- 1 :元文学青年の俺 :2025/09/04(木) 11:12:21
- 5チャンネル文学板の「元文学青年の俺が俗物を徹底的に馬鹿にするスレ」
がどういうわけか急に長文の書き込みを拒否し出したので、こちらを「避難所」 として使わせていただくことにした。
5チャンネル文学板への書き込みが失敗した場合に、このスレに書き込む ことにする。
書き込む内容は、特にスレのタイトルにこだわることはなく、広く気ままに あれこれを書きつけてゆく予定。自分の雑談用のスレと言っていい。
- 63 :元文学青年の俺 :2025/10/14(火) 10:39:47
- ふう、昨日は暑かったな。
思わず明治エッセルスーパーカップ(チョコクッキー)を食べた。 10月中旬にこのアイスを食べるとは思わなかったな。
- 64 :元文学青年の俺 :2025/10/14(火) 10:50:49
- さて、>>51で初めて言及され、>>56でも考察した「応答してくれないカミサマ」について、
もう少しうだうだ書いてみる。
この「応答してくれないカミサマ」の問題は>>54で指摘されているようにヨブ記が提示 している問題でもあるし、キリスト教を土台とする西欧世界では、別言すれば、「神なき世界」 の問題とも表現できるであろう。
この「神なき世界」を自分の文学テーマの主軸に据えたのは、周知の通り、ドストエフスキー であった。アルベール・カミュなどもこの問題に取り組んだ。また、ニーチェは 「神は死んだ」と堂々たる「神の死亡宣告」を19世紀末におこなった。
権威の最上位である神が死んだとされたからには、それ以外のすべての権威も失墜せざるを 得ない。それ以降、モラルの根拠は失われた。20世紀は「ニヒリズムの世紀」であったと 言っていい。
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)
- 65 :元文学青年の俺 :2025/10/18(土) 11:50:05
- >>62に付け足して、あれこれ。
この「虚無」・「世界の無意味さ」あるいは「世界の無関心」との闘いはまた、自分にとっては世界の 「不条理」や「醜悪さ」との闘いでもある。
「醜悪さ」という点では、このスレに関連付けて言うと、「俗物」との闘いでもある。 (もちろん、それは、自分の心の中の「俗物性」との闘いも含めなければならないところである。が、 このスレでは、自分のことは棚に上げるのである) (゚▽゚*))
ちなみに、世の俗物どもの中には、この「世界の醜悪さ」と実にうまくなじんでいる人間がいる。 (特に政治家には多いように感じられるタイプである。醜悪な世界のジグソーパズルの中に、一片のピース としてみごとにしっくり嵌まるのである)
- 66 :元文学青年の俺 :2025/10/18(土) 11:53:18
- さて、『自選 谷川俊太郎詩集』(岩波文庫)を読んだ後、今度は集英社文庫の『谷川俊太郎 詩選集 1』から
『谷川俊太郎 詩選集 4』にまで手を出している。
「自選集」では、一般読者が「あれ、この作品が入ってない」と思うことがよくある。世間で評判の作品 であっても、しばしばそういう作品が抜け落ちているのだ。作者がみずから選んだのだといっても、読者に 不満が残る場合が珍しくないのである。 そういうわけであるから、結局「自選」のものがあっても、他選のやつも買うことになる。さすがに全集を 買うまでには至らないとしても。
谷川詩の場合は、たとえば、教科書によく採られている有名な『朝のリレー』が『自選 谷川俊太郎詩集』には 入っていない。こちらの気に入るであろう詩がまだまだ他にたくさんあるだろうと、上記集英社文庫のやつ (4冊もある!)をあがなったわけである。
はたして、自分の気に入った作品、なぜこれが『自選集』に収録されていないのかと不思議に思う作品が多々 あった。そして、詩人としての谷川俊太郎のすごさをあらためて認識した。
- 67 :元文学青年の俺 :2025/10/19(日) 12:27:16
- 上の「谷川のすごさ」というのは、たとえば、その詩の形態と内容の多様性である。
>>16や>>48で引用したような、せつない詩がある一方で、谷川には次のような作品もある。
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ゆうぐれ
ゆうがた うちへかえると とぐちで おやじがしんでいた めずらしいこともあるものだ とおもって おやじをまたいで なかへはいると だいどころで おふくろがしんでいた ガスレンジのひが つけっぱなしだったから ひをけして シチューのあじみをした このちょうしでは (省略されました・・全てを読むにはここを押してください)
- 68 :元文学青年の俺 :2025/10/19(日) 13:42:07
- 谷川俊太郎はユーモラスな詩もたくさん書いているが、いやはや、これは何と言おうか。「カフカ的な
不可解さ」とでも呼べるような趣き。「ナンセンス・ユーモア詩」というカテゴリーに属すると言えるような、 実におかしい詩である。
「めずらしいこともあるものだ とおもって」だとか「このちょうしでは」だとか「あんのじょう」 だとかの、ありふれた言い回しの使い方が絶妙である。
さて、この詩は「ナンセンス・ユーモア詩」と受け取って自分は何ら痛痒を感じないけれども、ある人 からすると、「いやいや、これはそんなものではなく、詩人の深刻な主張もしくはテーマを含んでいるのだ」 と言いたくなるかもしれない。そういう人にはぜひその解をここに書き込んでいただきたい。
- 69 :名無しさん :2025/10/19(日) 17:39:20
- >>68
面白い宿題ですね。では、感じたことを少々。
まず、全てが、ひらがな・カタカナで書かれていて、言葉のひとつひとつが等分の重さになっています。そのせいで、言葉の意味がぼやけて、やや離人症めいた世界のように感じます。 主人公が子供だとすると分かりやすいのですが、言い回しが子供のようではない。大人の中に住む子供、という解釈でもいいでしょうが、むしろ「外界をカナ文字でしか受け取れない状態」というのはどうでしょうか。 夕暮れに、外界の意味が解体していく。こう書くと理屈っぽいですね。 冒頭において「おやじがしんでいた」のに、「めずらしいこともあるものだ」と思いながらも、すこしも驚いていない。詩作は理屈ではないので、この辺りのねじれを手がかりに 、実際のところは書き進められたのでしょう。
うろ覚えですが、小林秀雄が柳田国男の話を引用していて、貧しい山民の親父が自分の子供を薪割りかなにかで殺す話、あれも夕暮れだったような。
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