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聖典引用 板

3086「訊」:2014/10/24(金) 16:24:31 ID:???

>>3085つづき)

○なぜ神の子が病気や争いを心に描くのか

 次に、二つ目の質問です。「どうして人間は神の子であるのに、病気や争いを心に描いてしまうのでしょうか?」――
 時々、こういう種類の質問を受けることがありますが、それらは「なぜ神の子である人間が間違うのか?」という質問に帰結すると思います。これと似た質問は、「神の子だったら、なぜ罪を犯すのか?」「なぜ間違いを犯すのか?」「迷いがどうしてあるのか?」などいろいろあります。
 私は、こういう質問にお答えする時には、いつもこの字を書くんです。(と、黒板に「自由」と書く)。自由がなければ、善はどうしても表現できない。これは、私たちがよく知っている現実世界でも同じです。
 例えばある銀行に強盗が押し入り「お金を出せ」と言って、一番前のカウンターにいた女性銀行員にピストルを突きつけたとします。彼女がもし強盗が命じたこと以外の行動をすれば、生命の危険がある。だから、これは自由を奪うことです。自分の意志を相手に強制している。変なことをしたら撃ち殺すぞというのですから、脅迫によって自由を縛っている。こういう状態で、もしその銀行員が、お客の預金のうち何十万円とか何百万円を強盗に渡したとします。その場合、この銀行員の行動は「悪い」と言えるでしょうか?普通、それは常識でも日本の刑法でも「悪い」ということにはなりません。なぜなら、脅迫されて、意思の自由を奪われた中で行ったことは、「善い」とか「悪い」などと責任を問われることはない。それが普通の考えです。同じようにして、もし神様が「人間は絶対間違えず、迷うこともなく善を実行させよう」と考えて人間を創造されたら、善そのものを表すことができないんです。この論理はお分かりですか?善というものは、悪を選択する余地がある中で自ら選び取った時に、初めて成立するものです。
 もう一つ例を挙げます。ある所におっかないお父さんがいて、子供がいつもビクビクしている家庭があったとします。そんな家で子供が何でもハイハイとお父さんの言うとおりにやっていたら、そういう子を「よい子」と言えるでしょうか?私は、言えないと思います。幼い時は、そんな環境が一時的に必要な場合があるかもしれないが、そんな状態が長く続いては子供の善性は開発されない。そうではなくて、「自由にしていいから、好きなようにやりなさい」と言われた時に、自分で考えてとった行動が善い行いであった場合に、本当の意味で「よい子」として認められる。
 
(つづく)

3087「訊」:2014/10/24(金) 16:25:03 ID:???

>>3086つづき)

 生長の家では、神の本性は真・善・美であると説きますが、その中の「善」を実現するためには、自由が必要なのです。自由であるためには、間違った選択も与えられていることが必要なんです。
 このことは、生物学的にも言えることです。人間の脳は、自然の支配を最も受けにくい構造になっています。(脳の構造の概略図を描く)まず、脳の最も奥の中心部分には「脳幹と視床下部」というのがあって、その外側を二重三重の構造が覆っている・・・(脳の構造解説部分を割愛)・・・つまり、その大脳の内側には爬虫類や両生類がもっているのと同じ構造の脳があるんですが、外側を覆う大脳は、そういう爬虫類や両生類のような動きが自動的に出るのを制御する役割をもっている。これは、自動反応的に欲望が出てきた時に、欲望実現のための仕組みは整っているけれども、その上に覆いかぶさって、自分の意志で欲望をコントロールするための構造である。
 このことを見れば、まさに脳の構造そのものが、「いろいろな選択肢の中から正しいものを自分で選択する」ように出来ているのですから、人間は「自由である」のが特徴ということになるのです。しかし、大脳の新皮質が発達していない多くの動物には、自由がない。例えば、この間、春になって啓蟄を迎えると、土中からカエルが出てきた。彼等は温度と湿度の条件が一定の値になると、自動的に眠りから覚めて土の中から出てきます。そこには「もっと眠っていたい」などと思う自由はありません。また、土から出てきたら早速、相手を見つけて交尾することになる。ココにも自由はありません。人間以外に、神様は自由のない生物を数多く創っておられる。だから、それ以上のものを創造されようと思ったならば、それは神の定めた予定行動を自動的に繰り返す生物では足りない。〝自動機械〟はただ与えられた動作をするだけで、そこには善も悪もない。だから「自由」を与えれば「善」が実現するという、より高度な創造の段階にいたって人間が創造された。それが人間創造の意味なのです。
 だから、質問にもあるように、私たちは「病気」や「争い」を心に描いてしまう可能性をもちながら、そうでないものを描く選択をすることによって、この世の「善」が実現することになる。善を表現するためには、人間のような肉体をもったものが必要であるということです。だから、我々が「人間らしく生きる」ということは、「欲望のままに行動する」ということではないんです。時々それをはき違える人がいますけれど・・・・・・・・「人間らしい生き方」というのは、「眠くなったら眠り」「性欲が出たら発散させ」「食欲が湧いたらいつでも、どれだけでも食べる」なんてことじゃない。それとは全く逆である。

 我々はだから大脳の機能をしっかり訓練して、欲望は周囲の状況に合わせて適切に制御し、自分と社会の共存を進めていくのが本当です。欲望どおりに生きるのでは、両生類や爬虫類と変らないんです。まぁ、そういうことですね。

(2008年三月九日、大阪市の大阪城ホール)

3088a hope:2014/10/24(金) 17:35:56 ID:cEpBaIdo
>>3038 つづき

p14

法華経に「常不軽菩薩」という一章があります。

常不軽とは「常に軽んぜず」と書いてありますが、「われ常に軽んぜず」と、常にこの菩薩は如何なる人間を見ても、
たとえその相手が、どんなルンペンでも、やくざでも、或いは泥棒でも、強盗でも、殺人犯人であっても、
みんな其の人を仏の子として拝んだと云うのであります。

どう云って拝んだかと云いますと、「あなた様の実相は仏様でいらっしゃいます。
当来必ず素晴らしい仏の実相が顕れる方でございます」と言って拝んだのであります。

すると其の相手の男は、「なにッ、俺みたいなやくざが、何処が神の子じゃ!!どこが仏じゃ!!そんな馬鹿なことがあるものか。
いい加減な出鱈目を言って俺を言いくるめてごまかそうとする。けしからんやつじゃ」と言って、
石を投げつけて其の菩薩を傷つけようとしたけれども、然しその常不軽菩薩は、
投げる石のとどかぬ所迄行って又そのやくざを拝んだというのであります。

どんなに、相手が乱暴をはたらこうとも、「貴方様は本来仏様でいらっしゃいます。当来必ず仏の実相の顕れる方でございます」
と言って拝んだ。

これが菩薩たる者の生き方であります。

(つづく)

3089a hope:2014/10/25(土) 18:00:33 ID:cEpBaIdo
>>3088 つづき

p15

そして釈尊が仰せられるには、「こうして其の菩薩が、全ての人間の実相を仏であるとして拝んだ功徳に依って
彼は今釈迦牟尼如来として顕われているのである。自分がその菩薩であったのだ」とおっしゃったのであります。

この全ての人間の実相を神であるとして拝むことによって、その実相の完全さを顕わし、その完全さを確立する運動が、
生長の家の人類光明化運動で、その実践者が聖使命菩薩であります。

「神の子」と云い「仏」と云っても万教帰一的立場から謂いますと同じ事でありますが、
まず人間の実相と云うものは「神の子」であり「仏」であると云うことを確立しないでおって、
「自由と云い平等と云い人権と云い民主主義と云い、世界平和と云い政治と云い、社会と云い労働と云い教育と云っても」
その根本が確立されておらなかったら、目的の方向へ行くつもりで却って反対の方を向いて行くと云うことになるのであります。

東京から下関の方に行こうといくら思っても、実際に青森の方向を向いていたら幾ら一生懸命に汽車に乗って行っても、
飛行機に乗って行っても、下関に行くことは出来ないと云うことになるのであります。

だから最初に先ず、人間がどちらを向くかと云う事が大切であります。

その向く方向の根本が人間は「肉体」であるか「神の子」であるか、人間は「物質」であるか「霊的実在」であるか、
と云うその根本が定まらないでいて人権を主張するならば、人間は自由を求め、幸福を求めながら反対の方向に行くことがある。

例えば、人間とは快くないとか、苦しいとか、つらいとか、嬉しいとかと云うことを感覚に依って感ずる所の
本来の性質を有(も)つところの単なる物質的肉体である――と云う、そう云う前提のもとに人権を主張するならば、
人間はその本来の性質である肉体の要求するだけ能うかぎり快楽をむさぼり、自分だけの楽しみに耽り、
自分の感覚的な娯楽ばかりを自由不羈(じゆうふき)に追求することが基本人権である――という事にもなってまいります。

そこから、貞操になんの価値があるか、そう云う道徳観念は人間の肉体の快楽追求の人権を束縛するものであって憲法違反であると云う説も成立ったことになる。
(つづく)

3090a hope:2014/10/25(土) 18:14:47 ID:cEpBaIdo

>>3098 a hope所感)

<<まず人間の実相と云うものは「神の子」であり「仏」であると云うことを確立しないでおって、
「自由と云い平等と云い人権と云い民主主義と云い、世界平和と云い政治と云い、社会と云い労働と云い教育と云っても」
その根本が確立されておらなかったら、目的の方向へ行くつもりで却って反対の方を向いて行くと云うことになるのであります。>>

上のお言葉は、谷口雅春先生のお言葉でが、

「生長の家の教え」は、全ての運動の前提にこの「人間神の子」の自覚がくるのですね。
そうでなければ、雅春先生のご意志とはまったく違う方向へ行ってしまうということが書かれているのだと思いました。

みなさんのされている「生長の家の運動」は、どちらに進んでいるのでしょうか?

3091a hope:2014/10/25(土) 18:16:47 ID:cEpBaIdo
>>3090 訂正
>>3098 a hope所感)→(>>3089 a hope所感)

3092a hope:2014/10/26(日) 17:03:24 ID:cEpBaIdo
>>3089つづき

p17

或る進歩的文化人に云わせると、女性の貞操なんてものは、封建時代に、男性が女性を自分の〝持ち物〝 としておった時代に、
自分の〝持ち物〝 は誰にもさわらせたくないものだから、貞操と云うものを女性に教え込んで女性の第二の習性として飼いならしたものである、
処女性なんてものも何の価値があるか、あれは結局男が女を〝持ち物〝 にして楽しもうと思っていた時代の習慣の残りである。

例えば、自分が持ち物にしようとする場合に、人がさわった手垢のついた品物や着物では余り面白くない、
やっぱり持ち物は手垢のつかぬ、誰も使ったことのない新しいものがよいでしょう。

皆さんでも、ハンドバッグを買うのでも人の手垢で汚して居る品物を「これは幾らでございますか」「三千円でございます」
「こんな汚れたのが――」と思って、人様の使い古しでは嫌になる。

それと同じことで、処女性とか貞操とかが尊いと云うのは、結局、処女性とか、貞操とか、それ自体はなにも尊くはないのに、
それを男が女を〝持ち物〝 にするという観念からその新しさや、他の人の手垢のつかぬ純粋さが喜ばれるのである。

それ以外に何の意味もないのだと考えるのです。

こうして、人間と云うものを只の「物質」として、「持ち物」的立場から考えると処女性も貞操も、
奴隷として男から持たれた時代の観念であるから、そう云う観念を打破ることによってのみ
女性は真に解放されるのだと云う議論をなすのであります。
(つづく)

3093a hope:2014/10/27(月) 23:16:41 ID:cEpBaIdo
>>3092つづき

p18

これは一例でありますけれども、人間がその本質を「肉体」と見るか「霊的実在である」かと云う根本の人間観を確立しなければ、
人間の自由と云い、平等と云い、人権と云い、民主主義と叫んでみましても、此の肉体を人間としてみるか、
実相なる霊的実在を人間としてみるかによって、人間の生き方が全然アベコベを向いてしまうのであります。

憲法に定められているところに随(したが)って、人間は自由であると云っても、又哲学的唯物論に立って、
人間は自由である、人間は肉体的に快いことを楽しむように自由の本能が斯くの如く人間を規定しているのであるから、
その自然の快楽本能を満足さす為には何をやったってよいではないかと云う様な道徳的無視になるのであります。

実際、戦後の日本は占領軍の日本人の性的頽廃(たいはい)による日本弱体化の政策にあやつられてそれらのことが随分流行っているのであります。

その為に色々の弊害が起っていることは皆さんが既に御存知の通りであります。

その結果此処にも「生命の尊重が今日ほど激しく叫ばれた事はないに拘らず、今日ほど生命が無視されている時代はない」と指摘されている通り、
性的犯罪や、自動車強盗や、殺人や、自殺が今日ほど大量に流行している時代はないと云ってよいのであります。
(つづく)

3094a hope:2014/10/27(月) 23:21:35 ID:brQxC10.
>>3093つづき

 p19

人間の基本的人権の復活であるとか、自由の復活であるとか、平等の復活であるとか云いましても、
「人間とは何ぞや」と云う其の「人間」そのものの把握が間違っていると此のような結果になるのであります。

「人間」とは如何なるものであるかと云うその「人間」の理解が、単に人間を「物質」の偶然的結合として是(これ)を把握し、
単なる快楽本能・所有本能に左右される事が自然の権利だというような「肉体」として人間を把握(つか)んでいるから、
快楽本能・所有本能を満足せしめる為には人を殺しても好いなどと云うことになるのであります。

肉体として人間を理解せず、「霊」として「神の子」として、神の霊が今此の「肉体」と見える相(すがた)に
変貌して天降(あまくだ)っているのであると「人間」を理解することができた上で、
「今吾は何を為すべきか」と考えたならば、まさか女を強姦するとか、
わずかな金銭を奪うために自動車強盗をやるなんて、そんな見苦しい卑しいことは迚(とて)もやれない。

「神様が今天降って〝自分〝 として顕現している」と思ったら、人間の行動はおのずから神聖になるのであって、
ただ肉体の快楽を貪(むさぼ)る金を得るために、自動車運転手を後から殴りつけて殺したり、
ドスで刺して殺すなどと云う「生命不尊重」の行動が出来る筈がない。

それに反して人間を単なる「肉体」であると考えるならば、斯うも考えられる、
「彼れ運転手と云う者はただ単に物質が結合して斯くの如く機械的に動いているものである。
彼れの心の動きと云うものは物質が或る配合をして結合した場合にあらわれている作用に過ぎない。
あれが死んだからと云って物質が結合していたのが離れただけであるから、これは別に殺生というわけではないのである。
彼等はこれから何年間自動車運転手として、人生の苦しみを苦しまなければならんかも知れぬのに、
今此の物質的結合を一瞬の苦しみによって分離させてやったら、彼等はその無駄な長い苦しみから解放されるのである。
そうすると、自分もまた金を奪うことによって肉体に快楽が貪(むさぼ)られるし、
運転手もこれからの人生の苦しみを逃れることが出来る、これは一石二鳥と云うものである。」

泥棒にも三分の理があると云う諺(ことわざ)がありますが、斯のようにハッキリと推論しないにしても、
かれが唯物論である限りに於いて、人間は物質が偶然集合して出来て居るのであると考え、
如何に基本的人権の平等であるとか、自由の平等であるとか云っても、その生命を充分尊重し得ない事になるのは当然であります。
(つづく)

3095a hope:2014/10/27(月) 23:23:48 ID:cEpBaIdo
>>3094つづき

p21

それですから真に人権を尊重し、その自由と平等との基礎を確立しようと思ったならば、
「人間は神の子である」と云うところの根本を把握せしめなければならないのであります。

戦後、殊にこう云う混乱が起こって来るのは、爰(ここ)に示されている通り、
「人間が人間でありながら人間なるものの本当の相(すがた)を見失っている所から発している」のであるから、
其の事実を見つめなければならないのです。

爰(ここ)に「機縁は」とあるのは、皆さんが、生長の家に入って来られるその「機(はずみ)」になった「縁(えん)」と云うものは、
「生老病死」即ち、生活の苦しみや、老いる苦しみや、病の苦しみや、将又(はたまた)、
死の恐怖と云うものが機縁になって入って来られたかも知れぬけれども、その入信の機縁は「生老病死」のいずれであろうとも、
「必ず人間神の子の自覚の確立に、導いて行くことが光明化運動の本旨(ほんし)である」その事を自分だけ知ったら足れりと云う訳ではない。

他の人をも、その本旨を悟るように導いて行くのが菩薩としての愛行であります。

だから、この最後の所にどう書いてあるかと云うと、「……光明化の本旨であることを互に明らかにし合わなければならない」と書いてあるのです。

「互に明らかにし合わなければならない」――明らかにし合うのであって、自分だけいいと云うのではなくて、
互に「人間は神の子である」と云う実相を把握せしめる事こそ人類光明化運動だと云うことを、
相互扶助して明らかにし合わなければならないと示されているのであります。


それじゃあ人間神の子の把握をしっかりしなければならんと云うが、
その人間神の子の自覚とはそもそもどの様な自覚を根本とするかを明らかにしなければならないと云って次に説明してあるわけです。――

(第三条 についての雅春先生のご解説、終わり)

3096a hope:2014/10/30(木) 17:52:29 ID:cEpBaIdo

☆ 新版 菩薩は何を為すべきか  谷口雅春先生・谷口清超先生共著 ☆

第一章 人類光明化運動指針の解義 

p22 後から1行目〜

【第四条】 生長の家の各員は「人間神の子」の自覚とは、そもそもどの様な自覚を根本とするかを明らかにしなければならない。
神の無限生命の当体と云い、神の最高の自己実現でると云う自覚は、「一切はすべて自分の責任であり、自分以外の他のなにものの責任ではないのだ」と云う覚悟に徹しその覚悟を徹頭徹尾生き切る事である。諸悪不幸のすべては責任を他に転嫁するところから始まる。家庭も環境も運命も社会も政治も国家も世界も、隣保班の事も青年会の事も白鳩会の事も相愛会の事も県連の事も、光明化運動の消長も立教の使命遂行も、すべてみな自分以外の他の何人の責任でもなく、自分自身の日々念々の思いと祈りと行動のうちに在るものであり、一切の衆生が残らず救われてしまわなければ「吾れ正覚をとらじ」と誓われた御仏の心、即ち自己を一切者とする自覚の発動こそ真に人間神の子の自覚の証左である。さすればすべては自分の心の影となり、吾れ祈れば天地応え、吾れ動けば宇宙動くものなる事をよくよく思い知るべきである。

3097a hope:2014/10/30(木) 17:53:30 ID:cEpBaIdo
>>3069 つづき

(第四条・雅春先生のご解説) p23 後から1行目〜

この第四条に於いては、「人間・神の子の自覚」とは如何なる内容のものであるかと云うことが書かれて居るのであります。

それは、今読みました所で明らかであります様に、「自己を一切者とする自覚」と云うのであります。

爰(ここ)には、単に「神様が私を生んだから、私は神の子だ」と云う漠然とした宗教感情だけに止まらず、哲学的にそれが解明してあるのであります。

即ち、自分というものは只(ただ)の個人だと云うようなものではなくて、「自分は全宇宙を包容するところの実体であって、自分は全てである」と云うこの大自覚である。

これこそ本当に「自分自身に深切であれ」と云うことであるわけであります。

「自分自身に本当に深切である」と云うことは、自分の責任を回避すると云うことであってはならない。

責任を回避しなければならぬような小さいものだと「自分自身」を思うことは、自分を侮辱していることであり、自分に深切をしていないと云うことになるのであります。

だから自分を一切者とする此の自覚の発動こそ真に「人間・神の子の自覚」の証左であるのであります。
(つづく)

3098神の子さん:2014/10/30(木) 17:54:45 ID:cEpBaIdo
>>3097 つづき

p24 後から2行目〜

ところが、これとは反対に「環境が悪いから、制度が悪いから、政治が悪いから、人間は幸福になれないのだ」という人が多くある。

きくところによりますと、共産党の人なんかが、貧しい人の家などを訪問して行って、「君達が貧乏しているのは政治が悪いからである。経済が悪いからである。国家が悪いからである。こう云う政治家を倒し、天皇制国家を潰して、人民のための人民の政府を建てなければ、人民は決して幸福になれないのである」と言って、凡(あら)ゆる人民の不幸を「人民の政府」が樹立していないからである、と人間の責任回避癖(せきにんかいいへき)の盲点を衝いて説くのであります。

そうすると国民の多くは、特に無産階級の人は「成程そうか」と思いまして、「私が貧乏をして居るのは政治が悪いんだ。日本国家が悪いんだ。天皇制が悪いんだ。若し天皇制国家がつぶれてソ連みたいになったら、日本の人民は、余程金持になれるんだろう」と虫の好いことを思う人が出来て来るのだけれども、実際、ソ連に行ったり、中共にいったりしてその実際の農民の生活状態を見てきた人の話によるならば、彼らの多くは日本の農民の充分の一位の低い生活程度をしているのであります。

それでも過去に帝政ロシアや、支那(しな)の督軍(とくぐん)などに搾取せられていた時代の農民よりも余程よくなっているので、彼らの国民がそれで満足して社会主義を謳歌するのは、それはそれでよいのでありますけれども、日本の農民と比較すると彼らの国の農民は余程低い生活をしている。

それにも拘らず日本の農民は、社会主義国の農民よりもひどく搾取せられていると云うそう云う宣伝にのせられるのは何故かと云うと、「人間・神の子」の自主的自覚がなく周囲のものが我々を不幸にするのである、などと云う「責任回避」の物の考え方をしているからであります。

周囲に一切の責任をなすりつける考え方は「人間・神の子」の自覚ではなくて、「人間は恰(あたか)もメリケン粉で焼いた太鼓饅頭みたいに、周囲の型にはめられてその型の通りになるしか仕方ないものである」と考えるところの唯物論であり、自己劣等感に過ぎないのであります。

わたしたちが本当に幸福になるためには、自己劣等感を克服して「自分はどう云う環境に置かれても自由自在である」というところの、自主的存在だと云う自覚を得なければならないのであります。
(つづく)

3099a hope:2014/10/30(木) 18:05:33 ID:cEpBaIdo

>>3096>>3098 a hope 所感)

この章には、たいへん重要な事が書かれていると思いました。

<<神の最高の自己実現でると云う自覚は、「一切はすべて自分の責任であり、自分以外の他のなにものの責任ではないのだ」と云う覚悟に徹しその覚悟を徹頭徹尾生き切る事である。>>

要するに、「神の子の自覚」とは、「一切者の自覚」にほかならないということが述べられているのだと思います。


<<周囲に一切の責任をなすりつける考え方は「人間・神の子」の自覚ではなくて、「人間は恰(あたか)もメリケン粉で焼いた太鼓饅頭みたいに、周囲の型にはめられてその型の通りになるしか仕方ないものである」と考えるところの唯物論であり、自己劣等感に過ぎないのであります。
わたしたちが本当に幸福になるためには、自己劣等感を克服して「自分はどう云う環境に置かれても自由自在である」というところの、自主的存在だと云う自覚を得なければならないのであります。>>

ここに、「自己劣等感」という言葉が出てきました。

この言葉、最近どこかで聞いたことがあるな〜?と思いましたら、先日web誌友板でのある「神の子さん」のご発言でした。

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1358650232/4573


「一切者の自覚」が「神の子の自覚」で「周囲に一切の責任をなすりつける考え方」が「自己劣等感」だとあります。

これは、確かに「神の子の自覚」があるかないかの証左になりそうですね。

わたしは、人間・神の子が基本真理の「生長の家」教団のトップに立つ谷口雅宣総裁が、
まさか、この「一切者の自覚」つまり「神の子の自覚」がなくて、一切の責任を他人になすりつけるような、
自己劣等感をお持ちのお方であるとは信じられません。

きっと、雅宣先生は、「生長の家総裁」として、聖典裁判はじめ信徒の大量脱会等、
数々の「生長の家」で起きている諸問題の責任を、「一切者の自覚」をもって感じていらっしゃると拝察しています。

3100流氷:2014/11/01(土) 09:18:54 ID:LyU7SE0.
   民意とメディアと政治は、三位一体

森)皆さんの意見を聞きながら、ふと思いついたことがあります。かつて今と似たような雰囲気があった時代
のことです。もちろん僕はリアルタイムには知りません。あくまでも本などで読んだ知識ですが、日本が国際連盟を
脱退した時代が、今の時代とデジャ・ブのように重複します。

司会)A級戦犯の一人でもある松岡洋石は、日本代表団の首席全権として出席した国際連盟総会で、満州国建国を認めないとの
決議を出されたとき、四五分にわたる連盟決別の演説を英語で行ってから、最後に「さようなら」と日本語で言って、堂々と退場したと
言われています。これをきっかけに日本の軍国化が加速したとの見方もあります。

森)でもね、実のところ松岡は会期中に、「脱退のやむなきにいたるが如きは、遺憾ながら、あえてこれをとらずに」と日本政府に打電しています。
つまり彼自身などうやら、脱退はまったく考えていなかったようです。この少し前に、日本の新聞一三二社は、共同で宣言を発表します。
内容は満州国の正当性を主張するとともに、「満州国非承認と連名で決議されたとしても、これを受諾しないように」と
日本政府に迫るものでした。同時に新聞各紙は記事においても、連盟から脱退すべしと国民に訴え続けています。

C)朝日新聞もそんな主張をしていたんですね。なんだか意外。

森)最後の演説でも松岡は、日本政府や満州国の正当性を主張はしているけれど、脱退するとはひと言も言っていません。
ところがこのときの朝日新聞の見出しは、あの有名な「連盟よさらば!連盟報告書を採択 わが代表堂々と退場す」。本文では
「松岡の姿は、凱旋将軍のようだった。わが国は初めて、『我は我なり』という独自の外交を打ち立てるにいたったのだ」とも書かれています。
当然ながら国民はこの記事に熱狂し、そうした世相を背景に、日本政府は国際連盟脱退を通告し、帰国した松岡は国民的英雄として迎えられます。

D)じゃあ、連盟脱退を煽ったのは、朝日新聞をはじめとするメディアだったわけですか。

森)そのとおりなんだけど、忘れてはいけないのは、メディアも政治も民意の合わせ鏡であるということです。
つまり新聞は国民の主張や願望を反映したとの見方もできる。そう考えたとき、仮にいま安倍政権が諸外国に対して強気の外交を
行っているとしても、その理由は、強気にならないと支持率が下がるという危機感があると考えたほうがいいと思う。
つまり強気になったのは安倍政権ではなくて、この国の民意です。そもそも安倍さんの今の人気は、拉致が明らかになった北朝鮮に対して、
強硬な姿勢を示すことで始まりました。強気に出たほうが国民は支持する。そう考えたとしても不思議はない。

A)ブッシュ政権を見習った可能性もありますね。

D) じゃあ、そもそもの要因は民意だということになりますか。

森)ただしその民意は、メディアによって大きな影響を受けながら形成されます。
でもメディアも民意に誘導される。先ほど満州事変後の状況を説明すれば、新聞は当初、軍部の
大陸進出に対して批判的でした。でも部数がどんどん落ちる。それで強硬な方針に換えた。
満州勃発から数ヵ月後、「国家重大事なのだから、なるべく軍部を批判するような記事は載せない」と決めた
朝日新聞重役会議の議事録が残っています。

 この朝日の変節について、右翼からの圧力があったとの説もあったけれど、むしろ圧力よりは自主規制だろうと僕は思います。
要するにメディアも民意によって造形されていると言えるわけで、.....悩ましいですね。民意とメディアと政治は常に三位一体、三つ巴なんです。

  『アは「愛国」のア』 森達也 著

3101管理人:2014/11/01(土) 09:23:45 ID:HLm/peec

>3100 と、今のこの投稿の削除をお願いします。

3102a hope:2014/11/01(土) 21:36:06 ID:cEpBaIdo

>>3098 つづき

p26 後から5行目〜

世間には往々、資本主義制度があるが為に人民は貧乏になるのだと云う風に屁理屈を言う人がありますけれども、
決してそうではないのであります。

アメリカでも自動車王として世界第二の富豪になったフォード自動車会社の創立者であるヘンリー・フォード第一世は、
資本主義制度に於ける一介の鍛冶屋さんの職工であったのであります。

資本主義下においては、職工は何時までも職工で終らなければならぬと考えて居ることが、
「人間・神の子」の自覚がないわけであります。

資本主義の世界においても職工さんが、世界で三番目位の金持になれる機会は幾らでもあるわけであります。

戦後で日本一の富豪になった松下電器産業の松下幸之助氏は、手工業的に塑(ね)り物で電灯のソケットを製造販売していた
手工業の半職工的商人であつた。

資本主義制度だから一介の工員から富豪にならないと云う事はない。

資本主義化の世界は大衆によろこばれる物を作るものが忽ちにのし上がる機会の多い世界である。

美空ひばりや江利チエミは歌の口真似から出発して大衆に喜ばれた為に、忽ち毎年千万円以上も収入のある歌手にのし上がった。

ソ連で帝王の如くなったスターリンも鍛冶屋だったか靴屋さんだかの子であったそうだが、
ともかくどんな制度においても、どんな境遇におっても、伸びるものは伸びるし、伸びないものは伸びない。

戦後の日本では大抵既成財閥は解体になり、固定資産税や財産税で殆ど財産はみな召し上げられ、
土地を無代(ただ)同様の値段で買上げて細分せられ、旧財閥や特権階級の人は、斜陽族の〝なれの果て〝 みたいなのに大抵なった。

斯うして戦後の日本人は、戦後最初の富の出発点は大抵似ておった。

どんな戦前の金持も同じ位の経済的レベルに落とされ、財産は殆どみんな税金にとられて、
三万円以上はみな没収みたいに封鎖せられてしまった。

そして、手と身(からだ)だけの其処からでも、新興財閥として伸びて来る人はぐうっと伸びて来ているのである。

むろん、何時迄も下積におる人もあるんだけれども、資本主義下では実力のある伸びる人は伸びる機会がある。

だから自分が貧乏をして世間を呪っているのは制度が悪いからと云うんじゃなくて、自分自身の自覚が足りないからであります。

どんな制度の下に於いても、賤しき貧しき家に生まれながらでも、「神の子・無限力」の自覚をもつものは
其処から伸びることも出来るわけであります。

封建時代にでも、豊太閤(ほうたいこう)みたいな人は百姓の倅(せがれ)から最高の栄誉ある地位にのぼった。

どんな制度の世界に於ても伸びる者は伸びるのに、自分が伸び得ないことを制度が悪い環境が悪いなんて考えて、
自分自身の責任を回避して、他を呪うのは間違いであります。

3103a hope:2014/11/01(土) 21:37:33 ID:cEpBaIdo

>>3102 a hope所感)

<<だから自分が貧乏をして世間を呪っているのは制度が悪いからと云うんじゃなくて、自分自身の自覚が足りないからであります。
どんな制度の下に於いても、賤しき貧しき家に生まれながらでも、「神の子・無限力」の自覚をもつものは
其処から伸びることも出来るわけであります。>>

わたしはこうも考えられると思いました。
つまり、「神の子・無限力」の自覚をもつものは、どんな組織に属していてもいなくても、どんな運動をしていてもいなくても、
伸びない人は伸びないし、伸びる人は伸びるんだな、と。

だって、「神の子・無限力」の自覚を得るためにすべきことは「三正行」以外ありませんものね!

3104SAKURA:2014/11/02(日) 21:33:23 ID:???
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
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の投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 自他の悪を思わず常に光明に転向せよ ―その4―【 転載編 ―】*=======*=======*

■かかる場合、毅然として起って、全従業員の不安、焦燥、恐怖の心を去りうるところ
の偉大なる首脳者が顕われ、事業をして従事せる全員に平和と明朗と前途の楽観を与えう
る場合には、没落せんとしたその商社も運命を回復することができるのであります。この
時、事業の首脳者にして、商勢を挽回せんとて憂い悲しみ、従業員の欠点のみを見、その
欠点を直早そうとして短気と焦燥とに駆られる時には、頽勢はかえって挽回するに由なく、
股昿と頼む忠実なる人たちは彼を見捨て去り、有為の雇員(こいん)は背き去り、顧客(こかく)
は続かず、終にさしもの繁栄を誇った商社も没落してしまうのであります。

これは現象に捕らわれて、一時の暗黒を実在だと思い、心に強く欠点と暗黒を描いた結果
であります。欠点と暗黒とはあるように見えても本来ないものでありますから、心に描か
ずに捨て置けば消えるのであります。美点と光明とはないように見えても本来実在なので
すから、心が執われなくなったときその本来のある姿があらわれてくるのであります。だ
から生長の家家族の祈願には自他の悪を云為する時間があるならば、神を想い、完全を
想い、自己の新生と生長とを努めるようではないかと書いてあるのであります。

 商売の衰頽も肉体の病気も「不調和の心」の顕われですから、「不調和の心」に「不調和の
心」を追加しているようなことでは、それを回復することはできないのであります。不安、
焦燥、恐怖で平和を失っている状態に、さらに憤怒と憎みと欠点暴露をもってするのは、
火を消さんとして火に油を注ぐようなものであります。七つの「迷いの心」が起こってきた
ときには、七つの「自覚の心」で相対すべきであります。

               つづく
❤〜SAKURA

3105a hope:2014/11/03(月) 21:08:54 ID:cEpBaIdo
>>3102つづき

p28 後から3行目〜

私が諸方へ講習に行きましても、時々こう云う弁解をされる地方がある。

「ああ農繁期でございますからどうも人の集まりが悪いのでございます。」そうかと思うと、
「祭日とかち合いましたので、人がその方へ行きまして、講習会の集まりが悪いのでございます。」

あるいは「雨が降りましたのでどうも人の集まりが悪いので御座います、」などと、
責任を農繁期や祭日や雨天に課して、自分の努力の不足にアリバイをつけようとする人がある。

ところが、或る農村に講習に行って雨が降ったときに、「先生、今日は雨が降りまして有難うございます」とお礼を言われたこともある。

そう云う所では「雨が降ったので百姓が野良にでられないから、野良にでるかわりに、
この講習会に集って来るのでございます。神様有難うございます」と喜ばれるのであります。

それなのに、口実をつけるところは、「雨が降ったから人が集まり難いのであります。もしお天気なら、もっと集っとったんでございます」
まあそう云うように理屈をつけて自己弁解する。

その自己弁解をするようでは、この自らの主人公であるところの自覚が足りないのであると言わなければならないのであります。

(第四条についての雅春先生の解説終わり)

3106a hope:2014/11/14(金) 08:41:51 ID:cEpBaIdo

☆ 新版 菩薩は何を為すべきか  谷口雅春先生・谷口清超先生共著 ☆

第一章 人類光明化運動指針の解義 

第五条 生長の家の各員は、人間神の子の自覚が、日本民族が悠久の昔より世々代々承(う)け継ぎ語り継いで来た「命(みこと)」の自覚にほかならず、生長の家立教の使命が同時に日本建国の理念の現成(げんじょう)にほかならない事を明らかにすべきである。

日本民族は存在の窮極を、一切のものの生成の根源たる普遍的絶対者を、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)として把握し、その「中(みなか)」への中心帰一とその「中」の展開、即ち宇宙普遍の原理の地上的顕現を日本国家形成の理念とし、天津日嗣(あまつひつぎ)とはこの理念のさながらなる継承以外にはなく、天皇の権威は権力をもって思うがままにこの国を支配する権利にあるのではなく、この理念の継承実現にまします事、従って天皇を中心と仰ぐ日本の国家の発展は、天皇の人民支配の手段としての国家の発展と云うが如き専制的な性格のものでは微塵もなく、宇宙真理、即ち神意の地上顕現の至純至高の形体としての日本国家の精神である。

この真理の現成の大まつりごとに、神の子としての命(みこと)として自己の責任としてまつろい奉(たてまつ)る事が実相の成就である事を明らかにすべきである。

単に自分の祖国のみの理由にて日本を愛するのではなく、東洋と西洋との中間に位して一切を生かす大乗の真理国家たる事が日本の理念であるからこそこの国の国体を鑚仰(さんぎょう)してやまず、この国の神の子国民として生を享(う)けしめられた所以の深さに感泣(かんきゅう)し、わが一身もわが家庭もわが生活もすべてこの理念現成に捧げられてはじめて存在の意義を持ち得るものなることを、各自互に明確に自覚し合い、その行動の根拠となし合うべきである。

3107a hope:2014/11/14(金) 08:43:18 ID:cEpBaIdo

>>3106 a hope所感)

この第五条には、わたしが理解しなければいけない日本国に「生長の家」の出現した本当の理由、
つまり「鎮護国家」がなぜそれほどにも大切なことなのかが述べられているのではないかと感じています。

これから、雅春先生のこの第五条のご解説を丁寧にお勉強していきたいと思います。

3108もうすぐ冬だけど春:2014/11/14(金) 19:22:17 ID:sJIV9CK.
a hope さま

一つ前から聞きたかったのですが、この掲示板で、何を求めていらしゃっているのですか?


自己満足の暇持てあましの、お勉強ですか?

3109もうすぐ冬だけど春:2014/11/14(金) 19:25:03 ID:sJIV9CK.
この真理の現成の大まつりごとに、神の子としての命(みこと)として自己の責任としてまつろい奉(たてまつ)る事が実相の成就である事を明らかにすべきである。

謹舎慕って、意味わかってんいっしょ? ぶっちゃけ。

3110トキ:2014/11/14(金) 20:00:39 ID:NbEVi5/s
>>3108

 管理人としては、a hope様のご投稿は、掲示板の目的に沿うものであり、
内容も素晴らしく、歓迎しております。継続してのご投稿にも感謝してお
ります。

 教団がこうなった以上、掲示板での勉強は大きな意味があります。

 a hope様におかれましては、今後も継続して、ご投稿をお願いします。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

3111a hope:2014/11/14(金) 20:34:30 ID:cEpBaIdo

>>3108 春さま

わたしは、この掲示板でお勉強させていただくことで、
何が本当の生長の教え(真理)なのか自分自身で明らかにしていきたいと思っています。

そして、自分自身が真理を悟って幸せになりたいというのも勿論ですが、
自分が悟ることで、周りの苦しんでいる人々を救えるような人間になりたいのです。

ですからわたしがこの掲示板でお勉強させていただいているのは、
自己満足といえば自己満足かもしれませんが、「生長の家」の教えを体得して、
人類光明化運動を展開していきたいという大きな夢のためでもあります。


とても申し訳ありませんが、>>3109のご質問の意味はよくわからないのでお返事ができません。

ところで、春さまはどうしてこの掲示板に書き込みをされているのですか?

3112a hope:2014/11/14(金) 20:35:13 ID:cEpBaIdo

>>3110 トキさま

コメントありがとうございます。
これからも、自分のペースでお勉強させていただきます。

感謝 合掌。

3113もうすぐ冬だけど春:2014/11/14(金) 21:11:27 ID:ng3olj7k
この真理の現成の大まつりごと


意味、分かりますか?

神の子としての命(みこと)として

この意味分かっていたら、鎮護国家はずし意味が理解できますか?

自己の責任としてまつろい奉(たてまつ)る事が

これは貴殿が書かれた"できることをまずしよう"でいいと思われますが、
この先は、
何を目指しているか、お考えですか?

人類光明化運動を展開していきたいという大きな夢のためでもあります。

この為の方法が、
掲示板でお勉強させていただいているの

では、全然話にならない、足りない、ともうい上げているのです。

3114トキ:2014/11/14(金) 21:49:06 ID:NbEVi5/s
>>3112

a hope 様

 お返事、恐縮します。今後ともご投稿を期待しております。
頑張ってください。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

3115a hope:2014/11/14(金) 22:02:56 ID:cEpBaIdo

>>3113 春さま

人類光明化運動指針第五条の条文だけを読んだのでは確かにその意味はよく理解できないかも知れませんが、
「菩薩は何を為すべきか」には、各条文の後に、雅春先生が「人類光明化運動指針の解義」として、
その内容を詳しくご解説してくださっているのです。

ですから、これからそれを謹写しながらお勉強して行こうと思っているのです。
丁寧にお勉強して行けば、こんなわたしにも「鎮護国家」の重要性が理解できるような気がしています。


現実の春さまがどのような方で、どのような運動をされている方なのかわたしは知りません。

ですが、春さまもわたしのすべてを御存知ではないですよね?

この掲示板の管理人さまであるトキさまがお許しくださっていますので、
わたしはわたしのやり方でこれからもお勉強を進めさせていただきたいと思います。

ご理解くださるとありがたいです。

3117もうすぐ冬だけど春:2014/11/15(土) 09:00:22 ID:EAWJz.aM
丁寧にお勉強して行けば、こんなわたしにも「鎮護国家」の重要性が理解できるような気がしています。

失礼ながら、到底無理と考えています。

丁寧にお勉強すれば。。のレベルでなく、当たり前の事が当たり前に感じられる【感性】とでもいうべきものが必要で、今後も貴殿のお好きなように書かれて行く事は大事にしたいと考えますが、

1+1=2
が分からない人が、謹写していても、しないよりはましな程度で、
1+1=10になるという(たととえですが)は、永遠にたどりつかないでしょう。

献労と愛行が欠けているからではないですか。

初心者様が言った、インターネットで真理が分かるなどあり得ない、と言うのは、事実と思います。

3118a hope:2014/11/15(土) 09:11:02 ID:cEpBaIdo
>>3117 春さま 信仰/体験板にお返事させていただきます。

3119a hope:2014/11/15(土) 09:14:45 ID:cEpBaIdo

(第五条 雅春先生のご解説)p31

ここは非常に重大な一節であります。民主主義かぶれのしている人には解するのに難しいところであります。

生長の家は「人類光明化運動」と云うから人類を愛したらいいのであって、日本の国なんかどうだっていいじゃあないか、と考える人があるかも知れませんが、決してそうじゃあないのであります。

皆さんは日本民族の一員として日本人として生まれた。その事実に立脚して生きている以上、日本民族と云うものは如何なる自覚を持ち如何なる使命を持って此の地上に誕生したのであるかと云うことほど重大な問題はないのであります。

古代の日本人は全て何某(なにがし)の命(みこと)、何某の日子(ひこ)、何某の日女(ひめ)と云うように自分自身をも呼び、他の人をも尊称して居りました。

日子とは即ち天照大神の御子(みこ)という意味であり、日女とは即ち天照大神の女(むすめ)という意味であり、すべての人間は命(みこと)であったのであります。

命とは即ち「神の生命」そのもの、それが天降(あまくだ)って来たのが人間であると云う、そう云う魂の自覚をもって日本人は日本民族の歴史を作ってきたのであります。
(つづく)

3121トキ:2014/11/15(土) 19:01:43 ID:kJfjg7Wc
「白鳩」昭和48年3月号 14pより、謹写

<<10日の箴言 迷霊には問答打ち切り宣言が早いほどよい>>  谷口雅春先生


 イエスもヨルダン河で40日40夜断食水行して自分の心を潔めようとしているときに「自己とは別の
世界に棲む迷霊サタン」があらはれて来て問答しているのである。この迷霊とイエスとの問題は、頭に
ブリキのバケツを被って迷霊の言葉をアースして避けようとした人のようには、その迷霊に、長くはかか
はり合っていないのである。迷霊との問答は、長くかかはり合っていると、人間を翻弄して楽しみたいの
が彼ら迷霊が人間に話しかける動機であるから、いつまでもその迷霊がねばりついて間断なく話しかける
ため人間の方がノイローゼになってしまう。イエスと迷霊サタンとの問答は極めて簡潔にして、イエスは
「去れ」といって、迷霊を突き放しているのである。

サタンーなんじ若し神の子ならば、命じて此等の石を変じてパンとなせ。
イエスー人の生くるはパンのみにあらず、神の口より出づる凡ての言に由る。
サタンーなんじ若し神の子ならば己が身を下に投げよ。若しなんじ神の子ならば聖書に録された如く
    「神はみ使いたちに命じて、彼らの手にて汝を支え、その足を石にうちあたることなからしめん。」
イエスー「主なる汝の神を試むべからず」と聖書には録されている。
サタンー汝もしひれ伏して我を拝せば此れらの栄華を皆なんじらに与えん
イエスーサタンよ去れ。聖書には「主なる汝の神を排し、ただ之のみに事ふべし」と書かれているでは
    ないか。

 この簡単な会話によってイエスは迷霊が、言葉を弄して、彼にからみついて来るのを突き放しているの
である。これは若し諸君のうちに誰かに迷霊がかかって来て愚弄しようとするとき、簡単にそれを突き放し
てしまって、今後話しかけても取り合わないようにすれば、それ以後は迷霊は沈黙してしまうという実例で
ある。

3122SAKURA:2014/11/15(土) 22:31:16 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 自他の悪を思わず常に光明に転向せよ ―その5―【 転載編 ―】*=======*==

■不安、焦燥、恐怖が起ってきたときには、不安に思うまい、イライラすまい、焦るま
い、恐れるましと思ってそれを抑圧してもたいてい駄目であります。

不安に思うまいと努めれば努めるほど不安になり、焦るまいと思えば思うほど焦り出し、
恐れまいと恐怖を抑えれば恐怖し出すのがわれわれの心であります。それは「不安を……」
と思ったときにすでにわれわれは「不安」を心に描きますから、心に描いたものが強く現わ
れるのが心の法則でありますから。
「不安を……抑えよう」と思ったのでは不安は決して無くならないのであります。

「不安」を無くするには、「不安を……」とすら考えないで、全然別なる完全なる状態に
心を集中しなければならないのであります。すなわち、この時こそわれらは、「神のように
努めなければならないのであります。

その方法の一つとしては、神想観を行なうに当たって招神歌(かみよびうた)を誦(とな)え
終わると次のように念ずるのがよろしい。

「自分は神の子であるから、本来神と波長の合った心の波動をもっているのである。神
と波長の合った心の波動をもっている自分はただ神の大調和の念波を受けるだけであっ
ていかなる不調和の念波をも受けることはないのである。我は神の子であり、我が環境
は我が心の影であるから、我が環境は今現実に大調和であり、神の無限の智慧と愛と
生命と供給とが満ちているのである。」

                    つづく
❤〜SAKURA

3123a hope:2014/11/17(月) 09:37:07 ID:cEpBaIdo
>>3119つづき)

こう云う歴史を背負ってその歴史的現実として具象化して、今皆さんが此処に生きておると云うことは誠に荘厳な事実なのであります。

他の国の民族の中には、そういう自覚を持って生まれて来た民族はいない。その独特の伝承を私たちは尊ばなくてはならない。

西洋では人類はアダムとイブの子孫であり「罪の子」の子孫である、と云う様に説かれて来て、彼らh「罪の子」の子孫であると云う、あまり芳しからぬ自覚を伝承しているのですけれども、日本人だけは「神の子」」として、「命(みこと)」としてこの地上に生まれて来、そして世々代々その伝統を承(う)け継いで来て、「われは命(みこと)なり」の自覚のもとに生きて来たのであります。

そして神の子が天降(くだ)って、地に平和をもたらすために此処に日本民族が大和と云う国号の国を建てたという光栄ある自覚を尊重しなければならぬわけであります。
(つづく)

3124a hope:2014/11/18(火) 08:52:32 ID:cEpBaIdo
>>3123つづき) p32 後から3行目〜

その神の子とは如何なるものかと申しますと、爰(ここ)に書かれておりますように、「日本民族は存在の窮極を、一切のものの生成の根源たる普遍的絶対者を天之御中主神(あまのみなかぬしかみ)として把握」したのであります。

日本民族はみずからを「命」と呼び、日子(ひこ)、日女(ひめ)と称するけれども、決して一人の有限な肉体を持った神様から誕生したと云う意味での「神の子」ではない。

日本書紀或は古事記の神話にあるところの天之御中主神の「中(みなか)」の本源より発したる基本生命の自覚である。

天之御中主神とは、一個人の人格神の固有名詞ではないのであって、「天(あま)」の次に「之(の)」という接続の詞(ことば)がついて居る所に注目しなければならないのであって、これが固有名詞ではない証拠であります。

「之(の)」がついているのは、固有名詞ではなく、説明のための接続詞としてついているのであります。

何を説明しようとしているかと云いますと、「天(あま)」即ち「天球」即ち「大宇宙」の「中(みなか)」にして主なるところの神様と云う意味を説明していたのであります。

私たちはその「中(みなか)」の「主」なるところの神様から生まれて来たのであっって、その中(みなか)のいのちより出でて中(みなか)に帰る、吾々は中(みなか)に帰一しなければならない。

「神の子」とは天之御中主神の生命が此処に出現して、「中(みなか)」の理念を実現する為に此処に生きて居るということであります。
(つづく)

3125SAKURA:2014/11/18(火) 22:41:14 ID:???
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こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 自他の悪を思わず常に光明に転向せよ ―その6―【 転載編 ―】*=======*==

■この光明思念を繰り返しつつ精神統一状態に入り、いっさいの悪を思わず、今現実に
大調和の世界がここに展開しているという大信念に到達してその神想観を終わり、神想観
後の日常生活もできるかぎり明朗なる心境を持続するように努めれば、現実の苦難の状
態は克服され実相世界の完全なる状態がしだいに現実生活にまで再現してくるのであります。

                 次の項目に続きます。
❤〜SAKURA

3126SAKURA:2014/11/18(火) 22:42:25 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 神と偕に無畏無憂の生活を送れ ―その1―【 転載編 ―】*=======*==

■われらは常に無限力と偕に生くることを信じ、神に背くことのほか、何ものをも恐
れず、取越し苦労をせざらんことを期す。

 ■われらの心の明朗の極点は『神の無限力』と一体で生きているという自覚であります。
他のいろいろの方法によって心の明朗さを得ようとも、それはたいてい一時的の明朗さで
あります。

また次なる重大なる事件が起って来るとともに、その明朗さ破壊せられずにはいないのであり
ます。どんあ重大なる事件が起こって来ようとも、我が味方は「神」であり「神」がその事件
をわれらの真の幸福にまで導き給うものであると自覚さえありさえすれば、われわれはその重大
なる事件を静かに支配することができるのであります。

かかる重大事の起こっている時に際して、最も恐るべきは「重大なる事件」そのものではなく、
重大なる事件に驚愕し周章狼狽して「神吾と偕に在り」との自覚を失ってしまうことであり
ます。この自覚さえあれば「重大事」はいつの間にか方向転換して幸福の曙光が見えはじめ
ます。しかし「神と偕なる」自覚を失ってしまったが最後、事件は層一層危険の度を加え、
その人は加速度をもって危殆の世界に押しやられて行くのであります。

 ですから、われわれは何事が起ころうとも事件そのものは恐ろしくない。どんあ成功者
といえども必ずや幾度も失敗と見える経験を繰り返したのです。しかし彼が成功したのは
普通ならば「失敗」として悲願し退嬰(たいえい)してしまうような時にも、それを「失敗」
とは見ないでその「失敗」を次なる成功の足場としたのであります。

ヘンリー・フォードは言っています。

『自分はいまだかって事業に一度も失敗したことはない。われらの事業はたとえば化学の
実験のようなものである。予定の結果が出て来る時も、また別の結果が出て来る時も、共
に化学の実験としては成果を収めているのである』と。まったく常住「楽観病」と評さるる
ヘンリー・フォードが言いそうなことであります。この常住「楽観病」こそ事業を成功に
まで導き来す大原動力であって、その背後には「神と一体」の自覚があって可能なのであり
ます。

                     −その2−につづく
❤〜SAKURA

3127a hope:2014/11/19(水) 08:43:59 ID:cEpBaIdo
>>3124 つづき) p33  後から1行目〜

「中(みなか)」と云うのは、『中庸』と云う支那(しな)の書物に、「喜怒哀楽未だ発せざるを中(ちゅう)と云う」とありますが、この「中(ちゅう)」と云う字は、○(宇宙の象徴)に一本貫いた様につくられたのが本来の字形なのであります。

四角に一本棒を挿したのじゃなくて、○(うちゅう)を貫く象(かたち)を表した⏀であります。この「○」は宇宙であって、宇宙を貫く処の真理が⏀(みなか)なのであります。

真ん中だけを貫いて居るのではないのであって、これはただ「宇宙を貫く」という意味を象形的に書かれているのです。

宇宙の一切の物貫く所の原理に在(まし)ますところの神様が天之御中主神であります。

その「中(みなか)」の原理と云うものは何処にでも現れて居る⦿(ス)の原理であって、それは一切のものには一つの中心があると云うことであります。

つまり太陽系統には太陽と云う中心がある。そして周囲には遊星が廻って居る。存在の最小単位である原子にも原子核と云う中心があって、その周囲に電子が廻っている。
(つづく)

3128a hope:2014/11/19(水) 08:44:53 ID:cEpBaIdo
>>3127つづき)

人体を形成して居る所の細胞にも真中に細胞核と云うのがあって、そして周囲に原形質がある。鶏卵にもちゃんと黄身と云う中心がある。

中心がなくなったら、細胞もなくなり、卵は死んでしまうのであります。白色レグボーンの鶏の卵の白身だけを抜いて、プリムスロック種の鶏の白身と入れ替える実験をソ連でやったら、それを孵化させるとプリムスロックの雛が産まれたという話もあるが、白身は他のものと取替られるけれども「中心」なる黄身を取り替えたらもうその鶏卵は生命を失ってしまうのであります。

このように中心は一番大切であります。原子でも、原子核を破壊したら、原子は崩壊して飛び散ってしまう、われわれの肉体を構成している細胞も、その中心であるところの細胞核を殺してしまったら、細胞は死んでしまう。

植物にも幹という中心がある。幹を殺したら植物は枯れてしまう。

太陽系統も真中にある太陽が放射能を出し尽くして冷えてしまうようなことがあったら、太陽系統には生物がなくなる、結局吾々の地球も冷えてしまって人類もその他の生物も死ななければならない。

どうしても⦿(ス)をもって表象する「中(みなか)」の理念と云うものに一致したときそこに生命があらわれるのであり、「中(みなか)」の理念によって宇宙の一切のものは生かされて支えられて居るのであります。

此の一切存在の基本原理なる「中(みなか)」の理念を体現した国家、換言すれば「真理国家」の現成が日本国家なのであります。
(つづく)

3129SAKURA:2014/11/19(水) 22:57:39 ID:???
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こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
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>>3104>>3122>>3125>>3126 の投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 神と偕に無畏無憂の生活を送れ ―その2―【 転載編 ―】*=======*==

■取越し苦労病患者は、常住楽観者の反対であります。常住楽観者は失敗の中にでも
成功を見て心を明るくするに反して、取越し苦労病患者は成功の中にでも失敗を見るの
であります。こんな人は幸福の真最中にいてすらも、「こんなに幸福であったらもったな
い」とか、「幸福が続けば必ず不幸が来るのだ」とか、「悪」を心に描いて恐怖します。そし
て実際不幸が来ればいよいよますます恐怖し、悲観し、周章狼狽して手を束ねて策の施
すところを知らないのであります。

 およそこのような取越し苦労、不安、恐怖は精神力の適用でありますから、精神エネル
ギーを消耗することおびただしく、明るい希望に満ちた心で考えれば疲労せずに名案が
浮かぶものを、いたずらに憂苦し懊悩するために、頭脳は疲労し、よき考えは逃げてしま
い、時局を好転するに必要なる縦横な機略は姿を潜めて出て来なくなるのであります。

 取越し苦労や心配が心の底から湧き起こるときには、ただちに心を一転して「われ神の
子である、われ神と偕に生く、われ神と偕に歩む、わが砦は神であるから恐るるところの
ものはない」と断々乎として心の中に唱えて自分自身に言って聞かすようにする習慣をつ
けるがよい。またヘンリー・フォードが考えたように、人生の体験はどんな体験でも失敗
はない、どんな体験も次なる成功に達する一階段であると喜んで勇んで、その現在の地点
を足場として明朗な心境で新たに出発するものは必ず最後に成功するのであります。
柔道という武術は自分の不利の地点をそのまま自分の利用すべき足場として相手を投げる
のです。

すなわち向こうから衝いてくるとか、引っ張り込むとかしてくる。衝かれるとか、引かれ
るとかいうことは自分が重心を失う危殆の時なのです。それをそのまま利用して引っぱら
れれば敵の懐に飛び込み、突かれればその力を利用して敵の姿勢を引き落とす。柔道の
試合には、相手が技をかけてくれる時の勝利の好機会なのであります。われわれの事業に
おいても運命がわれわれを危殆に引き摺り込もうとする時こそ、その運命の懐に飛び込
んでその「不幸」に背負投げを食わすべき好機なのであります。逆転を幸運の足場になしう
る人にしてはじめて人生の常勝者なることができるのであります。

             次の項目に続きます。
❤〜SAKURA

3130トキ:2014/11/20(木) 09:41:50 ID:EQq/iyn.
御礼

 SAKURA様、a hope様、すばらしい御文章を紹介してくださり、心から感謝申し上げます。
多くの閲覧者様もお喜びだと思います。
今後ともよろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

3131SAKURA:2014/11/20(木) 23:24:03 ID:???
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こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
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>>3104>>3122>>3125>>3126>>3129 の投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 躓く刹那に光明に転向せよ ―その1―【 転載編 ―】*=======*=

■□われらはたとい躓くことありとも渋面せず、その瞬間起き上りて光明に面せんことを期す。!!

■人生にはいろいろのことが起こって来ます。それは無限創造の世界であるからでありま
す。われわれが自分だけの小さき立場から、かくあれかしと祈っても、事件は自分の欲す
るとおりに展開しないことがあります。しかしそれは神が諾き給わないのだろうか。否々
否、この時こそ神がわれらにいっそう大なる生長を遂げしめんためにわれわれの内部より
無限の力を引き出さんとしてその動機を与え給うているのであります。

 あまりに裕福な家庭に生まれ、欲しいものはすべて親より与えられ、なんの労苦なくし
ていっさいの必要品が贅沢に揃えられるというような家庭に育った子女たちは一面におい
ては誠に不幸な人たちであります。なぜなら、そういう人たちは、すべて善き物はこと
ごとく外からのみ与えられて、自分自身の内部から生み出す機会を恵まれないからです。

本当の幸福というものは、自分の内にあるところの善きものを生み出すことにあるのです。
他から与えられた幸福は他が立派な着物を着ているのと同じであって、自分自身の立派さ
でないのです。自分自身が立派になることのほかに自分が幸福になる道はないのです。自
分自身に力がつくよりほかに自分の強くなる道はないのです。

                 ―その2― つづく
❤〜SAKURA

3132a hope:2014/11/21(金) 09:16:30 ID:cEpBaIdo

>>3128 つづき) p35 後から3行目〜

日本国家は西洋の国家の様にバラバラの個人が民主主義の精神によって、ただ個人の幸福を得るための機関又は道具として、個人が代表者を立てて契約して、国家を形成したと云うような国家ではないのであります。

外国の国家は〝State〝(ステイト)と云う。「ステイト」と云うのは、「状態」と云うことである。

人間と人間とが生活をするのに、ただ個人ひとりずつでは淋しいし、或いは敵が攻めて来たり、或いは猛獣が襲って来たりする場合に、それを防ぐために個人では都合が悪いから団結をして護ろうじゃないか、と互に約束して、そこに或る集団状態があらわれた、これが state(ステイト)であって、訳せば契約国家とでも申しますか、そう云う単なる状態とは、日本国家は異なるのであります。

この日本国家は個人の利害関係の集国ではなくして「真理」を体現したところの「真理国家」なのであります。日本の建国は〝天孫降臨〝 にはじまると云うのは「天之御中(あまのみなか)」の理念の降臨にはじまると云うそれであります。

日本民族と云うのは、天之御中主神(あまのみなかぬしかみ)の理念を承(う)継いで、その生命(いのち)を出発さした、即ち「命(みこと)」の自覚に依って生まれた特殊な存在を保つ。

その「命(みこと)」即ち「命(いのち)」の本質は何処から出て来たかと云うと、天之御中主神なるところの、○を貫くところの、宇宙普遍の真理――其処から生まれたところの生命であるのであります。

そして其の宇宙を貫くところの原理は⦿(ス)の原理であり、中心帰一の原理でありますから、その原理の体現としての日本国は、中心帰一の理念が天降(まくだっ)て来て、〝中心帰一国家〝 と云うものを其処に形成することになったのであります。

理念が先にあって、理念が形として現成して国家となったのでありまして、人間の個々別々のバラバラが契約をして自分の都合のよいように拵(こしら)えた「道具」や「機関」としての国家ではないのであります。


天之御中主神の「中(みなか)」の理念が天降って、天孫降臨(理念の降臨)となり、それが具体化して神武天皇の〝八紘(はっこう)を字(いえ)と為す〝 (八方の国々を一家庭的邦(くに)とする)即ち世界連邦の基礎国家としての「大和」の国の建国となったのであります。
(つづく)

3133SAKURA:2014/11/21(金) 22:38:57 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 躓く刹那に光明に転向せよ ―その2 ―【 転載編 ―】*=======*=

■かかる意味において逆境はわれわれを鍛えて、われわれの中味の善さを出してくれる
冶金の坩堝なのです。坩堝の中へ投げ入れられて、われわれは鉛か金か、鍍金か本物かが
わかるのです。われわれは好んで逆境を招ぶのではありませんが、逆境がいかにわれわれ
を捉えようとも、それはわれわれをいっそう聖化し強化するところの機会だとして、内よ
り奮迅の力を揮い起こすものはついに大成して逆境を却下に蹂躪(ふみにじ)ることがで
きるのであります。

 されば逆境の来るごとに莞爾として微笑せよ。これは「生長の家」の生活であります。
微笑は心の中に光明を点じていっさいの苦難を耐え易(やす)からしめ、失われたる希望を
喚び(よび)起こし、再起の勇気を奮い立たし、暗黒なる生活を光明に転向せしむるのであ
ります。

キリストは「死にし者に死にし者を葬らせよ」と言っています。すでに来れる逆境を嘆いた
とてなんになりましょう。すでに来り終われるものは「すでに死せる者」なのです。
「すでに死せる者」について嘆いてみたとてなんになりましょう。
すでに来り終われるものを嘆き悲しむ暇あらば、莞爾(かんじ)として新しき幸福に突進す
べきであります。光明に満てる微笑こそはわれらによき運命の微笑を招ぶのです。
我れ渋面すれば運命も渋面するのです。

「嬉しいぞ、これから運命が開けるのだ。」苦難に捉われず、難関の来るごとに、莞爾とし
て微笑しつつ奮迅の勇気を奮い起こすものこそ生長の家の生活であって、必ずいかなる難
関をも征服して自己自身の力で幸福なる運命を建設することができるのであります。


                次の項目に続きます。
❤〜SAKURA

3134SAKURA:2014/11/22(土) 22:48:48 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 隣人を光明生活に活かせ ―その1 ―【 転載編 ―】*=======*=

■□われらはできる限り悩める隣人を扶けてその暗黒なる生活を光明に転向せんことを期す――

■人間は自己が幸運を築き上げたばかりで満足すべきではありません。

自己が幸福になったならばこの幸福を人に及ぼさなければなりません。
われらは肉体的に周囲の人とはなんの関係もない一個の孤立存在のように見えていまし
けれども、その実、われらはことごとく一体なのでありますから、周囲の人が本当に幸福に
ならない限りは、自分一個人も本当に幸福にならないのであります。

単に病気の問題のみからいってみましても、良人の病気が妻の心の反映から来ている場合は
ザラにあります。妻の病気が良人の心の反映から来ている場合もたびたびあります。子供の
病気が親の心の反映で起こっている場合もたびたびあります。

さらに祖先の霊魂の霊界での悩みが現実の世界の子供に不幸や病気を起こしていて、祖霊に
対して『生命の実相』の一節を読んで聞かせるだけで子孫の病気が消えたり、運命が好転し
たりしてくる場合がたびたびあります。

そのほか他人の嫉視憎悪反感がわれらに不幸をもたらし、それが解消することによって不幸が
消えてなくなることもあります。

このようにわれわれの肉体とおして離ればなれのように見えても、心の世界では一つでありま
すから、自分自身が本当に幸福であるためには、推し及ぼして周囲の隣人をも幸福にしてあげ
なければならないのであります。

ある場合には扶けてあげることもよろしい。しかし物質で扶けることは一時的の救助になっても
永遠の救いとはならないことが多いのです。物質で扶けてもらう習慣性がつきますと、その人の
他に頼る依頼心が増大し、かえってその人の永久の救いとならないことが多いものです。

ですから隣人を救うには、心に光明を点ずる方法を教えてあげる方がいっそうよろしいのであり
ます。
                ―その2 ―につづく
❤〜SAKURA

3135a hope:2014/11/22(土) 23:34:47 ID:cEpBaIdo

>>3132 つづき)p37 後から6行目〜

大和(ヤマト)の国は「大和(だいわ)の国」である共に、単なる集団の国ではない、天津日嗣(あまつひつぎ)の国である。天津日嗣とは、天之御中主神の「中(みなか)」の理念が天降(あまくだ)って来ることを言うのであります。

日嗣の「日」は「霊」であって「霊的理念」のことであります。「中(みなか)」の理念をさながらに承(う)け継いで、そしてその姿が国家として顕われたのが、「天皇を中心とするところの国家」である。

其処にある天皇の権威と云うものは、真理の体現者としての権威であって、決して個人が強いから天皇になって、その権力に依って人民を圧(おさ)えているのではないのであります。

そしてその天之御中主神の理念の実現としての真理国家たる日本軍の中心核体として其処に天皇が顕われていられるのであります。随って天皇を中心と仰ぐ日本国家の形態は、天皇の人民支配の手段としての国家形態というようなものではないのであります。

(つづく)

3136a hope:2014/11/23(日) 19:10:21 ID:cEpBaIdo

>>3135 つづき)

だから日本国は「天皇国家」であると云っても専制君主的なところは微塵もなく、宇宙の真理、即ち神意の地上顕現の至純至高の理想形態としての日本国家の形成であります。

天皇あるがゆえに人民あり、人民あるが故に天皇あり、天皇と人民とはその生命の本源に於て一体であり、それが、天之御中主神の理念に随(したが)って所を得ているのです。

どんな細胞にも、どんな電子にも、どんな太陽系統にも、みんな「中心帰一理念」と云うものが現れているのであります。国家だけが中心のないバラバラの存在であると云うことは宇宙意志に自然の発現にそむくわけであります。

その「中心帰一理念」と云うものが、現象界に天降ってきて自然に中心帰一国家を最も理想的に形成したのが日本国でありますから、日本の国家は「宇宙真理」即ち「神の御心(みこころ)」の地上顕現の最も純粋であり、最も高き形態としての国家であるといい得るのであります。
(つづく)

3137SAKURA:2014/11/23(日) 22:59:24 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 隣人を光明生活に活かせ ―その2―【 転載編 ―】*=======*=

■といって、全然「物質」で隣人を扶けるのが悪いというわけではありまえん。

「物質」で人を扶けてよい場合は、それは長途の坂道を重荷の車を曳いて疲労しきり、
もうそれ以上は一歩も車を曳いて上がる力もないし、といって力を一歩緩めたら車が逆転
してその人がはずみをくらって真逆様に谷底へ墜落しそうな場合です。こういう時には一時、
重荷を肩代りして曳いてやるのが、その人の内から力を喚び出すことになりましょう。

しかしその肩代りは暫時でなくてはいけません。常に肩代りして重荷を別の人が曳いて
やりますと、本人の筋肉は衰え、自助の勇気は減じ、依頼心は増長し、相手を扶けようと
して相手を弱めることになるのです。これは病気の時に物質薬で扶けるのも同じことです。

本人の体力が疲労困憊、みずから栄養を消化吸収する力なきある時期に、消火剤や栄養注射
やリンゲル注射が効を奏することもありましょう。
それは長途の坂道で疲れて転落しようとする人の重荷を代わって担ってやるのも同じことです。

しばらく他者(ひと)に重荷を肩代りしてもらっている間に、その人が活力を回復する――
その時再び重荷をみずから担うように、生命をみずから生きるように、重荷を本人の肩へもど
すことが必要なのです。

医者が薬を用いるのも、人生の行路に物質で扶けてあげるのも、よく相手を観察して
この心遣いが必要なのです。いつも物質を与えるばかりで人を助けるのは、年中消火剤を
与えて胃腸を丈夫にしようとするのと同じことです。

そんなことをすれば本人自身の消火液の分泌量は減ってしまうと同じように本人自身の
自活能力は減ってしまうのです。これでは人を助けたことにならないのです。
本当に助けることは本人自身の力を強め、価値を高め、その人格を向上さし、
神の子そのまま自主的完全さにまで生長せしめてあげることでなくてはなりません。

              ―その3―につづく
❤〜SAKURA

3138a hope:2014/11/24(月) 18:57:37 ID:cEpBaIdo

>>3136 つづき)

国家を単に国民が幸福になるための施設であると見て、個人が幸福になれないような日本国家ならつぶしてしまって、ソ連の様になった方が都合がよいじゃあないか。

アメリカのように大統領でもいいじゃあないかという人もあるそうで、鈴木茂三郎氏のことを或る党員は「大統領、大統領」と言って居たともききましたけれども、日本国家は大統領や書記長で治めようと思っても、それはいけないのです。

仮にアメリカが大統領でうまく治(おさま)って行ったとしても、ソ連が書記長でうまく行っておるとしても、そんな事はまた別の建国の歴史をもった他の国のことであって、日本には日本としての抜きさしならぬ歴史を背負った特殊性があるのであります。

日本民族というものが如何(いか)に何処(どこ)から如何なる自覚を持って生まれて来たか。古事記に表れたような民族神話をつくり「命(みこと)」の自覚を代々継承して今日に至る、そう云う霊的歴史的伝統のすべてを背負って、今此処に出現しているところの日本民族の特殊性というものを知らなければならないのです。
(つづく)

3139a hope:2014/11/24(月) 18:58:27 ID:cEpBaIdo
>>3138 つづき)

民族の特殊性を強調しますと、それは偏狭(へんきょう)であって、人類的でなくなるように思う人もありますけれども、実は決してそうじゃあないのであります。
どの民族でも、その民族固有の特殊性を完全に発揮することに依(よ)って、却って全人類が幸福になるのであります。

それは何故かと申しますと、吾々は人間でも、頭脳は頭脳としての特殊性を持って、その特殊性が「考える働き」であるとするなら其の「考える働き」という特殊性を頭脳が完全に発揮する時にはじめて人体が最も完全に、その生理機能を営むことができるのと同じであります。
手としての特殊性を完全に発揮することに依(よ)って人体全体が幸福になるのであります。

全ての世界各国の民族も、民族各々(おのおの)の特殊性をよく自覚して、その特殊性を発揮することに依って人類全体が本当に幸福になるのであります。

そう云う訳で、日本の国家にも其の個性的な特殊性がある。即ちそれは上述の如き真理国家であって、天之御中主神の理念そのものが実現している万邦無比(ばんぽうむひ)の国体であると云うことである。

今の中学生や高等学校の生徒に「国体」と言ったら、「国民体育」の略称かと思って、「真理国家としての国体」などと云うと何の意味かもわからぬ人がある。
真に残念な事でありますが、解り易く言いますと、其の〝国〝 の本来の在り方として内在する「国家理念」と言うものが国体であります。
「日本国の実相」と云ってもよろしい。
日本のそうした「国の本来の在り方」と云うものはまことに素晴らしいものなのであります。

即ち大和国(ヤマトくに)を基礎国家として、「六合(りくごう)を兼ねて都をひらき、八紘(はっこう)を掩(おお)いて宇(いえ)と為し」世界の国々をこわすことなく一つの家庭的つながりの国とする使命を内在する国家なのであります。

私たちがこのような国に生まれたことは実に有難いことであると云う自覚を持たなければならない。
その自覚は自分だけが持っていたら、それで足れりとするようなものではない。
この箇条の最後に書いてありますように、各自互に明確に自覚し合わなければならない。
「自覚し合う」のであって、互にその自覚を研(みがき)合い、「その行動の根拠となし合う」べきであると示されているのであります。

(第五条 雅春先生のご解説終わり)

3140a hope:2014/11/24(月) 20:19:34 ID:cEpBaIdo

>>3106>>3139 まで、「人類光明化運動指針」第五条とその雅春先生の解義を謹写しました。


よく本流の先輩方が「生長の家の運動」とは、「人類光明化運動」と「日本国実相顕現運動」であり、
どちらも「生長の家の運動」であるとご主張されています。

聖典「生命の實相」だけを勉強していると、「人類光明化運動」に関してはとても詳しく書かれているのですが、
後者の「日本国実相顕現運動」に関してはまったくといっていいほど書かれていないので、
わたしには「日本国実相顕現運動」というのが、具体的にどんなことをするのかまったくわからず、
「生長の家」が日本国に出現した本当の理由や日本民族の使命なども殆ど興味のない状態でいました。

今回、人類光明化運動指針を勉強していて、生長の家の「万教帰一の教え」が、
なぜ、日本国に出現したのかようやくわかってきました。


ところで、生長の家の著書には二種類あるのだと思います。

一つは、「生命の實相」を代表とする「聖典」であり、もう一つは「愛国書」なのではないかと思います。

生長の家の教えは日本国内にとどまらず、世界各国に広がり、「生命の實相」等の「聖典」は各国語に翻訳されて、
たくさんの外国人の方にも読まれているのだと思いますが、愛国書の方はどうなのでしょうか?


今回、「人類光明化運動指針」第五条を丁寧に勉強してみて、
たしかに、日本民族が「生命の實相」の真理を具体的な宗教という形で信仰して行くのであれば、
天皇信仰になるのが当然であるということがわかりました。


ですが、世界中の(日本国内であっても)キリスト教や仏教、その他の宗教を信仰されている方々には、
生長の家の「愛国書」に書かれているような、日本人の愛国心や天皇信仰は理解され難いのではないでしょうか?


「生長の家」の著書が「聖典」と「愛国書」にハッキリと分かれている理由はそこにあるのではないかと感じました。


そこで、雅宣先生は国際化が進む現代の日本において、
「生長の家」が日本民族独特の天皇信仰に固執していることを時代にそぐわないと判断され、、
愛国書の数々を重版停止にしたり、「鎮護国家」を「世界平和」にされたり、
世界的にも通用しそうな絶対神である天之御中主神を総本山にお祀りされたりしているというわけですね。


うーん、雅宣先生のお考え方もわからないではないのですが、やはり、そのような強引な変更は、
今迄真面目に「生長の家」を信仰してきた信徒の方々には心境的に受け入れ難いのではないかと拝察しています。

特に今回の「天之御中主神のお祀り」に関しては、わたしのような入信浅い信徒であっても、
「生長の家」の神聖な伝統が汚されてしまったようなとてもいやな感じがしています。



今日は、一日特別予定がなかったので、『生長の家の「人類光明化運動」と日本民族の特殊性について』を、
今迄謹写してきた「菩薩は何を為すべきか」の文章を抜粋しながら小見出しをつけてまとめています。

後で、こちらに謹写させていただきます。 合掌。

3141a hope:2014/11/24(月) 22:04:50 ID:cEpBaIdo

『生長の家の「人類光明化運動」と日本民族の特殊性について』をまとめたものは、
生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える/4 に、謹写させていただきました。

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1341453150/2879n-

3142SAKURA:2014/11/25(火) 23:00:30 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 隣人を光明生活に活かせ ―その3―【 転載編 ―】*=======*=

■ このように他を救うということは、金のある人がただ金のみをダラシなくやってさえお
けばそれでよいというような簡単なものではありません。それには深切なる心遣いというも
のが必要なのです。

ただ機会(チャンス)が儲けさせてくれた金をなんの思慮もなく振り撒いて歩くのが他を助
けることでありますならば、そんな人助けは自分自身を富ませることはできません。
それはただの「ダラシ無さ」です。『ダラシ無さ』は自分の知恵の貧しさ意思の弱さの現われ
でしかありません。
そんあことでは自分自身は生長しないのです。何事にでも賢き思慮が必要です。

「物質では短期間扶けよ。温かい愛では常に助けよ」とは生長の家の標語であります。
温かい愛はいくら常に与えても与え過ぎるということはありまえん。明るい希望に満ちた深切な
言葉、優しい眼光(まなざし)、愛情のこもった手紙、好意に満ちた握手、愛橋ある微笑、「何、
大丈夫だよ、」という激励、「愛する兄弟姉妹!」と呼びかわす言葉――これこそ永久に癖になら
ない魂の強壮剤であります。かかる光明を照らすような交わりこそ生命の泉であります。

その生命の泉に触れるときわれわれの衰えたる活力は蘇生(よみがえ)るのです。
これは、外のものに頼るところの依頼心の増長ではありません。われわれの愛が、相手の内に
埋蔵(かく)されていた無限の力を喚び起こすのです。これこそ本当に隣人への助けです。

生長の家の誌友は互に兄弟なのですから、ただひとり聖典を読んで高慢に他を批評するような
のは本当の悟りではありません。本当の悟りは人間互いに兄弟であることを悟って、互いに好意
の花葩(はなびら)を投げかけ合うことです。好意ある微笑、希望に満ちた光明の掛声こそ失意
のドン底にある人々にとってどんな物質的扶助(ぶっしつてきたすけ)よりも、大いなる助けに
なるのです。

 悟りとは、人を審判(さば)くところの鋭い知識のメスを研ぎすますことではありません。
悟りとは、広く大いなる明るい人物となることなのです。悟りとは山に籠って行ない澄まし
ていることではありません。市(まち)に下って誰にてもあれ、魂の光明を打ち開いてその光で
相手を包んでしまう人のことです。

               ―その4― につづく
❤〜SAKURA

3143SAKURA:2014/11/28(金) 22:17:42 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 隣人を光明生活に活かせ ―その4―【 転載編 ―】*=======*=

■われのわれの心が狭くなれば、われわれは生長したのではなく、縮小したのです。宗教
家が宗派で互いに相争っているのは醜いことです。彼らは「縮小」を「生長」と思い違いして
いるのです。誰にてもあれ、人を審判く(さばく)一つの尺度を持つようになったならば、
その人には「型」ができたのであり、「殻」を造ってその中へ入ったのであり、大きくなる
代わりに小さくなったのであります。
その時その人には人を排斥する力ばかり強くなり、容れる力がなくなって、味方となるべき
はずの人も逃げ去り、事業の発展は停ってしまうのであります。

 皆さんはただその人の側へ坐るだけでもなんとなく険しい、気詰まりな、憂欝な、窮屈
な感じを受け取る人がありましょう。またある人の側に坐ると春風駘蕩のような感じがし
て、何でも打ち明けて話したい、その人の胸に飛び込んで抱擁されたいような感じがする
ことがありましょう。これは人それぞれの人格の雰囲気でありまして前者のような感じが
する人は何事をやっても発達しない人であり、後者のような感じがする人は何事をやって
も発達する人であります。

 では、どうして人格の雰囲気にこのような相異を来すのであるかと申しますと、それは、
その人おのおのの心の習慣によるのであります。常に明るい打ち開いた秘密のない朗らか
な心をもち、深切な言葉、優しい微笑を投げかける習慣をもちつづけているものは、終に
はそれが習い性となって、誰にも頼られるところの温かい柔かい雰囲気を放散する大人物
になることができるのであります。かかる人物は何をやってもそれを扶ける人々が集っ
て来、その仕事を成就するために働いてくれるのであります。

 これに反して、美点を見出す代わりに常に鋭く人々の欠点を見つけ出し、何でもその人
の口にかかったら、陰口や、誹謗や、不平の種にならない物はないというような人々は、
どんなに知恵者で頭脳が発達していましても、その人の行くところい冷たい雰囲気が
漂い、人々が叛き去り、運命も彼に対しては酷薄となり物事成就せんとして破壊するに
到るのであります。人を生かす者は自分も生き、人を殺す者は自分も殺され、他の欠点を
指摘する者は、自分の欠陥をも審判かれるのであります。

                  ―その5― につづく

❤〜SAKURA

3144SAKURA:2014/11/29(土) 22:45:56 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 隣人を光明生活に活かせ ―その5 ―【 転載編 ―】*=======*=

■もし、あなたの生来(うまれつき)が冷淡な鋭い性質の人であったとしましたら、努めて、
心を温かくし、円満にし、できるだけ人の美点を見るように努め、出す言葉もできるだけ
丸味のある柔かい深切丁寧な言葉を出すようにしてごらんなさい。
あなたの周囲がどんなにか光明化することでしょう。

今まであなたに冷淡であった人々が深切になり、今まで強情であった家族が従順になり、
今まで冷たい沈滞した空気に満ちていた家庭や事務所が温かい繁栄にの気に満ちたところ
となるでしょう。

そしてそこは生長の家となるのです。

 生長の家とはわたしの家の名前でもなければ、また「生長の家」という表札を出してある
大きな建築物をいうのではないのです。心の法則に随って宇宙生々の雰囲気を漂わしている
皆様自身の家庭が生長の家なのです。そういう家庭の満つる国家は、「生長の国家」であり、
全世界がそういう国家ばかりになったら、地上に天国が成就したことになるのです。

何でも一歩からです。まず一人が和顔愛語の「生長の人」になることが肝腎です。顧みて自
分が和顔愛語の人たらずして、人の好意と深切とを受ける雅量なく、順序を誤ったからど
うだとか、体面にかかわるからどうだとか、手続きにまちがいがあるからどうだとか、形に
あらわれている一つ一つの欠点を拾い上げて、相手を審判(さば)いているようなことでは、
あなたの事業は生長の家でなくて伸びるべきものも伸びなくなるのですあから、この点大い
に御注意ありたいのであります。
                ―その6 ―につづく。

❤〜SAKURA

3145トキ:2014/11/30(日) 19:15:37 ID:ZDU4CADo
 素晴らしいご投稿、ありがとうございます。
続きを楽しみにしております。

3146SAKURA:2014/11/30(日) 22:38:11 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 まず自分に深切であれ ―その1 ―【 転載編 ―】*=======*=

■□われらは自己の好むところを他に施し、自己の好まざるところを他に転嫁せざらんことを期す

■この「生長の家」の生き方はどこから出てくるかと申しますと、われわれの実相から出て
くるのであります。自分の好まないところを他人に施さず自分の好むところを他人に施す、
これは実践道徳上の最も根本となる指導原理であります。

生長の家では「自分に深切であれ」という金言があります。
世間普通の道徳では「他人に深切であれ」というのでありますけれども、生長の家ではまず
「自分に深切であれ」というのであります。キリスト教の聖書にも「己を愛するがごとく神を愛せよ」
あるいは「己を愛するがごとく隣人を愛せよ」といううような言葉がありますが、
この聖句を考えてみますに、「己」というものが、神を愛し隣人を愛する基準になっているので
あります。

神を愛するのも、己を愛するのも、まず「己を愛するがごとく」でありますから、
もしわれわれが本当に自分を愛することができなかったならば、本当に神を愛することも、
また本当に隣人を愛することができないのであります。

それで、われわれの道徳の根本基準になるのは、いかに自分を愛することができるか、
という程度にあるのであります。
それでは「自分自身を愛する」とはどういうことであるか、と申しますと、
自分というものを最も尊敬すること、自分の実の相を本当に知って尊敬することであります。
自分の実の相が神の子である、あるいは仏の子であるということを根本的に知ることこそ、
自分を本当に愛するということになるのであります。

                  ―その2 ―につづく
❤〜SAKURA

3147SAKURA:2014/12/01(月) 22:51:22 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 まず自分に深切であれ ―その2 ―【 転載編 ―】*=======**========*

■普通世間の人は「自分を愛する」といえば、自分が金儲けするとか、あるいは地位や名誉
を得るとか、そういう利己的なことで得をすることを「自分を愛する」ことだと思っていま
すけれども、それは本当は自分を愛するものではないのであります。

自分自身を愛するということは、自分自身を最も大きく観るということであります。
この自分自身を最も大きく観ることができる人にして、はじめて他の人をも最も大きく
観ることができるのです。

自分を愛する程度にしたがって本当に他をも愛することができるのです。人間なんてつま
らないものだと考えて自分を軽蔑している人は、その同じ人間であるところの他人をも軽
蔑する人であります。

 われわれはよく、お客さんが来られますと、煙草の好きな人にはさっそく煙草盆を出し
ます。それから甘いものの好きな人には甘いお菓子を出します。わたしの例をとってみま
すならばわたしは今は食欲が正しくなって甘いものをあまり好まなくなりましたが、前に
は甘いものが大変好きでありましたから、煙草の好きな人が来られても煙草盆を出すこと
には気がつかないで、「お菓子を持っておいで……」と命令してお菓子を出させたもので
あります。

そうすると、お客さんの方から、
「ちょっと済みませんが、煙草盆か灰皿かを貸して下さいませんか」と請求される。
そうして「ああこの人は煙草が好きなんだ」と思って気がついて灰皿を出すという始末です。

ところが私自身は煙草の煙は大嫌いなんです。
嫌いなものだから、嫌いなものを人に与えては済まないというような気持がするものです
から、甘い美味しいお菓子をあげようというつもりで、甘いお菓子を出すのですけれども、
その相手の人が甘いものが嫌いで、煙草が好きだというような場合には、こちらのせっ
かくの好意が無駄になるというようなことが往々にしてあるのであります。

               ―その3 ― につづく
❤〜SAKURA

3148SAKURA:2014/12/02(火) 22:04:38 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 まず自分に深切であれ ―その3―【 転載編 ―】*=======**========*

■ある時わたしが大阪にいる中學時代の友人のところへ久し振りに訪ねて行ったことがあ
りましたが、中學を出てから十年以上も逢わないでおりまして、突然そこの家へ行きまし
たら、その友達が大変喜んでくれまして、大きな湯呑に茶を入れてわたしの前へ置いてく
れたのであります。

わたしは茶を飲むのが大好きで、それも煎茶茶碗の底にひっついているようなのは嫌いで、
大きな湯呑にたっぷり入っているのを、なみなみと呑むのが好きですから、
「この友達、さすがに古くからの友達で気がきいている」と思いまして湯呑を取って飲ん
でみると、茶であるかと思いのほかそれは酒だったのであります。

この友達は学校卒業後たいへん酒が好きになって、近頃で茶の代わりに酒を飲んでいる――
そういうふううな人であるのでありますから、その人にとっては自分は酒が大好きであるから、
酒を饗応することは、最も隣人を愛する所以であるとこういう具合に思うておられたのであり
ます。

こんな具合でわれわれは自分を大酒飲みだと思ったら他人をも大酒飲みのように愛する。自分を
甘党だと思ったら、甘党のように愛する。そして自分が神の子だと思ったら神の子のように愛する。

なんでも自分が基準になるのでありますから、われわれが本当に隣人を愛しよう、兄弟を愛しよう
と思うには、自分自身が本当に高くなり、自分自身をいかに愛するかということを知らなければなら
ない。そうでなければ、愛しているつもりで相手を突き落としていることがあるのであります。
                 
  ―その3― につづく

❤〜SAKURA

3149SAKURA:2014/12/03(水) 23:03:17 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 まず自分に深切であれ ―その4―【 転載編 ―】*=======**========*

■先日ある誌友が来ておられまして、女の方でありましたが、「自分の子供がどうも利己
主義であって人には良いものを寄越さないで自分が一番いいものを取ろうとする、これを
どういうふうにして直したらいいものでしょうか」というふうな質問をされたのであります。

それでわたしは「それはあんた自身の心が映っているのでありませんか、あんたはこれは
自分に一等良い、一番良いと思うものを、本当に取りたくありませんか」と言いましたら、
その御婦人は腑に落ちぬような表情で、どこが自分が利己主義なんだろうかというような
表情で、ちょっと考えておられたのであります。

それでわたしは、「もしあんたの坊ちゃんが今度中學学校へ入学試験を受ける、そういう時
には自分は一番良いものを取りたくないのだから、できるだけ下の点数を取って落第する、
こう言われたらあんたはどうせられますか」とお尋ねしたのであります。

それにはその婦人お困りなった。やはり自分の子供は一番良い点数で入学させたい、自分の子が
一人入学すれば、他の一人は落第するのだけれど、それは仕方がたがないと思っていられる。
それにかかわらず、自分の子は利己主義で困るといわれる。その人にとっては道徳の標準という
ものが本当には決まっていないのであります。ある場合には、自分の子供が一番良いものを取る
ことは利己主義で困ると思うているが、そうかと思うと学校入学の席順は他を突き落としても
自分の息子は一番良いのを取ってくれなければ困る、とこう思うておられる。

こんなことでは本当に他を愛するということはできないのであります。ところが
この本当に自分を愛する、あるいは人を本当に愛するということは、そういう
一つ一つの行為について、一番良いものを取るからいけないの、一番わるいものを
取ろうと心掛けなにのがいけないのだというふうなものではないのでありまして、
根本にわれわれは自分自身を本当に愛するということから出発して行く時に、はじめて
隣人をいかに愛するべきかということがわかるのであります。

自分自身をいかに愛するかといえば、自分を神の子と感じ、自分を仏の子であると感ずる、これ
が本当に自分を愛することなのであります。自分を本当に神の子だと感じ、自分の子供も神の子
だと感じ、他人の子供も神の子だと感ずるようになりますと、受験にだって自分の子供が正々堂
々と一番良いものを取ってもいいことがわかる。みだりに他にセンチメンタルな愛情によって、
実力が出ないうちに、試験にお情落第させてもらうような卑怯なことを、相手の神の子にさせよう
とは思わなくなる。みんな一番良いものを取ってよいということがわかるのであります。

自分の子も神の子、他人の子も神の子ということになれば、少しも依怙贔屓のない道徳が確立する
のであります。

              ―その5―に続きます。

❤〜SAKURA

3150SAKURA:2014/12/04(木) 22:29:52 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 まず自分に深切であれ ―その5―【 転載編 ―】*=======**========*

■ある人が、自分を豚の子のように思って軽蔑し、そうして自分の子供をも豚の子の
ように軽蔑していい罵っておったら、その子供が豚の子のように蒲団の上で寝小便
するようになって、親の心が一変するまでは、それがどうしても治らなかった。
それが人の子を「神の子」だと考えていないで豚の児のように考えていた。その考えが
治らなかったからです。

その点を生長の家の講師が指摘して、
「あんたは自分の子供を豚の子のように思っているから、それで寝床に寝小便するので
すよ。そんな豚の子のように人間の子供を軽蔑してはいけない、自分の子供は「神の子」
であるということを本当に思いなさい」と言って諭されたら、その晩から豚の子が本当の
「人の子」になって寝床に小便ををしなくなったという実話がありますが、結局(つまり)、
この自覚が大切であります。

われわれは自分自身が神の子であるということを、ともすれば忘れがちであります。
自分自身が「神の子」であるということを忘れるがために、相手もまた神の子であると
いうことを忘れてしまうのであります。

自文自身が仏であるということを忘れてしまうから、相手もまた仏であるとうことを
忘れてしまうのです。そういうことでは本当に自分を愛することもできなければ、
他をも愛することができない。

それでは
「己を愛するがごとくに隣人を愛せよ」
あるいは「己を愛するがごとく神を愛せよ」という教えを守ることができないことに
なるのであります。

 それでですから、本当に自分を愛するというのは、自分自身を最も価値あるものに
すること、自分自身を最も高き価値まで繡(たか)め揚げるということにほかならな
いのであります。

では、自分を最も高き価値まで繡め揚げるとは、いったいどうすることであるかと
申しますと、必ずしも学校で一番の成績をとるということではないのです。
自分が「神の子」になり、「仏」になるということである。

すでに「神の子」であり「仏」であるところの人間の実相(ほんとのすがた)を、
「今」自覚すること――これがいっさいの信仰の、いっさいの道徳の中心になり、
出発点になるのであります。

キリストは聖書の中で「神の子」というところを「人の子」といって両語を混雑して
使っていますが、これは、本当に「人の子」は「神の子」であるという自覚からくる
のです。

自分が神の子であり仏であるということを知らなければ、すべての道徳は中心を失い、
柱を失ってしまって、どうしてよいかわからなくなるのであります。

 ―その5―に続きます。
❤〜SAKURA

3151SAKURA:2014/12/06(土) 21:36:12 ID:???
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こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 まず自分に深切であれ ―その6―【 転載編 ―】*=======**========*

■では、仏とは何であるかと申しますと、これは解けることである。
いっさいの縛りとなるもの、いっさいの凝りというものから解けてしまって、解脱した状態に
なってしまう――その解脱(ほど)けた状態、これが仏であります。

この自分自身が解脱した状態になって、自由自在な窮地になって、その自由自在な境地を愛する
ことができて、はじめて他の人々の人格の自由を完全に生かす愛ができてくるのであります。

 ですから、われわれはまず自分自身をはっきりと把(つか)まなければならないのであります。
自分自身が神の子であり、仏であるということをはっきり把んでしまって、何ものにも執われ(とらわれ)
ない、自由自在な相というものを自覚して、そうして自分は神の子であると自分自身を愛し礼し、
己を愛し礼するごとく、そのごとく他に対して、神の子として、仏として尊敬し、敬い、人の内に
宿っているところの実相――神性というものを生かしてゆくようにする、これが本当に自己を
愛するごとく他をも愛するということなのであります。

 ですから、自己を愛するかのごとく人を愛するということは、要するに自分と他とが一つで
あるという根本実相(ひとのほんとのすがた)から来るのであります。自分と他とが一つである。
自分と他とが一つでなければこの愛ということは成り立たないのであります。

自分と他とが全然別のものであったならば、自分の喜びが他人(ひと)の喜びであると
いうはずがない、他人の悲しみが自分の悲しみであるというはずがないのであります。

 ですから、われわれがじぶんの好むところを他に与え、他(ひと)の欲せざるところを
他に転嫁しまいと思うのは、要するに自分というものと他人(ひと)というものが、本来同じもの
である。

同じものであるから同じように感ずるものであるという根本的な直観的認識から来るのであります。
この「自他一体」の直感認識がなければ道徳的価値評価というものは成り立たないで
いっさいの行為はバラバラで道徳的にはなんらの価値もないということになるのであります。

このように道徳とは自他一体の直感認識から始まって、自分の喜ぶ状態に他をもしてあげたいと
いう願いに始まるのですから、自分の実相が仏であること、そしてこの仏のの相とは何ものにも
縛られない自由自在なものであるということを自分自身に自覚した人のみ、本当に人々にも
その人の実相すなわち仏を自覚せしめて、いかなる外のものにも縛られない自由自在なる状態を、
その人に施してあげることができるのであります。

この自由自在な無畏の状態を施してあげることが仏教では無畏施といって施しの中でも
最も尊いものとなされているのであります。

               ―その7―につづく

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3152SAKURA:2014/12/07(日) 23:15:34 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 まず自分に深切であれ ―その7―【 転載編 ―】*=======**========*

■さっき申しましたように、甘いものの好きな人は甘いものを他に与え、煙草の好きな人
は煙草を他に与える。そして自分自身の自由自在な実相の好きな人は実相を他に与えるの
であります。

 ところが誰でも、本来自由自在なのが実相(ほんとのすがた)なのでありますから、
自由自在の境地を求めない人はない。煙草の好きな人も本当は煙草そのものが好きなのでない、
なんとなくぎコチなく淋しく自由自在な感じが失われている、その感じをごまかすために
煙草を喫み酒を飲むのです。

金の欲しい人でも、金のそのものが欲しいのではない、金があると自由自在になんでも
ふるまえると思うから金をほしがるのです。ところが金を持っても酒煙草を喫んでも、
それに執(とら)われたらかえって自由自在が失われる。

金に執すれば金に縛られ、酒煙草に執すれば、酒煙草の奴隷にせられてしまう。
これでは、もともと自由自在を求めたのが何にもならない。自由自在を求めてかえって
不自由自在を得たことになるのです。

 ですから自分が真に自由自在に解脱した喜びというものに得たならば、
われわれは全人類の得(え)んとして目指しているこの喜びを人々に与えなければならぬのです。
これが自他一体の真理なのです。そうしてここに自分が仏の実相を鳴り出せば、かたわらにいる
人々の内にある仏が鳴り出すということになるのであります。

これは釣鐘の共鳴のようなものであって、二つの釣鐘を並べて置いてこちらの釣鐘をゴーンと
撞くとその隣の釣鐘もゴーンとまた共鳴して鳴り出すのです。それは、一人の人の実相の響きが
鳴り出す時は、「一切衆生仏性あり」で、他の人々の中に宿っているところの仏性が鳴り出して
表面に顕われて顕在的になるのであります。

だから人を悟らすには、まず「自分は神の子だ、仏の子だ」と気づいた人が、そうであると
いうことを言葉に出してガ―ンと鳴り出すということが必要なのであります。そうすると
その隣の鐘――否、その付近にいる人たちもやはり自分のうちにある尊き仏性がガ―ンと
鳴り出して顕在となり、またその響きがさらに共鳴を起こして、すべて人々、到るところに
仏が現われて来るということになるのであります。

そしてすべての人々悉く仏性が顕われ、これが本当に隣人を愛するということになるのであります。
それでその次の第十二条にはこう書いてあります。

              次の項目につづく
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3153SAKURA:2014/12/11(木) 22:48:45 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 真理を伝えるのは愛の道 ―その1―【 転載編 ―】*=======**========

■□  われらはすべての人類をして健康と幸福と安住との生活を得しめんがため、この光
明思想「生長の家」をひろめ全人類に真理を伝えんことを期す。

 さて、この光明思想「生長の家」を人類に弘めるということは、何も自分が物質的利益
を得るために弘めるのでもなければ、自分は人に道を説くところの第一番の高き導師であ
るという名誉心を満足せしめるために弘めるのでもない。

ただわれわれは、自分が仏であるという自覚を得たときに、そうしてまた他の人々も同じく
仏であるということを知った時に、その仏であるべき人間が仏でないような相の現われてい
るのを見た時に気の毒になってたまらない、自分も仏である、あの人も仏であるのに、あん
なに仏でないと思って、あんなに貧しい相をし、あんなに病める相をしている、あんなに悲
しい相をしている、どうも気の毒でならない、とこう気がついた時に、どうしてもその人に
仏であるという実相を知らしてあげなくてはならない衝動に駆られるのです。

これは結局「自分と他とは本来一体である」事実から出て来る衝動であって、自分が仏であ
るということがわかったら相手に対しても仏であるということを知らさずにおれない。

自分が神であるということがわかったら相手に対してまた神であるということを知らさず
にはおれない――これが自他一体の愛――仏の愛であり、神の愛である。そしてそれを実行
するのは菩薩の行であるわけであります。

 ですから、この「生長の家」を弘めるというと、何か雑誌を弘めるというようにお考えに
なる方もあるかもしれませんけれども、これは雑誌を弘めるのでない、「仏」を弘めるので
ある、「神の子」をひろめるのである。すべての人間を「仏」にし、「神の子」にする言葉の
響きを弘めるのであります。

キリストは路傍で説教した。日蓮は辻説法した。これは何も自分自身のためにするところ
の運動ではない。辻で説法するのは下品だとか何とかいっておれないのは人類を愛するから
なのです。

すべての人間を、われ自らのごとく愛するから、その悟った真理を伝えずにはいられないので、
世間から見た格好が、悪いのいいのといってはいられないのです。自分自身が「神の子」であ
り「仏」であると悟ったらそれを全人類に弘めなくてはいられない。ですから今までいろいろ
宗教が現われてきておりますが、すべての教祖はその已み難き衝動に駆られて「仏」を伝え、
「神の子」を伝えたものであります。

                 ―その2―につづく

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3154SAKURA:2014/12/14(日) 22:35:59 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 真理を伝えるのは愛の道 ―その2―【 転載編 ―】*=======**========

■しかしそれぞれその時代、その環境に応じて、その教えを伝え弘める形式は変わってきた
のであります。

過去の時代には、通信機関や印刷機関が不便でありましたので、おおむね直接説法によらなけれ
ばならないから、説法のコトバの力で「仏」を大量生産することができなかったのであります。

ところが、現代においてはこの「生長の家」が出現して、印刷物によって「仏」をヒビキ伝えると
いう不思議な、時代応現の用(はたらき)というものが出てきたのであります。現代のようにこんな
人口が増え、そうして学問が進歩し、印刷術が発達している時代に、今までのような姑息な、
単に教会という一つの建物、あるいは寺院という一つの建物の中で牧師や坊さんが喋っていると
いうだけでは、なかなか人間全体に「仏」を伝えることはできないのです。

ですから、この時代に最も相応(ふさわ)しく、活字の力というもの、印刷の力というものを以て、
また大量生産的に「仏」の響きを出させて、したがってまた大量生産的に救われるということに
なったのであります。

                ―その3― につづく
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3155志恩:2014/12/17(水) 05:03:21 ID:.QY5jUA6
谷口雅春先生著『新版 女性の幸福365章』より


すべて偉大なる人格の特徴はその人の包容力の広さである。
寛容の徳は母たる者に必須の徳性である。

心広き者は決して金切声を出さないし、粗野な荒々しい振舞をしないのである。
愛の完成は心広くしてのみ<遂げられる。

愛がありながら、心狭きときは、愛が捩れて憎しみと変わる。
どんな時にも憎しみや嫉妬に変化しない愛こそ純粋の愛。

3156SAKURA:2014/12/17(水) 22:51:35 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 真理を伝えるのは愛の道 ―その3―【 転載編 ―】*=======**========

■そんなわけで、この「生長の家」から出る出版物は、活字を組んで(なら)べてあるだけであります
けれども、その列んでいる言葉そのものは「仏」のヒビキでありますから、解脱して自由自在になった
生命のヒビキでありますから、『生長の家』がある誌友のところへ着いただけでその誌友の病気がよく
なったとか、あるいは乱視が治ったとかいうふうな不思議なことも往々起こってくるのは、「生長の家」
の出版物が単に活字を列べて紙の上に印刷してあるというだけのものではない、そこに文字「仏」の自
在無礙の響きがあり、言葉に「神の子」の解脱の響きがあるからであります。

その言葉の響き、文字の響きを全世界に弘め、これによって全世界が光明化され、それを受け取りそれを
読んだすべての人が自己のうちに宿っている仏の響きに共鳴して、発見されて、そうしてみなみな自分が
仏であるということを自覚することができる。こうなれば「仏陀」の大量生産が成就するのであります。

 この間、伊藤三郎さんがわたしのところへ『日蓮主義』という雑誌を持って来て下さいました。それは
ニ、三日前、ここで伊藤三郎さんがお話しになった逗子に住んでいる人から伊藤三郎さんに送って来られ
た雑誌なのだそうであります。あの話はこうであります。

ある日伊藤三郎さんを訪ねて来た旧友がある。その旧友が伊藤三郎さん自身では引き受けることを躊躇し
なければならないと思われるようなある重大な仕事に一肌脱いでほしいと頼みに来られたそうであります。

その知人に会ってみると、その顔がなんとなく明るく輝いて見えるので、ちょっと躊躇するよな大仕事
なのだけれどもなんとなく引き受けてもよいかも知れぬという気になり、一つ神意に問うてみようと別室
に退いて神想観をされた。

するとその仕事を引き受けてもよいという霊感があったので、伊藤さんは自分の奥様に相談なさると、伊
藤さんの奥様は「神さまからそういう霊感があったならば、引き受けておやりになさい」と言われました
ので、またその逗子からの旧友のところに出て来られて、「では、その仕事をお引き受けしましょう」と
言われた。

そして「実はあなたに上げたいと思って署名した本がここにある。ちゃんとあなたの名前が扉に書いてあ
る」と言って『生命の実相』をお上げになったら、その旧友はその『生命の実相』を見て大変お喜びにな
って、実はわたしは「生長の家」のことは『生命の藝術』という雑誌を新聞広告を見て無代進呈してもら
って読みましたら、今まで信仰していた日蓮上人の教えの神髄を深く穿ったものと感じて、非常にありが
たく思いましたので、それに書いてある神想観の説明、これさえあればよいというので、一生懸命、
神想観の歌を暗記していました。

すると自分の長らくの喘息が治ってしまいましたのでまったくありがたくて『生命の実相』を欲しい欲しい
と思っていました。欲しい物が集まって生長の家の無限供給が成就したのです、というわけです。

             ―その3―につづく
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3157SAKURA:2014/12/21(日) 20:50:38 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 真理を伝えるのは愛の道 ―その4―【 転載編 ―】*=======**========

■この方はただ今、名前を思い出しましたが村田武一郎という方です。
この村田さんから最近伊藤三郎さんへ「日蓮主義」という雑誌を送って来られた。
実はこの中に「生長の家」の攻撃が書いてある。

その攻撃というのは「生長の家」は日蓮主義と同じことだというのです。
日蓮主義と同じものに「生長の家」という名をつけて新聞に大袈裟な広告をして自分の一派の
宗教に引き込もうとしているというのが攻撃の材料になっているのです。

それに対して村田さんは自分の救われたお礼に反駁分を書いたからそれを見てほしい、これで
よいかと付け加えて書いていられるのです。その反駁分にはこう書いてあります。

「自分は元来日蓮宗であるのに日蓮宗のありがたいことがわからないで、あまり熱心でなかったが、
『生長の家』を読むようになってから日蓮宗が本当にありがたいと解っていっそう日蓮宗に熱心に
なった。この事実を見てもッ生長の家は自宗に引きつけるような宗教ではない。

すべて宗教の神髄を穿っているから、どの宗派の人が見ても、自分の宗教と同じことを説いて
いると見えて、かえって自分の宗教がありがたくなるのである。宗教とは結局、同じ救いに導く
ものであるから、どの宗教から見ても自分の宗教と同一真理を説くものだと認められるぐらいで
ないと本物ではない。

ひんぴん新聞に大袈裟に広告するのが、あまり大袈裟で、宣伝じみてきるというの当たらない。

今もし日蓮上人がこの世に出て来られたらならば、辻説法のような緩慢なことをして、少しの人を
集めて道を説き少数の人類しか救わぬというようなことはしないはずである。必ずや谷口先生と
同じような大袈裟な、出版機関を利用し、新聞を利用し、講演をりようしあるいはラジオを利用し、
文明の利器をできるだけ利用して、できるだけ大袈裟に宣伝して大衆に達するようにし、一日も早く
この真理を全人類に伝えるように努力せられたにちがいない。

新聞広告をして宣伝じみて外聞が悪いとか、辻説法をして乞食坊主にまちがえられて外聞が悪いとか、
そんな自己の名聞なんて考えている暇がない、それが捨我精進(しゃがようじん)であって、
あらゆる機会をことごとく見のがさないで仏を伝えるように努力するのが、これ自己が仏を悟った
人の道である」
というようなことをその反駁分に書いて、その雑誌と一緒に送って来られたのであります。
                   ―その5―に続く
❤〜SAKURA

3158SAKURA:2014/12/21(日) 20:51:51 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 真理を伝えるのは愛の道 ―その5―【 転載編 ―】*=======**========

■この村田さんのおっしゃるように、われわれが真理(ほとけ)を知ったならば、それをできるだけ
多くの人に伝えるということがこれ仏様の働きである、方便としてあらゆる機会を利用して宣伝する
――決してこれは利己主義の働きじゃないのであります。

これはすべての人の実相を生かす最も尊い仕事でありまして、それには時代相応のいろいろの手段、
方便ということが必要なのであります。あるいは光明思想普及会の新聞広告が、病気の治った礼状が
たくさん出ている、治してもらった体験談がたくさん出ている、まるで「有田ドラッグ」のようで
あるというような攻撃をなさる方がある。

しかし。「有田ドラッグがどうして悪いのか」というと、何もわるいという理由はない、有田ドラッグ
もなかなか言葉の力を巧く利用してそうして薬を売っている。薬を売っているだけじゃなにのであって、
あれは半分は光明思想である。有田ドラッグの広告を読んでみると「病気は薬では治らぬ、精神の持ち
方や信仰によってなおる」と書いてある。

そうして付けたりに、その薬を飲んだらいっそう良く治るということをいって、精神療法、信仰療法を
勧めて、心の作用で病気を治しておいて、その治った治験例を掲げて、薬で治ったように装い薬代だけ
を有田の方へせしめている。

「病気は自然が治して、謝礼は医者が取る」という諺がありますが、これは「病気は心が治して、
治ったお代薬屋に払う」というようなことになっているのでああります。だから有田ドラッグは
なかなか賢い、必ずしも世の中に害毒ばかり流しているということはないのであります。

世間には病気が治るということを新聞に発表すると何か下品なことのように思うている人があるが、
これは実にまちがったことであります。

              ―その6―につづく
❤〜SAKURA

3159SAKURA:2014/12/27(土) 22:25:04 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 真理を伝えるのは愛の道 ―その6―【 転載編 ―】*=======**========

■というのは医学博士が病気を治したという治験例をば医事雑誌にずっと並べたら、誰が
下品であるといいますか。医学博士が動物をいろりろと解剖してみたり、物質的の実験を
やってみたりして形而下(けいじか)のことを列べて、形のある物質を使用して病気を治
した実例を列べますと、大衆はいかにも仰々しく科学であると嘆称(たんしょう)するの
でありますが、それならば、生長の家が薬を使わないで、ただその発行書を読んだだけで
病気が治るというような、在来の常識を覆すような治験例を発表しえたならば、これは医
学博士よりもいっそう偉大なるものであるといって、皆さんは讃嘆しなければならないは
ずなのであります。

それにもかかわらず、病気の治験例を発表するということはこれは下品である、有田ドラ
ッグのようであるなどということは、実に偏見に執われた批評なのであります。むしろ新
聞に発表して下品なのは人殺しや盗賊や強姦やいろいろの悪徳の記事である。

病気の流行るというような恐怖をそそる記事も人々に熱感を与えて下品である。

しかしそういう記事をのせている新聞を見ても下品だと言わないで、どんな病気でも心の
持ち方で治るという気持のよい治験例を発表する記事を下品視するのは人間の頭が悪い
からであります。

                       ≪その7≫につづく
❤〜SAKURA

3160るん吉:2015/01/02(金) 12:15:42 ID:p..UGkhA
神様以外のものや実在でもない現象を相手にして解決の方法を研究するところ

ではありません。神一元、實相一元の教えでありますよ。

今あなたは神様以外のものや、ありもしない現象の出来事に心を奪われて、慌てて行き詰っておられるではありませんか。

そんな生長の家はありません。それでは生長の家を知らない世間一般の人と同じで、

全然生長の家になっておりませんよ

                       藤原敏之先生の御著書「あなたは必ず救われる」より

3161るん吉:2015/01/02(金) 12:28:52 ID:p..UGkhA
SAKURA様

明けましておめでとうございます。

沢山の投稿をされていられますね! 今、読ませて頂いてました。

SAKURA様も、今まで色々嫌な事があったのですね?(ゾンビ野郎とかひどい奴に出くわしてきたのですね)

しかも、それで耳に障害が残ってしまわれたとは、どんなに悔しい出来事でありましたろう!

自分がそうなったら。SAKURA様のように明るくふるまれるかな?と思います。

あと、sakura様は、すごい正直な方ですね。(そこまで言っていいんかい!て思うほど)

なんにしても、貴女はすごい良い人です。読んで色々解りました。

パートナー様にも、よろしく。外に出れるようになった(雪の具合)ので出かけようと思います。

今年もよろしくお願い致します。

3162SAKURA:2015/01/02(金) 21:02:35 ID:???
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 真理を伝えるのは愛の道 ―その7 ―【 転載編 ―】*=======**========

■釈迦が悟りに入られた最初の動機は何であったかと申しますと、生・老・病・死の四苦
を観て、これを解脱することを考えなくてはならないということを思いつかれて、そうし
てそれを解脱する道を得られたのであります。われわれが生老病死の四苦につまずくこと
によって、それを機縁として、自分の実相が仏であるということを悟らせられるというこ
とは、実際釈迦でさえもそうであったのであります。いわんや、われわれがこの病気とい
うもの、あるいは生活難というもの、人生苦というものなどに臨んでいる――その契機を
利用して、それを解決する道がここにあるということを広告によって知らして、そうしてわ
れわれの団体へ呼び寄せてきて、真理を知らせ実相を悟らせるということはこれ実に仏さ
んのあるがたい慈悲の現われであるといわなければならないのであります。人はこの病気
の治るという治験例を発表することはいかにも下品なこととお考えになるのであります。

そして、われわれも、物質なる肉体の治るとか治らぬとかいうような小さいことを問題に
していないのでありますけれども、物質上の御利益などは問題とするに足らぬと思いなが
らも、現世の苦悩に悩んでいる人がある以上、その現世苦悩の低さまで降りて行ってあげ
なければ人を救うことができないので、それで上品だとか下品だとか、そういうことを考
えないで、自分もいったん人の所へ降りて行って、病気本来無いということを知らせ、病
気が治ったという治験例を発表して、一般の人に呼びかけ、病人に呼びかける、救わるべ
き相手は迷える人、病める人である。迷っている人にはしばらく迷いの相を現わして、そ
うしてそれらの人を一段高い所へ引き上げるというのが仏の自由自在な慈悲の働きなので
あります。

                 ―その8 ― つづく
❤〜SAKURA

3163SAKURA:2015/01/02(金) 22:31:48 ID:???
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

■ あけまして おめでとうございます…。本年度もよろしくお願い申し上げます。

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/3161 
>>3161 「るん吉様」から私宛にですが〜〜『この場には?』と…

別の所で…投稿させて戴きます…。

3164「訊」:2015/01/02(金) 23:21:43 ID:???


 新しい年には新しい心が生まれる。



 元旦は物事の始めであり、生活更新に最も都合の良い時である。他の時にも新しい覚悟ができ、賢明なる人はいつからでも新生活に突進しうるが、われわれには新しい決意を実行するには元旦がよい。元旦からまず始めよう。



 それは明るい心を持つということである。



 一度にあれもこれもと考えて、それが実行できなかったら、新しい決意も最初の一日から崩れてしまう。ただ今日一日明るい心を持つことにしたい。ただそれだけ一つのことである。これだけのことならばわたしにもできると思う。明るい心を持つには何事が起こっても怒らぬということである。何事が起こっても悲しまぬということである。何事が起こっても失望せぬということである。何事が起こっても怒らず悲しまず失望せぬためには、起こった事物は「もうすんだのだ」と知ることである。



 去年の暮れはもう起こったからすんだのである。すんだからこそ新しい年が来たのである。木枯しに散る葉があるからこそ、春に美しい若葉の美が讃えられるのである。



 天地一新。悪しきことは未だかつてひとつも起こらなかったし、これからも起こらない。それはすべて一新しゆく姿である。


『生命の實相』37巻4頁より謹写――

3165トキ:2015/01/03(土) 12:56:31 ID:Qj6Pg0Tc
「訊」 様

 あけましておめでとうございます。
新年早々、素晴らしい御文章を紹介してくださり、ありがとうございました。
今年も期待しています。

 よろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

3166「訊」:2015/01/03(土) 22:23:09 ID:???


◆ 新天新地を迎へて

 私たちは皆さんと共に新しき年を祝福するのであります。
 皆さんがたとい過去の年に於いて如何なることを経験せられたにせよ、何を心に思い、何を身に行ったにせよ、それ等は既に過ぎ去ったのであります。されど若し、皆さんが同じ心を依然として持ち続けるならば、いづこかに新しき年はあらんやであるのであります。

 皆さんは新年と共に想念を新しくならしめなければならないのです。旧態依然たる争闘と摩擦と不平と慈哀と不健康と貧乏との想念を持ちつづけるならば、それは年は新たであるにしても、内容的には古き年の継続に過ぎないと云わなければならないのである。
 真理は皆さんに新しき人生と新しき幸福とを持ち来すべく待っているのである。それは単なる期待でも単なる希望でもないのである。如何なる人々も生長の家の真理に触れるとき、絶対に新しき生活を、絶対に幸福なる生活を、絶対に豊かなる生活を、絶対に健康なる生活を、営むことの出来る資格と権利と方法とを本来与えられていることを自覚せられるに相違ないのである。

 真理とは何ぞや。人間は「神の子」であると云うことである。仏教的に云えば「仏子」であると云うことである。神道的に云えば、人間は、すべてミコトであり、日子(ひこ)であり日女(ひめ)であり、尽十方に満つる光の子みなさんと云うことである。

 此処に諸君(みなさん)が、絶対に幸福なる生活に、絶対に豊かなる生活に入る門を開く鍵があるのである。「人間は神の子」と云い、「仏子」と云い「日子」と云い日女と云うと雖も、それは鍵であって、諸君がこの鍵をもって、新しき生活への門をひらくと開かざるとは諸君(みなさん)の自由であるのである。鍵は鍵孔に入れてこれを回転しなければならない。ここに静的真理が動的事実として展開し来り、新しき生活への門がひらかれるのである。

 昨日までの物質的又は肉体的状態が如何にあろうとも、五官に見える姿は唯かぎられたる視野から眺められたる姿であって、決して貴方の世界でもなければ、貴方自身の全相でもないのである。肉眼の視野の彼方に、顕微鏡下の世界があり、望遠鏡上の姿があると同じく、更に無限に美しき天国浄土の世界があるのである。それこそが、此の世界の實相であり、それは既にある世界であるに拘らず、心の波長を合わさないから出て来ないに過ぎないのである。心の波長を合わすとき突如として冒頭に掲げたる「われ新しき天と地とを見たり」と云う至福の世界が実現し来るのである。

「白鳩」誌(昭和28年新年号)より謹写――

3167「訊」:2015/01/03(土) 22:24:39 ID:???



◆ 「過去」を「今」に変貌するな

過去になずむこと勿れ
過去は既に過ぎ去ったのだ。

過ぎ去ったものだけれども
”今”それを思えば、
過去が”今”に変貌する。

牛は過去に食べた食物を
腸に送るまでに反芻して
もう一度”今”に戻して咀嚼するそうだが、

過去の悲しみでも
それを”今”にもどして反芻すれば、
過去が過去でなくなって、
今ある悲しみにそれは変貌する。

過去を素直に放つ者のみが、
新しい喜びを素直にそのまま受けることができるのである。

3168志恩:2015/01/09(金) 20:24:39 ID:.QY5jUA6
『愛の波動を高めよう』より  アイリーン・キャディ【著】:山川紘矢/亜希子【訳】

🎴 新しい世界 🐲

「近ごろの世界はなんと乱れているのだろう。
世界は混沌と混乱のきわみだ」という言葉を、あなたは何回聞いたことでしょうか。
また自分でも そう言って 何度なげいたことでしょうか。

そして、それに対して自分ができることは何もないと感じています。
もう絶望的だ、自分にはどうしようもないと感じて、カタツムリのように からの中に閉じこもってしまって、
世界が ますます悪くなってゆくに まかせています。

この地球の現状に関するあなたの責任感はどこにいってしまったのですか?
あなたが行うこと、あなたの生き方、あなたの考え方が、
世界を良くも悪くもすることに気がついていないのでしょうか?

海岸を作っているのは小さな一粒一粒の砂です。
大洋を作っているのは小さな一滴一滴の水滴です。

あなたがどう考えて何をするかが、世界を良くも悪くもするのです。

あなたはそのことを考えたことがありますか?
愛のあるポジティブで建設的な思いを持つ魂が 増えれば増えるほど 地球は良い場所になります。
あなた方は みなこのすばらしい世界の とても大切な一部なのです。

あなた方の一人ひとりは この大きな全体の中のとても小さな部分ですが、それぞれに果たさなければならない特別な役割があります。
あなたがその役割に早く気がつけば、それだけ早く、世界の状況は変わります。

世界的な 混沌と混乱と 破壊の思考の渦 に巻きこまれるのはやめましょう。
今すぐ、あなたのまわりの世界のすばらしさと美しさに、心を集中させましょう。

すべてのものに感謝しましょう。
あなたが出会う人すべてを祝福しましょう。
人々の中、ものごとの中、状況に中に最悪の部分を見るのはやめ、
いつも最善の部分を見るようにしましょう。

最善の部分に意識を集中し、あなたのまわりの世界で起こる すばらしい変化を 見るようにしましょう。

あなたにはそれができます。
それも今日から始めることができます。
いいえ、今すぐ始めることができます。

これは、だちょうのように頭を砂の中にかくして、世界の現実に直面するのを拒否するのとは違います。
ただ、すべてのものごと、すべての人の中に、最もすばらしい点をさがし、そこに意識を集中させるということです。

あなたはあなた自身の小さな世界です。
あなたの内にある世界に平和と調和と愛と理解がある時、それはあなたのまわりの外の世界に影響を与えます。

まず、自分の家の中をきちんとすることから始めましょう。
あなたの思いと生活の整理から始めなさい。

3169志恩:2015/01/09(金) 20:32:40 ID:.QY5jUA6
谷口貴康さんのブログより

徳川家康秘話。
徳川300年「江戸時代」を生んだのは、「笑いのこころ」(明るき心)­であると説く大熊理事長。
日本笑い学会講師でもある大熊理事長が、笑いながら、笑いの­持つ「力」と影響力を説く。

★≪新春≫いのちが喜ぶ話(第5話)★大熊良樹理事長 
「徳川300年を生んだ笑いの心」
https://www.youtube.com/watch?v=HNm_xNPN8RM&amp;feature=share

3170志恩:2015/01/09(金) 20:36:23 ID:.QY5jUA6
3169は、聖典引用ではなくて、いのちが喜ぶ話の引用でしたので他板の方に転載すべきでしたね。^^

3171志恩:2015/01/10(土) 07:56:08 ID:.QY5jUA6
📖 パラマハンサ・ヨガナンダの言葉

人生の体験を あまりに真剣に 受けとっては いけません。
とくに、その体験のために 苦しんでは なりません。
なぜなら、本当は、すべては ほんの夢に すぎないのですから・・・

もし 状況が悪くて、耐え忍ばなければ ならないとしたら、
その状況を あなたの一部と しないことです。

人生の あなたの役を 演じなさい。
そして、
それが 単なる役に すぎないということを 忘れないでください。

3172SAKURA:2015/01/10(土) 21:16:18 ID:???
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こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 真理を伝えるのは愛の道 ―その8 ―【 転載編 ―】*=======**========

■『法華経』の中に「長者窮子」の譬がある。
あるところに金持があって、その家の跡継ぎの息子が家出をして、諸方を流浪してルンペンに
なってそうして彷徨うていたが、とうとうまた故郷へ帰って来た。

どこへも寄る辺がないので、自分の故郷の親の家の門から、ふと覗いて見ましたら、そのお金持が
大勢の召使をずっと列べて、いかにも王様のような姿をして坐っている。その姿を見た時に、
自分のようなルンペンの、破れた半纏を着たこんな男が、こんなところでうろうろしておったら
家来たちに捕えられてどんあひどい目に遇うかもしれないと逃げ出した。

そうすると、王様は一目見ると、『あれは自分の子である、本当の子はあの子のほかにない、
自分の全財産を譲るべきはあの子である。自分の全財産の持ち主は本当はあの子なのである、
あれを呼び戻せ、あれにこの財産を与えるのである』とこういった。

ところが家来たちが追っかけて行くと、ルンペンはますます恐怖を感じて、とうとうびっくりして、
目を廻して倒れてしまった。皆が寄って介抱をしてようやく気がついた。ところで、立派な服装の
高位高官の家来のような姿をしておったら、何か自分を取り押さえるためにでも来たように思って
怖がるから、その家来は父の長者の命によって方便を設けてみすぼらしい服装をし、
「こういう土方仕事の下らない仕事があるのだが、君一つ働かないか」
といったら、そのルンペンも安心して土方をしている。

そうして、少し働いているうちに少し位を上げて土方の頭にする、もうしばらく働いていると
監督にするというような塩梅式に、だんだん出世さして、高い位になってきた時分に、
もうお前は長者の跡継ぎであるといってやっても恐れて逃げない時が来る。

その時になって初めて、お前はわたしの本当の子である、自分の全財産はお前のものであると、
こういうぐあいに長者がいわれたという話がありますが、光明思想の普及のやり方もそれと
同じことである。

われわれは初めから
「人間は神の子である、仏である、すでにお救われているのである」
こう教えてあげても、
「そんな馬鹿なことがあるものか、自分は現に病気で困っている、貧乏で困っている」
と反駁する。

中には「そんな迷信があるものか」といって逃げ出す人もある。そういう人に対しては、やはりこちらが
下まで降りて行って、そうして土方の親方ぐらいに化けて行って、

「あんた病気か、病気なら病気を治すえらい便利なものがあるぜ。こういう本を読んだら治る、たった
五銭で一冊のパンフレットを読んで治った人もたくさんある。どこの誰もこうである、どこの何さんも
こうである」と実例を挙げる。

すると「そうか、そういう結構な薬があるのなら」と読んでみると、
読むにつれて、「なるほど自分は神の子である、病気は本来無い」ということがちゃんと悟れるように
なっている。救われるべき相手の高さの程度まで降りて行く、これが仏様の本当の慈悲の働きであって、
下品なように見えているけれども、下品なように現わなければ救われない人に対しては、
われわれはそういう相を現わして救うほかはない。

これが菩薩行である。
観世音菩薩が三十三身に身を変じて衆生をお救い下さるというのもみなそれである。

                    つづく
❤〜SAKURA

3173志恩:2015/01/12(月) 01:50:21 ID:.QY5jUA6
『愛の波動を高めよう』より  アイリーン・キャディ【著】:山川紘矢/亜希子【訳】

📙 神 と ひとつであること

私たちは 神の存在そのものの中に 生きています。
私たちの中に 神がいるのです。
私たちは 常に 神の存在と ひとつですから、神の愛とも 常にひとつです。
私たちは 神の命と ひとつなのです。

自分が 神の中で生きていることに 気がつくと、私たちは ほっとリラックスします。
何も恐れるものは ありません。神は いつも 私たちと共にいるからです。
神の癒しの力が 及ばない状況は 存在しません。
私たちを祝福し、変容させる神の力より 大きな不調和もありません。

今、この瞬間、神の存在が私たちを満たし、私たちを包んでいます。
私たちは 決して孤独ではありません。
私たちは いつも神の命、神の光、神の平和、神の力とひとつです。
神は 今も、私たちを 癒し続けています。
神は 今も、私たちを 祝福しています。
神は 今、私たちを導き、インスピレーションを与え、私たちを 繁栄させています。

私たちは 神の存在の中に 生かされています。
神は 私たちの中に 生きています。
私たちは ずっと、神と ひとつです。すべては 完璧です。
そして 私たちの進む道は、なだらかで 整然としています。

3174志恩:2015/01/12(月) 02:09:44 ID:.QY5jUA6
『愛の波動を高めよう』より  アイリーン・キャディ【著】:山川紘矢/亜希子【訳】

📗 神の 助けを 借りて

神の助けを 借りて、ものごとを 起こらせましょう。
神に 意識を 集中します。
肯定的に考え、話し、行動しましょう。
そうすれば 神のエネルギーが あなたを 助けてくれます。

外部の いかなるものも、あなたを 傷つける
力を 持っていないことに 気づく 練習をしましょう。

あなたにとって 問題なのは あなた自身の 思い であって、
他の 何ものでも ありません。

そのことを 憶えておいて 下さい。
あなたの 思いぐせを コントロールし、
良いことに 焦点をあて 続けましょう。

難問、仲の良くない人、困難な状況などには、
感情的にならずに、距離をおいて、公平な態度で臨みましょう。

敗北主義、自己憐憫、後悔は止めましょう。
自分に起こることに 過剰反応を しないようにします。
あまりにも 真剣になりすぎては いけません。
自分を 笑いとばせるように なりましょう。

あなたについて 他人が考えたり 言ったりすることを
気にしては いけません。夜、寝る時、
自分の悩みについて、あれこれ 考えては いけません。

日々の行動のすべてを 神のために 捧げなさい。
すべてを 所有しなさい。

しかし、何ものにも あなたを所有させては いけません。
自分は 神の中にいるということを知り、
常に そのことを忘れないように しなさい。
あなたと 他の人々との間に、適度のバランスを 持つように 心がけなさい。

世界にとって、自分が重要であることを 知りなさい。
そして、この世界のどこかに、必ずあなただけの
居場所があることも 知りなさい。
地面に 種子を蒔く時は、蒔いた種子のまわりに 柵を作って、
その種子を守ります。
自分の心の中に 種子を蒔く時も、その種子を 困難や 心配などの
外から侵入する思いから 守るために、心理的な防衛柵を 設けましょう。
あなたの潜在意識が その種子を受け入れ、
それが発芽し、成長し始めるまで、そっとしておきましょう。

3175志恩:2015/01/12(月) 02:24:49 ID:.QY5jUA6
つづき

📘1つの種子のことを考えてみましょう。

袋の中に入っている限り、それは 眠ったままです。
それが一度、袋から取り出され、土の暗闇に播かれた時、
変化し始め、成長し、広がってゆきます。
ある種子は 他の種子と比べて、発芽に時間がかかります。

自分に何が起きているのか、よく見るための時間が必要です。

私は 種子と同じように、成長して変わるために、

暗闇の中に 入ってゆかなければ なりませんでした。

暗闇にいると言って 落ち込んでしまうかわりに、
これは ひとつのすばらしい神の計画の一部であって、
成長し、変化し、動いている時間であり、そのすべてが
暗闇の中で起こっているのだと理解することができます。

恐れることは 何もありません。
通過しなくてはならない過程であることを 受け入れ、
すべてのものと一緒に 流れてゆくことだけが 必要なのです。

自分が思っていたよりも、この段階が長く続いたとしても、
落ち込んで絶望してしまわずに、多くのことが 自分の中で、
そして 暗闇の中で起こっていることを 理解し、
辛抱強く 神の完全なタイミングを 待つことが必要です。

すべて 自分に起こって来ることは、
自分が学ばなければならないレッスンとして受け入れます。

このレッスンは たくさんの人々を助けるために 使うことができます。
彼らが いま通過している 大変な暗黒の時期は、
人生の中で 特別に 大切な時期として 利用することができること、

そしてますます苦況におちいらないためにも、落ちこんだり、
絶望してはならないということを明らかにするからです。

この暗闇の時期に、すばらしい変化が 人生に たくさん起こるのです。
最初 人生が 真っ暗闇に落ちた時、私は とても恐れました。
すべてを失ったと感じて、
木ばかりが見えて、森全体が見えなかったからです。

私は 気持ちを平和に保ち、森の中に一本の細い道を見ました。
そして、その道にそって進んでゆきました。
すると、美しい木や森が見えただけでなく、
私にまわりの自然の美しさも目に入ってきました。
私は何も物が見えなかったのに、今はよく見えます。
そして見るものすべてに感謝しています。

3176SAKURA:2015/01/16(金) 17:08:49 ID:???
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こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 真理を伝えるのは愛の道 ―その9 ―【 転載編 ―】*=======**========

■維摩経がみずから身に病を現わしてそうして本来病無き所以をお説きになったということが、
仏説『維摩経』に書いてある。これもやはりお釈迦様がお説きになった教えである。

キリスト教の聖書の中には、キリストが病気を治し給うた記録がたくさんある。
ところが、生長の家で病気が治ったという事実を発表すると、多くの仏教者やクリスチャンや
そのほかいろいろの宗教家が「宗教で病気が治るのは邪道である」というふうなことをいって
攻撃されるのであります。

それならキリスト教は聖書に病気の治った話があるから邪教であり、釈迦は『維摩経』で
病を縁として実相を説いたから仏教は邪道だということになる。こういう観方でゆくとすべての
宗教は邪道に観えてくる。

こういう人こそ実に気の毒な人であって、自分の心の眼が「邪教」であるから、
すべての教えが邪教に見えるのであります。
お釈迦様は「総ての衆生を見ること一子羅喉羅の如し」とこういうぐあいにいっておられる。

もしここにわれわれが、自分の子供が病気をしているという時にこれを宗教で治してくれた人が
あったら「なんじゃあいつ、病気を治しやがって邪道である」と罵倒しうる父親、
母親がありうるでしょうか。

そうしたならば、多くの人類が生長の家によって治されていると事実を見て、多くの人類はすべて
自分の一子羅喉羅のごとしであるから、救わなければならぬ子であると思うているはずの宗教家た
るものが、自分の子供と同様な衆生が、生長の家によって病気が治っているという事実に対しては、
「ああ、ありがたい、わたしが行って世話してあげなくちゃならないところを生長の家が治して
くれたのだ、ありがたい」という気持になるのであってこそ、これ仏様の心なのであります。

ところが、自分の子供同様救わなければならない衆生が、生長の家で病気が治っている――
その事実を見て、「なんじゃ、あんなところに行きやがって、病気治しやがって……」と、
鬼のような心をもってそうして本当に救う働きを現わしている、観世音菩薩の働きを現わしている
「生長の家」に対して咀いの言葉を投げかけるような宗教家があるというようなことは、
彼が宗教家であるのか、地獄からの使者であるのか、実に嘆かわしい次第であると思うのであります。

               次の項目につづく
❤〜SAKURA

3177ママ:2015/01/17(土) 00:42:07 ID:YqbfME42
志恩さま、sakuraさま、読んで幸せな気分にならせていただきました
我が家は、本は、それぞれの部屋に分散してて、読みたいときによめないので、
何気にここ見て良かったです゜

3178志恩:2015/01/22(木) 03:15:22 ID:.QY5jUA6
谷口雅春先生著《人生読本》より

『他(ひと)から見て どう見える』

仕事でも、顔でも、店構えでも、事務所の玄関でも、外から見て どう見えるかを 調べてから、他に見せるようにすることが大切です。

仕事をする上からいえば、自分は その仕事をやりとげることに熱心すぎて、ちょっとぐらいよごれていても、
気がつかない事がありがちです。

いかに立派な製品でも、ほんのちょっと手垢がついているために、つまらないものだと見向きもされないこともあります。

まず自分がお客になって玄関へ入って行くと、どんな感じがするか、什器や椅子の並べ方は不快ではないか、
応接室で待っているとどんな感じがするか、何分間待たせられるか、待っている間に放っておかれるか、

何か出されるか、その出し方はどんなふうにするか、読み物はあるか、最初の面談はどんなふうに始められるか。
・・・・・こんなことでも、自分が客となって見なければわからないのです。

他の事務所や商店と比較してみて、悪いところはできるだけ廃(や)めるようにし、良い所はできるだけ取り入れるようにし、
さらによそに見られぬ好い感じを出すようにしなければなりません。

自分の店や自分の事務所ばかりを見ていては、欠点があっても、その欠点は慣れてしまって、
それが当たり前のような気がして気づかないものです。

臭い空気に慣れてしまっては、その空気が臭い空気だということに気がつきません。しかし外から入って来たら、
「なんてここは臭い空気だろう」と気がつくのです。

 客は外から入って来るのですから、一番誰よりもその室(へや)の空気の良し悪しには気がつくのです。
室の空気の良し悪しというのは、鼻から吸う空気だけのことではありません。 心で吸うなんとなきその室の味です。

その室の匂いです。その室の感じです。

その中には人間のようすもあり、微笑もあり、心の思いもあり、椅子や家具の並べ方もあり、
「ああ、ここは気持ちが好い」と思われるようにしなければなりません。

3179志恩:2015/01/22(木) 03:22:52 ID:.QY5jUA6
谷口雅春先生著「女性の幸福365章」

「生きることは美しい」

悲劇にさえも其処に美がある。悲しみさえも、
それは生命の働きであるから其処に美が構成されるのである。

人がその人生航路において右するも死、
左するも死・・・の板挟みに立たされながら、

辛うじて「生」のバランスを保っているところには、
恰も生死の構図の不等辺三角形が、倒れんとして倒れないで、
不均衡の均衡を保っている美に類似した美しさがあるのである。

円盤投げ選手の姿勢の美しさや、体操選手の平均台上における
美しいフォームなども、不均衡の均衡、倒れんとして倒れざる、
重圧に対してそれを克服しつつある内部生命の美しさの表現である。

人生の重荷も、もしそれを私達がよく耐え忍ぶならば、
私たちはこの宇宙に何らかの「美」を創造しつつあるのである。

「私は今、この人生苦を耐え忍ぶことによって
人生に“美”を創造しつつあるのだ」という考えを起すならば、

無価値と見える人生に私たちは価値を見出し、
生きる希望と勇気とを与えられることになるのである。

3180志恩:2015/01/22(木) 03:30:04 ID:.QY5jUA6
谷口雅春先生著「女性の幸福365章」より

 「急ぐことは いらない」

瞑目して自己に語れ、
「われは神の子であるから、実相に於いて完全である。
その完全さは、
毎日一層より多く自己の生活にあらわれつつあるのだ」と。

神は急がない。
無限の時間があり、無限の機会がある。
必ず成就する、神が成就せしめる。
神にまかせよ。自然に熟する時が来る。

過去の失敗や不幸を回想してはならない。
過去は過ぎ去ったのである。
反芻して過ぎ去った苦痛を、もう一度味わうのは愚かなことである。
毎日々々、過去を捨て去り、今日を新しく生きるがよい。

3181SAKURA:2015/01/22(木) 19:22:11 ID:???
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こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
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の投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 皇室および一家の祖先を礼拝せよ ―その1 ―【 転載編 ―】*=======**========

  ■われらは生命は永遠なるを信じ、毎朝、皇霊を遥拝し奉り、次いで一家の祖先の
霊魂を祀れる祭壇または仏壇の前に座してその冥福を祈願し、かつ自己の生命も永
遠なれば常に若く愉快に青年のごとく生きんことを期す。■

■このわれわれの生命が永遠なる存在であるということは、生長の家の真理の根本を貫く
ところのものであります。これがハッキリわからなければ「皇霊を遥拝し」ということの
意儀もわかりません。皇霊を礼拝するということも虚礼ではありません。

いろいろの批判はあるにしても、われわれ日本人は日本国の歴史を通して「今の」一点に
生きているのです。そしていろいろの日本国の興隆不沈はあったにしても、どんなときにも
日本国が動揺せずに、ここまで日本民族が発展してきました不倒翁(おきあがりこぼし)の
重心のごとくドッシリとして、その中心からどんな時にも日本国が立ち直ることができた重
心は天皇がましましたからであります。

われわれは歴代の天皇のこの御恩沢を忘れてはならない。
恩を知るということが実践道徳と実践宗教との中心になるのであります。だからわれわれは
歴代の皇霊に対して崇敬の誠を捧げるのであります。


 仏教では霊魂という言葉を使わないのであります。それで、「生長の家」で霊魂というよ
うな言葉を使うと、それは仏教と衝突するといって反対なさる方も時にはあるのであります。

しかし仏教では「霊魂」という言葉を使わないけれども「神」という言葉を使う。『無量寿経』
にも釈迦が兜卒天宮(とそつてんぐう)より降ってこの世に生まれることを「兜卒天に処して
正法を弘宣し、彼の天宮を捨てて神(たましい)を母胎に降し、右脇より生ぜり」とあります。

この「たましい」という字は「神」(じん)という字を書いています。このように仏教も有霊魂論
なのですから撲滅しないでよろしいのであります。一昨日でしたかラジオで、誰かが日蓮上人の
遺文録の講義をしておられた時に、ふとスイッチをひねったのであります。

めったにラジオのスイッチをひねったことはなかったのですけれども、その時なんだかひねって
みたくなって聞きましたら、その中で、日蓮上人が竜の口で斬罪に遇うところの講義に「自分は
たといこうしてここで斬罪に遇って死んでも、魂獏この世に止まって云々」ということを日蓮上人
が言われたそうです。

それはなんでも『開目鈔』にある言葉らしいのですが、確かに「魂魄」というものを日蓮上人は
認めておられた。これはやはりわれわれのいう「霊魂」の異名なのであります。
また仏教では霊魂という言葉を使わないで、「有」という字を使うこともあります。

                        つづく
❤〜SAKURA

3182SAKURA:2015/01/26(月) 21:46:37 ID:???
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こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
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>>3181 の投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 皇室および一家の祖先を礼拝せよ ―その2 ―【 転載編 ―】*=======**========

■すなわちわれわれの死んで行く世界を「有」と名づけてありまして、六道を二十五有にわけ
るというふうなことをやっておる。

そうして仏教ではわれわれの肉体が滅して四十九日のあいだは中有に迷うという言葉を使って
おるのであって、まだその「二十五有」の中のどこへ行くか決まっていない間が四十九日ある、
その四十九日間を中有に迷って家の棟にふらふらとしている。それからその期間が過ぎると、
その期間が満ちたというので「満中院」と称し「満中院志」というのを配ったりします。

その時期が来るとお前は前世の業がこうだから六道のうちのどの道を行けということは前世の
業に従い、自然の摂理に従って未来世の行くところが定(きま)ってくるのであります。

ところでこの「有」というのは何であるかというと『仮存在』である。本来久遠生きとおし
常恒の存在であるところの「生命」が因縁によって仮存在として、アチラに現われたりする、
コチラに現われたりする、これが輪廻転生というものであります。「実相の生命」には来世と
いうことはない、生まれ変わるということはないのでありますが、仮存在としての生命は生まれ
更わるのであります。

そうしてこの肉体の世というものもこの仮存在の一つであります。
さて、その仮の世というものが何でできているかと申しますと、業でできているのです。
業というのは何であるかというと、「念波」であります。「念波」の集積が業であります。

それで、われわれの肉体というものは、科学的にはこれは物質の体で、物質の体とは何で
あるかというと、エーテルの波の中にできた渦巻の塊である。そのエーテルも本来無いと
いうような最近の説までありますが、結局「何もないもの」無の一種の波であるということに
なっているのであります。

そんなわけで、この肉体というものも何もないものも一種の波であるのでありますが、
肉体として現われている波と、霊魂の体として現われている波とがあるのです。

眼に見える波動(すなわち肉体)だけ存在すると思ってなりません。眼に見えない、
われわれの五官に触れない無数の波動が存在するということを知らねばなりません。

                            つづく
❤〜SAKURA

3183志恩:2015/01/30(金) 07:15:13 ID:.QY5jUA6
 谷口雅春先生・「叡智の断片」




先ず自分は何処に立っているかを考えて見よ。


自分の我欲の上に立っているか、

神の御心の上に立っているか。


脚下証拠。

3184志恩:2015/02/08(日) 04:03:52 ID:.QY5jUA6
谷口雅春先生のおことば

  神と偕に生きる

今日、誰かに必ず役に立つ仕事をしよう。

大いなる仕事が見つからなかったら、

目の前にある些細な愛行や、深切な言葉や、

奉仕や、清掃などの仕事でもよい。

何か誰かに悦ばれる事を必ずするがよいのである。

他の人の自由や財産を侵して自分が利益を得たり、

権力を得ようと思ってはならない。

このようにあなたの日常生活を浄めることによって、

あなたは神の霊波と波長が合うことになるのである。

3185志恩:2015/02/08(日) 04:09:09 ID:.QY5jUA6

谷口雅春先生著「真理 第2巻」


我が毎日が新生である。一瞬一刻に挑戦せよ!




昨日と同じものはひとつもない。

ひとつひとつの体験が悉く自分の魂の

向上進歩の段階となるものなのである。

過去にとらわれてはならない。


今、新しき経験があなたの目の前にあるのである。

それを真心を以って一心不乱につくすとき、

その次の段階がひらけて来るのである。


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