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Web誌友会 板/2

5335a hope:2015/04/08(水) 09:24:55 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第17巻 p44 5行目〜

病気の話が大分出ましたが、「生長の家」は何も病気治しばかりをするところではない。
「生長の家」の説くところは一切宗教の神髄である。
何教でなければならぬと凝り固まった宗派ではない。
また宗門でもない。
派生したものならば、その流れて行く方向がちがうかもしれぬ、また宗門でありましたならば、
それは門でありますから、東門と西門とはまったく別方向を向いているかもしれぬ。
別方向に流れたり、別方向を向いていたら、イヤこの教えは東向きじゃ、イヤこの教えは西向きじゃと言って互に争わなければならぬかもしれぬ。
けれども、「生長の家」はどの方向へも偏寄ってはいないから、宗派争い、宗門争いをする必要がない。
お前の宗教をやめて「生長の家」へ入れとは言わない。
また言う必要がない。
すべての宗門もそれで宜しい。
しかしもっと奥へ這入れ、その堂奥(どうおう)に「生長の家」があるということを説くのであります。

キリスト教の人はキリスト教でそれでよい。
仏教の人は仏教でそれでよい。
神道の人は神道でそれでよい。
しかし宗教というものをただ講座や、哲学や、乞食のような拝み倒しや、死に際の用だと思ってはならない。
宗教はその神髄まで深く入って来るとき必然的に実生活にまで生きてこなければならないのであります。
宗教が実生活にまで生きてこないとき、宗教は無用の長物視され、閑人の閑事業視され、老人の玩弄物視されてしまうのであります。

ところが宗教が実生活にまで生きてきますと、それが実生活の指導原理となってくるのであります。
実生活の指導原理となるばかりでなく、「神の子」の生活を人生に実現することになるのであります。
実際宗教の目的は、「神の子」の生活を人生に実現するためであって、これこそ「生長の家」がこの世に出現した使命であります。


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