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Web誌友会 板/2

5376a hope:2015/04/26(日) 09:29:05 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」17巻p165 9行目〜

太田――先生、わたしは質問があります。
わたしは信仰は教育を否定しない、信仰と教育とは平行して行くべきものだと思うのです。
神様を本当に信ずるということと、神様にまかせたというのを口実になんの努力もせずに懶(なま)けていることとはちがうと思います。

谷口――それはちがいますねえ。

太田――ところがわたしの家内の場合では、神様を本当に信ずるということは、何もかも神様に打ち委(まか)せて、子供の教育はほったらかして、自分は何もせずに懶(なま)けているということなのです。

谷口――そんなことはありますまい。 
本当に神様を信じたら、懶(なま)けるなどという状態は自然になくなるのが本当の信仰です。
懶(なま)けるということは「行為」でないわけではない、形にあらわれた一種の「何もせぬという行為」である。
そして形にあらわれた行為は心の影ですから、心に本当の信仰が握れたら、その心の投影として行為が自由自在になる。
自由自在無礙になるのが本当の正しい信仰の投影としての行為です。
何もしないで懶(なま)けているという行為は、決して正しい信仰の投影ではありませんねえ。
信仰というものは、たとえばここにある茶碗でもここからかしこへ動かそうとする時に祈って手を動かさないでいるのが信仰ではない。
あの茶碗はきっと動かせると信じて自分が起ち上がって持ってくることです。

太田――ところが家内の場合では、わたしがいろいろと子供に注意していることを、子供を信じないからだと言うのです。
子供を信じ神様を信じたら、そんなに子供の行為に干渉しなくとも、大空に凧の糸目を切って放したように、本当に無干渉になってしまわねばならないと言うのです。
しかしわたしは、子供に注意を与えることが干渉だとは思っていない。
教育だと思っているのです。
教育というものは導くということです。

谷口――そうです。
教育ということは引き出すということです。
本来もっているものが出やすいように窓口を開いてやるということです。・・・


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