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Web誌友会 板/2

5341a hope:2015/04/12(日) 23:26:23 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第17巻 p60 後から2行目

神さまは決してイエス・キリストを磔刑(はりつけ)にされはしなかったのです。
またキリスト自身も磔刑に処せられて血を流したこともなかったのです。

ではなぜキリストは磔刑になって実際われわれの眼に磔刑になったのごとく顕われ給うたのでしょうか。

それは神の怒りをなだめんがためではない。
至仁至愛(しじんしあい)なる神は決して未だかつて怒り給うたことはないのです。
だから神の怒りをなだめる必要などは露さらないのです。

ではなんのために神はキリストを遣わし給うて磔刑にかかって苦しむ有様を現じ給うたのでありましょうか。

それは実に人類の罪の意識をなだめんがためなのであります。
「罪」というものを神は造り給わないのでありますから、罪はこの世に実在しない、実在しないはずの罪がどうして消えないかというと、人類自身の念が、罪がある、罪が重いと思ってそれに執着しているからなのです、「罪はない」と知って念を罪から解放しましたらなら、地球の引力がなくなったらいっさいの雲霧が飛び散ってしまうように、「本来無い罪」は自然に消え去ってしまうのであります。

だといって、「罪は無い」と教えてやっても、「罪はアル」と思っている人々には、なかなか「オオそうか」と罪念が消えてしまわない。
そういう人の罪の観念を消し去るためには、罪を贖(あがな)うためには罪の値を支払うためには、自分自身何か罪つぐないの苦しみをするか、誰かが代わりに苦しんで「オイお前の罪の代価はワシが代わりに払ってやったよ」と言ってくれる人がなくてはならない。

イエスが神から遣わされて十字架にかかって苦しまれたのは人類に対して「オイお前の罪の代価はワシが代わりに支払ってやったよ」と言って、われわれの罪の意識をなだめる役目で出現されたのであります。
決して神の怒りをなだめるためではなかったのです。

神は決して怒り給うような神ではないのです。
「オオ君が僕の代わりに借金を支払ってくれたのかありがとう」――人類はこう言って罪の重荷がおりたと思ってラクになり、ヤレヤレと思う。
これで、人類から罪の念が解放される。
罪本来無く、ただ罪の念で繋ぎ止めておいたために今まで消えなかった罪ですから、もうこれで罪は消えてしまったのです。

イエス・キリストはこういうように人類の罪の意識をなだめて人類から罪を解放し、人類をラクにしてあげようと思って、本来苦しまず、本来金剛不壊で傷つかない「久遠の実在」であるにもかかわらず、磔刑にかかって傷ついた姿であらわれたのであります。

だから、キリストの十字架の目的からいってもキリストでさえ苦しみ給うたのであるから自分も苦しまねばならないなんて考えているのはまちがいなのであります。
キリストの十字架は人間が楽になるように出現したのです。

宝蔵菩薩の四十八願は人間が楽になるように、極楽になるように出現したのです。
宗教というものは、こういうように人間が楽になるように、極楽になるように出現したのでありまして、今までの宗教には難行道という易行道(いぎょう)とがあると言われていますが、真宗などは易行であって、ただ南無阿弥陀仏と言うだけで救われるのでありますが、「生長の家」は易行よりもまだやさしいのです。

それは容易(やさ)しいだけではない。
楽な行である。
楽行道だと言っているのであります。
もう時間も予定の十時を十分過ぎましたから今日の講演はこれで終ることに致します。

第1章 終わり


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