来宗教は和解がその役目でありますのに、その宗教が互いに相争っているのは、「こうでなければならぬ、ああでなければならぬ」と捉われるから、ギコチなくなり、固苦しくなり、ついには互に相争うて和解を使命とする宗教本来の使命が滅びてしまうのであります。>>

宗教の本来の使命は、「和解」だったのですね・・・・。


<<「生長の家」はすべての争っている宗教を一つの真理の内に癒合して仲好しにさせるという機能をもっているのでありますから、・・・>>

そして、本来の「生長の家」には、そういう機能があったのですね・・・。


今現在、その「生長の家」が内紛し分裂し、「和解」の使命が滅びてしまって見えているのは、
「こうでなければならぬ、ああでなければならぬ」と捉われているからにほかならないと思います。

生長の家が「和解」の使命を取り戻すためには、すべての「ねばなばならない」を払拭して、
信徒一人一人が、聖典「生命の實相」の基本に戻ること、それ以外方法はないように感じています。

5356神の子さん:2015/04/18(土) 18:58:11 ID:f6iBwf1Q

今現在、その「生長の家」が内紛し分裂し、「和解」の使命が滅びてしまって見えているのは、
「こうでなければならぬ、ああでなければならぬ」と捉われているからにほかならないと思います。

生長の家が「和解」の使命を取り戻すためには、すべての「ねばなばならない」を払拭して、
信徒一人一人が、聖典「生命の實相」の基本に戻ること、それ以外方法はないように感じています。
***************************************************************************************************

あなたが『ねばならない』に一番捉われているのでしょうが。基本に戻らなければならないとね。

あなた自身が教団との和解が出来ていない。

貴女の言う和解とは何?

5357レイ:2015/04/18(土) 21:32:04 ID:1ThqK4Lc
基地に言われて誌友会に参加する事にしました(^-^ゞ

5358レイ:2015/04/18(土) 21:35:44 ID:1ThqK4Lc
最近、インキンタムシだと思ったらパンツを毎日履き替えれば痒くないって事に気付きました。

しかし。

ただ、パンツを履き替え『ねばならない』から解放しても股間が痒くなってしまいます。

5359レイ:2015/04/18(土) 21:38:11 ID:1ThqK4Lc
働かねばならない
税金を納めねばならない
服を着ねばならない…

人生百般の『ねばならない』から解放されただけでは無軌道な人生になってしまいます。

5360レイ:2015/04/18(土) 21:44:55 ID:1ThqK4Lc
教団と和解せねばならない
メガソーラー募金をやらねばならない
聖典を読まねばならない
肉食をやめねばならない…

一切の『ねばならない』から解放されて、ただ神の子の値打を出す…その為にはしっかり勉強して誰にでも親切にして、神の子の値打ちを、この世に人間が生まれた目的を果たすようにしたいですね。

5361レイ:2015/04/18(土) 21:54:44 ID:1ThqK4Lc
さて、それなら自分は迷い子では無い、神の子だというヘッドライトを常に心に灯すようにしたいですね。

だから大事なのは…

ここで和解念仏和尚の出番でしょうかな?

5362私嘘つきです:2015/04/18(土) 22:37:42 ID:f6iBwf1Q
「私は学ぶ会に移りました、ああすっきりした」

「全国大会に行けなくなりました、残念」

何て作文書く、嘘つきを止めてからモノ言いましょう

5363レイ:2015/04/18(土) 23:30:32 ID:1ThqK4Lc
>>5362
嘘は言ってないけどね。
全国大会、行けるようにしたいな〜

貴方も行きませんか?

5364レイ:2015/04/18(土) 23:47:40 ID:1ThqK4Lc
誘ってもらえて感激ですか?

思いたったら明日、直ぐに申し込みを(^人^)

5365私嘘つきです:2015/04/18(土) 23:58:02 ID:f6iBwf1Q
嘘は言ってないけどね。
全国大会、行けるようにしたいな〜
**************************************************************
歩いて行けば〜 誰もあなたの歩くの止められないよ

空気吸うのは自由だろ、歩くのも自由、陰金たむしも自由にどうぞ

5366a hope:2015/04/19(日) 00:24:09 ID:brQxC10.

レイさま

Web誌友会ご参加ありがとうございます。

ですが、ここで言う「ねばならない」とは、自分の本意ではないことを強制的にするときに使うことばだと思うのです。

だから、>>9358の<<パンツを履き替え『ねばならない』から解放しても股間が痒くなってしまいます。>>

という場合に使うのはちょっと違う様な気がしますが・・・

パンツを履き替えればかゆみが止まりレイさまが快適になるのであれば、それはレイさまの本意なのではないですか?

一方、肉が大好きな人が『肉食を止めろ』と言われたら、それはその人の本意ではないですよね?

そういう時に、「自分は肉は食べたいけれども、環境のために肉食は控えなければならない」と使うのが本当の「ねばならない」のつかい方なのではないのでしょか?

たしかに、働くのが嫌いな人が働くのは「働かねばならない」ですし、
税金を納めるのがいやな人が税金を納めるのも「納めねばならない」でしょうし、
服を着るのが嫌いな人が服を着るのも「着ねばならない」となるのかもしれません。

ですが聖典「生命の実相」を拝読し、神の子の自覚がでてくれば、そんな怠け心やケチな心や変態心は自然になくなってきますよね!

だから反対に考えれば、聖典「生命の實相」を拝読して神の子の自覚を深めることで、
無理なく「ねばならない」を払拭できるのが「生長の家」の教えなのだと思うのです。

少し説明がややこしくなってしまいましたが、レイさまが>>9360で、そういう意味で、

<<一切の『ねばならない』から解放されて、ただ神の子の値打を出す…その為にはしっかり勉強して誰にでも親切にして、神の子の値打ちを、この世に人間が生まれた目的を果たすようにしたいですね。>>

とおっしゃっておられるのでしたら、レイさまのご意見に心より賛同させていただきますね!

5367a hope:2015/04/19(日) 11:22:31 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第17巻 p96 4行目〜

実例をあげれば、先日話しました材木(さいき)さんの話でありますが、材木さんの泊まっておられた小川旅館のおかみさんが耳が悪くて少しも聞こえなかった。
始終耳ががんがん鳴っていて聞こえなかったのであります。
客も三、四人しか来ないで経営が思わしからず、困っている状態なので、材木さんが「生長の家」の話をしてぜひ読んでみるようにと教えられたそうであります。

それでおかみさんが生長の家の聖典『生命の實相』を貰って一所懸命に読んでみられた。
一度は、石井照子さんに訪問してもらったのでありますが、それ以来気分がすっかりよくなって今まで夕立のようにざあざあなっていた耳鳴りがぴったりやんでしまったのであります。
耳だけではない、主婦(おかみ)さんの心が変わってくると、それと同時に店が繁昌してきたのです。
四、五人しかなかった客が三、四十人もやって来て、部屋が足りなくなって一室に二組三組と詰め込まねばならぬような始末になってきたのであります。
心が変われば店が繁昌する。
貧乏も極楽も皆心の中にある。

これはただの一例ですが『生命の實相』という本一つで、この宿屋の主婦さんの環境が地獄から極楽へ一転してしまったのであります。
これを推し進めて行きますと、『生命の實相』の本を読ましたら、その読む人の環境が極楽になる。
すべての人間に『生命の実相』の本を読ましたら、すべての人間の環境が極楽になる。
そうすると心一つで地上に天国が成就することになるのであります。・・・

5368a hope:2015/04/19(日) 11:25:03 ID:cEpBaIdo

>>5367 a hope所感)

<<これを推し進めて行きますと、『生命の實相』の本を読ましたら、その読む人の環境が極楽になる。
すべての人間に『生命の実相』の本を読ましたら、すべての人間の環境が極楽になる。
そうすると心一つで地上に天国が成就することになるのであります。・・・>>

生長の家の伝道は、真理の書かれた聖典の「文書伝道」だと教わりました。
混乱したら基本に戻ればいいだけのことだと思うのですが・・・違うのでしょうか?

5369神の子さん:2015/04/19(日) 21:37:52 ID:1ThqK4Lc
>>5365
アナタは観世音菩薩さまですか?

ありがとうございます(^-^)

5370レイ:2015/04/19(日) 21:54:25 ID:1ThqK4Lc
パンツは冗談ですがf^_^;
そういう意味で。

私は神の子の美しい値打ちを出す為に生きていきたいと思ってます。
それがこの世に自分の生まれた目的、意味なんだと。

『人間の目的は「神の子」の値打を出すこと』
(人生読本37ページ)

5371レイ:2015/04/19(日) 21:59:50 ID:1ThqK4Lc
生命の実相は、私には難しくちょっと敷居が高いけど。
読み出せば引き込まれて一気読みもしますが、普段はなかなかページが進みませぬ。

5372レイ:2015/04/19(日) 22:58:49 ID:1ThqK4Lc
雅春先生の本を買いすぎて何れから手を付ければ良いか途方にくれていましたが。
自分の愛読書は人生読本と真理の吟唱になりました。

自分なりのやり方が掴めてきたトコで。
心が落ち着いて腹を立てる事が少なくなった自分に気付きます。

5373a hope:2015/04/20(月) 09:41:09 ID:cEpBaIdo

レイさま 

<<私は神の子の美しい値打ちを出す為に生きていきたいと思ってます。
それがこの世に自分の生まれた目的、意味なんだと。>>

<<心が落ち着いて腹を立てる事が少なくなった自分に気付きます。>>

レイさまの素晴らしいご心境に感動しました!


『人生読本』は、わたしにとっても愛読書です。
実は4年前に全文章をこの掲示板の信仰/体験板と聖典板に謹写していたのですよ。

その最初の文章が見つかりましたので紹介させていただきます。

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1311411528/730

わたし、、、若いですね(笑)

子供達もまだ小さかったので、今よりずっと家事育児に忙しかったのだと思いますが、
自分で読んでも、生長の家の教えに触れて感動している様子がありありと伝わってきます。


『生命の實相』は、確かに哲学的な説明が多いので難しいのかもしれません。
わたし自身は、哲学が好きなのであまり気になりませんが・・・。

雅春先生はたくさんの著書を遺してくださっていますが、その中でも「聖典」と呼ばれるものは、
拝読しなくても携帯しているだけで災難から身を護ってくださるお守りの役目をしてくださいますよね!

家の本棚に在るだけで、お家を護ってくださっているのだと思います。

聖典の真理の言葉は、頭で考えすぎずに素直に心読することが大切なのではないかと感じています

5374a hope:2015/04/23(木) 11:39:10 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第17巻 p137 5行目〜

 谷口――なんでも「ぜひこうして欲しい」「こうでなければならぬ」とこの「ぜひひてほしい、ねばならぬ」に捉われますと、心が互いに引っかかって争わなくてはならなくなるのです。
この欲しい、ねばならぬ」を捨てたときに家庭の平和は来るのです。
自分で「こうではなければならぬ」という寸法を持っていると、そうでないものはみんなまちがっているように見える。
そうすると心の中でどうしても非難する。
心の中で非難すると、言葉に出して非難しなくとも必ずそれが感応して互い互いに意地悪をやるようになってくるのです。

だから、お父さんが仏壇を拝みにならなかったとて「お父さんが拝まぬから悪い」とお考えにならないでよいでしょう。
「一人出家すれば九族天に生まる」という言葉がある。
一人でも本当に悟れば、一家全体は救われるのです。
お父さんが仏壇を礼拝なさらなければ、この分はお父さんの分だと思ってあなたが代わりに礼拝してあげるとよろしい。
お父さんを咎める心になるよりよほど気持ちがよい。

5375a hope:2015/04/23(木) 11:51:49 ID:cEpBaIdo

>>5374 a hope所感)

ここに登場する「お父さん」は、ご自分が病身であり、ある霊覚者によると父の方の因縁があるので、
「お父さん」自身が父方の仏壇を礼拝しないとその病気は治らないといわれたそうです。
ですから家族がその「お父さん」に父方の仏壇を丁寧に礼拝するように頼むのですが、
まったく聞き入れずに、そのことで家族と争いのようになってしまっているようです。
その相談への雅春先生お答えが、上の謹写部分です。

とても考えさせられる内容だと思いました。


これを間違って解釈してしまうと、

『片付けをしないわが子を咎めることなく、親が代わりに片付けてしまう・・・その方が、叱らずにすむから、気もちがいい。』

ということにもなりかねません。


現「生長の家」の問題にあてはめてみて考えますと、
わたしたちは、生長の家の総裁・副総裁なのに本来の「生長の家」の信仰をしない雅宣先生や純子先生を、

<<総裁・副総裁が本来の「生長の家」を信仰なさらなければ、この分はお二人の分だと思ってあなたが代わりに信仰してあげるとよろしい。
お二人を咎める心になるよりよほど気持ちがよい。>>

となってしまいます。


今回、岡先生というお方が雅宣総裁に「公開質問」をされたようですが、
これは、ご自分自身のお心の「気持ちのよさ」だけを考えていては決してできない、
とても勇気のある行動だと思いました。

5376a hope:2015/04/26(日) 09:29:05 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」17巻p165 9行目〜

太田――先生、わたしは質問があります。
わたしは信仰は教育を否定しない、信仰と教育とは平行して行くべきものだと思うのです。
神様を本当に信ずるということと、神様にまかせたというのを口実になんの努力もせずに懶(なま)けていることとはちがうと思います。

谷口――それはちがいますねえ。

太田――ところがわたしの家内の場合では、神様を本当に信ずるということは、何もかも神様に打ち委(まか)せて、子供の教育はほったらかして、自分は何もせずに懶(なま)けているということなのです。

谷口――そんなことはありますまい。 
本当に神様を信じたら、懶(なま)けるなどという状態は自然になくなるのが本当の信仰です。
懶(なま)けるということは「行為」でないわけではない、形にあらわれた一種の「何もせぬという行為」である。
そして形にあらわれた行為は心の影ですから、心に本当の信仰が握れたら、その心の投影として行為が自由自在になる。
自由自在無礙になるのが本当の正しい信仰の投影としての行為です。
何もしないで懶(なま)けているという行為は、決して正しい信仰の投影ではありませんねえ。
信仰というものは、たとえばここにある茶碗でもここからかしこへ動かそうとする時に祈って手を動かさないでいるのが信仰ではない。
あの茶碗はきっと動かせると信じて自分が起ち上がって持ってくることです。

太田――ところが家内の場合では、わたしがいろいろと子供に注意していることを、子供を信じないからだと言うのです。
子供を信じ神様を信じたら、そんなに子供の行為に干渉しなくとも、大空に凧の糸目を切って放したように、本当に無干渉になってしまわねばならないと言うのです。
しかしわたしは、子供に注意を与えることが干渉だとは思っていない。
教育だと思っているのです。
教育というものは導くということです。

谷口――そうです。
教育ということは引き出すということです。
本来もっているものが出やすいように窓口を開いてやるということです。・・・

5377a hope:2015/04/26(日) 09:31:40 ID:cEpBaIdo

(a hope所感)

この後、ご主人の太田氏に、

<<神様を本当に信ずるということは、何もかも神様に打ち委(まか)せて、子供の教育はほったらかして、自分は何もせずに懶(なま)けているということなのです。>>

と思われてしまっている、奥さまの太田夫人が反論しています。


わたしも「子供の教育」に関しては、悩むことが多いので、この太田ご夫婦と雅春先生の御対談はとても興味深かったです。


よく「自由と放任は違う」という言葉を聞きますが、みなさんはどう違うとお考えですか?


上の雅春先生のお言葉に、

<<心に本当の信仰が握れたら、その心の投影として行為が自由自在になる。>>
<<自由自在無礙になるのが本当の正しい信仰の投影としての行為です。>>

とあります。


わたしは、正しい信仰(生き方)ができていないのに『自由』を主張するのはそれは 『自由』ではなくて「自分勝手」や「放漫」で、
そして相手の「自分勝手」や「放漫」をさせるがままにしてしまうのが「放任」なのではないかと解釈しました。

相手の「実相」を礼拝して信じることは勿論信仰の基本だと思いますが、現象の相手の姿がおかしかったり間違っていると感じたら、
「あなたのしていることは、おかしくありませんか?間違っていませんか?」と注意してあげることは、
相手の「実相」を信じているからこそできる、とても信仰深い愛深い行為なのではないか感じています。

5378a hope:2015/04/30(木) 12:17:50 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第17巻 p212 9行目〜

谷口―― 東京でも「手のひら療治」の幹部が、ぞくぞく『生長の家』へお入りになるようであります。
病人に同じ手を触れるにしても、病気本来無い「生命の実相」を知って触れると、普通の二倍三倍の速力で治るのであります。
江口鎮白(やすきよ)さんの「手のひら療治」の道場には正面の机の上に全集『生命の實相』が置いてあるそうで、江口さんみずから『生命の實相』の治し方は大乗の教えであって、自分の治し方は小乗の治し方であって方便の教えである。
今の世に大乗の教えを受ける人が少ないのでやむをえずに方便としての小乗の治し方を採用していると言われているそうです。
こう言ううる江口さんは心の広い方です。

5379a hope:2015/04/30(木) 12:22:03 ID:cEpBaIdo

>>5378 a hope所感)

ここに、「大乗」と「小乗」という言葉がでてきました。
このことに関しては、以前第11巻「万教帰一篇」を勉強しているときに少し混乱して、このweb誌友会で質問させていただきました。
そのときに、縹さまが素晴らしいご指導をくださいました。
>>3785 〜>>3800 のあたりです。

あらためて読み返してみると『生命の實相』の教えがどれだけすごい教えなのかを再認識できます。
今世でこの教えに巡り合えたこと、この「生命の實相」を信仰の指針として学べることに心から感謝の念が湧き上がってきます。


ところで、以前わたしが曹洞宗の寺の座禅会に参加していたときに、
そこの寺の住職の法話で「大乗と小乗の説明」の例え話を聞いたことを思い出しました。


【住職の話】

まわりが火の海の中で遊ぶ子供をどのように救出するのか?

いきなり大きな車(大乗)で向かっては、子供は警戒してその車には決して乗らない。
1、ますは、羊車などの小さな車(小乗)を見せて子供の興味をひき家より連れ出す
2、そのあと、手押し車に乗り換えさせてより速く逃げ、
3、最後に大きな車(大乗)に乗せて安全を確保する。


そのような説明でした。

この例えを、「生長の家の教え」で考えてみました。


【a hopeの考え】

人間を「罪の子」だと信じている人間をどのように救出するのか?

いきなり「人間は神の子で罪なしですよ」(大乗・人類の救済)を説いても決して信じない
1、まずは、自分の心を変えることで病気や生活難や人間関係が改善することを知らせる(小乗・個人の救済)
2、そのあと、三正行をすることで「人間神の子」の自覚を深めさせ
3、最後に「唯神実相」の真理を悟らせる(大悟・大乗・人類救済)

生長の家の教えには縦の真理(唯神実相)と横の真理(唯心所現)がありますが、
ここでは横の真理が(小乗・個人の救済)、縦の真理が(大乗・人類全体の救済)になるのではないかと解釈しました。
間違いがあればご指摘ご指導をお願いいたします。

唯神実相を大悟した谷口雅春先生やキリスト釈迦等のレベルの方でしたら、大乗をいきなり説いても奇蹟は起きたかもしれません。

ですが、大悟していない(完全に救われていない)人間が人類全体の救済をいきなり目指すのは無理があると思います。
「生長の家の教え」で考えれば、まずは個人の救済(小乗)をしていくことが信仰の基本になるのではないでしょうか?

5380a hope:2015/05/01(金) 20:48:30 ID:cEpBaIdo

みなさま こんばんは

5月に入りましたので、第34回 web誌友会を開会させていただきます。
開会にあたり、祈りの言葉を掲載させていただきます。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

住吉大神様 住吉大神様  谷口雅春先生 谷口雅春先生有難うございます、有難うございます。
 
生きとし生けるものを生かし給える御祖神元津霊ゆ幸へ給へ 
吾が生くるは吾力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命
吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能
天地の祖神の道を伝へんと顕れましし生長の家の大神まもりませ
  
住吉大神様、今月の 生長の家 本流復活について考える WEB誌友会板 に於ける
生命の実相 輪読誌友会で、生長の家の御教えを正しく把握し、広く伝道するための 
必要な霊の選士を集え給うて、真理の研鑽を導き給う。
住吉大神様 勉強会を正しく導き給う 住吉大神様 勉強会を正しく導きたもう。
参加者お一人、お一人を浄化し給うて、使命を授け給う。
有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます

世界平和の祈り

神の無限の愛、吾に流れ入り給いて、愛の霊光燦然と輝き給う。
その光いよいよ輝きを増して全地上を覆い給い、すべての人々の心に愛と平和と秩序と中心帰一の真理を満たし給う。


光明思念の歌

天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

5381a hope:2015/05/01(金) 20:51:10 ID:cEpBaIdo

つづきまして、今回のテキストである 第18巻の「はしがき」を謹写させていただきます。


「はしがき」p1〜

宗教的信仰をもっている人はともすれば凝り固まって、物の考え方や生活が偏狭になると思う人があるが、それはまちがった偏った信仰をもっているからである。

本当に正しい宗教的信仰は、人間の心を空・無礙の境涯にあらしめ、人間の生活を非常に自由にならしめるものなのである。

正しい信仰のない者は自分の生命の本体、生命の実相がわからないから、窮屈に片寄って委縮して大きな仕事もできないし、勇敢な決断もできない。

自分の生命の本体がわかると、その本体から無限大の力を汲み出して来て何をしても自由自在にできるようになるのである。

本当に正しい宗教というものは人間を解放するものなのである。

ある種の新興宗教では、「この宗教に入らないと不幸が起こるぞ」などと言って、人間を脅迫して人間の自由を縛るような種類のものがあるが、かくのごときは邪教であって正しい宗教ではないのである。
(つづく)

5382a hope:2015/05/01(金) 20:51:59 ID:cEpBaIdo
(つづき)
仏教では、「さとりを得る」ことを「解脱する」と言う。

すなわち、迷いによって自己を縛って窮屈にしていた状態から人間を解脱せしめ解放するのが、正しい宗教的信仰なのである。

正しい信仰には真理の裏づけがなければならない。

だから真理を知った人を仏教では「覚者」すなわち「仏陀」と称したのである。

キリスト教では「真理はなんじを自由ならしめん」と言っている。

所詮、正しい宗教的信仰は、人間を自由自在ならしめるものである。

すべての正しき宗教はこのように人間の全体的解放の道を示すのである。

人間が全的に解放され、「内在の生命」が自由自在に発露する結果、運命も好転するし病気も治ることもあるが、そんなことは宗教の随伴的功徳であって、中心的な救いではない。

人間が全的に解放されるとき、どのように人間が自由になり、心の底から悦べるかは、本書の内容を読んでいただければよくわかるのである。

本篇に収録された各章は生長の家草創当時、わたしがまだ神戸の郊外の住吉村にいたころに、集まって来た人達が自分の信仰体験について互に語り合った対話を筆録したものを筆録したものであって、対話者は、いずれも、キリスト教にするならば原始キリスト教時代の十二使徒とも言うべき人々であって、その対話も正しい信仰の深い境地を語っていて、その行履(あんり)はもって永遠に範(はん)とするに足るものなのである。

おそらく聖書の「使徒の書」が永遠の生命を失わないのと同じように、この書も永遠に汲めば汲むほど新しい生命の泉となるべきものをもっていると信ずる。

幸いに常に携帯して座右の友とし、小閑を利用翻読(ほんどく)して本書のすべてのページより常にその滋味を吸収して神徠(インスピレーション)を受けられんことを希(こいねが)う。

昭和三十八年九月十日      著者しるす

5383a hope:2015/05/01(金) 20:52:50 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

第34回 web誌友会 案内 

期間   5月1日〜5月31日まで
テキスト 「生命の實相」第18巻 宗教問答篇 
内容   第1章〜第5章
     
☆ ☆ ☆ ☆ ☆j

5384トキ ◆AXzLMGIbhk:2015/05/01(金) 22:02:28 ID:jeiQ0zK6
>>5377

 「自由」というのは、禅の言葉から出ていると聞いた事があります。
禅のお坊さんから聞いたのです。(もっとも、ネット上で調べたのですが、
正確性には欠けます。)

 仮説ですが、もし、これが事実だとしたら、「自由」というのは、本来
は人間の実相からくるものかもしれませんね。

5385重要!!:2015/05/02(土) 18:11:10 ID:???
 昭和の時代なら、いろいろと方針を教団が作って、それに信徒がまとまるというのもありだ
ったとは思いますが、これだけ時代が変われば、いろいろな考えの人がいるのが当たり前で、
そえを特定の発想でしばるのは限界があります

5386トキ ◆AXzLMGIbhk:2015/05/02(土) 18:30:19 ID:kF8AX9Ms
>>5385

 そうですね。でも、その話は別の場所でしましょう。

a hope様、今月もよろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

5387ズン吉 ◆tRxz4P5hqk:2015/05/04(月) 17:37:14 ID:???
a hopeさま

前は会社の事でちょっと書いてしまってそのことで回答下さり有難うございました。

今は、何とか少ぅしマシな状況にはなってますが・・

まあ、自分で「こうこうこういう状況です。しんどいです」ってかけ合ったというか、

待ってても状況は同じだったんで。しかし、自分が神の子って忘れてますねぇ。

生長の家の「現象無し」忘れてて、現象ばかり引っかかってますね。(嫌な)出来事が

体験しながら其の出来事を「無し」と思うのは難しいですね。

わたしの解決法は結局、普通の解決の仕方やん。でした(/_;)

5388a hope:2015/05/04(月) 22:50:47 ID:cEpBaIdo

>>5387 るんるんさま

本当の「神の子」の自覚や「現象なし」の悟りは、
突き詰めれば「唯神実相」の悟りで「法華経」の悟りですから、
わたしたち普通の人間はそう簡単には悟ることはできないものだと感じています。

それを本当に悟られて、後世に名前を残しているお方は、キリスト、釈迦くらいで、
雅春先生はこれからのちに語られる方なのではないでしょうか?

だから、わたしたち普通の人間は現象世界に生きていれば物質はあると感じるのが当然ですし、
自分が「神の子」であるという自覚も心に思い描くことはできても、
本当に悟ることはとてもむずかしいと思います。(実際は「神の子」なんでしょうが・・・)

ですが、その「唯神実相」を大悟された谷口雅春先生がご存命だったころはその高級な波動に影響されて、
信徒にも奇蹟が続出したのだと思いますが、今は雅春先生がおられないわけですから、
わたしたちがどんなに「神の子」だと言われてもそう簡単には奇蹟は起きなくなってしまったのだとわたしは推察しています。

だから、るんるんさまの『自分が神の子って忘れてますねぇ。』とか、
『生長の家の「現象無し」忘れてて、現象ばかり引っかかってますね。(嫌な)出来事が』
という感覚はとても普通な正常な感覚なのではないかとわたしは思いますよ。

正直にいえば、わたし自身、生長の家の「横の真理」はだいぶ悟ってきたみたいで、、
自分の心や感情をコントロールすることで現象の状態を良くすることはかなり可能になりつつありますが、
『「神の子」や「唯神実相」の自覚となると、まだまだだな〜』とため息をつく毎日を送っていますもの(;・∀・)。


真理を大悟された雅春先生のいらっしゃらない現在、「人間神の子」や「現象なし」の自覚を得るには、、
谷口雅春先生のご著書つまりは「聖典」を拝読し続けるか、ご講話をyou-tubuなどで拝聴し続け、
その高級な波動に自分の波動を共振させることで悟るしか方法はないのではないかと感じています。

5389るん吉:2015/05/04(月) 23:08:17 ID:mj7GS0oI
a hopeさま

返信有難うございます。そんな風に言って下さり有難うございます。

「谷口先生の生きていらした時は、その高級な波動 云々・・」て前も書いてらっしゃいましたね('_')

わたしもそう考えた事ありました。

それで、現在はまたどこかに、別の誰か谷口雅春先生のような悟った人がいらして、その人の廻りで

いっぱい奇跡のような事、起こってたりするのでしょうかね?(*‘ω‘ *)エエナア・・

今の総裁さんでは、無理っすね。

でも、実相を悟るのは難しい。もっと簡単に皆が悟れたら良いのに・・

5390a hope:2015/05/04(月) 23:36:33 ID:cEpBaIdo

>>5389 るんるんさま

<<それで、現在はまたどこかに、別の誰か谷口雅春先生のような悟った人がいらして、その人の廻りで
いっぱい奇跡のような事、起こってたりするのでしょうかね?(*‘ω‘ *)エエナア・・>>


そうですね。

きっと、そういうことも起るかもしれませんが、わたしが宗教を信仰していく上で一番よくないと思っている「心」が、
「依存心」です。

本来の宗教は人間一人一人の「悟らせる」ためにあるのであって、
現象の状態を救う奇蹟を起こすためにあるのではないですよね?


るんるんさま

わたしたち一人一人が「聖典」を拝読して悟っていけば、必然、地上に天国が出現すると思うのです。
それこそ、雅春先生のご悲願なのではないでしょうか?

これからも、どうぞweb誌友会に時々ご参加くださり、
わたしと一緒に世界最高の聖典「生命の實相」を学んでいって下さいね!


すみません。
今日は少しアルコールが入っています(#^^#)。
わたしの文章に失礼があったらお詫び申し上げますm(__)m

5391るん吉:2015/05/05(火) 02:49:12 ID:mj7GS0oI
a hopeさま

失礼なんて全然思ってませんよ(#^.^#)ホホッ

解ってますって。依頼心なんてダメなことは。冗談で言ったんですよっ。

実相悟らにゃなんにもなりゃしませんものね。

有難うございました。!(^^)!

5392a hope:2015/05/05(火) 15:19:26 ID:cEpBaIdo

生命の實相 第18巻 第一章「肉体と境遇を良くする道」p3

(内容――昭和八年九月中、生長の家の仮見真道場へ日々お見えになった方の折に触れての座談の中より、肉体も環境もわが心の影であるという事実を如実に語り出されたものを系統的に集めさせていただきました。)


p4後から4行目〜

谷口――高血圧症の人の症候の一つは「腹が立ちやすくなる」ということですが、そんなに腹が立たなくなると、もう高血圧も治ったのと同じでございましょう。
腹が立つので高血圧になる、高血圧になるから腹が立つ、両方から病気を亢進させていられたのが、その反対になると、両方から病気を治しているということになるのであります。


p5後から5行目〜

山田――(略)なんでも溜めておかない、溜めておくことは積み(罪)である、循環を悪くすることであると思いまして、出すべきものは出し、払うべきものはすべて払うということに致しておりますものですから、その代わり、入るべきものは入る、持って来て下さるものは持って来て下さるということになっているのだとありがたく思っているのでございます。

5393a hope:2015/05/05(火) 15:21:22 ID:cEpBaIdo

>>5392 a hope所感)

この第一章は、心を変えることで境遇を好転させた実例が沢山挙げられていて、唯心所現の真理【横の真理】がいかに大切であるかがわかる内容です。

ですが、谷口雅春先生は「唯神実相」を悟られているお方ですから、そのご指導内容は「生長の家」の【縦の真理】にも当然かなっていて、
この章を丁寧に拝読していくと、生長の家の【縦と横の真理】の関連性がとてもよくわかるような気がします。

5394a hope:2015/05/06(水) 10:17:09 ID:cEpBaIdo

みなさま おはようございます。

今日はゴールデンウィーク最終日ですね。
みなさんはどんなホリデーを過ごされたのでしょうか?


ところで、先月のweb誌友会>>5377でわたしは

<<よく「自由と放任は違う」という言葉を聞きますが、みなさんはどう違うとお考えですか?>>

と質問させていただきました。


それに対して、トキさまが>>5384

<<>>5377

 「自由」というのは、禅の言葉から出ていると聞いた事があります。
禅のお坊さんから聞いたのです。(もっとも、ネット上で調べたのですが、
正確性には欠けます。)

 仮説ですが、もし、これが事実だとしたら、「自由」というのは、本来
は人間の実相からくるものかもしれませんね。 >>

とお返事くださいました。


今、大熊先生のブログの一つを拝見したら、偶然(?)、そのことに関する答えになる内容の記事があったので驚きました。
素晴らしい内容なので、みなさまにも紹介させていただきますね。

http://blogs.yahoo.co.jp/warai333warai

5395a hope:2015/05/06(水) 23:16:35 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第18巻 p17 5行目〜

宮――(略)信仰問題の話になりますと、わたしがよく「宇宙の大霊」と申すものでございますから、「大霊先生」と綽名(あだな)をつけられたことがあるくらいであります。
爾来、わたしは信仰が徹底して安心立命を得たつもりでいました。

今から考えてみますと自己陶酔をしていたのでありますが、逆境にあってよく耐え忍び、逆境においても耐え忍ぶことのできる自分をなんとなく誇りとし、つまり、逆境陶酔に陥っていまして、「逆境は心の影」であって、逆境が来るのは自分の心が悪いためにそれが現象世界に映っているのだということには気がつかないで、逆境の来る源たる「わが心」を直そうとしませず、ただ「逆境、ありがたい!」で通してきたため、信仰生活を続けながら、逆境は依然として続き、不調和はますます重なってきまして、ついには昨年7月には最愛の男の子を二十歳で亡くしたのでありました。

しかしその時ですらわたしは、これは神様の御心であると、感謝の心を失わなかったのでございます。

今年三月機縁が熟しまして、神様のみ恵みで「生長の家」を知らせていただいたのであります。

それも実に奇縁で、関西婦人連合会の席上で田村ふく子さんから、他の人にことづけてくれと頼まれて託された「生長の家叢書」を何心なく披(ひら)いて読んでみましたところが、言言句々わたしの心に思いあたるところがありますので、すぐに「生長の家」に会員にしていただきまして『生命の實相』を読ませていただきますと共に、わたしの信仰に革命が起こりまして、肉体上にも環境の上にも光明が輝くようになったのでございます。・・・

5396a hope:2015/05/06(水) 23:18:00 ID:cEpBaIdo

>>5395 a hope所感)

この宮さんというご婦人は、「宇宙の大霊」を信仰することにより安心立命を得たつもりになっていて、
逆境をも耐え忍んで感謝するという「逆境陶酔」に陥っていたことにのちに気づかれます。

この「逆境陶酔」とはキリスト教徒に多くみられる「受難礼賛」と同じような意味だと思うのですが、
「逆境」や「受難」を神さまの御心であると勘違いして感謝して受け入れてしまうと、
現象は心の影ですから、そのあとも「逆境」や「受難」が次々に起ってくることがわかります。

一方「生長の家の教え」では「逆境」や「受難」に遭うのは業(罪)の自壊作用であって決して神の御心ではないとされています。

だから、その罪を反省し本来の神の子の心を出すように(悔い改め)すれば事態はどんどん好転していくのですね!

この宮さんも、その後、聖典『生命の實相』を読まれると共に『わたしの信仰に革命が起こりまして、肉体上にも環境の上にも光明が輝くようになったのでございます。』
と言われています。

そして、たくさんの奇蹟の体験談をお話しされた後に、

<<「懺悔」すなわち心の中で犯された罪を思い出して捨ててしまえばすべての病は治るものであると、「生長の家」で教えられているのは真実であることを、こうして毎回体験させられて感謝致しているのであります。>>p29 2行目〜

とお話を終られています。


「生長の家」の『大調和の神示』には<<天地一切のものと和解せよ、天地万物に感謝せよ>>とあるので、その言葉の表面上の意味だけを読み取りますと、
この神示は、「現象に現れてみえるすべての事象に対して和解し感謝しろ」と言っているのかと勘違いしてしまいがちですが、
「生命の実相」第13巻の『和解の倫理』には、<<「虚説」に和解してはならぬ>>と説かれています。

「逆境」や「受難」は、実相の現れではなくて、本来無い心「罪・悪・迷い」(虚説)が現象に映った仮相ですから、
その仮相である「逆境」や「受難」には対しては、決して和解したり、感謝してはいけないということなのですね。

5397a hope:2015/05/09(土) 11:06:11 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」 第18巻 p29 6行目〜

谷口――大変結構なお話を承(うけたまわ)らしていただきましてありがとうございました。

そういうふうに外界に映し出された「自分の心の影」というものに照して、自分というものを省み「ニセ物の自分」を捨てて「本物の自分」の生き方をするのが「生長の家」の生き方なのであります。

しかし、この虫に螫(さ)されるとか病気になるとかいうのはわれわれを反省せしめるために神が与えた神罰であるかと言いますと、「類は類を招(よ)ぶ」の心の法則で、そうなるのであって、神が人間を罰するのではないのであります。

念というものは象徴的に展開して、その念に類似する形を現象界に具象化するのでありますから、悪念は神から直接に罰しも罰されもしないわけですけれども、その悪念を出した人の肉体と環境とにその悪念の内容(なかみ)相応のものが形に化して実際現象としてあらわれて来るのであります。

5398a hope:2015/05/09(土) 11:10:54 ID:cEpBaIdo

>>5397 a hope所感)

<<念というものは象徴的に展開して、その念に類似する形を現象界に具象化するのでありますから、悪念は神から直接に罰しも罰されもしないわけですけれども、その悪念を出した人の肉体と環境とにその悪念の内容(なかみ)相応のものが形に化して実際現象としてあらわれて来るのであります。>>

ここに、「念の具象化」言いかえれば、「業(罪)の自壊作用」の説明がされています。

ところで、悪念とはどんな念なのかと、ちょっと調べたくなったのでwebで調べてみました。http://thesaurus.weblio.jp/content/%E6%82%AA%E5%BF%B5

【意義素】 他者が苦しむのを見る必要性を感じること

【類語】 賊心 ・ 犯意 ・ 遺恨 ・ 害意 ・ 意地悪 ・ 物恨 ・ 怨念 ・ 意趣遺恨 ・ 意地悪さ ・ 醜悪 ・ 意趣 ・ 邪悪 ・ 害心 ・ 物恨み ・ 毒気 ・ 邪気 ・ 思 ・ 怨み ・ 恨 ・ 思い ・ 怨 ・ 毒念 ・ 毒心 ・ 悪気 ・ 恨み ・ 悪意


その内容を読んでみて、「悪念」ってホント恐ろしいな〜感じました。

特に、【意義素】の<<他者が苦しむのを見る必要性を感じること>>って表現がすごいですね(;・∀・)

「悪念」を放っている人には、他者が苦しむ姿をみる必要があるということなのですから・・・


以前、このweb誌友会で裕福な家庭に病人が多かったり、子供が不良になったり、不幸が続いたりするのは、
裕福でない人たちからの悪念に影響されているからだ、というような内容を学びましたが、
なんにも他人に悪いことをしていなくても、裕福であるだけで他から悪念を受けてしまうのですからたまりませんね。

誰でも自分自身が本当の幸せを感じた経験がなければ、他者の幸せには共感できないものだと思います。

自分が恵まれていると感じたら、自分が幸せだと感じたら、周りの人々にもその恵みや幸せを分け与えることが必要なのですね!

5399a hope:2015/05/11(月) 09:08:21 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」 第18巻 p29 後から2行目〜


「生長の家」で「神罰は無い」と断言しますと、自分の病気さえ治れば、あとはいい気になって利己的な忘恩的な行ないを平気でやる人ができてくるかもしれませんが、そう言う人の周囲には同類の忘恩的な利己的な人たちが集まってくるのであります。

忘恩的な人のところへは忘恩的な人間ばかりではなく「忘恩的な事件」までも集まって来るのであります。

「忘恩的な事件」と言ったらどんな事件であるかと申しますと、善い結果はその事件から生まれて来ないで、自己の努力に対しては忘恩的結果すなわち自己を裏切るような結果を招くようなことになるのであります。

よくこんな人は申します――「必ず成るという自信をもって、誠を尽くせばどんなことでも成就するということが『生長の家』に説いてあるが、今度の事件には自分は自身をもって誠を尽したのに不成功に終わった」と言われるのであります。

自信と一時慣行の誠とは、おのおの事を成す要素ではありますが、ただそれだけでは必ずしも事は成就しないのであります。

自信に対して自信を裏切らず、努力に対して努力を裏切らない結果を得るには、自分自身が裏切った心持と行為をしないすなわち忘恩的な心持ちと行為をしないことが必要なのです。

(つづく)

5400a hope:2015/05/11(月) 09:09:28 ID:cEpBaIdo

>>5399 a hope所感)

ところで「忘恩的な心持ちと行為」とはいったいどんな心持であり、行為なのでしょうか?

わたしのママ友でとても律儀(?)な方がいらして、その方はわたしやわたしの子供達が旅行のお土産をお渡しすると、
「うちはどこにも行かなかったけど・・・これどうぞ」って、近くのお店でわざわざ何かを買ってお返ししてくださるのです。

わたしはそのたびに、「彼女に余計な気を使わせてしまったな〜」とお土産をあげたことを少し後悔したりしてしまいます。

この後、雅春先生が「忘恩的な心持ち」について説明してくださっています。
とても大切なことだと思うので、シッカリ拝読したいです。

5401トキ ◆AXzLMGIbhk:2015/05/11(月) 22:25:58 ID:9x8Ehrvk
 生長の家の活動をしておりますと、いろいろな人から相談を受けます。
宗教に救いを求める、というのは、医者や弁護士から見放されて、あとは
神様しか道はない、というケースも多いです。

 講師や信徒と言っても、中には冷たい人もいますが、相談を受けただいた
いの人は、それなりに時間もお金も使って、解決のために奔走します。それ
で、問題が解決したら、最初は涙を流して感謝をしても、あとは知らない顔
をして、生長の家とは関わらない人もいます。もちろん、そういう人ばかり
ではなくて、報恩感謝という気持ちで、人類光明化運動に邁進される人がほ
とんどですが。

 ご神示にもありますが、神様が問題を解決するのは、その人を導く契機に
するケースも多いです。しかるに、問題が解決して、感謝の念を起こさずに
自分だけがよければいいのだ、という気持ちでいると、後年、同じような
問題が起きて、また生長の家に駆け込んでも、もう問題が解決しない場合が
大半です。

 少し思い出したこともありましたので、書いてみました。

5402a hope:2015/05/12(火) 08:09:47 ID:cEpBaIdo

 >>5400つづき

忘恩的な心持ちはどこから生まれて来るかと申しますと、たいていは物質欲に捉われるからであります。

「恩は知っている」と自分でも思い、感謝もしているつもりであっても、「物を出すのは惜しい。心で感謝しておこう」などと思っていますと、その「惜しい」とう心が、恩者に遠ざかる働きとなってあらわれて、しだいにその人間を忘恩的にし、ひとりでに偉くなったように慢心が出てきて、恩者を忘れてしまうようになってくる場合があるのです。

そうなってきますと、自分は真理を十分悟ったつもりであり、神想観も一生懸命やっているし、自信と熱誠とをもって事業をやっているのにどうもことごとに自分を裏切る結果を招くようになります。

これは「類は類を招(よ)ぶ心の法則」によりまして「裏切る心」が、「裏切られる結果」を招くことになるのであります。


こういうように「心に法則」というものは、厳重に働くものでありまして、「物質無、我れ神の子なり」の絶対無に達しない限り、「刺す心」は「刺される結果」を招く、「裏切る心」は「裏切られる結果」を招くのであります。

また、真に悟りの絶対境に達しますれば刺す心も裏切る心も無くなるのであります。

現象世界は本来無いのであって、念の象徴化でありますからその象徴を追うてさかのぼってゆけば、その病源なる病念に到達するのです。

神のお罰(とがめ)であるなら、もっとハッキリした形をとるが、象徴(しるし)であるがゆえに明瞭にそれと気づかぬことが多いのであります。

5403a hope:2015/05/12(火) 08:11:16 ID:cEpBaIdo

>>5402 a hope所感)

<<忘恩的な心持ちはどこから生まれて来るかと申しますと、たいていは物質欲に捉われるからであります。>>

忘恩的な心持ちは物質欲に関係しているのですか・・・。


これはわたし独得な感じ方かもしれませんが、たとえば深切をした相手がそのことを心から喜んでくれて、「本当の感謝の気持ち」をもってくれていれば、
その気持ちはしぜんに自分に伝わってきて、わたし自身とても幸せな気持ちになります。

だから、わたしは特に物質的な「お返し」がなくてもその気持ちが伝わるだけで十分です。

それに、相手になんらかの「見返り」を求めるような深切は、本当の深切ではないとも思うので、
そういう押しつけ的な深切を受けても、心からの「喜び」や「本当の感謝の気持ち」は湧いてこないと思います。

わたしのお土産にすぐに「お返し」を持ってくる律儀なママ友に、わたしが申し訳ないような気持ちになるのは、
彼女に「喜び」や「感謝の気持ち」よりも『「お返し」をしなければ・・・』という気持ちを先に起こさせてしまうからです。

わたしは、ただ、彼女の喜ぶ顔を見たいだけなのですが・・・
「唯心所現の真理」に照らし合わせて考えれば、わたしの心の中に相手からの「見返り」を求めようとする心があるからなのだと思うのです。 

わたしは、考えすぎでしょうか?
「横の真理」も実践となるとなかなか難しいですよね。


「生長の家」の信仰に関しては、>>5401でトキさまがわかりやすく説明してくださいました。
「生長の家の真理」で救われたのならば、その「真理」を伝道して「人類光明化」に邁進することが、
「生長の家」の神さまに報恩感謝するということになるわけですね!

トキさま、的確なご指導をありがとうございます。 合掌。

5404a hope:2015/05/14(木) 15:59:15 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第18巻 p31 後から5行目〜

谷口――(略) 先般東京の誌友で時々鼻血がでるので「ひとの道」の教祖に神宣を乞うた人がありましたが、「いろいろと物事思いつめる性分があるからそれを直せ」という神宣でありました。

この人はこの神宣をありがたがり、そのとおり実行しようと決心しましたが、それ以来鼻血が出なくなりました。

その人はまたある日膝坊主に擦り傷を受け、また一匹の蜂が舞い下がってその人の腕を刺したのであります。

でその人は試みに「ひとの道教団」に再び神宣を乞いましたら「自分ばかり偉いと思って人をいろいろ批評する性分があるから神がこれにお気づけしたのである」というお示しでありました。

その人、これは大変自分の性分に合っている御神宣を受けたと思って、「人の道教団」を崇敬してただちにその信徒になったということであります。

鼻血が出るのは、物を鼻にかけ、また高ぶり、上に血が昇り、自分考えを標準にして物事をクヨクヨ思いつめる念が具象化したのであります。

蜂に螫(さ)されるのは、自分にある人を刺す心――いろいろ人を批評し傷つける心が象徴化したのであります。

膝坊主は曲げて突き出して他と衝突摩擦して血をだしたのであります。

いろいろと人を批評し、自分の方が曲がっていてもそれを悟らず、自分を偉いように思い、他と衝突する性分がこの人にはあるゆえに、その念の象徴化としてこの人はそういう傷を受けたのであります。


病は神のお示しということも、天理教のように「理は神じゃ」という「理」――すなわち「生長の家」で言う「心の法則」を知るならば、ひとの道教祖ならずとも何人にもこういう判断は自分につくのであります。

わからない場合には神想観をして、精神を統一し、神にお願いして自分を空しゅうしておれば、心に必ず神宣が浮かんでくるのであります。

神示を受ける方法は『生命の實相』全集の観行篇(愛蔵版第四巻、携帯版・頭注版第八巻)にわたしの書いた「神示を受ける道」をご参考になさるといい。

「ひとの道教」では「念の具象化の法則」を教えないで教祖に頼って自分の心得(こころえ)違いを教えてもらう、「生長の家」では各誌友が心の法則を知るから、誌友おのおのみんな「ひとの道教祖」と同じになってしまって、自分の環境を見、自分の病気を見て、自分の心のまちがいを悟ることができる。

悟れるだけではなく直そうという誠さえあれば聖典を繰り返し読み神想観に励めば自然に直ってくるのであります。

5405a hope:2015/05/14(木) 16:01:58 ID:cEpBaIdo

>>5404 a hope所感)

以前「天理教の教え」と「生長の家の教え」の違いをまとめたことがあります。>>3839 

今回、雅春先生は「ひとの道教の教え」についても言及されています。

<<「ひとの道教」では「念の具象化の法則」を教えないで教祖に頼って自分の心得(こころえ)違いを教えてもらう、「生長の家」では各誌友が心の法則を知るから、誌友おのおのみんな「ひとの道教祖」と同じになってしまって、自分の環境を見、自分の病気を見て、自分の心のまちがいを悟ることができる。>>

今回も、違いをまとめてみます。

――――――――――――――――

ひとの道の教え  教祖の「神宣」=「心の法則」(念の具象化の法則)

生長の家の教え  聖典のお言葉 + 各信徒による神想観による「神宣」 = 縦の真理「唯神実相」(人間神の子)と横の真理「心の法則」(念の具象化の法則)

―――――――――――――――



<<では、この「ひとの道教団」のような教えは不必要かと申しますと決してそうではない。
やはりこういう教えも要るのであります。
「生長の家」は究竟真実大乗(くきょうしんじつだいじょう)の教えである、釈迦の教えにすれば『法華経』以後の教えであって、「すべての人間は神の子であり、すべての人間が教祖である」教えありますが、その教えの神髄に達する以前の人――自分を神の子だと尊敬できない人――には、依頼心を出して他に頼ることによって、他から導かれて自分の心の欠点を直すようにするのもよいのであります。>> p37 後から7行目〜


雅春先生は、「他者に依頼心を起こすこと」を否定されていません。

ですが、本来の「生長の家の教え」であれば、<<「すべての人間は神の子であり、すべての人間が教祖である」教え>>
が、「生長の家の教え」なのですから、やはり、各信徒が「聖典」を熟読し、神想観に励み、
おのおのが教祖となり「神宣」を受けることができるようになるのが信仰の基本なんですね。

「聖典拝読」と「神想観」の重要性・・・、わたしはもう3年以上ここで「生命の實相」を学んでいますが、行きつくところは必ずそこです。

5406a hope:2015/05/14(木) 16:05:34 ID:cEpBaIdo
訂正 >>3839>>3836

5407a hope:2015/05/18(月) 00:03:49 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第18巻 p71 後から2行目〜

中畑―― そのありがたい心持ほど大切なものはありません。

どんな悪い集積が過去にあっても因果をそこで断ち切る働きをしてくれるのでありますから、因というものは幾らあっても縁を与えれば果が生じない、ありがたい念というものは、悪い因が果を結ぶために必要な縁を与えなくするのです。


佐瀬夫人――しかし、その因果の因を断つのにもいろいろのありがたさがあり、そしてそのありがたさの種類に従って、またその因が潜在していて今は縁がないから発現しないが、後になって重複していっそう大きい形となって顕われて来るようなことはございますまいか。

わたしはちょっとそれを思うと、今恵まれすぎているということが、不安なような気もするのでございます。

5408a hope:2015/05/18(月) 00:04:49 ID:cEpBaIdo

>>5407 a hope所感)

ここで、中畑氏が『ありがたい念というものは、悪い因が果を結ぶために必要な縁を与えなくす』と説明されると、
佐瀬夫人が「ありがたさ」の種類に従っては、後になっていっそう大きな形となって悪い結果が顕われはしないかと、
ご自分の感じている不安を吐露されています。

この後、どういう「ありがたさ」が「本当のありがたさ」なのか、中畑氏や雅春先生が詳しくご説明くださっています。


はしがき>>5381 5382 に

<<本篇に収録された各章は生長の家草創当時、わたしがまだ神戸の郊外の住吉村にいたころに、集まって来た人達が自分の信仰体験について互に語り合った対話を筆録したものを筆録したものであって、対話者は、いずれも、キリスト教にするならば原始キリスト教時代の十二使徒とも言うべき人々であって、その対話も正しい信仰の深い境地を語っていて、その行履(あんり)はもって永遠に範(はん)とするに足るものなのである。>>

とあるように、ここで対談されている方々のご発言の内容がすごくハイレベルです。
当時、雅春先生が発していた光明念波がどれだけ周りの人々に直接影響していたかがわかります。

5409a hope:2015/05/18(月) 00:10:20 ID:cEpBaIdo
>>5407 訂正
因というものは幾らあっても縁を【与えれば】→因というものは幾らあっても縁を【与えなければ】

5410王風:2015/05/18(月) 15:21:42 ID:teRiT5sw
象徴といいますか、、、
語呂合わせですね。

わた私はあんまり、語呂合わせが、当たってるように思わないのです。
こ語呂合わせ出来ないのも一杯ありますし。

5411トキ ◆AXzLMGIbhk:2015/05/18(月) 20:20:32 ID:BNDKGGZc
 ひとの道教団は、戦前、かなり栄えましたが、戦時色が濃くなる時期に政府から睨まれて弾圧を受け、
一時、活動を停止しました。ものの本によれば、ひとの道教団の解釈が不敬罪になったということです
が、神宣を多数だしている中で、神宣の中で当時の基準から見て問題になったものがあったのでしょう。

 ひとの道教団は、戦後、PL教になりました。用事があり富田林市に行くと、PL教のものすごい建物が
あって、びっくりした記憶があります。後年には野球や花火で有名になりました。私の友人にも信徒さん
がおられました。が、最近、教祖の教えをないがしろにする傾向が見てて、教団は衰退傾向にあると
言われています。そのため、私の友人も脱退してしまいました。

 谷口雅春先生のご教示を拝見すると、なるほど、と納得するところが多いです。貴重なご教示に心から
感謝申し上げたいと思います。

5412a hope:2015/05/20(水) 00:02:11 ID:brQxC10.
>>5410 王風さま

コメントありがとうございます。
王風さまのコメントは、ひとの道教祖の「神宣」に関するものでしょうか?

確かに、語呂合わせ的に用意された「神宣」を受けてもあまりありがたみは湧いてこないかもしれません。
「神宣」を受けた本人に「感謝」の気持ちが湧かなれば、奇蹟は決して起きないと思いますし、
雅春先生は「生命の實相」の中で、依存的に「御神宣」ばかりにたよっていることに警鐘を鳴らされています。

以下その部分を謹写しますね。

5413a hope:2015/05/20(水) 00:03:28 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第18巻 p40 後から2行目〜


・・・しかし、ともかく、近ごろ「ひとの道教団」というような新しい宗教団体が頭角をあげて「病気も環境もわが心の影」という生長の家の真理を、神宣という厳かな名によって信者に単純な方法で実証させているのは大変結構な神の摂理だと思います。

ただ、そういう教えに頼る信者の常として、一にも神宣、二にも神宣、三にも神宣と、他からの神宣ばかりを頼ることになり、やれ蜂が螫(さ)したから神宣を貰おう、蚊が螫したから神宣を貰おう、脛(すね)に傷ができたから神宣を貰おう、腹が痛いから神宣を貰おうというように、年がら年中、なんでも彼でも神宣に頼っていて自主独立の生き方を失うようになる危険がありますので、そういう教団に入り、環境も病気もわが心の影だということがわかったら、もういつまでも一人立ちのできぬ子供のように御神宣ばかりに頼っていてはならぬ。

本当の救いにあずかるということはいつまでも一人立ちのできぬ人間になることではありませぬ。

さらに一歩進めて、「生長の家」的に自立独立の精神に立ちかえり、ひとり立ちして、自分自身が神であり教祖であり、他からの御神宣よりも自分の御神宣が自分を一番よく知ってうるというようになっていただきたいのであります。

だからひとの道教団の教えが生長してくれば当然「生長の家」になってこなければならないのです。

5414a hope:2015/05/20(水) 00:11:26 ID:cEpBaIdo

>>5411トキさま

ひとの道教団はあの有名なPL教の前身だったのですか!!
かつて、PL学園は高校野球で滅茶苦茶強かったですよね。
なんか、なんで強かったのか、わたしは妙に納得してしまいました(*^-^*)

<<最近、教祖の教えをないがしろにする傾向が見てて、教団は衰退傾向にあると
言われています。そのため、私の友人も脱退してしまいました。>>

そうなんですか・・・。

どこも、似たような現象が起きているのですね。

って思いましたが、よくよく考えると「生長の家」の場合は違いますね。

雅春先生は、

<<「生長の家」的に自立独立の精神に立ちかえり、ひとり立ちして、自分自身が神であり教祖であり、他からの御神宣よりも自分の御神宣が自分を一番よく知ってうるというようになっていただきたいのであります。>>

とおっしゃっているのですから、

その雅春先生のお言葉通り、信徒一人ひとりが、

<<「生長の家」的に自立独立の精神に立ちかえり、ひとり立ちして、自分自身が神であり教祖であり、他からの御神宣よりも自分の御神宣が自分を一番よく知ってうる>>

というようになっていたのならば、「生長の家」が衰退するということはありえなかったのではないでしょうか?


わたしは、「生長の家」の衰退の一番の原因は、「信徒の依頼心」にあるように感じています。

「教祖」=「谷口雅春先生」と解釈すれば、PL教と同じ理由で衰退しているともいえるのかもしれませんが・・・。

5415トキ ◆AXzLMGIbhk:2015/05/20(水) 20:44:45 ID:KRFzkKaQ
>>5414

 この問題は難しいですね。生長の家50年史にも書かれていましたが、生長の家の教えが
ひろまり、奇跡が続出すると、信徒が自然と谷口雅春先生を崇拝する傾向が生まれたと
書かれていたと記憶しています。それでも、戦前や終戦後の信徒さんは、谷口雅春先生
を尊敬していたが、同時に親しみや愛情をもってご覧になっていたみたいです。それが
昭和の後半になると、教団が巨大になり、同時に谷口雅春先生を崇めるような雰囲気に
なったようです。それは人間の情としては自然かもしれません。ただ、私の知る限り、
谷口雅春先生を直接知る弟子の多くは、谷口雅春先生は人間味あふれる、暖かい存在で
あり、偶像化するような雰囲気には違和感を覚えておられていました。

5416a hope:2015/05/21(木) 09:35:47 ID:cEpBaIdo

>>5415のトキさまのコメントに関してですが、

「偶像崇拝」に関しては、ちょうど1年前の「生命の實相」第13巻 で詳しく学びました。

>>3916 >>3917 >>3918 >>3919 >>3920

わたしの、持論、質問を再掲させていただきます。

―――――――――――


>>3916

みなさま おはようございます。

テキストp81〜 は、主に、現代のキリスト教の問題に言及していて、
その原因がキリスト(神)を肉体イエスに見いだそうとする「偶像崇拝」によるものであると、
述べられています。

<<キリスト教では形あるものを崇拝することを偶像崇拝といって、非常に軽蔑して忌み嫌うのでありますが、
「永遠の神性」を礼拝の対象にせず、二千年前ユダヤに生まれた肉体イエスを通さねば救われないなどと、
肉体を礼拝の対象にしているなどは、みずから忌み嫌う偶像崇拝に陥っていることになるのであります。
こうして「永遠神性(かみそのもの)」に背を向け顔をそむけて、ある特定の肉体を崇拝の的にすることは神の実相を見ざるもの、
本当の神を「自己の迷い」をもって包み隠せるはなはなしき罪なのであります。>>


この現象世界だけが唯一の実在であり、その世界の出来事だけが事実である信じている人間であれば、
自分自身に「永遠の神性」が宿っていて、自分自身が「神」そのものであるなんてことは、
絶対に受け入れられない事実だと思うのです。

だって、一肉体人間の力なんて、宇宙全体の壮大さから考えれば蟻粒よりももっと小さいですものね。
特に、実際に、人生で絶望感を一度でも味わった人ならば、
何か別の偉大な力に頼りたいと思うのはあたりまえの心情だとも思うのです。
だから、偶像崇拝のようなことが起きてしまうのですね。


本来の「生長の家の教え」はそんなんではないですよね?


ですが、わたしはどうもテキストのここら辺を拝読していると、
「生長の家」人であっても『「谷口雅春先生」を超えられるような偉大な人物はいない!』
などというふうに考えてしまうことは、この「偶像崇拝」なのではないかと感じてしまうのですが・・・。
それとも、これは、わたしが増上慢なのでしょうか?



>>3920

<<(>>3919 a hope所感)


<<【イエス】は「われを信ぜよ」といったのではなく、「人の子を信ぜよ、実相人間を信ぜよ、わたしはその一例だ、『久遠の実在』としての実相人間を信ずる者には肉体は死んでも、永遠の生命が与えられるのだ」といったのであります。>>


↑を置き換えてみたいと思います。


<<【谷口雅春】は「われを信ぜよ」といったのではなく、「人の子を信ぜよ、実相人間を信ぜよ、わたしはその一例だ、『久遠の実在』としての実相人間を信ずる者には肉体は死んでも、永遠の生命が与えられるのだ」といったのであります。>>


このような考え方をしてしまうわたしは、増上慢であり、まことの「生長の家」信徒ではないのでしょうか?

谷口雅春先生は確かに偉大な宗教家で、哲学者で、人間的にも素晴らしい人格の持ち主だったと思います。
だから、わたしはもちろん、谷口雅春先生には直接お会いしたことはありませんが、心より尊敬していて信頼しています。

でも、だからこそ、谷口雅春先生の残された聖典「生命の實相」のお言葉を素直に信じたいのです。

「谷口雅春先生は神から選ばれた偉大な人だったから「唯神実相」が悟られたのだ」
「自分たち弟子には同じことはできない」などと考えてしまうのは、
谷口雅春先生がおっしゃっている「第一の神性隠蔽」「偶像崇拝」の罪を犯すことになってしまわないのでしょうか?

先輩方が今、憲法改正運動や、環境保護運動等、さまざまな「生長の家」の運動をされているようですが、
「自分が神の子である」「自分も谷口雅春先生と同じなんだ」というこの大切な真理を悟らなかったら、
その運動は、まったく谷口雅春先生のご意志とは、別の方向に行ってしまうのではないでしょうか?

教団も、本流の先輩方も何が『本当の「生長の家」の光明化運動』なのかを思い出されて、
その基本に戻って運動されたら、「生長の家」は一つになれると思うのですが・・・。

それこそ、谷口雅春先生が一番よろこばれることで、本当のご遺志だったのではないでしょうか?

―――――――――――――――

あらためまして、皆さんのご意見、ご指導をどうぞよろしくお願いいたしますm(__)m

5417トキ ◆AXzLMGIbhk:2015/05/21(木) 19:41:42 ID:KEicg2LI
 個人的な感想ですが、「生長の家」という教えへの信仰心を、「生長の家」という組織への
忠誠心と混同してしまった点に原因があるような印象は持っています。このあたりは深入りす
ると、誌友会の本題からずれるので避けますが、目的は「信仰」であり、活動も組織も手段に
過ぎなかったはずです。それが、いつの間にか、「活動」が目的になったり、「組織」が目的
になったと考えています。この傾向は、谷口雅宣先生が副総裁にご就任される前から、めにつ
きました。古い信徒さんの多くは、この傾向を嘆いておられました。ただ、谷口雅宣先生が
指導に当たられてから、この傾向はますます強まったと思います。だから、組織から距離を
置く人が増えたのかもしれません。

5418a hope:2015/05/22(金) 09:27:36 ID:cEpBaIdo

>>5417 トキさま

トキさまのおっしゃっていることは的を射ているような気がします。
わたしは、「生長の家教団」に関わる前に、「生命の實相」(生長の家の教え)に出会いました。

「生長の家」の信仰の聖典である「生命の實相」には、
環境保護運動のことも政治運動のことも、生長の家が天皇信仰であるということも一切触れられていません。

だから、実際に信徒になってみるとその活動内容にものすごく違和感を感じました。
正直、全く興味のない活動をほぼ強制的にさせられるので、自分は騙されたのではないかとすら感じました。


創始者である谷口雅春先生は、「自分は一信仰者であり、神さまの言葉を伝えるパイプであり、
「聖典」は肉体人間の自分が書いたのではなくて、神が自分を通して書かせているのだ」という内容のことをおっしゃっています。

わたしたち信徒の本来すべきことは、その「聖典」の真理(教え)の信仰であって、
谷口雅春先生が過去に行ってきた運動(政治運動)等を引き継いだり、
今現在の社会問題に対応する運動(環境保護運動)を教団をあげてしていくことではないと思います。

5419a hope:2015/05/22(金) 09:36:05 ID:cEpBaIdo

「聖典」のお勉強を続けます。

「生命の實相」第18巻 p74 3行目〜

谷口――ありがたいにもいろいろの段階がありまして、物質が都合よくゆくからありがたいというように、心の影である物質の移り変わりにありがたがっているのではまだ本当ではないのであります。

むろんそういうありがたさも、不平不満足に思っているよりは、念(こころ)が浄(きよ)まっているので結構は結構にちがいないのですけれども、物質が運よく整うからありがたいとか、平常達者であるからありがたいとかそういうように思っていると、物質が運よく運んで来なければありがたくなくなり、平常達者でない人はありがたくないということになるのであります。

それでは本当のありがたさということにはならないのであります。

私の考えではどんなありがたさでも因果の因を断ち切る力があるのではないと思います。

物質に執着したありがたさ――儲けてよい着物ができてありがたいとか、達者でありがたいとかいうようなありがたさは、かえって執着を増し、因果の因を造ってゆくことになるのであります。

本当のありがたさというものは肉体の健康のことでも物質の調(ととの)うことでもないでしょう。

肉体の達者なことそのことがありがたいのではない、達者をあらわすような実相を自分がもっていることがありがたいのです。

物質の豊富なことそのことがありあたいのではない、物質の無限を現すような実相をもっているのがありがたいのであります。

わが実相が神の子であることが本当にありがたいことがわかれば、ほかのありがたさはすべて自分につきまとうようになるのです。

自分自身の実相がありがたいから、その影を映して、親でも子でも妻でも召使でもどんな事件でもみんな自分の向かうところすべてがありがたくなるのです。

やはりこれは、中心に乗ったありがたさとか、南禅和尚が猫を斬ったようにすべての形を斬り捨ててしまったありがたさと言うべきもので、形にとらわれているありがたさ、物質が調うたり肉体の達者なありがたさはまだ途中のありがたさであって、まだ究竟地に達していないのであります。

5420a hope:2015/05/22(金) 09:38:23 ID:cEpBaIdo

>>5419 a hope所感)

やはり『大調和の神示』(七つの灯台の点灯者の神示)の中の「天地万物に感謝せよ」とは、
自分に有利に働いた現象の物事への感謝ではなくて、完全円満な実相への感謝なのですね・・・。

今現在、現象世界がどんなに悲惨な状態でも、完全円満な実相への感謝ができたとき,
現象の事象もおのずと調い、しぜんに感謝の気持ちが湧いてくる、と言う訳ですね!!

5421王風:2015/05/22(金) 15:42:10 ID:SaWFFpi.
A hopeさま
返事下さってましたか?
有り難うございます(喜)
わ私の言う「語呂合わせ」は、pL(ひとの道)のことではありません。
生長の家の本に書かれてる「心の法則の語呂合わせ」のことです。
(だいたい宗教は語呂合わせのせかいとどこかで読んだ事がありますが)
例えば、語呂合わせしにくい症状の場合は、普通に(?)指導。語呂合わせしやすい症状(例えば身体のどこかに発疹等が出来てる人には、待ってましたとばかり簡単に「いつもブツブツ言ってるからだ」ですね。そぬな感じがさます。
ひ人の心の中には、色んな複雑な感情が沢山沢山入りみだっておると思います、

5422王風:2015/05/22(金) 16:31:51 ID:SaWFFpi.
>>トキさま
しかし、pl教の名はまだ、野球で全国で知られてはいますね。
残念ながら生長の家は、知らない人、一杯いますからね。
私もそのひとりでした。(お恥ずかしい)
最初、読む気がしなかった。しかし(ある雑誌を、貸してもらっ たのですがその中にチョッとした特集みたいのがあって、<.ノストルダムスの予言通り、.199x年に地球はめつぼうするか?>と言う質問を色んな宗教団体等に送って、答えてもらう。>と言う特集でした。こんなのは興味があって見てみると
解答を書いて送って来た団体は少なく、五件ほどでしたが、その中に生長の家からの解答がありました。
生長の家の解答だけが、まともでした。(後は訳の解らない団体がほとんどですが)他の団体の解答は、<身勝手な人間に腹を立てた神の怒りが限界に達して、どうのこうの、、、こんなふきだすようなおそまつ極まりない内容ばかりでしたが、生長の家だけが、
「こ、これは、、、、」と思わせる内容でした。
この宝島(だったと思う)を、読んで(と言うより友人に読まされて)生長の家のほんを、「読んでやってもいいか」と思った次第です。(生意気ですね)とにかく生命の実相を、読ますことにさえ成功したら、読んだ者は、誰でも(5人中4人は「!!!何と!すごい!」とビックリして感動するはずだ。と友人は思ってたようです。私は超感動しました!ただ5人中四人とかいたのは、読んでもあまりなにも、感じない者はいたらしいのです。
長々とすみません。十何年も昔のことです。その時代だから、生長の家のことを知る流れになったんだと思います。

5423:2015/05/22(金) 21:41:34 ID:IqhGaEeE
>>、生長の家が天皇信仰であるということも一切触れられていません。<<

ここが、聖典派を自称する監督もいうtenなんだけれど、実際の歴史ゃ田の書物を少しでも読んだら、かさては
『天皇教』とまで言われた、生長の家の古い歴史的意味が分かると思います。

私は研修生の後、すぐにどこかの教区に所属したわけではなく、しばらく考えていました。
菩薩になる心得があるのか、という事を、考えに考えました。
(そのうち、しばらくして信徒になりましたけど)

研修生時代、職員に残らないかと、誘われて母親に相談したことがあります。
私は、ある本部職員に、いつから生長の家は大東亜戦争を否定したのかと詰問したこともあります。
その先生は、かつては靖国神社の英霊様を本当に篤く思っていたのだと言いながら、
私の質問に対して、明確な答えはありませんでした。

私は、あの時の先生は、保身のためのコバンザメだと認識していましたが、今は、中立な立場で考えると、反論しなかった先生の気持が分かるのです。

生命の実相野、行間を読んでも、天皇信仰は、書かれていない、
保守のバイブルと言われているのは、あくまで、葦津珍彦先生であり、
信徒必携の聖光録には、ちゃんと天皇信仰を実践する道が書かれているのです。

生命の実相を、読むだけの人はたくさんいました。
練成会に出席しても、一度や二度でも、なんもぴんとこない人たちも、たくさんいます。

信徒になる(菩薩になる決意と言うか覚悟)と決めた人は、聖典だけに埋もれていては、いけないのだと言うことです。

なぜ300冊ち近い御著書を書かれたか。

生命の実相40巻は、入口に過ぎない、と言うことではないでしょうか。

5424:2015/05/22(金) 21:45:37 ID:IqhGaEeE
>>監督もいうten<<



>>実際の歴史ゃ田の書物を<<

実際の歴史や田の書物を

>>かさては<<

からでは

訂正します。

5425神の子さん:2015/05/23(土) 22:56:21 ID:WfTc7UhY
春さん

スマホかい?文章見てたらね、オモタ。

5426a hope:2015/05/24(日) 14:02:32 ID:cEpBaIdo

>>5421王風さま

「心の法則」は、たしかに語呂合わせ的にも当てはまるかもしれませんが、
王風さんがおっしゃるように、人の心の中は複雑な感情が混ざり合っていて、さらに、まわりの人たちの感情の影響もありますから、
一概にその原因を断定することはできないとわたしも思います。

ですが「生長の家」の真理は縦と横の真理の両方ですから、「心の法則」(横の真理)が働いて、
現在の悪い現象が現れているということが理解できているならば、たとえその原因がわからなくてもよいのではないかと思います。

ただ、ひたすら聖典「生命の實相」を拝読し、神想観をして「神の子の自覚」(縦の真理)を深めれば、しぜんに現象の問題は解決していくと思います。

「唯神実相」の聖典「生命の實相」があること、そこが「ひとの道の教え」と「生長の家の教え」の大きな違いなのだと感じています。


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