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Web誌友会 板/2

2377傍聴人より:2013/07/18(木) 21:22:14 ID:???
http://youtu.be/cus-CoB9gQU

今回の記録動画は保存版です。内田弁護士が判りやすく解説しています。

谷口雅春先生が誰の発言(持論)を悲しんでおられるか判ると思います。
すべてはその人の迷いから引き起こされた事なのですから。

2378a hope:2013/07/19(金) 10:04:24 ID:edEDolt2

>>2366に復興Gさまが雅宣先生の「対称性の論理・非対称性の論理」を例に挙げ、
曳馬野さまに質問をされていますが、
わたしは、雅宣先生のこの論文を読んではいませんが、
以前、トキさまが概要をこの掲示板でお知らせくださったのは拝見しました。

この雅宣先生のお考え(見解)こそ、二元論そのものだと思うのです。

わたしは、>>2287で自分の経験をもとに「唯神実相」の教えの「生長の家」で、
二元論的見解をすることの危険性を述べさせていただきました。
この雅宣先生の「対称性の論理・非対称性の論理」は、生長の家の「唯神実相」と
明らかに矛盾していると思います。
生長の家は「対称性の論理」のみを説いていればいいのではないでしょうか?
(すみません。論文を読んだわけではないので間違っていたらご指摘ください。)

雅宣先生がそういう二元論的お考えだから、本流の方々と和解ができないのではないのですか?
そういうお考えを信徒に伝えているから、信徒も周りと和解ができず本当の「神の子の自覚」もえられず、
かつてのような奇蹟が起きなくなっているのではないのでしょうか?

わたしは、最近、ある白鳩さん(信仰歴20年以上)に、
「雅宣先生の教えはおかしくないですか?」と質問してみました。
そしてら、すごい勢いで「雅宣先生は、難しい雅春先生の教えを現代風にしてわかりやすく説いてくださっているのよ!」
と、反論されました。
そして、「もっとちゃんと雅宣先生のご著書を読めば、雅宣先生の教えが、雅春先生の教えとちゃ〜んとつながっているのがわかるはずよ」
と言われ、わたしに、雅宣先生の「森の中へ行く」をご推薦下さいました。
でも、購入はしませんでした。
わたしには、雅宣先生の教えの方がよほど難解ですから・・・。

2379復興G:2013/07/19(金) 13:07:35 ID:AB6RqYXc

>>2373 で触れました、うのはな様から教えて頂いた、魂に響いたご文章を、ここに貼らせていただきます。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

     信仰と人生

 信仰の生活は安易なイージーないい加減なものではない。

 併し信仰によって神につながる時、我らは神の愛の慈手(みて)によって導かれ、ついに困難をのり切るのである。

 レースに於ける競争者は殆どまけそうになる所でテストされると云われている。競争中彼は何回も、何回ももう抜かれるかも知れない、負けるかも知れないというキワドイ瞬間を経験する。然も彼は走り続ける。もうこれ以上耐えることの出来ない限度が幾度も来たと思いながらも不思議な力に支えられてそれを突き抜けて行くのである。斯くの如くして彼は、信仰につながる忍耐のゆえに、ついにレースの優勝者となるのである。

 信仰の開拓にも同じことが言えるのである。吾々はもう続けることが出来ないと感ずるような苛烈な人生体験に面するのである。もう事業の根拠は失われ、生活の地盤は崩れ、わがたよりたる城は落ちてしまったと云うような苦しき苦い体験に出喰わすることがある。このような時に信仰なき者は『神も仏もなくなった』と考える。しかし吾々が神の善意を信じて最後まで持続するならば、またどんな高価な価を払おうとも最後まで行きつこうと決心するならば、やがて吾々は筆紙に尽すことの出来ない信仰の悦びを得ることが出来るのである。その時、労しただけのお蔭があるとわかるのである。

 信仰への途(みち)は、最初は安易な御利益(ごりやく)信心から出発する。そして有頂天となり、やがて中途で光を失って大いに悩む。それは最初には「見せられた光」であり、「自分が見出した光」ではなかったからである。しかし一度見た光を見失うまいと勇気を鼓(こ)して進むとき、ついにその目標に到達する。其の時始めて彼は自分の蒔いた光の種を刈り取るのである。

               谷口雅春師  『生長の家』 誌 昭和24年7月号 巻頭言

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 もう一つ、「かごめの唄」 の秘義について。

“かごめ、かごめ、カゴの中のトリは いついつ出やる。夜明けの晩に、ツルとカメが すべった。うしろの正面だーれ”

 ――誰が聞いても、その意味の理解のつかぬ何だか訳の分からん 「かごめ唄」。それを、日本のすみずみの人が、みな、知っている!という、この不思議――!!

 これについて、『言霊(ことだま)』――ひつく神示のなぞことば――桑田二郎著・平成5年(株)潮文社・刊 から著者の霊感による解釈というのは、とても面白く読ませて頂きました。

これも、ポイントのことろを抜粋して貼らせて頂きましょう。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

* 「かーごめ、かごめー」・・・この世の“いのち”は、「かごめ(籠の目)」 の如くにおりなされた宿命の肉体生命のオリの中、

* 「かーごの中のトリは」・・・「トリ」 は、内なる“魂”の意識。“魂”は、肉体生命の宿命(かご)を通して、霊的な進化の実現へと進んでゆかねばならないのだが--------

* 「いついつ出やーるー」・・・その “魂” の意識は未だに、肉体生命の内奥の次元で、目覚められず、眠ったままの状態でいる。その “魂” の意識を、いつ目覚めさせる事ができるのか?

* 「夜明けのー 晩にー」・・・今がその魂が “霊性の進化” という夜明けのとき、目覚めねばならぬ時が来ているのにまだ、精神の無明の闇(夜・晩)の中にいる。人々は進化への意識を見失っており、その岩戸は閉じられたままで、まだ暗い-------- 

<つづく>

2380復興G:2013/07/19(金) 13:08:34 ID:AB6RqYXc

<つづき>

* 「鶴とカメがすべったー」・・・はるかな過去から、千万の進化の時を経て、今ここに来て、進化の方向からすべり落ちつつある。ここには、更に深い意味が秘められている。

しかも、その意味が 「神一厘」 の仕組みに、深くつながっているのだ。

「鶴」 は――太陽を頭頂に頂き(丹頂鶴のイメージ)、日であり、進化の方向へとはばたく霊(上)であり、精神。

天の御柱の左まわり=鶴、天の御柱の右まわり=カメ、その進化がズッコケつつある。

「ツルとカメがすべった」 という唄の文句も二つの意味にわかれる-------

つまり、「滑る」 と 「統べる」 だ。進化から脱線してゆくのが 「滑る」 ツル、カメ。進化へと進みゆくのが 「統べる」 ツル、カメ。すなわち、進化の実現とは、“魂” が “いのち” を正しく 「統理(トリ)」 すること! 「十(と)の理(り)」 に目覚めることだ。

    何がどうあれ、「滑って」 はならないのだ!! 死んで、すべてが終わるのなら、滑ろうが転ぼうがこの一生だけの問題だが、しかし、死はすべての終わりではない!!

そこから始まるのだ!! 霊としての意識は、不生不滅なるもの! 無限に続く「苦」の世界と無限に続く進化への次元!! 死を境にして、我々の “いのち” は、そのどちらかに分かれてゆく!

要は、意識のありようだ! 心の持ちようだ! 精神の方向性だ! 魂の自覚だ! それを進化の方向へと、しっかりと定める!! それをツルとカメが 「統(す)べった!」 という。「ツルと、カメ」 は、“いのち” の仕組みを 「たとえ」 の言葉にしたものだ。

* 「うしろの正面、だーれ?」・・・この、うしろの正面というのも、言葉通りの背中の真うしろ、という事ではない。そもそも、「夜明けの晩」 だとか、「うしろの正面」 だとかいう不思議なことばの言いまわしをするには、するなりの意味がある! 不思議な言いまわしは、つまり、不可思議次元を指し示しているのだ。

   つまり、うしろの正面の 「<うしろ>」 というのは、この物質世界の<うしろ>という事ではなく、“いのち” の内奥にむけられた意識のことだ! 自らの “魂” へと向けられた意識のことだ! うしろの正面だからとて、そのままに振りかえっても、後ろはうしろ、やっぱりそこも物質世界! 振り返らねばならぬのは、うしろの正面! すなわち、「うしろの正面、だーれ」 とは、自らの “いのち” の内奥を振り返って、自らの “魂” と対面せよ!! という、神次元からの呼びかけだ! それが自らの意識の本体である!! と教えてくれているのだ!!

   そのように、うしろの正面を見失ってしまっている意識の状態が、進化から外れた方向に意識を働かせてしまっている状態だ。そのままであっては、ならない!! その意識の働きの中から進化の法則に逆らったところの苦悩や、災いや、不幸の数々が、今、現在も、数限りなく生まれつつあるのだから!!

   要するに、そのさかさま意識が、カゴメ、カゴメの状態なのだ。その中から “魂” の意識が、羽ばたき出なくちゃならない! 今、人間の精神の進化段階がその時期に来たのだ! 今までのような、「無明」 のコテカン(固定観念)であっては、ならない時がきたのだ! いつまでも、意識を、カゴメのオリの中に閉じ込め続けていては、「ノアの箱舟」 に乗り遅れてしまう!! 「世の建てかえ」 の大峠が超えられない!! かごの中のトリが目覚めるか、どうかが、ツルとカメが “滑る” か、“総べる” かの分かれ道!

カゴの中のトリを目覚めさせるには、まず、自らの “いのち” の内奥の次元に意識をむけよ!
うしろの正面の目を開け!

いま、人間のこころの岩戸が開かれねばならぬ時がきた!! その時ゆえに、かごめの唄の意味も、自然に解かれた。・・・つまり、ツルとカメが “いのち” を正しく統べるところに、夜明けの晩に光がさす! 「無明」 の晩の、岩戸がひらかれる!!

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 ――とても面白い解釈だと思いました。

2381復興G:2013/07/19(金) 13:37:08 ID:AB6RqYXc

ツルとカメは、滑ってはならない。 “いのち” を正しく統(す)べらなくてはならない。

「統べる」 とは、本来の 「一つ」 を自覚して、 「一つ」 に還ること。

さもなければ、進化の法則に逆らったところの苦悩や、災いや、不幸の数々が、今、現在も、数限りなく生まれつつあるのだから!!

「うしろの正面」 すなわち自らの “いのち” の内奥を振り返って、自らの “魂” と対面せよ!!

そうして進化の実現とは、“魂” が “いのち” を正しく 「統理(トリ)」 すること! 「十(と)の理(り)」 に目覚めることだ。何がどうあれ、「滑って」 はならないのだ!!

“かごめ、かごめ、カゴの中のトリは いついつ出やる。夜明けの晩に、ツルとカメが すべった。うしろの正面だーれ”

――この、カゴの中の 「トリ」 は、私だ! (私は、酉(トリ)年生まれでもありますから。)

と、思いました。

2382復興G:2013/07/19(金) 13:40:08 ID:AB6RqYXc

それにしても、うのはなさんって、霊感的な、とても面白い人ですねえ。

2384曳馬野:2013/07/19(金) 18:30:46 ID:TZ2/719s
復興Gさんへ

>>しかし、「本流なる人々は生長の家でない」 と断言して、元の同志であった人々を不倶戴天の敵として争うようなのが生長の家なのですか? そんなことで、「万教帰一」が成り立つのですか?

生長の家でない、とは言いましたが、不倶戴天の敵だとは申しておりません。生長の家の生き方をしていないと云っただけで、感情は有りません。敵対している二つの組織がある、というあなたの見方から出た感想でしょう。したの元生長の家の熱心な同志をすら包容できないとの感想もあなたの感想でありませんか。

>>それが、世間一般の見ている「生長の家」です。もう、生長の家のお家騒動、分裂騒ぎは有名です。
元生長の家の熱心な同志をすら包容できないでは、物笑いの種になるだけでしょう

分裂してこれが生命の実相哲学である、と外の人に勧めるのは何ら問題はないでしょう。
そして彼らの周りに素晴らしい組織ができることは大変に良いことでしょう。
有名にし笑いの種にしたのはどなたでしょうか、。可笑しいことがあれば講師会で論議し、教化部長に問いただし、埒あかなければ本部での総裁出席の場で教化部長が問いただし、本意を確認すればよい。
内輪のことを曝け出し、己が正当とする、去るものを追わず来るものを拒まず、の生長の家からは遠い。

私は今日も、榎本恵吾講師の 「神癒の展開としての人類光明化運動論」 を 「web誌友会板」 に謹写掲示させていただき、拝読しなおして、深い感銘に打たれています。

この 「はじめ」 なる 「無」 に還った時、本来の 「大調和」 が実現すると思います。

でありましょうが、余りにも諄い、生命の実相にすべて書いてあると言われた尊師の講義に解釈するなんて。

2385復興G:2013/07/19(金) 20:06:24 ID:AB6RqYXc

>>2384 :曳馬野さん

レス、ありがとうございました。

>>生長の家でない、とは言いましたが、不倶戴天の敵だとは申しておりません。生長の家の生き方をしていないと云っただけで、感情は有りません。<<

――たしかに、「不倶戴天の敵だ」 と言ってはおられないけれども、そのような気持で戦っておられるのかと感じていました。

>>敵対している二つの組織がある、というあなたの見方から出た感想でしょう。したの元生長の家の熱心な同志をすら包容できないとの感想もあなたの感想でありませんか。<<

――その通りでした。事実はそうでないのなら、こんな嬉しいことはありません。

>>分裂してこれが生命の実相哲学である、と外の人に勧めるのは何ら問題はないでしょう。
そして彼らの周りに素晴らしい組織ができることは大変に良いことでしょう。<<

――これは、「学ぶ会」 の活動などを、何ら問題はない、良いことだとおっしゃっていると解釈してよろしいのでしょうか。

だとすれば、これは、今まで両陣営から 「あり得ない、不可能だ」 と言われ続けていた 「和解」 へ、一歩近づいたのかなあという感じがします。それは、ありがたい、うれしいことです。曳馬野さんが教団の上層部の方であれば、です。

>>可笑しいことがあれば講師会で論議し、教化部長に問いただし、埒あかなければ本部での総裁出席の場で教化部長が問いただし、本意を確認すればよい。<<

――その通りですね。そのように動き出しています。

なお、榎本恵吾講師の 「神癒の展開としての人類光明化運動論」 は、「尊師の講義に解釈する」 ことをされているのではなく、榎本講師は幽斎殿での祈りの中から、内からほとばしり出る思い、インスピレーションを書きとめられたものであると思います。

私はこれを読んで心が、魂が浄められるような思いがし、「唯神実相の生命の実相哲学ここにあり」の感がします。
榎本講師の書かれたものを読んで『生命の實相』を読むと、一層『生命の實相』が輝いて読めます。それは私だけでなく、たくさんの人がそうおっしゃって下さっていますので、これからも続けて行きたいと思っています。

ともかく、こうして曳馬野さんと会話ができたことは、ありがたくうれしいことでした。
ありがとうございます。

2386a hope:2013/07/19(金) 21:23:12 ID:edEDolt2
>>2382復興Gさま

うのはなさまって、ホント不思議なお方なのですよ。
わたしは、最初からうのはなさまの不思議な面白さ(?)さには魅せられているんです。

2387a hope:2013/07/19(金) 21:25:37 ID:edEDolt2

次回の第16回web誌友会の日程・内容などは、まだ決まっていませんが、
今夜から、また少しずつ「生命の實相」の自主勉強を始めさせていただきまます。
ユタカさま、勝手に始めますが今回もよろしくお願いいたします。

前回で「生命の實相」第3巻を終了したと見させていただき、第4巻に進ませていただきたいと思いますが、
範囲の目安としては、「第1章 人間は肉体でない話」と「第2章 真理はなんじを自由ならしめん」
くらいがよいかと思いますがいかがでしょうか?


それでは、まずは以前、信仰/体験板に投稿させていただいた内容を再投稿させていただきます。


【a hope自主勉強】

この第1章には、『ルカ伝』の中の清教徒シモンと娼婦マグダレーナのキリストへ対応を例に挙げて、
「赦されるという意味」が説明されています。

(赤線を引いた箇所)
P7 後から1行目〜
<<まことに「赦された」と申すことは罪の消えた状態をいうのでありまして、
たんに「勘弁してあげる」と口先でいってもらっただけで、本然の神聖が顕れておらず、
したがって罪が消えてはおらないで、再び罪をおかしたくなるような状態を指すのではないのであります。
自己本然の神聖があらわれた状態こそ罪が赦され消去された状態でありまして、
たんに口先で「あんたの罪は勘弁してあげる」といってもらうことを、
罪が赦されたなどと考えては大間違いであります。
本当に罪が赦され消去したならば、罪の顕れである病は消えてしまう。
それで神癒治療者は罪を消す人ともいえれば、相手の神聖を開顕する人ともいえるのでありまして、
施念者ばかりがいくら力んでみましても、相手に懺悔する心をもって
真理を受け入れてくれる心がなければ効果が少ないのであります。>>

P9 9行目〜
<<遊女マグダレーナは罪の赦し(生命の実相の開顕)を得るためには、
おそらく彼女の最も尊い香油の全部をキリスト(真理)の足下に注いだに相違ないのであります。
形ある宝はどんなに尊い宝でも、香油でも、自分が神の子であるという根本自覚に入ることにくらべるとなんでもない、
一切をなげうっても真理を知りたい、一切をなげうっても救われたい、その念願があれば必ずそれが形にあらわれる、
その現れが、マグダレーナでは香油をキリストの足に灌ぐという行為となったのであります。
なにもその行為に懺悔の事実を顕さないで、無代で、安いから治してもらった方が利益だ――と、
こういう物質的利益の方が先に立つようでは、その人は神癒の例波の受信機になれない
――したがって神癒によっては病気は治りにくいのであります。
治す方も治される方も、利害は全然念頭になく、神を愛する、神の栄を顕すためにならなんでもするというところまで達したら、
実にすばらしい顕著な治り方をするのであります>>

(所感)
このマグダレーナの懺悔のお話は何度読んでも感動します。
街中の人々から蔑まれていた娼婦であっても、心からの懺悔と真理を受け入れる心があったのでキリスト(真理)は赦されました。
そして、それが『まことの赦し』なのですよね。
「生長の家の赦し」も同じだと思いました。

すばらしい善人であっても、どんなに悪人と呼ばれる人であっても、神の御心(真理)は平等に働くのだと思いました。

2388ユタカ:2013/07/20(土) 17:02:37 ID:R1D4Jmeg
>>2362○常に生活が引き算になってはいけない。加え算にしなくてはならぬ。「これをしては他の迷惑になりはしないか。あの人は自分を迷惑がってはいないか」 などと消極的に引っ込んでしまってはいけない。愛しよう、喜ばそう、為になろうと積極的に加え算になるようにすれば他をもいかし自分をも生かす。(智慧の言葉)

○古事記神話に、イザナミノミコトが「一日千人くびり殺す」と言われたら、イザナギノミコトは「では、千五百の産屋を建てよう(千五百人生みだそう)」と言われたように。

――それで、具体的に、如何なる行動をするか。

私は、今、「web誌友会参考文献板」 に掲示中である榎本恵吾先生の 『神癒の展開としての人類光明化運動論』 を本にして出版し、心ある生長の家幹部・信徒すべての方々に読んで頂きたいと思う。

そんな思いが湧いてまいりました。

これについては、トキ様が、「本当に、今、求められる内容だと思います」と書いて下さり、
a hope 様も
>>榎本恵吾先生の――『神癒の展開としての人類光明化運動』 ―― をプリントアウトしてゆっくり拝読し直しました。そうすると、それ自体が「生長の家の教え」(『生命の實相』)の現代版解説書のように思えてきました。

 わたしが今まで疑問に思ってきたことへの回答が、スパッと書かれていて目から鱗が落ちていくようです。
これは、すごい真理に満ちた御文章だと感じています。<<

 と書いて下さっていました。

 ユタカ様、皆さま、どう思われますか。
===================================================

復興Gさま、私は榎本先生が何をおっしゃりたいのか?さっぱり分かりませんでした。 ですから、どう返事していいのか???(それより、わが使命行進曲のほうが好きです。と書こうかな?と迷いました。) 理解できなくて苦しんでいます、とは書けませんので、困っていました。 そして、繰り返し読んで、今日ゆっくり読める時間があったので、分からないところをじっくり呼んで、分かってきました。
神様が私は無いのです。というところが?分かりませんでした。榎本先生のは、上級者向けですね。私のような初級者は、現象的に神様がいないと信じてきて「生長の家」に出会って神様の存在を知らせて頂いたので、その神様が「私は無い」のですよ。となると思考が混乱してしまい、どう理解するかわからないのです。ですから。。。生まれつき神様の存在が分かっている人や、実相の内容を充分に理解できた人でなければ、榎本先生の本は難しいと思います。ですが、理解できた世界は光輝く世界でした。
これは、ちょっと難しい本ですが内容が素晴らしいので、勿体ないと思います、初心者に読みにくいと言うところが。、文章の一段落ごとに初級者でも理解できるようにやさしく解説をつけたらもっと良いと思いました。

2389ユタカ:2013/07/20(土) 17:22:57 ID:R1D4Jmeg
すみません、急な来客で途中で失礼します。

2390閲覧者A:2013/07/20(土) 19:05:27 ID:???
いつも素晴らしい真理の勉強をさせていただいて有難うございます。
閲覧者の身で、大変申し訳ないお願いですが、次回の誌友会は、お盆も近くなっておりますので、少しだけでも御先祖様の供養に関するお勉強ができたら嬉しくおもいます。
とくに何か先祖供養に関して質問があるわけではありません。
ここに、ご参加されていらしゃる、御先祖様の御霊様に、心から感謝申し上げます。

2391復興G:2013/07/20(土) 19:13:47 ID:AB6RqYXc

>>2388 ユタカ様。

率直なご感想を言ってくださって、ありがとうございます。

>>私のような初級者は、現象的に神様がいないと信じてきて「生長の家」に出会って神様の存在を知らせて頂いたので、その神様が 「私は無い」 のですよ。となると思考が混乱してしまい、どう理解するかわからないのです。<<

これは、榎本先生の 「無神」 というご文章を読まれますと、かなり解って頂けるのではないかと思いますので、「榎本恵吾記念館」 サイト
http://homepage2.nifty.com/hanabira/
の 「文書館 Ⅱ」 から、一部転写させて頂きます。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

無 神

 もしも、神というものがあって、その神に向かって誰かが「神は無い」と言ったとすれば、神は、「その通りである。私は無いのである。」と言われるであろう。

 そして逆に、その人に対して、「あなたによって私は生かされているのであります」といって礼拝されるのではなかろうか。

 神ご自身が『私が全宇宙の生みの親である。〇年〇月〇日。』などというものを、どこかに建てておられるとは、どうしても思えない。もしも、そういうものがあれば、そんなものを、自ら建てられるようなものを神と呼ぶ訳には行かない。

 神は全宇宙を創造し給うていながら
 その姿を消しておられるのであります。

 神は、人間を礼拝し給うているので
 あります。

 春には花を咲かせ、野山を緑でかざり
 雨を降らせ、陽を明るく
 風を渡らせて、何とかして人間を喜ばせて
 やろうとしておられるのである。

 生きた花々草々をもって、神は我らを供養し給うているのであります。
 しかし、依然として神はご自分を消しておられるのであります。

 どこまで消しておられるか。

 それは、神がお生みになった人間に「神は無い」といえるようにしておられるまでにであります。

 「神は無い」という声も、神のいのちによって人間はそう言っているのであります。そこまで神ご自身で、無神になっておられるのであります。

 「神など無い」と言えば言うほど、そこに、神の無神の聖なる輝きが、証明されているのではないでしょうか。

 日本神道の幽の幽なる神とは、ある意味でこのことを言っているのかもしれません。宗教も、真の宗教はこの神の無神なる輝きをうつしたものであるはずである。宗教が「この教えがお前たちを救ってやるのである。この教えにふれなければ、あなたは救われない。」というようなものであれば、即、それは神ではなく、愛ではなく、聖なるものであるという訳にはいかないのである。

 人前に立って「救ってやった。救ってやった。」というところには、聖なるものはないのである。

 説法も、お経も、そこにもし「この説法を聴かなければ救われない」とか、「この本を、このお経を読まなければ救われませんよ」というのを、少しでも残しておれば、それは無我ではなく、愛でもないのである。

それは無神の聖なるいのちの流れとは、およそかけはなれたるものでありましょう。

 おおよそ宗教は、
    全能なる神を信ずるのである。

 その信ずべき全能なるものの、生んだものの中に、これから救って完全にしてやらなければならないものがあると観ることほどの不信はあり得ないのであります。

 それは、宗教自体の自己矛盾であるといわなければならない。そこに宗教の「我」が出てしまっているのである。

 ただ、もし宗教にゆるされるべき道があるとすれば、それは神の生んだ萬物を拝むこと祝福することのみであります。それが無神なる輝きの世嗣なる宗教の姿でありましょう。

<つづく>

2392復興G:2013/07/20(土) 19:15:01 ID:AB6RqYXc

<つづき>

 救済活動、救済活動と大声でよばわるものもあるが、おおよそ救済活動とか愛の行いとかいうものは、人前に宣伝すべきものではないのではないでしょうか。

 「私はこれだけの救済活動をしました。」
 「私はこれだけの愛の行いをしました。」

と、それを競っているところには、はたして愛なるものはあるのでありましょうか。

 愛は夜露の如く音もなく訪れ、
  萬物を潤して、
   夜明けとともに消えゆくのである。

 誰にも気づかれずにすべてを潤すのが愛であるとすれば、それが深ければ深いほど尊ければ尊いほど、気づかれないところの愛によって私たちはどれほど生かされていることでありましょう。

 その意味において、即ち、宗教は萬物を礼拝し祝福するためにのみあるという意味においては、神道の神社には、ご神体として鏡が置かれているのでありましょう。

 この鏡は、そこに来る人々の姿を写すのである。
 その写った姿をまつっているのが、神社である。
 その鏡の前に立った人をご神体としてまつっているのが神社なのである。

 そして、その鏡の前に立って人は自分の姿に気づくのである。
 自分で自分が甦がえるのである。
 鏡がゆがみなく、完全に澄み切っていることが宗教の宗教たる所以なのである。

 奈良に行ったとき、社寺の屋根の上に高い空があって白雲があった。空はこんなにきれいだったのかと思わされたことがある。何かお寺のいらかや、神社の建物を通してみると、山々、森々や、自然というものが、却って引き立って来ているのに気がついたことはないであろうか。神社の新造されたときに、そのような気持ちになった人は少なくないであろう。神社そのものが無我になってすべてを引き立たせているのである。神社そのものが周囲を礼拝し、讚嘆している。

 それのみか、国全体が引き立って来る、ということも、自然なことであるのかも知れない。


 アスファルトを突き上げて破れた所から芽を出している草の芽を見たことがある。芽というものは、先に行けば行くほど柔らかくなっている。先端は全然と言っていいほど堅さはないのにもかかわらず、なぜ突き上げ、突き破ることが出来るのか。機械でボーリングする場合は堅い岩盤と接触する部分の先端に最も堅い爪がつけられている。この芽の場合は、接触点に近づけば近づくほど、やわらかく出来ている。実は芽は全然アスファルトと接触していないのではないか。触れる寸前のところで、先に上の方で口を開けてくれているということが、あるのではなかろうか。芽には外に出ようとする意志、または願いがあるのだろうか。

 いずれにしても機械の場合とは反対になっているのである。アスファルトの根源と芽の根源とは、どこかで出所を一つにしているのであろう。その一つなるところから、この事件は発しているのであろう。そこから見れば、すべてが同じであるというような何かの地点なのであろう。

 仮に二十センチ下から地上に出ようと生長を開始したとき、それに合わせて地表のところに何か芽の動きに合った、働きが始まっていなければならないでありましょう。もしも、芽の動きと上の方の動きが調和していなかったならば、芽はつぶれるか横の方に曲がってしまうかするのでありましょう。石のようなものがある場合は別としても、たとえ土のようなものであっても、芽はそれよりどれだけ柔らかいか知れないでありましょう。何かが根源的なところで働いているのでありましょう。

 しかし、依然としてその何かは 「そんなものは無い。」 と言おうと思えばいくらでも言えるようになっているのである。機械にくらべ生命の方は、何か地面に出るための知恵をそなえているのであろうか。

 ある意味では、外から教えなくても自分で中から知恵を出して、生長の方法を知っているものを、生命というのかもしれない。
(後略)

2393復興G:2013/07/20(土) 19:28:11 ID:AB6RqYXc

私はある時、「自分が何とかしなければならない」 と思っていた、そんな「自分」というものは

本来なかったのだ! 空っぽだったんだ! ただ、生かされていただけだったんだ!

本来の空っぽに還った時、自分の中にすべてがあり、全ての中に自分があり、

自分は光だったんだ! 愛だったんだ! 神だったんだ!

と思えたことがありました。

いつも、その気持を忘れないようにしたいと、精進しています。

2394復興G:2013/07/20(土) 19:38:48 ID:AB6RqYXc

>>2390 :閲覧者Aさま

ご要望に応じたいと思います。

ご投稿、ありがとうございます。

2396山本富士子:2013/07/20(土) 19:51:46 ID:RgtAnGTI

>>私は、今、「web誌友会参考文献板」 に掲示中である榎本恵吾先生の
『神癒の展開としての人類光明化運動論』 を本にして出版し、
心ある生長の家幹部・信徒すべての方々に読んで頂きたいと思う。<<

ぜひ書籍になることを熱望します。
この本をチャッチャッと読まず、ゆっくりじっくり
読んでみたいです。

2397閲覧者A:2013/07/20(土) 19:57:17 ID:???
>>復興G様、有難うございます。心から感謝申し上げます。

2398復興G:2013/07/20(土) 22:03:42 ID:AB6RqYXc

a hope さま、どんどん自主勉強を進められていて、そのご熱意に脱帽です。

>>2387 清教徒シモンと娼婦マグダレーナのキリストへ対応――マグダレーナは罪の赦し(生命の実相の開顕)を得るためには、おそらく彼女の最も尊い香油の全部をキリスト(真理)の足下に注いだ。<<

このとき罪ある女マグダレーナは、高価な混じりけのない「ナルドの香油の入った壺」をこわして全部をイエスの足下に注いだといわれており、ある人々はそれを見て「なんでそんな無駄なことをするか、この高価な油を売って貧しい人々に施してやればよかったのに」と言ったということも聖書には書かれています。しかしイエスは、「この女はなし得る限りをなしてわが体に香油を注げり」 「全世界、何処にても、福音の宣べ伝えらるる処には、この女の為しし事も記念として語らるべし」と言われた。

それは、「讃美歌」391番に歌われています。

「ナルドの壺 ならねど
ささげまつる わが愛
みわざのため 主よ、潔(きよ)めて
うけませ うけませ」

と。

私は讃美歌が好きで、今も時々、教会ではない讃美歌を美しいハーモニーで合唱する集まりに出て、感動をもって歌うの楽しみにしています。

キリスト教会では、神の子なる人間イエスへの愛をささげたとするのでしょうが、生長の家では、キリストとは真理である。物質的利害を超え一切をなげうっても真理を知りたいという念願、神の栄えを顕すためにならなんでもするという真理への愛があれば、すばらしい顕著な治り方をするのである、と説かれているのですね。

2399復興G:2013/07/20(土) 22:06:37 ID:AB6RqYXc

>>2396 :山本富士子さま。

ご声援、まことにありがとうございます。

実現できるよう――御心ならば必ずできると信じて、頑張ります。

合掌

2400ユタカ:2013/07/21(日) 00:46:10 ID:R1D4Jmeg
すみません、沢山のレスを有難うございます。

>「神は無い」という声も、神のいのちによって人間はそう言っているのであります。そこまで神ご自身で、無神になっておられるのであります。

>神のいのちによって人間はそう言っている・・・・
という所が??です。人間は自由を与えられて強制されていないはずですが、ここでは「神に言わされて」いるように思えたのですが、
どういうように解釈するとよいのでしょうか?

すみませんが、教えていただけませんか?

2401ユタカ:2013/07/21(日) 01:14:35 ID:R1D4Jmeg
せっかく長文書いたのにまた消えた!! 頭に来たので、また、明日にします。!!!

2402閲覧者A:2013/07/21(日) 05:40:18 ID:???
私も、山本富士子様と同じで、榎本恵吾先生のご文章を、ゆっくりと拝読させていただいています。
本当に書籍になって欲しいです。復興G様、ありがとうございます。
正法眼蔵や般若心経の心とだぶるところがございます。

2403復興G:2013/07/21(日) 07:33:19 ID:AB6RqYXc

>>2400 :ユタカさま

ご質問、ありがとうございます。

>>人間は自由を与えられて 強制されていないはずですが <<

「神はない」 と、自分が言ったつもりでも、自分の力で言ったのではない。神の力によって、言わせていただいたのだ、ということになっているのではないでしょうか。

2404復興G:2013/07/21(日) 07:35:00 ID:AB6RqYXc

>>2402 :閲覧者Aさま

ありがたいご投稿、感謝します。ありがとうございます。

2405ユタカ:2013/07/21(日) 08:18:36 ID:R1D4Jmeg
復興Gさま

有難うございました。榎本先生は神様を讃えておられるのですね。。 皆さんに好評ですが私には高尚すぎて・・・あと何年か修行したら理解できてくるのだと思いました。 以上 終わります。

そして、復興Gさま a hope様 みなさま、来月の誌友会はどうしましょうか?

3日間という日程についてはどうでしょうか? 訊けさんが不参加のようなので元にもどして当日2時間で終了しましょうか? 他に良いアイデアがありましたらどうぞご発言ください。

まず、日程を決定しましょう。 テキストは『生命の實相 第4巻』で範囲は第4章位でしょうか?? これは復興G様の御指示待ちです。

よろしくお願いします。

2406ユタカ:2013/07/21(日) 08:46:02 ID:R1D4Jmeg
すみません、訊けさんが不参加というのは、ユタカの想像で、御本人に確認しておりませんでした。

きけさ〜〜〜ん、出てきてくださ〜〜い。 来月は出席しますか???

返事してください。

2407a hope:2013/07/21(日) 09:07:42 ID:edEDolt2

ユタカさまって、ほんとにさっぱりした性格で、かっこいいですね!

来月(8月)だったら、第2週(9日〜11日)、第3週(16日〜18日)あたりがいいのではないかと思いますが、
これも指導者であられる復興Gさまのご都合を伺いたいです。

第15回web誌友会は司会者なしでも大丈夫でしたから、次回も司会者はいなくても大丈夫そうですね。
ですから、訊け管理人さまも、ご負担に感じられることなく一参加者として是非ご参加してほしいですね。


また、閲覧者Aさまが>>2390で、「先祖供養に関してのお勉強がしたいという」素晴らしいご提案をしてくださいまして、
復興Gさまがご承諾してくれたので、次回第16回web誌友会の復興Gさまのご講話は
「先祖供養について」ということになりそうですね。とても楽しみです。

わたしは、「生長の家の教え」に触れる前は、お墓が怖くて仕方ありませんでした。
でも、今は違います。
お墓のお掃除や、お墓参りに行くことで、心が浄められたり、とてもさわやかな気持ちになれます。

もっともっと、ご先祖さまのこと(霊界)をお勉強したいと思います。
復興Gさま、どうぞよろしくお願いいたします。

2408ユタカ:2013/07/21(日) 09:25:38 ID:R1D4Jmeg
a hopeさま 

3日間スタイルで続行ということですね・・・。 

次回も生命の實相が基本で、範囲までは読み進んで、その他で『先祖供養』を盛り込んで下されば良いなぁと思います。

司会者さんの件はOKですね。 a hopeさま、お墓が怖かったのですか〜〜〜?? 幽霊??かな??

ユタカは親戚がお寺、なので、子供のころは夏休みになると寺に遊びに行くのが楽しみでした〜〜〜。

先祖供養のことですが、「霊界」もそうですが、まずは父母に感謝が始まりですよね。。。先祖供養のお話を同じく楽しみにしています。ワクワク。

2409復興G:2013/07/21(日) 09:55:29 ID:AB6RqYXc

>>2405 :ユタカさま。

>>榎本先生は神様を讃えておられるのですね。<<

そう。神は「全ての渾て」で、「神の外にあるもの無し」ですから、有無相対の有ではなく、絶対無 即 絶対有 なのですね。

だから、自分というものが有るとしたら、それは神なのですね。

だから、神が絶対無であれば、自分も絶対無なのですね。

バンザーイ! ですね。

2410復興G:2013/07/21(日) 09:59:34 ID:AB6RqYXc

ユタカ様、 a hope 様、皆々様。

次回 第16回web誌友会、日程は3日間なら、私は

8月 第3週(16日(金)〜18日(日))がいいですね。

その間には、17日から宇治での盂蘭盆供養大祭がありますが、私は今年は宇治へは行かず、自宅で先祖に感謝の聖経読誦をさせていただくつもりです。

皆様は、どうでしょうか。

テキストの範囲は、がんばって、ユタカさんがおっしゃるように 第4章 p.91までやりますか。

2411ユタカ:2013/07/21(日) 10:01:55 ID:R1D4Jmeg
>>2405 :ユタカさま。

>>榎本先生は神様を讃えておられるのですね。<<

そう。神は「全ての渾て」で、「神の外にあるもの無し」ですから、有無相対の有ではなく、絶対無 即 絶対有 なのですね。

だから、自分というものが有るとしたら、それは神なのですね。

@ ここまでは、分かります。


だから、神が絶対無であれば、自分も絶対無なのですね。


神様が絶対無???

あるのは(実在するのは実相、神さまのみ)って教えていただきました。それを否定されてしまうことに違和感を感じてなりません。

無のもんかんを超えられずにいます。。。

2412ユタカ:2013/07/21(日) 10:06:11 ID:R1D4Jmeg
テキスト範囲は自主勉強範囲で自分たちで読む範囲にしましょうか?

復興Gさまの頑張らない範囲でテキストを決定なさってください。

いろいろ出すぎましてお詫び申し上げます。ごめんなさい。。。

2413復興G:2013/07/21(日) 10:07:34 ID:AB6RqYXc

>>2409 のつづきです。

「絶対無」 なら、自由自在。思いのままに、何でもできる。

「絶対無」 の中に、「全て」 がある。

だから、自分の中にすべてがあり、無限に ユタカ なのですね。

バンザーイ!

2414復興G:2013/07/21(日) 10:15:46 ID:AB6RqYXc

>>2411 :ユタカさま

「久遠の今」谷口雅春先生ご講義

http://www.youtube.com/watch?v=e2ol5ztA3z8

http://www.youtube.com/watch?v=lDSwsxbLfes

を、今一度、聴いてみてください。

2415復興G:2013/07/21(日) 10:38:18 ID:AB6RqYXc

テキストの範囲は、『生命の實相』 第4巻 第4章 p.91までやりましょう。

8月16日まで、まだあと 25日ありますから、それまでに十分自主勉強も可能でしょう。

ありがとうございます。

2416ユタカ:2013/07/21(日) 16:35:08 ID:R1D4Jmeg
ありがとうございます。

理解するのに相当訓練が必要のようです。。。

2417復興G:2013/07/21(日) 16:45:14 ID:AB6RqYXc

だいじょうぶ、一晩寝て朝 目が覚めたら ハッ とわかったりするものですよ。

2418a hope:2013/07/21(日) 20:41:03 ID:edEDolt2
復興Gさま ユタカさま トキさま みなさま

次回 第16回web誌友会の日程ですが、

すみません、ユタカさまの<<当日2時間で終了しましょうか?>>のご意見を見落としていました。
でも、当日の2時間は、ちょっと忙しいような気がします。

わたしとしては、1日半〜2日間くらいが丁度いいのではないかと思いますが・・・。

復興Gさまが>>2410で、

<<次回 第16回web誌友会、日程は3日間なら、私は8月 第3週(16日(金)〜18日(日))がいいですね。>>

とおっしゃってくださっていますから、
その3日間の中で復興Gさまのご都合のよい時間帯にご講話なども含めて、
設定して頂けたらいいのではないかと思いますがいかがでしょうか?

わたしは、仕事の予定がまだ決まっていないので何ともいえませんが、
夜でしたらだいたい参加可能ですし、閉会後も、後夜祭で発言させていただくことも出来ますので、
次回も自分のペースで参加させていただきます。

とりあえず、仮予告としましては


☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

第16回web誌友会(仮)予告

日時   8月 第3週(16日(金)〜18日(日))あたり
テキスト 『生命の實相』 第4巻 第4章 p.91

☆ ☆ ☆ ☆ ☆


ということになりますね。

復興Gさま、ユタカさま トキさま みなさま いかがでしょうか?

2419復興G:2013/07/21(日) 22:32:39 ID:AB6RqYXc

>>2418 :a hopeさま

テキストの範囲は、『生命の實相』 第4巻 第1章〜第4章 p.91 [まで]

ですね。

2420復興G:2013/07/22(月) 07:48:49 ID:AB6RqYXc

ユタカ様。

肉体人間には誕生日があります。

そして、必ず死ぬ日が来ます。

それは、「時間・空間」 という生命表現のためのスクリーンに映し出された映像(かげ)なのですね。

しかし、「生命」 は、「時間・空間」 の中に生まれてのではなく、「時間・空間」 を創(つく)りだした主体者です。

「時間・空間」 上に映し出された映像である肉体は、「カゴの中のトリ」です。(>>2379>>2381

“かごめ、かごめ、カゴの中のトリは いついつ出やる。夜明けの晩に、ツルとカメが すべった。うしろの正面だーれ”

この 「うしろの正面」 が、「時間・空間」 を創りだした、現象面から言えば見えない背後にある、真実在そのものの 「生命」。

「web誌友会参考体験板」 <43>に

>> 「生長の家人類光明化運動よ。汝は何処(いずこ)より来たれるや?」

 何処よりも来たらず。来たって来たるところなく、去って去るところなし、過去、現在未来に非ず、である。三界に身を現わすことなき、生長の家人類光明化運動である。

 来たらずして来たり、去らずして去る。姿形なき、はじまりなきはじめのはじめなる、今なる、肉によらずして生まれたる、浄まり切りたる、聖(ひじり)の聖なる人類光明化運動の姿が今や、その姿を顕わそうとしているのである。

 尊師谷口雅春先生が 「自分もまた、明治二十六年十一月二十二日に母の肉体より誕生したのではなかった」 とのよろこびに帰った時、人類光明化運動も、はじめなきはじめなる久遠の、肉によらざる浄まれる運動として誕生していたのである。

 それは世界的状況という、現象の必要性、肉の状況にさそわれて出発した運動ではなかったのである。<<

 とあるのも、この 「うしろの正面」 から出発しているものであり、大聖師谷口雅春先生は、その御自覚で 「今、起て!」 との声をお聴きになって人類光明化運動は出発したのであった、ということなのだと思います。

 それは、別の言葉で言えば、「目無堅間(めなしかつま)の小舟に乗って龍宮に入り」、乙姫舞い踊る、永遠のよろこびの運動を展開する、ということなのでしょう。

2421復興G:2013/07/22(月) 08:14:01 ID:AB6RqYXc

 人間に誕生日があって、やがて死ぬ時が来るように、現象界の地球には誕生した時があって、やがて必ず死滅する時が来ます。それは、避けられない運命です。

 「世界的状況という、現象の必要性、肉の状況にさそわれて出発した運動ではなかった」
のが人類光明化運動だと思います。

 地球環境が悪化ているからとて、現象界の地球環境対策として対症療法的な、膏薬張りみたいなことをしても、いずれ地球だって死滅するのです。だから、「現象あり」 と認めての運動は、永遠に救われない運動となります。

 「衆生劫尽きて大火に焼かるると見る時も、わが浄土は安穏なり」 という実相世界、今此処天国なり、エデンの楽園なりという自覚から出発するのが、本当の宗教運動だと思います。

2422a hope:2013/07/22(月) 09:41:47 ID:edEDolt2

>>2419復興Gさま

テキストの範囲のご指摘ありがとうござます。
正確には、

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

第16回web誌友会(仮)予告

日時  8月 第3週(16日(金)〜18日(日))あたり
テキスト『生命の實相』 第4巻 第1章〜第4章 p.91 [まで]
  

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

となりますね。
復興Gさまご自身のご予定等がはっきりしてからでかまいませんので、日程の設定をどうぞよろしくお願いいたします。



ところで、今回の範囲「第3章 祖国愛は神の道」p.46〜には、

p.50 7行目〜
<<・・・祖先の霊魂の念波は、現実世界にいる子孫の運命に影響を及ぼすということであります。すなわち、
(1)祖先または自分に関心ある縁者の霊魂の好まないところを子孫が行えば、祖先または縁者の霊魂の反対観念を受けて、その人の運命が妨げられます。
(2)祖先、または自分に関心ある縁者の霊魂が迷いにとらわれ、信ずべからざるを信じ、妄執にとらわれていますと、現実界の子孫たるわれらがその反対観念の掣肘(せいちゅう)を受けて、正しいことを行っても、それがおもしろくいかないことになるから、祖先の霊魂にはすみやかに真理を悟らしてあげる必要があります。
この第一の原理により、われわれは父祖が現世になくなっていようとも、父祖の期待に背くということを行えば、その父祖の霊魂の反対観念によって制裁を受けることになるのであります。さらに父祖に対して反逆の念を起こし、反逆の行動をとるようなことをすれば必ずその子孫の運命はよくゆかないのであります。>>

とあるように、ちょうど先祖供養に関する内容が含まれていました!
これも、すべて神さまのお導きのような気がします。

来月のお盆に向けて、「神の子の自覚」(唯神実相)と「先祖供養」の関係をしっかりお勉強していきたいです。

2423復興G:2013/07/22(月) 10:01:33 ID:AB6RqYXc

ありがとうございます。

>>2421 の続きです。

環境問題はどうでもよい、と言うわけではありません。

それは、「肉体なんてどうせいつかは死ぬのだから、どうでもよい」 と暴飲暴食、好き勝手をして早死にしてよいわけではないのと同様です。

人間には地上で実現すべき天分、使命があります。その使命を果たすべき道具である肉体を大切に使って天寿を全うするのがよいのは当然です。

しかし、肉体は道具である。それと同じように、地球は人類が 「み心の天に成るがごとく地にも成らせる」 場であって、大切に拝んで使い、長持ちさせることは大事でしょう。

しかしそれは、「神の国」 を地上に投影実現させるためです。
「神の国」 は、中心帰一・万物調和の永久平和の世界。「大日本神国観」 にあるような、お釈迦さんが言われた 「金波羅華」 実相の完全円満な相(すがた)、イエス・キリストが言われた 「みこころの天に成る世界」 ―― 「一切の生物ところを得て争う者なく、相食むものなく、病むものなく、苦しむものなく、乏しきものなし」 の世界を実現するのが目的である。

その 「神の国」 中心帰一・万物調和の永久平和の世界のモデルとして、具体的に日本は、無我・無私にして慈愛そのもののような 「スメラミコト」 天皇様を中心に、人間はみな日子(ひこ)・日女(ひめ)(天照大神の御子)なるいのちの兄弟姉妹として仲むつまじく栄えて行こうという 「八紘一宇」 の理想をもって建てられたのが日本である。この理想実現を、「日本国の実相顕現」 というのである。

だから、「日本国の実相顕現」 こそが、真の 「世界平和」 実現の道である。この日本を護る 「鎮護国家」 なくして究極の世界平和はあり得ない、と私は今も信じています。

2424閲覧者A(時々発言):2013/07/22(月) 10:31:43 ID:???
復興G様、>>2421>>2423に心より納得致します。
私は仏教の教えから、生長の家に触れましたので、心から嬉しく実感致します。

2425復興G:2013/07/22(月) 10:50:55 ID:AB6RqYXc

>>2422 :a hopeさま、ユタカさま。

ありがとうございます。

第16回web誌友会の日程について。

私の、先祖供養についての講話というのは、早めに、今週中(27日いっぱいまで)に終えるようにしたいと考えています。

自主勉強会は、並行して行われてもよいのではないでしょうか。

本番の誌友会は、今までのように初日は21:30から始まり、

終わりの日の終了時刻は23:00とするとして、

開始は 8月16日(金) 21:30 からで

終わりは、もし2日間なら 17日(土) 23:00まで とし、

3日間なら、18日(日) 23:00 まで とする。

どちらを選ぶかは、お世話を務めて下さっているユタカ様と a hope 様とで相談して決めて頂ければと思います。

私は、18日(日)午後からはリアルの誌友会出講があります。ですから2日間の場合、土・日より金・土の方が都合がよろしいのです。でも、皆さまが土・日の方がよろしければ、それでも結構です。

2426復興G:2013/07/22(月) 10:57:38 ID:AB6RqYXc

>>2424 :閲覧者A(時々発言)さま

ありがとうございます!

2427ユタカ:2013/07/22(月) 15:12:25 ID:R1D4Jmeg
復興Gさま ありがとうございます。レスを読ませていただいて、アチコチ訪問しては読んで戻ってまた、戻っての繰り返しです。榎本先生の記念館で無神を読んだり、参考文献を読んで、行ったり来たり必死で考えています。難しいです。
今日の参考文献も全文は理解出来ませんが、本当に素晴らしいです。
>web誌友会参考文献板
43 :復興G:2013/07/22(月) 07:11:10 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         三十三

  『生長の家の歌』 はその題名にのみ “生長の家” という名前があって、四番までの歌詞には一ヵ所も “生長の家” という名前は出て来ないのである。

 即ち、ここには、自分をどこにもかかげていない、消え切りの、澄み切りがあるのみなのである。

  「生長の家人類光明化運動よ。汝は何処(いずこ)より来たれるや?」

 何処よりも来たらず。来たって来たるところなく、去って去るところなし、過去、現在未来に非ず、である。三界に身を現わすことなき、生長の家人類光明化運動である。

 来たらずして来たり、去らずして去る。姿形なき、はじまりなきはじめのはじめなる、今なる、肉によらずして生まれたる、浄まり切りたる、聖(ひじり)の聖なる人類光明化運動の姿が今や、その姿を顕わそうとしているのである。

 尊師谷口雅春先生が 「自分もまた、明治二十六年十一月二十二日に母の肉体より誕生したのではなかった」 とのよろこびに帰った時、人類光明化運動も、はじめなきはじめなる久遠の、肉によらざる浄まれる運動として誕生していたのである。

 それは世界的状況という、現象の必要性、肉の状況にさそわれて出発した運動ではなかったのである。

 宇治別格本山の新練成道場が出来、多目的ホールに 「實相」 額を置くことになり、それまで長い間、幽斎殿に置いてあった 「實相」 をもって来て、壁にはめ込みの額に入れることになったのである。

 その時、もとの額縁(がくぶち)が要らなくなったので私はそれを貰い受けて、素晴らしいその額縁に、私の描いた絵を表装屋に出して、入れてもらったのである。

 その絵には 「東雲燦然神霊遍満」 と揮毫しており、総本山の東雲台から眺めた朝焼けの雲に乗ったようにして神霊が合掌の姿で天降りつつあるその光景であり、それぞれが合掌してい給うのである。この絵は今、幽斎殿の私の “祈りの間” の 「實相」 軸と向かい合って、私の背中の方の壁に立てかけて置いているのである。

 この額には、数十年おさまっていた大聖師の 「實相」 の字は既にないのであるが、 「實相」 の文字そのものが、 「私は無いのです」 との、みずからの消え切りの、澄み切りであることを知らされた今、その象徴として、額から 「實相」 の字は姿を消して、そこには、万物礼拝の澄み切りの合掌がそこに輝いている大聖師のお姿があり、完全円満なるものを礼拝し祝福する運動であるところの汚れなき生長の家の人類光明化運動のすがたがそこに輝いていて下さっているのであると拝察させて頂いているのである。

 姿、形なくして、吾れも知らず、他も知らず、全地上が澄み切りの、聖なる光に覆われているのである。そして、それがますます輝きを増し、生長して行くのである。 「世界平和の祈り」 はこのような内実を持ったものであることに心を新たにしたのである。このような光りは、誰も、何ものも反対することは出来ないのである。(1998.8.2)

2428ユタカ:2013/07/22(月) 15:16:27 ID:R1D4Jmeg
(つづき)
>この額には、数十年おさまっていた大聖師の 「實相」 の字は既にないのであるが、 「實相」 の文字そのものが、 「私は無いのです」 との、みずからの消え切りの、澄み切りであることを知らされた今、その象徴として、額から 「實相」 の字は姿を消して、そこには、万物礼拝の澄み切りの合掌がそこに輝いている大聖師のお姿があり、完全円満なるものを礼拝し祝福する運動であるところの汚れなき生長の家の人類光明化運動のすがたがそこに輝いていて下さっているのであると拝察させて頂いているのである。

ここの「實相」そのものが私は無いのです。

ここが分かりません。  まったくです。 文字だけのことですか??

何を言いたいのかがわかりません。

2429ユタカ:2013/07/22(月) 15:22:57 ID:R1D4Jmeg
>しかし、「生命」 は、「時間・空間」 の中に生まれてのではなく、「時間・空間」 を創(つく)りだした主体者です。
そうでした、そうでした。
時間空間の中で考えると分からないですね。

ですが、時間空間を越えた場所を『實相』と教えてもらったので、榎本先生の『實相』が私も「ない」のですよ。と書かれているところが理解できない難所です。

2430ユタカ:2013/07/22(月) 15:28:19 ID:R1D4Jmeg
a hope様

私は日程と行事計画は復興G様に合わせて進行すればいいと思います。 27日までに先祖供養のお話をされるということです。ですので、27日までに皆さんからも先祖にまつわるお話なども出していただければいいのではないでしょうか?

a hope さま、いかがでしょうか?

2431ユタカ:2013/07/22(月) 16:38:43 ID:R1D4Jmeg
2004年 8月号 白鳩誌 特集「父母の愛に目覚める」

表紙の言葉 子供を愛さない親はいません。あなたは両親、さかのぼればご先祖とも同じいのちでつながっているのです。
この世に生を受け、そして今日まで育ててくださった 感謝の思いを父母に伝えてみませんか。

インタビュー お父さん、お母さんは、どんなときもあなたを愛している
今、あなたがここに存在していること。 それは偶然ではなく、とても不思議で、有難いことなのです。 半世紀以上にわたって人々を生長の家の信仰に導き、救ってきた楠本加美野講師に、父母の愛の深さについてお聞きしました。
生長の家宇治別格本山総務 本部講師 楠本 加美野先生

ーーー「父母に感謝しましょう」という楠本先生の指導によって運命が好転したという方の話を数多くききます。

楠本先生 いえいえ、みなさんご自身が、「本当は両親を愛している自分」に気づいて、その通りになったということなんですよ。私と生長の家との出会いは七十年近く前になりますが、私自身、実父にも継父にも反発し、母にも冷たく、愛を信じない孤独な青年でした。肺結核になり死の恐怖に怯えたこともあります。
でも「神に感謝しても父母に感謝し得ない者は神の心にかなわぬ」の生長の家の教えに触れ、長年蓄積した憎しみ、そして、それによって起こっていたからだの不調があとかたもなく消え、幸せに満ちた生活に入ることができたのです。

ーーー憎しみなどの暗い心と身体の不調は関係しているのですか。

楠本先生 心と体の相関関係は、現代医学でも証明されつつありますね。生長の家では「病気というものは本来無いもの。病気はその人の心の影であるから、つくることも消すこともできる」と説いています。両親に感謝するという、本来の美しい心が芽生えることによって病気の苦しみが消え、環境も変わったという方を数え切れないほど見てきました。消えた、というより、本来の健康・幸せそのものの自分に戻ったんですね。

『父母に感謝できた時』
ーーーたとえば・・・・・。

医者からウツ病としんだんされ、ついには会社を辞めざるを得なくなった三十代の男性がいました。妻は子供をつれて家を出てゆき、離婚となり、高額な養育費を毎月求められました。別れた妻への憎しみはつのり、子どもと引き裂かれた憎しみも増し、地獄のような毎日だったそうです。けれども幸運なことに、その方の母親が生長の家をご存知だったんですね。彼は勧められるまま練成会へ参加するようになりました。なかなか変化は現れなかったけれど、それでも何かが変わると信じて・・・・。
ある時、「笑いの練習」を続けていたら、夜に布団の中で急にこみ上げるような悦びが湧いてきたというのです。それからは、いっそう真剣に行事に参加するようになり、ついに今の境遇は、自分の心がつくり出していたことに気づく」のです。 彼は自分の生い立ちを振り返り、「自分はあんなふうにはなりたくない」とおもっていた父親と同じ運命をたどっていたことに驚いたのですね。彼の両親は、彼が二歳のとき離婚しています。父親の浪費癖や女性関係に耐えられなくなり母親は二人の子を連れて家をでました。 今、自分が同じように我が子と離れてみて、この悲しみを父親も味わっていたことをひしひしとかんじたのです。そして父親を探しに行こうと心に決めました。

ーーー会えたのですか。

楠本先生 ええ、別れて、三十九年がたち、初めて父親の顔を知ったのですが、対面した父親は、酸素吸入器なしでは動けない状態でした。それでも彼に会いに出てきてくれ、「おまえたちのことを一度でも忘れたことがなかった」と言ってくださったそうです。
三十九年間も苦しみ、そして自分を愛し続けていて下さったことに心から感謝できた。「この体験があったからこそ生長の家に導かれ、本当の幸せを手に入れる事ができました」とウツ』病だったことが信じられないほどの生き生きとした手紙を、後に彼からもらいました。

(つづく)

2432復興G:2013/07/22(月) 16:53:50 ID:AB6RqYXc

>>2428 :ユタカさま

>>「實相」そのものが私は無いのです<<

ではなくて、

>> 「實相」 の文字そのものが、 「私は無いのです」 <<

ですよ。文字が無いのであって、「實相」そのものが無いのではありません。

2433ユタカ:2013/07/22(月) 17:13:54 ID:R1D4Jmeg
(つづき)
不思議な力を発揮する言葉

ーーー世の中には、子どもに残酷な仕打ちをする親がいますが。

楠本先生 二十歳のA子さんは、幼い頃、何年も母親に暴力を受けていました。母親は、A子さんが四歳のとき再婚をし、婚家先の家族から「その子は施設に預けるように」と言われたそうです。でも母親は手放しませんでした。その代わり、「あんたなんか生まなきゃよかった!」という言葉とともにA子さんへの虐待が始まりました。その後、妹と弟ができましたが、扱いの差は激しく、A子さんは「死にたい」とまで考えたそうです。

ーーーむごい話ですね。

楠本先生 そんな彼女が二十歳になり、宇治別格本山の練成会に参加する機会を得ました。浄心行を行い、両親への感謝の言葉を毎日唱え続けたのです。やってみるとお分かりになると思いますが、「ありがとうございます」という言葉は言えば言うほど 不思議な力 を発揮するんです。
憎んでいた相手の気持ちが、謎解き のように分かり始めるのです。神経過敏な母親は自分に負い目を漢字、精神的に追い込まれて、はねのけたい気持ちをつい、我が子へ向けてしまったのです。それほどの精神状態になったお母さんはかわいそうだった・・・・と。

ーーーそこまで優しくなれるとは、まるで仏さまのようですね。

楠本先生 私達はみな神様仏様の子なのですから、そんな慈愛に満ちた気持ちをはじめから持っているんですよ。自分が「尊い素晴らしい神の子だ」と自覚できた時、今度は、こんなに素晴らしい自分をこの世に生んでくださったことに対して、しみじみ、ありがたい!と思えるようになるのです。

『先祖の幸福の波動をキャッチする』

ーーー 不思議ですね。

楠本先生 A子さんは練成会を終え「生んでくれてありがとう」という電話を母親にしたそうです。母親は罪の意識にずっと苦しんでおられて、「ごめんね」と何度もいい、号泣されたそうです。義理の父親に対しても、背を向けていたのは自分の方だったと気づき詫びました。
その瞬間、今までに無い幸せな気持ちになれたのです。

ーーー父母に感謝できるようになったA子さんの人生は、笑顔がずっと増えていくことでしょうね。

楠本先生 感謝の気持ちを持つ人は、実は、ご先祖様がいつも子孫に発信してくれる幸福の波動をキャッチすることが上手なんですよ。
こういう人は、嬉しい瞬間っていうのが継続していくんです。

そんなことがあるわけないと思う方がおられるなら、ぜひ、気軽に宇治別格本山にいらっしゃい、いつでもお待ちしていますよ。

本文終わり。

楠本先生の写真の横に

「どんな仕打ちを受けた体験があろうとも、必ず父母の愛を見出すことが出来ます。 あなたは神の子ですから」

 
生長の家宇治別格本山総務室で


先祖供養の入り口の父母に感謝することを書かれてありますものを謹写させて頂きました。

みなさんも、資料があったら謹写下さい。

2434ユタカ:2013/07/22(月) 17:16:10 ID:R1D4Jmeg
復興Gさま

あはは〜〜。 やっぱりそうですか。そうだったんですね〜〜〜。

ちょっと、難しく考えすぎました〜〜。。。 ありがとうございます。

2435ユタカ:2013/07/22(月) 17:38:51 ID:R1D4Jmeg
先祖を祀る心

大地は神様  根は先祖  幹は両親  枝葉は子孫

枝葉に花咲き よき果を結ぶは 親に考養 先祖に供養

       
          桜の花はどこから咲くか 

 桜の花が美しく咲いて人にとろこばれるのは、一ぺんに、どこからともなく花が出て来たのではない。
それは根があり、幹があり、枝があり、葉があり、その根が、幹が、枝が、地の中にある養分を苦労して吸い上げ、葉が太陽のお光をいただいて、空気中の炭酸ガスを吸収して、一所けんめいにそれを同化して、やっと小さな芽のような蕾(つぼみ)をつくり上げ、その蕾を育て上げて、ついにあの美しい花を開かせたのです。

人間が今日あるのも、ただひとり、自分の力で此処に生まれ出ているのではない。
花には幹があり、根があるように、人間には父母があり、祖先があり、祖先のもとには神様があり、その神様の いのち が自分に通うていて人間は生きているのです。ですから神様に感謝しなければならぬ。 祖先に感謝しなければならぬ。 父母に感謝しなければならぬ。(中略)

貧乏をしたり、病気をしたりするのは、根に養分が足らぬからです。
感謝が根に養分をやることになるのであります。毎日、祖先に「甘露の法雨」を誦(あ)げて感謝いたしましょう。
そうしていますと、毎日いっそう人間は元気になり、運がよくなり、成績がよくなり、何でも都合よく行くようになります。

    谷口雅春先生 『美と健康の創造』より謹写

2436復興G:2013/07/22(月) 20:01:15 ID:AB6RqYXc

ユタカ様

親孝行・先祖供養について、すばらしい参考資料の謹写掲示、ありがとうございました。


榎本先生は、「現象は、無い!」 と執着を放つところに、無上の歓喜、法悦を感じておられたのですね。

「実相」 と言っても、現象の側から見た「相対的な実相」なんて、そんなものは無い! ということでしょうか。

2437閲覧者A:2013/07/22(月) 20:28:09 ID:???
ユタカ様、素晴らしいご文章をありがとうございました。

2438a hope:2013/07/22(月) 22:16:35 ID:edEDolt2

>>2430 ユタカさま 

①私は日程と行事計画は復興G様に合わせて進行すればいいと思います。
②27日までに皆さんからも先祖にまつわるお話なども出していただければいいのではないでしょうか?

↑の二つのご提案ですが、賛成させていただきます。
トキさまや、みなさまもきっと了解してくださると思います。

復興Gさま、みなさまどうぞよろしくお願いいたします。


ところで、わたしは今は教団の信徒ではないのですが、近所の親切な白鳩のおばさまが時々愛行で白鳩誌を持ってきてくださいます。
ユタカさまが、>>2431で『2004年 8月号 白鳩誌 特集「父母の愛に目覚める」』の楠本加美野先生への
インタビュー記事をご紹介くださっていますが、
今月号?(NO.40)にも楠本加美野先生へのインタビュー記事が載ってますよ!
それには、流産児供養のこともお話されていてその内容がわたしには少し衝撃的でした。

以下 楠本先生のお話より抜粋

<<・・・練成会での指導経験から分かったことですが、流産時がいる家庭の子どもには、共通した現象が起きています。
それは、やる気がなくなってしまうとか、親に暴力を振るったりして反抗する、暗いところが好きになる、
お菓子が好きになる、冷え性になる、孤独で寂しそうにする、無駄に金を使ってしまうなどです。
これは流産児がその苦しみを、生を享けたきょうだいの問題行動を通して親に訴えている結果だと考えられます。
中絶された胎児は、やはり親から愛してもらいたいし、霊界でどんなに辛い思いをしているかということを親に分かってもらいたいんです。
子どもが家に引きこもっているとか、大学を出ても働こうとしないというような悩みを抱えて
練成会に来る親御さんが今はとても多いですが、そういう家庭には、まず流産児がいます。
中には「いません」という人もいますが、「あなたの両親には?」と尋ねると、いることが多いんですね。
霊界はこの現象世界と同じように「念の世界」ですから、私たちの心の思いが伝わります。
もし自分に流産児がいれば懺悔して供養するのはもちろんですが、自分とご主人のそれぞれの親に流産児がいれば、
親に代わって供養してあげてほしいですね。・・・>>


流産児は自分には関係ないことだと思っていましたが、両親・義両親のことまで考えていませんでした。
それに実際、わたしのきょうだいの子どもが今不登校になっています。

子どもの問題行動のすべての原因が流産児だとは思いませんが、本来この世に生まれてくるべきだった尊い命を、
親の不注意で流産してしまったり、親の都合で中絶してしまったわけですから、
その流産児の霊界での苦しみや、親に愛されたいという念がそのきょうだいやその子どもたちに伝わって、
問題行動としてあらわれるということはありえることだと思いました。

インタビュー内容が素晴らしいので、全文紹介させていただきます。
(長文になりますので、明日から自分のペースで信仰/体験板の方ににさせていただきます)

2439ユタカ:2013/07/22(月) 22:28:00 ID:R1D4Jmeg
>榎本先生は、「現象は、無い!」 と執着を放つところに、無上の歓喜、法悦を感じておられたのですね。
現象は無い!と断ち切ると本当に気持ちいい感じがします。

相対的な実相・・・も無いと断ち切って実相の中で生活できればいいですね。 凡人の私にもできるのでしょうか?

復興Gさま、いつまでも理解できないですみません。。。。

2440ユタカ:2013/07/22(月) 22:33:51 ID:R1D4Jmeg
a hope さま

今回、先祖供養のお話があるので、8月号の普及誌はこちらに謹写されてはどうでしょうか? 別板ですと、すぐ消えて(上に上がってしまいます。)

2441ユタカ:2013/07/22(月) 22:40:31 ID:R1D4Jmeg
みなさまも ご自分のこれはよいなぁ。と思う資料をここに掲載されてみてはどうでしょうか?

閲覧者A様も何か先祖供養に関係がある文章がありましたらどうぞ。。。

うのはなさま、SAKURAさまも沢山資料を持っていそうですね。 よろしければ、ご掲載くださいませ。

まとめは復興Gさま、よろしくお願いいたします。

ということで、どうでしょうか?

2442復興G:2013/07/22(月) 23:15:28 ID:AB6RqYXc

>>2439 :ユタカ様

>>相対的な実相・・・も無いと断ち切って実相の中で生活できればいいですね。凡人の私にもできるのでしょうか?<<

実相と現象と、二者相対するものがあるというような 「実相」 というのは空想に過ぎず、本当の実相ではないということです。実相は絶対――対立を超えたもの――時間・空間が現れる以前の、時空を超えた 「久遠の今」、「超時の今」 にあるものだからです。そこは対立のない世界だから、 「実相独在」 というのです。

まあ、わかってもわからなくても、神に生かされている、実相の中で生活していることにはまちがいないので、
「バンザーイ!」 と喜んで、安心して生きましょう。生かされましょう。

2443a hope:2013/07/22(月) 23:22:45 ID:edEDolt2
>>2440ユタカさま 

<<今回、先祖供養のお話があるので、8月号の普及誌はこちらに謹写されてはどうでしょうか? 別板ですと、すぐ消えて(上に上がってしまいます。)>>

そうですね。
それでは、少しずつの紹介ではなくて、wordにすべて謹写し終わった時点で、こちらに投稿させていただきます。

2444a hope:2013/07/22(月) 23:25:05 ID:edEDolt2
復興Gさまとユタカさまが、榎本恵吾先生の『神癒の展開としての人類光明化運動』の御文章についてお話されていますが、
確かに、恵吾先生の御文章は独特で、頭で考えて理解しようとすると難しいのではないかと思います。

わたしは、頭で深く考えるのは苦手で、感覚で捉える(?)方が好きです。
だからあまり、内容については深く考えず、「あ〜そうなんだ!そうなんだ!」
「実相は完全円満なんだ。ありがたいな〜」ってすべてを肯定的に受け入れてしまっています。
でも、時々「恵吾先生、そこまで言いますか・・・」とニヤニヤと笑い顔になっているときもありますが。

恵吾先生は、御文章の中で一切の現象、迷い、暗黒等の本来ないものを「無い 無い 無い」と否定されて、
そればかりか、人間がイメージで考えてしまうような 「神」や「実相」さえも否定されて、
すべてのすべてである「まことの実相(宇宙に遍在し給う神)」の存在だけを肯定されようとしていらっしゃるのではないかと思いました。

とにかく、わたしにはすごく新鮮で刺激的な御文章なので毎日ワクワクしながら拝読しています。
この恵吾先生の御文章は、たとえ意味が通じなくても、お経を読誦するように拝読しているだけで
御利益がある御文章なのではないかと感じています。

2445ユタカ:2013/07/23(火) 00:31:34 ID:R1D4Jmeg
そうですね、私もあまり深く考えないでサラッと読みましょう。

きっとそのうち分かってくるし、實相の中で生かされているので。大丈夫。

ありがとうございました。

>でも、時々「恵吾先生、そこまで言いますか・・・」とニヤニヤと笑い顔になっているときもありますが。
訊け言葉だと、チェスト!!だっけかな? 完全同意です。

恵吾先生は、御文章の中で一切の現象、迷い、暗黒等の本来ないものを「無い 無い 無い」と否定されて、
そればかりか、人間がイメージで考えてしまうような 「神」や「実相」さえも否定されて、
すべてのすべてである「まことの実相(宇宙に遍在し給う神)」の存在だけを肯定されようとしていらっしゃるのではないかと思いました。


同感、同感。。。。  よーーーくわかります。 そこにこそ今の教団の問題の解決があるのですね。。いや、もしかすると、一人一人の問題かも知れませんね。。。

私達のために、教団があのような現われをそているのかな?? と榎本先生のスゴイ文章を読むとそう思う時もあります。でも、その悦びをすぐに忘れてすぐに凡人に戻ってしまいます。。。

それなので、勉強させていただけるWEB誌友会にとても感謝しています。ありがとうございます。

2446ユタカ:2013/07/23(火) 05:40:40 ID:R1D4Jmeg
>2442 復興Gさま
>まあ、わかってもわからなくても、神に生かされている、実相の中で生活していることにはまちがいないので、
「バンザーイ!」 と喜んで、安心して生きましょう。生かされましょう。

ありがとうございます。そうですね、神様って思っていたよりもっと広くて大きい・・榎本先生を読んで視野が広がった感じがします。。なんて表現したらいいのか分かりませんが・・・

それと、確認させて下さい、27日までは先祖供養関係のお話でそれ以降は生命の實相を開始ということで良かったのですよね? そうだと思って書き込み開始してしまいました。

ありがとうございます。

2447復興G:2013/07/23(火) 06:02:25 ID:AB6RqYXc

>>2446 ユタカ様

>>確認させて下さい、27日までは先祖供養関係のお話でそれ以降は生命の實相を開始ということで良かったのですよね? そうだと思って書き込み開始してしまいました。<<

そのように決めてかかったわけではありませんが、それがよろしいでしょう。よろしくお願いします。

ありがとうございます。

2448復興G:2013/07/23(火) 06:10:49 ID:AB6RqYXc

>>この恵吾先生の御文章は、たとえ意味が通じなくても、お経を読誦するように拝読しているだけで
御利益がある御文章なのではないかと感じています。<<

>>神様って思っていたよりもっと広くて大きい・・榎本先生を読んで視野が広がった感じがします。。<<

ほんと、実相とか神様というのは無限なのですから、有限な人間の頭脳で解るはずはない。

解ったと思ったら、それはウソでしょう。

私も、解ったようなことを言っているけど、それはウソで、本当は何もわかっていないのだと思います。(笑)

ありがとうございます。

2449ユタカ:2013/07/23(火) 22:20:04 ID:R1D4Jmeg
>2448 復興G様

榎本先生ワールドから見るとGさまでもそうなるのですか。(笑)そのような世界から見たら、今の事件などたいしたこと無いのかもしれませんね!

明るく頑張ります。 嬉しい、楽しい、わあっはは!!

2450閲覧者A:2013/07/23(火) 22:34:49 ID:???
榎本先生のご文章を拝見していたら、24時間神想観のような感じを受けます。正座瞑目合掌していなくても、いつも流れいり、満たされているのですよね。

2451ユタカ:2013/07/24(水) 06:27:05 ID:R1D4Jmeg
もしかして、、、先祖供養の資料謹写の場所間違えていますか?

a hope様が言っていたように・・・聖典板だったのかな? 間違えていたらすみません。。。

2452a hope:2013/07/24(水) 08:17:20 ID:edEDolt2
白鳩 NO.40 (生長の家本部編集)日本教文社発行より

〈インタビュー〉(p12~)
✻楠本加美野・生長の家長老に聞く
『生かされている感謝の思いを、先祖供養に込める』

(生長の家の先祖供養の中心地と言われる生長の家宇治別格本山(京都府宇治市)。半世紀以上にわたって練成会での指導を務め、多くの人々を信仰に導いてきた楠本加美野・長老(宇治別格本山総務)に、先祖供養の意義についてお聞きした。

―――長年にわたって生長の家の練成道場で指導をされてきましたが、一貫として「父母の愛の尊さ」について説いていらっしゃいますね。

〈楠本〉 生長の家は「天地一切のものに感謝せよ」と教えています。その中で一番大切なのが、父母に感謝することです。自分の存在が素晴らしい「神の子」だと分かれば、自分を生んで下さった父母に対して感謝の気持ちが起るのは、当然のことなんですよね。親は生まれてから一番世話になった人であり、身近な存在です。その父母に対して感謝できなければ、他人や天地の何物にも感謝はできないんです。

私の父は、私が生まれて間もなく行方不明になりました。その後、母は私が十三歳の時に再婚しましたが、私は母と継父をずっと軽蔑し、嫌っていたんです。ところが二十六歳のときに参加した生長の家本部練成道場の練成会で、「神に感謝しても父母に感謝し得ない者は神の心にかなわぬ」と谷口清超先生から個人指導を受け、ハッと胸を打たれました。

その十年前に生長の家に入信していた私は、頭では父母への感謝の大切さを知っていましたが、「悪い親に感謝する必要はない」という思いが強く、つまりそれまでの私の信仰はニセ物だったんです。

ご指導の後、私は一生懸命、「お父さん、ありがとうございます、お母さん、ありがとうございます」と唱えて祈りました。そうしていくうちに父母の愛の深さに目覚め、心から感謝できるまでになったんです。

練成会の参加者の中には、かつての私と同じように親を嫌い、「感謝できない」と言う方がいますが、父母への感謝ができないと、それは「神の心にかなわぬ」のですから、運命は決して良くはならないんです。「腹が立っても、癪(しゃく)に障(さわ)ってもいいから、とにかく感謝の祈りをしなさい」と私は言っています。そうやっていくうち、ありがたいと思えるときが必ず来ます。

父母に感謝できれば、先祖の始めが親ですから、自然と先祖に感謝の念が湧いてきます。もし父母に感謝していないという人がいたら、先祖にも感謝できないことになりますね。

2453a hope:2013/07/24(水) 08:18:20 ID:edEDolt2
《先祖は、子孫の「生命の根」》

―――先祖という目に見えないものへの感謝は、実感しにくいと思う人もいるのではないでしょうか。

〈楠本〉人が死ぬということは肉体が無くなるだけのことであって、生命そのものが無くなるというわけではありません。生命は生き通しですから、先祖の霊をお祀(まつ)りすることは、日本だけでなく、世界のいろんな国でも行われていることなんです。

生長の家創始者・谷口雅春先生は先祖供養の意義を「木」にたとえて、「大地は神様、根は先祖/幹は両親、子孫は枝葉/枝葉に花咲き、よき果(み)を結ぶは/親に孝養、先祖に供養」と表現されました。

先祖は私たちの生命の根であり、根が枯れると枝葉は枯れてしまいますが、根がしっかりしていれば枝葉は繁茂(はんも)します。子孫の繁栄は先祖のおかげであり、根に肥料を与えるということが、供養にあたるわけなんです。

―――親や先祖から頂いた生命を大切にすることは当然ですが、一方で、親が子を虐待して死に至らしめたり、経済的な理由などから、安易に人工妊娠中絶をしたりする人が跡を絶ちません。

〈楠本〉自分は親の性欲の結果として生まれてきたとか、頼みもしないのに何で自分を産んだのか、というような親への反抗心を持っていると、それらが今度は自分の子どもに向けた暴力や中絶として出てくることがあります。私は、中絶は殺人であると思っていますが、中絶がいかに残酷で罪深いことかということを、知ってほしいですね。

中絶する人の多くは、子どもが大勢いると養育に出費がかかるとか、少なく生んで、今いる子どもだけを大切にし、良い子に育てようなどと考えているんでしょうが、大事にしたいと思うその子に、いずれ問題が起きてきたりするんです。

練成会での指導経験から分かったことですが、流産児がいる家庭の子どもには、共通した現象が起きています。それは、やる気がなくなってしまうとか、親に暴力を振るったりして反抗する、暗いところが好きになる、お菓子が好きになる、冷え性になる、孤独で寂しそうにする、無駄に金を使ってしまうなどです。

これは流産児がその苦しみを、生を享けたきょうだいの問題行動を通して親に訴えている結果だと考えられます。中絶された胎児は、やはり親から愛してもらいたいし、霊界でどんなに辛い思いをしているかということを親に分かってもらいたいんです。

子どもが家に引きこもっているとか、大学を出ても働こうとしないというような悩みを抱えて練成会に来る親御さんが今はとても多いですが、そういう家庭には、まず流産児がいます。中には「いません」という人もいますが、「あなたの両親には?」と尋ねると、いることが多いんですね。

霊界はこの現象世界と同じように「念の世界」ですから、私たちの心の思いが伝わります。もし自分に流産児がいれば懺悔して供養するのはもちろんですが、自分とご主人のそれぞれの親に流産児がいれば、親に代わって供養してあげてほしいですね。

2454a hope:2013/07/24(水) 08:19:20 ID:edEDolt2
《先祖は子孫の幸せを願ってくれている》

―――供養といっても、どうすればいいのか分からない人が多いと思います。

〈楠本〉流産児を「供養している」という人でも、お寺に地蔵を建てて、お坊さんに拝んでもらっているといった程度です。でも供養はそういうことはして終わりではありません。親が愛の気持ちをもって供養しないと子どもは満足しないんです。愛の気持ちを持つことの大切さは流産児だけではなく、先祖の供養でも同じことですね。

初めて練成会に来られた方に、「家に仏壇はありますか」と聞くと、「ありません」と答える方が多いんです。先祖供養について尋ねると、たまにお墓参りをするとか、実家に帰ったときに仏壇にお参りするとか、そのくらいなんです。自分の家にも仏壇を置き、先祖供養は毎日してほしいものです。

生長の家で説く供養の仕方には、仏前に物をお供えする「物施」と、「人間・神の子、肉体なし」の教えが説かれた聖経を仏前で読む「法施」があります。子どもが酒乱で困っていたという女性が、亡くなった夫が酒好きだったので仏壇に酒を供えたら、子どもの酒乱が解消したという実例がありますが、これなどは物施の功徳です。
さらに、仏前で法施することは、霊が早く悟りを開き、子孫を導いて下さることにもつながります

―――良縁を求めることも、先祖供養と関係があるのでしょうか。

〈楠本〉結婚したいという人より、子どもが結婚する意志がないことを心配して、練成会に来る親が多いんですね。結婚は木にたとえると「枝葉」にあたるわけですから、やはり「根」を大切にすることが必要です。親が子の幸せを願うように、霊界でも先祖は同じように、子孫が幸せになるように思ってくれているんです。

結婚を望む方は、毎日、仏前や神前で聖経を誦(あ)げ、「どうぞ子どもに素晴らしい半身を与えて下さい」とお願いするといいんです。子宝に恵まれないという人も同じように先祖供養をするといいですね。

「先祖供養をしているのに子どもができません」と言う人もいますが、こどもが生まれるとか生まれないとかは神様のお計らいですから、先祖供養を続けながら、神様を信じてお任せすることが大事です。

2455a hope:2013/07/24(水) 08:20:05 ID:edEDolt2
《生きている家族と接する気持ちで》

―――先祖供養は、どのような気持ちで取り組んだらいいのでしょうか。

〈楠本〉先祖が迷っているから、自分はこんなに不幸になるんだ、聖経を読んであげるから、早く悟りなさいと考える方が多いんです。けれども、これでは供養にはなりません。供養とは問題解決のためではなく、あたかも生きている家族に接するように先祖にも接して、感謝することなんです。

自分がこの世に生を享けたということは、父母がいるということですよね。その父母にもまた父母がいる。こうして先祖を十代遡(さかのぼ)れば、千人余りいることになり、二十代遡れば、百万人以上もいることになる。その内の一人でもいなかったら自分は存在しないわけです。こんなんいたくさんの先祖から生命を受け継いで、自分がここに存在している、ということに思いを馳(は)せれば、どれだけありがたいことかを実感できるのではないでしょうか。

仏前や神前で聖経を誦げることは、先祖に感謝の念を伝えるだけでなく、実は自分自身の魂にもそれを伝えていることになるんです。自分と先祖がともに「神の子」を自覚して力を携え合うことで、私たちの運命はますます明るく開けてきます。

以上 
感謝 合掌。

2456a hope:2013/07/24(水) 08:29:47 ID:edEDolt2
>>2452>>2455のインタビュー記事は、平成25年7月15日発行の白鳩誌からです。
記事と一緒に、若々しくて、やさしい笑顔の楠本加美野先生のお写真も紹介されていました!

2457ユタカ:2013/07/24(水) 09:52:06 ID:R1D4Jmeg
a hopeさま

ありがとうございます。 読みましたよ〜〜。 そして先日のリアル誌友会でも今月号はこのページを輪読しました〜〜〜。

楠本先生にはお元気でまだまだ末長くご活躍していただきたいです。 楠本先生、有難うございます。

2458復興G:2013/07/24(水) 11:22:36 ID:AB6RqYXc

a hope 様

まことに時宜に適した、楠本先生インタビューの記事のご謹写、ありがとうございました。

ユタカ様も、その前に >>2431>>2435に、先祖供養についての貴重な参考資料を掲示して下さっていました。

これで、先祖供養についての基本がしっかり学べたと思います。

それで私は、

○お盆(盂蘭盆会<うらぼんえ>)の由来について

○先祖供養と言えば普通はまず、お墓参りや仏壇を拝むこと、お寺でのご供養などを思い浮かべると思います。谷口雅春先生は、『生命の實相』 第28巻p.77〜p.78に、つぎのようにご教示くださっています(『人生を支配する先祖供養』のp.111〜にも、「祖先の宗教と和解する」と題して収録されている)。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 「生長の家」では、今までの宗教を決して排斥するということをしない。祖先の宗教によって祖先を祀りなさいということをいうのであります。

 葬式の場合にも、祖先からの宗教の坊さんを招いて、祖先伝来の宗教の儀式にして、祖先の宗教のお経を訥してお葬式をしてもらいなさいと、こういうぐあいにお教えする。

 既成宗教のお坊さんが新興宗教が勃興すると自分の宗教業を奪ってしまうと思って生活権の擁護のためにむやみに反対なさる方があるかもしれませんが、「生長の家」に限ってそんなことはしないのであります。

 今まで物質科学者が、霊魂なんてないものだ、肉体は滅んで灰になってしまったら、それでしまいになるのだなんていうふうに説いておった科学者こそ坊さんの職業を奪うというふうになっておったかもしれないけれども、「生長の家」は決してどの宗教からも職業を奪うということをしない、かえって他の宗教を生かす。

 祖先の信奉しておったところの宗教を生かすということによって、まず第一祖先と和解するのであります。祖先と和解し、祖先の信仰と和解し、ただ和解するだけでなしに、その祖先の信仰に光を与え、生命を与え、祖先を済い、そうして一家を光明化し自分自身をも済うというのが「生長の家」であります。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 と。 では、特に 「生長の家の先祖供養」 とは?

 というようなことについても勉強し、私の体験も交えてお話ししたいと思っていますが、今、他の仕事が入っていますので、しばらく(2、3日)お待ち下さい。

 その間、上記のことについてや、皆さまが勉強されたことや疑問などを投稿して下さるのは、大歓迎です。

 ありがとうございます。

2459閲覧者A:2013/07/24(水) 12:27:22 ID:???
a hope様、楠本先生のご文章を読ませていただきました。ありがとうございました。勉強になりました。
いろいろ読ませて貰って1つ質問なのですが、復興G様は2〜3日お忙しそうなのですが、質問させてもらいます。
ご先祖様の中に、生前、生長の家を好ましく思わない方がおられた場合、お仏壇で聖経をあげても大丈夫でしょうか。

2460神の子さん:2013/07/24(水) 17:05:44 ID:R1D4Jmeg
>では、特に 「生長の家の先祖供養」 とは?

 というようなことについても勉強し、私の体験も交えてお話ししたいと思っていますが、今、他の仕事が入っていますので、しばらく(2、3日)お待ち下さい。


有難うございます。よろしくお願いいたします。 

私はお盆になると、夜中に誰かがお風呂に入っている音(家族は桶は使用せずにみなシャワーですが、お盆の最中は桶でカツーン、バシャー と水が流れる音がしているので覗くと真っ暗で誰もいない)を聞きます。

どのご先祖様かは分かりません。。。 

また、お盆の夕方になると、近所のお寺から提灯(ちょうちん)を下げて先祖の御霊を家に連れて帰る風景がご先祖様を大事に、そしてご先祖と共に生活していることが良く分ります、日本の素晴らしい伝統だと思います。

2462復興G:2013/07/26(金) 22:27:00 ID:AB6RqYXc

>>2459 :閲覧者A様

ご質問、ありがとうございました。

お返事、遅くなってすみませんでした。

>>ご先祖様の中に、生前、生長の家を好ましく思わない方がおられた場合、お仏壇で聖経をあげても大丈夫でしょうか。 <<

谷口雅春先生著 『人生を支配する先祖供養』 を拝読して考えましょう。

同書には、聖経をあげる場合の注意として、次のようにご教示下さっています。

<<○先祖に対して聖経を読誦する時の心得(p.32〜 抜粋)

 祖霊に対して、聖経を誦(よ)む時には、

1.唯、尊敬と報恩・感謝の念をもって誦むこと。

2.聖経の意味を説明する。
 聖経を読む前に、先ず「この聖経『甘露の法雨』はあなたが祖先から伝承して来た××宗の教えの真理を最も解り易く、現代語で書かれたものでありますから、心を集中して此の聖経を聴き給うて、その真理を体得し、霊界に於て解脱を得て神通自在となり給いて仏陀の境涯に達し給わんことを翼(こいねが)う」と生ける人に語るが如く唱えてから聖経を誦むがよい。
 そうでないと折角、『甘露の法雨』を論んであげても、それは他宗教の経文であると誤解して反感を起こして傾聴しない場合があるのである。>>

<<○宗旨の異る霊魂を一緒に祭祀してもよいか(p.53〜 抜粋)

生長の家の教えは万教帰一であるから、その祭主が生長の家であり、その心に他宗排斥の心がなければ、日蓮宗も真宗も本来一つという祭主の心が通ずるから構わない。

 要は供養する者が正しい信仰をもって行えばよいわけである。特に、生長の家は万教帰一であるから生長の家の信徒であれば聖経 『甘露の法雨』 を誦げてあげればよいのである。それにて何宗の人々の霊魂も皆救われるのである。>>

――しかしながら、次のようなご教示もあります。

<<「霊魂も生きているのであり、ひとりひとり個性があり嗜好も趣味もちがうのであり、どのような形式でお祀りしてあげることが、その霊魂にとって満足であるかは、いちいちの場合についてそれぞれ異なることであるから、本当は概括的に書くことはできないのである」(p.10)>>

<<●婚家の母と信仰が異る場合(p.178〜179)

《質問》 婚家先の母がキリスト教で、私が先祖祀りをしたいと思っても母が先祖祀りをさせてくれないのですが、どうすればよいでしょうか。

《垂示》 先ず第一に、その母を一番身近な先祖と思い、真心をこめて供養する気になって一所懸命に仕えることです。その真心があればお母さんも貴女の気持を解って下さるようになります。

 先祖供養は形ばかりではありません。形よりも先に、供養の真心が大切です。この心があれば、結婚した時に、夫婦そろって先祖の御霊前に報告されるでありましょうし、婚家の母の信仰しておられる教えや代々の宗旨を大切にされる姿勢が自然にとられて来ることになると思います。――供養ということは、形に祀る以前に真心と感謝の気持がなければなりませんので、婚家先の代々伝わっている慣習なども軽んずることなく遵守しながら仕えるようにされるとよい。

 次に、貴方自身が心の中に充分祖先に感謝し家族に感謝し礼拝する姿勢が出来てくれば、それが、現象面にも現われて、家庭内でのお母さんとの信仰の違いなども当然、自然に解消されて来るはずです。心の世界で母嫁一体になったその時に万教帰一の真理をお話してあげ、「先祖祀りとは宗派を越え、人間の当然の義務として行なわなければならない」という意義を真心をこめてお話しして理解していただき、形の上でもお祀りするようにすればよいのである。>>

 ――以上、挙げました谷口雅春先生のご教示を参考にして、適切なご供養をされますよう、お考え下さい。

2463閲覧者A:2013/07/27(土) 00:49:05 ID:???
復興G様、ご指導をありがとうございます。
大切なことを、忘れていたと、読ませていただいて思いました。
私が正しい信仰をもっていると信じ、真心と感謝で供養を行う事が大切ですね。その為にも、聖経の意味を学びたいと、心から思いました。
生前、その仏様が、生長の家の悪口を言ってたから、聖経はやめようと考えるのは、あまりにおろかでした。
本当にありがとうございました。

2464復興G:2013/07/27(土) 01:58:29 ID:AB6RqYXc

閲覧者A様

ありがとうございました。


>>2460 :神の子さん様

>>私はお盆になると、夜中に誰かがお風呂に入っている音(家族は桶は使用せずにみなシャワーですが、お盆の最中は桶でカツーン、バシャー と水が流れる音がしているので覗くと真っ暗で誰もいない)を聞きます。
どのご先祖様かは分かりません。。。<<

 ――うーん、夏の夜のコワーイお話みたいですね。(笑)

 しかし、真理を知れば、チーットモ怖くはありませんので、ご安心ください。

 まず、それは――「暗(やみ)の中にいて恐怖すれば枯尾花(かれおばな)も幽霊の姿を現ず」 と聖経 『天使の言葉』 にありますが、単なる錯覚、妄想である可能性があります。であれば何も怖いことはありませんね。

 でも、死者の霊の作用(はたらき)である可能性もあります。しかし、それであっても、怖れることはありません。

 よい質問を下さいましたので、明日お答えしたいと思います。明日午前中はリアルの誌友会がありますので、午後から夜にかけてしっかり勉強させて頂きましょう。
 お楽しみに。

2465ユタカ:2013/07/27(土) 08:48:04 ID:R1D4Jmeg
>本が神殿であるということは、本そのものが道場そのものであることなのである。(1998.8.7)

今朝はa hopeさまと復興G様の謹写からとても力を頂きました、有難うございます。

夜中の風呂の音・・・怖いですか?夏の怖いお話! 面白いですね。

でも、私は全然怖くなくて、お盆は本当にご先祖様が家に帰って来る実感があるので、お盆の期間は新しいお湯を入れなおして24時間いつでもお風呂が使える体制にして、ご先祖の食事もいつもはご飯だけですが、おかずも一緒に供えて、一緒にお盆の期間を過ごしています。

永遠生き通しの生命ですから、ご先祖さまの生命をありありと感じられる懐かしい嬉しいお盆の時間であります。

お盆はそのようにご先祖さまが家に帰って来てくれているからお墓にはご先祖さまはいません、ですから、お坊様がお経を読誦しに自宅まで来てくれますね。。

家の親戚はお寺なので、檀家さん宅訪問でお盆は大忙しです。見えなくなったけど、時々感じるご先祖さまという感じです。

生長の家宇治別格本山に永代供養をして「甘露の法雨」をあげて、『ご先祖に供養をしてあげた!』といい気持ちになっていましたら、

帰宅後ソファーに座ったら、ご先祖さまが私に頭上50センチ位の処で、三人いまして、その方たちが一緒に「甘露の法雨」を私に向かって読誦してくれていました。 こちらがご先祖に供養をした!!と偉そうにしていたら・・・!!

反対にご先祖さまの方がもっと強い力で、私に「甘露の法雨」をあげて常に常に護ってくれていたことを感じました。 現象界では楠本先生が父母の愛を語って両親への感謝を知らせてくださり、永代供養という事を通して、ご先祖様の生き通しの生命と限りなく深い愛情を実感させて頂ける生長の家は本当に有難い素晴らしいところです。

と入力している今、とても良い香りのお線香の匂いがして来ました。 今、ご先祖さまがいらして喜んでいるんでしょうね、有難うございます。。。

みんなも、体験談を書いてね。

2466a hope:2013/07/27(土) 16:57:24 ID:edEDolt2

>>2365ユタカさま

>>お盆は本当にご先祖様が家に帰って来る実感があるので、お盆の期間は新しいお湯を入れなおして24時間いつでもお風呂が使える体制にして、ご先祖の食事もいつもはご飯だけですが、おかずも一緒に供えて、一緒にお盆の期間を過ごしています。永遠生き通しの生命ですから、ご先祖さまの生命をありありと感じられる懐かしい嬉しいお盆の時間であります。<<

>>帰宅後ソファーに座ったら、ご先祖さまが私に頭上50センチ位の処で、三人いまして、その方たちが一緒に「甘露の法雨」を私に向かって読誦してくれていました。 こちらがご先祖に供養をした!!と偉そうにしていたら・・・!!
反対にご先祖さまの方がもっと強い力で、私に「甘露の法雨」をあげて常に常に護ってくれていたことを感じました。<<

>>、とても良い香りのお線香の匂いがして来ました。 今、ご先祖さまがいらして喜んでいるんでしょうね<<

ユタカさまは、ご先祖さまの存在をそんな風に実感として感じることができるのですね!
素晴らしいですね!!


わたしにもユタカさまほどではないですが、ちょっと不思議な経験があるのでお話させていただきます。

数年前のお盆前に田舎のおばあちゃんの所に行ったときのことです。
足の悪いおばあちゃんの代わりに、主人とわたしとお墓のお掃除をさせていただきました。

すごい田舎なので、お墓も人気の全くない山の中にあって、今まで(生長の家に触れる前まで)はとても怖くて、
一人ではもちろん、家族と一緒でも行くのが嫌でしたが、その時はピクニックに行くように楽しい気分で行きました。

周りの草を刈ったりむしったり、墓石をきれいに磨いたりした後、麦茶を飲んでいたときですが、
すがすがしい風がす〜っと吹いて、わたしは「あっ、ご先祖さまが喜んいる!!」って思ったんです。

その瞬間、主人が携帯できれいになったお墓の写真を「パチリ」「パチリ」と撮っている姿が見えました。
「おばあちゃんに見せるためだな」と思いましたが、同時に「必ず何かご先祖様の喜んでいる証拠が映っているに違いない!」と確信したのです。

そして、おばあちゃんの家に戻りパソコン大きく映してみると、本当に白いまん丸い大小のオーブが2枚の写真に3〜4個ずつ映っていました。
それまで一度も、主人やわたしの携帯やカメラの写真に、オーブが映るなんてことはありませんでしたから驚きました。
そして、あの時の自分に「何かが映っているに違いない」という確信があったことに関しても、とても不思議な気持ちになりました。

2467復興G:2013/07/27(土) 20:49:37 ID:AB6RqYXc

>>2465 ユタカ様
>>2466  a hope様

素晴らしい体験談、うれしくなりますね。ありがとうございます。

さて、
>>2460 :神の子さん様のご投稿について、具体的に解説させていただく前に、人間とは何かの根本問題について、考えさせて頂きましょう。

 『新版 真理』 第3巻22章 に、次のようなご講義があります。最初に、

<< 『無門関』 の第二十則に 「大力量人(だいりきりょうにん)」 と云う公案があります。

  松源(しょうげん)和尚云く、大力量の人、甚(なに)に因(よ)ってか脚を擡(もた)げ起さざる。

 ――「大力量の人であるのに、何故それ位の重荷を背負ったくらいで、脚を擡(もた)げて起きないのであるか」 と云うのであります。「大力量の人」 と云うのは実は皆さんのことなんです。皆さん一人一人が大力量の人であって、何でも出来ないことは一つもない。それは皆さんの本心が知っていらっしゃるのです。本心に於いては 「人間は神の子で無限力だ」 と云うことがわかっていながら、何によってその無限力を発揮することが出来ないのであるかということが問題であります。>>

 ということから始まって、次のようなお話が載っているのです。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

   自分の心の足音に驚くな(p.294〜299)

 ある人が山の中の真暗な道を、夜おそく歩いておったら、後ろから大入道(おおにゅうどう)が追っかけて来た、その足音がだんだん近づいて来た、さあ敵(かな)わぬと思って一所懸命速歩(はやあし)で歩くと、後ろから追っかけて来る足音もだんだん速歩で近づいて来るのであります。

 「さあ大変」 と云うので走り出したら、向こうも走ってくるらしく、あわただしくパタパタと足音が急速に追っかけて来る。一所懸命逃げたのでありますが、やがて、もう行こうにも向こうが行詰りになっていてそれ以上行くことが出来ない。逃げようにも逃げる道を失ってしまって、さあ今にも後ろから追っかけて来た奴に取っ捉(つか)まって、其の化物(ばけもの)にひと呑みに噛みつかれるかと思って、絶体絶命、ハッと後ろを振り向いたら誰もいない。

 「怪(あや)しいな」 と思って、自分で足踏みして見ると、自分の冷飯草履(ひやめしぞうり)の足踏みする音が、追っかけて来ていた人の足音と同じであった。

 自分を苦しめる別の存在が客観世界に別にあるのかと思うと、それは実は自分の心の影なのです。「大力量の人甚(なに)に因(よ)ってか脚を擡(もた)げ起さざる」 です。君は大力量の人であるのに何の為に逃げているかと云う訳です。この後ろから追っかけて来る者を 「死」 とか 「病」 とか 「老衰」 とか 「貧乏」 とかに考えて見ましょう。

 何も後ろから追っかけて来るものは一つもないのに、何か追っかけて来ていると思って、それを恐れて逃げている人が多いのであります。これが即ち対立の世界観をもっておる人にあらわれる 「世界」 なのであります。つまり 「ペタペタと云う足音の世界」 と云うものと 「自分」 と云うものと別のもので相対立しておって、「彼」 は 「敵」 であると見ておった。ところが、豈(あに)図らんやそんなものは自分と対立している敵ではなくして、自分自身の足音で現わしている世界だったのです。

これと同じように、環境として現れている「世界」は、みんな自分自身の心の波の足音で現わしている世界なのであります。だから、自分自身さえ変ったら周囲が忽ち変ってしまうのであります。

 こうなると、自分自身を害する物は自分の他(ほか)に何もない。是(これ)は非常に楽天的な楽観的な人生観であり、こうした人生観をもつときはじめて人間は幸福になれるのであります。

 世界と云うものをば、鉄壁のように固く頑としておって、吾々がそれにぶつかっても、どうしても砕けないと観じておったら、此の世界はまことに苦しい世界でありますけれども、「自分」 を離れて 「外界」 なんて云うものはないのだ、自分の身辺の事象ことごとく自分が現わしているのだ、人間の生命を脅やかすべく後ろから追っかけて来る化物と見えるものは、実は自分の冷飯草履の足音と同じように自分の心が拵(こしら)えてそこに現わしている自分自身の延長に過ぎないのが外界であります。これは一元的世界観であります。禅の人生観も日本の純粋の思想も本来一元的であるのであります。

 さきにのべたように二元観に立つ西田哲学は、嘗(かつ)て其の筋の批評家から 「始めて日本の哲学を創始した」 と云って褒められたことがありますけれども、あの二元観は日本の哲学ではないのであります。日本の哲学は 「一」 の哲学であります。世界の国々は沢山に分かれているけれども 「本来一つ」 と云う哲学が日本の哲学でなければならないのであります。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

2468ありがとう:2013/07/27(土) 22:13:19 ID:???


名前:トキ 投稿日: 2013/07/27(土) 20:11:51
うのはな様は、観世音菩薩です。うのはな様のために、観世音菩薩讃歌を読みましょう

2469復興G:2013/07/27(土) 23:14:23 ID:AB6RqYXc

 すべては 「本来一つ」 であるということは、常にご先祖様は私たちの中にいらっしゃり、ご先祖様の中に私たちはあり、分かちがたくご先祖様と私たちはいっぺんも離れたことがない、ということでありますね。

 「本来一つ」 であって、「一即多」 「多即一」 と時空間のスクリーンに映像(かげ)を展開しているのが現象世界である。

 ご先祖様は、この世ではすべてを与えきって、消えきって、何も持たず空っぽになってあの世へ行かれた。

 そのご先祖様から生命(いのち)をいただいて、私たちは生きている、生かされている。私たちのいのちはご先祖様のいのちだったのですね。だから私たちも本来空っぽだったのですね。

 「報本反始(ほうほんはんし)」という言葉があります。

 「本(もと)に報い、始めに反(かえ)る」 ということ。

 「大地は神様、根は先祖/幹は両親、子孫は枝葉/枝葉に花咲き、よき果(み)を結ぶは/親に孝養、先祖に供養」 というのがそれですね。

 ところで、私たちは本来神の子、神である。無限完全円満なるものである。

 しかし、現象に於いてはその無限なるものを自己限定して段階的に表現しつつあるのである。

 今生(こんじょう)には今生の肉体に誕生日があり、死ぬ時が来る。

 しかし、肉体は死んでも生命は死なず、表現の場(界)を変えて生き続ける。

 『生命の實相』 第23巻 「経典篇二 聖経 『天使の言葉』 講義」 には、次のようにご教示下さっています。

     (十)

   『念』 に従って一つの組織を現ぜるもの
   この 『生ける肉体』 なり。
   されば 『生ける肉体』 は念に従ってその状(すがた)を変ず。
   『健』 を念ずれば身健かとなり、
   『病』 を念ずれば身に病を現ず。
   されば汝ら常に 『健』 を念じて
   『病』 を念ずること勿れ。
   若(も)し、汝の 『念』 肉体を去れば、
   生ける肉体死体と変じ、
   死体はその状態を維持する 『念』 の力の去ると共に、
   分解して宇宙の要素に復帰せん。
   肉体を去りたる 『念』 は、
   その念の力にてなお一つの個性を持続し、
   幽界に於て生活(いとなみ)をつづけん。
   汝らの霊魂と称するもの是にして、
   『念(こころ)』 の浄まるに従って
   それに相応(ふさわ)しき高き霊界に入り、
   『念』 の浄まらざるものは、
   それに相応しき環境を 『念』 の力にて仮作(けさ)し、
   その環境にいて苦しまん。
   されば汝ら、
   常に心を高く持して
   苟(いやしく)も悪を念ずること勿れ。
   苟も不浄を念ずること勿れ。
   また苟も苦(くるしみ)を念ずること勿れ。
   また苟も病を念ずること勿れ。
   悪と不浄と苦(くるしみ)と病とは、
   神の創造(つく)り給いしものに非ざれば、
   ただ汝らの 『念』 の妄想せる幻に過ぎざるなり。
   汝ら暗(やみ)を見て、
   暗を実在すと信ずること勿れ。
   暗は唯是れ光の非在に過ぎず。
   悪と不浄と苦(くるしみ)と病とは
   ただ神の創造の無をあらわす。
   神の創造なければ
   其処に実在なし、
   実在の 『無』 ――これを称して悪と云い不浄と云い苦(くるしみ)と云い病と云う。
   (中略)
   されど病は実在に非ずして
   ただ恐怖の反映(かげ)に過ぎず。
   心の暗(やみ)の中に光射し来りて
   汝らの恐怖心消ゆるとき
   病はおのずから自消自滅して本来の『無』を露(あら)わさん。
<つづく>

2470復興G:2013/07/27(土) 23:15:18 ID:AB6RqYXc

<つづき>
 さて、この肉体が、普通の物質的な分解作用を受けないで肉体としての一定の形を持続しているかと申しますと念の凝結作用によって、体が宇宙の要素に分解しないで一定の姿を維持しているので、それは無機物の作用ではなしに、念の力によるのであります。ですから、肉体から念の力が去った時には、肉体は肉体としての一定の形の持続力を失い、宇宙の要素に分解してしまい一時は腐敗して変なものになるとか、焼けない灰になるとかしますが、結局無くなってしまうのであります。
(中略)

 念の去った肉体はそういうふうに分解してゆきますが、それでは肉体を去った 「念」 の方はどうなるかと申しますと、念自身は念の惰力によって、やはり一つの個性を持続して幽界において生活をつづけるのであります。

 これはわれわれの霊魂と称するものであって、ここに書いてあるとおり念の浄まるに従ってそれに相応(ふさわ)しき高き霊界を環境に仮作(けさ)してそこでいわゆる天人としての歓喜愉楽の満ちた生活を送り、「念」 の浄まらざるものは、それに相応しき地獄とか煉獄とかの環境を念の力にて仮作し、その環境にいて苦しむことになるのであります。

 さてこの天国へいったり地獄へいったりする我(われ)というものは、実相の我ではなくて現象の我――仮相の我なのであります。実相の我というものはすでに円満完全な実相の天国浄土にあって、すでに満ち足りて、無限の愛、無限の知恵、無限の生命を備え、神の無限の供給を受けている欠くることなき状態であるのであります。そしてこの肉体に宿り、また肉体を離れては霊界において生活を続ける霊魂というのは仮相の、念の波によって構成された我であります。

 要するに霊魂というもの(幽体または霊体)もま念の力によって持続している仮の姿であって、「本当の我」 とは異(ちが)うのであります。だから仏教で無我ということを教える、「我(われ)」 というものはない、といって霊魂を否定しているのであります。

 生長の家でもまた 「霊魂も本来無い」 と言う。痛みや、苦しみを超克して次第に浄化してゆく霊魂は本来無い。そんなら全然無霊魂論であるかと申しますと、そうではない、霊魂というものを 「仮我(けが)」 または 「仮有(けう)」 として認めるけれども、そんな不完全な相(すがた)は本来ないのであります。

 すでに救われ、すでに無限の愛、無限の知恵、無限の生命を備えているのが、実相の我であるというのであります。

 この肉体や、また霊界で苦しみつつ浄化されてゆく霊魂は 「念」 の流転(るてん)、「業(ごう)」 の継続、「業」 の輪廻(りんね)なのであります。業が旋風のように輪のようになって転じてゆくのが念の流転、業の輪廻であって、その業または念は現在において蓄積され、また霊界において蓄積される。その間に修行しながら、念はだんだんに浄化してゆくので、その念の状態に従って念に相応(ふさわ)しい環境が自己の周囲に展開される。これが 『維摩経』 に 「菩薩心浄ければ、その土(ど)また浄し」 とある意味なのであります。(中略)

 自分が餓鬼の心をもてば餓鬼道に堕(お)ち、畜生の心をもてば畜生の境涯に生活し、自分が地獄の心を持てば、客観界に地獄の状態が実際に出現してくるのであります。自分の心一つで極楽が地獄にもなる。

 しかし、この時仮相の我と、実相の我を混同しないようにはっきり自覚しなければならない。自分たちの念がどれだけ浄まっているか、ということは、要するに実相をどれだけ悟っているか、ということによってきまるわけであります。
(中略)

 客観世界というものは業の現われの世界でありますから、業が浄まらなければ業の現われも浄まるわけがない。業が完全に破壊でき、打破できて、はじめてその現われたる客観世界も浄まるのであります。

 さてその業を打破するという問題ですが一つ一つ片端(かたっぱし)から業を破壊してゆくというやり方では、いつまでたっても破壊できない、そういうやり方では、無限の業をとうてい有限時間内に破壊することはできません。

 一歩一歩よじ登って行ったのではどうしたって無限の山へ登りきれるものではない。思い切って頂上へ飛び上がることが必要なのです。

 それで誰をでも容易に飛び上がらすことができる方法は 「実相」 の中へ飛び込んで行くことであります。

2471復興G:2013/07/28(日) 00:50:18 ID:AB6RqYXc

 さて、「お盆ってなーに?」

 ――盂蘭盆会(うらぼんえ)の由来について。

 お盆は、七月十五日の中元を中心に行ったり、月遅れの八月十五日や旧暦の七月十五日を中心に行うなど、その土地の習慣によってちがいはありますが、ご先祖のみ霊を十三日にお迎えし、十六日(十五日のところもある)にお送りするという、日本人にとって忘れることのできない仏教行事・ご先祖供養にほかなりません。

 『盂蘭盆経』といわれる中国で作られた文書から、お盆のいわれを伝えるお話をご紹介いたします。

 「盂蘭盆(うらぼん)」とは、もともとのことばは「ウランバナ」、訳して「倒懸(とうけん)」といい、つまりさかさまにつるされる苦しみを救うという意味。

 お釈迦さまの弟子の中で神通第一の目連(もくれん)尊者が、「安居(あんご)」 といわれる修行僧の集まりで、亡くなった母のことを思い出し、死後の世界を見たところ、母が何も食べることのできない“餓鬼道(がきどう)の世界”で苦しんでいる姿が見えた。

 目連尊者の母は生涯他人を思いやることなく、もの惜しみの気持が強かったため、死後にその罪で餓鬼の世界に堕ちてしまったのです。

 目連はそれを非常に悲しみ、母を救おうと神通力で食べ物や水を与えようとするが、ことごとく口に入る直前に炎となって、母親の口には入らなかった。

 目連は悲しみ、お釈迦さまに母親を救う方法を尋ねた。釈迦は告げた。

 「七月十五日、安居(あんご)の最後の日に、できるかぎりの食べ物・飲み物・衣服を用意して、母親になりかわって比丘(修行僧)たちみんなに供養のまことをささげるとよい」と。

 その通りに実行すると、比丘たちは飲んだり食べたり踊ったり大喜びをした。するとその喜びが餓鬼道に堕ちている者たちにも伝わり、母親の口にも入った。

 救われた母親の姿を見た目連は、毎年供養を続けることを誓った。

 この行いが二千数百年経た今も、お盆という行事になって伝えられ、行われているのだということです。


 以上は、中国での盆会の由来ですが、日本では、盂蘭盆会では家に帰ってきた先祖の霊魂をもてなす意味合いが濃くなっています。「先祖家に帰ってくる」というのは、元々の仏教の教えにはなく、日本古来の習俗によるもののようです。

 わが家の宗旨は天台宗ですが、天台の 「ぶっきょうスクール」 というパンフレットには、次のように書かれていました。

        ○

  「いのちをいただいた恩返し」

 「わがいのちをいただいた
 母あるは幸いなり
 父あるは幸いなり
 ご先祖あるは
 さらにさらに 幸いなり」

 遠い日の ご先祖とも
 近い日の 亡き人々とも
 深いご縁で結ばれている私
 この方々あってこそ
 今の私があるのです

 いただいた かけがえのない
 このいのち……
 お盆のご供養は
 いのちをいただいた方々への
 ご恩返しにほかなりません。

と。

>>お盆の夕方になると、近所のお寺から提灯(ちょうちん)を下げて先祖の御霊を家に連れて帰る風景がご先祖様を大事に、そしてご先祖と共に生活していることが良く分ります、日本の素晴らしい伝統だと思います。 <<

と、>>2459に閲覧者Aさまが書かれたとおりですね。

閲覧者Aさま、お答えの続きはまた明日以後にさせてください。

2472ユタカ:2013/07/28(日) 05:03:50 ID:R1D4Jmeg
復興Gさま

>2460の 神の子さんとは ユタカです。 別板で生長の家教団をチャカしに行って

そのままで投稿したから名前が消えていました。すみません。

2473復興G:2013/07/28(日) 05:08:06 ID:AB6RqYXc

あ、お答えが完結していなかったのは 閲覧者A様へ ではなくて、

>>2460 神の子さん様へ でした。ごめんなさい。

今日も午前中はリアルの誌友会に出かけますので、完結は今夜か明日になります。

お許し下さい。

2474復興G:2013/07/28(日) 05:10:26 ID:AB6RqYXc

あ、>>2460 はユタカ様でしたか。わかりました。

2475ユタカ:2013/07/28(日) 06:21:48 ID:R1D4Jmeg
a hopeさま
>>数年前のお盆前に田舎のおばあちゃんの所に行ったときのことです。
足の悪いおばあちゃんの代わりに、主人とわたしとお墓のお掃除をさせていただきました。

○ 良かったですね、それは良いことをなさいましたね、昔の日本人はそれはそれはご先祖さまを大切にされていらっしゃいますので、お墓の掃除やお墓参りに連れて行ってあげると本当に喜んでくださいますね。


>>すごい田舎なので、お墓も人気の全くない山の中にあって、今まで(生長の家に触れる前まで)はとても怖くて、
一人ではもちろん、家族と一緒でも行くのが嫌でしたが、その時はピクニックに行くように楽しい気分で行きました。

○ 人気が全くないとは?? 菩提寺はないのでしょうか? 墓地だけ?ですか? お寺があれば、お寺に挨拶に行って本堂にお参りに行ったらいいですよ。塔婆も立てて丁寧にご供養されたらご先祖様も喜びましょう。お寺の受付の方にいろいろ聞いてみて下さい。

>>周りの草を刈ったりむしったり、墓石をきれいに磨いたりした後、麦茶を飲んでいたときですが、
すがすがしい風がす〜っと吹いて、わたしは「あっ、ご先祖さまが喜んいる!!」って思ったんです。

○ お墓のお掃除をしていると、本当にすがすがしい風が吹いてくることもありますね。そして、私達の気持ちも清々しく嬉しくなりますね。復興Gさまのご解説のように私達とご先祖様が一つで直通しているから、ご先祖様の喜びが伝わってきて私達も嬉しくなるのでしょう。と思います。


>>その瞬間、主人が携帯できれいになったお墓の写真を「パチリ」「パチリ」と撮っている姿が見えました。
「おばあちゃんに見せるためだな」と思いましたが、同時に「必ず何かご先祖様の喜んでいる証拠が映っているに違いない!」と確信したのです。

○ ご先祖さまの気持ちが分かったのですね、やっぱり一つなんですね。。。 そしてご主人さまは本当に優しくってよく気がつく方で素晴らしいですね、幸せですね。

>>そして、おばあちゃんの家に戻りパソコン大きく映してみると、本当に白いまん丸い大小のオーブが2枚の写真に3〜4個ずつ映っていました。
それまで一度も、主人やわたしの携帯やカメラの写真に、オーブが映るなんてことはありませんでしたから驚きました。
そして、あの時の自分に「何かが映っているに違いない」という確信があったことに関しても、とても不思議な気持ちになりました。

○ ご先祖様がいたのですね、大小というのは大は大人で、小は赤ちゃんや子供でしょうか? お墓がきれいになって、ましてやa hopeさまやご主人が来てくれた事が嬉しかったのでしょうね。
  白い真ん丸い玉・・・普段は私もよくみます。。。ですが、特に印象の強かった体験があるので・・・
  生長の家に団体参拝練成会と言って、各教区に割り当てが来て長崎の総本山に練成会(さまざまな各種参拝)に行ったときのことが忘れられない体験です。 その当時は、まだ、谷口雅春先生のビデオ上映があったり、現在とは違いまだ信仰の雰囲気が色濃かった時代でした、献労(境内地で草取りや掃除、農作業)もさせていただき、各種行事も素晴らしくて心晴れ晴れとして神の子を自覚して地元の光明化運動をやる気満々で帰りのバスに乗車して座席にすわった時に、
  普段は白色ですが、そのときは、自分の頭の上に 『金色に光った』というか『黄金の光』を放ったと言おうか、金色に輝いたの三個の真ん丸い光った玉を見ました。 そのときは、びっくりしましたけど、これは『ご先祖様も一緒に「総本山の練成会」を受講して浄化されて本来の光を放っているんだな!!』と感激し、嬉しくもありました。 そのときの金色の丸い光がいまでも印象に残っています。 やっぱり生長の家は素晴らしいと改めて思います、書きながら・・・。です。  
  あとは、友達の家に行った時に その友人に丸い大きな白い玉がついているのを見ました。 a hopeさまにも一杯ご先祖さまがついて護ってくれていらっしゃることでしょうね、有難いですね。。

2476復興G:2013/07/28(日) 07:18:00 ID:AB6RqYXc

>>2471 盂蘭盆会の由来とされる目連伝説(『盂蘭盆経』)について考えてみましょう。

 (『盂蘭盆経』 というのは中国で成立した偽経だとも言われていますが)

 「施餓鬼(せがき)」というのは餓鬼道に堕ちた人を救うために食べ物や飲み物を施すことのようにもいわれますが、目連伝説では、目連尊者が 「母を救うにはどうしたらよいのでしょう」 との質問に対し、お釈迦様が与えられた答えは、「多勢の修行僧たちに供養しなさい」 ということで、餓鬼道に堕ちた母親に直接食べ物や飲み物を供養することではなかった。(母親に直接食べ物・飲物を与えようとしてもそれはできなかった。)

 多勢の比丘(修行僧)たちに施しをする「布施(愛行)」の行が、回り回って母親を救うことになる。それは回り道のようだけれども、業の法則・輪廻(りんね)についての深いお考えに基づいた釈尊のお教えだったのですね。

 『白鳩』 No.40に掲載されている谷口雅春先生の御文章には、次のようにあります。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

先祖を供養――先ず食物と水をお供えすること
          生長の家創始者 谷口雅春

 皆さんは御先祖の霊をお祀りして、その霊たちに真理のお経を読涌することによって「真理」を御先祖の霊に供養していられますか。供養というのは、お供えして養うという意味です。養うというのは栄養になるものを食べさせて成長させることであります。

 人間は肉体が死んで魂が霊界へ行きますと、もう肉体をもっていませんから、肉体が食べるような物質的食物は不要になるのであります。

 しかしながら肉体を脱して霊界へ行きますと、霊魂が肉体を脱(ぬ)けるときの断末魔の苦しみで、一時、気を失って意識がなくなり、さて肉体から去った霊魂が、霊界に転生してやがて意識を恢復して気がついた時、無意識中のことはわからないで、死の直前の病気のことを思い出します。そしてやはり自分の病気をしている肉体がここに在ると思います。つまり、この霊魂はまだ肉体意識から去っていないのです。

 肉体があるつもりなのですから食物をたべたいと思い、飲み物をほしいと思います。しかし、もう死んで焼いてしまったと思っている人にお食事を差し上げる家族はありませんから、彼は “餓え” や “渇き” を感じて苦しむのです。

 こういう、まだ悟りをひらかぬ霊魂はその心が、地上の物質に縛りつけられていますから 「地縛(じばく)の霊」 と心霊学では申します。こんな霊魂のためには食物や茶湯(ちゃとう)又は “水” をお供えしてあげねばなりません。これも供養の一つであります。だから施餓鬼(せがき)その他の法事のときには、先ず食物や茶湯をお供えするのです。


霊魂にとっての悟りの第一歩

 しかし、やがて肉体を脱した霊魂は、「自分は “肉体” ではない、“霊” である」 と悟るときが来ます。それは、その霊魂にとって悟りの第一歩であります。悟りの基盤が出来たわけです。

 ずいぶんたくさんの霊魂がまだ 「自分は肉体をもっている」 と思ったままでいるのです。それだから、肉体の死の直前の病気のつづきを病んでいるつもりで苦しんでいるのもありますし、地上の物質的なものに対する慾をもっていて、地上の物に縛られ、「地縛の霊」 になっているのです。

 こんな霊に、「あなたはもう肉体を脱して霊界に来ているのだ」 と知らしてあげることは子孫の義務であります。
(中略)


病念を持ち越して霊界で苦しむ霊を救うために

 病念を霊界まで持ち越して、病気の記憶のままに病気を霊界で体験しつつ苦しんでいる霊魂の救われる道は、病気や肉体はないということと、死後の生命の継続を説いて聞かせてあげ、「死」 というものはない、それは現実界から霊界への転任である。その転任の時機は神の御手にあるのだという真理を悟らせてあげることが第一である。それには祖霊を招霊して 『甘露の法雨』 を毎日一定時間を約束して読誦してあげるがよい。

 一人の迷える霊魂を導くだけで、原因不明の病気や不治の病気、それに家庭不和などが改善される場合があるのである。だから、先祖とか親類縁者の祭祀(まつり)というものを決しておろそかにしてはならないのである。
(『新版 人生を支配する先祖供養』18〜19ページ、日本教文社刊)

          ――以上、『白鳩』 No.40より

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆


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