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Web誌友会 板/2
3785
:
a hope
:2014/03/24(月) 09:47:49 ID:cEpBaIdo
生命の實相 第11巻 p 121 中畑氏他と雅春先生の『法華経』に関する対談より
中畑 ――・・・釈迦が「四十余年間説教したけれども、今までのことは皆方便であって未だ真実を顕わしたのではなかった。今度こそ真実を語る」といって『法華経』をお説きになったその同じ真理が「生長の家」に書いてあるのであります。「生長の家」の教えの神髄はあらゆる人間は神の子である――言いかえるとあらゆる人間が仏であるということであるかと思いますが、たいていの人間はあらゆる人間が仏である神の子であるといっても、なかなか納得できない。こんな汚い人間がどうしてこのまま神になれよう、仏になれよう。
神とか仏とかいうものは、実に自分などのとても及ばない遠い所にあると思う過去からの迷いの「集積」をもっている。こういう「集積」をもっている人に、頭から「お前は神の子だ、仏の子だ」といって真実を説いてもとても信じられない。だから最初には釈迦はそれをお説きにならずに、「自分は罪深いものだ」と思っている人間のそのままの考えを生かすようにして、「お前たちは罪深いから自分の力ではとても救われない、だから仏の他力に頼れ。罪の深いそのままで救われるのだ」と説いて他力の教えをお説きになったのであります。しかしこれは方便でありまして、方便も必要あって使ったのでウソではないとありますが、方便で二乗、三乗の説き方がいろいろにしてあるけれども、本当に二乗三乗なんてないものである、一仏乗しかないものであるといって『妙法蓮華経』をお時になった。だからこの二乗、三乗の教えは真理を知るまでの方便にすぎないのでありまして、ほかの教えを聞いて、もう真理が解ったと慢心している人たちには「生長の家」の教えはちょっとわからないのであります。
谷口 ―― この「生長の家」でも始めは真理を説かないで、いくぶんボカしてあったのであります。ところがしだいに真実をはっきりさして人間は神の子である、もういっそう徹底させていうと人間は神である、ひとりも罪人はないとハッキリいうようになってきますと、「どうも谷口は慢心している、彼は人間を神といっている、人間は神の前にいと小さきものであるのに慢心にも程度がある」と思うような人がでてきまして、最初は「生長の家」に親しみを持っている人で、なかには「生長の家」から遠ざかられた人もあります。ちょうど釈迦が『法華経』をお説きになったときに、今まで二乗、三乗の教えに満足していた五千人の比丘(びく)、比丘尼(びくに)、優婆塞(うばそく)、優婆夷(うばい)がその座を立ってさったということが経文にも書いてあるようなものであります。
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