したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

Web誌友会 板/2

2379復興G:2013/07/19(金) 13:07:35 ID:AB6RqYXc

>>2373 で触れました、うのはな様から教えて頂いた、魂に響いたご文章を、ここに貼らせていただきます。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

     信仰と人生

 信仰の生活は安易なイージーないい加減なものではない。

 併し信仰によって神につながる時、我らは神の愛の慈手(みて)によって導かれ、ついに困難をのり切るのである。

 レースに於ける競争者は殆どまけそうになる所でテストされると云われている。競争中彼は何回も、何回ももう抜かれるかも知れない、負けるかも知れないというキワドイ瞬間を経験する。然も彼は走り続ける。もうこれ以上耐えることの出来ない限度が幾度も来たと思いながらも不思議な力に支えられてそれを突き抜けて行くのである。斯くの如くして彼は、信仰につながる忍耐のゆえに、ついにレースの優勝者となるのである。

 信仰の開拓にも同じことが言えるのである。吾々はもう続けることが出来ないと感ずるような苛烈な人生体験に面するのである。もう事業の根拠は失われ、生活の地盤は崩れ、わがたよりたる城は落ちてしまったと云うような苦しき苦い体験に出喰わすることがある。このような時に信仰なき者は『神も仏もなくなった』と考える。しかし吾々が神の善意を信じて最後まで持続するならば、またどんな高価な価を払おうとも最後まで行きつこうと決心するならば、やがて吾々は筆紙に尽すことの出来ない信仰の悦びを得ることが出来るのである。その時、労しただけのお蔭があるとわかるのである。

 信仰への途(みち)は、最初は安易な御利益(ごりやく)信心から出発する。そして有頂天となり、やがて中途で光を失って大いに悩む。それは最初には「見せられた光」であり、「自分が見出した光」ではなかったからである。しかし一度見た光を見失うまいと勇気を鼓(こ)して進むとき、ついにその目標に到達する。其の時始めて彼は自分の蒔いた光の種を刈り取るのである。

               谷口雅春師  『生長の家』 誌 昭和24年7月号 巻頭言

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 もう一つ、「かごめの唄」 の秘義について。

“かごめ、かごめ、カゴの中のトリは いついつ出やる。夜明けの晩に、ツルとカメが すべった。うしろの正面だーれ”

 ――誰が聞いても、その意味の理解のつかぬ何だか訳の分からん 「かごめ唄」。それを、日本のすみずみの人が、みな、知っている!という、この不思議――!!

 これについて、『言霊(ことだま)』――ひつく神示のなぞことば――桑田二郎著・平成5年(株)潮文社・刊 から著者の霊感による解釈というのは、とても面白く読ませて頂きました。

これも、ポイントのことろを抜粋して貼らせて頂きましょう。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

* 「かーごめ、かごめー」・・・この世の“いのち”は、「かごめ(籠の目)」 の如くにおりなされた宿命の肉体生命のオリの中、

* 「かーごの中のトリは」・・・「トリ」 は、内なる“魂”の意識。“魂”は、肉体生命の宿命(かご)を通して、霊的な進化の実現へと進んでゆかねばならないのだが--------

* 「いついつ出やーるー」・・・その “魂” の意識は未だに、肉体生命の内奥の次元で、目覚められず、眠ったままの状態でいる。その “魂” の意識を、いつ目覚めさせる事ができるのか?

* 「夜明けのー 晩にー」・・・今がその魂が “霊性の進化” という夜明けのとき、目覚めねばならぬ時が来ているのにまだ、精神の無明の闇(夜・晩)の中にいる。人々は進化への意識を見失っており、その岩戸は閉じられたままで、まだ暗い-------- 

<つづく>


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板