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Web誌友会 板/2

2392復興G:2013/07/20(土) 19:15:01 ID:AB6RqYXc

<つづき>

 救済活動、救済活動と大声でよばわるものもあるが、おおよそ救済活動とか愛の行いとかいうものは、人前に宣伝すべきものではないのではないでしょうか。

 「私はこれだけの救済活動をしました。」
 「私はこれだけの愛の行いをしました。」

と、それを競っているところには、はたして愛なるものはあるのでありましょうか。

 愛は夜露の如く音もなく訪れ、
  萬物を潤して、
   夜明けとともに消えゆくのである。

 誰にも気づかれずにすべてを潤すのが愛であるとすれば、それが深ければ深いほど尊ければ尊いほど、気づかれないところの愛によって私たちはどれほど生かされていることでありましょう。

 その意味において、即ち、宗教は萬物を礼拝し祝福するためにのみあるという意味においては、神道の神社には、ご神体として鏡が置かれているのでありましょう。

 この鏡は、そこに来る人々の姿を写すのである。
 その写った姿をまつっているのが、神社である。
 その鏡の前に立った人をご神体としてまつっているのが神社なのである。

 そして、その鏡の前に立って人は自分の姿に気づくのである。
 自分で自分が甦がえるのである。
 鏡がゆがみなく、完全に澄み切っていることが宗教の宗教たる所以なのである。

 奈良に行ったとき、社寺の屋根の上に高い空があって白雲があった。空はこんなにきれいだったのかと思わされたことがある。何かお寺のいらかや、神社の建物を通してみると、山々、森々や、自然というものが、却って引き立って来ているのに気がついたことはないであろうか。神社の新造されたときに、そのような気持ちになった人は少なくないであろう。神社そのものが無我になってすべてを引き立たせているのである。神社そのものが周囲を礼拝し、讚嘆している。

 それのみか、国全体が引き立って来る、ということも、自然なことであるのかも知れない。


 アスファルトを突き上げて破れた所から芽を出している草の芽を見たことがある。芽というものは、先に行けば行くほど柔らかくなっている。先端は全然と言っていいほど堅さはないのにもかかわらず、なぜ突き上げ、突き破ることが出来るのか。機械でボーリングする場合は堅い岩盤と接触する部分の先端に最も堅い爪がつけられている。この芽の場合は、接触点に近づけば近づくほど、やわらかく出来ている。実は芽は全然アスファルトと接触していないのではないか。触れる寸前のところで、先に上の方で口を開けてくれているということが、あるのではなかろうか。芽には外に出ようとする意志、または願いがあるのだろうか。

 いずれにしても機械の場合とは反対になっているのである。アスファルトの根源と芽の根源とは、どこかで出所を一つにしているのであろう。その一つなるところから、この事件は発しているのであろう。そこから見れば、すべてが同じであるというような何かの地点なのであろう。

 仮に二十センチ下から地上に出ようと生長を開始したとき、それに合わせて地表のところに何か芽の動きに合った、働きが始まっていなければならないでありましょう。もしも、芽の動きと上の方の動きが調和していなかったならば、芽はつぶれるか横の方に曲がってしまうかするのでありましょう。石のようなものがある場合は別としても、たとえ土のようなものであっても、芽はそれよりどれだけ柔らかいか知れないでありましょう。何かが根源的なところで働いているのでありましょう。

 しかし、依然としてその何かは 「そんなものは無い。」 と言おうと思えばいくらでも言えるようになっているのである。機械にくらべ生命の方は、何か地面に出るための知恵をそなえているのであろうか。

 ある意味では、外から教えなくても自分で中から知恵を出して、生長の方法を知っているものを、生命というのかもしれない。
(後略)


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