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連投規制で書けなくなった人あつまれー ★16
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まえ
連投規制で書けなくなった人あつまれー ★15
ttp://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/12252/1437887188/
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またガラス割ってよう。
禅モードというトラップがなくてガラス割れるモードがあるんだが、つめんない。
無限モードに入ると鬼むつかしい。
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入院するかもだけど(主治医の最終的検査結果判断を待つ前に吹聴しているが、私次第ではあるし)、
出てきたら部屋かたしてアイギスやってみよう。
あとひとつは古いゲーム機を入手してみようと思う。
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>>951
鬼軍曹モードはもっと難しい。
反射神経はそんなに良くないからなあ。
位置の学習先読みパターン認識学習はするけど不意打ちには弱いし。
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読みなおしてみたが
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読みなおしてみたら
>>891
まぐなはサトアキが「タメが大事と言っている」と言っているわけじゃないんだな
タメがない方がサトアキは好きだ、つってるのか
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サトアキが倒錯だっつうのは撤回しよう
ますますPTSDなんじゃねえのって思えるようになった
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タメがない方が好きだとサトアキが言ってるなら、それはわたしの言う「文学でカタルシスを描くなんてまどろっこしいことしないで舞台で屋台崩ししてスタッフ殺してりゃいいじゃん」って言う
ぶっちゃけ、って話なのか
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逆にタメがない方がいいってなったら文学より演劇ってなると思うんだが
まあサトアキは舞台芸術好きだしな
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なんかマグナが前にひいてたページでさとあきさんが描いていた映画か何かのシーンでも突然の死!!みたいなシーンだった気がするな。
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>>950
カタルシスはいろいろややこしいからなあ
カタルシスの予兆とは「性関係が存在する恐怖」なのか「性関係が存在しない恐怖」なのか、という問いをされたら症状としてはどっちでもありえると答えるしかない
a/φbarreという記号で言うならば、aがあることを恐れているのか、φbarreがあることを恐れているのか、という違い
aがシニフィアンとしてあってφbarreがシニフィエとしてあること
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とりあえずその主体がヒステリーであって、「性関係が存在することに対する恐怖」か「性関係が存在しないことに対する恐怖」かどっちかを覚えてりゃ
カタルシスの予兆つっていいんじゃねえかなとわたしはおもったりする
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「性関係が存在しないことに対する恐怖」を覚えていたら、多少なりともその女のaはファロス化されていると考えてよい
ペニスにはなりきれないクリトリスてやつだ
「性関係が存在することに対する恐怖」を覚えているヒステリーはクリトリスすらない女だと言えよう
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ここでのファロス、ペニス、クリトリスとは、部分欲動がそこにおいて統合されるという意味である
ファロスあるいはペニスは欲動が統合されていると思い込んでいる(ラカン理論においては欲動が統合されること自体が非現実だから)
クリトリスは欲動が中途半端に統合されている、あるいは中途半端に統合されていない、という状態
クリトリスがないのは欲動がほとんど統合されていないということ
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抑圧より倒錯のほうがマシなんだよ
フロイトがキリスト教に転移して「抑圧」を批判したことを忘れてはならない
フロイトは「抑圧」に対して批判的だったからこそ、自身の「欲動が性器において統合される」というリビドー理論に対して自問し続けられたわけだ
「抑圧していいんだ」と思ってしまえてたらフロイトは「欲動が性器において統合される」という自身の仮説(まあ当時の精神医学の影響もあったろうが)に批判的であり続けられなかったであろう
宮崎の「ポニョ」やら「風立ちぬ」は宮崎の「抑圧してていいんだ」=「煩悩を維持してていいんだ」という自己肯定でもある
まあなんだラカンが記号化しなかった小文字のマイナスのついていないφの存在を仮に認めるならば
そんな奴より抑圧できている方がマシだとは思うが
ラカンが想像的ファロスを-φと書いてφと書かなかった理由が、「欲望の不可能性なしで欲望している主体など存在しない」ということだ
立木康介の「露出せよ、と現代文明が言う」という著作なんかは、立木はラカンが記号していない小文字のマイナスのついていないφを若者文化として批判してたりすんだな
ラカン派ならそんな主体は存在しないと思っていればいい
もっと楽観的(欲望が不可能であることに楽観するわけだから悲観と言ってもいいが)になっていいと思うんだな
そして原和之周囲が最近好んでしている「現代社会に対する批判」も、彼らは現代社会を小文字のマイナスのついていないφとして批判しているんだな
ラカン派なら、そんな主体は存在しないとすべきだ
批判すべきですらないんだよ、欲望が不可能であることがありえない主体なんて存在しないから
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まあそんなこと言いつつわたし自身も「抑圧の不在」であるある男性を小文字のマイナスのとれたφとしてたりするがな
たしかにあんなやつでいっぱいになるよりゃ抑圧している人すなわち強迫症者の方がマシである
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仏教において煩悩とは、己を煩わし悩ませるものである
ゆえに人は煩悩から脱したがる、これが人間の本願であるとする
であるのになぜ人は煩悩を生きたがるのか
それは、「抑圧」しているからなんだよ
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>欲望が不可能であることがありえない主体なんて存在しないから
この文章すげえな、三重否定だw
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そして精神分析における人間の本質をa/φbarreすなわち-φ/φbarreと表現した小笠原ですら、
「aが何も隠喩していない」と批判している現代社会は、ラカンがけして記号化しなかった小文字のマイナスのとれたφだと思うんだよな
小笠原ももっと楽観していい
現代社会において「欲望が不可能であることなんてありえない」と言っているように思える奴らであっても、最終的に彼らは「欲望の不可能性」に出会う
性関係が存在しないことに帰結する
わたしは自分はタナトスについて楽観的だと言う
人間は絶滅する可能性について楽観している
「そんなにぎゃーぎゃーわめかなくても人間は絶滅するよ、安心しろよ」つってるんだな
まあ確かに「欲望の不可能性なんてありえない」を地で生きている某男性みたいなやつと対話するとその楽観もゆらいだりするが
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現代の若者は欲望の不可能性を見失っていない
少なくともここにはわたし以外に二人いる
あ、若者じゃねえか(爆)←なつかしい
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そうだな。サトアキ的にはタメがあるのはつまらないと解釈している。
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小笠原などはこの「性関係の存在しなさ」をキリスト教の神性だと言ったりするが
それを受けてわたしはこういう
小笠原も立木ももっと楽観しろよ、と
お前らが批判している「aが何も隠喩しない奴ら」「欲望の不可能性などないと思っていそうな奴ら」なんて存在しない
まあたしかに某男性みたいなやつもときたまーにいるがなあ
逆にああいうのが珍しいと思うんだな、他の時代はしらんが少なくとも現代社会を生きているわたしの管見では
小笠原や立木がそういう奴らが大勢を示しているというのは眉唾だと思うんだな
「欲望の不可能性などないと本気で思っている奴ら」は現代社会においても極少数だ
まあメンヘラホイホイのわたしが言うことじゃないがな
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>>970
すまんかった、と謝罪しておこう
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>>971
現代の若者にも神性がある、と楽観していい、って話だな
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立木や小笠原が現代社会を小文字のマイナスのとれたφとみなして批判しているのは、彼らのペニス妬みであろうよ
ペニス妬み本家からすると男がペニス妬みしてたら「あいやその」ってなるんだよな
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>ラカン派ならそんな主体は存在しないと思っていればいい
まあブログで「φなんて存在しないで済む話なのか」とか書いてるわたしであるが
わたしが楽観しろよだな
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小笠原も現代社会のオタク文化を「aがなにも隠喩しない」つまり「欲望の不可能性を知らない症状だ」つってるわけだが
一方で小笠原は「人間には誰にでも神性がある」と真顔で言ったりする
「欲望の不可能性を知らない人間」つまり「神性のない人間」がいるかもと思っているが、
彼の根っこには「欲望の不可能性を知らないままでいる人間ななどいない」=「人間には誰にでも神性がある」という確信というがあるんだよな
ここが実際に精神分析受けた人であるなあと思えたりするわけだよ
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大丈夫だよ
欲望の不可能性がないと思っているように見えるオタクたちも、欲望の不可能性に苦しんでいる
彼らにも神性はある
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「欲望の不可能性を知らない人間などいない」=「人間は誰にでも神性がある」
というのは「人間誰しもカタルシスの予兆を感じる感覚がある」ということでもあるが
すなわち「人間は誰しもトラウマがあるPTSDだ」ってことになる
わたしも自分で言ってること矛盾してるなあ
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まあおがさーらに「楽観すれば」つってるわたし自身が実は楽観できてなかったりするわけだ
繰り返しになるがここでの楽観とは欲望の不可能性があることについての楽観だから、悲観することに楽観しているということになるが
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カタルシスってのも悲劇の本質として語られてるわけだろ
現代社会も、けっして悲劇を失っているわけではない
多くのメンヘラを臨床してきたわたしが断言する
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立木などはこの楽観さというか「欲望の不可能性に気付けられない人間などいない」というおがさーらの確信みたいなのがないんだな
ラカン派としては弱い
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まあそのサトアキ信者の「カタルシスとは幻想である」とか言ってるやつは
そいつの言っているカタルシスが本来の意味とは違ってたりするのかもしれんが
もし本来の意味でそう言っているのであれば、彼こそが「欲望の不可能性に気付けられない人間」であり「神性のない人間」であり
ラカンがけして記号化しなかった小文字のマイナスの取れたφたる精神様態だったりしような
カタルシスの本来の意味だと、「カタルシスとは幻想だ」と言うことは「欲望の不可能性が幻想だ」となり「欲望は万能である」という意味になるんだよ
論理的に
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小文字のマイナスの取れたφというのは他の心理学が言う「母子カプセル」なんだな
つまり欲望が完全に満たされた状態を指す
ラカンがわざわざマイナスを付けて-φという記号として書いたのは、他の心理学が言う「母子カプセル」は存在しないという意味なんだわ
「母子カプセル」が「欲望が完全に満たされている」ことなら、「母子カプセルは存在しない」ということは「欲望が完全に満たされることはありえない」ってなるだろ
で欲望が完全に満たされることがないことを知るのが精神分析の言うカタルシスであるわけだから、
「カタルシスは幻想だ」というのは「母子カプセルが存在しないことは幻想だ」つまり「欲望が不可能であることは幻想だ」と言っていることになるわけだ
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「欲望が不可能であることは幻想だ」つってることは、「欲望とは万能であるのが現実だ」つってることになるだろ
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文学理論のカタルシスは違う意味なのかもしれんが、精神分析の理論でそのまま解釈するなら、
そのサトアキ信者は「欲望は万能である」つってるわけで、「母子カプセル」に閉じこもったままの他の心理学でいうアダルトチルドレンとかそこらの人だとなる
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おがさーらが「人間には誰にでも神性がある」と真顔で断言するのは、
わたしが「人間が絶滅する可能性がゼロにならないことに楽観している」ということ同じだと思うんだよ
要するに「人間の欲望の不可能性がなくなることはない」ということについて楽観しているわけだ
わたしもおがさーらも
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おがさーらは精神分析を実際にうけて、カタルシスを体験したのであろうよ
だから「人間にはかならずカタルシスがありえる」=「人間の欲望の不可能性がなくなることはありえない」=「人間には誰しも神性がある」
ことについて「証言」しているんだと思うんだよ
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文学理論のカタルシスと違うって事は無いとは思うがなあ。仁木の言ってるカタルシスはお涙頂戴の言いではないかと思うのだが。
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ttp://blog.nagii.org/?eid=230086
>「小説には真なる事柄を語ることができないし、真なる言葉で語ること自体あり得ず、そもそもどちらも必要がない」
ほんとにそうなのかって思うが。真なる言葉を語りえないのなら小説じゃなくて全てがそうだろとか。
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立木康介などは本当のところはしらんが実際に精神分析をちゃんと(それなりの長期で)受けたことがあるって話は聞かない
藤田博史なども実は数回セッションを受けただけだ
精神分析が数回で終わることなど、その分析主体が精神病ではない限り、ありえない
藤田は自分が精神病だと言うならその数回のセッションで「自分は精神分析を受けた」と言っていいと思うが
なにせ精神病は「分析を先に進める必要はない」からな
おがさーらとか向井とかは、「人間の欲望の不可能性」についてある種の確信みたいなものがあるんだよ
確信と言うより、彼らは実際に精神分析を受けて「欲望の不可能性」たる状態に陥ったから、それについて「証言」しているわけだよ
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このブログがサトアキのカタルシスについて言いたいことを要約して語ってると思われる。仁木のカタルシス解釈は完全に師匠譲りではあろうな。
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>>989
あ、ハスミン派じゃね、その人
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>>991
読みたくねえ
実際にφな人だったらわたしが壊れる
もうφはいらん
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意味の違うカタルシスでも別にええし
わたしは詩学かつ精神分析の言うカタルシスの意味で使っているだけで
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「そもそもどちらも必要がない」というのがハスミンなんだな
精神分析は「語りえないことを語る」のが倫理である
Bien-direだ
そして「語りえないことを語る」ことは、小笠原が向井などがしていること、
実際に精神分析を受けて自身が陥った「欲望の不可能性」について「証言」することだ
で芸術の本質とは「語りえないことを証言すること」である
「どちらも必要ない」というのは精神分析の倫理に反する
ハスミンの「表層だけを語れ」っつうのも「語りえないことを証言することは必要ない」つってることなんだわ
だからわたしはハスミンは死んでいい人間だと思っている
「欲望の不可能性」という中身がない「死んだまま生きている人」
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精神分析と芸術は、「欲望の不可能性」つまるところ「性関係は存在しない」あるいは「死」という、自身が実際に陥った状態について、「証言」することが、共通している、となるわけだよ
ラカンが「精神分析は芸術である」と言ったのはそういうことかと
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その仁木というやつも精神分析の倫理においては死んでいい人間だな
なぜならその人は死んでいるから
「欲望の不可能性」という強迫症が「死」だとする生を生きていないから
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実際にはそうじゃないだろ、と言うのが「人間誰しも欲望の不可能性がある」ってことなんだな
で精神分析は「欲望の不可能性を証言する」ことだ
「それを語る必要がない」というのは精神分析は必要ないということ
まさにラカンが言った「日本人は精神分析できない」である
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別に必要ないなら必要ないでいいんだよ
精神分析の倫理において死んでいる人間だとなるだけだから
つまり精神分析が存在しないと規定する「欲望の不可能性がない人間」となるから
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精神分析は、「自身が陥った状態」について「証言」することだから、わたしはまぐなに「私小説書いてみれば」つってるわけだな
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