[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
801-
901-
1001-
1101-
1201-
1301-
1401-
1501-
1601-
1701-
1801-
1901-
2001-
2101-
2201-
2301-
2401-
2501-
2601-
2701-
2801-
2901-
3001-
3101-
3201-
3301-
3401-
3501-
3601-
3701-
3801-
3901-
4001-
4101-
4201-
4301-
4401-
4501-
4601-
4701-
4801-
4901-
5001-
5101-
5201-
5301-
5401-
5501-
5601-
5701-
5801-
5901-
6001-
6101-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
Web誌友会 板/2
5377
:
a hope
:2015/04/26(日) 09:31:40 ID:cEpBaIdo
(a hope所感)
この後、ご主人の太田氏に、
<<神様を本当に信ずるということは、何もかも神様に打ち委(まか)せて、子供の教育はほったらかして、自分は何もせずに懶(なま)けているということなのです。>>
と思われてしまっている、奥さまの太田夫人が反論しています。
わたしも「子供の教育」に関しては、悩むことが多いので、この太田ご夫婦と雅春先生の御対談はとても興味深かったです。
よく「自由と放任は違う」という言葉を聞きますが、みなさんはどう違うとお考えですか?
上の雅春先生のお言葉に、
<<心に本当の信仰が握れたら、その心の投影として行為が自由自在になる。>>
<<自由自在無礙になるのが本当の正しい信仰の投影としての行為です。>>
とあります。
わたしは、正しい信仰(生き方)ができていないのに『自由』を主張するのはそれは 『自由』ではなくて「自分勝手」や「放漫」で、
そして相手の「自分勝手」や「放漫」をさせるがままにしてしまうのが「放任」なのではないかと解釈しました。
相手の「実相」を礼拝して信じることは勿論信仰の基本だと思いますが、現象の相手の姿がおかしかったり間違っていると感じたら、
「あなたのしていることは、おかしくありませんか?間違っていませんか?」と注意してあげることは、
相手の「実相」を信じているからこそできる、とても信仰深い愛深い行為なのではないか感じています。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板