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鬼和尚の経典解説まとめ
1
:
避難民のマジレスさん
:2024/06/10(月) 12:44:03 ID:v59RPKQA0
・鬼和尚の経典などの解説をまとめるスレです
・『金剛般若経』の解説はこちらにあります↓
"金剛般若経を読んで実践する"
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1701949889/99-133
2
:
避難民のマジレスさん
:2024/06/10(月) 12:46:06 ID:v59RPKQA0
<法華経解説>
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1629215086/
より以下抜粋
303鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2021/11/23(火) 23:45:17.54ID:xVLy3Ngq
法華経とは妙法蓮華経の略なのじゃ。
最初に書かなければならないのは、法華経はお釈迦様の説いたものではないということなのじゃ。
それはもはや完全にわかっているのじゃ。
お釈迦様が涅槃に入ってから何百年もたってから書かれたものなのじゃ。
それ故に欠陥もある経なのじゃ。
その欠陥は法華経だけのものではなく、大乗と自称する全ての経や論にもあるものじゃ。
一例をあげれば女性が成仏できないとか、カーストの肯定とかなのじゃ。
お釈迦様が否定した生まれによる差別を、認めているのじゃ。
それ故に法華経も他の大乗経典も実は真の仏教の経典とはいい難いものじゃ。
法華経はその大乗経典の最高経典である故に、大乗の矛盾や外道の論も総て取り入れられているのじゃ。
そうであるから全く実践には使えないのではないかと言えば、そうでもないのじゃ。
法華経にはさまざまな法も説かれているのじゃ。
実践すれば役に立つ、興味深い法もまた説かれているのじゃ。
例えばふぐの調理人が毒のある肝を注意深く取り除いて上手い料理に仕上げるように、この経典もまたおかしなところを取り除いて注意深く取り扱えば善い法も知れるのじゃ。
それは法が心性に合う者には実に役に立つ恩寵となるじゃろう。
よく研鑽して学び、実践するとよいのじゃ。
3
:
避難民のマジレスさん
:2024/06/11(火) 10:52:12 ID:J2M/fDac0
319鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2021/11/25(木) 00:02:25.70ID:bzAqND7q
法華経が大乗にとって重要な経典であるゆえんは、大乗の存在理由そのものが書いてあるからなのじゃ。
法華経に拠って大乗とはなにものであるのか、明らかにされるのじゃ。
そうであるから大乗にとって法華経は最も大事な経典なのじゃ。
更にいえば大乗を全体として知るには先ず法華経をよむのがよいのじゃ。
それから他の大乗経典をよむべきなのじゃ。
そうすれば全体を把握した上で理解もできるのじゃ。
では法華経と三部経の概要を示すのじゃ。
法華経は通常法華三部経として流布しているのじゃ。
無量義経と仏説観普賢菩薩行法経なのじゃ。
無量義経は空と言う単語は使われていないが、空の法をといたものなのじゃ。
金剛経と同じ法も示しているのじゃ。
仏説観普賢菩薩行法経は普賢菩薩の観想と懺悔の法を示しているのじゃ。
密教といまよばれている法と近いものじゃ。
さまざまな法を説いている法華経の性質をよくあらわしていると言えるのじゃ。
4
:
避難民のマジレスさん
:2024/06/12(水) 11:12:26 ID:6xiccWTM0
322鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2021/11/25(木) 23:37:37.40ID:bzAqND7q
いよいよ法華経に入るのじゃ。
最初の序章でお釈迦様は前述の無量義経を説き終わって、サマーディにはいったというのじゃ。
周りは菩薩や阿羅漢や天人や弟子達が囲んでいたというのじゃ。
すると地震が起きて、お釈迦様の眉間からいきなり光が放たれたというのじゃ。
その光は東の世界を照らして、そこにある仏国土を照らしたというのじゃ。
その光に拠って遠くの仏国土は周りのみんなによく見えたというのじゃ。
その場に居た弥勒菩薩は不思議に思って文殊菩薩に聞いたのじゃ。
すると文殊菩薩はみんなにこれは自分の昔の経験からみて、お釈迦様が法華経をとく前兆であるといったのじゃ。
次につづくのじゃ。
二章にはいるとお釈迦様はサマーディから立ち上がり、仏陀の智慧はすごいとか自慢したりするのじゃ。
菩薩も知恵者も何人束になってもかなわんとかいうのじゃ。
そんなわしがもっている法門もすごいからみんなにはわからんじゃろうとかいうのじゃ。
しかし勧請されて舎利仏を相手に法華経を説き始めるのじゃ。
それによれば今まで大乗経典で説いてきた声聞乗、辟支仏乗、大乗は実は方便であり、ただ一乗の大乗だけがあるというのじゃ。
ここまでが法華経の最も大事なところなのじゃ。
後は付け足しなのじゃ。
5
:
避難民のマジレスさん
:2024/06/13(木) 13:26:28 ID:gf1zVb5U0
330鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2021/11/26(金) 21:36:26.41ID:rYiKB8wl
三章ではお釈迦様が舎利仏に授記をするのじゃ。
それは如来になるという予言なのじゃ。
それを受けて舎利仏は喜び、火宅の比喩を語るのじゃ。
火のついた富豪の家から子供達を助けるために、富豪がいろいろな乗り物で子供達を誘うというのじゃ。
そして火宅から逃れてきた子供達に、実際には一番上等の乗り物を与えるというのじゃ。
それが大乗の喩えであると言うのじゃ。
ここまででいろいろなことがわかるのじゃ。
先ず大乗とはただの法だけでなく、世界観から創作されているということなのじゃ。
大乗の世界観から理解しなくては、ここまででも全くわけがわからないじゃろう。
大乗の世界では如来というものが最も重要なキャラクターなのじゃ。
如来とはただ悟っただけでなく、さまざまな誓願により、大きな力を持つ仏陀なのじゃ。
誓願とは修業する時に、自分はこのような力のある仏になるまで悟りを得ないとか誓うことなのじゃ。
すると悟った時にはその力を得るのじゃ。
例えば阿弥陀如来はいろいろ誓願をしたが、その中に自分の名前をよんで帰依した者達を自分の国土に招待すると誓ったのじゃ。
そのために浄土教のように、多くのものが南無阿弥陀仏と名号を唱えて浄土にいけると信じるようになったのじゃ。
それが如来の誓願による力なのじゃ。
6
:
避難民のマジレスさん
:2024/06/14(金) 11:44:30 ID:d8bAAeKA0
331鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2021/11/26(金) 21:36:47.05ID:rYiKB8wl
そして如来は仏の国土をもつというのじゃ。
阿弥陀如来の極楽浄土が一番有名なのじゃ。
お釈迦様も清浄な仏国土をもっているが、凡人にはみえないのじゃ。
その仏国土も誓願により、善い所に作れるというのじゃ。
そのようにただ悟っただけの阿羅漢と、さまざまな力と仏国土を持つ如来は違うものだというのが、今までの大乗の世界観であったのじゃ。
そして如来に成れるのは菩薩だけであり、阿羅漢はなれないというのが今までの大乗の設定だったのじゃ。
菩薩ではない阿羅漢は声聞乗と辟支仏乗の小乗のものとして大乗経典では扱われていたのじゃ。
菩薩乗のものが大乗であり、如来になれるものだというのじゃ。
しかし、その大乗の設定がこの法華経に拠って覆ったのじゃ。
実は全部大乗だというのじゃ。
火宅から子供を誘い出すために、嘘をついた富豪のように、実は阿羅漢のものも如来になれるというのじゃ。
7
:
避難民のマジレスさん
:2024/06/15(土) 12:47:43 ID:xTFn.B2A0
345鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2021/11/27(土) 23:42:43.30ID:Gblw97Oj
如来と、阿羅漢としてただ悟っただけの者とはどのように違うのかと疑問がわくじゃろう。
如来は一つの国に一人だけ表れ、その国の全ての衆生を教化する絶対的な存在であるのじゃ。
悟った者は国に何人も居て、人に教えないものもいると従来の大乗では説くのじゃ。
如来は大乗仏教のスーパースターなのじゃ。
他の宗教の神にも等しいほとんど全知全能にも等しい存在なのじゃ。
法華経では更に神格化が進んで行くのじゃ。
大乗は創作されたものであるが、このように如来が多くの衆生を教化するという思想は見習うべきなのじゃ。
悟った者は自分はもはや安楽で、観念も無いから他人に教えることは無意味と知るのじゃ。
それで教化にも不熱心だったりするのじゃ。
お釈迦様でさえ、最初は衆生に教えるより速やかに涅槃にいこうとしたからのう。
大乗で修業したはずの後の禅僧でさえ、悟った後に何も教えず終えたものも居ると言うのじゃ。
大乗がこのように如来という存在を前面に出して、一切衆生を教化すべきであるというのは善い事なのじゃ。
それで仏教も広まるのじゃ。
例えば貧乏寺で毎日乞食行をしなければ食えないような多くの僧も、いつかはわしも如来になれるという希望で修業と教化を続けたじゃろう。
それが大乗の存在理由であり、法華経の意義であると言えるのじゃ。
8
:
避難民のマジレスさん
:2024/06/16(日) 11:56:32 ID:ewn5BFxM0
354鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2021/11/28(日) 23:42:51.60ID:czxftx85
三章までの本旨が終わったら、もはや付けたしなのじゃ。
四章では須菩提長老たちが、旅に出ていた金持ちの子供が帰宅した比喩を語るのじゃ。
阿羅漢の自分たちも如来になれるとはありがたやと感涙するのじゃ。
五章ではお釈迦様が薬草の比喩を語って、一つの教えも受ける側の性質で異なるとかいうのじゃ。
それで一乗も三乗で説いたというのじゃ。
そして六章では阿羅漢の長老たちがいずれは如来になれると授記をするのじゃ。
七章でお釈迦様は大昔は大通智如来の弟子であったと説いて、化城の比喩を告げるのじゃ。
旅をする商人たちが疲れたら、仮説の城を作って休ませるというのじゃ。
疲れが取れたらまた目的地にまで旅をするのじゃ。
そのように阿羅漢も旅の途中の仮設された城のようなものというのじゃ。
更に如来の境地を目指すべきだというのじゃ。
八章から十章まで五百羅漢や、まだ修行中の者達までいずれは如来になれると授記をするのじゃ。
もはや授記の大安売りなのじゃ。
9
:
避難民のマジレスさん
:2024/06/17(月) 08:43:24 ID:ouTASc2s0
356鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2021/11/29(月) 23:28:15.93ID:iX+2BEhg
11章では多宝塔というものが出現するのじゃ。
それには多宝如来が入っていたのじゃ。
お釈迦様が法華経をといたことを賞賛したのじゃ。
多宝如来とは大昔の如来なのじゃ。
将来、どこかの如来が法華経を説いたら、それを賞賛するために出現すると誓ったのじゃ。
そうであるからお釈迦様が法華経を説いたら出現したのじゃ。
それは後に如来の寿命が無限に近いことを示すための伏線なのじゃ。
12章ではダイバダッタでさえ将来は如来になると、授記されるのじゃ。
更に龍王の娘も男になって授記されるのじゃ。
女子のままでは如来になれないからというのじゃ。
そこに大乗の差別体質が現われているのじゃ。
10
:
避難民のマジレスさん
:2024/06/18(火) 12:33:16 ID:/YPbD9fQ0
358鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2021/11/30(火) 23:44:29.74ID:MjW2deVS
13章では法華経を護持することの勧めが書かれているのじゃ。
そして14章では法華経を護持するためにはどのようにするのか示されるのじゃ。
ここで犯罪者とセンダラに近づいてはいかんとかいうのじゃ。
センダラとは漁師とかの階級なのじゃ。
カーストなのじゃ。
法華経にはカーストの差別が残っているのじゃ。
それは大乗にヒンドゥー教の影響が有るからなのじゃ。
お釈迦様の教えではないから、そのような差別も残っているのじゃ。
お釈迦様はカーストを否定したのであるから差別はないのじゃ。
比丘尼にも修業をさせて悟った者もいるから女子も悟れるのじゃ。
大乗といいながら、実は女子とかカーストへの差別が残っているのが法華経なのじゃ。
実際には大いなる乗ものではないのじゃ。
むしろ差別をする大乗が賎しい乗り物なのじゃ。
そのような害毒を捨て去って大乗も理解すると善いのじゃ。
11
:
避難民のマジレスさん
:2024/06/19(水) 13:03:30 ID:gqACcHwQ0
361鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2021/12/01(水) 23:37:35.25ID:tTW70SAj
15章ではいきなり地面が割れて多数の菩薩があらわれるのじゃ。
それらは全てお釈迦様の弟子だというのじゃ。
地湧の菩薩というのじゃ。
それを見て弥勒は疑問に思うのじゃ。
お釈迦様はいつこんなに多くの菩薩を教化したのかと。
16章ではそれにお釈迦様が答えて、実はわしはもっと長く生きているのじゃというのじゃ。
衆生に実践させるために涅槃を仮に現しているだけで、寿命は無限に近くあるのだというのじゃ。
無量の寿命があるというのじゃ。
如来の神格化なのじゃ。
12
:
避難民のマジレスさん
:2024/06/20(木) 13:09:05 ID:6l8cgHy20
367鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2021/12/02(木) 21:55:32.26ID:5/orZ4S1
17章から19章にかけて、お釈迦様の無量の寿命と、法華経を護持することの功徳が語られるのじゃ。
法華経を護持するだけでもものすごい功徳があるというのじゃ。
修業しないでも神通力を得たりするとまで言うのじゃ。
それも宣伝のために記してあるだけなのじゃ。
実際はそのようなことはないのじゃ。
ただの宣伝文句なのじゃ。
この宣伝のために多くの者が騙されたのじゃ。
日蓮もこれに騙されて法華経に帰依する題目を唱えれば成仏できるとか、衆生に教えてしまったのじゃ。
実際にはそれだけで仏になれる筈も無いのじゃ。
信じたぶんだけ病が治ったりするだけなのじゃ。
いわしの頭を信じたものと同じ程度の信仰の力なのじゃ。
13
:
避難民のマジレスさん
:2024/06/21(金) 12:22:42 ID:Y/V2l3pY0
378鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2021/12/03(金) 23:22:56.00ID:hVdd5B9G
20章ではお釈迦様の前世として常不軽菩薩がでてくるのじゃ。
会う人みんなをいずれ仏になるとかいうのじゃ。
全ての者に仏になる性質、仏性があることを示しているのじゃ。
21章ではお釈迦様が神通力をみせるのじゃ。
叫んだり、ゆびぱっちんをすると三千世界に響いたというのじゃ。
それもまた神格化なのじゃ。
22章ではこの経をみんなに依属するというのじゃ。
みんなで広めるのじゃと、たくすのじゃ。
それから後は密教的展開になるのじゃ。
14
:
避難民のマジレスさん
:2024/06/22(土) 13:30:46 ID:.S2lonHs0
390鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2021/12/05(日) 00:05:53.85ID:vK3Ur6hS
23章からは菩薩や天人たちが法華経を護持する者を保護するというのじゃ。
空海が法華経を推したのもこの後半の密教的な展開があるからなのじゃ。
法華経を護持していれば菩薩や多くの天人たちをよべるのであるから、密教そのものなのじゃ。
23章では薬王菩薩が保護するというのじゃ。
24章では妙音菩薩が保護するのじゃ。
25章では観世音菩薩が保護するのじゃ。
この章だけをとりあげて観音経といったりするのじゃ。
26章では菩薩や天人、夜叉等の妖怪までもが陀羅尼を唱えればすぐに来て保護するというのじゃ。
これが正に密教の真言と同じなのじゃ。
法華経は実践の法が少ないというが、このような真言の法は実践の法としてあるといえるのじゃ。
27章では妙荘厳王菩薩の因縁が語られるのじゃ。
28章では普賢菩薩の陀羅尼と保護が語られて修了なのじゃ。
全体を俯瞰してみれば法華経は大乗の始末をしたといえるのじゃ。
大乗とは実は方便に過ぎないものであると語られ、一仏乗のみ真実というのじゃ。
如来になる乗り物なのじゃ。
そうであるからには本来、大乗ではなく、仏乗とを説くべきであるのに、未だに大乗と名乗る者が多いのじゃ。
実に実学相違なのじゃ。
仏乗では般若の空の法とか、陀羅尼による集中の法などが使える法なのじゃ。
誓願をして衆生を多く教化すべきであるとするのも善法なのじゃ。
後は捨てて善いのじゃ。
そのように択法して実践すると善いのじゃ。
15
:
避難民のマジレスさん
:2024/06/23(日) 11:59:04 ID:SEe0v4a60
<解説・大乗起信論>
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1627742187/
より抜粋
928:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/03/18(金) 21:55:22 ID:1d4drIFg0
大乗起信論とはインドの馬鳴が書いたというが、実際はあやしいのじゃ。
もっと後の行者の著作であると言うのじゃ。
あるいは中国で書かれたとさえいうのじゃ。
誰が書いたものでもよいのじゃ。
仏教徒にとって意義のある文なのじゃ。
論とはいうが実際には大乗仏教の概要のようなものじゃ。
今で言うガイドブックなのじゃ。
簡略に大乗仏教の全容が記されているのじゃ。
最初の章は因縁分、この論を何故書いたのかという動機なのじゃ。
二立義分、大乗の二つの大事な教えなのじゃ。
三は解釋(げしゃく) 分、前章の解釈なのじゃ。
四は修行信心分 大乗の実践法なのじゃ。
五は歡修利益分、大乗を信仰して実践した利益の教えなのじゃ。
16
:
避難民のマジレスさん
:2024/06/24(月) 12:22:58 ID:RzbjLcq20
932:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/03/19(土) 23:48:22 ID:1d4drIFg0
因縁分には論を表す八つの動機が書かれているのじゃ。
一 衆生を一切の苦から離れさせて、究竟樂、つまりは悟りを得させるためというのじゃ。
二 如来の教えの根本の意味を解き明かし、衆生に正しく教えるためというのじゃ。
三 善根があり、教えを受ける心根の成熟した者に大乗の道から不退転にするためというのじゃ。
四 善根がまだ小さい者には信心を習わせるためというのじゃ。
五 方便を示して、罪悪業を消して、心を守り、愚かさや傲慢を離れさせるためというのじゃ。
六 止観を習わせ、凡夫や二乗をなくすためというのじゃ。
七 念仏を示して、仏の前に生まれさせて不退転にすためというのじゃ。
八 実践の利益を示して、修業を勧めるためというのじゃ。
なかなか立派な動機であるが、実際には止
(ここで切れていた文章の補足↓)
292:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2024/04/04(木) 23:13:12 ID:Z.v0H0mA0
>>289
そうじゃったか。
実際には止観の観察はすでにわからなくなっていたようじゃ。
もはや苦を滅することもできなかったのじゃ。
苦を滅する法は観察によるものであるからのう。
(
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1707228061/292
より)
17
:
避難民のマジレスさん
:2024/06/25(火) 11:51:48 ID:uwdfyntA0
945:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/03/21(月) 22:45:11 ID:1d4drIFg0
昔の論文には読む者の疑問を想定して、問答が書かれていたりするのじゃ。
今で言うQ&Aじゃな。
質問者は、仏教の法は経典に書かれているのに、なぜ今又このような論を表すのか聞いたのじゃ。
著者は答えてお釈迦様が居た時は修業者も賢い者達ばかりであり、説法する方も心身が優れていて、
説法も優れてみんな理解できたというのじゃ。
そうであるから論も表さなくてよかったのじゃ。
今の者は自力で広く聞いて解るも者もあり、少し聞いただけで解るものもあり、
或いは自力ではわからないが、多くの者達が論争してわかるものがあり、
或いは覚えていることは少ないが、意味を考えて解るものもいるのじゃ。
このように、如来の法の広大な意味を集めて理解する者もいるから論を説くというのじゃ。
18
:
避難民のマジレスさん
:2024/06/26(水) 10:47:45 ID:UjW1dXDc0
948:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/03/22(火) 23:42:14 ID:1d4drIFg0
大乗には二つの説法の方法があると言うのじゃ。
一つは法であり、
二つは義なのじゃ。
その法とは衆生の心だというのじゃ。
全ての法は世間の法も仏教の法も、心で行われるからなのじゃ。
その心で大乗もまた実践されるのじゃ。
なぜならばその衆生の心には最初から真如が宿っているからというのじゃ。
それこそが大乗の本体を示すものなのじゃ。
その心の生滅因縁の相は、大乗の自体と相用を示すというのじゃ。
二つ目の義には三種あるというのじゃ。
一つ目は体大、一切法は真如平等にして増減しないからというのじゃ。
二つ目は相大、如来蔵は無量の功徳をもっているからというのじゃ。
三つ目は用の大、世間と修業においてよい因果を生ずるからというのじゃ。
このように大乗の法は諸仏の本来の乗り物であるから、諸仏は皆大乗で如来になったというのじゃ。
19
:
避難民のマジレスさん
:2024/06/27(木) 10:41:07 ID:GMus6Hts0
949:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/03/22(火) 23:42:59 ID:1d4drIFg0
真如とは涅槃であり、仏性であり、オショーのワンネスでもあり、わしがいう不死の意識でもあるものじゃ。
それは本来衆生の心の中にあるものじゃ。
それを説き明かすのが大乗の法の本体だというのじゃ。
仏になれる性質や、目覚めて至る如来の境地とは、本来悟っていない衆生の心の中にあるものじゃ。
目覚めるとか、仏陀になるということは何か人間ではない別の者になるということではなく、むしろ本来の人間のありように還って行くこととも言えるのじゃ。
そうであるから自分は仏陀になれないのではないかとか、思う必要は無いのじゃ。
衆生は本来仏陀なのじゃ。
このようなことは確かに今までの仏教では説いて来なかったことなのじゃ。
お釈迦様も毒矢の例えで説いた通り、仏教には論はなく、ただ実践によって知ればよいという説き方だったのじゃ。
それでは理解できず実践も出来ないもののために大乗は真如を説いたと言えるのじゃ。
それこそが大乗の本体であり、真髄といえるのじゃ。
そして大乗の存在意義も、衆生の心にこの真如があり、衆生本来仏であると説き明かすことにあると言えるのじゃ。
そうであるからこれからもこの真如はこの論文の至る所に出てくるのじゃ。
宝珠の例えとか、海と波の例えとか、いろいろに例えても説いているのじゃ。
それを知れば大乗起信論を読む意義もあったと言えるのじゃ。
20
:
避難民のマジレスさん
:2024/06/28(金) 12:21:24 ID:jrsIXXHY0
<解説・浄土三部経>
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1639295737/
より抜粋
782 :鬼和尚 :2021/12/17(金) 21:56:52.44 ID:GBRRuT82.net
今回は浄土三部経について話すのじゃ。
浄土三部経とは「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」の三つの大乗経典を指していうのじゃ。
三つとも阿弥陀如来と、その仏国土である安楽国、いわゆる極楽浄土の話であるから同じ教えとしてまとめるのじゃ。
この三つの経典が浄土宗や浄土真宗では根本経典として奉じられているのじゃ。
お釈迦様が西方の阿弥陀如来について説いたというのじゃ。
しかし、実際には後世に作られた偽典なのじゃ。
お釈迦様はこの三部経を説いていないのじゃ。
お釈迦様の縁起の観察はないのじゃ。
大乗仏典には大抵載っている空の法さえも説かれていないのじゃ。
ただひたすらに阿弥陀如来と浄土の話だけなのじゃ。
そうであるから法として使えないということもないのじゃ。
極楽浄土と阿弥陀如来を観想する法として実用性があると言えるのじゃ。
それは集中の役に立つのじゃ。
密教で行われる神仏の観想と同じなのじゃ。
ただひたすらに阿弥陀如来と浄土をイメージすることで集中し、サマーディに入るための法なのじゃ。
密教に近い法なのじゃ。
実際に日本でも覚鑁が密教に組み入れたりしたのじゃ。
チベット密教でも阿弥陀如来の極楽浄土を観想する法が在るのじゃ。
密教的な法の教えといえるのじゃ。
特に「観無量寿経」では実際に観想する手順も説かれているのじゃ。
最初は夕日を観想して、ありありと見えるようになったら浄土を観想するようにと、詳しく説明されているのじゃ。
無量寿経、阿弥陀経もそのための解説といえるのじゃ。
この三部経によって日々実践に勤めるならば、サマーディも訪れるじゃろう。
それがこの三部経の存在理由であり、正しい使い方といえるのじゃ。
21
:
避難民のマジレスさん
:2024/06/29(土) 16:41:28 ID:ghx06BfQ0
824 :鬼和尚 :2021/12/18(土) 23:27:17.97 ID:I3f/KtXi.net[2/3]
浄土三部経の最初は阿弥陀経についてなのじゃ。
この経典では阿弥陀如来の由来が語られているのじゃ。
阿弥陀如来は前世では法蔵菩薩といい、大乗仏教の修業をしていたというのじゃ。
その時に有名な四十八の誓願を立てたというのじゃ。
それには自分が極楽といえる仏国土を持つ他に、その地に生まれる衆生にさまざまな恩典が受けられるようにという誓願が在るのじゃ。
その中で特に後世に大きな影響を与えたのが、自分の称号を十回念じたら、この極楽浄土に生まれ変われるようにするというものなのじゃ。
この誓願のためにどこに生まれた者でも、阿弥陀如来の称号を十回念じたら、極楽浄土に生まれかわれるという信仰が生まれたのじゃ。
お釈迦様が説いた法では嘘をついたら地獄行きなのじゃ。
よい所に生まれるためには嘘をつかず、ひたすら善事を積まなくてはいかんのじゃ。
これでは俗世間ではなかなか厳しい条件といえるのじゃ。
それに比べてこの阿弥陀経ではただ十回念じるだけで極楽にいけるというのじゃ。
かなり条件が緩和されているのじゃ。
それがために浄土信仰がチベットから中国、日本にまで広まったのじゃ。
しかし、この誓願には条件があったのじゃ。
五逆の者と正法を誹謗した者は除くというのじゃ。
22
:
避難民のマジレスさん
:2024/06/30(日) 13:06:24 ID:Aku.bSOo0
825 :鬼和尚 :2021/12/18(土) 23:27:54.84 ID:I3f/KtXi.net[3/3]
五逆とは、一、父を殺す、二、母を殺す、三、阿羅漢を殺す、四、仏陀の体を傷つける、五、僧の和合を壊す、という五つの罪なのじゃ。
正しい法を誹謗するのは、お釈迦様の伝えた法や、大乗仏教の法等、人を悟りに向かわせる法を非難することなのじゃ。
この二つの条件以外の者は、阿弥陀如来の名を十回も念じれば極楽浄土に生まれるというのじゃ。
この条件があるために浄土宗や、浄土真宗も古くから非難されているのじゃ。
阿弥陀如来の念仏一筋に特化して、他の教えを捨てるならば、それこそ正法の誹謗に当たるからなのじゃ。
このような教義上の理論は別にしても、実際の法の選択でも他の法を全て捨ててしまうのはいかんのじゃ。
なぜならばお釈迦様の説いたように、人には性質の違いにより、法の向きと不向きがあるからなのじゃ。
誰にでも向いている法というものはないとさえいえるのじゃ。
この法が向いているのは、阿弥陀如来に本当に心身を捧げることができる者だけなのじゃ。
それは実際には難しいことじゃろう。
念仏観想の法が向かない者は、別の法を実践するべきなのじゃ。
その道を塞いでしまう、念仏専一の理論はやはり間違っているといわなければならないのじゃ。
23
:
避難民のマジレスさん
:2024/07/01(月) 11:05:31 ID:klQqA4QQ0
974 :鬼和尚 :2021/12/19(日) 22:04:02.00 ID:Mo2srYHF.net[1/2]
>>827
まだなのじゃ。
もう少し在るのじゃ。
>>839
おぬしは本をあまりよんでいないようじゃのう。
古人の呼称は最終経歴に統一するのが一般的なのじゃ。
例えば大佐で退役した軍人は、吉田大佐は高卒で軍に入隊したとかかかれるのじゃ。
大佐も入隊時には二等兵かもしれんが、煩雑をさけるために統一するのじゃ。
法蔵菩薩は菩薩で最終経歴であるから菩薩に統一するのじゃ。
わしは「極楽といえる」と書いているのじゃ。
極楽という国名とはかいていないのじゃ。
それが一般的な呼称である故にわかりやすいように書くのじゃ。
本当は安楽国でさえないのじゃ。
安楽国でさえも翻訳の一つに過ぎないのじゃ。
それは概要であるから四十八全てに平等に言及するのじゃ。
>>841
それは善導の感想ですよね、なのじゃ。
その文が違うならば他宗がどのように非難したのか資料で述べるべきなのじゃ。
>>845
それもまたおぬしの感想なのじゃ。
おぬしはそれで正法の誹謗ではないとしたいのであるかもしれんが、捨閉閣抛を主張した時点で既に誹謗なのじゃ。
なぜならば西方浄土は存在せず、念仏をして簡単にいけるということもありえないからなのじゃ。
ただ集中のための難行であるのに、他の易行を避けさせる時点で正法の誹謗なのじゃ。
わしはその無量寿仏経に念仏に特化しろと書いてあるとは書いていないのじゃ。
むしろわしは無量寿仏経には念仏に特化するな、正法を捨ててはいかんと書いてあるという主張なのであるがのう。
わしの書いた文をよく読むのじゃ。
わからなければ聞けば善いのじゃ。
※捨閉閣抛
https://www.weblio.jp/content/%E6%8D%A8%E9%96%89%E9%96%A3%E6%8A%9B
24
:
避難民のマジレスさん
:2024/07/02(火) 11:53:50 ID:aad56Rlo0
993 :鬼和尚 :2021/12/19(日) 23:10:04.81 ID:Mo2srYHF.net[2/2]
こんな話が在るのじゃ。
昔、信仰熱心な商人が居たのじゃ。
寺に度々お参りして、神仏を拝んでいたのじゃ。
自分の心身の全てを捧げて帰依すると声に出して誓って礼拝していたのじゃ。
すると身を屈しているものだから、財布が懐から転がり出たのじゃ。
商人はあわてて拾って懐にしまったのじゃ。
周りで見ていた者達は、
「全てを捧げて帰依するのではなかったのか」
と、商人に聞いたのじゃ。
「お金は別だ」
と、商人が答えるとみんな大笑いしたのじゃ。
商人は顔を赤くして寺から去ったのじゃ。
このような商人でなくとも皆、全てを捧げて帰依するといいながら、やはり別に捧げたく無いものがあるじゃろう。
名声や権力や家族などを全て捧げるというものは極稀なのじゃ。
神仏に帰依する道はこのようにたやすい方法に見えて、実は困難な道なのじゃ。
旧約聖書にも神に子供を捧げたアブラハムの話が在るのじゃ。
神が子供のイサクを捧げよと、告げたからイサクを焼いたのじゃ。
まるで美談のように語られているが、現代でやれば狂信的な犯罪者なのじゃ。
インドにも神に全てを捧げて生活も崩壊したというものの話が在るのじゃ。
実際に全てを捧げれば、そのようになるしかないのじゃ。
現代で家族と生活して仕事もある人間には、神仏への完全な帰依などできないことなのじゃ。
できたとしてもサマーディで止まってしまうのじゃ。
神仏を捨てることが出来ないから、囚われになるのじゃ。
行き止まりで、困難な道なのじゃ。
むしろただ座って呼吸を数えるほうが容易な行なのじゃ。
何も捨てず、捧げなくてよいからのう。
ただひたすらに座って集中すれば、サマーディも訪れるのじゃ。
この無量寿仏経では華麗な極楽浄土の様子が描かれ、そこに僅か十念でいけるというから皆魅了されるが、それもまた法の一つであり至って困難な道であることをも、知っておかなければならんのじゃ。
25
:
避難民のマジレスさん
:2024/07/03(水) 11:43:23 ID:6O2r8ob.0
0171鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2021/12/20(月) 21:54:07.57 ID:xb+qmV8S
次は観無量寿経なのじゃ。
題名どおり無量寿仏の観想と、極楽浄土や菩薩の観想を教える経なのじゃ。
観想とは今の言葉で言えば、イメージすることなのじゃ。
阿弥陀如来や菩薩や極楽浄土をイメージすることでサマーディを目指すのじゃ。
最初は日輪のイメージを目の前にありありと見えるぐらいに思い浮かべるのじゃ。
それから浄土の地面、川や池、宝樹をイメージするのじゃ。
そして菩薩や阿弥陀如来をイメージするのじゃ。
この順序で行うことでイメージもし易くなるのじゃ。
それは他の修業の神仏のイメージと同じなのじゃ。
先に神仏の周辺にある環境からイメージしていくのじゃ。
そうすることで集中力も増してイメージができるようになるのじゃ。
それはヨーガとかカバラのメルカバの技と同じ人類共通の知恵なのじゃ。
このように観想を続けていけば、念仏三昧に入れるというのじゃ。
それこそがこの経の目的なのじゃ。
信仰を理由にしてサマーディに入らせる方便なのじゃ。
サマーディへの道は長く困難なものじゃ。
途中で飽きてしまうものが大半なのじゃ。
このように阿弥陀如来への信仰と、極楽に生まれかわれるという褒美を示すことでサマーディへの道を全うさせるのじゃ。
他に臨終の時に阿弥陀如来が迎えに来る情景を載せて在るのじゃ。
それもまた観想してサマーディに入らせるために書いてあるだけなのじゃ。
実際には居ない者は臨終にも来ないのじゃ。
惑わされずにただひたすらサマーディを目指すのじゃ。
26
:
避難民のマジレスさん
:2024/07/04(木) 11:48:03 ID:t0Y0SkzE0
0266鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2021/12/21(火) 21:53:52.89 ID:/3Hbzzup
最後は阿弥陀経なのじゃ。
これには阿弥陀如来が西方の極楽にいることが説かれているのじゃ。
阿弥陀如来は今も生存して極楽で法を説いているというのじゃ。
阿弥陀如来の寿命は無量といえるほど長いから無量寿仏というのじゃ。
極楽は理想の国として説かれているのじゃ。
そこに行きたいものは阿弥陀如来の名号を保持して一心になればいけるというのじゃ。
一日から七日までどれかの日数、一心になれば行けるというのじゃ。
これがサマーディに到達するための行なのじゃ。
わずか一日でも他のことを考えずに一心に名号を保持するのはかなり困難なものじゃ。
それが出来ればサマーディに到達しているといえるのじゃ。
むしろサマーディに到達していなければ不可能とも言えるのじゃ。
試しにやって見れば修業していない者は五分も続かないじゃろう。
長い修業が必要なのがこの名号によるサマーディなのじゃ。
阿弥陀経にはその他、東方、西方、北方、南方、上方、下方にいる諸仏を紹介しているのじゃ。
経には書いていないが、それらの諸仏の名号もまたサマーディのために使えるのじゃ。
それがこの経の目的なのじゃ。
極楽にいけるという餌でサマーディを体得せしめるのじゃ。
浄土三部経は全てその目的のためにあるといえるのじゃ。
困難な道であるが、興味の在る者は実践してみるとよいのじゃ。
27
:
避難民のマジレスさん
:2024/07/05(金) 11:43:39 ID:1y/2TaZY0
※鬼和尚による訂正
701 :鬼和尚 ◇Yj52hBkdLM :2024/07/04(木) 22:52:53 ID:WspkXoyg0
>>698
間違えのじゃ
最初の方が無量寿経についてだっのじゃ。
最後が阿弥陀経であっているのじゃ。
すまんのう。
28
:
避難民のマジレスさん
:2024/07/05(金) 11:45:44 ID:1y/2TaZY0
<解説・十牛図>
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/976
より抜粋
976:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/10/11(金) 21:08:13 ID:kaXJvxhM0
>>974
十牛図は元は道教の修行の為のものであったという。
元々道教の聖なる数字である九図であったというが、禅の者がとりいれて一図を足し、十牛図にしたという。
最後に入れられた入鄽垂手図では悟りを得た後、人々に教えを説く事が現されておる。
それこそお釈迦様から連なる仏教徒の姿なのじゃ。
一.尋牛 牛を尋ねる。牛とは人の自我と言えるのじゃ。
牛を尋ねるとは自らを見出そうとする意志を定める事なのじゃ。
二.見跡 跡を見る。未だ自我は見えないが何やら心に残る跡が見えてきたのじゃ。
心に感情や思考などの働きがあれば、主体を起こす事になるのじゃ。
心の働きを観る事によって、その背後にある主体の跡をも垣間見るのじゃ。
三.見牛 牛を見る。自我が見えたのじゃ。
己とは何であったのか、観る事が出来れば気付くのじゃ。
完全に自我が観られたならば、この見牛から忘牛までは一瞬で起きるのじゃ。
四.得牛 牛を得る。自我を確実に捉えたのじゃ。
想起される自我を確実に捉えて観察できたならば、それを滅する事も容易いのじゃ。
五.牧牛 牛を牧する。もはや自我は手名付けられたのじゃ。
好きな時に自我を想起して観る事が出来るようになれば、もはや悟りも近いのじゃ。
六.騎牛帰家 牛に乗って家に帰る。ついに自我とは自己と同一化された観念と気付いたのじゃ。
自我とは観念であり、観念に自分であると言う自己同一化がなされていたと気付けば、偽りの認識が正され、正しい認識に還った事になるのじゃ。
七.忘牛存人 牛は消えたが人はある。自我は観察による気づきにより完全に滅したのじゃ。
しかし、未だそれを認識しているものがある。
その認識さえも滅しなければ真の悟りではないのじゃ。
八.人牛倶忘 人も牛も無くなった。無我を認識するものも無くなれば真の悟りなのじゃ。
無認識にまで至って真の悟りなのじゃ。
そこには言葉でも図でも表されるものが無いのじゃ。
九.返本還源 全部元に還った。偽りの認識が滅してしまえば、世界の真の姿が見えるのじゃ。
赤子の頃に見た輝く喜びの世界に回帰するのじゃ。
十. 入鄽垂手 現世に戻り教えを説くのじゃ。大乗仏教では修行に入る時に悟りを得たならば後進の者に教えを説く事を誓うのじゃ。
真の悟りを得たならば誓いを果たすのじゃ。
それすらも肉体が滅するまで続く修行なのじゃ。
29
:
避難民のマジレスさん
:2024/07/06(土) 11:28:44 ID:Qt1Suj5.0
<解説:坐禅和讃>
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1407234590/800-810
より抜粋
798:避難民のマジレスさん:2014/12/17(水) 20:21:58 ID:jfWCoXjM0
鬼和尚、白隠禅師坐禅和讃も止観の教えを説いたものでしょうか?
再々で恐縮ですが、もしよろしければ解説をお願いできませんか?_| ̄|○
wikiからコピペです。
※原文書き下し
衆生本来仏なり 水と氷の如くにて
水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
たとえば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり
長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり
闇路に闇路を踏そえて いつか生死を離るべき
夫れ摩訶衍の禅定は 称歎するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等
そのしな多き諸善行 皆この中に帰するなり
一座の功をなす人も 積し無量の罪ほろぶ
悪趣何処にありぬべき 浄土即ち遠からず
かたじけなくもこの法を 一たび耳にふるる時
讃歎随喜する人は 福を得る事限りなし
況や自ら回向して 直に自性を証すれば
自性即ち無性にて 既に戯論を離れたり
因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し
無相の相を相として 行くも帰るも余所ならず
無念の念を念として うたうも舞うも法の声
三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん
この時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに
当所即ち蓮華国 この身即ち仏なり
800:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/17(水) 21:57:53 ID:3LQWQGf.0
>>798
それは止観の止、座禅を勧めたものなのじゃ。
座禅からサマーディに至り、悟りが本来のあり方と気付いたという教えなのじゃ。
衆生本来仏なり 水と氷の如くにて
水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
一切の生物は本来、目覚めたものなのじゃ。
それは水と氷の関係のようなものじゃ。
水を離れて氷は無く、衆生の他に目覚めた者は居ないのじゃ。
悟りとは人が進化したり、変化したものではなく、本来の在り方に戻ることなのじゃ。
記憶に依存した習慣を厭離し、本来のあり方に戻るから、本来の智慧が起こり、死も無い自然の状態に戻るのじゃ。
それは氷と水の関係のようなものじゃ。
水からできたものが氷であり、衆生が目覚めれば仏陀なのじゃ。
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
たとえば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり
長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず
そのように衆生は自ら悟りに近い存在であると知らず、法を求めて遠くまで求めようとするのは無知の迷いなのじゃ。
それは例えば水の中にいて、喉が渇いたと叫んだり、金持ちの家の子が貧乏な家に入って迷っているようなものじゃ。
悟りへの門、悟りへの道、悟りへの法は全て衆生自らの中にあるものじゃ。
なかなか見ようとしない本心にそれらは全部あるのじゃ。
近すぎて見えず、又執着や不安恐れの所為で観ようとしないだけなのじゃ。
それは例えば水中で喉が乾いたと叫び、金持ちが貧乏の家に悩むが如くなのじゃ。
ただ口を開いて水を飲み、財布を開いて金を見れば解決するような悩みを、延々と持っているようなものじゃ。
悟りとはそれほど自らに近い、己の本心を見る事なのじゃ。
しかしそれは自ら本心を観た仏陀の感じることであり、未だ迷いの中にある衆生には感知しにくい事じゃろう。
30
:
避難民のマジレスさん
:2024/07/07(日) 12:03:51 ID:xdzQMj4I0
803:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/18(木) 21:42:59 ID:3LQWQGf.0
今日も続くのじゃ。
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり
闇路に闇路を踏そえて いつか生死を離るべき
夫れ摩訶衍の禅定は 称歎するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等
そのしな多き諸善行 皆この中に帰するなり
六趣輪廻の原因は、自分の無明、己在りと言う我見の愚かさから来るものじゃ。
自分の無明から迷いの闇路をさまよい、いつ生死を離れた悟りに至れるのか知れら無いほどなのじゃ。
六趣輪廻とは、地獄、餓鬼、畜生、人間、阿修羅、天人の六つの生存環境なのじゃ。
衆生が延々とその輪廻をさまようのも、己が在るという無明からなのじゃ。
その原因からさまざまな生きる世界が形作られるのじゃ。
偉大にして広大なる禅定は、いくら称えても称え尽くすことができないものじゃ。
お布施とか、戒を保つ事とかの完成の行、念仏や懺悔などの修行などの数々の善行も皆この中にあるのじゃ。
その無明から抜け出す法として、偉大にして広大なる禅定があるのじゃ。
人を悟りに導く法であるから、いくらたたえてもたたえ切れないほどなのじゃ。
波羅蜜とは完成を意味する梵語なのじゃ。
菩薩の行として大乗では六の波羅蜜、完成の行を行うのじゃ。
布施、戒を守る事、耐え忍ぶ事、精進する事、禅定、智慧などの六なのじゃ。
それらは全て禅定一つによって完成されると言うのじゃ。
さらに念仏とか懺悔などの修行も、禅定一つで完成されると言うのじゃ。
禅定を行い、悟りを得れば全ての修行は完成されることになるから、全ての修行は禅定の中に含まれるといって良いのじゃ。
今日はここまでなのじゃ。
31
:
避難民のマジレスさん
:2024/07/08(月) 12:09:36 ID:Cl7z7jUE0
806:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/19(金) 23:10:17 ID:rs5p.yDE0
今日も続くのじゃ。
一座の功をなす人も 積し無量の罪ほろぶ
悪趣何処にありぬべき 浄土即ち遠からず
かたじけなくもこの法を 一たび耳にふるる時
讃歎随喜する人は 福を得る事限りなし
況や自ら回向して 直に自性を証すれば
自性即ち無性にて 既に戯論を離れたり
因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し
一度座った程度の行いでも、積み上げた無量の罪が消えるのじゃ。
地獄とかの悪い環境に居る者も、その苦しみが何処に行ったのかと思うほどであり、極楽浄土も近くなるのじゃ。
この禅定の法を聴くことが出来たものが、そのありがたさに喜び、称えるとき、限りない福が得られるのじゃ。
まして自ら実践して、自性をあかせば、自性が無性であると気付き、空しい論を離れるじゃろう。
原因も結果も一つであると知る、唯一の道が真っ直ぐに開けるのじゃ。
自性とは本質的な性質とでも言うべきものじゃ。
人が己と言うものを認識する時、己の本質的な性質によって自らを認識するのじゃ。
己を強きものと思えば、強い性質を持つ者として認識するのじゃ。
己を弱きものと思えば、弱い性質を持つ者として認識するのじゃ。
そのような自性が、座禅によって実は無であったと気付けば、もはや一切の思考分別をも離れるのじゃ。
原因も結果も一つであり、悟りへの道も、もはや容易なのじゃ。
今日はここまでなのじゃ。
32
:
避難民のマジレスさん
:2024/07/09(火) 11:31:39 ID:/b2H9dYI0
810:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/20(土) 22:17:56 ID:rs5p.yDE0
今日で終わりなのじゃ。
無相の相を相として 行くも帰るも余所ならず
無念の念を念として うたうも舞うも法の声
三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん
この時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに
当所即ち蓮華国 この身即ち仏なり
無のありようを真のありようとして、行く所も帰る所も今ここにあるのじゃ。
無の心を真の心として、歌う声も舞う姿も法に合致する。
サマーディは開けきった空の如くに広大になり、四つの智慧が月の如く輝くのじゃ。
もはや何かを求める欲望は無い、涅槃寂滅の境地が既に現れている故に。
今ここが極楽浄土であり、自らが目覚めた者であったのじゃ。
相とは相好というように、一切のものの姿形なのじゃ。
人は他の物事を全てこの相を元に認識しているのじゃ。
相とは特徴でもあるのじゃ。
他と違う特徴を探し、それを以ってそれがいかなるものか分別するのじゃ。
例えば人ならば鼻がでかい特徴から手塚君とか、腹がでかい特徴から山田君とか認識するのじゃ。
そのような特徴を抽出する分別が無くなり、一切の相が無となれば、もはや分別は無く、一切が一つであり平等無分別の境地になるのじゃ。
そこではもはや全てが一つであるから、生死によって行く所も帰る所も無く、一切が今ここにあるのじゃ。
念とは思うことであり心の働きなのじゃ。
それが無となれば心も無となり、法と一体となるのじゃ。
そうであればもはや本来非法である、歌も踊りも法そのものとなるのじゃ。
そしてサマーディによって心に障壁が無くなり、どこまでも突き通って心が明らかになれば、平等性智などの智慧が生じ、悟りも徹底されるのじゃ。
そうなればもはや一切の欲は消え、涅槃寂静の境地に入るのじゃ。
その境地によって極楽浄土の仏国土は今ここにあり、自ら目覚めた者であったと気づくのじゃ。、
これで終わりなのじゃ。
33
:
避難民のマジレスさん
:2024/07/10(水) 11:02:38 ID:8fL1ERgA0
<解説・信心銘>
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1407234590/658-706
より抜粋
___
信心銘
至道無難 唯嫌揀択 但莫憎愛 洞然明白
毫釐有差 天地懸隔 欲得現前 莫存順逆
違順相争 是為心病 不識玄旨 徒労念静
円同大虚 無欠無余 良由取捨 所以不如
莫逐有縁 勿住空忍 一種平懐 泯然自尽
止動帰止 止更弥動 唯滞両辺 寧知一種
一種不通 両処失功 遣有没有 従空背空
多言多慮 転不相応 絶言絶慮 無処不通
帰根得旨 随照失宗 須臾返照 勝却前空
前空転変 皆由妄見 不用求真 唯須息見
二見不住 慎忽追尋 纔有是非 紛然失心
二由一有 一亦莫守 一心不生 万法無咎
無咎無法 不生不心 能随境滅 境逐能沈
境由能境 能由境能 欲知両段 元是一空
一空同両 斉含万象 不見精粗 寧有偏党
大道体寛 無難無易 小見狐疑 転急転遅
執之失度 必入邪路 放之自然 体無去住
任性合道 逍遥絶悩 繋念乖真 昏沈不好
好不労神 何用疎親 欲趣一乗 勿悪六塵
六塵不悪 還同正覚 智者無為 愚人自縛
法無異法 妄自愛著 将心用心 豈非大錯
迷生寂乱 悟無好悪 一切二辺 浪自斟酌
夢幻虚華 何労把捉 得失是非 一時放却
眼若不睡 諸夢自除 心若不異 万法一如
一如体玄 兀爾忘縁 万法斉観 帰復自然
泯其所以 不可方比 止動無動 動止無止
両既不成 一何有爾 究境窮極 不存軌則
契心平等 所作倶息 狐疑尽淨 正信調直
一切不留 無可記憶 虚明自照 不労心力
非思量処 識情難測
真如法界 無他無自 要急相応 唯言不二
不二皆同 無不包容 十方智者 皆入此宗
宗非促延 一念万年 無在不在 十方目前
極小同大 忘絶境界 極大同小 不見辺表
有即是無 無即是有 若不如此 必不須守
一即一切 一切即一 但能如是 何慮不畢
信心不二 不二信心 言語道断 非去来今
34
:
避難民のマジレスさん
:2024/07/10(水) 11:03:48 ID:8fL1ERgA0
658:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/20(木) 22:27:07 ID:vZYr84lw0
>>649
気が降ってくるのが見えるのかも知れん。
わしは見えないのじゃ。
朝にはよい気が多く降るというのじゃ。
観察してみると良いのじゃ。
>>650
ご苦労さんなのじゃ。
01 至道無難 唯嫌揀択 但莫憎愛 洞然明白
至上の道と言うのは難しいものではなく、ただ分別を嫌う。
ただ憎愛の想いが無ければはっきりと明白なのじゃ。
これは修行の道というものが分別によらず、憎しみや愛好の思いをを棄てるところから始まる事を示しているのじゃ。
修行が難しいというのは日常で使う分別を、修行の道でも使おうとするからなのじゃ。
修行の道は日常と違い、分別をなくし、憎愛を消す所から始まるのじゃ。
02 毫釐有差 天地懸隔 欲得現前 莫存順逆
ほんの僅かな分別による差別の心が有れば、天地の如くはるかに隔たる世界が生まれる。
ありのままの世界を捉えようとするならば、順逆の分別をもあってはならん。
少しの分別の心があれば、そこから我と他人、人と獣、社会と個人などの全ての世界が起こるのじゃ。
在りのままの世界を見よううとするならば、これが正しいとかあれが間違いであるとかの分別をも捨てなければならんのじゃ。
03 違順相争 是為心病 不識玄旨 徒労念静
あれは違う、それは正しいとかの争いが心に在れば、それこそが心の病なのじゃ。
その道理を知らなければ、静かな心も徒に消えてしまうじゃろう。
人々の中でも、己の心の中にも何が正しいとか間違っているとかの争いがあれば、それこそ心の病とするべべきなのじゃ。
それらの心掛けを知らなければ、修行しようとしても徒に疲れてしまうだけなのじゃ。
04 円同大虚 無欠無余 良由取捨 所以不如
分別を棄てて天空のように心が円かになれば、欠ける所も余る所もない。
まことに取捨分別に依るが故に、意の如くならないとう事があるのである。
そのようにして順逆とか憎愛の分別を棄てて心が天空のように丸くなれば、何かが欠けているとか、余り過ぎるというような思いも無い。
本当に取捨分別の働きによって、一切が思い通りにならないという不満が起こるのじゃ。
今日はここまでなのじゃ。
35
:
避難民のマジレスさん
:2024/07/11(木) 12:14:43 ID:J/OijoG.0
665:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/21(金) 22:27:46 ID:zYsaQfjM0
続きなのじゃ。
05莫逐有縁 勿住空忍 一種平懐 泯然自尽
俗世間の縁を駆逐せんとしてはならん、空に住もうと忍耐してもいかん。
己の根本の態度を平らかに抱けば、雑念は滅び、自ら尽きる。
修行のためと本心を隠して無理に俗世間を避けたり、空であるとの観念を持ち続けていてはいかんのじゃ。
それらは心を観る修行のための方法でしかないのであるから、本心を隠して続けても無意味なのじゃ。
むしろ分別の無い自らの根本に常に立ち返り離れなければ、雑念は自ら滅び、消えてなくなるのじゃ。
06止動帰止 止更弥動 唯滞両辺 寧知一種
動く心を止めて、静かにしようとすればその止める働きが更に動きを起こす。
止めるとか動かすなとかの分別を働かすよりは、ただ一つの根本の態度を知るが良い。
瞑想のときに心を止めようとすればますます心が動き回るじゃろう。
そのような時には止めるとか動くとかの分別を止め、むしろ自らの根本を追及するのじゃ。
それはマハリシが私は誰かを追及せよと言うのと同じなのじゃ。
父母による観念の植付けすらも無い、不生の己こそ追求し、常に離れずに居るべきなのじゃ。
07一種不通 両処失功 遣有没有 従空背空
自らの根本に通じなければ、何もかもいかんようになる。
有効な事をしようとすればなくなり、空の法にしたかって心を止めようとしても無理なのじゃ。
自らの本心、本性に還る事が無ければ、一切の法は意味が無いのじゃ。
自らに善い事をしようとしても上手く行かず、空の法をしようとしても駄目になったりするのじゃ。
08多言多慮 転不相応 絶言絶慮 無処不通
言葉や考えが多くては法も心に作用しないのじゃ。
言葉を絶ち、考えも絶てば自らの本心にも通じるのじゃ。
言葉や考えが多くては本心に還る事は出来ず、いかなる法も効果を無くすのじゃ。
心の中での言葉や考えも絶てば、自分の本心に通じないという事は無いのじゃ。
今日はここまでなのじゃ。
36
:
避難民のマジレスさん
:2024/07/12(金) 11:28:18 ID:OrdHJE2Y0
672:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/22(土) 21:36:20 ID:zYsaQfjM0
続きなのじゃ。
09帰根得旨 随照失宗 須臾返照 勝却前空
自らの根本に還れば一切法の意も得られが、分別に従えばその根本をも失うのじゃ。
その分別を一瞬でも観察できたならば、一切の観念妄想に打ち勝ち、脱却する。
父母の観念にさえも触れない自らの根源に帰れば、一切の法も明らかとなり、悟りも得られるのじゃ。
記憶の照会による認識を行っていれば、その根本の姿も失なってしまうじゃろう。
しかし、その認識の作用も一瞬でもかえりみられたならば、自我を滅し悟り萌えられ、観念妄想も無くなるのじゃ。
返照とはそのような認識の作用を見る気付きを言っているのじや。
10前空転変 皆由妄見 不用求真 唯須息見
観念妄想が止まないのは皆妄見による。
それを放って置いて真実を求めようと努力するのは無意味なのじゃ。
ただ分別の見解を止めるべきなのじゃ。
人の観念妄想は己があると言うような妄見によって起こるのじゃ。
仏教では我見といい、それが無明そのものなのじゃ。
その妄見による妄想を放って置いて、真実は何かとか追い求めるのは無意味なのじゃ。
分別によって生じる妄見をやすめることこそ大事なのじゃ。
11 二見不住 慎忽追尋 纔有是非 紛然失心
有るとか無いとかの二元論を立たず、いつまでも囚われていてはいかんのじゃ。
これが正しいとかあれは悪いとかの見解に縛られていては、心も乱れ見失うのじゃ。
哲学者のようにさまざまな見解を追求していけば、論議は更に別れ自らの心も判らなくなってしまうじゃろう。
そのような自縄自縛の論理や見解があれば心も乱れ見失う故に、いかなる見解や依って立つ論理的な立場なども棄てるべきなのじゃ。。
12二由一有 一亦莫守 一心不生 万法無咎
二元論の見解も一元論に帰するものであるが、その一元の論理さえ守ってはいかん。
一つの論理も無くなれば、一切の法が滞りなく作用するのじゃ。
論理が収束して一つの見解に落ち着いたといえども、その見解さえも守ったり囚われたりしてはいかんのじゃ。
何らの論理も見解も心に無い時、心もまた根本に回帰し、一切の法が明らかとなり、欠けることなく働くのじゃ。
今日はここまでなのじゃ。
37
:
避難民のマジレスさん
:2024/07/13(土) 11:42:52 ID:SAIWLgus0
679:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/23(日) 22:45:59 ID:72FX90sI0
今日も続くのじゃ。
13無咎無法 不生不心 能随境滅 境逐能沈
咎なければ法は無く、観念が生じなければ心も無い。
認識能力は世界が滅するに従って滅し、世界は認識能力が沈む事で駆逐される。
法が明らかに作用して心が観られれば、心の働きは止むじゃろう。
その時観念は生ぜず、観念が生じないからそれを対象とする心も起こらないのじゃ。
認識能力は境界を区別する力を失って止まり、境界を区別する事が無ければ認識能力も働かないのじゃ。
14境由能境 能由境能 欲知両段 元是一空
境界は認識能力によって境界としてあり、認識能力も境界を認識する事でなりたっているからじゃ。
それら二つのありようを知ろうとすれば、一つの空として観ぜよ。
何故ならば認識は自他の境界を区別し、さまざまな万物を分別する事で成り立っている故に。
その区別された境界が更に認識を確固たるものに思わせ、疑い様が無いから認識と境界は互いにますます強め合っているのじゃ。
それら二つの仕組みを観察しようと欲するならば、一つの空なるものとして観察すべきなのじゃ。
15 一空同両 斉含万象 不見精粗 寧有偏党
一つの空として二つを等しく観察すれば、一切の認識するものが斉しく包含されているのがわかるじゃろう。
その特徴を探ろうとして観れば、偏りが生じ、見ることができないのじゃ。
心の内に深く秘められた認識と境界の仕組みを観察すれば、その中に一切のものごとが包含されているのがわかるのじゃ。
認識によって自他の境界があり、世界があり、万物の起こる縁となるのじゃ。
その世界が認識をますます強固とさせる故に、終わることがないのじゃ。
その働きをあまりにも集中して観察しようとすれば、自己同一化が起こり、観る事が出来ないのじゃ。
あくまでも両者を斉しく空なるものとして放念し、自ら起こるままに観察する事が肝心なのじゃ。
16大道体寛 無難無易 小見狐疑 転急転遅
大いなる道の本体は広く、難しくも無ければ易しくも無い。
小さな見方や疑いがあれば、焦りや遅滞を招く。
本来の修行の道のあり方は大きな道が広く、行くのに難しいという事も無ければ、歩みが易しすぎるという事も無いのじゃ。
ただ囚われた見解や疑いがあれば、焦りや遅滞を招き、自ら迷妄に陥るのじゃ。
17執之失度 必入邪路 放之自然 体無去住
そのように執着すれば度を失い、邪道に入る。
自然に放念すれば、本来去る事も住する事も無い。
修行の道や心にさえも執着すれば心は鎮まることなく、邪道に陥るのじゃ。
心に囚われる事が無く、自然に心を解き放てば、心は居着く事も去る事も無く、鎮まるのじゃ。
今日はここまでなのじゃ。
38
:
避難民のマジレスさん
:2024/07/14(日) 11:00:53 ID:6tnEV0UI0
682:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/24(月) 21:56:41 ID:72FX90sI0
更に続くのじゃ。
18 任性合道 逍遥絶悩 繋念乖真 昏沈不好
自らの本性に任せれば、却って道に合致し、逍遥として苦悩を絶てる。
何事にでも念を繋ぐ事あれば、真の法と乖離し、昏沈して好くないのじゃ。
己の本心、本性を知り、それに任せて力を抜けば、心は却って安らぎ、苦悩も無くなるのじゃ。
なにごとも念を囚われていれば、法でさえ上手く働かず、智慧も働かない状態になって良くないのじゃ。
19 好不労神 何用疎親 欲趣一乗 勿悪六塵
好くないままに続ければ精神は疲労するから、何ものも遠ざけたり、親しんだりしてはいかんのじゃ。
修行の道をまっとうしようと想うならば、修行の妨げとなる六つの塵とよばれるものも無理に遠ざけたり、親しんでもいかんのじゃ。
そのような良くないままに修行を続ければ、瞑想をしても精神は疲労するばかりであるから、何かを遠ざけたり、親しんだりしようとしてはいかんのじゃ。
そうであるから真の修行をしようとする者は、身心の刺激となる色や音や香りや味や触感や法などの六つを憎んでもいかんのじゃ。
本来のお釈迦様の教えではそれら六つを遠ざけるべきであるとされているが、それにさえも囚われれば却って良くないのじゃ。
20 六塵不悪 還同正覚 智者無為 愚人自縛
その六塵を憎んで遠ざけたりしなければ、却って修行の道に還ることにもなるのじゃ。
賢い者はそのように無理に六塵を避けようとせず為すがままにするが、愚かな者はそれらを遠ざけようとして帰って自ら縛られるのじゃ。
六塵を憎んで遠ざけたりしないならば、それが却って修行の道としては正しい事にもなるのじゃ。
自らの本性に合わない法を棄てるのであるからのう。
賢い者はそのように法にも囚われず、縛られず、あるがままにして修行の道を進むが、愚かな者は自ら法に縛られて苦悩するのじゃ。
21 法無異法 妄自愛著 将心用心 豈非大錯
それは法が間違いなのではなく、妄りに自ら愛着するのがいかんのじゃ。
それは心を以って心をあやつるのであるから、大いなる錯覚というものに違いないのじゃ。
六塵を遠ざけよという法が間違いなのではなく、それらにも妄りに自分から愛着するから、法によっての苦も起こるのじゃ。
執着する心を、心によって操作しようとするから、法が苦悩を起こすことにさえもなるのじゃ。
それは正に大きな錯覚としかいいようがないのじゃ。
今日はここまでなのじゃ。
39
:
避難民のマジレスさん
:2024/07/15(月) 11:56:31 ID:dBRKnML.0
687:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/25(火) 22:15:03 ID:vRfRK0P20
今日も続くのじゃ。
22迷生寂乱 悟無好悪 一切二辺 浪自斟酌
そのように迷いは心の乱れを生むが、悟れば好悪も無いのじゃ。
一切の二元の論は、自ら斟酌する故に在るのじゃ。
迷いや囚われがあれば法でさえも心を乱すが、悟れば好悪の区別も無くなるのじゃ。
それは全ての好悪や得失や是非などの二元論が、自ら分別し、斟酌するからある故なのじゃ。
23夢幻虚華 何労把捉 得失是非 一時放却
夢幻や虚ろな花は、どのように労力を費やしても捉えられないのじゃ。
得失も是非も、まとめて一辺に放り棄てるのじゃ。
夢幻や幻覚の花は、どのように苦労しても捉える事が出来ないじゃろう。
そのような夢幻は、得る事も無ければ失う事も無く、好いものとすることも無ければ悪いものとする事も在りえない。
そのように一切の得失や是非などの分別も、夢幻として両方とも一度に放ち、脱却するのじゃ。
何故ならば得るという事があれば、同時に失う事もあり、是認する事があれば、否認する事も生じるからなのじゃ。
正に夢幻の花が得る事も失う事も無く、是認する事も否認される事も無いように、一辺に捨て去るのじゃ。
24眼若不睡 諸夢自除 心若不異 万法一如
もし眼が寝ていないのならば、全ての夢が自ら除かれるように、
心にもし不異がなければ、一切の法は一つの如くなるのじゃ。
どれほど沢山の夢を見ていても、目を開けば夢は自分から消えるじゃろう。
そのようにもし心に、あれとこれが違う、異なっているというような分別が無ければ、全てのものごとが一つであると認識されるのじゃ。
25一如体玄 兀爾忘縁 万法斉観 帰復自然
一如として本体をも無為となれば、俗世間も忘れ去られる。
全ての法は斉しく観じられ、自然に復帰するのじゃ。
そのようにして一切が一つと認識し、自らも無為に帰したならば、俗世間も忘れられるじゃろう。
一切が皆斉しく平等に観られ、在るがままに回帰するじゃろう。
今日はここまでなのじゃ。
40
:
避難民のマジレスさん
:2024/07/16(火) 11:41:38 ID:Fc5Yxda60
693:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/26(水) 21:40:46 ID:/HbFv/.o0
終わりも近いのじゃ。
26 泯其所以 不可方比 止動無動 動止無止
その理由などを考えて、ああだこうだと比べてはいかん。
動きを止めれば動きは無い、止まる事をやめて動けば止まる事は無い。
法とはこのような理由でこうなるとか、ああなるとか理由などを考えてもいかんのじゃ。
例えば動いているものが止まれば動きという現象は無い。
ものが動けば止まっていると言う現象は無いじゃろう。
27両既不成 一何有爾 究境窮極 不存軌則
止まる事と動く事の両方が成立する事は無く一つである事は無い。
究極の境地においては、もはや俗世間の論理などは存在しないのじゃ。
そのように止まる事と動く事が、二つとも一緒に成立すると言うことが無いように。
一切が平等の究極の境地は、俗世の規範を離れた所で成立するのじゃ。
28契心平等 所作倶息 狐疑尽淨 正信調直
平等の境地に心を一つに止めて在るならば、所作は共に止む。
疑いを浄め尽し、正にまことの心をもって直く調うのじゃ。
そのような平等の境地に一心に心を止めるならば、何事かを為すという事も無い。
それが無為なのじゃ。
疑いはきよめ尽し、正にまことの心が真っ直ぐに整えらるのじゃ。
本心と離れた不浄の心はもはや一つも無いのじゃ。
29一切不留 無可記憶 虚明自照 不労心力 非思量処 識情難測
一切の観念を留めず、記憶すべきものも無い。
無心にして自ら心を明らめ、心配事によって心を疲れさせない。
思量も及ばぬ境地であり、認識や感情も届かぬ深い境地に入るのじゃ。
一切の観念が無くなり、記憶すべきものも無いとは、記憶による認識を離れた真の悟りの境地なのじゃ。
記憶による認識の生み出す自我の観念や、そこから生じる一切の苦をも永遠に離れているのじゃ。
観念の無い心は虚ろであるが、自らの光で照らされている。
他の観念の対象によって満たされぬ心が、観念の無い無心の境地によって自ら満たされ、一切は光り輝くのじゃ。
そこにはもはや一切の苦も無く、心を疲れさせる事も無い安心の境地なのじゃ。
思う事も無く、認識や感情もそこには無いのじゃ。
そのような無認識の境地こそ真の悟りなのじゃ。
今日はここまでなのじゃ。
41
:
避難民のマジレスさん
:2024/07/17(水) 12:01:35 ID:5rxo69ko0
699:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/27(木) 22:06:34 ID:/HbFv/.o0
今日で終わりなのじゃ。
30真如法界 無他無自 要急相応 唯言不二
そのような真理の世界には、自他の区別も無い。
要求に応じて言うとすれば、ただ不二と言うしかないのじゃ。
悟りを得て見る世界には、もはや自分とか他人と言う区別は無く、認識も無いのじゃ。
それ故に目覚めた者は自分同じ事が他人もできると思ってしまうのじゃ。
その世界はもはや言葉には到底できないものであるが、要請に応じて無理に言葉にするとすれば、不二というのじゃ。
不二とは自他好悪得失等の区別無く、一切がただ一つの意識である事を表しているのじゃ。
、
31不二皆同 無不包容 十方智者 皆入此宗
不二にして皆同じならば、包含しないものとて無い。
全ての世界の智者は皆この本源に入ったのじゃ。
そのようにただ一つの意識が在り、皆同じと感じるならば、その中にこの世の一切が含まれているのじゃ。
一粒の砂から広大な台地まで、一つの雲から境界の無い天空まで、何もかも一つなのじゃ。
一切の世界の智者、目覚めた者達は、皆この本源の世界に入ったのじゃ。
それは本来の在り方であり、そこに回帰する事でもあるのじゃ。
32宗非促延 一念万年 無在不在 十方目前
その本源の在り方には時の急迫も延伸も無く、ただ一瞬の念が万年の時間と同じなのじゃ。
在るという事も無く在らない事も無い、一切が目の前にある。
そこにはもはや時間の観念も無く、急がなければならないとか、まだ時間が在るとか想う事も無いのじゃ。
一瞬の念が万年の時間と等しく、三千の大世界とも同じと感じるのじゃ。
そしてもはや在ることも、在らない事も無く、一切が目の前に現れているのじゃ。
33極小同大 忘絶境界 極大同小 不見辺表
極小と大は同じ、その境界も忘絶するのじゃ。
極大も小と同じ、その辺も見られないのじゃ。
不二であれば極小の砂粒さえ、大地と同じであり境界も無いのじゃ。
極大の天空も掌中の空間と同じなのは、その辺縁が表われないからなのじゃ。
何もかもが不二であれば、そこに境界は無く、縁も無いのであるから極大極小はいずれも同じなのじゃ。
34有即是無 無即是有 若不如此 必不須守
不二であればものごとが有るということは即ち無いと同じであり、無いという事も有るのと同じと感じられる。
もしこのようにならないのであれば、未だ真の悟りには至っていないのであるから、その境地を守り続けてはいかんのじゃ。
そのように不二の境地に在れば、もはや有ると言うことと無いという事も全く同じに感じるのじゃ。
もしこのようにならないのならば、それは未だ小悟の境地であり、真の悟りには至っていないのじゃ。
そのような境地は守るべきではないのじゃ。
速やかに棄てて、真の悟りの境地を目指すのじゃ。
35 一即一切 一切即一 但能如是 何慮不畢
分別が無ければ一つの全てがあり、全てが一つであるのじゃ。
もしこのような境地にまで到達したのならば、もはや涅槃を究極していないのではないかという想いも要らんのじゃ。
分別を厭離して悟りに達したならば、一切が途切れる事の無い一つのものとして感じられるじゃろう。
肉体も一つのものでありながら一切と感じられ、一切は一つと感じられる。
それこそ究極涅槃の境地なのじゃ。
その境地にまで達したならば、もはや大悟徹底の境地であり、小悟に陥っているのではないかという思いも不要なのじゃ。
36 信心不二 不二信心 言語道断 非去来今
信とはまことであり、究極の真実、真理、悟りと同じなのじゃ。
まことと心は一つである。
まことと心が一つ在るのみなのじゃ。
その境地はもはや言葉では現せぬ、ただ今ここに在るのみなのじゃ。
人が求めるべき究極の真実、真理、悟りとは、人の心そのものなのじゃ。
それこそが人の求めるべきもの、知り尽くすべきもの、観察し尽くすべきものなのじゃ。
人が自らの心を求め、知り尽くし、観察し尽くしたならば、その時こそ究極の真実を知り、真理を得て、悟りに達したと言われるのじゃ。
心が真実そのものであり、真理そのものであり、悟りそのものなのじゃ。
それ故に心と別の所に真実や真理や悟りを求めてはいかんのじゃ。
それ以上にはもはや記すべき言葉は無いのじゃ。
ただ今ここに在るのみなのじゃ。
以上で信と心について記銘すべき事は終るのじゃ。
42
:
避難民のマジレスさん
:2024/07/18(木) 10:41:35 ID:Krvn7HEg0
705:避難民のマジレスさん:2014/11/28(金) 21:31:34 ID:jfWCoXjM0
>>.699
信心銘の訳と解説ありがとうございました!
最後に信心銘の講評をお願いできませんか?
706:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/28(金) 23:21:54 ID:/HbFv/.o0
>>701
どういたしまして、またおいでなさい。
>>702
そうじゃ、抑圧は正に心をもって心を操るようなものじゃ。
本心本性を知り、囚われぬ事が肝心なのじゃ。
囚われずに進んでいくのじゃ。
>>703
そうじゃ、観察しつづければ気付く事も増えてくるのじゃ。
さらに精進あるのみなのじゃ。
>>704
実際はその通りなのじゃ。
しかし人は信じることで空想も事実として捉えてしまうのじゃ。
神とか社会とか国家とかありもしないものを守ろうと命まで棄てるのは、哀れの極みなのじゃ。
>>705
信心銘は迷いに入ってしまった修行者のための道標と言うようなものじゃな。
初学者のためではないのじゃ。
法に囚われてしまい、本心、本性を明らかにするのを怠ってしまった者に、正しい道を示すのじゃ。
そうさんは真に悟っていたのじゃ。
本来言葉にならない悟りを、ぎりぎりまで踏み込んで現したのじゃ。
言葉の限りを尽くして現しながら、外道には陥らなかったのは、大きな手柄なのじゃ。
善悪も無しと説くのは六師外道の説になるからのう。
真に生き仏なのじゃ。
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