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Web誌友会 板/2

2470復興G:2013/07/27(土) 23:15:18 ID:AB6RqYXc

<つづき>
 さて、この肉体が、普通の物質的な分解作用を受けないで肉体としての一定の形を持続しているかと申しますと念の凝結作用によって、体が宇宙の要素に分解しないで一定の姿を維持しているので、それは無機物の作用ではなしに、念の力によるのであります。ですから、肉体から念の力が去った時には、肉体は肉体としての一定の形の持続力を失い、宇宙の要素に分解してしまい一時は腐敗して変なものになるとか、焼けない灰になるとかしますが、結局無くなってしまうのであります。
(中略)

 念の去った肉体はそういうふうに分解してゆきますが、それでは肉体を去った 「念」 の方はどうなるかと申しますと、念自身は念の惰力によって、やはり一つの個性を持続して幽界において生活をつづけるのであります。

 これはわれわれの霊魂と称するものであって、ここに書いてあるとおり念の浄まるに従ってそれに相応(ふさわ)しき高き霊界を環境に仮作(けさ)してそこでいわゆる天人としての歓喜愉楽の満ちた生活を送り、「念」 の浄まらざるものは、それに相応しき地獄とか煉獄とかの環境を念の力にて仮作し、その環境にいて苦しむことになるのであります。

 さてこの天国へいったり地獄へいったりする我(われ)というものは、実相の我ではなくて現象の我――仮相の我なのであります。実相の我というものはすでに円満完全な実相の天国浄土にあって、すでに満ち足りて、無限の愛、無限の知恵、無限の生命を備え、神の無限の供給を受けている欠くることなき状態であるのであります。そしてこの肉体に宿り、また肉体を離れては霊界において生活を続ける霊魂というのは仮相の、念の波によって構成された我であります。

 要するに霊魂というもの(幽体または霊体)もま念の力によって持続している仮の姿であって、「本当の我」 とは異(ちが)うのであります。だから仏教で無我ということを教える、「我(われ)」 というものはない、といって霊魂を否定しているのであります。

 生長の家でもまた 「霊魂も本来無い」 と言う。痛みや、苦しみを超克して次第に浄化してゆく霊魂は本来無い。そんなら全然無霊魂論であるかと申しますと、そうではない、霊魂というものを 「仮我(けが)」 または 「仮有(けう)」 として認めるけれども、そんな不完全な相(すがた)は本来ないのであります。

 すでに救われ、すでに無限の愛、無限の知恵、無限の生命を備えているのが、実相の我であるというのであります。

 この肉体や、また霊界で苦しみつつ浄化されてゆく霊魂は 「念」 の流転(るてん)、「業(ごう)」 の継続、「業」 の輪廻(りんね)なのであります。業が旋風のように輪のようになって転じてゆくのが念の流転、業の輪廻であって、その業または念は現在において蓄積され、また霊界において蓄積される。その間に修行しながら、念はだんだんに浄化してゆくので、その念の状態に従って念に相応(ふさわ)しい環境が自己の周囲に展開される。これが 『維摩経』 に 「菩薩心浄ければ、その土(ど)また浄し」 とある意味なのであります。(中略)

 自分が餓鬼の心をもてば餓鬼道に堕(お)ち、畜生の心をもてば畜生の境涯に生活し、自分が地獄の心を持てば、客観界に地獄の状態が実際に出現してくるのであります。自分の心一つで極楽が地獄にもなる。

 しかし、この時仮相の我と、実相の我を混同しないようにはっきり自覚しなければならない。自分たちの念がどれだけ浄まっているか、ということは、要するに実相をどれだけ悟っているか、ということによってきまるわけであります。
(中略)

 客観世界というものは業の現われの世界でありますから、業が浄まらなければ業の現われも浄まるわけがない。業が完全に破壊でき、打破できて、はじめてその現われたる客観世界も浄まるのであります。

 さてその業を打破するという問題ですが一つ一つ片端(かたっぱし)から業を破壊してゆくというやり方では、いつまでたっても破壊できない、そういうやり方では、無限の業をとうてい有限時間内に破壊することはできません。

 一歩一歩よじ登って行ったのではどうしたって無限の山へ登りきれるものではない。思い切って頂上へ飛び上がることが必要なのです。

 それで誰をでも容易に飛び上がらすことができる方法は 「実相」 の中へ飛び込んで行くことであります。


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